火曜日, 7月 12, 2016

『ドイツ・イデオロギー』(1846):メモ

                (マルクスリンク::::::::::
『ドイツ・イデオロギー』(1846):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/07/blog-post_91.html(本頁)

初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)。エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ?


《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を

発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、

まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという

ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝

には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという

ことができるようになる。》

(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版



上は渋谷正版(岩波文庫)、

以下は廣松渉版(河出書房新社)。


《彼は,狩人,漁夫または牧夫または批判的批判家,のどれかであって,〈彼の〉生活を

失うまいと思えば,それでありつづけざるをえない.――これにひきかえ,共産主義社会で

は,各人は一つの排他的な活動範域をもたず,〈各〔範域〕を〉任意の各部門で自己形成を

とげることができるのだが,共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており,

まさしくそのゆえに可能になることなのだが,私は今日はこれを,明日はあれをし,朝は

〈靴屋〈そして昼には〉午後には庭師,夕方には家畜を追い,そして食後には批判をする―

―狩師,漁夫,〈あるいは〉牧夫あるいは批判家〔という固定的な専門家〕になることなく、

私の気のおもむくままにそうすることができるようになるのである.》


マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』(廣松渉編訳、河出書房新社)


参考:

書誌的廣松渉邦訳批判、

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/17054/2/010081091.pdf


本文】 ---  während in der kommunistischen  Gesellschaft, wo jeder nicht  einen ausschließlichen Kreis der 1 Tätigkeit  hat,  sondern  sich  <jeden> in  jedem  beliebigen Zweige  ausbilden  kann,  die Gesellschaft die  allgemeine Produktion  regelt  und  mir  eben  dadurch  möglich  macht,  heute  dies,  morgen jenes  zu tun,  morgens <Schumacher <und mitt[ags]>, nachmittags Gärtner,  abends Schauspieler zu  sein,  wie ich  gerade Lust habe> zu  jagen,  nachmittags zu  fischen, abends Viehzucht zu  treiben  und nach dem Essen zu kritisieren,  wie ich gerade Lust habe,  ohne je  Jäger,  Fischer <oder>, Hirt  oder Kritiker  zu werden.   







ドイツ・イデオロギー』(ドイツ語Die deutsche Ideologie)は、1845年から1846年にかけて執筆された、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスとの共著作である(ただし実際の草稿のほとんどはエンゲルスによって執筆されている)。題名のIdeologieとは、ここでは観念論の意味である。青年ヘーゲル派の批判を通じて、唯物論的な歴史観の基礎を明らかにしようとした著作だが、マルクス・エンゲルスの生前は刊行されず、草稿・原稿の集積として終わり、死後に刊行された。

『ドイツイデオロギー』(1846):
(唯物論)
「われわれが出発する前提はなんら任意のもの、なんら教条ではない。それは、ただ想像のうちでのみ捨象されうるところの現実的な前提である。それは現実的な諸個人、彼らの行動であり、そして目の前に見出されもすれば自分自身の行動によって作り出されもするところの彼らの物質的な生活条件である。したがってこれらの前提は純粋に経験的なやり方で確認されうるのである。」(岩波文庫、23-24頁)
「人間は意識によって、宗教によってそのほか任意なものによって動物から区別されることができる。しかし人間自身は、彼らが彼らの生活手段を生産しはじめるやいなや、自分を動物から区別しはじめる。この一歩は、彼らの肉体的組織によって制約されているものである。人間は、彼らの生活手段を生産することによって、間接に彼らの物質的生活そのものを生産する。
 人間がかれらの生活手段を生産する方式は、まず第一に、眼のまえにみいだされそして再生産さるべき生活手段そのものの性状にかかっている。生産のこの方式は、たんにこれが諸個人の肉体的生存の再生産であるという面からだけ考察されてはならない。それはむしろすでにこれら個人の活動の一定の仕方であり、かれらの生活を表出する一定の仕方であり、かれらの一定の生活様式である。諸個人がかれらの生活を表出する仕方は、すなわちかれらが存在する仕方である。したがって、かれらがなんであるかはかれらの生産に、すなわちかれらがなにを生産するか、ならびにまたいかに生産するかに合致する。したがって諸個人がなんであるかは、かれらの生産の物質的条件にかかっている。」(岩波文庫、24-25頁)



われわれがそこから出発する前提は、なんら任意のものでも教条でもなく、それはただ想像のなかでのみ捨象しうるような現実的諸前提である。それは現実的諸個人であり、かれらの行為とかれらの物質的生活諸条件──既存のものであれ、かれら自身の行為によってうみだされたものであれ──である。したがって、これらの諸前提は純粋に経験的な方法で確認されうるものである。

河出書房新社



・「共産主義は、経験的には、主要な諸民族が《一挙に》、かつ同時に遂行することによってのみ可能なのであり、そしてそのことは生産力の普遍的発展とそれに結びついた世界交通を前提としている。」(45)[マルクス欄外注記]  

・「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれに向けて形成されるべき何らかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名付けている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる。(46[欄外注記])

新日本出版社(服部文男監訳)また合同出版(花崎訳)も参照。

_______

Karl Marx-Friedrich Engels - Die deutsche Ideologie
http://mlwerke.de/me/me03/me03_017.htm
Der Kommunismus ist für uns nicht ein Zustand, der hergestellt werden soll, ein Ideal, wonach die Wirklichkeit sich zu richten haben [wird]. Wir nennen Kommunismus die wirkliche Bewegung, welche den jetzigen Zustand aufhebt. Die Bedingungen dieser Bewegung ergeben sich aus der jetzt bestehenden Voraussetzung. Übrigens setzt die Masse von bloßen Arbeitern - <36> massenhafte, von Kapital oder von irgendeiner bornierten Befriedigung abgeschnittne Arbeiterkraft - und darum auch der nicht mehr temporäre Verlust dieser Arbeit selbst als einer gesicherten Lebensquelle durch die Konkurrenz den Weltmarkt voraus. Das Proletariat kann also nur weltgeschichtlich existieren, wie der Kommunismus, seine Aktion, nur als "weltgeschichtliche" Existenz überhaupt vorhanden sein kann; weltgeschichtliche Existenz der Individuen; d.h. Existenz der Individuen, die unmittelbar mit der Weltgeschichte verknüpft ist.




