火曜日, 9月 18, 2018

ウィリアム・ペティ 1662 (計量経済学の源流)

参考:
計量経済学及びGMM:

1623~1687
ペティは貧民救助や病院経営など社会政策経費と福祉費の増額を提唱し、貧民対策として公共土木事業に労働者を投入すべきことを提言した。租税貢納論では著名なピラミッドの寓喩を用い「かりにソールズベリ高原に無用なピラミッドを建設しようが、ストーンヘンジの石をタワーヒルにもってこようが、その他これに類することをしても」公共事業に労働力を投入することは有用であるとして公共事業の経済的・社会的効果を提唱した。労働価値説を唱えた最初期の人物であり、のちのマルクス経済学の雛形をうかがうことが出来る[8]
wikiより(後述)



参考:

ウィリアム・ペティ『租税貢納論』岩波文庫55-7 


A Treatise of Taxes and Contributions  by William Petty, 1662

 https://en.wikisource.org/wiki/Treatise_of_Taxes_and_Contributions_(1899)/II

ch.2:36~40



2: 
 36. 救治しがたい・無能力者のすべてがこのようにして扶養され、また、怠情で・手癖の悪い 者が司法官によって拘束されたり処罰されたりするようになれば、そのつぎにわれわれは、あら ゆる他の赤貧の人たちのために、一定の・継続的な職をさがさねばならない。

 38.  私は、これらすべての細目を、つぎのように思いさだめている。すなわち、第一は、この 図に不足している事業、第二には、労働を要すること多く、そして技芸を要することすくない事 業、第三には、われわれがほとんど全く喪失してしまった織物業のような新しい産業をイングラ ンドに導入する事業…。
 つぎに問われるであろうことは、誰れがこれらの人に給与をあとうべきかということである。 私は答える、あらゆる人が、と。
…私見によれば、かれらを飢 え死にさせてもいけないし、首をくくらせてもいけないし、引きわたしてもいけないことは明ら かであると思う。

 40. ところで、これらの冗員[supernumerary]の仕事についてであるが、外図の諸物品を費消しないような仕事 につかせるがよい。そのうえでならば、かりにソールズベリ平原に無用なピラミッドを建設しよ うが、ストーンヘンジの石をタワー・ヒルにもってこようが、その他これに類することをしても 大した間題ではない。

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Employment Guarantee Programs: A Survey of Theories and Policy Experiences* by Fadhel Kaboub Drew University fkaboub@drew.edu May 2007

https://www.researchgate.net/publication/5163663_Employment_Guarantee_Programs_A_Survey_of_Theories_and_Policy_Experiences
Petty believed that the unemployed “ought neither to be starved, nor hanged, nor given away” (Petty 1899 [1662]). However, Petty was not the humanitarian that we would like to think he was; he simply believed that the unemployment pool was an untapped source of enrichment for the nation, and that the unemployed could be publicly employed to build infrastructure; “at worst this would keep their minds to discipline and obedience, and their bodies to a patience of more profitable labours when need shall require it” (Petty 1899 [1662]). 

 ペティは、失業者を「飢えさせたり、絞首刑にしたり、配ったりしてはならない」と考えていた(ペティ1899年[1662])。しかし、ペティは、我々が考えるような人道主義者ではなかった。彼は、失業者層は国家を豊かにする未開発の源泉であり、失業者を公的に雇用してインフラストラクチャーを建設することができると考えていただけで、「最悪の場合、これにより彼らの心は訓練と服従に、体は必要なときにもっと有益な労働に耐えられる」(ペティ1899[1662])のだとしたのだ。 

。。。。    

2:
 36. 救治しがたい・無能力者のすべてがこのようにして扶養され、また、怠情で・手癖の悪い 者が司法官によって拘束されたり処罰されたりするようになれば、そのつぎにわれわれは、あら ゆる他の赤貧の人たちのために、一定の・継続的な職をさがさねばならない。かれらは、自己に 課せられた一定の規律にしたがって労働するのであるから、十分な衣食を要求してもさしつかえ ない。同様にかれらの子どもたちもまた、(もし小さくて無力であるならば、)前述のように、他 の場所で扶養されるのである。
 37. しかしながら、これらの職とはいったいどのようなものであろうか。私は公共的継費の第 六部門としてあげられるようなものであると答える。すなわち、あらゆる公道を、広く·堅固 に·そしてたいらなものとすることがこれで、そうすれば、旅行や車馬の費用と退屈とは大いに 減ずるであろう。河川を切り開き、洗掘して航行しうるようにすること、つごうのよい場所に、 用材用・観賞用・果実用として有用な樹木を植えること[もこれであろう]。  橋・堤道の建設。
 鉱山・採石場・炭坑での作業。
 鐵[鉄]等々の製造。

