水曜日, 3月 01, 2017

『世界共和国へ』に関するノート(14)最終回 世界同時革命より


バクーニン、カント、ヘーゲル、シュミットからの重要な引用がある。



バクーニン:
《孤立した一国だけの革命は成功し得ないこと 。したがって 、自由を志向する万国の人民の革命的同盟 ・連合が不可欠であること 》 ( 「国際革命結社の諸原理と組織 」 『バク ーニン著作集 5 』外川継男 、左近穀ほか訳 、白水社 、 1 9 7 4 : p . 2 1 6 ) 。

atプラス03 
『世界共和国へ』に関するノート(14)最終回 
世界同時革命より

カント:
《完全な意味での公民的組織を設定する問題は 、諸国家のあいだに外的な合法的関係を創設する問題に従属するものであるから 、後者の解決が実現しなければ 、前者も解決され得ない 。個々の人達のあいだに合法的な公民的組織を設けてみたところで 、換言すれば一個の公共体を組織してみたところで 、それだけでは 、あまりたいした効果はない 。人々を強要して公民的組織を設定せしめたのとまったく同じ非社交性は 、諸国家の場合にもまた原因となって 、対外関係における公共体は 、他の諸国家に対する一国家として 、自己の自由をほしいままに濫用することになる (後略 ) 。 》
( 「世界公民的見地における一般史の構想 」 (第七命題 ) 、 『啓蒙とは何か他四篇 』篠田英雄訳 、岩波書店 、 1 9 7 4 : p . 3 6 )

《--たがいに関係しあう諸国家にとって 、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには 、理性によるかぎり次の方策しかない 。すなわち 、国家も個々の人間と同じように 、その未開な (無法な )自由を捨てて公的な強制法に順応し 、そうして一つの (もっともたえず増大しつつある )諸民族合一国家 ( c i v i t a s g e n t i u m )を形成して 、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる 、という方策しかない 。だがかれらは 、かれらがもっている国際法の考えにしたがって 、この方策をとることをまったく欲しないし 、そこで一般命題として i n t h e s i正しいことを 、具体的な適用面では i n h y p o t h e s i 斥けるから 、一つの世界共和国という積極的理念の代わりに (もしすべてが失われてはならないとすれば ) 、戦争を防止し 、持続しながらたえず拡大する連合という消極的な代替物のみが 、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである 。 》
( 『永遠平和のために 』宇都宮芳明訳 、岩波文庫 、 1 9 8 5 : p . 4 5 )

《自然状態は 、むしろ戦争状態である 。言いかえれば 、それはたとえ敵対行為がつねに生じている状態ではないにしても 、敵対行為によってたえず脅かされている状態である 。それゆえ 、平和状態は 、創設されなければならない 》 (同前 、 p . 2 6 ) 。

ヘーゲル:
《 カントの構想の批判 … …もろもろの国家のあいだには最高法官などおらず 、せいぜい調停者か仲介者がいるだけである 。しかもこれすら 、偶然の成り行きで 、特殊な意思任せでしかない 。カントは国家連盟による永遠の平和を表象した 。国家連盟はあらゆる抗争を調停し 、個々の諸国家それぞれから承認を受けた一権能として 、すべての反目を鎮め 、こうして戦争による決着を不可能ならしめる 、というのである 。だが 、こうした表象は諸国家の合意を前提にしている 。この合意は 、宗教的 、道徳的 、あるいはその他のどんな根拠や側面においてにせよ 、総じていつも特殊な主権的意思に基づいてきたし 、まただからいつも偶然性がまとわりついているにも拘らず 、である 。 
[原注 ]理想論として考えるかぎり 、私たちはカントの構想などのほうにより大きな親近感を示すに相違ない 。けれども 、現代にいたるまで 、リアリスティックに考えるなら 、こうした事態のほうが歴史の示した現実であった 。そして 、私たちはこういうリアリズムを踏まえたうえで今後の世界を考えていかねばならないだろう 。 》
( 『法権利の哲学 』第三三三節 、三浦和男ほか訳 、未知谷 、 1 9 9 1 : p . 5 1 5 )

シュミット:
《「世界国家」が、全地球・全人類を包括する場合には、それは政治的単位ではなく、単に慣用上から国家と呼ばれるに過ぎない。 (中略)それが、この範囲を越えてなお、文化的·世界観的その他なんであれ、「高次の」単位、ただし同時にあくまで非政治的な単位を形成しようとしたばあいには、それは、倫理と経済という両極間に中立点をさぐる消費-生産組合であるであろう。国家も王国も帝国も、共和政も君主政も、貴族政も民主政も、保護も服従も、それとは無緑なのであって、それはおよそいかなる政治的性格をも捨て去ったものであるであろう。》
(『政治的なものの概念』田中浩·原田武雄訳、未來社、1970:p.68-69)

『世界共和国へ』ではこうある、

《…国家は、そもそも他の国家(敵国)を想定することなしに考えることはできません。国家の自立性、つまり、国家を共同体や社会に還元できない理由はそこにあります。たとえば、カール・シュミットは、道徳的なものの領域が善と悪、美的なものの領域が美と醜、経済的なものの領域が利と害であるとしたら、政治的なものに特有の領域は「友と敵」という区別にあるといいました。この見方は正しいと思います。ただ、「友と敵」という区別は、さらに基礎的な交換様式B(略取‐再分配)に由来するというべきでしょう。》


シュミットはソレルの影響を受けている。そしてソレルはプルードンの影響を受けている。マルクスの系譜ではない。と言ってもマルクスはプルードンの系譜ではあるが。

柄谷は第一インターやネグリをプルードンの思考に対応させているが、アナキズムは国家の消滅を安易に期待する思考と言うより
国家に頼らない自主管理の思考だ

政治に関わるべきではないと言うわけでもないが
プルードンは議員になった

0 Comments:

コメントを投稿

Links to this post:

リンクを作成

<< Home