火曜日, 5月 09, 2017

関山国師「無相大師遺誡」



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Manual of Zen Buddhism by D.T. Suzuki 1935 便覧:解読 
NAMs出版プロジェクト: 臨済録

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NAMs出版プロジェクト: 大応国師(1235-1309)

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NAMs出版プロジェクト: 大燈国師(1282-1338)

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NAMs出版プロジェクト: 関山国師(1277-1361)「無相大師遺誡」

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NAMs出版プロジェクト: 夢窓疎石(1275-1351)

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NAMs出版プロジェクト: 白隠(1686-1769) 隻手音声

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wikiより

1360年12月12日、関山は旅の支度をして授翁に行脚に出るといい、「風水泉」と称する井戸の辺で授翁に遺戒し、立ったまま息をひきとった。遺戒は授翁が門下の雲山宗峨に成文させ、今日「無相大師遺誡」と称し読誦されている。

関山には他の高僧のような語録や著書はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状以外にほとんど残されていない。さらに遺命して肖像を残させなかったため、今日の関山像は後世に作成された物である。

南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属する。関山の禅は、後に系統に白隠慧鶴が出て大いに繁栄し、他の臨済宗諸派が絶法したのに対し、その法灯を今日に伝えている。


4. Kwanzan Kokushi’s Admonition 関山国師「無相大師遺誡」☆

参考:

虚堂智愚(中国・南宋)

☆☆

関山慧玄(かんざん えげん、建治3年(1277年) - 正平15年/延文5年12月12日1361年1月19日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代臨済宗

信濃国高井郡の国人領主高梨氏高梨高家の子とされる。朝廷から本有円成、仏心、覚照、大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられ、また、明治天皇から無相大師追諡された。 

略歴

1307年鎌倉建長寺に入り、南浦紹明に師事。慧眼の法名を授かり、南浦寂後も鎌倉にあって物外可什巨山志源などに参禅。その後帰郷。

建長寺開山・蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じ、ここで宗峰妙超(大燈国師)を紹介され、京都大徳寺に遷って宗峰に師事。やがて1329年雲門の関字の公案で開悟し、宗峰がこれを証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名した。

その後、後醍醐天皇に法を説くなどしたが、のち美濃の伊深に草庵を結んで隠棲した。

1337年花園上皇は、離宮を禅苑に改めてその寺名命名と開山となる禅僧の推薦を宗峰に依頼。宗峰が関山を推挙し、関山は妙心寺開山となった。

禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、枯淡な禅風で修禅に専念したという。『沙石集』には「本朝ならびなき禅哲なり」と称賛されている。形式に拘らず厳しく弟子を指導し、法嗣授翁宗弼(じゅおう そうひつ)ただ一人であり、また妙心寺の伽藍整備や経営に拘泥することはなかった。

1360年12月12日、関山は旅の支度をして授翁に行脚に出るといい、「風水泉」と称する井戸の辺で授翁に遺戒し、立ったまま息をひきとった。遺戒は授翁が門下の雲山宗峨に成文させ、今日「無相大師遺誡」と称し読誦されている。

関山には他の高僧のような語録や著書はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状以外にほとんど残されていない。さらに遺命して肖像を残させなかったため、今日の関山像は後世に作成された物である。

南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属する。関山の禅は、後に系統に白隠慧鶴が出て大いに繁栄し、他の臨済宗諸派が絶法したのに対し、その法灯を今日に伝えている。

2006年に臨済宗妙心寺派の寺の蔵より肖像画が発見された。年代鑑定を行っていない模様で生前に描かれたものか否かは不明である。妙心寺が全国で行っている年忌法要の席で見ることが出来る。


5:4


無相大師遺誡 #1 - web智光院

http://chikoin.com/blog-entry-183.html

無相大師遺誡 #1

妙心開山無相大師遺誡

宿昔吾大應老祖正元之間超風波大難地蚤入宋域遇着虚堂老禅于淨慈、眞參實證末後徑山盡其蘊奥是故得路頭再過之稱受兒孫日多之記單傳楊岐正脉吾於朝者老祖之功也、次先師大燈老人參得老祖于西京侍者京輦巨峯其随從之際、脇不到席者多年頗有古尊宿風、卒受老祖淵粋命長養者二十年、果彰大應遠大之高徳起佛祖已墜之綱宗殘眞風不地遺誡鞭策後昆者先師之功也、老僧爰受花園仙帝敕請創開此山先師嚼飯養嬰兒、後昆直饒有忘却老僧之日、忘却應燈二祖深恩不老僧兒孫、汝等請務其本、白雲感百丈之大功虎丘歎白雲之遺訓、先規如茲誤而莫摘葉尋枝好。