 38.  私は、これらすべての細目を、つぎのように思いさだめている。すなわち、第一は、この 図に不足している事業、第二には、労働を要すること多く、そして技芸を要することすくない事 業、第三には、われわれがほとんど全く喪失してしまった織物業のような新しい産業をイングラ ンドに導入する事業(*1)。
 (*1) イングランドの織物業がおとろえたというのは一六六二年ごろの通流であった。(C.H·H)
 つぎに問われるであろうことは、誰れがこれらの人に給与をあとうべきかということである。 私は答える、あらゆる人が、と。そのわけは、かりに一地域に一〇〇〇の人がいて、そのうちの 一〇〇が一〇〇〇全部の必要とする食物および衣類を生産しうるとしよう。もし、さらに二〇〇 が、他の諸置民が提供するところの諸物品または貨幣に対して、こちらからあとうべき諸物品を 製造するとし、またもし、さらに四〇〇が、全体の人たちの装飾・快楽および壮麗のために働く とし、もし行政官・神学者・法律家・医師・卸売商および小売商が二〇〇いるとすれば、全部で 九〇〇となるが、そこにはなお冗員一〇〇に代する十分の食物があるわけであるから、問題は この冗員がどのようにしてこの食物を手にいれるかである。すなわち、こじきになることもあろ う、盗みをすることもあろう、もしくはこじきをしてもむだで飢え死にすることもあろう、ある いは盗みをするうちにつかまり、他の方法で殺されることもあろう。またはかれらを引きとって くれるような他国民にこの人たちを引きわたすということもあろう。私見によれば、かれらを飢 え死にさせてもいけないし、首をくくらせてもいけないし、引きわたしてもいけないことは明ら かであると思う。もしかれらにこじきをさせても、かれらはきょうは飢えに泣いているかと思えば、あしたはたらふく食べ、満腹して、病気と悪習とにとりつかれるであろう、 盗みの場合もま た同じことである。のみならず、おそらくこじきや盗みでは、かれらは自分に必要以上のものを えるから、その後は永久に労働する気にならなくなるであろうし、そうなると、突如として・ま た予期に反して労働の必要がおこった重大な機会においてさえ、かれらはそうする気にならなく なるであろう。
 39. これらすべての理由から、この剰余は、かれらにあたえるようにするのがたしかに一層安 全な方法であろう。さもないと、これらの剰余は失われたり浪費されたりするか、または気まぐ れに浪費されてしまうであろう。またもし過剰がない場合には、他の人たちの食物の美食のうち から、量的または質的にすこしずつ減額させるのがよい、自然の必需物でかろうじて生活するの にくらべて、その二倍以下のものを消費しながら生活している人は少数であるからである。
 40. ところで、これらの冗員の仕事についてであるが、外図の諸物品を費消しないような仕事 につかせるがよい。そのうえでならば、かりにソールズベリ平原に無用なピラミッドを建設しよ うが、ストーンヘンジの石をタワー・ヒルにもってこようが、その他これに類することをしても 大した間題ではない。というのは、こういうことをすれば、最悪の場合においても、かれらの精 神を訓練し、従順にし、そして必要がおこったさい、かれらの肉体を一層有利な労働の苦痛にた えさせるもの とするからである。

租税貢納論岩波文庫55,56-7頁
 

Petty  believed that the unemployed “ought neither to be starved, nor hanged, nor given away” (Petty 1899 [1662]). However, Petty was not the humanitarian that we  would like  to think he was; he simply believed that the unemployment pool was an untapped source of  enrichment for the nation, and that the unemployed could be publicly employed to build infrastructure; “at worst this would keep their minds to discipline and obedience,  and their bodies to a patience of more profitable labours when need shall  require it” (Petty 1899 [1662]).  
 ペティは、失業者を「飢えさせたり、絞首刑にしたり、配ったりしてはならない」と考えていた(ペティ1899年[1662])。しかし、ペティは、我々が考えるような人道主義者ではなかった。彼は、失業者層は国家を豊かにする未開発の源泉であり、失業者を公的に雇用してインフラストラクチャーを建設することができると考えていただけで、「最悪の場合、これにより彼らの心は訓練と服従に、体は必要なときにもっと有益な労働に耐えられる」(ペティ1899[1662])のだとしたのだ。


2:

 36. 救治しがたい・無能力者のすべてがこのようにして扶養され、また、怠情で・手癖の悪い
者が司法官によって拘束されたり処罰されたりするようになれば、そのつぎにわれわれは、あら
ゆる他の赤貧の人たちのために、一定の・継続的な職をさがさねばならない。…

 38.  私は、これらすべての細目を、つぎのように思いさだめている。すなわち、第一は、この
図に不足している事業、第二には、労働を要すること多く、そして技芸を要することすくない事
業、第三には、われわれがほとんど全く喪失してしまった織物業のような新しい産業をイングラ
ンドに導入する事業(*1)。

 (*1) イングランドの織物業がおとろえたというのは一六六二年ごろの通流であった。(C.H·H)

 つぎに問われるであろうことは、誰れがこれらの人に給与をあとうべきかということである。
私は答える、あらゆる人が、と。そのわけは、かりに一地域に一○〇〇の人がいて、そのうちの
一〇〇が一〇〇〇全部の必要とする食物および衣類を生産しうるとしよう。もし、さらに二〇〇
が、他の諸置民が提供するところの諸物品または貨幣に対して、こちらからあとうべき諸物品を
製造するとし、またもし、さらに四〇〇が、全体の人たちの装飾・快楽および壮麗のために働く
とし、もし行政官・神学者・法律家・医師・卸売商および小売商が二〇〇いるとすれば、全部で
九〇〇となるが、そこにはなお冗員一〇〇に代する十分の食物があるわけであるから、問題は
この冗員がどのようにしてこの食物を手にいれるかである。すなわち、こじきになることもあろ
う、盗みをすることもあろう、もしくはこじきをしてもむだで飢え死にすることもあろう、ある
いは盗みをするうちにつかまり、他の方法で殺されることもあろう。またはかれらを引きとって
くれるような他国民にこの人たちを引きわたすということもあろう。私見によれば、かれらを飢
え死にさせてもいけないし、首をくくらせてもいけないし、引きわたしてもいけないことは明ら

かであると思う。もしかれらにこじきをさせても、かれらはきょうは飢えに泣いているかと思え
ば、あしたはたらふく食べ、満腹して、病気と悪習とにとりつかれるであろう、 盗みの場合もま
た同じことである。のみならず、おそらくこじきや盗みでは、かれらは自分に必要以上のものを
えるから、その後は永久に労働する気にならなくなるであろうし、そうなると、突如として・ま
た予期に反して労働の必要がおこった重大な機会においてさえ、かれらはそうする気にならなく
なるであろう。
 39. これらすべての理由から、この剰余は、かれらにあたえるようにするのがたしかに一層安
全な方法であろう。さもないと、これらの剰余は失われたり浪費されたりするか、または気まぐ
れに浪費されてしまうであろう。またもし過剰がない場合には、他の人たちの食物の美食のうち
から、量的または質的にすこしずつ減額させるのがよい、自然の必需物でかろうじて生活するの
にくらべて、その二倍以下のものを消費しながら生活している人は少数であるからである。

 40. ところで、これらの冗員の仕事についてであるが、外図の諸物品を費消しないような仕事
につかせるがよい。そのうえでならば、かりにソールズベリ平原に無用なピラミッドを建設しよ
うが、ストーンヘンジの石をタワー・ヒルにもってこようが、その他これに類することをしても
大した間題ではない。というのは、こういうことをすれば、最悪の場合においても、かれらの精
神を訓練し、従順にし、そして必要がおこったさい、かれらの肉体を一層有利な労働の苦痛にた
えさせるもの とするからである。

ウィリアム・ペティ『租税貢納論』岩波文庫55,56-7頁 

 『租税貢納論』1662年 大内兵衛 松川七郎訳、岩波書店、1952年

A Treatise of Taxes and Contributions  by William Petty
ch.2:38

租税および貢納論』(A. Treatise of Taxes and Contributions, 1662) 


 Petty,  William.  (1662)  The  Economic Writings  of  Sir William  Petty,  Vol.  1. Cambridge  University  Press,  1999. 













