(
デカルト、
数学、
リンク::::::::::)
NAMs出版プロジェクト: デカルト(1596~1650):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/blog-post_16.html(本頁)
NAMs出版プロジェクト: デカルトの四則演算(1628年):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2011/12/blog-post_25.html
デカルトによる量の次元の統一(1637年):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/blog-post_16.html
NAMs出版プロジェクト: cogito ergo sum(1637,1644)変奏:改訂版
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/cogito-ergo-sum.html
NAMs出版プロジェクト: 知覚、視覚、触覚。メルロ=ポンティ:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post_30.html
デカルトによる数学的功績のひとつに、量の次元の統一がある。
(近代的自我の哲学的基礎づけなどはデカルトの功績の一部にすぎない。リンク:→
四則演算、
コギト変奏)。
ルネ・デカルト(仏: René Descartes、1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。
「我思う、故に我あり(cogito ergo sum. 正確には、ego cogito , ergo sum .)」
デカルト(1596-1650『方法序説』『哲学原理』他)
方法序説(1637)#4中公
そして「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis. というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。
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哲学の原理(1644)#1:7中公
…考えるものが、考えているまさしくそのときに存在しない、と解するのは矛盾しているからである。したがって、「私は考える、ゆえに私はある」という認識は、あらゆる認識のうち、順序正しく哲学する者が出会うところの、最初の最も確実な認識である。
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方法序説(序?)
この序説が長すぎて一気に読みとおせぬようなら、六部に分けてもよい。第一部では、もろもろの学問についてのさまざまな考察が示されるであろう。第二部では、著者が求めた方法の含むおもな規則が示されるであろう。第二部では、著者が求めた方法の含むおもな規則が示されるであろう。第三部では、著者がこの方法からとりだした道徳の規則のいくつかが示されるであろう。第四部では、著者が神と人間精神との存在を証明するに用いた諸理由、すなわち著者の形而上学の基礎、が示されるであろう。第五部では、著者が探求した自然学の諸問題の順序、および特に心臓の運動と医学に属する他のいくつかの問題との説明、さらにまた、われわれの精神と、動物の精神との間に存する相違、が示されるであろう。最後の第六部では、著者が自然の探求においてさらに前進するために必要だと考えるものはなんであるか、彼に著述をさせた理由は何か、が示されるであろう。
『方法序説』(ほうほうじょせつ、方法叙説とも、仏: Discours de la méthode)とは、1637年に公刊されたフランスの哲学者、ルネ・デカルトの著書である。
刊行当時の正式名称は、『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(方法序説)。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』(仏: Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.)であり、元来は3つの科学論文集を収めた500ページを超える大著だった。今日の『方法序説』として扱われているテキストは、その書籍中の最初の78ページの「序文」部分であり[1]、自身の方法論の発見・確立や刊行に至るまでの経緯を述べている。
序説と訳されるDiscoursは、Traitéが教科書のように体系的に書かれた論説であるのに対して、形式ばらない論考の意であり、デカルト自身がメルセンヌへの書簡で「方法の試み」であると呼んでいる。哲学的な内容はその後に出版された『省察 Meditationes de prima philosophia』とほぼ重なっているが、『方法序説』は自伝の記述をふくみ、思索の順序を追ってわかりやすく書かれているため、この一冊でデカルト哲学の核心を知ることができる。当時、多くの本がラテン語で書かれることが多い中、ラテン語の教育を受ける可能性が低かった当時の女性や子供たちでも読めるように、フランス語で書かれ、6つの部分に分かれている。
著作を時系列で並べると以下のようになる。
1618年『音楽提要』Compendium Musicae
公刊はデカルトの死後(1650年)である。
1628年『精神指導の規則』Regulae ad directionem ingenii
未完の著作。デカルトの死後(1651年)公刊される。
1633年『世界論』Le Monde
ガリレオと同じく地動説を事実上認める内容を含んでいたため、実際には公刊取り止めとなる。デカルトの死後(1664年)公刊される。
1637年『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences(La Dioptrique,Les Météores,La Géométrie)
試論(屈折光学・気象学・幾何学)を除いて序説単体で読まれるときは、『方法序説』Discours de la méthode と略す。
1641年『省察』Meditationes de prima philosophia
1644年『哲学の原理』Principia philosophiae
1648年『人間論』Traité de l'homme
公刊はデカルトの死後(1664年)である。
1649年『情念論』Les passions de l'ame
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1637
方法序説#4中公
そして「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis. というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。___
1644
哲学の原理#1:7中公
…考えるものが、考えているまさしくそのときに存在しない、と解するのは矛盾しているからである。したがって、「私は考える、ゆえに私はある」という認識は、あらゆる認識のうち、順序正しく哲学する者が出会うところの、最初の最も確実な認識である。
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http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-28-2
デカルト『方法序説』ワイド版岩波文庫 「科学の方法 四つの規則」27ページ~
まだ若かった頃(ラ・フレーシュ学院時代)、哲学の諸部門のうちでは論理学を、数学のうちでは幾何学者の解析と代数学を、少し熱心に学んだ。しかし、それらを検討して次のことに気がついた。まず論理学は、その三段論法も他の大部分の教則も、未知のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つばかりだ。…以上の理由でわたしはこの三つの学問(代数学、幾何学、論理学)の学問の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければ、と考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがすっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた。
第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は何もわたしの判断の中に含めないこと。
第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分別すること。
第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定しえ進むこと。
そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も完成する。それはわたしたちに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなにはなれたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだとすでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人々のうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見出したのは数学者だけであったことを考えて、わたしはこれらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった。*重要な語と文章は、要点を見やすくするため四角い枠で囲むかアンダーラインを引いた。
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- –––, Ouevres de Descartes. Eleven Volumes, edited by Charles Adam and Paul Tannery. Paris: J. Vrin, 1996. [cited as AT followed by volume and page number]