金曜日, 11月 27, 2015

サルトル「自らの時代のために書く」Sartre “Écrire pour son époque” 1948

               (文学哲学(ドゥルーズ体系)リンク::::::::::
サルトル「自らの時代のために書く」Sartre “Écrire pour son époque” 1948
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/sartre-ecrire-pour-son-epoque-1948.html(本頁) 
サルトル(1905-1980)とドゥルーズ(1925-1995):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_77.html
 
デリダが「『彼は走っていた、死んでもなお』やあ、やあ」("Il courait mort" : Salut, Salut - Notes pour un courrier aux Temps Modernes ,Jacques Derridam,1996,2005 邦訳『パピエ・マシン』下所収)で、サルトルの「自らの時代のために書く」(1948年。おそらく未邦訳)というエッセイに言及しているので調べてみた。

Derrida原文:
« Il courait mort » : salut, salut - Cairn.info デリダによる脚注付き
https://www.cairn.info/revue-les-temps-modernes-2005-1-page-181.htm

以下、日本人研究者のサイトより:

http://homepage2.nifty.com/teiyu/idea/in_1112.html 
サルトルは、『真理と実存』で次のように書き遺している(42頁)。

《「自らの時代のために書く」という表現(『レ・タン・モデルヌ』誌、1948-引用者)を、自らの現在のために書くという意味であるかのように人々は 理解した。だが、それは違う。それは具体的な未来のために[=へと向けて]、つまり各人それぞれの行為に対する希望と恐れと可能性によって限定された未来のために書くことなのだ。私がその中で活動する真理の領域を限定するのには、五十年か百年の歴史で十分だ。》

 サルトルが1946年に創刊した『レ・タン・モデルヌ』の雑誌名はチャップリンの映画のタイトルからとられたという。デリダも言及している(邦訳『パピエ・マシン』下66頁)。デリダはこの上記エッセイを要約の必要がないようにするかのごとく(翻訳が必要なくなるくらいと言ってもいい)冒頭、中段、最終段落とそれぞれ重要な箇所を10カ所以上引用している(うまくサルトルの『レ・タン・モデルヌ』創刊の辞や『嘔吐』などとも組み合わせている)。後に紹介する日本人による当時の書評とあわせると全貌がわかる(デリダは他の著作と意図的に混交させているのでこの要約はありがたい)

 "Temps modernes" 1948/06
“Écrire pour son époque”

http://www.gallimard.fr/Catalogue/GALLIMARD/Revue-Les-Temps-Modernes/Les-Temps-Modernes13
Les Temps Modernes Juin 1948
Revue Les Temps Modernes (n° 33), Gallimard
Parution : 01-06-1948
Jean-Paul Sartre, Écrire pour son époque

Les Écrits de Sartre Chronologie, Bibliographie Commentée
http://philpapers.org/rec/CONLCD-8
 Michel Contat & Rybalka
Gallimard (1970)  pp.670-676
http://www.amazon.fr/Les-%C3%89crits-Sartre-Chronologie-bibliographie/dp/2070269329 
https://books.google.co.jp/books?id=cis47YKa1RcC&pg=PA320&lpg=PA320&dq=%E2%80%9C%C3%89crire+pour+son+%
C3%A9poque%E2%80%9D+1948&source=bl&ots=wsih3v-qY8&sig=EBmagGs-
1ffeDy3_ItOcjiHXgsI&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjWzvW87a_JAhVJKpQKHR0-
CB0Q6AEIHDAA#v=onepage&q=%E2%80%9C%C3%89crire%20pour%20son%20%
C3%A9poque%E2%80%9D%201948&f=false

 http://www.sciences-po.fr/presse/sartre/
 Jean-Paul Sartre et Les Temps Modernes Écrire pour son époque Programme des deux tables rondes L'exposition Présentation des intervenants Bibliographie Sartre en citations Sélection de sites web      

 « Puisque l'écrivain n'a aucun moyen de s'évader, nous voulons qu'il embrasse étroitement son époque […] Il faut faire en sorte que, l'homme puisse, en toutes circonstances, choisir sa vie. C'est à défendre l'autonomie et les droits de la personne que notre revue se consacrera ».

C 'est ainsi que Jean-Paul Sartre présente Les Temps Modernes lors de la fondation de cette revue en octobre 1945. Il poursuit : « une époque, comme un homme, c'est d'abord un avenir ». Ajoutons que depuis cinquante ans Les Temps Modernes sont aussi le lieu où s’expriment avec force les questions que se pose le temps présent sur lui même et qui rend le mieux compte des difficultés qu'il a à y répondre. 