 

ウィリアム・ペティ『租税貢納論』岩波文庫55-7 


A Treatise of Taxes and Contributions  by William Petty, 

https://en.wikisource.org/wiki/Treatise_of_Taxes_and_Contributions_(1899)/II

ch.2:38


参考:
Political Arithmetick [政治算術] by Sir William Petty
https://www.marxists.org/reference/subject/economics/petty/index.htm

May not the three Kingdoms be United into one, and equally represented in Parliament?
第5章最終段落
 《三王国が合邦して一となり、議会に平等に代表されてもさしつかえないのではないか。》岩波文庫126頁

  1.  WorldCat entry for Tracts (1769); Tracts (1769) in IATracts (1769) in Google books.


統合?政府

マディソン『世界経済史概観』岩波2015より https://www.iwanami.co.jp/files/tachiyomi/pdfs/0610330.pdf
https://www.iwanami.co.jp/book/b262246.html
《1665 年にペティは所得,消費,土地ストック,その他の物的資産,および人的資本の最初の推計を,イングランドとウェールズとの全経済について一組の統合勘定のかたちで示した[賢者一言].彼の勘定は見事に独創的であった.これらの勘定は戦時の財政政策の有効な実施と資源動員とのための数量的枠組みを提供した.それは300年後にエドワード・デニソンが発展させた成長計算の前触れとなる技法であった.》6頁


Verbum Sapienti[賢者一言] (1899)/Chapters - Wikisource, the free online library
https://en.m.wikisource.org/wiki/Verbum_Sapienti_(1899)/Chapters

(統合政府の統合は紛らわしいが、もともと二重意味があったのだ)
ちなみに『政治算術』1690#5にもイングランド、アイルランドースコットランドに対し同じ視点がある

http://www.ggdc.net/maddison/maddison-project/home.htm

岩波2015解説によるとマディソンはケインズとクラークの影響を受けている

https://www.amazon.co.jp/dp/4000610333
長期経済推計の碩学による、これまでの研究の集大成であり最後の書。第1部では、世界各地域の実質GDPの歴史統計に基づき、西暦1年から2003年までの世界経済史の輪郭を描きだす。第2部では、数量的経済分析の研究史とそこでの論争を紹介し、第3部では、これまでの長期推計を基に、2030年の世界経済を大胆に予測する。

目次

第1部 世界発展の輪郭―紀元1~2003年(ローマ帝国とその経済;西ヨーロッパの復活とアメリカの転形;アジアと西の相互作用―1500~2003年;イスラムとヨーロッパがアフリカの発展に与えた影響―紀元1~2003年)
第2部 マクロ計測の進歩(マクロ計測の先駆者たち―政治算術学派と歴史人口学者;現代のマクロ計測―われわれはどこまできたか?)
第3部 来るべき事態の姿(2030年の世界経済)

著者等紹介

マディソン,アンガス[マディソン,アンガス] [Maddison,Angus]
1926‐2010。イギリスの経済学者。オランダ・フローニンゲン大学名誉教授。ケンブリッジ大学で歴史と経済学を専攻、卒業後いくつかの大学の特別研究員や講師を務め、1953年にOEEC(現OECD)に勤務。1978年からはフローニンゲン大学教授に就任。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%BB%
E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BD%E3%83%B3

  • Contours of the world economy, 1-2030 AD: essays in macro-economic history, Oxford University Press, 2007.
『世界経済史概観――紀元1年-2030年』、政治経済研究所訳、岩波書店、2015年

1665年に戦時財政論『賢者には一言をもって足る[Verbum Sapienti]』が執筆され、ペティの死後1691年に『アイルランドの政治的解剖』の付録として出版された[注 8]

  1. ^ 岩波文庫版では、その財政論的な内容から『アイァランドの政治的解剖』ではなく、『租税貢納論』に付して収録されている。













Verbum sat sapienti. | 山下太郎のラテン語入門

www.kitashirakawa.jp>ホーム>ラテン語格言
「ウェルブム・サト・サピエンティー」と読みます。 verbumは「言葉」を意味する第2変化中性名詞 verbumの ...













verbum sat - Wiktionary

en.wiktionary.org/wiki/verbum_sat
A shortening of Latin verbum (sapienti) sat est (“a word is enough (to a wise man) ”). Compare verbum sap.


http://www.amy.hi-ho.ne.jp/akira-yo/newpage11.htm
1:Edward Denison:Total Factor Productivity
全要素生産性(TFP)に関する研究のもう一人の初期における研究者であったエドワード・デニソンは、例えばイギリスでは低成長、日本では高成長など工業国間で成長率に違いが見られるのは、主に全要素生産性(TFP)の成長率の違いから説明できることを発見した。そして、米国労働生産性の成長が1973年以降突然当惑するほど減速したときの原因もまた全要素生産性(TFP)であることが判明した。

近代経済学的には統合政府よりTFPが着目されてきた …


ミッチェル#19:293が孫引きで言及
詳細目次
https://nam-students.blogspot.com/2019/06/mitchell-2019.html#d


#19:293
Kaboub (2008) "Employer of Last Resort Schemes" in P.A. O'Hara (ed.), International Encyclopedia of Public Policy:
Governance in a Global Age, Perth: GPERU.
179~193


At the  onset  of  capitalism,  Sir  William Petty  recognized that unemployment was  a serious problem  that needed  to  be  addressed by  society.  Unlike  many  English businessmen  and thinkers of  his  time,  Petty believed  that  the  unemployed  “ought  neither to be  starved,  nor  hanged,  nor  given  away” (Petty  1662:30).  However,  Petty  was  not  the humanitarian  that we  would like  to think  he was; he  simply  believed that the unemployment pool  was an untapped source of  enrichment for  the  nation,  and  that the unemployed could  be  publicly  employed to build  infrastructure;  “at  worst  this  would keep their  minds  to discipline  and obedience,  and their  bodies  to a  patience  of more  profitable  labours  when need shall require  it”  (Petty  1662:31).   

