金曜日, 7月 28, 2017

富に関する省察 テュルゴー 1766 TURGOT, Anne Robert Jaques , Réflexionssur la Formation et la Distribution des Richesses



   ( 経済学リンク::::::::::
富に関する省察 テュルゴー 1766 TURGOT, Anne Robert Jaques , Réflexions sur la Formation et la Distribution des Richesses
http://nam-students.blogspot.jp/2017/07/1788-turgot-anne-robert-jaques.html@
NAMs出版プロジェクト: コンディヤック Étienne Bonnot de Condillac
http://nam-students.blogspot.jp/2017/07/etienne-bonnot-de-condillac.html
A.R.J. Turgot
https://cruel.org/econthought/profiles/turgot.html
《  ジャック・テュルゴー (Baron de l'Aulne) はおそらく18 世紀フランスの主導的経済学者だろう。しばしばケネー重農主義者と一括りにされるけれど、その貢献はかなり独特で、重農主義理論をかなり進歩させた。テュルゴーは独自の学派を形成したと言ってもいいくらいで、アベ・モレレ (Abbé Morellet) やコンドルセ侯爵などが親友兼弟子となっている。もっと重要な点として、テュルゴーは 1760年代にフランスに住んでいて親交の深かったアダム・スミスに深い影響を与えている。スミスの「国富論」に見られる概念や発送は、テュルゴーからそのまま持ってきたものだ。

…かれの最高傑作は文句なしに『富の形成と分配に関する考察』 (1766) *だ。ここでテュルゴーは重農主義体系に資本の概念を導入した。またかれは「剰余」の概念を明確にして、「剰余」と「成長」の結びつきを明らかにし、利益率と金利とを関連づけた。また、「市場価格」と「自然価格」をはっきり区別した最初の人物の一人でもある。結果としてテュルゴーは、もとの重農主義者たちとは produit netの性質についてちがった考えを持つようになっており、剰余は農業だけでなく、産業からも生み出されると考えるようになっていた。こうした発送はすべてアダム・スミス古典派に受け継がれることとなる。
 テュルゴーはまた、限界革命の先駆者とも言える。かれの『価値と貨幣』 (Valeurs et Monnaies, 1769) は驚くほどきちんと展開された、価格の需要ベース理論を含んでいる。またこの本で、かれは取引者の数が多くなれば交換の非決定性の度合いが下がるという点について、驚くほど先見的な議論を展開している。このテーマは後にエッジワースがとりあげるものだ。もう一つ重要な経済学的貢献は(1768 年の Observationsにおいて) 生産における投入の比率を可変にすることを導入したことだ。テュルゴーはまた、要素生産に対して限界生産性の逓減の考え方を思いついた最初の人物でもある。最後に、1766 年の貨幣に関する議論は、実質金利と名目金利の区別をつけていた(これはそれまで区別されていなかった)。》
*Réflexions sur la formation et la distribution des richesses, 1766 (Eng: Reflections on the Formation and Distribution of Wealth) (copy)

越村1961年
8頁改変:

図2·1 価値学説の系譜

  労働価値説     効用価値説
   ペティ
  (1623-87)     コンディヤック(←ロック)
    |        (1714-80)
    |          |
   スミス      (←)チュルゴー(←ケネー)
   (1723-90)       (1727-81)
    /\         |
【支配労働】【投下労働】  【平均効用】
  |    リカード    |
マルサス  (1772-1823)    セー
(1766-1834)  /\     (1767-1832)
 |    /  \プルードン|
 |   /    \(1809-65)|
 |   |     |   ゴッセン
 | マルクス    |   (1810-58)
 |  (1818-1883)  |  【限界効用】
 |  【平均労働】 | ワルラス
 |   |     |  (1834-1910)
 |   |     |    ジェボンズ
 |   |     |    /(1835-82) 
 |   |   マーシャル /    メンガー
 |   |    (1842-1924)      (1840-1921)
 |   |   【供給・需要】    /
 |   |  /ケインズ83~46\  /
消費者  生産者   生産者  消費者    
の費用B の費用A  の効用D の効用C  

       四元的価値論


富に関する省察 (1950年) (岩波文庫) 文庫 – 古書, 1950

形式: 文庫




Turgot - Réflexions sur la Formation et la Distribution des Richesses | Libre Afrique

国立国会図書館デジタルコレクション - 富に関する省察


タイトル
富に関する省察
著者
チュルゴオ 著[他]
出版者
岩波書店
出版年月日
昭和23
シリーズ名
岩波文庫 

目次
富に関する省察 
標題
目次
第一節、第二節 土地の均等なる分割/21~22
第三節 土地の生産物は加工を必要とする/23~24
第四節 加工の必要は交換を招致する/24~25
第五節 農業勞働者は工匠に勝る/25~26
第六節 賃銀/26~27
第七節 農業勞働者は其勞働が勞働賃銀以上に生産する唯一のものである/27~28
第八節、第九節 最初に社會は生産者階級と被傭者階級との二階級に分たれる/28~29
第十節 社會の進歩、總ての土地は所有者を持つ/29~30
第十一節 賃銀耕作者/30
第十二節、第十三節 土地所有の分割に於ける不平等/31~32
第十四節 生産物の配分/33
第十五節 社會は三階級に分たれる/33~34
第十六節、第十七節、第十八節 二個の勞働者階級/34~37
第十九節 土地の收益/37
第二十節 賃銀勞働者による耕作/37~38
第二十一節、第二十二節 奴隷による耕作/38~43
第二十三節 農奴/43
第二十四節 臣從/44
第二十五節 割前小作/45
第二十六節、第二十七節 小作/46
第二十八節 種々なる土地利用方法の約説/47~48
第二十九節 資本と貨幣收益/48~49
第三十節 金と銀/49
第三十一節 商業/49~50
第三十二節―第三十九節 價値/51~59
第四十節―第四十五節 貨幣/59~63
第四十六節 金、銀の價値の變動/63~64
第四十七節 賣手と買手/65
第四十八節 社會の種々なる成員間における各種勞働の分離/65
第四十九節 節約と資本/66
第五十節、第五十一節 動的富/66~68
第五十二節 耕作のための元資/68~69
第五十三節 土地に依つて供せられる元資/69~70
第五十四節―第五十六節 再び動的富/70~72
第五十七節、第五十八節 土地の價格/73~75
第五十九節、第六十節 資本の元資/75~78
第六十一節 被傭者階級/78
第六十二節 農業への元資/78~80
第六十三節、第六十四節 大耕作及び小耕作/80~82
第六十五節 小作人と日傭人/82
第六十六節、第六十七節 商人/82~87
第六十八節―第七十節 貨幣の流通/87~89
第七十一節―第七十四節 利子附貸付/89~95
第七十五節―第七十九節 利率/96~102
第八十節 節約の精神/102
第八十一節 利子の低下/103
第八十二節 資本使用に關する略説/103~104
第八十三節―第八十七節 種々なる貨幣用法/104~108
第八十八節、第八十九節 市場利子/108~110
第九十節、第九十一節 一國の富/110~114
第九十二節―第九十七節 貨幣貸付者/114~120
第九十八節―第百節 純生産/120~123
     
ジャック・テュルゴー - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャック・テュルゴー

ジャック・テュルゴー

ジャック・テュルゴー
ローヌ男爵アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴーAnne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune1727年5月10日 - 1781年3月18日)は、フランスブルボン朝政治家であり、また重農主義経済学者である。彼の経済学の根底にはルソーモンテスキューと共通する自然法の発想を持つ18世紀の『啓蒙思想家』でもあり、「啓蒙主義経済学者」とも言われる[1]
テュルゴーの思想はアダム・スミスに強い影響を与えている[2]

