http://www.freeassociations.org/
NAMs出版プロジェクト: 権力への意志
http://nam-students.blogspot.jp/2016/10/blog-post_26.html
四七七 (673─74)
主は内的世界についてもその現象性を固執する。すなわち、私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている
(内省と遡行9頁163頁)
四九〇 (473─74)
主観を一つだけ想定する必然性はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい、それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている「諸細胞」の一種の貴族政治? もちろん、たがいに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?
(『内省と遡行』「序説」16頁、「言語・数・貨幣 第1章」164頁に引用、
『日本近代文学の起源』126頁#3告白という制度でも引用)
四九二 (475) 肉体と生理学とに出発点をとること。なぜか? ──私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(「霊魂」や「生命力」ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、「主観」は永遠的なものではないということに関しても同様である。…主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、偽って解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである。
(『日本近代文学の起源』127頁#3告白という制度で引用)
同ヶ所
492
主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことである[が、その危険は、おのれを、偽って解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。]それゆえ私たちは肉体に問いたずねる[のであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである。 ]
(内省と遡行9頁163頁)近代文学の起源127頁#3「主観~である。」
五一八 (500─501)
私たちの「自我」が、私たちにとっては、私たちがそれにしたがってすべての存在をつくりあげたり理解する唯一の存在であるなら、それもまことに結構! そのときには、或る遠近法的幻想が──一つの地平線のうちへのごとく、すべてのものをそのうちへとひとまとめに閉じこめてしまう見せかけの統一が、ここにはあるのではなかろうかとの疑問がとうぜんおこってくる。肉体を手引きとすれば巨大な多様性が明らかとなるのであり、はるかに研究しやすい豊富な現象を貧弱な現象の理解のための手引きとして利用するということは、方法的に許されていることである。(結局、すべてのものが生成であるとすれば、認識は存在を信ずることにもとづいてのみ可能である。)
(内省と遡行15~6頁164頁)
586c
この現世が「仮象」の世界で、あの世が「真」の世界であるとみなされるということが、或る症候のあらわれである。
「別の世界」という表象の発生地は、すなわち、 哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では理性と論理的機能がふさわしい、──ここから「真」の世界が由来する。
(『哲学の起源』120頁 柄谷行人 岩波書店2012.11)
一〇四一 (834─35) 「然り」への私の新しい道。──私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生在の憎むべき厭うべき側面をもみずからすすんで探究することである。…
「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」──これが私には本来の価値尺度となった。…
この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する──あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで──…
このことにあたえた私の定式が運命愛である。
(『トランスクリティーク』定本版186頁)
参考:
NAMs出版プロジェクト: 定本柄谷行人集(付『世界共和国へ』『NAM原理』)総合索引
http://nam-students.blogspot.jp/2006/05/nam_31.html#5
─────────────
帝国の構造35頁では、ニーチェは交換様式ACの区別をしていないと批判されている。
《彼は道徳性を経済的なものから説明しようとした最初の人物です 。もっとも 、ニ ーチェには 、互酬交換 (交換様式 A )と売買 (交換様式 C )の区別がなかったことを見落としてはならない 。》
『権力への意志』,❶J.126-7@/❸T.186@☆/P.119,120@☆☆
J:『日本近代文学の起源』
T:『トランスクリティーク』定本版
P:『哲学の起源』 柄谷行人 岩波書店2012.11
☆
一〇四一 (834─35) 「然り」への私の新しい道。──私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生在の憎むべき厭うべき側面をもみずからすすんで探究することである。…
「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」──これが私には本来の価値尺度となった。…
この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する──あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで──…
このことにあたえた私の定式が運命愛である。
☆☆
586c
この現世が「仮象」の世界で、あの世が「真」の世界であるとみなされるということが、或る症候のあらわれである。
「別の世界」という表象の発生地は、すなわち、 哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では理性と論理的機能がふさわしい、──ここから「真」の世界が由来する。
____
『権力への意志』,❶J.126-7@/❸T.186@
『哲学の起源』 柄谷行人 岩波書店2012.11
ニーチェ『権力への意志』,119,120@
権力への意志1066
《ウィリアム・トムソンがそれから引きだした或る終局状態という帰結》
差異と反復でドゥルーズが言及
参考:
NAMs出版プロジェクト: ニーチェ:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_5.html
ニーチェ著、原佑訳 『権力への意志』上下巻、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年。
筑摩書房 ニーチェ全集12 権力の意志(上) ─権力の意志(上) / フリードリッヒ・ニーチェ 著, 原 佑 著
