土曜日, 4月 08, 2017

The Silent Trade(1903) 『沈黙交易―異文化接触の原初的メカニズム序説』グリアスン


             (柄谷行人民俗学リンク::::::::::
NAMs出版プロジェクト: 思想の散策 2015~7 柄谷行人
The Silent Trade(1903) 『沈黙交易―異文化接触の原初的メカニズム序説』1997年。グリアスン
http://nam-students.blogspot.jp/2017/04/the-silent-trade1903-1997.html@

追記:
以下のグリアソンと紛らわしい
Origins of Money 1977,フィリップ・グリアソンPhilip Grierson(1910 –  2006)
https://nam-students.blogspot.com/2019/06/philip-grierson1910-2006.html

https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Grierson
Philip GriersonFBA (15 November 1910 – 15 January 2006) was a British historian and numismatist, emeritus professor of numismatics at Cambridge University and a fellow of Gonville and Caius Collegefor over seventy years. During his long and extremely prolific academic career, he built the world's foremost representative collection of medieval coins, wrote very extensively on the subject, brought it to much wider attention in the historical community and filled important curatorial and teaching posts in Cambridge, Brussels and Washington DC.
上はP.~
以下はH.~とする


             ~社会科学の系譜とMMT
   1900年 世界恐慌            2000年 世界金融危機
 人類学 ┏イネス  ポランニー      
P・グリアソン      グレーバー
     ┃H・グリアソン                 インガム
 社会学 ┃ジンメル                      
リスト  ⬇︎ ウェーバー                           
 ドイツ ┃ ⬆︎                       [☆=MMT
┏歴史学派┃クナップ(➡︎ケインズ、ラーナー) 
⬇︎    ┗┓  ⬇︎                             
┗旧制度学派┃コモンズ (ジョン・ガルブレイス)➡︎ ジェームス・ガルブレイス☆ 
      ┃  ┃           (ケインズ➡︎┛)
 マルクス ┃  ┃   カレツキ━━━━┓      ラヴォア        

      ┃  ┗━━➡︎┓       ⬇︎    ゴドリー 
 ケインズ ┗━━━━━➡︎ケインズ ➡︎ ミンスキー  ➡︎  レイ☆、ケルトン☆ 
 ポスト・ケインズ派┏━━┛┗➡︎ラーナー⬆︎         ミッチェル☆、キーン
        ┏━┛         ┃ カルドア
        ┃           ┃         グッドハート
 実務家    ⬆︎ エクルズ      ┃         オカシオ=コルテス
        ┗ホートリー(ケインズ)┃  (リスト)  モズラー
 日本                 ┃     ┗➡︎中野剛志☆、三橋貴明
                    ┃ 西田昌司☆、藤井聡☆ 
                    ┃
 シュンペーター シュンペーター━━━━┛(カルドアムーア          
MMT is a relatively new approach that builds on the insights of John Maynard Keynes, Karl Marx, A. Mitchell Innes, Georg F. Knapp, Abba Lerner, Hyman Minsky, Wynne Godley, and many others. It “stands on the shoulders of giants”, so to speak. (Wray,2012)
(中野剛志氏作成の原図を引用した発表資料にいるのはP.グレアソンのみだが、H.も加えた)
日本のMMTを考える~現代貨幣理論の真実~ 2019/5 藤井聡発表資料 全32頁
http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/wp-content/uploads/2019/05/20190515.pdf

沈黙交易―異文化接触の原初的メカニズム序説単行本 – 1997/7

https://www.amazon.co.jp/dp/4938551357


 The Silent Trade(1903) 日本語訳『沈黙交易―異文化接触の原初的メカニズム序説』 中村勝訳、ハーベスト社、1997年。グリアスン 表記 

『沈黙交易』1997,1903,邦訳40項、122頁より
《しかし他方では、市場に出入りする者は、そこに滞在するあいだは業務遂行上お互いに交流しあいながらともかくも安全である。というのはその場所それ自体が中立的であり、場合によっては聖地と目されるからである。言いかえれば、「平和」という概念がここには樹立されてきた。》

『沈黙交易』1997,1903
目 次
序 言
第一章 序 説
第一節 本書の主題と方法
第二節 集団とその隣人
第三節 異 人
第四節 要 約
第二章 沈黙交易と原初的市場
第一節 沈黙交易
第二節 原初的市場
第三節 論 評 ☆
第三章 原初的歓待
第四章 結 論
解説「市場史研究の人類学的方向―H・グリアスンに学ぶ――」中村 勝
典拠引用文献
索 引

