日曜日, 11月 29, 2015

溝口健二1898-1956 「映画の東洋的美感」(「『雨月物語』について」1954よ り)Mizoguchi, Kenji

                      (リンク::::::::::映画 

溝口健二1898-1956「『雨月物語』について」1954.Mizoguchi, Kenji.他
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/1898-1956-mizoguchi-kenji1954.html(本頁)
《...いわゆる、「映画の東洋的美感」という、わたしの演出家としての野心が、この作品で、どこまで達成されているか。これもまた、みなさんの御判断を仰ぎたい点です。...》
(溝口健二「『雨月物語』について」1954)
青空文庫には溝口健二の文章は「日本映画趣味」しか公開されていない。近年佐相勉氏によって一冊にまとめられキネマ旬報社から出版された著作集を見ればいいのだが、1954年、戦後の『雨月物語』(1953)を撮ったあと、色彩映画の研究のために渡米した際の講演原稿を紹介したい。新藤兼人は溝口健二の無教養を強調したが、それは間違っている。
1929年の「日本趣味映画」は戦前だからか日本が強調されていたが、ハリウッド講演原稿に見られるように戦後は「映画の東洋的美感」が強調されている。バルザックが好きだったようだが、死の前年(1955年)、溝口健二はサルトルの『恭しき娼婦』の映画化を考えてい(『溝口健二著作集』388頁)。そこには人間の普遍性への認識が基本にある。

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 『雨月物語』について (1954)  
                  溝口健二 