以下は当時の日本の書評、紹介文。ところどころ現代仮名遣いに直した。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3555377?tocOpened=1
論題 ジヤン・ポール・サルトル著「時代のために」〔書評〕
著者 永戸 多喜雄.
請求記号 Z020.5-Sy6
雑誌名 書評.
出版者等 東京 : 日本出版協会, 1946-
巻号・年月日 3(12) 1948.12
巻号・年月日 3(12) 1948.12
ページ 56~57

新刊洋書展望
ジャン・ポール・サルトル著「時代のために」

 ジャン・ポール・サルトルは、昨年の春から夏にかけて、機関誌「現代」Les Temps Mo‐
dernes に「文學とは何か」と題する長大な論文を発表したが、此處に紹介する小論はそれ
に加へられるべきものであったが、何故か今年の六月号が出るまでは、フランスでは発表
されてゐなかった。以下簡単にその概要を記して見よう。
 かれは先づ第一に芸術が、永遠や歴史を拒否することを提唱する。基督教的な不死の信
仰を持つ者にとっては、人間の地上彷徨は過渡期的な試練にすぎないかも知れな
い。しかしサルトルの提唱は、人間が生きる地上の営みが萬事を決定するといふ
ことにある。例へば、作家は客観的に絶対な作品を書かうとしても、死後子孫の
世界に舞戻つて、その作品の意味を釈明することは出来ないし、かれが自分の苦
悩や不幸をどんなに巧みに描いたところで、苦悩や不幸を救つたり、絶対の手に
委ねることも出来ない。不幸は依然として不幸なのだ。「この世の最も美しい書物も、
一人の子供の悲しみを救ふことは出来ぬ。人は悪を救わず、悪と戦ふのだ。この世の最も
美しい書物は、それ自體と作家を救っても。人間を救ひはしない。」そこで、かれは、作品
が一つの行為であるとき、悪と戦ふ人間の武器となる時、作品は人間も芸術も救ふであ
らうといふ。
 人間は絶対を求める飽くなき慾望の持主である。しかし、非時間的な絶財と不満の猶予
もしくは永続する有為天変とは区別されなければならぬ。絶對はわれわれの身近にある。
われわれの一つ一つの行為が絶対なのだ。われわれが一幅の絵を、環境を、ある異性を熱
烈に愛するならば、一滴の葡萄酒の味と同様に、それは分解し難い純粋な事件であって
神も人も、あらゆる相対主義、歴史の「永遠の流れ」も之を奪ふことは出来ぬ。それは比
較と模倣を許さない絶対なのだ。然るに、一つ一つの時代は、われわれが他者の味方とな
り敵となる自己選択、愛憎の絆、總ゆる運動を結合した調和、不調和の人生が生む生きた
絶対である。歴史の相対性の中に入ると時代は死んでしまふ。さうすると歴史は、過ぎた
時代の熱烈な企てを誤診と呼ぶだらう。しかし、時代は生きてゐる限り正しいのだ。時代
は無智と無思慮に拘らず大胆にも未来に向って自己を超越して行く。翻って人間の條件を
見よう。人間の條件は、われわれが無智、無思慮にえらぶことを強要してゐる。若しわれ
われが、總ゆる現象の謎を解き、誤りなく行為し得るなら、危険は消滅し、その勇気も不
安も期待も窮極の歓喜もなくなるだらう。かくて正確無謬の弱々しい紳となるか、それと
も誤謬と不確実の人間をえらぶかといふ關頭に立つ。サルトルは、勿論人間をえらぶ。「總
ゆる真理は誤謬をとほしてのみあらはれる」故に、サルトルは總でをあげて誤謬に賭け
る。「誤謬にかけることによつて」、人は真理を生きるのだ。バナナの本当の味を知らうとす
るならば、摘みとつた時、その場で直ちに食べなければならない」。時代には、時代のみが
味はつた味がある。「文學作品の持つ真理は、その作品が生れた時代の中にある」。作品は、
作家と読者の双方の主體性をあらはにする。つまり、作品は両者の間にあつて、かれらの
怒りや愛憎が生きる舞台なのであり、時代に對する善悪いづれかの行為である。作品が時
代から時代に移るとき、それはもはや死んだ果実でしかない。
 そこで、作家は自分が生きてゐる時代のために書かねばならない。時代のために書くと
は、決して受動的に時代を反映することではなく、進んで時代を支持し変革しようと意慾
することだ。かつて、ニュートンやルソオは十八世紀に生きつつも、時代に不満を感じ、
一方は愚劣な煉獄の霧を払はうとして、非物理的な知識を超越して總てが物理系的に解決
される世界を希求し、他方は文明の罪悪を超越せんとして野性を謳歌した。今日のわれわ
れから見ると、ニュートンの合理主義も、ルソオの理性主義も誤謬でしかないとしても、
かれらは真理を生きたのだ。人は自己の彼方に、一条の地平線を引かずには、人間にも作家
にもなれない。だから超越は有限な特異な場合にのみ行はれるのだ。超越の抽象的な構造
を最もよく示してゐるのは、ボードレールの不満、總ゆるものへの不満である。人は未来
に向つて、生きてゐる時代の変革を意慾し、その企てに總てを賭けるとき、同時にかれの
普遍性における人間の条件を実現する。不滅を目指す作家が、時代を超越し得ると考へる
ならば、それは重大な誤りだ。環境の変革を望まず、環境から脱出し、現代人に縁のな
い未来に逃げ場を求めても無駄である。われわれの未来は、われわれと共に滅び、子孫の
現在とはなり得ない。われわれは自己の存在をかれらの上に延長させるやうに、子孫に強
ひようとするが、かれらにはそんな責任はない。われわれはかれらに働きかける手段を持
たないから、乞食となってかれらの前に罷り出で、何でもいいから仕事を呉れと哀願す
るのだらうか。
 廿一世紀はマルロオを捨てて、裏切者のドリュ・ラ・ロシェルの名を保存するかも知れ
ぬ。だが、それはどうでもいい。「われわれにとってドリュは何か、マルロオは何か、それ
か絶対なのだ」。生きてゐるマルロオは、時代のさ中にあって、熱い血の重味を感じさせる。
歴史の餌食となったかれは死せるマルロオである。人間の存在の重みを決定するものは、
五十年、六十年の生涯ではなく、縁なき子孫の意識の中で生きる借物の生命でもない。か
れを超越する時代の動囚を、自ら進んで選ぶこと、それが存在の重みを決定する。マラソ
ンの伝令はアテネに着く一時間前に死んだ。しかし、死せる伝令は、死してギリシアの勝
利を告げた。存在は死んだ後もなほ暫らくは他者に働きかける、しかし永遠に働きかける
のではない。作家の作品は、怒り、困惑、羞恥、嫌悪、愛着の情を起させる限り、仮令覚
つかない影となってもなほかれは生きてゐる。しかしその時期が過ぎれば、かれは滅び
るのだ。そこでサルトルは「私はこの限界を作家に提唱したい。私は有限な芸術と倫理を
支持する」と結んでゐる。
 以上によって、われわれはサルトルの文学観、現代に生きる作家としての決意と意慾の
片鱗を窺ふことが出来よう。かれの主張に賛同するか、反対するかはさておいて、かれが
この小論の中に提出した幾つかの問題は、単に実存主義の文學論と片附けで安閑としてゐ
られる類のものではない。                    (永戸多喜雄)
 







