http://www.freeassociations.org/
慈永祐士 (@jiei_yushi) | |
正法眼蔵「洗浄」巻の元にもなった話で、うんこを行ずる舎利弗尊者を目撃した婆羅門が、そのあまりの尊さ故に調伏されてしまうという根本有部律の話がありますが、この本でも紹介されていますね。 pic.twitter.com/XRwgrsqZU7
|
ラベル: 禅
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズのABC…"アベセデー ル"("Abécédaire"deGilleDeleuze1988–1989)
:(http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/abecedaire-de-gille-deleuze.html#)
http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/abecedaire-de-gille-deleuze.html#z
W
では Wに移りましょう
Wは何もないだろう
ウィ卜ゲンシュタインです
それについては話したくない
あれは哲学の崩壊だ
学派というもののいい例だろう
哲学の退化と言うほかない
ウィ卜ゲンシュタインに関わることは もう 本当に嘆かわしい
彼らが作ったのは恐怖の体系だ
”何か新しいことをする”
そういう口実で一
豪勢な箱の中に貧相なものが 詰め込まれている
あれは...
あの危険を言い表す言葉はないね
この危険はしょっちゅうあるものだ だが深刻な問題なんだ
ウィ卜ゲンシュタイン派というのは 本当にイヤな奴らなんだ
彼らは何もかもを壊してしまう
彼らが勝利をおさめたら まさしく哲学の殺害だ
彼らは哲学を殺害する暗殺者だ
深刻ですね
そうだ
十分に注意しないとね
___________
X,Y
Xは未知数で一
Yは言葉にできません
ですから最後の文字に移ります
____________
Z
Zです
ああ いいね
“怪傑ゾロ”ではありません
Zというと ゾロを思い出しますけれど
そうではなくて
進路変更やひらめきの話です
偉大な哲学者の名前にはZの文字が
禅 ツァラ卜ゥス卜ラ ライプニッツ スピノザ
二一チェ ベルクゾン そしてもちろん ドゥルーズ
君は冗談が得意だね ベルクソンじゃなくてベルク ゾ ンとは
それに私についても 素敵なことを言ってくれた
Zはすばらしい文字だ ここからAに戻れる
ハエの話をしよう ハエの禅だ
ハエのジクサグの動き
Zはジグサグで しがもジグサグは最後の単語だ
ジグサグのあとは単語がない そこで終わるのはいいね
では Zでは 何が起こっているのか?
禅(Zen)という語は鼻(NeZ)という語の反対だね
これもジクサグ運動だ
あのハエのジグサグ運動とは 何なのか?
あれは世界の想像をつかさどった 最初の運動だ
最近私もみんなみたいに一
ビッグバンについての本を読んでいる
宇宙の創造とか 無限曲線といった話だ
ビッグバンは どうやって起こったか?
物事の起源にはビッグバンのような 大爆発などない Zがあるんだ
ハエのZ そしてビッグバンということでしたが
そうビッグバンね
ビッグバンじゃなくてZのことを考えないといけない
Zというのは実際 禅であり一
飛んでいるハエの動きだが これはどういうことなのか?
ジグザクの話というのは 先ほど言っていた一
普遍の話と一緒だ
普遍などなく 特異性の集合だけがある
バラバラの特異性を どう関係づけるかが重要だ
物理学の用語で言うと 諸々の “ポテンシャル"をどう関係づけるか
ポテンシャルでいっぱいのカオスというのを想像できる
それらのポテンシャルを どう関係づけるか?
何という分野だったか思い出せないが とても気に入った用語があった
自分の本でも使ったんだが こんな話だ一
二つのポテンシャルの間で一
"暗き先触れ"と 呼ばれる現象が起こる
"暗き先触れ"は 異なったポテンシャルを関係づける
"暗き先触れ"の動きがあると一
二つのポテンシャルが反応し一
二つの間で 目に見える出来事が閃光を放つ
きらめきだ
"暗き先触れ”が まずあり 次いで きらめきが起こる
世界もこんな風にして生まれた
目には見えない 暗き先触れがあり一
そしてきらめきが照らし出す これが世界だ
思考というのはそういうものだし 哲学もそうだ
これが偉大なるZだね
禅の知恵もそうだ
賢者は"暗き先触れ"であり 次いで 棒の一撃がある
禅の師匠は棒の一撃を 配分することに時間を使う
棒の一撃はきらめきで あれが物事を見るのを可能にする
さて そろそろ終わりかな
お名前にZが入っていて 嬉しく思われますか?
嬉しいよ
よし
終わりです
このイン夕ビューができて とても満足だ
死後の公開だったね
はい 公開はあなたの死後です
みんなどうもありがとう
道元:
ドゥルーズ『哲学とは何か』(原著1991年刊)の後半部はABC(1988年収録)と内容が重なる。
冒頭注のウィトへの記述から他者論としての認識が深まっているのもわかる。
また、#2の注2で道元に触れている。
《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)reserve」を引き合いに出している日本の僧、
道元のテクストをも参照されたい。》(邦訳文庫版『哲学とは何か』370頁#2注2)
《…訳者は、そのほかにまた、日本思想に興味があるかとドゥルーズに尋ねてみた。
ドゥルーズは、ちょっと困った顔をして、はにかみながら「ドーゲンヌ?」と言って
肩をすくめた。きっと「道元」を言わんとしたのであろう…》邦訳DR解説より
《日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、 ──只管打坐(あるいは祇管打坐とも表記されます)── と呼んでいます。》ひろさちや『現代語訳 正法眼蔵』より
《「山水経 」の巻は 、而今の山水は 、古仏の道現成なり 。で始まります。
…「一切の衆生」…道元は 、これを 「一切は衆生 」と読みました 。
…道元においては 、まさに 、全宇宙が仏性なのです 。》100分DE名著道元『正法眼蔵』より
参考:
以下、ドゥルーズのABC…"アベセデール"Zより、
《…物事の起源にはビッグバンのような 大爆発などない。Z(=ジグザグ運動)があるんだ…
普遍の話と一緒だ 。普遍などなく 特異性の集合だけがある。バラバラの特異性をどう
関係づけるかが重要だ。物理学の用語で言うと 諸々の “ポテンシャル"をどう関係づけるか。
ポテンシャルでいっぱいのカオスというのを想像できる。
それらのポテンシャルをどう関係づけるか?…
"暗き先触れ”が まずあり 次いで きらめきが起こる。世界もこんな風にして生まれた。
目には見えない 暗き先触れがあり一そしてきらめきが照らし出す これが世界だ。
思考というのはそういうものだし 哲学もそうだ 。これが偉大なるZだね。
禅の知恵もそうだ。賢者は"暗き先触れ"であり 次いで 棒の一撃がある。
禅の師匠は棒の一撃を 配分することに時間を使う。
棒の一撃はきらめきで あれが物事を見るのを可能にする …》
道元:
ドゥルーズ『哲学とは何か』(原著1991年刊)の後半部はABC(1988年収録)と内容が重なる。
冒頭注のウィトへの記述から他者論としての認識が深まっているのもわかる。
また、#2の注2で道元に触れている。
《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)reserve」を引き合いに出している日本の僧、
道元のテクストをも参照されたい。》(邦訳文庫版『哲学とは何か』370頁#2注2)
《…訳者は、そのほかにまた、日本思想に興味があるかとドゥルーズに尋ねてみた。
ドゥルーズは、ちょっと困った顔をして、はにかみながら「ドーゲンヌ?」と言って
肩をすくめた。きっと「道元」を言わんとしたのであろう…》邦訳DR解説より
《日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、
仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、 ──只管打坐(あるいは祇管打坐とも
表記されます)── と呼んでいます。》ひろさちや『現代語訳 正法眼蔵』より
《「山水経 」の巻は 、而今の山水は 、古仏の道現成なり 。で始まります。…「一切の衆生」
…道元は 、これを 「一切は衆生 」と読みました 。…道元においては 、まさに 、全宇宙が
仏性なのです 。》100分DE名著道元『正法眼蔵』より
参考:以下、ドゥルーズのABC…"アベセデール"Zより
《…物事の起源にはビッグバンのような 大爆発などない。Z(=ジグザグ運動)があるんだ…
普遍の話と一緒だ 。普遍などなく 特異性の集合だけがある。バラバラの特異性をどう
関係づけるかが重要だ。物理学の用語で言うと 諸々の “ポテンシャル"をどう関係づけるか。
ポテンシャルでいっぱいのカオスというのを想像できる。
それらのポテンシャルをどう関係づけるか?…
"暗き先触れ”が まずあり 次いで きらめきが起こる。世界もこんな風にして生まれた。
目には見えない 暗き先触れがあり一そしてきらめきが照らし出す これが世界だ。
思考というのはそういうものだし 哲学もそうだ 。これが偉大なるZだね。
禅の知恵もそうだ。賢者は"暗き先触れ"であり 次いで 棒の一撃がある。
禅の師匠は棒の一撃を 配分することに時間を使う。
棒の一撃はきらめきで あれが物事を見るのを可能にする …》
道元:
ドゥルーズ『哲学とは何か』(原著1991年刊)の後半部はABC(1988年撮影)と内容が重なる。
冒頭注のウィトへの記述から他者論としての認識が深まっているのもわかる。
また、#2の注2で道元に触れている。
《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)reserve」を引き合いに出している日本の僧、
道元のテクストをも参照されたい。》(邦訳文庫版『哲学とは何か』370頁#2注2)
《…訳者は、そのほかにまた、日本思想に興味があるかとドゥルーズに尋ねてみた。
ドゥルーズは、ちょっと困った顔をして、はにかみながら「ドーゲンヌ?」と言って
肩をすくめた。きっと「道元」を言わんとしたのであろう…》(邦訳DR解説より)
《…物事の起源にはビッグバンのような 大爆発などない。Z(=ジグザグ運動)があるんだ…
普遍の話と一緒だ 。普遍などなく 特異性の集合だけがある。バラバラの特異性をどう
関係づけるかが重要だ。物理学の用語で言うと 諸々の “ポテンシャル"をどう関係づけるか。
ポテンシャルでいっぱいのカオスというのを想像できる。
それらのポテンシャルをどう関係づけるか?…
"暗き先触れ”が まずあり 次いで きらめきが起こる。世界もこんな風にして生まれた。
目には見えない 暗き先触れがあり一そしてきらめきが照らし出す これが世界だ。
思考というのはそういうものだし 哲学もそうだ 。これが偉大なるZだね。
禅の知恵もそうだ。賢者は"暗き先触れ"であり 次いで 棒の一撃がある。
禅の師匠は棒の一撃を 配分することに時間を使う。
棒の一撃はきらめきで あれが物事を見るのを可能にする …》
(ドゥルーズのABC…"アベセデール"Zより)
参考:
《日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、
仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、 ──只管打坐(あるいは祇管打坐とも
表記されます)── と呼んでいます。》(ひろさちや『現代語訳 正法眼蔵』より)
《「山水経 」の巻は 、而今の山水は 、古仏の道現成なり 。で始まります。…「一切の衆生」
…道元は 、これを 「一切は衆生 」と読みました 。…道元においては 、まさに 、全宇宙が
仏性なのです 。》(100分DE名著道元『正法眼蔵』より)
只管打坐:
日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、 ──只管打坐(あるいは祇管打坐とも表記されます)── と呼んでいます。
100分DE名著より
身心脱落:
○
《仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。》
《仏道を学ぶということは、自己を学ぶことだ。自己を学ぶというのは、自己を忘れること。自己を忘れるというのは、悟りの世界に目覚めさせられることである。悟りの世界に目覚めさせられるということは、自己および他己(他なる自己。すなわち自己のうちにある他人)を脱落させることである。悟りの痕跡すら残してはならぬ。しかも、その痕跡なき悟りを長時間にわたって保持し続けるのだ。》
(ひろさちや現代語訳、『[新訳]正法眼蔵』二〇一三年)
『ドゥルーズ――没後10年、入門のために』河出書房新社 : ウラゲツ☆ブログ
http://urag.exblog.jp/2353243/
『ドゥルーズ――没後10年、入門のために』河出書房新社
a0018105_2222012.jpg河出書房新社さんの「道の手帖」シリーズの1冊として、『ドゥルーズ――没後10年、入門のために』が刊行されました。対談やインタビュー、ブックガイドなど盛りだくさんな一冊です。
05年10月刊 A5判並製192頁 本体1500円 ISBN4-309-74005-7
目次:
【レクチャー】
「はじめての読者のためのドゥルーズ哲学入門」松本潤一郎
【ドゥルーズ完全著作解題】
『経験論と主体性』『ニーチェと哲学』『カントの批判哲学』・・・大山載吉
『ベルクソンの哲学』『シネマ 1・2』・・・大原理志
『プルーストとシーニュ』・・・小一原健
『マゾッホとサド』『アンチ・オイディプス』『ペリクレスとヴェルディ』『批評と臨床』・・・松本潤一郎
『差異と反復』・・・毬藻充
『スピノザと表現の問題』『ドゥルーズの思想』・・・江川隆男
『意味の論理学』『重合』『消尽したもの』・・・長島確
『カフカ』・・・福井麻木
『千のプラトー』・・・宇城輝人
『感覚の論理』・・・矢野静明
『フーコー』『記号と事件』・・・増田靖彦
『襞』『無人島』『狂人の二つの体制』・・・國分功一郎
『哲学とは何か』・・・鈴木創士
【インタビュー】
「思考の鞭打ち――ジル・ドゥルーズ『アベセデール(L'Abecedaire)』について」クレール・パルネ (聞き手=エルヴェ・オヴロン+シリル・ネラ、訳=廣瀬純)
【論考・エッセイ】
「ドゥルーズと新しさ」小沢秋広
「巷のドゥルーズ――あるいは「活動」から「運動」への途」高祖岩三郎
「ドゥルーズと死の哲学」江川隆男
「インドラを!」長原豊
「シネマを訳しながら、心をよぎること」財津理
「ドゥルーズ&ガタリの非人間主義へ向けてのメモ」鈴木泉
「ドゥルーズ的政治学とは何か、何であるべきか」檜垣立哉
「サーフィンの世紀(序章)」廣瀬純
「〈問題〉の感覚――ドゥルーズのプラトン主義」横手健
【討議】
「管理権力から「来るべき民衆」へ――ドゥルーズを実践的に読むために」酒井隆史+萱野稔人+松本潤一郎
【対談】
「ドゥルーズのマテリアリズムとは何か――死活を問う哲学」宇野邦一+前田英樹
【翻訳・未邦訳論考】
「意味と諸価値 (1959)」ジル・ドゥルーズ (訳=三輪誠一郎)
「ルクレティウスと自然主義 (1961)」ジル・ドゥルーズ (訳=大山載吉)
【ドゥルーズを読むためのブックガイド】
ルクレティウス『物の本質について』岩波文庫/クリュシッポス『初期ストア派断片集』京都大学学術出版会/プロティノス『エンネアデス』中央公論社/道元『正法眼蔵』河出文庫ほか/ドゥンス=スコトゥス『存在の一義性』哲学書房/スピノザ『エチカ』岩波文庫/ライプニッツ『モナドロジー』中央公論新社/ヒューム『人性論』岩波文庫/ルソー『社会契約論』岩波文庫ほか/フーリエ『四運動の原理』現代思潮新社/カント『判断力批判』岩波文庫/キルケゴール『反復』岩波文庫/ニーチェ『ツァラトゥストラ』中公文庫ほか/マルクス『資本論』国民文庫ほか/ベルクソン『記憶と生』未知谷/ジェイムズ『プラグマティズム』岩波文庫/パース『連続性の哲学』岩波文庫/ホワイトヘッド『過程と実在』松籟社/ペギー『歴史との対話』中央出版社/タルド『世論と群集』未来社/ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫/ヴォリンガー『抽象と感情移入』岩波文庫/サルトル『自我の超越 情動論素描』人文書院/アクセロス『遊星的思考へ』白水社/フーコー『言葉と物』『性の歴史』新潮社/クラストル『国家に抗する社会』水声社/ヴィリリオ『速度と政治』平凡社ライブラリー/ガタリ『カオスモーズ』河出書房新社/アガンベン『バートルビー 偶然性について』月曜社/フロイト『自我論集』ちくま学芸文庫/シュレーバー『回想録』平凡社ライブラリー/ライヒ『ファシズムの大衆心理』せりか書房/レイン『引き裂かれた自己』みすず書房/ラカン『エクリ』弘文堂/ヘルダーリン『詩集』岩波文庫/クライスト『チリの地震』河出文庫/マゾッホ『残酷な女たち』河出文庫/カフカ『変身』『城』新潮文庫ほか/カネッティ『群集と権力』法政大学出版局/ゴンブロヴィッチ『ポルノグラフィア』河出書房新社/レルネット=ホレーニア『白羊宮の火星』福武文庫/プルースト『失われた時を求めて』ちくま文庫など/アルトー『ロデーズからの手紙』白水社/ジャリ『超男性』白水社uブックス/ミショー『魔法の国で』青土社/クロソウスキー『ディアーナの水浴』水声社/トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』岩波書店/ホイットマン『自選詩集』岩波文庫/メルヴィル『白鯨』『バートルビー』筑摩書房ほか/フィッツジェラルド『崩壊』荒地出版社/ミラー『マルーシの巨像』水声社/ロレンス『現代人は愛しうるか』ちくま学芸文庫/ウルフ『波』みすず書房/ペソア『不穏の書、断章』思潮社/ベケット『いざ最悪の方へ』書肆山田/蓮実重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』河出文庫/浅田彰『構造と力』勁草書房/中沢新一『チベットのモーツァルト』講談社学術文庫/宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』講談社メチエ/丹生谷貴志『死体は窓から投げ捨てよ』河出書房新社/前田英樹『小林秀雄』河出書房新社/小沢秋広『中島敦と〈問い〉』河出書房新社/小泉義之『ドゥルーズの哲学』講談社現代新書/檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』NHK出版/江川隆男『存在と差異』知泉書館/郡司ペギオ-幸夫『生成する生命』哲学書房/杉村昌昭『分裂共生論』人文書院/山の手緑+矢部史郎『無産大衆神髄』河出書房新社/萱野稔人『国家とはなにか』以文社/ズーラヴィクビリ『ドゥルーズ ひとつの出来事の哲学』河出書房新社/ハート『ドゥルーズの哲学』法政大学出版局/シェレール『ドゥルーズへのまなざし』筑摩書房/マルタン『ドゥルーズ/変奏』松籟社/ビュイダン『サハラ』法政大学出版局/バディウ『ドゥルーズ 存在の喧騒』河出書房新社/ジジェク『身体なき器官』河出書房新社
【ドゥルーズ著作一覧】
***
ブックガイドで紹介されている78冊もの書目をすべて書き出してみましたがすごいですね。一冊ずつにごく簡単なコメントを付したもので、分量としては全体で9頁だけですが、ドゥルーズをめぐる「星座」の一端を垣間見る思いがします。
以上です。(H)
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by urag | 2005-10-19 22:01 | 本のコンシェルジュ | Trackback(1) | Comments(2)
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Tracked from 哲劇メモ at 2005-10-20 18:53
タイトル : [新刊][哲学][仕事] ドゥルーズ――KAWADE道の手帖
『KAWADE道の手帖 ドゥルーズ――没後10年、入門のために』河出書房新社、2005 ISBN:4309740057:detail 執筆したり編集したりしたわけではないんですが……、巻末の「ドゥルーズ著作一覧」に拙サイト「哲学の劇場 > 作家の肖像 > ドゥルーズ, ジル」(http://www.logico-philosophicus.net/profile/DeleuzeGilles.htm)のURLが掲載されています。 没後10年を機に20世紀後半最大の哲学の魅力...... more