Communism is for us not a state of affairs which is to be established, an ideal to which reality [will] have to adjust itself. We call communism the real movement which abolishes the present state of things. The conditions of this movement result from the premises now in existence.
_______



シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある。

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらしたといってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。

ヘーゲルからどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義批判はシュティルナーのようなアナキスト的な批判では無いが同じ問題を
はらんでいたのではないだろうか 


http://ratio.sakura.ne.jp/uploads/2013/02/20130204-2.pdf
「あるけなげな男が、かつて、人間が水におぼれるのは彼らが重力の思想に取り付かれているからでしかないと思い込んだ。彼らが、たとえばこの観念を迷信的な観念、宗教的な観念と言明することによって、それを頭から追い払えば、彼らはすべての水難をまぬかれる、というのだ。生涯にわたって、彼は、重力の幻影とたたかった……。このけなげな男こそが、ドイツの新しい革命的哲学者たちの典型であった。」 (「ドイツ・イデオロギー」序文、1845~46年執筆。古典選書『ドイツ・イデオロギー』10ページ) 

【資料3】マルクスの弁証法的方法 
「私の弁証法的方法は、ヘーゲルのそれとはただ単に根本的に異なっているのではなく、それとは正反対のものである。ヘーゲルは思考過程を理念という名のもとに1つの自立的な主体にさえ転化したが、彼にとってはその思考過程が現実的なものの創造者であって、現実的なものはただその外的現象でしかない。私にあっては反対に、観念的なものは、人間の頭脳のなかで置き換えられ、翻訳された物質的なものにほかならない。 ……弁証法がヘーゲルの手のなかでこうむっている神秘化は、彼が弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的な仕方で叙述したということを、決してさまたげるものではない。弁証法はヘーゲルにあってはさか立ちしている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない。 その神秘化された形態で、弁証法はドイツの流行となった。というのは、それが現存するものを神々しいものにするように思われたからである。その合理的な姿態では、弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとっては、忌まわしいものであり、恐ろしいものである。なぜなら、この弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、できあがったどの形態をも運動の流れのなかで、したがってまたそれが過ぎ去って行くという側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである。」 (マルクス「『資本論』第2版へのあと書き」1873年、『資本論』新日本新書①28~29ページ) -  2  - 


 ①『ドイツ・イデオロギー』(1845~46年)
 「各人が活動の排他領域を持たず、むしろそれぞれの任意の部門で自分を発達させることのできる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、まさにそのことによって、私は今日はこれをし、明日はあれをするということが可能になり、狩人、漁師、牧人、あるいは批判家になることなしに、まさに好きなように、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批判をするということが可能になる。」
(古典選書『ドイツ・イデオロギー』44ページ) エンゲルス執筆?


Karl Marx-Friedrich Engels - Die deutsche Ideologie
http://mlwerke.de/me/me03/me03_017.htm
Der Kommunismus ist für uns nicht ein Zustand, der hergestellt werden soll, ein Ideal, wonach die Wirklichkeit sich zu richten haben [wird]. Wir nennen Kommunismus die wirkliche Bewegung, welche den jetzigen Zustand aufhebt. Die Bedingungen dieser Bewegung ergeben sich aus der jetzt bestehenden Voraussetzung. Übrigens setzt die Masse von bloßen Arbeitern - <36> massenhafte, von Kapital oder von irgendeiner bornierten Befriedigung abgeschnittne Arbeiterkraft - und darum auch der nicht mehr temporäre Verlust dieser Arbeit selbst als einer gesicherten Lebensquelle durch die Konkurrenz den Weltmarkt voraus. Das Proletariat kann also nur weltgeschichtlich existieren, wie der Kommunismus, seine Aktion, nur als "weltgeschichtliche" Existenz überhaupt vorhanden sein kann; weltgeschichtliche Existenz der Individuen; d.h. Existenz der Individuen, die unmittelbar mit der Weltgeschichte verknüpft ist.   

EINZELNACHWEIS

[8] Der Abschnitt „Das Leipziger Konzil“ beginnt: „Im dritten Bande der Wigand'schen Vierteljahrsschrift für 1845 ereignet sich die von Kaulbach prophetisch gemalte Hunnenschlacht wirklich. Die Geister der Erschlagenen, deren Grimm auch im Tode sich nicht beruhigt, erheben ein Getöse und Heulen in der Luft, wie von Kriegen und Kriegsgeschrei, von Schwertern, Schilden und eisernen Wagen. Aber es handelt sich nicht um irdische Dinge. Der heilige Krieg wird geführt nicht um Schutzzölle, Konstitution, Kartoffelkrankheit, Bankwesen und Eisenbahnen, sondern um die heiligsten Interessen des Geistes, um die ‚Substanz‘, das ‚Selbstbewußtsein‘, die ‚Kritik‘, den ‚Einzigen‘ und den ‚wahren Menschen‘. Wir befinden uns auf einem Konzil von Kirchenvätern. Da sie die letzten Exemplare ihrer Art sind und hier hoffentlich zum letzten Mal in Sachen des Allerhöchsten, alias Absoluten, plädiert wird, so lohnt es sich, über die Verhandlungen procès-verbal <Protokoll> aufzunehmen.“ MEW Bd. 3, S. 78

Bruno Bauer und Max Stirner wurden auf Wilhelm Kaulbachs Gemälde Die Hunnenschlacht (1834–1837) von Marx und Engels wiedererkannt.[8]


上の絵はドイツイデオロギー内、ライプツィヒ宗教会議 (邦訳全集3,74頁)で観念性の揶揄の例に使われた。

「…カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが現実におこっている。…」大月全集3,74頁

「 一八四五年度の『ヴィーガント季刊誌』第三巻のなかで、カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが現実におこっている。死んでもなお怨み消えやらぬ斃(たお)された者、たちの霊どもが空中でどよめかす叫喚と号哭に戦いの音、鬨(かちどき)の声、剣、楯、鉄車の響きがまざる。しか問題は地上の事どもにあるのではない。聖なる戦いは保護関税、憲法、馬鈴薯病、銀行制度、鉄道のためにおこなわれるのではなくて、霊のいとも神聖なる関心事、つまり「実体」、「自己意識」、「批判」、「唯一者」、「真の人間」のためなのでる、われわれは教父たちの宗教会議の座にいるのである。彼らはこの種の人たちの最後の標本であり、それにおらくはこれが至高のもの、つまり絶対的なものの事柄で弁護がおこなわれる最後の機会であろうから、審理の模様について記録をとるだけの値うちはある。
 まずはじめに聖ブルーノがいる。….」(大月全集3,74頁)

ちなみにフロイトはこの絵(フン族の戦い/匈奴の戦い)を肯定的に引用した。
NAMs出版プロジェクト: The Battle of the Huns
http://nam-students.blogspot.jp/2010/07/battle-of-huns.html

Karl Marx-Friedrich Engels - Die deutsche Ideologie
http://www.mlwerke.de/me/me03/me03_078.htm

Das Leipziger Konzil

<78> Im dritten Bande der "Wigand'schen Vierteljahrsschrift" für 1845 ereignet sich die von Kaulbach prophetisch gemalte Hunnenschlacht wirklich.Die Geister der Erschlagenen, deren Grimm auch im Tode sich nicht beruhigt, erheben ein Getöse und Heulen in der Luft, wie von Kriegen und Kriegsgeschrei, von Schwertern, Schilden und eisernen Wagen. Aber es handelt sich nicht um irdische Dinge. Der heilige Krieg wird geführt nicht um Schutzzölle, Konstitution, Kartoffelkrankheit, Bankwesen und Eisenbahnen, sondern um die heiligsten Interessen des Geistes, um die "Substanz", das "Selbstbewußtsein", die "Kritik", den "Einzigen" und den "wahren Menschen". Wir befinden uns auf einem Konzil von Kirchenvätern. Da sie die letzten Exemplare ihrer Art sind und hier hoffentlich zum letzten Mal in Sachen des Allerhöchsten, alias Absoluten, plädiert wird, so lohnt es sich, über die Verhandlungen procès-verbal <Protokoll> aufzunehmen.

