水曜日, 4月 19, 2017

南総里見八犬伝「稗史七則」



八犬伝関連物(原文・現代語訳)

http://minaminokuni.net/12ha-rist/1gensaku.html
すごいボリューム。館山市立博物館で106冊全冊展示されているのを見たときはその量と迫力に圧倒されました。しかも犬の絵が入った袋付きで。
今読むなら岩波文庫で全10巻、新潮社から全12巻が発行されています。家でのんびり読むなら行間にゆとりがあって読みやすい新潮社版、持ち歩くなら手ごろな大きさの岩波文庫版って感じでしょうか。
江戸時代後期、読本である原作本が読みにくい人向けに出版された本。 二世為永春水の執筆の後を継いだ曲亭琴童は馬琴の息子の妻お路。絵がとても綺麗で見応えがある。が、文字が活字ではないので古文書解読が苦手な私には読めない…(涙)。とはいっても極端に読みにくい文字があるというわけでもないと思うので、古文書を読むのに慣れている方ならそれほど難儀せずに読めるのでは。各巻の初めに執筆者の前書きあり。
現代語訳。原作の雰囲気そのままに冗長な箇所を程よく省略しており、簡潔な文章でとっつき易く読みやすい。他の本だと省略されがちな細かいストーリーも収録されているが、反面、話が盛り上がっている部分についても他の部分同様の文章量なので あっさりとして物足りなく感じることも。
児童向けとして出版されていますが子供向けに内容を改変させることなく、大人でも充分読み応えがあります。結城供養で犬士が八人揃った際の文章は山田氏の現代語訳の大変さがよく伝わってきました。長大な作品だけにさぞ苦労されたのでは。
全八巻で背表紙に仁義八行の文字が順に印刷されているので並べると楽しい本。
完訳。なにが凄いって原文よりさらに多い文章量。毎度セリフや地の文に挿入されるあらすじも省略することなく訳されています。こういうくどいほどの丁寧さも含めて (とはいえ28年かけて執筆されたことや貸本全盛であったことを考えると、話中にあらすじが挿入されているのは無理もないのかなと思う)やっぱり八犬伝って面白い。八犬伝を現代文でじっくり読みたい人におすすめです。最後まで発行されなかったのが非常に残念。


はてなブックマーク - 白龍亭・稗史七則 

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.mars.dti.ne.jp/~opaku/hakken/05/haishi7.html

白龍亭・稗史七則

稗史の七法則。 七法則とは、主客、伏線、襯染、照応、反対、省筆、隠微。 馬琴の小説論だが、馬琴のオリジナルではなく、水滸伝評などで語られたものを馬琴流に整理しなおしたもの。南総里見八犬伝第九輯中帙附言(岩波文庫では第六巻)にて詳しく語られている。 ・主客 しゅかく 馬琴いわく「能樂にいふシテ・ワキの如し」。 主役と脇役の書き分け。しかしそれは固定されたものではなく「主も亦客になることあり」とあるように、ある場面で主役だった人物も別の場面では脇役となる。 ・伏線 ふくせん 馬琴いわく「後に必出すべき趣向ある...



完訳・現代語版 南総里見八犬伝〈第6巻〉 単行本 – 1992/5 ☆p.9~11



南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん、旧字体南總里見八犬傳)は、江戸時代後期に曲亭馬琴(滝沢馬琴)によって著わされた大長編読本里見八犬伝、あるいは単に八犬伝とも呼ばれる。

文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作である。上田秋成の『雨月物語』などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作であり、日本の長編伝奇小説の古典の一つである。


原典:

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現代語訳:

アレンジの大きなものは「南総里見八犬伝を題材にした作品」#小説節を参照。

  • 白井喬二訳 『現代語訳 南総里見八犬伝』(河出文庫(上下)、2003年)ISBN 4002002705
    『日本古典文庫19 南総里見八犬伝』(河出書房新社、1976年、新装版1988年)の文庫化。初刊は1956年
    抄訳だが前半部はほぼ全訳、後半に行くほど省略が進み、終わりの方はほとんど筋書きに近い。
  • 山田野理夫訳 『八犬伝』全8巻(太平出版社、1985年) ISBN 480312101X ほか
    児童書だが、全訳を行っている。
  • 羽深律訳 『南総里見八犬傳』既刊6巻(全10巻の予定だったが、7巻目以降が未刊行)(JICC出版局宝島社、1985年~1992年)ISBN 9784880630915ほか
    完訳・巻次の振分は岩波文庫版と一致するので、底本は岩波(旧文庫)版と推測される。4巻目までは「門坂流 画」、5巻から「吉田光彦」装画である。馬琴の序、跋なども全訳している。ある程度原文に用いられている文字表記を生かすため振り仮名で読ませようとする個所もある。途中から日本名著全集版も参照したらしく付録にその一部が取り入れられている。☆6
  • 徳田武訳 『日本の文学 古典編 45 南総里見八犬伝』(ほるぷ出版、1987年)。抄訳
  • 安西篤子 『安西篤子の南総里見八犬伝 わたしの古典』(集英社、1986年/集英社文庫、 1996年)。抄訳・翻案あり
  • 栗本薫訳 『里見八犬伝 少年少女古典文学館』(講談社、1993年、新装版2001年、2010年)。抄訳・児童書・翻案あり
  • 平岩弓枝作・佐多芳郎画 『南総里見八犬伝』(中公文庫、1995年)
    抄訳・翻案あり。読売新聞日曜版に連載(1992~93年)
  • 鈴木邑訳 『南総里見八犬伝 現代語で読む歴史文学』 (上・下 勉誠出版、2004年)。詳細な抄訳 ISBN 458507063X
  • 丸屋おけ八訳 『全訳南総里見八犬伝』(言海書房、2003年。改訂版2007年)ISBN 4901891014
    2冊組での函入セット。底本は岩波文庫旧版。回外剰筆まで訳しているが、各編の序、跋などは最初のものを除き未訳。加えて原本の区切りを無視して、独自で章立てを行っている。距離や時間表記を現代のものに変改している。逐語訳ではない箇所があり、岩波文庫本の原文と比較すると訳出されていない章句も少なくない。(例えば、「回外剰筆」の「公田」の条など)
  • 石川博編 『南総里見八犬伝』(角川ソフィア文庫ビギナーズ・クラシックス、2007年)。編訳での入門書



「稗史七則」曲亭馬琴 
http://kokugosi.g.hatena.ne.jp/kuzan/20060503/p 

唐山元明の才子らが作れる稗史にはおのづから法則あり。所謂法則とは、一に主客?、二に伏線、三に襯染?、四に照応?、五に反対?、六に省筆?、七に隠微?すなはち是れのみ。主客は此間の能楽にいふ「シテ?」、「ワキ?」の如し。其書に一部の主客あり、又一回毎に主客ありて、主もまた客になることあり、客もまた主にならざるを得ず。又襯染は其事相似て同じからず。所謂伏線は後にかならず出だすべき趣向あるを数回前に些と墨打をして置なり。又襯染は下染にて、此間にいふ「シコミ」のことなり。こは後に大関目の妙趣向を出さむとて、数回前より其事の起本来歴をしこみおくなり。金瑞?が『水滸伝』の評註には縇染?に作れり、即ち襯染におなじ。共に「シタゾメ」とよむべし。又照応?は照対?ともいふ、例へば律詩?対句ある如く、彼れと此れと相照して趣向?に対を取るをいふ。照対は重複に似たれども、必ず是れおなじからず。重複は作者あやまつて前の趣向に似たる事を後に至りて復出だすをいふ。又照対はわざと前の趣向に対を取て彼れと此れと照すなり。例へば船虫媼内が牛の角を以て戮せらるゝは北越二十村なる闘牛の照対なり、又犬飼現八?が千住河にて繋舟の組撃は芳流閣?上なる組撃の反対なり。この反対照対と相似ておなじからず。照対は牛をもて牛に対するが如し、其物は同じけれども其事は同じからず。又反対は其人は同じけれども其事は同じからず。又省筆?は事の長きを後に重ねていはざらん為に、必ず聞かで叶はぬ人に偸聞させて筆を省き、或ひは地の詞をもてせずして其人の口中より説出だすをもて長からず、作者が筆を省くが為に看官もまた倦ざるなり。又隠微?は作者の文外に深意あり、百年の後知音を俟ちて之れを悟らしめんとす。『水滸伝』には隠微多かり、李贄?、金瑞?らはいへばさらなり、唐山なる文人、才子に『水滸』を弄ぶ者多けれども、評し得て詳かに隠微を発明せしものなし。