關頭の意味 - 中国語辞書 - Weblio日中中日辞典
http://cjjc.weblio.jp/content/%E9%97%9C%E9%A0%AD 
関頭 
読み方 かんとう  

中国語訳 关键,关头 
中国語品詞 名詞 
対訳の関係 完全同義関係  

 関頭の概念の説明 
日本語での説明 関頭[カントウ] 物事のたいせつな分かれ目


参考:
ジェローム・レーブル来日公演 : 
http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/6502/1/20012-496-004.pdf

         ・・・「アンガジュマン〔社会参加〕は依然として非常に美し
い言葉です」とサルトルについて語る彼は、遅れてきてそのように述べている。「期
日が迫っているというのに、私はまだ準備ができていないのです」*13。そしてデリ
ダは、両大戦後の復興期の最中に書かれたサルトルの有名な論文(「自らの時代のた
めに書く」、1948年)を註釈しながら、サルトルは自分が救おうとするもの(歴史、
真理、絶対者、ついには一匹の動物さえ救わない全体的人間)をことごとく奪い去
ってしまうと指摘する。よく知られているように、サルトルにとって、作家のアン
ガジュマンはおのれの生を永遠にではなく、限られた有限な未来において正当化す
る。ところが、こうした未来をつかみとる行為はまさに作家を走らせ、さらには死
に至らしめる。プラトンの伝令者はアテネにたどりつく一時間前に死んでいたとい
う話だった。だが彼は死んでいたのに、なおも走りつづけたのだ**14。それは美し
い神話で、死者がまだ死後わずかな時間は生きているかのように振る舞うことを示
してくれる***15。デリダは、あらゆるアンガジュマンに穴を穿ち、その速度を落と
す未来の決定不可能な局面を問わないという点でサルトルを非難し、責任、さらに
は緊急性を強調しながら、サルトルを自分の前方に走らせておくのである。・・・

13.Id.,Pspier Machine.Gahlee,Paris,2001、p.178〔ジャック・デリダ『パピエ・マンン』中山元
訳、下巻、ちくま学芸文庫、2005年、29頁〕.
14.Ibid.,p.167〔前掲書、10頁〕.
15.Ibid.,p.182〔前掲書、36頁〕. 

