http://www.freeassociations.org/
初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)。エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ?
《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)
上は渋谷正版(岩波文庫)、
以下は廣松渉版(河出書房新社)。
《彼は,狩人,漁夫または牧夫または批判的批判家,のどれかであって,〈彼の〉生活を
失うまいと思えば,それでありつづけざるをえない.――これにひきかえ,共産主義社会で
は,各人は一つの排他的な活動範域をもたず,〈各〔範域〕を〉任意の各部門で自己形成を
とげることができるのだが,共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており,
まさしくそのゆえに可能になることなのだが,私は今日はこれを,明日はあれをし,朝は
〈靴屋〈そして昼には〉午後には庭師,夕方には家畜を追い,そして食後には批判をする―
―狩師,漁夫,〈あるいは〉牧夫あるいは批判家〔という固定的な専門家〕になることなく、
私の気のおもむくままにそうすることができるようになるのである.》
マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』(廣松渉編訳、河出書房新社)
参考:
書誌的廣松渉邦訳批判、
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/17054/2/010081091.pdf
【本文】 --- während in der kommunistischen Gesellschaft, wo jeder nicht einen ausschließlichen Kreis der 1 Tätigkeit hat, sondern sich <jeden> in jedem beliebigen Zweige ausbilden kann, die Gesellschaft die allgemeine Produktion regelt und mir eben dadurch möglich macht, heute dies, morgen jenes zu tun, morgens <Schumacher <und mitt[ags]>, nachmittags Gärtner, abends Schauspieler zu sein, wie ich gerade Lust habe> zu jagen, nachmittags zu fischen, abends Viehzucht zu treiben und nach dem Essen zu kritisieren, wie ich gerade Lust habe, ohne je Jäger, Fischer <oder>, Hirt oder Kritiker zu werden.
マルクス エンゲルス「ドイツ・イデオロギー(二)」(真下信一訳)
共産主義は経験的にはただ支配的諸民族の仕事として「一挙的」そして同時に*のみ可能なのであり、そしてこのことは生産力の普遍的発展とそれにつながる世界的交通を前提とする(九)。
* MEGAでは、「一挙に」または同時に、となっている。
(二) 『ドイツ・イデオロギー。最近のドイツ哲学――それの代表者フォイエルバッハ、B・バウアーおよびシュティルナーにおける――およびドイツ社会主義――そのさまざまなる予言者たちにおける――の批判』は、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによる著作であって、一八四五―四六年に書かれた。
一八四五年の春、マルクスとエンゲルスは共同してこの著作を書くことを決め、一八四五年九月に精力的にこの仕事にとりかかった。草稿は約五〇ボーゲンの嵩のもので、二巻から成り、第一巻は主として史的唯物論の根本テーゼの仕上げと、ルートヴィヒ・フォイエルバッハ、ブルーノ・バウアー、およびマックス・シュティルナーの哲学的見解にたいする批判をふくんでおり、第二巻のほうは、「真正」社会主義のさまざまな代表者たちの見解にたいする批判を内容とした。
『ドイツ・イデオロギー』の仕事は、おもな点では一八四六年の夏に終わっていた。この時期に第一巻の大部分――すなわちブルーノ・バウアーとマックス・シュティルナーの見解にたいする批判にあてられた章(「ライプツィヒ宗教会議」)――ならびに第二巻の大部分が仕上がっていた。第一巻の第一部(ルートヴィヒ・フォイエルバッハの見解にたいする批判)については一八四六年の後半にもまだ仕事はつづいたが、それでも終わらなかった。
一八四六年五月のはじめ、第一巻の原稿の主要部分がヨーゼフ・ヴァイデマイヤーあてでヴェストファーレンのシルデ書店に送られた。ヴァイデマイヤーは、出版を、そこの企業家――「真正」社会主義者ユーリウス・マイヤーおよびルドルフ・レンぺル――の資金援助をうける見込みがあったので準備するはずであった。第二巻の原稿の大部分がヴェストファーレンに届いたあとで、マイヤーとレンぺルは一八四六年七月一三日付マルクスあての手紙で、『ドイツ・イデオロギー』の出版に資金を出すことを拒絶した。一八四六―四七年にマルクスとエンゲルスは、この著作の出版者を見つけようと幾度も試みた。だが、これらの骨おりは、警察側からのいろいろな障害により、また、マルクスとエンゲルスの攻撃した当の諸流派の代表者たちに共感していた出版者たちの拒絶がつづいた結果、成功しないままに終わった。
マルクスとエンゲルスの存命中には、『ドイツ・イデオロギー』のただ一章だけ、しかも第二巻の第四章だけが、雑誌『ダス・ヴェストフェーリッシェ・ダンプボート』(一八四七年八月および九月)に公けにされた。
『ドイツ・イデオロギー』の第一巻第二章の若干の個所は、雑誌『ゲゼルシャフツシュピーゲル』の第七冊(一八四六年一月号、「報知と覚え書」欄、六―八ページ)にのせられて「ブリュッセル、一一月二〇日」と記された匿名の覚え書と、内容上一致している。
