水曜日, 9月 05, 2018

ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義 』『高度[近代]資本主義』(ドイツ歴史学派)


              (ウェーバーパーソンズリンク::::::::::)  



以下、経済学説の系譜と論点(岩田年浩作成) http://iwata-yamana.jp/_src/sc750/sansyo_jp.pdf
上と解釈が違うところがある。特にマルサス。歴史学派、宇野派が記載されている。

アドルフ・ワーグナー (経済学者,1835-1917):財政学
http://nam-students.blogspot.jp/2016/03/blog-post_18.html

Knap クナップ 1842~1926 新歴史学派 貨幣国定説

ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義 』(ドイツ歴史学派)
M・ウェーバー
NAMs出版プロジェクト: ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』1904より
ウェーバー、パーソンズはメンガーにいたる功利主義の系譜を、原理的に考察することで、あるいは体系的に位置づけることで相対化した。ウェーバーの所属しパーソンズが結果的に擁護した歴史学派は最近の経済学では系譜として(制度学派の出発点としてしか)考慮されないので、双方の流れを汲む陣営にウェーバーとパーソンズの真意が理解されていない。 唯物論に対してとともに主観主義に対しても戦ったのだ。
《…経済学史上まれにみる、「方法論争」の名でよばれる感情的な論争がおこった。シュモラーはメンガーを無視したけれど、実質的にはこの論争はメンガーの方に歩があったといわねばならないものだった。歴史学派にとってのこの不名誉は誰かがすすがなくてはならなかったが、その役を買って出たのがウェーバーだったのである。》後述河出書房新社出口解説
ウェーバー客観性論文1904より、メンガーへの嫌み
(メンガーは限界効用の提唱者でドイツ歴史学派を批判した。客観性論文はメンガーへの反論。)
 《抽象理論がかかげられるばあいには、みかけのうえでは、心理的な根本動機からの「演繹」
だけがおこなわれているようだが、実際にはむしろ、人間の文化に関する科学に独特なもので、
ある意味では、それなしにはすまされない、概念構成のひとつのかたちのひとつの特殊なあり
かたが、そこにみられるのである。…
…たとえば、現在の「抽象理論」が今後どこまで展開せられねばならぬかという疑問は、結局に
は、科学的研究の経済の問題でもある。科学的研究にたいしては、ほかに諸問題も解決をせま
って待ちかまえているのが実情なのであるから。「限界効用理論」もまた、「限界効用の法則」
にしたがうというわけである。──》
(ワイド版 世界の大思想Ⅱ-12 ウェーバー 政治・社会論集   二〇一三年十一月三〇日 河出書房新社)

限界効用の肝は多様性が大事という結論である。この認識を忘れると危機の増大に気づかなくなる。
NAMs出版プロジェクト: 3か4か?(タルコット・パーソンズ体系)
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_7474.html

ヴェルナー・ゾンバルト(Werner Sombart、1863年1月19日 - 1941年5月18日)は、ドイツ経済学者社会学者ドイツ歴史学派最後の経済学者。ウェルナー・ゾンバルトとも表記される。

ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義 』Liebe, Luxus und Kapitalismus, 1912年

第1章 新しい社会
第2章 大都市
第3章 愛の世俗化
第4章 贅沢の展開
第5章 奢侈からの資本主義の誕生

詳細目次
訳者まえがき
著者まえがき
第一章 新しい社会
 一 宮廷
 二 市民の富三新貴族資料と文献
第二章 大都市
 一 十六 、七 、八世紀の大都市
 二 大都市の発生と内部構成
 三 十八世紀の都市学説
  資料と文献
第三章 愛の世俗化
 一 恋愛における違法原則の勝利
 二 高等娼婦資料と文献
第四章 贅沢の展開
 一 奢侈の概念と本質
 二 王侯の宮廷
 三 騎士と成上り者の第二ラウンド
 四 女の勝利 
  1奢侈の一般的発展の傾向 
  2屋内の奢侈 
  3都会のなかの奢侈 
資料と文献
第五章 奢侈からの資本主義の誕生
 一 問題の正しいとらえ方と誤ったとらえ方
 二 奢侈と商業 
  1卸売業 
  2小売業
 三 奢侈と農業 
  1ヨ ーロッパ 
  2植民地
 四 奢侈と工業
   1奢侈工業の意味 
  2純粋な奢侈工業  
  3混合せる工業
   4奢侈消費の革命的な力 
訳者あとがき





Les yeux clos: 3月 2014


yokato41.blogspot.com/2014/03/
村上龍発言 柄谷行人との対談2000.10.25 『NAM生成』所収 P111) ..... a whole generation of students have almost no chance of .... 資本主義という言葉は、 ゾンバルトが広めたわけで、彼の ...




NAMs出版プロジェクト: カレツキ(Kalecki):「投資と資本家消費が利潤と ...

nam-students.blogspot.com/2012/01/blog-post_17.html
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/michal-kalecki.html. NAMs出版 ...... 有効需要の概念を広く捉えるならゾンバルトやツガン=バラノフスキーが重要で、特にツガンは軽視されすぎている。 カレツキのアイデア ...



NAMs出版プロジェクト: 転形問題:メモ(&ツガン=バラノフスキー関連)

nam-students.blogspot.com/2016/06/blog-post_11.html
http://nam-students.blogspot.com/2016/06/blog-post_11.html(本頁) ...... エンゲルスは、みずから編集した『資本論』第Ⅲ巻への「補遺」において、ゾンバルトとシュミットの考えを批判し、「問題は、ここでは単に純粋 ...



NAMs出版プロジェクト: アドルフ・ワーグナー (財政学/経済学者,1835 ...

nam-students.blogspot.com/2016/03/blog-post_18.html
http://nam-students.blogspot.jp/2016/03/blog-post_18.html(本頁). 公共経済学 ... 影響を与えた人物, ヴェルナー・ゾンバルト.



NAMs出版プロジェクト: 3か4か?(タルコット・パーソンズ体系)

nam-students.blogspot.com/2010/09/blog-post_7474.html
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_7474.html タルコット・ パーソンズ - ...... 4 ゾンバルト 第十四章 マックス・ ...



関本洋司サイト:柄谷行人 - livedoor Blog(ブログ)

blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/cat_50024520.html
ゾンバルト(『恋愛と贅沢と資本主義 』?),272 ..... http://nam-students.blogspot.com/ 2006/05/nam_31.html

経歴:
ドイツのハルツ地方エルムスレーベン (Ermsleben) で有力な農場主であり帝国議会の議員でもあったアントン・ゾンバルトの息子として生まれた。ギムナジウムを経てベルリン大学に進学し、そこではグスタフ・フォン・シュモラーアドルフ・ヴァーグナーに師事した。卒業後はイタリアへ遊学し、1886年にイタリアの農村問題についての博士論文「ローマの平原」で学位を取得した。1888年から1890年にブレーメン商工会議所の顧問を務めたのち。マックス・ヴェーバーからハイデルベルク大学に招聘されたが当局に認められず、1890年から1906年までブレスラウ大学の助教授につき、1902年には代表作である『近代資本主義』を完成させた。1906年からベルリン商科大学教授として1911年に『ユダヤ人と経済生活』、1913年に『恋愛と資本主義』と『戦争と資本主義』を完成させ、また同年に『ブルジョワ 近代経済人の精神史』も刊行した。1917年からアドルフ・ヴァーグナーの後任としてベルリン大学教授となった。しかしナチスの時代に入った1931年、再びベルリン商科大学に戻った。
当初はマルクス主義の立場だったが[1]、ナチスの政策を理論的に支えるようになった[2]。ナチス政権以後、1934年の『ドイツ的社会主義』を刊行し、「ドイツ的社会主義は資本主義ならびにユダヤ精神との闘争である」とナチスに共鳴した主張を行った[3]
1936年に自主解散するまで社会政策学会の会長を務め、1938年に『人間について』を発表し、1941年第二次世界大戦下のベルリンで死去した。なお、社会政策学会は大戦後の1948年に復活している。

業績編集


Wirtschaftsleben im Zeitalter des Hochkapitalismus, 1928
1904年以降、マックス・ヴェーバーとともに『社会科学および社会政策雑誌』Arciv für Sozialwissenschft und Sozialpolitik の編集を担った。また、経済社会の全体把握のために〈経済体制〉の概念を提起して歴史と経済理論の総合をはかり、その成果として主著『近代資本主義』Der Moderne Kapitalismus 2巻(1902年)および『高度資本主義』Hochkapitalismus1928年)を発表した。

ゾンバルト文庫編集

ゾンバルトは1929年に蔵書の一部にあたる社会主義関係の文献など11,574冊を大阪商科大学(現大阪市立大学)に売却しており、大学では「ゾンバルト文庫」として収蔵されている。

著作編集

  • Der Moderne Kapitalismus 2巻、1902年
    • 岡崎次郎による日本語訳(『近世資本主義』)が1942年、生活社より刊行。
  • Die Juden und das Wirtschaftsleben, 1911年
  • Liebe, Luxus und Kapitalismus, 1912年
  • Krieg und Kapitalismus, 1913年
    • 金森誠也による日本語訳『戦争と資本主義』が1996年、論創社より刊行、2010年に講談社学術文庫で再刊(ISBN 9784062919975)。
  • Der Bourgeois :zur Geistesgeschichte des modernen Wirtschaftsmenschen, 1913年
    • 金森誠也による日本語訳『ブルジョワ:近代経済人の精神史』が1990年、中央公論社より刊行(ISBN 4120019853)。2016年12月に講談社学術文庫で再刊。☆ 
  • Der Proletarische Sozialismus 2巻, 1924年
Sozialismus und soziale Bewegung(社会主義及び社会運動)1897年の改版。
田邊忠男による日本語訳『プロレタリア的社会主義』が1932年、日本評論社より刊行。
  • Hochkapitalismus1928年
    • 梶山力による日本語訳『高度資本主義』が1940年、有斐閣より刊行。
  • Die Zukunft des Kapitalismus, 1932年
    • 宇治伊之助による日本語訳『資本主義の将来』が1934年、甲文堂書店より刊行。
  • Deutscher Sozialismus,1934年(ドイツ的社会主義)
  • Was ist deutsch?,1935年(ドイツとは何か)
  • Vom Menschen: Versuch einer geisteswissenschaftlichen Anthropologie(人間について), 1938年
    • 金森誠也による日本語訳『人間について』が2013年、PHP研究所より刊行(ISBN 9784569815695)。

出典編集

  1. ^ Werner Sombart (1896), Socialism and the Social System NY: Dutton and Sons, translated by M. Epstein, p. 87
  2. ^ Ernst Klee, Das Personenlexikon zum Dritten Reich:Wer war was vor und nach 1945. S.Fischer TB, Frankfurt 2005; ISBN 978-3-596-16048-8; S. 587.
  3. ^ #ハーフ2010,pp.235-258.

参考文献編集

関連項目編集


   

ブルジョワ 近代経済人の精神史 (講談社学術文庫) Kindle版

.…いまや黄金は 、一般に各方面から渇望され追求されている感覚的力と栄光を象徴している ( 1 3 ) 。この深遠な思想とともに 「エッダ 」は 、世界史の中心を黄金獲得の努力においている 。 

私は戦いの苦しみを知っている 。
戦いの苦しみは 、戦争の神の広間で 、
神々がまず金塊をたたき 、そして熔かして以来 、世界の中で発生した 。
そして三度生まれた者が 、三度炎上した 。
黄金が貯えられたところではどこでも 、
黄金は 「財宝 」と呼ばれる 。
オオカミたちでもこの魔法使いに会うと 、
まったくおとなしくなってしまう 。
不思議な力と不思議な技をもつ黄金は 、
アルゲンでは常に讃えられている 。

ドイツ歴史学派 (The German Historical School)

