木曜日, 8月 09, 2018

スピノザの無限:転載

              ( スピノザリンク:::::::::
スピノザの無限:転載
https://nam-students.blogspot.com/2018/08/blog-post_9.html@

スピノザの無限

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上はスピノザ自身による無限の説明。『書簡12』(書簡50には無限の説明があるが図はない)、『デカルトの哲学原理』に採用されている。
円と円の比率が無限に存在するということは、実体に対して様相が無限に存在するということでもある。
これは、契約における実定法と自然権、歴史における真理と教義、主体における意識と無意識(またはその代理表象)、証明における思惟と延長といった、即時的(同時的)かつダブルバインド的な二項にそれぞれ相当するだろう。
「二つの円」と「二つの円の比率」の関係は、「実体」と「人間に認識できる二つの属性(思惟と延長)」の関係ということもできる。
(参照:『精神の眼は論証そのもの』上野修)
赤線、青線はドゥルーズ、マシュレーによる任意の教義の恣意性の説明に相応する(参照:『ヘーゲルかスピノザか』マシュレー)。

追記:
マルクス1841(新MEGA,IX/1)は書簡50を抜き書きしている


下は『論理学史』(山下正男)p208より。
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デカルトの場合、属性はS(=実体)に連なり、スピノザの場合、属性はM(=様態)に連なる。
上の図と下の図との対照に関して言えば、S実体が二つの円、M様態が無限にある両円の比率ということになる。山下氏によればヘーゲルはその両者を混同してしまっているという。

追記;
冒頭の図は『デカルトの哲学原理』の表紙↓にも使われている。
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スピノザは、『エチカ』では無限について、また少し別の説明をしている。
『エチカ』に出てくる最初の図(第1部定理15備考より)では、2本の線が無限に延びるとしたら、BとCのあいだと、既存の線と2種類の無限が外在的に存在してしまい、おかしいと説く。
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次の図(第2部定理8備考より)は任意の線であるDとEの矩形*は無限に存在し得ると説く。こちらでは内在的無限の合理性を説明している。
これらは、「神はすべてのものの内在的原因であって、超越的原因ではない」(1:18)という神の説明に関係しており、従来のキリスト教における神の説明との違いは明白である。
二つの図が対になっていることは、記号が順列されていることからも容易にわかる。

*ユークリッド(3:35)が基礎づけとしてある。
http://mis.edu.yamaguchi-u.ac.jp/kyoukan/watanabe/elements/book3/proposition/proposition3-35.htm 



https://www.amazon.co.jp/dp/4622083485
知性改善論
みすず佐藤訳
55~6頁

[九五]定義は、完全と言われるには、物の内奥の有りかたを解き明かさなければならず、われわれ
がなにがしかの特有の性質を定義に取って代えて用いるのを禦がなければならないであろう。それを説
明するにあたり、わたしがほかの人たちの誤りをさらけ出そうとしていると見えないように他の諸例は
遣り過すことにして、そのためにただ、どのように定義されても似たものである何か抽象的な物の例だ
けを出そう。それは円である。が、もし円が、中心から周に向って引かれたその線[の長さ]が等しい
或る図形であると定義されるなら,誰もがそうした定義は円の有りかたを何ら解き明かさず、たんにそ
の或る特性を解き明かしているにすぎないことを見てとる。そしてたとい、言ったように、図形やほか
の理屈上の存在に関してはこのことはさほど問題にならないとしても、自然学上の存在、物としての存
在に関しては大いに問題になる。言うまでもなく、物の特性はそれらの有りかたが知られずにいる間は
解ることがないからである。しかるにもしこれらの有りかたを無視するとしたら、われわれは、自然の
連鎖をもたらすはずの知性の連鎖を必然のこととしてひっくり返して、われわれの目標からまったく逸
れてさまようであろう。[九六]そこでこの難から解き放たれるためには、定義では次の点に気をつけ
なければならない。

一、物が創造されているなら、述べたように,定義は最近原因を包み懐かなければならないであろう。
たとえば円はこの法(のり)にしたがってこのように定義されるべきであろう。それは、片方の端が固定され
もう一端が動くようになっている任意の線によって描かれる図形である、と。この定義は最近原因を明
晰に包み懐いている。

8 Comments:

Blogger yoji said...

柄谷—スピノザ—フロイト : 関本洋司のブログ
yojiseki.exblog.jp/11025108/
しかしスピノザの方が優れている。なぜならスピノザの方が起成原因(『探究2』文庫版p166、スピノザ『 ...
スピノザにおける間接無限様態と事物の本質 Spinoza on Mediate ... (Adobe PDF)
aue.repo.nii.ac.jp/index.php?...
スピノザの主著『エチカ』第一部定理15と定理16. および定理16系1の .... 一般に事物の本質は,特定の有限存在をその起成原因.
國分功一郎『スピノザの方法』 - martingale & Brownian motion
d.hatena.ne.jp/martbm/20141026/1414251781
アルノーは、「第四反論」のなかで神の存在理由を起成原因[causa eficiens]で説明してはならないとデカルト ...