(ヴィーカント季刊誌1845年に掲載されたバウアー論文を批判)

大月書店 マルクス=エンゲルス全集 online 3, 





第1巻 最近のドイツ哲学―─それの代表者フォイエルバッハ,B.バウアーおよびシュティルナーにおける──の批判9
まえがき11
Ⅰ フォイエルバッハ 唯物論的見方と観念論的見方の対立13
序論13
A イデオロギー一般,とくにドイツ・イデオロギー14
1 歴史23
2 意識の生産について32
B イデオロギーの現実的土台46
1 交通と生産力46
2 所有にたいする国家と権利の関係57
3 自生的および文明的な生産用具と所有形態61
C 共産主義──交通形態そのものの生産66
ライプツィヒ宗教会議74
Ⅱ 聖ブルーノ77
1 フォイエルバッハにたいする「討伐行」77
2 フォイエルバッハとシュティルナーのあいだの闘争にかんする聖ブルーノの考察86
3 聖ブルーノ対『聖家族』の著者たち88
4 「M.ヘス」への告別の辞96
Ⅲ 聖マックス100
1 唯一者とその所有101
旧約,人間103
1 生い立ち〔創世期〕,すなわち一つの生涯103
2 旧約の経綸113
3 古代人119
4 新時代人129
A 霊(純粋な霊物語)134
B 憑かれた人々(不純な霊物語)139
a 化けもの145
b 妄念149
C 不純な不純な物語152
a 黒人と蒙古人152
b カトリシズムとプロテスタンティズム161
D ヒエラルヒー164
5 御自身の構成に御満悦の「シュティルナー」179
6 自由人188
A 政治的自由主義188
B 共産主義199
C 人道的自由主義232
新約,「自我」241
1 新約の経綸241
2 自己と一致するエゴイストの現象学,あるいは,その正当化の教え244
3 神学者ヨハネの啓示,あるいは「新しき知恵の論理学」278
4 固有性311
5 固有者328
A 我が力328
1 正〔法,権利〕328
A 一般的な聖化328
B 簡単な対偶式によって我がものとすること334
C 組み合わされた対偶式によって我がものとすること337
2 おきて〔法律〕345
3 犯罪355
A 犯罪および刑罰の簡単な聖化356
a 犯罪356
b 刑罰358
B 対偶式によって犯罪および刑罰を我がものとすること360
C 普通の意味での犯罪と通常外の意味での犯罪363
5 市民社会としての社会370
2 反逆403
3 結社417
1 土地所有417
2 労働の組織420
3 貨幣425
4 国家430
5 反逆434
6 結社の宗教と哲学434
A 所有435
B 資産439
C 道徳,交通,利用説440
D 宗教447
E 結社への追加448
C 我が自己享楽450
6 ソロモンの雅歌,あるいは唯一者462
2 弁明的注釈481
ライプツィヒ宗教会議の終結489
第2巻 ドイツ社会主義─―それのさまざまな予言者たちにおける──の批判491
真正社会主義493
Ⅰ 『ライン年誌』あるいは真正社会主義の哲学496
A 『共産主義,社会主義,人間主義』496
B 『社会主義の建築石材』510
第1の建築石材514
第2の建築石材517
第3の建築石材522
Ⅳ カール・グリュン『フランスおよびベルギーにおける社会運動』(ダルムシュタット,1845年)あるいは真正社会主義の歴史的記述526
サン-シモン主義534
1 『同時代人にあてたジュネーヴの一住民の手紙』540
2 『産業者の政治的問答書』543
3 『新キリスト教』547
4 サン-シモン学派548
フーリエ主義554
「偏狭なカベーおやじ」とグリュン氏564
プルードン576
Ⅴ 「ホルシュタイン出のゲオルク・クールマン博士」あるいは真正社会主義の予言579
〔補録〕


マルクスエンゲルス全集 第3巻』(大月書店

マルクス エンゲルスドイツ・イデオロギー(二)」(真下信一訳)

共産主義経験的にはただ支配的諸民族仕事として「一挙的」そして同時に*のみ可能なのであり、そしてこのことは生産力の普遍的発展とそれにつながる世界交通を前提とする(九)。

  * MEGAでは、「一挙に」または同時に、となっている。

(二) 『ドイツ・イデオロギー最近ドイツ哲学――それの代表者フォイエルバッハ、B・バウアーおよびシュティルナーにおける――およびドイツ社会主義――そのさまざまなる予言者たちにおける――の批判』は、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスによる著作であって、一八四五―四六年に書かれた。

 一八四五年の春、マルクスエンゲルスは共同してこの著作を書くことを決め、一八四五年九月に精力的にこの仕事にとりかかった。草稿は約五〇ボーゲンの嵩のもので、二巻から成り、第一巻は主として史的唯物論根本テーゼの仕上げと、ルートヴィヒ・フォイエルバッハブルーノ・バウアー、およびマックス・シュティルナー哲学見解にたいする批判をふくんでおり、第二巻のほうは、「真正」社会主義のさまざまな代表者たちの見解にたいする批判を内容とした。

 『ドイツ・イデオロギー』の仕事は、おもな点では一八四六年の夏に終わっていた。この時期に第一巻の大部分――すなわちブルーノ・バウアーとマックス・シュティルナー見解にたいする批判にあてられた章(「ライプツィヒ宗教会議」)――ならびに第二巻の大部分が仕上がっていた。第一巻の第一部(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ見解にたいする批判)については一八四六年の後半にもまだ仕事はつづいたが、それでも終わらなかった。

