カイ・ムンクはキルケゴールに傾倒した牧師でもあり、ナチスへの抵抗の中で殺されたのだが、前述の映画『奇跡』にキルケゴールの名前が出てくるのが個人的にずっと気になっていた(狂人の主人公がキルケゴールを読んでいたという設定)。
上記はK・レーヴィットの論考の小川圭治による図解(『キルケゴール 人類の知的遺産』p.32)。
近代はへーゲルの絶対精神に発し、現代のニーチェの神の死へ至る。
その際、観念と物体、内面と社会のバランスが大切だとレーヴィットは言う(『ヘーゲルからニーチェへ』)。
柄谷行人ならキルケゴールではなくカントを導入するだろう。
*
追記:図式について
カントによれば、図式とは概念と直観の媒介者であり、時間規定である(図式によって全体を見渡せるとはカントは考えていない)。
そして、図式は時間規定(量→質→関係→様相というカテゴリー内、つまり系列→内容→秩序→総括のうちのどれか)であるというカントの主張を、ハイデガーは『カントと形而上学の問題』で「対象つまり存在とは時間である」と読み替える。
さらに、カントが第一批判の第二版で図式を機能させる構想力の地位を悟性以下に格下げしたことを非難するのだ。
ハイデガーによる、図式という媒介を称揚しつつ構想力つまり存在了解を擁護する戦略は巧みだが、それがヘーゲルの場合、媒介そのものを拒絶する戦略が採用される。しかもこの場合はトリアーデというヘーゲルによって採用された図式**が実体化及び象徴化、さらにはカントの言葉でいえば形象と化しているのである。
**参考:
ヘーゲルのメモ
神的三角形及び(マラブー『ヘーゲルの未来』の表紙に採用された)自然哲学草稿への落書き
http://pds.exblog.jp/pds/1/200707/04/41/a0024841_1514745.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/200711/19/41/a0024841_13504597.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/200708/18/41/a0024841_17322374.jpg
《 この十九世紀思想史の叙述に当たってレヴィットが用いた基本的図式は、上図のようなものである。すなわち、すでに述べたように、近代主観主義思想の原理的立場は、ヘーゲルの「絶対精神」に求められる。生前ヘーゲルに対して批判的であったゲーテも、思想の原理的立場においてはヘーゲルと同じであることが論証される。
それに対して、この近代主観主義における人間精神の自己絶対化の崩壊を、ニーチェは、その絶対化の根幹となっている神に関して、「神は死んだ」というテーゼを立てることによって示そうとした。したがって「神は死んだ」というのは、現代の思想的状況を表す原理的テーゼなのである。
このような基本的図式を立てることによって、忘却の中に沈んでしまったエピソードの画期的意義を明らかにするというのが、レヴィットの書物の主要な内容である。とくにD・F・シュトラウスの『イエスの生涯』(一八四八年)が提起した「魂の永遠性」の問題をめぐって、ヘーゲル派が左・右両派に分裂し、はじめは存在した中間派がたちまち右派に吸収され、右派は保守的講壇哲学として哲学史研究に逃げ込むが、左派からはフォイエルバッハをへてマルクスが現れるという経過がみごとに描き出されている。この近代から現代への経過の中間的エピソードとしてレヴィットがもっとも重視するのが、キルケゴールとマルクスである。キルケゴールは、この崩壊過程を人間の個人の内面においてとらえて、新しい人間理解の視点として「主体的実存」くいう考え方を提示した。それに対してマルクスは、この崩壊過程を社会の歴史的現実においてとらえ、その克服のための目標として共産主義社会の実現をかかげた。レヴィットによれば、この二つの視点が、どちらか一つに片寄ってしまうと、それぞれ一種の抽象化に逢着してしまう。たがいに矛盾する視点でありながら、この両者が切り結ぶ点を見つめるならば、そこにニーチェのいう「神は死んだ」という現代の思想的状況の真相が姿を現すというのである。
このレヴィットの図式は、やはり図式としての一面性をもつので、これだけで割り切ってしまえない局面も出てくることを忘れてはならない。しかしわれわれの当面する問題である「ヨーロッパ思想史におけるキルケゴールの位置づけ」にとっては、さしあたり便利な見取図だといえるであろう。》
週刊読書人 20170303の柄谷行人との対談で渡部直己が「マルクス的柄谷」と「キルケゴール的柄谷」とに柄谷の影響を分けている。
(肯定面)↓
(否定面)
宗教性B
宗教性A ↗︎…→宗教性A
倫理的段階↗︎…→倫理的段階
美的段階 ↗︎…→美的段階
↑観念論哲学↗︎
実存の三段階
(『哲学的断片へのあとがき』1845年.参照)
彼の遺著『わが著作活動の視点』(1859年出版。執筆は1848年)によるとおよそ三つのグループに分けられるという…
宗教性Reigieusitetenは宗教心とも訳される。
_______________
キルケゴール(1813-1855)の世界:試作
http://yojiseki.exblog.jp/8875247/
<キルケゴール(1813-1855)の世界>
左手=倫理的、 右手=宗教的
この世的
『現代の批評』 _______ 『建徳的講話』
↑ 『後書き』 |宗教的世界 | ↓
『人生行路の諸段階』 |(キリスト) |
『不安の概念』 二階|______『死に至る病』『野の百合・
『哲学的断片』 |倫理的世界 | 空の鳥』
『反復』 一階|(ソクラテス)|
『おそれとおののき』_|_______|___
『あれか、これか』//|審美的世界 |///
//|(ドン・ |///
//|_ジュアン)_|///
地下////////////
『あれか、これか(第一部:誘惑者の日記)』
キルケゴール内部は、
2階=宗教的(キリスト) 、
1階=倫理的(ソクラテス)、
地下=審美的(ドン・ジュアン) という構造になっている。
参考:
http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard2.html
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/cat_50027458.html
付録:
以下、ドゥルーズ『差異と反復』図解