Commented by 森田拓也 at 2012-01-05 00:12 x
こんばんは。おじゃまします。
この本の、
【ドゥルーズを読むためのブックガイド】
のページだけが、どうしても、
読みたくて、アップして下さって、
助かりました。
どうも、ありがとうございます。
Commented by urag at 2012-01-06 14:20
森田拓也さん、こんにちは。お役にたててよかったです。
1~16,2~34,3~55,4~75,河出文庫
TABLE DES MATIERES
Avant-Propos 7
Théorie p.9
1Genjokoan La realisation du koan) :1現成公案 ○1 11
4Busshô (Le propre de Bouddha):3佛性 33
19La critique du spiritualisme Bendowa,Bussho佛性:3 102
7Shinshingakudà (Etudier avec le corps-coeur) :4身心學道 43
10Zazenshin (Remède à la méditation) :12坐禪箴 53
18Non-penser Zazenshin坐禪箴+:12 101
16Kuge (La neur du vide) :14空華 93
26L'éclosion d'une fleur. Kuge空華:14 112__/二
21Le miroir. Kokyo^古鏡:19 105
22Pas de spéculation ibid. 106
2Yuji(Le temps qu'il-y-a) :20有時 19
20La vie et ]a mort Zenki全機:22 104
13Gabyô (Le tableau d'un gâteau de riz) :24畫餠 79
24Expliquer le reve dans un reve Muchu-setsumu夢中説夢:27 109
23Les femmes. Raihaikudoku禮拜得髓×?:28 108
17Le mot et I'expression Daute:38?,Sansuikyo山水經:29,Eihei-koroku 99
9Bukkyô (L'enseignement de Bouddha) :34佛教 49____/三
25Entrelacs de la glycine. Katsuto^葛藤:38 111
6Hakujushi (Le chene dans le jardin d'en face). :40栢樹子 39
8Butsudô (La voie de Bouddha) :44佛道 45
27peindre Ie printemps Baika梅花:53 113
11Senjô (purihcation) :54洗淨 61 ___/四
15Ganzei(Orbite):58眼睛 91
12Kajô (La constance de la maison):59家常 71
14Ryugin (Le rugissement du dragon) :61龍吟 87
3Temporin (Le cercle des événements) :67轉法輪 29
5Koku (L'air-vide). :70虚空 37
19La critique du spiritualisme Bendowa弁道話,Bussho:3 102
Appendices : 115
Vie de Dogen. 117
Sur le bodhi. 121
Sur I'événement. 133
sur le zen et le bouddhisme de Kamakura 135
Carte de Chine 153
Glossaire. 157
http://www.sudoc.fr/023101695
Titre : Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen ; textes choisis, traduits et annotés par Ryôji Nakamura et René de CeccattyAlphabet du titre : latinAuteur(s) :
Dōgen (1200-1253). Auteur
Nakamura, Ryôji. Traduction. Notes
Ceccatty, René de (1952-....). Traduction. Notes
Date(s) : impr. 1980Langue(s) : françaisPays : FranceEditeur(s) : [Paris] : Ed. de la Diffèrence, impr. 1980Description : 1 vol. (159 p.) : 1 carte, couv. ill. ; 24 cm
『正法眼蔵』をコンパクトに再構成している。理論、実践、詩、テーマ別、注、という順番。%
TABLE DES MATIERES
Avant-Propos 7
Théorie p.9
1Genjokoan La realisation du koan) :1現成公案 ○1 11
2Yuji(Le temps qu'il-y-a) :20有時 19
3Temporin (Le cercle des événements) :67轉法輪 29
4Busshô (Le propre de Bouddha):3佛性 33
5Koku (L'air-vide). :70虚空 37
6Hakujushi (Le chene dans le jardin d'en face). :40栢樹子 39
7Shinshingakudà (Etudier avec le corps-coeur) :4身心學道 43
8Butsudô (La voie de Bouddha) :44佛道 45
9Bukkyô (L'enseignement de Bouddha) :34佛教 49
Pratique p.51
10Zazenshin (Remède à la méditation) :12坐禪箴 53
11Senjô (purihcation) :54洗淨 61
12Kajô (La constance de la maison):59家常 71
Poésie p.77
13Gabyô (Le tableau d'un gâteau de riz) :24畫餠 79
14Ryugin (Le rugissement du dragon) :61龍吟 87
15Ganzei(Orbite):58眼睛 91
16Kuge (La neur du vide) :14空華 93
Choix thématique p.97
17Le mot et I'expression Daute:38?,Sansuikyo山水經:29,Eihei-koroku 99
18Non-penser Zazenshin坐禪箴+:12 101
19La critique du spiritualisme Bendowa弁道話,Bussho佛性:3 102
20La vie et ]a mort Zenki全機:22 104
21Le miroir. Kokyo^古鏡:19 105
22Pas de spéculation ibid. 106
23Les femmes. Raihaikudoku禮拜得髓×?:28 108
24Expliquer le reve dans un reve Muchu-setsumu夢中説夢:27 109
25Entrelacs de la glycine. Katsuto^葛藤:38 111
26L'éclosion d'une fleur. Kuge空華:14 112
27peindre Ie printemps Baika梅花:53 113
Appendices : 115
Vie de Dogen. 117
Sur le bodhi. 121
Sur I'événement. 133
sur le zen et le bouddhisme de Kamakura 135
Carte de Chine 153
Glossaire. 157
道元:追記
《時間とは「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」である。》
(『シネマ2』#1原注28邦訳23頁^(28))
《Le temps, c'est “ la réserve visuelle des événements dans leur justesse ”》
(Gilles Deleuze L’Image-temps. Cinéma 2
https://monoskop.org/images/8/85/Deleuze_Gilles_Cinema_2_L_Image-temps.pdf fr, 28p)
「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」は道元の『正-蔵-眼-蔵』の逐語訳。
ドゥルーズが『哲学とは何か』でも参照した以下の仏訳書名でもある。
http://www.sudoc.fr/023101695
Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen
René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980).
ルネ・ド・セカティ,中村亮二 編訳
道元禅師の女性成仏論について
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/ce2e6dad7c044d9254c51a7a1f813fcf
『正法眼蔵』にて道元禅師は以下のように説かれている。
《修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうること、もともかたし。その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。
…
仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば龍女成仏のごとし。供養恭敬せんこと、諸仏如来にひとしかるべし。これすなはち仏道の古儀なり。》
「礼拝得髄」巻
大丈夫、恁麼人とは、阿耨菩提を修行する時に礼拝すべき導師であり、それはこの導師が阿耨菩提を伝えていることをいう。道元禅師はその顕著な例として、同巻にて中国の末山尼を採り上げる。末山尼は比丘尼である。しかし、大丈夫であり、人天の導師となった。これもまた、女性の得法を説く例である。
(ただし成仏は出家が条件。)
《三世十方諸仏、みな一仏としても、在家成仏の諸仏ましまさず。過去有仏のゆえに、出家・受戒の功徳あり。衆生の得道、かならず出家・受戒によるなり。おほよそ出家・受戒の功徳、すなはち諸仏の常法なるがゆえに、その功徳、無量なり。聖教のなかに、在家成仏の説あれど、正伝にあらず、女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず、仏祖正伝するは、出家成仏なり。》
『正法眼蔵』「出家功徳」巻
道元禅師の女性成仏論について - つらつら日暮らし
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/ce2e6dad7c044d9254c51a7a1f813fcf
或るブログを読んでいたところ、曹洞宗の女性成仏観については、道元禅師にて説かれず、瑩山禅師に至ってから説かれたと主張されていた。瑩山禅師が説かれたのは嘘ではないが、道元禅師がそれを説かなかったのは嘘であると思う、ただ解釈は難しい。よって、道元禅師が女性成仏を説いていたことを以下に確認しておきたい。その理念としてもっともよく知られているのは、『正法眼蔵』「礼拝得髄」巻である。同巻にて道元禅師は以下のように説かれている。
仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば龍女成仏のごとし。供養恭敬せんこと、諸仏如来にひとしかるべし。これすなはち仏道の古儀なり。
これは、75巻本の同巻に於ける末尾の部分にて、結論として説かれることである。道元禅師は、男性や女性という要素は、成仏の条件を左右するものではないと主張しておられる。いわば、出家し、坐禅すれば、それが成仏であり作仏であり得法なのであって、もし得法された女性、いわゆる比丘尼が居られれば、男性であろうと女性であろうと、聞法者はその導師を礼拝し、そして自ら法を得るべきだというのである。だからこそ、仏法を道取しようとするならば、男女の姿に拘わらず相手を供養しなければならない。なお、引用文中にある龍女成仏については、『妙法蓮華経』「提婆達多品」に以下のように説かれていて、それを受けたものである。
爾の時に舎利弗、龍女に語って言わく、
汝久しからずして無上道を得たりと謂える。是の事信じ難し。所以は何ん、女身は垢穢にして是れ法器に非ず、云何ぞ能く無上菩提を得ん。仏道は懸曠なり。無量劫を経て勤苦して行を積み具さに諸度を修し、然して後に乃ち成ず。又女人の身には猶お五障あり、一には梵天王となることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何ぞ女身速かに成仏することを得ん。
爾の時に龍女一つの宝樹あり、価直三千大千世界なり。持って以て仏に上る。仏即ち之を受けたもう。龍女、智積菩薩・尊者舎利弗に謂って言わく、我宝樹を献る。世尊の納受是の事疾しや不や。答えて言わく、甚だ疾し。女の言わく、汝が神力を以て我が成仏を観よ。復此れよりも速かならん。当時の衆会、皆龍女の忽然の間に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相・八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に妙法を演説するを見る。爾の時に娑婆世界の菩薩・声聞・天・龍・八部・人と非人と皆遥かに彼の龍女の成仏して、普く時の会の人天の為に法を説くを見て、心大に歓喜して悉く遥かに敬礼す。無量の衆生法を聞いて解悟し不退転を得、無量の衆生道の記を受くることを得たり。無垢世界六反に震動す。娑婆世界の三千の衆生不退の地に住し、三千の衆生菩提心を発して授記を得たり。智積菩薩及び舎利弗、一切の衆会黙然として信受す。
これは、いわゆる「変成男子」とされて、これが女性成仏と取るべきか?それとも男性成仏と取るべきか?という見解があるが、基本的に曹洞宗ではこれを女性成仏であるという。だからこそ、「龍女成仏」という語にて語られるのである。しかしながら、この辺が難しいところではあるが、成仏という相には男女は関係がない。成仏は成仏であって、男女の問題ではない。しかし、結果的に女性は女性として成仏への回路が開かれる。間に様々なプロセスが入るが、その一部を恣意的に取り出して、問題視することは許されていない。全体として見るべきだ。だからこそ、「礼拝得髄」巻では、冒頭に以下のように説かれる。
修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうること、もともかたし。その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。
大丈夫であり、恁麼人であるという。これこそ、阿耨菩提を修行する時に礼拝すべき導師であり、それはこの導師が阿耨菩提を伝えていることをいう。道元禅師はその顕著な例として、同巻にて中国の末山尼を採り上げる。末山尼は比丘尼である。しかし、大丈夫であり、人天の導師となった。これもまた、女性の得法を説く例である。
三世十方諸仏、みな一仏としても、在家成仏の諸仏ましまさず。過去有仏のゆえに、出家・受戒の功徳あり。衆生の得道、かならず出家・受戒によるなり。おほよそ出家・受戒の功徳、すなはち諸仏の常法なるがゆえに、その功徳、無量なり。聖教のなかに、在家成仏の説あれど、正伝にあらず、女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず、仏祖正伝するは、出家成仏なり。
『正法眼蔵』「出家功徳」巻
これは、道元禅師が成仏の条件として、「出家」を強調された説法の箇所だが、ここにも「女身成仏」を正伝ではないとして、否定されているように見える。しかしながら、その対象として「男身成仏」などが説かれているのであれば、これを女性が成仏できないと説いていると理解すべきであろう。しかし、道元禅師はただ「出家成仏」をのみ説かれる。要するに、先に「礼拝得髄」巻で挙げた「男女等の相にあらず」を再確認したといえよう。
これは、結果的にプロセス全体として見れば、女性は出家して、そして成仏できるという。その時には、男女の問題ではなくて、出家成仏である。このプロセスを恣意的に切り出せば、女性はそのままで成仏できないと主張することになろう。しかし、それは誤りである。或いは「変成男子」の誤解もまた然りである。女性は成仏する。しかし、成仏には様々なプロセスを経る。これは男性とて同じだ。男性であっても、出家しなくてはならない。
ところで、その出家した後に、修行する場所を提供できなければ、この理念は理念として消える。しかし、道元禅師は女性を自ら建立した叢林にて修行させた。それは、以下の一説が先行的に説かれていたことからすれば、相当の英断である。
一に寺院、寺に大小の異ありと雖も、皆、一様に祇園精舎の図を模す〈寺の図は別にあり〉。四面に廊下有るも脇門無し、ただ一門を開く。而して監門人あって薄暮にこれを閉じ、天明にはこれを開く。特に比丘尼、女人並びに、雑人凶人の夜宿を制止するなり。仏法の滅亡はただ女事等に起こるが故なればなり。
栄西禅師『興禅護国論』「建立支目門 第八」
栄西禅師は、比丘尼であっても女性であれば叢林にて夜泊めてはならないという。ただし、叢林修行は、夜寝ることまでも修行である。よって、この見解を敷衍すれば女性が修行する場所の否定になってしまう。道元禅師が「礼拝得髄」巻で、女人禁制の修行場所を否定したが、伝教大師最澄もまた女人禁制を説いたことなどの先行的見解を否定する目的もあったのであろう。また、その批判を受け継いで瑩山禅師も女性が修行するための場所を永光寺山内に作った。
勝蓮峰円通院を建て、当山の本主祖忍大姉に与う。本尊は、予の今生の悲母、一生頂戴し随身の十一面観音なり。
『洞谷記』
こういった流れは曹洞宗全体に見えることである。
「得法」を媒介にして男女の平等論を展開していることは、道元の深い人間性の理解を示していて注目される。道元は、当時の仏教界が、女性を「貪婬」のみなもととして「比丘尼・女人」を道場に入れず女性を蔑視している風潮を指摘して、「日本国にひとつのわらひごとあり」と批判し、「邪風」とよんで厳しく非難して、当時の女性観に猛反省をうながすとともに、女性の地位の弁護に万丈の気を吐いている。
竹内道雄先生『道元』吉川弘文館人物叢書、201頁
とりあえず、このような研究の指摘もあるので参照しておいた。
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/blog-post_8.html
道元:( >>860追記 )
《時間とは「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」である。》
(『シネマ2』邦訳23頁)
《Le temps, c'est “ la réserve visuelle des événements dans leur justesse ”》
(Gilles Deleuze L’Image-temps. Cinéma 2
https://monoskop.org/images/8/85/Deleuze_Gilles_Cinema_2_L_Image-temps.pdf fr, 28p)
「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」は道元の『正-蔵-眼-蔵』の逐語訳。
ドゥルーズが『哲学とは何か』でも参照した以下の仏訳書名でもある。
http://www.sudoc.fr/023101695
Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen
René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980).