本書の書名と、第一巻および第二巻の表題は、手稿中には保存されていない。それらは、一八四七年四月九日号の『トリール新聞』にのせられたマルクスの、グリュン批判の覚え書にもとづいて挿入された。
「フォイエルバッハ」の章における諸表題の確定と、原稿の配列順序とは、マルクスとエンゲルスが手稿の欄外に記したことばにもとづいておこなわれた。
「聖マックス」の章を二つの部分――「一 唯一者とその所有」および「二 弁明的注釈」――に分けることは、この章のはじめの著者の指示とこの章の全内容(手稿では「七 弁明的注釈」)にもとづいておこなわれた。
『ドイツ・イデオロギー』の第二巻の第二章および第三章は、手稿中には現存していない。九―五三〇
(九) プロレタリア革命は、すすんだ資本主義諸国で同時に起こりうるだけであり、したがって、一国だけでこの革命の遂行に勝利することは不可能であろうという結論は、エンゲルスの書いた『共産主義の原理』(一八四七年)のなかで確定的に定式づけられた。それは独占前の資本主義の時期にとっては正しかった。
新しい歴史的諸条件のもとで、ヴェ・イ・レーニンは、彼の発見した帝国主義の時代における資本主義の経済的および政治的発展の不均等の法則にもとづいて、社会主義革命の勝利は、はじめは少数の国々で、あるいはただ一国ですら可能であるとの結論に達し、これによって、すべての国々あるいは大多数の国々における革命の同時的勝利の不可能を強調した。
この新しい結論は、はじめてヴェ・イ・レーニンによって、彼の論文『ヨーロッパ合衆国のスローガンについて』において定式化された〔国民文庫版『レーニン三巻選集』(3)を参照〕。三五
たしかに、マルクスは初期に、分業的人間を否定し、
各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるというようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするということができるようになる。
しかし、マルクスはこの見解を捨て、のちに『資本論』などで、人間の全面発達ということを分業の廃止ではなく、第一に社会全体の主人公になること、社会に参加することで克服し、第二に、労働時間を短縮することで自由時間のなかで(人間の全面発達、能力の開花を)とげようとした。そして労働にはどうやってもイヤイヤやる部分というのは残ると考えたのである。
マルクスはフローを
ピケティはストックを
主に分析した
後者は近年の統計整備が可能にしたものだ
両者は補完関係にある
ただしマルクスにとっては自然環境がより重要なストックであり、マルクスはピケティより視野が広い
日本は戦後の農地改革が大きい
ただし株式ホールディングスが小泉内閣によって認められたから
財閥が復活した
さらに官僚国家だから政治改革と社会改革が進まない
マルクスは資本論で純粋な資本主義の原理を追求したから
国家が考察から抜け落ちた
だからその後のマルクス主義者に国家への免疫が生まれなかった
極端に国家を嫌うか国家主義かのどちらかになってしまう
19~20世紀の経済動向に関しては宇野弘蔵の経済政策論が参考になる
経済原論よりわかりやすい
柄谷行人は世界史の構造で循環論的に宇野弘蔵を発展させている
マルクスとの違いは生産より交換を重視した点だ
また国家を資本を別の原理として把握している
37 Comments:
カール・マルクス、フリードリヒエンゲルス-ドイツ・イデオロギー
http://mlwerke.de/me/me03/me03_017.htm
共産主義は製造される条件ではない、現実が一致していなければならないた理想的な私たちのために[あります]。 私たちは、現在の状態を廃止実際の動き共産主義を呼び出します。 今、既存の状態からこの運動の結果の条件。 -ちなみに、単なる労働者の大量構成する<36>による先駆け世界市場での競争に、したがってまたの、もはや生活の安全な供給源として、作品自体の一時的な損失、 -質量、資本のまたは任意の偏狭な満足働く力のabgeschnittneを。 プロレタリアートは、このようにだけ世界的に歴史的に存在することができ、共産主義のように、唯一の「世界史的」存在としての彼の行動は全く存在していてもよいです。 個人の世界史的存在。 直接世界の歴史にリンクされている個人のすなわち存在。
SINGLE PROOF 決算
[8] セクションには、「ライプツィヒ協議会」を開始します。 "1845年のためのワイガンドVierteljahrsschriftの第三巻では、フォン・カウルバッハが予言Hunnenschlachtが本当に起こった塗装しました。 その怒り殺された者、の幽霊は、剣、盾と鉄の戦車の戦争と戦争のうわさ、として、喧騒を上げ、空気中にハウリング、さらには死で落ち着かなくなります。 しかし、それは物事を地上のことではありません。 聖戦は批判'、唯一のもの」と「真の男'は、自己意識、「どの物質に保護関税、憲法、ジャガイモの葉枯れ病、銀行や鉄道にではなく、精神の最も神聖な利益'。 私たちは、教会の父親の協議会です。 彼らはその種の最後のものであり、最も高い、別名絶対、擁護の面で最後の時間のために、できればここになりますので、調書には、交渉。 "MEWを引き継ぐことを支払うので巻。 3、P.78
https://de.m.wikipedia.org/wiki/Die_deutsche_Ideologie
ブルーノ・バウアーとマックス・シュティルナーは上にあったヴィルヘルムカウルバッハマルクスとエンゲルスのフン族の戦い (1834から1837)を塗装認識した。 [8]
エンゲルス執筆箇所
《彼は、狩人、漁夫または牧夫または批判的批判家、のどれかであって、〈彼の〉生活を
失うまいと思えば、それでありつづけざるをえない。――これにひきかえ、共産主義社会で
は,各人は一つの排他的な活動範域をもたず、〈各〔範域〕を〉任意の各部門で自己形成を
とげることができるのだが、共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、
まさしくそのゆえに可能になることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は
靴屋〈そして昼には〉午後には庭師、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする―