序論と第二章でキルケゴールが言及される。
時 間
__________反 復__________
|\ |それ自身へ向かう反復/|
| \ |
2 / |
| \
6結論 |
ヒューム / |
| 差異と反復 |
ベルクソン/ |
| \
スピノザ|
フロイト/ |
|
ニーチェ <量> |
ラカン<質>
スコトゥス|
| \ |
タルド /
1 |
|
5 \ | /
アリストテレス|
|感覚されうるもの\ | /それ自身における|
|の非対称的総合 \ | /差異 |
| \|/
プラトン |空
|_____ドゥルーズ『差異と反復』______差
|\ | /|\ 異
| \(2)|(6)/ | \
4 |間
| \ | / | 差異の理念的総合 |
|(1)\ | /(5)| \
ライプニッツ |
|
0序論 | \
マルクス |
|___反復と差異___| \ |
| <関係> | <様相> |
| (0) | \(4)|
3 \ |
|
はじめに | \ |思考のイマージュ\ |
|
ハイデガー|(3)\ |
プラトン、
デカルト\ |
|/ | \|
カント、
ヘーゲル \|
/_____|_____\___________\
時 間
__________反 復__________
|\それ自身へ向かう反復| /|
| \
2 | / |
| \
ヒューム |
6結論 / |
| \
ベルクソン | 差異と反復 |
| \
フロイト |
スピノザ/ |
|
スコトゥス<量>
ラカン| <質> |
|
アリストテレス タルド| /
ニーチェ |
|
1 \ | /
5 |
|それ自身における\ | /感覚されうるもの|
| 差異 | / の非対称的総合 |
|
プラトン \|/ |空
|_____ドゥルーズ『差異と反復』______差
|\ | /|\ 異
| \(2)|(6)/ | \
4 |間
| \ | / | 差異の理念的総合 |
|(1)\ | /(5)| \
ライプニッツ |
|
0序論 | \
マルクス |
|___反復と差異___| \ |
| <関係> | <様相> |
| (0) | \(4)|
3 \ |
|
はじめに | \ |思考のイマージュ\ |
|
ハイデガー|(3)\ |
プラトン、
デカルト\ |
|/ | \|
カント、
ヘーゲル \|
/_____|_____\___________\
時 間
__________反 復__________
|〜それ自身へ向かう反復| /|
|/\ 2 未来 可能性 潜在性|
|//\ ヒューム | 6結論 ///|
|///\ ベルグソン | 〜差異と反復/|
|////\(フロイト)| スピノザ/////|
|スコトゥス<量> | <質>////|
|アリストテレス |表象 //ニーチェ/|
|//1////\ 運動、行動///5////|
〜それ自身における\ | 〜感覚されうるもの|
|////////差異 | //の非対称的総合/|
|有機的=オルジック/\|永劫回帰///////|空
|_____ドゥルーズ『差異と反復』______差
|\////|/////|\//////////異
|/\(2)|(6)/ | \////4////|間
|//\//|/// | 〜差異の理念的総合/|
|(1)\/|//(5)|矛盾 \ライプニッツ/|
|//0、1、2序論 |同一性 \/マルクス/|
|__〜反復と差異___|想起 \/////|
|////<関係> |弁証法<様相>/微分/|
|/(0) | \(4)| 3 \///|
〜はじめに | \ 〜思考のイマージュ\//|
|ハイデガー|(3)\ |プラトン、デカルト\/|
|/ | 過去 カント、ヘーゲル \|
/_____|_____起源__________\
時 間
__________反 復__________
|\それ自身へ向かう反復| /|
| \
2 | / |
| \
ヒューム |
6結論 / |
| \
ベルクソン | 差異と反復 |
| \(
フロイト)|
スピノザ/ |
|
スコトゥス<量>
ラカン| <質> |
|
アリストテレス | /
ニーチェ |
|
1 \ | /
5 |
|それ自身における\ | /感覚されうるもの|
| 差異 | / の非対称的総合 |
| \|/ |空
|_____ドゥルーズ『差異と反復』______差
| /|\ | /異
|
ライプニッツ / | \(2)|(6)/ |間
|差異の理念的総合/ | \ | / |
|
4 / |(1)\ | /(5)|
| / | \|/ |
|
マルクス/ |____
0序論____|
| <関係> | <様相>(0) |
| /
3 |(4)/ 反復と差異 |
| /思考のイマージュ| / | \ |
| /
プラトン、
デカルト| /(3)
はじめに\ |
|/
カント、
ヘーゲル |/
ハイデガー\|
/___________/_____|_____\
あるいは、
☆☆
時 間
__________反 復__________
|〜それ自身へ向かう反復| /|
|/\
2 未来 可能性 潜在性|
|//\ ヒューム |
6結論 ///|
|///\ ベルクソン | 〜差異と反復/|
|////\(フロイト)| スピノザ/////|
|スコトゥス<量> 系列 <質>////|
|アリストテレス |表象 //ニーチェ/|
|//
1////\ 運動、行動///
5////|
〜それ自身における\ | 〜感覚されうるもの|
|////////差異 | //の非対称的総合/|
|有機的=オルジック/\|永劫回帰///////|空
|_____ドゥルーズ『差異と反復』______差
|///////////|\////プラトン//異
|/ライプニッツ/// | \(2)|(6)//|間
〜差異の理念的総合/矛盾| \//|/////|
|//
4/////同一性|(1)\/|//(5)|
|/////// 想起 | \|/////|
|//微分// 弁証法 |_____
0_____|
|///// | /|\(0)/|
|////
3 |(4)/〜反復と差異/|
|//〜思考のイマージュ| / | \
序論|
|//プラトン、デカルト| /(3)〜
はじめに/|
|/ カント、ヘーゲル 過去 ハイデガー\|
/__________起源_____|_____\
____________
どなたか!キルケゴールのルサンチマンについて!
