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\ \ 身分 時代\ | |||||||
男 性 七九 | 女 性 二一 | ||||||
天皇七 親王一 | 官人 五八 (藤原姓二五) | 僧侶 一三 | 女帝一 内親王一 | 女房 一七 | 母 二 | ||
万葉集時代 計六 (男五、 女一) | 天智 天皇 (1) | 人麿(3) 赤人(4) 家持(6) 仲麿(7) | 持統 天皇 (2) | ||||
六歌仙 時代 計一二 (男一一、 女一) | 陽成院 (13) 光孝 天皇 (15) | 猿丸大夫(5) 参議篁(11) 河原左大臣け(14) 行平(16) 業平(17) 文屋康秀(22) | 喜撰 (8) 蝉丸 (10) 遍昭 (12) | 小町 (9) | |||
古今集 時代 計一八 (男一七、 女一) | 大江千里お(23) 菅家(24) 宗于げ(28) 躬恒(29) 壬生忠岑(30) 坂上是則(31) 列樹(32) 友則(33) 貫之(35) 清原深養父(36) 文屋朝康(37) | 敏行 (18) 三条右大臣 (25) [貞信公] (26) [兼輔] (27) 興風 (34) | 素性 (21) | [伊勢] (19) | |||
後撰集 以後 千載集 までの 時代 計四八 (男三四、 女一四) | 元良 親王 (20) 三条院 (68) | 参議等け(39) 平兼盛へ(40) 壬生忠見(41) 清原元輔(42) 曽禰好忠(46) 源重之げ(48) 能宣(49) | [敦忠](43) [朝忠](44) [謙徳公](45) 義孝(50) 実方(51) 道信(52) [公任](55) [道雅](63) [定頼](64) | 恵慶 (47) 能因 (69) 良暹 (70) | [右近](38) 和泉式部お(56) [紫式部](57) [大弐三位](58) 赤染衛門お(59) 小式部内侍お(60) 伊勢大輔(61) 清少納言(62) 相模お(65) | [道綱母] (53) [儀同三司母] (54) | |
崇徳院 (77) | 経信け (71) 匡房お (73) 俊頼げ (74) 兼昌げ (78) | 基俊(75) [法性寺 入道](76) [顕輔](79) [後徳大寺 左大臣](81) 清輔(84) | 行尊け (66) [道因] (82) 俊恵け (85) | 周防内侍へ (67) 紀伊へ (72) 堀河け (80) | |||
新古今集 時代 計一六 (男一二、 女四) | 後鳥羽 院 (99) 順徳院 (100) | 実朝け (93) | [俊成](83) [良経](91) [雅経](94) [公経](96) [定家](97) [家隆](98) | 西行 (86) [寂蓮] (87) [慈円] (95) | 式子 内親王 (89) | 皇嘉門院別当け (88) [殷富門院大輔] (90) 二条院讃岐け (92) |
\ \ 身分 \ 主題 \ | ||||||||
男 性 七九 | 女 性 二一 | |||||||
天皇七 親王 <一> | 官人 五八 (藤原姓二五) | 僧侶 一三 | 女帝一 内親王 <一> | 女房 一七 | 母 二 | |||
四季 三二 | 春六 | 15 | 33 35 73 | 9 61 | ||||
夏四 | 36 | (81)(98) | 2 | |||||
秋 一六 | 1 | 5 17 22 23 29 32 37 71け | (79)(91) (94) | 47 69 70 (87) | ||||
冬 六 | 4 6 28げ 31 78げ | (64) | ||||||
羇旅 四 | 7 11 24 93け | |||||||
離別 一 | 16 | |||||||
雑部 二〇 | 68 99 100 | (26) 34 (55) 75 (76) (83) 84 (96) | 8 10 12 66け (95) | (57) 60 62 67へ | ||||
恋 四三 | 13 77 <20> | 3 14け 30 39け40へ 41 42 46 48げ 49 74げ | 18 (25) (27)(43) (44)(45) 50 51 52 (63) (97) | 21 (82) 85け 86 | <89> | (19) (38) 56 (58) 59 65 72 80け 88け (90) 92け | (53) (54) |
\ \ 身分 歌集\ | ||||||||
男 性 七九 | 女 性 二一 | |||||||
天皇七 親王一 | 官人 五八 (藤原姓二五) | 僧侶 一三 | 女帝一 内親王一 | 女房 一七 | 母 二 | |||
古今集24 | 春 | 15光孝天皇 | 33友則 35貫之 | 9小町 | ||||
夏 | 36深養父 | |||||||
秋 | 5猿丸大夫 17業平 22文屋康秀 23大江千里 29躬恒 32列樹 | |||||||
冬 | 28宗于 31坂上是則 | |||||||
離 | 16行平 | |||||||
旅 | 7仲麿 11参議篁 24菅家 | |||||||
恋 | 14河原左大臣 30壬生忠岑 | 18敏行 | 21素性 | |||||
雑 | 34興風 | 8喜撰 12遍昭 | ||||||
後撰集 7 | 秋 | 1天智天皇 | 37文屋朝康 | |||||
恋 | 13陽成院 20元良親王 | 39参議等 | 25 三条右大臣 | |||||
雑 | 10蝉丸 | |||||||
拾遺集 11 | 秋 | 47恵慶 | ||||||
恋 | 3人麿 40平兼盛 41壬生忠見 | 43敦忠 44朝忠 45謙徳公 | 38右近 | 53 道綱母 | ||||