 一八四六年五月のはじめ、第一巻の原稿の主要部分がヨーゼフ・ヴァイデマイヤーあてでヴェストファーレンのシルデ書店に送られた。ヴァイデマイヤーは、出版を、そこの企業家――「真正」社会主義ユーリウス・マイヤーおよびルドルフ・レンぺル――の資金援助をうける見込みがあったので準備するはずであった。第二巻の原稿の大部分がヴェストファーレンに届いたあとで、マイヤーとレンぺルは一八四六年七月一三日付マルクスあての手紙で、『ドイツ・イデオロギー』の出版に資金を出すことを拒絶した。一八四六―四七年にマルクスエンゲルスは、この著作の出版者を見つけようと幾度も試みた。だが、これらの骨おりは、警察側からのいろいろな障害により、また、マルクスエンゲルスの攻撃した当の諸流派の代表者たちに共感していた出版者たちの拒絶がつづいた結果、成功しないままに終わった。

 マルクスエンゲルスの存命中には、『ドイツ・イデオロギー』のただ一章だけ、しかも第二巻の第四章だけが、雑誌『ダス・ヴェストフェーリッシェ・ダンプボート』(一八四七年八月および九月)に公けにされた。

 『ドイツ・イデオロギー』の第一巻第二章の若干の個所は、雑誌ゲゼルシャフツシュピーゲル』の第七冊(一八四六年一月号、「報知と覚え書」欄、六―八ページ)にのせられて「ブリュッセル、一一月二〇日」と記された匿名の覚え書と、内容上一致している。

 本書の書名と、第一巻および第二巻の表題は、手稿中には保存されていない。それらは、一八四七年四月九日号の『トリール新聞』にのせられたマルクスの、グリュン批判の覚え書にもとづいて挿入された。

 「フォイエルバッハ」の章における諸表題の確定と、原稿配列順序とは、マルクスエンゲルスが手稿の欄外に記したことばにもとづいておこなわれた。

 「聖マックス」の章を二つの部分――「一 唯一者とその所有」および「二 弁明的注釈」――に分けることは、この章のはじめの著者の指示とこの章の全内容(手稿では「七 弁明的注釈」)にもとづいておこなわれた。

 『ドイツ・イデオロギー』の第二巻の第二章および第三章は、手稿中には現存していない。九―五三〇

(九) プロレタリア革命は、すすんだ資本主義諸国で同時に起こりうるだけであり、したがって、一国だけでこの革命遂行に勝利することは不可能であろうという結論は、エンゲルスの書いた『共産主義原理』(一八四七年)のなかで確定的に定式づけられた。それは独占前の資本主義の時期にとっては正しかった。

 新しい歴史的諸条件のもとで、ヴェ・イ・レーニンは、彼の発見した帝国主義の時代における資本主義経済的および政治的発展の不均等の法則にもとづいて、社会主義革命の勝利は、はじめは少数の国々で、あるいはただ一国ですら可能であるとの結論に達し、これによって、すべての国々あるいは大多数の国々における革命の同時的勝利の不可能を強調した。

 この新しい結論は、はじめてヴェ・イ・レーニンによって、彼の論文ヨーロッパ合衆国スローガンについて』において定式化された〔国民文庫版『レーニン三巻選集』(3)を参照〕。三五





http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/mobile?date=20101101§ion=1288624925

マルクスの労働論と比較する

 マルキストであるぼくはマルクスと比較する。

 たしかに、マルクスは初期に、分業的人間を否定し、


各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるというようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするということができるようになる。

マルクスエンゲルスドイツ・イデオロギー』)

 しかし、マルクスはこの見解を捨て、のちに『資本論』などで、人間の全面発達ということを分業の廃止ではなく、第一に社会全体の主人公になること、社会に参加することで克服し、第二に、労働時間を短縮することで自由時間のなかで(人間の全面発達、能力の開花を)とげようとした。そして労働にはどうやってもイヤイヤやる部分というのは残ると考えたのである。



エンゲルス執筆の箇所ですが、

 〔「これにひきかえ、共産主義社会では、各人は一つの排他的な活動範域をもたず、
<各〔範域〕を>任意の各部門で自己形成をとげることができるのだが、共産
主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能に
なることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は<靴屋<そして昼には>
午後には庭師、夕方には俳優になる、〔私の気のおもむくままに〕>狩りをし、
午後には漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする-狩師、漁夫、
<あるいは>牧夫あるいは批判家〔という固定的な専門家〕になることなく、私の
気のおもむくままにそうすることができるようになるのである。」
(廣松渉版  ドイツイデオロギー邦訳テキスト篇p.34)〕 



エンゲルス執筆の箇所ですが、

 「…共産主義社会では、各人は一つの排他的な活動範域をもたず、
各〔範域〕を任意の各部門で自己形成をとげることができるのだが、共産
主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能に
なることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝はそして昼には
午後には庭師、夕方には俳優になる、〔私の気のおもむくままに〕狩りをし、
午後には漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする-狩師、漁夫、
あるいは牧夫あるいは批判家〔という固定的な専門家〕になることなく、私の
気のおもむくままにそうすることができるようになるのである。」
(廣松渉版  ドイツイデオロギー邦訳テキスト篇p.34)

_____

マルクスはフローを

ピケティはストックを

主に分析した


後者は近年の統計整備が可能にしたものだ


両者は補完関係にある


ただしマルクスにとっては自然環境がより重要なストックであり、マルクスはピケティより視野が広い



日本は戦後の農地改革が大きい

ただし株式ホールディングスが小泉内閣によって認められたから

財閥が復活した


さらに官僚国家だから政治改革と社会改革が進まない 



マルクスは資本論で純粋な資本主義の原理を追求したから

国家が考察から抜け落ちた

だからその後のマルクス主義者に国家への免疫が生まれなかった

極端に国家を嫌うか国家主義かのどちらかになってしまう


19~20世紀の経済動向に関しては宇野弘蔵の経済政策論が参考になる

経済原論よりわかりやすい

柄谷行人は世界史の構造で循環論的に宇野弘蔵を発展させている

マルクスとの違いは生産より交換を重視した点だ

また国家を資本を別の原理として把握している

37 Comments:

Blogger yoji said...

