火曜日, 11月 08, 2016

道元『正法眼蔵』Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événementsdansleurjustesse / Dôgen :メモ

            (リンク:::::::::仏教
NAMs出版プロジェクト: 道元(1200~1253):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/blog-post_8.html
『哲学とは何か』ドゥルーズ Deleuze-Guattari:Qu'est-ce que la philosophie ? 1991
http://nam-students.blogspot.jp/2016/04/deleuze-guattariqu-que-la-philosophie.html
正法眼藏 Shohogenzo
http://www.shomonji.or.jp/soroku/ 全
 NAMs出版プロジェクト: 『宗門葛藤集』父母未生以前本來面目
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_76.html

ドゥルーズ『哲学とは何か』の後半部はABCと内容が重なる。冒頭注のウィトへの記述から他者論としての認識が深まっているのもわかる。

また、#2の注で道元に触れている。

67頁
《…概念としての出来事は、見える〈物の状態〉のなかで実現されるにせよ、まさにその絶対的地平のおかげで、当の〈物の状態〉から独立しているのだ。》

《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)réserve」を引き合いに出している日本の僧、道元のテクストをも参照されたい。》(邦訳文庫版『哲学とは何か』(#2:67^)370(394)頁)

(仏性が潜在性としてあり、出来事として現働化する。あるいは現働性のなかに潜在性としての仏性がすでにあるということか。)

《…訳者は、そのほかにまた、日本思想に興味があるかとドゥルーズに尋ねてみた。ドゥルーズは、ちょっと困った顔をして、はにかみながら「ドーゲンヌ?」と言って肩をすくめた。きっと「道元」を言わんとしたのであろう…》邦訳DR解説より

《道元、『正法眼蔵』
Dは幾度か道元に触れているが、それは東洋思想へのオリエンタルな興味ではない。ヨーロッパで
スコラ哲学がハイブリッドに興隆しつつある時期を生きた道元は、自身、文化の国際的交通の中で
思考を育んだDは道元の、時は出来事を保存する蔵だという思考に共感する。時間とは、「諸々
の出来事の、各々の速度を通した視覚的な蔵である」(「シネマ2」)。「正法眼蔵」仏語版からのこ
の引用は「有時」第二〇節か。(松本潤一郎)》
(河出文庫、他)

『ドゥルーズ 没後10年、入門のために』2005,181頁

《時間とは「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」*である。アントニオーニは「出来事の地平」について
語ったが、西欧の人間にとってそれは二重であって、同時に人間の凡庸な地平であり、また近づきがたく、
たえず遠のく宇宙論的地平なのだ。こうして西欧の映画はヨーロッパ的ヒューマニズムとアメリカ的S F
に分離する。S Fに関心をもたない日本人にこのようなことは起きないと彼は指摘していた。》
『シネマ2』#1原注28邦訳23頁^(28)

「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」=正-蔵-眼-蔵の逐語訳。仏訳書名でもある。
Le  temps,  c'est “ la  réserve  visuelle  des  événements  dans  leur  justesse ”  28

L'Image-Mouvement. Cinema1 


《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)réserve」を引き合いに出している日本の僧、道元のテクストをも参照されたい。》(邦訳文庫版『哲学とは何か』(#2:67^)370(394)頁)
We refer also to the Zen text of the Japanese monk Dôgen, which invokes the horizon or “reserve(蔵)” of events: Shôbogenzo, trans. and with commentary by René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980). ルネ・ド・セカティ,中村亮二
Titre : Shôbôgenzô  : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen ; textes choisis, traduits et annotés par Ryôji Nakamura et René de CeccattyAlphabet du titre : latinAuteur(s) : 
Nakamura, Ryôji. Traduction. Notes
Ceccatty, René de (1952-....). Traduction. Notes
Date(s) : impr. 1980Langue(s) : françaisPays : FranceEditeur(s) : [Paris] : Ed. de la Diffèrence, impr. 1980Description : 1 vol. (159 p.) : 1 carte, couv. ill. ; 24 cm 

『正法眼蔵』をコンパクトに再構成している。理論、実践、詩、テーマ別、注、という順番。%

TABLE DES MATIERES
Avant-Propos 7
Théorie p.9
1Genjokoan La realisation du koan) :1現成公案 ○1          11
2Yuji(Le temps qu'il-y-a)  :20有時                              19
3Temporin (Le cercle des événements) :67轉法輪       29
4Busshô (Le propre de Bouddha):3佛性                    33
5Koku (L'air-vide). :70虚空               37
6Hakujushi (Le chene dans le jardin d'en face). :40栢樹子     39
7Shinshingakudà (Etudier avec le corps-coeur) :4身心學道  43
8Butsudô (La voie de Bouddha) :44佛道          45
9Bukkyô (L'enseignement de Bouddha) :34佛教      49
Pratique p.51
10Zazenshin (Remède à la méditation) :12坐禪箴      53
11Senjô (purihcation) :54洗淨              61
12Kajô (La constance de la maison):59家常       71
Poésie p.77
13Gabyô (Le tableau d'un gâteau de riz) :24畫餠    79
14Ryugin (Le rugissement du dragon) :61龍吟     87
15Ganzei(Orbite):58眼睛              91
16Kuge (La neur du vide) :14空華           93
Choix thématique p.97
17Le mot et I'expression  Daute:38?,Sansuikyo山水經:29,Eihei-koroku 99
18Non-penser  Zazenshin坐禪箴+:12               101
19La critique du spiritualisme  Bendowa弁道話,Bussho佛性:3      102
20La vie et ]a mort  Zenki全機:22                104
21Le miroir.   Kokyo^古鏡:19                  105
22Pas de spéculation  ibid.                   106
23Les femmes.  Raihaikudoku禮拜得髓?:28            108
24Expliquer le reve dans un reve  Muchu-setsumu夢中説夢:27     109
25Entrelacs de la glycine.  Katsuto^葛藤:38           111
26L'éclosion d'une fleur.   Kuge空華:14              112
27peindre Ie printemps  Baika梅花:53             113
Appendices :               115
Vie de Dogen.              117
Sur le bodhi.               121
Sur I'événement.             133
sur le zen et le bouddhisme de Kamakura  135
Carte de Chine              153
Glossaire.               157

『哲学とは何か』ドゥルーズ Deleuze-Guattari:Qu'est-ce que la philosophie ? 1991
http://nam-students.blogspot.jp/2016/04/deleuze-guattariqu-que-la-philosophie.html

Ateliers d'étude du Shôbôgenzô avec Yoko Orimo
http://www.shobogenzo.eu/

正法眼蔵(しょうぼうげんぞう、正法眼藏)は、主にである道元が執筆した仏教思想書を指す。正法眼蔵という言葉は、本来は仏法の端的な、すなわち肝心要の事柄を意味する。禅家はこれをもって教外別伝の心印となす。[1]著者によって大別すると、次の3種類に分かれる。
  1. 『正法眼蔵』 - 3巻。大慧宗杲
  2. (仮字)『正法眼蔵』(仮名記述) - 75巻+12巻+拾遺4巻(現在の研究結果による)。道元著 
  3. (真字)『正法眼蔵』(漢文記述) - 300則の公案集。道元選(ただし道元による若干の変更あり)
ここでは、2番目の道元著(仮字)『正法眼蔵』について述べる。☆
最後に開版(出版)された95巻本には、『正法眼蔵』とは呼べない文章も混入している。
大久保道舟などを先駆とする精緻な研究結果から、現在では、旧稿75巻+新稿12巻に整理され、これが学会で合意されている。
(ただし「礼拝得度」28後半の女性差別批判など重要な箇所がカットされている。後述。)


SHOBOGENZO LA RESERVE VISUELLE DES EVENEMENTS DANS LEUR JUSTESSE by DOGEN: LA DIFFERENCE Couverture souple - Yves Grégoire
NEMENTS DANS LEUR JUSTESSE
DOGEN
Published by LA DIFFERENCE, 1980

Title: SHOBOGENZO LA RESERVE VISUELLE DES ...
Publisher: LA DIFFERENCE
Publication Date: 1980
Binding: Couverture souple
Book Condition: Neuf
Description:
160 PAGES FORMAT 16 CM X 24 CM-COLLECTION PHILOSOPHIAPERENNIS-TEXTES CHOISIS, TRADUITS ET ANNOTES PAR RYOJI NAKAMURA ET RENE DE CECCATTY-COUVERTURE REMPLIEE-(16H). Bookseller Inventory # ABE-16284906917

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眼横鼻直:

禅禅語「眼横鼻直」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト
 この語ほど易しそうで難しい禅語は他にありません。眼は横に、鼻はまっすぐに!一体何を意味するのでしょうか。
 曹洞宗の開祖道元禅師(1200~1253)は当時の日本仏教に飽きたらず、中国(宋の時代)に渡り、禅要を悟って日本に帰国します。そして先ず、禅の根本道場として興聖こうしょう寺を建立します。その開設に臨んでの上堂(修行者に対する説法)の一節が『永平広録』にあります。
只だ是れ等閑とうかん天童てんどう先師せんしまみえて、当下とうげに眼横鼻直なることを認得して、人にまんせられず。便乃すなわち、空手くうしゅにして郷に還る。所以ゆえ一毫いちごうも仏法無し。

永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山は道元、本尊は釈迦如来弥勒仏阿弥陀如来の三世仏である。


×「横眼鼻直」○「眼横鼻直」
以前、道元禅師関係の本をぱらぱら見ていたら、
「横眼鼻直」という言葉が目に飛び込んできた。
道元が入宋、修行の結果、大悟したということで、
日本に帰国したのだが、
弟子のひとりが、道元にその悟りの内容を質問したときに
道元は<「横眼鼻直(何故、顔の上に眼が横についており、
鼻がまっすぐに通っているのか)」がわかっただけだ>
とのみ答えたのだという。
弟子はそのあまりにもそっけない答えに、
困惑し、煙にまかれる思いがして、唖然としてしまった、
というエピソードの紹介であったように記憶する。
 道元が正法眼蔵「即心是仏」(:5)の中で「明らかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」と言った言葉は図6.4で表わすことが出来る。


  




  

図6.4において、点線の内部が心である脳神経系と不二一体化した外境(6境)を表わしている。
不二一体化しているといっても、脳内の神経回路内の情報として一体化しているだけである。
実際の山河大地日月星辰が一体化していないのは勿論のことである。実際の山河大地日月星辰などの外境は外界に厳然として存在している。
中期大乗仏教である唯識思想は識を重視するあまり、「唯識無境」として外界の存在を否定しているが、これは間違いである。
唯識思想が説く「唯識無境」の説は意識現象を重視するあまり陥った観念論であり、科学的には間違いである。外界の存在は否定できないからである。

_____

正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞうずいもんき)は、禅僧曹洞宗開祖道元禅師の2歳年長の弟子で、永平寺2世である孤雲懐奘が記した曹洞語録書である。嘉禎年間に成立した。
懐奘は約20年間にわたり師・道元に近時(随侍)し、道元が折にふれ弟子たちに説いた言葉や、道元との問答を克明に筆記したのが『正法眼蔵随聞記』である、懐奘没後に弟子たちがまとめた。道元の人となりや『正法眼蔵』を理解する上での基本文献である。

_____
只管打坐:
日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、  ──只管打坐(あるいは祇管打坐とも表記されます)──  と呼んでいます。
100分DE名著より

身心脱落:

《仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。》
《仏道を学ぶということは、自己を学ぶことだ。自己を学ぶというのは、自己を忘れること。自己を忘れるというのは、悟りの世界に目覚めさせられることである。悟りの世界に目覚めさせられるということは、自己および他己(他なる自己。すなわち自己のうちにある他人)を脱落させることである。悟りの痕跡すら残してはならぬ。しかも、その痕跡なき悟りを長時間にわたって保持し続けるのだ。》
(ひろさちや現代語訳、『[新訳]正法眼蔵』二〇一三年)

道心:
○○
《仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし。》
《仏道を求めようとすれば、まず道心を持たねばならぬ。しかし、道心のあり方を知っている人は少ない。よく知っている人に問うがよい。》
100分DE名著より

生死:
○○○
《生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどはず。》
《「迷いの中に悟りがあれば、迷いはなくなる」  また言う、 「迷いの中に悟りがなければ、迷いに迷うことはない」》
100分DE名著より


四摂法:
○○○○
四摂法(これは四摂事ともいいます)は、菩が実践すべき四つの徳目です。すなわち、「布施」「愛語」「利行」「同事」の四つ。これは、読者はすぐにお気づきになるでしょうが、すべて、  ──利他行──  です。



修証一等(弁道話より)
○○○○○
大悟するために修行するのではない 、悟りのなかにいる (仏である )からこそ修行できるのだ 。
道元はそれを 、
 ─ ─修証一等 ・修証不二 ・修証一如 ・本証妙修 ─ ─
と表現しました 。修行と悟り (証 )とは一つである 。 〝本証 〟とは 、われわれが本来悟っていることであり 、その悟りの上で修行するのが 〝妙修 〟です 。そうだとすれば 、修行とは 、禅堂にあって坐ることだけではありません 。行住坐臥 (歩き ・止まり ・坐り ・臥す )のすべてが修行です 。

100分DE名著より

山水経: 
○○○○○○
「山水経 」の巻は 、
而今の山水は 、古仏の道現成なり 。
で始まります。
…「一切の衆生」…道元は 、これを 「一切は衆生 」と読みました 。
道元においては 、まさに 、全宇宙が仏性なのです 。
100分DE名著より

有時:
○○○○○○○
「或る時」に対して、道元は「有る時」を言います。いま現在、そこに有る(存在する)時間です。
《いはゆる有時(うじ/ゆうじ)は 、時すでにこれ有なり 、有はみな時なり 。》
《〝有る時 〟というのは 、 「時 (現在 ) 」が 「有 (存在 ) 」であり 、 「有 (存在 ) 」が 「時 (現在 ) 」である 。》…
道元は 、時間というものは 「現在 」という意味なのだと言っているのです 。わたしたちはたいてい 、時間というものは 、 「過去 →現在 →未来 」へと流れていくものだと考えています 。しかし道元は 、そうではない 、 「現在 ・現在 ・現在 … … 」なのだと言っているのです 。

100分DE名著より

仏性:
○○○○○○○○
100分DE名著より

尽界(じんかい)はすべて客塵(きゃくじん)なし、直下(じきか)さらに第二人(だいににん)にあらず。  悉有(しつう)それ透体(とうたい)脱落なり

この世は、そのまますべて主体性そのものであって、対象となるようなものは一つもない。 「直下さらに第二人にあらず」  ただいま現在の、いまここに、第二人者、二人目の相手となるようなものはなく、ただ、すべて一人称の一人だけしかいない。天地の中に一人だけではありません。天地宇宙がただ一人、すべてを含んだただ一人のものとして、仏性をさらけ出している。もちろん草木も衆生、人間も私もあなたも、この悉有そのものであり、仏性そのものです。

栗田勇『道元の読み方』より

1980,p.34


75巻本[ソースを編集]

  1. 現成公案 ○
  2. 摩訶般若波羅蜜
  3. 佛性 ○○○○○○○○
  4. 身心學道
  5. 即心是佛
  6. 行佛威儀
  7. 一顆明珠
  8. 心不可得
  9. 古佛心
  10. 大悟
  11. 坐禪儀
  12. 坐禪箴
  13. 海印三昧
  14. 空華
  15. 光明
  16. 行持
  17. 恁麼
  18. 觀音
  19. 古鏡
  20. 有時 ○○○○○○○
  21. 授記
  22. 全機
  23. 都機
  24. 畫餠
  25. 谿聲山色
  26. 佛向上事
  27. 夢中説夢
  28. 禮拜得髓
  29. 山水經 ○○○○○○
  30. 看經
  31. 諸惡莫作
  32. 傳衣
  33. 道得
  34. 佛教
  35. 神通
  36. 阿羅漢
  37. 春秋
  38. 葛藤
  39. 嗣書
  40. 栢樹子
  41. 三界唯心
  42. 説心説性
  43. 諸法實相
  44. 佛道 ○○
  45. 密語
  46. 無情説法
  47. 佛經
  48. 法性
  49. 陀羅尼
  50. 洗面
  51. 面授
  52. 佛祖
  53. 梅花
  54. 洗淨
  55. 十方
  56. 見佛
  57. 遍參
  58. 眼睛
  59. 家常
  60. 三十七品菩提分法
  61. 龍吟
  62. 祖師西來意
  63. 發菩提心
  64. 優曇華
  65. 如來全身
  66. 三昧王三昧
  67. 轉法輪
  68. 大修行
  69. 自證三昧
  70. 虚空
  71. 鉢盂
  72. 安居
  73. 他心通
  74. 王索仙陀婆
  75. 出家

