木曜日, 9月 10, 2015

『ニーチェと哲学』ドゥルーズ+『道徳の系譜』ニーチェ

 (リンク::::::::::ドゥルーズ(DR)、ノートシネマ1シネマ2アンチ・オイディプス千のプラトー
ドゥルーズ体系:メモ
 http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_72.html
ドゥルーズA.O補遺、キートン、ティンゲリ、ライヒ他
 http://nam-students.blogspot.jp/2015/08/ao.html
ニーチェ、ドゥルーズ(『ニーチェと哲学』)
 http://nam-students.blogspot.jp/2015/09/httpnam-students.html(本頁)
NAMs出版プロジェクト: ニーチェ:インデックス
 http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_1686.html
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』:図解&目次 
 http://nam-students.blogspot.jp/2012/09/blog-post_3786.html
 
ドゥルーズ体系:     分子化
      スピノザ 【 分 析 】 プラトンカント
     Hegel\   |   /Heidegger
           千のプラトー
        ライプニッツ| ベルクソン
             \|/
 【規定】差異と反復ーーシネマ①ーー意味の論理学【反省】
             /|\     [修辞学?]
        フーコー/ | (ヒューム
       (Marxアンチ Freud
          /・オイディプス
      サルトル 【 総 合 】 ニーチェNietzsche


Title: ZUR GENEALOGIE DER MORAL
 1887 
Author: Friedrich Nietzsche
ニーチェ
道徳の系譜学 光文社文庫
目  次
  序 
第一論文 「善と悪」と「良いと悪い」 
第二論文 「罪」「疚しい良心」およびこれに関連したその他の問題 
第三論文 禁欲の理想の意味するもの
 解 説   中山 元 
 年 譜

2:3
「おそらく、人間の前史時代を通じて、この記憶術よりも恐ろしく無気味なものは何もないとさえいってもいい……。人間が自分のために記憶をつくることが必要だと感じたとき、いまだかつて血の殉教や血の犠牲の拷問なしにすんだためしはなかったのだ。最も戦慄すべき生贄と最も醜悪な抵当、最も忌わしい切断。あらゆる宗教的礼拝の中で最も残酷な儀式が行われたのだ……。思想家たる民族を育てあげるには、地上でどれほどの苦難が払われたかは、もはや明らかであろう(5)。」人間の歴史を説明しようとして、何らかの暴力、または自然的な暴力が根拠とされることがあるが、〈残酷〉は、こうした暴力とは無関係である。〈残酷〉とは、文化の運動であって…
*5(ドゥルーズAO3:1より孫引き)


2:4
《負い目とか個人的責務という感情は、われわれの見たところによれば、その起源を存在するかぎりの最も古い最も原始的な個人関係のうちに、すなわち、買手と売手、債権者と債務者の間の関係のうちにもっている》(『道徳の系譜』、木場深定訳)。さらにニーチェは、「正義」もまた経済的な価値の概念に由来するという。
2:8
《人々はまもなく「事物はそれぞれその価値を有する、一切はその代価を支払われうる」というあの大きな概括にり着いた。これが正義の最も古くかつ最も素朴な道徳的規準であり、地上におけるあらゆる「好意」、あらゆる「公正」、あらゆる「善意」、あらゆる「客観性」の発端である》(同前)。
2:21
《これまでに到達せられた最大の神としてのキリスト教の神の出現は、それゆえにまた、最大限の責務感情を地上に持ち来した》(『道徳の系譜』)。
(柄谷行人『世界共和国へ』より孫引き)

ニーチェ負債説への着目はドゥルーズが先。柄谷行人もここから影響を受けているはず。

グレーバーは批判的に言及しているが。
115#4ニーチェ
^
654ドゥルーズ

AO#7

《 現代人類学の偉大なる著書は、モースの『贈与論』であるよりは、むしろニーチェの『道徳の系譜』である。少なくとも、そうでなくてはならないだろう。というのも『道徳の系譜』の第二論文は、「英国式の」交換や利益の考察をすべて消し去って、原始経済を〈債権者-債務者〉の関係における負債の用語で解釈しようとする試みの成功として、他にないものであるからだ。交換や利益を心理学から消し去るのは、それらを構造の中に位置づけるためではない。ニーチェは、古代ゲルマン人の法や僅かなヒンドゥの法といった乏しい材料しかもっていない。しかし彼は、モースのように、交換と負債との間で迷いはしない(バタイユもまた、彼を導くニーチェの刺戟によって、迷いはしないであろう)。登記、コード、刻印といった原始社会体の基本的問題を、これほど鋭い仕方で提起したひとは、これまでに存在しない。人間は、強度的な胚種的流体を、つまり生物的-宇宙的な大いなる記憶を抑圧することによって、自分を人間として形成しなければならない。

この問いに対する答えは簡単である。それは負債によってである。

法の馬鹿らしさと恣意性、通過儀礼の苦痛のすべて、抑圧や教育のまったく倒錯的な装置、赤熱の烙印、残虐な仕打ち、こうしたものは、人間を調教し、生身の肉の中に刻印し、人間に縁組を可能ならしめ、債権者-債務者の関係の中で人間を形成するという意味しかもってはいない。債権者-債務者の関係は、債権債務のいずれの側においても、記憶に属する事柄である(未来にまで引きのばされる記憶である)。負債は、交換が装う見かけであるどころではなく、大地的そして身体的登記からじかに生ずる効果であり、この登記が用いる直接の手段である。負債は、まったく直接的に登記から生ずるのである。》

ドゥルーズ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』  
http://nam-students.blogspot.jp/2012/12/blog-post_5039.html


負債論 貨幣と暴力の5000年 デヴィッド・グレーバー 著




ニーチェ

道徳#2-11


ただしついでに指摘しておきたいのは、この新たなニュアンスのもとで語られる学問的な公正さとやらは(これは憎悪、嫉妬、猜疑、邪推、怨恨、復讐に好意的なものである)、ルサンチマンの精神そのものから生まれてきたものだということだ。それというのも、生物学的にみると反動的な情動よりも価値が高く、そのために学問的に評価され、尊重されるべきだと思われる別の種類の情動が問題になるときには、こうした「学問的な公正さ」というのはすぐに姿を消してしまって、激しい敵意と先入見に座を譲り、こうしたものが強調されるようになるからである。この別の種類の情動とは、支配欲や所有欲など、真に能動的な情動のことである(E・デューリングの『生の価値』と『哲学教程』、そして彼のすべての著作を参照されたい)(31)。



31)カール・オイゲン・デューリング(一八三三~一九二一)はニーチェと同時代のドイツの哲学者。ニーチェは一八七五年頃に、ショーペンハウアーを批判する手がかりとして、デューリングの『生の価値』(一八六五年)と『哲学教程』(一八七五年)を集中的に読んでいる。社会主義者としても有名で、フリードリヒ・エンゲルスは『反デューリング論』を執筆して批判した。 (本文に戻る)



15

スピノザにとっては世界は、疚しい良心といったものが発明される以前のあの無垢な状態にもどっていたのである。それでは良心の呵責はいったいどうなるのだろうか? ついにスピノザは独語した。良心の呵責とは、「歓喜の反対であり、期待に反する結果となった過去の思い出に伴う悲哀である」(『エティカ』第三部、定理一八、備考一、二)。刑罰をうけた悪人たちが、自分の「犯行」について感じていたことは、スピノザのこの着想とまったく同じことだったのである。「わたしはそれを成すべきではなかった」と考えるのではなく、「思いがけずも、まずいことになってしまった」と考えるのである──。彼らが刑罰に服する姿勢は、病気や不幸な出来事や死に服する姿勢とまったく同じである。そこには抵抗することを諦めた勇敢な宿命観がみられるのであり、たとえば現代のロシア人はこの宿命観のおかげで人生に対処するために、西洋の人々よりも有利な立場に立っているのである。


光文社




///////

        ニーチェ『道徳の系譜』への言及は『ニーチェと哲学』3:7

        否定的ニヒリズム(ユダヤ、キリスト教)
             ↓
        反動的ニヒリズム(ヨーロッパ)
             ↓
        受動的ニヒリズム(仏教)
        (『ニーチェと哲学』5:3、ニーチェ『権力への意思』23より)
        キリスト個人は仏教に位置付けられる(『アンチクライスト』参照)。

『ニーチェの哲学』1962「とは何か?」→「誰?」(邦訳単行本116,280頁)
  ↓
『差異と反復』1968、ドラマ化
  ↓
『A.O』1972、機械

《…ニーチェとカントとの関係は、マルクスとヘーゲルとの関係と同じである。》
(『ニーチェと哲学』3.7:133頁)


ジル・ドゥルーズ 『ニーチェと哲学』 (足立和浩 訳)
http://leonocusto.blog66.fc2.com/blog-entry-2236.html
「無責任、この最も高貴にして最も美わしきニーチェの秘密。」
(ジル・ドゥルーズ 『ニーチェと哲学』 より)23頁?未確認
    
 «Irresponsable, le secret de cette plus noble à la plus belle de style japonais Nietzsche." (Gilles Deleuze que "Nietzsche et la philosophie»)p.25?    