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CRISIS AND CRITIQUE
Critique of Political Economy
Past issues
2016
Volume 3, issue 3, 16-11-2016 
Edited by Frank Ruda &  Agon Hamza

精神としての資本、 柄谷行人のCapital as Spirit 2016


《フィリップ・ジェームズ・ハミルトン・グリアソンは、古典派作品「サイレントトレード」(1903)で世界中の静かな取引を研究し、次のように結論づけた。 静かな貿易のために選ばれた場所は中立を保つ必要があります。 例えば聖所が適しています。 これらの場所は市場に成長しました。 市場は外部者や外国人を歓迎し、保護し、多様な個人や地域社会を結びつけ、結果として特別な社会空間を作り出します。 一般に、市場の商品取引所からお金が出てきたと言われています。 それは間違っていません。 しかし市場は非常に特徴的な空間であり、いかなる聖職者や国家による略奪や侵略を妨げる「聖なる中立的な社会空間」であったことに留意すべきである。》 173.google-translate

  • The Silent Trade(1903) 日本語訳『沈黙交易―異文化接触の原初的メカニズム序説』 中村勝訳、ハーベスト社、1997年。グリアスン 表記


Google 翻訳


 柄谷行人のCapital as Spirit  2016 は、内容的には、
トランスクリティーク 2:2:4 貨幣の神学・形而上学 (シェークスピア(『アテネのタイモン』経哲草稿経由)関連)itc332頁
世界史の構造 1:2:2 呪術と互酬(モース関連)76頁
と重なる。

『世界史の構造』以降の成果として、グリアスン『沈黙交易』に触れているのが新しい。

《市場は…「聖なる中立的な社会空間」であったことに留意すべきである。 》

精神としての資本、 柄谷行人のCapital as Spirit 2016


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フィリップ・ジェイムズ・ハミルトン・グリァスン(Philip James Hamilton Grierson1851年3月9日 - 1927年4月25日)は、イギリス出身の法律家人類学者

目次

生涯・研究編集

スコットランドに生まれる。1867年にオックスフォード大学を卒業し、スコットランド各地の法曹界で活動し、治安判事訴訟弁護士を勤める。各誌に寄稿する一方で法律書の編纂などを行い、1910年に受爵。
沈黙交易(The Silent Trade)、無言取引(Stummer Handel)、集積所商業(Le Commerce par depots)と呼ばれる慣習に注目し、著書『沈黙交易』を発表した。そのなかで、人類史における平和が、原初的市場の中立性、異人(客人)の保護=歓待の仕組みに深くかかわっていると述べた。研究においては、人類学の文献の他に、『法における目的』をはじめとするルドルフ・フォン・イェーリングの成果を援用している。
『沈黙交易』の中では、交易の変化について、以下のような類型を示唆した。
  1. 姿を見せぬ交易(インヴィジブル・トレード)
  2. 姿を見せる交易(ヴィジブル・トレード)
  3. 客人招請(ゲスト・フレンドシップ)
  4. 姿を見せる仲介者づきの交易(ミドルマン・トレード)
  5. 集積所(デポ)
  6. 中立的交易
  7. 武装市場(アームド・マーケット)
  8. 定市場(レギュラー・マーケット)
グリァスンは、市場の存在によって特定の場所に平和が保存され、それが市場への路や人物にも広がることで、友好や歓迎のサインや、異人を保護する数々の慣習を生んだとする。こうして、平和の範囲が進展すると論じた[1]

主要著作編集

  • The Silent Trade(1903) 日本語訳『沈黙交易―異文化接触の原初的メカニズム序説』 中村勝訳、ハーベスト社、1997年。

参考文献・出典編集

  • 中村勝 「市場史研究の人類学的方向—H・グリァスンに学ぶ—」(『沈黙交易』収録)
  1. ^ グリァスン 『沈黙交易』 第3章

関連項目編集


沈黙交易(ちんもくこうえき、Silent Trade, dumb barter, depot trade)は、交易の形態のひとつ。日本語では無言交易沈黙取引無言取引などの表記も見られる。共同体が、外部とのコミュニケーションを出来るだけ避けつつ外部から資源を得るための方法として、世界各地で用いられた。