雑 | 26貞信公 55公任 | |||||||
後拾遺集 14 | 春 | 73匡房 | ||||||
秋 | 69能因 70良暹 | |||||||
恋 | 42清原元輔 | 50義孝 51実方 52道信 63道雅 | 56和泉式部 58大弐三位 59赤染衛門 65相模 | |||||
雑 | 68三条院 | 62清少納言 | ||||||
金葉集 5 | 春 | 71経信 | ||||||
秋 | 78兼昌 | |||||||
恋 | 72紀伊 | |||||||
雑 | 66行尊 | 60 小式部内侍 | ||||||
詞花集 5 | 春 | 61伊勢大輔 | ||||||
恋 | 77崇徳院 | 48源重之 49能宣 | ||||||
雑 | 76 法性寺入道 | |||||||
千載集 14 | 春 | 81 後徳寺左大臣 | ||||||
秋 | 64定頼 | |||||||
恋 | 74俊頼 | 82道因 85俊恵 86西行 | 80堀河 88 皇嘉門院別当 90 殷富門院大輔 92 二条院讃岐 | |||||
雑 | 75基俊 83俊成 | 95慈円 | 67周防内侍 | |||||
新古今集 14 | 夏 | 2 持統天皇 | ||||||
秋 | 79顕輔 91良経 94雅経 | 87寂蓮 | ||||||
冬 | 4赤人 6家持 | |||||||
恋 | 46曽禰好忠 | 27兼輔 | 89 式子 内親王 | 19伊勢 | 54 儀同三司母 | |||
雑 | 84清輔 | 57紫式部 | ||||||
新勅撰集 4 | 夏 | 98家隆 | ||||||
恋 | 97定家 | |||||||
雑 | 96公経 | |||||||
旅 | 93実朝 | |||||||
続後撰集 2 | 雑 | 99後鳥羽院 100順徳院 |
\ | 思ふ | | 命他 | 夢他 | 月 | | 独寝 | | | 秋 | | 花 | 舟 | | ||||
86 | | 68 | | 57 | | | | | | | | | ||||||
忍ぶ | 100 | 39 | 40 | 89 | 14 | 17 | 9 | |||||||||||
風 | 97 | 98 | 58 | 48 | 37 | 79 | 94 | 71 | 12 | 32 | 69 | 96 | 22 | |||||
84 | 29 | 24 | ||||||||||||||||
恋 | 41 | 6 | 44 | 19 | 77 | 56 | 26 | 33 | ||||||||||
82 | 7 | 60 | 61 | |||||||||||||||
85 | 23 | 13 | ||||||||||||||||
54 | 59 | 27 | 3 | 88 | 20 | 5 | 45 | 66 | 74 | 55 | ||||||||
47 | 36 | |||||||||||||||||
命? | 49 | 38 | 70 | 81 | 91 | 78 | 83 | 73 | 76 | |||||||||
87 | 62 | |||||||||||||||||
35 | 80 | 50 | 21 | 53 | 25 | 34 | 11 | |||||||||||
朝他 | 43 | 75 | 31 | 52 | 64 | 8 | ||||||||||||
51 | 30 | 10 | 16 | |||||||||||||||
63 | 4 | 15 | 28 | 46 | ||||||||||||||
99 | 18 | |||||||||||||||||
67 | ||||||||||||||||||
袖 | | | | 95 | 2 | 1 | 65 | 42 | 72 | 92 | 90 | 93 |
歌番号 | 句 (括弧内は歴史的仮名遣による読み、 太字は決まり字) | 作者 (括弧内は現代仮名遣いによる読み) | かるた 読み札 |
---|---|---|---|
一 | 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ (あきのたの かりほのいほの とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ) 秋の田の傍にある仮小屋の屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてゆくばかりだ。☆ | 天智天皇 (てんじてんのう) 626~671 称制661~667 在位668~671 第38代天皇。中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし(乙巳の変)、大化の改新を断行。近江大津宮に遷都の後、即位。庚午年籍を作成し、近江令を制定した。現在、天智天皇を祭る近江神宮では、かるた祭や各種のかるた大会が行われている。 持統天皇 2 の父。 | |
二 | 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 (はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほすてふ あまのかぐやま) 春が過ぎて夏が来たらしい。夏に純白の衣を干すという天の香具山なのだから。☆ | 持統天皇 (じとうてんのう) 645~702 称制686~689 在位690~697 第41代天皇。天智天皇 1の第2皇女。天武天皇の皇后。飛鳥浄御原宮で即位し、飛鳥浄御原令の施行や藤原京遷都などを行い律令体制の基礎を構築した。 | |
