墨子の入門書は論理学の部分をカットすることが多いが、東洋文庫と以下は例外。
墨子は 、弟子の魏越に向かって言う 。 「他国に遊説にいく際には 、その国の急務を把握して説くことが必要だ 。国が乱れていれば 、尚賢 ・尚同を説き 、国が貧しければ 、節用 ・節葬を説き 、音楽にふけっている国には 、非楽 ・非命を説き 、風俗が乱れて礼法がない国には 、天志 ・明鬼を説き 、略奪に努めて他国を侵略する国には 、兼愛 ・非攻を説け 」 ( 『墨子 』魯問篇 )と 。十論をうまく使い分けよといっているのである 。
幸田露伴『墨子』
墨子の現存五十三篇は 、自分をして評させれば 、おのづからにして三部を爲してゐるのである 。此事は前人にかゝる言を爲したものは無いが 、精しく墨子を讀んだ人ならば自分の言を首肯して呉れるだらう 。其の三部といふのは何樣いふのであるかといふと 、甲部は 、
親士 、脩身 、所染 、法儀 、七患 、辭過 、三辯 、尚賢上 、同中 、同下 、尚同上 、同中 、同下 、兼愛上 、同中 、同下 、非攻上 、同中 、同下 、節用上 、同中 、同下 、 (闕 )節葬上 、 (闕 )同中 、 (闕 )同下 、天志上 、同中 、同下 、明鬼上 、 (闕 )同中 、 (闕 )同下 、非樂上 、同中 、 (闕 )同下 、 (闕 )非命上 、同中 、同下 、非儒上 、 (闕 )同下 、大取 、小取 、耕柱 、貴義 、公孟 、魯問 、公輸 、 □ □ 、 (闕 )
の篇〻であつて 、これは墨子の對世間言 、顯説 、一般の士君子に對しての教諭訓説である 。乙部は 、
經上 、經下 、經説上 、經説下 、
の四篇であつて 、これは前の諸篇の對外の言説であるとは異つて 、墨學の學徒内のものであり 、學問的に純なる部分であり 、理論的 、又は理論の取扱ひ方 、認定論決の確實性を成立たしむる道の如きものである 。或は墨子の死後に韓非子莊子の敍してゐる如く 、別墨といふ一派 、南方に於て墨學から開展したる學徒のものかも知れない 。
それから丙部は 、
備城門 、備高臨 、備鉤 、 (佚 )備衝 、 (佚 )備梯 、備堙 、 (佚 )備水 、 □ □ 、 (佚 ) □ □ 、 (佚 )備突 、備穴 、備蛾傅 、備轒轀 、 (佚 )備軒車 、 (佚 ) □ □ 、 (佚 ) □ □ 、 (佚 ) □ □ 、 (佚 )迎敵祠 、旗幟 、號令 、襍守 、
の篇〻である 。此中に篇名不明なのと 、篇名あるも佚字を記したのは今は亡はれたもので 、七十一篇の目に合せしむるために篇名不明のものまでを擧げて置いたのである 。
世界大百科事典内の《墨子》の言及
【道教】より
…その第1点は,中国の思想史とくに古代,中世の思想史において,一般的に〈道教〉という言葉が実際にどのような思想概念として用いられてきているか,また,それは中国土着の民族宗教としての〈道教〉の概念とどのようなかかわりを持っているかであり,第2点は,中国において民族宗教としての道教が,その神学教理もしくは思想哲学を一応整備完成するにいたる唐・五代・宋初の時期において,道教の教団内部の学者たちがその教をどのような宗教として自覚し,規定し,ないしは神学教理の整備体系化を行っているかである。
[〈道教〉の語の用例]
中国の思想史において,〈道教〉という言葉(概念)が最も古く用いられているのは,前4世紀ころにその成立が推定される《墨子》の〈非儒篇〉およびこれより少しおくれて前3世紀ころにその成立が推定される〈耕柱篇〉においてである。〈非儒篇〉では〈儒者〉すなわち当時の孔子学派の学者たちが,みずからの教を〈道教〉とよんでいるのは正しくないと批判し,〈耕柱篇〉では墨子の教説こそ真正の〈先王の道教〉であることを強調している。…
【墨家】より
…それ以前は墨者(ぼくしや)と呼ばれた。開祖は戦国初期の宋の工匠,墨翟(ぼくてき)(墨子,前5世紀後半~前4世紀前半)。墨翟の後を継ぐ指導者を鉅子(きよし)(巨子)という。…
【論理学】より
…ディグナーガより1世紀ばかり後に,その孫弟子であるダルマキールティや非仏教的学派に属するウッディヨータカラが現れ,ディグナーガの論理学をさらに完璧なものにし,ここでインド論理学は完成する。
[中国]
中国人の手になる最初の論理学書は《墨子》のうちの六つの章〈経上〉〈経下〉〈経説上〉〈経説下〉〈大取〉〈小取〉である。《墨子》は前5世紀に,墨子およびその集団によって書かれたものであり,全部で71章からなるが,そのうちの6章が論理学を扱った部分である。…
※「《墨子》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
墨子の経説(經説?)について・・・・ - サッパリです(涙。... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222450397
墨子『経・経説篇』の抄録です。
『経・経説篇』は、墨家の論理学ですね。
論理・倫理・物理・光学などの記述があります。
奥深いですね。
経篇〔経〕で記述されていることを、経説篇〔説〕で説明します。
別墨の『経説』をお望みなら、スミマセン。
勉強不足ですのでお答えできません。
【因果関係】
〔経〕原因とは、それがあると結果が生まれるというものである。
〔説〕
原因。小さな原因とは、それがあっても必ずしも結果が生まれるとは限らないが、
それがなければ必ず結果が生まれない、一部の原因のことである。