資本主義の開始時に、ウィリアムペティ卿は失業が社会によって対処される必要がある深刻な問題であることを認識しました。 ペティは、多くのイギリス人ビジネスマンや当時の思想家とは異なり、失業者は「飢えず、絞首刑にされたり、諦められたりしてはならない」と考えていました(ペティ1662:30)。 しかし、ペティは私たちが彼がそうであると考えたい人道主義者ではありませんでした。 彼は、失業者プールは国の未開発の富の源であり、失業者は公共のインフラを建設するために雇用される可能性があると単純に信じていた。 「最悪でも、これは彼らの規律と従順を心に留め、彼らの体は必要に応じてより有益な労働者の忍耐に耐えるでしょう」(Petty 1662:31)。

ミッチェルは『租税貢納論』1662年から、the  unemployed  “ought  neither to be  starved,  nor  hanged,  nor  given  away” (Petty  1662:30x160○)という文を引用

Petty,  William.  (1662)  The  Economic Writings  of  Sir William  Petty,  Vol.  1. Cambridge  University  Press,  1999. 


A Treatise of Taxes and Contributions  by William Petty
ch.2:38

租税および貢納論』(A. Treatise of Taxes and Contributions, 1662) 


 Petty,  William.  (1662)  The  Economic Writings  of  Sir William  Petty,  Vol.  1. Cambridge  University  Press,  1999. 

                (経済学リンク::::::::::) 
ウィリアム・ペティ
http://nam-students.blogspot.com/2018/09/blog-post_18.html@

資本論
1:1:2
人間は、その生産においては、自然そのものと同じようにふるまいうるのみ、すなわち、質料の形態を変化させうるのみである。それどころか、この形態変化労働そのものにおいて、人間はたえず自然力によって支持される。だから労働は、それによって生産される使用価値・質料的富・の唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティがいうように、労働は質料的富の父であり、土地はその母である。

Petty's statement in the Treatise of Taxes (1662a:49) that: 'Labour is the Father and active principle of Wealth, as Lands are the Mother.'
租税貢納論』#9:10(岩波文庫119頁,註12頁参照)

ペティ関連
吉田論考
https://www.ir.nihon-u.ac.jp/pdf/research/publication/02_34-1_03.pdf



Rによる計量経済学(第2版) 秋山裕 2018,2017
https://nam-students.blogspot.com/2019/04/r2-kindle.html




























20頁 第2章
計量経済学とは
2.1
経済学と計量経済学
計量経済学は経済学の様々な分野の中で、比較的歴史の浅い分野です。計
量経済学の始まりは、イギリスの経済学者で統計学者でもあったペティの著
書、「政治算術』(原書1690年)における現実のデータを用いる分析の重要性
を強調した分析であり、本格的に学問として発展し始めたのは、計量経済学会
(Econo-metric Society)が創設された1930年とされています。計量経済学会
の学会誌の初代編集者フリッシュは、誌名を「エコノメトリカ(Econometrica)
とすることを宣言したあとで、「計量経済学は経済理論、統計学、数学という
3つの分野が統合された学問であり、このうちいずれも欠けてはならない」と
とを強調しています。これら3つの分野の1つである統計学を実践的に用いる
にあたって、近年のコンピューターの発達が計量経済学の発展に大きな影響を
及ぼしてきているのです。
サー・ウィリアム・ペティSir William Petty1623年5月27日 - 1687年12月16日[1]は、イギリス医師、測量家、経済学者労働価値説を初めて唱え、また、政治算術派の先駆となったことから、古典派経済学統計学の始祖ともいわれる。ハンプシャー州生まれ。オックスフォード大学解剖学教授やアイルランドの軍医総監などをつとめた。子孫はホイッグ党 – 自由党の名門ランズダウン侯爵家として現在も続いている。
サー・ウィリアム・ペティ
古典派経済学

サー・ウィリアム・ペティ
生誕1623年5月27日
ロムジーハンプシャーイギリス
死没1687年12月16日(満64歳没)
ロンドンイギリス
研究機関オックスフォード大学
母校ライデン大学
実績労働価値説政治算術余剰
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経歴編集

