水曜日, 3月 23, 2016

河上肇 貧乏物語:メモ(マルクスと孔子,孟子)

           ( 経済学マルクス孔子リンク::::::::::
NAMs出版プロジェクト: 宇沢弘文(1928~2014):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/03/blog-post_10.html
Smith, Adam『国富論』(v+mのドグマへの反論)
http://nam-students.blogspot.jp/2014/06/smith-adam.html
NAMs出版プロジェクト: 河上肇 貧乏物語:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/03/blog-post_23.html

宇沢弘文が影響を受けた本 …

河上肇 貧乏物語
http://www.aozora.gr.jp/cards/000250/files/18353_30892.html
11:2
 今私はマルクスの議論をたどってそれを一々批評して行くというようなめんどうな仕事をばここでしようとは思わぬ。しかし幸いにも彼の経済的社会観に似た思想は、古くから東洋にもあるので、すでにわれわれの耳に熟している古人の句を借りて来れば、私はそれで一通り自分の話を進めて行くことができる。
 その句というは、論語にある孔子の言である。すなわち子貢がまつりごとを問いし時、孔子はこれに答えて

「足、足、使ヲシテ一レ矣。〈食を足し、兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ〉(顔淵第十二)
と言っておられる。しかしてわが国の熊沢蕃山くまざわばんざんはさらにこれを注訳して次のごとく述べている。
「食足らざるときは、士むさぼり民はとうす、争訟やまず、刑罰たえず、かみおごしもへつろうて風俗いやし、盗をするも彼が罪にあらず、これを罰するは、たとえば雪中に庭をはらい、あわをまきて、あつまる鳥をあみするがごとし。……これ乱逆の端なり、戦陣をまたずして国やぶるべし。兵を足すにいとまあらず。いわんや信の道をや。」(集義和書、巻十三、義論八)
 これらの文章を読む時は、われわれはすでに幕府時代においてロイド・ジョージの演説を聞くの感がある。
 孟子もうしまたいわく

「恒産なくして恒心あるは、ただ士のみくするをす。民のごときはすなわち恒産なくんば因って恒心なし。いやしくも恒心なくんば、放辟ほうへき邪侈じゃしさざるところなし。すでに罪に陥るに及んでしかのち従ってこれを刑す、これ民をあみするなりゆえに明君は民の産を制し、必ず仰いではもって父母につこうまつるに足り、してはもって妻子をやしなうに足り、楽歳には終身飽き、凶年には死亡を免れしめ、しかる後って善にかしむ。ゆえに民のこれに従うや軽し。今や民の産を制して、仰いでは以て父母に事うまつるに足らず、俯しては以て妻子を畜うに足らず、楽歳には終身苦しみ、凶年には死亡を免れず、これただ死を救うてらざらんを恐る。いずくんぞ礼義を治むるにいとまあらんや。」(梁恵王りょうのけいおう章句上)
 ここに恒産なくんば因って恒心なしとあるは、これを言い換うれば、経済を改善しなければ道徳は進まぬということなので、そうしてこれがいわゆる経済的社会観の根本精神の一適用なのである。
(十二月十日)

参考:
孔子『論語』+年表
http://nam21.sakura.ne.jp/koushi/#note1207
12顔淵:7
子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立、

子貢、政を問う。子の曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。子貢が曰わく、必ず已(や)むを得ずして去らば、斯の三者に於て何(いず)れを か先きにせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何ずれをか先きにせん。曰わく、食を去らん。古(いにしえ)より皆 な死あり、民は信なくんば立たず。

子貢が政治のことをお訊ねした。先生は言われた、「食料を十分にし軍備を十分にして、人民には信頼を持たせることだ。」子貢が「どうしてもやむを得ずに捨 てるなら、この三つの中でどれを先にしますか。」と言うと、先生は「軍備を捨てる」と言われた。「どうしてもやむを得ずに捨てるなら、あと二つの中でどれ を先にしますか。」と言うと、「食料を捨てる[食料がなければ人は死ぬが、]昔から誰にも死は在る。人民は信頼がなければ安定しない。」と言われた。 

(今日的に言うと三島由紀夫が唱えたように兵の半分は国連で一元管理すべきだろう。)

しゅうぎわしょ【集義和書】の意味 - goo国語辞書
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/103505/meaning/m0u/
  1. 江戸時代の随想録。16巻。熊沢蕃山著。寛文12年(1672)刊。蕃山の思想・学問を問答形式によって論じた書。「集義外書」とともに蕃山の主著。