―狩師、漁夫、〈あるいは〉牧夫あるいは批判家〔という固定的な専門家〕になることなく、
私の気のおもむくままにそうすることができるようになるのである.》
マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』(廣松渉編訳、河出書房新社)
共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。
(マルクス『ドイツイデオロギー』。柄谷行人『トランスクリティーク』批評空間社、p423より孫引き)
エンゲルス執筆箇所
《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版、
柄谷行人『トランスクリティーク』批評空間社版423頁より孫引き)
カウエルバッハ
https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Wilhelm_von_Kaulbach_001.jpg
Bruno Bauer und Max Stirner wurden auf Wilhelm Kaulbachs Gemälde Die Hunnenschlacht (1834–1837) von Marx und Engels wiedererkannt.
上の絵はドイツイデオロギー内、ライプツィヒ宗教会議 (邦訳全集3,74頁)で観念性の揶揄の例に使われた。
「…カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが現実におこっている。…」大月全集3,74頁
シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある。
参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html
廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。
初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)。エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ?
《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)
分業を肯定するのは唯物論
唯物論は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である
シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある。
参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html
廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。
初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)。エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ?
《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版、
《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)
分業を肯定するのは唯物論
唯物論は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である
シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある。
参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197 リンク切れ
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html シュティルナー
廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。
初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)。エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ?
《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版、
《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)
分業を肯定するのは唯物論
唯物論は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である
シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまったが、、、
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。
以下、初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)、エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ
《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)
分業を肯定するのは唯物論
後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である
カウルバッハ作『フン族の戦い』
https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Wilhelm_von_Kaulbach_001.jpg
Bruno Bauer und Max Stirner wurden auf Wilhelm Kaulbachs Gemälde Die Hunnenschlacht (1834–1837) von Marx und Engels wiedererkannt.