http://logsoku.com/thread/academy6.2ch.net/philo/1259485352/
1 : 凪 : 2009/11/29(日) 18:02:32 0
どなたかキルケゴールに詳しい方いらっしゃいませんか?
今ニーチェのルサンチマンとキルケゴールのルサンチマンについての違いについてレポートを作成しているのですが、
キルケゴールのどの本を読めばいいのかわかりません(><)
詳しくわかる方いらっしゃいましたらどうか教えてください!
6 : 考える名無しさん : 2009/11/30(月) 10:36:40 O
ニーチェは怒ってへそを曲げてスネている。
キルケゴールはノスタルジーに浸りながら諦めている。
7 : 考える名無しさん : 2009/11/30(月) 16:40:39 0
反復、
対キリスト・キリスト教、
対ヘーゲル哲学(非超越/超越)、
女性関係(レギーネ/ルサロメ)、
禁欲/力への意志、
時代認識、国力の違い、といったキーワードが考えられます。
英語版wiki↓ではキルケゴール『現代の批判』所収の文章が引用されています。
ニーチェ『道徳の系譜』、シェーラー(「道徳構造におけるルサンチマン」邦訳は『知識社会学』所収)、
永井均あたりを参照するといいのでは?
参考:
http://en.wikipedia.org/wiki/Ressentiment#Kierkegaard_and_Nietzsche
http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard16.html
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1361231.html
「道徳における奴隷一揆は、ルサンチマンそのものが創造的になって価値を産み出すようになったときに始まる。
本来の反応、つまり行為における反応が拒まれているため、想像上における復讐によってだけその埋め合わせをす
る者たちの抱くルサンチマンが、である。すべての高貴な道徳が自己自身に対する勝ち誇った肯定から発するのに
対して、奴隷道徳は最初に外のもの、他のもの、自己でないものに対して、否と言う。この否定こそが、その創造
行為なのだ。」(参照:ニーチェ全集11『道徳の系譜』#10 信太正三訳 ちくま学芸文庫p393)
8 : 凪 : 2009/11/30(月) 22:36:40 0
皆さんありがとうございます<(_)>
永井均の「これがニーチェだ」と「ルサンチマンの哲学」は呼んだのですが、
どうやらキルケゴールのいう怨恨の感情は単なる恨みであり、ニーチェはさらに
怨恨を利用して価値を倒錯するところまでをルサンチマン的であると言っているように
感じまして。キルケゴールについて調べてみようと思った次第なんです。ですが
ルサンチマンという言葉自体をキルケゴールが使ったわけではないようなんですよ…。
とにかく「死に至る病」を読んでみようと思います。
10 : 考える名無しさん : 2009/12/01(火) 09:56:36 0
以下の『現代の批判』の英訳では ressentiment (邦訳では「妬み(ねたみ)」)が使用され
ています(原文は未確認)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ressentiment#Kierkegaard_and_Nietzsche
Kierkegaard and Nietzsche
The ressentiment which is establishing itself is the process of levelling, and
while a passionate age storms ahead setting up new things and tearing down old,
razing and demolishing as it goes, a reflective and passionless age does exactly
the contrary: it hinders and stifles all action; it levels. Levelling is a silent, mathematical,
and abstract occupation which shuns upheavals.
