http://www.freeassociations.org/
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11138642321
angelic_chakochanさん 2014/11/25 12:06:59
【100枚】アリストテレスの時間論はどんな内容なのか詳しく教えて下さい。
出来る限り分かりやすく教えて頂ければ幸いです。
回答数:1 閲覧数:375 お礼:知恵コイン100
ベストアンサー
fieskrlqrtlmnczairkさん 2014/11/25 13:49:35
アリストテレスの「自然学」第4巻、第11章「時間とは何であるか」で次のように言っています。
「時間は運動に対して、その性格において準じるからであり、運動における・より先とより後・はその存在主体からいえば運動そのものに他ならないが、しかし、その定義のされ方は別であって、運動と同じものではない。そしてわれわれが時間を識別するのは運動を、より先とより後の区別によって区分するときに他ならない。つまり時間とは、より先とより後の区別に基づくに他ならないからである。したがって時間は運動そのものではなく、数をもつ限りおいての運動なのである」岩波旧全集③別訳170頁参照219b
言っていることは、運動は連続しているけど、時間はその運動を、より先とより後に分割して、それを数えることだ、ということです。
アリストテレスは時間は出来事の前後関係、因果関係だと言っていることになります。
出来事のより先とより後を認識するための、一種の「枠組み」を時間と考えていた、ということ。
質問した人からのコメント2014/11/30 22:20:40
感謝 分かりやすくお答え頂きありがとうございました!
『自然学[1]』(希: Φυσικῆς ἀκροάσεως (physikēs akroaseōs)、羅: Physica, Physicae Auscultationes、英: Physics)とは、古代ギリシアの哲学者アリストテレスによる自然哲学の研究書である。
アリストテレスは、「万学の祖」と呼ばれ、様々な領域の研究を行った傑出した哲学者であり、自然学的な研究も数多く残しており、現代の天文学、生物学、気象学 等々等々に相当する領域でも研究業績を残している。この『自然学』はそうした自然学研究群の基礎を構成し、なおかつアリストテレス哲学の中でも重要な位置を占めている[2]。
本書は全8巻で構成されており、第1巻から第2巻までは原理についての論述、第3巻では運動と無限なものについて、第4巻では場所、空間、時間について、第5巻から第8巻では運動と変化について考察されている。自然を研究する上でまず一般的な原理に基づきながら徐々に個別な対象を分析している。
全8巻から成る。
【第1巻】 kinesis(キネーシス、“運動”[3])やmetabole(メタボーレ、変化)が可能であるためにはどのような原理が必要なのか、という問いが立てられる。そしてアリストテレス以前の哲学者たちの説が検討され、eidos(エイドス、形相)、steresis(ステレーシス、欠如態、hylee(ヒュレー、質料)の3つの原理が運動や変化を説明するのに必要でありかつ十分である、と述べる。
【第2巻】 ここでアリストテレスは自然学の対象と方法を規定する。まず自然物を「運動や静止の原理をそれ自体のうちにもつもの」と定義する。次に「〜のphysis」(「 〜のフュシス(自然)」)という表現の意味を分析し、それは「〜のヒュレー(質料)」と「〜のエイドス(形相)」の2つの意味でありうるとし、エイドスのほうが優先されるべきだ、と述べる。そして、ヒュレーとエイドスからなるものとして自然物を研究するのが自然学だ、とする。
また原因という概念が分析される。原因の中でも基本的なものとして質料因、形相因、目的因、始動因の4つを挙げ(四原因説)、さらに、派生的なそれとして付帯原因、偶然などにも言及し、自然学というのは上記基本的原因のすべてを解明すべきだ、と述べる(なお、目的因を認めないような機械論的考え方には反対する)。
【第3巻、第4巻】 運動の概念と、それに関係する連続・無限・場所・空虚・時間等の概念について考察する。
【第5巻】kinesisに関する問題
【第6巻】連続性の問題(ゼノンのパラドックス など)
【第7巻】kinesisに関する問題
【第8巻】kinesisするものは何かによって動かされるという事実から、その何かを動かした何かを遡ってゆけば、不動の動者(全ての運動を引き起こした究極の原因で、それ自身は動かないもの)が存在する、と論証する。
