I(全論理空間)
◯
/\
/ \
/ \
a=b=S / \ a/=b/=M
◯/ \◯
Sは実体\ / Mは様態
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\/
◯
O(空なるクラス)
図は『論理学史』(山下正男)p208より、スピノザ哲学の論理構成。
デカルトの場合、属性は主にS(=実体)に連なり、スピノザの場合、属性はM(=様態)に連なる。
例を挙げるならば(スピノザ往復書簡の無限の説明)、実体Sが二つの円、様態Mが無限にある両円の比率ということになる。山下氏によればヘーゲルはその両者を混同してしまっているという。
デカルトの、属性がS(=実体)に連ながる部分がヘーゲルの過ちを生んだ。
上を延長、下を思惟ととらえれば(逆でもいい)両者の結合が神秘主義的思考回路と同じになってしまうということだ。
スピノザは属性を様態寄りに考えたとはいえ、実体から無限の属性が生じることを想定しかつ、思惟と延長に優越をつけなかった。
様態から属性を通って実体につながっているとはいえ、実体側からの属性を無視したわけではなく、属性は思惟と延長に限られず無限にあるというだけである。だから二項対立の変奏はあっても二元論の固定さらには思惟の優越にはならない。空なるクラスも定義としての否定において維持される。
ヘーゲルは(論理的思考が後退した場合における)デカルトの必然的帰結である。
また、ドゥルーズによれば平行論なる命名はライプニッツが初めて行ったもので、スピノザ自身の用語ではない。
(ドゥルーズ『スピノザ 表現の問題』邦訳単行本103,390頁参照)
さらにライプニッツの並行論は悪口ではない。ライプニッツも自身を並行論者と考えていたからだ。
ただスピノザには個体による実体の分有を説明出来ないと考えていた(「唯一の普遍的精神の説に
ついての考察」『ライプニッツ著作集』8巻132頁)。
ライプニッツはこんな図式を描いている。
瞬間Aにおける肉体の状態 | 瞬間Aにおける魂の状態
次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)
「魂がチクリにかならず気がつくのは、関係の法則によっている。」
「魂は、いつもかならずしも判明に、チクリだの、その直後にやってくるはずの痛みだのが、
いったいなんで起こるのか、気がついているとはかぎりません。」
(アルノー宛書簡20邦訳ライプニッツ著作集第八巻361~362頁)
http://www2.human.niigata-u.ac.jp/~mt/ningen/docs/F.%20IMAI.pdf
ライプニッツは、物体は延長だとするデカルトの考え方のみをアルノーが前提としており、
物体が自身の力で運動することを否定しているといって批判する(書簡16『ライプニッツ著作集 8』320 頁)。
共通概念=スピノザの公理をドゥルーズは肯定的に捉えている。ライプニッツの複数性へとスピノザの一元論を変換する鍵がそこにある。
法よりも判例が大事というのと同じだ。ドゥルーズの感覚論はゆがんではいるが、、、
ドゥルーズが、共通感覚には否定的だが、共通概念に肯定的なのは、上記図のように感覚に概念を対応させるためで、概念の優位を称えているのではない。
(ドゥルーズが、カントの主要テーマをランボーやシェークスピアの引用で要約したことが想起される。)
ドゥルーズもまた並行論者なのだ。
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欲望する諸機械|器官なき身体
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スピノザ 【分析=分子化】 \ | /
千のプラトー/
ライプニッツ| ベルクソン☆ \|/
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】
/|\ [修辞学?]
フーコー/ | (ヒューム) (マルクス)アンチ フロイト
/・オイディプス\
【 総 合 】 ニーチェ、Nietzsche
上はカント、ハイデガーの準備したマトリクスである。これらを
ニーチェ、
スピノザが横断する。マルクス、フロイト(懐疑論)が左右において上下の断絶を決定づける。
5 Comments:
スピノザ 【分析=分子化】 ハイデガー
\ | /
千のプラトー/
ライプニッツ| ベルクソン
\|/
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】
/|\ [修辞学?]
フーコー/ | (ヒューム)
(マルクス)アンチ フロイト
/・オイディプス\
サルトル 【 総 合 】 ニーチェ、Nietzsche
上はカント、ハイデガーの準備したマトリクスである。これらを
ニーチェ、
スピノザが横断する。マルクス、フロイト(懐疑論)が左右において上下の断絶を決定づける。
Nietzsche、Spinozaが鍵だ。アプリオリな分析はLeibnizにある。
潜在的
可能的+実在的
現働的
千のプラトーをアンチ・オイディプスに対して潜在的なものと考え、
分析を分子化として捉え直したところが味噌だ。
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ドゥルーズが実践の哲学で引用
芸術家や学者あるいは哲学者はレンズを磨くことに一生懸命だ。彼らは将来決して起こらない出来事のために一生懸命準備をしているようなものだ。もしもある日こうして磨かれたレンズが完成すれば、僕たちは皆驚くばかりの素晴らしい美しさのこの世界を見ることだろうよ。
https://ameblo.jp/atelier-myriad-happiness/entry-11903582379.html
ヘンリー・ミラー
https://books.google.co.jp/books?id=tYiEtOWlXKEC&pg=PA14&dq=henry+miller+spinoza&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiojLDbmo7aAhVDXrwKHQFBA1AQ6AEIJDAA
#v=onepage&q=henry%20miller%20spinoza&f=false
You see, to me it seems as though the artists, the scientists, the philosophers were grinding lenses. It's all a grand preparation for something that never comes off. Someday the lens is going to be perfect and then we're all going to see clearly, see what a staggering, wonderful, beautiful world it is...