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080820/筑摩書房 ニーチェ全集13 権力の意志(下) ─権力の意志(下) / フリードリッヒ・ニーチェ 著, 原 佑 著
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080837/第3書 新しい価値定立の原理(認識としての権力への意志
自然における権力への意志
社会および個人としての権力への意志
芸術としての権力への意志)
第4書 訓育と育成(階序
ディオニュソス
永遠回帰)
ワイド版世界と大思想 第3期 〈9〉ニーチェ (1972,2005,2013)
権力への意志
原佑訳
目 次
◆序 言
第一書 ヨーロッパのニヒリズム
◆計 画
Ⅰ ニヒリズム
1 生存のこれまでの価値解釈の帰結としてのニヒリズム
2 ニヒリズムのその他の諸原因
3 デカダンスの表現としてのニヒリズムの運動
4 危機。ニヒリズムと回帰思想
Ⅱ ヨーロッパのニヒリズムの歴史
a) 現代の暗鬱化
b) 最近の数世紀
c) 強化の諸徴候
第二書 これまでの最高価値の批判
Ⅰ 宗教の批判
1 宗教の発生
2 キリスト教の歴史
3 キリスト教的諸理想
Ⅱ 道徳の批判
1 道徳的価値評価の由来
2 畜 群
3 道徳主義的なもの一般
4 いかにして徳は支配的となるにいたるかの問題
5 道徳的理想
A 理想の批判
B 「善人」、聖者などの批判
C いわゆる悪しき固有性の誹謗について
D 改善、完成、向上という言葉の批判
6 道徳の批判への結論的考察
Ⅲ 哲学の批判
1 一般的考察
2 ギリシア哲学の批判
3 哲学者の真理と誤謬
4 哲学の批判への結論的考察
第三書 新しい価値定立の原理
Ⅰ 認識としての権力への意志
a) 研究の方法
b) 認識論的出発点
c) 「自我」によせる信仰。主観
d) 認識衝動の生物学。遠近法主義
e) 理性と論理学の発生
f) 意 識
g) 判断。真─偽
h) 因果論への反対
i) 物自体と現象
k) 形而上学的欲求
l) 認識の生物学的価値
m) 科 学
Ⅱ 自然における権力への意志
1 機械論的世界解釈
2 生としての権力への意志
a) 有機的過程
b) 人 間
3 権力への意志および価値の理論
Ⅲ 社会および個人としての権力への意志
1 社会と国家
2 個 人
Ⅳ 芸術としての権力への意志
第四書 訓育と育成
Ⅰ 階 序
1 階序の教え
2 強者と弱者
3 高貴な人間
4 大地の主たち
5 偉大な人間
6 未来の立法者としての最高の人間
Ⅱ ディオニュソス
Ⅲ 永遠回帰
◆解 題
◆解 説 信太正三
◆シュレヒタ版配列表
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_20.html
力への意志 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/力への意志力への意志(ちからへのいし、英:Will to Power、独:Wille zur Macht)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの後期著作に登場する、突出した哲学的概念のひとつである。
力への意志は、ニーチェの考えによれば人間を動かす根源的な動機である: 達成、野心、「生きている間に、できるかぎり最も良い所へ昇りつめよう」とする努力、これらはすべて力への意思の表れである。本人の著作では、「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」[1]と表現される思想である。ニーチェの著作と言われる『権力への意志』は、ニーチェの死後に遺稿を元に妹のエリーザベトが編集出版したものである。
直接の影響を受けたのはアルフレッド・アドラーである。アドラー心理学には力への意思の概念が反映されている。 これはウィーンの他の心理療法学派と対照的である。それらにはジークムント・フロイトの快楽原則(快楽への意思)、ヴィクトール・フランクルのロゴセラピー(意味への意思)などがある。それぞれは、人の根源的な動機を別々に定義している。
この言葉が公刊された著書に初めて出てくるのは『ツァラトゥストラはこう語った』第2部「自己超克」の章である [2]。 そこでニーチェは、「賢者」たちが全ての物事を思考可能なものにしようとする「真理への意志」の正体が、一切を精神に服従させようとする「力への意志」であると批判している[3]。すなわち、力への意志はルサンチマンと当初密接な関係があり、否定的なものとして記されていた。しかしやがてニーチェは力への意志を肯定的な概念としてとらえ直す。あえて積極的にニヒリズムを肯定し、ニヒリズムを克服することが力への意志となり得るのである。
力への意志は権力への意志と訳されることもあるが、力への意志の「力」は、人間が他者を支配するためのいわゆる権力のみを指すのではない。また「意志」は、個人の中に主体的に起きる感情のみを指すのではない[4]。力への意志は自然現象を含めたあらゆる物事のなかでせめぎあっている[5]。力への意志の拮抗が、あらゆる物事の形、配置、運動を決めている。つまり、真理は不変のロゴスとして存在するものではなく、力への意志によりその都度産み出されていくものなのである。この思想はジル・ドゥルーズの差異の哲学に受け継がれた[6]。
また永井均はこの概念を指して、「力への意志」というよりは「力=意志説」と呼んだほうが良いと書いている。[7]
ニーチェは、キリスト教主義、ルサンチマン的価値評価、形而上学的価値といったロゴス的なものは、「現にここにある生」から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、力への意志によって流転する価値を承認し続けなければならない悲劇的存在であるとする。だが、そういった認識に達することは、既存の価値から離れ、自由なる精神を獲得することを意味する。それは超人へ至る条件でもある[8]。
力への意志という概念はナチスに利用されたが、ニーチェの哲学を曲解したものとする見方がある[8]。
ニーチェは『力への意志』を著すために多くの草稿を残したが、本人の手による完成には至らなかった。ニーチェの死後、これらの草稿が妹のエリーザベトによって編纂され、同名の著書として出版された[9]。 ただし、力への意志という言葉は『ツァラトゥストラはこう語った』や『人間的な、あまりにも人間的な』の中でも登場し、その概念をうかがい知ることができる。このことは、「力への意志」という主題がニーチェにとって著作としてまとまったものになるほど成長することはついになかったということであり、言ってみれば、ニーチェはその偽悪的なポーズにも関わらず、彼のファナチックな読者たちよりもずっと慎重な性格だったということである。
著作としての『力への意志』は「ニーチェの意志」ではないという当然の評価は、第二次世界大戦でのナチスドイツ敗北後に、ハンザー社の『ニーチェ三巻著作集』で編集者シュレヒタが同著作を『八十年代の遺稿から』というアフォリズム集に編集解体して初めて認知された。それまでは、ナチス時代を通じ『権力への意志』こそがニーチェの理論的主著であるというのが通念だったのである。
____
「人間と世界が、〈と〉という小さな語の崇高な意図によって分かたれながら隣り合っているの
を見るだけで、私たちは爆笑する。」
Nietzsche, Le Gai Savoir , V, 346〔ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、ちくま学芸文庫、