三 | あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む (あしびきの やまどりのをの しだりをの ながながしよを ひとりかもねむ) 山鳥の尾の垂れ下がった尾が長々と伸びているように、秋の長々しい夜を一人で寝ることになるのだろうか。☆ | 柿本人麻呂 (かきのもとのひとまろ) 生没年不詳。白鳳時代を代表する歌人。歌聖。三十六歌仙の一人。雄大で力強い歌風に特徴があり、長歌の完成度は比類がない。下級官吏という説があるものの詳細は不明。 | |
四 | 田子の浦に うちいでてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ (たごのうらに うちいでてみれば しろたへの ふじのたかねに ゆきはふりつつ) 田子の浦に出てみると、まっ白な富士の高嶺に今も雪は降り続いていることだ。☆ | 山部赤人 (やまべのあかひと) 生没年不詳。奈良前期の歌人。柿本人麻呂と並ぶ歌聖。三十六歌仙の一人。自然を題材とする歌が多い。下級官吏であったという説があるものの詳細は不明。 | |
五 | 奥山に もみぢふみわけ なく鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき (おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき) 奥山で紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞く時こそ、秋の悲しさを感じるものだ。☆ | 猿丸太夫 (さるまるだゆう) 生没年不詳。8世紀後半から9世紀前半頃の歌人と推定されるも詳細は不明。三十六歌仙の一人。古今集の真名序にその名が記されている。 | |
六 | かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きをみれば 夜ぞふけにける (かささぎの わたせるはしに おくしもの しろきをみれば よぞふけにける) かささぎが連なって渡したという橋、つまり、宮中の階段におりる霜が白いのをみると、もう夜もふけてしまったのだなあ。☆ 「かささぎの 渡せる橋」には天の川説があり、白洲正子などもその説をとっている。 | 中納言家持 (ちゅうなごんやかもち) 718?~785 大伴旅人の子。奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。万葉集の編者とされ、収録数は最多。越中守をはじめ地方・中央の官職を歴任。中納言。 | |
七 | 天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも (あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも) 長安の天空をふり仰いで眺めると、今見ている月は、むかし奈良の春日にある三笠山に出ていた月と同じ月なのだなあ。☆ (注:歌が詠まれたのは唐と伝わる。百人一首で唯一外国で詠まれた歌ということになる。) | 阿倍仲麻呂 (あべのなかまろ) 阿倍仲麻呂。698?~770?717年の遣唐使に随行し、留学生として入唐。科挙に合格して玄宗に重用されるとともに、李白・王維らと交流するなど幅広く活躍。海難により帰国は果たせず、唐で没する。中国名、朝衡。 | |
八 | わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり (わがいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうぢやまと ひとはいふなり) 私の庵は都の東南にあり、このように心静かに暮らしている。それにもかかわらず、私が世を憂いて宇治山に引きこもったと世間の人は言っているようだ。☆ | 喜撰法師 (きせんほうし) 生没年不詳。平安初期の歌人。六歌仙の一人。 | |
九 | 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに (はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに) 桜の花はむなしく色あせてしまった。長雨が降っていた間に。(私の容姿はむなしく衰えてしまった。日々の暮らしの中で、もの思いしていた間に。)☆ | 小野小町 (おののこまち) 生没年不詳。平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。絶世の美人とされ、数多くの伝説を残す。 | |
十 | これやこの 行くも帰るも わかれては しるもしらぬも 逢坂の関 (これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき) これが例の、都から離れて行く人も都へ帰る人も、知っている人も知らない人も、出逢いと別れをくり返す逢坂の関なのです。☆ | 蝉丸 (せみまる) 生没年不詳。平安前期の歌人。盲目の琵琶の名手との説があり、敦実親王に仕えたとも、醍醐天皇の第四皇子とも伝えられるものの、詳しい経歴は不明。 | |
十一 | わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟 (わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね) 大海原のたくさんの島々を目指して漕ぎ出してしまったと都にいる人に伝えてくれ。漁師の釣舟よ。☆ | 参議篁 (さんぎたかむら) 小野篁 (おののたかむら) 802~852 文人官僚。令義解を編纂。遣唐副使となるも、二度の渡航に失敗した後、三度目は大使藤原常嗣と乗船の選定で衝突して渡航拒否。嵯峨上皇の逆鱗に触れ、隠岐に配流。後に許されて参議となる。 | |