(題名)『妙心開山無相大師遺誡』

(現代語解釈)『大本山妙心寺開山・無相大師関山慧玄禅師が残された後人への訓戒』

(原文1)
宿昔吾が大應老祖正元の間、風波大難の地を超えて、蚤に宋域に入って虚堂老禅に淨慈に遇着して真参実証、末後径山にその蘊奥を尽くす。

(むかしわがだいおうろうそしょうげんのあいだ、ふうはだいなんのちをこえて、つとにそういきにいってきどうろうぜんにじんずにぐうじゃくしてしんさんじっしょう、まつごきんざんにそのうんのうをつくす。)



(意訳1)
その昔、先々代の師匠である大應国師・南浦紹明禅師は、正元元年(1259)に、荒れ狂う海を越え、険しい山中を歩き、大変な苦労を重ねて中国・宋へと渡った。
いくつかの寺院に参問した後、今の浙江省杭州にある淨慈寺に辿り着き、そこで虚堂智愚禅師と出会った。
大應国師は、虚堂智愚禅師のもとに留まって参禅工夫を実践され、虚堂智愚禅師が径山万寿寺に移られると、国師も虚堂智愚禅師に随従し、径山に修行の場を移し、そしてついに大悟徹底された。

(原文2)
是の故に路頭再過の称を得て、児孫日多の記を受け、楊岐の正脈を吾が朝に単伝する者は、老祖の功なり。

(このゆえにろとうさいかのしょうをえて、じそんにったのきをうけ、ようぎのしょうみゃくをわがちょうにたんでんするものは、ろうそのこうなり。)



(意訳2)
大悟された大應国師は、その2年後に虚堂智愚禅師に暇を告げ、帰国することとなった。帰国する際、虚堂智愚禅師からの手紙、いわゆる「児孫日多の記」を受け取った。それは『涅槃(宋)の道を極め、再びもと(日本)の道へ帰ってゆく』と人徳を称えられ、『わが弟子はこれから先、日ごと多くの高徳を輩出するであろう』という期待の言葉が書かれたものである。
こうして国師は、文永4年(1267)に帰国され、この臨済宗楊岐派の正法を、わが国に直伝された。まさに大應国師の功績は計り知れない。

(原文3)
次に先師大燈老人、老祖に西京に参得して、京輦巨峯に侍者たり。其の随従の際、脇席に到らざること多年、頗る古尊宿の風あり。

(つぎにせんしだいとうろうにん、ろうそにせいけいにさんとくして、けいれんこほうにじしゃたり。そのずいじゅうのあいだ、わきせきにいたらざることたねん、すこぶるこそんしゅくのふうあり。)



(意訳3)
さて次に、先代の師匠である大燈国師・宗峰妙超禅師であるが、師は嘉元3年(1305)、京都・韜光庵に住持していた大應国師に参禅し、その後大應国師が、京都・嘉元寺、鎌倉・建長寺に移られた時にも、侍者として随侍した。
その期間、怠ることなく参禅弁道に励み、その姿は、並みいる歴参の僧を超える、高僧としての風格をすでに持っていた。

(原文4)
卒に老祖淵粋の命を受けて長養すること二十年、果たして大應遠大の高徳を彰わし、仏祖已墜の綱宗を起こし、真風不地の遺誡を残して、後昆を鞭策する者は、先師の功なり。

(ついにろうそえんすいのめいをうけてちょうようすることにじゅうねん、はたしてだいおうおんだいのこうとくをあらわし、ぶっそいついのこうじゅうをおこし、しんぷうふちのゆいかいをのこして、こうこんをべんさくするものは、せんしのこうなり。)



(意訳4)
徹底した修行の末、大悟を認められた大燈国師は、大應国師より印可証明(悟りの証)と、これから後の修行についての命令を受けて、その直後より20年間、「聖胎長養」と呼ばれる総仕上げの修行に入られた。
その長期修行の結果、ついに大應国師より継承された高徳と資質が、世間に知られるところとなった。釈尊入滅後の末法思想の今日にあって、仏教の大綱と禅宗教義の布教に尽力され、そして、真実の仏祖の教えを堕落させることのないように、という願いを遺誡として残された。われら弟子どもを、今もなお指導鞭撻し、励ましている。大燈国師の功績もまた、賞賛し余りあるものである。

(原文5)
老僧爰に花園仙帝の敕請を受けて、此の山を創開するも、先師飯を嚼んで嬰児を養う。後昆直饒老僧を忘却するの日ありとも、應燈二祖の深恩を忘却せば、老僧が児孫にあらず。

(ろうそうここにかえんせんていのちょくしょうをうけて、このやまをそうかいするも、せんしはんをかんでようにをやしなう。こうこんたといろうそうをぼうきゃくするのひありとも、おうとうにそのじんのんをぼうきゃくせば、ろうそうがじそんにあらず。)