経歴編集

ジャック・テュルゴーは1727年にパリで、由緒ある法服貴族でパリ市長(パリ市商人頭)も務めた裕福な商人の三男として生誕。幼い時から神学教育を受け、1749年にソルボンヌ神学部(パリ大学)に入ると神学のみならず経済・数学・言語・歴史・哲学/自然哲学(物理学)など広範囲にわたる学問の修得で頭角をあらわし、あくる1750年にはパリ大学内ソルボンヌ僧院長に選ばれる。[3] 1751年に父が死去すると僧籍から離れ、52年パリ高等法院検事総長補佐官の職を買い、国王政府の仕事を始める[4]1760年スイスにヴォルテールを訪問し、この頃百科全書派フランソワ・ケネーアダム・スミスなどと親交を結ぶ[5]1761年リモージュ州の総徴税区長官(知事)となり1774年まで13年間その職に在った[4]1774年から1776年まで(ルイ16世統治初期)財務総監を務める。財務総監時代には、コンドルセを片腕として、ギルドの廃止や穀物の取引の自由化を行い、自由主義的改革を推進して財政再建を図るが、特権身分の反対(レントシーキング)を受け、1776年5月に失脚。その後は隠棲してパリで自分の好きな研究に勤しんだが、フランス革命の始まりを見ることなく1781年、痛風が元で死去した(53歳)[6]

邦訳編集

主著『富に関する省察』(1766年刊)は永田清の訳で1934年岩波文庫に収録された。

参考文献編集

<参考サイト>
  • 西洋経済古書収集 <テュルゴー>”. 稀書自慢 西洋経済古書収集©bookman (2014年7月9日). 2015年8月20日閲覧。
  • Gonçalo L. Fonseca、Leanne Ussher(山形浩生訳). “経済思想の歴史”. アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot), 1727-17812015年8月20日閲覧。

出典・脚注編集

関連項目編集



私は、経済学をどう読んできたか (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2003/10



西洋経済古書収集ーテュルゴー,『富の分配と形成にかんする諸考察』
http://www.eonet.ne.jp/~bookman/zenkotennha/turgot.html

TURGOT, Anne Robert Jaques , Réflexions sur la Formation et la Distribution des Richesses, [No place], [No publisher] , 1788, pp.136, 8vo.

 テュルゴー『富の分配と形成にかんする諸省察』、1788年刊(本の形態での事実上の初版本、雑誌掲載は1770年)。
 著者略歴:テュルゴーTurgot, Anne-Robert-Jaques (1727-81)(著者表記にはチュルゴ、チュルゴォ等様々あるが、以下地の文ではテュルゴーと表記する)。ノルマンディ発祥の古い法服貴族家の三男として出生。父ミシェル=エテンヌはパリ市商人頭(現在の市長の該当)を11年間務めた。ちなみに、父の名のついたパリ地図は古書店で高値取引されている。当時の富裕な家庭の常として神学教育を受ける。コレージュを経てサン=シュルピス神学校に入学、1749年にはソルボンヌ神学部に入り、神学のほかに経済学・財政学・言語学・歴史学・哲学・数学・物理学等様々な学問を修得した。後に百科全書に「存在」の項目で哲学的著述をなしたように広範な教養はここで形成された。1750年ソルボンヌ僧院(大学機関の一種)長に選出される。僧院での歴史講演「人間精神の継続的進歩の哲学的素描」は良く知られている。
 テュルゴーは、剃髪は受けたが信仰心は強くなかったとされている。1751年父の死を契機に僧籍を離れた。但し、一生を独身で通している(失恋によるものともされる)。52年1月パリ高等法院検事総長補佐官の職を買い官界に進んだ。この転身が、父の死が原因なら、ジュリアン=ソレルの考えとは異なり、世俗の有力な後援者なしに高位聖職者になれぬと考えたのだろうか。なお、父の計らいでこの職に就いたと書かれたもの(ジャン=クリスチャン・プティフィス、2008、上p.224)もあり、この場合は自発的な還俗である。よく解らない。
 同年高等法院参事官となり、53年請願受理委員に就任する。この頃、無骨な客としてサロンに出入りする中で、経済学者ケネーとグルネーを相知るに至る。ガリアーニ、エルヴェシウス、ドルバック等とも交流した。ケネーには、「中二階の会合」に参加して経済学について学んだ。そして、特にグルネーについては、メントール(師父)と呼んで師事し、大きな影響を受けた。いわゆるグルネー・サークルにも加わった。通商監督官であるヴァンサン・ド・グルネーが主宰したサークルであり、そのメンバーには,フォルボネ、デュモン等の若き行政官や知識人が加わり、エコノミスト派とも呼ばれる。コルベルティスムの旧体制を打破し自由競争を目指す一方、先進国イギリスに対する保護を求める活動である。経済書や翻訳書の出版も行った。グルネーは国内の視察旅行にテュルゴーを同道して、見聞を深めさせた。1757年百科全書に経済の項目「定期市と市場」(Foires et marchés)」、「財団(Fonation)」を執筆(他に「語源学」、「存在」、「膨張性」の項目も発表)。これらは、グルネーとの対話の要約とされる(チュルゴ、1962、津田の解題による)。
 1761年リモージュ総徴税区長官(後の官選知事に相当)に任じられ、13年間在職する。リモージュは、リムーザン州の中心都市であり、長官は同州とアングーモウ州を管轄した。土地の瘠せた貧しい地域であったが、租税制度の改革、土地台帳の作成、賦役・民兵制度の変革、道路建設、穀物取引の自由化等数々の実績を挙げ、行政的手腕を示した。また、「グラスラン、『富および租税にかんする分析試論』」のページで書いたように、広く経済政策に関する一般の意見を徴するために懸賞論文を募った。これらの事は、彼の経済学的思考を一段と鍛えたであろう。この時期には、フランスに滞在 (1764-66) していたアダム・スミスと知り合ったともされる。
 能吏テュルゴーの優秀さは、ルイ十六世の重臣モールパ伯の目に留まり、1774年7月海軍大臣に抜擢され、8月に財務総監に転じる。財務総監とは、現在我国でいえば、財務、厚生労働、農業水産、経済産業、国土交通の各省と総務省の一部を併せて所管するような絶大な権限を有していた。しかし、海軍大臣より格下であり、地位を保つため国務大臣にも任命された。財務総監就任に当たって、即位早々の国王に、「破産せず、増税せず、借入せず」をモットーとする緊縮財政の「建白書」を提出する。閣僚として、コンドルセ(造幣総監)、デュ・ポン・ド・ヌムール(マニュファクチュール総監)等の知人も協力した。
 就任早々家畜伝染病の猖獗に見舞われその対策に追われながらも、9月に穀物取引自由の復活を国務諮問会議で採択する。しかし、不運なことには、1775年小麦不作により、「小麦(粉)暴動」が起ったことである。パンの高騰による暴動がデジョンに始まり、各地で暴徒が穀倉や製粉工場を襲った。パリでは暴徒が王宮に乱入する騒ぎになった。穀物取引の自由に固執するテュルゴーは軍隊を使い暴動を鎮圧、事態を収拾する。これが失脚の遠因となった。リムーザン州の飢饉(1770-71年) を経験したテュルゴーにとって、穀物取引は主要な関心事であり、その自由化は信念(エドガール・フォールは狂信と呼ぶ)である。暴動を経てもその信念は揺らぐことはなかった(ネッケル、『立法および穀物取引論』のページ参照)。
 暴動の秩序回復により、かえって国王の信認を厚くし政治的立場を高めた彼は、大規模改革に着手する。師グルネーの教えに沿う経済の自由化政策である。1776年2月「六つの勅令」が公布される。1.賦役の廃止、2.パリの穀物取締りと穀物に対する地方税の廃止、3.パリの河岸、市場、港にある監督事務所の廃止、4.宣誓手工業組合による職人ギルドの廃止、5.油脂税の廃止、6.食肉取引を奨励するという名目で実際には食肉価格を引き上げていたポワッシ融資銀行の廃止(チュルゴ、1962、津田の解題による)である。
 しかし、これらの改革は貴族・僧侶を初めとする特権階級ならびに地主階級・高等法院等の既得権益層の反発を招き、彼らは団結する。民衆の支持は、もとよりない。ティルゴーは閣内で孤立し、モールパとマリー・アントワネットの共謀により国王の寵も失い、失脚する。能吏ではあっても、政治家の手腕はなかったということであろうか。退隠後は、歴史や物理学の研究を楽しんだが、持病の痛風にてパリにて死亡。53歳であった。

