月曜日, 7月 25, 2016

シン・ゴジラと群衆



                   (映画リンク::::::::::
NAMs出版プロジェクト: シン・ゴジラと群衆
https://nam-students.blogspot.jp/2016/07/blog-post_25.html

まず主人公蘭堂が自分を危険にさらしていない
この時点で映画は別の方向へ向かっていく
会議のシーンは一般にも受け入れられる
電車爆弾はマニア向け
三段階に観客は篩にかけられる 
国会、マスコミの軽視はやはり気になる

2016年紅白:
本編でマスコミ描写がカットされていたから
補完されるかと思ったら違った
内在する原理によってNHKとシンゴジラは合わない 


◆[シン・ゴジラ大解剖スペシャル]⑥(パニックシーンのメイキング)


上のシーンは宮崎駿への返答だろう

宮崎インタビュー
宮崎 群衆シーンも面倒臭いから描きたくなかったんですよ。ぼくらの中には人間不信がものすごくあるから、その他大勢の人間に対する蔑視と言うか、「いなくなった方が楽だ。描かなくていいや。」という感情があるわけです。
―みんな殺してしまえば楽だというような。
宮崎 「(新世紀)エヴァンゲリオン」なんて大胆不敵でしょ。「お前、全然(人間を)出さないな」って庵野(秀明―監督)に言ったら、「いやー、ぼくの視野の中に人間って入ってないんですよ。」と正直に言ってましたけどね。
―それは作品を見るとよく分かります。他人はうっとおしいだけなんですね。
宮崎 いや、それはよく分かるんです。自分たちが抱えている問題の中に、他の人間たちに対する不信と言うか、うざったいというか、中国に対する感情と似たものがありますね。「本当は人口16億になっているんだろう、白状しろ」とかね。―そういう風な気分。都会に住んでる人たちは、特にそうですね。どうしてこんなに多いんだろうと。満員電車に乗っている時のような気分ですよ。


宮崎 駿 インタビュー
映画がいつも希望を語らなければいけないなんて思わない
聞き手/叶 精二
※このインタビュー原稿は「TECH WIN 10月号別冊/VIDEO DOO! vol.1」(97年10月1日/アスキー発行)に掲載されたものです。ただし、掲載時タイトルは編集部で付けたもので、上記タイトルが原文のものです。

____

会議・会議・会議…、シミュレーションはあるがドラマはない
ゴジラ形態2(進化論的に鳥類を意識している)、博士の再登場なし、
総理の死、こうした観客の意表をつくためだけの裏切りはいらない
そこにドラマの本質はない
子役も出てこない
視野が狭いのだ
必要な描写が描かれていない
岡本喜八の戦争映画にはそうした必然性があるが今回はない
本多猪四郎の資本主義批判、公害批判を見直すべきだ
311以降の感性は貴重だが地に足がついていない
マスコミを全然(肯定的に)描かないのはしっくりこない
(テレビニュースやいかがわしい記者は出てくるが)
政府=日本と思っているようで…
ラスト民間メーカーの努力も絵になっていない
医療チームも最重要なはずなのに影が薄い…皇居がないのはいいが国会もない…
掃除婦の描写もアニメ制作現場=対ゴジラ部隊のアナロジーの域を出ない
脚本を1人に書かせてはいけない
冒頭の春と修羅も意味不明
ただしスターウォーズのep7よりはいい
シリーズ第1作へのオマージュとしては明暗が分かれた
「ゴジラ」シリーズ全28作品一挙配信 特集|GYAO![ギャオ]
http://gyao.yahoo.co.jp/special/godzilla2016/?ex=P_2189.C_GYsit019.E_G-160701#ttl_syowa

追記:
「シン・ゴジラ」のエキストラに配られた演技指導文書がアツい! - Excite Bit コネタ(1/2)
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1470208802196.html

先日公開された「ゴジラ」シリーズ最新作「シン・ゴジラ」は公開直後から大ヒットを記録し、その内容には観客も専門家も絶賛の声をあげている。庵野秀明監督の手腕もさることながら、実はこの作品の完成度を支えたのはボランティアのエキストラたちと、彼らに配られた“とある文書”だったという話題が持ち上がっている。

昨年9月の蒲田駅前でのロケにエキストラとしたのは演出部から配られた“演技心構え”のテキスト。「巨大不明生物に襲われて逃げ惑う市井の人々」役の心得が書かれた、A4サイズほどの大きさの紙だ。

その中で撮影の意図を次のように説明している。まず、巨大生物の恐怖を観客に感じさせる最も効率的な方法は、「逃げ惑う市井の人々がまるで本当に襲われているように見えること」。だが、単に芝居で恐怖の表情をしたり、大きな叫び声をあげたりすれば良いわけではないという。

「もし本当に巨大不明生物に襲われた場合、人はその人の個性によって違った反応をすると思います。猛ダッシュで逃げる人、ノロノロと逃げる人、体が固まり動けない人、興味が勝り写真を撮る人、顔を巨大生物から背けず体だけが逃げる人、子供を必死に守ろうとする人、連れとはぐれ人波の中で探し続ける人……それら個性の集合体が、画面に力強さと、リアリティと、本物の恐怖を与えてくれると、我々は考えています」

それぞれのエキストラが「自分が巨大不明生物に遭遇したらどうするか」の想像力を稼働させることを求め、「皆さまお一方お一方にしかできないお芝居をしてください」と訴えている。

関連: 
ゴジラが蒲田駅に襲来!? 「撮影のため交通規制」の貼り紙にファン沸く - Excite Bit コネタ
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1441082316625.html
2016年夏に公開予定で約12年ぶりに復活する映画「ゴジラ」の撮影が、東京都大田区の蒲田駅付近で行われるとの情報があり、ファンの妄想を掻き立てている。

ゴジラ映画撮影のため乗車場所が変わる、という京浜急行バスのお知らせの貼り紙がTwitterで拡散したのだ。

Twitterに投稿された写真によると、お知らせの紙には「映画『シン・ゴジラ』撮影に伴い、蒲田駅バス停前が交通規制により、現バス停が利用できなくなります」と書いてある。

ゴジラは「モナコ」と呼ばれていた エキストラが語った舞台裏と蒲田文書
https://www.buzzfeed.com/takumiharimaya/shin-godzilla-extra?utm_term=.jmVNEg7Qr#.xn93eVNZz
投稿者の支部長さん(@shimokas)は、シン・ゴジラにエキストラして参加。その際、配布された「演技心構え(通称:蒲田文書)」をTwitterに投稿したところ、反響を呼びました。
その話題になっている文書が、こちら。
(前略)守秘の関係で回りくどい言い方になってしまいますが、本日、皆さまが演じるのは「巨大不明生物に襲われて逃げ惑う市井の人々」役となります。
我々は、本日撮影するシーンを、観客が映画の世界に引きずり込まれ、巨大不明生物を目の当たりにした恐怖を感じて思わず背筋が震えあがってしまうような、そういったシーンにしたいと考えています。その為にはどうすればいいのか。
巨大不明生物の見た目をグロテクスにする、おどろおどろしい音楽を流す、残酷で目を背けたくなるような演出にする……方法は色々と考えられますが、最も効果的な方法は、「逃げ惑う市井の人々がまるで本当に襲われているように見えること」だと思います。
観客は、皆さんの表情、動きから滲み出る恐怖を感じて、巨大不明生物に襲われる恐怖を疑似体験するのです。しかし、それは単に芝居で恐怖の表情を作れば良い、とか、大きな叫び声を上げれば良い、といったことでは決してありません。それが、本日の皆さまに求められる芝居の難しいところです。
もし本当に巨大不明生物に襲われた場合、人はその人の個性によって違った反応をすると思います。猛ダッシュで逃げる人、ノロノロと逃げる人、体が固まり動けない人、興味が勝り写真を撮る人、顔を巨大不明生物から背けず体だけが逃げる人、子供を必死に守ろうとする人、連れとはぐれ人波の中で探し続ける人……それら個性の集合体が、画面に力強さと、リアリティと、本物の恐怖を与えてくれると、我々は考えています。
本日は、300人もの方々にお集まりいただきました。しかし、撮影時間の関係で、そのお一方、お一方に表情の作り方や動きの指導をする余裕が正直に言ってありません。ですから、皆さま、本日は各方々の想像力を目一杯稼働させていただき、「きっと自分ならこうする」という芝居をしてください。
恐怖映画などでよく見かけるような、大声で喚いて大袈裟に逃げ惑う芝居ではなく、皆さまお一人方お一人方にしか出来ないお芝居をしてください。(中略)
この映画を1ミリでも質の高い映画にするために、何十年、百年単位で語り継がれる映画にするために、皆さまのお力をお貸しください。是非とも、よろしくお願い申し上げます。
巨大不明生物映画・演出部一同
これには、「ここに込められた想いだけで泣ける」「文面読んだだけでも胸が熱くなる」など称賛の声が寄せられました。


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八塩折之酒(やしおりのさけ):ヤマタノオロチを酔わせるために飲ませた酒

天羽々斬(あめのはばきり):酒を飲んで眠っているヤマタノオロチを切り刻んだ刀 

Q.ヤシオリ作戦のヤシオリって何?
A.日本神話でヤマタノオロチを退治するために飲ませて酔っ払ったところを退治した、酒の名前に由来。
アメノハバキリは斬った刀の名前に由来


299
ラストシーン背景のダビデの星はなんなの
>>299
アメリカ大使館の外壁だと



80 名前:名無シネマさん(東京都) (ワッチョイ a8c7-oK17)[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 21:05:02.81 ID:N7tp7aBH0 [5/5]
岡田斗司夫がニコ生でシンゴジ語ってたわ
怪獣映画としては95点、映画としては65点、エヴァの新作としては120点だってw

<ダメな5つのポイント>
1.ドラマがステレオタイプで浅い
登場人物のIQが軒並み低い。紋切り型のセリフばかり
避難民のシーンが凡庸
マキ・ゴロウて誰だよ
2.アンノ・ワールドの押し付け
実質、エヴァ第0話
ハヤオの弟子を名乗ってるがハヤオ要素はゼロ
押井要素は100 
お前はハヤオの息子じゃない押井の隠し子だ!
3.CGが安い
F2戦闘機の煙、在来線爆弾の跳ね上がり方
4.見たことある映像ばっかり
5.テーマが正直じゃない
クライマックスは主人公不在で作戦が進むべきだった 

>怪獣映画としては95点、映画としては65点、エヴァの新作としては120点
ほぼ同意
映画としてもっとよくなる可能性があっただけに惜しい
内輪受けの小ネタは誰かが止めないと
見るべき映画とは思うが

ドラマが浅いから石原さとみと主人公を二人で閉じ込めてしまえばいい、
という岡田の意見は正しい
(ヒーロー不在でも作戦が成し得るという主題も描ける)

映画として傑作になり得たのにカルトムービーにしてしまった
岡田が制作に関わるべきだった

22分くらいの以下のセリフも形象化されていない。
「…対応が想定外で前例のない危険な任務だ。隊員は志願させるのか?」
「いえローテで行きます。みな入隊した時から覚悟はできてます。」

戒厳令なのだろうが国会を庵野は軽視している
第四の権力たるマスコミも軽視している
避難先の子供をドラマとして描かないという必然性がない
予算不足なのだろうが民間メーカーの頑張りはやはり役者を使って描写すべきだった
「ローテーション」通りという日本的民主主義もセリフだけで形象化されていない

