金曜日, 2月 19, 2016

死の欲動(pulsion de mort)と死の本能(instinct de mort)

自明とは思うが、死の欲動(pulsion de mort)と死の本能(instinct de mort)とは違う。
『マゾッホとサド』(PSM)で使い分けられており、『差異と反復』(DR)序論,#第二章でも踏襲される。

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/6934/1/ahs33_75.pdf 
ドゥルーズにおける「倒錯」の問題―― 1960 年代におけるその展開と帰結――
小倉拓也 著 - 2012
ドゥルーズにとってフロイトのいう死の欲動は十分には思弁的でないのである。そこでドゥルー
ズは、 「生の欲動‐死の欲動」という共犯関係にある対そのも のに対して、さらなる「彼岸」を、
真に「超越論的な」ものとして対峙させる。それは、快原理との共犯 や経験的なものの残滓を
残してしまう「欲動」という言葉を排して、 「死の本能[ l ’ instinct de mort ] 」 ( PSM 28 )と呼
ばれる。


蓮實訳だと欲動は衝動になっている。143頁参照。

DR#2
《フロイトにおいて、葛藤のモデルの優位を助けているのは、抑圧理論ばか りでなく、欲動理論に
おける二元論でもある。けれども、葛藤は、それよりもはるかに精妙な差異的=微分的なメカニズム
(置き換えと偽装)の所産なのである。》文庫上288頁


AOに以下の記述がある

《ダドゥンは次のことを指摘している。『夢判断』〔一九〇〇年〕とともに、
いかにフロイトは『科学的心理学草稿』〔一八九五年〕の頃にはまだ可能であっ
た方向を放棄して、その後、精神分析を袋小路の中に追いやることになるかを。》
注:Roger Dadoun,〈Les ombilics du rêve〉, in L'espace du rêve, Nouvelle revue de psychanalyse , n 5.
(プログラムとしての夢について、cf. Sarane Alexandrian,〈Le rêve dans le surréalisme〉, id .)

『千のプラトー』(MP)第二章などを読んでも、フロイトが本来あった可能性を閉

ざしたという大枠の評価は変わらないのではないか? 

death drive [pulsion de mort]
デストルドー英語destrudoまたはdeath driveドイツ語Todestrieb (トーデストリープ))とは、ジークムント・フロイトの提唱した精神分析学用語で、へ向かおうとする欲動のこと。タナトス英語Thanatos)もほぼ同義で、死のであるタナトス神話に由来する。

荻本医院:ラカン勉強会
http://www.ogimoto.com/benkyo080118.html
1) 死の本能と死の欲動pulsion de mortとの違いについては、ラカンは明確な区別をしていたのか、小生は、今のところ、これはというパッセージに巡り会ったことがありません。一般的に、ラカンはinstinctという用語を退けたと言われていますが、初期のセミネールにはinstinct de mortという言い方を散見できます。Deleuzeはサドがいう自然の破壊的傾向にも、二種類あり、Klosovski(cf. Sade Mon prochain, Seuil)のいう部分的過程としての否定négation comme processus partielと全的否定négation totaleを受けて、前者をpulsion de mort後者をinstinct de mortと区別しています(v. Présentation de Sacher-Masoch - Le froid et le cruel, Les éditions de minuit, p.29)


参考:
death drive [pulsion de mort]

デストルドー(英語: destrudoまたはdeath drive、ドイツ語: Todestrieb (トーデストリープ))とは、
ジークムント・フロイトの提唱した精神分析学用語で、死へ向かおうとする欲動のこと。タナトス
(英語: Thanatos)もほぼ同義で、死の神であるタナトスの神話に由来する。…

自明とは思うが、死の欲動(pulsion de mort)と死の本能(instinct de mort)とは違う。

『マゾッホとサド』(PSM)で使い分けられており、『差異と反復』(DR)序論,#第二章でも踏襲される。

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/6934/1/ahs33_75.pdf 
ドゥルーズにおける「倒錯」の問題―― 1960 年代におけるその展開と帰結――
小倉拓也 著 - 2012
ドゥルーズにとってフロイトのいう死の欲動は十分には思弁的でないのである。そこでドゥルー
ズは、 「生の欲動‐死の欲動」という共犯関係にある対そのも のに対して、さらなる「彼岸」を、
真に「超越論的な」ものとして対峙させる。それは、快原理との共犯 や経験的なものの残滓を
残してしまう「欲動」という言葉を排して、 「死の本能[ l ’ instinct de mort ] 」 ( PSM 28 )と呼
ばれる。