Economic writings, 1899
1623年、ハンプシャー州ロムジー市で織元の第3子として生まれ、上の兄姉が早くに亡くなったため、事実上の長男として育つ。1637年、14歳のときイギリス商船の水夫となったが、10ヶ月間の航海の後、フランスカーン市に置き去りにされた。カーンにあるイエズス会のカレッジで学芸(リベラル・アーツ)を学び、1640年頃にイギリスに帰国。1643年にオランダへ渡航するまでイギリス国王海軍で勤務した。
1644年にライデン大学医学部に入学。ライデン大学でフランシス・シルヴィウス教授から、解剖学と医化学を学んだと推測される。[2]アムステルダム大学ジョン・ペル教授に代数学を学ぶと共に、ペルの助手として働き、当時ロンゴモンタヌスとの間でペルが論争をしていた円積法の問題について、ペルの駁論をルネ・デカルトらヨーロッパ各地の学者に送った。1645年11月頃にオランダを離れ、フランスのパリに移る。ペルの紹介状によりトマス・ホッブズの知己を得て、その縁によりマラン・メルセンヌを中心とするサークルに参加。メルセンヌ、ホッブス、デカルト、ジル・ド・ロベルヴァルクロード・ミドルジュらサークルに集った当代フランスにおける著名な科学者・知識人と交流した。ホッブスとは光学や解剖学の分野で協働し、数学的論証を重視する姿勢に大きな影響を受けた。
1646年、ロムジーに戻り織元を継ぐも、発明品(複写器)の販売のためロンドンに居を移す。フランシス・ベーコンの学徒らと交わり、王立協会の前身の一つサミュエル・ハートリッブを中心とするロンドン理学協会(不可視の学院en:Invisible Collegeと同一)に参加。ベーコンの経験論的な実験方法に強い影響を受ける。また、この時期に親友ジョン・グラントと知り合ったと考えられている。やがて共和国軍によるオックスフォード大学の改組で、オックスフォード駐留軍の司令官であったグラントの義弟トーマス・ケルシーらの強い証言もあり、オックスフォード大学に迎えられた。ここで医学博士の学位を得、1651年解剖学講座の教授となった。さらにオックスフォード大学ブレイズノーズ・カレッジの副学長となり、グラントの斡旋によりグレシャム・カレッジの音楽教授となった。絞首刑に処せられた少女アン・グリーンの蘇生に成功するなど、ペティの解剖学者・医者としての名声は高く、オックスフォードにおける理学協会の集会も当初ペティの宿舎で行われた。
1652年、共和国によるアイルランド派遣軍の軍医総監に任命され、またアイルランド総督チャールズ・フリートウッド将軍の侍医となり、アイルランドに渡る。測量総監ベンジャミン・ウォースリーの実施方法を批判し、自らの指揮による測量を提案。この提案が採用され、1655年よりペティによる科学的な測量(ダウン・サーヴェイ、Down Survey)が実施された。募集された叛徒の土地は測量結果により派遣軍に出資・参加した各階層に分配され、ペティはその責任者に任命された。ペティは兵士に与えられた給与債務証書を買い集め、ケリー州及びその他地域で広大な土地の領主となる。さらにアイルランド総督ヘンリー・クロムウェル[3]の秘書となり、クロムウェル家の庇護の下、イギリスのウエスト・ルー選出の下院議員となった。しかし、オリバー・クロムウェル死後の共和国末期にアイルランドでの不正行為を告発され、すべての公職から追放されロンドンに戻った。
王政復古以後チャールズ2世の庇護を受け、1661年4月ナイトに叙任。さらに共和国時代に得たアイルランドの領地も再度国王から授与された。社会的地位と領土を回復したこの時期に、ペティの学者としての名声は最も大きなものとなる。自然科学分野では、「不可視の学院」の後身である王立協会のフェローとなり[4]、力学や船舶の建造など幅広い分野での報告を提出。1673年には副会長に選出。1684年のダブリン理学協会(後のダブリン王立協会)の創立に尽力し、会長に選ばれた。
経済学分野における主要な著作は全て王政復古期に書かれている。1662年の初めにペティとの協働とされるグラントの著作『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』が出版され、さらに同年4月頃ペティによって財政論『租税貢納論』が匿名で出版された。1665年に戦時財政論『賢者には一言をもって足る』が執筆され、ペティの死後1691年に『アイルランドの政治的解剖』の付録として出版された[5][6]第3次英蘭戦争によってイギリスが苦しい状況に追い込まれていた1670年代前半には、英・仏・蘭の国力を数量的に比較した『政治算術』、アイルランドの政治構造を分析した『アイルランドの政治的解剖』を執筆。それぞれペティの死後、1690年に『政治算術』、1691年に『アイルランドの政治的解剖』が出版された[6]。1682年、貨幣の改鋳問題を扱った『貨幣小論』が出版。1683年に『ダブリンの死亡表に関する諸観察』、1687年に『アイルランド論』が出版された。
1666年から領地経営にあたるためアイルランドに赴いている。ペティは著作に述べられているアイルランド開発計画を自らの領土で実践し、清教徒のイギリス人をアイルランドに入植させ、製鉄業や製材業といった産業を創設し、橋梁の建設や私鋳貨幣の鋳造など植民地運営に必要な政策をとった。その経験によって得られた諸観察によって、研究を発展させていったのである。1685年ロンドンに戻り、1687年12月死去。
死後の1688年に妻のペティ夫人がシェルバーン男爵夫人に叙せられ、長男のチャールズ・ペティがシェルバーン男爵となる。1696年にチャールズは早死にするが、1699年に末弟のヘンリー・ペティが爵位を継ぎ、1719年にウィリアム・ペティの業績によりダンケロン子爵とシェルバーン伯爵の爵位に叙せられた。1751年にヘンリーが死去すると、領地は甥のジョン・フィッツモーリス、ウィリアム・ペティの娘アン・ペティと初代ケリー伯爵トマス・フィッツモーリスの間に生まれた第2子、に引き継がれ、ジョンはダンケロン男爵とフィッツモーリス子爵に叙せられた。1753年にシェルバーン伯爵となった。1761年にウィリアム・ペティと同姓同名の第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティがシェルバーン伯爵の爵位を継ぎ、1784年にランズダウン侯爵に叙せられ、以降はランズダウン侯爵として家名を現在まで残している。ランズダウンの爵位はウィリアム・ペティがアイルランドで実施した測量(Down Survey)に由来し、土地(Lands)を地図に書き記した(Laid Down)ことから名づけられた。

主な著作編集

  • 『租税貢納論』1662年
    邦訳版 大内兵衛 松川七郎訳、岩波書店、1952年
  • 『政治算術』1671年-1676年頃執筆(1690年初版)
    邦訳版 大内兵衛 松川七郎訳、岩波書店、1955年
  • 『アイルランドの政治的解剖』1671年-1676年頃執筆(1692年初版)
    邦訳版『アイァランドの政治的解剖』 松川七郎訳、岩波書店、1951年 
  • 『貨幣小論』1682年初版
    邦訳「ペティの『貨幣小論』(1695年)」 松川七郎訳(久留間鮫造教授還暦記念論文集『経済学の諸問題』、1957年)
  • 『ダブリンの死亡表に関する諸観察』1683年初版
  • 『アイルランド論』1687年初版

業績編集

ペティは、古典派経済学の研究法や、要となる多くの概念を生み出した。ペティが余剰という概念をとりいれたことにより古典派経済学が誕生した。
経済学にはじめて経験的、統計的な研究法を取り入れた。経済活動に規則性、存続性をもたらす法則を明らかにしようとしたのだ。
ペティは余剰こそ経済成長の要だと考えた。ペティにとって生産とは、余剰を生み出すための過程であり、社会が必要とする以上の産出を生み、投入を再構築するもの、と考えた。
ペティは財の「自然価格」と「市場価格」を区別した。[7]