12巻本[ソースを編集]

  1. 出家功徳
  2. 受戒
  3. 袈裟功徳
  4. 發菩提心
  5. 供養諸佛
  6. 歸依佛法僧寶
  7. 深信因果
  8. 三時業
  9. 四馬
  10. 四禪比丘
  11. 一百八法明門
  12. 八大人覺 ☆☆

別巻[ソースを編集]

  1. 辦(辨)道話(弁道話、別本あり)○○○○○
  2. 四攝法(菩提薩埵四攝法)○○○○
  3. 法華轉法華
  4. 唯佛與佛
  5. 生死 ○○○
  6. 道心 ○○

その他[ソースを編集]

  1. 心不可得
  2. 重雲堂式
  3. 示庫院文

河出文庫:


☆☆
八 大人 覚(はち だいにん がく) - つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉
http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C8%AC%C2%E7%BF%CD%B3%D0
【定義】

大人が覚知するべき八種の法門を指しており、八念ともいう。日本曹洞宗でも枕経などで読誦する『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』では、釈尊最後の説法であるとされて詳しく説かれている。
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では95巻、12巻本では12巻。建長5年(1253)1月6日永平寺にて書かれた。

【内容】

①『遺教経』では、「八大人覚」として以下の項目を挙げている。

1・少欲(欲をわずかにす)
2・知足(足るを知る)
3・楽寂静寂静を楽[ねが]う)
4・勤精進精進を勤める)
5・不忘念(念を忘れず)
6・修禅定禅定を修める)
7・修智慧智慧を修める)
8・不戯論戯論せず)

なお、八大人覚(八念)の概念自体は、別の経典(『長阿含経』『阿那律八念経』等多数)にも見ることが出来るが、その内容は、それぞれ相違する場合がある。

謂わく八大人覚は、道、当に少欲なるべし。多欲は道に非ず。道、当に知足なるべし。厭きること無くんば道に非ず。道、当に閑静なるべし。衆を楽うは道に非ず。道、当に自守なるべし。戯笑は道に非ず。道、当に精進なるべし。懈怠は道に非ず。道、当に専念なるべし。多忘は道に非ず。道、当に定意なるべし。意乱るるは道に非ず。道、当に智慧なるべし。愚痴は道に非ず。 『長阿含経』巻9

道元禅師は、釈尊が最後に「八大人覚」を説かれたことを意識しながら、自らにとっても最後の『正法眼蔵』となる「八大人覚」巻を最晩年に、事実上最後の『正法眼蔵』として書かれている。涅槃に至るために守るべき八種の徳目を『仏遺教経』から引用し、さらに『大乗義章』巻13「八大人覚義」をもって説明を加えている。なお、一々の徳目を説き終わった道元禅師は、これが仏陀の教法として、縦横無尽に働くことを意識して、「八」という数字にすら把われないことを示す。

これ八大人覚なり。一一各具八、すなはち六十四あるべし。ひろくするときは無量なるべし、略すれば六十四なり。

そして、釈尊が亡くなる時に説かれた最後の教法であり、最後の到達点であることを強調しながら、まさに仏となるべき衆生は、必ず「八大人覚」を修行し、無上菩提を得て、それを他の衆生のために説くべきであると示された。

いま習学して生生に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏にひとしくしてことなることなからん。

道元禅師の直弟子である懐弉禅師は、同巻の奥書にて、道元禅師を追慕する者は、必ずこの巻を書写し護持するべきであると説いた。

所以に此の御草等は、先師最後の教敕也。我等不幸にも一百巻の御草を拝見せざることは、尤も恨むる所也。若し、先師を恋慕し奉らん人は、必ず此の巻を書して之を護持すべし。此れ、釈尊最後の教敕、且つ、先師最後の遺教也。

TABLE DES MATIERES


TABLE DES MATIERES
Avant-Propos 7
Théorie p.9
1Genjokoan La realisation du koan) :1           11
2Yuji(Le temps qu'il-y-a)  :20                          19
3Temporin (Le cercle des événements) :67    29
4Busshô (Le propre de Bouddha):3                33
5Koku (L'air-vide). :70           37
6Hakujushi (Le chene dans le jardin d'en face). :40     39
7Shinshingakudà (Etudier avec le corps-coeur) :4  43
8Butsudô (La voie de Bouddha) :44         45
9Bukkyô (L'enseignement de Bouddha) :34     49

Pratique p.51
10Zazenshin (Remède à la méditation) :12      53
11Senjô (purihcation) :54              61
12Kajô (La constance de la maison):59       71

Poésie p.77
13Gabyô (Le tableau d'un gâteau de riz) :24    79
14Ryugin (Le rugissement du dragon) :61     87
15Ganzei(Orbite):58              91
16Kuge (La neur du vide) :14           93

Choix thématique p.97
17Le mot et I'expression  Daute:38?,Sansuikyo:29,Eihei-koroku 99
18Non-penser  Zazenshin+:12               101
19La critique du spiritualisme  Bendowa,Bussho:3      102
20La vie et ]a mort  Zenki:22                104
21Le miroir.   Kokyo^:19                  105
22Pas de spéculation  ibid.                 106
23Les femmes.  Raihaikudoku:28              108
24Expliquer le reve dans un reve  Muchu-setsumu:27     109
25Entrelacs de la glycine.  Katsuto^:38           111
26L'éclosion d'une fleur.   Kuge:14              112
27peindre Ie printemps  Baika:53             113

Appendices :               115
Vie de Dogen.              117
Sur le bodhi.               121
Sur I'événement.             133
sur le zen et le bouddhisme de Kamakura  135
Carte de Chine              153
Glossaire.               157

1~16,2~34,3~55,4~75,河出文庫
TABLE DES MATIERES
Avant-Propos 7
Théorie p.9
1Genjokoan La realisation du koan) :1現成公案 ○1          11
4Busshô (Le propre de Bouddha):3佛性                    33
19La critique du spiritualisme  Bendowa,Bussho佛性:3      102
7Shinshingakudà (Etudier avec le corps-coeur) :4身心學道  43
10Zazenshin (Remède à la méditation) :12坐禪箴      53
18Non-penser  Zazenshin坐禪箴+:12               101
16Kuge (La neur du vide) :14空華           93
26L'éclosion d'une fleur.   Kuge空華:14              112__/二
21Le miroir.   Kokyo^古鏡:19                  105
22Pas de spéculation  ibid.                   106
2Yuji(Le temps qu'il-y-a)  :20有時                              19
20La vie et ]a mort  Zenki全機:22                104
13Gabyô (Le tableau d'un gâteau de riz) :24畫餠    79
24Expliquer le reve dans un reve  Muchu-setsumu夢中説夢:27     109
23Les femmes.  Raihaikudoku禮拜得髓×?:28            108
17Le mot et I'expression  Daute:38?,Sansuikyo山水經:29,Eihei-koroku 99
9Bukkyô (L'enseignement de Bouddha) :34佛教      49____/三
25Entrelacs de la glycine.  Katsuto^葛藤:38           111
6Hakujushi (Le chene dans le jardin d'en face). :40栢樹子     39
8Butsudô (La voie de Bouddha) :44佛道          45
27peindre Ie printemps  Baika梅花:53             113
11Senjô (purihcation) :54洗淨              61 ___/四
15Ganzei(Orbite):58眼睛              91
12Kajô (La constance de la maison):59家常       71
14Ryugin (Le rugissement du dragon) :61龍吟     87
3Temporin (Le cercle des événements) :67轉法輪       29
5Koku (L'air-vide). :70虚空               37
19La critique du spiritualisme  Bendowa弁道話,Bussho:3      102
Appendices :               115
Vie de Dogen.              117
Sur le bodhi.               121
Sur I'événement.             133
sur le zen et le bouddhisme de Kamakura  135
Carte de Chine              153
Glossaire.               157



UN ZEN OCCIDENTAL : SHOBOGENZO
http://www.zen-occidental.net/dogen/shobogenzo.html
I. Les soixante-quinze chapitres des anciens manuscrits (kyûsô) :
  • 1. Genjô kôan, "La présence des kôan", 1233.1
  • 2. Maka hannya haramitsu, "La vertu de grande sagesse", 1233.
  • 3. Busshô, "La nature de bouddha", 1241.4,19
  • 4. Shinjin gakudô, "L'étude de la voie par le corps et par l'esprit", 1242.7
  • 5. Sokushin zebutsu, "L'esprit même est le bouddha", 1239.
  • 6. Gyôbutsu igi, "Les attitudes majestueuses des bouddhas dans leur pratique", 1241.
  • 7. Ikka myôju, "Une perle brillante", 1238.
  • 8. Shin fukatoku, "L'esprit est insaisissable", 1241.
  • 9. Kobusshin, "L'esprit des anciens bouddhas", 1243.
  • 10. Daigo, "Le grand éveil", 1242.
  • 11. Zazengi, "Les règles de la méditation assise", 1243. Lire la traduction française.
  • 12. Zazenshin, "Précis de méditation assise", 1242.10,18
  • 13. Kaiin zammai, "Le samâdhi du sceau de l'océan", 1242.
  • 14. Kûge, "Les fleurs du vide", 1243.16,26
  • 15. Kômyô, "L'éclat lumineux", 1242.
  • 16. Gyôji, "La pratique assidue", (deux parties), 1242 et 1243.
  • 17. Immo, "Tel", 1242.
  • 18. Kannon, "Avalokitesvara", 1242.
  • 19. Kokyô, "L'ancien miroir", 1241.21,22
  • 20. Uji, "L’être-temps", 1240.2
  • 21. Juki, "La prédiction", 1242.
  • 22. Zenki, "La totale activité", 1242. Lire la traduction française.20
  • 23. Tsuki, "La pleine activité", 1243.
  • 24. Gabyô, "L'image d'un gâteau de riz", 1242.13
  • 25. Keisei sanshoku, "Le son de la vallée et la forme de la montagne", 1240.
  • 26. Bukkôjôji, "Dépasser le bouddha", 1242.
  • 27. Muchû setsumu, "Expliquer un rêve dans un rêve", 1242.24
  • 28. Raihai tokuzui, "Se prosterner et obtenir la moelle", 1240.23?
  • 29. Sansuikyô, "Le sûtra des montagnes et des rivières", 1240.17
  • 30. Kankin, "La lecture des sûtra", 1241.
  • 31. Shoaku makusa, "Ne commettre aucune mauvaise action", 1240.
  • 32. Den'e, "La transmission de la robe", 1240.
  • 33. Dôtoku, "Le savoir-dire", 1242.
  • 34. Bukkyô, "Les enseignements du Bouddha", 1241.9
  • 35. Jinzû, "Les pouvoirs merveilleux", 1241.
  • 36. Arakan, "L'arhat", 1242.
  • 37. Shunjû, "Le printemps et l'automne", 1244.
  • 38. Kattô, "Les emmêlements", 1243.25,17a?
  • 39. Shisho, "Le certificat de succession", 1241.
  • 40. Hakujushi, "Le cyprès", 1242.6
  • 41. Sangai yuishin, "Les trois mondes ne sont qu'esprit", 1243.
  • 42. Sesshin sesshô, "Expliquer l'esprit et expliquer la nature", 1243.
  • 43. Shohô jissô, "Le véritable aspect des dharma", 1243.
  • 44. Butsudô, "La voie du Bouddha", 1243.8
  • 45. Mitsugo, "La parole secrète", 1243.
  • 46. Mujô seppô, "La prédication de l'inanimé", 1243.
  • 47. Bukkyô, "Les écritures bouddhiques", 1243.9x
  • 48. Hosshô, "La nature de dharma", 1243.
  • 49. Darani, "Les dhârani", 1243.
  • 50. Semmen, "La toilette du visage", 1239.
  • 51. Menju, "la transmission directe", 1243.
  • 52. Busso, "Les bouddhas et les patriarches", 1241.23??
  • 53. Baika, "Les fleurs de pêcher", 1243.27
  • 54. Senjô, "La purification", 1239.11
  • 55. Jippô, "Les dix directions", 1243.
  • 56. Kembutsu, "Voir le bouddha", 1243.
  • 57. Henzan, "Les consultations", 1243.
  • 58. Ganzei, "La prunelle des yeux", 1243.15
  • 59. Kajô, "L'ordinaire de la maisonnée", 1243.12
  • 60. Sanjûshichihon bodaibumpô, "Les trente-sept rubriques de l'éveil", 1244.
  • 61. Ryûgin, "Le mugissement du dragon", 1243.14
  • 62. Soshi seirai i, "L'idée du maître-patriarche en venant de l'ouest", 1244.
  • 63. Hotsu mujôshin, "La production de l'esprit insurpassable", 1244.
  • 64. Udonge, "La fleur d'udumbara", 1244.
  • 65. Nyorai zenshin, "Le corps entier du tathâgata", 1244.
  • 66. Sammai ô zammai, "Le samâdhi roi des samâdhi", 1244.
  • 67. Tembôrin, "La mise en branle de la roue du dharma", 1244.3
  • 68. Daishugyô, "La grande pratique", 1244.
  • 69. Jishô zammai, "Le samâdhi de la réalisation par soi-même", 1244.
  • 70. Kokû, "L'espace vide", 1245.5
  • 71. Hatsuu, "Le bol", 1245.
  • 72. Ango, "La retraite", 1245.
  • 73. Tashintsû, "La pénétration de l'esprit d'autrui", 1245.
  • 74. Osaku sendaba, "Le roi qui demandait saindhava", 1245.
  • 75. Shukke, "Le renonçant", 1246.
II. Les douze chapitres des nouveaux manuscrits (shinsô) :
  • 1. Shukke kudoku, "Les mérites du renoncement", sans date.
  • 2. Jukai, "La réception des préceptes", sans date.
  • 3. Kesa kudoku, "Les mérites du kasâya", 1240.
  • 4. Hotsu bodaishin, "La production de l'esprit d'éveil", sans date.
  • 5. Kuyô shobutsu, "La vénération des bouddhas", sans date.
  • 6. Kie Buppôsôbô, "Prendre refuge dans les trois trésors", sans date.
  • 7. Jinshin inga, "La foi profonde dans la causalité", sans date.
  • 8. Sanjigô, "Les trois périodes du karma", sans date.
  • 9. Shime, "Les quatre chevaux", sans date.
  • 10. Shizen biku, "Le moine dans le quatrième dhyâna", sans date.
  • 11. Ippyaku hachi hômyômon, "Les cent huit portes de l'éveil", sans date.
  • 12. Hachi dainin gaku, "Les huit recommandations du grand homme", sans date.
III. Et neuf chapitres supplémentaires :
  • 1. Bendôwa, "Propos sur la négociation de la voie", 1231.19
  • 2. Jûundôshiki, "Règles pour la seconde salle des nuages", 1239.
  • 3. Hokke ten hokke, "La fleur de lotus tourne la fleur de lotus", 1241.
  • 4. Bodaisatta shishôbô, "Les quatre captations du bodhisattva", 1243.
  • 5. Jikuimmon,"Enseignements pour l’office", 1246.
  • 6. Shin fukatoku, "L'esprit est insaisissable (II)", sans date.
  • 7. Dôshin, "L’esprit de la voie", sans date.
  • 8. Shôji, "Les naissances et les morts", sans date.
  • 9. Yuibutsu yobutsu, "Seul un bouddha avec un bouddha", sans date.