追記:
パピエ下96頁原注で、サルトルの創刊の辞をデリダは引用している。

「すべての人間は同胞である。同胞愛は、分散した分子を結ぶ受動的な絆である。この絆は分析的な精神には想像もつかないような行動的な連帯、階級的な連帯の場となるのである」『シチュアシオンII』13頁

しかし私見ではドゥルーズは『千のプラトー』において、地質学、動物生態学など、分割し、分析することで、分子化とその結合を可能にする道程を見つけたと考える。 実存は分析することで本質と交わるのである。分析がなければ総合もない。

ドゥルーズ体系:     分子化
      スピノザ 【 分 析 】 HeideggerKant 
     Hegel\   |   /
           千のプラトー
        ライプニッツ| ベルクソン
             \|/
 【規定】差異と反復ーーーシネーーー意味の論理学【反省】
             /|\     [修辞学?]
        フーコー/ | (ヒューム
       (Marxアンチ Freud
          /・オイディプス
      サルトル 【 総 合 】 ニーチェNietzsche

ドゥルーズ体系:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_72.html
サルトル(1905-1980)とドゥルーズ(1925-1995):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_77.html
『存在と無 』サルトル(L'Être et le néant,Jean-Paul Sartre) 1943
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/letre-et-le-neantjean-paul-sartre.html
『弁証法的理性批判』サルトル 1960
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_66.html
サルトル 「いま 希望とは」Sartre L'espoir maintenant : 朝日ジャーナル 1980
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/1980041804250502.html
Sartre par lui même (1976) サルトル―自身を語る
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/sartre-par-lui-meme-1976_24.html
サルトル「自らの時代のために書く」Sartre “Écrire pour son époque” 1948 
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/sartre-ecrire-pour-son-epoque-1948.html(本頁)




 われわれは批評家や作家たちに抗して、救済「サリュ」はこの世でなされると断言す
る。救いは全的な人間のものであり、全的な人間によるものである。そして芸術は死に
ついての省察ではなく、生についての省察であると断言する。p.14

« Nous affirmons, déclarait-il alors, contre ces critiques et contre ces auteurs que le salut se fait sur cette terre, qu’il est de l’homme entier par l’homme entier et que l’art est une méditation de la vie, non de la mort[2][2] Ce sont les premiers mots de « Ecrire pour son époque »,.... »

 しかしわたしは歴史のなかの人物になってしまったわけではないし、どのような形で
歴史のなかの人物になるかもわからない。ひとりの人物としてかもしれないし、無名の
集団にまぎれてのことかもしれない。あるいは文学の入門書の脚注に記される名前の一
つになるかもしれない。いずれにしても、未来がわたしの作品にくだす判断については
気にかけるにはおよばない。わたしの力のおよぶ範囲のことではないからだ。芸術は、
死者との対話や、いまだ生まれざる者との対話に還元されるものではない。それはあま
りに困難であり、あまりにたやすいことだろう。これは死後の生にたいするキリスト教
の信仰の最後の名残のようなものではないだろうか。……少なくともキリスト教徒の場
合には、すべてを決定するのはこの世での行いであり、最終的な至福はその報いにすぎ
ない。ところがわれわれの書く本の場合には、われわれの死後になって作品の行程[こ
こに行程の語が登場します]がわれわれの人生をふたたび訪れて、われわれの人生に正し
さを示すものだと一般に信じられている[死後の行程のこの再来は、亡霊の回帰ではない
でしょうか]。客観的な精神の観点からは、この考え方は正しいものだ。客観的な精神
においては、才能にしたがって分類されるからだ[これは客観的に精神については言い足
りないと思います。客観的な精神という概念は明らかにヘーゲルのものであり、その本質にお
いて、ここでわたしが考えている運命的な幽霊としての性格を前提とするものだからです]。
しかし孫たちがわれわれのことをどう考えるかということも、特権的なものとして認め
てはならない。孫たちのあとの世代の者たちがやってきて、今度は孫たちを裁くはずだ
からだ。われわれはだれも、絶対的な必要性にもとづいて書くのは明らかだ。そして実
際に、精神が作りだした作品はまさに絶対的なものである。しかしここには二重の過誤
がある。まず作家が書くときには、自分の苦悩や過ちを絶対的なものにまで高めるとい
うのは正しくない。作家が自分の苦悩や過ちを救うというのは正しくないのである。
 