10:57 午前  
Blogger yoji said...

柄谷—スピノザ—フロイト
柄谷の言説のなかでアソシエーションに直結し得るのは『探究2』におけるスピノザへの言及であろう。
国家についてカントもスピノザも似たような定義をしている。

「私は国というものを、それぞれ相異なる理性的存在者が、共通の法則によって体系的に結合された存在と解する。」
(道徳形而上〜岩波文庫p113、世界史〜p496)

しかしスピノザの方が優れている。なぜならスピノザの方が起成原因(『探究2』文庫版p166、スピノザ『書簡』60、『知性改善論』72,77,95節、『エチカ』第1部定理25、参照)を再現し、人間に能動性を回復させるからだ。

「理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である。」(エチカ第4部定理七三)

ウェーバーによる暴力の独占という近代的定義の裏返しでもあるし、フロイトの無意識への恐れとも裏返しだ。

「スピノザの『エチカ』のオプティミズムは、フロイトのこのペシミズムとちょうど表裏の関係にある。‥…一方では、希望・意味をもたないがゆえにペシミズム・ニヒリズムにみえ、他方では、絶望・無意味をもたないがゆえにオプティミズム・信仰に映る。」
(『探究2』講談社学術文庫p189)

パーソンズにスピノザへの言及がないのは残念だが、スピノザは明らかにパーソンズのいうテリック(究極)システムを理論化した思想家だ。パーソンズならネグリ(『世界史の構造』425頁にあるように柄谷はネグリのスピノザの援用に批判的だ)のように数学的定義を無視することなくスピノザの可能性を能動的に捉えられたであろう。

ちなみに柄谷の体系にスピノザ、ウェーバーを含めると以下だが、

ウェーバー|フロイト
_____|_____
 マルクス|カント 
     |  スピ
     |  ノザ

タルコット・パーソンズの体系だと以下になる。

   |フロ|マルクス
カ  |イト|____
   |ウェーバー 
ン  |_______

ト   ス ピ ノ ザ


スピノザは『エチカ』でこう書いている。

「受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成れば、ただちに受動の感情でなくなる。」(第5部定理3)

「私は理性のみに導かれる人を自由であると言った。(略)我々のすでに証明したその他のことどもは、モーゼが最初の人間に関するあの物語の中で暗示しているように見える。すなわちその物語の中では、人間を創造したあの能力、言いかえれば人間の利益のみを考慮したあの能力、以外のいかなる神の能力も考えられていない。(略)しかし彼は動物が自分と同類であると思ってからはただちに動物の感情を模倣して自分の自由を失い始めた。この失われた自由を、族長たちが、そのあとでキリストの精神、すなわち神の観念 〜神の観念は人間が自由になるための、また前に証明したように人間が自分に欲する善を他の人々のためにも欲するようになるための、唯一の基礎である 〜に導かれて再び回復したのであった。」
(『エチカ』第4部定理68)

このモーゼをめぐる考察は「抑圧されたものの回帰」にも直接関係してくる内容であろう。

同じ物語をフロイトは平等、スピノザは自由に力点を置いて解読しているのだ。

  |   フ
__|___ロ
  |   イ
  |   ト
 スピノザ

10:57 午前  
Blogger yoji said...

マルチチュード、様態の逆襲
ネグリのスピノザ論『野生の異例性』(水声社から刊行予定)におけるスピノザ擁護の根拠となる箇所は以下だ。

「これによって我々は、人間精神が身体と合一していることを知るのみならず、精神と身体の合一をいかに解すべきかをも知る。しかし何びともあらかじめ我々の身体の本性を妥当に認識するのでなくてはこの合一を妥当にあるいは判然と理解することができないであろう。」(『エチカ』2:13備考)

ちなみにこの箇所は以下の第5部定理1と関連している。
「思想および物の観念が精神の中で秩序づけられ・連結されるのにまったく相応して、身体の変状あるいは物の表象像は身体ので秩序づけられ・連結される。」

ここでスピノザは唯一の実体優先の公理主義的な傾向から、様態の再評価に移行したとネグリは解釈するのである。これを「様態の逆襲」と命名することができるだろう。
だが、これはスピノザの公理主義を評価仕切れていないことから来るものである。

下村寅太郎も、スピノザの無限に関する考え方に数学史的な根拠があると考えたし、柄谷行人もスピノザの観念による概念の批判は公理主義を必然的にすると考えている。
スピノザの考える観念とは、公理系の中で無矛盾な概念のことであり、さらに創造の軌跡を再確認(=起成原因,causa efficiens、起成因、動力因、作用因とも訳される)を可能にするものである。
例えば三角形の観念は、三角形の作図を可能にするものでなければならないという(『探究2』文庫版p166、スピノザ『書簡』60、『知性改善論』72,77,95節、『エチカ』1:25参照)。

ネグリのスピノザ論(「野生の異例性」とは17世紀のブルジョア的言説に対抗するスピノザの「様態」としての「逆襲」のことだ)はドゥルーズのそれを引き継いだ精緻なものだが、マルチチュードの根拠としては曖昧なものである(マルチチュードの用例はエチカ5:20備考内4にある)。
それはマルチチュードそのものが曖昧だということだ。

エチカでは冒頭では、同じ人間が20人集まるということはそれを束ねる外部の概念が必要だと書かれている(1:8備考2)。
これは、マルチチュードにも外部にそれを束ねる権力あるいは官僚制度が必要になるということではないだろうか?