 私が、テュルゴーを意識したのは、ハイルブロナー著『私は、経済学をどう読んで来たか』を読んだ時である。この本には、中世以前(聖書、アリストテレス、アキナス)を除いて、経済著作家17人を取り上げている。その一人としてテュルゴーを選んでいる。ちなみに古典派としては、スミス、マルサス、リカード、J.S.ミルが選ばれ、他にマルクス、限界効用学派として、ベンサム、ジェヴォンズ、ワルラス、マーシャル。二十世紀の経済学者としては、ヴェブレン、ケインズ、シュンペーターが選ばれている。古典派以前では、他にマンデヴィル、トーマス・マン、カンティロン、ケネーのみである。テュルゴーが大経済学者に位置づけられているのを知ったのである。
 どうも、テュルゴーは、玄人好みの経済学者のようである。ブローグ(1989、p.278)は、「『省察』は注目すべき書物であり、アダム・スミスの『国富論』の骨子(とくに分業の概念、商品の市場均衡価格と自然価格の区分、経済成長率の主要決定因としての実質貯蓄量の強調といったもの)を備えているだけでなく、利潤と利子との関係分析や農業における収穫逓減の法則の明確な叙述の点では、アダム・スミスを凌いでさえいる」という。
 シュンペーターは、そのフランス経済学者贔屓や既存の権威に対する過剰とも思われる評価顛倒の癖を割り引かねばならないにしても、「若しもマーシャルの『原理』からその本文、附註ならびに附録が取り去られて、ただその欄外の要約のみが――然もその全部でないものが――残されたならば、おそらくチュルゴーの『省察』と類するものとなるであろう。[中略]チュルゴーの理論的骨格は、その優先権を不問に付しても、なお『国富論』の理論的骨格よりも明白に優っている」(シュンペーター、1956、p.517)と評価している(注1)。そして、「十九世紀の最後の二、三十年において、甚だポピュラーとなった・価値と分配に関するあらゆる論考の先駆のものであるこの書物には、殆どなんの確定的な誤謬も見いだされないのである。もしもチュルゴーの論考の内容が敏捷な専門家によって正しく理解され且つ吸収されていたのであったら・その出版後二十年もすれば到達しえられたであろうような境地に、分析的経済学は百年を要して漸く到達したのだといっても、余りいい過ぎではない」(シュンペーター、1956、p.519)とする。
  シュンペーターがテュルゴーの業績を特筆している所が、もう一つある。『諸考察』ではなく(ブローグは、上記で『諸考察』にあるように書いているが)、後の「リモージュ農業協会から賞を授けられた諸論文に関する所見」(1767)の「サン・ベラヴィの覚書について」に書かれている所だから、ここで紹介する。フィジオクラートは、前払の増加はそれに比例する生産増をもたらすと想定していた。これに対し、テュルゴーは、「可変的比例の法則(law of Variable Production)」を定式化した。「二倍の前払いが二倍の生産物をもたらすなどとは決して仮定しえないのである。[中略]生産には超えることが出来ない最大限度があって、そこに達すると前払いは250パーセントを産出しないだけでなく、全くなにも産出しないのである」(強調原文)、「土地が生産しうるかぎりのものを産出する限界にずっと近づくと、きわめて大きな支出でも、いかにごくわずかしか生産を増大しえないかということ」(チュルゴ、1962、p.138)が理解できるというのである。シュンペーター曰く(1956、p.544)「チュルゴーがその法則を(可変的な生産要因の単位当たりの)平均生産量との関係によらないで、生産物の順次の増量分との関連において述べた点は、彼の功績として記録されねばならない点である。これは彼が実際に限界分析を用いたこと、また仮に現代の分析技術を掌握してもわずかに彼の言明の外形だけを改善しうるにすぎないことを意味するものに他ならない」としている。
 テュルゴー自身は、ケネーとグルネーの弟子であることを認めていた(デュ・ポン宛て書簡)。前者からは、再生産構造と純生産物の思想を、後者からは自由放任思想(”Laisse-faire, laisse-passer”という言葉はグルネーの創始とされている)、商工業の生産性及び資本概念を吸収した。テュルゴーに対する評価も、かつての「最高の重農主義者」から、「古典派経済学の創始者」へと変化してきている。しかしここでは、はなはだ凡庸ながら、18世紀末のフィジオクラートから19世紀初めの古典派経済学への移行期における偉大な経済学者としておく。

 この本の内容に入る前に、書誌学的な事実について書いておく。
 1766年11月起草される。イエスズ会の中国人留学生のために書き与えられたとされる。テュルゴーには公表の意志がなかったが、重農学派の機関紙となっていた『市民日誌』(Ephémérides du Citoyen)を編集するデュ・ポンの請いを入れて
 ① 同誌1769年11巻(§1~§30)、12巻(§31~§72)と1770年第1巻(§73~§100)にこれを分載することとなった。実際には、雑誌の発行遅延により1770年の、1月、2月及び4月に出された。標題は『X氏著富の形成と分配』、判型は12mo.である。匿名はテュルゴーの希望によるもの。連載の最後に"November 1766"と記されており、1766年の執筆であることは、デュ・ポン宛書簡でも裏付けられる。
 しかし、掲載に際して、デュ・ポンは重農主義の主張に合わせて勝手に原稿を改変したため、テュルゴ-は激怒、修正を要求した。
 ② 1770年テュルゴ-の要求による別刷り修正版を発行。発行地、著者名の記載なし。判型は、12mo.で163ページ、§1~§101から構成。発行部数は100~150部とされる。
 極稀覯本である。この1770年別刷り版の現存は3冊確認されている。コロンビア大学のセリグマン・コレクションに1冊およびパリの国立文書館 Bibliothèque Nationale に2冊(内一冊は標題紙なし)である。「正誤表」の付いている本もあると書かれているが、私の調べた所では、少なくともセリグマン・コレクション本は「正誤表」付である。
 ③ 1788年版発行。著者名テュルゴーを表記した8vo.、136ページの「本」。§1~§100から構成(§66が重複)。私蔵本の版である。この版は、テュルゴーの長年の友人であり、共働者でもあったコンドルセの監修(あるいは編集)の下に出版されたと思われる(注2)。そして、それはテュルゴーが出版したいと望んでいたテキストと推定され、彼の思想と理論を最も良く表している版であると思われる。Groenewegenと Meekは、テュルゴーの『省察』を翻訳するのに、この版を底本に採用している。②が雑誌の「別刷り」であることを考えれば、事実上の「初版本」と考えてもいいだろう。
 なお、②と③の間には、翻訳本として英語版およびドイツ語版が存在する。しかし、それらはあくまで翻訳(①または②を基にしたものであろう)であり、ローカルな出版である。フランス語版が正規の「国際版」なのである。(③についての記述は、欧州の研究者のご教示による所が多い:ブログ参照)。17世紀後半以降、フランス語はラテン語にとって代わって国際語としての地位を高めていたのである。
 この1788年版も稀覯で、日本の大学ではメンガー文庫(一橋)、シェル文庫(小樽商大)他、計4冊しか所蔵されていないと思われる。

