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中国の才子が作った小説には、おのづから法則が備わっている。それは一に主客、二に伏線、三に槻染、四に照応、五に反対、六に省筆、七に隠微ということである。
まず、主客というのは、能楽にいうシテ・ワキのようなものだ。一つの小説には全体を通しての主人公と傍役がある。また一回毎に主客があって、回によっては主客が転倒することもありうる。例えるなら将棋の駒のようなものだ。敵の駒を取ると、その駒で相手を攻め、自分の駒を失えば、自分の駒で苦しめられる。その転変、変化は限りない。これが主客ということの概略である。
次に、伏線と概染というのは、よく似ているけれども同じではない。所謂伏線は墨打ちのようなもので、後で必ず出てくる趣向を数回前にちょっと出しておくことである。槻染というのは下染めのこと、巷間言われるところの「しこみ」である。これは後に出てくる大切な妙趣向のために、数回前からその事の由来と経過を少しずつ用意しておくことである。金瑞の書いた水滸伝の評注には「『纏染』に作れり」との評価がある。績染すなわち槻染と同じで、共に「したそめ」と読む。
さて、照応は照対とも言う。例えば律詩に対句があるように、彼と此とを相応して対にする工夫を言う。照対は重複と似ているけれども同じでない。重複は作者がうっかりして、前の趣向と似た事を後でまた出してしまうことだ。照対はわざと前の趣向と対にして彼と此とを際立たせることである。本伝に例をとると、第九十回に船虫・姐内が牛の角で殺されるのは、第七十四回、北越二十村での闘牛との照対である。
また、八十四回犬飼現八の千住河繋舟での組み撃ちは、第二十一回にある信乃の芳流閣上での組み撃ちと「反対」をなしている。この反対は照対と似ているけれど同じではない。照対は牛と牛を対にするようなことで、物は同じだが事件は異なる。 一方、反対は登場人物は同じだが、事件は異なる。信乃の組み撃ちは閣上で閣下に繋舟があった。千住河の組み撃ちは、船中であって楼閣上でない。また芳流閣では現八が信乃を捕縛しようとし、千住河では信乃と道節が現八を捕まえようとする。情態光景が大層違っている。これを反対と言う。彼此相反して自然と対をなすのである。本伝には、この対の構成が多々ある。枚挙に追ない。他は類して知るべしだ。
また、省筆というのは、長いできごとを何度も重複して書かなくてすむように、聞くべき人に立ち聞きさせたり、地の文で書かずに人の会話で説明したりすることである。作者が文章を省略するゆえに、読者もまた退屈しなくてすむ。
次に、隠微というのは、文外に作者の深い考えが隠されているということである。あたかも百年後の読者にこそ、その深意は悟られるだろうとでもいうように……。水滸伝にも隠微が多い。李贄や金瑞等をはじめとして中国の文人才子に水滸伝を研究、評論する者はたくさんいるけれど、詳細にわたって隠微に気づいた人はいない。隠微はわかりにくいから仕方ないとしても、先の七法則さえ知らないで、ああだこうだ物語を評論する人がどんなに多いことか。
潜越ではあるが、本伝はこの七法則に準ずるところが多い。また、この本だけでなく『美少年録』『侠客伝』など、他の物にもすべて法則が生かされている。読者はこれに気づいているのであろうか。子夏が曰く、「小道といへども見るべき者あり。鳴呼談何ぞ容易ならん」。すべては、識者の評に、その都度答えたことであるが、読者のためにも書き記してみた。
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宣長の「物のあはれ」は、小説の内容をめぐる本質規定であった。対して、馬琴『南総里見八犬伝』中に書き込まれてより、巷間久しく「稗史七則」と呼ばれる自注的一節は、本邦初の本格的な小説技法論であったといえる。小説の、ことに長編作品(読本)の長さをどう組織し、いかに鼓舞するか?