ルネ・ド・セカティ,中村亮二 編訳
『正法眼蔵』をコンパクトに再構成している。理論、実践、詩、テーマ別、注、という順番。
参考:
正法眼蔵 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95%E7%9C%BC%E8%94%B5
UN ZEN OCCIDENTAL : SHOBOGENZO
http://www.zen-occidental.net/dogen/shobogenzo.html
正法眼藏 Shohogenzo
http://www.shomonji.or.jp/soroku/
Ateliers d'étude du Shôbôgenzô avec Yoko Orimo
http://www.shobogenzo.eu/
道元が『典座教訓』に記した体験は、以下のようなものである。
「宋の天童寺に留学中だった私(道元)はある夏の日、中庭で寺の老典座が海草を干している
のを見た。老人は眉は白く腰は曲がっていたが、炎天下に竹の杖をつき、汗だくになり苦
しそうに働いていた。私は気の毒に思って近づき、年齢を聞くと老人は『68歳だ』と答えた。
『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』 老人は答えた。『他の者とやらは、私自身ではない』
『なぜ、今のような炎天の日中にされるのです』 老人は答えた。『今のほか、いつを待てと言うのか』
私はその場を離れた。そして廊下を歩きながら、典座職の重要さを考えたのであった」[1]
「また私が上陸許可を待って港の船の中にいた時、ある老僧が食材の買入れに港にやって
きた。船室に招いて茶を勧め、話を聞くと『私は、阿育王寺の典座である。故郷を出て四十
年、歳も六十を越えたが、これからまた20キロほど歩いて、食事の用意に寺まで帰らねばならぬ』
『飯の用意など誰かがやるでしょう。何か差し上げますので、ゆっくりしていかれては』
『それは駄目だ。外泊許可を貰っていないし、典座は老人にもできる修行、他人には譲れぬ』
私は聞いた。『あなたほどのお年なのに、なぜ忙しく働いてばかりいて、坐禅したり先人の
教えを学ばないのですか。それでいったい何のいいことがありましょう』
老僧は笑って言った。『外国からきたあなたは、どうやら何もわかっていないようだ』私は
これを聞き、大いに驚き、また恥じた。 そして老人は「もう日も暮れた。行かねばならぬ」
と立ち上がり、寺へと帰っていった。 私が多少とも修行のことを知るようになったのは、
実にこの老典座の恩によるのである」[2]
道元は日本に帰国してより建仁寺に留まったが、建仁寺の典座が食事の用意を軽く考え、
職務を適当に行っていることを見、宋との落差を非常に遺憾とした。そして『典座教訓』
を執筆し、典座職の重要性と、その職務要領を詳細に書き残した。
現在の道場の典座職には、修行経験が深く篤実温厚な人物が任命される場合が多く、修行僧
たちの相談役として敬慕される者が多いという。
出典
1^ *道元『典座教訓・赴粥飯法』 講談社学術文庫 P69
2^ *同上 P76
『正-法-眼-蔵』/道元 《Le temps, c'est “ la réserve蔵 visuelle眼 des événements dans leur justesse正法 ”》
《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)réserve」を引き合いに出している日本の僧、道元のテクストをも参照されたい。》
(邦訳文庫版ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』(#2:67^)370(394)頁)
Deleuze-Guattari:Qu'est-ce que la philosophie ? 1991
We refer also to the Zen text of the Japanese monk Dôgen, which invokes the horizon or “reserve(蔵)” of events: Shôbogenzo, trans. and with commentary by René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980). ルネ・ド・セカティ,中村亮二
http://www.sudoc.fr/023101695
Titre : Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen ; textes choisis, traduits et annotés par Ryôji Nakamura et René de CeccattyAlphabet du titre : latinAuteur(s) :
Dōgen (1200-1253). Auteur
Nakamura, Ryôji. Traduction. Notes
Ceccatty, René de (1952-....). Traduction. Notes
Date(s) : impr. 1980Langue(s) : françaisPays : FranceEditeur(s) : [Paris] : Ed. de la Diffèrence, impr. 1980Description : 1 vol. (159 p.) : 1 carte, couv. ill. ; 24 cm
『正法眼蔵』をコンパクトに再構成している。理論、実践、詩、テーマ別、注、という順番。
TABLE DES MATIERES
Avant-Propos 7
Théorie p.9
1Genjokoan La realisation du koan) :1現成公案 ○1 11
2Yuji(Le temps qu'il-y-a) :20有時 19
3Temporin (Le cercle des événements) :67轉法輪 29
4Busshô (Le propre de Bouddha):3佛性 33
5Koku (L'air-vide). :70虚空 37
6Hakujushi (Le chene dans le jardin d'en face). :40栢樹子 39
7Shinshingakudà (Etudier avec le corps-coeur) :4身心學道 43
8Butsudô (La voie de Bouddha) :44佛道 45
9Bukkyô (L'enseignement de Bouddha) :34佛教 49
Pratique p.51
10Zazenshin (Remède à la méditation) :12坐禪箴 53
11Senjô (purihcation) :54洗淨 61
12Kajô (La constance de la maison):59家常 71
Poésie p.77
13Gabyô (Le tableau d'un gâteau de riz) :24畫餠 79
14Ryugin (Le rugissement du dragon) :61龍吟 87
15Ganzei(Orbite):58眼睛 91
16Kuge (La neur du vide) :14空華 93
Choix thématique p.97
17Le mot et I'expression Daute:38?,Sansuikyo山水經:29,Eihei-koroku 99
18Non-penser Zazenshin坐禪箴+:12 101
19La critique du spiritualisme Bendowa弁道話,Bussho佛性:3 102
20La vie et ]a mort Zenki全機:22 104
21Le miroir. Kokyo^古鏡:19 105
22Pas de spéculation ibid. 106
23Les femmes. Raihaikudoku禮拜得髓?:28 108
24Expliquer le reve dans un reve Muchu-setsumu夢中説夢:27 109
25Entrelacs de la glycine. Katsuto^葛藤:38 111
26L'éclosion d'une fleur. Kuge空華:14 112
27peindre Ie printemps Baika梅花:53 113
Appendices : 115
Vie de Dogen. 117
Sur le bodhi. 121
Sur I'événement. 133
sur le zen et le bouddhisme de Kamakura 135
Carte de Chine 153
Glossaire. 157
仏教は貨幣経済以降のもの
さらに土地が収奪された後のもの
道元禅師と『典座教訓』 – 典座ネット
http://tenzo.net/kokoro1/
道元禅師が宋の港に到着し、上陸許可がおりるまで船に留まっていたときの話です。
お年を召した中国の僧侶が港にやってきました。老僧は修行道場の食事係(典座和尚)で、うどんに使う食材を買いに来たのです。道元禅師はその僧侶と仏法 の話がしたくて、今日はここに泊まっていきませんかと誘いましたが、老僧は、食事の準備があるからとそれを堅く断りました。
道元禅師は言いました。「そんな食事の用意などは新入りの若い者にでもさせればいいではないですか。あなたのような徳のありそうな老いた僧侶が、坐禅や仏法の議論よりも、そんな食事の準備などを優先させて、何かいいことがあるのですか。」
すると老僧は大笑いして、
「日本の若い人よ、あなたは修行とは何であるかが、全くわかっていない」と言い残して帰ってしまったのです。
それもそのはず、当時の日本仏教界には、日常の実践を重視する禅の考えは充分につたわっておらず、したがってこの時点ではまだ道元禅師自身、食事の用意などは、修行の妨げになる面倒な雑事だと思っていたのです。
この後、道元禅師は中国各地の道場を訪ね、修行を重ねます。またある寺でこんな事がありました。
暑い日の昼間、腰の曲がった老典座が、杖をつきながら汗だくになって本堂の脇で海藻を干していました。みかねた道元禅師が、
「こんな暑い日ですから、誰か若い人にでもさせるか、せめてもう少し涼しい日にしたら良いのでは」と声を掛けると、
「他(た)は是吾(これわれ)にあらず 更(さら)に何(いず)れの時をか待たん」
(他の者にさせたのでは自分の修行にならん、今せずにいつするというのだ)
と返され、再び大きなショックを受けたというのです。
こうした宋での体験は、道元禅師の仏法に対する認識を根底からくつがえすほど衝撃的であったと思われます。以降の道元禅師の思想形成に少なからぬ影響を与えたといって良いでしょう。
眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず。|夢中説夢
https://ameblo.jp/70702/entry-10758775101.html
只是等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず、便乃ち空手にして郷に還る。所処に一毫も仏法なし。任運に且く時を延ぶ。朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。良久して云く、三年に一閏にあい、鶏は五更に啼く。
訳)ただはからずも先師天童如浄禅師にお目にかかり、その場で目は横、鼻は縦であることがわかって、もはや人にだまされなくなった。そこでなにも携えず故郷に還ってきた。だからして、私にはいささかも仏法はない。ただなんのはからいもなく自分の思うままに時を過ごしているだけだ。見よ毎朝毎朝、朝日は東に昇るし、毎夜毎夜、月は西に沈む。雲がはれあがると山肌が現れ、雨が通り過ぎると辺りの山は低い姿を現す。結局、どうだというのだ。しばらくしていうには、三年ごとにうるう年が一回やってくるし、鶏は五更(午前四時)に啼く。
『道元禅師語録』
道元禅師語録 (講談社学術文庫)/鏡島 元隆
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「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師|気功 ...
ameblo.jp/kikouhealing/entry-12210353615.html
ことを伝えればいいだけなのに、ものを伝えることで、事実が湾曲される。 ことがわかれ ばいいだけなのに、ものを理解しようとする。 道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」というのがある。 道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ「目は横に、鼻は縦についていることが わかって、空手で帰ってきた」と言った。(※これまでの人達は膨大な経典を持ち帰っ ていたのだけれど、道元禅師は経典が大切なのではないということを指し示し ...
眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず。|夢中説夢
https://ameblo.jp/70702/entry-10758775101.html
只是等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず、便乃ち空手にして郷に還る。所処に一毫も仏法なし。任運に且く時を延ぶ。朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。良久して云く、三年に一閏にあい、鶏は五更に啼く。
訳)ただはからずも先師天童如浄禅師にお目にかかり、その場で目は横、鼻は縦であることがわかって、もはや人にだまされなくなった。そこでなにも携えず故郷に還ってきた。だからして、私にはいささかも仏法はない。ただなんのはからいもなく自分の思うままに時を過ごしているだけだ。見よ毎朝毎朝、朝日は東に昇るし、毎夜毎夜、月は西に沈む。雲がはれあがると山肌が現れ、雨が通り過ぎると辺りの山は低い姿を現す。結局、どうだというのだ。しばらくしていうには、三年ごとにうるう年が一回やってくるし、鶏は五更(午前四時)に啼く。
『道元禅師語録』
永平広録
道元禅師語録 (講談社学術文庫)/鏡島 元隆
正法眼蔵随聞記ではない
「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師|気功 ...
ameblo.jp/kikouhealing/entry-12210353615.html
ことを伝えればいいだけなのに、ものを伝えることで、事実が湾曲される。 ことがわかれ ばいいだけなのに、ものを理解しようとする。 道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」というのがある。 道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ「目は横に、鼻は縦についていることが わかって、空手で帰ってきた」と言った。(※これまでの人達は膨大な経典を持ち帰っ ていたのだけれど、道元禅師は経典が大切なのではないということを指し示し ...