カール・マルクス、フリードリヒエンゲルス-ドイツ・イデオロギー
http://mlwerke.de/me/me03/me03_017.htm
共産主義は製造される条件ではない、現実が一致していなければならないた理想的な私たちのために[あります]。 私たちは、現在の状態を廃止実際の動き共産主義を呼び出します。 今、既存の状態からこの運動の結果の条件。 -ちなみに、単なる労働者の大量構成する<36>による先駆け世界市場での競争に、したがってまたの、もはや生活の安全な供給源として、作品自体の一時的な損失、 -質量、資本のまたは任意の偏狭な満足働く力のabgeschnittneを。 プロレタリアートは、このようにだけ世界的に歴史的に存在することができ、共産主義のように、唯一の「世界史的」存在としての彼の行動は全く存在していてもよいです。 個人の世界史的存在。 直接世界の歴史にリンクされている個人のすなわち存在。

SINGLE PROOF 決算
[8] セクションには、「ライプツィヒ協議会」を開始します。 "1845年のためのワイガンドVierteljahrsschriftの第三巻では、フォン・カウルバッハが予言Hunnenschlachtが本当に起こった塗装しました。 その怒り殺された者、の幽霊は、剣、盾と鉄の戦車の戦争と戦争のうわさ、として、喧騒を上げ、空気中にハウリング、さらには死で落ち着かなくなります。 しかし、それは物事を地上のことではありません。 聖戦は批判'、唯一のもの」と「真の男'は、自己意識、「どの物質に保護関税、憲法、ジャガイモの葉枯れ病、銀行や鉄道にではなく、精神の最も神聖な利益'。 私たちは、教会の父親の協議会です。 彼らはその種の最後のものであり、最も高い、別名絶対、擁護の面で最後の時間のために、できればここになりますので、調書には、交渉。 "MEWを引き継ぐことを支払うので巻。 3、P.78


https://de.m.wikipedia.org/wiki/Die_deutsche_Ideologie

ブルーノ・バウアーとマックス・シュティルナーは上にあったヴィルヘルムカウルバッハマルクスとエンゲルスのフン族の戦い (1834から1837)を塗装認識した。 [8]

10:09 午前  
Blogger yoji said...

エンゲルス執筆箇所

《彼は、狩人、漁夫または牧夫または批判的批判家、のどれかであって、〈彼の〉生活を
失うまいと思えば、それでありつづけざるをえない。――これにひきかえ、共産主義社会で
は,各人は一つの排他的な活動範域をもたず、〈各〔範域〕を〉任意の各部門で自己形成を
とげることができるのだが、共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、
まさしくそのゆえに可能になることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は
靴屋〈そして昼には〉午後には庭師、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする―
―狩師、漁夫、〈あるいは〉牧夫あるいは批判家〔という固定的な専門家〕になることなく、
私の気のおもむくままにそうすることができるようになるのである.》

マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』(廣松渉編訳、河出書房新社)

11:48 午後  
Blogger yoji said...

共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。
(マルクス『ドイツイデオロギー』。柄谷行人『トランスクリティーク』批評空間社、p423より孫引き)

11:52 午後  
Blogger yoji said...

エンゲルス執筆箇所

《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版、
柄谷行人『トランスクリティーク』批評空間社版423頁より孫引き)

12:05 午前  
Blogger yoji said...

カウエルバッハ
https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Wilhelm_von_Kaulbach_001.jpg

6:30 午後  
Blogger yoji said...

Bruno Bauer und Max Stirner wurden auf Wilhelm Kaulbachs Gemälde Die Hunnenschlacht (1834–1837) von Marx und Engels wiedererkannt.

上の絵はドイツイデオロギー内、ライプツィヒ宗教会議 (邦訳全集3,74頁)で観念性の揶揄の例に使われた。

「…カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが現実におこっている。…」大月全集3,74頁

6:31 午後  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある。

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。

6:32 午後  
Blogger yoji said...

初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)。エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ?

《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)

分業を肯定するのは唯物論
唯物論は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である

6:34 午後  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある。

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。

初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)。エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ?

《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版、

《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)

分業を肯定するのは唯物論
唯物論は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である

6:38 午後  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある。

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197 リンク切れ
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html シュティルナー

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。

初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)。エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ?

《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版、

《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)

分業を肯定するのは唯物論
唯物論は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である

6:40 午後  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまったが、、、
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。

以下、初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)、エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ

《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)

分業を肯定するのは唯物論
後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である

6:43 午後  
Blogger yoji said...

カウルバッハ作『フン族の戦い』
https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Wilhelm_von_Kaulbach_001.jpg

Bruno Bauer und Max Stirner wurden auf Wilhelm Kaulbachs Gemälde Die Hunnenschlacht (1834–1837) von Marx und Engels wiedererkannt.

上の絵はドイツイデオロギー内、ライプツィヒ宗教会議 (邦訳全集3,74頁)で観念性の揶揄の例に使われた。
(カウルバッハはヘーゲルの歴史哲学を意識していたようだ。
ヘーゲル歴史哲学の全8個あるセクションの(中国とインドを除く)後半6個からそれぞれトピックを選んで題材にしている。)

「…カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが現実におこっている。…」大月全集3,74頁

ちなみにフロイトはこの絵(フン族の戦い/匈奴の戦い)を肯定的に引用した。(フロイト「自我とエス」1923)

 《超自我の発生史の教えるところでは、自我とエスの対象備給との早期の葛藤が、その対象備給の遺産で
ある超自我との葛藤として受け継がれることがありうる。(略)フン族の戦闘を描いたカウルバハの絵のように、
より高い領域でつづいている。》
(フロイト著作者6,284頁)


6:51 午後  
Blogger yoji said...

カウルバッハとヘーゲルについては
Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871
Albert Boime2008年9月15日
University of Chicago Press

7:01 午後  
Blogger yoji said...

カウルバッハ作『フン族の戦い』(1834~7頃)
https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Wilhelm_von_Kaulbach_001.jpg

Bruno Bauer und Max Stirner wurden auf Wilhelm Kaulbachs Gemälde Die Hunnenschlacht (1834–1837) von Marx und Engels wiedererkannt.

上の絵はドイツイデオロギー内、ライプツィヒ宗教会議 (邦訳全集3,74頁)で観念性の揶揄の例に使われた。
(カウルバッハはヘーゲルの歴史哲学を意識していたようだ。
ヘーゲル歴史哲学の全8個あるセクションの(中国とインドを除く)後半6個からそれぞれトピックを選んで題材にしている。)

「…カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが現実におこっている。…」大月全集3,74頁

ちなみにフロイトはこの絵(フン族の戦い/匈奴の戦い)を肯定的に引用した。(フロイト「自我とエス」1923)

 《超自我の発生史の教えるところでは、自我とエスの対象備給との早期の葛藤が、その対象備給の遺産で
ある超自我との葛藤として受け継がれることがありうる。(略)フン族の戦闘を描いたカウルバハの絵のように、
より高い領域でつづいている。》
(フロイト著作者6,284頁)


カウルバッハとヘーゲルについてはArt in an Age of Civil Struggle, 1848-1871Albert Boime2008
University of Chicago Press

7:06 午後  
Blogger yoji said...

623 考える名無しさん[] 2019/02/16(土) 12:08:45.96 ID:0
カウルバッハ『フン族の戦い』1834~7年頃作
http://www.bilder-geschichte.de/imgsg/kaulbach-hunnenschlacht.jpg

7:09 午後  
Blogger yoji said...

624 考える名無しさん[] 2019/02/16(土) 12:10:44.18 ID:0
シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまったが、、、
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。

以下、初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)、エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ

《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)

分業を肯定するのは唯物論だが、後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である

7:11 午後  
Blogger yoji said...

