火曜日, 5月 09, 2017

大燈国師(1282-1338)



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Manual of Zen Buddhism by D.T. Suzuki 1935 便覧:解読 
NAMs出版プロジェクト: 臨済録

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NAMs出版プロジェクト: 大応国師(1235-1309)

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NAMs出版プロジェクト: 大燈国師(1282-1338)

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NAMs出版プロジェクト: 関山国師(1277-1361)「無相大師遺誡」

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NAMs出版プロジェクト: 夢窓疎石(1275-1351)

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NAMs出版プロジェクト: 白隠(1686-1769) 隻手音声

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宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう、弘安5年(1282年) - 延元2年/建武4年12月22日1338年1月13日))は、鎌倉時代末期の臨済宗。一般には大燈国師の名で知られている。

は妙超、道号は宗峰。播磨兵庫県)の出身。同国浦上荘の豪族浦上氏の一族・浦上一国(掃部入道覚性)の子として生まれた。朝廷から興禅大灯、高照正灯の国師号が与えられた。京都大徳寺開山。 


大燈国師(宗峰妙超)遺偈:

截断仏祖、吹毛常磨。

機輪転処、虚空咬牙。

 仏祖を截断して、吹毛常に磨す。

 機輪転ずる処、虚空、牙を咬む。


:大燈の遺偈(大徳寺蔵)日本の禅語録6,41頁
:大徳寺の名宝

大燈国師遺戒の真筆は現存?
http://ga.hanazono.ac.jp/pdf/009.pdf

大燈国師遺誡の再考察・・・・・・・・・オズヴァルド・メルクーリ 27

参考:

虚堂智愚(中国・南宋)

東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 開山無相大師650年遠諱記念特別展 「妙心寺」

http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=628

  


国会図書館デジタルコレクション:

5:3

吹毛常磨『大燈遺偈』 | 實相寺 公式サイト

http://jissouji.main.jp/info/2011/08/吹毛常磨『大燈遺偈』/

…そうした気概溢れる鋭い禅者であった大燈国師が亡くなる時の境地を表現したのが次の遺偈です。

仏祖を裁断し
吹毛常に磨く。
機輪転ずる処
虚空、牙を咬む。

非常に難解で、私のような者が解釈することは不遜でありますので、そのままを味わって頂くのが一番だと思いますが、用語の説明だけしておきます。
仏祖=お釈迦様や歴代の祖師方
裁断=断ち切ること
吹毛=吹毛剣のこと。『碧巌録』100則「巴陵吹毛剣」に出てくる。細く柔らかい兎の毛でも、吹きつけただけで切れてしまうような鋭い刃。
機輪=師家がその禅機を発動して弟子達を導いていく働きに喩える。「輪」はその機用の展開ぶりを車輪の回転になぞらえたもの。『碧巌録』79則頌評唱に出てくる。
虚空、牙を咬む=『臨済録』上堂、『宏智(わんし)広録』四、『虚堂録』六に「虚空に橛(けつ)を釘(う)つ」という言葉がある。糠に釘のこと。「虚空、牙を咬む」も同意か?

大燈国師の遺偈? - 哲学 解決済 | 教えて!goo

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3702623.html

大燈国師の遺偈といわれるものは、


截断仏祖、吹毛常磨。

機輪転処、虚空咬牙。

 仏祖を截断して、吹毛常に磨す。

 機輪転ずる処、虚空、牙を咬む。

DAITO KOKUSHI'S LAST POEM

Buddhas and Fathers cut to pieces--
The sword is ever kept sharpened!
Where the wheel turns,
The void gnashes its teeth.

[1. In those monasteries which are connected in some way with the author of this admonition, it is read or rather chanted before a lecture or Teisho begins.]