簡易目次:            (言及された主な哲学者)
第一章 悲劇的なもの       (ショーペンハウアー)
第二章 能動と反動        (スピノザ)
第三章 批判           (カント)
第四章 怨恨からやましい良心へ  (フロイト)
第五章 超人。弁証法との対立   (ヘーゲル)
Nietzsche et la Philosophie 
    I -- Le tragique
   II -- Actif et réactif 
  III -- La critique
 IV -- Du ressentiment à la mauvaise conscience
  V -- Le surhomme, contre la dialectique

Table des matières 

Chapitre premier – Le tragique 
1.Le concept de généalogie
2.Le sens
3.Philosophie de la volonté
4.Contre la dialectique
5.Le problème de la tragédie
6.L’évolution de Nietzsche
7.Dionysos et le Christ
8.L’essence du tragique
9.Le problème de l’existence
10.Existence et innocence
11.Le coup de dés
12.Conséquences pour l’éternel retour
13.Symbolisme de Nietzsche
14.Nietzsche et Mallarmé
15.La pensée tragique 
16.La pierre de touche 

Chapitre II – Actif et réactif 
1.Le corps
2.La distinction des forces
3.Quantité et qualité
4.Nietzsche et la science
5.Premier aspect de l’éternel retour : comme doctrine cosmologique et physique
6.Qu’est-ce que la volonté de puissance ?
7.La terminologie de Nietzsche
8.Origine et image renversée
9.Problème de la mesure des forces
10.La hiérarchie
11.Volonté de puissance et sentiment de puissance
12.Le devenir-réactif des forces
13.Ambivalence du sens et des valeurs
14.Deuxième aspect de l’éternel retour : comme pensée éthique et sélective
15.Le problème de l’Éternel Retour 

Chapitre III – La critique 
1.Transformation des sciences de l’homme 
2.La formule de la question chez Nietzsche
3.La méthode de Nietzsche
4.Contre ses prédécesseurs
5.Contre le pessimisme et contre Schopenhauer
6.Principes pour la philosophie de la volonté
7.Plan de « La généalogie de la morale »
8.Nietzsche et Kant du point de vue des principes
9.Réalisation de la critique
10.Nietzsche et Kant du point de vue des conséquences
11.Le concept de vérité
12.Connaissance, morale et religion
13.La pensée et la vie
14.L’art
15.Nouvelle image de la pensée 

Chapitre IV – Du ressentiment à la mauvaise conscience 
1.Réaction et ressentiment
2.Principe du ressentiment
3.Typologie du ressentiment
4.Caractères du ressentiment
5.Est-il bon ? Est-il méchant ?
6.Le paralogisme
7.Développement du ressentiment : le prêtre judaïque
8.Mauvaise conscience et intériorité
9.Le problème de la douleur
10.Développement de la mauvaise conscience : le prêtre chrétien
11.La culture envisagée du point de vue préhistorique
12.La culture envisagée du point de vue post-historique
13.La culture envisagée du point de vue historique
14.Mauvaise conscience, responsabilité, culpabilité
15.L’idéal ascétique et l’essence de la religion
16.Triomphe des forces réactives 

Chapitre V – Le surhomme : contre la dialectique 
1.Le nihilisme
2.Analyse de la pitié
3.Dieu est mort
4.Contre le hégélianisme
5.Les avatars de la dialectique
6.Nietzsche et la dialectique
7.Théorie de l’homme supérieur
8.L’homme est-il essentiellement « réactif » ?
9.Nihilisme et transmutation : le point focal
10.L’affirmation et la négation
11.Le sens de l’affirmation
12.La double affirmation : Ariane
13 Dionysos et Zarathoustra

Conclusion


ジル・ドゥルーズ 
『ニーチェと哲学』 (新装版)
足立和浩 訳

国文社 昭和57年7月20日新装版第1刷発行
/昭和62年2月10日新装版第4刷発行
358p 
A5判 丸背クロス装上製本 カバー 
定価3,500円


本書「訳者あとがき」より:

「本書は Gilles Deleuze, Nietzsche et la philosophie, P.U.F., 1962. の全訳である。」
目次:

第一章 悲劇的なもの
 1 系譜の概念
  価値と価値評価
  批判と創造
  系譜という語の意味
 2 意味
  意味と力
  多元論
  解釈と意味
  「高次の段階だけが重要である」
 3 意志の哲学
  力と力との関係:意志
  根源〔起源〕と位階序列
 4 弁証法との対立
  差異と矛盾
  弁証法にたいする奴隷の影響
 5 悲劇の問題
  悲劇的なものについての弁証法的な考え方と『悲劇の誕生』
  悲劇の誕生についての三つのテーマ
 6 ニーチェの発展
  悲劇の誕生における新たな境位
  肯定
  ソクラテス
  キリスト教
 7 ディオニュソスとキリスト教
  生の容認あるいは生への敵対
  弁証法的思惟のキリスト教的性格
  弁証法的思惟とディオニュソス的思惟との対立
 8 悲劇的なものの本質
  悲劇的なものと歓び
  劇から英雄へ
  生存の意味と正義
 9 存在〔生存〕の問題
  罪ある生存とギリシャ人たち
  アナクシマンドロス
  負い目ある生存とキリスト教
  無責任の価値
 10 存在と無垢
  無垢と多元論
  ヘラクレイトス
  生成と生成の存在、多と多の一
  永遠回帰あるいは歓び
 11 骰子(さいころ)ふり
  二つの時間
  偶然と必然:二重の肯定
  骰子(さいころ)ふりと機会(チャンス)の計算との対立
 12 永遠回帰のための諸帰結
  偶然の料理
  混沌(カオス)と循環的運動
 13 ニーチェの象徴法
  大地、火、星
  アフォリズムと詩の重要性
 14 ニーチェとマラルメ
  類似
  対立:偶然の廃滅か、肯定か?
 15 悲劇の思想
  ニヒリズムの対抗手段としての悲劇的なもの
  肯定、歓び、創造
 16 試金石
  ニーチェと他の悲劇的哲学者たちとの差異
  パスカルの賭け
  ニヒリズムと怨恨の問題の重要性

第二章 能動と反動
 1 身体
  身体は何をなし得るか
  意識にたいする身体の優越性
  身体の能動的、反動的、構成的な力
 2 力の区別
  反動
  有機体についての反動的な考え方
  可塑的で能動的な力
 3 量と質
  力の量と質
  質と量的差異
 4 ニーチェと科学
  量についてのニーチェの考え方
  永遠回帰と科学
  永遠回帰と差異
 5 永遠回帰の第一の側面。宇宙論的、物理学的教説としての永遠回帰
  最終状態についての批判
  生成
  生成と永遠回帰との総合
 6 力(への)意志とは何か
  力の差異的な(系譜学的な)境位としての力(への)意志
  力(への)意志と力
  永遠回帰と総合
  カントにたいするニーチェの位置
 7 ニーチェの用語法
  能動と反動、肯定と否定
 8 根源と転倒した像
  反動と否定との結合
  ここからいかにして差異の転倒した像が生まれるか
  能動的な力はいかにして反動的になるか
 9 力の測定の問題
  「弱者にたいしてはつねに強者が擁護されねばならない」
  ソクラテスの誤謬
 10 位階序列
  自由思想家と自由精神
  位階序列
  能動と反動という語のさまざまな意味
 11 力(への)意志と〈力〉の感情
  力(への)意志と感性(パトス)
  力の生成
 12 力の反動化〔反動的生成〕
  反動的生成〔反動化〕
  人間への嫌悪
  孤立させる思惟としての永遠回帰
 13 意味と価値の相反的両立性(アンビヴァランス)
  反動の相反的両立性
  反動的諸力の多様性
  反動と否定
 14 永遠回帰の第二の側面。倫理的、選択的な思想としての永遠回帰
  選択的思想としての永遠回帰
  第一の選択:中途半端な意志の排除
  第二の選択:ニヒリズムの完成、否定の変質
  反動的な力は回帰しない
 15 永遠回帰の問題
  反動的生成〔反動化〕
  全体と瞬間