上の絵はドイツイデオロギー内、ライプツィヒ宗教会議 (邦訳全集3,74頁)で観念性の揶揄の例に使われた。
(カウルバッハはヘーゲルの歴史哲学を意識していたようだ。
ヘーゲル歴史哲学の全8個あるセクションの(中国とインドを除く)後半6個からそれぞれトピックを選んで題材にしている。)
「…カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが現実におこっている。…」大月全集3,74頁
ちなみにフロイトはこの絵(フン族の戦い/匈奴の戦い)を肯定的に引用した。(フロイト「自我とエス」1923)
《超自我の発生史の教えるところでは、自我とエスの対象備給との早期の葛藤が、その対象備給の遺産で
ある超自我との葛藤として受け継がれることがありうる。(略)フン族の戦闘を描いたカウルバハの絵のように、
より高い領域でつづいている。》
(フロイト著作者6,284頁)
カウルバッハとヘーゲルについては
Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871
Albert Boime2008年9月15日
University of Chicago Press
カウルバッハ作『フン族の戦い』(1834~7頃)
https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Wilhelm_von_Kaulbach_001.jpg
Bruno Bauer und Max Stirner wurden auf Wilhelm Kaulbachs Gemälde Die Hunnenschlacht (1834–1837) von Marx und Engels wiedererkannt.
上の絵はドイツイデオロギー内、ライプツィヒ宗教会議 (邦訳全集3,74頁)で観念性の揶揄の例に使われた。
(カウルバッハはヘーゲルの歴史哲学を意識していたようだ。
ヘーゲル歴史哲学の全8個あるセクションの(中国とインドを除く)後半6個からそれぞれトピックを選んで題材にしている。)
「…カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが現実におこっている。…」大月全集3,74頁
ちなみにフロイトはこの絵(フン族の戦い/匈奴の戦い)を肯定的に引用した。(フロイト「自我とエス」1923)
《超自我の発生史の教えるところでは、自我とエスの対象備給との早期の葛藤が、その対象備給の遺産で
ある超自我との葛藤として受け継がれることがありうる。(略)フン族の戦闘を描いたカウルバハの絵のように、
より高い領域でつづいている。》
(フロイト著作者6,284頁)
カウルバッハとヘーゲルについてはArt in an Age of Civil Struggle, 1848-1871Albert Boime2008
University of Chicago Press
623 考える名無しさん[] 2019/02/16(土) 12:08:45.96 ID:0
カウルバッハ『フン族の戦い』1834~7年頃作
http://www.bilder-geschichte.de/imgsg/kaulbach-hunnenschlacht.jpg
624 考える名無しさん[] 2019/02/16(土) 12:10:44.18 ID:0
シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまったが、、、
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。
以下、初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)、エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ
《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)
分業を肯定するのは唯物論だが、後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である
この本の内容
「ドイツ・イデオロギー」「哲学の貧困」「コミュニスト宣言」は、同時代の、観念に終始する哲学への批判、心情中心の経済学への批判、および資本主義批判のための実践的宣言文であり、若きマルクスの三つの面貌を鮮やかに浮び上がらせる。
この本の目次
ドイツ・イデオロギー(抄)(ドイツのイデオロギー
イデオロギーの本質
唯物史観の基礎
社会的分業
所有の歴史
コミュニズム―交通形式自身の産出)
哲学の貧困―プルードン氏の『貧困の哲学』への回答(一つの科学的発見
経済学の形而上学)
コミュニスト宣言(ブルジョアとプロレタリア
プロレタリアとコミュニスト
社会主義的な、またコミュニズム的な装いの読み物)
コミュニスト宣言序文(一八七二年のドイツ語版序文
一八八二年のロシア語版序文
一八八三年のドイツ語版序文
一八八八年の英語版序文
一八九〇年のドイツ語版序文
一八九二年のポーランド語版序文
一八九三年のイタリア語版序文)
マルクス・コレクション 2 ─ドイツ・イデオロギー(抄) 哲学の貧困 コミュニスト宣言
カール・マルクス 著 , 今村 仁司 翻訳 , 三島 憲一 翻訳 , 鈴木 直 翻訳 , 塚原 史 翻訳 , 麻生 博之 翻訳
若きマルクスの三つの面貌