隠微は悟りがたけれども、七法則すら知らずして、綴るものさぞあらん。及ばずながら本伝には、彼法則に倣ふこと多かり。又但(たゞ)本伝のみならず、美少年録・刺客伝、この余も都(すべ)て法則あり。看官これを知るやしらずや。子夏曰、小道といへども見るべき者あり。鳴呼談何ぞ容易ならん。これらのよしは知音の評に、折々答へしことながら、亦看官の為に注しつ。


http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2551642/5
一に主客、二に伏線、三に襯染染、四に照応、反対、六に省筆、七に隠微(…)
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「稗史七則」
一に主客、二に伏線、三に槻染、四に照応、五に反対、六に省筆、七に隠微(…)

曲亭馬琴(一八三五年/天保六年)
江戸生(一七六七~一八四八)。江戸期最大の読本作家。その構成手法は明治文学にも長く影響を与える。『椿説弓張月』『近世説美少年録』。


 唐山元明の才子等が作れる稗史には、おのづから法則あり。所謂法則は、一に主客、二に伏線、三に槻染、四に照応、五に反対、六に省筆、七に隠微即是のみ。主客は、此間の能楽にいふシテ・ワキの如し。その書に一部の主客あり、又一回毎に主客ありて、主も亦客になることあり、客も亦主にならざることを得ず譬ば象棋の起馬の如し。敵の馬を略るときは、その馬をもて彼を攻、我馬を喪へば、我馬をもて苦しめらる。変化安にぞ彊りあらん。是主客の崖略なり。又伏線と槻染は、その事相似て同じからず。所云伏線は、後に必出すべき趣向あるを、数回以前に、些墨打をして置く事なり。又槻染は下染にて、此間にいふしこみの事なり。こは後に大関目の、妙趣向を出さんとて、数回前より、その事の、起本来歴をしこみ措なり。金瑞が水滸伝の評注には、組染に作れり、即槻染とおなじ。共にしたそめと訓(よ)むべし。又照応は、照対ともいふ。譬ば律詩に対句ある如く、彼と此と相照らして、趣向に対を取るをいふ。かヽれば照対は、重復に似たれども、必是同じからず。重復は、作者謬て、前の趣向に似たる事を、後に至て復出すをいふ。又照対は、故意前の趣向に対を取て、彼と此とをらすなり。譬ば本伝第九十回に、船虫・姐内が、牛の角をもて家せらるヽは、第七十四回、北越二十村なる、闘牛の照対なり。又八十四回なる、犬飼現八が、千住河にて、繋舟の組撃は、第二十一回に、信乃が芳流閣上なる、組撃の反対なり。這反対は、照対と相似て同じからず。照対は、牛をもて牛に対するが如し。その物は同じけれども、その事は同じからず。又反対は、その人は同じけれども、その事は同じからず。信乃が組撃は、閣上にて、閣下に繋舟あり。千住河の組撃は、船中にして楼閣なし。且前には現八が、信乃を捕捕んと欲りし、後には信乃と道節が、現八を捉へんとす。情態光景、太く異なり。こヽをもて反対とす。事は此彼相反きて、おのづからに対を倣すのみ。本伝にはこの対多かり。枚挙るに違あらず。余は倣らへて知るべきのみ。又省筆は、事の長きを、後に重ていはざらん為に、必聞かで称ぬ人に、楡聞させて筆を省き、或は地の詞をもてせずして、その人の口中より、説出すをもて脩からず。作者の筆を省くが為に、看官も亦俗ざるなり、又隠微は、作者の文外に深意あり。百年の後知音を侯て、是を悟らしめんとす。水滸伝には隠微多かり。李贄・金瑞等、いへばさらなり、唐山なる文人才子に、水滸を弄ぶ者多かれども、評し得て詳(つまびらか)に、隠徴を発明せしものなし。隠微は悟りがたけれども、七法則すら知らずして、綴るものさぞあらん。及ばずながら本伝には、彼法則に倣ふこと多かり。又但(たゞ)本伝のみならず、美少年録・刺客伝、この余も都(すべ)て法則あり。看官これを知るやしらずや。子夏曰、小道といへども見るべき者あり。鳴呼談何ぞ容易ならん。これらのよしは知音の評に、折々答へしことながら、亦看官の為に注しつ。