 十八世紀ヨーロッパは、支那趣味の時代と名づけられるような時代であった。と、偉そうに云っても、中公文庫に収められた『清帝国の繁栄』その他宮崎市定の諸書で読み知っているにすぎない。ケネーは『支那論』を書いているし、テュルゴーもグルノーブルの孔子廟に詣でようとした。これらは、時代の雰囲気であった。中国文明をヨーロッパに紹介したのは主としてイエスズ会の宣教師たちである。この『諸考察』の成立もそれに関係する。イエスズ会は、中国人をフランスに留学生として派遣し、帰国後宣教師として活用したことが、『イエスズ会士 中国書簡集』(平凡社東洋文庫)に見られる。1766年、高と楊という留学生(私には、両名の名は『書簡集』には見出せなかった)が帰国の際、テュルゴーは、『諸考察』と『二人のシナ人あて、シナにかんする質問』を書いて与えた。『諸考察』は、元来『質問』の前文として役立させるため、「社会の諸労働と富の分配に関する分析的素描」として書かれた(テュルゴーのタッカー宛て書簡)。現在では逆に、『質問』が『諸考察』理解のための前文として役立っているのである。
 本書は、100節(§)の短い項目(私蔵本の1788年版は第66節が重複のため実際は101節で、136ページ)からなる小さな本である。各節は、標題(としては長すぎるものもある)とも内容の要約とも取れるイタリックの文章が冒頭に置かれ、短い本文がそれに続く。いま、その内容を『市民日誌』の分載時の区分に従って、自分なりにまとめると次のようである(但し節番号は、シェル版=津田訳によるもの。以下本書の翻訳は津田訳により、引用は頁ではなく節番号のみを示す)。§1~§28は、社会階級と分配を扱う制度論。§29~§71は、予備的考察として最初に貨幣、商業、交換、価値を論じた後、資本及び企業・企業利潤論。§72~§100は、利子及び資本使用・蓄積論――となる。

 (社会階級と分配の制度論)
 すでに、若きソルボンヌ僧院時代(1751)に「普遍史」の著作のなかで、人類経済の発展段階として、狩猟・牧畜・農耕の三段階を区分している。モンテスキューが空間的に併存する生活様式と見た(『法の精神』18編8章)ものを、歴史的・時間的な発展形態と見たのである。この発展段階説は『省察』では、少し後の§54で、「動産の富」に関連して書かれている。この三段階説(あるいは商工業を入れて四段階説)に基づき、農業社会の階級分化、分業の発展、技術進歩等を『諸考察』の最初の部分で展開する。民俗学や文化人類学のように実証的なものではない。ヴィーコに始まる推測史と云われるものである。
 もし、一国の住民が生存に必要な土地を分配されていれば、各人は平等であり自活できるであろう。しかし、すべての土地があらゆる物を産出できないから、これは不可能である。適地適産を行い、生産物を交換するのが有利だと分かる。人間の欲求を満たすには、自然の産出物に、技術によって加工する必要がある。長く困難な加工は、分業を生み、交換を発達させた。必要は、農業労働者から工匠を発生させる。ここで、テュルゴーは農業の優位を説く。それは、フィジオクラート流の農業のみが純生産物を生む(後に§7で述べる)という意味ではない。「それは物理的必然の優位である。一般的にいえば、農業労働者は他種の労働者たちの労働なしにすますことができる。ところがいかなる労働者も、農業労働者がまずかれを食べさせなければ労働することはできないのである」(強調原文:§5)。そして、競争により労働者賃金が生存費水準にまで限定されるともする(注3)。
 社会は富を生産する農業労働者(「生産階級」と呼ぶ)と加工労働と交換に生活資料を受け取る工匠(同「被雇用階級」)に分かれることになる。初期社会では、農業労働者は即ち土地所有者であった。しかし、肥沃な土地から順次占有され、すべての土地が占有されると、土地を所有できなかった人々は、被雇用者階級となる他なかった。土地所有者は、彼の必要とする食料と工業品との交換分以上の余剰を土地から得られる。この余剰をもって賃金とし、他人を耕作にさせることがでる。賃金生活者にとっては、工業労働も耕作も賃金を稼得できる点では同様である。土地所有者と賃金耕作者が分離することになる。
 土地所有者の側では、土地占有時の労力の大きさ、土地の肥沃度、相続、経営の勤勉さ等の差異により、売買・担保処分を通じて土地の集積が起こる。自分で耕作できる以上の広大な土地を所有するものは、「収入」(=純生産物)を確保し、農業労働者は労働報酬を得る。こうして、社会は耕作者である農業労働者(「生産階級」)、工匠(「被雇用者階級」)、土地所有者(「自由に処分しうる階級」)の三階級に分解される。最後の「自由に処分する階級」という意味は、この階級だけが、個人的奉仕または自己の収入の一部の支払いにより、軍務・行政等の社会の必要に従事できる階層であるからである。
 耕作者と工匠という二階級は、賃金によって生活するという点では類似しているが大きな相違がある。工匠は労働と交換に土地生産物を受け取るにすぎないが、耕作者は工匠の分は勿論、土地所有者の必要分まで生産するのである。「土地所有者は物理的秩序の必然性によって耕作者を必要とする。なぜならこの物理的秩序のために土地は労働者なしになにも産出しないからである。しかるに耕作者が土地所有者を必要とするのは、たんに人間の慣習と市民的法律が[中略]かれらが占有していた土地の所有権を保障したからにすぎないのである」(§17)。耕作者の自然的・物理的優位は、彼らを「社会の全機構の始動力」としている。ここでのテュルゴーは、農業のみが純生産物を創造するという点ではフィジオクラート的ではあるが、地主の土地保有権を自然の支配(自然法)によるものではなく、慣習と市民的法律によるとする点では、フィジオクラート越えているのである。
 次に、土地所有者が純生産物を取得する方法の記載が続く。テュルゴーの順番とおり列記する。賃労働が最初にあげられているので、歴史的発展の順序によるものでない。①賃金労働者による耕作、②奴隷(または農奴)による耕作、③定額地代支払いを条件とする土地譲渡、④分益小作農、⑤借地小作農による土地賃貸、である。
 この中、最後の二つの方法が最も一般的に行われている。④がメティエによる耕作でありフランス南部の後進地域で見られる。⑤はフェルミエによる耕作で北東部の先進地域で見られ、最も有利な方法であるとする。この観察はケネーと同じものであり、ケネーが「経済表」の前提とし、全国に拡大するのを望んだのも⑤の経営方法である(ケネー、「経済表」のページを参照下さい)。

 (予備的考察・貨幣、価値論)
 次に、企業及び企業利潤論の予備的考察としての、貨幣、商業、交換、価値を論じた部分(§29~§47)に入る。金銀があらゆる種類の富の代表となった過程を説明するには少々後戻りする必要があるとして、商品交換から始まり価値を論じている。この部分は、あるいは『国富論』第一篇第四章「貨幣の起源と使用について」と同様である(山口、1930)とされ、あるいは『資本論』の価値論における「簡単な価値形態」、「一般的価値形態」や「貨幣形態」の展開(第一巻第一篇)に相当するとも(武田、2013)書かれている。またあるいは、「すべての商品は貨幣である」、「逆に、貨幣はすべて本質的に商品である」(§39,40)という表現に、任意の一財を貨幣とするワルラスのニュメレール(numéraire)を見る人もいる。ここに様々な経済学の古典(の一部)の祖形を発見できるのは確かだとしても、余り重要とは思われないので詳細を割愛する。ただ、価値論の部分について、少し触れておく。但し、『諸省察』の記述は余りに簡略なので、未完ではあるが少し丁寧な説明がなされている、論文草稿『価値と貨幣』によって補充してテュルゴーの価値論を見る。該論文は、ガリアーニやグラスランの著書も参照して、少し後に書かれた(1770年頃か)ものである。
 主観的価値論を採り、効用、卓越性(欲望を満足させる程度)、希少性を価値形成における「三要素」としている。ロビンソン・クルソーのような(とは書れていないが)孤立人の場合でも、価値決定がなされる。彼は「自然との最初の取引」(強調原文)を行っているからである。「この取引では自然は、人間が自分の労働によって、つまり自分の能力と時間を使って獲得するのでなければ、なにひとつ提供しないのである」(チュルゴ、1962、p.155)。そこでは、諸物を獲得するのに彼が持つ能力全体のなかで、欲望を満たすためにある特定の物に用いようとする能力、の割合が物品の価値となる。それは、「尊重価値」と呼ばれる。
 次に二者の交換が導入される。一人は薪を持ち、今一人は穀物を持つ場合のように。交換は各人が手放す物品より、受け取る物品に大きな尊重価値を認めねば交換は起こらない。二人は掛け合い、より少なく与えて、より多く受け取る原則によりながら、交換が成立するためには、少し与える量を増やし、受け取る量を減らさなければならない。こうして、両者は交換が相等しいと認め、交換価値が成立する。この交換価値を「評価価値」と呼ぶ。「評価価値」は、二人の「平均的尊重価値」となる。すなわち、二人のそれぞれが交換対象物の探求に当てようとする各自の能力合計と二人の全能力の合計との比率である。価値の概念を完成するには、「これまでの仮定を拡大して交換者と交換物の数をふやしさえすればよい」(同、p.162)と書かれながら、交換者を四人にして、より一般的な「評価価値」が成立する叙述の途中で『価値と貨幣』は、終わっている(『諸省察』には交換物数の拡大例がわずかに説明されている)。