林田明大の「夢酔独言」:『集義和書』 - livedoor Blog


blog.livedoor.jp/akio_hayashida/tag/『集義和書
小楠は、ともすれば朱子学者のように言われているが、陽明学者・熊沢蕃山の『集義 和書』 の愛読者なのである。 後述するが、小楠は、福井藩で藩政改革に尽力するの だが、その時の人材育成のテキストとして『集義和書』を用いている。

孟子 「無恒産而有恒心者」 現代語訳 | 漢文塾
http://kanbunjuku.com/archives/100
<漢文>
孟子 無恒産而有恒心者
孟子曰、
無恒産而有恒心者、惟士為能。
若民則無恒産、因無恒心。
苟無恒心、放辟邪侈、無不為已。
及陥於罪、然後従而刑之、是罔民也。
焉有仁人在位、罔民而可為也。
是故、明君制民之産、必使仰足以事父母、俯足以畜妻子、楽歳終身飽、凶年免於死亡、然後駆而之善。
故民之従之也軽。
今也制民之産、仰不足以事父母、俯不足以畜妻子、楽歳終身苦、凶年不免於死亡。
此惟救死而恐不贍。
奚暇治礼義哉
。」
(梁恵王 上)
<書き下し>
孟子 恒産無くして恒心有る者
孟子曰はく、
恒産無くして恒心有る者は、惟(た)だ士のみ能(よ)くするを為(な)す。
民の若(ごと)きは則ち恒産無ければ、因(よ)りて恒心無し。
苟(いや)しくも恒心無ければ、放辟(ほうへき)邪侈(じやし)、為(な)さざる無きのみ。
罪に陥るに及びて、然(しか)る後に従ひて之を刑するは、是(こ)れ民を罔(あみ)するなり。
焉(いづ)くんぞ仁人位に在りて、民を罔するを為すべきこと有らんや。
是の故に、明君は民の産を制するに、必ず仰ぎては以て父母に事(つか)ふるに足り、俯(ふ)しては以て妻子を畜(やしな)ふに足り、楽歳には終身飽き、凶年にも死亡を免れ、然る後駆りて善に之(ゆ)かしむ。
故に民の之(これ)に従ふや軽し。
今や民の産を制するに、仰ぎては以て父母に事ふるに足らず、俯しては以て妻子を畜ふに足らず、楽歳にも終身苦しみ、凶年には死亡を免れざらしむ。
此(こ)れ惟だ死を救ひて而(しか)も贍(た)らざるを恐る。
奚(なん)ぞ礼義を治むるに暇(いとま)あらんや。
」と。
<現代語訳>
孟子が言った。
一定の職業や収入がなくて、一定不変の道徳心を持っていられるのは、ただ学問教養がある人だけである。
一般の人々は一定の職業や収入がなければ、一定不変の道徳心は持てない。
もし、一定不変の道徳心がなければ、勝手気ままでしたい放題のことをしない人はいない。
(それを知っていながら)罪を犯したら、すぐさま処罰するのは、人々に網をしかけて捕らえるようなものだ。
どうして、仁徳ある君主が人々を治める地位にありながら、人々に網をしかけて捕らえることができるだろうか(できはしない)
だからこそ、名君は人々の生業を定めるのに、頭を上げては父母に十分に仕え、頭を下げては妻子を十分に養い、豊年の年には腹一杯食べ、不作の年にも餓死させず、そうしてから人々を励まして善に仕向けた。
だからこそ、人々が名君に従うのはたやすいことだった。
(ところが)今では人々の生業を定めるのに、頭を上げては父母に仕えることも満足にできず、頭を下げては、妻子を養うのも十分にできず、豊作の年でもずっと苦しみ、凶作の年には餓死せざるを得ない。
これは、ひたすら餓死を免れようとして、力が足りないことを恐れている。
どうして礼儀を修めるひまがあろうか、ありはしない。
_____