1993、376−378ページ〕
ドゥルーズガタリがAO2:6で引用
上のニーチェの言葉はゴダールが企画書でドゥルーズガタリ経由で引用
Moi Je , projet de film (1973)
Jean-Luc Godard, documents p.199,215,219
ニーチェ『権力への意志』を解読する(1) | Philosophy Guides
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nietzsche-wille-zur-macht-1/
ニーチェ『権力への意志』を解読する(2) | Philosophy Guides
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nietzsche-wille-zur-macht-2/
以下引用、
最後にニーチェの永遠回帰(永劫回帰)についても触れておこう。
永遠回帰とだけ聞くと何だかアヤシイ。しかしポイントはシンプルだ。そしてこれを押さえておくことは、ニーチェの思想を受け取るにあたってとても重要だ。なぜならこの直観こそ、それまでの価値体系を支配していたキリスト教的世界観に変わる新たな世界観として考え出されたものだからだ。
ニーチェはこれをイメージや物語としてではなく、エネルギー保存の法則(熱力学第一法則)を手がかりとすることで、誰もが納得せざるをえないものとして示そうとした。その意味で永遠回帰は、仏教の輪廻転生とは本質的に異なるものだ。
ニーチェは次のように言う。
世界を次のようなものとして捉えてみよう。それは無限に反復されてきた力であり、これからも無限に繰り返し続ける円環運動だ。それは創造されたこともなければ、終末を迎えることもない、と。
そのように考えるのが許されるなら(しかもそれはエネルギー保存の法則によって“要請”されている)、私たちはすでにどのような瞬間も何度も経験してきたのだと考えることもことが出来るはずだ。
無限の時間のうちではあらゆる可能な結合関係がいつかはいちど達成されていたはずである。それのみではない、それらは無限回達成されていたはずである。
永遠回帰する世界には「救い」がない。苦悩は一度経験されるだけでなく、無限に経験されるからだ。しかし苦悩だけではない。もし一生のうち一度でも快や美や幸福を感じたことがあれば(そうでない人が果たしているだろうか?)、それもまた無限に反復される。
つまり無限性の観点から見れば、苦悩も快楽も、ともに等しく経験されることになる。苦悩が99.9999…%あっても、幸福が0.000…1%あれば、無限性の観点からすればどちらも∞であるからだ。
そうした世界こそ、私の哲学が肯定するものだ。私の哲学はニヒリズムを前提する。しかしだからといって私は生を否定することを目的とするわけではない。あるがままの生を「然り」と肯定すること、たとえ生が欺瞞にあふれているとしても、その生を是認すること。このディオニュソス的肯定こそ、私の哲学の目がけるところに他ならない。
私の生きぬくがごときそうした実験哲学は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する—あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで—、それは永遠の円環運動を欲する、—すなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということ—、このことにあたえた私の定式が運命愛である。
_____
http://www.geocities.jp/jbgsg639/sutta.html
ニーチェの読んだ『スッタニパータ』は、
Sutta Nipata by M. Coomaraswamy
Keywords: Buddhism; Pali; Canon; Tipitaka; Tripitaka; Khuddaka; Nikaya; Sutta; Nipata; translation Pages: 187
http://static.sirimangalo.org/pdf/coomaraswamysuttanipata.pdf
キリスト教は邪教です!―現代語訳『アンチクリスト』 ニーチェ,フリードリッヒ・ヴィルヘルム(著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062723123.html
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fea0ef6ba775f66d31871dd9fffa3107
19世紀ドイツの哲学者ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳
『仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。仏教のよいところは
「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っているところです。・・・そういう意味では
仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいで
しょう。』
『仏教が注意しているのは、次の二つです。
一つは、感受性をあまりにも敏感にするということ。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、
苦しみを受けやすくなってしまうからです。そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的な
ものとして考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中に
ずっといること。そうすると、人間は人格的におかしくなっていくのです。』
『仏教は良い意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。
ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほ
がらかな世界へ連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。
キリスト教は野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによって
です。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、文明化させるための、キリスト教的
処方箋なのです』
《僕はシュマイツナーの友人ヴィーデマン氏から、仏教徒たちの聖典heiligen Buchernの
ひとつとかいう『スッタ・ニパータ』の英語の本を借りた。そして『スッタ』の確乎たる
結句のひと つを、つまり「犀の角ように、ただ独り歩め」という言葉を僕はもうふだんの
用語にしているのだ。生の無価値とすべての目標の虚偽とにたいする確信が、しきりと、
ときには僕の心に迫 ってくるのだ、ことに病気でベッドに寝ているときなどにはね。
それで僕は『スッタ』からもっと多くのことを聞きとろうとしているのだ、ユダヤ=キリスト
教的な言い回しと結びつけないで ね。
――(三行略)――
生に執着してはいけないということ、これは明白なことなのだ。だが、実際にもうなに
ものも意志しないということになったら、どこで僕たちは生に耐えていけるのだろうか?