« Mais je ne suis pas entré dans l’histoire et je ne sais comment j’y entrerai : peut-être seul, peut-être dans une foule anonyme, peut-être comme un de ces noms qu’on met en note dans les manuels de littérature. De toute façon je n’ai pas à me préoccuper des jugements que l’avenir portera sur mon œuvre, puisque je ne peux rien sur eux. L’art ne peut se réduire à un dialogue avec des morts et avec des hommes qui ne sont pas encore nés[14][14] Je suis tenté de penser exactement le contraire, à... : ce serait à la fois trop difficile et trop facile ; et je vois là un dernier reste de la croyance chrétienne à l’immortalité [15][15] p. 2113. […] du moins est-ce, chez les chrétiens, ce passage sur terre qui décide de tout et la béatitude finale n’est qu’une sanction. Au lieu que l’on croit communément que la course [voilà la course] fournie par nos livres après que nous ne sommes plus revient sur notre vie pour la justifier [ce re-venir d’une course après la mort, n’est-ce pas la revenance d’un spectre ?]. C’est vrai du point de vue de l’esprit objectif. Dans l’esprit objectif on classe suivant le talent [voilà qui ne peut suffire à épuiser cet esprit objectif, concept évidemment hégélien dont je dirai seulement qu’il suppose, de façon essentielle, cette spectralité destinale que j’ai ici en vue]. Mais la vue qu’auront sur nous nos petits-neveux n’est pas privilégiée puisque d’autres viendront après eux qui les jugeront à leur tour. Il va de soi que nous écrivons tous par besoin d’absolu ; et c’est bien un absolu, en effet, qu’un ouvrage de l’esprit. […] D’abord il n’est pas vrai qu’un écrivain fasse passer ses souffrances ou ses fautes à l’absolu lorsqu’il en écrit, il n’est pas vrai qu’il les sauve. » p.35


 しかしこれについては二つの過ちがみられる。第一に、作家が自分の苦悩や過誤につ
いて書くとき、作家はそれを絶対的なものに高めるというのは正しくない。作家が苦悩
や過誤を救うなどということはないのだ。不幸な結婚生活を送っている作家が、結婚に
ついて素晴らしい作品を書いたとしたら、自分の結婚の悲惨を使ってよい本を書いたと
言われるだろう。しかしこれはあまりに安易な考え方ではないか。蜜蜂は花を使って蜂
蜜を作る。蜜蜂は植物からとった物質を現実的に変容させたのだ。彫刻家は大理石を使
って彫像を作る。しかし作家が本を書くのは言葉を使ってであり、自分の苦しみを使っ
てではない。妻に意地悪をやめさせたいなら、妻について本を書くのは間違いだ。妻を
殴ったほうがましだろう。*11 p.42

« Mais on commet à ce propos une double erreur. D’abord il n’est pas vrai qu’un écrivain fasse passer ses souffrances ou ses fautes à l’absolulorsqu’il en écrit ; il n’est pas vrai qu’il les sauve. Ce mal marié qui écrit du mariage avec talent, on dit qu’il a fait un bon livre avec ses misères conjugales. Ce serait trop commode : l’abeille fait du miel avec la fleur parce qu’elle opère sur la substance végétale des transformations réelles ; le sculpteur fait sa statue avec du marbre. Mais c’est avec des mots, non pas avec ses ennuis, que l’écrivain fait ses livres. S’il veut empêcher que sa femme soit méchante, il a tort d’écrire sur elle : il ferait mieux de la battre. »

 この世でもっとも美しい書物も、たったひとりの子供の苦しみを救うことはないだろ
う。人は悪を救うことはない。悪とは戦うのだ。しかしこの世でもっとも美しい書物は、
みずからを救う。芸術家をもまた、その書物は救うのである。しかし人間を救うことは
ない。また人間が芸術家を救うこともない。われわれが望むのは、人間と芸術家がとも
に救われることである。作品が同時に行為でもあることを望むのだ。すなわち作品は、
人間が悪と戦う際に武器となるように構想されていることが望ましいのだ。*12 p.43

« Le plus beau livre du monde ne sauvera pas les douleurs d’un enfant : on ne sauve pas le mal, on le combat. Le plus beau livre du monde se sauve lui-même ; il sauve aussi l’artiste. Mais non pas l’homme. Nous voulons que l’homme et l’artiste fassent leur salut ensemble, que l’œuvre soit en même temps un acte ; qu’elle soit expressément conçue comme une arme dans la lutte que les hommes mènent contre le mal. »






 もう一つの過ちも前のものに劣らず深刻である。すべての人の心には、絶対的なもの
への強い〈飢え〉があるために、無時間的な絶対である永遠と不死を混同してきたのだ
った。不死とはたんにいつまでも死なないこと、さまざまな変転の長い連鎖にすぎない。
だから絶対的なものへの欲望はよく理解できるし、わたしにもその欲望はある。……ジ
ョーダン氏(引用者注:モリエール町人貴族より)が散文を語るように、われわれは絶対的なものを作りだす。あなたはパイプ
に火をつける。それが絶対的なものである。あなたは共産党に入党する。それが絶対的
なものである。 *14 2115