ところどころいいアイデアはあるがそれを二度使うのでしらける
(演説、エヴァ音楽、電車爆弾…)

シナリオとCGが不完全で勿体無い
この内容なら100分以内で収まる(「中略」なんていらない)
チェックしないプロデューサーが悪い

とはいえ、庵野としては全力を出し尽くした一世一代の力作
同じく第1作へのオマージュであるスターウォーズep7よりははるかにいい(これは見る必要のない駄作だった)
ただし議会を戦闘の舞台にした同ep6を見ると庵野のそれはルーカスの政治意識に遠く及ばないが


ゴーヤ、牧教授、巨神兵…シンゴジラは完全生物だからあらゆる遺伝子を内包する。もちろん天皇も…

>巨神兵のフィギュアも(三つ位は)混ざっていたように見えた 

>なんとなくエヴァQのBDを流してたんだけどさ
>シンゴジラ観た後だからか
>カオルのこの台詞が何故か胸を打ったわ

「魂が消えても、願いと呪いはこの世界に残る。意思は、情報として世界を伝い、変えて行く。いつか、自分自身の事も書き換えて行くんだ」 

ちなみに、折り鶴と一緒に置いてあったのは宮沢賢治『春と修羅』

   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)



心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路めぢをかぎり
 れいろうの天の海には
  聖玻璃せいはりの風が行き交ひ
   ZYPRESSEN 春のいちれつ
    くろぐろと光素エーテルを吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげろふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (玉髄の雲がながれて
   どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
    修羅は樹林に交響し
     陥りくらむ天の椀から
      黒い木の群落が延び
       その枝はかなしくしげり
      すべて二重の風景を
     喪神の森の梢から
    ひらめいてとびたつからす
    (気層いよいよすみわたり
     ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ

※(始め二重括弧、1-2-54)一九二二、四、八※(終わり二重括弧、1-2-55)


311で実際に動いたのは政府じゃない
東電に説明責任を迫ったのは一弁護士で
放射能を測定したのは組織をやめた一科学者で…

反核デモも対国会であって睡眠中の職員に向けたものではない

映画とは関係ないが
庵野の視野は極端に狭い
制作委員会方式はダメだが脚本は複数の人間で書くべきだ

>>104
>デモの内容は、「ゴジラを殺せ」と「守れ」を両方録って混ぜてあるらしい
>つまりどっちでもいいという事 

【映画】庵野秀明『シン・ゴジラ』が1位!ハリウッド版を上回る快進撃【映画週末興行成績】★4©2ch.net


608 : 
2016/08/04(木) 00:13:27.33 ID:vq/BM0+k0

国会前のデモの声を実際録音した人のツイッターだと
守れ、殺せ、とか複数録音したらしく
どうとでも取れるようにしているらしいぞ 

デモは同じアセンブリ(議会=集会)として国会と対応している
だからこの映画はデモを馬鹿にしているのではなく
国会を軽視している
自衛隊を含む官僚と政治家を混同している
安倍と同じ間違いをしている


安倍首相がまた「私は立法」発言! たんなる言い間違い ... - リテラ


lite-ra.com>リテラ>社会>政治
2016年5月19日 ... 自由民主党HPより ほんとうにこの人は、どこまで無知を晒すのだろう。16日の衆院 予算委員会で、またも安倍首相が驚くような発言を行った。 例の、 ... 総理大臣は行 政府内閣)のではあるが、立法(国会)のでは断じてないからだ。

安倍首相がまた「私は立法府の長」発言! たんなる言い間違いではない、三権分立を破壊する安倍政治の本質|LITERA/リテラ
http://lite-ra.com/2016/05/post-2257.html



>デモの内容は、「ゴジラを殺せ」と「守れ」を両方録って混ぜてあるらしい
>つまりどっちでもいいという事 

デモは同じアセンブリ(議会、集会)として国会と対応している
だからこの映画はデモを馬鹿にしているのではなく
(戒厳令下だとしても)国会を軽視している
自衛隊を含む官僚と政治家を混同している
安倍と同じ間違いをしている

安倍首相がまた「私は立法府の長」発言! たんなる言い間違い ... 
http://lite-ra.com/2016/05/post-2257.html
2016年5月19日 ... 自由民主党HPより ほんとうにこの人は、どこまで無知を晒すのだろう。
16日の衆院 予算委員会で、またも安倍首相が驚くような発言を行った。 ... 総理大臣は行 
政府(内閣)の長ではあるが、立法府(国会)の長では断じてない…

>>26
ガヤ録りのエキストラに行ったが、反対派と擁護派を両方録ったよ。

ゴジラを倒せ
ゴジラを殺せ
ゴジラを守れ
ゴジラは神だ

映画館ではよく聞き取れなかったので、どっちかの主張を強調するつもりはない演出と理解した。





岡本喜八による大日本帝国憲法下が舞台の映画を手本にしているから
国会を描く意味が作り手には見えないのだろう


>巨災対というオタクの集団が主役
>巨災対はひたすらパソコンと電話だけで引きこもって仕事→外に出るのめんどくさい
>ラストは状況最悪なのに何となく頑張ろうエンドでオタクの自己承認欲求を満たしてあげてる

>破と同じ構造。主役が個人から集団に変わっただけ 


最初の有識者会議をギャグにしてしまったので
その後の民間活用が肯定的に描けていない
脚本のミスだ


実際の311では自衛隊に対放射能スキルはなかった
(SPEEDIの放射能汚染情報は官邸も知らなかった
基準値の変更も官僚が勝手に行った)
だからこの映画は歴史の捏造をしている

映画として見ると以下のようなセリフが
形象化されていない

「…対応が想定外で前例のない危険な任務だ。隊員は志願させるのか?」
「いえローテで行きます。みな入隊した時から覚悟はできてます。」

シナリオが未完成だ

有識者のキャスティングは自己満足に過ぎない
あれで最後の民間メーカーを肯定的に描くきっかけをなくした
笑と引き換えにストーリーのバランスを崩した

総理の死も実は生きてましたという撮り方、
肝心のところを映していない


岡本喜八による大日本帝国憲法下が舞台の映画を手本にしているから
国会を描く意味が作り手には見えないのだろう

官邸の間取りよりも臨時国会の方が大事だ
デモを撮る暇があったら同時に国会を撮るべきだ

先の大戦では楽観視から300万人死んだという矢口のセリフがあるから
次の戦争は勝ちたいという願望なのだ
311を政治主導に書き換え、民間有識者を笑い者にし、マスコミにはいかがわしい
情報屋しかいない
世界観が狭い

シナリオの完成度が低い

描きたい絵をCGで…
調べたことを会議シーンで….
この二つが繋がってない

アメリカの描き方が浅い
だから国連描写にもリアリティがない
アメリカの威を借りて権力を持とうとするのが日本の政治家なのに
前半で民間有識者をギャグにしたから
後半の民間協力が活きていない
作劇上の工夫が必要だった


シンゴジラは岡本喜八より押井からの影響が大きい
プロットの骨格はパトレイバー
岡本喜八ではなく押井の写真を使うべきだった
押井からの影響を隠すために岡本喜八の写真を使ったのだろう

自衛隊は軍隊ではない
自治体から災害対策で自衛隊への要請がくるのが先で
武力行使への転換がその後になる
そこで国会承認が求められる


http://blogos.com/article/187599/
…何故ゴジラの襲来に対して自衛隊に防衛出動が下令されるのか、どうにも理解が出来ませんでした。いくらゴジラが圧倒的な破壊力を有していても、あくまで天変地異的な現象なのであって、「国または国に準ずる組織による我が国に対する急迫不正の武力攻撃」ではないのですから、害獣駆除として災害派遣で対処するのが法的には妥当なはずなのですが、「災害派遣では武器の使用も武力の行使も出来ない」というのが主な反論の論拠のようです。「警察力をもってしては対応困難な場合」に適用される「治安出動」ではどうなのか、という論点もありそうです。

____
武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H15/H15HO079.html
  武力攻撃事態又は存立危機事態においては、対処基本方針には、前項に定めるもののほか、第二項第三号に定める事項として、第一号に掲げる内閣総理大臣が行う国会の承認(衆議院が解散されているときは、日本国憲法第五十四条 に規定する緊急集会による参議院の承認。以下この条において同じ。)の求めを行う場合にあってはその旨を、内閣総理大臣が第二号に掲げる防衛出動を命ずる場合にあってはその旨を記載しなければならない。ただし、同号に掲げる防衛出動を命ずる旨の記載は、特に緊急の必要があり事前に国会の承認を得るいとまがない場合でなければ、することができない。
  内閣総理大臣が防衛出動を命ずることについての自衛隊法第七十六条第一項 の規定に基づく国会の承認の求め
  自衛隊法第七十六条第一項 の規定に基づき内閣総理大臣が命ずる防衛出動



#シンゴジラ #半島を出よ シンゴジラは、なんとなく村上龍の「半島を出よ」の影響をうけているような気がした。東京湾が封鎖された時の経済効果の話とか、政府の会議の様子とか。あと、ゴジラがビルの下敷きにされるところは、反乱軍がホークスタワーの下敷きになるところと似てる。
2016-08-18 20:26:28 JST Twitter for iPad フォロワー: 45フォロー:78


エロス成分を究極削り落として
ほぼタナトスだけで構成された映画よ
>シンゴジラ
そこに潜在的な意識を刺激されてしまう 

二重になってもうた…
だから某舞踏家の意見はまあ的を射てる
ちょっと「危うい」のよこの映画は
(右左とか表層の部分ではなく) 
ーーーー
  シンゴジは後半はともかく、展開をシリアスに作り過ぎたなと、昨夜『三大怪獣地球最大の決戦』を観て思った次第。
たった1分半の防衛大臣の答弁(下記)シーンで今作と変わらぬジレンマをバッサリ言い尽くしてしまっている。

---
議長「防衛大臣」
防衛大臣「防衛軍といたしましては、目下全力を挙げて、ゴジラ、ラドンの行動を厳重に監視しつつ、
キングギドラに対しまして、は国際合同軍と緊密なる連絡の下に、
人力の及ぶかぎりこれを速やかに撃滅致すべく行動中でございます。」
委員1「言い訳を訊いてるんじゃないぞ」
委員2「どうして撃滅するのか、その自信があるのかないのかを訊いてるんだ!」
大臣「問題は日本一国の問題ではございません。全世界の問題でございます。
諸君はゴジラ、ラドンに対して核兵器を使用せよと言う勇気がございますか?
もうこれ以上ご説明申しあげる必要もございますまい。
ただただ最後まで人力を尽くし、天命を待つの心境でございます」  


ーーー
 この映画の国会軽視は大政翼賛下の戦争映画を手本にしたからで
深い考えがあるわけではない
戦後作られ続けたゴジラ映画と比べると民主主義としては退化している
自治体から災害対策で自衛隊の支援要請があり
武力行使に切り替える段階で国会決議が求められるのが普通
作者が自衛隊を軍隊と考えているから現実とかけ離れた手続き描写になる

アメリカの威を借りて権力を持とうとするのが日本の政治家で
そのことが理解されていないから国連描写にもリアリティがない

シナリオが未完成のまま作ることでせっかくの大作をカルトムービーにしてしまった
プロデューサーがシナリオを読めないのだと思う

防衛出動には国会承認が必要で
緊急出動をしても
後から説明責任が問われる
国会を軽視しているのがこの映画の致命的欠点

昭和モスラ対ゴジラにいたようなマスコミもいない
ゴジラの伝統から意図的に断絶している

神奈川県長から自衛隊への支援要請があったはずだがこの映画には地方自治の概念がない

この映画の欠点は国会軽視

その前に自民党は原発を増やしすぎた
普通は総理が判断する前に冷温停止状態に出来て当然

文科省もみっともなかった

「シン・ゴジラ」が描く日本のナショナリズム - WSJ
http://jp.wsj.com/articles/SB10131342344550994625404582294492983235410
映画の序盤はドキュメンタリー作品のようにリアルな描写が続くが、次々に事件が起きて官僚が日本を救うために従来の制約と決別せざるを得なくなる後半では、リアリズムは影を潜める。片山教授は後半のシーンについて、憲法改正により緊急時に政府に特別な権限を与えるべきとの保守派の主張を支持することになりかねないと話す。この映画には「危機的なときに民主的手続きをやっていたら間に合わないというメッセージがある」 と片山氏は語っている。

町山がこの作品の原型と述べた帰ってきたウルトラマングドンとツインテール。
Amazonビデオで原爆のカット(3ではなく4カット)を確認出来る。映画では2カット。



____



39 Comments:

Blogger yoji said...