道元禅師の女性成仏論について
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/ce2e6dad7c044d9254c51a7a1f813fcf
『正法眼蔵』「礼拝得髄」巻にて道元禅師は以下のように説かれている。
仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、
衆生の慈父なり。たとへば龍女成仏のごとし。供養恭敬せんこと、諸仏如来にひとしかる
べし。これすなはち仏道の古儀なり。
http://doutetsu.exblog.jp/22907164/
この巻で道元禅師は、
真実を得たものであれば誰であってもその得道、得髄に礼拝すべきである。
女性だからといって軽んずるのは全く誤りである、と説かれます。
…
「日本国にひとつのわらひごとあり」…
巻の終盤で、に道元禅師は「女人禁制の結界」を、女性というだけで排除する
のは全く的外れなものと批判します。
権威が決めたことだから、古くからのしきたりだから、などという説明は
「わらはば人の腸(はらわた)もたえぬべし」…
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/ce2e6dad7c044d9254c51a7a1f813fcf
引用文中にある龍女成仏については、『妙法蓮華経』「提婆達多品」に以下のように
説かれていて、それを受けたものである。
爾の時に舎利弗、龍女に語って言わく、
汝久しからずして無上道を得たりと謂える。是の事信じ難し。所以は何ん、女身は垢穢
にして是れ法器に非ず、云何ぞ能く無上菩提を得ん。仏道は懸曠なり。無量劫を経て勤苦
して行を積み具さに諸度を修し、然して後に乃ち成ず。又女人の身には猶お五障あり、一
には梵天王となることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身
なり。云何ぞ女身速かに成仏することを得ん。…
女の言わく、汝が神力を以て我が成仏を観よ。復此れよりも速かならん。当時の衆会、
皆龍女の忽然の間に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往い
て宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相・八十種好あって、普く十方の一切衆生の為
に妙法を演説するを見る。爾の時に娑婆世界の菩薩・声聞・天・龍・八部・人と非人と
皆遥かに彼の龍女の成仏して、普く時の会の人天の為に法を説くを見て、心大に歓喜し
て悉く遥かに敬礼す。…
これは、いわゆる「変成男子」とされて、これが女性成仏と取るべきか?それとも男性
成仏と取るべきか?という見解があるが、基本的に曹洞宗ではこれを女性成仏であると
いう。だからこそ、「龍女成仏」という語にて語られるのである。
道元/正法眼蔵
『正法眼蔵 全8巻』 増谷文雄、講談社学術文庫 (2004-05)
『現代文訳正法眼蔵 全5巻』 石井恭二、河出文庫 (2004) (現代語訳のみ)
『「正法眼蔵」読解 全10巻』 森本和夫、ちくま学芸文庫 (2003-05)
『道元禅師全集:原文対照現代語訳 全17巻』 水野弥穂子ほか、春秋社 (2002)
『正法眼蔵:現代語訳 全6巻』 玉城康四郎、大蔵出版 (1993)
『正法眼蔵 全4巻』 水野弥穂子、岩波書店 (1990-93) (現代語訳なし)
『現代語訳 正法眼蔵 全13巻』 西嶋和夫、仏教社 (1978-87)
『全訳正法眼蔵 全4巻』 中村宗一、誠信書房 (1971-73)
『正法眼蔵:全巻現代訳 上・下』 高橋賢陳、理想社 (1971)
『Shôbôgenzô, la vraie Loi, Trésor de l'Oeil 全8巻』 de Dôgen、Yoko Orimo (2005-16)
眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず。|夢中説夢
https://ameblo.jp/70702/entry-10758775101.html
只是等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず、便乃ち空手にして
郷に還る。所処に一毫も仏法なし。任運に且く時を延ぶ。朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。
雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。良久して云く、三年に一閏にあい、鶏は五更に啼く。
訳)ただはからずも先師天童如浄禅師にお目にかかり、その場で目は横、鼻は縦であることがわかって、
もはや人にだまされなくなった。そこでなにも携えず故郷に還ってきた。だからして、私にはいささかも
仏法はない。ただなんのはからいもなく自分の思うままに時を過ごしているだけだ。見よ毎朝毎朝、朝日
は東に昇るし、毎夜毎夜、月は西に沈む。雲がはれあがると山肌が現れ、雨が通り過ぎると辺りの山は
低い姿を現す。結局、どうだというのだ。しばらくしていうには、三年ごとにうるう年が一回やってく
るし、鶏は五更(午前四時)に啼く。
永平広録
道元禅師語録 (講談社学術文庫)/鏡島 元隆
「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師
ameblo.jp/kikouhealing/entry-12210353615.html
ことを伝えればいいだけなのに、ものを伝えることで、事実が湾曲される。 ことがわかれ ばいいだけなのに、
ものを理解しようとする。 道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、「眼横鼻直空手還郷(がんのう
びちょくくうしゅかんごう)」というのがある。 道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ「目は
横に、鼻は縦についていることが わかって、空手で帰ってきた」と言った。
眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず。|夢中説夢
https://ameblo.jp/70702/entry-10758775101.html
只是等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず、便乃ち空手にして
郷に還る。所処に一毫も仏法なし。任運に且く時を延ぶ。朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。
雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。良久して云く、三年に一閏にあい、鶏は五更に啼く。
訳)ただはからずも先師天童如浄禅師にお目にかかり、その場で目は横、鼻は縦であることがわかって、
もはや人にだまされなくなった。そこでなにも携えず故郷に還ってきた。だからして、私にはいささかも
仏法はない。ただなんのはからいもなく自分の思うままに時を過ごしているだけだ。見よ毎朝毎朝、朝日
は東に昇るし、毎夜毎夜、月は西に沈む。雲がはれあがると山肌が現れ、雨が通り過ぎると辺りの山は
低い姿を現す。結局、どうだというのだ。しばらくしていうには、三年ごとにうるう年が一回やってく
るし、鶏は五更(午前四時)に啼く。
永平広録
道元禅師語録 (講談社学術文庫)/鏡島 元隆
「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師
ameblo.jp/kikouhealing/entry-12210353615.html
道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」と
いうのがある。 道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ「目は横に、鼻は縦についていることが わかって、
空手で帰ってきた」と言った。
http://kohgetsuji.justhpbs.jp/eiheikoroku.html
師、嘉禎二年丙申 十月十五日に、始めて当山に就いて、集衆説法す。上堂に云く、依草の家風附木の心、道場の最好は叢林なるべし。床一撃鼓三下。伝説す。如来微妙の音。正当恁麼の時、興聖門下、且く道え、如何。
良久して云く、湘の南潭の北黄金国、限り無き平人陸沈を被る。
師、嘉禎二年丙申 十月十五日において、始めて当山に就いて、開堂拈香、聖を祝し罷って上堂。山僧は叢林を歴ること多からず。只是等閑に、天童先師に見えて当下に眼横鼻直なることを認得して人に𥈞ぜられず。便乃ち空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法無し。任運に且く時を延ぶ。朝朝日は東より出で、夜夜月は西に沈む。雲収まって山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。良久して曰く、三年一閏に逢い、鶏は五更に向かって啼く。久立下坐。
嘉禎二年は西暦1236年。道元禅師が興聖寺を開創したのが1233年ということですから、それから3年経過して始めて上堂したということになります。
仏教に救いを求めるのも、坐禅をするのも、死んでは草に依ったり木に付いたりするという定まりの無い心の本当の有りようをはっきりさせたいからです。それにはこの興聖寺で修行するのが一番であるというのです。単の上に坐って後先無しに徹し、鼓が三つ鳴るのが聞こえます。その音が宇宙のすべてであり、釈尊の声そのものです。どうだそれがわかるかと禅師が大衆を見回します。しばらくして仰るには、どこもかしこも修行の道場でないところはない。自分が平凡だと思うならどこままでもそのままでよし。平凡から脱して帰り着く悟りの岸も無し、すばらしい浄土も無し、お先真っ暗も無し。
興聖寺において始めて祝祷の諷経をして上堂。「山僧は叢林を歴ること多からず」とご謙遜です。道元禅師、14歳で得度なされ、仏法の真意を求めてさまよいます。中国に渡りようやく偶然にも如浄禅師にめぐり逢った。そして本当の修行をしたのが数年であったと仰りたいところでしょう。「眼横鼻直なることを認得して人に𥈞ぜられず。便乃ち空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法無し」は有名なお言葉です。眼は横に並んでいて鼻は縦についているとは、誰もが当たり前の事だと思うでしょう。それがわかったので人にだまされなくなったと。人は眼横鼻直であることにだまされているから迷うのだと示されています。眼横鼻直と見るのは心の働き。見える臭いがするのは現実です。眼横鼻直と認得する心の働きと、今実際に見えたり臭ったりしているようすとはイコールで結ばれるものではありません。それぞれの働きが今行われているわけですが、このからだの中に、自分という中心があって、それが主体性をもってからだを活動させていると、なんとはなしに思っているのではないでしょうか。道元禅師は、自分という中心があると思い込んで、自分の心に振り回されていたことに気づきました。そのことを教えてくれたのが、師の如浄禅師です。道元禅師は数年の修行において、心に何が出てきても、それを何とかしようとか、良いとか悪いとか判断することを一切やめて、ただ僧堂の生活に身をまかせました。自分という思いを捨ててみると、思い描いていた悟りや仏法も消え去り、獲得しなければならないものが何もなくなりました。眼横鼻直にして今までの自分と何も変わらず、しかしもう自分にだまされません。ただそのことだけを日本に伝えるために帰朝しました。目に見えるお土産は何もありません。仏法という余計物など髪の毛ほども持って来ませんでした。
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経蔵
永平広録 正法眼蔵随聞記 正法眼蔵
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正当恁麼の時、興聖門下、且く道え、如何。
https://eiheizen.jimdo.com/永平寺御開山-道元禅師/
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嘉禎2年(1236)10月15日 37歳
道元禅師 山城興聖寺にて始めて上堂説法する。
「開闢本京宇治郡興聖禅寺語録 第一 侍者 詮慧 編」
『師、嘉禎二年丙申十月十五日に於いて、始めて当山に就て集衆説法す。
上堂に、云く、依草の家風、附木の心、道場最好なり、叢林なるべし。
床一撃、鼓三下、伝説、如來微妙音。
正当恁麼の時、興聖門下、且く道え、如何と。
良久して云く、湘の南、潭の北、黄金国、限り無き平人、陸沈を被むる、と。』
(祖山本 永平廣録 考注集成 上巻 33頁より)
「眼横鼻直・空手還郷」
上堂。山僧、叢林を歴すこと多からず。
只だ是れ、等閑に天童先師に見えて、當下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜ被れず。
便乃ち空手にして郷に還る。所処に一毫も佛法無し。
任運に且く時を延ぶ。
朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。
雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。
良や久して云く、三年、一閏に逢い、雞は五更に向て啼く。久立下座。
「永平廣録注解全書」上巻 三頁より
尚、「永平廣録」(祖山本)の巻一から巻七までは、嘉禎2年(1236)10月15日、宇治興聖寺において初めて上堂説法して以来、建長4年(1252)末に至るまでの上堂語が、年代順にほぼ正確に記載されている。
「永平寺史・上巻」257頁より
下記に「永平広録・祖山本」より抜粋して上堂法語の年月日(推定年月日)を示したが、特に月日が書かれている上堂法語以外は、そのほとんどが「元旦・涅槃会・閉炉・浴仏・結夏・端午・解夏・中秋・開炉・冬至・臘八」など時節が限定出来る上堂法語である。
その他多くの上堂法語は年代は判るが月日が特定出来ない為に省略した。
黄金の大地の現成について - つらつら日暮らし - Gooブログ
blog.goo.ne.jp/.../e/c4b9089734a8299b5dcea4fdb3c7b...
風性は常住なるがゆえに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。『正法眼蔵』「現成公案」巻ところで、この「大地の黄金」とはどのようなことなのだろうか?まずは、道元禅師が同じような文脈を他の文献でも用いておられるので、それを確認してみたい。上堂に云く。依草の家風附木の心、道場最好なり叢林たるべし。牀一撃、鼓三下。伝説す如来微妙の音。正当恁麼時、興聖門下且く如何が道わん。 良久して云く、湘の南潭の北黄金国、無限の平人陸沈を被る。『永平広録』 ...
道元 - つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉
http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C6%BB%B8%B5#anchor3
上堂して云く。依草の家風、附木の心、道場最好叢林たるべし。牀一撃、鼓三下。伝説す如来微妙の音。正当恁麼時、興聖門下、且く如何が道わん。良久して云く、湘の南、潭の北、黄金国。無限の平人、陸沈をこうむる。 祖山本『永平広録』巻1-1上堂
要するに、この興聖寺こそが道場として最高であり。ここの修行そのものが、如来の素晴らしき教えを具体化した仏の国だということになる。道元禅師は、この上堂を通じて、まさに今ここで修行することの素晴らしさ、尊さを弟子達に伝えたのである。
資料情報 ( 所蔵情報 | 予約情報 )
タイトル 永平広録 上巻
著者名等 道元/著 ≪再検索≫
著者名等 石井恭二/訓読・注釈・現代文訳 ≪再検索≫
出版者 河出書房新社
出版年 2005.3
大きさ等 22cm 454p
NDC分類 188.84
件名 禅宗-法話 ≪再検索≫
要旨 二十代の若き入宋時代から晩年の永平寺時代まで、『眼蔵』と併行して書かれた道元の語
録と筆録の一大集成。分かりやすい現代文ですべての人のものに。
目次 永平広録の第一 興聖禅寺での語録 上堂語;永平広録の第二 大仏寺での語録 上堂語
;永平広録の第三 永平禅寺での語録 上堂語;永平広録の第四 永平禅寺での語録 上
堂語
内容 『正法眼蔵』とならぶ道元の大著全3巻の第1巻。20代の若き入宋時代から晩年の永平
寺時代まで、『眼蔵』と併行して書かれた語録と筆録の一大集成。誰にでもわかるはじめ
ての完璧な、訓読・注釈付きの現代文訳。
ISBN等 4-309-71091-3
角川
禅のすすめ
〈師 (道元禅師 )は嘉禎二年 (一二三六 )十月十五日に 、当山 (興聖寺 )の仏殿 ・僧堂 ・法堂等を開堂するにあたって 、香を焚いて祝聖を行われ 、これを終えて上堂された 。 「山僧 (私 )は 、それほど多くの修行道場を巡り歩いたわけではないが 、ただ 、たまたま先師天童 (如浄禅師 )にお会いすることができて 、たちどころに眼横鼻直というあたりまえのことをはっきりと会得して 、それ以後は誰にも惑わされることがなく 、何も持たずに日本の故郷に帰ってきた 。だから 、特別に持ち帰ってきた仏の教えというものは 、ほんのわずかもない 。今は過ぎゆくままに時を過ごしているだけである 。毎朝 、太陽は東より昇り 、毎夜 、月は西に沈んでゆく 。雲が晴れ上がると山並みが現れ 、雨が上がり青空が広がると四方の山々が低く見える 。結局 、どういうことかというと … … 、三年経つと閏年があるし 、鶏は毎朝五更に鳴く 。久立を感謝します 」と言って法座から下りられた 。その他の謝詞は記録しない 〉
禅のすすめ 道元のことば (角川ソフィア文庫) Kindle版
角田 泰隆 (著)