_____
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card57408.html
ハイデガーは、アリストテレスがプラトンが南イタリアのピタゴラス派の影響の下に出発したと記している点を強調して、プラトン哲学はギリシャにとって異質なもの、異国風なものであると述べている。
ハイデガーがここで言いたいのは、いわゆるプレ・ソクラティカーたちのフィシス(自然)についての思索と、プラトンのイデア論から始まる「哲学」との間には決定的な断絶がある、ということである。
ハイデガーによれば、プレ・ソクラティカーたちのフィシスとは、単なる物質的自然、死んだ自然ではなく、むしろ生成する自然、そして存在の根源そのものである。これに対して、プラトンが数学的な世界観(ピタゴラス主義)によって持ち込んだイデアという不変なるものは、存在そのもの(Sein)ではなく、あるものが「何であるか」という意味でのもの(Was-Sein)でしかなかった。この「本質-存在」に対置されるのが、現実に存在している物事としての「事実-存在」(Dass-Sein)である。プラトンが「本質-存在」を重視したのに対して、アリストテレスは「事実-存在」としての個体に注目した。これによって「形而上学」が始まったのだ、とハイデガーは言っている。
しかし、ハイデガーは、プラトンはもとより、アリストテレスにも味方しない。なぜなら、「事実-存在」というものは、そもそも「本質-存在」と対になって現れたものであるにすぎないからである。むしろ、「本質-存在」と「事実-存在」という区別の根源にあるもの、その区別によって引き裂かれたもの、つまり「存在そのもの」としてのフィシスこそが重要なのだとハイデガーは考えるのである。その意味でハイデガーにとって、アリストテレスはプラトンよりもましだが、アリストテレスもプラトンとワン・セットなのであって、ここで形而上学が始まると同時に「存在そのもの」が隠蔽され、忘却されたのだとするのである。これがハイデガーの言う「存在忘却」の歴史の始まりである。
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→ プラトン
→ ハイデガー
範疇論 (アリストテレス) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%84%E7%96%87%E8%AB%96_(%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9)
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範疇論 (アリストテレス)
『範疇論』(はんちゅうろん、希: Κατηγορίαι、羅: Categoriae, 英: Categories)とは、アリストテレスの著作であり、『オルガノン』の中の一冊。『カテゴリー論』とも。
文字通り、様々な概念・言葉の「分類」について述べられている。
目次
題名 編集
本書の題名は、以下のように、古代の註釈家たちによって様々な名で呼ばれてきた[1]。「十のカテゴリー」といった呼称が散見されるのは、第4章にて10の分類が挙げられていることに因む。
『諸カテゴリーについて』
『十のカテゴリー』
『十のカテゴリーについて』
『十の類について』
『あるものの類について』
『諸カテゴリー、あるいは十の最も類的な類について』
『普遍的な言葉について』
構成 編集
15の章から成り、それらは内容上、
1章 - 後で用いられる「同名異義的」「同名同義的」「派生名的」が説明される
2-9章 - 本編
10-15章 - 「対立」「反対」「より先」「運動」「同時に」「持つ」といった詞が使われる色々な場合の区別
の3つに分けることができる[2]。
この内、「post-praedicamenta」と総称される3番目の10-15章は、アリストテレスの作でなく、後世の挿入(ただし、紀元前200年以前のわりと早い時期)ということが、定説となっている[3]。
内容 編集
第1章
同名異義的(ホモーニュモン、希: ὁμώνυμον (homonymon)) - 名称だけが共通で、本質的定義が異なるもの。(例:「動物」という名称で呼ばれる「人間」と「像」[4])
同名同義的(シュノーニュモン、希: συνώνυμον (synonymon)) - 名称も本質的義も同じもの。(例:「動物」という名称で呼ばれる「人間」と「牛」)