認識せんと 意志することは、生の意志の最後の領域として、意志することと、もはや意志
しないことの、つまり煉獄の領域と涅槃の領域の中間地帯として、残されているように僕は
思うのだ。一方 には、不満を覚え、軽蔑しながら生をふりかえるかぎり、煉獄があり、
他方には、精神(ゼーレ)が生によって純粋観照の状態に近づくかぎり、涅槃があるのだ。》
(理想社ニーチェ全集第十五巻「書簡集Ⅰ」塚越敏訳)
10 Comments:
ニーチェにとって、永劫回帰とは、けっして内面化も一般化もしえない個別性(単独性)の反復であり、それはいわば固有名を取り返すことなのだ。
柄谷定本5・217頁
柄谷行人とプルードン : 関本洋司のブログ
http://yojiseki.exblog.jp/9320919/
柄谷行人とプルードン
柄谷行人は「群像」誌上における『探究3』の連載を単行本化する際に、プルードンへの考察を取り入れた(『トランスクリティーク』のアナーキストと最終章における考察)。
だが重要なのは、それ以前の『探究2』でスピノザを論ずるなかで得た結論と、プルードンの見解が一致するということだ。
プルードンは以下のようにいう。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳。斉藤悦則氏のHPより)
http://www.minc.ne.jp/~saito-/travaux/vive.htmlhttp://www.exblog.jp/myblog/entry/edit/?eid=a0024841&srl=9320919#
これらは以下の柄谷の考察と同じだ。
<コジェーヴは、ヘーゲルの哲学を超越することはできないといった。《ヘーゲルの言説は思惟のすぺての可能性を汲み尽くしている。ゆえに彼の言説の一部を成していないような言説を、全体の契機として体系の一節に再現されていないような言説を彼の言説に対立させることは不可能であるしたがって、「弁証法的に揚棄され」うる「定立」ではないという意味では、この言説が弁証法的でないことが理解される》(『ヘーゲル哲学入門』上妻棉・今野雅方訳、国文社p275)。(略)要するに、ヘーゲルを超越しようとすることがまちがいなのだ。なぜなら、ヘーゲルの哲学はいわば超越の哲学であり、それを完結したものだからである。マルクスがやったのは「超越」の不可能性を示すことだ。そして、マルクス以前にスピノザはそれを示している。それは「無限」の観念によって可能なのである。>
(『探究2』、単行本p151-152、文庫p177)
<だが、シュレーゲル的な戯れを拒み、さらにヘーゲル的な和解を拒むとき、何が可能だろうか。(略)ニーチェにとって、永劫回帰とは、決して内面化も一般化もしえない個別性(単独性)の反復であり、それはいわば固有名を取り返すことなのだ。>
(定本第5巻p216-217)
ちなみに後者の引用に出てくるニーチェはスピノザの影響を受けている(「善悪の彼岸」なることばはニーチェがスピノザを読んだ後の覚え書きにある言葉であり、実際『エチカ』第4部定理68*に同様の言葉がある。また、マルクスの『資本論』におけるプルードンに対する執拗な批判も、貨幣を揚棄されて得た概念とするマルクスに対して、貨幣を設計可能なものとするプルードン=ゲゼル的思考を際立たせるものとしてあることに思い当たる。)
柄谷のプルードンに関する直接的な言及も重要だが、これらの考察こそ柄谷の可能性の中心と言えるものではないだろうか?
