日曜日, 11月 13, 2016

織田信長「大坂は凡そ日本一の境地なり」( 『信長公記』):ブラタモリ#大阪

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織田信長「大坂は凡そ日本一の境地なり」 『信長公記』:ブラタモリ#大阪






「大坂は凡そ日本一の境地なり」

信長公記 巻十三
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg212.html
宇治橋御見物の事
抑も大坂は、凡そ日本一の境地なり。其の子細は、奈良、堺、京都に程近く、殊更、淀・鳥羽より大坂城戸口まで、舟の通ひ直にして、四方に節所を抱へ、北は賀茂川、白川、桂川、淀・宇治川の大河の流れ、幾重ともなく、二里、三里の内、中津川、吹田川、江口川、神崎川引き廻し、東南は、尼上ケ嵩、立田山、生駒山、飯盛山の遠山の景気を見送り、麓は道明寺川・大和川の流に新ひらき淵、立田の谷水流れ合ひ、大坂の腰まで三里四里の間、江と川とつゞひて渺々と引きまはし、西は滄海漫々として、日本の地は申すに及ばず、唐土・高麗・南蛮の舟、海上に出入り、五畿七道こゝに集まり、売買利潤、富貴の湊なり。


(14)石山本願寺、撤退
そもそも大坂は、日本一の土地である。その理由は、奈良・堺・京都に近く、特に鳥羽・淀(2)から大坂の町口まで舟の交通が直結しており、同時に四方が自然の要害となっている。北は、鴨川・白川・桂川・淀川・宇治川という大河が幾筋にも流れ、また二里(3)、三里の範囲内に中津川・吹田川・江口川・神崎川が流れている。東南から東北へかけて、尼上ガ岳(4)・立田山(5)・生駒山(6)・飯盛山(7)という遠山の景色を見て、その麓には道明寺川・大和川に新開の運河や立田の谷水(8)が流れ込むという具合で、大坂の城の足元まで三里、四里(9)の間は、大小の河川が広範囲に網目のように流れている。西は、広々とした海で、日本の各地は無論、唐土(10)・高麗(11)・南蛮(12)の船が出入りする。五畿七道(13)の産物が集まって売買され、その利潤で潤う経済力豊かな港町である。
現代語訳 信長公記 より

織田信長が天下を統一していたら本拠地を大阪に移していまし... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14108106479?__ysp=5aSn6ZiqIOe5lOeUsOS%2FoemVtyDlpKflnYIg5pel5pys5LiA

可能性は非常に高いと思います。

信長は早くから大坂の地を注目しているようですので。

永禄11年(1568)の上洛後、信長は石山本願寺に対し、5000貫の矢銭(軍資金)を課していますが、この頃はさらに「大坂の石山は日本無双の名城と成すべき地なり」と言って、「貰いかけ」るべく圧力をかけていたようです。

「信長公記」にも、「大坂は凡そ日本一の境地なり」とあります。

石山本願寺がある場所は、京・奈良・堺・西国への水路の交通の要衝であり、高低差のある上野台地によって防衛にも適した土地であることに注目していたのでしょう。信長は商工業の振興と流通の発展に尋常でない思い入れがあり、また南蛮との貿易を促進させるためにも、是非とも大坂の地に本拠地を持っていきたかったと考えられます。

信長は大坂の地が要害の地であるとともに、その立地条件から近代都市への発展の可能性を見通していたと思われます。

ルイス・フロイスは「日本六十六ヶ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して中国を武力で制圧し、諸国を自らの子息に分かち与える考えであった」と叙述しており、信長は天下統一後のビジョンをもっていたようで、場合によっては海外制覇のため、さらに本拠地を移転していたかもしれません。

このことから信長の後継者である秀吉は、信長の政策をなぞっていったといえます。

7 Comments:

Blogger yoji said...

西軍は青で、東軍は赤なんでしょうか?
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uki********さん2010/4/1816:20:48
西軍は青で、東軍は赤なんでしょうか?
私的にはその逆のイメージがあるのですが、、、
皆さんはどう思いますか?

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sen********さん 2010/4/2100:38:54
関ヶ原なのか、鳥羽・伏見か不明ですが、軍隊の地図では青は味方、赤は敵というのが原則です。

思うに、島津義弘は関ヶ原の西軍。毛利・吉川も東軍ではないので、参謀本部=薩長の連中が倒幕派史観にもとづいて徳川に赤の色を塗ったのでしょう。

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10:05 午後  
Blogger yoji said...

大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(47)|法学部|駿河台大学
https://www.surugadai.ac.jp/gakubu_in/hogaku/news/2016/47.html
 最終回ですので、もちろんドラマとしてのまとめになっています。そこで史実の解説をするのも野暮かとも思いますが、二つだけ触れたいと思います。
 一つは、羽柴(豊臣)方の敗戦の理由。なんと羽柴秀頼の馬印の後退による、味方兵の敗戦認識だったんですね。兵士は大将の馬印・旗印をみて、自軍の優勢・劣勢を判断していました。馬印・旗印が前進していれば優勢、後退していれば劣勢と認識したわけです。合戦において、いかに馬印・旗印が大事であったかがわかります。秀頼の馬印の後退は、大野治長のケアレスミスです。しかしこれが戦況を大きく変えてしまったのです。
 もう一つは、信繁の最期。信繁は、実際のところは、徳川家康の旗本備(旗本によって構成される軍団)に三度まで攻撃し、三度目に井伊・藤堂軍の攻撃、越前松平軍の反撃をうけて後退を余儀無くされました。そして最後は、越前松平家臣西尾仁左衛門に討ち取られます。ドラマでは自害として描かれていますが、もちろんドラマ上の都合です。
 ただその最期について、討ち取った西尾は、乗馬していた信繁に声をかけて勝負を挑み、下馬して鑓合わせの末に、西尾が信繁を突き伏せ、首をあげた、と伝えています。しかし徳川方の有力大名・細川忠興は、信繁は負傷して草臥れていたところを、西尾が首をあげたもので、手柄にはならない、と酷評しています。
 どちらが真相なのかわかりませんが、戦死であったことは間違いないでしょう。しかし家康旗本備への攻撃の様が、戦国以来の武将からみても、あまりに凄かったので、「真田、日の本一の兵」との名声を得ることになったのです

9:11 午後  
Blogger yoji said...