1 一部の――作品全体を通じての
2 大関目――山場
3 知音――知己、理解者



 中国の才子が作った小説には、おのづから法則が備わっている。それは一に主客、二に伏線、三に槻染、四に照応、五に反対、六に省筆、七に隠微ということである。
 まず、主客というのは、能楽にいうシテ・ワキのようなものだ。一つの小説には全体を通しての主人公と傍役がある。また一回毎に主客があって、回によっては主客が転倒することもありうる。例えるなら将棋の駒のようなものだ。敵の駒を取ると、その駒で相手を攻め、自分の駒を失えば、自分の駒で苦しめられる。その転変、変化は限りない。これが主客ということの概略である。
 次に、伏線と概染というのは、よく似ているけれども同じではない。所謂伏線は墨打ちのようなもので、後で必ず出てくる趣向を数回前にちょっと出しておくことである。槻染というのは下染めのこと、巷間言われるところの「しこみ」である。これは後に出てくる大切な妙趣向のために、数回前からその事の由来と経過を少しずつ用意しておくことである。金瑞の書いた水滸伝の評注には「『纏染』に作れり」との評価がある。績染すなわち槻染と同じで、共に「したそめ」と読む。
 さて、照応は照対とも言う。例えば律詩に対句があるように、彼と此とを相応して対にする工夫を言う。照対は重複と似ているけれども同じでない。重複は作者がうっかりして、前の趣向と似た事を後でまた出してしまうことだ。照対はわざと前の趣向と対にして彼と此とを際立たせることである。本伝に例をとると、第九十回に船虫・姐内が牛の角で殺されるのは、第七十四回、北越二十村での闘牛との照対である。
 また、八十四回犬飼現八の千住河繋舟での組み撃ちは、第二十一回にある信乃の芳流閣上での組み撃ちと「反対」をなしている。この反対は照対と似ているけれど同じではない。照対は牛と牛を対にするようなことで、物は同じだが事件は異なる。 一方、反対は登場人物は同じだが、事件は異なる。信乃の組み撃ちは閣上で閣下に繋舟があった。千住河の組み撃ちは、船中であって楼閣上でない。また芳流閣では現八が信乃を捕縛しようとし、千住河では信乃と道節が現八を捕まえようとする。情態光景が大層違っている。これを反対と言う。彼此相反して自然と対をなすのである。本伝には、この対の構成が多々ある。枚挙に追ない。他は類して知るべしだ。
 また、省筆というのは、長いできごとを何度も重複して書かなくてすむように、聞くべき人に立ち聞きさせたり、地の文で書かずに人の会話で説明したりすることである。作者が文章を省略するゆえに、読者もまた退屈しなくてすむ。
 次に、隠微というのは、文外に作者の深い考えが隠されているということである。あたかも百年後の読者にこそ、その深意は悟られるだろうとでもいうように……。水滸伝にも隠微が多い。李贄や金瑞等をはじめとして中国の文人才子に水滸伝を研究、評論する者はたくさんいるけれど、詳細にわたって隠微に気づいた人はいない。隠微はわかりにくいから仕方ないとしても、先の七法則さえ知らないで、ああだこうだ物語を評論する人がどんなに多いことか。
 潜越ではあるが、本伝はこの七法則に準ずるところが多い。また、この本だけでなく『美少年録』『侠客伝』など、他の物にもすべて法則が生かされている。読者はこれに気づいているのであろうか。子夏が曰く、「小道といへども見るべき者あり。鳴呼談何ぞ容易ならん」。すべては、識者の評に、その都度答えたことであるが、読者のためにも書き記してみた。


3 Comments:

Blogger yoji said...



 宣長の「物のあはれ」は、小説の内容をめぐる本質規定であった。対して、馬琴『南総里見八犬伝』中に書き込まれてより、巷間久しく「稗史七則」と呼ばれる自注的一節は、本邦初の本格的な小説技法論であったといえる。小説の、ことに長編作品(読本)の長さをどう組織し、いかに鼓舞するか?
 答えにいう「主客」は、場面に応じた人物たちの軽重転換。「伏線」はほぼ現在に同じ。「槻染」は、因果や前後関係として、作品の山場や大団円に先んじて、場所。出来事。人物の由緒や来歴などを仕込みおくこと。「照応」「反対」はともに対偶原理で、作中に距てられた二つの要素(場面、人物、行為、細部など)が、互いに対をなすさいの二様態。「省筆」は、情報提示の重複性を避ける二法として、作中人物の口話による縮約的伝達と、「楡聞」の手法を指し、「隠微」は、作者が作品にこめた密かな「深意」となる。
 金聖嘆(金瑞)の『水滸伝』注釈書を独自に変奏したこの法則(除、「隠微」)は、爾来、「読本」的な組成の骨法として後代へ引き継がれる。わけても、「楡聞」(=「覗き見」)の手法は、真っ先に馬琴に逆らった逍逢当人の『当世書生気質』などを筆頭に――「自然主義文学」の成立をみるまで――明治小説に深々と取り憑くことになるのだが、その「馬琴の死霊」(逍逢)の猛威にかんしては、小著『日本小説技術史』第一章の参覧を願っておく。

4:13 午前  
Blogger yoji said...