75巻本___/河出文庫一[ソースを編集]

  1. 現成公案 ○1
  2. 摩訶般若波羅蜜
  3. 佛性 ○○○○○○○○4,19
  4. 身心學道7
  5. 即心是佛
  6. 行佛威儀
  7. 一顆明珠
  8. 心不可得
  9. 古佛心
  10. 大悟
  11. 坐禪儀
  12. 坐禪箴10,18
  13. 海印三昧
  14. 空華16,26
  15. 光明
  16. 行持____/二
  17. 恁麼
  18. 觀音
  19. 古鏡21,22
  20. 有時 ○○○○○○○2
  21. 授記
  22. 全機20
  23. 都機
  24. 畫餠13
  25. 谿聲山色
  26. 佛向上事
  27. 夢中説夢24
  28. 禮拜得髓23?
  29. 山水經 ○○○○○○17
  30. 看經
  31. 諸惡莫作
  32. 傳衣
  33. 道得
  34. 佛教9?_____/三
  35. 神通
  36. 阿羅漢
  37. 春秋
  38. 葛藤25,17?%%
  39. 嗣書
  40. 栢樹子6
  41. 三界唯心
  42. 説心説性
  43. 諸法實相
  44. 佛道 ○○8
  45. 密語
  46. 無情説法
  47. 佛經9×
  48. 法性
  49. 陀羅尼
  50. 洗面
  51. 面授
  52. 佛祖23??
  53. 梅花27
  54. 洗淨11
  55. 十方_____/四
  56. 見佛
  57. 遍參
  58. 眼睛15
  59. 家常12
  60. 三十七品菩提分法
  61. 龍吟14
  62. 祖師西來意
  63. 發菩提心
  64. 優曇華
  65. 如來全身
  66. 三昧王三昧
  67. 轉法輪3
  68. 大修行
  69. 自證三昧
  70. 虚空5
  71. 鉢盂
  72. 安居
  73. 他心通
  74. 王索仙陀婆
  75. 出家

12巻本____/五[ソースを編集]

  1. 出家功徳
  2. 受戒
  3. 袈裟功徳
  4. 發菩提心
  5. 供養諸佛
  6. 歸依佛法僧寶
  7. 深信因果
  8. 三時業
  9. 四馬
  10. 四禪比丘
  11. 一百八法明門
  12. 八大人覺 ☆☆

別巻[ソースを編集]

  1. 辦(辨)道話(弁道話、別本あり)○○○○○19
  2. 四攝法(菩提薩埵四攝法)○○○○
  3. 法華轉法華
  4. 唯佛與佛
  5. 生死 ○○○
  6. 道心 ○○

その他[ソースを編集]

  1. 心不可得
  2. 重雲堂式
  3. 示庫院文
%%
葛藤?
 Le mot et l'expression.
Quand l'expression s'exprime, la dé-expression ne s'exprime pas. En sachant que l'expression s'exprime, ne pas chercher à ce que la dé-expression se dé-exprime, c'est ne pas atteindre aux bouddhas émérites, ni à leur moelle.
(Quand Dharma a demandé à ses quatres disciples de s'exprimer, les trois premiers se sont exprimés par les mots, et Eka, le dernier, a fait un geste muet : il a fait trois prières devant son maître, et il a regagné sa place). Comment l'expression"trois prières debout à sa place" pourrait-elle être pareille à l'expression des trois autres peau-chair-os-moelle ? La dernière ne s'accouple pas avec la première, elle n'est pas incluse dans la première. Ici, le moi et l'autre, étant différents l'un et l'autre, se mettent face à face. C'est que le lui et l'autre, étant differents, se mettent face à face. Pour le moi, il y a l'expression et la dé-expression. Pour le lui, il y a l'expression et la dé-expression. Pour l'expression, il y a le soi et l'autre ; pour la dé-expression, il y a le soi et l'autre. (Daute).

99p

単語と表現。
用語を表現する場合、脱用語は発現されません。 式が発現していることを知って、 脱表現 脱 式は名誉仏像または その骨髄に 達成されていない こと を 求めていません 。
話すために彼の4弟子たちを尋ねたところ(ダルマ、 最初の3つは言葉で表現された、と慧可、最後は、 彼は彼のマスターの前に3の祈りをしたサイレントジェスチャーをし た 、と彼は彼を取り戻しました 場所)。 皮肉骨髄 どのように表現「彼の代わりに立っ3の祈り」は、 それが他の3皮膚の発現と同様にすることができますか? 後者は最初と対合しない、それは私が 最初にncluse ではありません 。 ここでは、自己とは異なり、 他方 は、他のは 、顔に顔を始めます。 それ、もう一方は、異なって、 顔に顔を入れている ということです 。 私にとっては、表現および脱 式が あります 。 それについては、表現および脱表現があります。 発現のために、自己と他者があります。 脱発現のために、自己と 他が あります 。 (Daute)。
三拝の礼

hi niku kotsu zui 皮肉骨髄 (lapeau, la chair, les os et la moelle) 

正法眼蔵「葛藤」巻(煩悩即菩提) : 和弘の観音歩道
http://blog.livedoor.jp/kazusa69/archives/52065295.html
葛藤とは「複雑にからまりあったくず」ということそうだ。い
わば因根生起の煩悩のことでもある。小乗仏教は、この葛藤の
根源を断ち切ることをことで解脱する。「煩悩を断じて涅槃を
得る」

しかし、大乗においては、葛藤(複雑にからまりあった煩悩・
生死)の中に菩提(悟り)、涅槃(寂静)を証得していく。
「生死即涅槃」「煩悩即菩提」の即の仏道である。

「葛藤」で言われる「皮肉骨髄」は、煩悩塗れの生死のことだ。

菩提達磨に三拝し、自己のいるべき位置によって立った慧可に、
菩提達磨は「汝は吾(わたし)の随を得た」と言って二祖とし
たとされるが、「皮肉骨髄」浅い深いの話でないという。ただ
慧可は無言でただ行じたことが〈禅の立場〉であるということ
だろう。

慧可は、自己の中の菩提達磨という仏性に礼拝したことになる。

禅の立場からすれば、今此処、この「皮肉骨髄」という実生活
の中において、ただ行を行じて菩提達磨を証得していくという
ことだろう。自己の仏性を今ここ如何に扇ぎ出すかである。

菩提達磨の悟りもまた無常で、今ここにおいて証得していく。
道元は「葛藤のまんまでいい」なんて不抜けたことは言ってい
ない。

 皮肉骨髄の葛藤の道理は、古仏の示衆する「汝得吾」の
 標準なり。この標準を工夫参究すべし。

とあるように、この煩悩塗れの娑婆世界で、今此処、菩提達磨
の無量の光明、自己の仏性の輝きをを証するということだろう。

それは、慧可がただ菩提達磨(仏性)を礼拝し、自己の現状を
ありのままに受け入れそれ徹したように、今此処に徹すること。
それが禅の標準であるという。

葛藤即菩提達磨。即の仏道を懇切丁寧に弟子に諭している。

____
38
『正法眼蔵』「葛藤」巻に於ける「伝」の論理 - つらつら日暮らし
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/3419ac469801f7180384eaca52c9b1dd
正法眼蔵』「葛藤」巻は、寛元元年(1243)7月7日宇治の興聖寺にて示されたものであり、興聖寺での『正法眼蔵』示衆の最後となった巻でもある。これ以降は、越前にて示衆等されていくのだが、そのような書誌学的なことはさておき、この「葛藤」という一巻について、しばらく拙僧は理解できなかった。その理由として、和辻哲郎氏の悪影響は、正直言って許し難いほどである。ご存じの方も多いと思うが、和辻哲郎氏は、日本精神を明らかにするために、道元禅師の宗教思想を読解しながら『沙門道元』(『日本精神史研究』所収)という文章を書いておられる。その中で、「葛藤」巻の読解も行われているのである。そこで、和辻氏が採り上げた「葛藤」の内容とは、煩悩と仏性という両者が具わることで矛盾的存在である我々自身が、どのように精神性を高め、修行を積極的に行うかということを明らかにするのだという。

ここに展開せられた葛藤の意義は、我々の言葉に訳すれば、イデーの弁証法的展開というに最も近いであろう。それは矛盾の纏繞を通じて伸びて行く。だから不断に抗立否定の動きを呼び起こしている。かかる論争は無限に論争を生ぜしむべき種子である。
    『日本精神史研究』岩波文庫、353頁


しかしながら、道元禅師の本意は、このような見解だったのだろうか?そして、少なくとも「葛藤」巻の冒頭でも「証伝」について詳しく示されているが、その後の内容からしても、和辻氏の見解は、やや学びが足りないと指摘せざるを得ない。この「葛藤」とは、「矛盾」という意味ではなくて、「伝える」ということと、「まとわりつく」ということが示されているのだ。「葛藤」という文字を見ていくと、それぞれ「葛」「藤」であり、ツタを持った植物で、自分自身の幹は非常に細いが、何かにまとわりつくことで自らを支え、そして地下から天までスッと伸びていくものでもある。

このスッとどこまでも伸びていくという直観から生まれたのが「つたへ(伝え)」という語である。この「つたへ」の「つた」と「蔦」は語幹が同じであり、その意味で「伝える」という現代語は、時間的には過去・現在・未来に伸びていく様子、空間的にも直線的に伸びていく様子ということになる。この直観を共有できなければ、「葛藤」という語については、全容を理解できないだろう。

この示衆、かつて古今の諸方に見聞せざるところなり、はじめて先師ひとり道示せり。葫蘆藤の葫蘆藤をまつふは、仏祖の仏祖を参究し、仏祖の仏祖を証契するなり。たとへば、これ以心伝心なり。

この示衆をよくよく参究してみれば、葛藤(葫蘆藤)が葛藤をまとわりつかせるということは、法を伝えている仏祖が、法を伝えている仏祖を参究し、証し究めることになる。これは、葛藤=煩悩を破壊する事という見解とは全く違う。むしろ、仏法が仏法にまとわりつくことで、それが「伝法」として、仏法が重層的、かつ連続的に伝承されていくことを示されたものであり、それを「以心伝心」というのである。

おほよそ諸聖ともに、葛藤の根源を截断する参学に趣向すといへども、葛藤をもて葛藤をきるを截断といふ、と参学せず、葛藤をもて葛藤をまつふ、としらず、いかにいはんや葛藤をもて葛藤に嗣続することをしらんや。嗣法これ葛藤としれるまれなり、きけるものなし。道著せる、いまだあらず。証著せる、おほからんや。

これは、先に挙げた葛藤=煩悩を破壊することが参学することではないということである。そうではなくて、葛藤が葛藤を切ることであり、葛藤をもって葛藤にまとわりつくのである。これは、葛藤として葛藤を受け嗣いでいくことになる。つまり、葛藤とは切ってはならないものであり、そもそも切れないものである。確かに、葛藤を切ることを截断といい、これは切ってもまた葛藤であるから、葛藤そのものは切れない。これは、以前このブログでも書いたが「仏法を批判するには仏法をもってせよ」ということであろう。だからこそ、仏法以外になりようがない。批判とは、非難や削除ではなくて、「選択」なのであり、この「選択」は、他の状況が一切現成できなくなったことを意味しない。たまたまそうなるという程度の「偶然性」を把握しておくべきである。

いま参学すべし、初祖道の汝得吾皮肉骨髄は祖道なり。門人四員、ともに得処あり、聞著あり。その聞著ならびに得処、ともに跳出身心の皮肉骨髄なり、脱落身心の皮肉骨髄なり。知見解会の一著子をもて、祖師を見聞すべきにあらざるなり。能所彼此の十現成にあらず。しかあるを、正伝なきともがらおもはく、四子おのおの所解に親疎あるによりて、祖道また皮肉骨髄の浅深不同なり。皮肉は骨髄よりも疎なり、とおもひ、二祖の見解すぐれたるによりて、得髄の印をえたり、といふ。かくのごとくいふいひは、いまだかつて仏祖の参学なく、祖道の正伝あらざるなり。

先に挙げたような、「非難や削除」については、この「正伝なきともがら」に相当することが明らかになるであろう。ただの「選択」であるべきが、そこに優劣であるとか、「必然性」を読み解く者、それが「正伝なきともがら」であり、独断の価値観を、仏法に投影しているに過ぎない。そして、それはあってはならないことである。むしろこの達磨の4人ともに、仏法を伝持しているのである。見解の出し方は偶然性で、具体的で、誰にも当て嵌まってしまう「正解」があるわけではない。

しるべし、祖道の皮肉骨髄は、浅深にあらざるなり。たとひ見解に殊劣ありとも、祖道は得吾なるのみなり。その宗旨は、得吾髄の為示、ならびに得吾骨の為示、ともに為人接人、拈草落草に足不足あらず。たとへば拈華のごとし、たとへば伝衣のごとし。四員のために道著するところ、はじめより一等なり。祖道は一等なりといへども、四解かならずしも一等なるべきにあらず。四解たとひ片片なりとも、祖道はただ祖道なり。

達磨大師の弟子達は、達磨大師からそれまでの修行で得た見解を提示せよといわれ、それぞれに様々な見解を顕したが、達磨大師はそれぞれ自分の皮・肉・骨・髄を得たとしたのである。後代の者は、ここから皮を得た道副の見解は皮相的なことであり、髄を得たとされた二祖慧可大師が真髄を得ていて勝れているとしたのである。いわば、ここには先に挙げた「独断の価値観の投影」が見られるのであるが、道元禅師は明確に、そのような価値観の投影を否定し、「祖道を得吾している」という事実だけを重んじたのである。さらに、この「祖道を得吾」することを、自ら道得するとなると、何をもって表現すれば良いのだろうか。道元禅師は次のようにされる。

おほよそ道著と見解と、かならずしも相委なるべからず。たとへば、祖師の、四員の門人にしめすには、なんぢわが皮吾をえたり、と道取するなり。もし二祖よりのち百千人の門人あらんにも、百千道の説著あるべきなり、窮尽あるべからず。門人ただ四員あるがゆえに、しばらく皮肉骨髄の四道取ありとも、のこりていまだ道取せず、道取すべき道取おほし
    下線は拙僧


この下線部に見るような、道取すべき道取は未だに継続的に表現すべきであると言えよう。何が、道取となるかは偶然的であるが、一度道取されれば、我々自身が法を伝持するという経験を形成し、その形成に於いて、新たな自己が形成されていく。経験の形成には、その調整にイメージを用いるが、イメージの形成には、様々な言語的要素、表現的要素が関わっていく。ただし、イメージやイメージ形成のための言語が仏法なのではなくて、経験そのものが仏法であり、その発現を「祖道の得吾」というべきであり、或いは法としての自己が法に関わっていく様子を持って「葛藤」とするべきなのである。

 先師天童古仏道わく「胡蘆藤種、胡蘆を纒う」と。
 これ曩祖の正眼のつたはれ、骨髄のつたはれる説法無情なり、一切説法無情なる道理によりて、無情説法なり、いはゆる典故なり。
    『正法眼蔵』「無情説法」巻46


無情が無情を説法し、無情が無情を問法するというとき、まさにそれこそが「葛藤」としての「伝」であり、この発動については、偶然性と必然性とが交わり、結果的に仏法者として生きるための不断の調整こそが、我々には求められる。今回提示した「葛藤」巻に見る「伝」の論理とは、実は「伝えるべき実体的なものがない」ことを示したのであり、むしろ何をもって「伝」とするかは、自己組織化の論理でもって捉えた方がよいということであった。