Henry Miller, quoted from Gilles Deleuze: Spinoza. Practical Philosophy (1970)
Henry Miller, Sexus.
セクサス―薔薇色の十字架刑1
スピノザとレンズ磨き伝説
www.furugosho.com/precurseurs/spinoza/lentille.htm
哲学史のなかの<伝説>の一つに、衆人の無理解のなかで形而上学的思索を行っていたスピノザが、生活の資を得るためレンズ磨きをしていたというものがある。スピノザがレンズ磨きを行っていたのは事実と考えられるが、それが生活を支えるためというのは現代のスピノザ研究者によって明確に否定されている。以下、そうした否定論の一例として工藤喜作氏の文章を紹介し、また、より具体的なスピノザのレンズ磨きの状況を知るために、工藤氏が言及しているスピノザからフッデに宛てた書簡の一部を引用し紹介する。
シングルレンズの愛 | 福岡伸一の生命浮遊 | ソトコト
www.sotokoto.net/jp/essay/index.php?id=72
レーウェンフックの同時代人・同国人に哲学者のスピノザがいた。レーウェンフックと同じ年、1632年に生まれている。スピノザもレンズを磨くことによって生計を立てていたといわれている。私はオランダを旅した際、スピノザが隠遁生活を送ったとされるレインスブルグという小村にスピノザの家を訪問したことがある。小さな書斎とそれに続く土間づくりの作業場。そこにレンズを磨く足踏み式の回転盤を置いて、スピノザはあるときレンズを一心に磨き、また別の時は、一心に自らの思索を深めていたのである。 レンズを磨くこと。
ドゥルーズが実践の哲学で引用
芸術家や学者あるいは哲学者はレンズを磨くことに一生懸命だ。彼らは将来決して起こらない出来事のために一生懸命準備をしているようなものだ。もしもある日こうして磨かれたレンズが完成すれば、僕たちは皆驚くばかりの素晴らしい美しさのこの世界を見ることだろうよ。
https://ameblo.jp/atelier-myriad-happiness/entry-11903582379.html
ヘンリー・ミラー
https://books.google.co.jp/books?id=tYiEtOWlXKEC&pg=PA14&dq=henry+miller+spinoza&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiojLDbmo7aAhVDXrwKHQFBA1AQ6AEIJDAA#v=onepage&q=henry%20miller%20spinoza&f=false
You see, to me it seems as though the artists, the scientists, the philosophers were grinding lenses. It's all a grand preparation for something that never comes off. Someday the lens is going to be perfect and then we're all going to see clearly, see what a staggering, wonderful, beautiful world it is...
Henry Miller, quoted from Gilles Deleuze: Spinoza. Practical Philosophy (1970)
Henry Miller, Sexus.
セクサス―薔薇色の十字架刑1
新潮文庫セクサス下#17
スピノザとレンズ磨き伝説
www.furugosho.com/precurseurs/spinoza/lentille.htm
哲学史のなかの<伝説>の一つに、衆人の無理解のなかで形而上学的思索を行っていたスピノザが、生活の資を得るためレンズ磨きをしていたというものがある。スピノザがレンズ磨きを行っていたのは事実と考えられるが、それが生活を支えるためというのは現代のスピノザ研究者によって明確に否定されている。以下、そうした否定論の一例として工藤喜作氏の文章を紹介し、また、より具体的なスピノザのレンズ磨きの状況を知るために、工藤氏が言及しているスピノザからフッデに宛てた書簡の一部を引用し紹介する。
シングルレンズの愛 | 福岡伸一の生命浮遊 | ソトコト
www.sotokoto.net/jp/essay/index.php?id=72
レーウェンフックの同時代人・同国人に哲学者のスピノザがいた。レーウェンフックと同じ年、1632年に生まれている。スピノザもレンズを磨くことによって生計を立てていたといわれている。私はオランダを旅した際、スピノザが隠遁生活を送ったとされるレインスブルグという小村にスピノザの家を訪問したことがある。小さな書斎とそれに続く土間づくりの作業場。そこにレンズを磨く足踏み式の回転盤を置いて、スピノザはあるときレンズを一心に磨き、また別の時は、一心に自らの思索を深めていたのである。 レンズを磨くこと。
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