収録の三篇は観念に終始する哲学ならびに心情中心の経済学への批判、そして資本主義批判実践の宣言文であり、若きマルクスの三つの面貌を鮮かに浮び上らせる。
マルクス・コレクション 2 ─ドイツ・イデオロギー(抄) 哲学の貧困 コミュニスト宣言
シリーズ:シリーズ・全集
定価:本体3,600円+税
Cコード:0310
整理番号:
刊行日: 2008/03/24
※発売日は地域・書店によって
前後する場合があります
判型:四六判
ページ数:468
ISBN:978-4-480-40112-0
JANコード:9784480401120
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カール・マルクス
カール・マルクス
マルクス,カール
著者に関する情報
マルクス・コレクション 全7冊セット マルクス・コレクション 全7冊セット
マルクス・コレクション 1 ─学位論文・ヘーゲル法哲学批判序説 マルクス・コレクション 1 ─学位論文・ヘーゲル法哲学批判序説
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この本の内容
「ドイツ・イデオロギー」「哲学の貧困」「コミュニスト宣言」は、同時代の、観念に終始する哲学への批判、心情中心の経済学への批判、および資本主義批判のための実践的宣言文であり、若きマルクスの三つの面貌を鮮やかに浮び上がらせる。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480401120/
3
第1巻 最近のドイツ哲学―─それの代表者フォイエルバッハ,B.バウアーおよびシュティルナーにおける──の批判 9
まえがき 11
Ⅰ フォイエルバッハ 唯物論的見方と観念論的見方の対立 13
序論 13
A イデオロギー一般,とくにドイツ・イデオロギー 14
1 歴史 23
2 意識の生産について 32
B イデオロギーの現実的土台 46
1 交通と生産力 46
2 所有にたいする国家と権利の関係 57
3 自生的および文明的な生産用具と所有形態 61
C 共産主義──交通形態そのものの生産 66
ライプツィヒ宗教会議 74
Ⅱ 聖ブルーノ 77
1 フォイエルバッハにたいする「討伐行」 77
2 フォイエルバッハとシュティルナーのあいだの闘争にかんする聖ブルーノの考察 86
3 聖ブルーノ対『聖家族』の著者たち 88
4 「M.ヘス」への告別の辞 96
Ⅲ 聖マックス 100
1 唯一者とその所有 101
旧約,人間 103
1 生い立ち〔創世期〕,すなわち一つの生涯 103
2 旧約の経綸 113
3 古代人 119
4 新時代人 129
A 霊(純粋な霊物語) 134
B 憑かれた人々(不純な霊物語) 139
a 化けもの 145
b 妄念 149
C 不純な不純な物語 152
a 黒人と蒙古人 152
b カトリシズムとプロテスタンティズム 161
D ヒエラルヒー 164
5 御自身の構成に御満悦の「シュティルナー」 179
6 自由人 188
A 政治的自由主義 188
B 共産主義 199
C 人道的自由主義 232
新約,「自我」 241
1 新約の経綸 241
2 自己と一致するエゴイストの現象学,あるいは,その正当化の教え 244
3 神学者ヨハネの啓示,あるいは「新しき知恵の論理学」 278
4 固有性 311
5 固有者 328
A 我が力 328
1 正〔法,権利〕 328
A 一般的な聖化 328
B 簡単な対偶式によって我がものとすること 334
C 組み合わされた対偶式によって我がものとすること 337
2 おきて〔法律〕 345
3 犯罪 355
A 犯罪および刑罰の簡単な聖化 356
a 犯罪 356
b 刑罰 358
B 対偶式によって犯罪および刑罰を我がものとすること 360
C 普通の意味での犯罪と通常外の意味での犯罪 363
5 市民社会としての社会 370
2 反逆 403
3 結社 417
1 土地所有 417
2 労働の組織 420
3 貨幣 425
4 国家 430
5 反逆 434
6 結社の宗教と哲学 434
A 所有 435
B 資産 439
C 道徳,交通,利用説 440
D 宗教 447
E 結社への追加 448
C 我が自己享楽 450
6 ソロモンの雅歌,あるいは唯一者 462
2 弁明的注釈 481
ライプツィヒ宗教会議の終結 489
第2巻 ドイツ社会主義─―それのさまざまな予言者たちにおける──の批判 491
真正社会主義 493
Ⅰ 『ライン年誌』あるいは真正社会主義の哲学 496
A 『共産主義,社会主義,人間主義』 496
B 『社会主義の建築石材』 510
第1の建築石材 514
第2の建築石材 517
第3の建築石材 522
Ⅳ カール・グリュン『フランスおよびベルギーにおける社会運動』(ダルムシュタット,1845年)あるいは真正社会主義の歴史的記述 526
サン-シモン主義 534
1 『同時代人にあてたジュネーヴの一住民の手紙』 540
2 『産業者の政治的問答書』 543
3 『新キリスト教』 547
4 サン-シモン学派 548
フーリエ主義 554
「偏狭なカベーおやじ」とグリュン氏 564
プルードン 576
Ⅴ 「ホルシュタイン出のゲオルク・クールマン博士」あるいは真正社会主義の予言 579
〔補録〕
マルクス・コレクション 2 ─ドイツ・イデオロギー(抄) 哲学の貧困 コミュニスト宣言
カール・マルクス 著 , 今村 仁司 翻訳 , 三島 憲一 翻訳 , 鈴木 直 翻訳 , 塚原 史 翻訳 , 麻生 博之 翻訳
