http://www.freeassociations.org/
NAMs出版プロジェクト: ニーチェ『善悪の彼岸』2:20
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/20.html(本頁)《…すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげで思うに、同様な文法的機能による支配と指導とのおかげで始めから一切が哲学体系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に「世界を」眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。》
ニーチェ『善悪の彼岸』岩波文庫2:20より
《ニーチェの『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Böse, 1885/86)は、以前から本文庫に収められている『道徳の系譜』(Zur Genealogie der Moral, 1887)と姉妹をなすものである。このことは、『道徳の系譜』の扉の裏に「最近に公にした『善悪の彼岸』を補説し解説するために」と書き添えられていることからも、すでに明らかであろう。》
木場深定、岩波文庫訳者あとがきより
蚊居肢: 人間の思考はその人間の母語によって決定される
http://kaie14.blogspot.jp/2015/08/blog-post_45.html個々の哲学的概念は、けっして任意にそれ自身だけで生ずるものでなく、相互の関係関連のうちに成長するものである。また、それが一見いかに唐突に恣意に思考の歴史のなかにあらわれていようとも、じつは一つの体系に属しているのであって、さながらある大陸に棲むすべての生物が一つの系統に属するようなものである。――以上の事実は、この上なく異なった哲学者たちも、結局は、ある考えられうべき根本方式を、つねにくりかえししかも確実にみたしているということによっても察知されよう。彼らは目に見えぬ呪縛の圏内にあって、同じ軌道をつねにふたたびまわってゆく。かれらはその批判的ないしは体系的意志をもって、互に、独立しているように感じているではあろう。しかも、彼らの内のなにものかがつねに彼らを導いている。なにものかが、すなわち、彼の生得の概念の体系と類縁が、彼らを一定の順序にしたがってつぎつぎと駆り立ててゆく。
事実、彼らの思考は発見ではなくて、むしろ再認識、回想、それらの概念がかつてそれより生まれきたりしところの遠きいにしえの霊魂の共有財への復帰であり、帰郷である。このかぎりにおいて、哲学することは最高級の隔世遺伝の一種である。インド・ギリシャ・ドイツのすべての哲学的思考に通ずる驚くべき血縁の類似は、簡単に説明される。ここには言葉の類縁がある。されば、文法の共通の哲学によって--すなわち、同じ文法的機能による無意識の支配と指導によって--はじめから、哲学体系が同質の展開と順列をなすべき定めを持っていることは、避けがたいことである。同時に、世界解釈の他の可能性への道がとざされてあることも、避けがたいことである。ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。…(ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳)
《あの「われは思う」は、私が私の現下の状態を、私が私において知る他の状態と比較して確定する、ということを前提にしているのである。》1:17
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後で述べるようにニーチェなどが激しく批判するのですが、いまはさしあたってデカルトの 言う. ことにしたがって、自我 .... が動作Bをする」というヨーロッパ語の文法形式からの 推論であるにすぎず、それ以上の根拠を ..... [9] Nietsche, F. W.(1886): Jenseite von Gut und B¨ose.(ニーチェ著,信太正三訳:『善悪の彼岸』. ちくま学芸 ...
9:260
《…ついに私には二つの根本類型が 窺 われ、一つの根本的区別が際立って見えた。すなわち、主人道徳と奴隷道徳とが存在する。》
主人と奴隷はヘーゲルのように止揚されない。主人道徳は古代ギリシャを想定している。
フーコー、ニーチェの系譜学
フーコーが『性の歴史2』(83)『性の歴史3』(84)が執筆・出版される1983年に至る最終期までの期間において(実際76年の『性の歴史1』の出版から6年間の出版上の沈黙があったのだが)、それまでのフーコーを大きく分けて三段階に分けることができる。一つ目は『狂気の歴史』(61)、『精神疾患と心理学』(62)、『臨床医学の誕生』(63)の段階。二つ目は、『言葉と物』(68)、『知の考古学』(69)の段階。そして最後は、『監視と処罰』(75)、『知への意志』(76)の段階。そして、この論文「ニーチェ、系譜学、歴史」は、その中の二段階目と三段階目の移行期(71)に書かれたものである。フーコーの面白い特徴は、移行期の直前に必ず重要なニーチェ論を書くことである。それはバタイユについて書かれたものを考えるとより明確である。「侵犯への序言」(63)、「バタイユ全集の巻頭に」(70)、「哲学の舞台」(78)、「ミシェル・フーコーとの対話」(80年掲載、78年収録)。当然バタイユについて書かれたときに、ニーチェがその念頭にあったのは言うまでもない。以下の要旨を見ていただければ、一目瞭然であると思うが、ニーチェのエピステモロジーへの影響と、その重要性は明らかであると思われる。
以下の要旨と、抜粋において示されるのは、ニーチェの系譜学というプログラムの骨子であるが、それが、いささか本質的に倒錯的であることも、同時に示されている。第7節で、はっきりと書かれているように、70年代初頭、『反時代的考察』の頃には、「記念碑的歴史」、「尚古的な歴史」、「批判的歴史」を、生の生成の創造性を抑圧するものとして、生の運動をただの真理への配慮のためのみに犠牲にするものとして批判している。これはある意味でよくわかる、常識的批判だと言うことができるかもしれない。そして、一見すると、これらの批判は、5節、6節で論じられる、ニーチェの歴史(学)批判とも合致するかのようでもあるのだ。
系譜学はある意味でニーチェが1874年に認めていた歴史の三つの様相に帰着する。当時ニーチェが、生の名の下に、生の確立し創造する力の名の下に、その三つの様相に対して向けた反論を超えて、系譜学は再び帰るのである。しかしそれらを変貌させながらそこへ戻るのである。記念碑への崇敬はパロディーとなり、古代の連続性への尊敬は組織的な解体作業となり、現在人間が保持している真理による、過去の不公正の批判は、知の意志に固有の不公正による、認識の主体の破壊となるのである。
2 Comments:
ワーグナーと決別したニーチェの思想こそが『寄生獣』に通底しているものだ。
《「本能」がこれまで発見されたすべての種類の知性のうちで最も知性的なものだということ
の証明…。要するに、君たち心理学者諸君よ、「例外者」と戦う「常例者」の哲学を研究した
まえ。そこに諸君は一幕の芝居を、神々と神々の悪意に十分に適った一幕の芝居を観たまえ!
或いは、もっと明瞭に言えば、「善良な人間」について、諸君自身について生体解剖を行ない
たまえ!》(ニーチェ『善悪の彼岸』7:218岩波文庫)
どのように裏切りの眼を手で蔽っても(あたかも手が裏切り者でないかのように!)、不可避的に精神を
もたずにいられない人間がいる。
…
少なくとも可能なかぎり長く欺き、自分を実際より以上に愚かしく見せることに成功するため最も精巧精巧な
手段の一つは、すなわち感激ということである。
ニーチェ
善悪の彼岸9:288
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