ペティの法則編集

ペティの法則についてはペティ=クラークの法則を参照のこと。

公共事業編集

ペティは貧民救助や病院経営など社会政策経費と福祉費の増額を提唱し、貧民対策として公共土木事業に労働者を投入すべきことを提言した。租税貢納論では著名なピラミッドの寓喩を用い「かりにソールズベリ高原に無用なピラミッドを建設しようが、ストーンヘンジの石をタワーヒルにもってこようが、その他これに類することをしても」公共事業に労働力を投入することは有用であるとして公共事業の経済的・社会的効果を提唱した。労働価値説を唱えた最初期の人物であり、のちのマルクス経済学の雛形をうかがうことが出来る[8]

注釈編集

  1. ^ 松川七郎著『ウィリアム・ペティ』には、生年月日が1623年5月26日とある。没年月日は本記事と一致。
  2. ^ 松川七郎著『ウィリアム・ペティ』p.107
  3. ^ 1657年に就任
  4. ^ Petty; Sir; William (1623 - 1687)” (英語). Past Fellows.  The Royal Society2011年12月11日閲覧。
  5. ^ 岩波文庫版では、その財政論的な内容から『アイァランドの政治的解剖』ではなく、『租税貢納論』に付して収録されている。
  6. a b 山本正 『図説 アイルランドの歴史』 河出書房新社2017年、66頁。ISBN 978-4-309-76253-1
  7. ^ マシュー フォーステイター・アンナ パルマー著『図説世界を変えた50の経済 (シリーズ知の図書館)』、原書房、2014年、p.12-13
  8. ^ 「「経費膨張の法則」に関する研究について」吉田義宏(広島経済大学創立二十周年記念論文集、広島県大学共同リポジトリ)[1]

参考文献編集

  • 松川七郎著『ウィリアム・ペティ 増補版』岩波書店、1967年
  • 大内兵衛・松川七郎訳『政治算術』岩波書店、1955年
  • 大内兵衛・松川七郎訳『租税貢納論』岩波書店、1952年
  • 鈴木勇著『経済学前史と価値論的要素』学文社、1991年
  • 廣田司郎・斉藤博・重森暁編『財政学講義』有斐閣、1986年
  • 堀経夫編『原典経済学史 上』創元社、1961年
  • コリン・クラーク著『経済進歩の諸條件 下巻』大川一司小原敬士高橋長太郎山田雄三訳編、勁草書房、1980年
  • 「「経費膨張の法則」に関する研究について」吉田義宏(広島経済大学創立二十周年記念論文集、広島県大学共同リポジトリ)[2]
ペティ=クラークの法則とは、経済社会・産業社会の発展につれて、第一次産業から第二次産業、第二次から第三次産業へと就業人口の比率および国民所得に占める比率の重点がシフトしていくという法則[1]。ウィリアム・ペティの『政治算術』中の記述を元に、クラークが「ペティの法則」として提示したものである。ただし、ペティ自身が明確に打ち出していたわけではないため、「ペティ=クラークの法則」とも呼ばれるようになっている。

三菱総合研究所編 『最新キーワードでわかる!日本経済入門』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2008年、203頁。

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経験論と計量経済学 (Empirics and Econometrics)