若きマルクスの三つの面貌
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480401120/
この本の内容
「ドイツ・イデオロギー」「哲学の貧困」「コミュニスト宣言」は、同時代の、観念に終始する哲学への批判、心情中心の経済学への批判、および資本主義批判のための実践的宣言文であり、若きマルクスの三つの面貌を鮮やかに浮び上がらせる。
この本の目次
ドイツ・イデオロギー(抄)(ドイツのイデオロギー
イデオロギーの本質
唯物史観の基礎
社会的分業
所有の歴史
コミュニズム―交通形式自身の産出)
哲学の貧困―プルードン氏の『貧困の哲学』への回答(一つの科学的発見
経済学の形而上学)
…
以下大月3
第1巻 最近のドイツ哲学―─それの代表者フォイエルバッハ,B.バウアーおよびシュティルナーにおける──の批判 9
まえがき 11
Ⅰ フォイエルバッハ 唯物論的見方と観念論的見方の対立 13
序論 13
A イデオロギー一般,とくにドイツ・イデオロギー 14
1 歴史 23
2 意識の生産について 32
B イデオロギーの現実的土台 46
1 交通と生産力 46
2 所有にたいする国家と権利の関係 57
3 自生的および文明的な生産用具と所有形態 61
C 共産主義──交通形態そのものの生産 66
ライプツィヒ宗教会議 74
Ⅱ 聖ブルーノ 77
Ⅲ 聖マックス 100
1 唯一者とその所有 101
第3の建築石材 522
Ⅳ カール・グリュン『フランスおよびベルギーにおける社会運動』(ダルムシュタット,1845年)あるいは真正社会主義の歴史的記述 526
サン-シモン主義 534
…
プルードン 576
Ⅴ 「ホルシュタイン出のゲオルク・クールマン博士」あるいは真正社会主義の予言 579
〔補録〕
870 考える名無しさん[sage] 2021/03/25(木) 10:28:54.61 ID:0
>>869
ME全集(大月書店旧版)第3巻「ドイツイデオロギー」第1章1A一「歴史」
「アドラツキー版の最大の問題点は、「第1章フォイエルバッハ」の諸草稿の配列順序を恣
意的に組み替えて編集したことにある。そのため諸草稿の形成過程に即してマルクス、エ
ンゲルスの思考過程を辿ることは、この面から不可能となった。とはいえ諸草稿の各頁の
改稿過程の再現という点に限れば、アドラツキー版は、リャザーノフ版よりもはるかに多
くオリジナル草稿における抹消や付加を巻末異文目録に掲載している。この点はアドラツ
キー版の優れた点であったが、マルクス、エンゲルスの改稿過程を必ずしも正確に再現し
ていないために、その学術的価値は著しく損なわれている。」
(平子友長氏「マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究」第48号2007年3月)
こういう議論があることは承知しているが、内容が大きく異なるということではなく、MEの思考過程の研究には不向きだという、まさに学術的な議論。
もちろん、君がどう考えるかは自由だが、僕は、内容的にはアドラツキー版(旧ME全集)で問題ないと思っている。
シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」
以下、初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)、エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ
《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)
幽霊を含めた分業を肯定するのが唯物論
後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である
シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」
以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは補足のみ)。
《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)
幽霊を含めた分業を肯定するのが唯物論。後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した。
観念的唯物論の完成である。
シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」
以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは補足のみ)。
《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)
幽霊を含めた分業を肯定するのが唯物論。後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した。
観念的唯物論の完成である。
シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。
そもそもマルクスの唯物論は外部に唯心論を措定しそれを批判しないと成り立たない相対的なものであるから仕方ない。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」