目次

概要編集

一般的には、交易をする双方が接触をせずに交互に品物を置き、双方ともに相手の品物に満足したときに取引が成立する。交易の行なわれる場は中立地点であるか、中立性を保持するために神聖な場所が選ばれる。言語が異なるもの同士の交易という解釈をされる場合があるが、サンドイッチ諸島での例のように言葉が通じる場合にも行なわれるため、要点は「沈黙」ではなく「物理的接近の忌避」とする解釈もある[1]
フィリップ・ジェイムズ・ハミルトン・グリァスンは、世界各地の沈黙交易を研究し、人類史における平和が、市場の中立性や、異人(客人)の保護=歓待の仕組みに深くかかわっていると述べた。カール・ポランニーは、沈黙交易について、掠奪による獲得と交易港による平和的な交易の中間に位置する制度とした。ピーター・バーンスタインは貿易商人たちに捕えられて奴隷にされることを避けるためと推測しており[2]、商人の側としてはアフリカ人のもたらすを何としても欲しいため、この奇妙なやり方に従うしかなかったとしている。

沈黙交易の例編集

沈黙交易の有名な例として、ヘロドトスが『歴史』の第4巻に記録しているカルタゴリビュアが行なった金交易が知られている[3]イブン・バットゥータは『大旅行記』で、ヴォルガ・ブルガールがアーミンの毛皮交易を行うときは相手の姿を見ないと語っている[4]。グリァスンは、沈黙交易の形態を分類したうえで以下のような例をあげている。
当事者の集団が相互に不可視の沈黙交易
当事者集団が相互に姿を隠すとは限らない沈黙交易
仲介者をへて行なわれる沈黙交易

日本における研究編集

日本での沈黙交易の最古の記録としては、『日本書紀』の斉明天皇6年(660年)3月の条における阿倍比羅夫粛慎と戦う前に行なった行為があげられる。鳥居龍蔵は北東アジア全般に沈黙交易が存在したと論じており、岡正雄椀貸伝説コロポックルの伝説、『譚海』のアイヌ、『梁書』や『唐書』の記述にある中国の鬼市を無言交易とした。
柳田國男大菩薩峠六十里越で黙市が行なわれたとし、他に『諸国里人談』や『本草記聞』の記述にある交趾国奇楠交易を例としてあげた。かつて栗山日光、大菩薩峠などの峠路にあった中宿で行なわれていた無人の交易を沈黙交易とするかどうかは、研究者の間で解釈がわかれている。
また、1917年(大正6年)に鳥居龍蔵が椀貸伝説を「沈黙交易」であると指摘すると、1918年(大正7年)に柳田はこれに対して反論し、椀貸伝説は「異郷観念」の表現形態であり、竜宮伝説や隠れ里伝説に類する信仰減少であるとした。椀貸伝説の「沈黙交易」説は戦後も論争が続き、1979年栗本慎一郎は『経済人類学』において椀貸し伝説は「沈黙交易」であり、さらに交易の原初的形態と指摘した。この「沈黙交易」を「交易の原初的形態」であるとする説に対しては、同年に岡正雄は「沈黙交易」は「交易の原初的形態」ではなく交換の特殊型であるとし、客人歓待を前提とした「好意的贈答」の習慣であると指摘した。
新井白石が『蝦夷志』に記録しているアイヌ同士の交易も沈黙交易とされ、道東アイヌは米、塩、酒、綿布など、千島アイヌはラッコの皮などを交換に用いた。アイヌによる沈黙交易は、この他にサハリンアイヌとツングース系民族、アイヌとオホーツク人などの間にも行われている。瀬川拓郎はアイヌ伝説に登場する小人・コロポックルの起源が千島アイヌの沈黙交易にあるとし、千島アイヌの沈黙交易は疱瘡をはじめとする疫病を防ぐために行われたと論じた[5]

沈黙交易から市場への変化編集

グリァスンは、沈黙交易から原初的な市場への変化について、以下のような類型を示唆している。
  1. 姿を見せぬ交易(インヴィジブル・トレード)
  2. 姿を見せる交易(ヴィジブル・トレード)
  3. 客人招請(ゲスト・フレンドシップ)
  4. 姿を見せる仲介者づきの交易(ミドルマン・トレード)
  5. 集積所(デポ)
  6. 中立的交易
  7. 武装市場(アームド・マーケット)
  8. 定市場(レギュラー・マーケット)
グリァスンは、市場の存在により特定の場所に平和が保存され、それが市場への路や人物にも広がることで、友好や歓迎のサイン、通行手形カルドゥーク、異人を保護するツワナ族モパートミンダナオ島パガリィコイコイ人のマート (maat)、ベドウィンダケールナジルソマリ族アバン、イブン・バットゥータが述べたイスラーム世界の「客人」、そしてゲストハウスなどの慣習を生んだとする。こうして、平和の範囲が進展すると述べた[6]