マルクスの認識にカントの倫理を組み入れたのが柄谷のアソシエーション論だとするなら、プルードンはそれを先取りしていたのである。そのことは柄谷のスピノザ論を見ることで論理的に明確になると思う。
*注:
スピノザ『エチカ』第四部には以下のようにある。なお後半部のモーゼをめぐる考察は柄谷の「抑圧されたものの回帰」等、フロイト(『探究2』単行本p159ではスピノザとの同種性が第5部定理3=<受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成れば、ただちに受動の感情でなくなる。>から導かれる)をめぐる言説にも直接関係してくる内容である。
「 定理六八 もし人々が自由なものとして生まれたとしたら、彼らは自由である間は善悪の概念を形成しなかったであろう。
証明 私は理性のみに導かれる人を自由であると言った。そこで自由なものとして生まれかつ自由なものにとどまる人は妥当な観念しか有しない。またそのゆえに何ら悪の概念を有しない(この部の定理六四の系により)。したがってまた善の概念をも有しない(善と悪とは相関的概念であるから)。Q・E・D・
備考 この定理の仮定が誤りであること、そしてそれは人間本性だけを眼中に置く限りにおいてのみ、あるいはむしろ、無限なものとしての神ではなく、単に人間の存在の原因にすぎない神を眼中に置く限りにおいてのみ、考えられるのだということは、この部の定理四から明らかである。
このことや我々のすでに証明したその他のことどもは、モーゼが最初の人間に関するあの物語の中で暗示しているように見える。すなわちその物語の中では、人間を創造したあの能力、言いかえれば人間の利益のみを考慮したあの能力、以外のいかなる神の能力も考えられていない。そしてこの考え方にそって次のことが物語られている。すなわち神は自由な人間に対して善悪の認識の木の実を食うことを禁じた、そして人間はそれを食うや否や生を欲するよりもむしろ死を恐れた、それから人間は自己の本性とまったく一致する女性を発見した時、自然の中に自分にとって彼女より有益な何ものも存しえないことを認めた、しかし彼は動物が自分と同類であると思ってからはただちに動物の感情を模倣(第三部定理二七を見よ)して自分の自由を失い始めた。この失われた自由を、族長たちが、そのあとでキリストの精神、すなわち神の観念 〜 神の観念は人間が自由になるための、また前に証明したように(この部の定理三七により)人間が自分に欲する善を他の人々のためにも欲するようになるための、唯一の基礎である 〜 に導かれて再び回復したのであった。」(畠中尚志訳。岩波文庫より)
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ニーチェ『道徳の系譜』への言及は『ニーチェと哲学』3:7
否定的ニヒリズム(ユダヤ、キリスト教)
↓
反動的ニヒリズム(ヨーロッパ)
↓
受動的ニヒリズム(仏教)
(『ニーチェと哲学』5:3、ニーチェ『権力への意思』23より)
キリスト個人は仏教に位置付けられる(『アンチクライスト』参照)。
『ニーチェの哲学』1962「とは何か?」→「誰?」(邦訳単行本116,280頁)
↓
『差異と反復』1968、ドラマ化
↓
『A.O』1972、機械
《…ニーチェとカントとの関係は、マルクスとヘーゲルとの関係と同じである。》
(『ニーチェと哲学』3.7:133頁)
第十三章 ヨーロッパの龍樹
http://www.ni-club.net/panietzsche/2nietzsche-2/inf13/inf6.cgi?mode=main&no=16
諦念の人。──諦念の人とはどんなことをするか?彼はより高い世界をめざして努力する、あらゆる肯定の人間たちよりも一そう遥かに一そう遠く一そう高く飛翔しようと欲する。──この飛翔を重くするような幾多のものを彼は投げすてる、そのなかには彼にとって無価値ではないし気に入らぬでもない多くのものがふくまれている。彼はそれを高きへ飛ぼうとする熱望のため犠牲にするのだ。この犠牲、この放擲こそまさに、彼の目立って見える唯一のものである。それがためにひとびとは諦念の人という名を彼にあたえる。このような者として彼は、頭巾つき法衣に身を包んだ換毛自在な精神のように、われわれの前に立つ。彼がわれわれに与えるこの印象に、おそらくきっと彼は満足しているであろう。彼は、われわれを超えて飛翔し去ろうとする自分の熱望・誇り・意図を、われわれの目に見えないようにしておこうとする。──そうだ!彼はわれわれの思ったより遥かに賢く、そのうえわれわれに対してははなはだ丁寧である──この肯定の人間は!というのは、彼は諦念をいだきながらもわれわれと同じく肯定の人間だから。(悦ばしき知識 第27番)
犠牲としてのペシミスト。──生存に関わる根深い不快感が蔓延するとことでは、一民族が長期にわたって犯してきた食養法上の誤りの諸影響が明るみにでる。そのように仏教の伝播(その成立ではなく)は、大部分のインド人の過度の、ほとんどそれだけを主食と、それが原因となって生じた一般的な無気力とに、よるものである。(悦ばしき知識 第134番)
仏教とキリスト教という二つの世界の発生原因、なかんずくその急激な伝播の原因は、法外な意志の病化のうちにあったかもしれないということが、推測されるであろう。そして、事実そのとおりであった。(悦ばしき知識 第347番)
神との神秘的合一を願うのは、仏教とが無へ、涅槃へ行きつこうとする願いと同じものなのだ。(道徳の系譜 第一論文 第6番)
キリスト教をこのように断罪したからといって、私がこれに似た一つの宗教、信者の数ではキリスト教を凌いでさえいる宗教、すなわち、仏教に対し、不当な仕打ちをしたと思われては不本意である。両者はニヒリズムの宗教としては同類であろう。──ともにデカダンスの宗教である──が、まことにきわだった仕方において互いに袂を分かっている。今、この両者の比較対照が可能であることに対し、キリスト教の批判者は、インドの学者に深く感謝している。──仏教は、キリスト教に比べ百倍も現実主義的だ。──仏教は、問題を客観的に、冷静に提出する者からの遺産を身につけている。仏教は、幾百年とつづいた哲学運動の後に出現しているのだ。「神」という概念は、出現当時すでに、始末がついている。仏教は、歴史がわれわれに示してくれる唯一の、真に実証主義的な宗教だ。(アンチクリスト 第20番)
ヨーロッパは仏教を受け入れるまでにはまだまだ成熟していない(力への意志 第22番)