「妬みが定着すると水平化の現象となる。情熱的な時代が励ましたり引き上げたり突き落としたり、
高めたり低めたりするのに反し、情熱のない反省的な時代はそれと逆のことをする。それは首を絞めたり
足をひっぱったりする、それは水平化する。水平化するということは、なにごとによらずひどく人目に
つくようなことを避ける、ひそかな、数学的な、抽象的ないとなみである。」
(世界の名著p391。岩波文庫『現代の批判』は未確認。)
11 : 考える名無しさん : 2009/12/01(火) 10:55:17 0
>ressentiment
原文はMisundelse
http://www.zenos.dk/cms/mod/dkt/data001/000364.htm#XC6
Den sig etablerende Misundelse er Nivelleringen, og medens en lidenskabelig Tid fremskynder,
hæver og styrter, ophøier og nedtrykker, gjør en reflekteret lidenskabsløs Tid det Modsatte, den
qvæler og forhindrer, den nivellerer. At nivellere er en stille mathematisk abstrakt
Beskjæftigelse, der undgaaer al Ophævelse.
参考:
http://www.wsu.edu:8080/~dee/MODERN/PRESENT.HTM
4 Besides "envy," etymologically misundelse means "contrariness" or "spite." This is very similar to Nietzsche's ressentiment .
14 Comments:
620 :考える名無しさん :2009/12/04(金) 05:48:31 O
最期の言葉は「わたしも掃き捨てろ」だっけ
わたしを捨て去れだっけ
そんな感じ
621 :考える名無しさん :2009/12/05(土) 23:56:47 O
>>614
水平化された社会とは2ちゃんねるみたいな世界ですね?
622 :考える名無しさん :2009/12/06(日) 08:27:41 O
>>620
道端で昏倒してるのを見つけられて病院に運び込まれて、
力を使い切ったような調子で、身内に神と和解出来るかと
聞かれて自信に満ちて「出来る」と答えて死んだと中公の
解説にはあるぞ。
624 :考える名無しさん :2009/12/10(木) 18:45:28 O
甥のルンに看取られて穏やかに永眠したとネットソースにはあるな。
『ウェイキングライフ』って2001年の20世紀fox作、
ソダーバーグ出演とか、アメリカ的バイアス強すぎだろ。
625 :考える名無しさん :2009/12/10(木) 23:50:46 0
http://www.youtube.com/watch?v=R2b5sLZGhFw#t=4m15s
Waking Life - Sub Español - 9/10
"Kierkegaard's last words were: 'Sweep me up.'"
(A wonderful and haunting quote from the end of Waking Life)
http://www.amazon.com/review/R2T3HV4MAS3ZHK
http://www.amazon.com/Waking-Life-Ethan-Hawke/dp/B00005YU1O/ref=cm_cr_pr_product_top
Slight correction: one character in the movie says that Kierkegaard's last words were:
"Sweep me up." This quote is, in fact, based on something Kierkegaard reputedly said
a month or so before he died. He was at a gathering at someone's house when he
collapsed physically. As people gathered around him, he quipped, "Let it lie. The maid
will sweep it up in the morning." He soon entered a hospital and died a month later,
apparently of a staph infection. I am not aware of any recorded final words.
http://augustus-young-no-5.monsite.orange.fr/page2.html
He suffered a paralysis at a dinner party, winking to his host, ‘Oh, leave it, the maid will sweep it
up in the morning’, and had himself committed to the Royal Frederick Hospital, having drunk the
last bottle of fine wine in his cellar and thrown away his last cigar. A few weeks later he died, still
mildly amused by himself and sympathetic to those who sat by his bed. He died, I suppose, in a
good humour. His last words were, ‘Not to say I’m perfect or completely finished’.
626 :考える名無しさん :2009/12/10(木) 23:51:42 0
Never particularly strong physically, Kierkegaard became progressively
ill in September. At a party at Jens F. Gjødwad’s , he slid from the sofa to the floor, winked, and said
to the friends around him, “Oh, leave it―let―the maid―sweep it up―in the morning.”*81
A few days later he collapsed on the street. After a time in his quarters at Klædeboderne 5–6, he was
taken on October 2 to Frederiks Hospital, where he died November 11, 1855.
*81 Reported by his former amanuensis, Israel Levin, Hr. Cand. Israel Levins Udtalelser om S. Kierkegaard
1858 og 1869, D. Pk. 5, Læg 31, Søren Kierkegaard Arkivet, Kongelige Biblioteket, Copenhagen.
