月曜日, 8月 29, 2016

渋沢栄一:メモ


はじめに   †渋沢栄一という原点
   会社に出勤するため、いつも通りJRに乗って日経新聞をひらいた。ふと目をやると、車内吊り広告にサッポロビールのうまそうな新製品の宣伝がある。帰りに買って帰ろうと思いながら、お金を下ろすのを忘れていたことに気づき、会社近くのみずほ銀行のATMに寄る。
  そういえばもう年末、クリスマスは帝国ホテルで過ごして、初詣は明治神宮にでも行くかなあ。その前に聖路加病院に入院している祖父のお見舞いにも行かなくっちゃ……。
  どこにでも転がっていそうな日常の心象風景のひとコマだが、驚くなかれ、ここに出てくる固有名詞すべての設立に関わった人物が、本書の口述者である渋沢栄一なのだ。

現代語訳 論語と算盤 冒頭より




渋沢栄一

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931 年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、 官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといっ...

経歴-生い立ち-徳川慶喜の家臣・幕臣として-大蔵省出仕〜実業家時代


日本資本主義の礎を築いた渋沢栄一

日本で最初となる第一国立銀行や東京証券取引所など、数々の企業設立・経営に携わり、日本資本主義の礎を築いた渋沢栄一。現在渋沢栄一五代目の子孫にあたり、自身も金融界の第一線で活躍する渋澤健氏は、維新以来の日本経済を背負い、近代国家発展に尽力した先代の意向を正統に継承する。
かつて渋沢栄一が著した『論語と算盤』を現代に読み解き、冬の時代が続く日本経済に問いかける未来創造への提言。

『論語と算盤』

論語と算盤とシルクハットと刀の絵
小山正太郎画
「(論語と算盤とシルクハットと刀の絵)」
渋沢史料館蔵

 渋沢栄一は数々の著書を残しましたが、なかでも『論語と算盤』が有名です。ここでは「道徳経済合一主義」を説いています。つまり、サステナビリティ(Sustainability:持続可能性。)ひとりの経営者が大富豪になってもそのお金が社会に回らないようであれば、その人の幸福は続かないかもしれない。たとえ算盤に長けて自分の懐が温まったとしても、同じことが言えるでしょう。一方、「私は論語を読む偉人です」と構えても何もはじまりませんから、これはサステナブルではない。
数年前、堀江氏とか村上氏とか出てきましたが、栄一は彼らを応援したと思います。それまでの社会の秩序にチャレンジした人たちですから。栄一も、のちに浅野財閥を築く浅野総一郎のような旺盛な起業家を応援していました。ただ自分ひとりがいい思いをしても、社会的には成功しないのではないか。『論語と算盤』は80年以上も前(1927年刊)に書かれましたが、そまま現在に応用できる経済論です。

渋沢栄一 | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術 ...

www.ndl.go.jp>...>第1部 1900年までに開催された博覧会

渋沢栄一は明治・大正期における実業家のトップリーダーであり、当時を代表する財界 の第一人者であるが、実は1867年第2回パリ万博に御勘定格陸軍附調役(会計係兼 書記)として参加したことが一つの転機となっている。渋沢は1840年、埼玉県の豪農の 長男 ...

渋沢栄一 27歳 フランス・パリを見て銀行・株式会社に注目

渋沢栄一 27歳 フランス・パリを見て銀行・株式会社に注目. 徳川御三卿一橋家に士官し ていた渋沢栄一さんは、 主君の慶喜さんが将軍となったのに伴い幕臣となりました。 慶喜さんの弟・昭武さんがフランスのパリで行われる万国博覧会への幕府使節として 派遣 ...

パリ万博 - So-net

1867年4月11日(慶応3年3月7日)、渋沢栄一パリに着いた。 この年、パリでは4月 から11月まで万国博覧会が開かれている。 フランス政府はレオン・ロッシュ駐日公使 を通じて、前年6月、日本の幕府に出品を要請した。15代将軍の徳川慶喜はこれに応じ 、 ...


年 表 - 横浜銀行

 

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www.boy.co.jp/boy/company/pdf/h60th_26.pdf

7.11 渋沢栄一はか11名 横浜に洋銀取. 引所設立方請願 ll.18 郡区町村編成法により 郡区編成を. 定める ll,22 枝折区役所設置. 5.27 貿易銀の一般通用を許可 (金本位. 制 は事実上金銀複本位制に移行). 6.1 東京株式取引所開業. 7.1 金禄公債証書交付開始  ...