____

http://www7a.biglobe.ne.jp/~toku-cafe/bunko.html
●「土を喰う日々」 著者 水上 勉 昭和57年 8月25日発行 新潮文庫
 その副題に「わが精進十二ヵ月」とあるように、著者が仕事場としている軽井沢の住まいの一隅にある野菜畑(3畝というから約300平方メートル)で育てた季節の野菜を材料に精進に徹した料理を工夫した様を1月から12月に章立てして綴っている。九歳の時に禅宗寺院の小僧として入寺し、そこで精進料理を覚える。何もない寺の台所で、その時、畑でとれる野菜とあとは豆腐か油揚げを使って料理を工夫する。何もない台所から絞り出すことが精進で、料理は畑と相談してから決められる。このことから著者は精進料理とは、土を喰うものだと思うにいたり、旬を喰うこととはつまり土を喰うことととらえ、土にいま出ている菜だということで精進は生々してくると言う。何でも手に入る軽井沢での生活の中でも、少年の頃、寺での生活で培われた洗い水も惜しみ、芋の皮一切れだって無駄にせず、その材料を親しく見つめ、細かいところまで行き届いた心で扱う姿勢が貫かれている。文中に道元禅師の「典座教訓」%%%の文章が紹介されているが、まさにその教えを実践している。月ごとに紹介されている料理は、身近で素朴な素材を使った精進料理であるが、読んでいて自分も作って味わってみたくなるほど旨そうで、解説で丸元淑生氏が「一人の生活に根ざした料理人の書き上げた一冊の生活料理書であって実に学ぶところが多いのだ。(・・・しかもそこで開陳される知識が著者九歳の体験に基づいているあたりが、この本のすごいところで、あえて料理人といったのは、実際、十代の水上先生は、食事にうるさい禅寺のなかで、すでにひとかどの料理人だったと思われるからである。)」と記しているとおりである。

%%%
道元の著書『永平清規 (えいへいしんぎ) 』のなかの一編。道元 35歳のときの作と伝えられる。衆僧の修行をつつがなくさせるための食事を調製し万事に親切に注意深くすべきことを教え,宋の禅寺の模様,見聞を交えながら,この台所役の宗教的意義,重要性を説いている。

道元禅師と『典座教訓』 – 典座ネット
http://tenzo.net/?p=72
○道元禅師
永平寺の開祖、道元禅師(どうげんぜんじ)。鎌倉仏教の項で歴史の教科書にも登場するため、ほとんどの方がその名を聞いたことがあるでしょう。
しかし、道元禅師が『典座教訓(てんぞきょうくん)』という書を著し、「食」に関する金言を示されたことは、一般にはあまり知られていないようです。
典座(てんぞ)」とは、禅寺において「食」を司る重責を担う役僧のことです。その典座職の行うべき職責を、非常に細かく丁寧にお説き下さったのです。
今から750年以上も前に、一宗の開祖が、これほど親切に、また細やかに「食」について説かれたことに驚きと感動を覚えます。
典座ネットでは、食乱れる現代にこそ、あらためてこの名著を広く世に薦めたいと願って、サイトを運営しています。

典座 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/典座
典座(てんぞ)は禅宗寺院の役職の一つ。禅宗寺院で修行僧食事祖師への供膳を司る。六知事(ろくちじ)の第五位。
一般に炊事係は「飯炊き」「権助」などと呼ばれ、新米の役回りとされたり、低く見られがちである。しかし食事の調理、喫飯も重要な修行とする禅宗では、曹洞宗の開祖道元が求法のためで修行した際、二人の老典座との出会いから修行の本質に覚醒した故事から特に尊重され、重要な役職とされる。

故事[ソースを編集]

道元が『典座教訓』に記した体験は、以下のようなものである。
「宋の天童寺に留学中だった私(道元)はある夏の日、中庭で寺の老典座が海草を干しているのを見た。老人は眉は白く腰は曲がっていたが、炎天下に竹の杖をつき、汗だくになり苦しそうに働いていた。私は気の毒に思って近づき、年齢を聞くと老人は『68歳だ』と答えた。
『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』 老人は答えた。『他の者とやらは、私自身ではない』
『なぜ、今のような炎天の日中にされるのです』 老人は答えた。『今のほか、いつを待てと言うのか』
私はその場を離れた。そして廊下を歩きながら、典座職の重要さを考えたのであった」[1]

「また私が上陸許可を待って港の船の中にいた時、ある老僧が食材の買入れに港にやってきた。船室に招いて茶を勧め、話を聞くと『私は、阿育王寺の典座である。故郷を出て四十年、歳も六十を越えたが、これからまた20キロほど歩いて、食事の用意に寺まで帰らねばならぬ』
『飯の用意など誰かがやるでしょう。何か差し上げますので、ゆっくりしていかれては』
『それは駄目だ。外泊許可を貰っていないし、典座は老人にもできる修行、他人には譲れぬ』 
私は聞いた。『あなたほどのお年なのに、なぜ忙しく働いてばかりいて、坐禅したり先人の教えを学ばないのですか。それでいったい何のいいことがありましょう』
老僧は笑って言った。『外国からきたあなたは、どうやら何もわかっていないようだ』私はこれを聞き、大いに驚き、また恥じた。 そして老人は「もう日も暮れた。行かねばならぬ」と立ち上がり、寺へと帰っていった。 私が多少とも修行のことを知るようになったのは、実にこの老典座の恩によるのである」[2]

道元は日本に帰国してより建仁寺に留まったが、建仁寺の典座が食事の用意を軽く考え、職務を適当に行っていることを見、宋との落差を非常に遺憾とした。そして『典座教訓』を執筆し、典座職の重要性と、その職務要領を詳細に書き残した。 

現在の道場の典座職には、修行経験が深く篤実温厚な人物が任命される場合が多く、修行僧たちの相談役として敬慕される者が多いという。

出典[ソースを編集]

  1. ^ *道元『典座教訓・赴粥飯法』 講談社学術文庫 P69
  2. ^ *同上 P76

関連項目[ソースを編集]

外部リンク [ソースを編集]



108:(河出文庫には邦訳がない)
『礼拝得髄』後半 75巻本からは削除された「女人禁制」批判 : 坐禅と正法眼蔵 ドーゲン・サンガ赤心会幹事のブログ
http://doutetsu.exblog.jp/22907164/

『礼拝得髄』後半 75巻本からは削除された「女人禁制」批判


45分間の坐禅ののち「八.礼拝得髄」後半。

この巻で道元禅師は、
真実を得たものであれば誰であってもその得道、得髄に礼拝すべきである。
女性だからといって軽んずるのは全く誤りである、と説かれます。
188ページ「また和漢の古今に帝位にして女人あり」から。
皇帝になった女性が国土を所領し、人々が臣下となるのは、皇帝の位を尊ぶから。
比丘尼を敬うことも僧侶として釈尊の教えをはっきりつかんだときに敬うのである。
「またいま至愚のはなはだしき人おもふことは、女流は貪婬所対の境界にてありとおもふこころをあらためずして、これをみる」
女性は欲望の対象とであるからこれを忌み嫌う、というのは愚のきわみ。
そんなことを言うなら「一切男子もまたいむべきか」
男だろうと女だろうと幻だろうと、あらゆるものが情欲の対象・機縁になる。
「これみなすつべきか、みるべからざるか」
「おほよそ境をみてはあきらむることをならふべし、
何にかぎらず、何かにぶちあたったら逃げずにそれが何なのか学ばなくてはならない。

「日本国にひとつのわらひごとあり」
巻の終盤で、に道元禅師は「女人禁制の結界」を、女性というだけで排除するのは全く的外れなものと批判します。
権威が決めたことだから、古くからのしきたりだから、などという説明は
「わらはば人の腸(はらわた)もたえぬべし」

つまるところ
「一切衆生みな化をこうぶらん功徳を、礼拝恭敬すべし」
西嶋老師は解説されます。
釈尊はすべての人々を救おうと教化された。あれは救うけれどもこれは救わない、ということではない。
誰でも釈尊の教化を受けうるということ、そのことを敬うべきである。

なお、この日読んだ本巻の後半は現在の岩波文庫ではこのように説明されています。
「以下は75巻の正法眼蔵には諸本いずれも欠き、ただ永平寺に伝わる秘密(密)正法眼蔵の中だけに残ったものである。恐らく、75巻の正法眼蔵が整理された時、削られたものであろう」
なにか不都合があったのでしょうか。




現代語訳正法眼蔵 第1巻 | 西嶋 和夫 | 本 | Amazon.co.jp

www.amazon.co.jp/現代語訳正法眼蔵-第1巻.../487339..

正法眼藏 Shohogenzo
http://www.shomonji.or.jp/soroku/
第二十八 禮拜得髓

延應庚子明日記觀音導利興聖寶林寺

又、いま至愚のはなはだしき人おもふことは、女流は貪婬所對の境界にてありとおもふこころをあらためずしてこれをみる。佛子如是あるべからず。婬所對の境となりぬべしとていむことあらば、一切男子も又いむべきか。染汚の因となることは、男も境となる、女も境となる。非男非女も境となる、夢幻空花も境となる。あるいは水影をとして非梵行あることありき、あるいは天日をとして非梵行ありき。も境となる、鬼も境となる。そのかぞへつくすべからず。八萬四千の境界ありと云ふ、これみなすつべきか、みるべからざるか。
律云、男二所、女三所、おなじくこれ波羅夷不共住。
しかあれば、婬所對の境になりぬべしとてきらはば、一切の男子と女人と、たがひにあひきらうて、さらに得度の期あるべからず。この道理、子細に點すべし。
又、外道も妻なきあり。妻なしといへども、佛法に入らざれば邪見の外道なり。
又、日本國にひとつのわらひごとあり。いはゆる或は結界の地と稱じ、あるいは大乘の道場と稱じて、比丘尼女人等を來入せしめず。邪風ひさしくつたはれて、人わきまふることなし。稽古の人あらためず、博達の士もかんがふることなし。或は權者の所爲と稱じ、あるいは古先の遺風と號して、更に論ずることなき、笑はば人の腸も斷じぬべし。權者とはなに者ぞ。賢人か聖人か、か鬼か、十聖か三賢か、等覺か妙覺か。又、ふるきをあらためざるべくは、生死流轉をばすつべからざるか。…

正法眼藏禮拜得髓
仁治元年庚子冬節前日書于興聖寺


Les femmes.
Ce qui semble extraordinairement stupide, c'est de ne cesser de
considérer les femmes comme objet de désir et de volupté. Les
bouddhistes ne doivent pas être ainsi. Si elles doivent être abominées
comme objet de désir, pourquoi ne pas abominer tous les hommes ? Ce
qui devrait constituer la cause et les relations de la pollution, c'est aussi
bien les hommes comme objet que les femmes comme objet. Ce qui n'est
ni homme ni femme constituerait I'objet des relations de la pollution, le
rêve, le fantasme et la fleur du vide aussi. Il y en a qui se livrent à des
actes hors-la-voie, en voyant le reflet sur I'eau, il y en a qui les
pratiquent en voyant la lumière du soleil. Les deux seraient 1'objet. Les
démons seraient I'objet. Il y aurait des millions d'objets dans le monde.
Faudrait-il renoncer à tous ?
 Le sutra dit ''Les deux places masculines et les trois places
féminines (bouche, sexe, anus) sont également punissables (pârajika).
Ils ne permettent pas de résider (dans le monastère)."Ainsi, on se met à
exclure tous les objets du désir, tous les hommes et toutes les femmes
s'excluront entre eux. Ce qui leur enlèverait I'occasion de sortir de la
maison (NDT : se faire moine). Examinez bien ce principe.
Parmi les hétérodoxes, il y en a qui ne se marient pas. Mais bien
qu'ils ne soient pas mariés, sans entrer dans les événements de
bouddha, ils restent encore hétérodoxes."{Raillafkudoku)

Il y a une chose assez ridicule au Japon c'est que les gens en
prononçant les mots"monde clos"{simâbandlia),"lieu d'exercice du
grand véhicule"{dôjol ne permettent pas aux nonnes ni aux femmes d'y
entrer. Cette tradition vicieuse dure depuis tellement longtemps que les
gens ne s'en aperçoivent pas. Les pratiquants ne la rectifient pas ; les
savants n'y réfléchissent pas. Qu'ils disent que c'est un fait incarné de
Bouddha et que c'est une tradition des devanciers, voilà de quoi rire à
s'en tordre les entrailles ! (ibid.)

Ateliers d'étude du Shôbôgenzô avec Yoko Orimo





道元:( >>860追記 )

《時間とは「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」である。》
(『シネマ2』邦訳23頁)

《Le temps, c'est “ la réserve visuelle des événements dans leur justesse ”》
(Gilles Deleuze L’Image-temps. Cinéma 2
https://monoskop.org/images/8/85/Deleuze_Gilles_Cinema_2_L_Image-temps.pdf fr, 28p)

「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」は道元の『正-蔵-眼-蔵』の逐語訳。
ドゥルーズが『哲学とは何か』でも参照した以下の仏訳書名副題?でもある。
http://www.sudoc.fr/023101695
Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen
René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980).
ルネ・ド・セカティ,中村亮二 編訳

『正法眼蔵』をコンパクトに再構成している。理論、実践、詩、テーマ別、注、という順番。

参考:
正法眼蔵 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95%E7%9C%BC%E8%94%B5
UN ZEN OCCIDENTAL : SHOBOGENZO
http://www.zen-occidental.net/dogen/shobogenzo.html
正法眼藏 Shohogenzo
http://www.shomonji.or.jp/soroku/
Ateliers d'étude du Shôbôgenzô avec Yoko Orimo
http://www.shobogenzo.eu/

苦悩する三四郎の姿を描く場面が多くて沈みがちなシーンが多い中にあって、時折ユーモアのあるシーンが挿入される。
和尚と座禅を組み合って、眠りこけてしまった三四郎に対して和尚は朝になってもまだ座禅を組み続けていたのだが、目を覚ました三四郎がよくよく見ると、和尚も座禅を組みながら眠っていたなどは、その最たるもの。


988夜『正法眼蔵』道元|松岡正剛の千夜千冊
五「渓声山色」。前段に「香巌撃竹」(きょうげんきゃくちく)、後段に「霊雲桃花」を配した絶妙な章だ。百丈の弟子の香巌は師が亡くなったので兄弟子の為山(イはさんずい偏)を尋ねるのだが、そこで、「お前が学んできたものはここではいらない。父母未生已前に当たって何かを言ってみよ」と言われて、愕然とする。何も答えられないので、何かヒントがほしいと頼んだが、兄弟子は「教えることを惜しみはしないが、そうすればお前はいつか私や自分を恨むだろう」と突っぱねた。そのまま悄然として庵を結んで竹を植えて暮らしていたところ、ある日、掃除をしているうちに小石が竹に当たって激しい音をたてた。ハッとして香巌は水浴して禅院に向かって祈った。これが禅林に有名な香巌の撃竹である。「霊雲桃花」では、その竹が花になる。

参照:
葛藤集第百七十六則「香厳撃竹」


翻訳家のノート: 2010年10月
http://4652.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/index.html
 又香厳智閑(こうげんちかん)禅師、かつて大潙大円(だいいだいえん)禅師の会(え)に学道せしとき、大潙いはく、なんぢ聡明博解(そうめいはくげ)なり。章疏(しようじよ)のなかより記持(きじ)せず、父母未生(ふぼみしよう)以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得(ふて)なり。ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋(ひじん)するに、なほ茫然(ぼうぜん)なり。つひに火をもちて、年来のあつむる書をやきていはく、画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生(ししよう)に仏法を会(うい)せんことをのぞまじ、ただ行粥飯僧(あんしゆくはんそう)とならんといひて、行粥飯して年月をふるなり。行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益(あんいき)するなり。このくにの陪饌役送(ばいせんやくそう)のごときなり。
 かくのごとくして大潙にまうす、智閑は心神昏昧(しんしんこんまい)にして道不得(どうふて)なり、和尚わがためにいふべし。大潙のいはく、われ、なんぢがためにいはんことを辞せず。おそらくは、のちになんぢわれをうらみん。かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡をたづねて武当山にいたりて、国師の庵のあとにくさをむすびて為庵(いあん)す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併浄(ひんじん)するちなみに、かはらほとばしりて竹にあたりて、ひびきをなすをきくに、豁然(かつねん)として大悟す。沐浴し、潔斎(けつさい)して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでか、いまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。つひに偈をつくりていはく、
  一撃亡所知《一撃に所知を亡ず》、
  更不自修治《更に自ら修治せず》。
  動容揚古路《動容古路を揚ぐ》、
  不堕悄然機《悄然の機に堕せず》。
  処々蹤跡無《処々蹤跡無し》、
  声色外威儀《声色外の威儀なり》、
  諸方達道者《諸方達道の者》、
    咸言上々機《咸く上々の機と言はん》。
 この偈を大潙に呈す。大潙いはく、此子徹也《此の子、徹せり》。