627 :考える名無しさん :2009/12/11(金) 01:30:58 0
<ボエセンはまた、なおいいたいことがあるか? とキェルケゴ
ールに尋ねた。「無い。いやある、みんなによろしく、僕はみんなが好きだ、皆にいってくれ、僕の生涯は一
つの大きな、他の誰にも知られない、理解されないような苦悩だった、と。それは尊大と虚栄のように見えた
がそうではなかった。僕が他の人達より良いなんてことは全然ない、僕はそう語ったし、他のことは決してい
わなかった。僕は自分の肉のとげをもっている、それ故僕は結婚しなかったまた一般的な諸関係の中に入り得
なかった、そして僕は自分の課題は例外的なものと結論したのだ。僕はその課題をできるだけよく遂行するよ
うつとめた、僕は僕を投げ出す摂理にとって一つのボールであった、僕は用いらるべきだったのだ。かくして
数年が経った、そして今や摂理は手を差伸ばして僕を契約の櫃に入れるのだ、それは常に例外的使徒のうくべ
き運命なのだ」。ボエセンはまた安らかに神に祈ることができるか? とたずねた。「うん、できる。僕はまず
僕の犯した一切がゆるされるよう、罪のゆるしについて祈る。それから僕は死に際しての絶望から自由となり
ますようにと祈る。それから僕は、大変知りたいこと、すなわち死が何時来るかをちょっと前もって知ります
ようにと祈る」。そしてそれ等は皆君がキリストにおける神の恩寵を信じ、その許に逃れるが故にだね?「う
ん、勿論だよ、その他に何がある?」>
(『セーレン・キェルケゴール伝』ヨハネス・ホーレンベーヤ著、大谷長他共訳ミネルヴァ書房p.362-363より)
柄谷
実験
6:
http://mike-neck.hatenablog.com/entry/2015/11/29/043505
商品が売れること、これをマルクスは「salto mortale《命がけの飛躍》」(『経済学批判』110ページ、『資本論』第一巻188ページ)と呼んでいる。
6:キルケゴール
『構造』よりわかりやすい
《ここで、もう一人のポストヘーゲリアンの思想家、キルケゴールを例にとろう。彼はヘーゲルを批判してこう述べた。思弁は後ろ向きであり、倫理は前向きである、と。後ろ向きとは事後の立場、前向きとは事前の立場に立場に立つことだ。後者では「命がけの飛躍」が要求される。キルケゴールはカントを無視した。にもかかわらず、彼は明らかに事前の立場に戻っている。マルクスも同様である。…経済的下部構造を広義の交換という観点からとらえなおすならば、道徳的次元を「経済」の外に想定する必要はない。》『世界史の構造』
参考:
http://www.edu.shiga-u.ac.jp/dept/e_ph/dia/abiko-Kierkegaard.pdf
キェルケゴールの思想は、このネガティヴな在り方を、ポジティヴなものに転化せんとする激しい試みである。「この時以来私は選び取ったのだ。あの悲しき不均衡な関係をその苦悩と共に肉体に於ける私の支柱、私の限界、私の十字架と見なした。足に突きさされた茨の助けによって私は健康な足を持った誰よりも高く飛翔する。」(『日記』)つまりキェルケゴールは「純粋な精神的実存性へ命がけの飛躍をやる」(『日記』)のである。そして、ポジティヴな意味を与えるものとして選び取られたのが、全き「精神」の規定の下にのみあることとしてのキリスト教であった。今や、「苦悩」は「永遠性に対する貯金」として「宗教的苦悩」である。「苦悩とはまさしく神とのかかわりに立たされていることの表現である。」(『非学問的後書』)
Diary of a Seducer - 133 ページ [誘惑者の日記]
https://books.google.co.jp/books?isbn...
Søren Kierkegaard - 2006 - プレビュー - 他の版
Søren Kierkegaard. are the scouts of my operation in her soul, who bring me enlightening hints; they are the ends of the threads by means of which I spin her into my plan. ... If I were the one to break the engagement, I should deprive myself of this erotic salto mortale, which is so seductive to behold and so certain a sign of the ...
salto mortale ではなくsomersault 宙返りという英訳もある
以下は離れ業と訳している
《ぼくが婚約を破棄するとしたら、きわめて誘惑的に見えるし、彼女の魂の大胆さの確実な徴候でもある、このエロス的な離れ業を見そこなってしまうだろう。この離れ業こそぼくのお目当てなのだ。おまけに、ぼくが婚約を》
世界の大思想8より
キェルケゴールの日記 哲学と信仰のあいだ
著者名等
セーレン・キェルケゴール/著 ≪再検索≫
著者名等
鈴木祐丞/編訳 ≪再検索≫
著者等紹介
【セーレン・キェルケゴール】(1813-1855)19世紀デンマークの哲学者。実存主義哲学の祖とも位置づけられる。『あれか、これか』『死にいたる病』など、哲学史上に残る名著で知られるが、生涯に厖大な著作と日記を書き残した。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
著者等紹介
【鈴木祐丞】1978年生まれ。2009年から2011年まで、コペンハーゲン大学セーレン・キェルケゴール研究センター研究員。2013年、筑波大学大学院人文社会科学研究科哲学・思想専攻修了(博士〔文学〕)。専攻は、宗教哲学、キェルケゴール研究。現在秋田県立大学助教。主な著作に『キェルケゴールの振興と哲学-生と思想の全体像を問う』(2014年、ミネルヴァ書房)。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
出版者
講談社
出版年
2016.4
大きさ等
20cm 283p
注記
原タイトル:Soren Kierkegaards Skrifter
NDC分類
139
要旨
人間にとって宗教とは何か?神を信じるとはどういうことか?罪・放蕩・絶望からキリストによる救いへ!信仰をめぐる思索と苦闘の日記を、読みやすい編訳と詳細な解説で蘇らせた決定版!稀有な哲学者が綴った深甚なる告白!