 (資本及び企業・企業利潤論)
 ここでの議論は、次のことを明らかにする所にある。すなわち、「土地の耕作やあらゆる種類の製造やあらゆる部門の商業が、いかに、大量の資本、すなわちまず企業者によってさまざまな労働階級のひとつひとつに前払され、毎年一定の利潤をともなって企業者の手もとにもどるはずの蓄積された大量の動産の富にもとづいて、営まれているかということ[中略]この前払と、この資本の継続的回収こそ、貨幣の循環と呼ばれるべきものを構成する」(強調原文:§68)ことである。
 ケネーは、資本を具体化され投資されている資本財、生産資本(前払)として、しかも農業の純生産から発生するものとしてのみ捉えた。テュルゴーは、資本をなによりも循環する貨幣的資本として捉え、資本を所有する「資本家」(農業資本家のみならず工業・商業資本家)の生産・流通面の機能を明らかにした。経済の再生産が、農・工・商業を通じて、資本の循環過程として把握されているのである。ここにテュルゴー経済学者としての偉大さがあり、『諸考察』の「切れ味」(武田、2013)があるのであろう。
 この資本概念をテュルゴーは師グルネーから、継承した。「資本」及び「資本家」という言葉も、グルネーからの相伝である。もっとも、後者はグルネーの造語であるにしても、前者はラテン語(capitalis)に元々あったものである。先にグルネー・サークルは、翻訳書の出版を行ったと書いた。これらの思想・用語は、グルネーが英国のジョサイア・チャイルド『新交易論』(A New Discourse of Trade 1693)の翻訳ならびにその注釈書「チャイルド交易論注釈」(Remarques sur le commerce de Child)執筆のなかで培った思想である。それをテュルゴーは、学び取ったのである(中川2013;渡辺1967)。
 テュルゴーの議論を『諸省察』に従って、見てゆくことにする。まず、資本の蓄積(節約)過程を推測史的にかつ分析的に叙述している。生活に余裕のある土地所有者の中には、不慮の災害に備えるためや、単により富裕になるために、収穫の一部を保蔵する人が現れた。最初の富は土地によって提供された。家畜も動産の富であった。両者は耕作以前から富であった。奴隷も動産の富である。動産の形態で蓄積された富は、貨幣が知られようになると、変質せず容易に保蔵できる貨幣で蓄積された。農・工・商を問わず、労働者あるいは労働者を働かせる企業者は、前払=富を必要とする。農業の場合は、種籾、家畜、農具、収穫時までの労働者食料等である。耕作が盛大になるほど前払も大きくなる。「大きな前払によってはじめて豊富な生産物がえられ、土地は多くの収入をもたらすものである」(§52)。それは、道具と材料が必要な工業でも同様である。
 土地は家畜・奴隷と交換され、商業のなかで他のすべての財と比較される価値を持つに至った。貨幣導入後の時代では、「毎年、支出に要する以上の価値を受けとる者は、誰でもその余剰を蓄え、蓄積することができる。すなわちこれらの蓄積された価値が資本(capital)と呼ばれるものである」(§58)。資本の評価額は、その資本が生む収入と等しい収入を生む土地の価額と等価とされた。「この価値総額、すなわちこの資本が一種の金属からなっていようと全く別のものからなっていようと、それは全くどうでもよいことである。なぜならあらゆる種類の価値が貨幣を代表するように、貨幣はあらゆる種類の価値を代表するからである」(§58)。
 初期社会の時代には、労働させるものは、材料を提供し、賃金を日払いしていた。粗雑な手仕事以上をするには、わずかな前払では足りない。社会の大部分の人が「生きるために自分の腕しか持たなくなった」(§59)時代には、前払も巨額になる。原材料、道具類、建物等の生産手段も高額になるが、労働者を技能に熟達するまでに支払う賃金も多い。これらに必要な前払を資本所有者は提供することができるのである。こうして、工業品を生産する階級(「工業被雇用階級」)は、二つに分化する。第一は、マニュファクチャー企業者、工場主および労働者を働かせる大資本所有者である。第二は賃金を得るだけの工匠である。農業においても、耕作者階級は製造業と同じように二階級に分化する。「すなわち、いっさいの前払いを行う企業者すなわち借地農のそれと、単なる賃金労働者のそれである」(§65)。
 生産階級と工業被雇用階級の生産性・非生産性の観点ではなく、この両階級を「賃金鉄則」の貫徹する賃金労働者階級として統一的に把握した。これに対し、土地所有者や資本家は、「富を自由に処分しうる階級」(§93)である。ここに至って、テュルゴーは、社会の階級を事実上、地主、資本家、賃金労働者の三階級と捉えている。フィジオクラートの生産階級・不生産階級の区分から抜け出ており、古典派の階級区分に実質的に等しいといえよう。
 繰り返すが、資本所有者は土地を購入することもできる。しかし、彼はそれを工業企業の資本として前払することもできるのである。この資本家は、当然、地主として土地に資本投下した場合に得られる以上の利益を求めるであろう。彼の労働、注意、危険負担、技能に対する報酬を要求するからである。テュルゴーは、借地農(農業資本家)も同様であるとして、彼らは資本の回収の他に「1.彼らがなんら労働しなくてもその資本で獲得しうるであろう収入と同額の利潤、2.賃金とかれらの労働、危険および技能の価格、3.かれらの企業で使用される動産の消耗つまり家畜の死亡、道具の損傷等を年々補填するに必要なものを、取得しなければならない」(§62)としている。
 ここで、注釈を加えると、3.は減価償却に当たる部分をいっているのだろうから、利潤は1.と2.の合計である。利潤に経営者の報酬が含まれているのである。それは、テュルゴーの(工業)企業者(注4)が、原文(§61)では「資本家的企業者」(Entrepreneur capitalistes)と書かれており、耕作企業者は「資本家耕作企業者」(capitalistes entrepreneur de culture)とも書かれていることと関係があるに違いない。資本家は企業者を兼ねて考えられているのである。しかしながら、「大農業企業を形成し維持し[中略]しかもできるだけ大きな収入を土地所有者に保証するものは、まさに資本のみであるということがいっそうあきらかである」(§65)という表現は、資本家兼企業者としては、企業者機能よりもむしろ資本提供機能を重大視しているように思える。資本家は企業者ではあるが、なにより資本供給者である。このくだりは、後記補論(企業者と資本家の関係は長くなるので、「補論」にした)のスミスの記述を思い起こさせる。この点でも、テュルゴーはむしろ、古典派経済学者に分類されてもよいように思える。
 利潤に関連して、もう一つ付け加えることがある。テュルゴーは、利潤が産業を問わず普遍的に成立することを認めたことである。ケネーは、純生産物は農業によってのみ発生するとした。利潤についても、農業でしか認めていない。独占による特殊な場合や、売買の利鞘として一時的に成立する場合(さればこそ、ケネーは経済自由化を求めた)を除いて、不生産部門(工業)の利潤を認めていない。不生産部門は工匠の生活費で工業品を販売するのである。「人間を雇用するにあたって、手間賃しかもたらしえない労働の生産物[不妊的労働の生産物]とそれを支払ったうえになお収入をえさせる労働の生産物[生産的労働の生産物]」(『穀物論』:ケネー、1952a、p.68)と表現している。商業についても利潤を認めていない。「商業が利潤をもたらす、乃至は利潤を生産する」という主張に対しては「利潤は商業には適用されえないのであって[中略]君がここに利潤とよんでいるものは、厳密にいうと、最初の買い手と消費者たる買手とに対する損失を帳消しにさせるにすぎないわけである」(強調原文:『商業について』:ケネー、1952b、p.183)。
 これに対し、テュルゴーは、全産業で恒常的に利潤が発生することを認めた。資本を循環する貨幣的資本として把握した彼にとって、農業や工業という投下される産業によって資本の性質が相違するはずがない。そして、その資本には収益性という特質があるなら、利潤は農業に限らず、全産業で発生することになる。
 その説く所は、『諸考察』において、特に節を設けて論じられてはいない。議論は、諸節に分散して置かれている。工業に利潤が存在することについては、工業企業者の利潤として経営管理の報酬をも要求するという上記の箇所で明らかであるので省略する。商業利潤についてはどうか。テュルゴーは、商業の役割を積極的に評価する。企業者は資本を生産に再投入するために、早急に手元に回収されることを望む。しかし、消費者は収穫時あるいは製品完成時に生産物を必要とするとは限らない。消費者は何時でも、何処でも望みのままに購入したい。生産者は売る機会を消費者は買う機会を見い出し、しかも買手を待ったり売手を探したりするのに貴重な時間を損失しないという二重の利益のために、商人が介在する必要がある(§66)。そして、「この[前払:引用者]回収とこれらの不可欠な利潤の保証がなければ、いかなる商人も商業を企図しないであろうし、だれもそれを継続しえないであろう」(§67)。
 こうして全産業に発生した利潤が蓄積され、資本が増殖されて、拡大再生産が可能となる。企業者は「製品の売却によってこの資本がかれのもとに帰ってくるにつれて、かれは、この継続的な循環によって、その工場を補給し維持するための新たな購入にこの資本を使用する。すなわちかれはその利潤によって生活する。しかもかれは、資本を増大するため、そしてさらにそれを前払い総量に加えてかれの企業に投入し、それによって利潤をさらにふやす」(§60)。単なる資本循環以上のものがつけ加えられている。
 以上テュルゴーが、利潤は全産業に発生し、資本蓄積の原資となるとしたことをみたのであるが、純生産物についてはあくまで農業によってのみ発生するとの考えは変わらなかった。『諸考察』の最終部分に近いところで、繰り返しいう。「利潤が、労働者の賃金に、企業者の利潤に、前払の利子に配分されても、その性質が変わるわけでもないし、また生産階級によってその労働の価格以上に産出される収入の総額をふやすわけでもない。工業階級はただその労働の価格のかぎりで収入の配分にあずかるにすぎないからである。/ゆえに、土地の純生産物以外に収入はないということ[中略]は疑う余地のないことである」(§98)。商工業の利潤も農業の純生産物のおこぼれに過ぎないと見ていた。ここでの、テュルゴーはフィジオクラートのしっぽを引きずっているのである。但し、テュルゴーには良く知られた次の事実がある。1766年のデュ・ポン宛て書簡で、デュ・ポンが工業階級の不生産性を過度に強調しすぎると批判し、むしろ商工業に対する現実の規制に反対すべきだとしたことである。

