右の図の赤い四角の点のように石のかたまりによって囲まれているスペースのことをその石のかたまりの眼(め)と呼ぶ。この眼を二つ以上持つ石の一団は着手禁止点を少なくとも2箇所以上持つため、周囲の空点(ダメ、または駄目)の全てに敵石が置かれても(ダメを詰められても)取られることはない。このような“絶対に取られることのない石”のことを活きた石、活き石(いきいし)などと呼ぶ。
他方、眼を持たない、または一つしか持たない石の一団は駄目を詰められれば最終的には相手に取られることとなる。そのため、眼を二つ以上持つことができない石のことを死んだ石、または死に石などと呼ぶ。
ただし、眼が二つ以上なくとも自分の方から打った場合には相手に取られるが、相手から打たれればこちらが相手の石を取れるセキの場合には、自分が打たない限り相手に取られることがないので活きた石とみなされる。
眼はその広さに関係なく個数が重要となる概念であり、その個数を数えるときは一眼(いちがん)、二眼(にがん)と眼を「がん」と読む。
終局状態では、必ず死活の判定をしなければならないが、それは必ずしも簡単ではない。というのも、囲碁の場合、上述の例のように明らかに死活がわかるような形でない複雑な形の場合も、それ以上手を加えずに終局することがあるからである。しかし、ある程度以上の実力になると、生死の判定に関する意見はほとんどの場合一致する。
上図では、一見2つの眼を確保して生きているように見えるが、aの点の空間は将来bにダメが詰まるとアタリになってツガねばならず、眼にはなっていない。こうした眼を「欠け眼」と呼ぶ。白の一団は一眼しかなく、死となる。
上図では、黒が1の点に打つとこの部分が欠け眼になって死にとなる。逆に白から先に1の点にツゲば、確実な二眼を確保して生きとなる。
上記のように二眼を確保すれば生きというのが基本だが、実際には様々なケースが存在する。詳しくは当該項目を参照。
aの点はいずれも欠け眼だが、白はぐるりと一周つながっているため黒から全体を取りに行く手がなく、白生きとなる。こうしたケースを欠け眼生きと呼ぶ。詳しくは欠け眼生きのページを参照。
5 Comments:
749 :名無しさん@1周年:2017/01/05(木) 12:28:54.78 ID:EEmc6pB50
https://i.imgur.com/PEIn004.gif
http://d.hatena.ne.jp/merom686/20120829/1346241083
5路盤むずい
囲碁対局ゲーム - 囲碁ブラウザゲーム COSUMI
http://www.cosumi.net/mobile/play.html
寛蓮(かんれん、874年 - ?)は、平安時代の僧で、日本で初めて「碁聖」と呼ばれた人物である。囲碁のルールを確立したと言われる。2016年7月に囲碁殿堂入りした。
目次
1 経歴
2 今昔物語
3 記念碑
4 出家の経緯
5 参考文献
経歴[編集]
874年(貞観16年)、肥前藤津郡(佐賀県)生まれ。出家前は備前の掾(国司の第三等官)である橘良利であると『花鳥余情』に記載されている。出家後は亭子院(宇多天皇の退位後の御所)の殿上法師であった。宇多天皇に譲位後もつかえ、亭子法皇(宇多法皇)が山を廻り歩かれたときにお供したと『大和物語』に書かれている。 天皇の勅命で「碁式」という囲碁のルールや心構えなどを記した書物を作り、913年(延喜13年)5月3日に醍醐天皇に献上したと伝えられる。その実物は残っていないが、それをもとにした玄尊の『囲碁式』(1199)によれば,碁に関する礼法,戦術,用具など全般にわたる書であったと考えられている。『西宮記』(さいきゅうき、平安時代)には醍醐天皇が寛蓮と右少弁清貫を呼び寄せて囲碁の対局をさせた記事がみられる。寛蓮が勝ち、唐綾(中国渡来の綾織物)四疋を与えられ、そのほか給与が支給されたとされる[1]。
今昔物語[編集]