仏教対「十字架にかけられた者」。──ニヒリズム的宗教の内部でもキリスト教のそれと仏教のそれとはいぜんとして鋭く区別される必要がある。仏教のニヒリズム的宗教は、美しい夕を完結した甘美や柔和を表現する、──それは、おのれに欠けたもの、すなわち、辛辣さ、幻滅、怨恨をふくめてのおのれが背後にしたすべてのものに対する感謝であり、──結局は高い精神的な愛である。哲学的矛盾をみがきあげることなど仏教の背後にしてしまったものであり、それにもわずらわされず安息してはいるが、しかし仏教は、その精神的栄光と落日の燿光をやはりこのものからえたのである。(──最上層階級からの血統──。)(力への意志 第154番)
キリスト教の心理学的問題によせて。──駆りたてる力は残されている。それはルサンチマン、民衆の反逆、出来そこない者どもの反逆である。(仏教の場合はこれと異なる。仏教はルサンチマン運動から生まれたのではない。仏教は、ルサンチマンが行為へとかりたてるがゆえに、このものと戦う。)(力への意志 第179番)
おそらく仏教徒の最も骨折ったのは、敵対感情の気力をくじき、それを弱体化せしめることであったであろう。ルサンチマンに対する闘争がほとんど仏教徒の第一の課題であると思われる。(力への意志 第204番)
仏教が実在性一般を否定したのは(仮象=苦悩)完全に首尾一貫している。すなわち、「世界自体」が、証明されず、到達されえず、範疇を欠くとされているのみならず、このものの全概要を獲得せしめる手続きが誤っていることが洞察されている。「絶対的実在性」、「存在自体」は、一つの矛盾なのである。生成の世界においては「実在性」とは、つねに、実践的目的のための単純化であるか、機関の粗雑さにもとづく迷妄であるが、生成のテンポにおける差異性であるかにすぎない。論理的に世界を否定してニヒリズムにおちいるのは、私たちが存在を非存在に対立せしめざるをえず、「生成」という概念が否認されることからの帰結である。(「何ものか」が生成する。)(力への意志 第580番)
成熟…はアンチクライスト
「キリスト教は邪教です」(講談社+α文庫)を読んで - 住職のひとりごと
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fea0ef6ba775f66d31871dd9fffa3107
19世紀ドイツの哲学者ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳です。これまで哲学書と言えば難しい哲学用語のオンパレードで、なかなか最後まで読破するのに骨が折れたものですが、この本はとっても分かりやすく、ほんの3時間もあればじっくりと読めてしまう作品。
「名著、現代に復活、世界を滅ぼす一神教の恐怖」と帯にある。アメリカ大統領の演説などにさりげなく神という言葉が使われるように、他を認めない唯一の神への信仰が国際間の紛争に利用されていることを意識した復刻なのであろう。
題名も目を引くが、帯の背表紙には「仏教のすばらしさを発見」とある。読んでみるとニーチェは仏教を絶賛している。仏教ほど理知的で現実に正面から向き合っている宗教はない。真に幸福のための具体的な道しるべを示し、実行しているという。
ニーチェはこの著作の中で、仏教の素晴らしいところをこう記している。『仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。仏教のよいところは「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っているところです。・・・そういう意味では仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいでしょう。』
そして仏教が注意していることを二つあげています。『一つは感受性をあまりに敏感にすること』『もう一つは、何でもかんでも精神的なものと考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中にずっといること』
仏教は様々なことに気づくことを教えてはいるが、そこで終わり、その先にあれこれ考えない、つまりそこから怨み、ねたみ、おごり、怒りを高じさせないことを大事にしている。また、あまりに頭だけで考えることも推奨していない。修行実践が大切だと教えられている。この辺りのことをニーチェは指摘しているのだと思われる。
また『重要なのは、仏教が上流階級や知識階級から生まれたことです。仏教では、心の晴れやかさ、静けさ、無欲といったものが最高の目標になりました。そして大切なことは、そういった目標は達成されるためにあり、そして実際に達成されるということです。そもそも仏教は、完全なものを目指して猛烈に突き進んでいくタイプの宗教ではありません。普段の状態が、宗教的にも完全なのです』
『ところがキリスト教の場合は、負けた者やおさえつけられてきた者たちの不満がその土台となっています。つまり、キリスト教は最下層民の宗教なのです。・・・キリスト教では最高の目標に達することは絶対に出来ない仕組みになっているのです』
『仏教は良い意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほがらかな世界へ連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。
キリスト教は野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによってです。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、文明化させるための、キリスト教的処方箋なのです』
まだまだ引用したい部分が沢山あるがこの辺りに留めておきたい。あまりに的確な指摘をされているのではないかと思う。世界にもたらされている現代の様々な紛争の原因がどのあたりに隠されているのかもこの著作から伺われる。実に示唆に富んだ名著である。ぜひ読んでみられることをお勧めする。
ところで、私は何もキリスト教をここで断罪する気は毛頭無い。それよりも実は、現実には私たちの仏教がキリスト教化してはいないかと懸念しているのだ。信仰ばかりを語ってはいまいか。読経、写経もよいがニーチェの唱える仏教の本来あるべき姿勢、論理的に冷静にものを考える伝統をおろそかにしてはいないか。
教えの何たるかも知らせずに、ただ手を合わすことばかりを強要してはいないかと問いたい。ニーチェは、ものを信じ込む人は価値を判断することが出来ず、外のことも自分のことも分からず牢屋に入っているのと同じだとも指摘する。
ニーチェの時代にはヨーロッパに仏教は浸透していなかったであろう。しかし現代のヨーロッパには、沢山の仏教信奉者がいて僧団を供養し真剣に学び修養に励む人々か少なからず居る。私たち日本人は仏教徒という意識も希薄で、この本の訳者(適菜収氏)も指摘しているが、誰もが知らず知らずのうちにキリスト教的考え方、行動パターンの中に巻き込まれているのではないかとも危惧する。