原ページ
 
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Prussian Coat of Arms
 ドイツ歴史学派は、19 世紀終わりにカール・メンガーオーストリア学派との長い Methodenstreit 論争を開始するまでは、自分たちが学派だという認識すらなかったかもしれない。でも、自分たちのやっている経済学が、リカードミル古典派アングロサクソン世界でやられているものとはまるでちがうことは、ずいぶん前から認識していた。かれらの経済学は、名前からもわかるとおり、「歴史的」で、だから経験的、帰納的な理由づけに大きく依存していた。そのルーツはヘーゲル哲学とリストミュラーのロマン主義・国粋主義的な抽象理論批判にある。英仏海峡を越えた仲間意識は、古典派とではなく、イギリス歴史学派とのものだった。
 歴史学派の初期の手法原理は、ヴィルヘルム・ロッシャーによって決められた。ヘーゲルに従って、ロッシャーは普遍的な理論体系という考え方を否定した――経済的なふるまい、ひいては経済の「法則」はその歴史的、社会的、政治的な文脈に依存しているのだ、と論じて。つまり、経済的な手法はどうしても学問領域をまたがるものとなる。経済活動は、経済学者としての目だけでなく、歴史家と社会学者の目をもって見る必要がある。だから最初の仕事は、その社会における経済組織と社会組織との関連についての発想を得るために、歴史を細かく検分してやることだ、ということになる。結果として初期の歴史学派の仕事――特にロッシャーの初期の弟子たち、ブルーノ・ヒルデブラントとカール・クニースの仕事は、歴史を通じた経済組織の段階論に集中している。
 グスタフ・シュモラーの下の若き歴史学派が台頭したとき、こうした慎みはだんだん失われた。かれらの主張では、経済学は本質的に規範的な学問分野であって、だから政策立案者やビジネスマンの使うツールを考案するべきなのだ。かれらの見方では、歴史は単に手元のある問題にとっての事例を提供するために存在するだけだ。歴史学派たちはそのことばに従って、Verein für Sozialpolitik を 1872 年に設立し、経済政策への説教的関与を目指した。でも、 Verein はすぐに、保守的プロシア政府の手先と見なされるようになり、シュモラーとその同僚たちは "socialists of the chair" (em>Katheder Sozialisten) というレッテルを貼られることになる。
 カール・メンガーが 1883 年にその手法論的な攻撃を歴史学派に向けると(当時、歴史学派はドイツの大学を実質的に独占していて、古典派と新古典派のどちらも排除している状態だった)、歴史学派は規範的な立場から、古いロッシャーの議論に撤退した――自分たちの手法は、理論を適用する以前に、単に歴史的な法則をまず探そうとしているだけで、positiveな活動なのである、と論じて。この手法論争 (Methodenstreit) はきわめて辛辣になって、後の経済学への影響という点では何一つ解決しなかったけれど、メンガーとオーストリア学派が勝者となった。が、短期的には、それは空疎な勝利だった。歴史学派たちはドイツの経済学教授職を支配し続け、その影響力をアメリカにまで広げた――リチャード・イーライ、エドウィン・ゼリグマン、初期のアメリカ制度学派たちを通じて。
 「最若年」歴史学派はまったくちがった味わいの人々だった――当初は、シュモラーの世代よりはるかに保守性が弱く、初期のロッシャーのpositivismに回帰しようとしていた。実際、ヴェルナー・ゾンバルト、アーサー・シュピートホフ、マックス・ヴェーバーは、シュモラーのグループよりもマルクス主義経済学のほうと関係が深かった――もっともゾンバルトは後に、ドイツナショナリズムとの関係に巻き込まれることになるのだけれど。この「最若年」学派には、1920 年代のAdolph Lowe率いるキール学派も含めることができる。キール研究所は、独立ビジネスサイクル研究や、学際社会科学の両方において重要な機関だった。この意味で、「最若年」学派はロッシャーと古い歴史学派の positivist 的立場を採用したわけだ。でも、その規範的な「器具主義 (instrumentalism)」の追求は、この学派を政策追求型の集団にもした――だからかれらは、シュモラーのVereinの社会主義者版として見ることができる。キール学派は社会民主党の政治に深く関わり、ワイマール共和国の社会経済政策にも関連していた。キール研究所はヒトラーが政権の座について、そのメンバーが追放されたことで解体された――そしてニューヨークのNew School for Social Researchに新しい故郷を見いだした。
 社会科学一般に対するドイツ歴史学派の影響は広範だけれど、でも経済学にはほとんど影響を与えなかった――とはいえ、その影響の痕跡はあちこちに散在しているようには見える――たとえば貨幣/マネーの「goldsmith」やChartalist 理論など、あるいは経済発展と経済地理の理論など。さらに、ヨーロッパとアメリカの非主流経済学においては、ドイツ歴史学派の要素が常に残っていた。

ドイツ歴史主義のナショナリスト/ロマン主義的ルーツ

  • ゲオルグ・ヘーゲル Georg W.F.Hegel, 1770-1831. - (1)(2)(3)(4)
    • The Phenomenology of Mind, 1807.
    • The Objective Logic, 1813.
    • The Subjective Logic, 1816.
    • Encyclopedia of the Philosophical Sciencies in Outline, 1817.
    • Philosophy of Right, 1821.
    • Philosophy of Religion,1832.
    • History of Philosophy, 1833-36.
    • Philosophy of History, 1837
  • Adam Müller, 1779-1829. 
    • On the Idea of the State , 1809.
    • The Elements of Politics , 1809.
    • Theory of State Finance , 1812.
    • へんてこな愛国的ロマン主義者で、古典経済学と現代リベラル社会一般を批判――中世神聖ローマ帝国の経済、政治、社会的な仕組みの復活を提唱。
  • Friedrich List, 1789-1846.

初期のドイツ歴史学派

  • Wilhelm G.F. Roscher, 1817-1894. - 肖像
    • Outline of Lectures on Political Economy According to the Historical Method , 1843.
    • System of Political Economy , five volumes, 1854-94.
    • ドイツ歴史学派の創始者であるロッシャーは、歴史的進化の周期的な「段階」を主張。歴史的手法を、規範的科学としてではなく、positive科学として主張。かれの 1843 年の著書は、この学派の決定的な手法解説となった。
  • Bruno Hildebrand, 1812-1878.- 肖像
    • Economics of the Present and the Future, 1848.
    • 古典派理論にきわめて批判的だったヒルデブラントは、ほとんどの時間を容赦ないリカード批判に費やし、物質主義的で、普遍論的でコスモポリタンだと糾弾した。自分独自の発想をまとめたのは、晩年になってからのことだった――特に、経済史の線形「段階」を発達させた。でもその経験論的・統計的な研究は、そうした洞察をまるで使っていない。
  • Karl Knies, 1821-1898.- 肖像
    • Political Economy from the Standpoint of the Historical Method , 1853.
    • Money and Credit , 1873.
    • クニースの線形段階議論は、「道徳的な進歩」を云々していて、だからそのほとんどの理論はもう時代遅れだ。でもその 1873 年の研究は、歴史学派的な手法をほとんど含んでいない。その政治的な関与のおかげで、1848 年には一時的に国外追放となった。

若きドイツ歴史学派

  • Georg Friedrich Knapp, 1842-1926.- (1)
    • Die Neueren Ansicthen uber Moralstatistik, 1871.
    • Theorie des Bevolkerungs-wechsels, 1874.
    • Die Bauernfreiung und der Uroprung der Landarbeiter, 1887.
    • Grundherrschaft unde Rittergut, 1897
    • The State Theory of Money , 1905.
    • 仕事熱心な経験論者だったクナップは、その統計ツールを経済的な構造の歴史的/人口的研究にいろいろ向けた。農業システムやマネーについての研究がいちばん有名だろう。クナップはマネーの「Chartalist」理論の旗手だった。これはつまり、マネーの価値は国の税制によって人工的に「創造」される、ということだ。
  • Ludwig Joseph (Lujo) Brentano, 1844-1931.
  • エルンスト・エンゲル Ernst Engel, 1821-96. 
    • Der Kostenwerth des Menschens, 1883.
    • 統計家で有名な「エンゲルの法則」や「エンゲル曲線」(消費需要の構成を消費者の所得と関連づけたもの)の考案者として有名(日本では「エンゲル係数」で知られる、あのエンゲル)。
  • カール・ビューヒャー Karl Bücher, 1847-1930. 
    • Die Bev(゚lkerung von Frankfurt am Main im XIV. und XV. Jahrhundert, 1886
    • Die Entstehung der Volkswirtschaft (Industrial Evolution), 1893.
    • Arbeit und rhythmus, 1896
    • Die Frauenfrage im Mittelalter, 1910.
    • Beitr臠e zur wirtschaftsgeschichte, 1922
    • ライプツィヒの経済学者で、産業革命の世帯-町-国「段階」の理論で有名。これを「進歩」のように見せたがるヘーゲル的な傾向は、ゾンバルトに厳しく批判された。
  • Adolph H.G. Wagner, 1835-1917.- 肖像
    • Science of Finance , four volumes,1877-1901.
    • Foundations of Political Economy , 1876.
    • "Marshall's Principles of Economics", 1891, QJE
    • シュモラーの Verein の活発なメンバーだったが、ヴァグナーは実は Methodenstreit においてメンガーを支持していた。経済学では、かれは公共財政についての研究で知られている。経済学の外では、かれはラサールと Rodbertus の仲間だった――が、かれらの社会主義的な理想を完全には共有せず、政治的な麺ではもっと保守的な直感に従っていた。ヴァグナーは野放しの資本主義を厳しく批判し、労働者に対する重荷を国が軽くすべきだと推奨。

ドイツ歴史学派最後の世代

  • ヴェルナー・ゾンバルト Werner Sombart, 1863-1941.
  • Alfred Weber, 1868-1958. 
    • Theory of the Location of Industries, 1909.
    • マックス・ヴェーバーの兄弟、経済地理理論を考えた初の経済学者の一人。
  • カール・ポランニー Karl Polanyi, 1886-1964

ドイツ歴史学派についてのリソース





方法論争 (社会科学) - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/方法論争_(社会科学)
方法論争(Methodenstreit, 1880年代-1890年代)は、カール・メンガーを中心とするオーストリア学派とグスタフ・フォン・シュモラー ...



方法論争(ほうほうろんそう)とは - コトバンク

kotobank.jp/word/方法論争-132444
歴史的には,通常 1880年代初期のオーストリア学派の C.メンガーと新歴史学派の G. シュモラーとの間の経済学の方法論 ...



グスタフ・フォン・シュモラー (Gustav von Schmoller) - cruel.org

cruel.org/econthought/profiles/schmoller.html
シュモラーの新古典派経済学への反発は、カール・メンガーとの有名な手法論争 ( Methodenstreit ) を引き起こした。多くの人は、 ...



カール・メンガー (Carl Menger) - cruel.org

cruel.org/econthought/profiles/menger.html
シュモラーメンガーはその後数年がっぷり四つに組んだ (たとえば Menger, 1884) し、 弟子たちがその論争を20世紀に入っても ...

 ドイツ歴史学派(ゾンバルトは歴史学派最後の世代)は以下の論争の中で形成された、




Untersuchungen über das Methode der socialwissenschaften und der politischen Ökonomie insbesondere, 1933
方法論争(Methodenstreit, 1880年代-1890年代)は、カール・メンガーを中心とするオーストリア学派グスタフ・フォン・シュモラーを中心とするドイツ歴史学派の間で繰り広げられた、経済学における方法および認識論的特質をめぐる論争(狭義には、メンガーとシュモラーの間で展開された1883年-1884年の論争を指す)。ちなみに、ドイツ語の Methodenstreit は単に「方法上の論争」を表す語であり、科学史上ではそのような論争はいくらでもあるため、ドイツ語圏では Methodenstreit der Nationalökonomie(経済学の方法論争)とも呼ばれる。しかし、ドイツ語圏以外の国々では、単に Methodenstreit といった場合は、ここで扱う経済学史上の「方法論争」を指すのが一般的である。

目次

双方の主張編集

歴史学派は、経済学者が統計的・歴史的な資料の集積と研究から、新たなよりよい社会的法規を発展させることができると主張し、歴史的経験から帰納されていない理論に不信を表明した(なお、当時は、経済学を理論・政策・歴史に三分したとき、統計学を歴史部門に含めていた)。
これとは対照的に、オーストリア学派は経済学が演繹法に基づく学問であると信じた。彼らにとって経済学とは、統計的分析に従うには余りに複雑すぎる人間の動機と社会的相互作用を観察するという最優先の原理から法則を発展させ、人間行動に関して普遍的に価値を持つ理論であるべきものだった。

論争の経緯編集

歴史学派の方法に対する批判を含んでいたメンガーの『社会科学、特に経済学の方法に関する研究』(1883年)に対し、シュモラーが反論となる書評を『シュモラー年報(Schmollers Jahrbücher)』に寄せたことによって、論争の口火が切られた。これに対し、メンガーは1884年に『ドイツ国民経済学(政治経済学)における歴史学派の誤謬』というパンフレットを刊行し再反論した。これに対し、シュモラーは論争を一方的に打ち切る旨通告した。

論争の意義編集

思想史上の意義編集

歴史を離れて、人間行動のダイナミズムを説明できるかどうかという議論であった

政策上の意義編集

オーストリア学派の古典的自由主義と、歴史学派によって主張された福祉国家との対立の含みを持つ。

トピック編集

  • 「オーストリア学派」という呼称は、もともとこの論争の過程で生まれたものである。シュモラーが、メンガーを批判する際に、プロイセンに比べたときのハプスブルク家のオーストリアが非常に遅れた存在であることを印象付けるべく企図して、初めて用いた。

外部リンク編集







Title ヒルデブラントの経済発展段階論 Author(s) 橋本, 昭一 Citation ...