派生名的(パローニュモン、希: παρώνυμον (paronymon)) - 語尾変化によって生じたもの。(例:「文法学」(γραμματική)から「文法家」(γραμματικός)、「勇気」(ανδρεία)から「勇者」(ανδρείος))
第2章
表現方法には、
結合無し(単語)による表現 (例:「人間」「牛」「走る」「勝つ」)
結合(文)による表現 (例:「人間は走る」「人間は勝つ」)
の2種類がある。
概念の内、あるものは、
ある「基体[5]」(主語)についての述語になるが、いかなる「基体」(主語)の内にも無い。(例:「人間」は、「特定の人間」(基体)の述語となるが、どの「基体」の内にも無い)
ある「基体」(主語)についての述語にはならないが、「基体」(主語)の内にある。(例1:「特定の文法知識」は、「霊魂」(基体)の内にあるが、いかなる「基体」(主語)の述語にもならない、例2:「ある特定の白」は、「物体」(基体)の内にあるが、いかなる「基体」(主語)の述語にもならない)
ある「基体」(主語)についての述語になると共に、「基体」(主語)の内にある。(例:「知識」は、「霊魂」(基体)の内にあり、「文法的知識」(基体)の述語となる)
ある「基体」(主語)についての述語にならず、「基体」の内にも無い。(例:「特定の人間」「特定の馬」)
(なお、上記の話は要するに、
「ある「基体」の述語になるか否か」によって、「種・類」と「個」が、
「なんからの「基体」の内にあるか否か」によって、「実体」と「非実体」(性質・量)が、
それぞれ振り分けられ、その組み合わせで作られた4分類であり、分かりやすくまとめると、
「実体」のカテゴリーにおける「種・類」
「実体」以外のカテゴリーにおける「個」
「実体」以外のカテゴリーにおける「種・類」
「実体」のカテゴリーにおける「個」
ということになる[6]。)
第3章
「あるもの(A)が、基体(主語)としてのあるもの(B)についての述語となる関係にある」場合、その述語となるあるもの(A)について言われるものは、全て基体(B)に対してもあてはまる。(例:「特定の人間」(基体・主語、A)と「人間」(述語、B)の場合、「動物」は「人間」(述語、B)の述語となるので、「特定の人間」(基体・主語、A)の述語ともなる。)
「異なった「類」で、互いに他の下に配されない関係にある」場合、その「種差」も異なっている。(例:「動物」と「知識」の場合、「動物」の「種差」は、「陸棲的」「有翼的」「水棲的」「二足的」などによって表されるが、それらは「知識」の「種差」とはならない。)
第4章
単語表現が意味するものは、
「実体」(例:人間、馬)
「量」(例:2ペーキュス、3ペーキュス)
「質」(例:白い、文法的)
「関係」(例:二倍、半分、より大きい)
「場所」(例:リュケイオン、市場)
「時」(例:昨日、昨年)
「体位」(例:横たわっている、坐っている)
「所持」(例:靴を履いている、武装している)
「能動」(例:切る、焼く)
「受動」(例:切られる、焼かれる)
のいずれかである。
第5章
「実体」について。
「第一実体」 - (第2章の4) (例:「特定の人間」、「特定の馬」)
「第二実体」 - (第2章の1) (例:「人間」「馬」)
第6章
「量」について。
第7章
「関係」について。
第8章
「質」について。
第9章
「能動」「受動」について。
訳書 編集
『新版アリストテレス全集 1 』 中畑正志、早瀬篤訳 岩波書店 2013年
『アリストテレス全集 1 』 山本光雄、井上忠、加藤信朗訳 岩波書店 1971年
脚注・出典 編集
^ 『アリストテレス全集1』岩波書店 p152
^ 『アリストテレス全集』岩波書店 p153
^ 『アリストテレス全集』岩波書店 pp153-156
^ 「銅像」「偶像」「画像」の「像」。ギリシア語ではそれらも「ζῶον」(ゾーオン、動物)と呼ばれた。
^ 「ヒュポケイメノン」(ὑποκείμενον、hypokeimenon)。
^ 『アリストテレス全集1』岩波書店 p61
関連項目 編集
オルガノン
カテゴリー
初期ハイデガーのピュシス論の射程(森秀樹)ⓒ Heidegger-Forum vol.2 2008
http://heideggerforum.main.jp/ej2data/shoki.pdf
