水曜日, 10月 14, 2015

坂本龍馬とプルードン

 プルードン(1809-1865)と坂本龍馬(1835-1867)は同時代人である。龍馬の方が25歳
ほど若いが、彼らは同じ「敵」と戦った。
 それは具体的にはナポレオン三世という名前で指し示され得る国内外の植民地主義と言える
だろう。当時ナポレオン三世のフランスは小栗らの幕府に軍艦を貸して、薩摩、長州と戦わせ
ようとしていた。この計画が実行されれば、龍馬が画策した維新もなかったといわれている
(日仏借款に関しては、日本側にそれほど危険はなかったという説もあるが、フランスの
アジアの他地域における植民地政策を見ればそうは断言できない)。またナポレオン三世は、
フランスではプルードンの社会革命を封じ込めようとしていた。
 ここで彼らが同じ「敵」と戦っていたことが、彼らの類似を指し示すだけではなく、対等な
経済取り引きにもとづく平等を彼らが指向していたことが最重要である。これは両者がともに
政治革命ではなく、(自主管理を原則とする)社会革命を志向していたということである。
 龍馬は刀をピストルに、そしてピストルを『万国公法』(漢訳国際法)に持ち替えたといわ
れるが、そうした「法にもとづく平等(龍馬の用語でいえば「ナラシ」)」も両者に共通した
指向である(龍馬は『万国公法』の出版を海援隊で計画していたという。海援隊が情報集団と
して再評価される所以である)。
 プルードンは、政治革命に熱狂する大衆からひとり距離をおき冷静だった。同じように龍馬
も、剣=武力に頼った改革からはひとり距離をおいていた。龍馬は朝鮮、中国との同盟も、
商船を通じて模索していたという。その同盟の原理はプルードンの相互主義と一致していると
言える。
 プルードンは回船業の会計をやっていた経歴があり、晩年の国際的同盟への関心は龍馬との
同時代性を指し示すものだ。ちなみに下士の生まれである龍馬は、町人の系譜を持った家系だっ
たことが特筆される。また龍馬の作った海援隊は、海軍の基礎ともいわれるが、同時にその商業
のコンセプトは三菱汽船に受け継がれている(それ以前の1865年に龍馬が長崎に作った、海援隊
の前身・亀山社中は日本最初の株式会社ヘの試みとして著名である)。

NHKで発見された坂本龍馬最後の手紙の内容
http://www.victory-blog.net/ryouma_saigonotegami
新政府の財政担当に、強く三岡八郎を推薦したのです。日本の未来を見据えていた坂本龍馬。
「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?
三岡八郎をスカウトするなり、日本の未来を考えていた、龍馬の視野の広さ、活動の雄大さをよく示す資料です。」

『藩論』を読めばわかるが、坂本龍馬は中江兆民などの自由民権運動に繋がる。


ばいキングが歴史を変えた!あの龍馬の最後の手紙を見てきた。高知県立坂本龍馬記念館から見た太平洋の絶景
http://www.victory-blog.net/ryouma_saigonotegami
歴史的に大切なことが書かれている、坂本龍馬最後の手紙は、
大政奉還が終わったあと、龍馬は福井を訪ねていき、
今後の日本がどう進むべきか、お金が無い新政府をどうすべきかという部分を
相談していた内容になっていました。

宛先は土佐藩の重役、後藤象二郎へ「後藤先生」となっています。

世紀の大発見、その内容とは、

「越行の記」と書かれているその書簡は、慶応3年の10月末から11月初め、
大政奉還の直後、越前福井に八郎に会いに行く話です。
新しい日本を作ることに翻弄していた龍馬、薩長同盟が成立したキーマンだった。
その後土佐藩を動かし、朝廷に返上するよう幕府に働きかけた。

慶応3年10月14日、大政奉還。そのわずか10日後、龍馬は福井へ。
手紙はその内容が綴られていたのです。

—————————————-
十月二十八日福井に達す

役名を問ふ
我海援隊惣官を似てことふ
—————————————-

福井藩士に役名を問われた龍馬が、海援隊総官と名乗ったこととなります。
龍馬の使命は、土佐藩 山内容堂の手紙を、福井藩 松平春嶽に手渡すこと。
しかし、龍馬の思いはこれだけではない。新しい新政府の財政担当者を探すこと。

—————————————-
三十日朝 三岡八郎及び
立会人の者来る
—————————————-

この時に龍馬が会ったのは、三岡八郎だった。
福井藩で財政改革を成し遂げた人、どうしても新政府の財政を頼まないといけない。

「生生しい越前行の資料となります」

経済に詳しい三岡八郎が龍馬に言った言葉が、手紙に記されていました。

—————————————-
最近幕府は失策のみであり
その上無策である

このままでは人心の
不振を招くのみである
—————————————-

二人は新政府の財政に関して論じたようです。
最後に後藤象二郎にこう書いた。

—————————————-
金銀物産のことを
論じ候にはこれ三八を置いて
他に人なかるべし
—————————————-

新政府の財政担当に、強く三岡八郎を推薦したのです。
日本の未来を見据えていた坂本龍馬。

「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、
倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?