真説 大坂の陣books.google.co.jp › books
吉本健二 · 2005
次の書籍のコンテンツと一致:
この書によれば、大野治長が「いまこそ勝利のとき」と信じ、城中にあった秀頼に説いた。「陣頭に立って戦勝の ... 唐まで聞ヘたる」馬印を捨て置くのは情けない、と思い、伊藤武蔵はその馬印を拾って城へ入っている。しかし、馬印 を拾っ ...
プレビュー

しかし、これほど準備が整っていながら、出馬がなかった。戦意が高じる秀頼に対し、家康が使いを遣わし和睦交渉を仕掛けてくる。また、秀頼が桜門に床几に腰掛け、大手の大櫓から戦場を見渡していたとき、茶臼山より帰ってきた大野治長が、いきなり倒れた。先の暗殺未遂事件の古傷から血がほとばしり、気を失ったというのだ。城内一の出頭人・大野治長が城内に帰ってくるなり、倒れた。それをみた城兵たちは敗戦と思い込んでしまい、狼狽する。その間、秀頼の出馬が遅れてしまう。が、その後、すぐに天王寺・岡山の敗報が伝わったという。秀頼は慨然として言った。「一死もとより期するところである。まさにいでて戦おう!」とうとう大坂城主が出撃を決意したのだ。しかし、またもや諫止が入る。『烈祖成績』などによれば、七手組将筆頭・速水守久が、たまたま天王寺より帰ってきてのように諫めた。「前軍が崩壊し、道路を埋め尽くしております。今、出て戦おうとも、どうやって志を得られましょう。帰って牙城を守るに越したことはございません」秀頼はこれに従ってしまったという。

ところが『日本切支丹宗門史』にはかなり趣を異にする逸話が記載されている。

この書によれば、大野治長が「いまこそ勝利のとき」と信じ、城中にあった秀頼に説いた。

「陣頭に立って戦勝の名誉を収めるか、あるいは名誉の討死をするべきである」しかし、皮肉なことに、大野治長が主君の出撃を助け援護しようとして行った退却が敗走の観を呈し、全軍の間に恐怖の念を生じたという。これもまたあり得る話だ。とにもかくにも、秀頼の出馬はならず、家康は戦勝者となった。大坂方将兵が散り散りとなって馬印すら捨てて逃げる。「唐まで聞へたる」馬印を捨て置くのは情けない、と思い、伊藤武蔵守はその馬印を拾って城へ入っている。しかし、馬印を拾ったところで、勝利は拾えない。城に火がついたのは午後四時前後。大坂城の台所係で、秀頼や治長の信任が厚い大住与左衛門が、内から火をつけた。早くから後藤又兵衛は怪しいと眼を付けていたのだが、治長らが否定し続けていた。それゆえ与左衛門は凶行に及べたのである。城中に火が起こったのをみて、幕府方軍勢は競って進んで攻撃をしかける。越前衆が突撃し、家老・本多富正が桜門を真っ先に破った。さらに、三の丸の木柵を越え、越前衆は大野治長邸に火を放ち、その他の兵も所々に放火した。ついに二の丸にも火がつき、落ちたのは午後五時前後だった。城中には一人も防御を指揮する将がいなかった。齢七十を超える郡良列などの太閤黄母衣の士は、秀頼の旗及び馬印を千畳敷の床上に掲げて、敵手に渡さぬ

9:21 午後  
Blogger yoji said...

大野治長
大野修理の名で
パジェス日本切支丹宗門史
岩波文庫@上395頁に退却のエピソード
馬印という表現はない

5:45 午後  
Blogger yoji said...

真田丸の最終回、大坂夏の陣で大野治長のミスで秀頼の馬印の後退させてしまい、味方の指揮が下がって負けたというエピソードが秀逸だった。
パジェス『日本切支丹宗門史』上岩波文庫395頁にあるエピソードだが、他のドラマで採用されたことはあるのだろうか?みなもと太郎は採用していなかった。黒澤明『乱』より馬印の描き方は優れている。群像劇としては『七人の侍』(今思えば真田十勇士の影響がある)に及ばないが。

9:39 午後  
Blogger yoji said...

真田丸の最終回、大坂夏の陣で大野治長のミスで秀頼の馬印の後退させてしまい、味方の士気が下がって負けたというエピソードが秀逸だった。
パジェス『日本切支丹宗門史』上岩波文庫395頁にある史実だが、他のドラマで採用されたことはあるのだろうか?みなもと太郎は採用していなかった。黒澤明『乱』より馬印の描き方は優れている。群像劇としては『七人の侍』(今思えば真田十勇士の影響がある)に及ばないが。

9:40 午後  
Blogger yoji said...

真田丸の最終回、大坂夏の陣で大野治長のミスで秀頼の馬印の後退させてしまい、味方の志気が下がって負けたというエピソードが秀逸だった。パジェス『日本切支丹宗門史』上岩波文庫395頁にあるエピソードだが、他のドラマで採用されたことはあるのだろうか?
畠山重忠の戦いはそれと対照的だ。

6:03 午前  

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