火曜日, 2月 16, 2016

ヒューム 道徳・政治・文学論集


ヒューム「悲劇について」が『恐怖の哲学』(nhk出版)で言及されていた。

Aesthetics[edit]

Hume's ideas about aesthetics and the theory of art are spread throughout his works, but are particularly connected with his ethical writings, and also the essays Of the Standard of Taste and Of Tragedy. His views are rooted in the work of Joseph Addison and Francis Hutcheson.[97] In the Treatise he wrote of the connection between beauty and deformity and vice and virtue,[98] and his later writings on this subject continue to draw parallels of beauty and deformity in art, with conduct and character.[99]

In Of the Standard of Taste, Hume argues that no rules can be drawn up about what is a tasteful object. However, a reliable critic of taste can be recognised as being objective, sensible and unprejudiced, and having extensive experience.[100] Of Tragedy addresses the question of why humans enjoy tragic drama. Hume was concerned with the way spectators find pleasure in the sorrow and anxiety depicted in a tragedy. He argued that this was because the spectator is aware that he is witnessing a dramatic performance. There is pleasure in realising that the terrible events that are being shown are actually fiction.[101] Furthermore, Hume laid down rules for educating people in taste and correct conduct, and his writings in this area have been very influential on English and Anglo-Saxon aesthetics.[102]


ヒューム 道徳・政治・文学論集 [完訳版] « 名古屋大学出版会

http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0672-9.html
デイヴィッド・ヒューム 著  田中敏弘 訳

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価格8,000円
判型A5判・上製
ページ数500頁
刊行年月日2011年
在庫状況在庫有り
ISBNコード978-4-8158-0672-9
CコードC3010

書籍の内容

文明社会の「人間学」へ —— 。生前のヒュームが最も苦心して改稿を重ね、政治・経済・社会思想から道徳哲学・批評を含む広大な領域を横断的に論述したエッセイ集。多くの読者を獲得し、賢人ヒュームの名声を世に知らしめたもう一つの主著が、本邦初訳を多数含む 「完訳版」 としてよみがえる。

書籍の目次

   第Ⅰ部

1 趣味および情念の繊細さについて
2 言論・出版の自由について
3 政治は科学になりうる
4 統治の第一原理について
5 統治の起源について
6 議会の独立について
7 ブリテンの政体は絶対君主政へ傾いているのか、それとも共和政へ傾いているのか
8 党派一般について
9 グレイト・ブリテンの党派について
10 迷信と熱狂について
11 人間本性の尊厳ないし卑しさについて
12 政治的自由について
13 雄弁について
14 技芸と学問の生成・発展について
15 エピクロス派
16 ストア派
17 プラトン派
18 懐疑派
19 一夫多妻と離婚について
20 著述の簡素と洗練について
21 国民性について
22 悲劇について
23 趣味の標準について

   第Ⅱ部

1 商業について
2 技芸における洗練について
3 貨幣について
4 利子について
5 貿易差額について
6 貿易上の嫉妬について
7 勢力均衡について
8 租税について
9 公信用について
10 若干の注目に値する法慣習について
11 古代諸国民の人口について
12 原始契約について
13 絶対的服従について
14 党派の歩み寄りについて
15 新教徒による王位継承について
16 完全な共和国についての設計案

   第III部

1 エッセイを書くことについて
2 道徳上の偏見について
3 中産層について
4 厚顔と謙虚さについて
5 愛と結婚について
6 歴史の研究について
7 貪欲について
8 ロバート・ウォルポール卿の性格について
9 自殺について
10 霊魂の不滅について

解 題  ヒューム 『道徳・政治・文学論集』 について

書評紹介

はやしのブログ 人はなぜ〈うそ〉に反応するのか (1) 悲劇のパラドクス

http://hblo.blog.shinobi.jp/Entry/1514/

こちらで無謀にもぶちあげた「やりたいこと」のうち、大きな意味で「フィクション論」と言ってもいい「人はなぜ〈うそ〉に反応するのか」ということについて、何回かにわたってゆるゆると書こうと思う。まず、第1回目たる今日はいわば「総論」として、モリアルの「フィクションにおいて、否定的感情をたのしむこと」(Morreall, 1985)を導きに、そうした「〈うそ〉への反応」のうち「悲劇のパラドクス」と呼ばれる事態について考えてみたい。

「悲劇のパラドクス」とはかんたんに言って、現実世界で自分の身に降りかかってきたとしたらけっしてありがたくはないような出来事を、なぜそれらが〈うそ〉であれば「娯楽」として受けとることができるのか、ということだ。モリアルは、このパラドクスに対して出されてきた「解決」のうち、つぎの4つを紹介している。

  1. アリストテレスの「魂魄浄化論」(Aristotle, 1996)
  2. ヒュームの「技巧感嘆論」(Hume, 1985)
  3. フィーギンの「道徳起源論」(Feagin, 1983)
  4. ウォールトンの「感情否定論」(Walton, 1978)