師 、於嘉禎二年丙申十月十五日 、就当山開堂 。拈香祝聖罷 、上堂 。山僧歴叢林不多 、只是等閑見天童先師 、当下認得眼横鼻直 、不被人瞞 、便乃空手還郷 。所以一毫無仏法 。任運且延時 。朝朝日東出 、夜夜月沈西 。雲収山骨露 、雨過四山低 。畢竟如何 。良久云 、三年逢一閏 、鶏向五更啼 。久立下座 。謝詞不録
( 『永平元禅師語録 』 、春秋社本 『道元禅師全集 』第五巻 )
師 、嘉禎二年丙申十月十五日に 、当山開堂に就いて 、拈香 ( * 1 )祝聖 ( * 2 )罷って 、上堂 ( * 3 )す 。 「山僧 ( * 4 ) 、叢林 ( * 5 )を歴ること多からず 、只だ是れ等閑に先師 ( * 6 )天童に見えて 、当下に眼横鼻直なることを認得して 、人に瞞 ( * 7 )ぜられず 、便ち空手にして郷に還る 。所以に 、一毫 ( * 8 )も仏法無し 。任運に且く時を延ぶ 。朝朝 、日は東より出で 、夜夜 、月は西に沈む 。雲 、収って山骨露れ 、雨過ぎて四山低し 。畢竟如何 。良久 ( * 9 )して云く 、三年にして一閏 ( * 1 0 )に逢う 、鶏は五更 ( * 1 1 )に啼く 。久立 ( * 1 2 )下座 。謝詞は録さず ( * 1 3 )
* 1拈香 … …焼香 。 * 2祝聖 … …聖寿 (国王の寿命 )の長久を祈願すること 。 * 3上堂 … …法堂 (説法の道場 )に上り説法すること 。 * 4山僧 … …僧侶の謙遜の自称 。 * 5叢林 … …修行道場 。 * 6先師 … …亡くなった師匠 。 * 7瞞 … …だます 、あざむく 。 * 8一毫 … …毫は獣の細毛 。きわめてわずかなものにたとえる 。 * 9良久 … … 「良や久しくして 」とも読む 。しばらくの意 。 * 1 0一閏 … …一度の閨年 。 * 1 1五更 … …更は 、一夜を五つに分けた時間の単位 。五更は 、午前四時から六時 。 * 1 2久立 … …上堂のとき 、大衆は直立して聞くので 、説法の終わりに述べる感謝の言葉 。 * 1 3謝詞不録 … …僧堂開堂にあたっての謝辞をほかにも述べられたが記録しない 、の意 。
〈師 (道元禅師 )は嘉禎二年 (一二三六 )十月十五日に 、当山 (興聖寺 )の仏殿 ・僧堂 ・法堂等を開堂
するにあたって 、香を焚いて祝聖を行われ 、これを終えて上堂された 。 「山僧 (私 )は 、それほど多くの修行
道場を巡り歩いたわけではないが 、ただ 、たまたま先師天童 (如浄禅師 )にお会いすることができて 、たちどころ
に眼横鼻直というあたりまえのことをはっきりと会得して 、それ以後は誰にも惑わされることがなく 、何も持
たずに日本の故郷に帰ってきた 。だから 、特別に持ち帰ってきた仏の教えというものは 、ほんのわずかもない 。
今は過ぎゆくままに時を過ごしているだけである 。毎朝 、太陽は東より昇り 、毎夜 、月は西に沈んでゆく 。
雲が晴れ上がると山並みが現れ 、雨が上がり青空が広がると四方の山々が低く見える 。結局 、どういうことか
というと … … 、三年経つと閏年があるし 、鶏は毎朝五更に鳴く 。久立を感謝します 」と言って法座から下り
られた 。その他の謝詞は記録しない 〉
禅のすすめ 道元のことば (角川ソフィア文庫) Kindle版
角田 泰隆 (著)
師 、於嘉禎二年丙申十月十五日 、就当山開堂 。拈香祝聖罷 、上堂 。山僧歴叢林不多 、只是等閑見天童先師 、
当下認得眼横鼻直 、不被人瞞 、便乃空手還郷 。所以一毫無仏法 。任運且延時 。朝朝日東出 、夜夜月沈西 。
雲収山骨露 、雨過四山低 。畢竟如何 。良久云 、三年逢一閏 、鶏向五更啼 。久立下座 。謝詞不録
( 『永平元禅師語録 』 、春秋社本 『道元禅師全集 』第五巻 )
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眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず。|夢中説夢
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只是等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず、便乃ち空手にして
郷に還る。所処に一毫も仏法なし。任運に且く時を延ぶ。朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。
雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。良久して云く、三年に一閏にあい、鶏は五更に啼く。
訳)ただはからずも先師天童如浄禅師にお目にかかり、その場で目は横、鼻は縦であることがわかって、
もはや人にだまされなくなった。そこでなにも携えず故郷に還ってきた。だからして、私にはいささかも
仏法はない。ただなんのはからいもなく自分の思うままに時を過ごしているだけだ。見よ毎朝毎朝、朝日
は東に昇るし、毎夜毎夜、月は西に沈む。雲がはれあがると山肌が現れ、雨が通り過ぎると辺りの山は
低い姿を現す。結局、どうだというのだ。しばらくしていうには、三年ごとにうるう年が一回やってく
るし、鶏は五更(午前四時)に啼く。
永平広録
道元禅師語録 (講談社学術文庫)/鏡島 元隆
「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師
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道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」と
いうのがある。 道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ「目は横に、鼻は縦についていることが わかって、
空手で帰ってきた」と言った。
〈師 (道元禅師 )は嘉禎二年 (一二三六 )十月十五日に 、当山 (興聖寺 )の仏殿 ・僧堂 ・法堂等を開堂
するにあたって 、香を焚いて祝聖を行われ 、これを終えて上堂された 。 「山僧 (私 )は 、それほど多くの修行
道場を巡り歩いたわけではないが 、ただ 、たまたま先師天童 (如浄禅師 )にお会いすることができて 、たちどころ
に眼横鼻直というあたりまえのことをはっきりと会得して 、それ以後は誰にも惑わされることがなく 、何も持
たずに日本の故郷に帰ってきた 。だから 、特別に持ち帰ってきた仏の教えというものは 、ほんのわずかもない 。
今は過ぎゆくままに時を過ごしているだけである 。毎朝 、太陽は東より昇り 、毎夜 、月は西に沈んでゆく 。
雲が晴れ上がると山並みが現れ 、雨が上がり青空が広がると四方の山々が低く見える 。結局 、どういうことか
というと … … 、三年経つと閏年があるし 、鶏は毎朝五更に鳴く 。久立を感謝します 」と言って法座から下り
られた 。その他の謝詞は記録しない 〉
禅のすすめ 道元のことば (角川ソフィア文庫) Kindle版
角田 泰隆 (著)
師 、於嘉禎二年丙申十月十五日 、就当山開堂 。拈香祝聖罷 、上堂 。山僧歴叢林不多 、只是等閑見天童先師 、
当下認得眼横鼻直 、不被人瞞 、便乃空手還郷 。所以一毫無仏法 。任運且延時 。朝朝日東出 、夜夜月沈西 。
雲収山骨露 、雨過四山低 。畢竟如何 。良久云 、三年逢一閏 、鶏向五更啼 。久立下座 。謝詞不録
( 『永平元禅師語録 』 、春秋社本 『道元禅師全集 』第五巻 )
眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず。|夢中説夢
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「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師
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道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」と
いうのがある。 道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ「目は横に、鼻は縦についていることが わかって、
空手で帰ってきた」と言った。
〈師 (道元禅師 )は嘉禎二年 (一二三六 )十月十五日に 、当山 (興聖寺 )の仏殿 ・僧堂 ・法堂等を開堂
するにあたって 、香を焚いて祝聖を行われ 、これを終えて上堂された 。 「山僧 (私 )は 、それほど多くの修行
道場を巡り歩いたわけではないが 、ただ 、たまたま先師天童 (如浄禅師 )にお会いすることができて 、たちどころ
に眼横鼻直というあたりまえのことをはっきりと会得して 、それ以後は誰にも惑わされることがなく 、何も持
たずに日本の故郷に帰ってきた 。だから 、特別に持ち帰ってきた仏の教えというものは 、ほんのわずかもない 。
今は過ぎゆくままに時を過ごしているだけである 。毎朝 、太陽は東より昇り 、毎夜 、月は西に沈んでゆく 。
雲が晴れ上がると山並みが現れ 、雨が上がり青空が広がると四方の山々が低く見える 。結局 、どういうことか
というと … … 、三年経つと閏年があるし 、鶏は毎朝五更に鳴く 。久立を感謝します 」と言って法座から下り
られた 。その他の謝詞は記録しない 〉
師 、於嘉禎二年丙申十月十五日 、就当山開堂 。拈香祝聖罷 、上堂 。山僧歴叢林不多 、只是等閑見天童先師 、
当下認得眼横鼻直 、不被人瞞 、便乃空手還郷 。所以一毫無仏法 。任運且延時 。朝朝日東出 、夜夜月沈西 。
雲収山骨露 、雨過四山低 。畢竟如何 。良久云 、三年逢一閏 、鶏向五更啼 。久立下座 。謝詞不録
( 『永平元禅師語録 』 、春秋社本 『道元禅師全集 』第五巻 )
禅のすすめ 道元のことば (角川ソフィア文庫) Kindle版
角田 泰隆 (著)
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嘉禎2年(1236)10月15日 37歳
道元禅師 山城興聖寺にて始めて上堂説法する。
…
「眼横鼻直・空手還郷」
上堂。山僧、叢林を歴すこと多からず。
只だ是れ、等閑に天童先師に見えて、當下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜ被れず。
便乃ち空手にして郷に還る。所処に一毫も佛法無し。
任運に且く時を延ぶ。
朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。
雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。
良や久して云く、三年、一閏に逢い、雞は五更に向て啼く。久立下座。
「永平廣録注解全書」上巻 三頁より
眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず。|夢中説夢
https://ameblo.jp/70702/entry-10758775101.html
「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師
https://ameblo.jp/kikouhealing/entry-12210353615.html
道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」と
いうのがある。 道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ「目は横に、鼻は縦についていることが わかって、
空手で帰ってきた」と言った。
〈師 (道元禅師 )は嘉禎二年 (一二三六 )十月十五日に 、当山 (興聖寺 )の仏殿 ・僧堂 ・法堂等を開堂
するにあたって 、香を焚いて祝聖を行われ 、これを終えて上堂された 。 「山僧 (私 )は 、それほど多くの修行
道場を巡り歩いたわけではないが 、ただ 、たまたま先師天童 (如浄禅師 )にお会いすることができて 、たちどころ
に眼横鼻直というあたりまえのことをはっきりと会得して 、それ以後は誰にも惑わされることがなく 、何も持
たずに日本の故郷に帰ってきた 。だから 、特別に持ち帰ってきた仏の教えというものは 、ほんのわずかもない 。
今は過ぎゆくままに時を過ごしているだけである 。毎朝 、太陽は東より昇り 、毎夜 、月は西に沈んでゆく 。
雲が晴れ上がると山並みが現れ 、雨が上がり青空が広がると四方の山々が低く見える 。結局 、どういうことか
というと … … 、三年経つと閏年があるし 、鶏は毎朝五更に鳴く 。久立を感謝します 」と言って法座から下り
られた 。その他の謝詞は記録しない 〉
師 、於嘉禎二年丙申十月十五日 、就当山開堂 。拈香祝聖罷 、上堂 。山僧歴叢林不多 、只是等閑見天童先師 、
当下認得眼横鼻直 、不被人瞞 、便乃空手還郷 。所以一毫無仏法 。任運且延時 。朝朝日東出 、夜夜月沈西 。
雲収山骨露 、雨過四山低 。畢竟如何 。良久云 、三年逢一閏 、鶏向五更啼 。久立下座 。謝詞不録
( 『永平元禅師語録 』 、春秋社本 『道元禅師全集 』第五巻 )
禅のすすめ 道元のことば (角川ソフィア文庫) Kindle版
角田 泰隆 (著)
鼻
眼 横
直
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嘉禎2年(1236)10月15日 37歳
道元禅師 山城興聖寺にて始めて上堂説法する。
…
「眼横鼻直・空手還郷」
上堂。山僧、叢林を歴すこと多からず。
只だ是れ、等閑に天童先師に見えて、當下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜ被れず。
便乃ち空手にして郷に還る。所処に一毫も佛法無し。
任運に且く時を延ぶ。
朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。
雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。
良や久して云く、三年、一閏に逢い、雞は五更に向て啼く。久立下座。
「永平廣録注解全書」上巻 三頁より
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眼横鼻直
最終更新: turatura turatura 2007年01月29日(月) 17:39:07履歴
【定義】
眼は横に、鼻は縦に真っ直ぐにあるということ。法が法位に住し、法爾自然の姿にあることをいう。この世界が全て、諸法実相を示している言葉である。
【内容】
この言葉は、「空手還郷」と並んで、道元禅師が帰国時に述べた言葉だとされているが、そのような歴史的事実はない。また、この言葉の典拠は卍山本『永平広録』及び『永平略録』巻1-1上堂である。
上堂、山僧叢林を歴ること多からず、只是れ、等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜられず、便乃ち空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法無く、任運に且く時を延ぶ。朝朝日は東より出で、夜夜月は西に沈む。雲収まって山骨露れ、雨過ぎて四山低し。〈以下略〉
ところが、祖山本では、やや表現が異なり、「眼横鼻直」は無く「空手還郷」だけが確認される。したがって、おそらく本来の上堂語には「空手還郷」のみがあり、「眼横鼻直」は後に校正された段階で付け加えられた可能性が高い。なお、祖山本ではまるで道元禅師が本師である如浄禅師をやりこめて伝法してきたかのような内容だが、ここでは道元禅師の自受用三昧に話が転化されている。おそらく、この上堂の場合は、師を貴ぶ内容への転化こそ改稿の意図であろう。
この一連の経緯は大谷哲夫駒大教授の『道元「永平広録・上堂」選』(講談社学術文庫)の20~31頁に詳しい。
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眼横鼻直 空手還郷 道元 永平広録 山僧
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永平略録
最終更新: turatura turatura 2006年11月21日(火) 18:16:24履歴
【定義】
日本曹洞宗の開祖とされた永平寺開山の道元禅師の語録で、詳しくは『永平元禅師語録』だが、『永平広録』に対して分量が約10分の1であることから『永平略録』と通称される。
【刊行について】
・本書は、道元禅師の語録『永平広録』を寒巌義尹禅師が中国へ持参し、道元禅師の同参(=共に修行した僧のこと)だった無外義遠に校正を依頼し、もとの全10巻から全1巻に抄出されたものである。そこで、義尹禅師は本書を永平寺に将来し、更に宝慶寺の寂円禅師に伝わった(この原本自体は伝わらない)。後に、『学道用心集』と同じく宝慶寺3世兼永平寺6世曇希禅師の手によって延文3年(1358)に開版されたのが「延文本」である。現在伝わるのは延文年間より遅れて「延文本」の版木を用いて印刷されたもの(「古刊本」とでも呼ばれるべきか)である。
・「延文本」の開版から久しく開版は為されなかったようであるが、江戸時代に入ると続々開版された。「寛永本」(1624~1643)、「正保本」(正保五年、1648)等、他多数である。
【編集時期】
『永平広録』と同じく、正しくは撰述されたものではない。道元禅師の説法等の記録をまとめたものである。特に本書は、義尹禅師の手によって中国にもたらされた『永平広録』が、無外義遠によって略されたものであり、無外義遠の「序」「跋文」によれば、その日は景定5年(1264)11月1日から1ヶ月の間であろう。
【編集経緯】
無外義遠による跋文に詳細が書かれているので参照したい。以下は原文と訳文。
【原文】
大海汪洋、眇無涯涘。嘗一滴、則百川異流具此滴中。義尹禅人。不忘乃師之志、持其広録、需為較正。得百千之十一。其権実照用、敲唱激揚、具此録中、猶海之一滴耳。脱略枝葉、不立弧危、自成一家。趙州所謂諸方難見易識、我這裏易見難識、予於此老亦云。