第三章 批判
 1 人間諸科学の変容
  科学の反動的モデル
  能動的な〔科〕学に向けて。言語学
  医者、芸術家、立法者としての哲学者
 2 ニーチェにおける問いの立て方
  「とは何か」という問いと形而上学
  「誰?」という問いとソフィストたち
  ディオニュソスと「誰?」という問い
 3 ニーチェの方法
  「誰?」=「彼は何を意志しているか?」
  劇的構成の方法:差異的、類型学的、系譜学的な方法
 4 先人たちとの対立
  意志の哲学における三つの誤謬
  〈力〉を表象の対象にすること
  〈力〉を既成の価値に依存させること
  〈力〉を闘争や闘いの目的にすること
 5 ペシミズムとショーペンハウアーへの対立
  いかにして哲学はその誤謬によって意志を制限ないしは否定さえせねばならなくなるか
  ショーペンハウアー、このような伝統の帰着点
 6 意志の哲学のための諸原理
  意志、創造、歓び
  〈力〉は意志が意志するものではなく、意志の中で意志する主体である
  贈り与える徳
  差異的、批判的な境位
 7 『道徳の系譜』の見取図
  真の批判を行うこと
  『道徳の系譜』における三つの論文:誤謬推理、アンチノミー、理想
 8 原理の観点からみたニーチェとカント
  カント的批判の不十分性
  いかなる意味においてカント的批判は全く「批判」ではないのか
 9 批判の実現
  批判と力(への)意志
  超越論的原理と系譜学的原理
  立法者としての哲学者
  「カントの成功は神学者の成功であるにすぎない」
 10 諸帰結の観点からみたニーチェとカント
  非合理主義と批判の審級
 11 真理の概念
  劇的構成の方法の実施
  思弁的対立、道徳的対立、禁欲主義の矛盾
  生より優れた価値
 12 認識、道徳、宗教
  二つの運動
  「最も恐るべき推論」
 13 思惟と生
  認識と生との対立
  生と思惟との親縁性
  生の新たな可能性
 14 芸術
  意志の刺戟剤としての芸術
  虚偽の高次の力としての芸術
 15 思惟の新たなイメージ
  真理の教説における諸要請
  思惟の境位としての意味と価値
  低俗さ
  哲学の役割:彗星としての哲学者
  反時代的なもの
  方法と文化との対立
  文化はギリシャ的か、ドイツ的か
  思惟と三つのエピソード

第四章 怨恨からやましい良心へ
 1 反動と怨恨
  反撃としての反動
  活動する不能性としての怨恨
 2 怨恨の原理
  フロイトにおける局所的仮説
  ニーチェによる刺戟と痕跡
  いかにして反動は活動的であることをやめるか
  すべては反動的諸力相互のあいだで行われる
 3 怨恨の類型学
  怨恨の二つの側面:位相学的側面と類型学的側面
  復讐心
  痕跡の記憶
 4 怨恨の諸特徴
  賞讃することの不能性
  受動性
  非難
 5 よい(善)か、わるい(悪)か
  私はよい、ゆえにおまえはわるい
  おまえはわるい、ゆえに私はよい
  奴隷の観点
 6 誤謬推理
  子羊の三段論法
  怨恨における虚構のメカニズム
 7 怨恨の発展。ユダヤ教の僧侶
  位相学的側面から類型学的側面へ
  僧侶の役割
  ユダヤ教的形態における僧侶
 8 やましい良心と内面性
  自己への方向転換
  内面化
 9 苦痛の問題
  やましい良心の二つの側面
  苦痛の外的意味と内的意味
 10 やましい良心の発展。キリスト教の僧侶
  キリスト教的形態における僧侶
  罪
  キリスト教とユダヤ教
  やましい良心における虚構のメカニズム
 11 先史的観点から考察された文化
  訓育と選択としての文化
  人間の類的活動性
  約束(パロール)〔言葉〕の記憶
  負債と罰の方程式
 12 後史的観点から考察された文化
  文化の産物
  主権者的個人
 13 歴史的観点から考察された文化
  文化の方向転換
  火の犬
  いかにしてやましい良心という虚構は必然的に文化に接木されるのか
 14 やましい良心、責任、有罪性
  責任の二つの形態
  反動的諸力の連合
 15 禁欲主義の理想と宗教の本質
  多元論と宗教
  宗教の本質あるいは親縁性
  反動的な力と無への意志との同盟:ニヒリズムと反動
 16 反動的な力の勝利
  総括的一覧表
 
第五章 超人。弁証法との対立
 1 ニヒリズム 
  nihil とは何を意味するか
 2 同情の分析
  三つのニヒリズム:否定的ニヒリズム、反動的ニヒリズム、受動的ニヒリズム
  神は同情によって死んだ
  おしまいの人間たち
 3 神は死んだ
  劇的な命題
  「神は死んだ」ということの意味の多様性
  ユダヤ教的意識、キリスト教的意識(聖パウロ)、ヨーロッパ的意識、仏教的意識
  キリストと仏陀
 4 ヘーゲル主義との対立
  弁証法における普遍と特殊
  諸対立の抽象的性格
  弁証法に向けられた「誰?」という問い
  弁証法における虚構、ニヒリズム、反動
 5 弁証法の転変
  弁証法の歴史におけるシュティルナーの重要性
  再所有化の問題
  自我の理論としての弁証法
 6 ニーチェと弁証法
  超人と価値転換の意義
 7 ましな人間についての理論
  ましな人間の多様な諸人格
  ましな人間の相反的両立性(アンビヴァランス)
 8 人間は本質的に「反動的」か
  人間は反動的生成〔反動化〕である
  「あなたがたは失敗の作品である」
  能力と肯定
  ましな人間に関するニーチェの象徴法
  二匹の火の犬
 9 ニーチェと価値転換。焦点
  自己克服を果した、完成したニヒリズム
  力(への)意志:認識根拠と存在根拠
  没落を欲する人間、あるいは能動的否定
  否定の方向転換、転換の地点
 10 肯定と否定
  ロバの然り
  ツァラトゥストラの猿、悪魔
  積極的なものの否定性
 11 肯定の意味
  ロバとニヒリズム
  いわゆる現実の積極性〔肯定性〕との対立
  「現代の人間たち」
  肯定するとは荷を負うことでも、引受けることでもない
  存在の理論との対立
 12 二重の肯定。アリアドネ
  肯定の肯定(二重の肯定)
  アリアドネの秘儀、迷宮
  肯定された肯定(二次的な力)
  差異、肯定、永遠回帰
  ディオニュソスの意味
 13 ディオニュソスとツァラトゥストラ
  選択としての存在
  ツァラトゥストラと価値転換:獅子
  価値転換から永遠回帰へ、またその逆
  笑い、歓び、舞踏

結論

原註
訳註

ドゥルーズのニーチェ論 (足立和浩、初出は「現代思想」1974年6月号)
訳者あとがき (足立和浩、1974年6月2日)

Table des matières
Chapitre premier – Le tragiqueLe concept de généalogie - Le sens - Philosophie de la volonté - Contre la dialectique - Le problème de la tragédie - L’évolution de Nietzsche - Dionysos et le Christ - L’essence du tragique - Le problème de l’existence - Existence et innocence - Le coup de dés - Conséquences pour l’éternel retour - Symbolisme de Nietzsche - Nietzsche et Mallarmé - La pensée tragique - La pierre de touche
Chapitre II – Actif et réactifLe corps - La distinction des forces - Quantité et qualité - Nietzsche et la science - Premier aspect de l’éternel retour : comme doctrine cosmologique et physique - Qu’est-ce que la volonté de puissance ? - La terminologie de Nietzsche - Origine et image renversée - Problème de la mesure des forces - La hiérarchie - Volonté de puissance et sentiment de puissance - Le devenir-réactif des forces - Ambivalence du sens et des valeurs - Deuxième aspect de l’éternel retour : comme pensée éthique et sélective - Le problème de l’Éternel Retour
Chapitre III – La critiqueTransformation des sciences de l’homme - La formule de la question chez Nietzsche - La méthode de Nietzsche - Contre ses prédécesseurs - Contre le pessimisme et contre Schopenhauer - Principes pour la philosophie de la volonté - Plan de « La généalogie de la morale » - Nietzsche et Kant du point de vue des principes - Réalisation de la critique - Nietzsche et Kant du point de vue des conséquences - Le concept de vérité - Connaissance, morale et religion - La pensée et la vie - L’art - Nouvelle image de la pensée
Chapitre IV – Du ressentiment à la mauvaise conscienceRéaction et ressentiment - Principe du ressentiment - Typologie du ressentiment - Caractères du ressentiment - Est-il bon ? Est-il méchant ? - Le paralogisme - Développement du ressentiment : le prêtre judaïque - Mauvaise conscience et intériorité - Le problème de la douleur - Développement de la mauvaise conscience : le prêtre chrétien - La culture envisagée du point de vue préhistorique - La culture envisagée du point de vue post-historique - La culture envisagée du point de vue historique - Mauvaise conscience, responsabilité, culpabilité - L’idéal ascétique et l’essence de la religion - Triomphe des forces réactives
Chapitre V – Le surhomme : contre la dialectiqueLe nihilisme - Analyse de la pitié - Dieu est mort - Contre le hégélianisme - Les avatars de la dialectique - Nietzsche et la dialectique - Théorie de l’homme supérieur - L’homme est-il essentiellement « réactif » ? - Nihilisme et transmutation : le point focal - L’affirmation et la négation - Le sens de l’affirmation - La double affirmation : Ariane - Dionysos et Zarathoustra - - Conclusion