会議・会議・会議…、シミュレーションはあるがドラマはない
ゴジラ形態1(進化論的に鳥類を意識している)、
総理の死、こうした観客の意表をつくためだけの裏切りはいらない
そこはドラマの本質ではない
子役も出てこない
視野が狭いのだ
必要な描写が描かれていない
岡本喜八の戦争映画にはそうした必然性があるが今回はない
本多猪四郎の資本主義批判、公害批判を見直すべきだ

8:42 午後  
Blogger yoji said...

マスコミを全然(肯定的に)描かないのはしっくりこない
(テレビニュースやいかがわしい記者は出てくるが)
政府=日本と思っているようで
ラスト民間メーカーの努力も絵になっていない
医療チームも最重要なはずなのに…
脚本を1人に書かせてはいけない

5:40 午前  
Blogger yoji said...

春と修羅も意味不明

5:40 午前  
Blogger yoji said...

戒厳令なのだろうが国会を庵野は軽視している
第四の権力たるマスコミも軽視している
子供を描かないという必然性がない
予算不足なのだろうが民間メーカーの頑張りは描写すべきだった
「ローテーション」通りという日本的民主主義もセリフだけで形象化されていない

ところどころいいアイデアはあるがそれを二度使うのでしらける
(演説、エヴァ音楽、電車爆弾…)

シナリオとCGが不完全で勿体無い
この内容なら100分以内で収まる
チェックするプロデューサーが悪い

庵野としては全力を出し尽くした一世一代の力作

10:03 午後  
Blogger yoji said...


http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49324?page=6
伊福部の音楽を使ったことで、物語のストーリー上は1954年の『ゴジラ』とも、それ以降のゴジラ・シリーズからも独立していたはずの『シン・ゴジラ』は、それでもやはりゴジラ・シリーズの最新作なのだと認識させる。

本作には、続編を作ろうと思えばいくらでも作れるだけの材料がばらまかれている。

はたして、新たなシリーズとなるのだろうか。

* * *

最後に、昨今の日本映画は、とくに大作となると「製作委員会方式」で作られているが、『シン・ゴジラ』は東宝の単独の製作だ(製作プロダクションは東宝映画と、シネバザール)。

複数の企業が出資してリスクを分担する製作委員会方式は、巨額の資金を調達できる利点はあるが、関係各企業の意向が現場に下りてきて創作活動が不自由となるなど、弊害が出ている。

関係者が多ければ多いほど、無難な選択となり、野心的な映画など生まれない。

東宝は、自社の大事なゴジラの新作なので、製作委員会を作り他社からの出資を受ければ、利益も分配しなければならないので、自社のみでの製作にしたのだろうが、これは英断と言える。

「終」という昔ながらのエンドマークで終わるのも、いい。

中川 右介(なかがわ ゆうすけ)
1960年、東京生まれ。早稲田大学第二文学部文芸科卒業。2014年まで出版社アルファベータ代表取締役編集長。映画、歌舞伎、クラシック音楽、歌謡曲についての本を多数執筆。最新刊に『戦争交響楽』(朝日新書)。その他の主な著書に、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『カラヤンとフルトヴェングラー』『悪の出世学 ヒトラー、スターリン、毛沢東』(幻冬舎新書)、『山口百恵』『松田聖子と中森明菜』(朝日文庫)、『大林宣彦の体験的仕事論』(PHP新書)等。

11:07 午前  
Blogger yoji said...


http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49324?page=4
東京を破壊しつづけるゴジラが、絶対に触れないもの

自衛隊はじめ政府機関の協力も得ており、脚本の段階でかなりリサーチもされ、シミュレーションされているのだとは思うが、決定的に抜けているのは、天皇をはじめとする皇族の避難問題だ。

現実の菅直人元首相の回想録では、「どの段階で皇室に避難していただくかも慎重に判断しなければならない」状態だったことが明かされている。(『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』幻冬舎新書)

さらに、総理や官房長官の記者会見のシーンはあるものの、マスコミの動きはほとんど出てこない。

野党も出てこないし、さらには国会の存在も感じられず、これも現実とは異なる。

現実の菅内閣がどうだったかといえば、民主党内の反主流派(小沢一郎のグループ)、野党(自民党等)、そしてマスコミとの対応にもかなり苦労していた。

また、ゴジラにより都市が瓦礫の山なっている画は観せてくれ、それはそれでショッキングな映像なのだが、それによって日本社会がどうなり、日本経済がどうなってしまったのかは描かれない。

人々が避難しているシーンと、避難所のシーンはあるものの、生活が壊された感じはない。

このように、「描かれていない」点をあげていけばいくつもあるが、それはないものねだりというものなので、そのことで批判する気はない。

いま挙げた要素を入れればいい映画になるわけでもないだろうし、だいたい作り手は何が抜けているか分かっていて、あえて、削っているのだろう。

ただ、皇室については、気になる。

実は、最初の1954年の『ゴジラ』やそれ以後の作品でも、ゴジラが東京に出現する際は、東京湾から上陸し、銀座や国会議事堂は破壊するが、そばにあるはずの皇居は素通りするのだ。

これについてはさまざまな勝手な解釈がなされているが、『シン・ゴジラ』という、これほどリアリティにこだわった作品でも「皇室の避難」が論じられもしないのは、ちょっと残念だ。

11:08 午前  
Blogger yoji said...

小林よしのり
https://www.gosen-dojo.com/index.php?key=joqdypz45-1998#_1998

「シン・ゴジラ」はレビューでは大好評のようだ。
だがわしは期待が大きすぎたのか、失望してしまった。

人は幼いころ観たゴジラのどこに魅力を覚えたか、自分が育っていくうちに、
ゴジラに何を求めるようになったか、各人全然違ってしまう。
だから、どんな感想があってもいのだ。 正しい感想なんかない。

わしの期待したゴジラの見せ方と、作品としてのゴジラへの期待が「シン・ゴジラ」では両方裏切られた。

第一に、官僚VSゴジラの構図が感情移入できない。
あの政治家や官僚のペラペラ早口は退屈すぎて、聞いていられない。
まるで緊急事態法が必要と言っているようで、政治的すぎる。
いくら緊急事態の法整備が現代の日本に出来てないからと言っても、
危機を前にしてあれほど政治家や官僚が硬直した議論をするとは思えない。

第二に、アメリカ帰りの女性の実在感がなくて笑ってしまう。ガッジーラなんて言わなくてもいい。

第三に、あんな姿の芋虫がゴジラになってはいけない。
あんな変態をもしハリウッドがやったらボロクソに文句言ったはずである。
本家・日本があんな反則をやって、日本人が許すのは疑問だ。
ゴジラは初めからゴジラの姿で出現しなければならない。なぜなら、「神秘性」が失われるからだ。

第四に、あんな無敵の光線が出るようになってもいけない。
どんどんハイパーになっていったら、いずれ翼が生えて飛ぶこともアリになってしまう。

第五に、超絶な力を持つゴジラに対して、あんなに原始的な攻撃でぶっ倒して、
しかもその隙に口から冷凍液注入なんて、そんな幼稚な作戦が成功するわけがない。

第六に、多国籍軍の核攻撃という緊迫感が全然伝わらない。
第七に、突っ立ったまま終わるというのが、まるで原発を暗示しているようでシラケる。
第八に、大人向けの映画になり過ぎていて、新たな子供のファンを増やせない。
第九に、ゴジラの心理的な怖さを感じない。

こう書くと、ボロクソな評価だが、まったく一個人の評価なので無視してくれ。
ゴジラを語ると、クソマニアがぎゃんぎゃん言って来るので、ウザい。
一人、一人、別々の感想があってよい。

10:35 午前  
Blogger yoji said...

とにかく後半がクソすぎ。前半のテンションのまま全編褒めてるアホが多過ぎる
ドラマを意図的に無くしてるとか言うけど後半部分は思いっきり退屈簡素でヘンテコなヒューマンドラマ描いてるからな

やたら尺割いてゴジラの生態をヲタク臭い台詞回しで研究するくせに
物凄いご都合主義でゴジラ倒せるとか放射線除去出来るとか言い出すトンデモ脚本
前半のグダグダ会議もよく見ればリアルでもなんでもなく無駄に政治家をアホに描いてるだけ
これが日本のいちばん長い日のオマージュ?笑わせんなよ

10:36 午前  
Blogger yoji said...

東京の発展のために福島に原爆ぶっ放した罪を
頭おかしい博士のテロに矮小化し
対応に当たった自衛隊や現場の人への称賛の声を
自分たちへの称賛であるかのようにすり替え
東京はたいして破壊されず綺麗なままで
映画終わる前からすでに復興しているようにしか見えず
放射性物質の半減期も都合よく短くて
土地を奪われ生活も人生も破壊された
福島の人の神経を逆なでする内容としか思えなかった

ゴジラも見た目は最初キモイとおもったが
自衛隊の的としてほとんど突っ立っているだけで全く怖くなく
科学技術の暴走や人類の愚かさへの警鐘など
過去のゴジラ映画で描かれた真に恐怖すべきテーマなど微塵もない
むしろ福音などと表現する始末
見ていてだんだん腹が立ってきた

10:44 午前  
Blogger yoji said...

災害映画とか国難映画としてはおもしろく見れたんだけど、ゴジラ映画としては…って感じ
誰もゴジラという未知の生物に思いを馳せていないところが、なんかもやもやした

10:53 午前  
Blogger yoji said...

映画館
Myムービー


今年の夏は映画三昧! 映画館やテレビ放送で見られる作品を一挙紹介
夏だ!海だ!エイリアンだ! 映画から学ぶ 地球外生命体への対処方法
上映中
シン・ゴジラ (2016)
SHIN GODZLLA

監督庵野秀明樋口真嗣
みたいムービー 941 みたログ 3,967
4.16 点 / 評価:3,579件

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ユーザーレビュー
これゴジラじゃなくて・・・

god***** さん 2016年7月29日 16時13分 閲覧数 5473 役立ち度 193
総合評価 ★★★★★
 大きなため息をつき、絶望しながら帰路につきました。
これが12年待った日本のゴジラなのか?
破壊描写と演出が凄ければどうなってもいいのだろうか?