。そもそも、「アリストテレス解釈」を超越論哲学として解釈することは、若きハイデガーの思想形成におけるアリストテレスの位置づけからしても、是認できない。それというのも、ハイデガーは、カント、リッカート、フッサールらの超越論哲学から強い影響を受けつつも、アリストテレス的傾向に依拠して、それを批判するというスタンスにおいて思想形成を行ってきたからである。まず、ハイデガーが存在の問いへと向かう契機となったとされるブレンターノの『アリストテレスによる存在者の多様な意義について』はアリストテレスのカテゴリー論をカテゴリーの生成論として解釈するものであった。そして、ハイデガーが一番最初に公表した哲学論文「現代哲学における実在生の問題」は、アリストテレス的実在論に依拠しつつ、当時のカント主義を批判したキュルペの批判的実在論を評価するものであった。また、ハイデガーの教授資格論文『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』はラスクの思想の影響下にあるが、ラスクこそ、リッカート的観念論に対して、アリストテレスに依拠しつつ、素材の意義を唱えた人物であった。このように、様々な経路を経由してではあるが、ハイデガーの思想形成において、アリストテレスは、カントの超越論哲学の可能性の条件を規定する役割を果たしてきたことがわかる。だとすれば、「ア
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目次
現代哲学における実在性の問題
論理学に関する最近の諸研究
書評
序文―『初期論文集』(一九七二年)初版のための
心理学主義の判断論―論理学への批判的・積極的寄与
ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論
自薦の言葉
歴史科学における時間概念
http://gen-kou.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-a413.html
ブレンターノの学位論文「アリストテレスに於ける存在者の諸意味」、目次
フランツ・ブレンタノ著『アリストテレスの存在論』、岩崎勉訳、理想社、1933年、初版。
第一章 存在者と云ふことは同名異義語である。その多様なる意味は、偶然的存在者と、真としての存在者と、諸範疇の存在者と、可能的並びに現実的存在者と、の四つの区別の下に従属する。
第二章 偶然的存在者に就いて。
第三章 真としての存在者に就いて。
一 真と誤とに就いて。
二 真としての存在者と誤としての非存在者とに就いて。
第四章 可能的並びに現実的存在者に就いて。
一 この存在者の意味の規定。
二 可能態及び現実態の両状態の結合。
第五章 範疇の諸形式に従つての存在者に就いて。
一 緒論的叙述。範疇はアリストテレスに依つて一定数のものが挙げられてゐる。アリストテレスの範疇に就いての近代解説者達の種々なる解釈。
二 範疇は実在的概念である。
三 範疇は存在者の種々な類推的なる諸意味である。その類推の詳細なる規定。
四 範疇は存在者の最高の諸類である。
五 範疇は第一実体の最高の諸賓辞である。
六 範疇分類の原理。
七 範疇の数と相違とは叙述の様式の数と相異とに対応する。
八 範疇分類と、定義、特有性、類、偶有性への賓辞の分類との原理的なる相異。斯かる分類の原理と演繹。
九 範疇は概念的に異なるものでなければならぬ。
一〇 範疇の相異は必ずしも実在的なる相異ではない。
一一 何故実在的なる自体的存在者のいづれもが必ずしも直接に一つの範疇に属するものでないか。
一二 範疇分類の演繹の可能。
一三 範疇分類の演繹。アリストテレスの著述の中に見られる斯かる演繹の痕跡。
一四 この推理式に依る確信は古来近代に於いて数多のアリストテレス解説者に依つて同じ様にして展開せられた。——アンモニウスとダビッド。——(似而非–)アウグスチヌスとイシオドルス・ヒスパレンシス。——トーマス・アクィナス。——プラントゥル。——トレンデレンブルク。——ツェラー。
一五 アリストテレスの範疇と、名詞、形容詞、動詞、副詞の文法的区別との間の一致。
一六 アリストテレスの範疇分類に対する諸方面よりの非難への回答。(一)原理の欠如に関して。(二)原理の外面的なることに関して。(三)何故範疇の根元を事物の四原因のうちに求むべきでないか。(四)分類の継続の欠如に関して。(五)一範疇のうちに於ける同義性の欠如に関して。(六—七)a—f、下属する諸事物に於ける混乱に関して。即ち性質と分量、能動と受動、何処と分量等、分量と関係、能動と受動と関係、その類が関係に属すべき諸性質。(八)同等的権利づけの欠如に関して。(九)a、過剰なる枚挙及び下属的なるものの同格視に関して。b、完全性の欠陥に関して。結合。——形而上学の最も本来の対象は実体である。