以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは補足のみ)。
《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)
幽霊を含めた分業を肯定するのが唯物論。後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した。
観念的唯物論の完成である。
シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。
そもそもマルクスの唯物論は外部に唯心論を措定しそれを批判しないと成り立たない相対的なものであるから仕方ない。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」
以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは補足のみ)。
《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)
このナイーブなエンゲルスの空想を資本論は活かしていない。
「…彼が属している全企業の作業の全系列を見とおせるようにさせること…」
プルードン『経済教程』より
(Cours d'economie,未邦訳,藤田勝次郎『プルードンと現代』72頁より孫引き)
シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。
そもそもマルクスの唯物論は外部に唯心論を措定しそれを批判しないと成り立たない相対的なものであるから仕方ない。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」
以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは補足のみ)。
《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)
このナイーブなエンゲルスの空想を資本論は活かしていない。
《労働者に…彼が属している全企業の作業の全系列を見とおせるようにさせること…私は、これは彼の権利であるといいそえたい。》プルードン『経済教程』より
(Cours d'economie,未邦訳,藤田勝次郎『プルードンと現代』72頁より,Haubtmann, Pierre-Joseph Proudhon. Sa vie et sa pense p.775)
415 考える名無しさん[] 2021/04/07(水) 21:59:45.31 ID:0
佐々木 マルクスの理論には様々な側面があるのですが、マルクスの物象化論についていえば、近代固有の関係がどういうものであるか、それがどういう帰結をもたらすのか、ということがもっとも核心的な話です。
ところが、アカデミックな世界では、そのようなマルクスじしんの問題構成とはまったく無関係に、外からなんらかの哲学や思想をもってきて、その枠からマルクスを再解釈するというような試みがずっとおこなわれてきました。けれども、そのような読み方で読めるほどマルクスはやわな思想、理論ではない。
廣松渉はその典型ではないでしょうか。たとえば廣松は、実際には地球が公転しているにもかかわらず、あたかも太陽が地球のまわりをまわっているように見えるという現象さえもが「物象化」だといいます。
しかし、それを物象化だといってしまうと、近代固有の関係を把握しようとしたマルクスの物象化論とは全く違ったものになってしまいます。彼はフッサールやハイデガーの哲学的問題構成から左派的なことを考えたかった人で、いわばそれにマルクスを利用しているにすぎません。
斎藤 柄谷行人にしてもまず自分の哲学的枠組みがあって、その価値形態論解釈ではカントの超越論的統覚につなげて一般的等価物を読みかえたりしている。自分の哲学的な関心を押し付けるアプローチの一例です。
416 考える名無しさん[] 2021/04/07(水) 22:01:04.52 ID:0
佐々木 マルクス研究にかぎらず、古典的著作の研究においてはきちんとしたテキストクリティークにもとづいた原典研究をしないと話になりません。その意味では、そもそも廣松や柄谷はあくまで独自の理論や哲学を創造したのであって、マルクス研究とは違うわけですよね。
斎藤 そうですね。たとえば、廣松の『ドイツ・イデオロギー』は基本的にはアドラツキー版の使った解読文をもとにして再編集しただけ。だから裏の紙に書いてある場所とか、コピーにうつっていないところは全部ぬけ落ちているし、執筆順序の検討もできていない。
佐々木 もちろん当時はいろいろな時代的な制約があり、いまほど自由に文献にアクセスできませんでしたし、草稿を直観的に再現しようとした廣松の編集方式は画期的なものであり、あれが全く無意味だというつもりはありません。
しかし、いまはいくらでも文献にアクセスできる時代で、実際に渋谷正のような手稿に依拠した緻密な研究が出てきています。にもかかわらず、いまでも廣松の『ド・イデ』などを金科玉条のように祭りたてるのは、廣松じしんの意思にすら反しているように思います。
佐々木隆治×斎藤幸平 『マルクスとエコロジー』刊行記念対談「マルクスのアクチュアリティ」|堀之内出版ブログ(公式)|note 2018
https://note.com/horipub/n/n81771f5788bf
ドイツ・イデオロギー | マルクス, カール, エンゲルス, フリードリヒ, Marx, karl, Engels, Friedrich, 正, 渋谷 |本 | 通販 | Amazon