三岡八郎をスカウトするなり、日本の未来を考えていた、
龍馬の視野の広さ、活動の雄大さをよく示す資料です。」




 プルードン(1809-1865)と坂本龍馬(1835-1867)は同時代人である。龍馬の方が25歳
ほど若いが、彼らは同じ「敵」と戦った。
 それは具体的にはナポレオン三世という名前で指し示され得る国内外の植民地主義と言える
だろう。当時ナポレオン三世のフランスは小栗らの幕府に軍艦を貸して、薩摩、長州と戦わせ
ようとしていた。この計画が実行されれば、龍馬が画策した維新もなかったといわれている
(日仏借款に関しては、日本側にそれほど危険はなかったという説もあるが、フランスの
アジアの他地域における植民地政策を見ればそうは断言できない)。またナポレオン三世は、
フランスではプルードンの社会革命を封じ込めようとしていた。
 ここで彼らが同じ「敵」と戦っていたことが、彼らの類似を指し示すだけではなく、対等な
経済取り引きにもとづく平等を彼らが指向していたことが最重要である。これは両者がともに
政治革命ではなく、(自主管理を原則とする)社会革命を志向していたということである。
 龍馬は刀をピストルに、そしてピストルを『万国公法』(漢訳国際法)に持ち替えたといわ
れるが、そうした「法にもとづく平等(龍馬の用語でいえば「ナラシ」)」も両者に共通した
指向である(龍馬は『万国公法』の出版を海援隊で計画していたという。海援隊が情報集団と
して再評価される所以である)。
 プルードンは、政治革命に熱狂する大衆からひとり距離をおき冷静だった。同じように龍馬
も、剣=武力に頼った改革からはひとり距離をおいていた。龍馬は朝鮮、中国との同盟も、
商船を通じて模索していたという。その同盟の原理はプルードンの相互主義と一致していると
言える。
 プルードンは回船業の会計をやっていた経歴があり、晩年の国際的同盟への関心は龍馬との
同時代性を指し示すものだ。ちなみに下士の生まれである龍馬は、町人の系譜を持った家系だっ
たことが特筆される。また龍馬の作った海援隊は、海軍の基礎ともいわれるが、同時にその商業
のコンセプトは三菱汽船に受け継がれている(それ以前の1865年に龍馬が長崎に作った、海援隊
の前身・亀山社中は日本最初の株式会社ヘの試みとして著名である)。

NHKで発見された坂本龍馬最後の手紙の内容
http://www.victory-blog.net/ryouma_saigonotegami
新政府の財政担当に、強く三岡八郎を推薦したのです。日本の未来を見据えていた坂本龍馬。
「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?
三岡八郎をスカウトするなり、日本の未来を考えていた、龍馬の視野の広さ、活動の雄大さをよく示す資料です。」

1 Comments:

Blogger yoji said...

 プルードン(1809-1865)と坂本龍馬(1835-1867)は同時代人である。龍馬の方が25歳
ほど若いが、彼らは同じ「敵」と戦った。
 それは具体的にはナポレオン三世という名前で指し示され得る国内外の植民地主義と言える
だろう。当時ナポレオン三世のフランスは小栗らの幕府に軍艦を貸して、薩摩、長州と戦わせ
ようとしていた。この計画が実行されれば、龍馬が画策した維新もなかったといわれている
(日仏借款に関しては、日本側にそれほど危険はなかったという説もあるが、フランスの
アジアの他地域における植民地政策を見ればそうは断言できない)。またナポレオン三世は、
フランスではプルードンの社会革命を封じ込めようとしていた。
 ここで彼らが同じ「敵」と戦っていたことが、彼らの類似を指し示すだけではなく、対等な
経済取り引きにもとづく平等を彼らが指向していたことが最重要である。これは両者がともに
政治革命ではなく、(自主管理を原則とする)社会革命を志向していたということである。
 龍馬は刀をピストルに、そしてピストルを『万国公法』(漢訳国際法)に持ち替えたといわ
れるが、そうした「法にもとづく平等(龍馬の用語でいえば「ナラシ」)」も両者に共通した
指向である(龍馬は『万国公法』の出版を海援隊で計画していたという。海援隊が情報集団と
して再評価される所以である)。
 プルードンは、政治革命に熱狂する大衆からひとり距離をおき冷静だった。同じように龍馬
も、剣=武力に頼った改革からはひとり距離をおいていた。龍馬は朝鮮、中国との同盟も、
商船を通じて模索していたという。その同盟の原理はプルードンの相互主義と一致していると
言える。
 プルードンは回船業の会計をやっていた経歴があり、晩年の国際的同盟への関心は龍馬との
同時代性を指し示すものだ。ちなみに下士の生まれである龍馬は、町人の系譜を持った家系だっ
たことが特筆される。また龍馬の作った海援隊は、海軍の基礎ともいわれるが、同時にその商業
のコンセプトは三菱汽船に受け継がれている(それ以前の1865年に龍馬が長崎に作った、海援隊
の前身・亀山社中は日本最初の株式会社ヘの試みとして著名である)。

NHKで発見された坂本龍馬最後の手紙の内容
http://www.victory-blog.net/ryouma_saigonotegami
新政府の財政担当に、強く三岡八郎を推薦したのです。日本の未来を見据えていた坂本龍馬。
「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?
三岡八郎をスカウトするなり、日本の未来を考えていた、龍馬の視野の広さ、活動の雄大さをよく示す資料です。」

12:57 午前  

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