 わたしが『雨月物語』に興味を持って映画を考えたのは、もう大分以前のことになりま
す。全篇を通読して、「蛇性の婬」と「浅茅ケ宿」から、特に強い感銘を受けました。『雨
月』を読まれた方は、どなたでもそうであろうと思います。
 「蛇性の婬」は、愛慾の妄執というものを、端的に強烈に描いています。「浅茅ケ宿」に示
されているのは、人問のいのちのはかなさ、言葉をかえれば、人生無常の考え方です。そ
のうら側には、人間の物欲が、妻の生死さへ度外視させるすさまじさを想像させます。
 二つの物語は、いずれも共に、独立して、それぞれの主題をもつ、きちんとした短篇で
すが、わたしは、『雨月物語』の映画をつくるならば、この二つを一つのものに、何とかし
て仕上げてみたいと考えました。二つの物語のどちらも、一篇としてとりあげると、話が
足りないから、二つをつぎ合わせて満足な一つにしようというのではありません。
 井原西鶴が、色欲二道という有名な言葉を吐いています。人間の本能を、あらゆるかざ
りをとり去って、すっ裸にしてみると、のこるものは、色--すなわち、愛欲と、欲--
すなわち、物欲の二つしかないということらしい。
 たまたま、「蛇性の婬」は、その愛欲を、「浅芋ケ宿」は、その物欲を、主題として、奇異
幻怪の人生図をくりひろげています。この二つの物語を一つにすることによって、人間の
あるがままの姿というものが、はっきり浮か
び出して来はしないか、わたしの、野心とい
うとおこがましいけれど、もくろみ、というのは、この点にあったのです。
 『雨月物語』には通例、怪談ということで通っていますが、多くの徳川期の怪談を集めた書
物の中で、上田秋成翁のこの作品が、ズバ技けて立派な古典として、今日にまでのこって
来た所以をふり返ってみますと、単に、簡潔、雄勁、しかも微妙なニュアンスにあふれた名
文のためばかりとは思えない。
 よく読んでみると、秋成が描き出している「奇異」「幻怪」というものは、人間が「欲」
にとらわれた「心の迷い」の非常に具象的で明快なかたちを示しているのではなかろうか。
 もとより「奇異」であり、「幻怪」でありますから、この世の合理的な尺度では、はかる
ことはできません。しかし、かえって、こういう非現実な形の中に、人間の本能や欲望が、
本然の姿のままで、まざまざと現われているのではないか。
 それが、はっきりと、描き出されているために、『雨月物語』が古典的価値をになっに至
ったのでありましょう。
 わたしはちかごろ、映画の傾向として、写実主義が本流となっていることに、いろいろ
と疑問をいだいており、人間の美なり醜なりをできるだけ単純な形で力強く描き出したい
という気持に始終追いかけられているといってもいいくらいです。
 『お遊さま』も『西鶴一代女』も、同じこの気持から生み出されたものですが、この二作
をつくったことで、漸く『雨月』を映画化できるという目当がぼつぼつかためられて来た
というわけです。
 以上が、まあ、わたしの『雨月』を作りたいという動機もしくは、モティーフというと
ころですが、幸いわたしのこういう気持をくんで、川口松太郎、依田義賢のお二人が協力
して、十分わたしの意図を満足させるに足るいい脚本を書いてくれました。のこるところ
は、演出が成功するかどうかということで、これは、映画作品そのものを見ていただいて、
みなさんの御批判を仰ぐわけですが、多少演出にあたって、自分が何を考えたかを、御批
判の材料の一つとして申し上げておきます。
 演出の意図と方法も、結局『雨月』を映画にしようとした動機の中に、包括されている
ので、それ以上に、何か特別なきめ手があるわけではない。
 物語の背景は、秋成も戦乱を舞台にしていますがその効果を一層つよめるために時代を、
戦国にずり下げました。愛欲、物欲が、さらに異常にふくれあがって、人間を食ってしま
うという条件を、戦乱という本能露出の絶好の機会に求めたのです。同時に、モーパッサ
ンの短篇から示唆された、非常に現実的な挿話を付加しました。この挿話の現実性が映画
全体の浪漫性ないし象徴性を一層つよめる対比作用に役立つと信じてそうしたのです。
 従って、全体にわたり、現実、非現実を通し、わたしは、瑣末な写実描写を一さい省き
去り、喜怒哀楽の率直な、それだけに力強い表現を、ロマンチックな美感の中に、つくり
出すということをたて前にしました。
 現実と非現実はギリギリのところで交錯し、その秩序は、一貫して保たせてありますが、
さらに強烈さを要求する場面には、はげしいディフォルメーションと、超現実主義、とで
もいうような拡大を行っております。
 しかしながら、物語はあくまで日本のものであり、東洋の神秘なのですから、変形とい
い、拡大といっても、日本の文化的遺産のもつ無類の美しさを標準とし、基調としていま
す。
 能に範をとり、修学院、桂両離宮の様式を拝借しているのもそのためです。
 これらの日本文化のすぐれた遺産は、驚嘆すべき洗練と単純化を見せています。これを、
映画の表現を通じて、現代の美感として再生させたいのは、わたしの念願ですが、いわゆ
る、「映画の東洋的美感」という、わたしの演出家としての野心が、この作品で、どこまで
達成されているか。これもまた、みなさんの御判断を仰ぎたい点です。
 撮影の宮川一夫、美術の伊藤熹朔、音楽の早坂文雄の諸氏が、わたしの意図を十二分に
くみとりすぐれた協力を与えていただいたことを感謝して、挨拶を終りたいと思います。
(一九五四年六月色彩映画研究のためアメリカに渡った時、ハリウッドでの講演原稿より)

(「『雨月物語』について」『映画監督溝口健二--生誕百年記念 別冊太陽』128頁)



『溝口健二著作集』(2013)374-377

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以下、青空文庫より
作家名:溝口 健二
作家名読み:みぞぐち けんじ
ローマ字表記:Mizoguchi, Kenji
生年:1898-05-16
没年:1956-08-24
人物について:wikipediaアイコン溝口健二
  1. 日本趣味映画 (新字旧仮名、作品ID:46981) 