https://www.amazon.co.jp/ドイツ・イデオロギー-カール-マルクス/dp/440602591X
1998
説明
内容(「BOOK」データベースより)
科学的社会主義研究に礎石を与える画期的な新テキスト。膨大な抹消部分を含む『ドイツ・イデオロギー』草稿の克明な調査・研究によって成し遂げられた、初の完全編集邦訳。マルクス、エンゲルスによる錯綜した記載状態を正確に再現。詳細な注解、草稿編集と「フォイエルバッハ」章成立に関わる学術的解題を別巻とし、科学的社会主義の思想形成過程を追跡する。
内容(「MARC」データベースより)
マルクス・エンゲルスによる錯綜した記載状態を正確に再現した、初の完全編集邦訳。詳細な注解、草稿編集と「フォイエルバッハ」章成立に関わる学術的解題を別巻とし、科学的社会主義の思想形成過程を追跡する。
《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)
シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。それは渋谷正版も同じである。
そもそもマルクスの唯物論は外部に唯心論を措定しそれを批判しないと成り立たない相対的なものであるから仕方ない。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」
以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは批評云々部分の補足のみ)。
《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)
このナイーブなエンゲルスの空想を資本論は活かしていない。唯物論的に生かしているのはプルードンである。
《労働者に…彼が属している全企業の作業の全系列を見とおせるようにさせること…私は、これは彼の権利であるといいそえたい。》
プルードン『経済教程』より
(Cours d'economie,未邦訳,藤田勝次郎『プルードンと現代』72頁より,Haubtmann, Pierre-Joseph Proudhon. Sa vie et sa pense p.775)
シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。それは渋谷正版も同じである。
そもそもマルクスの唯物論は外部に唯心論を措定しそれを批判しないと成り立たない相対的なものであるから仕方ない。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。
参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。
以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは批評云々部分の補足のみ)。
《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)
このナイーブなエンゲルスの空想を資本論は活かしていない。唯物論的に生かしているのはプルードンである。
《労働者に…彼が属している全企業の作業の全系列を見とおせるようにさせること…私は、これは彼の権利であるといいそえたい。》
プルードン『経済教程』より
(Cours d'economie,未邦訳,藤田勝次郎『プルードンと現代』72頁より,Haubtmann, Pierre-Joseph Proudhon. Sa vie et sa pense p.775)
カウルバッハ作『フン族の戦い』(1834~7頃)
https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Wilhelm_von_Kaulbach_001.jpg
Bruno Bauer und Max Stirner wurden auf Wilhelm Kaulbachs Gemälde Die Hunnenschlacht (1834–1837) von Marx und Engels wiedererkannt.
上の絵はドイツイデオロギー内、ライプツィヒ宗教会議 (邦訳全集3,74頁)で観念性の揶揄の例に使われた。
(カウルバッハはヘーゲルの歴史哲学を意識していたようだ。
ヘーゲル歴史哲学の全8個あるセクションの(中国とインドを除く)後半6個からそれぞれトピックを選んで題材にしている。)
「…カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが現実におこっている。…」大月全集3,74頁
ちなみにフロイトはこの絵(フン族の戦い/匈奴の戦い)を肯定的に引用した。(フロイト「自我とエス」1923)
《超自我の発生史の教えるところでは、自我とエスの対象備給との早期の葛藤が、その対象備給の遺産で
ある超自我との葛藤として受け継がれることがありうる。(略)フン族の戦闘を描いたカウルバハの絵のように、
より高い領域でつづいている。》
(フロイト著作者6,284頁)
カウルバッハとヘーゲルについてはArt in an Age of Civil Struggle, 1848-1871Albert Boime2008
University of Chicago Press
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