 まずこの映画、人間パートはダメすぎる。
早口、カットが多い割にテンポは悪く、見ていてどんどん萎えていきました。
しかも役者の正面カットや横顔といった度アップを、セリフを回すたびに変わっていってしまい、はっきり言って疲れる。
 無駄に会話が長いくせに、誰がどういう立ち位置か分かりにくく、それどころかゴジラに対してどういう意思で戦っているのか、まるでわかりません。

 それから石原さとみ演じるカヨコが、物凄く不快・・・、とうか一番いらない人物だったと思います。
日米首領のやり取りは、それこそ主人公たちが動いてる裏で速やかに進めれば良いものを、カヨコを通じて主人公たちと絡んでくるせいで、物語に大きなブレーキがかかり無駄に話を長くしている。
話し方も英単語のとこを、「日本人である石原さとみ」なのに英語風の発音をさせ違和感がありましたし、
そもそも英国エージェントと言う設定が凄く話から浮いてるというか・・・。
 なにより、ゴジラの名前を米国絡みから持ってくる展開は絶対に許せない。
初代ゴジラの制作が、何の事件から始まったのか知らないわけがないだろう。
大戸島の伝説を持ってくる展開は、主人公側のチームが何かしらの拍子で調べて、そこからゴジラに持ってくる形でよかった。
2014の渡辺謙が「godzilla」ではなく『gojira』と話し続けていたのは何だったのか。
 メインキャストで発表されていた人物の一人が、これほど無意味でひどい人物だとは思いませんでした。
長谷川博己、竹之内豊が割と良い登場人物だっただけに、石原さとみが不憫でなりません。

 そして肝心のゴジラなのですが、ぶっちゃけゴジラというよりゴジラの姿をしたデストロイアだったのではないだろうか・・・。
形態が変わっていく、微粒子の細胞が本体を支える、
(無限に増え続けることが可能という話もあった気がするが、この設定のみ不明瞭です)
ただただ破壊の限りを尽くしていくだけの怪獣。
ゴジラってこうなのだろうか・・・?
これがありだとするなら、イグアナが巨大化したエメリッヒゴジラもゴジラなのではなかろうか・・・。
 中盤の破壊描写は、自分も感動しました。
あそこまですさまじい破壊シーンが見れるとは思ってませんでした。
・・・しかし、そんな描写はゴジラでなくてもできるんです。
平成ガメラ三部、パシフィック・リム、巨神兵東京に現ると、かつて作られてきた名作特撮映画・映像でもやってきたことなんです。
 ゴジラのかっこよさって何?ゴジラにしかない魅力はどこ?
凄まじい演出と破壊だけならば、初代ゴジラもその程度だったのか?

 違う。
 ゴジラは破壊者でもあったが、同時に被害者でもある。
人を踏むつぶし、熱線ですべてを焼き尽くし、海に帰っていくゴジラ。
しかしそのゴジラも、人が水爆を使ったことで住処をなくし、新たな地を求めるために日本に来たのだ。
もちろん良い者では断じてないが、ただの破壊者でなくどこか悲しい存在、それがゴジラだと思います。
 その意思は、たとえ昭和で人間のために戦うようになっても、恐竜が水爆で巨大化しても、怨念の塊になろうとも、ほぼすべての日本のゴジラにあったものです。
 今回の映画最大の汚点は、ゴジラがただの「巨大な敵」でしかなく、
ゴジラそのものが提示してくる作品のメッセージが全くなかったことです。
恐怖しかなく、ただの巨大な破壊者ならば「キングギドラ」でよかったんです。
ゴジラより、核を使う人間の方が怖いという描写は確かにありましたが、
通常兵器が利かない存在に核を使用するという、人間の発想が怖いというだけであり、
今回のゴジラは核の被害者でもなんでもありません。
最後に人の手のようなものが尾の方に映っていましたが、その謎も明かされないまま映画は終わってしまいます。
そこがゴジラである重要な設定であるはずなのだが・・・。

 言いたいことは他にもたくさんあります。
エヴァとの気持ち悪いくらいのコラボ宣伝。
たいして活躍していない人を写真付きで名前を載せるパンフレット。
音楽面でも、伊福部先生の音楽を使っておきながら、雰囲気もジャンルも違うエヴァっぽい曲を使う。
現実の戦力だけで人間が戦う話だったはずなのに、
エンドロールで、「Gフォースメカゴジラのテーマ」を使うのも呆れてしまいました。

 12年も待ち続けてきた新作がこんなものでしかないのが、本当に残念でなりません。

追記
評してる方に対して「エセ評論家」などと罵倒してる方が少なからずいるが、
そういう方々は「素人が偉そうに語ってくるな」と言われて黙っていられますか?
自分は酷評側ですが、他人の評価を罵倒するのだけは、
評価する側も酷評する側も絶対にやめてほしい。

11:06 午前  
Blogger yoji said...

善戦したがギャレスゴジラの勝ちかな・・・

shi***** さん 2016年7月29日 17時48分 閲覧数 3082 役立ち度 54
総合評価 ★★★★★
2014年のギャレスゴジラは、外国映画ながらも一級のエンターティメントとして往年のゴジラファン(全作品鑑賞・昭和30年代生まれ)である私の琴線に触れる出来だった。だからすぐに友人に見ることを勧めた。

今回の庵野ゴジラは、決して悪くはないと思う・・・。だが、即友人に勧めようとは思わない。
鑑賞後、モヤモヤしたものが残る消化不良の出来だった。

どんなに現実的な設定を持ち込み、虚構のゴジラを正当化しようとしても、所詮、ゴジラは現実ではない。放射能汚染、国防問題、災害対策、国際関係をシュミレーションした台本は、作家が頑張れば頑張るほど、ゴジラが虚構である限り、描く世界の虚構性が強化されてしまい、真実の恐怖は感じられない。

この映画で描こうとした日本の危機的姿は、何もゴジラ映画でやらなくても、もっと他に方法があるはずだ。日本の問題を描きたいなら、もっとシリアスな映画でもっと深く丁寧に描いた本格的なドラマで見てみたい。

真剣に状況を描こうとすればするほど、ゴジラという虚構が邪魔をして、空回りしているような印象だ。(そこを庵野はやりたかったのだろうけど)

それに比べ、ギャレスゴジラは、様々な設定はあくまでもエンターティメントを盛り上げるための道具として使っていた。もちろん、原発事故、津波など、現実の災害にあった者には、心苦しい描写もあった。しかし、そこには、当事者への配慮(渡辺謙という日本人俳優の存在、広島原爆や核実験を否定的にとらえる視点など)も働いていたので、虚構の世界に安心して遊ぶことができた。

ギャレスは、ゴジラ作品すべてに対するリスペクトがあり、それらを踏まえてさらに前進させようとしていたと思う。

比べて庵野は、第一作以外はすべて否定し、独自のゴジラを完成させようとした。その独自性に私はついていけなかった。

300人を超えるキャストも話題だったが、これも多すぎだと思う。
無駄な会議を重ねながら、現実的な対応が遅れてしまう官邸の姿には、憤りを感じるし共感できる。しかし、そこで犠牲になった民衆の姿は、俯瞰で描かれるだけなので、この映画で、私が感情移入できる人物は一人も出てこなかった。
官邸内で四苦八苦している人物は、私にとっては関係のない人物たちで、心のなかで頑張れと応援したくなるような人物はいない。

ギャレスゴジラは、ひとつの家族を丹念に描き、その親子、そして夫婦のきずな、出会いと別れに感情移入できた。
 
S29年ゴジラは、山根博士、芹沢、婚約者の恵美子らが、国家レベルの公的な立場と民衆レベルの私的な立場の両方をバランスよく繋いでいたのでドラマ全体に奥行きができたと思う。

しかし、今回の新作にそのような丹念な人間は描かれなかった。

それはなぜか。

現在の日本人俳優の演技のレベルでは、家族ドラマや男女の設定を持ち込むとチープになってしまう可能性がある。だから、あえて、個人レベルに視点を落とさず、一種の群像劇に仕立てたのかもしれない。

しかし、群像劇は、もう少し一人一人の内面に迫らなければ、本当の群像劇にはならないと思う。その点では私たち日本人には「七人の侍」という教科書があるではないか。

「矢口」の人間成長の物語という宣伝を見たが、決してそんな風には描かれていなかった。

人間ドラマとして共感ポイントが希薄だと、これは特撮の良し悪ししかもう興味は残らない。

そこに、鑑賞後のモヤモヤ感があったのかと思う。

伊福部昭の音楽を挿入したことは、否定はしないが、作られた時代によって曲の厚みが変わってしまうのはいかがなものだろうか。
古いものは、妙にモノラルっぽく聞こえていた。同じ伊福部音楽でも「ゴジラVSメカゴジラ」の音楽だけ、クリアに聞こえる。これは意図的なのか・・・。

特撮に対しては、かなりのレベルであったと思う。昔は、ハリウッドの映画に対して、着ぐるみゴジラが、特に昭和の終わりごろには、目を覆いたくなるような幼稚なものだったこともあったが、その点では、ギャレスゴジラにまったく見劣りすることなく、迫力ある映像を楽しめた。

ゴジラの形態が変化するのは、へドラ的でなかなかエグイスタイルで面白かった。個人的には好きである。

今作は、善戦はした。が、次の庵野作品は期待しない。ハリウッド製作の「コング・スカルアイランド」「ゴジラ2」「ゴジラVSキングコング」を正直言って期待してしまう。

11:12 午前  
Blogger yoji said...

日本人だけのゴジラ

fou***** さん 2016年7月31日 9時58分 閲覧数 2298 役立ち度 40
総合評価 ★★★★★
本当に日本人のためのゴジラ。一人の留学生として、率直にそう感じた。他の国で上映しても、誰も面白く感じないだろう。
 日本政治や法律など過剰の情報、対アメリカの恨み、複雑すぎる専門用語。そういったものは、海外の観客にとって、どうでもいい情報だと思う。
 特に酷かったのは、人物、場所、武器や終盤の電車まで、登場するたびに名称の字幕をつけること。まるで北朝鮮の軍事演習を見ている感じ。
 そして、石原さんの英語、酷すぎる。

詳細評価

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絶望的
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11:16 午前  
Blogger yoji said...

>>180
*映画の中で明らかにする気のない「謎」を入れるのはやめろ
 庵野、お前は押井守か! お前は宮﨑駿の息子だろ! いつから押井の子になった!
*ありきたりなシーンで物語をつなぐのはやめろ
 パターン化した政治家とかわざとらしい避難民の描写とか。いらんだろそんなもん。
 ドラマがステレオタイプなんだよ! 
*これってゴジラの皮を被ったエヴァじゃん。
 エヴァが作りたかったら素直にエヴァをやれ!これってエヴァ第0話だろ?
 「自分の作った作品世界はみんな実は繋がっている」病はもう結構だ
 クリエイター長くやってるとみんなこれをやりたがる。庵野よ、お前もか?
*CGの出来が悪い
 在来線爆弾のCGの出来の悪さを誰も指摘しないのは何故?
*「過去に見た事のあるシーン」を自分もやりたい」から脱却しろ
 「こんな映像、過去に誰も見たことなかった…」を一つくらいは作ってみせろ!
*テーマが正直じゃない
 結局主人公が活躍して全部解決する。
 これの何処に「日本が団結してゴジラと戦う」がある? 全部主人公が仕切ってるだけじゃないか。
 「日本はトップがいなくても戦える」「大切なのは「全員の結集」だ」がどこにもないぞ。

4:37 午前  
Blogger yoji said...