 今度私が泉鏡花氏の『日本橋』を映画化するに当つて、それが諸々方々から大分問題にされたものであつた。
『もんだいに』と云ふと、話しは大きくなるが、鳥渡ちよつとした言葉のはしくれにも、
『どうだい君、溝口君が芸者物を撮るさうぢやないか。日頃の唯物論は何処へケシ飛んで仕舞つたんだ!』
『いや、あの人間は、以前からあゝ云つた下町情話ものが得意なんだ。だから、つまりは昔にかへつたわけなんだ。』
 と、噂し合ふ有様である。
 だが、それは両方とも私にとつて、擽つたい、むしろ迷惑な話しで、なまじい、色眼鏡をもつて見られる事は、心苦しい次第である。
 然し、一般の人々の立場から考へて見ると、私は余程、しばしばと作品の方向を変へるやうに思はれてゐるかも知れぬ。
 そして、つてものした愚作「紙人形春の囁き」とか「狂恋の女師匠」とか云ふ、所謂いはゆる下町情話物が、私の作品の中では割合に強い記憶を与へてゐるので、人々は、それを土台として、今度の「日本橋」に対して、とやかく云ふのかも判らない。
 そこで私は、それらの人々に対し、そして又一時私が凝つた(と称せられる)下町ものから脱けて、思想的の陰影の強いものへと興味を向け、今更に再び下町物へと帰つた事に対して、一通りその理由を語らねばならないと思はれる。
 私をして、昔の下町物へと戻らせた動機と云ふのはほかでもない、此の夏、実に思ひがけぬ事であるが、私の「狂恋の女師匠」のプリントを仏蘭西フランスからわざ/\買ひに来た人があつた。
 その人は、日仏協会の人で、絶えず彼我の文明の交換に就いて努力してゐる人であるが、仏蘭西の芸術の当局者の人々よりの依頼を受けて、日本映画を買込みに来たものである。
 それは、現在欧州を風靡してゐる東洋趣味からの要求が第一であらうが、つて村田君が持つて行つた「街の手品師」や、松竹の「萩寺心中」が巴里で上映され、あるひは、岡本綺堂氏の「修善寺物語」がそのまゝに日本劇として向うの劇場に、上演されたのにり、日本の演劇、日本の映画と云ふものに対する愛好心が刺激された事も、主なる理由として挙げねばなるまいと思はれる。
 ところが、仏蘭西の観客にとつては、今の所日本の映画は、たゞ彼等の異国趣味を満足させるに過ぎないであらう。日本の風景、日本の風俗、広重の錦を見、ピエル・ロチの『お菊さん』を見る心持ちを以つてのみ、日本映画に愛着を感じてゐるのでなからうか?
 それでもよい。それに美を感じ、それを愛して呉れる事は、あながち我等にとつて、恥のみではないのだ。
 しかしながら――、彼等の憧れる瓦葺の屋根の下に、彼等の愛する絹の衣の下に、優れた日本の「美を感ずる魂」を含める事が出来たら、よりよき事ではなからうか。
 いや、われらは、彼等をして絹の衣の美しさを感ぜしむると共に、その衣の下にある、「日本の心」を感じさせなければならないのだ。
 嘗つては、一介の漁奇的な骨董品として輸出された歌麿の美人画は、仏蘭西の後期印象派に革命的な衝動を与へた。それは何故だ。日本の優れた魂が、その絵の中に秘められてゐたからである。
 日本人の美に対する感覚、それは数多あまたの歴史を経、多くの時代を通り、様々な変化をして、或は天才の発見に依り、或は名工の技に依つて長い/\時間の中に、洗練され磨き上げられて来たものである。
 それが日常生活の末端までにも、一挙手一投足のうちにまでも、深く/\浸み込んでゐるのである。此処に、日本の生活があるのだ。
 私は此の夏頃――即ち、仏蘭西よりプリントの註文があつた頃、次に製作すべき作品の方向に就いて、悩み且つ迷つてゐた。
 計らずも、此の交渉を受けた私は、それが動機となつて、再び、日本の古来よりの美に対する愛着が強められた。
 労農露国の歌舞伎劇の研究、更にまた、築地小劇場の国性爺合戦、これらは現在の美が、明日の美への飛躍すべき段階である。
 私は、之等の運動が無意味でない事を知つてゐる、何故ならば、私自身にも、それと同じき慾求が生れて来たのであるから――
 私は、所謂下町物の中でも、最も純粋な泉鏡花氏の『日本橋』を作るに至つた気持は、其処にあるのである。昨日の美をして、明日の美をなし得るならば、望みはこれに越したことはない、古きをたづねて新しきを知ると云ふ諺である。
 そして万が一にも柳の下にどぜうがゐて、此の映画が再び洋行する事が出来たなら、その時こそ、多少なりとも、日本の美しい心が判つて貰へるやうにと、願ひ且つ心掛けてゐるのである。
 しよせん、私は放浪者かも判らない。東へ西へと際限なく流れ行くであらうが…………
 しかし今はしばし、此の日本の美の上に、錨を下ろす考へである。