『今昔物語集』「碁擲(ごうち)の寛蓮、碁擲の女に値(あ)ひたる語(こと)」には、醍醐天皇と寛蓮が「黄金の枕」を賭けて対局し、悔しく思った天皇は取り返させようと若い殿上人を遣わしたが、寛蓮は追ってきた人にニセモノをつかませて一杯食わせ、その黄金の枕を資金にして、仁和寺の東に弥勒寺を創建したとする逸話がある。醍醐天皇は寛蓮に二子だったという[2]。 寛蓮が、一条から仁和寺に向かう途中、女童に呼び止められ桧垣の押立門のある屋敷に案内され対局を求められた。広縁のある板葺きの建物で、前庭は柴垣に植え込みがあり、砂が敷かれ質素ながら風雅な家であった。篠竹のすだれが懸けられ、すだれの許には碁盤と立派な碁笥が置かれていた。世に並びなき碁の打ち手ときき、対局を所望したという。最初の手を女は天元に置いた。しかし寛蓮の石が皆殺しになり、手数は少ないうちに大半の石が死んでしまった。対戦相手は人ではないと気づいて、寛蓮は慌てて逃げかえった。仁和寺に逃げ帰った寛蓮が天皇にことの次第を話すと、上皇は不審に思われ翌日使者を遣わしたところ、屋敷には老尼がいるだけであった。天皇はこれを聞いて、不思議なこともあるものだと仰せられた。
記念碑[編集]
佐賀県鹿島市では寛蓮の故郷にちなんで、1952年(昭和27)年から毎年春に祐徳稲荷神社において「祐徳本因坊戦」が開催されている[3]。 祐徳稲荷神社外苑には「碁聖寛蓮之碑」があり、その台座には歴代本因坊の名が刻まれている[4]。
出家の経緯[編集]
大和物語(951年(天暦5年)頃成立)に
備前の掾(ぜう)にて、橘良利(たちばなのよしとし)といひける人、内におはしましける時、
殿上にさぶらひける、御ぐしおろしたまひければ、やがて御ともにかしらおろしてけり。
と記載があり[5]、寛蓮の出家は宇多上皇の出家が契機とされている。
また、
さて、「日根といふことを、うたによめ。」とおほせ事ありければ、この良利大徳(だいとく)、
ふるさとの たびねのゆめに 見えつるは うらみやすらむ 又ととはねば
とありけるに、みな人泣きて、えよまずなりにけり。その名をなん、寛蓮大徳といひて、のちまでさぶらひける。
とされており、たびね(旅寝)と地名のひね(日根)を掛けている[5]。
参考文献[編集]
元の位置に戻る ↑ 源高明『西宮記 : 前田本』,育徳財団,1928
元の位置に戻る ↑ 『今昔物語集』巻第24,近藤圭造,明15.8
元の位置に戻る ↑ 全九州 祐徳本因坊戦 第60回記念大会鹿島市観光協会,2011-06-03
元の位置に戻る ↑ 碁聖寛蓮 囲碁殿堂入り決定,鹿島市
↑ 以下の位置に戻る: 5.0 5.1 雨海 博洋『大和物語』講談社,ISBN:4061597469,2006年
増田忠彦さん
(2)広まった吉備真備伝説(寄稿連載)
◇ますだ・ただひこ
昨年5月出版した『囲碁 語園』には、江戸時代に生まれた雑俳(川柳)に囲碁を詠みこんだ句を、ざっと2700句載せた。この雑俳に詠まれた碁打ちで最も句が多いのは奈良・天平時代の官人、吉備真備(きびのまきび)(693~775)で96句ある。続いては平安時代の僧、寛蓮(かんれん)の19句、源氏物語の女性の打ち手、空蝉(うつせみ)の15句である。
真備にまつわる雑俳をみていただこう。
明日の碁を鬼が教へて帰りけり
おふちやくな・丸のみにした碁の妙手
「遣唐使の吉備真備が玄宗皇帝の御前で、唐の名人と命をかけた勝負碁を打つ。四つ目殺しも知らぬ真備を、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の亡霊が教え導く。終盤形勢不明のとき、真備は碁石を一つくすねて飲み下し、一目の勝ちを得た」
この荒唐無稽(むけい)の奇談は、平安後期の説話集『江談抄』にあり、後の絵巻物や謡曲、さらに近世の草紙や実録物に翻案されて有名になった。
帰朝してにわかに那智の砂がへり
真備にはいま一つ、「囲碁を日本に伝えた」という伝説がある。『慶長見聞集』(1614年成立)がこの伝来伝説を伝え、江戸期に編まれた棋書の序文にはお定まりの枕ことばのように語られている。
真備は717年に留学生として入唐したのをはじめに、2度にわたり通算20年間、唐にあった。
彼の留学よりも前に編まれた「律令」や「風土記」の遺文から、「囲碁の日本への伝来は真備よりも古い」ことが明らかだが、真備も囲碁文化を伝えた一人だったのだろう。
(囲碁史研究家)