仏陀とその祖は切り裂きました - 剣は鋭く守られています!車輪が回転するところで、虚空は歯を塞ぐ。

截断仏祖 吹毛常磨 機輪転処 虚空咬牙|向龍昇人

http://ameblo.jp/commun-2012-kouryu/entry-11997595900.html

『截断仏祖 吹毛常磨 機輪転処 虚空咬牙』
仏祖を截断(せつだん)して、吹毛(すいもう)常に磨す(ます)
機輪(きりん)転ずるところ、虚空(こくう)牙を咬む(かむ)

鎌倉時代末期の臨済宗・宗峰妙超(大燈国師)の遺偈です。
ちょいと難しいのですが、クマはこのように捉えています。

「仏とはこのようなものだとか、仏と一体になることが求めるところだとか考えること自体が執着心に捉われていると言うことだ。だから、このような捉われを解放するために、何か在ると思うものにすがることを辞め、仏や祖師を切り捨ててきた。そして自分自身の中から沸々と湧いてくる仏性を只管(ひたすら)見やるために、わがこころの吹毛剣を只、一心に磨き、ここまで来た。今、わが命、尽きようとするとき、虚空を慮れば(おもんばかれば)、わたしがこれまでやってきたことは、ただただ、歯ぎしりをしているのにすぎないではないか。
ああ~、それはそれでいいのじゃないか。
わたしはこの命を生き切ったのだから。
さあ、これからはあらゆる束縛から解放され、
自由に飛び立とう。
われを待つ虚空のもとへ。」

クマの勝手な解釈が過ぎるとお叱りになられるのではないでしょうか?
でもこの心境は、利休居士の遺偈、『力い希咄』や
宮本武蔵の『五輪書』にも共通する、生き切った
ものの死生観とでも言えるのではないでしょうか。

臨済禅師は、人間は本来、仏であり、煩悩が生じるが故に、
この人間界での修行が必要と仰っています。
禅師が仰っているのは、本来持っている仏性を見出すためには、
あらゆる煩悩を断ち切り、煩悩より自由になることが
必要なのだと言うことでしょう。

生きることは素晴らしいこと、
このことすらを煩悩と言うならば言わしておけ。
生きている内に、死とは何か? 煩悩とは何か? 生きるとは何か?
などとしたり顔をする奴なんざ、所詮はクマと一緒の世界に居るんじゃないか。
お前さん方の言っていることなんざ、生き切って死に逝く者から見たら、
ちゃんちゃら可笑しいんじゃないかい?
まず、この世で与えていただいた生を活き切ってみようじゃないか。

このように過激に考えるクマです。
大燈国師、利休居士や武蔵の仰ることを自分の芯とするには、
この先、何世代にも亘って生まれ変わらなきゃならない、
クマこと向龍昇人でした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


宗峰妙超墨蹟 法語 文化遺産オンライン

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/209876
宗峰妙超 (1282〜1337)
しゅうほうみょうちょう
日本
鎌倉時代/1322
紙本墨書
縦32.1㎝ 横77.6㎝
一幅
根津美術館
重要文化財

宗峰妙超(1282〜1337)は南浦紹明(なんぽじょうみん)の法を嗣(つ)ぎ、大徳寺開山となった。花園上皇からの諡号(しごう)「大燈国師」が広く知られている。その法嗣(はっす)には徹翁義亨(てっとうぎこう)、妙心寺開山の関山慧玄(かんざんえげん)らがおり、臨済宗の中でも大きな勢力を誇った。本作は冬至小参(しょうさん)(冬至前日に行われる行事)の際の法語を宗円(そうえん)道人(伝歴不詳)のために揮毫したもので、遺墨の中では早い時期(41歳)の作である。宗峰妙超の遺墨は多数あるが、いずれも気宇壮大な書風をみせ、中国の名僧虚堂智愚(きどうちぐ)や中峰明本(ちゅうほうみんぽん)などの影響がみてとれる。


宗峰妙超墨蹟とは - 国指定文化財等データベース Weblio辞書

http://www.weblio.jp/content/宗峰妙超墨蹟

宗峰妙超墨蹟(元亨壬戌)