抑王興甲兵、危士臣、搆怨於諸侯、然後快於心與、王曰、否、吾何快於是、將以求吾所大欲也、曰、王之所大欲、可得聞與、王笑而不言、曰、爲肥甘不足於口與、輕煖不足於體與、抑爲采色不足視於日與、聲音不足聽於耳與、便嬖不足使令於前與、王之諸臣、皆足以供之、而王豈爲是哉、曰、否、吾不爲是也、曰、然則王之所大欲可知已、欲辟土地、朝秦楚、莅中國、而撫四夷也、以若所爲、求若所欲、猶縁木而求魚也、王曰、若是其甚與、曰、殆有甚焉、縁木求魚、雖不得魚、無後災、以若所爲、求若所欲、盡心力而爲之、後必有災、曰、可得聞與、曰、鄒人與楚人戰、則王以爲孰勝、曰、楚人勝、曰、然則小固不可以敵大、寡固不可以敵衆、弱固不可以敵彊、海内之地、方千里者九、齊集有其一、以一服八、何以異於鄒敵楚哉、蓋亦反其本矣、今王發政施仁、使天下仕者、皆欲立於王之朝、耕者皆欲耕於王之野、商賈皆欲藏於王之市、行旅皆欲出於王之塗、天下之欲疾其君者、皆欲赴愬於王、其若是、孰能禦之、王曰、吾惛、不能進於是矣、願夫子輔吾志、明以教我、我雖不敏、請嘗試之、曰、無恒産而有恒心者、惟士爲能、若民、則無恒産、因無恒心、苟無恒心、放辟邪侈、無不爲已、及陷於罪、然後従而刑之、是罔民也、焉有仁人在位、罔民而可爲也、是故明君制民之産、必使仰足以事父母、俯足以畜妻子、樂歳終身飽、凶年免於死亡、然後驅而之善、故民之從之也輕、今也制民之産、仰不足以事父母、俯不足以畜妻子、樂歳終身苦、凶年不免於死亡、此惟救死而恐不贍、奚暇治禮義哉、王欲行之、則盍反其本矣、五畝之宅、樹之以桑、五十者可以衣帛矣、鷄豚狗彘之畜、無失其時、七十者可以食肉矣、百畝之田、勿奪其時、八口之家、可以無飢矣、謹庠序之教、申之以孝悌之義、頒白者不負戴於道路矣、老者衣帛食肉、黎民不飢不寒、然而不王者未之有也。


(孟子の言のつづき)「だいたい王は軍を進め、家臣を生死の危険にさらし、諸侯と怨恨を結んで、それでご自分の喜びとしているのですか。」
斉宣王「そんなことはない。そのことで私が喜んでいるわけがないでしょう。私は自分の大望を果たしたいがためなのです。」
孟子「では、王の大望をぜひお聞かせ願えないでしょうか。」
宣王は、笑って答えなかった。
孟子「もっと美味いものが欲しいからですか?もっといい衣装が欲しいからですか?もっと目の保養になるものをお望みですか?もっといい音楽が聴きたいからですか?それとももっと思いのままになる家臣が欲しいからですか?王の家臣たちなら、全てこれらのものを十分ご用立てなさるでしょう。つまり、王はこんなことのために戦争をなさっているはずがありません。」
斉宣王「おっしゃるとおり。そんなことのためのはずがない。」
孟子「ならば、王の大望は推測できます。国を拡張し、秦・楚を来朝させ、中国に君臨して四方の蛮族を平定なさりたいからでしょう。だがですな、今のようなやり方で、王の大望を果たそうとなさるのは、『猶(な)お木に縁(よ)りて魚を求むがごとし』(まるで木のそばに立って魚を捕らえようとするようなもの)です。」
斉宣王「そんなに無理なことをしていると言われるか?」
孟子「いや、実際に木のそばで魚を捕えようとするより、もっと無理なことをしておられると言わざるをえません。木のそばで魚を捕らえられなくても、実害はありません。だが、王の大望ために戦争を繰り返すならば、心と力を尽して頑張ったのに、結局人民と諸侯の恨みが残るだけです。」
斉宣王「もっと詳しく聞かせてください。」
孟子「弱小の鄒と大国の楚、いざ戦えばどちらが勝つとお思いですか。」
斉宣王「楚でしょうなあ。」
孟子「ならば、小国は大国に勝つことは到底できず、少数は多数に勝つことは到底できないということですね。この大陸には、領域が千里四方ある国が、合わせて九つ(斉、魏、趙、韓、秦、燕、楚、宋に、中山だろうか)。斉はその一つにすぎません。一で残りの八を征服しようとするのは、鄒が楚に勝てないのと異らないではありませんか。政治の根本にお帰りなさい。今、王が政治を大いに行って仁の道を施されるならば、天下で仕官する者はみな王の足下に馳せ参じることを願い、耕作する者はみな王の土地で耕作することを願い、商人はみな王の市場で店を開くことを願い、旅行者はみな王の道路を利用することを願い、そして天下で己の君主を憎む者はみな王に訴えることを願うようになるです。そうなったならば、誰が王の進む道を止めることができましょうか。」
斉宣王「私は愚か者なのでどうすればよいかわかりません。先生、どうか私の志を助け、その仁の道というのをもっとはっきり教えてください。私、不肖ながらもなんとかやってみたいと思います。」
孟子「安定した収入がなくても安定した心を持てる、そんなことができるのは「士」(統治者階級)だけです。人民は安定した収入なしではとても安定した心を持つことができません。安定した心がなければ、やりたい放題やるわ、逆恨みするわ、悪心を起こすわ、無計画に浪費するわ、なんでもやります。犯罪をする要因を知っていながら、犯罪を成した後に処罰するなどというのは、人民をないがしろにした政治です。仁の道をとる人が君主であるならば、どうして人民をないがしろにして国を治めることができましょうか。だから、いにしえの明君が人民の生活に対して行った政策というのは、まず父母への孝行と妻子の養育が十分できるようにさせ、豊作年には常に満ち飽きて楽しみ、凶作年でも餓死したりしないように取り計らった上で、人民を善事に駆り立てたのです。だから人民はやすやすと君主のいいつけに従いました。ところが、今の君主が人民の生活に対して行う政策はその全く逆で、父母への孝行と妻子の養育も十分にできないほど収奪し、豊作年でも常に苦しみ、凶作年には餓死するより他はない。これでは人民は何とか死なないようにするのが精いっぱいです。礼儀を身に付けることなどできるわけありません。
王よ、仁の道を取りたいのならば、政治の根本にお帰りなさい。具体的に申せば、