正法眼藏 Shohogenzo
http://www.shomonji.or.jp/soroku/
第二十五 谿聲山色
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou25/
第二十五 谿聲山色

阿耨菩提に傳道受業の佛おほし、粉骨の先蹤不無なり。斷臂の宗まなぶべし、掩泥の毫髪もたがふることなかれ。各各の殼うるに、從來の知見解會に拘牽せられず、曠劫未明の事、たちまちに現前す。恁麼時の而今は、吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、佛眼も不見なり。人慮あに測度せんや。
大宋國に、東坡居士蘇軾とてありしは、字は子瞻といふ。筆海の眞龍なりぬべし、佛海の龍象を學す。重淵にも游泳す。曾雲にも昇降す。あるとき、廬山にいたりしちなみに、溪水の夜流する聲をきくに悟道す。偈をつくりて、常總禪師に呈するにいはく、
谿聲便是廣長舌、
山色無非淨身。
夜來八萬四千偈、
他日如何擧似人。
(谿聲便ち是れ廣長舌、山色淨身に非ざること無し、夜來八萬四千偈、他日如何が人に擧似せん。)
この偈を總禪師に呈するに、總禪師、然之す。總は照覺常總禪師なり、總は黄龍慧南禪師の法嗣なり、南は慈明楚圓禪師の法嗣なり。
居士、あるとき佛印禪師了元和尚と相見するに、佛印、さづくるに法衣佛戒等をもてす。居士、つねに法衣を搭して修道しき。居士、佛印にたてまつるに無價の玉帶をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。
しかあれば、聞谿悟道の因、さらにこれ佛流の潤なからんや。あはれむべし、いくめぐりか現身法の化儀にもれたるがごとくなる。なにとしてかさらに山色をみ、谿聲をきく、一句なりとやせん、半句なりとやせん、八萬四千偈なりとやせん。うらむべし、山水にかくれたる聲色あること。又よろこぶべし、山水にあらはるる時節因あること。舌相も懈倦なし、身色あに存沒あらんや。しかあれども、あらはるるときをやちかしとならふ、かくれたるときをやちかしとならはん。一枚なりとやせん、半枚なりとやせん。從來の春秋は山水を見聞せざりけり、夜來の時節は山水を見聞することわづかなり。いま、學道の菩薩も、山流水不流より學入の門を開すべし。
この居士の悟道せし夜は、そのさきのひ、總禪師と無法話を參問せしなり。禪師の言下に身の儀いまだしといへども、谿聲のきこゆるところは、逆水の波浪たかく天をうつものなり。しかあれば、いま谿聲の居士をおどろかす、谿聲なりとやせん、照覺の流瀉なりとやせん。うたがふらくは照覺の無法話、ひびきいまだやまず、ひそかに谿流のよるの聲にみだれいる。たれかこれ一升なりと辨肯せん、一海なりと朝宗せん。畢竟じていはば、居士の悟道するか、山水の悟道するか。たれの明眼あらんか、長舌相、淨身を急着眼せざらん。

又香嚴智閑禪師、かつて大大圓禪師の會に學道せしとき、大いはく、なんぢ聰明博解なり。章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。
香嚴、いはんことをもとむること數番すれども不得なり。ふかく身心をうらみ、年來たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。つひに火をもちて、年來のあつむる書をやきていはく、畫にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に佛法を會せんことをのぞまじ、ただ行粥とならんといひて、行粥して年月をふるなり。行粥といふは、衆に粥を行するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。
かくのごとくして大にまうす、智閑は身心昏昧にして道不得なり、和尚わがためにいふべし。
のいはく、われ、なんぢがためにいはんことを辭せず。おそらくはのちになんぢわれをうらみん。
かくて年月をふるに、大證國師の蹤跡をたづねて武當山にいりて、國師の庵のあとにくさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併淨するちなみに、かはらほとばしりて竹にあたりて、ひびきをなすをきくに、瞎然として大悟す。沐浴し、潔齋して、大山にむかひて燒香禮拜して、大にむかひてまうす、大大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。つひに偈をつくりていはく、
一撃亡所知、
更不自修治。
動容揚古路、
不墮悄然機。
處處無蹤跡、
聲色外威儀。
方達道者、
咸言上上機。
(一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず。動容古路を揚ぐ、悄然の機に墮せず。處處蹤跡無し、聲色外の威儀なり。方達道の者、咸く上上の機と言はん。)
この偈を大に呈す。
いはく、此子徹也(此の子、徹せり)。

又、靈雲志勤禪師は三十年の辨道なり。あるとき遊山するに、山脚に休息して、はるかに人里を望見す。ときに春なり。桃花のさかりなるをみて、忽然として悟道す。偈をつくりて大に呈するにいはく、
三十年來尋劍客、
幾囘葉落又抽枝。
自從一見桃花後、
直至如今更不疑。
(三十年來尋劍の客、幾囘か葉落ち又枝を抽んづる。一たび桃花を見てより後、直に如今に至るまで更に疑はず)。
いはく、從入者、永不退失(より入る者は、永く退失せじ)。
すなはち許可するなり。いづれの入者か從せざらん、いづれの入者か退失あらん。ひとり勤をいふにあらず。つひに大に嗣法す。山色の淨身にあらざらん、いかでか恁麼ならん。

長沙景岑禪師に、あるとふ、いかにしてか山河大地を轉じて自己に歸せしめん。
師いはく、いかにしてか自己を轉じて山河大地に歸せしめん。
いまの道取は、自己のおのづから自己にてある、自己たとひ山河大地といふとも、さらに所歸に礙すべきにあらず。

の廣照大師慧覺和尚は、南嶽の遠孫なり。あるとき、家の講師子とふ、淨本然、云何忽生山河大地(云何が忽ちに山河大地を生ずる)。
かくのごとくとふに、和尚しめすにいはく、淨本然、云何忽生山河大地。
ここにしりぬ、淨本然なる山河大地を山河大地とあやまるべきにあらず。しかあるを、經師かつてゆめにもきかざれば、山河大地を山河大地としらざるなり。

しるべし山色谿聲にあらざれば、拈花も開演せず、得髓も依位せざるべし。谿聲山色の功によりて、大地有同時成道し、見明星悟道する佛あるなり。かくのごとくなる皮袋、これ求法の志氣甚深なりし先哲なり。その先蹤、いまの人、かならず參取すべし。いまも名利にかかはらざらん眞實の參學は、かくのごときの志氣をたつべきなり。遠方の近來は、まことに佛法を求覓する人まれなり。なきにはあらず、難遇なるなり。たまたま出家兒となり、離俗せるににたるも、佛道をもて名利のかけはしとするのみおほし。あはれむべし、かなしむべし、この光陰ををしまず、むなしく黒暗業に賣買すること。いづれのときかこれ出離得道の期ならん。たとひ正師にあふとも、眞龍を愛せざらん。かくのごとくのたぐひ、先佛これを可憐憫者といふ。その先世に惡因あるによりてしかあるなり。生をうくるに爲法求法のこころざしなきによりて、眞法をみるとき眞龍をあやしみ、正法にあふとき正法にいとはるるなり。この身心骨肉、かつて從法而生ならざるによりて、法と不相應なり、法と不受用なり。宗師資、かくのごとく相承してひさしくなりぬ。菩提心はむかしのゆめをとくがごとし。あはれむべし、寶山にうまれながら寶財をしらず、寶財をみず、いはんや法財をえんや。もし菩提心をおこしてのち、六趣四生に輪轉すといへども、その輪轉の因、みな菩提の行願となるなり。
しかあれば、從來の光陰はたとひむなしくすごすといふとも、今生のいまだすぎざるあひだに、いそぎて發願すべし。
ねがわくはわれと一切衆生と、今生より乃至生生をつくして、正法をきくことあらん。きくことあらんとき、正法を疑著せじ、不信なるべからず。まさに正法にあはんとき、世法をすてて佛法を受持せん、つひに大地有ともに成道することをえん。
かくのごとく發願せば、おのづから正發心の因ならん。この心、懈倦することなかれ。
又この日本國は、海外の遠方なり、人のこころ至愚なり。むかしよりいまだ聖人むまれず、生知むまれず、いはんや學道の實士まれなり。道心をしらざるともがらに、道心ををしふるときは、忠言の逆耳するによりて、自己をかへりみず、他人をうらむ。
おほよそ菩提心の行願には、菩提心の發未發、行道不行道を世人にしられんことをおもはざるべし、しられざらんといとなむべし。いはんやみづから口稱ぜんや。いまの人は、實をもとむることまれなるによりて、身に行なく、こころにさとりなくとも、他人のほむることありて、行解相應せりといはん人をもとむるがごとし。迷中又迷、すなはちこれなり。この邪念、すみやかに抛すべし。
學道のとき見聞することかたきは、正法の心なり。その心は、佛佛相傳しきたれるものなり。これを佛光明とも、佛心とも相傳するなり。如來在世より今日にいたるまで、名利をもとむるを學道の用心とするににたるともがらおほかり。しかありしも、正師のをしへにあひて、ひるがへして正法をもとむれば、おのづから得道す。いま學道には、かくのごとくのやまふのあらんとしるべきなり。たとへば、初心始學にもあれ、久修練行にもあれ、傳道授業の機をうることもあり、機をえざることもあり。慕古してならふ機あるべし、謗してならはざる魔もあらん。兩頭ともに愛すべからず、うらむべからず。いかにしてかうれへなからん、うらみざらん。
いはく、三毒を三毒としれるともがらまれなるによりて、うらみざるなり。いはんやはじめて佛道を欣求せしときのこころざしをわすれざるべし。いはく、はじめて發心するときは、他人のために法をもとめず、名利をなげすてきたる。名利をもとむるにあらず、ただひとすぢに得道をこころざす。かつて國王大臣の恭敬供養をまつこと、期せざるものなり。しかあるに、いまかくのごとくの因あり、本期にあらず、所求にあらず、人天の繋縛にかかはらんことを期せざるところなり。しかあるを、おろかなる人は、たとひ道心ありといへども、はやく本志をわすれて、あやまりて人天の供養をまちて、佛法の功いたれりとよろこぶ。國王大臣の歸依しきりなれば、わがみちの見成とおもへり。これは學道の一魔なり、あはれむこころをわするべからずといふとも、よろこぶことなかるべし。
みずや、ほとけののたまはく、如來現在、猶多怨嫉(如來の現在にすら猶怨嫉多し)の金言あることを。愚の賢をしらず、小畜の大聖をあたむこと、理かくのごとし。又、西天の師、おほく外道二乘國王等のためにやぶられたるを。これ外道のすぐれたるにあらず、師に遠慮なきにあらず。
西來よりのち、嵩山に掛錫するに、梁武もしらず、魏主もしらず。ときに兩箇のいぬあり、いはゆる菩提流支三藏と光統律師となり。名邪利の、正人にふさがれんことをおそりて、あふぎて天日をくらまさんと擬するがごとくなりき。在世の達多よりもなほはなはだし。あはれむべし、なんぢが深愛する名利は、師これを糞穢よりもいとふなり。かくのごとくの道理、佛法の力量の究竟せざるにはあらず、良人をほゆるいぬありとしるべし。ほゆるいぬをわづらふことなかれ、うらむることなかれ。引導の發願すべし、汝是畜生、發菩提心と施設すべし。先哲いはく、これはこれ人面畜生なり。
又、歸依供養する魔類もあるべきなり。
前佛いはく、不親近國王、王子、大臣、官長、婆羅門、居士(國王、王子、大臣、官長、婆羅門、居士に親近せざれ)。
まことに佛道を學せん人、わすれざるべき行儀なり。菩薩初學の功、すすむにしたがうてかさなるべし。
又むかしより、天帝きたりて行者の志氣を試驗し、あるいは魔波旬きたりて、行者の修道をさまたぐることあり。これみな名利の志氣はなれざるとき、この事ありき。大慈大悲のふかく、廣度衆生の願の老大なるには、これらの障礙あらざるなり。
修行の力量おのづから國土をうることあり、世運の達せるに相似せることあり。かくのごとくの時節、さらにかれを辨肯すべきなり。かれに睡することなかれ。愚人これをよろこぶ、たとへば癡犬の枯骨をねぶるがごとし。賢聖これをいとふ、たとへば世人の糞穢をおづるににたり。

おほよそ初心の量は、佛道をはからふことあたはず、測量すといへどもあたらざるなり。初心に測量せずといへども、究竟に究盡なきにあらず。徹地の堂奥は初心の淺識にあらず。ただまさに先聖の道をふまんことを行履すべし。このとき、尋師訪道するに、梯山航海あるなり。導師をたづ、ね知識をねがふには、從天降下なり、從地湧出なり。
その接渠のところに、有に道取せしめ、無に道取せしむるに、身處にきき、心處にきく。若將耳聽は家常の茶なりといへども、眼處聞聲これ何必不必なり。見佛にも、自佛他佛をもみ、大佛小佛をみる。大佛にもおどろきおそれざれ、小佛にもあやしみわづらはざれ。いはゆる大佛小佛を、しばらく山色谿聲と認ずるものなり。これに廣長舌あり、八萬偈あり。擧似迥なり、見徹獨拔なり。このゆゑに俗いはく、彌高彌堅なり、先佛いはく、彌天彌綸なり。春松の操あり、秋菊の秀ある、是なるのみなり。
善知識この田地にいたらんとき、人天の大師なるべし。いまだこの田地にいたらず、みだりに爲人の儀を存ぜん、人天の大賊なり。春松しらず、秋菊みざらん、なにの草料かあらん、いかが根源を截斷せん。

又、心も肉も、懈怠にもあり、不信にもあらんには、誠心をもはらして前佛に懺悔すべし。恁麼するとき前佛懺悔の功力、われをすくひて淨ならしむ。この功、よく無礙の淨信進を生長せしむるなり。淨信一現するとき、自他おなじく轉ぜらるるなり。その利、あまねくにかうぶらしむ。その大旨は、
願はわれたとひ過去の惡業おほくかさなりて、障道の因ありとも、佛道によりて得道せりし、われをあはれみて、業累を解せしめ、學道さはりなからしめ、その功法門、あまねく無盡法界に充滿彌綸せらんあはれみをわれに分布すべし。
の往昔は吾等なり、吾等が當來は佛ならん。佛を仰觀すれば一佛なり、發心を觀想するにも一發心なるべし。あはれみを七通八達せんに、得便宜なり、落便宜なり。このゆゑに龍牙のいはく、
昔生未了今須了、
此生度取累生身。
古佛未悟同今者、
悟了今人古人。
(昔生に未だ了ぜずは今須らく了ずべし、此生に累生身を度取す。古佛も未悟なれば今者に同じ、悟了せば今人ち古人なり。)
しづかにこの因を參究すべし、これ證佛の承當なり。
かくのごとく懺悔すれば、かならず佛の冥助あるなり。心念身儀發露白佛すべし、發露のちから罪根をして銷殞せしむるなり。これ一色の正修行なり、正信心なり、正信身なり。
正修行のとき、谿聲谿色、山色山聲、ともに八萬四千偈ををしまざるなり。自己もし名利身心を不惜すれば、谿山また恁麼の不惜あり。たとひ谿聲山色八萬四千偈を現成せしめ、現成せしめざることは夜來なりとも、谿山の谿山を擧似する盡力未便ならんは、たれかなんぢを谿聲山色と見聞せん。

正法眼藏谿聲山色第二十五

爾時延應庚子結制後五日在觀音導利興聖寶林寺示衆
元癸卯結制前佛誕生日在同寺侍司書寫之 懷弉
 ____

禅語に親しむ  平成09年度
http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/zen/familiarity/h09.html

