木曜日, 5月 12, 2016

グラムシ関連:メモ


グラムシ関連 松田論考
グラムシにおけるアソシエーション論の生成と展開 松田博
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2002/38-3_matsuda.pdf


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組織者の活動方法とその精神の探求者・グラムシ −−『グラムシ「獄中ノート」研究』(大月書店)を上梓して−−                          鈴 木 富 久 

日本における階級闘争の国際関係論的な歴史認識へ 

『ノート』のグラムシは、理論研究を行っただけではない。むしろ歴史研究を先行させながら理論とその諸概念を練り上げ、理論研究と歴史研究を交錯させた。その歴史研究は自国史を中心としており、一つには、知識人に焦点を当てながらルネサンス以降のブルジョア国家の形成過程を究明した、イタリア近代史の総合的研究である。もう一つは、当代の国際関係論的な比較を通じて行った自国ファシズム国家の社会経済的現実分析としての「アメリカニズムとフォード」の研究であった。それらの歴史研究は、第Ⅱ次大戦後、『ノート』公刊により、イタリア人の自国史像を転換させたと言われている。 われわれには、日本史像、さしあたり戦後日本史像を転換させる課題があると筆者には思われる。そのポイントは、一つには、憲法上戦争と戦力を放棄した戦後日本国家の対米従属性および象徴天皇制という問題のさらなる掘り下げの問題であるが、もう一つは、労資関係の問題である。つまり、グラムシが前提にしている欧州的段階に達しておらず、職種-賃金関係がもっぱら企業内で編成されていて、個別企業を規制する職種-賃金編成の全国的な横断規準(横断賃率)が存在せず、しかも労組の基本単位がこの企業内専決体制に対応して企業別組合のままである、という日本の労資関係制度の問題である。この企業内専決体制と企業別労組がはらむ問題性の重大かつ深刻な性格についての認識が、労働者活動家や研究者のあいだですらあまりにも不足している、と筆者は常々思っている。1980年代に「黄金時代」を迎える「企業社会」日本(と、その基軸をなす資本の企業内専制)は、なぜ可能であったのか。その末期における連合の結成と総評の解散を経て、バブル経済が崩壊した1991年以降、急転直下、なぜかくもひどい「貧困・格差社会」へと暗転し「無縁社会」にもなったのか。戦後の労働史・日本史をこの問いから(対米従属および天皇制の問題との繋がりを探り直しながら)見直す必要があり、それを通じて企業内専決体制の問題性についての基本認識を根底から更新していくことが必要であろう。 そして実は、ここで指摘したいことは、この点での認識の根底的な見直しへの手がかりが、『ノート』におけるグラムシの「アメリカニズムとフォード主義」と題する考察の中に散在しているということである。それゆえに、その注意深い研究は、現代日本の労働運動・労働組合の閉塞状況打開のためにも、筆者には不可欠と思われるのである。 むすびにかえて 日本のマルクス研究の高さは世界に冠たるものである。だが、その19世紀マルクスの陰に隠れて、20世紀欧州マルクス主義の最良の知的世界遺産たるグラムシへの関心と研究は、一時急速に拡がるかに見えた時期もあったが、結局、一部にとどまった。今日では、グラムシを知らない活動家は少なくない。これは筆者からみれば、現代日本の19世紀とは比較にならないほど複雑高度な理論問題に直面している階級闘争にとって、測りがたく大きな損失である。

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参考:


《現在の体制がもつ諸弊害は、消費者、生産者、資本家、といういくつかの立場の利害が、分断されていることから派生している。これら三つの立場のいずれの一つをとってみても、その利害は共同社会全体の利害、あるいは他のどの立場の利害とも同じではない。生活協同組合の組織は、消費者と資本家の利害を融合させており、産業協同組合主義は、生産者と資本家の利害を融合させようとする。いずれも、さきの三つの利害をすべて融合させるものではなく、また産業を牛耳る人々の利害を、共同社会の利害にまったく同一化させようともしていない。したがってこの二者はいずれも、産業界の闘争をまったく防止しうるわけではなく、調停者としての国国家の必要性を、なくしてしまうわけでもない。しかしそのいずれにしても、現在の体制よりはましであって、おそらく両者のある折衷形態が、現存するままの工業生産体制がもつ諸弊害を、大部分、癒やすことになるであろう。》


ラッセル「社会改造の諸原理」第四章 財 産



◆原著まえがき 

第一章 成長原理 

第二章 国 家 

第三章 制度としての戦争 

第四章 財 産 第五章 教 育 

第六章 結婚と人口問題 

第七章 宗教と教会 

第八章 われわれは何をなしうるか