十二 | 天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ (あまつかぜ くものかよひぢ ふきとぢよ をとめのすがた しばしとどめむ) 天の風よ。雲間の通り道を閉ざしてくれ。天女の舞い姿をしばらくとどめておきたいのだ。 (注:宮中で五節の舞を見て詠んだ歌。)☆ | 僧正遍昭 (そうじょうへんじょう) 遍照(遍昭) 俗名良岑宗貞 (よしみねのむねさだ) 816~890 六歌仙・三十六歌仙の一人。桓武天皇の孫。素性 21 の父。仁明天皇に仕え、左近衛少将、蔵人頭を歴任したが、天皇の崩御により出家。 | |
十三 | つくばねの 峰よりおつる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる (つくばねの みねよりおつる みなのがは こひぞつもりて ふちとなりぬる) 筑波山の峰から落ちる男女川の水かさが増えるように、私の恋心も積もりに積もって淵のように深くなってしまった。☆ (筑波嶺、みなの川) | 陽成院 (ようぜいいん) 陽成天皇。868~949 在位876~884 第57代天皇。9才で清和天皇から譲位されて即位したが、藤原基経によって廃位された(次の第58代天皇が光孝天皇 15 )。 元良親王 20 の父。 | |
十四 | みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに みだれそめにし 我ならなくに (みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに みだれそめにし われならなくに) 陸奥のしのぶずりの模様のように心が乱れはじめたのは誰のせいか。私のせいではないのに。☆ | 河原左大臣 (かわらのさだいじん) 源融 (みなもとのとおる) 822~895 嵯峨天皇の皇子で臣籍降下し、源の姓を賜る。六条河原に住んだことから河原左大臣とよばれた(光源氏のモデル?)。宇治の別邸は後に平等院となる。贈正一位。 | |
十五 | 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ (きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ) あなたのために春の野に出かけて若菜をつんでいる私の衣の袖に、次々と雪が降りかかってくる。☆ | 光孝天皇 (こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)は、第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。藤原氏は、この天皇の治世で初めて関白を出した。 830~887 在位884~887 第58代天皇。藤原基経により廃位された陽成天皇 13 に代わって55歳で即位。 | |
十六 | 立ちわかれ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いまかへりこむ (たちわかれ いなばのやまの みねにおふる まつとしきかば いまかへりこむ) あなたと別れて因幡へ赴任して行っても、稲葉山の峰に生えている松ではないが、待っていると聞いたならば、すぐに帰ってこよう。☆ | 中納言行平 (ちゅうなごんゆきひら) 在原行平(ありわらのゆきひら) 818~893 平城天皇の孫。業平 17 の兄。一門の子弟を教育するため、奨学院を設立。因幡守・太宰権帥・民部卿などを歴任。 | |
十七 | ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは (ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは) 神代にすら聞いたことがない。竜田川が紅葉によって水を真っ赤に染め上げているとは。☆(ちはやぶる ― 「神」にかかる枕詞。) | 在原業平朝臣 (ありわらのなりひらあそん) 在原業平 825~880 平城天皇の孫で行平 16 の弟。六歌仙・三十六歌仙の一人。美男で、『伊勢物語』の主人公とされる。 | |
十八 | 住の江の 岸による波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ (すみのえの きしによるなみ よるさへや ゆめのかよひぢ ひとめよくらむ) 住の江の岸には昼夜を問わず波が打ち寄せてくる。夜に見る夢の中でさえ、あなたが私のところに通ってくれないのは、人目を避けているからだろうか。☆ | 藤原敏行朝臣 (ふじわら の としゆき、生年不詳 - 延喜7年(907年)、または、延喜元年(901年))は、平安時代初期の歌人、書家。藤原南家、藤原巨勢麻呂の後裔。陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の子。官位は従四位上・右兵衛督。三十六歌仙の一人。小野道風が古今最高の能書家として空海とともに名を挙げた。 | |
十九 | 難波潟 みじかき蘆の ふしのまも あはでこの世を すぐしてよとや (なにはがた みじかきあしの ふしのまも あはでこのよを すぐしてよとや) 難波潟に生えている芦の短い節の間のような、ほんの短い時間も逢わないまま、一生を終えてしまえとあなたは言うのでしょうか。☆ | 伊勢 (いせ) (872年(貞観14年)頃 - 938年(天慶元年)頃)は平安時代の日本の女性歌人。三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。藤原北家真夏流、伊勢守藤原継蔭の娘。伊勢の御(いせのご)、伊勢の御息所とも呼ばれた。情熱的な恋歌で知られ、『古今和歌集』(22首)以下の勅撰和歌集に176首が入集し、『古今和歌集』・『後撰和歌集』(65首)・『拾遺和歌集』(25首)では女流歌人として最も多く採録されている。 | |