書雲日 義遠題
【訳文】
大海は広々としていて、見渡しても果てがない。一滴を嘗めれば、百川の異なった流れがこの一滴中に具わっている。義尹禅人は、師の志を忘れずに、その言葉を広く集めた語録を持ち、私に校正を求めた。百千の中の十一を抄録した。道元禅師の接化に当たっての、方便も真実も、観照も実用も、問答を鼓吹し、高く掲げられた宗旨が、この語録中に具わっていることは、あたかも大海の百千の異なった流れが具わる一滴のようなものである。枝葉の問題を省略し、険峻な宗風を避けて、独自の宗風を立てられた。その宗風とは趙州従諗の言うような「諸方の善知識は見えることは難しいが識ることは易しい、自分のところでは見えるのは易しいが、識るのは難しい」ということだが、私はこの道元禅師もまたその様だと言おう。
書雲の日に義遠が題す。
この「書雲日」というのは、春分・秋分・夏至・冬至のことであり、先の「序」からすれば景定5年(1264)11月25日の冬至であろう。何故か無外義遠は「略録」を好んだ。例えば、道元禅師の師である如浄禅師語録も無外義遠が略録として編集した(理由は様々に類推されている。如浄禅師の問題発言を削ったという説もある)。そこで、義尹が入宋して義遠に校正を求めた結果、「百千の十一を得る」とある通り、略して収めたのである。
【その後の伝播・流布】
「延文本」の存在から、それなりの流布・伝播があったことと類推はできるが、実際の状況はあまり知られない。江戸時代には次々開版され、また、註釈書等もそろうため、大変もてはやされた。それは卍山本『永平広録』を開版した卍山道白の言葉からも知ることができる。「我が門の徒、其の機、一ならず。略を好む者あり。広を好む者あり。もし略を存して、広無き時んば、則ち摂化普からず。(我が曹洞宗門の信徒の能力とは一様ではない。略された語録を好む者もあれば、広く収められた語録を好む者もいる。ただ、もし略された語録のみあって、広く収められた語録が無い時には、衆生への接化が普く広がることはないだろう。)」というものである。
難を捨て易を取ることばかりが行われてはならない。卍山師はそれを諫める。『永平略録』には『略録』の、『永平広録』には『広録』の良さがある。運が良いことに、現代の我々はそれらを容易に見ることができる。少しでも先人の言葉に触れておきたいものである。越後五合庵の大愚良寛には、『永平録を見る』と題された詩偈が残されている。そこには、容易に見ることのできない法宝を得た喜びがある(一部を抜粋)。
【原文】 【訓読】
五百年来委塵埃 五百年来塵埃に委せしは
職由是無択法眼 職して是れ法を択ぶの眼無きに由る。
滔々皆是為誰挙 滔々皆是れ誰が為にか挙する
慕古感今労心曲 古を慕ひ今を感じて心曲を労す。
一夜灯前涙不留 一夜灯前涙留らず
湿尽永平古仏録 湿し尽す永平古仏録。
翌日隣翁来草庵 翌日隣翁草庵に来りて
問我此書胡為湿 我れに問ふ、此の書胡為れぞ湿ひたると。
【訳文】
五百年もの間、ゴミの中に放置されていたのは
もともとは、宗匠に仏法を正しく選ぶ目が無かったことによる。
よどみのない説法は皆、誰のために説かれたものだろうか
いにしえを慕い、いまを感じて心の隅々まで憂えた。
(そうすると)一晩、灯火の前で涙が留まらなかった
(その涙で)湿り尽くしてしまった永平古仏の語録。
翌日、隣に住む老人が、草庵に来て、
私に問うた、この書はどうして濡れているのかと。
【内容】
『永平広録』は全10巻であったが、抄録されて『永平略録』は全1巻になった。以下にはその構成と『広録』との若干の対照を示す。
・序 無外義遠
・元禅師初住本京宇治県興聖禅寺語録 侍者 詮慧編
『広録』本来の「興聖寺語録」の一部と「大仏寺語録」の一部が混淆して収録されている。本来の両者を併せれば上堂の回数は184回だが『略録』では22回になる。
・開闢次住越州吉祥山永平寺語録 侍者 懐弉編
『広録』本来の「大仏寺語録」の一部と「永平寺語録」の一部、それから『広録』「第八・小参」が上堂として混淆して収録されている。全て併せれば上堂・小参の回数は427回だが『略録』では53回になる。
・小参
『広録』本来の「小参」は20回であるが、『略録』では4回になる。
・法語
『広録』本来の「法語」は14篇であるが、『略録』では2篇になる。
・普勧坐禅儀
『広録』同様に収められている。ただし「法語」から独立している。
・坐禅箴
『正法眼蔵』「坐禅箴」巻の巻末に付されているものが収録された。『広録』には見えない。
・自賛
『広録』では「自賛」の前に「第九・玄和尚頌古」と「第十・真賛」が収録されていたが、全て省略された。『広録』に「自賛」は20首収められていたが、『略録』では3首になる。
・偈頌
『広録』では125首だったものが『略録』では17首になる。なお、収録された偈頌は、ほとんどが本文にまで校正が及び、義遠が行ったとは考えにくく、道元禅師御自身が校正されたとの説もある。
・奥書(註・開版時のもの) 曇希・瑞雄・以一
・跋 無外義遠・退耕徳寧・虚堂智愚
【註釈書】
古い註釈に関して言えば、江戸時代以降のものしか現存しない。『広録』に比べて多くの師家による解釈が為されているため、むしろ当時の思想状況を知るのに良い。
・『永平元禅師語録抄』(三冊一巻)
万安英種(1591~1657)の手によるとされている(実際は分からない)。刊行は明暦3年(1657)であるが、撰述年次は(1650)である。
・『永平録雋原』(一冊)
梅峰竺信(1633~1707)著。天和3年(1673)に版が起こされている。
・『永平語録標指鈔』(四巻四冊)
安州玄貞(?~1710)著。
・『永平語録撃節』(三巻三冊)
徳巌養存(?~1703)著。
・『永祖略録蛇足』(別名『高祖古仏略録弁解』、一巻一冊)
本書は天桂伝尊(1648~1735)の撰述として伝えられたが、内容と、撰述年代が延享3年(1747)であることから、天桂から4世の法孫・父幼老卵(1724~1805)の撰述と推測されている。
【解説書等】
・鏡島元隆訳注『道元禅師語録』講談社学術文庫・1990年
詳細な解題を始め、原文に対する現代語訳も充実し、『永平略録』に関する解説はここに極まったと言っても良い。文庫本であり入手も容易である。道元禅師の宗教の基本を知る上で役立つだろう。
・大久保道舟訳注『道元禅師語録』岩波文庫・1940年
『永平略録』のみならず、『普勧坐禅儀』『学道用心集』『傘松道詠』まで収録してある。現代語訳はなく、原文と訓読文であるが、コンパクトであるため使いやすい。現在ではほとんど入手は困難だが、岩波文庫でリクエスト復刊されることもあるため、それを入手されたい。
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道元 永平寺 寒巌義尹 永平広録 良寛
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以下に眼横はない
永平広録 上巻
著者名等 道元/著 ≪再検索≫
著者名等 石井恭二/訓読・注釈・現代文訳 ≪再検索≫
出版者 河出書房新社
出版年 2005.3
大きさ等 22cm 454p
NDC分類 188.84
件名 禅宗-法話 ≪再検索≫
要旨 二十代の若き入宋時代から晩年の永平寺時代まで、『眼蔵』と併行して書かれた道元の語
録と筆録の一大集成。分かりやすい現代文ですべての人のものに。
目次 永平広録の第一 興聖禅寺での語録 上堂語;永平広録の第二 大仏寺での語録 上堂語
;永平広録の第三 永平禅寺での語録 上堂語;永平広録の第四 永平禅寺での語録 上
堂語
内容 『正法眼蔵』とならぶ道元の大著全3巻の第1巻。20代の若き入宋時代から晩年の永平
寺時代まで、『眼蔵』と併行して書かれた語録と筆録の一大集成。誰にでもわかるはじめ
ての完璧な、訓読・注釈付きの現代文訳。
ISBN等 4-309-71091-3
https://eiheizen.jimdo.com/%E6%B0%B8%E5%B9%B3%E5%AF%BA%E5%BE%A1%E9%96%8B%E5%B1%B1-%E9%81%93%E5%85%83%E7%A6%85%E5%B8%AB/
嘉禎2年(1236)10月15日 37歳
道元禅師 山城興聖寺にて始めて上堂説法する。
…
「眼横鼻直・空手還郷」
上堂。山僧、叢林を歴すこと多からず。
只だ是れ、等閑に天童先師に見えて、當下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜ被れず。
便乃ち空手にして郷に還る。所処に一毫も佛法無し。
任運に且く時を延ぶ。
朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。
雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。
良や久して云く、三年、一閏に逢い、雞は五更に向て啼く。久立下座。
「永平廣録注解全書」上巻 三頁より
道元禅師語録
鏡島
20頁参照
「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師
https://ameblo.jp/kikouhealing/entry-12210353615.html
道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」と
いうのがある。 道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ「目は横に、鼻は縦についていることが わかって、
空手で帰ってきた」と言った。
最新研究では上は道元の言葉ではなく編者が付け加えたとされるが
それでも上手く禅の本質をついている
「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師
https://ameblo.jp/kikouhealing/entry-12210353615.html
道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」と
いうのがある。 道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ「目は横に、鼻は縦についていることが わかって、
空手で帰ってきた」と言った。
最新研究では上は道元の言葉ではなく編者が付け加えたとされるが
それでも上手く禅の本質をついている
鼻
眼 横
直
「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師
https://ameblo.jp/kikouhealing/entry-12210353615.html
道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、
「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」というのがある。
道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、
ただ「目は横に、鼻は縦についていることが わかって、
空手で帰ってきた」と言った。
最新研究では上は道元の言葉ではなく編者が付け加えたとされるが
それでも上手く禅の本質をついている
鼻
眼 横
直
64 考える名無しさん[] 2019/04/18(木) 21:33:33.82 ID:0
“表現体(エクリチュール)とは、一種の《悟り》なのである。”
― ロラン・バルト 『表徴の帝国』 宗左近訳、ちくま学芸文庫 (1996) p14
66 考える名無しさん[] 2019/04/19(金) 00:06:54.23 ID:0
>>64の中では、
阿頼耶識や華厳についても触れいてる
松本幸夫
複雑系とは
道元禅師は 「全機現 」と説かれた 。自分のもてる能力を総て発揮して 、命懸けでやり抜くことである 。そうすれば 、そこに新しい世界が拓けてくる 。人間本来無限力であり 、ひたすらにやり抜くことから 、何かが生まれる 。あなたは 、ひたすらに 、命懸けで日々過ごしているだろうか ?複雑系の時代だからといって 、決して恐れたり 、ひるむことはない 。やってやれないことはない 。もしも 、あなたが自らの心に限界を設けなかったら 。何が起きてもおかしくない複雑系の時代とは 、 「何でもできる 」という可能性の時代でもある 。
愛語よく回天の力あり - JESLead-ジェスリード
https://www.jeslead.jp/2019/02/28/%E6%84%9B%E8%AA%9E%E3%82%88%E3%81%8F%E5%9B%9E%E5%A4%A9%E3%81%AE%E5%8A%9B%E3%81%82%E3%82%8A/
愛語よく回天の力あり
こんにちは、ジェスリードの滝口祐幸です。
「名言でマインドチャージ」のブログを開いていただきまして、ありがとうございます。
このブログは、「名言でマインドチャージ」ということで、世界のことわざや名言によって、目標に向かって進むために必要なパワーマインドを充電することが目的です。
今回、テーマにする名言は、「愛語よく回天の力あり」です。
これは、道元禅師という禅宗の名僧の言葉です。
この名言の意味ですが、直訳すると、「愛語には、天をも動かす力がある」という意味になります。
ところで「愛語」とは、どんな言葉でしょうか?
あまり日常会話では出てきませんね。
ずばり、「愛語」とは、「愛のある言葉」、つまり相手を幸せにする「思いやりのある言葉」のことです。
つまり道元禅師は、「思いやりのある言葉には、天をも動かす力がある」と言っているわけです。
この道元禅師の名言を、現代に生きる私たちの生活に役立つ形にすると、次のようなに表現できると思います。
「思いやりのある言葉には、運命を好転させる力がある」
私自身、思いやりの言葉に関して、次のような経験があります。
それは、私が教材の販売会社に就職して、3カ月が過ぎたころの話です。
私が24歳の時に、初めて就職した会社は、幼児教材を1件1件、家庭を訪問して販売する訪問販売の会社でした。
教材の訪問販売は、営業の中でも最も厳しいと言われる仕事です。
そういうこともあって、私はうまく売れないことに悩み、会社を休みがちになりました。
その日も風邪をひいたと、会社に嘘の電話をして、アパートの自分の部屋で寝ていました。
ちょうど午前11時ごろ、玄関のチャイムが鳴ります。
誰だろうと思って、玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは、何と私の上司である支店長ではありませんか。
「わっ、まずい!嘘がバレた!クビになる!」と、咄嗟に思い、私の顔は硬直します。
しかし、支店長の言葉は違っていました。
「大丈夫か、滝口、心配したぞ。風邪にはビタミンが大事、みかんを置いていくから。会社のことは心配しないで、風邪をしっかり治してから出社しなさい」
支店長は、穏やかな顔でそう言って、玄関の中に入ることなく、沢山のみかんを置いて、サッーと帰りました。
支店長は、私の顔を見て、私のずる休みに気づいたはずです。
ただ支店長は、私のために、だまされたふりをして、みかんを置いていってくれたのだと思います。
私は、その後、みかんを食べながら、その支店長に思いやりに感動し、次のような決意をしました。
「支店長のためにも、絶対負けない!」
それから私は、営業トークを徹底的に勉強し、そして現場では、どんなに厳しい断わりの滅多撃ちに遭おうとも、ひるむことなく、落ち込むことなく、ずる休みをした時の支店長のやさしい言葉を思い出し、頑張り続けました。
その甲斐もあり、その半年後に、支店の中で売上げトップとなり、トップセールスマンの仲間入りを果たすことができたのです。
それを皮切りに、営業という仕事にどんどん魅せられ、その後、営業の研究に35年、没頭することになるわけです。
そして最終的には、自分の目標であった「売上げを上げると共に、営業マンの人格を向上できる新しいセールス法」を確立することができ、その新しいセールス法を、一冊の本として世に出すことができたのです。
私の人生を振り返ると、ずる休みをした時の支店長のやさしい愛語がなかったら、全く違った人生になっていたと思います。
まさに、「愛語よく回天の力あり」です。
相手のためを思う「思いやりの言葉」=「愛語」は、相手の人生を大きく好転させる力を持っています。
日常生活の中で、何を話すかは、自由です。
私たちには、言葉を自由に選ぶ選択権が与えられています。
どうせ話すのであれば、相手を不幸にする言葉ではなく、相手を幸せにする愛語を話した方がいいですよね。
ぜひ、みなさんも、人と話す時、「思いやりのある言葉」=「愛語」を心がけてみて下さい。
あなたの周りが明るくなると同時に、きっとあなた自身も明るく楽しくなること、請け合いです。
【今回の名言】
愛語よく回天の力あり
【今回の教訓】
人と話す時に、常に思いやりのある言葉を心がける。
その愛語は、相手を幸せにすると共に、自分をも幸せにする。
https://blog.goo.ne.jp/munekuni1973/e/d676fc2c6765edeae77cd6884accaccb
「愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」
(あいごよくかいてんのちからあることをがくすべきなり)
この言葉は、道元禅師の「正法眼蔵・菩提薩捶四摂法」の巻の文章にあります。
「愛語」は、菩薩の四つの実践項目(四摂法)、「布施・愛語・利行・同事」のうちのひとつです。
愛語とは愛のある言葉、慈愛の念より生ずる言葉と解してよいでしょう。
解釈するにあたって、問題になるのは「天」の意味です。
「天」には、天体、宇宙の意と、天子つまり、絶対的権力者の意があります。
従来、後者の意で解釈されることが多かったようですが、コスモスジェネレーションの私は、前者の意を採りたいと思います。
なんたって、その方がロマンがありますよね!
きっと道元禅師もかなりのロマンチストだったはず!
では、前者の意を採って、私流の解釈をしてみます!
「愛語(愛のある言葉)は、天体の運行、ひいては宇宙の働きを逆転させる(ほどの)力があることを理解し、学ぶべきである」
天体の運行、宇宙の働きを逆転させる!?
なんて、おおげさな~!!