◆本書より◆


「周知のように、ニーチェの闘いは二重である。批判の作業から価値問題を分離し、実在の諸価値の一覧表を作製して既成の諸価値の名において種々の事柄を批判することに満足している人々、すなわちカントやショーペンハウアーなどのような「哲学の労働者たち」にたいする闘い。しかしまた同時に、諸価値をたんなる諸事実、いわゆる客観的諸事実から引き出すことによって諸価値を批判したり尊重したりする人々、すなわち功利主義者や「科学者たち」にたいする闘い。」
「ニーチェは系譜〔学〕という新しい概念を形成する。哲学者とは系譜学者であって、カント流の裁判官でも、功利主義者流の機械組立工でもない。(中略)ニーチェは、カントの普遍性の原理や功利主義者たちの類似性の原理の代りに、差異や距離(差異的な境位)の感情をもってくる。」
「系譜とは、諸価値の差異的な境位を意味しており、諸価値の価値そのものの発生源である。それゆえ、系譜とは起源あるいは誕生のことであるが、また起源における差異や距離のことでもある。」
「ニーチェは批判の能動性を、復讐や遺恨や怨恨と対比させる。(中略)批判は怨恨〔反作用的感情〕(re-sentiment)という反作用〔反動〕的行為(ré-action)ではなく、能動的実存様式の能動的表現である。つまり、攻撃であって復讐ではなく、存在様式からくる自然的攻撃性であり、神性な悪意――これなくしては完成というものを考えることはできないだろう――である。このような存在様式は哲学者のものである。なぜなら、哲学者は差異的な境位を批判的かつ創造的なものとして、それゆえ一つのハンマーとして、操作することをまさしく提案するからである。(中略)このような系譜という考えによって、ニーチェは多くのものを待ち受けている。すなわち、諸科学の新たな編成、哲学の新たな組織化、未来の諸価値の確定、を。」

「ニーチェ哲学の本質的多元論を考慮に入れないかぎり、ニーチェの哲学は理解されない。そして本当のことを言えば、多元論(別な風に言えば経験論)は哲学そのものと一つでしかない。多元論とは哲学が生みだした本来的に哲学的な思惟方法である。つまり、具体的精神における自由のただひとつの保証であり、暴力的な無神論の唯一の原理である。神々は死んだ。しかし神々は、一人の神がわれこそ唯一の神なりと言うのを聞いて、抱腹絶倒したのである。「神々は存在する。しかし唯一の神など存在しない。それでこそ神聖なのではあるまいか。」そして、われこそ唯一の神なりと言ったそのような神の死は、それ自体複数的である。神の死は、多数の意味をもつ一つの事件だからだ。それゆえ、ニーチェは騒々しいさまざまな「大いなる事件」を信じず、それぞれの事件の意味の沈黙した多数性を信じる。複数の意味をもたぬような事件や現象は一つとしてなく、またそのような言葉や思想も一つとして存在しない。或る事象は、この事象を捕えている諸々の力(神々)に応じて、これであったり、あれであったり、またもっとこみいっていたりする。ヘーゲルは多元論を、最も低次の諸要求をつぶやく幼児のように「これ、あれ、ここ、いま」と語ることに満足している素朴な意識と同一視することによって、嘲笑しようとした。〔ところが〕一つの事象は幾つかの意味をもつという多元論的な考え方のうちには、そしてまた、幾つかの事象が存在し、同一の事象が「これであり、次にはあれである」という考え方のうちには、哲学の放棄や幼年時代ではなく、哲学の最高の勝利、真なる概念の勝利、哲学の成熟があるということがわかる。」
「新たな力が出現し、一つの対象をわがものとなし得るのは、ただ、すでにその対象を占有している先行の諸力の仮面をそもそものはじめから身につけることによってのみである、ということを考えるなら、解釈の複雑性というものが明らかになってくる。仮面や策略は自然の法則であり、それゆえ仮面や策略以上のものである。生はそのはじめから、たんに可能となる為にだけでも、物質を模倣しなくてはならない。一つの力は、自分と敵対する先行の諸力の風貌をまず最初には借り受けるのでなければ、生き残ることはできないであろう。かくして哲学者は、哲学の出現以前に世界を支配していた僧侶や(中略)宗教的な人間の瞑想的な様子をしていなければ、誕生し成長しても、まったく生き残るチャンスをもち得ないだろう。(中略)哲学がその仮面を征服することができるのは、ただそれに新たな意味を与え、遂にはその反宗教的な力の真の本性を表現することによってのみである。おわかりのように、解釈の技術はまた可面の裏側を読みとる技術でもあって、誰が仮面をかぶっているのか、なぜに、またいかなる目的で人々は仮面の型をつくり直しつつその仮面を温存しているのか、ということを発見する技術である。(中略)出生〔起源〕(origine)における差異は最初から現われるわけではない。(中略)哲学が偉大になったときにはじめて、哲学の本質あるいは系譜を把えることができ、哲学が当初それと混同されることをおおいに懸念していたところのものすべてと、哲学そのものとを区別することができる。あらゆる事柄について、このようなことが言える。「あらゆる事柄において、より高次の段階だけが重要である。」というのは、問題が起源〔出生〕の問題ではないからというわけではなく、系譜として考えられた起源〔出生〕がより高次の諸段階との関連においてしか決定され得ないからなのである。」

「多元論は時として弁証法の外観を呈することがある。が、多元論は弁証法のこのうえなく獰猛な敵であり、唯一の根本的な敵である。それゆえわれわれは、ニーチェ哲学の断固たる反弁証法的な性格を真面目に受け取らなければならない。」
「反=ヘーゲル主義は、攻撃性の糸としてニーチェの作品をつらぬいている。」
「否定、対立あるいは矛盾といった思弁的境位を、ニーチェは肯定と享楽との対象である差異という実践的境位に置きかえる。」
「意志が意志すること、それはその意志がもつ差異を肯定することである。意志は、他の意志との本質的関係の中で、自身のもつ差異を肯定の対象とする。「自分が差異をもっていることを知る歓び」、差異の享楽、これが攻撃的で軽快な新しい概念の境位である。」
「差異は、本質と不可分でかつ存在を構成するものでもある実践的な肯定の対象である。ニーチェの「然り」は弁証法の「否」に対立し、差異は弁証法的な矛盾に、歓びや享楽は弁証法的な苦役に、軽やかさや舞踏は弁証法的な鈍重さに、美わしき無責任は弁証法的な責任に、それぞれ対立するのだ。差異についての、簡単に言えば位階序列についての、経験的な感情、これが矛盾についてのあらゆる思弁よりも有効で根本的な概念の本質的原動力である。」

「ディオニュソスは、現われるものすべてを、「このうえなく苛烈な苦悩さえも」肯定し、いっさいの肯定されるもののうちに現われる。多様な肯定、あるいは多元論的な肯定、これが悲劇的なものの本質である。(中略)そのためには、多元論の努力と才能とが、また変身の能力、ディオニュソス的八ッ裂きが、必要である。ニーチェに苦悶と嫌悪が現われるのは、つねに次の点に関してである。つまり、いっさいは肯定の対象に、すなわち歓びの対象に、なり得るだろうか、ということだ。」
「悲劇的であるもの、それは歓びである。だがこのことは、悲劇は直接的に歓びに満ちており、悲劇に恐怖したり同情したりするのは、その道徳的昇華作用や医学的下剤作用といった(中略)効果を悲劇にあてこんでいる鈍感な観客や病的で道学者ぶった聴衆だけなのだ、ということを意味している。」
「多様な肯定の論理、それゆえ純粋な肯定の論理、そしてその論理に対応する歓びの倫理、これが、ニーチェ哲学の全体を貫いている反弁証法的で反宗教的な夢である。悲劇的なものは、否定と生との関係に基づくのではなく、歓びと多様なもの、積極的なものと多様なもの、肯定と多様なもの、との本質的関係に基づくのだ。「英雄〔主人公〕は陽気である。このことを、悲劇の作者たちは今まで見損ってきたのである。」悲劇、この率直で躍動する陽気さ。」
「陽気な英雄、軽やかな英雄、舞踏する英雄、戯れる英雄。われわれを軽やかにし、われわれに舞踏することを教え、われわれに遊戯の本能を与えるのが、ディオニュソスの任務である。」

「おまえが悪い、おまえが悪いと言われ続けると、ついには告発されている者が「私は悪い」と言うようになり、絶望的な世界の中にはこのような嘆きの声とその反響がひびき渡るようになる。(中略)ニーチェは怨恨(おまえが悪い)、やましい良心(私が悪い)、及びそれらの共通の結果(責任)のうちに、たんなる心理学的出来事をみるのではなく、セム人的キリスト教的な基本的思惟カテゴリー、存在一般を思惟し解釈するわれわれのやり方、を見る。新たな理想、新たな解釈、別の思惟方法、ニーチェはこのようなものを自己の課題とする。「無責任というものにその積極的な意味を与えること。」「私が望んだのは、全き無責任という感情をかちとり、自分を讃辞と非難から、また現在と過去から、独立させることであった。」無責任、この最も高貴にして最も美わしきニーチェの秘密。」