目次
第1部 一八四八年の宗教的転機まで(一八三七年~一八四六年;一八四七年~一八四八年三月);第2部 一八四八年の宗教的転機(宗教的転機の端緒;宗教的転機の展開;宗教的転機の帰結);第3部 一八四八年の宗教的転機後(一八四八年の宗教的転機後~一八五三年;一八五四年~一八五五年)
内容
人間にとって宗教とは何か?罪、放蕩、絶望からキリストによる救いへ!稀有な哲学者が綴った深甚なる告白!信仰をめぐる思索と苦闘の日記を、読みやすい編訳と詳細な解説で蘇らせた決定版。
内容
人間にとって宗教とは何か?罪、放蕩、絶望からキリストによる救いへ!稀有な哲学者が綴った深甚なる告白!信仰をめぐる思索と苦闘の日記を、読みやすい編訳と詳細な解説で蘇らせた決定版。
ISBN等
4-06-219519-4
ISBN等
978-4-06-219519-5
書誌番号
3-0500370129
http://d.hatena.ne.jp/mysouda/20120113/1326408379
Leap of Faith[タイトル情報辞典]
(http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/1/1na/T05585000/)
「奇跡を呼ぶ男」 リチャード・ピアース監督の映画(1992,米国) ◆どさ回りのにせ伝道師の一団が,ある町にやってくる.そこで団長は足の不自由な少年と出会い,本当の信仰に目覚めるトラジ・コメディー;スティーヴ・マーティン,デブラ・ウィンガー主演;日本では未公開だが,ビデオで見ることができる. ▲leap of faithは「突然,信仰に目覚めること」の意.
これに掛けると、「奇跡を呼ぶ女」と訳することができます。この訳が捨て難くて、このブログを書くことにしました。まあ、どうってことのない話ですが…。
さらに、映画の解説の最後にある「leap of faithは「突然,信仰に目覚めること」の意.」という説明。
やっとたどり着きました。
Leap of Faith というのは、キルケゴールの「不安の概念(Der Begriff der Angst.)」の中の「倫理的段階から宗教的段階への飛躍(Sprung vom ethischen zum religiösen Stadium)」という思想が元になっているんですね。
興味があれば、あとは、自分で読んでみてください。
Wikipedia
A leap of faith, in its most commonly used meaning, is the act of believing in or accepting something intangible or unprovable, or without empirical evidence.[1] It is an act commonly associated with religious belief as many religions consider faith to be an essential element of piety.
The phrase is commonly attributed to Søren Kierkegaard; however, he himself never used the term, as he referred to a leap as a leap to faith. A leap of faith according to Kierkegaard involves circularity insofar as a leap is made by faith.[2] In his book The Concept of Anxiety, he describes the core part of the leap of faith, the leap. He does this using the famous story of Adam and Eve, particularly Adam's qualitative leap into sin. Adam's leap signifies a change from one quality to another, mainly the quality of possessing no sin to the quality of possessing sin. Kierkegaard maintains that the transition from one quality to another can take place only by a "leap" (Thomte 232). When the transition happens, one moves directly from one state to the other, never possessing both qualities.
For other uses, see Leap of faith (disambiguation).
A leap of faith, in its most commonly used meaning, is the act of believing in or accepting something outside the boundaries of reason.[1]
Contents
Overview
Edit
See also: Jumping to conclusions
The phrase is commonly attributed to Søren Kierkegaard; however, he never used the term, as he referred to a qualitative leap. A leap of faith according to Kierkegaard involves circularity insofar as the leap is made by faith.[2] In his book Concluding Unscientific Postscript, he describes the core part of the leap of faith: the leap. “Thinking can turn toward itself in order to think about itself and skepticism can emerge. But this thinking about itself never accomplishes anything.” Kierkegaard says thinking should serve by thinking something. Kierkegaard wants to stop "thinking's self-reflection" and that is the movement that constitutes a leap.[3] He is against people thinking about religion all day without ever doing anything; but he is also against external shows and opinions about religion. Instead, Kierkegaard is in favor of the internal movement of faith.[4] He says, "where Christianity wants to have inwardness, worldly Christendom wants outwardness, and where Christianity wants outwardness, worldly Christendom wants inwardness."[5] But, on the other hand, he also says: "The less externality, the more inwardness if it is truly there; but it is also the case that the less externality, the greater the possibility that the inwardness will entirely fail to come. The externality is the watchman who awakens the sleeper; the externality is the solicitous mother who calls one; the externality is the roll call that brings the soldier to his feet; the externality is the reveille that helps one to make the great effort; but the absence of the externality can mean that the inwardness itself calls inwardly to a person - alas - but it can also mean that the inwardness will fail to come."[6] The "most dreadful thing of all is a personal existence that cannot coalesce in a conclusion,"[7] according to Kierkegaard. He asked his contemporaries if any of them had reached a conclusion about anything or did every new premise change their convictions.