自己の価値観を他に押しつけて、恩をきせ利益を貪るということの愚かな行為を、ただ称賛したり羨望するのではなく、「やはりそれはおかしいだろ、そんなことしてたら地獄行きだよ」という昔の日本人が普通に持っていた素直な感情、正論を取り戻したい。ニーチェも指摘するように仏教は万民の肉体的精神的健康を目指す教えなのだから。
「キリスト教は邪教です」(講談社+α文庫)を読んで - 住職のひとりごと
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fea0ef6ba775f66d31871dd9fffa3107
19世紀ドイツの哲学者ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳
『仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。仏教のよいところは「問題
は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っているところです。・・・そういう意味では
仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいで
しょう。』
そして仏教が注意していることを二つあげています。『一つは感受性をあまりに敏感に
すること』『もう一つは、何でもかんでも精神的なものと考えたり、難しい概念を使っ
たり、論理的な考え方ばかりしている世界の中にずっといること』
『重要なのは、仏教が上流階級や知識階級から生まれたことです。仏教では、心の
晴れやかさ、静けさ、無欲といったものが最高の目標になりました。そして大切なことは、
そういった目標は達成されるためにあり、そして実際に達成されるということです。そもそも
仏教は、完全なものを目指して猛烈に突き進んでいくタイプの宗教ではありません。
普段の状態が、宗教的にも完全なのです』
『ところがキリスト教の場合は、負けた者やおさえつけられてきた者たちの不満がその
土台となっています。つまり、キリスト教は最下層民の宗教なのです。・・・キリスト教で
は最高の目標に達することは絶対に出来ない仕組みになっているのです』
『仏教は良い意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。
ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほ
がらかな世界へ連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。
キリスト教は野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによって
です。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、文明化させるための、キリスト教的
処方箋なのです』
日本人の持つ単純明快な人間主体の宗教観に達するには、西洋人では天才ニーチェですら発狂するほどの努力を必要とした。 TORA
http://asyura.com/0601/bd45/msg/527.html
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日本人の持つ単純明快な人間主体の宗教観に達するには、
西洋人では天才ニーチェですら発狂するほどの努力を必要とした。
2006年8月21日 月曜日
◆キリスト教は邪教です!―現代語訳『アンチクリスト』 ニーチェ,フリードリッヒ・ヴィルヘルム(著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062723123.html
◆仏教の素晴らしいところ
さて、これまで私はキリスト教の問題点をあげ、それが最悪の宗教であることを説明してまいりました。それでは他の宗教について私がどう考えているのか、これも大事なことなので、きちんとお話ししておきましょう。
ご存じのように、仏教という宗教があります。仏教もキリスト教に負けず劣らずたくさんの信者がおります。仏教というと、キリスト教とはまったく違う宗教というイメージがあるようですが、実は両方とも同じようなニヒリズムの宗教なのです。しかし、仏教はキリスト教に比べれば、一〇〇倍くらい現実的です。
仏教のよいところは、「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っていることです。これは、仏教が何百年と続いた哲学運動の後に現れたものだからでしょう。インドで仏教が誕生したときには、「神」という考えは、すでに教えの中から取り除かれていたのです。
そういう意味では仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいでしょう。
彼らは本当に現実的に世の中を見ています。仏教では「罪に対する闘い」などとキリスト教のようなことを言いません。現実をきちんと見て、「苦しみに対する闘い」を主張するのです。
仏教では、「道徳」という考えは自分をダマすことにすぎないと、すでにわかっているのですね。ここが仏教とキリスト教の大きく違うところです。
これは私の言い方なのですが、仏教という宗教は「善悪の彼岸」に立っているのです。つまり、善や悪というものから遠く離れた場所に存在している。それは仏教の態度を見れば明らかです。
仏教が注意しているのは、次の二つです。
一つは、感受性をあまりにも敏感にするということ。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、苦しみを受けやすくなってしまうからです。そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的なものとして考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中にずっといること。そうすると、人間は人格的におかしくなっていくのです。
読者の皆さんも「自分も思い当たるな」とか「ああ、あいつのことだな」とすぐにイメージできるのではないでしょうか。
仏教を開いたブッダはそういったものを警戒して、フラフラと旅に出て野外で生活することを選びました。ブッダは食事にあまりお金をかけませんでした。お酒にも用心しました。欲望も警戒しました。また、ブッダは自分にも他人にも決して気づかいしなかった。要するにブッダは、いろいろな想念に注意していたわけです。