(意訳5)
私(無相大師・関山慧玄禅師)は、花園上皇の勅命を頂戴し、この正法山妙心寺を開創したが、これは先代の師匠・大燈国師が、まるで幼い子供に対して、ご飯を噛んで柔らかくしてから与えるように、われわれ修行者を誠心誠意鍛え育て上げてくれたからこそ、今この縁が結ばれているのである。
これから先、遠い後世になり、我が法系(師匠と弟子のつながり・仏法の系譜)が栄えて弟子が増えたとして、いつかは私のことが忘れ去られる時代が来るであろう。
しかし、大應・大燈両国師の深い恩愛は決して忘れてはならない。もしも両祖師への報恩感謝を忘れたとしたら、その弟子どもは私の法孫(系譜に連なる僧)ではない。「関山慧玄の法系につながる者だ」と言ってはならないし、それを私が決して許さない。

(原文6)
汝等請う其の本を務めよ。

(なんじらこうそのもとをつとめよ。)



(意訳6)
あなたたちに一番重要なこと、それは己事究明、おのれとは何者であるか? これを突き止めることである。

(原文7)
白雲は百丈の大功を感じ、虎丘は白雲の遺訓を歎ず。先規茲の如し、誤って葉を摘み枝を尋ぬること莫んば好し。

(はくうんはひゃくじょうのだいこうをかんじ、くきゅうははくうんのゆいくんをたんず。せんきかくのごとし、あやまってはをつみえだをたずぬることなくんばよし。)

(『無相大師遺誡』おわり)



(意訳7)
白雲守端禅師は、百丈懐海禅師が昔、禅宗道場の規則を整備されたという、大きな功績に深く感服し、虎丘紹隆禅師は、白雲守端禅師の残された訓戒を、称歎し奉読していた。
このような過去の祖師方の行状や報恩行は、たくさん残っており、皆このようにして、祖師方の恩愛を感じ、自己の訓戒としていたのだ。
間違っても、葉を摘んだ後に、その木が何であるかを確認するような、本末転倒な真似をしてはならない。日常の修行をおろそかにせず、「自己とは何か」を専一に追求すること、決して仏法の根本儀を忘れてはならないぞ。



IV

KWANZAN KOKUSHI'S ADMONITION[1]

It was in the Shogen period (1259) that our forefather venerable Dai-o crossed the stormy waves of the great ocean in order to study Zen in Sung. He interviewed Hsu-t'ang (Kido) the great Zen master at Ching-tz'u (Jinzu) and under him Dai-o whole-heartedly devoted himself to the realization of Zen experience. Finally at Ching-shan (Kinzan) he was able to master all the secrets longing to it. For this reason he was praised by his master as "having once more gone over the path", and the prophecy was also given him that his "descendants would ever be increasing." That the rightful lineage of the Yang-ch'i, (Yogi) school was transported to this country of ours is to be ascribed to the merit of our venerable forefather.

Daito, my old venerable teacher, followed the steps of Dai-o who stayed in the western part of the capital; personally attending on him, he was in close contact with the "Master during his residence at Manju in Kyoto and at Kencho in Kamakura. Throughout the many years of attendance Daito never laid himself on a bed for sleep. He reminds us in many respects of the ancient worthies. When finally he mastered Zen, the venerable Dai-o gave him his testimony but ordered him to mature his experience for twenty years in quiet retirement. Surely enough, he proved to be a great successor truly worthy of his illustrious master, Dai-o. He resuscitated Zen which had been in a state of decline; he left an admonition for his followers to be ever mindful of keeping vigorously alive the true spirit of Zen discipline; all this is his merit.

[1. Muso Daishi is the honorific title posthumously given by an Emperor to Kwanzan Kokushi, the founder of Myoshinji, Kyoto, which is one of the most important Zen headquarters in Japan. All the Zen masters of the present day in Japan are his descendants. Some doubt is cherished about the genuineness of this Admonition as penned by Kwanzan himself, on the ground that the Content is too "grandmotherly".]

That in obedience to the august order of his Holiness the Ex-Emperor Hanazono I have come to establish this monastery, is due to the motherly love of my late master who chewed food for his helpless baby. O my followers, you may some day forget me, but if you should forget the loving thoughts of Dai-o and Daito, you are not my descendants. I pray you to strive to grasp the origin of things. Po-yun (Hakuun) was impressed with the great merit of Pai-chang (Hyakjo), and Hu-ch'iu (Kokyu) was touched with the words of warning given by Po-yun (Hakuun). Such are our precedents. You will do well not to commit the fault of picking leaves or of searching for branches, [instead of taking hold of the root itself].



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