2016/08/03(水) 14:02:20.95 ID:e4H0JpbG
岡田斗司夫のシン・ゴジラ評

*映画の中で明らかにする気のない「謎」を入れるのはやめろ
 庵野、お前は押井守か! お前は宮﨑駿の息子だろ! いつから押井の子になった!

*ありきたりなシーンで物語をつなぐのはやめろ
 パターン化した政治家とかわざとらしい避難民の描写とか。いらんだろそんなもん。
 ドラマがステレオタイプなんだよ!

*これってゴジラの皮を被ったエヴァじゃん。
 エヴァが作りたかったら素直にエヴァをやれ!これってエヴァ第0話だろ?
 「自分の作った作品世界はみんな実は繋がっている」病はもう結構だ
 クリエイター長くやってるとみんなこれをやりたがる。庵野よ、お前もか?

*CGの出来が悪い
 在来線爆弾のCGの出来の悪さを誰も指摘しないのは何故?

*「過去に見た事のあるシーン」を自分もやりたい」から脱却しろ
 「こんな映像、過去に誰も見たことなかった…」を一つくらいは作ってみせろ!

*テーマが正直じゃない
 結局主人公が活躍して全部解決する。
 これの何処に「日本が団結してゴジラと戦う」がある? 全部主人公が仕切ってるだけじゃないか。
 「日本はトップがいなくても戦える」「大切なのは「全員の結集」だ」がどこにもないぞ。
155 : なまえないよぉ~2016/08/03(水) 14:05:20.05 ID:X6L5hseZ

8:41 午前  
Blogger yoji said...

岡本喜八による明治憲法下が舞台の映画を手本にしているから
国会を描く意味が作り手には見えないのだろう

7:10 午前  
Blogger yoji said...

俺はアンチというわけじゃないけど、東浩紀が

>ある種の人のアイデンティティ・ポリティクスの場になってしまっている

と言ってたらしいけど、妙に納得した。シン・ゴジラをダシに
「ニッポン・スゴイ!」系で盛り上がっている人たちを見ると、
なんというか、愛国セカイ系(?)みたいなのかなあ…。と

12:16 午前  
Blogger yoji said...

ギャレゴジ
感想

福島みずほのどきどき日記 映画「GODZILLA」を観ました
http://mizuhofukushima.blog83.fc2.com/blog-entry-2625.html
映画「GODZILLA」を観ました
2014年08月14日(Thu)


http://mizuhofukushima.blog83.fc2.com/blog-entry-2625.html
男によって救われるなんて、「アナと雪の女王」や「マレフィセント」では、昔話になっているのになあ。

とまあ、いろいろ言いたくなるが、人間よ、自然を畏れよ、人間よ、核をコントロールできると思うなと吠えるゴジラを見習って、私も咆哮しよう。

7:00 午後  
Blogger yoji said...

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49434?page=4

「現実対虚構」ではなく「願望対虚構」

劇場などに貼りだされている『シン・ゴジラ』のポスターには、「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」という印象的なキャッチコピーが書かれている。

実際には、ゴジラのような生命体が日本を襲うことなどありえない。たしかにこれは、まったくの虚構だ。だが、それと同じくらい、挙国一致し世界に実力を見せつける日本というのもまた虚構なのではないか。願望の発露といってもよい。

それゆえ、本作の内容を正確に反映するならば、「願望(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」とでもいうべきであろう。

『シン・ゴジラ』は、昨今の映画にありがちな無駄なシーンを削りに削ったとも評価される。たしかに、定番のお涙頂戴シーンや恋愛描写などはなく、たいへんテンポがよい。本作の秀逸さは散々語られているので改めていうまでもあるまい。

ただ、これはまた、われわれが「立派な指導者が出てくれば、日本はまだまだやれる」というストーリーを「無駄」と考えず、あまりにも自然に、快楽として受容しているということでもある。

「失われた20余年」にも似たようなストーリーはあまりにも繰り返されてきた。「決断できる政治家」に対する待望は久しい。「日本の底力」や「日本の実力」を謳歌するコンテンツも増え続けるばかりである。

だからこそ、野暮なことを承知のうえで、あえていわなければならない。知らず知らずのうちに、われわれはこのようなストーリーに影響されてはいないだろうか、と。

もし、『シン・ゴジラ』を観て、「立派な指導者が出てくれば、日本はまだまだやれる」と本当に思ったとすれば、そんなものは虚構のなかにとどめておかなければならない。「失われた20余年」に繰り返されてきたこうした願望の発露は、その実現可能性ではなく、その徹底的な不可能性を示していると考えるべきだ。

劇中に描かれる美しき挙国一致の「ニッポン」は、極彩色のキノコである。鑑賞する分には美しいかもしれないが、それを実際に口にすればひとは死ぬ。ありもしない「底力」とやらを信じて、身の丈に合わない行動を起こし、かえって損害を被るのはもうやめたいものである。

まもなく今年も8月15日の終戦記念日がおとずれる。

本当の非常時における政治家や官僚の言動は、そのなかにたくさん事例がある。『シン・ゴジラ』は名作ゆえに、様々な影響をわれわれに残すだろうが、その中和のためにも、実際の戦史について調べてみるのも悪くないのではないだろうか。

辻田 真佐憲(つじた・まさのり)
1984年大阪府生まれ。文筆家、近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科を経て、現在、政治と文化・娯楽の関係を中心に執筆活動を行う。近刊『大本営発表』(幻冬舎新書)、そのほか単著に『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『ふしぎな君が代』(幻冬舎新書)、『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』(幻冬舎新書)、『愛国とレコード 幻の大名古屋軍歌とアサヒ蓄音器商会』(えにし書房)などがある。監修CDに『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌 これが軍歌だ!』(キングレコード)、『みんな輪になれ 軍国音頭の世界』(ぐらもくらぶ)などがある。

3:47 午前  
Blogger yoji said...

『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」 野暮は承知であえて言う | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49434
『シン・ゴジラ』では、ゴジラはこの21世紀のうらぶれた日本にやってくる。
決断力に欠ける政治家や、省庁間の縦割りにこだわる官僚たちは当初、この非常事態にうまく対処できず、いたずらに被害を拡大させてしまう。

ところが、日本存亡の危機がせまるに及んで、政治家や官僚たちは「覚醒」する。眼の色や表情は明らかに変化し、
従来のしがらみを捨てて結束し、ゴジラと対するようになるのだ。「現場」の公務員や民間人たちも、身命をなげうってこの動きに呼応する。

かくて挙国一致した日本は、東京に核ミサイルを打ち込んでゴジラを抹殺しようとする米国の動きを牽制しつつ、
日本の科学技術力を総動員して、ついにゴジラの動きを自力で止めることに成功するのである。
こうした政治家と官僚の「覚醒」ストーリーは、現実の日本の不能ぶりをむしろ露わにしている。
(中略)
実際のところ、日本の政治家や官僚は(東日本大震災のような)非常事態にあってもみながみな都合よく「覚醒」するわけではない。
不必要な決断などで、かえって混乱をまねくこともしばしばだ。また対米従属は相変わらずで、科学技術はどんどん世界に追い抜かされつつある。

その一方「現場」は、ブラック企業、非正規雇用、様々なハラスメントなどで疲弊している。ひとびとは格差やイデオロギーで分断され、とても一致団結できるような状態ではない。
グローバル化が進んだ現代では、ゴジラのごときものが襲ってきても、富裕層などはさっさと海外に逃げてしまうだろう。

このなかでも、政治家や官僚の問題は宿痾のように根深い。
というのも、直近では最大の国難ともいうべきアジア太平洋戦争(1931〜1945年)においてさえ、彼らは決して目覚めもしなければ、一致団結もしなかったからである。

このなかでも、政治家や官僚の問題は宿痾のように根深い。
というのも、直近では最大の国難ともいうべきアジア太平洋戦争(1931〜1945年)においてさえ、彼らは決して目覚めもしなければ、一致団結もしなかったからである。

よく知られるように、戦時下に本来ならば協力すべき陸海軍は、常にいがみ合い、情報を共有せず、資源を奪い合った。それだけではない。
同じ陸軍のなかでも、陸軍省と参謀本部が対立し、参謀本部のなかでも作戦部と情報部が対立した。もちろん、海軍のなかにも同じような対立構造があった。

陸海軍は、まさに四分五裂の状態だった。一例をあげれば、1944年10月、陸海軍は、大本営発表に「陸海軍」と書くか「海陸軍」と書くか、その順序をめぐって5時間近くも揉め続けたといわれる。
米軍が日本本土に迫る危機的な状態で片言隻句にこだわっていたのである。こうしたつまらない対立の事例は枚挙にいとまがない。
つまり、この国にあって、政治家や官僚は非常時にあっても都合よく「覚醒」しないし、一致団結もしない。これは現在だけではなく歴史的にもそうである。
だからこそ、『沈黙の艦隊』や『紺碧の艦隊』のような虚構の作品が受け入れられ続けてきたのだ。
『シン・ゴジラ』では、政治家や官僚の肩書、服装、しゃべり方などがかなりリアルだっただけに、一層その「覚醒」の異様さが浮き立って見える。
それは、現実社会における不能ぶりとのギャップを想起させないではおかず、痛ましくもあった。
劇中最後の、核ミサイル攻撃の回避においてもそうだ。かつて帝国日本は、なかなか終戦の決断をできず、みだりに戦争を長引かせ、ふたつの原爆投下を招くにいたった。
これに対し本作では、「覚醒」した政治家や官僚と、「現場」の公務員や民間人によって核ミサイル攻撃が防がれる。
なんという「美しい」物語だろう。ただしそれは、われわれがいまだかつて一度も手にしなかった歴史でもあるのである。

3:48 午前  
Blogger yoji said...

肯定派がやたらリアルだと持ち上げるから、わざわざ否定したくなるんだわw
「法律の運用とか実際の法律を適用したりするのは凝ってますね」ぐらいの評価なら納得なんだけどね
そもそも政治パートがリアルな映画なんてないだろうし、リアルである必要なんかないし
そこを売りにする必要もないと思う

演出面の話をすれば、あれだけ情報が錯綜してたり意見の対立があるにも関わらず
発言者がセリフをきっちり最後まで喋り切り、周りの人間は遮ることもせず待機してるだけじゃん
舞台演劇といっしょで順番にみんながセリフを消化してくだけ
そういう演出法なのは製作者側の勝手だけど、あれをリアルと持ち上げるのは無理があると思うよ

8:01 午後  
Blogger yoji said...

昭和のモスラ対ゴジラと比べると日本の民主主義が後退していることがわかる

8:15 午後  
Blogger yoji said...

