MPにおいて器官なき身体(CsO)は道教のイメージで提示されていた。
《欲望を内的な欠如として受けとめるのではなく、一種の外化可能な剰余価値を産み出すために快楽を遅ら
せるのでもなく、逆に強度の器官なき身体、〈道〉Tao、内在野を形成することが問題になっている。》(MP#6)
通俗的には以下のイメージ、
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これは、重力波発生のイメージと似ている。
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一方、欲望する諸機械は宮崎駿の映画に近いのではないか?
宮崎作品では例えば家族の不在は欠如ではなく、新たな連結を可能にする契機となる…
宮崎駿のイメージは資本主義(リミットの自己拡大)を射程に捉えている。
そこがディズニーとの最大の違いだ。
ハウルの動く城はノルシュテインのアニメを意識しているが、ドゥルーズの引用したティンゲリー*に似ている。
http://pin.anime.com/wp-content/uploads/2015/07/studio-ghibli-movies-directed-by-hayao-miyazaki-album-on-imgur-1438021868nk84g.gif
http://img.gifmagazine.net/gifmagazine/images/19552/original.gif?1409586439
http://pin.anime.com/wp-content/uploads/2015/07/Howls-Moving-Castle-animated-gif-%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%8B%95%E3%81%8F%E5%9F%8E-2.gif
*
AO補遺より
《ティンゲリの〈ロトザザ〉のように、機械が組織的にそれ自身の対象を破壊することもある。》
Tinguely Rotozaza
http://youtu.be/f80SLYonPO4
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjeAtQQGyPlpxCGoJNqXStmQ4YP2U9N9wgKNSpvcJOqVMxuBmZmx9hvi5Noq53OEVTueLbWp0GpuieLZWG3vTYyZdZej9ng54MWF3B-cIoFAzYgG38oZ9DPOfl9leGKWxfTZDrwkA/s1600/Tinguely-Rotozaza.gif
ドゥルーズは欲望する諸機械と器官なき身体の極限的な幅をとることによって共可能性、
「と」を模索する。マイノリティ同士の連携は、68年の政治的敗北の後だからこそ潜在的かつ
現実的なものになる。
哲学的には、プラトンの両義性が定義され、カントの批判哲学から不可知論的な物自体の認識論が克服さ
れ、スピノザの一元論とライプニッツの多元論の接続が可能になる。