荻本医院:ラカン勉強会
http://www.ogimoto.com/benkyo080118.html
1) 死の本能と死の欲動pulsion de mortとの違いについては、ラカンは明確な区別をしていたの
か、小生は、今のところ、これはというパッセージに巡り会ったことがありません。一般的に、ラ
カンはinstinctという用語を退けたと言われていますが、初期のセミネールにはinstinct de mort
という言い方を散見できます。Deleuzeはサドがいう自然の破壊的傾向にも、二種類あり、Klosovski(cf. Sade Mon prochain, Seuil)のいう部分的過程としての否定négation comme 
processus partielと全的否定négation totaleを受けて、前者をpulsion de mort後者をinstinct de 
mortと区別しています(v. Présentation de Sacher-Masoch - Le froid et le cruel, Les éditions 
de minuit, p.29)


MP#6

《結局、CsOに関する偉大な書物は、『エチカ』ではないだろうか。》


《欲望を内的な欠如として受けとめるのではなく、一種の外化可能な剰余価値を産み出すために快楽を遅らせるのでもなく、逆に強度の器官なき身体、〈道〉Tao、内在野を形成することが問題になっている。》



MPにおいて器官なき身体(CsO)は道教のイメージで提示されていた。


https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjr1U2uNt49ZiA0dWX6jv4tnGZt7EVjkYkT8ycdl1782zYzdM7LYRVVuMuKm2bNpOdB-kcqLxt_Rjs_F8q8s_jeH2KFhA3F8Yoo4yokM1ANiY8RrRFBE1dgB305Vv4OKFH32BcCZw/s320/tao1.gif
これは、重力波発生のイメージと似ている。

https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjPw-B51vRDn2JdKVIM2i6jcVm6HTzndtMV0wraLBD0862jjdkwMS4BgJCAwcbne9IXp9t_imnmdM4gFYLRHFHXdKfKbJLiJqhZ0l8lP5q5WnQd-9_VgQ5_nbhcS_dE6If2F5iOeA/s1600/%25E9%2587%258D%25E5%258A%259B%25E6%25B3%25A20.gif


一方、
欲望する諸機械は宮崎駿の映画に近いのではないか? 宮崎駿のイメージは資本主義(リミットの自己拡大)を射程に捉えている。
そこがディズニーとの最大の違いだ。
ハウルの動く城はノルシュテインのアニメを意識しているが、ドゥルーズの引用したティンゲリー*に似ている。





AO補遺より

《ティンゲリの〈ロトザザ〉のように、機械が組織的にそれ自身の対象を破壊することもある。》

Tinguely Rotozaza
 http://youtu.be/f80SLYonPO4
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjeAtQQGyPlpxCGoJNqXStmQ4YP2U9N9wgKNSpvcJOqVMxuBmZmx9hvi5Noq53OEVTueLbWp0GpuieLZWG3vTYyZdZej9ng54MWF3B-cIoFAzYgG38oZ9DPOfl9leGKWxfTZDrwkA/s1600/Tinguely-Rotozaza.gif



ドゥルーズは欲望する諸機械と器官なき身体の極限的な幅をとることによって共可能性、
「と」を模索する。
カントの批判哲学から不可知論的な物自体の認識論が取り去られ、スピノザの一元論と
ライプニッツの多元論との接続が可能になる。

この場合SF的であるということは未来における可能性ではなく

現在における潜在性の現実化を指す





《シュヴィッタースの作品〈メルツ〉Merz は、この絵に描かれている〈コメルツ〉Komerz の最後の音綴である。これらの欲望機械の有用性または無用性、可能性または不可能性について問うことは無駄なことである。》

独kommerz、英commerce
http://www.moma.org/wp/moma_learning/wp-content/uploads/2012/07/Schwitters.-Merz-Picture-32A-313x395.jpg
MoMA | Kurt Schwitters. Merz Picture 32 A. The Cherry Picture. 1921
http://www.moma.org/learn/moma_learning/kurt-schwitters-merz-picture-32-a-the-cherry-picture-1921