ブッダは心を平静にする、または晴れやかにする想念だけを求めました。ブッダは、「善意」とは、人間の健康をよくするものだと考えたのです。そして神に祈ることや、欲望を抑え込むことを教えの中から取り除きました。
仏教では、強い命令や断定を下したり、教えを強制的に受け入れさせることはありません。なにしろ、一度出家して仏の道に入った人でも「還俗」といって再び一般の社会に戻ることができるくらいですから。
ブッダが心配していたことは、祈りや禁欲、強制や命令といったものが、人間の感覚ばかりを敏感にするということでした。仏教徒はたとえ考え方が違う人がいても攻撃しようとは思いません。ブッダは恨みつらみによる復警の感情を戒めたのです。
「敵対によって敵対は終わらず」とは、ブッダが残した感動的空言葉です。
ブッダの言うことはもっともなこと。キリスト教の土台となっている「恨み」や「復讐」といった考えは、健康的なものではありません。エゴイズム今の世の中では、「客観性」という言葉はよい意味で使われ、「利已主義」という言葉は悪い意味で使われています。
しかし、「客観性」があまりにも大きくなってしまい、「個人的なものの見方」が弱くなってしまうのは問題です。また、「利已主義」が否定され続けると、人間はそのうち精神的に退屈になってくるものです。
こういった問題に対して、ブッダは「利已主義は人間の義務である」と説きました。要するに、問題を個人に引き寄せて考えよう、と言ったわけです。
あの有名なソクラテスも、実は同じような考え方をしています。ソクラテスは人間の持っている利己主義を道徳へと高めようとした哲学者なのです。
◆多様な文化を認めないキリスト教
それではなぜ、仏教はこれほどまでにキリスト教と違うのでしょうか。その原因は、まず仏教がとても温かい土地で誕生したということ、またその土地の人たちが寛大でおだやかで、あまり争いを好まなかったことなどがあげられるでしょう。そして重要なのは、仏教が上流階級や知識階級から生まれたことです。
仏教では、心の晴れやかさ、静けさ、無欲といったものが最高の目標になりました。そして大切なことは、そういった目標は達成されるためにあり、そして実際に達成されるということです。
そもそも仏教は、完全なものを目指して猛烈に突き進んでいくタイプの宗教ではありません。ふだんの状態が、宗教的にも完全なのです。
ところがキリスト教の場合は、負けた者や押さえつけられてきた者たちの不満がその土台となっています。つまり、キリスト教は最下層民の宗教なのです。キリスト教では、毎日お祈りをして、自分の罪についてしゃべったり、自分を批判したりしている。それでもキリスト教では、最高の目標に達することは絶対にできない仕組みになっているのです。
フェアじゃないですよね。暗い場所でなにかコソコソやっているというのがキリスト教なのです。肉体が軽蔑され、ちょっとしたものでもすぐに「イヤらしい」などといってケチをつける。
かつてキリスト教徒は、ムーア人(八世紀にスペインに侵入したアラビア人)をイベリア半島から追放したのですが、彼らが最初にやったことは、コルドバだけで二七〇軒もあった公衆浴場を全部閉鎖したことでした。
キリスト教徒というのは異なった文化を認めようとしないのですね。それどころか、考え方が違う人たちを憎むのです。そして徹底的に迫害する。とても暗くて不健康で危険な人たちなのです。
キリスト教徒ってのは、言ってみれば神経症患者みたいなものです。常に神経が過敏な状態が、彼らにとっては望ましいのです。
キリスト教徒は、豊かな大地や精神的に豊かな人に対して、徹底的に敵意を燃やしました。具体的に「肉体」を持っているものに反発して、自分たちは「霊魂」だけを信じている。それで、張り合おうと思っているわけです。
キリスト教は、立派な心がけ、気力や自由、あるいは心地のいいこと、気持ちがいいこと、そして喜びに対する憎しみなのですね。
キリスト教が下層民のもとで誕生すると、やがてそれは野蛮な民族の間に広まっていきました。野蛮な民族は、仏教徒と違って、不満や苦しみを、敵に危害を加えるという形で外に出していったのです。
逆に言いますと、キリスト教は野蛮人を支配するために、野蛮な教えや価値観が必要だったのです。たとえば、初めての子どもを犠牲に捧げる風習や、晩餐で血を飲む儀式などがそうです。
このように、キリスト教というのは、人間の精神と文化への軽蔑なのです。仏教は、いい意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。
残念なことに、ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほがらかな世界へと連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。
キリスト教は、野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによってです。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、「文明化」させるための、キリスト教的処方簑なのです。
仏教は文明が発達して終わりに向かい、退屈した状態から生まれた宗教ですが、キリスト教は、いまだに文明にたどりついていないのです。 (P46-P53)
ちくま14
反キリスト者
5つ星のうち 5.0ニーチェの最高傑作!
投稿者 本が大好きです 投稿日 2006/5/18
形式: 文庫
「今日キリスト者であることは、非礼なのである。そしてここで私の嘔吐がはじまる」
「すべての出来のよいもの、矜持あるもの、気力のすぐれたものを、なによりも美しさを耳にし眼にするということは、キリスト教には苦痛である」
「キリスト教的なのは、精神に対する、精神の矜持、気力、自由、放縦に対する憎悪である。キリスト教的なのは、官能に対する、官能の歓喜に対する、歓喜一般に対する憎悪である・・・」
「「純粋の精神」は一つの愚劣である。神経組織と官能とを、「肉体の外被」を計算に入れなければ、私たちはおのれを誤算する」
「キリスト教は一つの勝利であった、一つのより高貴な志操はキリスト教で徹底的に没落した、― キリスト教こそこれまで人類の最大の不幸であった」
価値の転換を実践し、あらゆる確信から自由でいること・・・「強さ」の本質を示してくれた稀有の書、ニーチェの最高傑作である。
ニーチェ 権力への意志 Friedrich Wilhelm Nietzsche: Der Wille zur Macht. Versuch einer Umwerthung aller Werthe.
1901,1906
副題
すべての価値の価値転換の試み
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