最も一般的に使用されている意味での信仰の飛躍は 、 理性の境界を超えた何かを信じることまたは受け入れることです。 [1]
内容
概要
編集
関連項目: 結論へのジャンプ
フレーズは一般的にSørenKierkegaardに起因します。 しかし、彼は定性的な飛躍について言及していたため、この用語を使用したことはありませんでした。 Kierkegaard による信仰の飛躍は、飛躍が信仰によってなされる限りにおいて、 循環性を含む。 [2]彼の著書「 Unscientific Postscriptの結論 」の中で、彼は信仰の飛躍の核心部分である飛躍について述べている。 「自分自身について考えるために思考が自分自身の方を向くことができ、 懐疑論が浮かび上がることがあります。 Kierkegaardは、考えることは何かを考えることによって役立つはずだと言います。 Kierkegaardは「 思考の自己反省 」をやめたいと考えており、それが飛躍をもたらす運動です。 [3]彼はこれまで何もしないで一日中宗教について考える人々に反対している。 しかし彼はまた宗教についての外部のショーや意見にも反対です。 代わりに、キアケゴールは信仰の内的運動を支持しています。 [4]彼は言った、「キリスト教が内心を持ちたい、世俗的なキリスト教世界は外向を望み、そしてキリスト教が外向を望んでいる、世界のキリスト教世界は内向を望みます」。 [5]しかし、その一方で、彼はまた言った: "それが本当にそこにある場合、より少ない外部性、より多くの内面性;しかし、外部性が少ないほど、内面性が完全に失敗する可能性が高いというケースもあります外部性とは、寝台を目覚めさせる警備員であり、外部性とは、電話をかける勧誘的な母親であり、外部性とは、兵士を自分の足に連れてくるロールコールであり、外部性とは、大きな努力をするのを助ける啓示者です。しかし、外部性の欠如は、内面性自体が人に内向きに電話をかけることを意味するかもしれません - 残念ですが、それは内面性が来ないことを意味することもできます。」 キアケゴーによれば、「最も恐ろしいことは、結論として合体できない個人的な存在である」 [7] 。 彼は彼等の同時代人に彼らのうちの誰かが何かについて結論に達したかどうか、またはあらゆる新しい前提が彼らの信念を変えたかどうか尋ねました。
David F. Swensonは、彼の1916年の記事「キアケゴールの反知的主義」の飛躍を、キアケゴードのアイデアのいくつかを使って説明しました。
飛躍的にH2 + Oは水になり、水は氷になる。 運動から安静への変化、またはその逆は、論理的に解釈することができない移行です。 これは、Zenoの弁証法の基本原理であり、ニュートンの運動法則でも表現されています。なぜなら、そのような変化がもたらされる外力は法則の結果ではなく、我々が始めるシステムの外的なものと見なされるからです。 それゆえ、それは超越的で非合理的であり、そしてそれが存在するようになることは飛躍として捉えることしかできない。 同じように、すべての因果関係システムは変化の条件として外部環境を前提としています。 経験的帰納法の詳細から法の理想性と普遍性へのあらゆる移行は飛躍的な進歩です。 実際の思考過程で、私たちはアイデアや著者の理解に到達するための飛躍を遂げています。 Kierkegaardの反知的主義、David F. Swenson著、 The Philosophical Review V. XXV 1916 p。 577-578
哲学(的)断片への完結的、非学問的な後書き、演技的、情熱的、弁証法的雑集、実存的陳述(1845年)
人生における諸段階 (1845年) (『人生行路の諸段階』の訳名もある)
7,8,9
タイトル
キルケゴール著作集 第9巻 哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき
出版者
白水社
出版年
1970.11
大きさ等
20cm 438p
注記
Afsluttende uvidenskabelig Efterskrift til de philosophiske Smuler./の翻訳 著者及びN.F.S.グルンドヴィの肖像あり
NDC分類
139
書誌番号
3-0190142766
現在の予
ハンマースホイとドライヤー : 私たちは20世紀に生まれた
https://numabe.exblog.jp/7532614/
ハンマースホイとドライヤー
明日の授業の準備がままならない。投影する画像を整え、ディスクに収納したのだが、配布する資料をどう取り纏めたらいいのか。
こんな体たらくなのだから、本当は外出なぞ以ての外のはずなのだが、昨日に引き続き小雨そぼ降るなか上野の国立西洋美術館へと赴く。今日から始まった展覧会「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」の関連イヴェントとして、注目すべき講演会が催されるからだ。
アネ=ビルギデ・フォンスマーク (コペンハーゲン、オードロプゴー美術館館長)
カール・ドライヤーの映画におけるハンマースホイの影響
この標題をみたら誰しも、これは聞き逃せないと思うのではないか。
実際、ハンマースホイの描き出す簡素で静謐な居室は、ドライヤー監督作品、とりわけ『奇跡』や『ゲアトルーズ』における室内場面を強く連想させずにはおかない。両者の間にはともにデンマーク人であるという以上の芸術的類縁関係があるのではないか。実際、そこには強い影響があるとする見解に基づいた展覧会が催されるほど、これは興趣をそそる問題なのである。
正午過ぎに到着し、まずは整理券をゲット。講演は二時からなので、それまでゆっくり展覧会を再見することにした。同道した家人は今日が初めてなので、興味深々に見入っていた。確かにこれは時間をかけて味わうに足る展覧会だ。こういう良心的な企ては西洋美術館ならでは成しえない。まさしく快挙である。