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3:7
《…ニーチェとカントとの関係は、マルクスとヘーゲルとの関係と同じである。》133頁

http://nam-students.blogspot.jp/2015/08/ao.html

  チャート図:ジル・ドゥルーズ『差異と反復』  
             ______|________はじめに:
        差異__|__反復             |/同一性
     ___|__     |序論:    差異の哲学 / の哲学
    |      |  反復と差異     ハイデガー/|ヘーゲル
 一: |      |  __|_反復と         |美しき魂
 それ自身における差異| |   一般性の区別 反復=イデア
    |      | |  __|__    普遍性  |
 ショーペンハウアー | | |  |  |  一 | 特 |
    |      | |行動  法  概念 般ー+ー殊 |
    | アリストテレス|   /キルケ|  性 | 性 |
    |   類的差異、|   ゴール_|__ 単独性  |
    |  カテゴリーと|  __|_空間 |     |
    |   種的差異 |  拍子 | 物質 留保(阻止)
    |      | |    着 衣         |
 一義性と差異    | 時間   リズム / +++++ |
 スコトゥス、    | |     |          |
 スピノザ、     | |   二:|     ヒューム |
 ニーチェ      | |それ自身へ向かう反復 ベルクソン|
    | ライプニッツ |___時間の総合 デカルト   |
    |ヘーゲル、カント      |    カント   |
    |______|      現在__過去__円環  |
       |     マルクス  |   |   |  |
     ハイデガー   フロイト(習慣__潜在_死の本能)|イマージュ
 プラトン『ソピステス』他   見せかけ   |______|デカルト
       |     理念     ベルクソン|   カント
 四:差異の理念的総合 =多様体  三:思考のイマージュ プラトン
    カント|_________________|障害としての諸公準
 ライプニッツ         |         /自然的or哲学的
 微分       五:感覚されうるものの___    
   潜在的      非対称的総合      |      表象批判
 可能的◇現実的  他者 /良識、共通感覚  結論:差異と反復 存在=
   実在的     ダーウィン           ニーチェ 差異
       個体化 個体的差異 強度の   一義性を永遠回帰における
        強度的 巻き込み  特徴    反復として実現すること


2、時間の総合3はシネマ1,2に通じる。
4、この章で時空概念を提出。次章プラトン『ティマイオス』(邦訳単行本350頁)数学論に繋がる。
5、冒頭カントB序引用は重要。

単行本305
4章
裸の反復よりももっと深い着衣の反復…

443~4結論
自己への帰還が、裸の諸反復の基底(フォン)であってみれば、
他のものへの帰還は、着衣の諸反復の基底(フォン)である。
永遠回帰における反復は、以上すべてのアスペクトのもとで、
差異の固有な力(ピュイサンス)として現われる。
ニーチェに関しては3章の公準1,2,3参照
 ___________
発表者:脇田恵実(西洋哲学,B4)
発表題目:ニーチェの仏教観―キリスト教観との比較において―
http://home.hiroshima-u.ac.jp/logos/logica/07b_040610_prt.html
ニーチェは,仏教もキリスト教も最終的には同じくニヒリズムの運動として厳しく拒絶する(『反キリスト者』Der Antichrist, 20).ニーチェはニヒリズムを,受動的ニヒリズムder passive Nihilismusと能動的ニヒリズムder active Nihilismusに分けて,仏教やキリスト教は前者に属すると述べる(『権力への意志』Der Wille zur Macht, 23).しかしニーチェは,「ニヒリズム的宗教の内部でもキリスト教のそれと仏教のそれとはいぜんとして鋭く区別される必要がある(『権力への意志』154)」と言う.
 ニーチェによると,キリスト教道徳は弱者のルサンチマン(怨恨感情)によって形成されたものである.弱者は強者を憎悪するにもかかわらず,現実にはその上下関係を逆転できないために,本来の価値を転倒させ自分たちを正当化するという想像上の復讐を行う.そして「神」「彼岸」といった現世の生を否定する観念を捏造する.それに対して仏教は,ルサンチマンを克服しようとする(『この人を見よ』Ecce Homo, 1章6).また,超越的原理を否定する無神論としての仏教をニーチェは称賛する. ニーチェの課題は新しい価値の創造であった.そこで彼は,ニヒリズムに徹することによって既存の価値を価値転換し,ニヒリズムを超克しようとする能動的ニヒリズムを提唱した.そして彼はニヒリズムの極限形式として「永劫回帰」die ewige Wiederkehrを挙げ,これを「仏教のヨーロッパ的形式」die europaeische Form des Buddhismusと呼んでいる(『権力への意志』55).ニーチェはヨーロッパ的な意味の価値観に立たない仏教をニヒリズムの宗教と捉えながらも,親近性を感じているのである.

18 Comments:

Blogger yoji said...

単行本443
結論
自己への帰還が、裸の諸反復の基底(フォン)であってみれば、
他のものへの帰還は、着衣の諸反復の基底(フォン)である。

永遠回帰における反復は、以上すべてのアスペクトのもとで…

4章305
裸の反復よりももっと深い着衣の反復…

8:16 午前  
Blogger yoji said...



  否定的ニヒリズム(ユダヤ、キリスト教)
    ↓
  反動的ニヒリズム(ヨーロッパ)、ニーチェ『道徳の系譜』への言及は『ニーチェと哲学』3:7
    ↓
  受動的ニヒリズム(仏教)

  ドゥルーズ『ニーチェと哲学』5:3より。
  キリスト個人は仏教に位置付けられる(『アンチクライスト』参照)。

『ニーチェの哲学』1962「とは何か?」→「誰?」(邦訳単行本116,280頁)
  ↓
『差異と反復』1968、ドラマ化
  ↓
『A.O』1972、機械

3:45 午後  
Blogger yoji said...

単行本305
4章
裸の反復よりももっと深い着衣の反復…

443~4結論
自己への帰還が、裸の諸反復の基底(フォン)であってみれば、
他のものへの帰還は、着衣の諸反復の基底(フォン)である。

永遠回帰における反復は、以上すべてのアスペクトのもとで、
差異の固有な力(ピュイサンス)として現われる。

ニーチェに関しては3章の公準1,2参照

3:47 午後  
Blogger yoji said...

『ニーチェの哲学』1962「とは何か?」→「誰?」(邦訳単行本116,280頁)

  否定的ニヒリズム(ユダヤ、キリスト教)
    ↓
  反動的ニヒリズム(ヨーロッパ)、ニーチェ『道徳の系譜』への言及は『ニーチェと哲学』3:7
    ↓
  受動的ニヒリズム(仏教)

  ドゥルーズ『ニーチェと哲学』5:3より。
  キリスト個人は仏教に位置付けられる(『アンチクライスト』参照)。

  ↓
『差異と反復』1968、ドラマ化
  ↓
『A.O』1972、機械

3:41 午前  
Blogger yoji said...


発表日:2004年6月10日(木7・8時限,B102)
発表者:脇田恵実(西洋哲学,B4)
発表題目:ニーチェの仏教観―キリスト教観との比較において―
http://home.hiroshima-u.ac.jp/logos/logica/07b_040610_prt.html

ニーチェは,仏教もキリスト教も最終的には同じくニヒリズムの運動として厳しく拒絶する(『反キリスト者』Der Antichrist, 20).ニーチェはニヒリズムを,受動的ニヒリズムder passive Nihilismusと能動的ニヒリズムder active Nihilismusに分けて,仏教やキリスト教は前者に属すると述べる(『権力への意志』Der Wille zur Macht, 23).しかしニーチェは,「ニヒリズム的宗教の内部でもキリスト教のそれと仏教のそれとはいぜんとして鋭く区別される必要がある(『権力への意志』154)」と言う.
 ニーチェによると,キリスト教道徳は弱者のルサンチマン(怨恨感情)によって形成されたものである.弱者は強者を憎悪するにもかかわらず,現実にはその上下関係を逆転できないために,本来の価値を転倒させ自分たちを正当化するという想像上の復讐を行う.そして「神」「彼岸」といった現世の生を否定する観念を捏造する.それに対して仏教は,ルサンチマンを克服しようとする(『この人を見よ』Ecce Homo, 1章6).また,超越的原理を否定する無神論としての仏教をニーチェは称賛する. ニーチェの課題は新しい価値の創造であった.そこで彼は,ニヒリズムに徹することによって既存の価値を価値転換し,ニヒリズムを超克しようとする能動的ニヒリズムを提唱した.そして彼はニヒリズムの極限形式として「永劫回帰」die ewige Wiederkehrを挙げ,これを「仏教のヨーロッパ的形式」die europaeische Form des Buddhismusと呼んでいる(『権力への意志』55).ニーチェはヨーロッパ的な意味の価値観に立たない仏教をニヒリズムの宗教と捉えながらも,親近性を感じているのである.

7:55 午後  
Blogger yoji said...