 (利子及び資本使用・蓄積論)
 利潤の一般的成立に続いて、このパートでは、資本の使用(蓄積)法が扱われる。その前に利子についての、予備的な説明がある。資本はあらゆる企業に不可欠であるが、十分に所有しない者にとっては貸付を受けるほかなく、その対価が利子である。「この価格[貸付け価格=利子:引用者]は、すべての商品のように、売手と買い手のあいだの掛け合いによって、つまり供給と需要との均衡によって決められるのである」(§71)。借り手は、消費や投資等様々な要求により借入れる。貸手は、受け取る利子と資本の安全という二つの事にしか関心がない。テュルゴーは、スコラ哲学者達の利子否定論や利子正当化のための複雑な論証を一蹴する。貸付は相互の利益のために行う自由契約である。貸手には貸付ける義務はない。貸手は、「貨幣が自分のものであるという唯一の理由によって貸付の利子を要求する権利をもっている」(§74)。貸手が利子を要求するのは、パン屋がパンの代価を買手に要求するのに異ならないと。
 ところで、貨幣は二つの評価を持っている。商品売買の際の評価と、貸し付けの際の評価である。前者の価値は、商品量と流通貨幣量との関係で決まる(貨幣数量説?)。後者は保蔵された貨幣量の需給関係で決まる。その供給は、節約により増加し、奢侈により減少する。これら二つの評価は相互に無関係で、流通貨幣量が増加したとしても、利子率が低下するわけではない(§77~§80)。商品流通を媒介する貨幣流通量と、商品流通以外の保蔵貨幣が借主に移転される金融的流通量が、截然と区分されている。これは高木暢哉(1942、p.310)によると「ヒューム的見解」である。
 そもそも貨幣は何故利子を生むのか。換言すれば貨幣の需要・供給メカニズムは、何故将来の貨幣に対して現在の貨幣にプレミアムを生じるのか。テュルゴーの回答は、こうである。蓄積された動産の富の一定の蓄えを保持することは、生産に不可欠な先決条件である(§51)(注5)。そして、「資本が利子を生むのは、それが生産的努力と生産物との間の一時的なギャップを架橋するからである」(シュンペーター、1956、p.701による)(§59,60)とする。シュンペーターいわく、この答えは今日ハムレットからの引用のように陳腐になってしまったが、18世紀が生んだ利子理論分野の最も偉大な業績であり、19世紀末のボーェム・バウェルク等の利子理論の先駆ともなったものであると。
 本論に続く。一国の土地がすべて占有されている現状では、人が富裕になるには、生活に必要以上の収入あるいは利潤を取得して資本を形成し、それを増殖する方法しか残されていない。ゆえに資本蓄積に関心が持たれる。資本の使用法には次の五種の方法がある。①土地購入、②農業企業への投資、③工業企業への投資、④商業企業への投資、⑤貨幣貸付、である(§82)。それぞれの投資から得られる収入(ここでの「収入」は重農主義の純生産物の意味ではない、念のため)は、①が地代、②~④が利潤、⑤が利子となる。フィジオクラートは、①と②の収入を認めていたし、⑤の利子収入も正当性についての論争に見られるように存在そのものは否定しようがない。テュルゴーは、③、④の投資利潤が一般的に成立することを、前のパートで縷々述べたのである(§59の標題は「製造および工業の諸企業の前払としての貨幣の別の用法」であったし、§66の標題には「商業企業の前払いとしての、資本の第四の用法」とあった)。だからこそ、ここで、商工業利潤も利潤一般の一区分として列挙できたのである。
 さらに、資本の使用法の相違による収入間の量的な関係、地代(率)・利潤率・利子率の均衡に説き及ぶ。地代収入は「ごくわずかな骨折りで一定の収入を手に入れ」(§84)られるので一番低い。貸付利子は貸し倒れの危険があるので地代より高い。企業者利潤は、「その資本の利子のほかに、彼の注意、労働、才能、危険を償う利潤と、その上、変質しやすく、あらゆる災害の危険」(§86)を考慮しなければならないので、地代や利子よりはるかに高い。よって、地代<貸付利子率<企業利潤率という形の「一種の均衡状態」が成立する。「サン・ベラヴィの覚書について」(1767)では、土地取得は苦労が一番少ないが、安全は第二であるとしつつ(総合した収益性の順位は書かれていない)、「貸付貨幣の利率は与えられた第一の尺度であり、いわば土地の売上価値と、耕作、工業および商業の諸企業における前払の利潤とがそれによって定められるところのパラメーターである」(チュルゴ、1962、p.142)と書かれている。
 そこで、ある収入が増減すれば、そこに資本が投入・回収され均衡化作用が働き、新たな均衡状態に落ちつく。「要するに、なんらかの貨幣使用の結果、利潤の増減が生じるやいなや、資本は他のもろもろの用途から回収されてある用途に投入されたり、ある用途から回収されて他のもろもろの用途に投入されたりする。そしてこのため、必然的にそれぞれの用途において資本と年々の収入との比が変わるのである。一般に、地所に換えられた貨幣がもたらすものは、貸付け貨幣より少なく、貸付け貨幣のもたらすものは困難な諸企業に使用される貨幣より少ない」(§87)。
 これら資本の可動性と均衡についての考察は、古典派の競争と資源の可動性にもとづく諸商品市場での市場価格の理論、さらには新古典派の一般均衡にまで連なるものであろう。