(Adobe PDF)
kuir.jm.kansai-u.ac.jp/.../KU-1100-19681020-05.pdf
ス)にみられないほど,ヒルデプラントには社会主義に対決する面がみられるからであ. る。確かにリストやロッシャーの主著公刊当 ...



歴史学派 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/歴史学派
歴史学派(れきしがくは / 独:Historische Schule)は、19世紀初めのドイツ ... 歴史学派経済学 - フリードリヒ・リストにより開拓され、ヒルデブラント、ロッシャー、クニース .... 19 世紀末、ドイツが工業大国へと発展を遂げるとともに帝国主義的な膨脹政策を推進する ...



帝国主義論」第8章

redmole.m78.com/bunko/kisobunken/teikoku08.html
ドイツの日和見主義者ゲルハルト・ヒルデブラント――彼は帝国主義を擁護したという理由でかつて党から除名されたが、いまなら ...



歴史学派(れきしがくは)とは - コトバンク

kotobank.jp/word/歴史学派-151500
F.リストの著書『国民経済学体系』を先駆けとして W.ロッシャー,B.ヒルデブラント,K.. ... は、各国経済の歴史性や国民性を説く点ではリストの流れをくむ旧歴史学派と同様であるが、ドイツ帝国の統一に伴う資本主義化 ...



ヒトラーとドイツの東方支配

 
(Adobe PDF)
 
dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/18043/1/44
ヒトラーの世界観の基礎として、帝国主義ナショナリズム、社会ダー. ウィン主義、人種論、反ユダヤ主義を ...... わたしはヒトラー=綱領主義者とい. う立場から、さらにいえばヒルグル-バーやヒルデブラントのいう「段階.



ÿþT aro - lhe 0 9 1 3 . jtd

 
(Adobe PDF)
anaito.web.fc2.com/lhe0913.pdf
需要不足によって、植民地、勢力圏獲得競争に向かう:帝国主義論の一種 .... ヒルデ ブラント:ロッシャー批判:自然法則を否定:.



レーニンアーカイブ日本語

ciml.250x.com/.../lenin_1916_imperialism_japanese.html
ドイツの日和見主義者ゲルハルト・ヒルデブラント――彼は帝国主義を擁護したという理由でかつて党から除名されたが、いまなら ...



「経済学史Ⅰ」(二部)

taweb.aichi-u.ac.jp/hozumi/kougi.htm
旧歴史学派・・・ヴィルヘルム・ロッシャー,ブルーノー・ヒルデブラント,カール ・クニース ...... 修正主義論争→帝国主義現象の出現による資本主義崩壊論などの正統派マルクス主義の ドクマをめぐる論争.(カウツキー対 ...



帝国主義

www.marino.ne.jp/.../marxism_genriron_gensyo_teikokusyug...
ヒルデブラント,ゲルハルト Hildebrand,Gerhard (1878―1921) ドイツの経済学者, 修正主義者,ドイツ社会民主党員.日和見 ...



Title 書評ナチ・レジームの社会史研究の一動向 - T. W. Mason ...

 
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第三帝国における社会政策一一労働者階級と民族共同体一一』υ の著者メイスン .... めり,また他方で平和主義的・マルクス主義的国際主義に代わ bうる民族三仁義』句 ..... K ヒルデプラント jとの聞の散請を参照。

生涯編集

ナウムブルク(ザーレ)で生まれる。マールブルク大学経済学教授に在任中、ドイツ・オーストリア3月革命に連座したとして反逆罪で死刑を宣告されるも、チューリッヒ大学准教授を務めていたスイスに亡命し処刑は免れた。スイスでは北東鉄道を設立した功を買われ名誉市民の称号を与えられた。
その後、スイスのベルン大学教授を経てドイツに戻る。晩年はイェーナ大学教授を務めた。イェーナで死去。

業績編集

1948年に著書Economics of the Present and the Future(『現在と未来の経済学』)を発表。経済発展の法則を追究した本書では、経済発展が直線的ではあっても循環的ではないと述べられており、ヒルデブラントの発想が社会主義理論にも影響を与えることとなる。

家族編集

参考文献編集

  • The Soul of A Lion:Dietrich von Hildebrand, a biography by Alice von Hildebrand, Ignatius Press, 2000, ISBN 0-89870-801-X





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アルバート・ハーン 著||大北文次郎 訳 , 実業之日本社 , 1943. 2. 銀行信用の国民経済的理論 アルバート・ハーン 著||大北文次郎 訳 , 実業之日本社 , 昭和18 ...

アルバート・ハーン銀行信用の国民経済的理論』のネタバレありの感想・レビュー一覧です。

これを受けてL・A・ハーンの『銀行信用の国民経済的理論』(1920)が登場した。彼は「銀行の授信業務は受信業務に先行する」という命題を掲げ、無現金経済なるものを ...

コモルツィンスキーの著作『信用の国民経済的理論』 1903年(Jo- ... peter, Theorie der wirtschaftichen Entwicklung, 1912) と L. A. ハーン銀行信用の国民経済.



ヴェルナー・ゾンバルトと信用創造理論の系譜「動態的信用理論」の受容をめぐってWerner Sombart und die Genealogie der kreditsch6pferischen TheorieUm die Aufnahme der,,dynamischen Kredittheorie‘‘博士後期課程 経済学専攻 2003年度入学     奥山誠       OKUYAMA, Makoto

2008


https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/8026/1/keizaigakuronshu_28_1.pdf



が逓減傾向にあることに注目したハーンは,現代を「現金節約経済 bargeldsparende Wirtschaft

と命名し,さらにその発展の極限として「無現金経済 bargeldlose Wirtschaft」を想定する4。「無

現金経済」では企業家の購買力は銀行の与信業務によって創造され,生産手段または財貨贈入に

際しての彼らの支払いは,銀行の貸方残高 Guthaben の譲渡を通じて行われる。つまり,ここでは

「有体支払手段」としての現金ではなく,「信用支払手段」,わけても小切手または振替口座

Girokonten を介してあらゆる決済が行われることになるのである。

このように,「無現金経済」を想定するハーンにあっては,銀行信用の源泉は,いうまでもなく,

公衆によって委託された預金にのみ限定されてはいない。彼は,すべての与信業務は先行する受信

業務に依存するというマクラウド以前の古典学派的な銀行理論に真っ向から異を唱えつつ,銀行の

与信業務は受信業務に絶えず先行し,その預金形成は,信用供与ののちに初めて生ずる,という

「動態的信用理論」に特有の立場を堅持するのである。ハーンは次のようにいう。


銀行の受動的業務を最初に可能にし,これを呼び起こすためには,銀行の受動的業務,特に預

金業務が先行するのではなく,一般的にもまた個々の場合においても銀行の能動的業務が先行

されなければならない。銀行の受動的業務は,それに先立つ信用供与の反映に他ならないので

ある45


こうして,ハーンは,マクラウドやシュンペーターと同様,能動的な与信業務とその帰結として

の購買力の創造に銀行の本質的機能を認めたうえで6,「信用の供与がなければいかなる資本財も

生産され得ないし,生産手段の形成という意味でのいかなる資本形成も行われ得ない」7と指摘す

る。要するに,ハーンは「信用の拡大が生産増加的な作用を及ぼす」48 こと(=「信用の生産性」)

43 ハーンの信用理論を分析したモノグラフとしては,難波田(1933), Ellis(1934), Wagner(1937), 新庄

(1937),中谷(1938), (1953)などがあるが,管見の限り,ハーンにかんしては近年まったくといって

よいほど研究が進められておらず,わずかにハーンとシュンペーターとの関連について指摘商した八木

(1988, 182-183)あるいはハーンのレーデラーに対する影響について論及した雨宮(2005, 41-42)が確認

されるにすぎない。ただし,同時代にあっては事情はまったく異なる。特に本国ドイツでは「貨幣と信用に

かんする著作でハーンの理論に立ち入った分析を行わないものはほとんどなく」,その研究書の数は「ハー

ン文献 Hahnliteratur」と呼ばれるほどに膨大であり,その理論が及ぼした同時代知識人に対する影響は,

否両論含めて絶大なものがあった(Haberler, 1927, 803)。ハーンの信用理論の梗概については,Hahn

(1923)も参照。また,その「理論的志向をもつ実務家」としての生涯を知るには,晩年に公刊された回顧

(Hahn 1963)が有益である。なお,ハーバラーの指摘する「ハーン文献」については,ハーン自らが

『銀行信用の国民経済的理論』第3版の「序文」において,その主要な著作を列挙している(Hahn 1930, X

N. Anm. 2.:16-20)

44 Hahn (1920, 24, 71; 1930, 22, 63:65, 135);大北(1943, 6-7); 三上(1980, 558)

45 Hahn (1920, 29)

46 Hahn (1920, 120)

47 Hahn (1920, 121)

48 Hahn (1930, 120:227)

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を力説するのであるが,彼の認識によれば,ここには一つのディレンマが存在していた。すなわ

,「一方において,生産のみが財貨を造りだし得るのであるが,信用の供与それ自体は生産でな

い」ということは,理論上争いがたい事実である。しかしながら「他方において,信用の資本創造

力は実際にはこれまた否定し得ない」のである49

では,こうしたディレンマはいかにして解決されるのであろうか。ハーンは次のようにいう。

国民経済的意味における資本,すなわち生産設備の現在高が,一国における生産の増大を通じ

てのみ増加され得るという立場に立つ限り,このディレンマから逃れる道を見つけることはで

きない。このような立場は誤りである。資本形成は財貨生産の問題ではなくて,分配すなわち

財貨分配の問題である。しかも時間的 intertemporal ならびに人的関係interpersonal における

財貨の分配の問題なのである50

このように,ハーンは「資本形成」の問題を分配関係の変化との関連において捉えようとし,

用創造による需要の変化が,財貨の分配を時間的ならびに人的関係において変化させることによっ

,「生産の増加」したがって「資本の増加」を促進させると主張する。この点にかんしてハーン

の議論に依拠しつつさらに具体的な説明を加えるならば,およそ次のようになるだろう51。すなわ

,信用の供与によって購買力を獲得した企業家は,資本主義的生産方法の典型である「迂回生

産」を開始する。周知のように,この迂回生産は,社会的生産物Sozialprodukt の消費を一定期間

延期制限することによって,当該生産物の将来的な数量を増加させるものである。つまり社会的

生産物の消費を一定の期間延期.制限するということは,「時間的関係における財貨の分配」を変

化させることに他ならず,これが結果として資本増加をもたらす原因となるのである。他方で,

の迂回生産はまた各人間の財貨分配にも変化を生じさせる。たとえば,信用によって購買力を得た

企業家が石炭を生産的に消費しようと目論む場合には,これまで石炭を家庭用燃料として使用して

いた一般の消費者たちは,彼らの貨幣所得が上昇しない限り,需要の増加による石炭価格の騰貴の

ためにその消費を強制的に制限されることになるであろう。こうした「人間的関係における財貨の

分配」の変化が,将来的な資本増加を招来させるための必要不可欠な前提であることは疑い得ない。

以上の簡潔な整理からもわかるように,ハーンにあっては,信用によって企業家に付与された購

買力は,財貨を生産的使用のために転換させ,かつ転換させたままにしておくための手段J52 とし

て見なされているのであるが,ここでさらに注目すべきことは,彼がこの購買力を「資本」と同一

49 Hahn(1930, 130:242)

50 Hahn (1930, 130:242)ただし,Hahn (1920, 137)でも信用の拡大によって生み出された「分配の変化」

が国民経済における「生産の上昇」を惹起するという指摘はすでになされている。

51 Hahn (1930, 130-131:243-244)なお,難波田(1933, 331-332),中谷(1938, 154-155),(1953,

203-204)による分析も参照。

52 Hahn (1930, 139:257)

- 12


の概念として捉えているということである。ハーンは「資本」を次のように定義している。


資本とは,財貨およびサービスを強制的に迂回生産に入らしめ,これらを一定期間そこに留め

ておく抽象的な力 abstrakte Macht に等しい。この[抽象的な)力は,信用の方法で供共与され

た購買力によって具現化されており,その引渡しは原則として銀行の貸方残高の譲渡の形式で

行われる53


上記の引用文からも明らかなように,ハーンにおける資本概念は,「資本財」としての財貨的性

質からは完全に切り離されており,それは財貨分配を実現させるための「抽象的な力」(=「購買

カ」)として理解されている。こうしたハーンの資本観は,彼自らも認めるように,まぎれもなく

シュンペーターの「資本の購買力理論 Kaufkrafttheorie des Kapitals」の影響を受けつつ形成され

たものに他ならない54。すなわち,シュンペーターと同様,ハーンもまた信用創造による企業家へ

の資本=購買力の供与が経済発展のための最も重要なファクターであることを確信していたのであ

る。

では,マクラウドを起点とし,シュンペーター,ハーンに継承された「動態的信用理論」は,

ンバルトにおいていかに受容され,かつ展開されたのであろうか。次節では,これまでの検討を踏

まえつつ本稿の議論の射程をゾンバルトへと拡大し,彼における信用理論の内容を分析していきた

い。


N.ゾンバルトにおける「動態的信用理論」の受容と展開


ゾンバルトが彼の信用理論について体系的な考察を展開することになるのは,「盛期資本主義経

済」の分析に研究の焦点を定めた大著『近代資本主義』第3巻においてであった。その第2編第1

部「資本」に属する2つの章,すなわち第14章「信用とその発展」および第15章「資本主義経

済に対する信用の意義」で,ゾンバルトは,マクラウドからシュンペーターを経てハーンへと至る

「動態的信用理論」の成果を十分に踏まえつつ,「盛期資本主義経済」の展開にとって「信用」がい

かなる役割を果たしているのかという問いに対して彼なりの回答を与えようと模索するのである。

ゾンバルトによれば,「信用」とは,形式的には「貨幣所有のない購買力」であり,与信および

受信という行為は,「将来の反対給付の約束に対して購買力を供与(受領)すること」として定義

される。信用業務ないし信用取引の意味で用いられる「信用」とは,「ある給付が即座に反対給付

を伴わずに,ただ将来における反対給付を約束する取引」のことに他ならず,このような視角から

ゾンバルトは「信用の本質」について次のように論じている。

53 Hahn (1930, 138:256)

54 Hahn (1930, 5, 132:36, 246); Schumpeter(1912, 255; 1926, 189 : 332)

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-

::

