土曜日, 10月 29, 2016

柄谷行人とプルードン:転載

                     (柄谷行人リンク:::::::::) 

NAMs出版プロジェクト: 柄谷行人とプルードン:転載

http://nam-students.blogspot.jp/2016/10/blog-post_29.html

ニーチェにとって、永劫回帰とは、けっして内面化も一般化もしえない個別性(単独性)の反復であり、それはいわば固有名を取り返すことなのだ。

柄谷定本5・217頁


探究IIIの連載を読むと柄谷はプルードンを発見したからNAMを始めたことがわかる…。以下転載。

柄谷行人とプルードン 
http://yojiseki.exblog.jp/9320919/

柄谷行人は「群像」誌上における『探究3』の連載を単行本化する際に、プルードンへの考察を取り入れた(『トランスクリティーク』のアナーキストと最終章における考察)。
だが重要なのは、それ以前の『探究2』でスピノザを論ずるなかで得た結論と、プルードンの見解が一致するということだ。

プルードンは以下のようにいう。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳。斉藤悦則氏のHPより)
http://www.minc.ne.jp/~saito-/travaux/vive.htmlhttp://www.exblog.jp/myblog/entry/edit/?eid=a0024841&srl=9320919#

これらは以下の柄谷の考察と同じだ。

 <コジェーヴは、ヘーゲルの哲学を超越することはできないといった。《ヘーゲルの言説は思惟のすぺての可能性を汲み尽くしている。ゆえに彼の言説の一部を成していないような言説を、全体の契機として体系の一節に再現されていないような言説を彼の言説に対立させることは不可能であるしたがって、「弁証法的に揚棄され」うる「定立」ではないという意味では、この言説が弁証法的でないことが理解される》(『ヘーゲル哲学入門』上妻棉・今野雅方訳、国文社p275)。(略)要するに、ヘーゲルを超越しようとすることがまちがいなのだ。なぜなら、ヘーゲルの哲学はいわば超越の哲学であり、それを完結したものだからである。マルクスがやったのは「超越」の不可能性を示すことだ。そして、マルクス以前にスピノザはそれを示している。それは「無限」の観念によって可能なのである。>
(『探究2』、単行本p151-152、文庫p177)

<だが、シュレーゲル的な戯れを拒み、さらにヘーゲル的な和解を拒むとき、何が可能だろうか。(略)ニーチェにとって、永劫回帰とは、決して内面化も一般化もしえない個別性(単独性)の反復であり、それはいわば固有名を取り返すことなのだ。>
(定本第5巻p216-217)

ちなみに後者の引用に出てくるニーチェはスピノザの影響を受けている(「善悪の彼岸」なることばはニーチェがスピノザを読んだ後の覚え書きにある言葉であり、実際『エチカ』第4部定理68*に同様の言葉がある。また、マルクスの『資本論』におけるプルードンに対する執拗な批判も、貨幣を揚棄されて得た概念とするマルクスに対して、貨幣を設計可能なものとするプルードン=ゲゼル的思考を際立たせるものとしてあることに思い当たる。)

柄谷のプルードンに関する直接的な言及も重要だが、これらの考察こそ柄谷の可能性の中心と言えるものではないだろうか?

マルクスの認識にカントの倫理を組み入れたのが柄谷のアソシエーション論だとするなら、プルードンはそれを先取りしていたのである。そのことは柄谷のスピノザ論を見ることで論理的に明確になると思う。


*注:
スピノザ『エチカ』第四部には以下のようにある。なお後半部のモーゼをめぐる考察は柄谷の「抑圧されたものの回帰」等、フロイト(『探究2』単行本p159ではスピノザとの同種性が第5部定理3
=<受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成れば、ただちに受動の感情でなくなる。>から導かれる)をめぐる言説にも直接関係してくる内容である。


「 定理六八 もし人々が自由なものとして生まれたとしたら、彼らは自由である間は善悪の概念を形成しなかったであろう。
 証明 私は理性のみに導かれる人を自由であると言った。そこで自由なものとして生まれかつ自由なものにとどまる人は妥当な観念しか有しない。またそのゆえに何ら悪の概念を有しない(この部の定理六四の系により)。したがってまた善の概念をも有しない(善と悪とは相関的概念であるから)。Q・E・D・
 備考 この定理の仮定が誤りであること、そしてそれは人間本性だけを眼中に置く限りにおいてのみ、あるいはむしろ、無限なものとしての神ではなく、単に人間の存在の原因にすぎない神を眼中に置く限りにおいてのみ、考えられるのだということは、この部の定理四から明らかである。
 このことや我々のすでに証明したその他のことどもは、モーゼが最初の人間に関するあの物語の中で暗示しているように見える。すなわちその物語の中では、人間を創造したあの能力、言いかえれば人間の利益のみを考慮したあの能力、以外のいかなる神の能力も考えられていない。そしてこの考え方にそって次のことが物語られている。すなわち神は自由な人間に対して善悪の認識の木の実を食うことを禁じた、そして人間はそれを食うや否や生を欲するよりもむしろ死を恐れた、それから人間は自己の本性とまったく一致する女性を発見した時、自然の中に自分にとって彼女より有益な何ものも存しえないことを認めた、しかし彼は動物が自分と同類であると思ってからはただちに動物の感情を模倣(第三部定理二七を見よ)して自分の自由を失い始めた。この失われた自由を、族長たちが、そのあとでキリストの精神、すなわち神の観念 〜 神の観念は人間が自由になるための、また前に証明したように(この部の定理三七により)人間が自分に欲する善を他の人々のためにも欲するようになるための、唯一の基礎である 〜 に導かれて再び回復したのであった。」(畠中尚志訳。岩波文庫より)