この本の内容
「ドイツ・イデオロギー」「哲学の貧困」「コミュニスト宣言」は、同時代の、観念に終始する哲学への批判、心情中心の経済学への批判、および資本主義批判のための実践的宣言文であり、若きマルクスの三つの面貌を鮮やかに浮び上がらせる。
この本の目次
ドイツ・イデオロギー(抄)(ドイツのイデオロギー
イデオロギーの本質
唯物史観の基礎
社会的分業
所有の歴史
コミュニズム―交通形式自身の産出)
哲学の貧困―プルードン氏の『貧困の哲学』への回答(一つの科学的発見
経済学の形而上学)
コミュニスト宣言(ブルジョアとプロレタリア
プロレタリアとコミュニスト
社会主義的な、またコミュニズム的な装いの読み物)
コミュニスト宣言序文(一八七二年のドイツ語版序文
一八八二年のロシア語版序文
一八八三年のドイツ語版序文
一八八八年の英語版序文
一八九〇年のドイツ語版序文
一八九二年のポーランド語版序文
一八九三年のイタリア語版序文)



マルクス・コレクション 2 ─ドイツ・イデオロギー(抄) 哲学の貧困 コミュニスト宣言

カール・マルクス 著 , 今村 仁司 翻訳 , 三島 憲一 翻訳 , 鈴木 直 翻訳 , 塚原 史 翻訳 , 麻生 博之 翻訳
若きマルクスの三つの面貌

収録の三篇は観念に終始する哲学ならびに心情中心の経済学への批判、そして資本主義批判実践の宣言文であり、若きマルクスの三つの面貌を鮮かに浮び上らせる。

マルクス・コレクション 2 ─ドイツ・イデオロギー(抄) 哲学の貧困 コミュニスト宣言
シリーズ:シリーズ・全集
定価:本体3,600円+税
Cコード:0310
整理番号:
刊行日: 2008/03/24
※発売日は地域・書店によって
前後する場合があります
判型:四六判
ページ数:468
ISBN:978-4-480-40112-0
JANコード:9784480401120
在庫 ×
「マルクス・コレクション」特設ページ
全巻を表示
著者について1
著者について2
著者について3
著者について4
著者について5
著者について6
カール・マルクス
カール・マルクス
マルクス,カール
著者に関する情報
マルクス・コレクション 全7冊セット マルクス・コレクション 全7冊セット
マルクス・コレクション 1 ─学位論文・ヘーゲル法哲学批判序説 マルクス・コレクション 1 ─学位論文・ヘーゲル法哲学批判序説
この著作者の本の一覧をみる
この本の内容
「ドイツ・イデオロギー」「哲学の貧困」「コミュニスト宣言」は、同時代の、観念に終始する哲学への批判、心情中心の経済学への批判、および資本主義批判のための実践的宣言文であり、若きマルクスの三つの面貌を鮮やかに浮び上がらせる。

6:48 午後  
Blogger yoji said...

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480401120/

6:48 午後  
Blogger yoji said...

3
第1巻 最近のドイツ哲学―─それの代表者フォイエルバッハ,B.バウアーおよびシュティルナーにおける──の批判 9
まえがき 11
Ⅰ フォイエルバッハ 唯物論的見方と観念論的見方の対立 13
序論 13
A イデオロギー一般,とくにドイツ・イデオロギー 14
1 歴史 23
2 意識の生産について 32
B イデオロギーの現実的土台 46
1 交通と生産力 46
2 所有にたいする国家と権利の関係 57
3 自生的および文明的な生産用具と所有形態 61
C 共産主義──交通形態そのものの生産 66
ライプツィヒ宗教会議 74
Ⅱ 聖ブルーノ 77
1 フォイエルバッハにたいする「討伐行」 77
2 フォイエルバッハとシュティルナーのあいだの闘争にかんする聖ブルーノの考察 86
3 聖ブルーノ対『聖家族』の著者たち 88
4 「M.ヘス」への告別の辞 96
Ⅲ 聖マックス 100
1 唯一者とその所有 101
旧約,人間 103
1 生い立ち〔創世期〕,すなわち一つの生涯 103
2 旧約の経綸 113
3 古代人 119
4 新時代人 129
A 霊(純粋な霊物語) 134
B 憑かれた人々(不純な霊物語) 139
a 化けもの 145
b 妄念 149
C 不純な不純な物語 152
a 黒人と蒙古人 152
b カトリシズムとプロテスタンティズム 161
D ヒエラルヒー 164
5 御自身の構成に御満悦の「シュティルナー」 179
6 自由人 188
A 政治的自由主義 188
B 共産主義 199
C 人道的自由主義 232
新約,「自我」 241
1 新約の経綸 241
2 自己と一致するエゴイストの現象学,あるいは,その正当化の教え 244
3 神学者ヨハネの啓示,あるいは「新しき知恵の論理学」 278
4 固有性 311
5 固有者 328
A 我が力 328
1 正〔法,権利〕 328
A 一般的な聖化 328
B 簡単な対偶式によって我がものとすること 334
C 組み合わされた対偶式によって我がものとすること 337
2 おきて〔法律〕 345
3 犯罪 355
A 犯罪および刑罰の簡単な聖化 356
a 犯罪 356
b 刑罰 358
B 対偶式によって犯罪および刑罰を我がものとすること 360
C 普通の意味での犯罪と通常外の意味での犯罪 363
5 市民社会としての社会 370
2 反逆 403
3 結社 417
1 土地所有 417
2 労働の組織 420
3 貨幣 425
4 国家 430
5 反逆 434
6 結社の宗教と哲学 434
A 所有 435
B 資産 439
C 道徳,交通,利用説 440
D 宗教 447
E 結社への追加 448
C 我が自己享楽 450
6 ソロモンの雅歌,あるいは唯一者 462
2 弁明的注釈 481
ライプツィヒ宗教会議の終結 489
第2巻 ドイツ社会主義─―それのさまざまな予言者たちにおける──の批判 491
真正社会主義 493
Ⅰ 『ライン年誌』あるいは真正社会主義の哲学 496
A 『共産主義,社会主義,人間主義』 496
B 『社会主義の建築石材』 510
第1の建築石材 514
第2の建築石材 517
第3の建築石材 522
Ⅳ カール・グリュン『フランスおよびベルギーにおける社会運動』(ダルムシュタット,1845年)あるいは真正社会主義の歴史的記述 526
サン-シモン主義 534
1 『同時代人にあてたジュネーヴの一住民の手紙』 540
2 『産業者の政治的問答書』 543
3 『新キリスト教』 547
4 サン-シモン学派 548
フーリエ主義 554
「偏狭なカベーおやじ」とグリュン氏 564
プルードン 576
Ⅴ 「ホルシュタイン出のゲオルク・クールマン博士」あるいは真正社会主義の予言 579
〔補録〕

6:49 午後  
Blogger yoji said...