の概念として捉えているということである。ハーンは「資本」を次のように定義している。


盗木とほ,財査毒よ(}サニど玄を画翻丙た迂由生産た大らしあ,と乳らを⊥定動商老とた宙あそお之描象由なカabstrakte Machtた奪しい。この〔抽象的な〕力は,信用の方法で供与された購買力によって具現化されており,その引渡しは原則として銀行の貸方残高の譲渡の形式で行われる53。


 上記の引用文からも明らかなように,ハーンにおける資本概念は,「資本財」としての財貨的性質からは完全に切り離されており,それは財貨分配を実現させるための「抽象的な力」(箒「購買力」)として理解されている。こうしたハーソの資本観は,彼自らも認めるように,まぎれもなくシュソペーターの「資本の購買力理論Kaufkrafttheorie des Kapitals」の影響を受けつつ形成されたものに他ならない54。すなわち,シュソペーターと同様,ハーソもまた信用創造による企業家への資本=購買力の供与が経済発展のための最も重要なファクターであることを確信していたのである。 では,マクラウドを起点とし,シュンペーター,ハーソに継承された「動態的信用理論」は,ゾンパルトにおいていかに受容され,かつ展開されたのであろうか。次節では,これまでの検討を踏まえつつ本稿の議論の射程をゾンバルトへと拡大し,彼における信用理論の内容を分析していきたい。


lV.ゾンバルトにおける「動態的信用理論」の受容と展開 

 ゾンバルトが彼の信用理論について体系的な考察を展開することになるのは,「盛期資本主義経済」の分析に研究の焦点を定めた大著『近代資本主義』第3巻においてであった。その第2編第1部「資本」に属する2つの章,すなわち第14章「信用とその発展」および第15章「資本主義経済に対する信用の意義」で,ゾンバルトは,マクラウドからシュンペーターを経てハーンへと至る「動態的信用理論」の成果を十分に踏まえつつ,「盛期資本主義経済」の展開にとって「信用」がいかなる役割を果たしているのかという問いに対して彼なりの回答を与えようと模索するのである。 ゾンバルトによれば,「信用」とは,形式的には「責常所有あ底べ・購實力」であり,与信および受信という行為は,「将来の反対給付の約束に対して購買力を供与(受領)すること」として定義される。信用業務ないし信用取引の意味で用いられる「信用」とは,「ある給付が即座に反対給付を伴わずに,ただ将来における反対給付を約束する取引」のことに他ならず,このような視角からゾンバルトは「信用の本質」について次のように論じている。

53Hahn1930138:訳256

54Hahn19305132:訳36246

55Schumpeter19122551926189:訳332)     


ハーン『銀行信用の国民経済的理論』実業之日本社,1943.

シュンペーター  1912.Theorie der wirtschaftlichen Entwicklung.1. Aufl. Leipzig:Duncker und Humblot.    

1926.Theorie der wirtschaftlichen Entwicklung. Eine Untersuchung tiber Unternehmergewinn, Kapita 1, Kredit, Zins und den Konjunleturaykltcs, Mttnchen und Leipzig:Duncker und Humblot.塩野谷祐一他訳『経済発展の理論』(上)(下)岩波文庫,1977.


              -13



給付と反対給付との時間的分離という客観的要素と,期待という主観的要素,一すなわち,将来において反対給付が実現されることに対する壱幽Vertrauen一とが結合されていることは,……信用の本質に属することであると私は考える。この宿嶺は,債務老の人格的な確かさに対する信頼である必要はなく,……客観的関係にもとつくものである55。 こうして,ゾンパルトは,マクラウドやシュソペーター,あるいはハーソと同じく「将来における反対給付の約束」とそれが実現されることに対する「信頼」のうちに「信用」(=「購買力」)が供与される根拠を見出そうとするのであるが,ともあれ,ここでは特にゾンバルトがこの「信頼」の拠りどころを債務者ないし受信者の「人格的な確かさ」に求めているのではなく,かかる人的結びつきを超越した「客観的関係」にもとつくものとして捉えている点に止目しておこう。ゾソパルトの認識では,「盛期資本主義時代」における債権・債務関係は,もはや個々の人格性を媒介にして成立するものではあり得ず,その関係は「脱人格化Entpers6nlichung」(=「物象化Versachlichung」)されたものとして把握されなければならないのである。 以上のように自らの基本的な信用観を整理したゾンバルトは,次に「信用の種類」を個人的消費のために供与される「消費的信用Konsumtivkredit」と事業目的のために供与される「生産的信用Produktivkredit」とに区別し,後者のみを研究対象に据えることを明言したうえで,この「生産的信用」をさらに「流通信用Zirkulationskredit」と「生産信用Produktionskredit」という2つの種類に区別している56。彼によれば,「流通信用」とは,「単に資本の構成部分を別の形態の資本に転化させること」,つまり「既存の商品を移転させること」を目的として供与されるに過ぎないのに対して,「生産信用」とは,「企業の:有する資本額を拡大・増加させること」,換言すれば「新しい生産物を作り出すこと」を目的として供与される。ゾソバルトは,「資本主義の発展に対する銀行の重要性」が,歴史的には「生産后角を供与しはじめるとともに,その程度に応じて増大していった」と指摘しているが57,このような彼の認識は,実はこれよりほぼ4半世紀前の1903年に公刊された『19世紀のドイッ国民経済』でもすでにはっきりと強調されていたことであった。すなわち,その浩潮な著作の第9章「銀行と取引所」のなかで,ゾソバルトは,ドイツにおける現今の銀行の金融活動が「流通信用を与えることにけっして限定されてはおらず,その主要な課題の一つは,まさしく生産信角あ供与にこそ求められる」と力説したうえで,次のように述べていたのである。私が生産信用と呼ぶのは,企業家の自由裁量に委ねられた価値総額Wertbetragを拡大する信用,したがって資本を価値増殖する信用のことである。そのような信用を供与する銀行,した

55Sombart1927175:訳291292

56Sombart1927175176:訳292

57Sombart1927198:訳328

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がって直接的あるいは間接的に資本主義的企業の創設ないし拡大に関与する銀行は,・・生産信用銀行と呼ばれなければならないであろう58。 上記の引用文からまず確認されるのは,ゾンバルトがここでも「銀行」が供与する「生産信用」を「資本を価値増殖するための信用」として捉えているということである。『近代資本主義』(初版,1902年)を上梓して以来,ゾソバルトは一貫して「資本主義およびその独自の経済形態である資本主義的企業の目的」が,何よりも「資本の価値増殖」(=「利潤の再生産」)を実現させることにあると主張し続けているのであるが59,かかる目的の実現のためには,「生産信用」の供与が不可欠であるとゾンバルトはいうのである。このような意味で,彼はこの「生産信用」のことを「拡張信用Erweiterungskredit」または「拡大信用Ausdehnungskredit」とも言い換えているのであった60。 さて,それでは,ゾソバルトはこうした信用資金の「源泉」の問題については,いかに考えているのであろうか。彼によれば,「信用」を源泉別に分けるとすると,社会的所得あるいは既存の資本をある者から他の者へと譲渡する「委譲信用Ubertragungskredit」と信用資金を「無」から創造する「指図信用Anweisungskredit」という2つの場合が想定される61。ここでゾンバルトが「指図信用」(=「信用創造」)という場合には,それはただ単に個々の与信者や受信者の資産を越える額の購買力が供与されることを意味するのではなく,いわゆる「社会の資産Aktiva derGesellschaft」,すなわち社会全体における従来の生産力(=「これまでに費やされた労働量のうちに現れている一定の程度の作業能率」)を超える額の購買力が供与されることを意味している62。ゾソバルトの認識では,「委譲信用」が,単にある者から他の者へと資本財を移転させるに過ぎず,これによっては基本的に生産の「方向」が変化するだけでその「規模」が拡大することはほとんど期待され得ないのに対して,「指図信用」の場合には,既存の労働力のストックを超える額の購買力,つまり「追加労働によってのみ充足され得る」購買力が供与されることとなり,それゆえこれ


58Sombart1903215

59Sombart1902196;[19161987321:訳468192541931258)なお,初期ゾソバルトの代表作である 『近代資本主義』(初版)の議論構成については,田村(199619971998),Takebayashi2003)を参照。

60Sombart1927176:訳293)これに対して,ゾソバルトは「流通信用」のことを「促進信用 Beschleunigungskredit」または「清算信用Liquidationskredit」とも呼ぶことができると述べている。

61Sombart1927177:訳294

62Sombart1927178:訳296


ゾンバルトは,真の「信用創造」とは,このように「社会の資産」を超えて 信用の供与がなされた場合のことを指すのであって,単に個々の与信者ないし受信者の資産を越えて貸し出 されたからといって,それをもって信用が「無から創造された」とみなすシュソペーターやハーンの見解は 適当とはいえないと批判している(Sombart 1927179:訳297)。ちなみにシュソペーターは,『近代資本主 義』第3巻に対する書評論文で,「彼〔=ゾンバルト〕が『信用創造』を扱うその手法にかんしては,危険 なしとはしない」としながらも,ゾンバルトによる「信用」の種類別の区分や概念構成それ自体は,「素晴 らしく,かつ壮大な〔信用にかんする〕概観を提供してくれるものである」と述べており,全体としてゾソ バルトの信用観にポジティブな評価を与えている(Schumpeter 1927368)。


は将来的な資本の増加および生産力の拡充に多大な貢献を果たすものとして理解されている63。 こうして,ゾソパルトは資本を価値増殖させることを目的とする「生産信用」の系譜に「指図信用」(=「信用創造」)を位置づけたうえで,「資本主義経済の拡張」に対してそれが果たす役割を高く評価している。とはいえ,もちろんゾソパルトが動態的な「経済発展」を実現させるための「原動力」として規定しているのは,あくまで「指導的経済主体」としての「資本主義的企業家」に他ならないという基本的な事実を看過することは許されないOU。企業家の遂行する「革新」が「経済発展」のための独立変数であり,信用創造による資金調達はその革新活動に依存する従属変数であるという先にシュンペーターで確認した構図は,ゾソバルトの経済学体系でもほぼそのまま妥当しているといってよい。しかしながら,その一方でゾンバルトは,たとえ優れた資質を備えた企業家であっても潤沢な資金に恵まれていなければその革新的才能を十全に発揮することはできないと確信しており,それゆえ持続的な企業家活動を保証するための「信用」(=「生産信用」)とそれを供与する「信用組織」(=「銀行」)の存在は,彼にあっては「経済発展」のための必須の条件であると見なされたのであった。ゾンバルトは次のようにいう。


かつては,  つまり初期資本主義時代にあっては一企業家は自身富裕であるか,富裕な人の子であるか,あるいは富裕な人と関係をもっていなければならなかった。だからある者は企業家としての才能をもっていても貨幣がなく,ある者は貨幣はあっても企業家としての才能,あるいはその意志をもたない,という事態がしばしば起こらざるを得なかった。今日〔=「盛期資本主義時代」〕では,富裕な者は自ら企業家にならなくとも,その貨幣を容易に資本として用いることができる。また,資力のない者もいっそう容易に貨幣を手にすることができる。資力のない企業家に彼の必要とする資本を供給する方法は,……いうまでもなく株式会社と信用組織である。とりわけ,信用組織こそは,資力の乏しい者にも企業家活動を営むことを可能にするものである65。 