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 ウィリアム・ペティ卿が 17 世紀イギリスにおいて経済データを記録して(作り出して)以来、経験的/実証的な研究はずっと重要な役割を果たしてきた。その理由は二つある。経済学者に よれば (1) データを慎重に検討することで、経済学的な洞察が得られる (帰納的アプローチ)(2) 既存の経済理論が、その主張と経験的データとを比べることで、立証/反証できる (理論的アプローチ)、ということだ。でも経済学者全員がこの 2 つの理由に賛成とは限らないし、片方に賛成の学者がもう一つには反対することも多い。
 帰納的アプローチには長い歴史がある。ジェヴォンス (1875, 1884)はデータからビジネスサイクルが黒点周期に影響されているという証拠を集めようとした。ジュグラー (1862) は財務や金融データの表から信用に基づいたサイクルがあると考えた。また H.L. ムーア (1914, 1923) は帰納的アプローチを使って気象や星に伴うサイクルがあると論じた。
 けれど理論研究も行われた。データを需要曲線にあてはめようとする試みは、17 世紀のダヴェナント や ジェンキンにまで遡る。これはワルラスの需要方程式にデータをあてはめようとした、あの H.L.ムーアの得意技だった。コロンビア大学でのムーアの学生たち、例えば ヘンリー・シュルツや P.H.ダグラスが、これを 1930 年代まで続けている。イギリスの A.C.ピグー とドイツのヤコブ・マルシャックも同じような研究をしている。
 その後まもなく、もう一つの展開がコロンビアで起こった。ウェスリー・C・ミッチェルのもとで、ビジネスサイクル分析の帰納的アプローチが復興したのだ。帰納的アプローチはもちろん ドイツ歴史学派とアメリカ  制度学派両方によって支持されてきた。でもこれについて系統的な研究をやったのは、W.C. ミッチェルと彼の National Bureau of Economic Research (NBER) だけだった。主なテーマは、ビジネスサイクルをどう計るか、ということだった。ミッチェルの NBER には、例えばアーサー F. バーンズ、ジョン・モリス Maurice クラーク・, サイモン・クズネッツ、 フレデリック C. ミルズ、 Rutledge Vining、ソロモン・ ファブリカント, レオナード P. Ayres や他の アメリカ 制度 学派のような著名な経験的経済学への貢献者がいた。ビジネスサイクルの計測と分析も、当時はあちこちで人気があった。ハーバードパーソンズ や ブロック 、モスクワの コンドラチェフ 、ベルリンの Wagemann、ルンドのアケルマンウィーンの モルゲンシュテルンキール研究所などでもこのテーマの研究が行われている。
 当然ながら、ビジネスサイクルの経験的記録や分析はあらゆる種類の経験的データ集計分析にまで波及した――特に国民所得計算集計(産出、投資など)が大きい。これは NBER のサイモン・クズネッツ、イギリスのコリン・クラーク の重要な業績となった。 R.G.D. アレン やアーサー・ Bowleyが膨大な家計データ集計に取りかかったのもイギリスだった。 
もちろん経験的なデータが出てくるのに並行して、ビジネスサイクルの理論分析も出てきた。例えばJ.A.シュムペーター、 D.H.ロバートソン、 A.C. ピグー、G.ハーベルラーなどによるものだ。でも彼らは二番目の「理論研究」を完全に採用したとは言えない。そう認められるほどきちんとした統計推論手法を使っていないからだ。
 NBER の研究は ジョージ・Yule, Eugene Slutsky、Ragnar Frisch そして一番有名どころとしてチャリング・C・クープマンスたちに厳しく批判された。これによって理論的アプローチが復活し、これがいま一般に言われる計量経済学となった。この理論的アプローチが初めてビジネスサイクルに適用されたのは、ケインズ一般理論』が登場した後、ヤン・ティンバーゲンによる研究だった。ケインズは比較的入手しやすい色んな数字(消費、所得、投資など)の単純な関数関係を提案してティンバーゲンを刺激した。ティンバーゲンは線形回帰分析など統計方法を用いて、ケインズが提案した相関のパラーメータを推計した。ケインズ自身はティンバーゲンの方法をあまり喜ばなかった。「黒魔術」に毛が生えたようなものだと考えたからだ (ケインズ, 1933)。 ケインズによるティンバーゲン批判は、フリッシュホーヴェルモーアレン、 マルシャックランゲたちによる一連のティンバーゲン計量経済学に対する批判的再評価の波における、最初の一斉射撃にすぎなかった。
 これに奮起して、トリグヴェ・ホーヴェルモー (1944)は有名な計量経済学への「確率論的アプローチ」を提唱した。これは計量経済学における一大飛躍で、その後コウルズ委員会が一斉にこれに対して支持の声を挙げた。これによって、定式化された初期の教科書的な計量経済学ができあがったわけだ。ある意味で、ホーヴェルモーの研究は昔の計量経済学者たちが事実上主張してきたことではあった。でも、それを確固たるものにしたのは ホーヴェルモーだ。クープマンス主導のコウルズ委員会 と、古参の NBER 制度学派たち(Rutlege Vining が筆頭) との間の手法論争は、1947 年から 1949 年まで続き、その結果として確率的理論研究が経験論的経済学での支配的な理論として確立した。 
 計量経済学ブームがやって来た。コウルズ委員会 の研究は連立方程式系の推計手法を発達させた。たとえばケインズのマクロ経済学に関するKlein-Goldbergerモデルなどだ。でもこれをやるには、かつてムーア や シュルツらの初期研究をひどく悩ませた、識別問題 (identification problem) をなんとかしなければならない。この問題を正式に解決することが、コウルズの初期の重要な課題だった。
 マクロ経済学の Klein-Goldberger モデルは、経験主義的研究と政府計画のための大規模構造モデル――例えば レオンチェフの input-output システムなど――を補完する存在となっただ。  モジリアニ とそのお仲間たちは別の大規模マクロモデル、いわゆるMPSモデル(これはその開発に協力した機関、つまり M.I.T.、ペン大、Social Science Research Council (SSRC) の頭文字をとって命名されている)を編み出した。 こういうモデルは、本当に正しいか調べるよりはむしろ政策立案者たちの力になることを考えて作られたものだ。
でもCowles の分野が順風満帆というわけじゃなかった。 Herman Woldはこういう大規模モデルの同時手法を非難した。 代わりに再帰的あるいはせめて一部だけでも再帰的なシステムを支持したのだった。これは時系列手法についてもっと慎重な分析を必要とした。リチャード ・ ストーンは、需要に関するいくつかの先駆的な経験的研究を行った昔気質のデータ分析者だが、かれも批判的だったし、オスカール・モルゲンシュテルンも同様だった。ロビンズ卿がさらに広範な批判をした。ロビンズは経験論的な理論検証について、手法的な見地から批判糾弾した――これはオーストリア学派の方向性でもあった。そして最終的に、 ロバート・ルーカス (1976) が最も有名な批判を発表した。大規模モデルの構造パラメータはとりわけ政策に用いられるときには一定だと想定されている。でもこれは新マクロ経済学理論の本流になりつつあった理論の主張とは一致しないのだ、と彼は主張したのだった。 別の一連の論文で ルーカスは新しい計量経済学の方法論を述べた。それが時系列の計量経済学だ。

経済学における草創期の経験論的研究者たち

  • Sir William Petty, 1623-1687. 
  • Gregory King, 1648-1712. 
  • William Stanley Jevons, 1835-1882. 
  • Clement Juglar, 1819-1905. 

初期のマクロ計量経済学:市場レベルの計測と推計

  • Henry Ludwell Moore, 1869-1958. 
  • Charles F. Roos, 1901-1958. 
  • Arthur Cecil Pigou , 1877-1959. 
  • Sir Arthur L. Bowley, 1869-1957. 
  • Sir Roy G.D. Allen, 1906- 

初期のマクロ計量経済学: ビジネスサイクルの計測と国民所得計算

  • Arthur F. Burns, 1904-1987
  • Colin G. Clark, 1905- 
  • Sir Richard Stone, 1913-1991
  • James E. Meade, 1907-1995. 

理論計量経済学

  • George Udny Yule, 1871-1951. - (1)
    • "On the Correlation of Total Pauperism with Proportion of Out- Relief", 1895, EJ
    • "On the Theory of Correlation", 1897, J of Royal Statistical Society
    • An Introduction to the Theory of Statistics, 1911 
    • "Review of H.L. Moore", 1915, J of Royal Statistical Society
    • "On the Time-Correlation Problem, with Especial Reference to Variate-Difference Correlation Method", 1921, J of Royal Statistical Society
    • "On the Method of Investigating Periodicities in Disturbed Series", 1927, Philosophical Transactions of Royal Society
    • The Statistical Study of Literary Vocabulary, 1944. 
  • Ragnar Frisch, 1895-1973. 
  • Edward P. Leamer 
  • Paul Zarembka, 1942-
  • Franklin M. Fisher, 1934- 

大規模モデル

  • Wassily Leontief と投入産出モデル (I/O モデル)
  • Lawrence R. Klein とクラインモデル
  • Franco Modigliani と MIT-Penn-SSRC (MPS) モデル
  • Ray C. Fair と "Fairmodel" 

時系列計量経済学

  • Herman Wold, 1908-1992.
  • Clive W.J. Granger, 1934- 
  • Christopher A. Sims, 1942- 
  • James P. Ramsey
  • James D. Hamilton

計量経済学に関するリソース

11 Comments:

Blogger yoji said...