ライプニッツのモナドのように一つ一つが違うなら自主的な管理も可能なのだろうが、ネグリのマルチチュードはマルクスの共産主義宣言を受けいだものでその多様性を可能にするものではない。

ネグリの解釈にも関わらず、思惟と延長の二元性は様相によって一挙に逆転し様相に一元化するものではない。その多様性を考えるならばスピノザの公理である思惟と延長の並行性は様々な組み合わせ(ドゥルーズなら概念の発明と情動の開放を結びつけることと言うだろう)を可能にするがゆえに、むしろ個々の様相の多様性を根拠づけるのに必要な公理なのだ。

その意味では、(人間に認識できるふたつの属性である)思惟と延長の並行を維持しつつも、同一図形内部における線分の交点のあり方が無限にあると言うスピノザの無限論(無際限ではない)は十分示唆的である。

だから、マルチチュードを可能にするものとして多様性を可能にするスピノザの公理の再評価が必要になるし、その中でもスピノザの無限の認識は全体のなかに解消される微分的なライプニッツのそれ以上にその鍵となると考えられる。

…ネグリの否定する公理の中にこそ、マルチチュード生成の可能性があるということだ。

11:02 午前  
Blogger yoji said...


 1:25「神は(略)物の本質の起成原因でもある。」
 1:29注解「われわれは能産的自然を、それ自身において存在しそれ自身によって考えられるもの、(略)と理解しなければならない。(略)これに反して所産的自然とは神の諸属性のすべての様態のことである。」

11:03 午前  
Blogger yoji said...

スピノザにおける受動感情と能動感情の問題 - 九州大学 (Adobe PDF) -htmlで見る
catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download.../p033.pdf
しかし、実体(神)はほかのものなしに、如何に「ある状態」を実現するのか。 .... て、言いかえれば円が存在しない限り長方形が存在し得ないのである。円は .... 人間精神は神の無限知性の一部である」 ...... 知性改善論』.

11:13 午前  
Blogger yoji said...

知性改善論/神、人間とそのさいわいについての短論文 単行本 – 2018/2/10
スピノザ (著), 佐藤 一郎 (翻訳)
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https://www.amazon.co.jp/dp/4622083485

11:19 午前  
Blogger yoji said...

知性改善論
河出
95

もし事物が被造のものであるならば、上にいったように、定義はそのものの最近原因を包蔵するのでなくではならない。例えば円であれば、この規則に従うと次のように定義されるべきであろう。円とは、その一端が固定しており他の一端が可動的である任意の線分によって描かれるところの図形である、と。この定義なら明らかに最近原因を包蔵している。

11:37 午前  
Blogger yoji said...





探究2
第三章観念と表象

146〜7,166
 ところで、物に関する多くの観念のうちのどの観念から対象(subjectum)のすべての
特質が導かれうるかを知りうるためには、私はただ次の一事を念頭におきます。それは、物
に関する観念ないし定義は、その起成原因(causa efficiens)を表現せねばならぬという
ことです。たとえば、円の諸特質を探求するために、私は、円のあの観念、即ち円は一定
点を通過する弦の二線分の積分が常に相等しい図形であるという観念から、円のすべての
特質が導出されうるかどうかをたずねます。つまり私は、この観念が円の起成原因を含む
かどうかをたずねます。ところが、この観念はそれを含まないので、私は他の観念を求め
ねばなりません。即ち、円は一点が固定し他点が動く一つの線によって画かれる空間であ
るという観念です。この定義は起成原因を表現していますから、円のすべての特質がそれ
から導出されうることを私は知ります…。同様にまた私が、神を最高完全な実体である
と定義する場合、この定義は起成原因(私の考えでは[、]起成原因には外的なものばかりで
なく内的なものもあります)を表現しないから、私はそれから神のすべての特質を結論す
ることができないでしょう。これに反して神を絶対に無限な実体云々(エチカ第一部定義
大参照)と定義する場合は……。(『スピノザ往復書簡」六十 スピノザからチルンハウス
へ 畠中尚志訳)

 つまり、あるもののすべての特質を導きだせるようなものが「観念ないし定義」である。
スピノザの例でいえば、「神は最高完全な実体である」という定義は概念であり、「神は無限
な実体である」という定義は観念である。

12:08 午前  

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