出典編集

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  1. ^ 栗本『経済人類学』 p101
  2. ^ ピーター・バーンスタイン著 『ゴールド 金と人間の文明史』 109頁。
  3. ^ 松平千秋訳『歴史』中巻(岩波文庫)、110頁。
  4. ^ イブン・バットゥータ『大旅行記』第4巻 p47
  5. ^ 瀬川『アイヌの沈黙交易』 p93
  6. ^ グリァスン『沈黙交易』第3章

参考文献編集

  • イブン・バットゥータ 『大旅行記』第4巻 家島彦一訳注、平凡社〈東洋文庫〉、1999年。
  • 岡正雄 『岡正雄論文集 異人その他 他十二篇』 岩波書店〈岩波文庫〉、1994年。
  • フィリップ・ジェイムズ・ハミルトン・グリァスン 『沈黙交易 異文化接触の原初的メカニズム序説』 中村勝訳、ハーベスト社、1997年。
  • 栗本慎一郎 『経済人類学』 東洋経済新報社、1979年。 - 特に第6章、第7章
  • マーシャル・サーリンズ 『石器時代の経済学』 山内昶訳、法政大学出版局、1984年。
  • 瀬川拓郎 『アイヌの沈黙交易 奇習をめぐる北東アジアと日本』 新典社新書、2013年。
  • ピーター・バーンスタイン 『ゴールド 金と人間の文明史』 日経ビジネス人文庫 ISBN 4-532-19269-2
  • ヘロドトス 『歴史』 新潮社、岩波書店など
  • カール・ポランニー 『人間の経済 1 市場社会の虚構性』 玉野井芳郎・栗本慎一郎訳 / 『人間の経済 2 交易・貨幣および市場の出現』 玉野井芳郎・中野忠訳、岩波書店、2005年。
  • カール・ポランニー 『経済の文明史』 ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08759-1
  • 増田義郎 『黄金の世界史』 小学館 ISBN 4-09-626057-6
  • 柳田國男 「山人の市に通うこと」『柳田國男全集6』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1989年。

関連項目編集

外部リンク編集


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West Africa: Silent Barter
https://youtu.be/sRRHlLJOjkM

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ヘロドトス歴史中
#4
:196
《一九六 カルタゴ人の話には次のようなこともある。「ヘラクレスの柱」以遠の地に、あるリビア人の住む国があり、カルタゴ人はこの国に着いて積荷をおろすと、これを波打際に並べて船に帰り、狼煙をあげる。土地の住民は煙を見ると海岸へきて、商品の代金として黄金を置き、それから商品の並べてある場所から遠くへさがる。するとカルタゴ人は下船してそれを調べ、黄金の額が商品の価値に釣合うと見れば、黄金を取って立ち去る。釣合わぬ時には、再び乗船して待機していると、住民が寄ってきて黄金を追加し、カルタゴ人が納得するまでこういうことを続ける。双方とも相手に不正なことは決して行なわず、カルタゴ人は黄金の額が商品の価値に等しくなるまでは、黄金に手を触れず、住民もカルタゴ人が黄金を取るまでは、商品に手をつけない、という。》

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蝦夷征討・粛慎討伐編集

『日本書紀』によれば、658年に水軍180隻を率いて蝦夷北海道)を討ち、さらに粛慎樺太)を平らげた。粛慎は本来中国の文献上で満州東部に住むツングース系民族(樺太中部以北のはウィルタ)を指すが、阿倍比羅夫に討たれた粛慎と異なるとみられ『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明である。蝦夷以外のオホーツク文化人とも推測され、樺太中部以北に住むニヴフを粛慎の末裔とする説もある[6]。翌年には再び蝦夷を討って、後方羊蹄(シリベシ)に至り、郡領を任命して帰った。「後方羊蹄(シリベシ)」が現在のどこを指すのかはわかっていないが、江戸時代末期の探検家・松浦武四郎により、北海道尻別川(アイヌ語で「シリ・ペッ」=上流が至って高い川、山に沿って下る、山の川)流域と推測され、同地は「後志国(しりべしのくに)」、同地の山(アイヌ語で「マッカリ・ヌプリ」)は「後方羊蹄山(しりべしやま)」と名付けられた。また、幣賄弁島については粛慎の本拠地である樺太とする説や、奥尻島とする説などがある。
  • 斉明天皇4年(658年)4月 - 蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷渟代津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。同年、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上した。
  • 斉明天皇5年(659年)3月 - 蝦夷国を討つ。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
  • 斉明天皇6年(660年)3月 - 粛慎を討つ。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。
  • 斉明天皇6年(660年)5月 - 夷50人余りを献じる。また、粛慎の37人を饗応した。