資本蓄積と失業・恐慌―リカードゥ、マルクス、マルサス研究 単行本 – 2004/7/1
蛯原 良一 (著)
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11:36 午後  
Blogger yoji said...

古典派経済学の完成者・リカードゥの資本蓄積論、とくにその「機械論」を考察し、マルクス『剰余価値学説史』のマルサス批判への疑問から、有効需要論・剰余価値論を中心にマルサスを改めて検討する。資本蓄積による国富と国民所得の増大のみならず、それに伴う失業・恐慌問題を問い続けた古典派経済学の鉱脈を掘り起こす本書は、経済学の現代的革新のために不可欠な古典読み直しの試みである。その「剰余労働」への言及はリカードゥを超えるとマルクスが評価した匿名書簡『国民的諸困難の原因および救済』完訳を付す。

内容(「MARC」データベースより)
古典派経済学の完成者・リカードゥの資本蓄積論、とくにその「機械論」を考察。また、マルクスの厳しい批判に疑問を呈してマルサスの有効需要論・剰余価値論を改めて検討。匿名書簡「国民的諸困難の原因および救済」完訳つき。

11:37 午後  
Blogger yoji said...

ディルク.Dilke,Charles Wentworth,❸T.500,
 『国民的諸困難の原因および救済』,❸T.500

11:37 午後  
Blogger yoji said...


Wikipedia


コーリン・グラント・クラーク (1962)
コーリン・グラント・クラーク(Colin Grant Clark、1905年11月2日 - 1989年9月4日)は、イギリス・ロンドン出身の経済学者。

目次
来歴 編集

1931年からケンブリッジ大学で、1942年からオーストラリアのクイーンズランド大学で経済学の教鞭を執った。国民経済を考察するに際して、GNP概念を先駆的に用いた。

1941年「ペティ=クラークの法則」および「コーリン・クラークの産業分類」を考案する。

外交官・政治学者のグレゴリー・クラークは息子。

コーリン・クラークの産業分類 編集

第一次産業 - 農業、林業、水産業など、狩猟、採集。
第二次産業 - 製造業、建設業など、工業生産、加工業。電気・ガス・水道業
第三次産業 - 情報通信業、金融業、運輸業、販売業、対人サービス業など、非物質的な生産業、配分業。
なお、現代日本の産業分類では「電気・ガス・水道業」は第三次産業に分類されている。

ペティ=クラークの法則 編集

ペティ=クラークの法則とは、経済社会・産業社会の発展につれて、第一次産業から第二次産業、第二次から第三次産業へと就業人口の比率および国民所得に占める比率の重点がシフトしていくという法則[1]。ウィリアム・ペティの『政治算術』中の記述を元に、クラークが「ペティの法則」として提示したものである。ただし、ペティ自身が明確に打ち出していたわけではないため、「ペティ=クラークの法則」とも呼ばれるようになっている。

著書 編集

『経済的進歩の諸條件』、日本評論社、金融経済研究会、勁草書房など
脚注 編集

^ 三菱総合研究所編 『最新キーワードでわかる!日本経済入門』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2008年、203頁。
ノート
最終編集: 2 年前、Vysotsky
関連ページ
第一次産業
6次産業
第三次産業
Wikipedia

5:35 午前  
Blogger yoji said...

岩波文庫租税貢納論所収賢者一言で
ウィリアム・ペティは貨幣を脂肪に喩えている
184頁

潤滑油と訳すべきだろうが

2:09 午後  
Blogger yoji said...



ウェブ検索結果
土地は富の母で、労働はその父である

「土地は富の母で、労働はその父である」という言葉で
ペティは不変資本と可変資本を示唆している
これはマルクスのスミス批判の肝だ
ペティの想定を自然条件と確定することでマルクスのスミスへの優位が消える

マルクスは自らのユダヤ教ルーツを語らない
自己を例外化するという倫理的欠陥を保持し続ける

12:37 午後  
Blogger yoji said...

ディルク
His liberal political views and literary interests brought him into contact with Leigh Hunt, the editor of The Examiner. He had in 1814–16 made a continuation of Robert Dodsley's Collection of English Plays, and in 1829 he became part proprietor and editor of Athenaeum magazine, the influence of which he greatly extended. In 1846 he resigned the editorship, and assumed that of the Daily News, but contributed to Athenaeum papers on Alexander Pope, Edmund Burke, Junius, and others. His grandson, Sir Charles Dilke, published these writings in 1875 under the title, Papers of a Critic. Thanks to his grandson, Dilke is also acknowledged as the author of The Source and Remedy of the National Difficulties, published anonymously in 1821, which exercised an important influence on Marx.De Vivo, Giancarlo (2019). "Marx's Pamphletist: Charles Wentworth Dilke And His Tract On The Source And Remedy Of The National Difficulties (1821)". Contributions to Political Economy. 38: 59–73. doi:10.1093/cpe/bzz016.

12:40 午後  
Blogger yoji said...



ディルク.Dilke,Charles Wentworth,❸T.500,
 『国民的諸困難の原因および救済』,❸T.500

Charles Wentworth Dilke (1789–1864) was an
English liberal critic and writer on literature.

12:41 午後  
Blogger yoji said...

The Source And Remedy Of The National Difficulties (1821)

12:42 午後  
Blogger yoji said...

Title ディルクの剰余価値論(上) Author(s) 岸, 徹 Citation 經濟論叢 ...
岸徹 著 · 1980 — された国民的諸困難の原因と救済策』新潟大学『経済論集』1969年第6号。 ... 構成価格論へと解消してしまうスミス,および「剰余価値の起

12:44 午後  
Blogger yoji said...

. The Smurce and Remedy of the National Difficulties,
deducted from Principles of Political Economy, in a Letter to Lord John Rassel,
London, 1821.

蛯原良一訳『ジョン·ラッセル卿究書簡において政治経済学の諸原理から演繹された国民的諸困難の原因と救済策』新潟大学『経済論集』1969年第6号。

12:56 午後  

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