 中国の才子が作った小説には、おのづから法則が備わっている。それは一に主客、二に伏線、三に槻染、四に照応、五に反対、六に省筆、七に隠微ということである。
 まず、主客というのは、能楽にいうシテ・ワキのようなものだ。一つの小説には全体を通しての主人公と傍役がある。また一回毎に主客があって、回によっては主客が転倒することもありうる。例えるなら将棋の駒のようなものだ。敵の駒を取ると、その駒で相手を攻め、自分の駒を失えば、自分の駒で苦しめられる。その転変、変化は限りない。これが主客ということの概略である。
 次に、伏線と概染というのは、よく似ているけれども同じではない。所謂伏線は墨打ちのようなもので、後で必ず出てくる趣向を数回前にちょっと出しておくことである。槻染というのは下染めのこと、巷間言われるところの「しこみ」である。これは後に出てくる大切な妙趣向のために、数回前からその事の由来と経過を少しずつ用意しておくことである。金瑞の書いた水滸伝の評注には「『纏染』に作れり」との評価がある。績染すなわち槻染と同じで、共に「したそめ」と読む。
 さて、照応は照対とも言う。例えば律詩に対句があるように、彼と此とを相応して対にする工夫を言う。照対は重複と似ているけれども同じでない。重複は作者がうっかりして、前の趣向と似た事を後でまた出してしまうことだ。照対はわざと前の趣向と対にして彼と此とを際立たせることである。本伝に例をとると、第九十回に船虫・姐内が牛の角で殺されるのは、第七十四回、北越二十村での闘牛との照対である。
 また、八十四回犬飼現八の千住河繋舟での組み撃ちは、第二十一回にある信乃の芳流閣上での組み撃ちと「反対」をなしている。この反対は照対と似ているけれど同じではない。照対は牛と牛を対にするようなことで、物は同じだが事件は異なる。 一方、反対は登場人物は同じだが、事件は異なる。信乃の組み撃ちは閣上で閣下に繋舟があった。千住河の組み撃ちは、船中であって楼閣上でない。また芳流閣では現八が信乃を捕縛しようとし、千住河では信乃と道節が現八を捕まえようとする。情態光景が大層違っている。これを反対と言う。彼此相反して自然と対をなすのである。本伝には、この対の構成が多々ある。枚挙に追ない。他は類して知るべしだ。
 また、省筆というのは、長いできごとを何度も重複して書かなくてすむように、聞くべき人に立ち聞きさせたり、地の文で書かずに人の会話で説明したりすることである。作者が文章を省略するゆえに、読者もまた退屈しなくてすむ。
 次に、隠微というのは、文外に作者の深い考えが隠されているということである。あたかも百年後の読者にこそ、その深意は悟られるだろうとでもいうように……。水滸伝にも隠微が多い。李贄や金瑞等をはじめとして中国の文人才子に水滸伝を研究、評論する者はたくさんいるけれど、詳細にわたって隠微に気づいた人はいない。隠微はわかりにくいから仕方ないとしても、先の七法則さえ知らないで、ああだこうだ物語を評論する人がどんなに多いことか。
 潜越ではあるが、本伝はこの七法則に準ずるところが多い。また、この本だけでなく『美少年録』『侠客伝』など、他の物にもすべて法則が生かされている。読者はこれに気づいているのであろうか。子夏が曰く、「小道といへども見るべき者あり。鳴呼談何ぞ容易ならん」。すべては、識者の評に、その都度答えたことであるが、読者のためにも書き記してみた。

10:27 午後  
Blogger yoji said...


完訳・現代語版 南総里見八犬伝〈第6巻〉 単行本 – 1992/5 ☆p.9~11
滝沢 馬琴 (著), 羽深 律 (翻訳)

未完

10:28 午後  

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