宗峰妙超墨蹟〈投機偈/南浦紹明加印証語〉

宗峰妙超墨蹟〈遺偈/建武丁丑臘月日〉

宗峰妙超墨蹟〈法語/(要決了死生云々)〉

重要文化財のほかの用語一覧
書跡・典籍:  宗峰妙超墨蹟  宗峰妙超墨蹟  宗峰妙超墨蹟  宗峰妙超墨蹟  宗派図  定宗論  定頼集



[35]宗峰妙超大師示衆    Shuho Myocho Daishi Shu ni Shimesu      The Admonitions of Shuho Myocho

 
[ZOOMA画面へ][翻刻ビュー画面へ]

汝等諸人来此山中

為道聚首莫為衣食

無有肩不着無有口

不食只須十二時

向無理会之処究来

究去光陰如矢慎莫

雑用心勉旃々々

応宗等禅人之需
沙羅老衲八十三歳書


汝等{なんじら}諸人{しよにん}、此の山中に来たって道{どう}の為に首{こうべ}を聚む。衣食{えじき}の為にすること莫かれ。肩有って着ずということ無く、口有って食わずということ無し。只た須らく十二時中、無理会{むりえ}の処に向かって究め来たり究め去るべし。光陰矢の如し、慎んで雑用心{ぞうようじん}すること莫かれ。勉旃{べんせん}々々。
宗等禅人の需めに応じ、沙羅老衲、八十三歳、書す


 Nanjira shonin kono sanchu ni kitatte

  Do no tame ni kobe o atsumu, ejiki no tame ni suru koto nakare,

  Kata atte kizu to iu koto naku, kuchi atte kurawazu to iu koto nashi.

  Tada subekraku junijichu murie no tokoro ni mukatte,

  Kiwame kitari kiwame saru beshi. Koin ya no gotoshi. 

  Tsutsushinde zoyoshin suru koto nakare. Kanshu seyo kanshu seyo.

  Shüto zennin no motome ni ojite,

  Sara rono, hachijusan sai, shosu.
All of you who have come to this monastery have gathered here for the sake of the Way, and not for the sake of clothes and food. As long as you have shoulders there will be something to wear; as long as you have a mouth, there will be something to eat. So, twenty-four hours a day, face the ineffable and investigate it thoroughly. Time passes like an arrow, so do not apply your mind to trivial matters. Exert yourselves! Exert yourselves! Written in response to the request of the monk Soto, by the Old Monk of the Sal Trees, aged 83. 

大徳寺開山大燈国師の遺偈である。



国宝
伝宗峰妙超(大燈国師)
でんしゅうほうみょうちょう(だいとうこくし)
1帖
(手鑑「藻塩草」のうち)
縦27.7cm 横8.0cm  
鎌倉時代
京都国立博物館
B甲414
 江戸時代、筆蹟鑑定を家業としていた古筆家に伝来した手鑑。折帖装の帖には、表に伝聖武天皇宸翰(しんかん)「大和切」(賢愚経断簡)以下117葉、裏に伝聖徳太子筆「戸隠切」(法華経断簡)以下125葉の古筆をそれぞれ貼付する。
 手鑑は本来、数多くの古筆・名筆を鑑賞する目的で作成されたものであるが、古筆家に伝来したこの手鑑の場合、鑑賞もさることながら、筆者の鑑定に供することを大きな目的のひとつとしていた。通常の古筆とは異なって、手鑑本体に筆者や古筆切の名称を付せず、手鑑目録を別に作成しているのも、これを古筆鑑定の練習用にあてたためであろう。
 古筆の収録配列は、表が天皇(宸翰)、親王、摂家、平公家、歌人の順で、裏に経典、名人、書道家流、法親王、高僧、連歌師、武家、女筆と続く。
 貼付された古筆は多種にわたり、そのなかには平安時代を代表する古筆である「高野切」(古今和歌集断簡)、「本阿弥切」(古今和歌集)のほか、「鳥下絵切」(法華経断簡)さらには「南院切」(新撰類林抄断簡)、「竹屋切」(源氏物語断簡)、「玉津切」(蜻蛉日記断簡)など、名品が数多く含まれている。
 「翰墨城」(MOA美術館蔵)、「見ぬ世の友」(出光美術館蔵)とともに三代手鑑のひとつに数えられている。