  • 一家族につき宅地を五畝(9.1アール)。そこに桑の木を植えさせれば、五十の年寄りが絹を着ることができます。
  • 鷄 ・豚・犬の飼育をむやみに屠殺せず計画的に繁殖させれば、七十の年寄りが肉を食べることができます。
  • 一家族につき農地を百畝(1.82ヘクタール)。農繁期をじゃましないようにすれば、一家族八人ぐらいなら餓えることはありません。
  • 道徳学校の教育を徹底させ、親への孝行(孝)と目上の親族への崇敬(悌)の秩序を教え込ませれば、白髪の老人が道路で重荷を背負って苦しむような光景はなくなります。
こうして、老人は絹の服を着て肉を食い、人民は餓えも凍えもしなくなります。ここまでして王にならない者は、未だかってありませんでした。」
★故事成句★
「木に縁(よ)りて魚を求む」(やり方をまちがえている)
「恒産なき者は恒心なし」(収入の道が安定していないと心も安定しない)



_____

  十一の三
 私は上編において今日多数の人々が貧乏線以下に沈淪ちんりんしていることを述べたが、これらの人々は孟子もうしのいわゆる恒産なきのはなはだしきものである。しかるに民のごときは恒産なくんば因って恒心なく、すでに恒心なくんば放辟ほうへき邪侈じゃしなさざるところなし。いずくんぞ彼らをしておのおのその明徳を明らかにし、相親しみて至善にとどまらしむることを得ん。これ経済問題が最も末の問題にしてしかも最初の問題たるゆえんである。
 試みにこれを現代経済組織の人心に及ぼす影響について述べんに、すでに説きしがごとく、金さえあれば便利しごくな代わりに、金がなければ不便この上なしというが、今の世のしくみである。すでに世のしくみがそうである。そこで世間無知のともがらは、早くもいっさい万事これ金なりと心得、義理も人情も打ち捨てて互いに金をつかみ合うさま、飢えたる獣の腐肉を争うがごときに至る。あにただに世間無知の輩とのみ言わんや。時としては一代の豪傑も金のためには買収され、一時の名士も往々にして金のためには節を売り、かくのごとくにしてついには上下こぞって、極端なる個人主義、利己主義、唯物主義、拝金主義にはしるに至る。
 思うに這個しゃこの消息は、私がここに今さららしく書きつづるまでもなく、早くより警眼けいがんなる社会観察者の看取し得たるところである。今しばらくこれをわが国の古書について述べんか、たとえば、かの『金銀万能丸きんぎんまんのうがん』のごときは(後に『人鏡論』と改題され、さらに『金持重宝記かねもちちょうほうき』と改題さる、今は収めて『通俗経済文庫』にあり)、今をさる約二百三十年前、貞享じょうきょう四年に出版されたものだが、それを見ると、僧侶そうりょと儒者と神道家とが三人寄り合ってしきりに世の澆季ぎょうきを嘆いている。それをば道無斎どうむさいという男が、そばから盛んに拝金宗を説きたててひやかすという趣向で、全編ができているが、その道無斎がなかなかうがったことを言っている。
 まず四人同道で伊勢いせ参宮さんぐうのために京都を出る時に、道すがら三人の者がそれぞれ詩や歌をむと、道無斎がそれを聞いて、滔々とうとうとして次のごとき説法を始めるのである。