中国の唐の時代の墓誌 日本から渡った吉備真備が書いたものか 2019/12/25
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1朝一から閉店までφ ★2019/12/26(木) 03:17:46.92ID:CAP_USER>>2>>53
科学・文化
中国の唐の時代の墓誌 日本から渡った吉備真備が書いたものか
2019年12月25日 17時48分
中国で発見された唐の時代の官僚の墓石に刻まれた墓誌が、当時、唐に渡っていた吉備真備によって書かれたとみられることが分かりました。専門家は、吉備真備が書いた文字は日本国内でも見つかっていないとして、貴重な発見だと注目しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191225/K10012228161_1912251749_1912251749_01_03.jpg
25日、北京で公開されたのは、中国の唐の時代の官僚で、遣唐使など外国からの使節の受け入れを担っていた李訓という人物の墓石に刻まれていた328文字の墓誌です。
墓誌は、6年前に河南省洛陽で見つかり、李訓の生前の経歴などが記されていて、文章の最後に「日本国朝臣備書」と刻まれていました。墓誌を発見した広東省深※センにある博物館の閻焔館長によりますと、日本の「朝臣備」という人物が書いたことを意味し、文字が書かれた年代から、「朝臣備」は遣唐使とともに留学生として唐に渡っていた吉備真備を指すとみられるということです。
吉備真備は、奈良時代に2度にわたって唐に渡り、当時の中国の政治や文化を学び、帰国後、日本の文化の発展に貢献したとされ、右大臣にまで出世しました。
明治大学東アジア石刻文物研究所の氣賀澤保規所長は、「吉備真備のものと考えていいと思う。これまで本人が書いたものは一切なかったが、これが見つかったことで、研究者が大いに刺激を受けて、これから新しい研究が始まっていくと思う」と話していました。
墓誌は広東省深センにある「望野博物館」に保管されていて、来年、一般公開されるということです。
※センは土へんに川
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191225/amp/k10012228161000.html
増田忠彦さん
(2)広まった吉備真備伝説(寄稿連載)
◇ますだ・ただひこ
昨年5月出版した『囲碁 語園』には、江戸時代に生まれた雑俳(川柳)に囲碁を
詠みこんだ句を、ざっと2700句載せた。この雑俳に詠まれた碁打ちで最も句が
多いのは奈良・天平時代の官人、吉備真備(きびのまきび)(693~775)で96句ある。
続いては平安時代の僧、寛蓮(かんれん)の19句、源氏物語の女性の打ち手、空蝉(うつせみ)
の15句である。
真備にまつわる雑俳をみていただこう。
明日の碁を鬼が教へて帰りけり
おふちやくな・丸のみにした碁の妙手
「遣唐使の吉備真備が玄宗皇帝の御前で、唐の名人と命をかけた勝負碁を打つ。四つ目殺しも
知らぬ真備を、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の亡霊が教え導く。終盤形勢不明のとき、真備は
碁石を一つくすねて飲み下し、一目の勝ちを得た」
この荒唐無稽(むけい)の奇談は、平安後期の説話集『江談抄』にあり、後の絵巻物や謡曲、
さらに近世の草紙や実録物に翻案されて有名になった。
帰朝してにわかに那智の砂がへり
真備にはいま一つ、「囲碁を日本に伝えた」という伝説がある。『慶長見聞集』(1614年成立)
がこの伝来伝説を伝え、江戸期に編まれた棋書の序文にはお定まりの枕ことばのように語られている。
真備は717年に留学生として入唐したのをはじめに、2度にわたり通算20年間、唐にあった。
彼の留学よりも前に編まれた「律令」や「風土記」の遺文から、「囲碁の日本への伝来は真備よりも
古い」ことが明らかだが、真備も囲碁文化を伝えた一人だったのだろう。
(囲碁史研究家)
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