(ギリシャ語表記は省略した。漢字表記は新字体で表記した)
http://www.marx2016.com/daiititetugaku.html
《それ自体においてある[または存在する]と言われるのは、まず述語[カテゴリー]の諸形態によってそう言われるものどもである。なぜなら、ものが云々である[または存在する]というのにも、それらがいろいろ異なる形態で述語されるだけそれだけ異なる多くの意味があるからである。けだし、述語となるものども[述語諸形態]のうち、その或るもの(1)はその述語のなにであるか[実体・本質]を、或るもの(2)はそれのどのようにあるか[性質]を、或るもの(3)はそれのどれだけあるか[量]を、或るもの(4)はそれが他のなにものかに対してどうあるか[関係]を、或るもの(5)はそれのすること[能動]または(6)されること[受動]を、或るもの(7)はそれのどこにあるか[場所]を、或るもの(8)はそれのいつあるか[時]を指し示すものであるが、あると言われるものにもこれらと同じだけ多くの意味があるからである。》
アリストテレス形而上学5:7岩波文庫上174頁
存在と時間 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93
『存在と時間』(そんざいとじかん、"Sein und Zeit"、1927年)は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの主著。「ものが存在するとはどういうことか」というアリストテレス『形而上学』以来の問題に挑んだ著作であるが、実際に出版された部分は序論に記された執筆計画全体の約3分の1にすぎない。『存在と時間』は実存主義や構造主義、ポスト構造主義などに影響を与えた。…
序論第2章8節「論証の構図」で明らかにされる『存在と時間』の全体的構成の概要はおおむね以下の通りである。
第1部 現存在の解釈と時間の解明
第1編 現存在の基礎分析
第2編 現存在と時間性
第3編 時間と存在
第2部 存在論の歴史の現象学的解体
第1編 カントの時間論について
第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について
第3編 アリストテレスの時間論について
このうち、実際に書かれたのは第1部第2編までにすぎず、そこで論じられているのは現存在と時間性についてである。序論以降ハイデッガーが何度も言明している「存在一般についての問い」に関する考察が書かれるべき〈本論〉は第1部第3編「時間と存在」という、書名自体にも似た標題をもつ章であると考えられるが、そこでハイデッガーが何を書くつもりであったのか、なぜそこへ至る前に中断されてしまったのかは長いあいだ謎とされてきた。
ナトルプ報告
ハイデッガー自身の証言などから、1923年には『存在と時間』の草稿が書かれていたことが知られていたが、その所在は長らく不明だった。同年にハイデッガーはフライブルク大学の非常勤講師からマールブルク大学への異動が決まっており、そのさいに現在執筆中の著書の概要をまとめたものを審査論文として提示するよう要求され、『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』と題した論考をパウル・ナトルプへ提出していた(通称「ナトルプ報告」)。この論考が『存在と時間』の初期草稿に当たるのではないかと推測する向きと、「アリストテレスの現象学的解釈」と『存在と時間』がいかなる関係をもつのか疑問視する向きとがあったが、この「ナトルプ報告」も行方不明となっていたため結論は出なかった。しかし1989年、マールブルク大学と同時期にやはりハイデッガーを招聘しようとしていたゲッティンゲン大学のゲオルク・ミッシュに提出した同内容の論考が発見され、その内容から「ナトルプ報告」が『存在と時間』の初期草稿であるとする推測の正しかったことが証明された。そこで明らかにされている本論はアリストテレスの読解を通した古代ギリシアから中世を経て近代に至る存在論、ひいては西洋哲学全体の読み直しであり、問題の第1部第3編「時間と存在」はこの歴史的考察の基盤となるものであること、また序論はその準備段階にすぎないものであること、したがって実際に刊行された『存在と時間』は長大に膨れ上がった序論が本論へたどりつく前に中断されたものであることなどが明らかになった[1]。
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