「おのおののやまと歌、から歌、さらに道理にかないそうらわず、ただおもしろくもありがたくも聞こえはべるは、黄金にてぞはべる。ひえの紅葉もみじ長柄ながらにしき横川よかわの月を見やりたまいしも、金がなくてはさらにおかしくもおもしろくもあるまじ、ただ世の中は黄金にこそ天地もそなわり、万物みなみなこれがなすところにして、人間最第一の急務にてはべるなり。さればにや仏も種々なる口をききたまいし中にも、ややともしては金銀こんごん瑠璃るりとのべられて、七宝の第一に説かれしなり。十万の浄土も荘厳しょうごんなにぞと尋ぬれば、みなみな黄金ずくめなり、孔子も老子も道をかたりひろめし中には、今日のろくを第一に述べられしなり。」……
道無斎は勢いに乗ってさらに次のごとき物語をする。
「このちかきころにさる大福長者とおぼしき人を打ちつれて、黒谷くろだにもうでしはべりけるに、上人しょうにん出合い、この道無をば見もやらで、かの金持ちの男をあながちにもてなし、……さてさておぼしめし寄りての御参詣かな、仏法の内いかようの大事にても御尋ね候え、宗門のうちにての事をば残さず申しさずけんとて、まことに焼けねずみにつけるきつねのごとくおどり上がりはしりつつ色をかえ品をかえて馳走ちそうなり。この道無かねて金の浮世と存ずれば、すこしも騒がず、ちと用あるていにもてなし門前にいで、小石を銀ならば二まいめほどに包んで懐中し、元の座敷に居なおりつつ上人に打ちむかい、ふところより取り出しさし寄り申しけるは、近きころ秘蔵の孫を一人失い申しけるまことに老いの身の跡にのこり、若木の花のちるを見て、やるかたなき心ざしおぼしめしやらせたまえ、せめて追善のために細心ほそこころざしさし上げ申すなりとて、一包さし出しはべれば、上人にわかに色をなし、さてさて道無殿は物にかまわぬ一筋なる御人にて、御念仏をも人の聞かぬように御申しある人なりと、常々京都の取り沙汰ざたにてはべるよし、一定いちじょう誠に思いいらせたまえる後世者ごせしゃにてわたらせおわしますよな、またかようの御人は都広しと申すとも有るまじきなり。やれやれ小僧ども、あの道無殿の御供の人によく酒すすめよ、さてまた道無殿へ一宗の大事にてはべれども、かようの信心者に伝えねば、開山の御心にもそむく事にて候えばとて、念仏安心を即座に伝え申されぬ。この時道無おもいしは、さて金の威光功徳の深さよ、たちまち石を金に似せけるだに、かように人の心のかわりはべる事よと、いよいよありがたく覚えはべる。金もてゆく時は極楽世界も遠からず、貧しき者はたとえばあやまりて極楽に行くとても、元来かねずきの極楽なれば、諸傍輩しょほうばい出合いであいあしくなりて追い出されぬべし。これをもて見るに、とかく仏道の大事も金のわざにてなる。」
 怪しむをやめよ、当世の人のしきりに利欲にはしることを。二百三十年前すでにこの言をなせし者がある。
(十二月十一日)

参考:
近代デジタルライブラリー - 通俗経済文庫. 巻1
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953486
『金銀万能丸』