線に点があるようなものである。
大きな原因とは、それがあれば必ず結果が生まれ、
それがなければ必ず結果が生まれない、というものである。
物を見たとき、(条件が備わって、)像が得られるようなものである。
【包含関係】
〔経〕部分とは全体から分かれたものである。
〔説〕部分とは二のうちの一、線のうちの点のようなものである。
【認識の第一段階(知)】
〔経〕知(知能)とは生まれつきの性質である。
〔説〕
知(知能)とはうまれつきの性質である。
知というものは、物事を知るためのものである。
知があってはじめてものごとを知ることができる。
物を見るために視力があるようなものである。
【認識の第二段階(慮)】
〔経〕慮とは求めることである。
〔説〕
慮。慮というものは、知が働いて、求めることがあるのである。
しかし、必ずしもそれを得られるとは限らない。
物を横目で見るようなものである。
【認識の第三段階(知)】
〔経〕知(認識)とは交わることである。
〔説〕
知。知というものは、知能を使って物事と交わり、
それを心で写すことである。物を見るようなものである。
【認識の第四段階(恕)】
〔経〕恕とは明らかにすることである。
〔説〕
恕。恕というものは、知能を使って(事物と交われないとき、)
すでに知っている事物から類推して、
知らない事物を明らかにすることである。
物を明瞭に認めるようなものである。
【仁】
〔経〕仁とは愛を体得することである。
〔説〕
仁。己を愛することは己を都合よく利用するためではない
(人を愛することも人を都合よく利用するためではない)。
馬を愛することとは別である。
【義】
〔経〕義とは利のことである(義と利は対立しない)。
〔説〕
義。志は天下のことを己の職分とし、
しかも、能力は人をよく利することができる。
ただし、必ずしも認められるとは限らない。
【行】
〔経〕行とは為すことである。
〔説〕
行。あることを為して、名を取り繕わないことが行である。
あることを為して、名を取り繕うことは偽善である。
盗みをするようなものである。
【利】
〔経〕利とはそれを得て喜ぶものである。
〔説〕利。それを得て喜べば、それは利である。害は利ではない。
【害】
〔経〕害とはそれを得て憎むものである。
〔説〕害。それを得て憎めば、それは害である。利は害ではない。
【功】
〔経〕功とは民を利することである。
〔説〕
功。しかるべき時を待っていてはならない(自ら功を挙げに行くべきである)。
衣服を季節に合わせて整えておくようなものである。
【久】
〔経〕久(時間)とはあるときからあるときまでの幅である。
〔説〕久。古今・朝夜を合わせたものである。
【宇】
〔経〕宇(空間)とはあるところからあるところまでの幅である。
〔説〕東西南北を覆うものである。
【動】
〔経〕動(運動)とは力が働いて生まれるものである。
〔説〕
動。片方から力が働いて生まれる。
戸のかんぬきを外すと扉の枢が回転するようなものである。
【止】
〔経〕止(静止)とは引き止める力が働いて生まれるものである。
〔説〕
止。引き止める力が働かないと止まらない。
「牛は馬ではない」ということに相当する。
矢が柱を通り過ぎるようなものである。
また、引き止める力が働いても止まらないこともある。
「馬は馬ではない(馬という概念は個別の馬ではない)」ということに相当する。
人が(川の抵抗のために進めないときでも)橋をかけて渡るようなものである。
【中】
〔経〕中(中央)とは周囲からの長さが等しいことである。
〔説〕中。円心のことである。円心から周囲まで長さが等しいことである。
【厚】
〔経〕厚(立体)とは平面を積み重ねて拡大したものである。
〔説〕厚。ただ立体でない平面は積み重ねて拡大することができない。
【景・一】
〔経〕景(影)は動かない。そのわけは、古い影と新しい影がつぎつぎと変わるからである。
〔説〕
景。光があって影がある。
影がなくなってもあるように見えるのは、古い影がことごとくしばらく残っているからである。
【景・二】
〔経〕景(影)には二つ(本影と副影)ある。そのわけは、光線が重なっているからである。
〔説〕景。二つの光点から出る光線が一つの光を挟む。一つの光が副影である。
1 Comments:
wiki【論理学】より
…ディグナーガより1世紀ばかり後に,その孫弟子であるダルマキールティや非仏教的学派
に属するウッディヨータカラが現れ,ディグナーガの論理学をさらに完璧なものにし,ここで
インド論理学は完成する。
[中国]
中国人の手になる最初の論理学書は《墨子》のうちの六つの章〈経上〉〈経下〉〈経説上〉
〈経説下〉〈大取〉〈小取〉である。《墨子》は前5世紀に,墨子およびその集団によって書かれ
たものであり,全部で71章からなるが,そのうちの6章が論理学を扱った部分である。…
墨子の入門書は論理学の部分をカットすることが多いが、東洋文庫と以下は例外。
国立国会図書館デジタルコレクション - 和訳墨子・和訳列子 田岡嶺雲
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/753445
参考:
墨子の経説(經説?)について・・・・ - サッパリです(涙。... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222450397
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