二十 | わびぬれば いまはたおなじ 難波なる 身をつくしても あはむとぞ思ふ (わびぬれば いまはたおなじ なにはなる みをつくしても あはむとぞおもふ) 思いどおりにいかなくなってしまったのだから、今となっては同じことだ。難波にある航行の目印、澪標(みおつくし)ではないが、身を尽くしても逢おうと思う。☆ | 元良親王 (もとよししんのう、890年(寛平2年) - 943年9月3日(天慶6年7月26日))は平安時代中期の皇族、歌人。陽成天皇 20 の第一皇子であるが、父帝の譲位後に生まれた。母は藤原遠長の娘。 色好みの風流人として知られ大和物語や今昔物語集に逸話が残るが、とくに宇多院の妃藤原褒子との恋愛が知られる。後撰和歌集に20首入集。 | |
二十一 | 今こむと いひしばかりに 長月の 有明の月を まちいでつるかな (いまこむと いひしばかりに ながつきの ありあけのつきを まちいでつるかな) あなたがすぐに来ると言ったばかりに秋の夜長を待っていたら、有明の月が出てしまった。☆ | 素性法師 (そせいほうし) 素性 俗名良岑玄利 (よしみねのはるとし) 生没年不詳。遍照 12 の子。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。左近将監に任官した後に出家し、権律師となる。 | |
二十二 | 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ (ふくからに あきのくさきの しをるれば むべやまかぜを あらしといふらむ) 吹くとすぐに秋の草木がしおれるので、なるほど山風を嵐というのだろう。☆ | 文屋康秀 (ふんやのやすひで) 生没年不詳。平安前期の歌人。六歌仙の一人。文屋朝康 37 の父。 | |
二十三 | 月みれば ちぢにものこそ かなしけれ わが身一つの 秋にはあらねど (つきみれば ちぢにものこそ かなしけれ わがみひとつの あきにはあらねど) 月を見ると、いろいろと物事が悲しく感じられる。私ひとりの秋ではないのだが。☆ | 大江千里 (おおえのちさと) 生没年不詳。平安前期の歌人、漢学者。中古三十六歌仙の一人。在原行平 16 ・業平 17 の甥。宇多天皇の勅命により『句題和歌』を編纂。 | |
二十四 | このたびは ぬさもとりあへず 手向山 もみぢのにしき 神のまにまに (このたびは ぬさもとりあへず たむけやま もみぢのにしき かみのまにまに) 今度の旅は、御幣をささげることもできない。とりあえず、手向けに山の紅葉を錦に見立てて御幣の代わりにするので、神の御心のままにお受け取りください。☆ | 菅家 (かんけ) 菅原道真 (すがわらのみちざね) 845~903 文人官僚。894年、遣唐使に任ぜられたが、建言により廃止。従二位・右大臣となるも、藤原時平によ り太宰権帥に左遷。学問・詩文に優れ、『類聚国史』、『三代実録』などを編集。没後、学問の神、天満天神とされる。贈正一位。 | |
二十五 | 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人にしられで 来るよしもがな (なにしおはば あふさかやまの さねかづら ひとにしられで くるよしもがな) 逢坂山のさねかずらが逢って寝るという名を持っているのであれば、さねかずらが蔓を手繰れば来るように、誰にも知られずにあなたを手繰り寄せる方法がほしいものだなあ。☆ (逢う坂) | 三条右大臣 (さんじょうのうだいじん) 藤原定方 (ふじわらのさだかた) 873~932 三条に邸宅があったことから三条右大臣とよばれた。藤原朝忠 44 の父。 | |
二十六 | 小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば いまひとたびの みゆきまたなむ (をぐらやま みねのもみぢば こころあらば いまひとたびの みゆきまたなむ) 小倉山の紅葉よ。お前に心があるなら、いま一度の行幸があるまで散らずに待っていてほしい。☆ | 貞信公 (ていしんこう) 藤原忠平 (ふじわらのただひら) 880~949 平安中期の貴族。藤原基経の子。時平の弟。「延喜格式」を完成。摂政・関白・太政大臣を歴任。長期にわたって政権の中枢に位置し、藤原摂関家の基礎をかためる。従一位・贈正一位。貞信公は諡号。 | |
二十七 | みかの原わきて流るるいづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ (みかのはら わきてながるる いづみがは いつみきとてか こひしかるらむ) みかの原を分かつように湧き出て流れる泉川ではないが、いつ逢ったということで、こんなにも恋しいのだろう。☆ (みかの原、いづみ川) | 中納言兼輔 (ちゅうなごんかねすけ) 藤原兼輔 (ふじわらのかねすけ) 877~933 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。加茂川の近くに邸宅があり、堤中納言とよばれた。 | |