 シュンペーターのいうようにテュルゴーには誤謬はないのかもしれない。しかし、矛盾はある。それらは、最後の10節、総括の部分に見られる。この部分も見ておこう。
 フィジオクラートの考えから離れて全産業に利潤が発生するとしていながら、純生産物は農業にしか生まれないと確認した(§98)ことについては先述した。一国の富の計算に貸付資本を含めるべきではない(§91)、貨幣貸付の資本家は実質的に地主階級に属する(§92-94)という箇所も、それまでの説明に反して後戻りをしているように思える。山口(1930)は、それを「重農主義への復帰」と称した。もう一つ、重大な矛盾は貸付金にかんするものである。
 利潤は全産業に発生することが可能で、それらを蓄積できることを説いた。また、資本の投資として、資金を農・工・商の企業に投じることも分析してみせた。しかるに総括においては、企業者の資金調達について、資金借り入れを否定し、専ら内部留保しによる自己金融に限定した。「企業者は、いわゆる収入を持っていないが、かれらの生活資料をこえる余剰を持っており、かれらのほとんどすべての人は、もっぱらの自分の企業に従事し、自分の財産増殖に専念し、労働することによって費用のかかる娯楽や道楽を遠ざけ、余剰を全部節約して、これを企業に再び投じかつ増殖する。耕作企業者の大部分はあまり借金せず、ほとんど全部の人が、自分自身の資金だけを利用する。 [中略] 他の諸分野の企業者もそうなろうと努力するが、非常な手腕がないかぎり、借入れ資金で企業を運営する者は多くの失敗の危険をおかすのである」(§99)。企業者は、借入れをせず、専ら自己資金で営業するか、あるいはそうしようと努力する。借入金経営は危険だというのである。そうして、「資本の年々の増加は貨幣によって行われるのである。しかしすべての企業者は、この貨幣をかれらの企業活動のもととなるさまざまな性質の動産にただちに変える以外は使用しない」(強調原文:§100)。企業家の貯蓄はすべて、直に、自己の企業活動に投資されるのである。
 このことは、アントイン・E・マーフィーが指摘する『諸考察』には、「『信用』や『銀行』はまったく言及していない」(中川、2013、p.135からの孫引き)ことに相応するのであろう。もちろん、株式を含めた証券の直接金融の事も出てこない。これで、円滑な資本の循環が可能のであろうかと思わせるほどである。もっとも、手形については触れられている(私の気づいたところでは、§79)。手形は企業間金融であるが、割引を考えるなら銀行(金融機関)の存在が想定できる。
 それはともかく、『諸考察』には銀行・信用論はないけれども、テュルゴーは、『商業、貨幣流通と利子、諸国家の富にかんする著述プラン』(1753-54)に見られるように、若年からロー・システムを批判していた。さらには、ロー批判のための『紙幣にかんする書簡(未完)』(1749)には、金融論が論じられている。後者の著述は、翻訳(英訳はある)がなく私は見ることができなかった。そのため、次のテュルゴーの金融論については、参考書による。彼の金融論は、ローとは付かず離れずの立場を取ったカンティロンの信用論の影響を受けた。銀行の信用創造は認めず、銀行は預金の範囲内で短期の貸付けを行うものとしたのである。銀行信用は短期流通資金の融資に限定したのである(中川、2013)。テュルゴー(およびガリアーニ)の銀行信用論はカンティロンの学説と同じであることは、シュンペーター(1956、p.672)も認めている。古典派の経済学も、カンティロン―テュルゴーの系譜につらなり(注6)、銀行は信用創造による長期資金の供給というより短期流通資金の供給機能を担うものとして考えられている。まして、内部留保による自己金融は考えられても、証券発行による直接金融は考えられていない。

 (補論 企業者と資本家の関係)
 ここで、企業者と資本家の関係を振り返ってみたい。まず遡って、フランスの経済学著作の扱いを確かめたい。といっても、これまで、このサイトで取り上げるために読んだカンティロンとケネーを中心とする著作の範囲を出ないが。
 「企業者」(entrepreneur)という言葉が経済学史上に最初に(明確に)現れたのは、カンティロン『商業試論』であることは周知である。カンティロンの企業者は、フェルミエ(借地農、小作人)としての例から始まって、商工業にも及んで論じられている。経営者機能の説明もフェルミエにおいてよく説明されているのである(第Ⅰ部第13章)。また、「彼ら[企業者:引用者]が自分の企業の経営する資本をもって自立していようと、あるいは何らの資本もなく自分自身の労働によるだけの企業者であろうと同じで」(カンティロン、1992、p.38)あるともしている。カンティロンはフェルミエから企業家概念の発想を得、企業者の要件として資本の保有は必ずしも必須ではないと想定しているように思える。
 ケネーは、「企業者」という言葉は使用していない(と思う)が、彼の「生産者階級」は大規模経営のフェルミエであり、資本家的農業を営んでいる。事実上の「企業家」であろう。しかし、ケネーの経済は基本的に静態的で単純再生産であるから、企業者機能に関心を持たなかったし、考察を深めることもなかった。「生産者階級」の「前払」の所有・蓄積についての詳細な記述もなかったように思う。まして、「不生産階級」である商工業者の企業者機能は無関心であったであろう。
 以上から考えるに、封建制の土地制度の中から資本主義的農業経営が勃興してくると、一定の規模を確保するためには、入り組んだ近隣の農地の所有者から農地を賃借して農業経営を実施するために地主とは別の「企業家」という経営主体が必要となった。しかし、さらに経営規模を拡大するようになると、農業労働者の賃金支払や生産手段に大きな資本が要求されるようになる。商工業にも同様の傾向が見られた。そこで、テュルゴーのように経営者は資本所有者と同義となったのではないかとも思える。経済史上の事実は、調べぬままの印象ではあるが。
 それでは、テュルゴー以降はどうか。古典派経済学の扱いをみるために、スミスの著作を引く。スミスは、当然、利潤を利子とは区別していた。「資本から、それを管理または使用する人によって引き出される収入は、利潤と呼ばれる。自分では資本を使用しないで、それを他人に貸付ける人がその資本から引きだす収入は、利子または貨幣の使用料と呼ばれる」(『国富論』第一篇第六章、大河内監訳Ⅰp.89)。そして、「資本を管理または使用する」には企業家的役割が必要なことも認めていた。「多数の労働者を雇用する資本の所有者はとうぜん、自分の利益のために、達成可能な最大量の製品が生産できるように、仕事の適切な分割と配分を行おうとつとめる」(『国富論』第一篇第八章、大河内監訳Ⅰp.147)。
 その上で、しかしながら、「資本の利潤とは、ある特定の労働、すなわち監督し指揮する労働の賃金にたいする別名にすぎない、と考える人があるかもしれない。けれども利潤は、賃金とはぜんぜんちがったものであり、まったく異なった原理によって規定されるものであって、監督し指揮するというこの想像上の労働の量や辛さや相違とは、少しも比例するものではない。利潤は用いられる資本の価値によってまったく規制され、この資本の大きさに比例して、大きくもなれば小さくもなるのである」(『国富論』第一篇第六章、大河内監訳Ⅰp.82-83)とした。スミスにとって、利潤は、企業者的な「管理」によって規定されるものではなく、資本量によって決定されるものである。資本家は資本所有者にすぎなくて、その企業家的機能は無視されたのである。それは、リカード、J.S.ミルと古典派経済学に連綿と継承されてゆく。資本さえあれば、「古典派経済学からは、個々の事業は自動的に動いていくとの印象を受ける」(ヘバート、リンク、1984、p.75)。
 フランスでは、テュルゴー以後、19世紀に入ってからも、セイが『経済学概論』(初版1803)の後期の版と『経済学講義』(1828)で経営者機能を詳しく論じた。マンゴルドやシュンペーターのようなドイツ経済学者達によって、経営者機能が強調されたこともあった。しかし、これらは経済学主流には大きな影響を与えることはなかった。20世紀になって、バーナム『経営者革命』のような資本と経営の分離として論じられるまで、経済学において経営者の機能は、一般的には充分取り上げられなかったというのが私の印象である。

