そのローマ書を数節ずつ全文に渡って解釈していく形式で書かれているのがバルトの『ローマ書講解』です。この本の魅力は解釈の正確さなどにあるのではなく、なんといってもパウロに触発されながら溢れ出るバルトの豊かな構想力にあると思います。弁証法神学・危機の神学などと言われるバルトの立場から、ローマ書に魂が吹き込まれていく様は圧巻です。弁証法神学の代表的人物とされるバルトやティリッヒは、ニーチェやスピノザという宗教とは微妙な距離にいる哲学者の影響を強く受けていますが、これは「神が死んだ」現代こそがむしろ神について余計な固定観念をもっておらず、かえって混じりけのない純粋な信仰を確立できるというように弁証法的に考えるからです。
弁証法といえば、正反合(テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ)という方法のことを言います。まずあるテーゼ(命題)を立て、続いてそれをアンチテーゼによって徹底的に否定し、最後に二つの立場を含みこむようなより一般性の高い答えを導くことが目的です。このように弁証法神学も、世俗的な常識を批判するだけでなく、神学上の不確かな常識をも徹底的に批判し尽くし、なおも疑い得ないものを見つけ出すことを任務とします。
弁証法神学が危機の神学と言われるときに、それは二重の意味で危機なのだと言えます。それは、時代遅れになった神学の危機であると同時に、神学しか信じられるものがない時代の危機です。このことが意味するのは、社会が排除しようとしながら、最も排除しがたいものが「宗教的なもの」だということです。それはまた宗教が人間が最も必要としながら、最も手に入れがたいものでもあるということです。こういった逆説に真摯に向き合おうとしたのが弁証法神学であり、ニーチェ以後の神学のあり方に対していち早く方向性を示したのが本書だということになるでしょう。
最後に一箇所だけ引用を紹介しておきます。
「宗教は、罪責と運命の問題性から、人間を全く脱出させないで、かえってなおさら初めて、その中に導き入れる。宗教は、人間に、人生の問題の解決をもたらさず、宗教はむしろ人間そのものを、全く解きがたい謎とする。宗教は、人間の救いでも、救いの発見でもない。むしろ、人間の救われがたさの発見である。宗教は、享受されることも、祝われることをも望まず、むしろ投げ捨てられることはありえないからこそ、厳しい軛として背負われなければならない。われわれは宗教を、だれに対しても持つように願ったり、勧めたり、受け取るように推薦することはできない。宗教は、一つの不幸であって、運命的必然性をもってある人たちに降りかかり、その人たちからまた他の人たちへと移るものである。(中略)宗教は不幸であって、その下では、人間と名の付くすべての者は、しかしおそらくはひそかに、嘆きの吐息をもらさなければならないのである。」(平凡社ライブラリー上巻pp.516-517)☆
現実とは異なる幻想を見せるのが宗教なのではなく、人間の罪責や救われがたさというありのままの不幸な現実に直面させるのが宗教だということです。不幸な現実を知ったときに、他者への共感能力というのは、この現実をより良いものにしたいと思わせる一方で、他方ではより大きな不幸と向き合わなければならないと思わせるのではないでしょうか。自分に苦痛の経験が多ければ、それだけより多くの不幸な人たちと共感できるようになるでしょう。他者の不幸にリアリティを感じるためには、その不幸の半分を自分の経験として受け入れる必要があるのです。けれども、その残りの半分は自分がどれだけ努力しても分かち合えない、その他者(と神)だけの領域と考えるべきです。バルトが宗教を誰に対しても勧めることはできないと言うのはそういう意味だと思います。
ローマ書講解〈上〉 (平凡社ライブラリー) -
6版序
…永遠の相の下に(スプ・スペキエ・アエテルニ)はすでに存在する「昨日」が、時間の中でも議論の余地なく明白になるまで待ってくれるように頼むことは許されるであろう。
以下スピノザエチカ索引より
口語訳聖書 - ローマ人への手紙
http://bible.salterrae.net/kougo/html/romans.html
http://bible.salterrae.net/kougo/html/romans.html
7:14わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。 7:15わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。7:16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 7:17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 7:19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。7:20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 7:22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、7:23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 7:24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 7:25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
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