« L’autre erreur n’est pas moins grave : il y a dans chaque cœur une telle faim d’absolu qu’on a confondu fréquemment l’éternité, qui serait un absolu intemporel, avec l’immortalité, qui n’est qu’un perpétuel sursis et une longue suite de vicissitudes. Je comprends qu’on désire l’absolu et je le désire aussi […] Nous faisons de l’absolu comme M. Jourdain faisait de la prose. Vous allumez votre pipe et c’est un absolu  ; vous détestez les huîtreset c’est un absolu  : vous entrez au Parti communiste et c’est un absolu. »

 爺さまたちはワインのグラスを傾けたあとで「プロイセンの奴らには味わえないこれ
をもう一杯」と言いながら、グラスに新たなワインを注いでいたが、これは正しいのだ。
これは「プロイセンの奴ら」にもだれにも味わうことのできないものなのだ。だれかが
あなたを殺すことはできるだろうし、死ぬまでワインを飲ませないことはできるかもし
れない。しかしあなたの舌で味わったボルドーの最後の一口を奪うのは、どんな神にも、
どんな人にもできない。そこにはいかなる相対主義もない。「歴史の永遠の流れ」もな
い。感性的なものの弁証法もない。精神分析の人格分裂もない[ここでサルトルはいわば
加速していますね。邁進し、あまりに速く進んでしまいます。そのことは指摘できますが、こ
こでの本題ではありません,みごとに走る様子を見守りましょうー引用者注:デリダの解説]。これは純粋な出来事で
ある。そして歴史的な相対性やわれわれのとるにたらぬ存在のもっとも深いところで、
われわれもまた真似ることができず、比べようもない絶対的なものなのである。そして
われわれがみずから行う選択もまた絶対的なものなのである。*15 2115

« Ils avaient raison nos grands-pères qui disaient, en buvant leur coup de vin : “Encore un que les Prussiens n’auront pas.” Ni les Prussiens ni personne. On peut vous tuer, on peut vous priver de vin jusqu’à la fin de vos jours : mais ce dernier glissement du bordeaux sur votre langue, aucun Dieu, aucun homme ne peuvent vous l’ôter. Aucun relativisme. Ni non plus le “cours éternel de l’histoire”. Ni la dialectique du sensible. Ni les dissociations de la psychanalyse [Là, il accélère, n’est-ce pas, il s’emporte et va trop vite, avec la psychanalyse, on pourrait le montrer, mais ce n’est pas le propos. Laissons-le poursuivre sa belle course]. C’est un événement pur, et nous aussi, au plus profond de la relativité historique et de notre insignifiance, nous sommes des absolus, inimitables, incomparables, et notre choix de nous-mêmes est un absolu. »






 こうして新たな絶対者が生まれる。わたしはこれを時代と名づけよう(強調はサルト
ルです)。時代とは、間主観性であり、生ける絶対者なのである。 *17 2116
« …produire un nouvel absolu que je nommerais l’époque. [C’est Sartre qui souligne ici le mot “époque”.] L’époque, c’est l’intersubjectivité, l’absolu vivant. »
 
 (これを批判する者たちに断言したい。)……時代のうちでそれぞれの言葉は、歴史的な
語となり、社会的なプロセスの起源として認識される前に、まず一つの侮蔑であり、訴
えであり、告白であるのだ。p.32 2113~4


« Nous affirmons contre ces critiques… […] : Au sein de l’époque, chaque parole, avant d’être un mot historique ou l’origine reconnue d’un processus social, est d’abord une insulte ou un appel ou un aveu[13][13] p. 2116.. »
 時代の懐にあって、それぞれの言葉は歴史的な語や社会的なプロセスの起源として認
められる前から、まず罵りの言葉であり、訴えの言葉であり、誓いの言葉である。……
歴史は死せる時代によって作られる。それぞれの時代は、死ぬことによって、相対性を
そなえるようになるからであり、……一挙に時代の限界があらわになり、その無知があ
らわになる。しかしそれは時代が死んでしまったからなのである[強調はサルトルで
す]。こうした限界や無知は「その時代においては」存在しなかった。欠如を生きるこ
とはないのである。……その時代においては誰もが過誤のうちに全的に身を投じた。そ
してこの過誤を自分の生命を賭けて明らかにすることで、時代を通じて真理を示したの
である。というのは真理は直接に示されることはなく、ただ過誤を通じて
あらわになる
だけだからだ。……理性の運命が……それぞれの時代において、さまざまな教義を通じ
て全面的に賭けられるのであり、こうした教義はのちの時代が虚偽として放棄すること
になるだろう。進化論がある日、われわれの世紀の最大の狂気と思われるような時代が
くるかもしれない。アメリカの大学教授たちは聖職者に抗して進化論への支持を証すこ
とで、真理を生きたのであり[強調はサルトルです]、その危険を情熱的に、そして絶対
的に生きたのである。明日には彼らも間違っていることが明らかになるかもしれないが、
今日は絶対に正しいのだ。時代は死んでしまえばいつでも間違っているが、生きている
あいだは、いつも正しいのである。*18 p.49  2116~7