とみなさん思われるでしょう。
実は私もそう思いました。
ですが、ハッ!と気付いたのです。
地球を取り巻く物理的な外部だけが宇宙ではない…。
私(たち)も宇宙だった…。星だった…。
私たちもまた、137億年の宇宙の歴史が詰まった、宇宙の一部。
すなわち宇宙なのです。(この考え方は「つなが
日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、 ──只管打坐(あるいは祇管打坐とも表記されます)── と呼んでいます。
100分DE名著より
身心脱落:
○
《仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。》
《仏道を学ぶということは、自己を学ぶことだ。自己を学ぶというのは、自己を忘れること。自己を忘れるというのは、悟りの世界に目覚めさせられることである。悟りの世界に目覚めさせられるということは、自己および他己(他なる自己。すなわち自己のうちにある他人)を脱落させることである。悟りの痕跡すら残してはならぬ。しかも、その痕跡なき悟りを長時間にわたって保持し続けるのだ。》
(ひろさちや現代語訳、『[新訳]正法眼蔵』二〇一三年)
75巻本[ソースを編集]
12巻本[ソースを編集]
別巻[ソースを編集]
その他[ソースを編集]
①大人が覚知するべき八種の法門を指しており、八念ともいう。日本曹洞宗でも枕経などで読誦する『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』では、釈尊最後の説法であるとされて詳しく説かれている。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では95巻、12巻本では12巻。建長5年(1253)1月6日に永平寺にて書かれた。
【内容】
①『遺教経』では、「八大人覚」として以下の項目を挙げている。
1・少欲(欲をわずかにす)
2・知足(足るを知る)
3・楽寂静(寂静を楽[ねが]う)
4・勤精進(精進を勤める)
5・不忘念(念を忘れず)
6・修禅定(禅定を修める)
7・修智慧(智慧を修める)
8・不戯論(戯論せず)
なお、八大人覚(八念)の概念自体は、別の経典(『長阿含経』『阿那律八念経』等多数)にも見ることが出来るが、その内容は、それぞれ相違する場合がある。
②道元禅師は、釈尊が最後に「八大人覚」を説かれたことを意識しながら、自らにとっても最後の『正法眼蔵』となる「八大人覚」巻を最晩年に、事実上最後の『正法眼蔵』として書かれている。涅槃に至るために守るべき八種の徳目を『仏遺教経』から引用し、さらに『大乗義章』巻13「八大人覚義」をもって説明を加えている。なお、一々の徳目を説き終わった道元禅師は、これが仏陀の教法として、縦横無尽に働くことを意識して、「八」という数字にすら把われないことを示す。
そして、釈尊が亡くなる時に説かれた最後の教法であり、最後の到達点であることを強調しながら、まさに仏となるべき衆生は、必ず「八大人覚」を修行し、無上菩提を得て、それを他の衆生のために説くべきであると示された。
道元禅師の直弟子である懐弉禅師は、同巻の奥書にて、道元禅師を追慕する者は、必ずこの巻を書写し護持するべきであると説いた。
75巻本___/河出文庫一[ソースを編集]
12巻本____/五[ソースを編集]
別巻[ソースを編集]
その他[ソースを編集]
単語と表現。
用語を表現する場合、脱用語は発現されません。 式が発現していることを知って、 脱表現 脱 式は名誉仏像または その骨髄に 達成されていない こと を 求めていません 。
話すために彼の4弟子たちを尋ねたところ(ダルマ、 最初の3つは言葉で表現された、と慧可、最後は、 彼は彼のマスターの前に3の祈りをしたサイレントジェスチャーをし た 、と彼は彼を取り戻しました 場所)。 皮肉骨髄 どのように表現「彼の代わりに立っ3の祈り」は、 それが他の3皮膚の発現と同様にすることができますか? 後者は最初と対合しない、それは私が 最初にncluse ではありません 。 ここでは、自己とは異なり、 他方 は、他のは 、顔に顔を始めます。 それ、もう一方は、異なって、 顔に顔を入れている ということです 。 私にとっては、表現および脱 式が あります 。 それについては、表現および脱表現があります。 発現のために、自己と他者があります。 脱発現のために、自己と 他が あります 。 (Daute)。
わば因根生起の煩悩のことでもある。小乗仏教は、この葛藤の
根源を断ち切ることをことで解脱する。「煩悩を断じて涅槃を
得る」
しかし、大乗においては、葛藤(複雑にからまりあった煩悩・
生死)の中に菩提(悟り)、涅槃(寂静)を証得していく。
「生死即涅槃」「煩悩即菩提」の即の仏道である。
「葛藤」で言われる「皮肉骨髄」は、煩悩塗れの生死のことだ。
菩提達磨に三拝し、自己のいるべき位置によって立った慧可に、
菩提達磨は「汝は吾(わたし)の随を得た」と言って二祖とし
たとされるが、「皮肉骨髄」浅い深いの話でないという。ただ
慧可は無言でただ行じたことが〈禅の立場〉であるということ
だろう。
慧可は、自己の中の菩提達磨という仏性に礼拝したことになる。
禅の立場からすれば、今此処、この「皮肉骨髄」という実生活
の中において、ただ行を行じて菩提達磨を証得していくという
ことだろう。自己の仏性を今ここ如何に扇ぎ出すかである。
菩提達磨の悟りもまた無常で、今ここにおいて証得していく。
道元は「葛藤のまんまでいい」なんて不抜けたことは言ってい
ない。
皮肉骨髄の葛藤の道理は、古仏の示衆する「汝得吾」の
標準なり。この標準を工夫参究すべし。
とあるように、この煩悩塗れの娑婆世界で、今此処、菩提達磨
の無量の光明、自己の仏性の輝きをを証するということだろう。
それは、慧可がただ菩提達磨(仏性)を礼拝し、自己の現状を
ありのままに受け入れそれ徹したように、今此処に徹すること。
それが禅の標準であるという。
葛藤即菩提達磨。即の仏道を懇切丁寧に弟子に諭している。
ここに展開せられた葛藤の意義は、我々の言葉に訳すれば、イデーの弁証法的展開というに最も近いであろう。それは矛盾の纏繞を通じて伸びて行く。だから不断に抗立否定の動きを呼び起こしている。かかる論争は無限に論争を生ぜしむべき種子である。
『日本精神史研究』岩波文庫、353頁
しかしながら、道元禅師の本意は、このような見解だったのだろうか?そして、少なくとも「葛藤」巻の冒頭でも「証伝」について詳しく示されているが、その後の内容からしても、和辻氏の見解は、やや学びが足りないと指摘せざるを得ない。この「葛藤」とは、「矛盾」という意味ではなくて、「伝える」ということと、「まとわりつく」ということが示されているのだ。「葛藤」という文字を見ていくと、それぞれ「葛」「藤」であり、ツタを持った植物で、自分自身の幹は非常に細いが、何かにまとわりつくことで自らを支え、そして地下から天までスッと伸びていくものでもある。
このスッとどこまでも伸びていくという直観から生まれたのが「つたへ(伝え)」という語である。この「つたへ」の「つた」と「蔦」は語幹が同じであり、その意味で「伝える」という現代語は、時間的には過去・現在・未来に伸びていく様子、空間的にも直線的に伸びていく様子ということになる。この直観を共有できなければ、「葛藤」という語については、全容を理解できないだろう。
この示衆、かつて古今の諸方に見聞せざるところなり、はじめて先師ひとり道示せり。葫蘆藤の葫蘆藤をまつふは、仏祖の仏祖を参究し、仏祖の仏祖を証契するなり。たとへば、これ以心伝心なり。
この示衆をよくよく参究してみれば、葛藤(葫蘆藤)が葛藤をまとわりつかせるということは、法を伝えている仏祖が、法を伝えている仏祖を参究し、証し究めることになる。これは、葛藤=煩悩を破壊する事という見解とは全く違う。むしろ、仏法が仏法にまとわりつくことで、それが「伝法」として、仏法が重層的、かつ連続的に伝承されていくことを示されたものであり、それを「以心伝心」というのである。
おほよそ諸聖ともに、葛藤の根源を截断する参学に趣向すといへども、葛藤をもて葛藤をきるを截断といふ、と参学せず、葛藤をもて葛藤をまつふ、としらず、いかにいはんや葛藤をもて葛藤に嗣続することをしらんや。嗣法これ葛藤としれるまれなり、きけるものなし。道著せる、いまだあらず。証著せる、おほからんや。
これは、先に挙げた葛藤=煩悩を破壊することが参学することではないということである。そうではなくて、葛藤が葛藤を切ることであり、葛藤をもって葛藤にまとわりつくのである。これは、葛藤として葛藤を受け嗣いでいくことになる。つまり、葛藤とは切ってはならないものであり、そもそも切れないものである。確かに、葛藤を切ることを截断といい、これは切ってもまた葛藤であるから、葛藤そのものは切れない。これは、以前このブログでも書いたが「仏法を批判するには仏法をもってせよ」ということであろう。だからこそ、仏法以外になりようがない。批判とは、非難や削除ではなくて、「選択」なのであり、この「選択」は、他の状況が一切現成できなくなったことを意味しない。たまたまそうなるという程度の「偶然性」を把握しておくべきである。
いま参学すべし、初祖道の汝得吾皮肉骨髄は祖道なり。門人四員、ともに得処あり、聞著あり。その聞著ならびに得処、ともに跳出身心の皮肉骨髄なり、脱落身心の皮肉骨髄なり。知見解会の一著子をもて、祖師を見聞すべきにあらざるなり。能所彼此の十現成にあらず。しかあるを、正伝なきともがらおもはく、四子おのおの所解に親疎あるによりて、祖道また皮肉骨髄の浅深不同なり。皮肉は骨髄よりも疎なり、とおもひ、二祖の見解すぐれたるによりて、得髄の印をえたり、といふ。かくのごとくいふいひは、いまだかつて仏祖の参学なく、祖道の正伝あらざるなり。
先に挙げたような、「非難や削除」については、この「正伝なきともがら」に相当することが明らかになるであろう。ただの「選択」であるべきが、そこに優劣であるとか、「必然性」を読み解く者、それが「正伝なきともがら」であり、独断の価値観を、仏法に投影しているに過ぎない。そして、それはあってはならないことである。むしろこの達磨の4人ともに、仏法を伝持しているのである。見解の出し方は偶然性で、具体的で、誰にも当て嵌まってしまう「正解」があるわけではない。
しるべし、祖道の皮肉骨髄は、浅深にあらざるなり。たとひ見解に殊劣ありとも、祖道は得吾なるのみなり。その宗旨は、得吾髄の為示、ならびに得吾骨の為示、ともに為人接人、拈草落草に足不足あらず。たとへば拈華のごとし、たとへば伝衣のごとし。四員のために道著するところ、はじめより一等なり。祖道は一等なりといへども、四解かならずしも一等なるべきにあらず。四解たとひ片片なりとも、祖道はただ祖道なり。
達磨大師の弟子達は、達磨大師からそれまでの修行で得た見解を提示せよといわれ、それぞれに様々な見解を顕したが、達磨大師はそれぞれ自分の皮・肉・骨・髄を得たとしたのである。後代の者は、ここから皮を得た道副の見解は皮相的なことであり、髄を得たとされた二祖慧可大師が真髄を得ていて勝れているとしたのである。いわば、ここには先に挙げた「独断の価値観の投影」が見られるのであるが、道元禅師は明確に、そのような価値観の投影を否定し、「祖道を得吾している」という事実だけを重んじたのである。さらに、この「祖道を得吾」することを、自ら道得するとなると、何をもって表現すれば良いのだろうか。道元禅師は次のようにされる。
おほよそ道著と見解と、かならずしも相委なるべからず。たとへば、祖師の、四員の門人にしめすには、なんぢわが皮吾をえたり、と道取するなり。もし二祖よりのち百千人の門人あらんにも、百千道の説著あるべきなり、窮尽あるべからず。門人ただ四員あるがゆえに、しばらく皮肉骨髄の四道取ありとも、のこりていまだ道取せず、道取すべき道取おほし。
下線は拙僧
この下線部に見るような、道取すべき道取は未だに継続的に表現すべきであると言えよう。何が、道取となるかは偶然的であるが、一度道取されれば、我々自身が法を伝持するという経験を形成し、その形成に於いて、新たな自己が形成されていく。経験の形成には、その調整にイメージを用いるが、イメージの形成には、様々な言語的要素、表現的要素が関わっていく。ただし、イメージやイメージ形成のための言語が仏法なのではなくて、経験そのものが仏法であり、その発現を「祖道の得吾」というべきであり、或いは法としての自己が法に関わっていく様子を持って「葛藤」とするべきなのである。
先師天童古仏道わく「胡蘆藤種、胡蘆を纒う」と。
これ曩祖の正眼のつたはれ、骨髄のつたはれる説法無情なり、一切説法無情なる道理によりて、無情説法なり、いはゆる典故なり。
『正法眼蔵』「無情説法」巻46
無情が無情を説法し、無情が無情を問法するというとき、まさにそれこそが「葛藤」としての「伝」であり、この発動については、偶然性と必然性とが交わり、結果的に仏法者として生きるための不断の調整こそが、我々には求められる。今回提示した「葛藤」巻に見る「伝」の論理とは、実は「伝えるべき実体的なものがない」ことを示したのであり、むしろ何をもって「伝」とするかは、自己組織化の論理でもって捉えた方がよいということであった。
●「土を喰う日々」 著者 水上 勉 昭和57年 8月25日発行 新潮文庫
その副題に「わが精進十二ヵ月」とあるように、著者が仕事場としている軽井沢の住まいの一隅にある野菜畑(3畝というから約300平方メートル)で育てた季節の野菜を材料に精進に徹した料理を工夫した様を1月から12月に章立てして綴っている。九歳の時に禅宗寺院の小僧として入寺し、そこで精進料理を覚える。何もない寺の台所で、その時、畑でとれる野菜とあとは豆腐か油揚げを使って料理を工夫する。何もない台所から絞り出すことが精進で、料理は畑と相談してから決められる。このことから著者は精進料理とは、土を喰うものだと思うにいたり、旬を喰うこととはつまり土を喰うことととらえ、土にいま出ている菜だということで精進は生々してくると言う。何でも手に入る軽井沢での生活の中でも、少年の頃、寺での生活で培われた洗い水も惜しみ、芋の皮一切れだって無駄にせず、その材料を親しく見つめ、細かいところまで行き届いた心で扱う姿勢が貫かれている。文中に道元禅師の「典座教訓」%%%の文章が紹介されているが、まさにその教えを実践している。月ごとに紹介されている料理は、身近で素朴な素材を使った精進料理であるが、読んでいて自分も作って味わってみたくなるほど旨そうで、解説で丸元淑生氏が「一人の生活に根ざした料理人の書き上げた一冊の生活料理書であって実に学ぶところが多いのだ。(・・・しかもそこで開陳される知識が著者九歳の体験に基づいているあたりが、この本のすごいところで、あえて料理人といったのは、実際、十代の水上先生は、食事にうるさい禅寺のなかで、すでにひとかどの料理人だったと思われるからである。)」と記しているとおりである。
永平寺の開祖、道元禅師(どうげんぜんじ)。鎌倉仏教の項で歴史の教科書にも登場するため、ほとんどの方がその名を聞いたことがあるでしょう。
しかし、道元禅師が『典座教訓(てんぞきょうくん)』という書を著し、「食」に関する金言を示されたことは、一般にはあまり知られていないようです。
「典座(てんぞ)」とは、禅寺において「食」を司る重責を担う役僧のことです。その典座職の行うべき職責を、非常に細かく丁寧にお説き下さったのです。
今から750年以上も前に、一宗の開祖が、これほど親切に、また細やかに「食」について説かれたことに驚きと感動を覚えます。
典座ネットでは、食乱れる現代にこそ、あらためてこの名著を広く世に薦めたいと願って、サイトを運営しています。
目次
[非表示]故事[ソースを編集]
「また私が上陸許可を待って港の船の中にいた時、ある老僧が食材の買入れに港にやってきた。船室に招いて茶を勧め、話を聞くと『私は、阿育王寺の典座である。故郷を出て四十年、歳も六十を越えたが、これからまた20キロほど歩いて、食事の用意に寺まで帰らねばならぬ』
道元は日本に帰国してより建仁寺に留まったが、建仁寺の典座が食事の用意を軽く考え、職務を適当に行っていることを見、宋との落差を非常に遺憾とした。そして『典座教訓』を執筆し、典座職の重要性と、その職務要領を詳細に書き残した。
現在の道場の典座職には、修行経験が深く篤実温厚な人物が任命される場合が多く、修行僧たちの相談役として敬慕される者が多いという。
出典[ソースを編集]
関連項目[ソースを編集]
外部リンク [ソースを編集]
『礼拝得髄』後半 75巻本からは削除された「女人禁制」批判
この巻で道元禅師は、
真実を得たものであれば誰であってもその得道、得髄に礼拝すべきである。
女性だからといって軽んずるのは全く誤りである、と説かれます。
188ページ「また和漢の古今に帝位にして女人あり」から。
皇帝になった女性が国土を所領し、人々が臣下となるのは、皇帝の位を尊ぶから。
比丘尼を敬うことも僧侶として釈尊の教えをはっきりつかんだときに敬うのである。
「またいま至愚のはなはだしき人おもふことは、女流は貪婬所対の境界にてありとおもふこころをあらためずして、これをみる」
女性は欲望の対象とであるからこれを忌み嫌う、というのは愚のきわみ。
そんなことを言うなら「一切男子もまたいむべきか」
男だろうと女だろうと幻だろうと、あらゆるものが情欲の対象・機縁になる。
「これみなすつべきか、みるべからざるか」
「おほよそ境をみてはあきらむることをならふべし、
何にかぎらず、何かにぶちあたったら逃げずにそれが何なのか学ばなくてはならない。
「日本国にひとつのわらひごとあり」
巻の終盤で、に道元禅師は「女人禁制の結界」を、女性というだけで排除するのは全く的外れなものと批判します。
権威が決めたことだから、古くからのしきたりだから、などという説明は
「わらはば人の腸(はらわた)もたえぬべし」
つまるところ
「一切衆生みな化をこうぶらん功徳を、礼拝恭敬すべし」
西嶋老師は解説されます。
釈尊はすべての人々を救おうと教化された。あれは救うけれどもこれは救わない、ということではない。
誰でも釈尊の教化を受けうるということ、そのことを敬うべきである。
なお、この日読んだ本巻の後半は現在の岩波文庫ではこのように説明されています。
「以下は75巻の正法眼蔵には諸本いずれも欠き、ただ永平寺に伝わる秘密(密)正法眼蔵の中だけに残ったものである。恐らく、75巻の正法眼蔵が整理された時、削られたものであろう」
なにか不都合があったのでしょうか。
現代語訳正法眼蔵 第1巻 | 西嶋 和夫 | 本 | Amazon.co.jp
…
延應庚子明日記觀音導利興聖寶林寺
…
又、いま至愚のはなはだしき人おもふことは、女流は貪婬所對の境界にてありとおもふこころをあらためずしてこれをみる。佛子如是あるべからず。婬所對の境となりぬべしとていむことあらば、一切男子も又いむべきか。染汚の因となることは、男も境となる、女も境となる。非男非女も境となる、夢幻空花も境となる。あるいは水影をとして非梵行あることありき、あるいは天日をとして非梵行ありき。も境となる、鬼も境となる。そのかぞへつくすべからず。八萬四千の境界ありと云ふ、これみなすつべきか、みるべからざるか。
律云、男二所、女三所、おなじくこれ波羅夷不共住。
しかあれば、婬所對の境になりぬべしとてきらはば、一切の男子と女人と、たがひにあひきらうて、さらに得度の期あるべからず。この道理、子細に點すべし。
又、外道も妻なきあり。妻なしといへども、佛法に入らざれば邪見の外道なり。
正法眼藏禮拜得髓
道元:( >>860追記 )
《時間とは「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」である。》
(『シネマ2』邦訳23頁)
《Le temps, c'est “ la réserve visuelle des événements dans leur justesse ”》
(Gilles Deleuze L’Image-temps. Cinéma 2
https://monoskop.org/images/8/85/Deleuze_Gilles_Cinema_2_L_Image-temps.pdf fr, 28p)
「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」は道元の『正-蔵-眼-蔵』の逐語訳。
ドゥルーズが『哲学とは何か』でも参照した以下の仏訳書名副題?でもある。
http://www.sudoc.fr/023101695
Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen
René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980).