二十八 | 山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば (やまざとは ふゆぞさびしさ まさりける ひとめもくさも かれぬとおもへば) 山里は、冬に一段と寂しくなるものだなあ。人も来なくなり、草も枯れてしまうと思うので。☆ | 源宗行朝臣 (みなもとのむねゆきあそん) 源宗于 ?~939 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇の孫でありながら、官位に恵まれず正四位下右京大夫にとどまる。『大和物語』に不遇を嘆く歌を残す。 | |
二十九 | 心当てに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花 (こころあてに をらばやをらむ はつしもの おきまどはせる しらぎくのはな) 当てずっぽうで折るなら折ってみようか。初霜がおりて区別しにくくなっている白菊の花を。☆ | 凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) 生没年不詳。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』撰者の一人。官位は低かったが、紀貫之 35 とならぶ歌壇の中心的人物とされた。 | |
三十 | 有明の つれなく見えし 別れより あかつきばかり うきものはなし (ありあけの つれなくみえし わかれより あかつきばかり うきものはなし) 有明の月がつれなく見えた。薄情に思えた別れの時から、夜明け前ほど憂鬱なものはない。☆ | 壬生忠岑 (みぶのただみね) 生没年不詳。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』の撰者の一人。忠見 41 の父。 | |
三十一 | 朝ぼらけ 有明の月と見るまでに 吉野の里に 降れる白雪 (あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに よしののさとに ふれるしらゆき) 夜がほのかに明けるころ、有明の月かと思うほどに、吉野の里に降っている白雪であることよ。☆ | 坂上是則 (さかのうえのこれのり) 生没年不詳。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。坂上田村麻呂の子孫といわれ、蹴鞠の名手と伝えられる。 | |
三十二 | 山川に 風のかけたる しがらみは ながれもあへぬ もみぢなりけり (やまがはに かぜのかけたる しがらみは ながれもあへぬ もみぢなりけり) 山中を流れる川に風がかけたしがらみは、完全に流れきらずにいる紅葉だったのだなあ。☆ (注:古今集の詞書は「志賀の山越えにてよめる」。) | 春道列樹 (はるみちのつらき) ?~920 平安前期の歌人。壱岐守に任ぜられたが赴任前に没した。 | |
三十三 | 久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ (ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづこころなく はなのちるらむ) 日の光がのどかに降りそそぐ春の日に、どうして落ち着いた心もなく、桜の花は散ってしまうのだろう。☆ | 紀友則 (きのとものり) 生没年不詳。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』の撰者の一人であるが、完成前に没した。紀貫之 35 の従兄弟。 | |
三十四 | 誰をかも しる人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに (たれをかも しるひとにせむ たかさごの まつもむかしの ともならなくに) いったい誰を知己にしようか。いくら高砂の松が長寿だからといっても、昔からの友ではないのだから。☆ | 藤原興風 (ふじわらのおきかぜ) 生没年不詳。9世紀後半?~10世紀前半?平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。管弦の名手。 | |
三十五 | 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける (ひとはいさ こころもしらず ふるさとは はなぞむかしの かににほひける) あなたのおっしゃることは、さあ、本心なんでしょうか。私には分からないですね。なじみの土地では、昔と同じ花の香りが匂ってくるのものですよ。☆ (注:古今集の詞書によればこの「古郷」は、初瀬と平安京の間のどこか。) | 紀貫之 (きのつらゆき) 866?~945? 平安前期を代表する歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』*の撰者の一人にして仮名序の執筆者*。最初のかな日記である『土佐日記』を著す。 *「六歌仙」を選んだ。 | |
三十六 | 夏の夜は まだ宵ながら あけぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ (なつのよは まだよひながら あけぬるを くものいづこに つきやどるらむ) 夏の夜は、まだ宵だと思っているうちに明けてしまったが、雲のどのあたりに月はとどまっているのだろう。☆ | 清原深養父 (きよはら の ふかやぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。父は豊前介・清原房則。孫に清原元輔 42 、曾孫に清少納言 62 がいる。官位は従五位下・内蔵大允。中古三十六歌仙の一人。) | |