マルクス・コレクション 2 ─ドイツ・イデオロギー(抄) 哲学の貧困 コミュニスト宣言
カール・マルクス 著 , 今村 仁司 翻訳 , 三島 憲一 翻訳 , 鈴木 直 翻訳 , 塚原 史 翻訳 , 麻生 博之 翻訳
若きマルクスの三つの面貌
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480401120/
この本の内容
「ドイツ・イデオロギー」「哲学の貧困」「コミュニスト宣言」は、同時代の、観念に終始する哲学への批判、心情中心の経済学への批判、および資本主義批判のための実践的宣言文であり、若きマルクスの三つの面貌を鮮やかに浮び上がらせる。
この本の目次
ドイツ・イデオロギー(抄)(ドイツのイデオロギー
イデオロギーの本質
唯物史観の基礎
社会的分業
所有の歴史
コミュニズム―交通形式自身の産出)
哲学の貧困―プルードン氏の『貧困の哲学』への回答(一つの科学的発見
経済学の形而上学)




以下大月3

第1巻 最近のドイツ哲学―─それの代表者フォイエルバッハ,B.バウアーおよびシュティルナーにおける──の批判 9
まえがき 11
Ⅰ フォイエルバッハ 唯物論的見方と観念論的見方の対立 13
序論 13
A イデオロギー一般,とくにドイツ・イデオロギー 14
1 歴史 23
2 意識の生産について 32
B イデオロギーの現実的土台 46
1 交通と生産力 46
2 所有にたいする国家と権利の関係 57
3 自生的および文明的な生産用具と所有形態 61
C 共産主義──交通形態そのものの生産 66
ライプツィヒ宗教会議 74
Ⅱ 聖ブルーノ 77
Ⅲ 聖マックス 100
1 唯一者とその所有 101
第3の建築石材 522
Ⅳ カール・グリュン『フランスおよびベルギーにおける社会運動』(ダルムシュタット,1845年)あるいは真正社会主義の歴史的記述 526
サン-シモン主義 534

プルードン 576
Ⅴ 「ホルシュタイン出のゲオルク・クールマン博士」あるいは真正社会主義の予言 579
〔補録〕

6:57 午後  
Blogger yoji said...

870 考える名無しさん[sage] 2021/03/25(木) 10:28:54.61 ID:0
>>869
ME全集(大月書店旧版)第3巻「ドイツイデオロギー」第1章1A一「歴史」

「アドラツキー版の最大の問題点は、「第1章フォイエルバッハ」の諸草稿の配列順序を恣
意的に組み替えて編集したことにある。そのため諸草稿の形成過程に即してマルクス、エ
ンゲルスの思考過程を辿ることは、この面から不可能となった。とはいえ諸草稿の各頁の
改稿過程の再現という点に限れば、アドラツキー版は、リャザーノフ版よりもはるかに多
くオリジナル草稿における抹消や付加を巻末異文目録に掲載している。この点はアドラツ
キー版の優れた点であったが、マルクス、エンゲルスの改稿過程を必ずしも正確に再現し
ていないために、その学術的価値は著しく損なわれている。」
(平子友長氏「マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究」第48号2007年3月)

こういう議論があることは承知しているが、内容が大きく異なるということではなく、MEの思考過程の研究には不向きだという、まさに学術的な議論。
もちろん、君がどう考えるかは自由だが、僕は、内容的にはアドラツキー版(旧ME全集)で問題ないと思っている。

3:18 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」

以下、初期マルクスにおける分業の否定(=資本論との対比)、エンゲルス執筆箇所。マルクスは補足のみ

《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)

幽霊を含めた分業を肯定するのが唯物論
後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した
観念的唯物論の完成である

3:22 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」

以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは補足のみ)。

《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)

幽霊を含めた分業を肯定するのが唯物論。後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した。
観念的唯物論の完成である。

3:24 午前  
Blogger yoji said...



シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」

以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは補足のみ)。

《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)

幽霊を含めた分業を肯定するのが唯物論。後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した。
観念的唯物論の完成である。

3:25 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。
そもそもマルクスの唯物論は外部に唯心論を措定しそれを批判しないと成り立たない相対的なものであるから仕方ない。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」

以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは補足のみ)。

《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)

幽霊を含めた分業を肯定するのが唯物論。後の唯物論研究は幽霊論の吟味すら駆逐した。
観念的唯物論の完成である。

1:34 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。
そもそもマルクスの唯物論は外部に唯心論を措定しそれを批判しないと成り立たない相対的なものであるから仕方ない。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」

1:35 午前  
Blogger yoji said...

以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは補足のみ)。

《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)

このナイーブなエンゲルスの空想を資本論は活かしていない。

1:37 午前  
Blogger yoji said...


「…彼が属している全企業の作業の全系列を見とおせるようにさせること…」
プルードン『経済教程』より
(Cours d'economie,未邦訳,藤田勝次郎『プルードンと現代』72頁より孫引き)

1:41 午前  
Blogger yoji said...

シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。
そもそもマルクスの唯物論は外部に唯心論を措定しそれを批判しないと成り立たない相対的なものであるから仕方ない。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」

以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは補足のみ)。

《共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、
自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、
私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の
世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家に
ならなくともよいのである。》
(マルクス『ドイツイデオロギー』合同出版)

このナイーブなエンゲルスの空想を資本論は活かしていない。

‪《労働者に…彼が属している全企業の作業の全系列を見とおせるようにさせること…私は、これは彼の権利であるといいそえたい。》プルードン『経済教程』より‬
‪(Cours d'economie,未邦訳,藤田勝次郎『プルードンと現代』72頁より,Haubtmann, Pierre-Joseph Proudhon. Sa vie et sa pense p.775)‬

1:53 午前  
Blogger yoji said...

415 考える名無しさん[] 2021/04/07(水) 21:59:45.31 ID:0
佐々木 マルクスの理論には様々な側面があるのですが、マルクスの物象化論についていえば、近代固有の関係がどういうものであるか、それがどういう帰結をもたらすのか、ということがもっとも核心的な話です。
ところが、アカデミックな世界では、そのようなマルクスじしんの問題構成とはまったく無関係に、外からなんらかの哲学や思想をもってきて、その枠からマルクスを再解釈するというような試みがずっとおこなわれてきました。けれども、そのような読み方で読めるほどマルクスはやわな思想、理論ではない。
 廣松渉はその典型ではないでしょうか。たとえば廣松は、実際には地球が公転しているにもかかわらず、あたかも太陽が地球のまわりをまわっているように見えるという現象さえもが「物象化」だといいます。
しかし、それを物象化だといってしまうと、近代固有の関係を把握しようとしたマルクスの物象化論とは全く違ったものになってしまいます。彼はフッサールやハイデガーの哲学的問題構成から左派的なことを考えたかった人で、いわばそれにマルクスを利用しているにすぎません。

斎藤 柄谷行人にしてもまず自分の哲学的枠組みがあって、その価値形態論解釈ではカントの超越論的統覚につなげて一般的等価物を読みかえたりしている。自分の哲学的な関心を押し付けるアプローチの一例です。

7:57 午前  
Blogger yoji said...