講演会では、ハンマースホイが歿した直後にデンマークで催された回顧展を、若き日のドライヤーが観た可能性があることを指摘し、ハンマースホイに触発されたとのドライヤー自身の証言も引きながら、両者の不可分の結び付きを説いた。すでにこの仮説に基づく展覧会までが先年コペンハーゲンとバルセロナとで催されたといい、今日の論者はその企画者なのだという。
その割りに、論旨はなんだかすっきりしない。2003年にドライヤーの全映画を観る機会を得たので、ハンマースホイとの親近性は自明のことと思われる(とりわけ最後の二作『奇跡』と『ゲアトルーズ』)。しかしながら、講演では肝腎のドライヤーの映像が全く映されず(版権の問題という)、スチルすら満足のゆく形では援用されないので、多くの聴衆はちっとも説得されなかったと思う。残念を通り越して、これではこのテーマで話す意味がないと感じられた。家人を誘って万障繰り合わせて(というほどぢゃないが)参加した小生は少しく腹立たしさを覚えた次第である。
ハマスホイ展2020
https://www.instagram.com/p/B7m23R0FWin/?igshid=sqhb1j4ogcb6
Hammershoi i Dreyer (英語) ペーパーバック – 2007/1/30
L. Almonacid (編集), E. Gomez (編集), B. Ortiz (編集)
5つ星のうち4.0 1個の評価
https://www.amazon.co.jp/Hammershoi-i-Dreyer-L-Almonacid/dp/8498031389
その他()の形式およびエディションを表示する
ペーパーバック
¥89,725 より
¥89,725 より 3 中古品の出品
¥203,375 より 2 新品
Amazon Customer
5つ星のうち4.0 秋の展覧会を待ってみましょうか
2008年8月29日に日本でレビュー済み
形式: ペーパーバックAmazonで購入
ハンマースホイとドライヤー。世紀転換期の画家と、ひと世代下の映画監督。二人のデンマーク人の関係(基本的には前者から後者への影響)をテーマに、2006年から2007年にかけてコペンハーゲンとバルセロナで行われた展覧会の図録。
本文はカタラン語で、後ろにごく小さな活字でスペイン語訳と英訳が掲載されています。
造本のラフさが少し気になりますが、お手軽な価格ですし、持ちやすい大きさで、内容も悪くない。一応おすすめです。ただ、今はひとまず、この秋に東京で行われるハンマースホイの大規模な回顧展の図録を待ってから判断した方が良いような気がします。
本書で図版として収録されているハンマースホイの作品は36点ですが、日本での出品は約90点。また、展覧会初日には本書にも寄稿しているコペンハーゲンの美術館長フォンスマークさんがまさに二人について講演されるとのことで、東京展でも本書のテーマはある程度カヴァーされているようです。
現在同展はロンドンで開催中でその図録も書籍化されていますが、いかんせんお値段が(笑)。しかも東京展は英国のものより規模が大きく展示方法も異なるとのことなのでこれもやはり日本版の図録をまず待つのが良いかと。
これだけでは西洋美術館の宣伝になってしまうので(笑)、本書についてもう少し。豊富に盛り込まれたドライヤーの作品の写真、充実した文献リストは価値が高い。4本ある論考は、単純な影響や表面的な類似の指摘にとどまらず、例えば写真というテクノロジーの視点から両者を眺めるなどより高度な考察を加えたものもあり、読み応えがあります(ただ個人的には、耳に聞こえない周波数の轟音が常に鳴り響いているような異様な運動感・強度を持つドライヤーの画面と、空気までが石化したようなハンマースホイのそれとの間には類似よりも断絶が大きすぎるという印象が強く、どうしても説得されませんでしたが)。
もっと少なく読む
ハマスホイとデンマーク絵画|東京都美術館
https://www.tobikan.jp/exhibition/2019_hammershoi.html
ハマスホイとデンマーク絵画
展覧会
特別展
Vilhelm Hammershøi and Danish Painting of the 19th Century
2020年1月21日(火)~3月26日(木)
身近な人物の肖像、風景、そして静まりかえった室内――限られた主題を黙々と描いたデンマークを代表する画家ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864-1916)。17世紀オランダ風俗画の影響が認められることから “北欧のフェルメール” とも呼ばれるハマスホイの作品は、西洋美術の古典を想起させる空気を纏いつつ、近代の都市生活者特有の、ある種の郷愁を感じさせます。
欧米の主要な美術館が続々と作品をコレクションに加えるなど、近年、ハマスホイの評価は世界的に高まり続けています。日本でも2008年にはじめての展覧会が開催され、それまでほぼ無名の画家だったにもかかわらず、多くの美術ファンを魅了しました。
静かなる衝撃から10年余り。日本ではじめての本格的な紹介となる19世紀デンマークの名画とともに、ハマスホイの珠玉の作品が再び来日します。
nave
@nave4000
巨匠カール・Th・ドライヤー(1889-1968)は今日2月3日が誕生日。「私にとって興味があるのは、私の映画の登場人物達の最も真摯な感情を、あり得る限り最も真摯な方法で写し取ることだ」
傑作『サタンの書の数頁』『あるじ』『裁かるるジャンヌ』『怒りの日』『奇跡』他 ok.ru/video/c6817663 pic.twitter.com/RyRm6D6eb1
2022/02/04 0:31
https://twitter.com/nave4000/status/1489260371764719616?s=21
コメントを投稿
<< Home