 オーストリアの個人蔵書家からの購入。このホーム・ページを見て知遇を得た台湾の愛書家の斡旋のおかげで購入できた。書店からも購入申し込みがあり、個人への売却の場合も、全蔵書の一括購入が条件であった。「国際シンジケート」を結成し購入。中でも、本書が最も値の張る本であった。小生の蔵書中でも一番購入額が高かった本である。本の一部の不具合も斡旋者の尽力で補修された。上記の如く国内大学では、4冊の蔵書があるのみと思われる。稀覯書である。

 

(注1)しかし、『国富論』の優位はその体系的著述にあり、「<経済学においては>今日になってさえ、物理学に見られるように一頁にも足りないような論文で国際的な思想を形成しうる時は、なお遠き将来に属しているのである」(シュンペーター、1956、p.517)と嘆いている。
(注2)Groenewegen(1998)にも次の記述がある。「彼の生存中には著作はほとんど出版されなかったが、1788年から1792年にかけて彼の主要な著作が、友人であるコンドルセやデュ・ポンによって再出版された」(私訳)。ここで、1792年がどの本の再版を指しているのか、私には解らないが、1788年は『諸考察』がコンドルセによって出版されたことを意味しているのではないか。
(注3)「生存賃金説」を採りながら、労働の報酬として「農業労働者の生活資料と利潤をふくむ」(§14)とも書いている。この場合、テュルゴーは、農業労働者の範疇に企業者を含めて考えていたのであろう。
(注4)津田訳では(§61)の標題を「工業被用者階級は企業者、資本家と単なる労働者とに細分される」と訳している。原文は”Subdivision de La Classe stipendiée industrieuse, en Entrepreneurs capitalistes & en simples Ouvriers."である。ここは、”Entrepreneurs capitalists”を企業者と資本家に分けるのではなく。資本家的企業者とするのが正しいのではないか。
(注5)シュンペーターの本(1956、p.701)では、§53となっている。編集者注で、シュンペーターは『市民日誌』版によっているとのことで、邦訳(シェル版)の該当節番号§51に改めた。
 ただ、次にあげた§59,60は、シェル版では§58,59に該当するが、どうも内容が合致しない。そのままの節番号がシェル版でも適当と思うので、シュンペーター表記のままにした。
(注6)スミスはテュルゴー著作を知らなかったとシュンペーター(1956、p.681)は書いている(精確には『諸省察』についてであるが)。資本理論について『国富論』は、『諸省察』に比べて冗長であって、しかもそれに及ばなかったからである。

本ホーム・ページの各ページに関連項目が多く、参考までに()で示した。リンクは貼らなかったが、適宜参照頂ければ幸甚です。

(参考文献)
  1. R.カンティロン 津田内匠訳 『商業試論』 名古屋大学出版会、1992年
  2. ケネー 島津亮二・菱山泉訳 『ケネー全集 第二巻』 有斐閣、1952年a
  3. ケネー 島津亮二・菱山泉訳 『ケネー全集 第三巻』 有斐閣、1952年b
  4. H.R.シューアル 加藤一夫訳 『価値論前史 ―アダム・スミス以前―』 未来社、1972年
  5. アダム・スミス 大河内一男監訳 『国富論 Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』 中公文庫、1978年
  6. シュンペーター 東畑精一訳 『経済分析の歴史 2』 岩波書店、1956年
  7. 高木暢哉 『利子学説史』 日本評論社、1942年
  8. 高橋誠一郎  『西洋経済古書漫筆』 好学社、1947年
  9. 武田信照 『近代経済思想再考』 ロゴス、2013年
  10. チュルゴ 津田内匠訳 『チュルゴ経済学著作集』 岩波書店、1962年
  11. チュルゴオ 永田清約 『富に関する省察』 岩波文庫、1934年
  12. 津田内匠 「チュルゴの歴史思想と政治経済学の形成」 一橋論叢、第55巻2号、pp.216-233、1966-02
  13. 津田内匠 「R.L.ミーク編訳『チュルゴの歴史、社会学、経済学論集』と P.D.グレンウェーゲン編訳『チュルゴ経済論集』に対する書評」、『経済研究』、岩波書店、第31巻第4号、pp.377-378、1980-10
  14. 中川辰洋 『テュルゴー資本理論研究』 日本経済評論社、2013年
  15. ロバート・L・ハイルブローナー 中村達也・阿部司訳 『私は、経済学をどう読んできたか』 筑摩書房、2003年
  16. エドガール・フォール 渡辺恭彦約 『テュルゴーの失脚 上・下』法政大学出版局、2007年
  17. ジャン=クリスチャン・ブティス 小倉孝誠他訳 『ルイ十六世 上・下』 中央公論新社、2008年
  18. マーク・ブローグ 中矢俊博訳 『ケインズ以前の100大経済学者』 同文館、1989年
  19. ヘバート、リンク 池本正純、宮本光晴訳 『企業者論の系譜』ホルト・サンダース・ジャパン、1984年
  20. モンテスキュー 野田良之他訳 『法の精神 中』 岩波書店、1987年
  21. 山口正太郎 「チュルゴーの『富の形成と分配』」、京都帝国大学経済学会『経済論叢』第30巻第2号、pp.344-390、1930-02
  22. 渡辺恭彦 「テュルゴーの経済理論の思想構造」、福島大学経済学会『小学論集』第36巻第1号、pp.71-114、1967-06
  23. Groenewegen, P. “Turgot, Anne Robert Jacqes, Baron de L'Aulne ” in The New Palgrave Dictionary of Economics, Macmillan, 1998
 なお、次のサイトも参照した。
インターネットのフランス語のサイト”le jardin aux sentiers qui bifurquent (www.taieb.net)"において、AuteursのTurgotで選択すると、'Réflexios 1766-88'として、1766年Version、『市民日誌』の各号及び1788年版テクストの写真版が見られる。それには、各版のNoteも付いている。 但し、1788年版テキストについては全文が掲載されていない。


(拡大可能)
(2014.7.9記)

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