喫茶去(きっさこ)(著・神戸信寅)

お茶には、栄西の『喫茶養生記』を待つまでもなく、古くから効用や功徳が言われています。その為、喫茶の風習が広まると共に、茶の製法が発達しました。さらに、禅院で茶が珍重されるようになると、仏道修行と深い関わりをもつようになりました。 ところで、この趙州(じょうしゅう)の「喫茶去」も、喫茶の風習が既に禅院の修行生活の中にとけこんでいたことを物語るものといえます。この有名な趙州の「喫茶去」の出典はといえば、『五灯会元』の趙州の章に、新しく修行にやってきた僧に趙州は、いつも「曽(かつ)て此間(すかん)に至るや」と、つまり「まえにここにやって来たことがありますか」と問うのを常としていました。新到の僧が「曽到(はい、あります)」と答えても、「不曽到(いや、ありません)」と答えても、趙州はきまって「喫茶去」と応答したということです。そして、そのことに不審をいだいた寺の院主がそのわけを聞くと、趙州は「院主さん」と呼びかけた。この呼びかけに思わず院主が「はい」と応ずると、趙州はすかさず「喫茶去」といわれたということによります。

一般に「去」は助字で意味はなく、「まあ、お茶をおあがり」とでもいった意といわれています。

一方、『禅語辞典』をみると、文字どおり「喫茶し去れ」と読み、「茶を飲んでこい」、「お茶を飲みに行け」の意と説明しています。どちらにしても、お茶を喫することには変わりはありません。お茶を喫することは、我々も常日頃人に会うと「お茶でも飲もうか」とか、訪問客が来ると「お茶でもどうぞ」と、まずいいます。お茶のもてなしがあればこそ、会話も弾み、互いのコミュニケーションもうまくいくものです。お茶が無いと「無茶苦茶」という言葉もあるように、意思の疎通がうまくいかないということに成りかねません。人によっては、お酒や葡萄酒の方がと思う人もいるかもしれませんが、親睦をはかる懇話会はできますが、ややもすると大トラになって話が脱線しかねません。筋道の通った会話ともなると、まず、お茶でも飲み、惺惺著(せいせいじゃく)と目を覚ましておくことの方がよいかと思います。

特に、禅門では「茶」を行ずることが大切な行持となっています。例えば、修行僧の第一座である首座(しゅそ)和尚の法戦にちなみ、まず本則を大衆(だいしゅ)に披露する時に行われる「本則茶」や、僧堂内で茶を飲む儀式である「行茶」等があります。また二祖三仏忌や各寺の開山忌等、重要な法要にあたって、特に供養する意味で「特為献茶」の式があるというように、禅門ではお茶を喫しお茶を供することに特別な意義を認めています。

道元禅師がこの趙州の「喫茶去」の問答に対して、『正法眼蔵』「家常(かじょう)」の巻で趙州が新しくやってきた僧にいつも「曽て此間に到るや」と、いっていた「此間(ここ)」は跳脱した此間であるから、「曽到(来たことがある)であり「不曽到(来たことがない)」であるといっている。いわゆる此間に「曽到」・「不曽到」することが問題なのではなく、「喫茶去」というお茶を飲むという日常の振る舞い自体が問題であり、そこに仏祖の家風があることを示しております。道元禅師の言葉をかりれば、「しかあれば、仏祖の家常は喫茶喫飯のみなり」ということであります。(短期大学教授)

。。。。。

第五十九 家常
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou59/index.html
...
趙州眞際大師、問新到曰、曾到此間否(趙州眞際大師、新到に問うて曰く、曾て此間に到れりや否や)。
曰、曾到。
師曰、喫茶去。
又問一(又、一に問ふ)、曾到此間否。
曰、不曾到。
師曰、喫茶去。
院主問師、爲甚曾到此間也喫茶去、不曾到此間也喫茶去(院主、師に問ふ、甚と爲てか曾到此間も喫茶去、不曾到此間も喫茶去なる)。
師召院主(師、院主を召す)。
主應諾(主、應諾す)。
師曰、喫茶去。
いはゆる此間は、頂にあらず、鼻孔にあらず、趙州にあらず。此間を跳するゆゑに曾到此間なり、不曾到此間なり。遮裏是甚麼處在、祗管道曾到不曾到なり。このゆゑに、 先師いはく、誰在畫樓沽酒處、相邀來喫趙州茶(誰か畫樓沽酒の處に在つて、相邀へ來つて趙州の茶を喫せん)。
しかあれば、佛の家常は喫茶喫のみなり。

正法眼藏家常第五十九

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16 Comments:

Blogger yoji said...

NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズのABC…"アベセデー ル"("Abécédaire"deGilleDeleuze1988–1989)
:(http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/abecedaire-de-gille-deleuze.html#)
http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/abecedaire-de-gille-deleuze.html#z



 では Wに移りましょう
Wは何もないだろう
 ウィ卜ゲンシュタインです
それについては話したくない
あれは哲学の崩壊だ
学派というもののいい例だろう
哲学の退化と言うほかない
ウィ卜ゲンシュタインに関わることは もう 本当に嘆かわしい
彼らが作ったのは恐怖の体系だ
”何か新しいことをする”
そういう口実で一
豪勢な箱の中に貧相なものが 詰め込まれている
あれは...
あの危険を言い表す言葉はないね
この危険はしょっちゅうあるものだ だが深刻な問題なんだ
ウィ卜ゲンシュタイン派というのは 本当にイヤな奴らなんだ
彼らは何もかもを壊してしまう
彼らが勝利をおさめたら まさしく哲学の殺害だ
彼らは哲学を殺害する暗殺者だ
 深刻ですね
そうだ
十分に注意しないとね
___________

X,Y
Xは未知数で一
Yは言葉にできません
ですから最後の文字に移ります
____________


 Zです
ああ いいね
“怪傑ゾロ”ではありません
 Zというと ゾロを思い出しますけれど
 そうではなくて
 進路変更やひらめきの話です
 偉大な哲学者の名前にはZの文字が
 禅 ツァラ卜ゥス卜ラ ライプニッツ スピノザ
 二一チェ ベルクゾン そしてもちろん ドゥルーズ
君は冗談が得意だね ベルクソンじゃなくてベルク ゾ ンとは
それに私についても 素敵なことを言ってくれた
Zはすばらしい文字だ ここからAに戻れる
ハエの話をしよう ハエの禅だ
ハエのジクサグの動き
Zはジグサグで しがもジグサグは最後の単語だ
ジグサグのあとは単語がない そこで終わるのはいいね
では Zでは 何が起こっているのか?
禅(Zen)という語は鼻(NeZ)という語の反対だね
これもジクサグ運動だ
あのハエのジグサグ運動とは 何なのか?
あれは世界の想像をつかさどった 最初の運動だ
最近私もみんなみたいに一
ビッグバンについての本を読んでいる
宇宙の創造とか 無限曲線といった話だ
ビッグバンは どうやって起こったか?
物事の起源にはビッグバンのような 大爆発などない Zがあるんだ
 ハエのZ そしてビッグバンということでしたが
そうビッグバンね
ビッグバンじゃなくてZのことを考えないといけない
Zというのは実際 禅であり一
飛んでいるハエの動きだが これはどういうことなのか?
ジグザクの話というのは 先ほど言っていた一
普遍の話と一緒だ
普遍などなく 特異性の集合だけがある
バラバラの特異性を どう関係づけるかが重要だ
物理学の用語で言うと 諸々の “ポテンシャル"をどう関係づけるか
ポテンシャルでいっぱいのカオスというのを想像できる
それらのポテンシャルを どう関係づけるか?
何という分野だったか思い出せないが とても気に入った用語があった
自分の本でも使ったんだが こんな話だ一
二つのポテンシャルの間で一
"暗き先触れ"と 呼ばれる現象が起こる
"暗き先触れ"は 異なったポテンシャルを関係づける
"暗き先触れ"の動きがあると一
二つのポテンシャルが反応し一
二つの間で 目に見える出来事が閃光を放つ
きらめきだ
"暗き先触れ”が まずあり 次いで きらめきが起こる
世界もこんな風にして生まれた
目には見えない 暗き先触れがあり一
そしてきらめきが照らし出す これが世界だ
思考というのはそういうものだし 哲学もそうだ
これが偉大なるZだね
禅の知恵もそうだ
賢者は"暗き先触れ"であり 次いで 棒の一撃がある
禅の師匠は棒の一撃を 配分することに時間を使う
棒の一撃はきらめきで あれが物事を見るのを可能にする
さて そろそろ終わりかな
 お名前にZが入っていて 嬉しく思われますか?
嬉しいよ
よし
 終わりです
このイン夕ビューができて とても満足だ
死後の公開だったね
 はい 公開はあなたの死後です
みんなどうもありがとう

8:18 午後  
Blogger yoji said...


道元:

ドゥルーズ『哲学とは何か』(原著1991年刊)の後半部はABC(1988年収録)と内容が重なる。
冒頭注のウィトへの記述から他者論としての認識が深まっているのもわかる。
また、#2の注2で道元に触れている。

《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)reserve」を引き合いに出している日本の僧、
道元のテクストをも参照されたい。》(邦訳文庫版『哲学とは何か』370頁#2注2)

《…訳者は、そのほかにまた、日本思想に興味があるかとドゥルーズに尋ねてみた。
ドゥルーズは、ちょっと困った顔をして、はにかみながら「ドーゲンヌ?」と言って
肩をすくめた。きっと「道元」を言わんとしたのであろう…》邦訳DR解説より

《日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、  ──只管打坐(あるいは祇管打坐とも表記されます)──  と呼んでいます。》ひろさちや『現代語訳 正法眼蔵』より

《「山水経 」の巻は 、而今の山水は 、古仏の道現成なり 。で始まります。
…「一切の衆生」…道元は 、これを 「一切は衆生 」と読みました 。
…道元においては 、まさに 、全宇宙が仏性なのです 。》100分DE名著道元『正法眼蔵』より

参考:
以下、ドゥルーズのABC…"アベセデール"Zより、
《…物事の起源にはビッグバンのような 大爆発などない。Z(=ジグザグ運動)があるんだ…

普遍の話と一緒だ 。普遍などなく 特異性の集合だけがある。バラバラの特異性をどう

関係づけるかが重要だ。物理学の用語で言うと 諸々の “ポテンシャル"をどう関係づけるか。

ポテンシャルでいっぱいのカオスというのを想像できる。

それらのポテンシャルをどう関係づけるか?…

"暗き先触れ”が まずあり 次いで きらめきが起こる。世界もこんな風にして生まれた。
目には見えない 暗き先触れがあり一そしてきらめきが照らし出す これが世界だ。
思考というのはそういうものだし 哲学もそうだ 。これが偉大なるZだね。
禅の知恵もそうだ。賢者は"暗き先触れ"であり 次いで 棒の一撃がある。
禅の師匠は棒の一撃を 配分することに時間を使う。
棒の一撃はきらめきで あれが物事を見るのを可能にする …》

7:02 午前  
Blogger yoji said...


道元:

ドゥルーズ『哲学とは何か』(原著1991年刊)の後半部はABC(1988年収録)と内容が重なる。
冒頭注のウィトへの記述から他者論としての認識が深まっているのもわかる。
また、#2の注2で道元に触れている。

《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)reserve」を引き合いに出している日本の僧、
道元のテクストをも参照されたい。》(邦訳文庫版『哲学とは何か』370頁#2注2)

《…訳者は、そのほかにまた、日本思想に興味があるかとドゥルーズに尋ねてみた。
ドゥルーズは、ちょっと困った顔をして、はにかみながら「ドーゲンヌ?」と言って
肩をすくめた。きっと「道元」を言わんとしたのであろう…》邦訳DR解説より

《日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、
仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、  ──只管打坐(あるいは祇管打坐とも
表記されます)──  と呼んでいます。》ひろさちや『現代語訳 正法眼蔵』より

《「山水経 」の巻は 、而今の山水は 、古仏の道現成なり 。で始まります。…「一切の衆生」
…道元は 、これを 「一切は衆生 」と読みました 。…道元においては 、まさに 、全宇宙が
仏性なのです 。》100分DE名著道元『正法眼蔵』より

参考:以下、ドゥルーズのABC…"アベセデール"Zより
《…物事の起源にはビッグバンのような 大爆発などない。Z(=ジグザグ運動)があるんだ…
普遍の話と一緒だ 。普遍などなく 特異性の集合だけがある。バラバラの特異性をどう
関係づけるかが重要だ。物理学の用語で言うと 諸々の “ポテンシャル"をどう関係づけるか。
ポテンシャルでいっぱいのカオスというのを想像できる。
それらのポテンシャルをどう関係づけるか?…
"暗き先触れ”が まずあり 次いで きらめきが起こる。世界もこんな風にして生まれた。
目には見えない 暗き先触れがあり一そしてきらめきが照らし出す これが世界だ。
思考というのはそういうものだし 哲学もそうだ 。これが偉大なるZだね。
禅の知恵もそうだ。賢者は"暗き先触れ"であり 次いで 棒の一撃がある。
禅の師匠は棒の一撃を 配分することに時間を使う。
棒の一撃はきらめきで あれが物事を見るのを可能にする …》

7:03 午前  
Blogger yoji said...



道元:

ドゥルーズ『哲学とは何か』(原著1991年刊)の後半部はABC(1988年撮影)と内容が重なる。
冒頭注のウィトへの記述から他者論としての認識が深まっているのもわかる。
また、#2の注2で道元に触れている。

《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)reserve」を引き合いに出している日本の僧、
道元のテクストをも参照されたい。》(邦訳文庫版『哲学とは何か』370頁#2注2)

《…訳者は、そのほかにまた、日本思想に興味があるかとドゥルーズに尋ねてみた。
ドゥルーズは、ちょっと困った顔をして、はにかみながら「ドーゲンヌ?」と言って
肩をすくめた。きっと「道元」を言わんとしたのであろう…》(邦訳DR解説より)

《…物事の起源にはビッグバンのような 大爆発などない。Z(=ジグザグ運動)があるんだ…
普遍の話と一緒だ 。普遍などなく 特異性の集合だけがある。バラバラの特異性をどう
関係づけるかが重要だ。物理学の用語で言うと 諸々の “ポテンシャル"をどう関係づけるか。
ポテンシャルでいっぱいのカオスというのを想像できる。
それらのポテンシャルをどう関係づけるか?…
"暗き先触れ”が まずあり 次いで きらめきが起こる。世界もこんな風にして生まれた。
目には見えない 暗き先触れがあり一そしてきらめきが照らし出す これが世界だ。
思考というのはそういうものだし 哲学もそうだ 。これが偉大なるZだね。
禅の知恵もそうだ。賢者は"暗き先触れ"であり 次いで 棒の一撃がある。
禅の師匠は棒の一撃を 配分することに時間を使う。
棒の一撃はきらめきで あれが物事を見るのを可能にする …》
(ドゥルーズのABC…"アベセデール"Zより)

参考:
《日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、
仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、  ──只管打坐(あるいは祇管打坐とも
表記されます)──  と呼んでいます。》(ひろさちや『現代語訳 正法眼蔵』より)

《「山水経 」の巻は 、而今の山水は 、古仏の道現成なり 。で始まります。…「一切の衆生」
…道元は 、これを 「一切は衆生 」と読みました 。…道元においては 、まさに 、全宇宙が
仏性なのです 。》(100分DE名著道元『正法眼蔵』より)

7:07 午前  
Blogger yoji said...

只管打坐:
日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、  ──只管打坐(あるいは祇管打坐とも表記されます)──  と呼んでいます。
100分DE名著より

身心脱落:

《仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。》
《仏道を学ぶということは、自己を学ぶことだ。自己を学ぶというのは、自己を忘れること。自己を忘れるというのは、悟りの世界に目覚めさせられることである。悟りの世界に目覚めさせられるということは、自己および他己(他なる自己。すなわち自己のうちにある他人)を脱落させることである。悟りの痕跡すら残してはならぬ。しかも、その痕跡なき悟りを長時間にわたって保持し続けるのだ。》
(ひろさちや現代語訳、『[新訳]正法眼蔵』二〇一三年)

10:23 午後  
Blogger yoji said...