二二 (557)
 ニヒリズム。それは二義的である。
A 精神の上昇した権力の印しとしてのニヒリズム、すなわち、能動的ニヒリズム。
B 精神の権力の衰退や後退としてのニヒリズム。

二三 (557─58)
 ニヒリズムは一つの正常な状態である。
 それは強さの印しでありうる。精神の力は、これまでの目標(「確信」、信仰箇条)がおのれに適合しなくなったほどに増大していることがありうる(つまり、信仰は、一般には、生存条件の強制を、生物がそのもとで栄え、育ち、権力を獲得する事態関係の権威のもとへの服従を表現する・・・)。他方、それは、いまやふたたび目標を、何故にを、信仰を、生産的におのれに立てるほどには十分でない強さの印しでもありうる。
 ニヒリズムは破壊の暴力として相対的な力の極大に達する、すなわち、能動的ニヒリズムとして。
 この反対は、もはや攻撃することのない疲労のニヒリズムであろう。その最も有名な形式は仏教である、すなわち、受動的ニヒリズムとして、弱さの印しとして。精神の力は、疲れはて、樵悴しきり、そのためこれまでの目標や価値が適合しなくなり、いかなる信仰をももはや見いだしえないことがある──、かくして価値や目標の綜合(これにあらゆる強い文化はもとづいている)が解け、そのため個々の価値がたがいに戦いあうにいたる、すなわち崩壊──、かくして、活気づけ、癒し、鎮め、和らげるすべてのものが、宗教的とか、道徳的とか、政治的とか、美的とかなど、さまざまに変装して、前景にあらわれでてくる。

ニーチェ『権力への意志』河出世界の大思想版より

7:40 午前  
Blogger yoji said...


怨恨は病人にとって御法度そのもの彼の悪であり、困ったことには、彼のもっとも自然な性向でもあるのだ。このことを理解していたのが、あの深遠な生理学者仏陀である。彼の「宗教」は、むしろ一種の衛生学と呼んだほうが、キリスト教などのような哀れむべきものとの混同を避けるためによいのだが、その教えは、怨恨の克服ということをその功徳の基としている。魂を怨恨から解放することこれが快癒への第一歩である。「敵意によって敵意はやまず、友愛によって敵意はやむ」これが、仏陀がまっさきに教えることだがこう語っているのは道徳ではなく、生理学である。

この人を見よ1:6
岩波文庫

8:02 午前  
Blogger yoji said...


二二 (557)
 ニヒリズム。それは二義的である。
A 精神の上昇した権力の印しとしてのニヒリズム、すなわち、能動的ニヒリズム。
B 精神の権力の衰退や後退としてのニヒリズム。

二三 (557─58)
 ニヒリズムは一つの正常な状態である。
 それは強さの印しでありうる。精神の力は、これまでの目標(「確信」、信仰箇条)がおのれに適合しなくなったほどに増大していることがありうる(つまり、信仰は、一般には、生存条件の強制を、生物がそのもとで栄え、育ち、権力を獲得する事態関係の権威のもとへの服従を表現する・・・)。他方、それは、いまやふたたび目標を、何故にを、信仰を、生産的におのれに立てるほどには十分でない強さの印しでもありうる。
 ニヒリズムは破壊の暴力として相対的な力の極大に達する、すなわち、能動的ニヒリズムとして。
 この反対は、もはや攻撃することのない疲労のニヒリズムであろう。その最も有名な形式は仏教である、すなわち、受動的ニヒリズムとして、弱さの印しとして。精神の力は、疲れはて、樵悴しきり、そのためこれまでの目標や価値が適合しなくなり、いかなる信仰をももはや見いだしえないことがある──、かくして価値や目標の綜合(これにあらゆる強い文化はもとづいている)が解け、そのため個々の価値がたがいに戦いあうにいたる、すなわち崩壊──、かくして、活気づけ、癒し、鎮め、和らげるすべてのものが、宗教的とか、道徳的とか、政治的とか、美的とかなど、さまざまに変装して、前景にあらわれでてくる。

ニーチェ『権力への意志』河出世界の大思想版より
Wille zur Macht ナウマン版1901

怨恨は病人にとって御法度そのもの彼の悪であり、困ったことには、彼のもっとも自然な性向でもあるのだ。このことを理解していたのが、あの深遠な生理学者仏陀である。彼の「宗教」は、むしろ一種の衛生学と呼んだほうが、キリスト教などのような哀れむべきものとの混同を避けるためによいのだが、その教えは、怨恨の克服ということをその功徳の基としている。魂を怨恨から解放することこれが快癒への第一歩である。「敵意によって敵意はやまず、友愛によって敵意はやむ」これが、仏陀がまっさきに教えることだがこう語っているのは道徳ではなく、生理学である。

この人を見よ1:6
岩波文庫

       

        否定的ニヒリズム(ユダヤ、キリスト教)
             ↓
        反動的ニヒリズム(ヨーロッパ)
             ↓
        受動的ニヒリズム(仏教)
        (『ニーチェと哲学』5:3、ニーチェ『権力への意思』23より)
        キリスト個人は仏教に位置付けられる(『アンチクライスト』参照)。

『ニーチェの哲学』1962「とは何か?」→「誰?」(邦訳単行本116,280頁)
  ↓
『差異と反復』1968、ドラマ化
  ↓
『A.O』1972、機械

《…ニーチェとカントとの関係は、マルクスとヘーゲルとの関係と同じである。》
(『ニーチェと哲学』3.7:133頁)


発表日:2004年6月10日(木7・8時限,B102)
発表者:脇田恵実(西洋哲学,B4)
発表題目:ニーチェの仏教観―キリスト教観との比較において―
http://home.hiroshima-u.ac.jp/logos/logica/07b_040610_prt.html

ニーチェは,仏教もキリスト教も最終的には同じくニヒリズムの運動として厳しく拒絶する(『反キリスト者』Der Antichrist, 20).ニーチェはニヒリズムを,受動的ニヒリズムder passive Nihilismusと能動的ニヒリズムder active Nihilismusに分けて,仏教やキリスト教は前者に属すると述べる(『権力への意志』Der Wille zur Macht, 23).しかしニーチェは,「ニヒリズム的宗教の内部でもキリスト教のそれと仏教のそれとはいぜんとして鋭く区別される必要がある(『権力への意志』154)」と言う.
 ニーチェによると,キリスト教道徳は弱者のルサンチマン(怨恨感情)によって形成されたものである.弱者は強者を憎悪するにもかかわらず,現実にはその上下関係を逆転できないために,本来の価値を転倒させ自分たちを正当化するという想像上の復讐を行う.そして「神」「彼岸」といった現世の生を否定する観念を捏造する.それに対して仏教は,ルサンチマンを克服しようとする(『この人を見よ』Ecce Homo, 1章6).また,超越的原理を否定する無神論としての仏教をニーチェは称賛する. ニーチェの課題は新しい価値の創造であった.そこで彼は,ニヒリズムに徹することによって既存の価値を価値転換し,ニヒリズムを超克しようとする能動的ニヒリズムを提唱した.そして彼はニヒリズムの極限形式として「永劫回帰」die ewige Wiederkehrを挙げ,これを「仏教のヨーロッパ的形式」die europaeische Form des Buddhismusと呼んでいる(『権力への意志』55).ニーチェはヨーロッパ的な意味の価値観に立たない仏教をニヒリズムの宗教と捉えながらも,親近性を感じているのである.

3:48 午後  
Blogger yoji said...



ニーチェ (悦ばしき知識 第276番)より:
http://www.ni-club.net/panietzsche/ahorizm/inf18/inf6.cgi
新しい年にのぞんで。──なお私は生きており、なお私は考える。私はなお生きなければならない、私はなお考えなければいけないのだから。われ在り、ゆえにわれ思う(Sum,ergo cogito)、われ思う、ゆえにわれ在り(cogito,ergo sum)。

今 日では誰もが思い思いに自分の願望や最愛の思想を表明している。さればこそ、私もまた、私が自分自身に今日何を望むかを、また、どんな思想がこの年いち早 く彼の心をかすめ去ったかを、語るとしよう、──どんな思想が私の今後の全生活の根拠、保証また甘味であるべきなのかを、語るとしよう!私は、いよいよ もって、事物における必然的なものを美と見ることを、学ぼうと思う、──こうして私は、事物を美しくする者たちの一人となるであろう。

運 命愛──これが今よりの私の愛であれかし!私は、醜いものに対し戦いをしかけようなどとは思いもしない。私は非難しようとは思わぬし、非難者をすら非難し ようとは思わない。眼をそむけること、それが唯一の否認であれかし!そして、これを要するに、私はいつかはきっとただひたむきな一個の肯定者であろうと願 うのだ!(悦ばしき知識 第276番)

参考:
「喜ばしき知恵  Die frohliche Wissenschaft: la gaya scienza (河出文庫)」
フリードリヒ・ニーチェ、村井則夫 訳 目次:
http://blog.livedoor.jp/ppdwy632/archives/51817591.html
第四書 聖なる一月―― Sanctus Januarius 聖ヤヌアリウス

12:40 午前  
Blogger yoji said...