« Au sein de l’époque, chaque parole, avant d’être un mot historique ou l’origine reconnue d’un processus social, est d’abord une insulte, ou un appel ou un aveu […] C’est avec les époques mortes qu’on fait l’histoire, car chaque époque, à sa mort, entre dans la relativité […] ses limites apparaissent tout à coup et ses ignorances. Mais c’est parce qu’elle est morte [Sartre souligne ces deux derniers mots]  ; ces limites et ces ignorances n’existaient pas “à l’époque”  : on ne vit pas un manque […] A l’époque, l’homme s’est engagé tout entier en elles [des erreurs], et, en les manifestant au péril de sa vie il a fait exister la vérité à travers elle, car lavérité ne se livre jamais directement, elle ne fait qu’apparaître au travers des erreurs. […] le sort de la Raison […] se joue à chaque époque, totalement,à propos de doctrines que l’époque suivante rejettera comme fausses. Il se peut que l’évolutionnisme apparaisse un jour comme la plus grande folie de notre siècle : en témoignant pour lui contre les gens d’église, les professeurs des Etats-Unis ont vécu [c’est Sartre qui souligne ce dernier mot]la vérité, ils l’ont vécue passionnément et absolument, à leurs risques. Demain ils auront tort, aujourd’hui ils ont raison absolument  : l’époque a toujours tort quand elle est morte, toujours raison quand elle vit. »



 その時代においてはだれもが過誤のうちに全的に身を投じた[アンガジェ]。そしてこ
の過誤を自分の生命を賭けて明らかにすることで、時代を通じて真理を示したのである。
というのは真理は直接に示されることはなく、ただ過誤を通じてあらわになるだけだか
らだ。……アメリカの大学教授たちは聖職者に抗して進化論への支持を証すことで、真
理を生きたのであり、その危険を情熱的に、そして絶対的に生きたのである。明日には
彼らも間違っていることが明らかになるかもしれないが、今日は絶対に正しいのだ。時
代とは死んでしまえばいつも間違っているが、生きているあいだは、いつも正しいので
ある。お望みならあとになってから時代を断罪するがよい。しかし時代はまずその時代
なりにみずからを情熱的に愛したのであり、みずからを引き裂いたのである。それに対
して未来の審判はいかなる力もない。時代には独自の味わいがあり、時代はただひとり
でそれを味わったのである。その味わいは口に残るワインの後味のように比べようのな
いものであり、取り返しのつかないものである。
 一冊の書物には、その時代における絶対的な真理がある。p.31


« A l’époque, l’homme s’est engagé tout entier en elles, et, en les manifestant au péril de sa vie, il a fait exister la vérité à travers elle, car la vérité ne se livre jamais directement, elle ne fait qu’apparaître au travers des erreurs […] en témoignant pour lui [l’évolutionnismecontre les gens d’Eglise, les professeurs des Etats-Unis ont vécu la vérité, ils l’ont vécue passionnément et absolument, à leurs risques. Demain ils auront tort, aujourd’hui ils ont raisonabsolument : l’époque a toujours tort quand elle est morte, toujours raison quand elle vit. Qu’on la condamne après coup, si l’on veut, elle a eu d’abord sa manière passionnée de s’aimer et de se déchirer, contre quoi les jugements futurs ne peuvent rien, elle a eu son goût qu’elle a goûté seule, et qui est aussi incomparable, aussi irrémédiable que le goût du vin dans notre bouche.
Un livre a sa vérité absolue dans l’époque[11] p.31

 彼らは絶対に正しい。時代は死んでしまえばいつも間違っているが、生きているあ
いだは、いつも正しいのである。お望みならあとになってから時代を断罪するがよい。
しかし時代はまずその時代なりにみずからを情熱的に愛したのであり、みずからを引き
裂いたのである。それに対して未来の審判はいかなる力もない。時代にはその時代だ
けの味わいがあり、時代はただひとりでそれを味わったのである。その味わいは、口に
残るワインの後味のように比べようのないものであり、取り返しのつかないものである。
 一冊の書物には、その時代における絶対的な真理がある。p.31 2117-8 p.50