白村江の戦い編集

662年に中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かったが、翌663年新羅の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。この敗北により百済再興はならなかった。
。。。。


日本書紀 巻第二十六 斉明天皇紀
日本書紀(現代語訳・口語訳の全文)
http://nihonsinwa.com/column/poya/2
斉明天皇(十三)阿倍引田臣比羅夫の粛慎征伐・智踰の指南車・雀魚
http://nihonsinwa.com/page/2156.html
「北の海の浜に魚が死んで積み上がっていました。厚さは3尺ばかり。その大きさは河豚のようで、雀の口、針のような鱗がありました。鱗の長さは数寸です。俗人は言いました。
『雀が海に入って魚に化けた。名付けて雀魚(スズメオ)という』」 

 …小松和彦・栗本慎一郎「経済の誕生」工作舎(古書を購入)のなかに、異界に住む人が女のイメージで描かれるのは、異類婚姻のイメージを引きずっているからだとあった。アイヌの小人伝説では、アイヌの家々に施しをして歩き、あげく男に手を掴まれて窓から引きずり込まれる小人は女である。コトがそれ以上に及んだとは語られないけれども、まちがいなくセクシャルなエピソードであり、異類婚姻譚とも読めそうだ。異類婚姻は多くの場合破綻するのであり、小人伝説においても男性の振る舞いは小人族との決裂を招く。さらに、異界からやってくる女性が冨をもたらすモティーフはアイヌの小人伝説にかぎらないものだ。これも興味深い。

 同書は阿倍比羅夫と粛慎の沈黙交易にも触れているが、そういえば阿倍比羅夫が粛慎との沈黙交易に成功していたら、いったいどうなっていたのだろう。「日本書紀」記事では、沈黙交易の不成立が両者の戦争のきっかけになったようにみえるが、では成功していたらどうだったのか。比羅夫はどのみち粛慎を討とうとしていただろう。ではなぜ沈黙交易を試みたのか。そもそも沈黙交易の不成立が戦争のきっかけというのも不自然な話である。比羅夫遠征記事はある程度事実を伝えているとおもわれるが、この沈黙交易のエピソードは、オホーツク人の乗り越え難い異文化性と未開性を物語るものとして、つまりかれらの非人間性を際だたせるものとして、その特徴的な習俗を挿入・付会したものだったのではないか、という気もするのだ。

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蝦夷志(えぞし)は、日本最初の本格的な蝦夷地地誌で、後の蝦夷地研究の先駆をなした。

概要編集

新井白石が 享保5年(1720年)に松前藩の情報や内外の諸書を参考にして作成した、体系的な蝦夷地誌漢文)。現在の北海道樺太千島山川風俗産物が記され、この写本の巻末には十余枚の貴重な彩色アイヌ風俗画が付けられている。画家は不明であるが、アイヌの衣服など絵画が細密に描かれており、当時のアイヌの風俗を知るうえで重要な文献になっている。絵師が実際にアイヌ人らの生活を直接観察して描かれ、図版の繊細度、色彩等、現存の写本の中では保存状態がよい。序、蝦夷地図説、本文という構成で、本文はさらに蝦夷(北海道)、北蝦夷(樺太)、東北諸夷(千島列島)の3部からなっている。巻末には人物や武具などの図が綿密かつ色彩豊かに描かれている。なお、白石は前年にも『南島志』を著しており、蝦夷(北海道)、琉球沖縄)を政論的な意味で日本の周辺地域として注目していた。[1]

脚注編集

  1. ^ (Yahoo!百科事典),コトバンク、広辞苑

リンク編集

  • [1] 『蝦夷志』
  • [2]『オホーツク、二つの邂逅』

。。。。

4 東北諸夷
東北海中に国する者は、夷中の伝うる所、凡そ三十七にして、夷人の通ずる所は唯だ其の一のみ。其の余は則ち詳かにするを得可らずと云う。…
夷人の通ずる所は即ち「キイタツプ」なり。嘗て聞く其の互市の例は極めて奇なり。毎歳夷人、船貨を装戴して以て行し、岸を去ること里許りにして止まる。島人候望して乃ち其の聚落を去り、之れを山上に避く。夷人其の貨を運搬し海口に陳列して去り、而して止まること初の如し。既にして島人方物を負担し、絡繹夾会して、各々自ら、其の欲する所の物を易取し、其の余及び厥の産を閣置して去る。夷人又た至つて之れを収蔵して還る。若し其の方物過多なれば、則ち或は其の余を留め、或は船貨を置きて去る。方物は皆な獣皮なり、船貨は則ち米塩酒煙及び綿布の属なりと云う。)