       十一の四

 わが国でもすでに二百三十年前に『金銀万能丸』が出ている。思うに社会組織そのものがすでに利己心是認の原則を採り、だれでもうっかり他人の利益を図っていると、「自分自身または自分の子孫があすにも餓死せぬとも限らぬ」という事情の下に置かれおる以上、利他奉公の精神の大いに発揚せらるるに至らざるもまたやむを得ざることである。
 私は先に、利己主義(個人主義)者を組織するに利他主義(国家主義)の社会組織をもってするは、石を包むに薄帛うすぎぬをもってするがごときものだと言った。しかしそれならば、個人の改良を待ってしかるのち社会組織の改造を行なうべきであるかというに、以上述べきたりしごとく、個人の改造そのものがまた社会組織の改良にまつところがあるのだから、議論をそう進めて来ると、たとえばとびが空を舞うように、問題はいつまでも循環して果てしなきこととなる。しかしこの因果の相互的関係の循環限りなきがごときところに、複雑をきわむる世態人情の真相がある。それゆえ私は、社会問題を解決するがためには、社会組織の改造に着眼すると同時に、また社会を組織すべき個人の精神の改造に重きを置き、両端を攻めて理想郷に入らんとする者である。
 思うに恒産なくして恒心を失わず、貧賤にしては貧賤に処し、患難に素しては患難に処し、いっさいの境に入るとして自得せざるなきは君子のことである。志ある者はよろしく自らこれを責むべし、しかもこれをもっていっさいの民衆を律せんとするは、たきぎ湿しめしてこれを燃やさんとするがごときもの、経世の策としてはすなわち一方に偏するのそしりを免れざるものである。されば悪衣悪食を恥ずる者はともに語るに足らずとなせし孔子も、子貢のまつりごとを問うに答えてはすなわちまず食を足らすと述べ、孟子もうしもまた、民の産を制して、楽歳に身を終うるまで飽き、凶年にも死亡を免れしめ、しかるのちって善にゆかしむるをもって、明君の政なりと論じているのであって、私が今、社会問題解決の一策として経済組織の改造をあぐるもまた同じ趣旨である。
 しかしながら、丈夫な土台を造らなければ立派な家はできぬということはほんとうであっても、丈夫な土台さえできたならば立派な家が必ずできるというわけのものではない。人はパンなくして生くるあたわず、しかしながら人はパンのみにて生くる者にもあらず。それゆえ孟子は、恒産なくんば因って恒心なしとは言ったが、恒産ある者は必ず恒心ありとは言っておらぬ。否孟子は、恒産なくんば因って恒心なしということを言い出す前に、「民のごときはすなわち」と付け加えており、なおその前に「恒産なくして恒心ある者はただ士のみくするを」と言っておる。しかして世の教育に従事する者の任務とするところは、社会の事情、周囲の風潮はいかようであっても、それに打ち勝ちそれを超越して、孟子のいわゆる「恒産なくして恒心ある」ところの「士」なるものを造り出すにある。
 実はそういう人間が出て社会を指導して行かねば、社会の制度組織も容易に変わらず、またいかに社会の制度や組織が変わったとて、到底理想の社会を実現することはできぬと同時に、そういう人間さえ輩出するならば、たとい社会の制度組織は今日のままであろうとも、確かに立派な社会を実現することができて、貧乏根絶というがごとき問題も直ちに解決されてしまうのである。この意味において、社会いっさいの問題は皆人の問題である。
 さて論じきたってついに問題を人に帰するに至らば、私の議論はすでに社会問題解決の第三策を終えて、まさに第一策に入ったわけである。

(十二月十二日)

参考:
NAMs出版プロジェクト: キリスト教:旧約&新約
http://nam-students.blogspot.jp/2013/10/blog-post_29.html#new
マタイ福音書 #4
4:1さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。 4:2そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。 4:3すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 4:4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 4:5それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて 4:6言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。 4:7イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。 4:8次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 4:9言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 4:10するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 4:11そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html

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河上肇(1879-1946)著。 1917年刊。初め『大阪朝日新聞』に連載 (1916) ,のちに刊本。下層社会の貧困を解決する方法として,富者の奢侈禁止,社会政策の採用と社会主義への移行をあげている。この時期の河上は民主主義の域を脱しきっていないが,大正期の被抑圧階層の経済的解放に一定の理論的指針を与えることにより,吉野作造の「憲政の本義」と並んで,大正デモクラシーの理論的支柱となった。

https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/6/3313210.html
第 一次世界大戦下の日本で,社会問題化しはじめた.「貧乏」の問題を直視した河上肇(一八七九―一九四六)は,なぜ多数の人が貧乏しているのか,そしていか にして貧乏を根治しうるかを古今東西の典籍を駆使しながら説き明かす,富者の奢侈廃止こそ貧乏退治の第一策であると.大正五年『大阪朝日新聞』に連載,大 きな衝撃を与えた書.