'29年1月1日号)



底本:「溝口健二集成」キネマ旬報社
   1991(平成3)年9月1日初版第1刷発行
初出:「キネマ旬報」
   1929(昭和4)年1月1日号
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
ファイル作成:
2011年1月8日作成


引用者注:
『溝口健二著作集』(2013)36~39頁。
著作集では続けて泉鏡花に挨拶に行った話が所収されていて興味深い。
________________

映画監督のお墓
溝口 健二/Kennji Mizoguti 1898.5.16-1956.8.24 (東京都、大田区、池上本門寺・大坊本行寺 58歳)1999
http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-ckantoku.htm#mizoguti






 
池上の本墓世界のミゾグチ京都の分骨墓(2005)



浅草生まれ。小学校を出たあと職を転々とし、22歳の時、俳優を希望して日活に入る。彼は助監督(この当時は雑用係)にされたが、1922年、日活のお家騒動で多くの監督や俳優が退社したことで監督に昇進(24歳)。25歳、第一作の『愛に甦る日』を発表。同年関東大震災で撮影所が壊滅し、活動の拠点を京都に移す。その後、時代は戦時に突入、映画界は国策映画が中心になり、溝口の創作活動は中断。約10年間にわたるスランプ時代が訪れる。復活したのは亡くなる4年前の1952年(54歳)。ベネチア国際映画祭で国際賞(監督賞)を受賞した『西鶴一代女』で、世界のミゾグチとなった。彼はこの作品で名女優の田中絹代を得、翌年も彼女とタッグを組んで『雨月物語』を撮り、翌々年には『山椒太夫』を創り上げ(共にベネチア国際映画祭銀獅子賞受賞)、ベネチア国際映画祭において3年連続受賞という大記録を打ち立てた。56歳、溝口はスター嫌いで有名だったが、社の方針で美形俳優・長谷川一夫と組むことになり、対立が功を奏して情念のこもった傑作『近松物語』を生み出す。撮影後に白血病を発病し、急速に容態が悪化、58歳で京都に永眠する。生涯に監督した作品は90本。ただし残念ながら戦火もあって現存するのは33本のみだ。

※溝口を語るとき、女優の田中絹代と共に忘れてはならないのが、天才カメラマン宮川一夫の存在だ。宮川は『雨月物語』の7割をクレーン撮影するなど、移動撮影に超絶的テクニックを振るった。また、ワンシーン・ワンカットの名手であり、『新・平家物語』冒頭の群集シーンでは、その自在なカメラワークが「到底ワンカットと思えない」と、トリュフォーやゴダールが映写室に入ってフィルムを確認したという。

池上の寺墓地では、若い僧侶が監督の墓まで案内してくれた。墓の左隣には、“墓は隣同士で”と約束していた新派の名優・花柳章太郎が仲良く並んでいた。

京都満願寺には分骨があり、そちらへは1960年代に来日したJ.L.ゴダールが墓参したという。

1 Comments:

Blogger yoji said...

コンプレックスから勉強したとしても
溝口のように誰でもなれる訳ではない

新藤兼人の力点は誤解を生む

8:21 午前  

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