このように,ゾンバルトは「無資産者を企業家活動にまで引き上げたこと」,換言すれば「企業家活動の実践が貨幣所有に結びつけられていた初期〔資本主義〕時代の偶発性が除去された」という点に「信用」ないし「信用組織」である「銀行」(あるいは「株式会社」)の意義を認めている。


63Sombart1927178:訳296

64詳しくは,筆者による一連の研究成果(奥山20052006Okuyama 2007)を参照されたい。ゾソバルトの 企業家観にっいては,Sombart19021971991909;[191319206976212240256--259:訳8CF87; 222248265267;[19161987322324:訳470472192515211927341:訳2377)を見よ。なお, ゾンバルトの企業家観の基本的特徴がシュンペーターの革新的企業家像に対して少なからぬ影響を及ぼして いたという事実を初めて明瞭に指摘したのは,レンガー(Lenger 1994, 234)である。ゾソパルトとシュン ペーターの経済学体系の本格的な比較検討の作業は,別の機会に譲りたい。


65Sombart19272021:訳4647)一16


つまり,「銀行」とは個人的な出自や人格に関係なく,最もすぐれた経営手腕を発揮する者(=「資本主義的意味における最も有能な人物」)であれば誰であろうと継続的に「資本」(=「購買力」)を提供しようとするのであり,この意味で,ゾソバルトにとって,「銀行」は「株式会社」とならんで「天才のための足場StUtze ftir das Genie」として称されるのに相応しい機関であった66。 ところで,ゾソバルトが銀行原理」のことを「集合的貸付基金 kollektiver Leihfond を利用す


る信用供与の原理」67と定義していることからもわかるように,通常,銀行はできるだけ多くの人々からその貯蓄額を自己に貸し付けさせて一つのまとまった基金を造り出し,これを基礎として企業家に対して信用の供与を行う。しかしながら,ゾンバルトによれば,「盛期資本主義時代」における銀行は,このように受信業務に依存した形で与信業務を行うことはほとんどない。というのも,この時代の銀行は,「実質的支払手段」である現金を用いることなく,単なる「記帳Buchung」,要するに「支払われるべき金額を当該目的のために設定された口座の借方あるいは貸方に記入すること」68(=「口座振替」)を通じて信用の供与を行うのが一般的だからである。すなわち,「盛期資本主義時代」では,「あらゆる大規模な銀行経営において,鍛告原珪ほ窺金4)な∀・支払いあ原珪と結びつけられている」69のであり,これによって「信用」は貨幣ないし金保有の制限から解放され,「生産信用」,ことにその一形態である「指図信用」が著しく発展することとなったのである。 以上のような,現金を必要としない銀行の与信業務を重視するゾンパルトの見解には,いうまでもなく前節で検討したシュンペーターの信用創造理論,あるいはとりわけハーンの「無現金経済論」からの影響がはっきりと投影されている70。同時代に隆盛を極めていたこれらの「動態的信用理論」からゾソバルトがいかに多くの示唆を与えられていたかということは,この一点をもってしても否定し得ないといえるであろう。しかしながら「生産信用」(=「指図信用」)が「資本主義経済の拡張」を導く原因について論じたゾンバルトの以下の主張は,彼が「動態的信用理論」から決定的な影響を受けていたという事実を裏づけるうえで,よりいっそう有力な証左となるものである。ゾンバルトは次のようにいう。


 信用は,一わけても生産信用の形態において一一企業家に対して生産の拡大および生産方法の改良を強制することにより,これ〔=「資本主義経済の拡張」〕を促すものである。というのも,生産信用とは,いうまでもなく将来において生産が増加される場合にのみ,その正当性を有するものだからである。生産信用は,将来において余剰生産Mehrproduktionの行われるだけ,それだけの分量しか常に供与され得ない。というのも,借り入れられた金額は,余剰生産


66Sombart1927220:訳369)なお,ゾンパルトの「株式会社」論については別途検討を予定している。

67Sombart1927183:訳304

68Sombart1927187:訳31069Sombart1927188:訳31270シュンペーターおよびハーンの「動態的信用理論」(=「新しき信用理論」)のゾソパルトへの影響について は,同時代にすでに難波田(1933327)が指摘している。    


               -17


をもって初めて返済可能となるからである。信用によって購買する生産者は,(その信用が生産信用である場合には)将来の生産によって果たされる約束でもって支払いを行うのである。それは,個々の企業家にとっては通常のことであり,これによって彼らのうちに拡張欲Ausdehnungsdrangが植えっけられ,さらにそれは拡張強制Ausdehnungszwangへと変化していくのである。その信用が真の指図信用である場合には,すなわち,われわれの用語にしたがえば社会の資産を超過する信用である場合には,こうした個々の企業家が引き起こす生産の拡大は,同時にまたあらゆる経済的生産の増加を意味するものであり,そしてそれはあらゆる経済的生産力の上昇にもとつくものである71。 


 上記の引用文から明らかなように,ゾンバルトにとって「生産信用」の供与は,何よりも「将来における余剰生産」を実現させることによって正当化されている。というのも,企業家が銀行からの「生産信用」をさしあたり無担保で受領し得るのは,彼がそれを用いて近い将来「余剰生産」を達成し,その収益の一部を負債の返済に充てるという企業家と銀行双方に合意された「約束」が存在しているからなのである。こうして,企業家は「生産信用」,ことに「指図信用」を通じて,将来的な収益を得ようとする「拡張欲」を促進され,結果としてこのことが国民経済全体における生産力の向上をもたらす一因になるとゾンバルトはいうのであるが,こうした彼の論理には,明らかにマクラウドによって確立された近代的信用観の強い影響が垣間見えよう。というのも,ゾンバルトは,「信用」の真の機能が「将来収益の現在価値を交易のなかに導入すること」にあると捉えたマクラウドの見解に基本的に同意しており72,まさしくこの点に信用が「無」から「創造」される原因を見出そうとしているからである。ゾンバルトにとっては,こうした銀行による「指図信用」,つまりは信用創造にもとつく「資本」の調達(=「購買力」の供与)こそが「経済発展」の根幹である企業家の革新的才能を最大限に引きだす重要な推進力の一つとして見なされているのであった。 以上のようなゾンバルトの見解が,信用創造による企業家への資本=購買力の供与を「経済発展」のための最重要なファクターとして捉えたシュンペーターやハーンの立場と著しく符合するものであることは,ほとんど疑う余地のない事実といってよいであろう。かくして,ゾンバルトもまたマクラウドによって提唱され,シュソペーターを経てハーンへと受け継がれた「動態的信用理論」の正統なる継承者の一人であったといい得るのである。


V.おわりに

本稿では,ゾソパルトの信用理論が多分に彼以前もしくは彼と同時代の「動態的信用理論」から


71Sombart1927220221:訳37072Macleod18891ed.,18072Sombart1927221:訳370)                   -18



Sombart,W
1927.1)er modei7ze Kapitalismtes. Bd.3. Das JVirtschaftsleben im Zeitalter des HochhaPitalismus. MUn- chen:Duncker und Humblot.梶山力抄訳『高度資本主義1』有斐閣,1940.


 

ゾンバルト

高度資本主義

371


ある」(上揚書八〇頁)と

或る人々は、信用の主要な機能は現在を未来に結びつけることであるといつている(デェーリング)。それは

誤りではないけれとも不充分である。そ行は現在と未来との結合のうちに造り出されるところの緊張腸係を、充

分明瞭に示してわたいからである。むしろ吾々は次ぎのやうに云はねばならないだらう。|信用は未来を現在

のなかへ引き入れるとともに、恒値生産者、即ち企業家を未のなかへ引きず込むるのだ、と。これが最も重

要な貼である。信用は企業家を未楽任にするものである。

このことは、大ぎに考察するところの信用のもう一っの数果と密接な腸聯をもつてねる。即ち信用は

(三)大ぎのことによってもまたその創造力を愛揮する。それは信用が|吾々の経済秩序においては信用のみ

が長期間の生産的計霊を可能ならしめるといふことである。

その計茎が購山とか培張壇のやうに、敷年を経たのもちにはじめて牧益を生じる産業生産設備であれ、また農業

のための土地改良計書であれ、あるひは又畿道とか運河とかの建設であれ|どの揚合にもその事業の途行のた。

めには、かならず信用の葉介を必要とするのである。それは信用の「豊様ならしめる」作用として、マクラウド

がナイル河の土穂にたとへたものであり、またそれにょってすでに多敷の人々が長期信用のための讃歌をうたひ

4出でずにはるられなかつた所のものである。私はことに、比類もなく菩眼な一つの慣値づけを想起する。それは

あのエミール·ソラが「貨幣」(L'Argent)のなかで主人公サカールの口をとほして、信用について述べてわる

第一部

川中!



ゾンバルトがデューリングに言及

デューリングはマクラウドに言及

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Eugen Karl Duhring · 1873

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Eugen Karl Duhring ... Die Vermittlung der Gegenwart mit der Zukunft , der heutigen mit den künftigen Leistungen ist die eigenthümliche ... Jahrhundert am ernstlichsten mit der Untersuchung des Credits und mit der Zergliederung der .


国民経済・社会経済学講座 - 57 ページ books.Google.co.jp ' 本 - このページをご覧ください。

オイゲン・カール・デュアリン - 1873年

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オイゲン・カール・デュアリン ... 現在と未来の仲介、現在と未来の成果の仲介は、独特のものである... 19世紀には、信用の研究とその解剖.


https://openlibrary.org/authors/OL1834636A/Eugen_Karl_Dühring


Kritische Geschichte der Nationalökonomie und des Socialismus


https://openlibrary.org/books/OL23442548M/Kritische_Geschichte_der_Nationalökonomie_und_des_Socialismus


Cursus der national- und socialokonomie - 57 ページ

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Eugen Karl Duhring ... Die Vermittlung der Gegenwart mit der Zukunft , der heutigen mit den künftigen Leistungen ist die eigenthümliche ... Jahrhundert am ernstlichsten mit der Untersuchung des Credits und mit der Zergliederung der .


Kursus der National- und Sozialökonomie
1873



57 lation sein, vermöge deren thatsächlich die definitive Zahlung um eine gewisse Frist hinausrückt. Der Inhaber mag den Wechsel sofort discontiren lassen; der Aussteller wird die Ver- bindlichkeit, die er auf diese Weise eingegangen ist, erst mit der Einlösung des Wechsels selbst ausgleichen. Unter allen Umständen schliesst aber, wie sich auch das Verhältniss der gebundenen Personen stellen möge, die Zahlung durch Wechsel eine Vertagung und mithin ein Creditgeschäft ein. Die vier Wochen, zwei oder drei Monat, allenfalls auch sechs Monat oder die überseeischen Handelscredite von zwölf oder achtzehn Monat sind Andeutungen der natürlichen Intervalle, in denen sich die verschiedenen Cyklen der wirthschaftlichen und ge- schäftlichen Operationen vollziehen. Die Vermittlung der Gegen- wart mit der Zukunft, der heutigen mit den künftigen Leistun- gen ist die eigenthümliche Aufgabe der Creditformen des Wirth- schaftsbetriebs. Der Credit vertritt mithin die zweite, auf die zeitliche Abfolge bezügliche Dimension des volkswirthschaft- lichen Lebens. Schon der einfache Umstand, dass eine Zahlung zwischen zwei entfernteren Orten zu leisten ist, macht zwischen Leistung und Gegenleistung ein zeitliches Auseinanderfallen unvermeidlich, und so werden bereits die geographischen Ver- schiedenheiten ein Grund von zeitlichen Differenzen, die nur im Wege des Credits ausgeglichen werden können. Der Schot- tische Nationalökonom Macleod, der sich in der jüngsten Zeit und überhaupt im 19. Jahrhundert am ernstlichsten mit der Untersuchung des Credits und mit der Zergliederung der volks- wirthschaftlichen Phänomene aus dem Gesichtspunkt des Credit- getriebes beschäftigt hat, ist der Urheber jener allgemeinen Vor- stellungsart, vermöge deren das Vertrauen die Nebensache, die Vermittlung der Leistungen in der Zeit aber die Hauptsache bleibt.
 Erinnert man sich nicht blos des allgemeinen Geschäfts- credits, welcher einen integrirenden Bestandtheil der wirth- schaftlichen Beziehungen bildet, sondern auch derjenigen Arten des Credits, vermöge deren unproductive Verwendungen er- möglicht werden, so findet man auch hier, dass der Credit- mechanismus das Band zwischen Vergangenheit und Zukunft bildet und durch die Vertheilung der Gegenleistungen in der Zeit Verhältnisse möglich macht, an die man sonst nicht würde denken können. Die öffentlichen Anleihen sind recht eigent-