(マルクスより、アダム・スミスやロイド・ジョージが言及されることが多い。)

デビッド・ロイド・ジョージ - Wikipedia
英語:David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of DwyforOMPC1863年1月17日 - 1945年3月26日)は、イギリス政治家貴族
1890年自由党議員として政界入り。1905年以降の自由党政権下で急進派閣僚として社会改良政策に尽くす。彼の主導によりイギリスに老齢年金制度や健康保険制度、失業保険制度が導入された。


5 Comments:

Blogger yoji said...

貧乏物語

6:2

いにして私の見るところはマルサスとやや異なるところがある。けだしマルサスの議論は、かりに人間全体が貧乏しなければならぬという事の説明となるとしても、かの同じ人間の仲間にあって、ある者は方丈の食饌をつらね得、ある者は粗茶淡飯にも飽くことあたわざるの現象に至っては、全くこれを説明し得ざるものである。いわんや最近百余年の間において、機械の発明は各方面に行なわれ、その著しきものにあっては、ために財貨生産の力を増加せしこと、実に数千倍数万倍に達しつつある。

2:50 午前  
Blogger yoji said...

13:3ラスト

これをもって考うるに、ひっきょう一身を修め一家を斉うるは、国を治め天下を平らかにするゆえんである。大学にいう、「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉う。其の家を斉えんと欲する者は、まず其の身を修む。身修まって後家斉い、家斉うて後国治まり、国治まって後天下平らかなり。天子より以て庶人に至るまで、一に是れ皆身を修むるをもって本を為す。その本乱れて末治まる者は否じ矣」と。嗚呼、大学の首章、誦しきたらば語々ことごとく千金、余また何をか言わん。筆をとどめて悠然たること良久し。(十二月二十六日)

2:52 午前  
Blogger yoji said...