416 考える名無しさん[] 2021/04/07(水) 22:01:04.52 ID:0
佐々木 マルクス研究にかぎらず、古典的著作の研究においてはきちんとしたテキストクリティークにもとづいた原典研究をしないと話になりません。その意味では、そもそも廣松や柄谷はあくまで独自の理論や哲学を創造したのであって、マルクス研究とは違うわけですよね。

斎藤 そうですね。たとえば、廣松の『ドイツ・イデオロギー』は基本的にはアドラツキー版の使った解読文をもとにして再編集しただけ。だから裏の紙に書いてある場所とか、コピーにうつっていないところは全部ぬけ落ちているし、執筆順序の検討もできていない。

佐々木 もちろん当時はいろいろな時代的な制約があり、いまほど自由に文献にアクセスできませんでしたし、草稿を直観的に再現しようとした廣松の編集方式は画期的なものであり、あれが全く無意味だというつもりはありません。
しかし、いまはいくらでも文献にアクセスできる時代で、実際に渋谷正のような手稿に依拠した緻密な研究が出てきています。にもかかわらず、いまでも廣松の『ド・イデ』などを金科玉条のように祭りたてるのは、廣松じしんの意思にすら反しているように思います。

7:57 午前  
Blogger yoji said...

佐々木隆治×斎藤幸平 『マルクスとエコロジー』刊行記念対談「マルクスのアクチュアリティ」|堀之内出版ブログ(公式)|note 2018
https://note.com/horipub/n/n81771f5788bf

7:59 午前  
Blogger yoji said...

ドイツ・イデオロギー | マルクス, カール, エンゲルス, フリードリヒ, Marx, karl, Engels, Friedrich, 正, 渋谷 |本 | 通販 | Amazon
https://www.amazon.co.jp/ドイツ・イデオロギー-カール-マルクス/dp/440602591X

1998
説明
内容(「BOOK」データベースより)
科学的社会主義研究に礎石を与える画期的な新テキスト。膨大な抹消部分を含む『ドイツ・イデオロギー』草稿の克明な調査・研究によって成し遂げられた、初の完全編集邦訳。マルクス、エンゲルスによる錯綜した記載状態を正確に再現。詳細な注解、草稿編集と「フォイエルバッハ」章成立に関わる学術的解題を別巻とし、科学的社会主義の思想形成過程を追跡する。
内容(「MARC」データベースより)
マルクス・エンゲルスによる錯綜した記載状態を正確に再現した、初の完全編集邦訳。詳細な注解、草稿編集と「フォイエルバッハ」章成立に関わる学術的解題を別巻とし、科学的社会主義の思想形成過程を追跡する。

8:03 午前  
Blogger yoji said...


《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)

8:01 午後  
Blogger yoji said...



シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。それは渋谷正版も同じである。
そもそもマルクスの唯物論は外部に唯心論を措定しそれを批判しないと成り立たない相対的なものであるから仕方ない。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらした
といってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の
総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。
その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。
《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。」


以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは批評云々部分の補足のみ)。



《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)


このナイーブなエンゲルスの空想を資本論は活かしていない。唯物論的に生かしているのはプルードンである。

‪《労働者に…彼が属している全企業の作業の全系列を見とおせるようにさせること…私は、これは彼の権利であるといいそえたい。》
プルードン『経済教程』より‬
‪(Cours d'economie,未邦訳,藤田勝次郎『プルードンと現代』72頁より,Haubtmann, Pierre-Joseph Proudhon. Sa vie et sa pense p.775)‬

8:04 午後  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダ(『マルクスの亡霊』)に連なる幽霊学みたいなものがある。
廣松のドイデではその辺がまるまるカットされてしまった。だから功罪両面ある。それは渋谷正版も同じである。
そもそもマルクスの唯物論は外部に唯心論を措定しそれを批判しないと成り立たない相対的なものであるから仕方ない。
訳書としては合同出版版がいいが全編を収めた邦訳全集第3巻が必須である。
シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた。

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5
「実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる
批判が決定的に働いたことは明らかである。


以下、ドイツ・イデオロギーにおけるエンゲルス執筆箇所(マルクスは批評云々部分の補足のみ)。



《各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を
発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、
まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるという
ようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝
には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするという
ことができるようになる。》
(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』渋谷正訳、岩波文庫版)


このナイーブなエンゲルスの空想を資本論は活かしていない。唯物論的に生かしているのはプルードンである。

‪《労働者に…彼が属している全企業の作業の全系列を見とおせるようにさせること…私は、これは彼の権利であるといいそえたい。》
プルードン『経済教程』より‬
‪(Cours d'economie,未邦訳,藤田勝次郎『プルードンと現代』72頁より,Haubtmann, Pierre-Joseph Proudhon. Sa vie et sa pense p.775)‬

8:06 午後  
Blogger yoji said...


カウルバッハ作『フン族の戦い』(1834~7頃)
https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Wilhelm_von_Kaulbach_001.jpg

Bruno Bauer und Max Stirner wurden auf Wilhelm Kaulbachs Gemälde Die Hunnenschlacht (1834–1837) von Marx und Engels wiedererkannt.

上の絵はドイツイデオロギー内、ライプツィヒ宗教会議 (邦訳全集3,74頁)で観念性の揶揄の例に使われた。
(カウルバッハはヘーゲルの歴史哲学を意識していたようだ。
ヘーゲル歴史哲学の全8個あるセクションの(中国とインドを除く)後半6個からそれぞれトピックを選んで題材にしている。)

「…カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが現実におこっている。…」大月全集3,74頁

ちなみにフロイトはこの絵(フン族の戦い/匈奴の戦い)を肯定的に引用した。(フロイト「自我とエス」1923)

 《超自我の発生史の教えるところでは、自我とエスの対象備給との早期の葛藤が、その対象備給の遺産で
ある超自我との葛藤として受け継がれることがありうる。(略)フン族の戦闘を描いたカウルバハの絵のように、
より高い領域でつづいている。》
(フロイト著作者6,284頁)


カウルバッハとヘーゲルについてはArt in an Age of Civil Struggle, 1848-1871Albert Boime2008
University of Chicago Press

8:08 午後  

コメントを投稿

<< Home