所持人は為替手形を直ちに割引くことができる。振出人はこのようにして締結した債務を手形自体の償還によってのみ清算する。持参人は、為替手形を直ちに割引くことができる。振出人は、為替手形自体が履行されたときにのみ、この方法で締結した債務を清算することになる。しかし、どのような状況であれ、拘束された人々の関係がどうであれ、為替手形による支払いは延期を意味し、したがって信用取引となるのである。4週間、2ヶ月、3ヶ月、場合によっては6ヶ月、あるいは12ヶ月、18ヶ月の海外貿易債権は、経済・商業活動の様々なサイクルが行われる自然な間隔を示している。現在と未来、現在と未来のパフォーマンスの仲介は、経済活動の信用形態に特有の仕事である。このように、信用は経済生活の第二の次元を表し、それは時間的順序に関係するものである。遠く離れた2つの場所の間で支払いが行われなければならないという単純な事実によって、履行と反履行の間に時間的なずれが生じることは避けられず、したがって地理的な違いは、すでに信用によってのみ補償される時間的違いの理由となる。スコットランドの経済学者マクロードは、最近、そして19世紀全般において、信用の研究と経済現象を信用システムの観点から分析することに最も真剣に取り組んできたが、信用は二次的な問題であり、時間的なパフォーマンスの仲介が主要な問題であるという、この一般概念の創始者である。
経済関係の不可欠の部分である一般事業信用だけでなく、非生産的な使用を可能にするような種類の信用も念頭に置くならば、信用機構が過去と未来の間の結合を形成し、時間的に反実行の分配を通じて、他の方法では考えられないような関係を可能にすることもここに見いだされるであろう。公的融資はかなり特殊です。