10:1
資本家制


河上肇 貧乏物語
https://www.aozora.gr.jp/cards/000250/files/18353_30892.html


       十の一

 現代経済組織の下において個人主義のもたらせし最大弊害は、多数人の貧困である。しかも今日の経済組織にして維持せらるる限り、しかして社会には依然として貧富の懸隔を存し、富者はただその余裕あるに任せて種々の奢侈しゃしぜいたく品を需要し行く限り、到底この社会より貧乏を根絶するの望みなきがゆえに、ついに経済組織改造の論いずるに至る。詳しくいえば、貨物の生産をば私人の営利事業に一任しおくがごとき今日の組織を変更し、重要なる事業は大部分これを官業に移し、直接に国家の力をもってこれを経営し行くこと、たとえば今日の軍備のごとくまた教育のごとき制度となさんとするの主義すなわちこれにして、余は先の個人主義に対して、かりにこれを経済上の国家主義という。学問上よりいわば、国家は社会の一種に過ぎざれば、国家というよりも社会という方もとより意義広し。されば個人主義に対するものは、これを名づけて社会主義といいおきてさしつかえなき道理なれども、わが国にては、そが一種特別の危険思想を有する者によりて唱道されたるためにや、通例社会主義なる語には一種特別の意義が付せられ――西洋にてもまた同様の傾向あれども、概していえば今日この語の意義は全く確定せず、従って社会主義はほとんど何物エブリー・シングをも意味すとさえ称せられつつあるが――そは経済組織の基本として国家の存在を認めず、もっぱら労働者階級の利益を主眼として世界主義を奉じ、はなはだしきは無政府主義を奉ずるもののごとく思惟せられつつあるに似たるがゆえに、余はこれと混同せられんことをおそれ、特に社会主義なる語を避けて国家主義という。ひっきょう個人主義、民業主義に対する合同主義、官業主義をさすにほかならぬのである。余はこの点において読者が――数十万の読者がことごとく――なんらの誤解をされざらん事をせつに希望するものである。
 さて諸君がもし以上の説明をすなおに受け入れられるならば、私は進んで、次の一文を諸君に紹介する。
 ゼームス・ハルデーン・スミスという人が本年(一九一六年)公にしたる『経済上の道徳エコノミック・モラリズム』と題する序言の付記。――
「以上の序文を書いた後、事件の進行を見ていると、ヨーロッパの交戦国は次第にその産業をば広き範囲にわたって合同主義の上に組織することになった。ドイツの場合が特にそうである。現にドイツ筋から出た一記事には、『開戦以来ドイツの軍国主義は、国民の生活状態をも政府の手によりて引き続き支配することとなり、かくてドイツにおいては一個の社会主義的国家が実現されんとしつつある。すなわちただに一般食料品の価格が政府によりて公定せられおるのみならず、穀物、馬鈴薯ばれいしょ、鉄道及び全国の工場も約六割までは、すべて政府の手によりて支配されておる』と述べてある。英国及びフランスにおいても、形勢は同じ方向に進みつつある。げに有力なる観察者のすでに久しく非難しつつありし個人主義的の、競争的の資本家制度は、戦争の圧力の下においては到底維持しうべからざる経済組織なることをば、これら諸国の政府は今や実際に認めて来たのである。元来個人主義的の経済組織は平時においても等しく維持しうべからざるものなので、この事は遠からず一般に認められて来るだろうと思うが、ことに戦後起こるべき新たなるかつ困難なる事情の下においては必ずそうなる事と信ずる*。」
* James Haldane Smith, Economic Moralism, 1916, Preface, p. 12.
 これによって見れば、軍国主義によって支配されつつあるドイツは、今や一個の社会主義的国家となりつつあると言うのである。私は原文に社会主義とあるから、ここにも社会主義と訳しておいたが、多数の読者にとっては、あるいは国家主義と訳した方が了解に便宜かとも思うのである。いずれにしても、ドイツが開戦以来実行しつつある社会主義なるものは、決して非国家主義ないし無政府主義的のものにあらざること、――及び私が先に、国家主義は一にこれを社会主義というもさしつかえなしと述べたることも――おそらくすべての読者の異議なく是認せらるるはずだと信ずる。……戦争の最中にカイザーが非国家主義や無政府主義を実行するはずはないのだから。
 そこで私は今一つ、だんだん長くなるけれども、今度はドイツ人自身の感想を録して、きょうの話を終わりたいと思う。本年発行の『社会政策及び立法に関する年報アンナーレン・フュール・ゾチアレ・ポリチーク・ウント・ゲゼッツゲーブング』第四巻(第五冊及び第六冊合綴号がってつごう)を見ると、ミュンスター大学教授プレンゲ氏の「経済発展の階段*」と題する一論があるが、その冒頭には次のごとく述べてある。
「われわれは、一九一四年という年は経済史上の一転機を画するもので、全く新たなる時代が、われわれの経済生活の上に、この年とともに始まったものと考えざるを得ざるに至った。そうしておそらくわれわれは、この新たなる時代をば、第十九世紀に行なわれた資本主義に対し、社会主義の時代と称せざるを得ぬであろう。」
(十二月二日)
* Plenge, Wirtschaftsstufen und Wirtschaftsentwickelung. (Annalen f. soc. Pol. u. Gessetzg., IV. Bd. 5 & 6 Hft. S. 495.)

10:25 午前  
Blogger yoji said...

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2386278
社会組織と社会革命に関する若干の考察
著者
河上肇 著
出版者
弘文堂
出版年月日
1924
請求記号


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社会組織と社会革命に関する若干の考察
目次・巻号
書誌情報
サムネイル一覧 先頭 前 次 最終 コマ番号 /314 URL 印刷する 全コマダウンロード 操作方法
目次・巻号
↓ 社会組織と社会革命に関する若干の考察 [314]
・ 標題
・ 目次
・ 上篇 資本主義に関する若干の考察
・ 第一章 資本主義的生産組織の下における生産力の分配、之に含まるる矛盾の増進/1~49
・ 第二章 資本蓄積の必然的行き詰り/50~225
・ 第三章 資本集積の必然的傾向/226~257
・ 中篇 社会組織と個人の生活
・ 第一章 奴隷制と賃労働制/259~279
・ 第二章 労働の苦痛と社会組織/280~322
・ 第三章 社会主義と個人主義的自由/323~365
・ 第四章 社会主義制の下における個人の生活(ボルハルト)/366~402
・ 下篇 社会革命に関する若干の考察
・ 第一章 資本主義より共産主義への推移の過程/401~429
・ 第二章 社会革命と政治革命/430~472
・ 第三章 社会革命と社会政策/473~496
・ 第四章 時機早尚なる社会革命の企/497~511
・ 第五章 露西亜革命と社会主義革命/512~556
・ 第六章 政治革命後における露西亜の経済的地位(レーニン)/557~590

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4:03 午後  
Blogger yoji said...

河上肇は社会革命を制度改革として論じている

4:51 午後  

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