【池田信夫】映画「シン・ゴジラ」にみる日本的意思決定…民主党政権のパロディなら、もっとリアルに描くべきだった [無断転載禁止]©2ch.net

1 : ニライカナイφ ★@無断転載は禁止2016/09/02(金) 19:28:07.22 ID:CAP_USER9
◆「シン・ゴジラ」にみる日本的意思決定/池田 信夫

きょうは台風で暇になったので、話題の「シン・ゴジラ」を見た。
怪獣映画なんか見たのは子供のとき以来だが、編集者に「あれは怪獣映画じゃなくて意思決定がテーマですよ」といわれたからだ。
たしかに全体の半分ぐらいが会議で、ネットでは「無駄な会議が多くて退屈だ」という批判があるようだが、あれはねらいだと思う。

劇場で見ると圧倒されるのは、特撮(ほとんどCG)のすごさだ。
昔のゴジラはいかにも模型という感じだったが、この映画で武蔵小杉のタワーマンションを倒すシーンなどはリアルで、特撮技術もここまで進歩したのかと感心した。
この密度で2時間やると予算がもたない…という消極的な理由もあるだろうが、たしかに霞ヶ関の会議が多い。

会議のディテールはよく取材しており、首相がやたらにどなり散らすところは震災のときの某首相のパロディだし、「有識者会議」ばかり開いて何も決まらないところも民主党政権を笑っているのだろうが、実際の菅内閣はもっとひどかった。
映画では「閣議決定で**法を出す」というシーンがたくさん出てくるが、民主党政権は震災のとき、ほとんど閣議決定をしていない。法律も出していない。
「閣僚会議」と称する非公式の会合で「閣議了解」なる根拠法のない決定を乱発したのだ。

某首相が原発を止めたときも、原子力規制委員会はその「超法規的」な決定を追認し、3ページのメモで全国の原発を止めてしまった。
止めたプロセスが非合法だから、合法的に運転再開できない。
改正された原子炉等規制法でも、原発のバックフィットに関する規定はいまだに欠けたままで、関連法も委員会規則もない。

これは庵野監督のような普通の民間人には、理解不能だろう。
映画では過剰に法律で決まるように描かれているが、逆なのだ。
日本では三反園知事のような「無法者」が政治を決め、官僚はそれを法律で追認し、マスコミが「法を超えた正義」を応援するのだ(映画にはマスコミが出てこない)。

そんなわけで映画の危機管理は実際よりはるかにましだが、それでも普通の日本人が見たらイライラすると思う。
ゴジラに対する攻撃で、人命より「憲法違反」を心配するところはうまく描いている。
危機管理にアメリカが介入するのもおもしろいが、ゴジラに核兵器を使う国連決議が出るのは、ちょっとおかしい。

もちろん怪獣映画にそんなリアリティを求めるのは野暮だし、これ以上はネタバレになるのでやめておくが、民主党政権はもっとでたらめだった。
そこをリアルに描けばよかったかもしれないが、あまりにもバカバカしくて世界には売れないだろう。

動画:映画『シン・ゴジラ』予告2
https://youtu.be/M89VLZgo1Vg

アゴラ 2016年08月30日18:23
http://agora-web.jp/archives/2021148.html

5:00 午前  
Blogger yoji said...

町山智浩の映画ムダ話35 庵野秀明総監督『シン・ゴジラ』


妖星ゴラス
に似ている

ヘドラ(1971年)

ザラガス 背中

グドン対ツインテール

怪獣対マット

5,6帰ってきたウルトラマン
5 二大怪獣 東京を襲撃 グドン ツインテール 富田義治 4月30日 21.1%
6 決戦!怪獣対マット 5月7日 19.4%
1983リメイク

新幹線大爆破のオールスターの使い方、牧教授

沖縄返還直前

ヒドゥン監督
ラストカウントダウン
#シン・ゴジラ tomomachi.stores.jp/items/57cc3f10… @stores_jp 町山さんによると 1971年7月、重要先行作品が3つも公開。庵野少年は リアルタイムで観れたんでしょうか? 『激動の昭和史 沖縄決戦』、 『帰ってきたウルトラマン』併映『ゴジラ対ヘドラ』

rainywoods2001(amamori)17:16


「庵野監督の作品の元ネタを解き明かして悦に入る」のは『エバ叩き』以後おたくが陥りがちな穴なんですけど、「『シン・ゴジラ』のプロットは『ゴジラ対ヘドラ』と併映の新マン『ツインテール対グドン』が原型で…」って云うところから作品論に展開するのが町山さんならではですね…

komotomeiko(こもとめいこ♂)17:11

3RT


なるほど、基本プロットは「帰ってきたウルトラマン」の引用だったのか!(もうネタバレいいでしょ?) tomomachi.stores.jp/items/57cc3f100... 町山智浩の映画ムダ話35 庵野秀明総監督『シン・ゴジラ』(1962年)。 構想なんと33年? さらにその原点は1971年7月? 「スクラップ&ビルド」で終わるもうひとつの特撮映画と...

大杉 信雄17:05


『シン・ゴジラ』がなぜ高揚感をもたらすのかを、岡本喜八、本田猪四郎両監督、脚本家の上原正三さん他、庵野監督が影響を受けた原点を交えて解説、最終的には庵野監督論の作家性に言及。流石の名評論!→町山智浩の映画ムダ話35『シン・ゴジラ』tomomachi.stores.jp/items/57cc3f10…

komotomeiko(こもとめいこ♂)17:03



町山智浩の映画ムダ話シン・ゴジラ編。進撃の巨人の因縁があるから逃げ回ってると思ってたけど圧倒的知識量でぶっ潰された。200円以上の聞き応えアリ。監督が脚本から編集までコントロールしたと言っていたので新海誠に言及すると思ったけどスルーしたのは雑音になるから敢えて触れなかったと思われ

2:49 午前  
Blogger yoji said...

「シン・ゴジラ」と「君の名は。」の違い
小林よしのり

むかつくのは、この映画のファンは、「俺たちだけのゴジラ」という内向きのナショナリズムが強すぎて、
オタクに動員かけてヒットさせたようにみえるのだ。
ここまで「俺たち日本人にしか分からないゴジラだぜ」という独占欲の強いファンってどうなんだ?
自分を客観視できないオタクって、つまりネトウヨとの親和性がかなり強い。
外国では『シン・ゴジラ』ってウケるのか?

『君の名は。』で描かれるのは、共同体の喪失である。『シン・ゴジラ』では家族も共同体も描かれない。
いきなり国家組織VS怪獣である。そこがいいと言うのは砂粒の個と化したネット民だからだ。
共同体なき空疎なナショナリズムである。

『君の名は。』を見てわしが思い出したのは、あの原発事故のあとに訪ねた、無人になった飯館村だった。
あの村の住民が見たら、ただただむせび泣くに違いない。
『君の名は。』は名作である。
http://blogos.com/article/191574/

5:34 午前  
Blogger yoji said...


─ ─作品の中では 、首相や官房長官をはじめとした大臣 、省庁の事務方スタッフの動き
などが細かく描かれています 。 3 ・ 1 1という究極のリアルを知る枝野さんから見て 、
当時の動きと比較してどう感じましたか 。

枝野 :あくまで映画 、エンタ ーテインメントですから 、非現実的な部分はもちろんあり
ました 。例えば 、首相と官房長官らが一緒にヘリコプタ ーに乗って移動しますが 、それ
は現実ではあり得ません 。

震災後 、女子サッカ ー日本代表の 「なでしこジャパン 」がワ ールドカップで優勝しました 。
帰国後に国立競技場でチャリティ ーマッチを行うというので 、当時首相の菅 (直人 )さん
とともに観戦に行ったのです 。その時に
「首相と官房長官が一緒に行動してはリスク管理上良くない 」と叱られました 。
平時でそれですから 、有事ではもってのほかということでしょう 。

また 、 3 ・ 1 1とは関係ないですが 、ゴジラの出現に際して首相が自衛隊に対し 「防衛出動 」を命じたことも適切ではないと思います 。あれは防衛出動でなくとも対応できるし 、
武器の使用も可能です 。

(「シン・ゴジラ」、私はこう読む)

3:13 午前  
Blogger yoji said...

【映画】貯金ゼロ目前、食費は1日100円…苦境極まった片渕須直監督『この世界の片隅に』は、どう完成したか [無断転載禁止]©2ch.net

1 : yomiφ ★2016/11/10(木) 01:06:44.89 ID:CAP_USER
 11月12日、ようやくアニメーション映画『この世界の片隅に』(原作/こうの史代)が全国公開を迎える。
 最初に制作発表がなされたのは、2012年の8月。しかし、企画は遅々として進まなかった。
 多くの困難を乗り越えて、ようやく完成に至った『この世界の片隅に』。ここに至るまでのさまざまなエピソードを、片渕須直監督に語っていただいた。

■先行上映や試写会の評判は「称賛しかない」

──取材前にTwitterで『この世界の片隅に』を検索してみました。すでに先行上映や試写会で鑑賞した人の声をみると、ほぼ称賛のコメントしかありません。批判がひとつもないのは、逆に恐ろしいのではありませんか?

片渕 わかんないんですよね。批判よりは称賛というのが、存在してはいつつも、それが大勢を占めているのかが気になるところです。称賛と批判があるのではなくて、称賛と無関心がある。
無関心のほうが怖いです。無関心ほど、始末に負えない批判はないと思っている。自分には関係ない映画だよといわれてしまう。それは、今でもTwitterで見ますね。「戦争中の映画なんでしょ」という風に思われてしまっていることも否めません。

──かなり冷静に見ていらっしゃいますね。

片渕 ええ、最近でいうと『この世界の片隅に』に言及されている方は、のんちゃんのファンが多いなと思っています。のんちゃんファンの中には『マイマイ新子と千年の魔法』にまで遡って見てくれる方まで出現しています。
のんちゃんを使って監督してくれている人は、どんな作品をつくっているのかと気になって『マイマイ新子と千年の魔法』を観て、こんなのがあったのかと、初めて知る。そして「世界が広がった」といった感想を寄せてくださる。
大事なのは、そういうことなんだと思っています。何かの関連ができて、自分に関わりがあるものなのだなと思った瞬間から、いろんなものが拓ける……。「自分に関わりがない」という意識を覆すのは、一番難しいハードルではないでしょうか。

■当初の資金は「持ち出し」で、貯金額が4万5,000円に

──2010年から完成まで約6年。その間には、この企画は頓挫するのではないかと思うときもあったのではないですか?

片渕 ぶっちゃけいうと、当初の資金は自分の持ち出し……企画が成立するまでの立て替えですね。でも、限界があるわけですよ。貯金をゼロにするわけにはいかない。何しろ、子どもの学費もありましたし。
このあたりが限度かなと思ったのは、12年の4月頃。この頃には「限界かな、これ以上収入にならないと大変だ」と思っていました。でも、同時に「なんか上手くいきそう」という動きもちらつき始めていました。
だから「むしろ、ここまでやったのを投げ捨てないほうがいいんじゃないかな」と考えて続けることにしたんです。

──具体的に、上手くいく保証は、まだなかったのではありませんか?
片渕 それは丸山さんが、いろんなところでプロデューサーとして仕掛けているわけですよ。そのときに話を聞いて下さっていた人たちは、みんな製作委員会に入っていただいています。
それまで何が上手くいかなかったというと、この映画がきちんと誰かのところまで届くものなのか、きちんと示せなかったからことです。その決め手となったのがクラウドファンディングだったというわけです。

──そこまで貯金を持ち出していると、家族の説得も大変だったのではありませんか?