《かりに諸物自体がまず第一に、そして真実に、理性の他の関心の対象になっていなかったとし
たら、思弁的理性もこれに関心を寄せることはなかったであろう。それゆえ、このいっそう高い
関心とは何か、と我々は問わねばならない。》(中島盛夫訳『カントの批判哲学』)

カントの批判哲学第一章の結びの文より

ドゥルーズは物自体より共通感覚を重視している。
上記の文は「いっそう高い関心」が重要だと述べている。
ただし、ドゥルーズのカントの観念論の道徳主義には行かない。美学的な位相に行くのだ。
つまり、ドゥルーズは物自体の不可知論とは違うレベルで個体の存在、連結が可能だと考える。

共通感覚は、ライプニッツの共可能性につながる。
カントは倫理的次元を創成したが、ドゥルーズの美学も見方を変えれば倫理的次元にある。


ーーー

MPにおいて器官なき身体(CsO)は道教のイメージで提示されていた。

《欲望を内的な欠如として受けとめるのではなく、一種の外化可能な剰余価値を産み出すために快楽を遅ら
せるのでもなく、逆に強度の器官なき身体、〈道〉Tao、内在野を形成することが問題になっている。》(MP#6)

通俗的には以下のイメージ、
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjr1U2uNt49ZiA0dWX6jv4tnGZt7EVjkYkT8ycdl1782zYzdM7LYRVVuMuKm2bNpOdB-kcqLxt_Rjs_F8q8s_jeH2KFhA3F8Yoo4yokM1ANiY8RrRFBE1dgB305Vv4OKFH32BcCZw/s320/tao1.gif
これは、重力波発生のイメージと似ている。
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi0peP2Q5v2rHHDM81Q2euNSehkCxBWcswyBUhtME8j7Zz1_1rQhN4gzns33DuoPjP4dlASdc1fBRYu8jcdj64XeT9TRyc47AThjKIVIAQSB1zbiJ4smgJuXtG2cc5712ytYoWjNw/s1600/SXS+Lensing.gif
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjPw-B51vRDn2JdKVIM2i6jcVm6HTzndtMV0wraLBD0862jjdkwMS4BgJCAwcbne9IXp9t_imnmdM4gFYLRHFHXdKfKbJLiJqhZ0l8lP5q5WnQd-9_VgQ5_nbhcS_dE6If2F5iOeA/s1600/%25E9%2587%258D%25E5%258A%259B%25E6%25B3%25A20.gif 

一方、欲望する諸機械は宮崎駿の映画に近いのではないか? 
宮崎作品では例えば家族の不在は欠如ではなく、新たな連結を可能にする契機となる…
宮崎駿のイメージは資本主義(リミットの自己拡大)を射程に捉えている。
そこがディズニーとの最大の違いだ。
ハウルの動く城はノルシュテインのアニメを意識しているが、ドゥルーズの引用したティンゲリー*に似ている。

http://pin.anime.com/wp-content/uploads/2015/07/studio-ghibli-movies-directed-by-hayao-miyazaki-album-on-imgur-1438021868nk84g.gif
http://img.gifmagazine.net/gifmagazine/images/19552/original.gif?1409586439
http://pin.anime.com/wp-content/uploads/2015/07/Howls-Moving-Castle-animated-gif-%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%8B%95%E3%81%8F%E5%9F%8E-2.gif

AO補遺より
《ティンゲリの〈ロトザザ〉のように、機械が組織的にそれ自身の対象を破壊することもある。》
Tinguely Rotozaza
 http://youtu.be/f80SLYonPO4
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjeAtQQGyPlpxCGoJNqXStmQ4YP2U9N9wgKNSpvcJOqVMxuBmZmx9hvi5Noq53OEVTueLbWp0GpuieLZWG3vTYyZdZej9ng54MWF3B-cIoFAzYgG38oZ9DPOfl9leGKWxfTZDrwkA/s1600/Tinguely-Rotozaza.gif 

ドゥルーズは欲望する諸機械と器官なき身体の極限的な幅をとることによって共可能性、
「と」を模索する。マイノリティ同士の連携は、68年の政治的敗北の後だからこそ潜在的かつ
現実的なものになる。
哲学的には、プラトンの両義性が定義され、カントの批判哲学から不可知論的な物自体の認識論が克服さ
れ、スピノザの一元論とライプニッツの多元論の接続が可能になる。