NAMs出版プロジェクト: 権力への意志
http://nam-students.blogspot.jp/2016/10/blog-post_26.html


四七七 (673─74)
 主は内的世界についてもその現象性を固執する。すなわち、私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている
(内省と遡行9頁163頁)

四九〇 (473─74)
 主観を一つだけ想定する必然性はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい、それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている「諸細胞」の一種の貴族政治? もちろん、たがいに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?
(『内省と遡行』「序説」16頁、「言語・数・貨幣 第1章」164頁に引用、
『日本近代文学の起源』126-7頁#3告白という制度でも引用)

四九二 (475)  肉体と生理学とに出発点をとること。なぜか? ──私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(「霊魂」や「生命力」ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、「主観」は永遠的なものではないということに関しても同様である。…主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、偽って解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである。
(『日本近代文学の起源』126-7頁#3告白という制度で引用)

同ヶ所

492
主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことである[が、その危険は、おのれを、偽って解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。]それゆえ私たちは肉体に問いたずねる[のであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである。 ]
(内省と遡行9頁163頁)

五一八 (500─501)
 私たちの「自我」が、私たちにとっては、私たちがそれにしたがってすべての存在をつくりあげたり理解する唯一の存在であるなら、それもまことに結構! そのときには、或る遠近法的幻想が──一つの地平線のうちへのごとく、すべてのものをそのうちへとひとまとめに閉じこめてしまう見せかけの統一が、ここにはあるのではなかろうかとの疑問がとうぜんおこってくる。肉体を手引きとすれば巨大な多様性が明らかとなるのであり、はるかに研究しやすい豊富な現象を貧弱な現象の理解のための手引きとして利用するということは、方法的に許されていることである。(結局、すべてのものが生成であるとすれば、認識は存在を信ずることにもとづいてのみ可能である。)
(内省と遡行15~6頁164頁)


586c
この現世が「仮象」の世界で、あの世が「真」の世界であるとみなされるということが、或る症候のあらわれである。
「別の世界」という表象の発生地は、すなわち、 哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では理性と論理的機能がふさわしい、──ここから「真」の世界が由来する。
(『哲学の起源』120頁   柄谷行人  岩波書店2012.11)



一〇四一 (834─35) 「然り」への私の新しい道。──私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生在の憎むべき厭うべき側面をもみずからすすんで探究することである。…
「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」──これが私には本来の価値尺度となった。…
この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する──あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで──…
このことにあたえた私の定式が運命愛である。
(『トランスクリティーク』定本版186頁)

参考:
NAMs出版プロジェクト: 定本柄谷行人集(付『世界共和国へ』『NAM原理』)総合索引
http://nam-students.blogspot.jp/2006/05/nam_31.html#5

─────────────
帝国の構造35頁では、ニーチェは交換様式ACの区別をしていないと批判されている。

《彼は道徳性を経済的なものから説明しようとした最初の人物です 。もっとも 、ニ ーチェには 、互酬交換 (交換様式 A )と売買 (交換様式 C )の区別がなかったことを見落としてはならない 。》

『権力への意志』,❶J.126-7@/❸T.186@☆/P.119,120@☆☆

J:『日本近代文学の起源』
T:『トランスクリティーク』定本版
P:『哲学の起源』   柄谷行人  岩波書店2012.11


一〇四一 (834─35) 「然り」への私の新しい道。──私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生在の憎むべき厭うべき側面をもみずからすすんで探究することである。…
「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」──これが私には本来の価値尺度となった。…
この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する──あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで──…
このことにあたえた私の定式が運命愛である。

☆☆
586c
この現世が「仮象」の世界で、あの世が「真」の世界であるとみなされるということが、或る症候のあらわれである。
「別の世界」という表象の発生地は、すなわち、 哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では理性と論理的機能がふさわしい、──ここから「真」の世界が由来する。
____

『権力への意志』,❶J.126-7@/❸T.186@
『哲学の起源』   柄谷行人  岩波書店2012.11
ニーチェ『権力への意志』,119,120@



権力への意志1066

《ウィリアム・トムソンがそれから引きだした或る終局状態という帰結》

差異と反復でドゥルーズが言及

参考:
NAMs出版プロジェクト: ニーチェ:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_5.html


ドゥルーズ『差異と反復』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_20.html

4:31 午前  
Blogger yoji said...

2映画

逆に、感覚運動の図式が崩壊した結果、方向づけを欠き、調和を乱した運動が優先されるならば、そのときはまた別の形態があらわれ、物語にかわって生成変化が前面に出てくるわけです……。

4哲学
ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化であり、絶対に歴史の一部ではないからです。

5政治

「生成変化」をとげるためには、つまり何か新しいものを創造するためには、これらすべての条件に背を向けるしかないのです。ニーチェが〈反時代的なもの〉と呼んだのはこのことにほかなりません。六八年五月は純粋状態の生成変化が発現し、なだれこんできた出来事でした。

たいして、マイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけですからね。マジョリティは誰のことでもないともいえるでしょう。

記号と事件

7:56 午後  
Blogger yoji said...

2映画
《逆に、感覚運動の図式が崩壊した結果、方向づけを欠き、調和を乱した運動が優先されるならば、そのときはまた別の形態があらわれ、物語にかわって生成変化が前面に出てくるわけです……。》

4哲学
《ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化であり、絶対に歴史の一部ではないからです。》

5政治
《「生成変化」をとげるためには、つまり何か新しいものを創造するためには、これらすべての条件に背を向けるしかないのです。ニーチェが〈反時代的なもの〉と呼んだのはこのことにほかなりません。六八年五月は純粋状態の生成変化が発現し、なだれこんできた出来事でした。》

《たいして、マイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけですからね。マジョリティは誰のことでもないともいえるでしょう。》

『記号と事件』より

7:57 午後  
Blogger yoji said...

『記号と事件』より

《逆に、感覚運動の図式が崩壊した結果、方向づけを欠き、調和を乱した運動が優先されるならば、そのときはまた別の
形態があらわれ、物語にかわって生成変化が前面に出てくるわけです……。》

《ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化であり、絶対に歴史
の一部ではないからです。》

《「生成変化」をとげるためには、つまり何か新しいものを創造するためには、これらすべての条件に背を向けるしかないの
です。ニーチェが〈反時代的なもの〉と呼んだのはこのことにほかなりません。六八年五月は純粋状態の生成変化が発現し、
なだれこんできた出来事でした。》

《たいして、マイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけですからね。マジョリティ
は誰のことでもないともいえるでしょう。》

7:59 午後  
Blogger yoji said...

『記号と事件』より

《逆に、感覚運動の図式が崩壊した結果、方向づけを欠き、調和を乱した運動が優先されるならば、そのときはまた別の
形態があらわれ、物語にかわって生成変化が前面に出てくるわけです……。》2映画

《ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化であり、絶対に歴史
の一部ではないからです。》4哲学

《「生成変化」をとげるためには、つまり何か新しいものを創造するためには、これらすべての条件に背を向けるしかないの
です。ニーチェが〈反時代的なもの〉と呼んだのはこのことにほかなりません。六八年五月は純粋状態の生成変化が発現し、
なだれこんできた出来事でした。》5政治

《たいして、マイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけですからね。マジョリティ
は誰のことでもないともいえるでしょう。》5政治

9:47 午後  
Blogger yoji said...

以下、『記号と事件』より

《逆に、感覚運動の図式が崩壊した結果、方向づけを欠き、調和を乱した運動が優先されるならば、その
ときはまた別の形態があらわれ、物語にかわって生成変化が前面に出てくるわけです……。》2映画より

《ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化で
あり、絶対に歴史の一部ではないからです。》4哲学より

《「生成変化」をとげるためには、つまり何か新しいものを創造するためには、これらすべての条件に背を
向けるしかないのです。ニーチェが〈反時代的なもの〉と呼んだのはこのことにほかなりません。六八年
五月は純粋状態の生成変化が発現し、なだれこんできた出来事でした。》5政治より

《たいして、マイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけです
からね。マジョリティは誰のことでもないともいえるでしょう。》5政治より

9:49 午後  
Blogger yoji said...