片渕 いや、うちの奥さんも監督補だから。ただ最後は、貯金が4万5,000円になりました。そうなったところで「さすがに……」と丸山さんが少しお金を準備してくれました。あと、子どもの学費の支払いなど、節目ごとに少しずつ出してもらっていました。
最終的に企画が成立するまでの立て替えだと考えてはいましたけれど、貯金の残高が4万5,000円になると、さすがにおののきますね。
貯金がその額になったころから、家族で1日、1食100円にしましょうということになりました。一人ではなく一家4人で100円です。100円でもいけるんですよ。
そうした生活をしていて「ああ、今やっているのが、すずさんだな」と思っていました。大根を食べたら、大根の皮は干して……とかやっていましたから。
雑草を抜いてくるまではやりませんでしたけど。家族で「なんとかなるもんだね」と話をしていました。

(抜粋。全文はソースにて)
http://www.cyzo.com/2016/11/post_30196_entry.html

6:08 午後  
Blogger yoji said...

まず蘭堂が自分を危険にさらしていない
この時点で映画は別の方向へ向かっていく
会議のシーンは一般にも受け入れられる
電車爆弾はマニア向け
三段階に観客は篩にかけられる

8:51 午後  
Blogger yoji said...

まず蘭堂が自分を危険にさらしていない
この時点で映画は別の方向へ向かっていく
会議のシーンは一般にも受け入れられるが
石原さとみは映画ファンを冷めさせ
変態はコアなゴジラファンに疑問を持たせ
電車爆弾はマニア向け
三段階に観客は篩にかけられる

7:57 午後  
Blogger yoji said...

REALKYOTO
http://realkyoto.jp/blog/asada-akira_170508/
映画『シン・ゴジラ』で、小池百合子をモデルにしたと思しき女性の防衛大臣が極端なタカ派として描かれているのは、その点では先見の明があると言うべきかもしれません。ただ、政治的アレゴリーを主軸とする映画にするなら、アーロン・ソーキンのレヴェルは無理としても、もう少しまともな脚本を用意し、一応それらしく演技のできる俳優を選ぶべきなので、防衛大臣役のみならず、いずれは大統領を目指すというアメリカ人エリート女性を演ずる石原さとみなどはヤンキーが駅前留学でバイリンギャルになったつもりにしか見えない、これではまともな映画としては通用しません。
放射能怪獣ゴジラは、暴走した原子力発電所のアレゴリーであり、福島第一原子力発電所では注水による冷温停止に失敗して大事後を起こしたのに対し、映画では冷却剤注入によるゴジラの冷温停止に成功する。ただ、動かなくなったゴジラは、東京駅の廃墟の傍らに立ち尽くしたままであり、日本はこの問題に直面し続けなければならない…。このストーリーは単純ながら効果的と言っていいでしょう。ただ、左右の政治的対立による停滞を超えたプラグマティックなテクノクラート集団が、例外的事態に際して非常識とも思える大胆な決断を行い、事態の収拾に成功するという政治的ファンタジーこそは、ファシズムなどを生み出した「維新」のイデオロギーであるということを、忘れるわけにはいきません。

10:18 午前  
Blogger yoji said...

「ゴジラを待ちながら」三島由紀夫・武田泰淳の作品が映し出す“破滅”の夢。 | P+D MAGAZINE
https://pdmagazine.jp/works/godzilla/
ゴジラが咆哮し、背びれを光らせ、口から熱線を吐く……このお決まりの展開は、往年のゴジラファンたちにとっては、あたかもゴジラが見得を切る歌舞伎役者であるかのように「ヨッ!待ってました!!」とばかりに喝采を送るシーンだったはず。ところが、この『シン・ゴジラ』では、「なんで……なんでそんな酷いことするの!?」と、その圧倒的破壊を目の前にして絶望的な気分に突き落とされた観客も多かったのではないでしょうか。

ここで、筆者にはひとつの素朴な疑問が湧き上がります。なぜ私たちは、ゴジラ映画を通じて、見知った大都市が炎に包まれ、見るも無残に崩壊する場面を、嬉々として眺めてきたのでしょうか?

そう考えた時、筆者の胸中には、ゴジラ作品にも共通するような〈破滅の夢〉を宿した、三島由紀夫のある小説からの一節が思い浮かぶのです。



そうだろう。君も本音を吐けば、やっぱり崩壊と破滅が大好きで、そういうものの味方なんだ。あの一面の焼野原の広大なすがすがしい光りをいつまでもおぼえていて、過去の記憶に照らして現在の街を眺めている。きっとそうだ。…君は今すっかり修復された冷たいコンクリートの道を歩きながら、足の下に灼けただれた土地の熾の火照りを感じなくては、どことなく物足らず、新築のモダンな硝子張りのビルの中にも、焼跡に生えていたたんぽぽの花を透視しなくては、淋しいにちがいない。

三島由紀夫『鏡子の家』より


この『鏡子の家』が発表されたのは1959年、ゴジラシリーズの第1作となる本多猪四郎ほんだいしろう監督作の『ゴジラ』の公開が1954年。ここで言われている「一面の焼野原の広大なすがすがしい光り」とは、もちろん東京大空襲後の焼け跡の景色のことです。

ゴジラに深く感銘を受け、自らを「ゴジラの卵」と称した三島は、その後、戦後民主主義社会への不信と敵意を声高に表明することになりますが、そんな三島にとって、初代ゴジラが演じた徹底的な破壊劇は“(戦後の)文明に対する破壊的な報復心”を心の奥底から呼び覚ます類のものだったのでしょう。

敗戦後、物質的には目覚ましい復興を遂げた日本でしたが、その足元には、日本人の文化的記憶にまで染み付いた〈破壊の風景〉が広がっている……1959年の時点で、三島文学にとってのゴジラとは、東京に大破壊をもたらした〈戦争〉から、十余年の時を経て届いた呼び声だったのかもしれません。



「死の化身」としてのゴジラ:武田泰淳『「ゴジラ」の来る夜』

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Photo By bunny hero

武田泰淳といえば、戦中の日本陸軍徴用船の船長による食人事件をモデルにした『ひかりごけ』(1954)などの代表作で知られ、野間宏、椎名麟三らとともに第一次戦後派として数えられる作家です。

そんな武田は、三島の『鏡子の家』と同じく1959年に、『「ゴジラ」の来る夜』という奇妙な短編を発表しています。

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出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4122056837

その名の通り、ゴジラ襲来に怯える東京を舞台としたこの小説は、経済団体連合会の副会長である「私」が、警視総監から対ゴジラ作戦の「特攻隊」第一班に配属されたことをきっかけにストーリーが開始されます。これだけ聞けば、『シン・ゴジラ』と同じように、“危機対策シミュレーション”としての体裁を持った小説だと思われるかもしれません。

しかし、この「特攻隊」のメンバーは、ゴジラ映画で一躍有名となった女優、戦闘的な新興宗教の教祖、天才的な脱獄囚、さらには労働団体の委員長……というおよそ対ゴジラ作戦とは無縁の人物ばかり。この奇妙な一団は、ゴジラ来襲の日が来るまで無人の国立病院に籠城し、本部からの連絡を待つことになるのですが、肝心の対ゴジラ作戦の中身は明かされません。

それもそのはず、徹底的な破壊・殺戮を行うゴジラは、その後に何も残さないのですから、その姿を目撃した生存者すらおらず、その生態・行動について知識を持っている人間はいないのです。そんな“姿なき恐怖”であるゴジラがいつ東京湾に上陸するともわからないのに、「特攻隊」のメンバーの間にはどこかピクニックにも似た気楽なムードすら漂っています。

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Photo By M Liao

しかし、そんなお気楽ムードもつかの間、ひとり地下室に立てこもった宗教家の惨殺死体を発見した特攻隊たちは、それが自分たちの意識下に潜む、(無差別的な)殺人衝動のせいであることに気づかされるのです。

この殺人衝動について、作中で女探偵役を務めることとなる女性人物は、「ゴジラ時代の犯罪心理」が引き起こすものであり、ありとあらゆる人類を抹殺しようとするゴジラへの恐怖に突き動かされた時代においては、「ゴジラになれないことが、そのままゴジラ的になる理由ともなる」と分析します。

抹殺することは、抹殺される者(つまり我々)の側から言えば、迷惑しごくなことです。抹殺は、されたくない。しかし同時に、かならず抹殺されると言う予感(あるいは確信)が、私たちをスッポリと包んでいます。

無意味に、無目的に、泣こうが騒ごうが、殺されるときは殺されると言う、未来感覚がしみわたってくる。 そうすると、にくむべき死の絶対平等が、なんとなく解放感や救いに変形される。そこまで行かなくても、ゴジラが存在すると言う事実が、あまりにも大きくのさばって、ふくれあがっているので、もしかしたら殺害や殺戮、抹殺や抹消は、きわめて日常的で、まちがいない出来ごと、いなむしろ、自然現象のように思われてくるのです。

武田泰淳『「ゴジラ」の来る夜』(太字は引用者)
残酷なまでに平等な〈死〉の気配に呑みこまれた人間は、やがて他者の死を当然と思うような殺人者になる……このゴジラ恐怖はまさしく、「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」というニーチェの言葉をほうふつとさせます。

そんな中、いよいよゴジラによる破壊が開始されるのですが、それでもゴジラがその姿を現すことはありません。

やっとのことで起ち上がった私の、目まいでかすむ眼には、大東京の破滅の開始がうつった。見えないゴジラの脚が、一歩ふみ出すたびに、一キロ四方ぐらいの大穴が、街に口を開けるのであった。透明ゴジラは、家を踏みつぶしながら、進んでいった。

[中略]

ゆすり上げる大地は、病院を呑みこもうとしていた。もはや、視力を失った私には、隊員の最期を、見とどけてやることができなかった。

「神よ。あなたはゴジラだったのですか」

と言う想いが、ブリキの破片のようにきらめいて、かすめ過ぎた。

すると、かつて命令にそむいて偶像を崇拝した、古代の諸民族を、あますところなく打ちほろぼしたエホバの、おそるべき哄笑が、私の耳をつんぼ[ママ]にした。

「神よ。あなたは、ゴジラだったの、ですか……」

武田泰淳『「ゴジラ」の来る夜』(太字は引用者)
三島由紀夫の『鏡子の家』が、戦争のもたらした〈破滅と崩壊〉の風景を、現代文明からの解放感を込めて述懐していたように、武田泰淳が描く「ゴジラ」による破壊の場面にも、それが人類に対する神の報復であり、同時に救済でもあるような奇妙な感慨が浮かび上がってきます。

そしてそれは、対ゴジラ作戦のメンバーたちに「特攻隊員」という名前が当てられていることからも分かる通り、やはり戦争の記憶と無縁ではないのです。

9:35 午前  
Blogger yoji said...