(以下は、モリアルの説明そのものというより、その説明に則りつつ、おれが大急ぎでこれらを読んだうえでの私見が大いに入りこんだ「客観的」とはほど遠いもの、ということをあらかじめご諒承ください)

1つ目アリストテレスの「魂魄浄化論」に関しては、とくだんの解説は要らないであろうが、ごくかんたんに絮言しておくと、人が「悲劇」のような、通常であったら避けてとおりたいであろう出来事を、「劇」という〈うそ〉として享受したがるのは、そうした〈うそ〉としての「かなしみ」を通じて「魂が浄化されるから」、と言われる(じっさいは、この「浄化=カタルシス」の「主体」について議論がないではないのだが、ここでは「通俗的」な解釈に則っておく)。しかし、この「浄化論」は、その説明項が「悲劇」であればまだしも、ほかの「現実世界ではできれば避けてとおりたい出来事」、たとえば恐怖などに対しては、あまり有効ではなく、何より、「魂が浄化されるから」と言われても「はい、そうですか」と納得するにはほど遠い。だが、この「浄化論」にかかずらっていたら先に進めないので、いまは「そういう説があるんです」と言うに留めておこう。

2つ目ヒュームの「技巧感嘆論」は、その名のとおり「悲劇的な出来事を描写する技巧に対する感嘆」という側面に、「通常であったら避けてとおりたいであろう出来事」を進んで享受しようとする理由を見る。たしかにこれは、悲しいことや怖いことを描いた作品から何らかの刺戟を受けるためには、必須のことであるかもしれない。しかし、ひるがえって考えると、はたして悲しいこと怖いことを描いた〈うそ〉を、こうした「技巧」という側面で捉え、そして心動かされている人がいったいどれほどいるのか? じっさいは、そうした「技巧」云々はあまり表面化されずに、そこに描かれる悲しいこと怖いことにストレートに人は反応しているのではないか? そういうわけで、ヒュームの唱えるこの説には「一歩足らず」な印象を覚えてしまう。

3つ目フィーギンの「道徳起源論」は、ドライと言えばドライな見方で、「たとえ〈うそ〉であっても、悲しいことに涙できるわたしってすてき!」(あるいは、「たとえ〈うそ〉であっても、こんなおっかないことに耐え忍べるおれってすげえ!」)というように、〈うそ〉そのものにではなく、そうした〈うそ〉を享受する受け手についての「快」の感覚が、「通常であったら避けてとおりたいであろう出来事」をも進んで享受させる動因となっている、とする。これは、なるほどありそうなこと、ではある。しかし同時に、いささか穿ちすぎ、という気がしないでもない。多くの人はもっとすなおに、〈うそ〉を悲しみ、あるいは恐がり、そして「快」を受けているのではないか?

4つ目ウォールトンの「感情否定論」は、この4つのなかでいちばん「過激」と言えば過激で、何となれば、〈うそ〉にふれて感ずる「悲しみ」や「恐怖」は、あくまで「のようなもの」であって、つまり、じっさいはそうした感情を人びとは抱いていはいない、と主張する。これは、「何らかの感情を抱くためには、その感情を抱くのに関与するあれやこれやが、じっさいのものやことでなければならない」とする「認知主義」の考えに則ったもので、たしかに、この認知主義の考えでいけば、〈うそ〉にまつわるあれやこれやは定義上「じっさい」のものやことに関わらないので、〈うそ〉からいかなる感情も芽生えようがない。しかし、だとすると、〈うそ〉にふれてわれわれが感ずる「悲しみ」や「恐怖」のようなものはいったい何なのか? さらに、ある〈うそ〉を、人にはそうと知らせずに吹き込んだ場合、そこで芽生えるものについては、どう判断したらいいのか?

このように、(〈うそ〉にふれて感ずる「何か」を、じっさいの出来事にふれて感ずる「悲しみ」や「恐怖」とは区別するウォールトンはひとまず措いておいて)いずれの意見も「一長一短」といった感じで、「統一理論」と言うにはほど遠い。それでは、これらを紹介するモリアルは、「〈うそ〉にふれて感ずる『何か』」について、どう考えているのか? 次回はそれを紹介する。


参考文献

Aristotle. 1996. Poetics. Loeb Classical Library.
Currie, Gregory. 1990. The Nature of Fiction. Cambridge University Press.
Davies, David. 2007. Aesthetics and Literature. Continuum.
Feagin, Susan. 1983. "The Pleasure of Tragedy" in American Philosophical Quartery 20: 95-104.
Hume, David. 1985. "Of Tragedy" in Essays: Moral, Political, and Literary. Oxford University Press.
Morreall, John. 1985. "Enjoying Negative Emotions in Fictions" inPhilosophy and Literature 9: 95-102.
Walton, Kendall. 1978. "Fearing Fictions" in Journal of Philosophy75: 5-27.

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