三十七 | 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける (しらつゆに かぜのふきしく あきののは つらぬきとめぬ たまぞちりける) 白露に風がしきりに吹きつける秋の野は、紐で貫き留めていない玉が散っているのだよ。☆ | 文屋朝康 (ふんやのあさやす) 生没年不詳。平安前期の歌人。康秀 22 の子。 | |
三十八 | 忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな (わすらるる みをばおもはず ちかひてし ひとのいのちの をしくもあるかな) あなたに忘れ去られる私自身については何とも思わないですが、永遠の愛を神に誓ったあなたの命が、誓いを破った罰として失われることが惜しいだけなのですよ。☆ ○ 忘らるる ― 「るる」は、受身の助動詞「る」の連体形。男(『大和物語』によると藤原敦忠 43 )に捨てられ、忘れられることを表す。 | 右近 (うこん) 平安時代中期の女流歌人。父は右近衛少将藤原季縄。醍醐天皇の中宮穏子に仕えた女房で、元良親王 20 ・藤原敦忠 43 ・藤原師輔・藤原朝忠 44 ・源順(みなもとのしたごう)などと恋愛関係があった。960年(天徳4年)と962年(応和2年)の内裏歌合・966年(康保3年)の内裏前栽合(だいりぜんざいあわせ)などの歌合に出詠、村上天皇期の歌壇で活躍した。 『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『新勅撰和歌集』に入集している。 | |
三十九 | 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき (あさぢふの をののしのはら しのぶれど あまりてなどか ひとのこひしき) 浅茅が生えている小野の篠原の“しの”のように忍んでいるけれども、どうしてあの人のことが、どうしようもなく恋しいのだろう。☆ | 参議等 (さんぎひとし) 源等 (みなもとのひとし) 880~951 平安中期の歌人。嵯峨天皇の曾孫。中納言源希の子。 | |
四十 | しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は 物や思ふと 人の問ふまで (しのぶれど いろにいでにけり わがこひは ものやおもふと ひとのとふまで) 他人には気付かれないように耐え忍んできたけれど、顔色に出てしまっているのだ。私の恋は。「恋の物思いをしているのですか」と他人が問うほどまで。☆ | 平兼盛 (たいらのかねもり) ?~990 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇 15 の玄孫。家柄に比べて官位は低かったが、後撰集時代を代表する歌人となった。 赤染衛門 59 の父。 | |
四十一 | 恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか (こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか) 恋をしているという私の噂が早くも立ってしまったのだよ。他人に知られないように思いはじめていたのに。☆ | 壬生忠見 (みぶのただみ) 生没年不詳。平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。忠岑 30 の子。 | |
四十二 | ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは (ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すゑのまつやま なみこさじとは) 約束したのだなあ。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を波が越さないように、二人の愛が永遠であることを。☆ | 清原元輔 (きよはらのもとすけ) 908~990 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。深養父 36 の孫。清少納言 62の父。梨壺の五人の一人として『後撰集』を編纂。 | |
四十三 | あひみての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり (あひみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもはざりけり) あなたを抱いた後の恋しさに比べると、昔の恋の物思いなどは何も思っていなかったのと同じであったなあ。☆ | 権中納言敦忠 (ごんちゅうなごんあつただ) 藤原敦忠 (ふじわらのあつただ) 906~943 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。時平の子。管弦の名手。 | |
四十四 | あふことの たえてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし (あふことの たえてしなくば なかなかに ひとをもみをも うらみざらまし) 男女関係が絶対にないのであれば、かえって、あの人に相手にされないことも自分自身のふがいなさも恨むことはないのに。☆ | 中納言朝忠 (ちゅうなごんあさただ) 藤原朝忠 (ふじわらのあさただ) 910~966 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。定方 25 の子。笙の名手。大食による肥満であったと伝わる。 | |