『ドゥルーズ――没後10年、入門のために』河出書房新社 : ウラゲツ☆ブログ
http://urag.exblog.jp/2353243/
『ドゥルーズ――没後10年、入門のために』河出書房新社
a0018105_2222012.jpg河出書房新社さんの「道の手帖」シリーズの1冊として、『ドゥルーズ――没後10年、入門のために』が刊行されました。対談やインタビュー、ブックガイドなど盛りだくさんな一冊です。

05年10月刊 A5判並製192頁 本体1500円 ISBN4-309-74005-7

目次:

【レクチャー】
「はじめての読者のためのドゥルーズ哲学入門」松本潤一郎

【ドゥルーズ完全著作解題】
『経験論と主体性』『ニーチェと哲学』『カントの批判哲学』・・・大山載吉
『ベルクソンの哲学』『シネマ 1・2』・・・大原理志
『プルーストとシーニュ』・・・小一原健
『マゾッホとサド』『アンチ・オイディプス』『ペリクレスとヴェルディ』『批評と臨床』・・・松本潤一郎
『差異と反復』・・・毬藻充
『スピノザと表現の問題』『ドゥルーズの思想』・・・江川隆男
『意味の論理学』『重合』『消尽したもの』・・・長島確
『カフカ』・・・福井麻木
『千のプラトー』・・・宇城輝人
『感覚の論理』・・・矢野静明
『フーコー』『記号と事件』・・・増田靖彦
『襞』『無人島』『狂人の二つの体制』・・・國分功一郎
『哲学とは何か』・・・鈴木創士

【インタビュー】
「思考の鞭打ち――ジル・ドゥルーズ『アベセデール(L'Abecedaire)』について」クレール・パルネ (聞き手=エルヴェ・オヴロン+シリル・ネラ、訳=廣瀬純)

【論考・エッセイ】
「ドゥルーズと新しさ」小沢秋広
「巷のドゥルーズ――あるいは「活動」から「運動」への途」高祖岩三郎
「ドゥルーズと死の哲学」江川隆男
「インドラを!」長原豊
「シネマを訳しながら、心をよぎること」財津理
「ドゥルーズ&ガタリの非人間主義へ向けてのメモ」鈴木泉
「ドゥルーズ的政治学とは何か、何であるべきか」檜垣立哉
「サーフィンの世紀(序章)」廣瀬純
「〈問題〉の感覚――ドゥルーズのプラトン主義」横手健

【討議】
「管理権力から「来るべき民衆」へ――ドゥルーズを実践的に読むために」酒井隆史+萱野稔人+松本潤一郎

【対談】
「ドゥルーズのマテリアリズムとは何か――死活を問う哲学」宇野邦一+前田英樹

【翻訳・未邦訳論考】
「意味と諸価値 (1959)」ジル・ドゥルーズ (訳=三輪誠一郎)
「ルクレティウスと自然主義 (1961)」ジル・ドゥルーズ (訳=大山載吉)

9:26 午前  
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【ドゥルーズを読むためのブックガイド】
ルクレティウス『物の本質について』岩波文庫/クリュシッポス『初期ストア派断片集』京都大学学術出版会/プロティノス『エンネアデス』中央公論社/道元『正法眼蔵』河出文庫ほか/ドゥンス=スコトゥス『存在の一義性』哲学書房/スピノザ『エチカ』岩波文庫/ライプニッツ『モナドロジー』中央公論新社/ヒューム『人性論』岩波文庫/ルソー『社会契約論』岩波文庫ほか/フーリエ『四運動の原理』現代思潮新社/カント『判断力批判』岩波文庫/キルケゴール『反復』岩波文庫/ニーチェ『ツァラトゥストラ』中公文庫ほか/マルクス『資本論』国民文庫ほか/ベルクソン『記憶と生』未知谷/ジェイムズ『プラグマティズム』岩波文庫/パース『連続性の哲学』岩波文庫/ホワイトヘッド『過程と実在』松籟社/ペギー『歴史との対話』中央出版社/タルド『世論と群集』未来社/ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫/ヴォリンガー『抽象と感情移入』岩波文庫/サルトル『自我の超越 情動論素描』人文書院/アクセロス『遊星的思考へ』白水社/フーコー『言葉と物』『性の歴史』新潮社/クラストル『国家に抗する社会』水声社/ヴィリリオ『速度と政治』平凡社ライブラリー/ガタリ『カオスモーズ』河出書房新社/アガンベン『バートルビー 偶然性について』月曜社/フロイト『自我論集』ちくま学芸文庫/シュレーバー『回想録』平凡社ライブラリー/ライヒ『ファシズムの大衆心理』せりか書房/レイン『引き裂かれた自己』みすず書房/ラカン『エクリ』弘文堂/ヘルダーリン『詩集』岩波文庫/クライスト『チリの地震』河出文庫/マゾッホ『残酷な女たち』河出文庫/カフカ『変身』『城』新潮文庫ほか/カネッティ『群集と権力』法政大学出版局/ゴンブロヴィッチ『ポルノグラフィア』河出書房新社/レルネット=ホレーニア『白羊宮の火星』福武文庫/プルースト『失われた時を求めて』ちくま文庫など/アルトー『ロデーズからの手紙』白水社/ジャリ『超男性』白水社uブックス/ミショー『魔法の国で』青土社/クロソウスキー『ディアーナの水浴』水声社/トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』岩波書店/ホイットマン『自選詩集』岩波文庫/メルヴィル『白鯨』『バートルビー』筑摩書房ほか/フィッツジェラルド『崩壊』荒地出版社/ミラー『マルーシの巨像』水声社/ロレンス『現代人は愛しうるか』ちくま学芸文庫/ウルフ『波』みすず書房/ペソア『不穏の書、断章』思潮社/ベケット『いざ最悪の方へ』書肆山田/蓮実重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』河出文庫/浅田彰『構造と力』勁草書房/中沢新一『チベットのモーツァルト』講談社学術文庫/宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』講談社メチエ/丹生谷貴志『死体は窓から投げ捨てよ』河出書房新社/前田英樹『小林秀雄』河出書房新社/小沢秋広『中島敦と〈問い〉』河出書房新社/小泉義之『ドゥルーズの哲学』講談社現代新書/檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』NHK出版/江川隆男『存在と差異』知泉書館/郡司ペギオ-幸夫『生成する生命』哲学書房/杉村昌昭『分裂共生論』人文書院/山の手緑+矢部史郎『無産大衆神髄』河出書房新社/萱野稔人『国家とはなにか』以文社/ズーラヴィクビリ『ドゥルーズ ひとつの出来事の哲学』河出書房新社/ハート『ドゥルーズの哲学』法政大学出版局/シェレール『ドゥルーズへのまなざし』筑摩書房/マルタン『ドゥルーズ/変奏』松籟社/ビュイダン『サハラ』法政大学出版局/バディウ『ドゥルーズ 存在の喧騒』河出書房新社/ジジェク『身体なき器官』河出書房新社

【ドゥルーズ著作一覧】

***

ブックガイドで紹介されている78冊もの書目をすべて書き出してみましたがすごいですね。一冊ずつにごく簡単なコメントを付したもので、分量としては全体で9頁だけですが、ドゥルーズをめぐる「星座」の一端を垣間見る思いがします。

以上です。(H)
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by urag | 2005-10-19 22:01 | 本のコンシェルジュ | Trackback(1) | Comments(2)
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Tracked from 哲劇メモ at 2005-10-20 18:53
タイトル : [新刊][哲学][仕事] ドゥルーズ――KAWADE道の手帖
『KAWADE道の手帖 ドゥルーズ――没後10年、入門のために』河出書房新社、2005 ISBN:4309740057:detail 執筆したり編集したりしたわけではないんですが……、巻末の「ドゥルーズ著作一覧」に拙サイト「哲学の劇場 > 作家の肖像 > ドゥルーズ, ジル」(http://www.logico-philosophicus.net/profile/DeleuzeGilles.htm)のURLが掲載されています。 没後10年を機に20世紀後半最大の哲学の魅力...... more
Commented by 森田拓也 at 2012-01-05 00:12 x
こんばんは。おじゃまします。
この本の、
【ドゥルーズを読むためのブックガイド】
のページだけが、どうしても、
読みたくて、アップして下さって、
助かりました。
どうも、ありがとうございます。
Commented by urag at 2012-01-06 14:20
森田拓也さん、こんにちは。お役にたててよかったです。

9:27 午前  
Blogger yoji said...

1~16,2~34,3~55,4~75,河出文庫
TABLE DES MATIERES
Avant-Propos 7
Théorie p.9
1Genjokoan La realisation du koan) :1現成公案 ○1 11
4Busshô (Le propre de Bouddha):3佛性      33
19La critique du spiritualisme Bendowa,Bussho佛性:3      102
7Shinshingakudà (Etudier avec le corps-coeur) :4身心學道  43
10Zazenshin (Remède à la méditation) :12坐禪箴      53
18Non-penser Zazenshin坐禪箴+:12               101
16Kuge (La neur du vide) :14空華           93
26L'éclosion d'une fleur. Kuge空華:14              112__/二
21Le miroir. Kokyo^古鏡:19                  105
22Pas de spéculation ibid.                   106
2Yuji(Le temps qu'il-y-a) :20有時      19
20La vie et ]a mort Zenki全機:22                104
13Gabyô (Le tableau d'un gâteau de riz) :24畫餠    79
24Expliquer le reve dans un reve Muchu-setsumu夢中説夢:27     109
23Les femmes. Raihaikudoku禮拜得髓×?:28            108
17Le mot et I'expression Daute:38?,Sansuikyo山水經:29,Eihei-koroku 99
9Bukkyô (L'enseignement de Bouddha) :34佛教      49____/三
25Entrelacs de la glycine. Katsuto^葛藤:38           111
6Hakujushi (Le chene dans le jardin d'en face). :40栢樹子 39
8Butsudô (La voie de Bouddha) :44佛道          45
27peindre Ie printemps Baika梅花:53             113
11Senjô (purihcation) :54洗淨              61 ___/四
15Ganzei(Orbite):58眼睛              91
12Kajô (La constance de la maison):59家常       71
14Ryugin (Le rugissement du dragon) :61龍吟     87
3Temporin (Le cercle des événements) :67轉法輪     29
5Koku (L'air-vide). :70虚空               37
19La critique du spiritualisme Bendowa弁道話,Bussho:3      102
Appendices :               115
Vie de Dogen.              117
Sur le bodhi.               121
Sur I'événement.             133
sur le zen et le bouddhisme de Kamakura  135
Carte de Chine              153
Glossaire.               157

4:47 午後  
Blogger yoji said...

http://www.sudoc.fr/023101695
Titre : Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen ; textes choisis, traduits et annotés par Ryôji Nakamura et René de CeccattyAlphabet du titre : latinAuteur(s) :
Dōgen (1200-1253). Auteur
Nakamura, Ryôji. Traduction. Notes
Ceccatty, René de (1952-....). Traduction. Notes
Date(s) : impr. 1980Langue(s) : françaisPays : FranceEditeur(s) : [Paris] : Ed. de la Diffèrence, impr. 1980Description : 1 vol. (159 p.) : 1 carte, couv. ill. ; 24 cm

『正法眼蔵』をコンパクトに再構成している。理論、実践、詩、テーマ別、注、という順番。%

TABLE DES MATIERES
Avant-Propos 7
Théorie p.9
1Genjokoan La realisation du koan) :1現成公案 ○1 11
2Yuji(Le temps qu'il-y-a) :20有時      19
3Temporin (Le cercle des événements) :67轉法輪     29
4Busshô (Le propre de Bouddha):3佛性      33
5Koku (L'air-vide). :70虚空               37
6Hakujushi (Le chene dans le jardin d'en face). :40栢樹子 39
7Shinshingakudà (Etudier avec le corps-coeur) :4身心學道  43
8Butsudô (La voie de Bouddha) :44佛道          45
9Bukkyô (L'enseignement de Bouddha) :34佛教      49
Pratique p.51
10Zazenshin (Remède à la méditation) :12坐禪箴      53
11Senjô (purihcation) :54洗淨              61
12Kajô (La constance de la maison):59家常       71
Poésie p.77
13Gabyô (Le tableau d'un gâteau de riz) :24畫餠    79
14Ryugin (Le rugissement du dragon) :61龍吟     87
15Ganzei(Orbite):58眼睛              91
16Kuge (La neur du vide) :14空華           93
Choix thématique p.97
17Le mot et I'expression Daute:38?,Sansuikyo山水經:29,Eihei-koroku 99
18Non-penser Zazenshin坐禪箴+:12               101
19La critique du spiritualisme Bendowa弁道話,Bussho佛性:3      102
20La vie et ]a mort Zenki全機:22                104
21Le miroir. Kokyo^古鏡:19                  105
22Pas de spéculation ibid.                   106
23Les femmes. Raihaikudoku禮拜得髓×?:28            108
24Expliquer le reve dans un reve Muchu-setsumu夢中説夢:27     109
25Entrelacs de la glycine. Katsuto^葛藤:38           111
26L'éclosion d'une fleur. Kuge空華:14              112
27peindre Ie printemps Baika梅花:53             113
Appendices :               115
Vie de Dogen.              117
Sur le bodhi.               121
Sur I'événement.             133
sur le zen et le bouddhisme de Kamakura  135
Carte de Chine              153
Glossaire.               157

6:04 午後  
Blogger yoji said...


道元:追記

《時間とは「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」である。》
(『シネマ2』#1原注28邦訳23頁^(28))

《Le temps, c'est “ la réserve visuelle des événements dans leur justesse ”》
(Gilles Deleuze L’Image-temps. Cinéma 2
https://monoskop.org/images/8/85/Deleuze_Gilles_Cinema_2_L_Image-temps.pdf fr, 28p)

「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」は道元の『正-蔵-眼-蔵』の逐語訳。
ドゥルーズが『哲学とは何か』でも参照した以下の仏訳書名でもある。
http://www.sudoc.fr/023101695
Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen
René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980).
ルネ・ド・セカティ,中村亮二 編訳

4:32 午後  
Blogger yoji said...

道元禅師の女性成仏論について
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/ce2e6dad7c044d9254c51a7a1f813fcf
『正法眼蔵』にて道元禅師は以下のように説かれている。

《修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうること、もともかたし。その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。

仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば龍女成仏のごとし。供養恭敬せんこと、諸仏如来にひとしかるべし。これすなはち仏道の古儀なり。》

「礼拝得髄」巻

大丈夫、恁麼人とは、阿耨菩提を修行する時に礼拝すべき導師であり、それはこの導師が阿耨菩提を伝えていることをいう。道元禅師はその顕著な例として、同巻にて中国の末山尼を採り上げる。末山尼は比丘尼である。しかし、大丈夫であり、人天の導師となった。これもまた、女性の得法を説く例である。
(ただし成仏は出家が条件。)

《三世十方諸仏、みな一仏としても、在家成仏の諸仏ましまさず。過去有仏のゆえに、出家・受戒の功徳あり。衆生の得道、かならず出家・受戒によるなり。おほよそ出家・受戒の功徳、すなはち諸仏の常法なるがゆえに、その功徳、無量なり。聖教のなかに、在家成仏の説あれど、正伝にあらず、女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず、仏祖正伝するは、出家成仏なり。》
    『正法眼蔵』「出家功徳」巻

4:57 午後  
Blogger yoji said...