Gegenwart Vergangenheit Zukunft 現在過去 未来


現在と未来ではなく過去と未来が正確な引用



~~~~
 ハーン銀行信用の国民経済的理論

L. Albert Hahn(1889~1968)

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Ludwig Albert Hahn (* 12. Oktober 1889 in Frankfurt am Main; † 4. Oktober 1968 in Zürich) war ein deutscher BankierNationalökonom und Hochschullehrer. Der zweifach promovierte Hahn war lange Jahre Vorstand der Deutsche Effecten- und Wechsel-Bank AG in Frankfurt am Main, Professor an der Universität Frankfurt am Main und namhafter Geld- und Konjunkturtheoretiker.★


L。アルバート・ハーン

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ルートヴィヒ・アルバート・ハーン(* 12.1889年10月フランクフルト・アム・マイン;†4。196810月チューリッヒ)は、ドイツの銀行家国家経済学者大学の教師でした。2つの博士号を取得しているハーンは、フランクフルトアムマインのDeutsche Effecten- und Wechsel-Bank AG理事長年、フランクフルト・アム・マイン大学の教授であり、有名なお金と経済理論家でした。

ライフと作成[編集 ソースコードの編集]

タウヌスの不動産

L。アルバート・ハーンは、老舗のフランクフルト銀行家ハーンの息子として生まれました。彼の両親はルイス・アルフレッド・ハーン(*1856年;†1921年)とレベッカ(またはレジーヌ[1])ハーン・ネでしたゴールドシュミット[2]。彼は1908年に高校を卒業するまで、フランクフルトのゲーテ体育館に通っていました。その後、フライブルク大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学、マールブルク大学で法律経済学を学びました。 1912年に彼は法律の博士号を取得しました。彼はカッセルで最初の国家試験に合格した。法務事務員ではフランクフルト・アム・マイン地方裁判所ケーニヒシュタイン地方裁判所にいました。ボランティアとして彼は1821年に曽祖父LAによって設立されたドイツ・エフェクトン・ウント・ヴェクセル銀行に参加しました。ハーンが設立されました。

1916年、L.アルバート・ハーンは、査定人の試験でベルリンでの法的訓練を完了しました。その後、マールブルク大学で哲学の研究の後、彼は1919年にフィル博士として博士号を取得しました。同年、彼は弁護士としてフランクフルト高等地方裁判所に認められました。

1919年の終わりに、彼はドイツ・エフェクトン・ウント・ヴェクセル銀行の理事会に加わりました。第一次世界大戦後のインフレ期間中の銀行での彼の仕事のおかげで、銀行は巨額の損失なしでこの時間を生き延びました。この間、彼は最初の著書「銀行信用経済理論」(1.1920年版)では、以前は顧客が銀行への預金として寄付したローンとしてのみ発行できるという一般的な仮定に反論しました。[3]さらに騒動を引き起こしたハーンの2番目の声明は、攻撃的な融資がマネーサプライを増やし、経済成長を促進する可能性があるということでしたこれはケインズ主義のように聞こえました - ケインズの一般理論の出版の15年前。[3]

22日に1926年6月、フランクフルト文化研究協会はハーンのイニシアチブに基づいて設立されました。協会の目的は経済研究の場を設立することであり、同年夏学期にはフランクフルト大学にも経済研究の講師が任命されました。ハーンに加えて、フランクフルト奉行、大学、商工会議所はこの社会の創設者の一人でした。[4]

ハーンのリーダーシップの下で、銀行危機は1931年に生き残ることができました。数少ない銀行の1つとして、DeutscheEffecten- und Wechsel-Bankは帝国政府の支援を必要としなかったため、独立性を維持しました。ハーンは1933年に理事会から銀行の監査役会に移行しました。ハーンはすでに1928年にフランクフルト大学への呼びかけに応え、通貨理論の名誉教授になりました。

1日から10年後彼の本版では、彼は拡張金融政策にはるかに批判的であり、現在はインフレと危機を生み出すと見なしています。[3]ケインズの一般理論(1936年)の出版後、彼は今や若者の罪とみなされている彼の本の初版を思い出すことによって反ケインズ人になりました:「ケインズについてすべてが間違って誇張され、私ははるかに早く、より明確に言いました。[3]ケインズに反して、ハーンの後の著作は、州のすべての経済政策措置が危機を防ぐことだけを目指すことができることを明らかにしました。[5]

国家社会主義者権力を掌握した後、1933年にユダヤ人としての教育を奪われ、1933年6月に弁護士として働くこと禁止されました。国家社会主義者の圧力の下で、家族は1936年に銀行を売却し、スイス経由で米国に移住しました。ハーンは第二次世界大戦の年を科学的な仕事に捧げた。彼は、ニューヨーク、チューリッヒ、パリなど、数多くの講義、エッセイ、書籍、ゲスト講義で科学的知見を表しました。ハーンは科学的な部外者と考えられていたが、それにもかかわらず、彼は経済理論に中心的な貢献をした。[5]アメリカの戦後経済がマクロ経済需要不足に苦しむというケインズ人が行った論文に反して、彼は株式を購入し、数年以内にわずかなお金からニューヨーク証券取引所で数百万ドルを稼いだ。[3]

1940年代の終わりのイベントでルートヴィヒ・エアハルトを初めて聞いたとき、彼はドイツの標準株に投資することを決めました。彼は西ドイツの経済復活が成功するという正しい結論を下しました。[3] 1954年、彼は再び親銀行で重要な株式を取得しました。彼はコンサルタントになり、後にDeutsche Effectsen- und Wechsel-Bankの監督委員会のメンバーになりました。ハーンは定量的な経済と財務分析をあまり考えていませんでした。彼は、大きな数学的努力による予測は時間の無駄だと思った。彼は経済的な主要な気象状況に対する感情であることがより重要であるように見えました。[3]ハーンは生涯を通じて父親のフランクフルト市に接続し続け、妻への配慮だけがヨーロッパに戻った後、彼が爆撃されたフランクフルトに定住するのを妨げました。彼の両親が近くのケーニヒシュタイン・イム・タウヌス(ゲストハウスの機能を持つ)に夏の住居を建て、療養所博士とアールヌーボー様式アンサンブルを作ったことも注目に値する。オスカー・コーンスタムズが結成されました。ドイツへの言及にもかかわらず、彼はパリを居住地として選んだ。L。アルバート・ハーンは4日に亡くなりました。1968年10月、79日が完成する数日前に短いが重篤な病気の後、チューリッヒの病院で人生の年。

彼はフランクフルト・アム・マインの主要な墓地に埋葬されている。ユダヤ人コミュニティから出発したため、彼は家族の墓に埋葬されませんでした。

フォント(選択)[編集 ソースコードの編集]

  • 銀行信用の経済理論。モール, テュービンゲン 1920, (3rdエディション。正確には1930年以来)。
  • 金融理論に照らして私たちの金融状況。9日に開催された講義の後。1924年1月、フランクフルト貿易産業科学会。フランクフルト協会印刷所、フランクフルトアムマイン1924年。
  • 金の利点と金の偏見。金融政策研究。フランクフルト協会印刷所、フランクフルトアムマイン1924年。
  • 信用と危機。金融経済政策のタスクと限界に関する講義。モール、テュービンゲン1931年。
  • イリュージョンの経済学。現代の経済理論と政策の批判的分析。スクワイアなど、ニューヨークNY 1949年(全文オンライン)。
  • 常識の経済学。フリッツ・ナップ、フランクフルト・アム・マイン1954年(英語全文オンライン)。
  • 自律経済政策と為替レートの安定性。ドイツ・レンダー銀行の金融政策に関する金融理論的考慮事項。フリッツ・ナップ、フランクフルト・アム・マイン1957年。
  • インフレと失業の間。5日に開催された講義の拡張版ヘッセンe.V.の民間信用機関協会のメンバーの前に1958年9月フリッツ・ナップ、フランクフルト・アム・マイン1958年。
  • お金と信用。金融と経済の理論的考慮事項。フリッツ・ナップ、フランクフルト・アム・マイン1960。
  • 金融統合 - 幻想か現実か?で:ヴィルヘルム・マインホルト(編):国際金融金融政策。(アドルフ・ウェーバーは85回目の完成を記念した29日の生年1961年12月誕生日プレゼントとして)。ダンカー&フンブロ、ベルリン1961年。
  • 金融統合について。講演(=ウォルター・ユーケン研究所。講義とエッセイ。7、ISSN 0509-6065)。モール、テュービンゲン1961年。
  • アメリカの経済政策、ドル、ドイツのマーク(=ウォルター・オイケン研究所。講義とエッセイ。10)。モール、テュービンゲン1963年。
  • インフレとデフレの間の50年。モール、テュービンゲン1963年(自分の人生の説明に加えて、この本には金融理論、経済、金融政策に関する数十年のエッセイが含まれています)。
  • レビューと見通し。彼の75回目の機会に行われた講義12歳の誕生日1964年10月、フランクフルトで。フランクフルト・アム・マインのDeutscheEffecten- und Wechsel-Bankのプライベートプリントとして出版されました。モール、テュービンゲン1965年。
  • アメリカの金融政策の国内および国際的な側面(=ウォルター・ユーケン研究所。講義とエッセイ。13)。モール、テュービンゲン1966年。
  • お金と金。講義とエッセイ、1962-1968(=リスト協会の出版物。64、ZDB-ID741638-6)。エドガー・サリンの序文付き。キクロス・ヴェルラグなど、バーゼル1969年。

文学[編集 |ソースコードの編集]

  • マイケル・ハウク:アルバート・ハーン。フランクフルトの追放された息子、銀行家、科学者。Societäts-Verlag, Frankfurt am Main 2009, ISBN 978-3-7973-1138-2.
  • ハーン教授:結論で: Die Zeit, No.1962年29月29日
  • ハインツ・シュトゥルム=ゴドラムシュタイン:ケーニヒシュタインのユダヤ人、シティアーカイブ1998
  • ベルント・クラ:ハーン、ルートヴィヒ・アルバート。で:ハラルド・ハーゲマンクラウス・ディーター・クローン(編):1933年以降のドイツ語圏の経済移民の伝記ハンドブック。第1巻:アドラー・レーマン。Saur, Munich 1999, ISBN 3-598-11284-X, p.225-227。
  • ヴェルナー・レーダー、ハーバートA.シュトラウス(編):1933年以降のドイツ語移民の伝記ハンドブック。第1巻:政治、経済、公共生活。ミュンヘン:サウルス、1980年、p.263
  • Hahn, Albert L., in: Joseph Walk (ed.): ユダヤ人の歴史に関する短い伝記 1918-1945.ミュンヘン:サウルス、1988年、ISBN 3-598-10477-4、p.136
  • バーバラ・ドレマイヤー:フランクフルト高等地方裁判所地区におけるユダヤ人起源の弁護士の短い伝記。125年:弁護士協会フランクフルトアムマイン、p.154。

ウェブリンク[編集 ソースコードの編集]

項目別参照[編集 ソースコードの編集]

  1. Dölemeyer:短い伝記
  2. ハウク、マイケル:アルバート・ハーン:フランクフルトの追放された息子、銀行家、科学者:ドキュメンタリー。Societäts-Verlag, [フランクフルト・アム・メイン] 2009, ISBN 978-3-7973-1138-2p. 194
  3. ジャンプアップ:Gerald Braunberger:危機を理解した男:Frankfurter Allgemeine Sonntagszeitung、82009年3月、p.38。
  4. 都市歴史研究所:シティクロニクル1926-22。1926年6月。社会の数多くの出版物の概要は、ドイツ国立図書館カタログの「フランクフルトビジネスサイクル研究協会出版物」という検索用語で見つけることができます。
  5. ジャンプアップ後:b古い問題が再配置されていますで: Die Zeit, No.52/1956です

  • 1 Leben und Schaffen
  • 2 Schriften (Auswahl)
  • 3 Literatur
  • 4 Weblinks
  • 5 Einzelnachweise

Leben und Schaffen

L. Albert Hahn wurde als Sohn der alteingesessenen Frankfurter Bankiersfamilie Hahn geboren. Seine Eltern waren Louis Alfred Hahn (* 1856; † 1921) und Rebecca (oder Regine[1]) Hahn geb. Goldschmidt[2]. Er besuchte das Goethe-Gymnasium in Frankfurt am Main bis zum Abitur im Jahr 1908. Anschließend studierte er Rechtswissenschaften und Volkswirtschaft an den Universitäten Freiburg, Heidelberg, Berlin und Marburg. 1912 wurde er zum Dr. jur. promoviert. Das erste Staatsexamen absolvierte er in Kassel. Im Rechtsreferendariat war er am Landgericht Frankfurt am Main und am Amtsgericht Königstein. Als Volontär stieg er bei der Deutschen Effecten- und Wechsel-Bank ein, dessen Vorgängerinstitut 1821 durch seinen Urgroßvater L.A. Hahn gegründet wurde.

1916 schloss L. Albert Hahn seine juristische Ausbildung in Berlin mit dem Assessor-Examen ab. Nach einem anschließenden Studium der Philosophie an der Universität Marburg promovierte er 1919 zum Dr. phil.Im gleichen Jahr wurde er als Rechtsanwalt beim Oberlandesgericht Frankfurt zugelassen.

Ende 1919 trat er in den Vorstand der Deutschen Effecten- und Wechsel-Bank ein. Seinem Wirken für die Bank in der Inflationszeit nach dem Ersten Weltkrieg war es zu verdanken, dass die Bank diese Zeit ohne wesentliche Verluste überstand. In dieser Zeit veröffentlichte er sein erstes Buch Volkswirtschaftliche Theorie des Bankkredits (1. Auflage 1920), in dem er die bis dahin vorherrschende Annahme, dass eine Bank nur als Kredit ausgeben kann, was vorher von Kunden als Einlage in die Bank eingebracht wurde, widerlegte.[3] Hahns zweite Feststellung, die für noch mehr Furore sorgte, war, dass durch eine offensive Kreditvergabe sich die Geldmenge steigern und damit das Wirtschaftswachstum ankurbeln lasse. Das klang nach Keynesianismus – 15 Jahre vor der Veröffentlichung von Keynes’ General Theory.[3]

Am 22. Juni 1926 wurde auf Hahns Initiative die Frankfurter Gesellschaft für Kulturforschung gegründet. Zweck des Vereins war die Errichtung einer Stätte für Konjunkturforschung, und dazu wurde im Sommersemester des gleichen Jahres an der Universität Frankfurt auch noch ein Lehrbeauftragter für Methoden der Konjunkturforschung berufen. Neben Hahn zählten der Frankfurter Magistrat, die Universität und die Industrie- und Handelskammer zu den Gründern dieser Gesellschaft.[4]

Unter der Führung von Hahn konnte 1931 die Bankenkrise überstanden werden. Als eine von wenigen Banken benötigte die Deutsche Effecten- und Wechsel-Bank keine Stützungshilfe von der Reichsregierung, wodurch sie sich ihre Unabhängigkeit bewahrte. 1933 wechselte Hahn vom Vorstand in den Aufsichtsrat der Bank. Bereits 1928 war Hahn dem Ruf an die Universität Frankfurt gefolgt und Honorarprofessor für Geld- und Währungstheorie geworden.

Zehn Jahre nach der 1. Auflage seines Buches war er viel kritischer gegenüber expansiver Geldpolitik eingestellt, die er nun als inflationstreibend und krisenerzeugend ansah.[3] Nach der Veröffentlichung von Keynes’ General Theory (1936) wurde er zu einem Anti-Keynesianer, indem er an die mittlerweile als Jugendsünde aufgefasste Erstauflage seines Buches erinnerte: „Alles, was an Keynes falsch und übertrieben ist, habe ich viel früher und klarer gesagt.“[3]Entgegen Keynes wurde in Hahns späteren Schriften klar und deutlich, dass alle konjunkturpolitischen Maßnahmen des Staates nur auf die Verhütung der Krise abzustellen sind.[5]

Nach der Machtergreifung der Nationalsozialisten wurde ihm als Juden 1933 die Lehrbefugnis entzogen und er erhielt im Juni 1933 ein Berufsverbot als Rechtsanwalt. Unter dem Druck der Nationalsozialisten veräußerte die Familie 1936 die Bank und emigrierte über die Schweiz in die USA. Die Jahre des Zweiten Weltkriegs widmete Hahn seinem wissenschaftlichen Schaffen. In zahlreichen Vorträgen, Aufsätzen, Büchern und Gastvorlesungen, unter anderem in New York, Zürich und Paris, vertrat er seine wissenschaftlichen Erkenntnisse. Galt Hahn als wissenschaftlicher Außenseiter, lieferte er dennoch zentrale Beiträge zur Wirtschaftstheorie.[5] Entgegen der von den Keynesianern aufgestellten These, die amerikanische Nachkriegswirtschaft werde an einem gesamtwirtschaftlichen Nachfragemangel leiden, kaufte er Aktien und machte damit innerhalb weniger Jahre aus wenig Geld mehrere Millionen Dollar an der New Yorker Börse.[3]

Als er Ende der 1940er Jahre auf einer Veranstaltung erstmals Ludwig Erhard hörte, entschied er, in deutsche Standardaktien zu investieren. Er hatte den richtigen Schluss gezogen, dass der westdeutsche wirtschaftliche Wiederaufstieg gelingen werde.[3] 1954 erwarb er wieder einen wesentlichen Aktienanteil am elterlichen Bankhaus. Er wurde Berater und später Mitglied des Aufsichtsrats der Deutschen Effecten- und Wechsel-Bank. Hahn hielt nicht viel von quantitativer Wirtschafts- und Finanzanalyse. Prognosen mit großem mathematischen Aufwand hielt er für Zeitverschwendung. Wichtiger schien ihm ein Gefühl für die wirtschaftliche Großwetterlage zu sein.[3] Hahn blieb zeitlebens seiner Vaterstadt Frankfurt verbunden und nur die Rücksicht auf seine Frau hielt ihn nach seiner Rückkehr nach Europa davon ab, sich im zerbombten Frankfurt niederzulassen. Erwähnenswert ist hierbei auch, dass schon seine Eltern im nahegelegenen Königstein im Taunus einen Sommersitz (mit der Funktion auch eines Gästehauses) errichten ließen, der ein Jugendstil-Ensemble mit dem Sanatorium Dr. Oskar Kohnstamms bildete. Trotz dieser Bezüge nach Deutschland wählte er Paris als Wohnort. L. Albert Hahn verstarb am 4. Oktober 1968 in einem Zürcher Krankenhaus nach kurzer, aber schwerer Krankheit wenige Tage vor Vollendung seines 79. Lebensjahres.