ルネ・ド・セカティ,中村亮二 編訳
『正法眼蔵』をコンパクトに再構成している。理論、実践、詩、テーマ別、注、という順番。
参考:
正法眼蔵 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95%E7%9C%BC%E8%94%B5
UN ZEN OCCIDENTAL : SHOBOGENZO
http://www.zen-occidental.net/dogen/shobogenzo.html
正法眼藏 Shohogenzo
http://www.shomonji.or.jp/soroku/
Ateliers d'étude du Shôbôgenzô avec Yoko Orimo
http://www.shobogenzo.eu/
和尚と座禅を組み合って、眠りこけてしまった三四郎に対して和尚は朝になってもまだ座禅を組み続けていたのだが、目を覚ました三四郎がよくよく見ると、和尚も座禅を組みながら眠っていたなどは、その最たるもの。
かくのごとくして大潙にまうす、智閑は心神昏昧(しんしんこんまい)にして道不得(どうふて)なり、和尚わがためにいふべし。大潙のいはく、われ、なんぢがためにいはんことを辞せず。おそらくは、のちになんぢわれをうらみん。かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡をたづねて武当山にいたりて、国師の庵のあとにくさをむすびて為庵(いあん)す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併浄(ひんじん)するちなみに、かはらほとばしりて竹にあたりて、ひびきをなすをきくに、豁然(かつねん)として大悟す。沐浴し、潔斎(けつさい)して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでか、いまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。つひに偈をつくりていはく、
一撃亡所知《一撃に所知を亡ず》、
更不自修治《更に自ら修治せず》。
動容揚古路《動容古路を揚ぐ》、
不堕悄然機《悄然の機に堕せず》。
処々蹤跡無《処々蹤跡無し》、
声色外威儀《声色外の威儀なり》、
諸方達道者《諸方達道の者》、
咸言上々機《咸く上々の機と言はん》。
この偈を大潙に呈す。大潙いはく、此子徹也《此の子、徹せり》。
阿耨菩提に傳道受業の佛おほし、粉骨の先蹤不無なり。斷臂の宗まなぶべし、掩泥の毫髪もたがふることなかれ。各各の殼うるに、從來の知見解會に拘牽せられず、曠劫未明の事、たちまちに現前す。恁麼時の而今は、吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、佛眼も不見なり。人慮あに測度せんや。
大宋國に、東坡居士蘇軾とてありしは、字は子瞻といふ。筆海の眞龍なりぬべし、佛海の龍象を學す。重淵にも游泳す。曾雲にも昇降す。あるとき、廬山にいたりしちなみに、溪水の夜流する聲をきくに悟道す。偈をつくりて、常總禪師に呈するにいはく、
谿聲便是廣長舌、
山色無非淨身。
夜來八萬四千偈、
他日如何擧似人。
(谿聲便ち是れ廣長舌、山色淨身に非ざること無し、夜來八萬四千偈、他日如何が人に擧似せん。)
この偈を總禪師に呈するに、總禪師、然之す。總は照覺常總禪師なり、總は黄龍慧南禪師の法嗣なり、南は慈明楚圓禪師の法嗣なり。
居士、あるとき佛印禪師了元和尚と相見するに、佛印、さづくるに法衣佛戒等をもてす。居士、つねに法衣を搭して修道しき。居士、佛印にたてまつるに無價の玉帶をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。
しかあれば、聞谿悟道の因、さらにこれ佛流の潤なからんや。あはれむべし、いくめぐりか現身法の化儀にもれたるがごとくなる。なにとしてかさらに山色をみ、谿聲をきく、一句なりとやせん、半句なりとやせん、八萬四千偈なりとやせん。うらむべし、山水にかくれたる聲色あること。又よろこぶべし、山水にあらはるる時節因あること。舌相も懈倦なし、身色あに存沒あらんや。しかあれども、あらはるるときをやちかしとならふ、かくれたるときをやちかしとならはん。一枚なりとやせん、半枚なりとやせん。從來の春秋は山水を見聞せざりけり、夜來の時節は山水を見聞することわづかなり。いま、學道の菩薩も、山流水不流より學入の門を開すべし。
この居士の悟道せし夜は、そのさきのひ、總禪師と無法話を參問せしなり。禪師の言下に身の儀いまだしといへども、谿聲のきこゆるところは、逆水の波浪たかく天をうつものなり。しかあれば、いま谿聲の居士をおどろかす、谿聲なりとやせん、照覺の流瀉なりとやせん。うたがふらくは照覺の無法話、ひびきいまだやまず、ひそかに谿流のよるの聲にみだれいる。たれかこれ一升なりと辨肯せん、一海なりと朝宗せん。畢竟じていはば、居士の悟道するか、山水の悟道するか。たれの明眼あらんか、長舌相、淨身を急着眼せざらん。
又香嚴智閑禪師、かつて大大圓禪師の會に學道せしとき、大いはく、なんぢ聰明博解なり。章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。
香嚴、いはんことをもとむること數番すれども不得なり。ふかく身心をうらみ、年來たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。つひに火をもちて、年來のあつむる書をやきていはく、畫にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に佛法を會せんことをのぞまじ、ただ行粥とならんといひて、行粥して年月をふるなり。行粥といふは、衆に粥を行するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。
かくのごとくして大にまうす、智閑は身心昏昧にして道不得なり、和尚わがためにいふべし。
大のいはく、われ、なんぢがためにいはんことを辭せず。おそらくはのちになんぢわれをうらみん。
かくて年月をふるに、大證國師の蹤跡をたづねて武當山にいりて、國師の庵のあとにくさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併淨するちなみに、かはらほとばしりて竹にあたりて、ひびきをなすをきくに、瞎然として大悟す。沐浴し、潔齋して、大山にむかひて燒香禮拜して、大にむかひてまうす、大大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。つひに偈をつくりていはく、
一撃亡所知、
更不自修治。
動容揚古路、
不墮悄然機。
處處無蹤跡、
聲色外威儀。
方達道者、
咸言上上機。
(一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず。動容古路を揚ぐ、悄然の機に墮せず。處處蹤跡無し、聲色外の威儀なり。方達道の者、咸く上上の機と言はん。)
この偈を大に呈す。
大いはく、此子徹也(此の子、徹せり)。
又、靈雲志勤禪師は三十年の辨道なり。あるとき遊山するに、山脚に休息して、はるかに人里を望見す。ときに春なり。桃花のさかりなるをみて、忽然として悟道す。偈をつくりて大に呈するにいはく、
三十年來尋劍客、
幾囘葉落又抽枝。
自從一見桃花後、
直至如今更不疑。
(三十年來尋劍の客、幾囘か葉落ち又枝を抽んづる。一たび桃花を見てより後、直に如今に至るまで更に疑はず)。
大いはく、從入者、永不退失(より入る者は、永く退失せじ)。
すなはち許可するなり。いづれの入者か從せざらん、いづれの入者か退失あらん。ひとり勤をいふにあらず。つひに大に嗣法す。山色の淨身にあらざらん、いかでか恁麼ならん。
長沙景岑禪師に、あるとふ、いかにしてか山河大地を轉じて自己に歸せしめん。
師いはく、いかにしてか自己を轉じて山河大地に歸せしめん。
いまの道取は、自己のおのづから自己にてある、自己たとひ山河大地といふとも、さらに所歸に礙すべきにあらず。
琅の廣照大師慧覺和尚は、南嶽の遠孫なり。あるとき、家の講師子とふ、淨本然、云何忽生山河大地(云何が忽ちに山河大地を生ずる)。
かくのごとくとふに、和尚しめすにいはく、淨本然、云何忽生山河大地。
ここにしりぬ、淨本然なる山河大地を山河大地とあやまるべきにあらず。しかあるを、經師かつてゆめにもきかざれば、山河大地を山河大地としらざるなり。
しるべし山色谿聲にあらざれば、拈花も開演せず、得髓も依位せざるべし。谿聲山色の功によりて、大地有同時成道し、見明星悟道する佛あるなり。かくのごとくなる皮袋、これ求法の志氣甚深なりし先哲なり。その先蹤、いまの人、かならず參取すべし。いまも名利にかかはらざらん眞實の參學は、かくのごときの志氣をたつべきなり。遠方の近來は、まことに佛法を求覓する人まれなり。なきにはあらず、難遇なるなり。たまたま出家兒となり、離俗せるににたるも、佛道をもて名利のかけはしとするのみおほし。あはれむべし、かなしむべし、この光陰ををしまず、むなしく黒暗業に賣買すること。いづれのときかこれ出離得道の期ならん。たとひ正師にあふとも、眞龍を愛せざらん。かくのごとくのたぐひ、先佛これを可憐憫者といふ。その先世に惡因あるによりてしかあるなり。生をうくるに爲法求法のこころざしなきによりて、眞法をみるとき眞龍をあやしみ、正法にあふとき正法にいとはるるなり。この身心骨肉、かつて從法而生ならざるによりて、法と不相應なり、法と不受用なり。宗師資、かくのごとく相承してひさしくなりぬ。菩提心はむかしのゆめをとくがごとし。あはれむべし、寶山にうまれながら寶財をしらず、寶財をみず、いはんや法財をえんや。もし菩提心をおこしてのち、六趣四生に輪轉すといへども、その輪轉の因、みな菩提の行願となるなり。
しかあれば、從來の光陰はたとひむなしくすごすといふとも、今生のいまだすぎざるあひだに、いそぎて發願すべし。
ねがわくはわれと一切衆生と、今生より乃至生生をつくして、正法をきくことあらん。きくことあらんとき、正法を疑著せじ、不信なるべからず。まさに正法にあはんとき、世法をすてて佛法を受持せん、つひに大地有ともに成道することをえん。
かくのごとく發願せば、おのづから正發心の因ならん。この心、懈倦することなかれ。
又この日本國は、海外の遠方なり、人のこころ至愚なり。むかしよりいまだ聖人むまれず、生知むまれず、いはんや學道の實士まれなり。道心をしらざるともがらに、道心ををしふるときは、忠言の逆耳するによりて、自己をかへりみず、他人をうらむ。
おほよそ菩提心の行願には、菩提心の發未發、行道不行道を世人にしられんことをおもはざるべし、しられざらんといとなむべし。いはんやみづから口稱ぜんや。いまの人は、實をもとむることまれなるによりて、身に行なく、こころにさとりなくとも、他人のほむることありて、行解相應せりといはん人をもとむるがごとし。迷中又迷、すなはちこれなり。この邪念、すみやかに抛すべし。
學道のとき見聞することかたきは、正法の心なり。その心は、佛佛相傳しきたれるものなり。これを佛光明とも、佛心とも相傳するなり。如來在世より今日にいたるまで、名利をもとむるを學道の用心とするににたるともがらおほかり。しかありしも、正師のをしへにあひて、ひるがへして正法をもとむれば、おのづから得道す。いま學道には、かくのごとくのやまふのあらんとしるべきなり。たとへば、初心始學にもあれ、久修練行にもあれ、傳道授業の機をうることもあり、機をえざることもあり。慕古してならふ機あるべし、謗してならはざる魔もあらん。兩頭ともに愛すべからず、うらむべからず。いかにしてかうれへなからん、うらみざらん。
いはく、三毒を三毒としれるともがらまれなるによりて、うらみざるなり。いはんやはじめて佛道を欣求せしときのこころざしをわすれざるべし。いはく、はじめて發心するときは、他人のために法をもとめず、名利をなげすてきたる。名利をもとむるにあらず、ただひとすぢに得道をこころざす。かつて國王大臣の恭敬供養をまつこと、期せざるものなり。しかあるに、いまかくのごとくの因あり、本期にあらず、所求にあらず、人天の繋縛にかかはらんことを期せざるところなり。しかあるを、おろかなる人は、たとひ道心ありといへども、はやく本志をわすれて、あやまりて人天の供養をまちて、佛法の功いたれりとよろこぶ。國王大臣の歸依しきりなれば、わがみちの見成とおもへり。これは學道の一魔なり、あはれむこころをわするべからずといふとも、よろこぶことなかるべし。
みずや、ほとけののたまはく、如來現在、猶多怨嫉(如來の現在にすら猶怨嫉多し)の金言あることを。愚の賢をしらず、小畜の大聖をあたむこと、理かくのごとし。又、西天の師、おほく外道二乘國王等のためにやぶられたるを。これ外道のすぐれたるにあらず、師に遠慮なきにあらず。
初西來よりのち、嵩山に掛錫するに、梁武もしらず、魏主もしらず。ときに兩箇のいぬあり、いはゆる菩提流支三藏と光統律師となり。名邪利の、正人にふさがれんことをおそりて、あふぎて天日をくらまさんと擬するがごとくなりき。在世の達多よりもなほはなはだし。あはれむべし、なんぢが深愛する名利は、師これを糞穢よりもいとふなり。かくのごとくの道理、佛法の力量の究竟せざるにはあらず、良人をほゆるいぬありとしるべし。ほゆるいぬをわづらふことなかれ、うらむることなかれ。引導の發願すべし、汝是畜生、發菩提心と施設すべし。先哲いはく、これはこれ人面畜生なり。
又、歸依供養する魔類もあるべきなり。
前佛いはく、不親近國王、王子、大臣、官長、婆羅門、居士(國王、王子、大臣、官長、婆羅門、居士に親近せざれ)。
まことに佛道を學せん人、わすれざるべき行儀なり。菩薩初學の功、すすむにしたがうてかさなるべし。
又むかしより、天帝きたりて行者の志氣を試驗し、あるいは魔波旬きたりて、行者の修道をさまたぐることあり。これみな名利の志氣はなれざるとき、この事ありき。大慈大悲のふかく、廣度衆生の願の老大なるには、これらの障礙あらざるなり。
修行の力量おのづから國土をうることあり、世運の達せるに相似せることあり。かくのごとくの時節、さらにかれを辨肯すべきなり。かれに睡することなかれ。愚人これをよろこぶ、たとへば癡犬の枯骨をねぶるがごとし。賢聖これをいとふ、たとへば世人の糞穢をおづるににたり。
おほよそ初心の量は、佛道をはからふことあたはず、測量すといへどもあたらざるなり。初心に測量せずといへども、究竟に究盡なきにあらず。徹地の堂奥は初心の淺識にあらず。ただまさに先聖の道をふまんことを行履すべし。このとき、尋師訪道するに、梯山航海あるなり。導師をたづ、ね知識をねがふには、從天降下なり、從地湧出なり。
その接渠のところに、有に道取せしめ、無に道取せしむるに、身處にきき、心處にきく。若將耳聽は家常の茶なりといへども、眼處聞聲これ何必不必なり。見佛にも、自佛他佛をもみ、大佛小佛をみる。大佛にもおどろきおそれざれ、小佛にもあやしみわづらはざれ。いはゆる大佛小佛を、しばらく山色谿聲と認ずるものなり。これに廣長舌あり、八萬偈あり。擧似迥なり、見徹獨拔なり。このゆゑに俗いはく、彌高彌堅なり、先佛いはく、彌天彌綸なり。春松の操あり、秋菊の秀ある、是なるのみなり。
善知識この田地にいたらんとき、人天の大師なるべし。いまだこの田地にいたらず、みだりに爲人の儀を存ぜん、人天の大賊なり。春松しらず、秋菊みざらん、なにの草料かあらん、いかが根源を截斷せん。
又、心も肉も、懈怠にもあり、不信にもあらんには、誠心をもはらして前佛に懺悔すべし。恁麼するとき前佛懺悔の功力、われをすくひて淨ならしむ。この功、よく無礙の淨信進を生長せしむるなり。淨信一現するとき、自他おなじく轉ぜらるるなり。その利、あまねく非にかうぶらしむ。その大旨は、
願はわれたとひ過去の惡業おほくかさなりて、障道の因ありとも、佛道によりて得道せりし佛、われをあはれみて、業累を解せしめ、學道さはりなからしめ、その功法門、あまねく無盡法界に充滿彌綸せらんあはれみをわれに分布すべし。
佛の往昔は吾等なり、吾等が當來は佛ならん。佛を仰觀すれば一佛なり、發心を觀想するにも一發心なるべし。あはれみを七通八達せんに、得便宜なり、落便宜なり。このゆゑに龍牙のいはく、
昔生未了今須了、
此生度取累生身。
古佛未悟同今者、
悟了今人古人。
(昔生に未だ了ぜずは今須らく了ずべし、此生に累生身を度取す。古佛も未悟なれば今者に同じ、悟了せば今人ち古人なり。)
しづかにこの因を參究すべし、これ證佛の承當なり。
かくのごとく懺悔すれば、かならず佛の冥助あるなり。心念身儀發露白佛すべし、發露のちから罪根をして銷殞せしむるなり。これ一色の正修行なり、正信心なり、正信身なり。
正修行のとき、谿聲谿色、山色山聲、ともに八萬四千偈ををしまざるなり。自己もし名利身心を不惜すれば、谿山また恁麼の不惜あり。たとひ谿聲山色八萬四千偈を現成せしめ、現成せしめざることは夜來なりとも、谿山の谿山を擧似する盡力未便ならんは、たれかなんぢを谿聲山色と見聞せん。
正法眼藏谿聲山色第二十五
爾時延應庚子結制後五日在觀音導利興聖寶林寺示衆
元癸卯結制前佛誕生日在同寺侍司書寫之 懷弉