道元禅師の女性成仏論について - つらつら日暮らし
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/ce2e6dad7c044d9254c51a7a1f813fcf
或るブログを読んでいたところ、曹洞宗の女性成仏観については、道元禅師にて説かれず、瑩山禅師に至ってから説かれたと主張されていた。瑩山禅師が説かれたのは嘘ではないが、道元禅師がそれを説かなかったのは嘘であると思う、ただ解釈は難しい。よって、道元禅師が女性成仏を説いていたことを以下に確認しておきたい。その理念としてもっともよく知られているのは、『正法眼蔵』「礼拝得髄」巻である。同巻にて道元禅師は以下のように説かれている。

仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば龍女成仏のごとし。供養恭敬せんこと、諸仏如来にひとしかるべし。これすなはち仏道の古儀なり。

これは、75巻本の同巻に於ける末尾の部分にて、結論として説かれることである。道元禅師は、男性や女性という要素は、成仏の条件を左右するものではないと主張しておられる。いわば、出家し、坐禅すれば、それが成仏であり作仏であり得法なのであって、もし得法された女性、いわゆる比丘尼が居られれば、男性であろうと女性であろうと、聞法者はその導師を礼拝し、そして自ら法を得るべきだというのである。だからこそ、仏法を道取しようとするならば、男女の姿に拘わらず相手を供養しなければならない。なお、引用文中にある龍女成仏については、『妙法蓮華経』「提婆達多品」に以下のように説かれていて、それを受けたものである。

 爾の時に舎利弗、龍女に語って言わく、
 汝久しからずして無上道を得たりと謂える。是の事信じ難し。所以は何ん、女身は垢穢にして是れ法器に非ず、云何ぞ能く無上菩提を得ん。仏道は懸曠なり。無量劫を経て勤苦して行を積み具さに諸度を修し、然して後に乃ち成ず。又女人の身には猶お五障あり、一には梵天王となることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何ぞ女身速かに成仏することを得ん。
 爾の時に龍女一つの宝樹あり、価直三千大千世界なり。持って以て仏に上る。仏即ち之を受けたもう。龍女、智積菩薩・尊者舎利弗に謂って言わく、我宝樹を献る。世尊の納受是の事疾しや不や。答えて言わく、甚だ疾し。女の言わく、汝が神力を以て我が成仏を観よ。復此れよりも速かならん。当時の衆会、皆龍女の忽然の間に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相・八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に妙法を演説するを見る。爾の時に娑婆世界の菩薩・声聞・天・龍・八部・人と非人と皆遥かに彼の龍女の成仏して、普く時の会の人天の為に法を説くを見て、心大に歓喜して悉く遥かに敬礼す。無量の衆生法を聞いて解悟し不退転を得、無量の衆生道の記を受くることを得たり。無垢世界六反に震動す。娑婆世界の三千の衆生不退の地に住し、三千の衆生菩提心を発して授記を得たり。智積菩薩及び舎利弗、一切の衆会黙然として信受す。

これは、いわゆる「変成男子」とされて、これが女性成仏と取るべきか?それとも男性成仏と取るべきか?という見解があるが、基本的に曹洞宗ではこれを女性成仏であるという。だからこそ、「龍女成仏」という語にて語られるのである。しかしながら、この辺が難しいところではあるが、成仏という相には男女は関係がない。成仏は成仏であって、男女の問題ではない。しかし、結果的に女性は女性として成仏への回路が開かれる。間に様々なプロセスが入るが、その一部を恣意的に取り出して、問題視することは許されていない。全体として見るべきだ。だからこそ、「礼拝得髄」巻では、冒頭に以下のように説かれる。

修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうること、もともかたし。その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。

大丈夫であり、恁麼人であるという。これこそ、阿耨菩提を修行する時に礼拝すべき導師であり、それはこの導師が阿耨菩提を伝えていることをいう。道元禅師はその顕著な例として、同巻にて中国の末山尼を採り上げる。末山尼は比丘尼である。しかし、大丈夫であり、人天の導師となった。これもまた、女性の得法を説く例である。

三世十方諸仏、みな一仏としても、在家成仏の諸仏ましまさず。過去有仏のゆえに、出家・受戒の功徳あり。衆生の得道、かならず出家・受戒によるなり。おほよそ出家・受戒の功徳、すなはち諸仏の常法なるがゆえに、その功徳、無量なり。聖教のなかに、在家成仏の説あれど、正伝にあらず、女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず、仏祖正伝するは、出家成仏なり。
    『正法眼蔵』「出家功徳」巻

これは、道元禅師が成仏の条件として、「出家」を強調された説法の箇所だが、ここにも「女身成仏」を正伝ではないとして、否定されているように見える。しかしながら、その対象として「男身成仏」などが説かれているのであれば、これを女性が成仏できないと説いていると理解すべきであろう。しかし、道元禅師はただ「出家成仏」をのみ説かれる。要するに、先に「礼拝得髄」巻で挙げた「男女等の相にあらず」を再確認したといえよう。

これは、結果的にプロセス全体として見れば、女性は出家して、そして成仏できるという。その時には、男女の問題ではなくて、出家成仏である。このプロセスを恣意的に切り出せば、女性はそのままで成仏できないと主張することになろう。しかし、それは誤りである。或いは「変成男子」の誤解もまた然りである。女性は成仏する。しかし、成仏には様々なプロセスを経る。これは男性とて同じだ。男性であっても、出家しなくてはならない。

ところで、その出家した後に、修行する場所を提供できなければ、この理念は理念として消える。しかし、道元禅師は女性を自ら建立した叢林にて修行させた。それは、以下の一説が先行的に説かれていたことからすれば、相当の英断である。

一に寺院、寺に大小の異ありと雖も、皆、一様に祇園精舎の図を模す〈寺の図は別にあり〉。四面に廊下有るも脇門無し、ただ一門を開く。而して監門人あって薄暮にこれを閉じ、天明にはこれを開く。特に比丘尼、女人並びに、雑人凶人の夜宿を制止するなり。仏法の滅亡はただ女事等に起こるが故なればなり。
    栄西禅師『興禅護国論』「建立支目門 第八」

栄西禅師は、比丘尼であっても女性であれば叢林にて夜泊めてはならないという。ただし、叢林修行は、夜寝ることまでも修行である。よって、この見解を敷衍すれば女性が修行する場所の否定になってしまう。道元禅師が「礼拝得髄」巻で、女人禁制の修行場所を否定したが、伝教大師最澄もまた女人禁制を説いたことなどの先行的見解を否定する目的もあったのであろう。また、その批判を受け継いで瑩山禅師も女性が修行するための場所を永光寺山内に作った。

勝蓮峰円通院を建て、当山の本主祖忍大姉に与う。本尊は、予の今生の悲母、一生頂戴し随身の十一面観音なり。
    『洞谷記』

こういった流れは曹洞宗全体に見えることである。

「得法」を媒介にして男女の平等論を展開していることは、道元の深い人間性の理解を示していて注目される。道元は、当時の仏教界が、女性を「貪婬」のみなもととして「比丘尼・女人」を道場に入れず女性を蔑視している風潮を指摘して、「日本国にひとつのわらひごとあり」と批判し、「邪風」とよんで厳しく非難して、当時の女性観に猛反省をうながすとともに、女性の地位の弁護に万丈の気を吐いている。
    竹内道雄先生『道元』吉川弘文館人物叢書、201頁

とりあえず、このような研究の指摘もあるので参照しておいた。

4:59 午後  
Blogger yoji said...


http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/blog-post_8.html


道元:( >>860追記 )

《時間とは「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」である。》
(『シネマ2』邦訳23頁)

《Le temps, c'est “ la réserve visuelle des événements dans leur justesse ”》
(Gilles Deleuze L’Image-temps. Cinéma 2
https://monoskop.org/images/8/85/Deleuze_Gilles_Cinema_2_L_Image-temps.pdf fr, 28p)

「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」は道元の『正-蔵-眼-蔵』の逐語訳。
ドゥルーズが『哲学とは何か』でも参照した以下の仏訳書名でもある。
http://www.sudoc.fr/023101695
Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen
René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980).
ルネ・ド・セカティ,中村亮二 編訳

『正法眼蔵』をコンパクトに再構成している。理論、実践、詩、テーマ別、注、という順番。

参考:
正法眼蔵 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95%E7%9C%BC%E8%94%B5
UN ZEN OCCIDENTAL : SHOBOGENZO
http://www.zen-occidental.net/dogen/shobogenzo.html
正法眼藏 Shohogenzo
http://www.shomonji.or.jp/soroku/
Ateliers d'étude du Shôbôgenzô avec Yoko Orimo
http://www.shobogenzo.eu/

9:41 午後  
Blogger yoji said...

道元が『典座教訓』に記した体験は、以下のようなものである。
「宋の天童寺に留学中だった私(道元)はある夏の日、中庭で寺の老典座が海草を干している
のを見た。老人は眉は白く腰は曲がっていたが、炎天下に竹の杖をつき、汗だくになり苦
しそうに働いていた。私は気の毒に思って近づき、年齢を聞くと老人は『68歳だ』と答えた。
『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』 老人は答えた。『他の者とやらは、私自身ではない』
『なぜ、今のような炎天の日中にされるのです』 老人は答えた。『今のほか、いつを待てと言うのか』
私はその場を離れた。そして廊下を歩きながら、典座職の重要さを考えたのであった」[1]

「また私が上陸許可を待って港の船の中にいた時、ある老僧が食材の買入れに港にやって
きた。船室に招いて茶を勧め、話を聞くと『私は、阿育王寺の典座である。故郷を出て四十
年、歳も六十を越えたが、これからまた20キロほど歩いて、食事の用意に寺まで帰らねばならぬ』
『飯の用意など誰かがやるでしょう。何か差し上げますので、ゆっくりしていかれては』
『それは駄目だ。外泊許可を貰っていないし、典座は老人にもできる修行、他人には譲れぬ』 
私は聞いた。『あなたほどのお年なのに、なぜ忙しく働いてばかりいて、坐禅したり先人の
教えを学ばないのですか。それでいったい何のいいことがありましょう』
老僧は笑って言った。『外国からきたあなたは、どうやら何もわかっていないようだ』私は
これを聞き、大いに驚き、また恥じた。 そして老人は「もう日も暮れた。行かねばならぬ」
と立ち上がり、寺へと帰っていった。 私が多少とも修行のことを知るようになったのは、
実にこの老典座の恩によるのである」[2]

道元は日本に帰国してより建仁寺に留まったが、建仁寺の典座が食事の用意を軽く考え、
職務を適当に行っていることを見、宋との落差を非常に遺憾とした。そして『典座教訓』
を執筆し、典座職の重要性と、その職務要領を詳細に書き残した。 

現在の道場の典座職には、修行経験が深く篤実温厚な人物が任命される場合が多く、修行僧
たちの相談役として敬慕される者が多いという。

出典
1^ *道元『典座教訓・赴粥飯法』 講談社学術文庫 P69
2^ *同上 P76

6:58 午前  
Blogger yoji said...

『正-法-眼-蔵』/道元 《Le temps, c'est “ la réserve蔵 visuelle眼 des événements dans leur justesse正法 ”》

《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)réserve」を引き合いに出している日本の僧、道元のテクストをも参照されたい。》
(邦訳文庫版ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』(#2:67^)370(394)頁)
Deleuze-Guattari:Qu'est-ce que la philosophie ? 1991

We refer also to the Zen text of the Japanese monk Dôgen, which invokes the horizon or “reserve(蔵)” of events: Shôbogenzo, trans. and with commentary by René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980). ルネ・ド・セカティ,中村亮二

http://www.sudoc.fr/023101695
Titre : Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen ; textes choisis, traduits et annotés par Ryôji Nakamura et René de CeccattyAlphabet du titre : latinAuteur(s) :
Dōgen (1200-1253). Auteur
Nakamura, Ryôji. Traduction. Notes
Ceccatty, René de (1952-....). Traduction. Notes
Date(s) : impr. 1980Langue(s) : françaisPays : FranceEditeur(s) : [Paris] : Ed. de la Diffèrence, impr. 1980Description : 1 vol. (159 p.) : 1 carte, couv. ill. ; 24 cm

『正法眼蔵』をコンパクトに再構成している。理論、実践、詩、テーマ別、注、という順番。

TABLE DES MATIERES
Avant-Propos 7
Théorie p.9
1Genjokoan La realisation du koan) :1現成公案 ○1 11
2Yuji(Le temps qu'il-y-a) :20有時      19
3Temporin (Le cercle des événements) :67轉法輪     29
4Busshô (Le propre de Bouddha):3佛性      33
5Koku (L'air-vide). :70虚空               37
6Hakujushi (Le chene dans le jardin d'en face). :40栢樹子 39
7Shinshingakudà (Etudier avec le corps-coeur) :4身心學道  43
8Butsudô (La voie de Bouddha) :44佛道          45
9Bukkyô (L'enseignement de Bouddha) :34佛教      49
Pratique p.51
10Zazenshin (Remède à la méditation) :12坐禪箴      53
11Senjô (purihcation) :54洗淨              61
12Kajô (La constance de la maison):59家常       71
Poésie p.77
13Gabyô (Le tableau d'un gâteau de riz) :24畫餠    79
14Ryugin (Le rugissement du dragon) :61龍吟     87
15Ganzei(Orbite):58眼睛              91
16Kuge (La neur du vide) :14空華           93
Choix thématique p.97
17Le mot et I'expression Daute:38?,Sansuikyo山水經:29,Eihei-koroku 99
18Non-penser Zazenshin坐禪箴+:12               101
19La critique du spiritualisme Bendowa弁道話,Bussho佛性:3      102
20La vie et ]a mort Zenki全機:22                104
21Le miroir. Kokyo^古鏡:19                  105
22Pas de spéculation ibid.                   106
23Les femmes. Raihaikudoku禮拜得髓?:28            108
24Expliquer le reve dans un reve Muchu-setsumu夢中説夢:27     109
25Entrelacs de la glycine. Katsuto^葛藤:38           111
26L'éclosion d'une fleur. Kuge空華:14              112
27peindre Ie printemps Baika梅花:53             113
Appendices :               115
Vie de Dogen.              117
Sur le bodhi.               121
Sur I'événement.             133
sur le zen et le bouddhisme de Kamakura  135
Carte de Chine              153
Glossaire.               157

12:49 午前  
Blogger yoji said...

仏教は貨幣経済以降のもの
さらに土地が収奪された後のもの


道元禅師と『典座教訓』 – 典座ネット
http://tenzo.net/kokoro1/
道元禅師が宋の港に到着し、上陸許可がおりるまで船に留まっていたときの話です。
お年を召した中国の僧侶が港にやってきました。老僧は修行道場の食事係(典座和尚)で、うどんに使う食材を買いに来たのです。道元禅師はその僧侶と仏法 の話がしたくて、今日はここに泊まっていきませんかと誘いましたが、老僧は、食事の準備があるからとそれを堅く断りました。

道元禅師は言いました。「そんな食事の用意などは新入りの若い者にでもさせればいいではないですか。あなたのような徳のありそうな老いた僧侶が、坐禅や仏法の議論よりも、そんな食事の準備などを優先させて、何かいいことがあるのですか。」


すると老僧は大笑いして、
「日本の若い人よ、あなたは修行とは何であるかが、全くわかっていない」と言い残して帰ってしまったのです。
それもそのはず、当時の日本仏教界には、日常の実践を重視する禅の考えは充分につたわっておらず、したがってこの時点ではまだ道元禅師自身、食事の用意などは、修行の妨げになる面倒な雑事だと思っていたのです。

この後、道元禅師は中国各地の道場を訪ね、修行を重ねます。またある寺でこんな事がありました。
暑い日の昼間、腰の曲がった老典座が、杖をつきながら汗だくになって本堂の脇で海藻を干していました。みかねた道元禅師が、
「こんな暑い日ですから、誰か若い人にでもさせるか、せめてもう少し涼しい日にしたら良いのでは」と声を掛けると、
「他(た)は是吾(これわれ)にあらず 更(さら)に何(いず)れの時をか待たん」
(他の者にさせたのでは自分の修行にならん、今せずにいつするというのだ)
と返され、再び大きなショックを受けたというのです。

こうした宋での体験は、道元禅師の仏法に対する認識を根底からくつがえすほど衝撃的であったと思われます。以降の道元禅師の思想形成に少なからぬ影響を与えたといって良いでしょう。

8:10 午後  

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