« … ils ont raison absolument  : l’époque a toujours tort quand elle est morte, toujours raison quand elle vit… Qu’on la condamne après coup si l’on veut, elle a eu d’abord sa manière passionnée de s’aimer et de se déchirer, contre quoi les jugements futurs ne peuvent rien ; elle a eu son goût qu’elle a goûtéseule, et qui est aussi incomparable, aussi irrémédiable que le goût du vin dans notre bouche.
Un livre a sa vérité absolue dans l’époque. »


 後世の審判というものも、その書物について人が生きているあいだに下した判断を無
効にするものではないだろう。ナツメヤシやバナナについて、「口でとやかく言っても
始まらない。それがどんなものか理解したければ、摘んだところをすぐに食べてみなけ
ればわからないものだ」とよく言われたものだ。そしてわたしもバナナはそのほんとう
の味を味わったことがない〈死んだ果実〉のように感じていた。ある時代に熟して、次
の時代にわたされた書物は、いわば〈死んだ果実〉のようなものである。熟した時代に
はこの書物は、いまとは違う味わいを、もっとえぐい生きた味をもっていたのだ。『エ
ミール』や「ペルシア人の手紙」は、それが摘みとられたときに読むべきなのだ。
 だからこそ、偉大な作家がつねにやってきたように、自分の時代のために書くべきな
のだ。*20 p.53 2118

« … les jugements de la postérité n’infirmeront pas ceux qu’on portait sur lui de son vivant. On m’a souvent dit des dattes et des bananes : “Vous ne pouvez rien en dire : pour savoir ce que c’est, il faut les manger sur place, quand on vient de les cueillir.” Et j’ai toujours considéré les bananes comme des fruits morts dont le vrai goût vivant m’échappait. Les livres qui passent d’une époque à l’autre sont des fruits morts. Ils ont eu, en un autre temps, un autre goût, âpre et vif. Il fallait lire L’Emile ou Les Lettres persanes quand on venait de les cueillir.
Il faut donc écrire pour son époque, comme ont fait les grands écrivains. »


 だからと言って、時代のうちに閉じこもるべきだというわけではない。時代のために
書くということ、それは受け身になって時代を写しだすということではない。時代を保
持し、時代を変革すること、未来に向かって時代を超越することである。そしてこの時
代を変革しようとする試みによって、われわれは時代のうちのもっとも深いところに身
をおくのである。……時代はたえずみずからを追い抜きつづける。時代においてこそ、
時代を作りだすすべての人間の生ける将来と、具体的な現在とが厳密に一致するので
ある。*21 2118~9

 ……この未来が現在になったことが一度もなかったにしても。

« Mais cela ne signifie pas qu’il faille s’enfermer en elle. Ecrire pour l’époque, ce n’est pas la refléter passivement, c’est vouloir la maintenir ou la changer, donc la dépasser vers l’avenir, et c’est cet effort pour la changer qui nous installe le plus profondément en elle […] elle se dépasse perpétuellement, en elle coïncident rigoureusement le présent concret et l’avenir vivant de tous les hommes qui la composent… »

 « … s’il est vrai que ce futur n’est jamais devenu un présent ».






 マラトンの伝令は、アテナイに到着する一時間前に死んでいたという。伝令は死んで いたのに、それでもなお走っていたのだ。死んでもなお走っていた、そして死にながら ギリシア軍の勝利を告げたのである。美しい神話で、死者は死んだのちもまだしばらく は生きているかのように動くことを教えてくれるのだ。しばらくとは一〇年間、おそら く五〇年か、ともかく限られた期間のことだ。それから死者をもう一度葬るのだ。われ われが作家に認める時間はせいぜいこのくらいだ。作品が怒りや困惑や恥辱や憎悪や愛 をかきたてるあいだは、作家はすでに影のようなものであっても、まだ生きているのだ。 あとは野となれ山となれ。われわれは有限なもののモラルと芸術を支持する。 p.36



« On a dit que le courrier de Marathon était mort une heure avant d’arriver à Athènes. Il était mort et il courait toujours ; il courait mort, il annonça mort la victoire de la Grèce. C’est un beau mythe, il montre que les morts agissent encore un peu de temps comme s’ils vivaient. Un peu de temps, dix ans, cinquante ans peut-être, une période finie, en tout cas ; et puis on les enterre pour la seconde fois. C’est cette mesure-là que nous proposons à l’écrivain ; tant que ses livres provoqueront la colère, la gêne, la honte, la haine, l’amour, même s’il n’est plus qu’une ombre, il vivra. Après, le déluge. Nous sommes pour une morale et pour un art du fini. »


Derrida原文:
« Il courait mort » : salut, salut - Cairn.info デリダによる脚注付き
https://www.cairn.info/revue-les-temps-modernes-2005-1-page-181.htm
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