映画的な作家、武田泰淳の凄みについて - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
http://www.seiryupub.co.jp/cinema/2012/07/post-50.html
映画的な作家、武田泰淳の凄みについて
 今秋、中央公論新社から刊行される『ニセ札つかいの手記 武田泰淳異色短篇集』の編集を手伝っていることもあり、ここのところ、武田泰淳の全集を読み直している。
あらためて、スゴイ作家だなあと感嘆するほかないのだが、今年、生誕百周年を迎える武田泰淳について、表立った大きな再評価の動きがないのは、いささかさびしい。

武田泰淳は、『ひかりごけ』や『風媒花』『蝮のすゑ』『異形の者』といった作品から、どうしても<戦争><革命>といった気宇壮大なテーマに取り組んだ難解な作家、<第一次戦後派を代表する巨人>いうイメージが流布してしまっていて、結果、敬して遠ざけられる存在になっているような気がしてならない。

私自身は、数年前、『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』(小社刊)という映画エッセイ集を編集したせいもあるが、武田泰淳といえば<映画>のイメージと深く結びついている。なにしろ、最初に読んだ武田泰淳の小説が『白昼の通り魔』だったからである。
あれは、一九七〇年代の半ば頃だったが、四谷公会堂かどこかの自主上映会で、初めて、大島渚監督の『白昼の通り魔』を見て、いささか興奮してしまった。そして、大島監督の本を読むと、「原作は、文学的にはだれ一人認めていないけれど、武田泰淳のすごい傑作だと思います。この傑作に対する感動が出発点になっているんです」という発言があった。そこで、ぜひ、原作を読んでみたいと思い、古書店を探し回ったが、なかなか見つからず、偶然、手にした『映画芸術』一九六六年三月号に、原作の短篇がまるまる収録されていたので、狂喜してしまった。 
一読し、映画とはまた異なった深い感銘を受けた。
小説は篠崎シノの手記という体裁をとっているが、映画の中で、通り魔の英助、彼の妻となる倉マツ子先生、シノの心中相手の村長の息子・源治と、シノとの間で交わされる際立って印象的なダイアローグは、すべてほぼそのまま原作通りで、というより原作ではさらに異様な凄みを帯びて迫ってくるのだ。
大島渚の映画は、それまでの長回し主体ではなく、細かいショットを積み重ね、ハイキーのモノクロ映像がフォトジェニックで美しくモダーンだが、武田泰淳の原作は、もっと方言のもつ猥雑な可笑しみ、諧謔が生かされ、初期の深沢七郎の「ポルカ」ものを彷彿させるような土俗的でフォークロア的な黒いユーモアが溢れているのだった。

『誰を方舟に残すのか』も奇妙な短篇である。はるか昔、テレビの土曜洋画劇場で『二十七人の漂流者』というアメリカ映画を見たことがあり、印象に残っていたのだが、前半は、この『二十七人の漂流者』の映画批評としても読めるのだ。映画は、ヒッチコックの『救命艇』とよく似たワンセット・ドラマで、豪華船が沈没して、一艘の救命ボートに大勢が乗り込み、人数が多すぎて転覆してしまうために、船長のタイロン・パワーが老人、女性、怪我人と、弱い者から容赦なく海に放り出す。
武田泰淳は、極限状況下で露わにされるエゴイズムとモラルの相克をめぐって入念な考察に耽り、一転、後半では、ノアの方舟におけるノアと三人の子セム、ヤム、ヤペテを登場させ、「旧約」創世記談義を開陳するのだ。

極限状況モノといえば、『「ゴジラ」の来る夜』は、いよいよゴジラが上陸するというときに、資本家とその美人秘書、労組の指導者と天才的な脱獄囚、宗教家と『ゴジラ』映画のグラマー女優による特攻隊が編成される。彼らは無人の病院にたてこもり、なぜか互いに殺し合いを始めるというSFである。武田泰淳は、その数年前に、水爆投下のボタンを押した人物の戦争責任をモチーフに『第一のボタン』という同工のSFを書いている。
 当時、花田清輝は、「科学小説」というエッセイにおいて、H・G・ウェルズやスウィフトと比較しながら、この作品の文体を強く批判し、「『第一のボタン』のなかに霧のようにただよっていた仏教的ニヒリズムが薄れてしまうと、水爆投下後の風景のような、惨憺たる廃墟があらわれたというわけだ」と皮肉まじりに書いている。しかし、ドタバタ喜劇のタッチで、第三時世界大戦前夜の不安をアレゴリカルに描く、この諷刺的なSFは、むしろファルスの精神を顕揚した花田好みの作品のはずで、もっと高く評価されてよいと思う。

『空間の犯罪』は、『流人島にて』(篠田正浩が映画化した『処刑の島』の原作)などに連なる一種の復讐譚である。不具者の八一がヤクザの親分黒岩に侮辱され、「ガスタンクにでも登ってみろ」という自分に投げかけられた言葉を呪詛のように受け止める。以後、高い所に上るという不可能事に思いをめぐらす主人公が、ガスタンクの頂上に上り詰め、下界の黒岩に向けて絶叫するクライマックスは圧巻である。高所恐怖症者の末期に眼に映じた下界の街の光景は壮麗な幻想と悪夢に彩られ、まるで、エドガ・アラン・ポーやG・K・チェスタートンの瞑想的な恐怖譚を思わせる。武田泰淳は、創意豊かな<幻視者>なのだ。

武田泰淳は「映画と私」というエッセイで、幼少期に映画と出会い、「そのしびれるような魔力から逃れることができなかった」と告白しているが、自作の映画化作品についてはどう思っていたのだろうか。一人娘で写真家の武田花さんによれば、家の中ではほとんど話題に出た記憶がなかったそうだ。
大島渚の『白昼の通り魔』をのぞいては、内田吐夢の『森と湖のまつり』も、吉村公三郎『貴族の階段』も、熊井啓の『ひかりごけ』も成功しているとは言い難い。

一番、気にかかるのは、相米慎二監督が撮りたかった『富士』のことだ。たしか、『台風クラブ』が東京映画祭ヤングシネマで受賞した直後から、名コンビの田中陽造が脚本を書いていたはずで、あの名状しがたい巨大な傑作と格闘し、呻吟したものの、結局、完成をみなかったとも伝え聞いた。
いつだったか、新宿の酒場「ブラ」で、武田花さんら数人と一緒に呑んでいたら、離れた席に田中陽造さんがいて、誰かが武田花さんを紹介したところ、したたか酔っていた田中陽造さんが、一瞬、直立不動の姿勢になり、恐縮したように挨拶していたのが妙に可笑しかった記憶がある。その時、陽造さんの武田泰淳への深い尊敬のようなものを感じたのだ。

相米慎二監督と最後に会ったのは、ロバート・アルトマンの『クッキー・フォーチュン』のパンフレットのためにインタビューした時だった。アルトマンの描くアメリカの風景の話から、相米さんが、なぜか、ふいに「武田花さんの写真は、いいよなあ。すごくいい」と呟いた。その翌年、相米さんは急逝してしまうのだが、生前、武田花さんと相米さんが一緒に呑む機会をつくれればよかった、と悔やまれてならない。
武田泰淳、最晩年の畢生の大作『富士』の映画化は、たぶん、永遠に幻の企画のままであろう。


タデ.jpg
『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』(清流出版)

9:36 午前  
Blogger yoji said...

城戸朱理のブログ: 怪獣が出てこない怪獣映画
http://kidoshuri.seesaa.net/article/6524090.html
2005年09月03日
怪獣が出てこない怪獣映画

「怪獣映画」というものが、いかに日本映画固有のジャンルなのかは、
すでに語ったが、怪獣が出てこないケッサクな怪獣映画がある。
宮坂武志監督、桃井かおり主演の「大怪獣東京に現わる」(1998年)がそれだ。
怪獣は最後まで、画面には出てこない。
テレビニュースの報道で、2匹の怪獣が日本の南と北に現われたことが告げられ、
2匹は、ともに東京を目指す。映画はそのニュースを見ながら、
右往左往する田舎の人たちを描くもので、実は怪獣映画ではなく、人間ドラマ。
この設定はかなり、おかしい。
怪獣は1匹が恐竜形で、1匹は亀形。
後者など、ニュースの画面では、
亀の甲羅がくるくる回る簡略図で日本地図のうえに位置が示される。
明らかにガメラとゴジラがモデルになっているのだが、
結局、画面には怪獣は出てこない(笑)。
私はわりと好きだが、暇な人以外、決して、決して、見てみようなどと思ってはいけない。
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撮影終了の記念品
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9:49 午前  
Blogger yoji said...

紹介した新潮45(7月号)が尼から届いた。うち養老×庵野対談(全10頁)のレポ
お二人がおすまいの鎌倉、電柱、空間認識、原風景、撮影編集技法、特撮アーカイブと話がはずむが面白かったのは監督がエヴァもシンゴジも海外では受けないだろうといいその理由を語る部分
オブラートにつつんでるがかなり辛辣w

庵野:アメリカ在住の日本人から聞いた『シン・ゴジラ』の批評で、一番納得がいったものがあります。
長くニューヨークに住んでいて、公開時に喜んで見に行き、内容も素晴らしかった。
ただ、なによりよかったのは、劇場にいたアメリカ人がみんな、ポカンとしていたことだと。
何で俺たちのスタンダードに合わせていないんだと怒ってたらしい。
>世の中はおまえらのためだけにできているわけじゃないんだ、ざまあみろ、というのを『シン・ゴジラ』が示してくれたのでその人は大喜びだった。
マイノリティとして心地よかったらしいです。
>知性というのはきっと、外のものを受け入れられる寛容さのことなんですね。

養老:教養って、結局は思いやりですからね。となると『シン・ゴジラ』は日本的ということですかね。

(続き
庵野:日本で育った創り手たちが日本語で考えているので、やはり、そうなってしまいますね。
日本の文化に特化したものしかつくれない。
アメリカのスタンダードに迎合しようとしてもうわべだけになってしまう。
>英語文化は英語がわからないとダメですね。
英語文化圏にたまに行くようになって、多少前よりはわかるようになったんですけど、よくわかったのは英語の考え方と日本語の考え方はまるで違うということでした。

石原さとみのインタビューの一節を思いだした
>庵野総監督は「役者さんとは距離を置いて接する」と公言。撮影中も演技については何も言われなかった。
「スタッフさんもキャストさんも、みんな庵野さんの顔色を見て、今ので合っているのかなって感じなんです。でも、庵野さんは何も言わないので、いいも悪いもわからなかった。
だけど先日、完成会見でお会いした時に、庵野さんが『石原さんでよかった。ありがとう』と3回も言ってくれて。泣きそうになって、その一言で救われた。あの時の私の全力でしたから」
http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160804-OHT1T50169.html

4:01 午後  
Blogger yoji said...

(株)カラー

>>>2017.06.17
養老孟司×庵野秀明対談掲載 『新潮45』2017年7月号 発売中

雑誌『新潮45』2017年7月号が発売中です。
庵野秀明が養老孟司さんと対談させて頂いております。
是非、ご一読下さい。
http://www.khara.co.jp

4:02 午後  
Blogger yoji said...


139同[官邸]・表〜巨大不明生物・特設災害対策室(深夜)

デモ隊(ゴジラ反対派)の声「ゴジラを倒せ!」
デモ隊(ゴジラ擁護派)の声「ゴジラは神だ!」
ゴジラの擁護や保護を訴える学者や市民団体と、反対するグループがぶつかり、騒々しい官邸前。(空撮映像)
制止する警官とデモ隊の声と鳴り物の音が、官邸内にも騒々しく響き渡っている。
椅子やソファー、床に寝袋等で仮眠しているスタッフら。
ゴミ箱一杯のカップ麺を片付ける初老の職員。

121頁

9:31 午前  
Blogger yoji said...

モスラあたりと比べるとジャーナリズムの扱いが雑になっていることがわかる

9:32 午前  
Blogger yoji said...

タルコフスキーの鏡ではヘリを飛ばして超自然的な風圧を表現したそうだ
シンゴジラの尻尾が横切るシーンもヘリを飛ばせばよかった
CGで最終的にヘリを隠せばいい

7:01 午前  
Blogger yoji said...

シンゴジラは主人公とゴジラを同一画面に収めたカットが2つしかない
ドラマになっていない
シミュレーションはドラマではない
初代ゴジラの方が不在の科学者を活かしていた

6:10 午後  

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