柄谷
世界共和国へ

2自由の相互性をめざして
貨幣経済と普遍宗教
 普遍宗教の問題を交換様式から見るとき 、参考になるのは 、ニ ーチェの考察です 。彼は 、負い目という道徳感情が 、 「負債という極めて物質的な概念 」に由来するといっています 。 《負い目とか個人的責務という感情は 、われわれの見たところによれば 、その起源を存在するかぎりの最も古い最も原始的な個人関係のうちに 、すなわち 、買手と売手 、債権者と債務者の間の関係のうちにもっている 》 ( 『道徳の系譜 』 、木場深定訳 ) 。さらにニ ーチェは 、 「正義 」もまた経済的な価値の概念に由来するという 。 《人々はまもなく 「事物はそれぞれその価値を有する 、一切はその代価を支払われうる 」というあの大きな概括にり着いた 。これが正義の最も古くかつ最も素朴な道徳的規準であり 、地上におけるあらゆる 「好意 」 、あらゆる 「公正 」 、あらゆる 「善意 」 、あらゆる 「客観性 」の発端である 》 (同前 ) 。
 ニ ーチェの考えは 、普遍宗教の出現が 、呪術 =互酬的交換を廃棄し 、貨幣による交換が支配的になった時点で生じるということを裏書きしています 。マルクスが価値形態論として示したのはその過程だといってもよいでしょう 。つまり 、単純な価値形態から始まって 、一般的等価形態あるいは貨幣形態が形成される過程です 。
 たとえば 、ユダヤ教においては 、 「目には目を 」という互酬原理があります 。ところが 、イエスはいう 。 《 「目には目を 、歯には歯を 」と言われていたことは 、あなたがたの聞いているところである 。しかし 、わたしはあなたがたにいう 。悪人に手向かうな 。もし誰かがあなたの右の頰を打つなら 、他の頰をも向けてやりなさい 》 ( 「マタイによる福音書 」 ) 。ここでは 、 「目には目を 」という直接的交換が斥けられています 。それは 、貨幣経済によって 、貨幣を通してしか商品の交換ができないような世界が成立したことに対応するのです 。

罪の感情 
 だが 、このような直接的な交換の不可能性によって 、負い目 =罪の感情は拡大させられます 。 《 「姦するな 」と言われていたことは 、あなたがたの聞いているところである 。しかし 、わたしはあなたがたにいう 。誰も 、情欲をいだいて女を見る者は 、心の中ですでに姦をしたのである 》 (同前 ) 。さらに 、パウロは 、イエスの十字架での死という出来事を 、キリストが身をもって全人類の 「負債 」を支払ったのだ 、と解釈しました 。しかし 、それによって 、すべての負い目がイエスへの負い目に転化するわけです 。 「キリスト教 」はこのとき成立したといってよいでしょう 。だから 、ニ ーチェはこういうのです 。 《これまでに到達せられた最大の神としてのキリスト教の神の出現は 、それゆえにまた 、最大限の責務感情を地上に持ち来した 》 ( 『道徳の系譜 』 ) 。
 ところで 、普遍宗教は別に 、超越的な人格神あるいは唯一神を不可欠とするものではありません 。たとえば 、仏教も普遍宗教です 。このことを考える上で 、示唆的なのは 、先に述べたマルクスの 「価値形態論 」です 。マルクスの考えでは 、重要なのは一般的等価形態 (貨幣形態 )であって 、そこに位置する物ではない 。たとえば 、金は 、金だから貨幣となるのではなく 、一般的等価形態という場所におかれるがゆえに貨幣なのです 。同様に 、超越的なのは神ではなく 、神がおかれる 「場所 」 (一般的等価形態 )です 。仏教が人格神を否定し 「無の場所 」を強調したのは 、そのためです 。

1:06 午前  
Blogger yoji said...

デューリング
338


“ So weit die unumgängliche Gesetzlichkeit der Natur reicht, hat der Begriff des Rechtes einen guten Sinn. Jede metaphysische Vebertragung desselben führt dagegen nicht nur auf Ungereimtheiten, sondern auch auf Vorstellungen, die einer edlen Gesinnung nicht ziemen. Das transcendente Unrecht und die transcendente Vergeltung sind Conceptionen, die mit einander stehen und fallen. Nun haben wir aber gar keinen Begriff von einem Unrecht ausserhalb der Voraussetzungen der uns bekannten Natur. Wir werden daher genöthigt, die transcendente Vergeltung auf das natürliche Unrecht zu beziehen und so ungleichartige Potenzen in Zusammenhang zu bringen. Wir müssen also die transcendente Vergeltung schon desshalb fallen lassen, weil ihr Correlat, die transcendente [Schuld], für uns undenkbar ist. Jeder Versuch, sich auf den Standpunkt der Metaphysik zu stellen und von diesem aus den Begriff der Gerechtigkeit zu fassen, muss an der einheitlichen Auffassung des Systems der Dinge scheitern. In die Einheit des Seins kann keine ernstliche Verletzung eingreifen; die Störungen, in welchen sich die Elemente des natürlichen Daseins ergehen, können daher keine absolute Bedeutung haben. Das Unrecht wie die Rache besteht nur auf dem Standpunkt der Natur, und was abgesehen von dem uns bekannten System der Dinge sein möchte und könnte, geht uns Nichts an. Die transcendente Befriedigung der Rache ist daher nur eine theoretische Verirrung, welche zu meiden nicht nur dem Verstande, sondern auch der Gesinnung Ehre macht. Hüten wir uns also, die Uebel der Welt noch durch transcendente Gespenster zu vermehren und so das Erträgliche, mit dem man sich im Hinblick auf das Ganze der Dinge und des Lebens versöhnen mag, ins Ungeheure umzubilden. Die metaphysische Caricatur der Dinge ist in der That nicht blos ein unlösbares Räthsel, sondern auch ein widerwärtiges Object; das wahre und natürliche Bild der Welt bleibt zwar ebenfalls räthselhaft, stimmt aber doch in unser Streben im Grossen und Ganzen ein und scheint selbst da, wo es unbefriedigt lässt, dem tieferen Wesen unserer Natur zu entsprechen. Letztere will keinen Abschluss und bedarf daher immer neuer Aussichten. Die wahre Transcendenz ist daher das weitere Schauspiel, welches sich zu entrollen hat, nicht aber eine Beschäftigung mit den abgethanen Angelegenheiten der Empfindungen, welche einst die Ordnung des Lebens vermittelten. Der Lauf der Dinge und des Lebens, wie er in die verstandesmässige Auffassung fällt, schliesst bereits alle Gerechtigkeit ein, die in der Verfassung der Natur angelegt ist. Eine weitere Sühne verlangen heisst Metaphysik der Rache treiben.


Druck von Robert Nischkowsky in Breslau.


抜粋:: Eugen Dühring “Der Werth des Lebens”。 Apple Books



"自然の必然的な法則性が及ぶ限り、法の概念は良い意味を持っています。一方、それを形而上学的に転嫁すると、矛盾が生じるだけでなく、高貴な気質にそぐわない考え方になってしまいます。超越的な不正と超越的な報復は、お互いに立ったり倒れたりする観念です。しかし、私たちが知っている自然の前提の外には、不正という概念はありません。それゆえ、私たちは超越的な報復を自然の不正に関連づけることで、異なる力を結びつけることを余儀なくされます。したがって、超越的な報復は、その相関関係である超越的な[罪悪感]が私たちには想像できないという理由で、取り下げなければなりません。形而上学の立場に立って、この立場から正義の概念を把握しようとする試みは、物事のシステムに対する統一的な概念のために、すべて失敗しなければなりません。存在の統一性を妨げるような重大な損傷はなく、自然存在の要素が甘んじて受ける乱れは、それゆえに絶対的な意味を持ちません。復讐のような不正は、自然の観点からのみ存在するものであり、私たちが知っている物事のシステムから離れて存在したいもの、存在しうるものは、私たちには関係ありません。したがって、復讐の超越的な満足感は、理論的な逸脱に過ぎず、これを避けることは、知性だけでなく、心の名誉にもなります。だからこそ、超越的な幽霊によって世界の悪を増やし、物事や人生の全体像から見て自分を納得させることができる許容範囲を、怪物的なものに変えてしまうことに注意しよう。形而上学的な物事のカリカチュアは、確かに解けない謎であるだけでなく、嫌な対象でもあります。世界の真の自然なイメージもまた、謎めいたものではありますが、それでも全体的には私たちの努力に賛同し、私たちの本質のより深い部分に対応しているように思われますが、たとえそれが私たちを満足させないものであったとしてもです。後者は結論を求めないため、常に新しい展望を必要とします。したがって、真の超越とは、それ自体を展開しなければならないさらなる光景であり、かつて人生の秩序を媒介した感覚の過去の問題にこだわることではない。物事や人生の流れは、それが理解できる概念に入ると、自然の構成に内在するすべての正義をすでに含んでいます。さらなる償いを求めることは、復讐の形而上学を実践することです。

ブレスラウのロバート・ニシコフスキーによって印刷された。

www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

1:51 午前  
Blogger yoji said...

Inhalts - Verzeichniss.
Seite.
Einleitung
1
I. Das Leben als Inbegriff von Empfindungen und Gemūthsbewegungen
II. Der Unterschied als der eigentliche Gegenstand des Gefühls
III. Die Grundgestalt in der Abfolge der Lebenserregungen
13
28
40
IV. Der Verlauf eines Menschenlebens
52
V. Die Liebe .
VI. Der Tod
87
125
VII. Das Gemeinleben
VIII. Die Erkenntniss
148
163
IX, Der Glaube an den Werth des Lebens .
181
Anhang.
Der theoretische Idealismus und die Einheit des Systems der Dinge
193
Die transcendente Befriedigung der Rache
219
... .

目次 - 索引
ページです。
はじめに
1
I. 感覚と感情の縮図としての人生
II. 感情の実際の対象としての違い
III.人生の感情の一連の流れの中での基本形
13
28
40
IV. 人の命の流れ
52
V. 愛。
6.死
87
125
VII. 共通の生活
VIII. 認知度
148
163
IX、生命の価値を信じること。
181
付録です。
理論的観念論とモノのシステムの統一性
193
復讐の超越的な満足感
219
... .

1:52 午前  

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