Er ist auf dem Hauptfriedhof in Frankfurt am Main begraben. Aufgrund seines Austritts aus der jüdischen Gemeinde wurde er nicht im Familiengrab beerdigt.

Schriften (Auswahl)

  • Volkswirtschaftliche Theorie des Bankkredits. Mohr, Tübingen 1920, (3. Auflage. ebenda 1930).
  • Unsere Währungslage im Lichte der Geldtheorie. Nach einem Vortrag gehalten am 9. Januar 1924 in der Frankfurter Gesellschaft für Handel, Industrie und Wissenschaft. Frankfurter Societäts-Druckerei, Frankfurt am Main 1924.
  • Goldvorteil und Goldvorurteil. Eine Währungspolitische Studie.Frankfurter Societäts-Druckerei, Frankfurt am Main 1924.
  • Kredit und Krise. Ein Vortrag über Aufgaben und Grenzen der monetären Konjunkturpolitik. Mohr, Tübingen 1931.
  • The Economics of Illusion. A Critical Analysis of Contemporary Economic Theory and Policy. Squier u. a., New York NY 1949, (Volltext online).
  • Wirtschaftswissenschaft des gesunden Menschenverstandes. Fritz Knapp, Frankfurt am Main 1954, (Volltext in englischer Sprache online).
  • Autonome Konjunktur-Politik und Wechselkurs-Stabilität. Geldtheoretische Betrachtungen zur Währungspolitik der Bank deutscher Länder. Fritz Knapp, Frankfurt am Main 1957.
  • Zwischen Inflation und Arbeitslosigkeit. Erweiterte Fassung eines Vortrags, gehalten am 5. September 1958 vor den Mitgliedern des Verbandes der Privaten Kreditinstitute in Hessen e.V. Fritz Knapp, Frankfurt am Main 1958.
  • Geld und Kredit. Währungspolitische und konjunkturtheoretische Betrachtungen. Fritz Knapp, Frankfurt am Main 1960.
  • Monetäre Integration – Illusion oder Realität? In: Wilhelm Meinhold (Hrsg.): Internationale Währungs- und Finanzpolitik. (Adolf Weber aus Anlass der Vollendung seines 85. Lebensjahres am 29. Dezember 1961 als Geburtstagsgabe überreicht). Duncker & Humblot, Berlin 1961.
  • Über monetäre Integration. Vortrag (= Walter Eucken Institut. Vorträge und Aufsätze. 7, ISSN 0509-6065). Mohr, Tübingen 1961.
  • Die amerikanische Konjunkturpolitik, der Dollar und die D-Mark (= Walter Eucken Institut. Vorträge und Aufsätze. 10). Mohr, Tübingen 1963.
  • Fünfzig Jahre zwischen Inflation und Deflation. Mohr, Tübingen 1963 (Das Buch enthält neben einer Schilderung des eigenen Lebens Aufsätze aus mehreren Jahrzehnten zur Geldtheorie, zur Wirtschafts- und zur Währungspolitik).
  • Rückblick und Ausblick. Vortrag gehalten anlässlich seines 75. Geburtstags am 12. Oktober 1964 in Frankfurt am Main. Erschienen als Privatdruck der Deutschen Effecten- und Wechsel-Bank, Frankfurt am Main. Mohr, Tübingen 1965.
  • Nationale und internationale Aspekte der amerikanischen Währungspolitik (= Walter Eucken Institut. Vorträge und Aufsätze. 13). Mohr, Tübingen 1966.
  • Geld und Gold. Vorträge und Aufsätze, 1962–1968 (= Veröffentlichungen der List-Gesellschaft. 64, ZDB-ID 741638-6). Mit einem Geleitwort von Edgar Salin. Kyklos-Verlag u. a., Basel 1969.

Literatur

  • Michael Hauck: Albert Hahn. Ein verstoßener Sohn Frankfurts, Bankier und Wissenschaftler. Societäts-Verlag, Frankfurt am Main 2009, ISBN 978-3-7973-1138-2.
  • Professor Hahn: Ein Fazit. In: Die Zeit, Nr. 29/1962
  • Heinz Sturm-Godramstein: Juden in Königstein, Stadtarchiv 1998
  • Bernd Kulla: Hahn, Ludwig Albert. In: Harald HagemannClaus-Dieter Krohn (Hrsg.): Biographisches Handbuch der deutschsprachigen wirtschaftswissenschaftlichen Emigration nach 1933. Band 1: Adler–Lehmann. Saur, München 1999, ISBN 3-598-11284-X, S. 225–227.
  • Werner Röder, Herbert A. Strauss (Hrsg.): Biographisches Handbuch der deutschsprachigen Emigration nach 1933. Band 1: Politik, Wirtschaft, Öffentliches Leben. München : Saur, 1980, S. 263
  • Hahn, Albert L., in: Joseph Walk (Hrsg.): Kurzbiographien zur Geschichte der Juden 1918–1945. München : Saur, 1988, ISBN 3-598-10477-4, S. 136
  • Barbara Dölemeyer: Kurzbiographien der Anwälte jüdischer Herkunft im Oberlandesgerichtsbezirk Frankfurt; in: 125 Jahre: Rechtsanwaltskammer Frankfurt am Main, S. 154.

Weblinks

Einzelnachweise

  1.  Dölemeyer: Kurzbiographien
  2.  Hauck, Michael: Albert Hahn: ein verstossener Sohn Frankfurts, Bankier und Wissenschaftler: eine Dokumentation. Societäts-Verlag, [Frankfurt am Main] 2009, ISBN 978-3-7973-1138-2S. 194.
  3. ↑ a b c d e f g Gerald Braunberger: Der Mann, der die Krisen verstandIn: Frankfurter Allgemeine Sonntagszeitung, 8. März 2009, S. 38.
  4.  Institut für Stadtgeschichte: Stadtchronik 1926 – 22. Juni 1926. Einen Überblick über die zahlreichen Veröffentlichungen der Gesellschaft erhält man über den Suchbegriff „Veröffentlichungen der Frankfurter Gesellschaft für Konjunkturforschung“ im Katalog der Deutschen Nationalbibliothek.
  5. ↑ a b Alte Probleme stellen sich wieder neu. In: Die Zeit, Nr. 52/1956
Normdaten (Person): GND118700588 | LCCNn89651961 | VIAF13101648 | Wikipedia-Personensuche

 

9 Comments:

Blogger yoji said...

NAMs出版プロジェクト: ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』1904より
http://nam-students.blogspot.jp/2015/05/blog-post_13.html
ウェーバー、パーソンズはメンガーにいたる功利主義の系譜を、原理的に考察することで、あるいは
体系的に位置づけることで相対化した。ウェーバーの所属しパーソンズが結果的に擁護した歴史学派は
最近の経済学では系譜として(制度学派の出発点としてしか)考慮されないので、双方の流れを汲む陣営
にウェーバーとパーソンズの真意が理解されていない。 唯物論に対してとともに主観主義に対しても戦ったのだ。

《…経済学史上まれにみる、「方法論争」の名でよばれる感情的な論争がおこった。シュモラーはメンガーを無視したけれど、実質的にはこの論争はメンガーの方に歩があったといわねばならないものだった。歴史学派にとってのこの不名誉は誰かがすすがなくてはならなかったが、その役を買って出たのがウェーバーだったのである。》後述河出書房新社出口解説

ウェーバー客観性論文1904より、メンガーへの嫌み

(メンガーは限界効用の提唱者でドイツ歴史学派を批判した。客観性論文はメンガーへの反論。)
 《抽象理論がかかげられるばあいには、みかけのうえでは、心理的な根本動機からの「演繹」
だけがおこなわれているようだが、実際にはむしろ、人間の文化に関する科学に独特なもので、
ある意味では、それなしにはすまされない、概念構成のひとつのかたちのひとつの特殊なあり
かたが、そこにみられるのである。…
…たとえば、現在の「抽象理論」が今後どこまで展開せられねばならぬかという疑問は、結局に
は、科学的研究の経済の問題でもある。科学的研究にたいしては、ほかに諸問題も解決をせま
って待ちかまえているのが実情なのであるから。「限界効用理論」もまた、「限界効用の法則」
にしたがうというわけである。──》
(ワイド版 世界の大思想Ⅱ-12 ウェーバー 政治・社会論集  二〇一三年十一月三〇日 河出書房新社)

限界効用の肝は多様性が大事という結論である。この認識を忘れると危機の増大に気づかなくなる。

4:27 午後  
Blogger yoji said...

「われわれの欲求は、量よりはむしろ多様性を目ざすことは明瞭である」シーニョア (ジェボンズ経済学の理論41頁より孫引き)
An Outline of the Science of Political Economy - 133 ページ
Nassau William Senior - 1836 -
It is obvious, however, that our desires do not aim so much at quantity as at diversity. Not only are there limits ...Senior
シーニョア 経済学概説 1836

4:29 午後  
Blogger yoji said...


ウェーバー客観性論文1904より、メンガーへの嫌み

(メンガーは限界効用の提唱者でドイツ歴史学派を批判した。客観性論文はメンガーへの反論。)
 《抽象理論がかかげられるばあいには、みかけのうえでは、心理的な根本動機からの「演繹」
だけがおこなわれているようだが、実際にはむしろ、人間の文化に関する科学に独特なもので、
ある意味では、それなしにはすまされない、概念構成のひとつのかたちのひとつの特殊なあり
かたが、そこにみられるのである。…
…たとえば、現在の「抽象理論」が今後どこまで展開せられねばならぬかという疑問は、結局に
は、科学的研究の経済の問題でもある。科学的研究にたいしては、ほかに諸問題も解決をせま
って待ちかまえているのが実情なのであるから。「限界効用理論」もまた、「限界効用の法則」
にしたがうというわけである。──》
(ワイド版 世界の大思想Ⅱ-12 ウェーバー 政治・社会論集  二〇一三年十一月三〇日 河出書房新社)

限界効用の肝は多様性が大事という結論である。この認識を忘れると危機の増大に気づかなくなる。



「われわれの欲求は、量よりはむしろ多様性を目ざすことは明瞭である」シーニョア (ジェボンズ経済学の理論41頁より孫引き)
An Outline of the Science of Political Economy - 133 ページ
Nassau William Senior - 1836 -
It is obvious, however, that our desires do not aim so much at quantity as at diversity. Not only are there limits ...Senior
シーニョア 経済学概説 1836

4:31 午後  
Blogger yoji said...


ウェーバー客観性論文1904より、メンガーへの嫌み

(メンガーは限界効用の提唱者でドイツ歴史学派を批判した。客観性論文はメンガーへの反論。)
 《…たとえば、現在の「抽象理論」が今後どこまで展開せられねばならぬかという疑問は、結局に
は、科学的研究の経済の問題でもある。科学的研究にたいしては、ほかに諸問題も解決をせま
って待ちかまえているのが実情なのであるから。「限界効用理論」もまた、「限界効用の法則」
にしたがうというわけである。──》
(ワイド版 世界の大思想Ⅱ-12 ウェーバー 政治・社会論集  二〇一三年十一月三〇日 河出書房新社)

限界効用の肝は多様性が大事という結論である。この認識を忘れると危機の増大に気づかなくなる。



「われわれの欲求は、量よりはむしろ多様性を目ざすことは明瞭である」
シーニョア (ジェボンズ経済学の理論41頁より孫引き)
An Outline of the Science of Political Economy - 133 ページ

Nassau William Senior - 1836 - [シーニョア 経済学概説 1836]

《It is obvious, however, that our desires do not aim so much at quantity as at diversity. Not only are there limits 》...Senior

4:31 午後  
Blogger yoji said...


ウェーバー客観性論文1904より、メンガーへの嫌み

(メンガーは限界効用の提唱者でドイツ歴史学派を批判した。客観性論文はメンガーへの反論。)
 《…たとえば、現在の「抽象理論」が今後どこまで展開せられねばならぬかという疑問は、結局に
は、科学的研究の経済の問題でもある。科学的研究にたいしては、ほかに諸問題も解決をせま
って待ちかまえているのが実情なのであるから。「限界効用理論」もまた、「限界効用の法則」
にしたがうというわけである。──》
(ワイド版 世界の大思想Ⅱ-12 ウェーバー 政治・社会論集  二〇一三年十一月三〇日 河出書房新社)

限界効用の肝は多様性が大事という結論である。この認識を忘れると危機の増大に気づかなくなる。


「われわれの欲求は、量よりはむしろ多様性を目ざすことは明瞭である」
シーニョア (ジェボンズ経済学の理論41頁より孫引き)
An Outline of the Science of Political Economy - 133 ページ
Nassau William Senior - 1836 - [シーニョア 経済学概説 1836]
《It is obvious, however, that our desires do not aim so much at quantity as at diversity. Not only are there limits. 》

4:32 午後  
Blogger yoji said...

ゲーム理論が基数的になれるのは全体が閉じているからだ
限界効用は閉じていないから序数的になる
限界効用は一般的になりすぎたので批判も一般的に広まった

ウェーバー客観性論文1904より、メンガーへの嫌み

(メンガーは限界効用の提唱者でドイツ歴史学派を批判した。客観性論文はメンガーへの反論。)
 《…たとえば、現在の「抽象理論」が今後どこまで展開せられねばならぬかという疑問は、結局に
は、科学的研究の経済の問題でもある。科学的研究にたいしては、ほかに諸問題も解決をせま
って待ちかまえているのが実情なのであるから。「限界効用理論」もまた、「限界効用の法則」
にしたがうというわけである。──》
(ワイド版 世界の大思想Ⅱ-12 ウェーバー 政治・社会論集  二〇一三年十一月三〇日 河出書房新社)

限界効用の肝は多様性が大事という結論である。この認識を忘れると危機の増大に気づかなくなる。


「われわれの欲求は、量よりはむしろ多様性を目ざすことは明瞭である」
シーニョア (ジェボンズ経済学の理論41頁より孫引き)
An Outline of the Science of Political Economy - 133 ページ
Nassau William Senior - 1836 - [シーニョア 経済学概説 1836]
《It is obvious, however, that our desires do not aim so much at quantity as at diversity. Not only are there limits. 》

4:34 午後  
Blogger yoji said...

エンゲルス執筆の箇所ですが、

「…共産主義社会では、各人は一つの排他的な活動範域をもたず、
各〔範域〕を任意の各部門で自己形成をとげることができるのだが、共産
主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能に
なることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝はそして昼には
午後には庭師、夕方には俳優になる、〔私の気のおもむくままに〕狩りをし、
午後には漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする-狩師、漁夫、
あるいは牧夫あるいは批判家〔という固定的な専門家〕になることなく、私の
気のおもむくままにそうすることができるようになるのである。」
(廣松渉版 ドイツイデオロギー邦訳テキスト篇p.34)
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/17054/2/010081091.pdf

4:37 午後  
Blogger yoji said...

ゲーム理論が基数的になれるのは全体が閉じているからだ
限界効用は閉じていないから序数的になる
限界効用は一般的になりすぎたので批判も一般的に広まった

ウェーバー客観性論文1904より、メンガーへの嫌み

(メンガーは限界効用の提唱者でドイツ歴史学派を批判した。客観性論文はメンガーへの反論。)
 《…たとえば、現在の「抽象理論」が今後どこまで展開せられねばならぬかという疑問は、結局に
は、科学的研究の経済の問題でもある。科学的研究にたいしては、ほかに諸問題も解決をせま
って待ちかまえているのが実情なのであるから。「限界効用理論」もまた、「限界効用の法則」
にしたがうというわけである。──》
(ワイド版 世界の大思想Ⅱ-12 ウェーバー 政治・社会論集  二〇一三年十一月三〇日 河出書房新社)

限界効用の肝は多様性が大事という結論である。この認識を忘れると危機の増大に気づかなくなる。

「われわれの欲求は、量よりはむしろ多様性を目ざすことは明瞭である」
シーニョア (邦訳ジェボンズ『経済学の理論』41頁より孫引き)
An Outline of the Science of Political Economy - 133 ページ
Nassau William Senior - 1836 - [シーニョア 経済学概説 1836]
《It is obvious, however, that our desires do not aim so much at quantity as at diversity. Not only are there limits. 》

エンゲルス執筆の箇所ですが、

「…共産主義社会では、各人は一つの排他的な活動範域をもたず、
各〔範域〕を任意の各部門で自己形成をとげることができるのだが、共産
主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能に
なることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝はそして昼には
午後には庭師、夕方には俳優になる、〔私の気のおもむくままに〕狩りをし、
午後には漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする-狩師、漁夫、
あるいは牧夫あるいは批判家〔という固定的な専門家〕になることなく、私の
気のおもむくままにそうすることができるようになるのである。」
(廣松渉版 ドイツイデオロギー邦訳テキスト篇p.34)
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/17054/2/010081091.pdf

4:44 午後  
Blogger yoji said...


ヴェルナー・ゾンバルト - (Werner Sombart、1863- 1941)


https://twitter.com/tagomago715/status/1490680909330219010?s=21



タイトル: ヴェルナー・ゾンバルトと信用創造理論の系譜-「動態的信用理論」の受容をめぐって- 著者: 奥山,誠 誌名: 経済学研究論集 巻:


https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/8026/1/keizaigakuronshu_28_1.pdf


1927.1)er modei7ze Kapitalismtes. Bd.3. Das JVirtschaftsleben im Zeitalter des HochhaPitalismus. MUn- chen:Duncker und Humblot.
梶山力抄訳『高度資本主義1』有斐閣,1940.   

‪「無からお金を生み出す」という言葉の言い出しっぺを調べていた。「信用が無から創造される」という言葉はスコットランドの法学者であるH.D.マクラウドぽい。 pic.twitter.com/XiKVNcub76‬
‪ ‬
‪2022/02/07 22:30‬
‪ ‬
‪ ‬
‪ ‬
‪ ‬
‪ ‬
‪Tagomago‬
‪@Tagomago715‬


‪こちらも‬
‪二階堂達郎‬
‪『H.D.マクラウドの信用理論と近代的信用観の形成』‬
‪ci.nii.ac.jp/naid/110000046…‬
‪ ‬
‪2022/02/07 22:36‬

1:38 午後  

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