答えにいう「主客」は、場面に応じた人物たちの軽重転換。「伏線」はほぼ現在に同じ。「槻染」は、因果や前後関係として、作品の山場や大団円に先んじて、場所。出来事。人物の由緒や来歴などを仕込みおくこと。「照応」「反対」はともに対偶原理で、作中に距てられた二つの要素(場面、人物、行為、細部など)が、互いに対をなすさいの二様態。「省筆」は、情報提示の重複性を避ける二法として、作中人物の口話による縮約的伝達と、「楡聞」の手法を指し、「隠微」は、作者が作品にこめた密かな「深意」となる。
金聖嘆(金瑞)の『水滸伝』注釈書を独自に変奏したこの法則(除、「隠微」)は、爾来、「読本」的な組成の骨法として後代へ引き継がれる。わけても、「楡聞」(=「覗き見」)の手法は、真っ先に馬琴に逆らった逍逢当人の『当世書生気質』などを筆頭に――「自然主義文学」の成立をみるまで――明治小説に深々と取り憑くことになるのだが、その「馬琴の死霊」(逍逢)の猛威にかんしては、小著『日本小説技術史』第一章の参覧を願っておく。
中国の才子が作った小説には、おのづから法則が備わっている。それは一に主客、二に伏線、三に槻染、四に照応、五に反対、六に省筆、七に隠微ということである。
まず、主客というのは、能楽にいうシテ・ワキのようなものだ。一つの小説には全体を通しての主人公と傍役がある。また一回毎に主客があって、回によっては主客が転倒することもありうる。例えるなら将棋の駒のようなものだ。敵の駒を取ると、その駒で相手を攻め、自分の駒を失えば、自分の駒で苦しめられる。その転変、変化は限りない。これが主客ということの概略である。
次に、伏線と概染というのは、よく似ているけれども同じではない。所謂伏線は墨打ちのようなもので、後で必ず出てくる趣向を数回前にちょっと出しておくことである。槻染というのは下染めのこと、巷間言われるところの「しこみ」である。これは後に出てくる大切な妙趣向のために、数回前からその事の由来と経過を少しずつ用意しておくことである。金瑞の書いた水滸伝の評注には「『纏染』に作れり」との評価がある。績染すなわち槻染と同じで、共に「したそめ」と読む。
さて、照応は照対とも言う。例えば律詩に対句があるように、彼と此とを相応して対にする工夫を言う。照対は重複と似ているけれども同じでない。重複は作者がうっかりして、前の趣向と似た事を後でまた出してしまうことだ。照対はわざと前の趣向と対にして彼と此とを際立たせることである。本伝に例をとると、第九十回に船虫・姐内が牛の角で殺されるのは、第七十四回、北越二十村での闘牛との照対である。
また、八十四回犬飼現八の千住河繋舟での組み撃ちは、第二十一回にある信乃の芳流閣上での組み撃ちと「反対」をなしている。この反対は照対と似ているけれど同じではない。照対は牛と牛を対にするようなことで、物は同じだが事件は異なる。 一方、反対は登場人物は同じだが、事件は異なる。信乃の組み撃ちは閣上で閣下に繋舟があった。千住河の組み撃ちは、船中であって楼閣上でない。また芳流閣では現八が信乃を捕縛しようとし、千住河では信乃と道節が現八を捕まえようとする。情態光景が大層違っている。これを反対と言う。彼此相反して自然と対をなすのである。本伝には、この対の構成が多々ある。枚挙に追ない。他は類して知るべしだ。
また、省筆というのは、長いできごとを何度も重複して書かなくてすむように、聞くべき人に立ち聞きさせたり、地の文で書かずに人の会話で説明したりすることである。作者が文章を省略するゆえに、読者もまた退屈しなくてすむ。
次に、隠微というのは、文外に作者の深い考えが隠されているということである。あたかも百年後の読者にこそ、その深意は悟られるだろうとでもいうように……。水滸伝にも隠微が多い。李贄や金瑞等をはじめとして中国の文人才子に水滸伝を研究、評論する者はたくさんいるけれど、詳細にわたって隠微に気づいた人はいない。隠微はわかりにくいから仕方ないとしても、先の七法則さえ知らないで、ああだこうだ物語を評論する人がどんなに多いことか。
潜越ではあるが、本伝はこの七法則に準ずるところが多い。また、この本だけでなく『美少年録』『侠客伝』など、他の物にもすべて法則が生かされている。読者はこれに気づいているのであろうか。子夏が曰く、「小道といへども見るべき者あり。鳴呼談何ぞ容易ならん」。すべては、識者の評に、その都度答えたことであるが、読者のためにも書き記してみた。
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完訳・現代語版 南総里見八犬伝〈第6巻〉 単行本 – 1992/5 ☆p.9~11
滝沢 馬琴 (著), 羽深 律 (翻訳)
未完
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