四十五 | あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな (あはれとも いふべきひとは おもほえで みのいたづらに なりぬべきかな) 私のことをかわいそうにといってくれるはずの人は思い浮かばず、はかなく死んでいくのだろうなあ。☆ | 謙徳公 (けんとくこう) 藤原伊尹 (ふじわらのこれただ・これまさ) 924~972 平安中期の貴族、歌人。『後撰集』の撰者にして和歌所別当。摂政・太政大臣を歴任。正二位・贈正一位。謙徳公は諡号。容姿端麗と伝わる。 藤原義孝 50の父。 | |
四十六 | 由良のとを 渡る舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな (ゆらのとを わたるふなびと かぢをたえ ゆくへもしらぬ こひのみちかな) 由良の瀬戸を漕ぎ渡ってゆく船頭が櫂(櫓)がなくなって、行き先もわからず漂流するように、この先どうなるかわからない恋の道だなあ。☆ (由良の門) | 曽禰好忠 (そねのよしただ) 生没年不詳。平安中期の歌人。丹後掾。中古三十六歌仙の一人。自信家で奇人と伝わる。 | |
四十七 | 八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり (やへむぐら しげれるやどの さびしきに ひとこそみえね あきはきにけり) 幾重にもつる草が生い茂っている家、さびしい家に人は訪ねてこないが、秋だけはやって来たのだよ。☆ (注:拾遺集の詞書によればこの「宿」は河原院。京六条、鴨川畔。) | 恵慶法師 (えぎょうほうし) 恵慶 生没年不詳。平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。播磨国の講師(国分寺の僧)と伝わる。 | |
四十八 | 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな (かぜをいたみ いはうつなみの おのれのみ くだけてものを おもふころかな) 風が激しいせいで岩を打つ波が、自分だけで砕け散るように、私だけが砕け散るような片思いにふけるこのごろだなあ。☆ | 源重之 (みなもとのしげゆき) ?~1000? 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。清和天皇の曾孫。地方官を歴任。陸奥守に左遷された藤原実方 51 とともに陸奥に下って没した。 | |
四十九 | みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ (みかきもり ゑじのたくひの よるはもえ ひるはきえつつ ものをこそおもへ) 皇宮警備の衛士の焚く火が、夜は燃えて昼は消えることをくり返すように、私の恋の炎も夜は燃えて昼は消えることをくり返しながら、物思いにふける日々が果てしなく続くのだ。☆ (注:「みかき」は御垣。宮門のこと。) | 大中臣能宣朝臣 (おおなかとみのよしのぶあそん) 921~991 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。梨壺の五人の一人として『後撰集』を編纂。伊勢大輔 61 の祖父。神官。 | |
五十 | 君がため 惜しからざりし いのちさへ 長くもがなと 思ひけるかな (きみがため をしからざりし いのちさへ ながくもがなと おもひけるかな) 君のためには惜しくなかった命でさえ、結ばれた今となっては、長くありたいと思うようになったよ。☆ | 藤原義孝 (ふじわらのよしたか) 954~974 平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。伊尹(謙徳公 45 )の子。行成(三蹟の一人)の父。天然痘により兄挙賢と同日死去。 | |
五十一 | かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな もゆる思ひを (かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしもしらじな もゆるおもひを) (伊吹) 「こんなに愛している」とさえ言えないのですから、伊吹山のさしも草ではありませんが、それほどとはご存じないでしょう。あなたへの燃える思いを。☆ | 藤原実方朝臣 (ふじわらのさねかたあそん) 藤原実方 ?~998 平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。左近中将となったが、宮中で不祥事を起こして陸奥守に左遷され、任地で没した。多数の女性と交遊関係を持ち、清少納言 62 も愛人の一人であった。 | |
五十二 | あけぬれば 暮るるものとは 知りながら なほうらめしき 朝ぼらけかな (あけぬれば くるるものとは しりながら なほうらめしき あさぼらけかな)夜が明けてしまうと、必ず暮れて、あなたに逢えるとは知ってはいるものの、それでも恨めしい夜明けだなあ。☆ | 藤原道信朝臣 (ふじわらのみちのぶあそん) 藤原道信 972~994 平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。23歳で早世。 | |
五十三 | なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる (なげきつつ ひとりぬるよの あくるまは いかにひさしき ものとかはしる) あなたが来てくださらないことを嘆きながら一人で寝る夜が明けるまでの間は、どれほど長いものかご存知でしょうか。ご存知ないでしょう。☆ | 右大将道綱母 (うだいしょうみちつなのはは) 藤原道綱母 (ふじわらのみちつなのはは) ?~995 実名不明。平安中期の歌人。藤原倫寧の娘。藤原兼家の妻で道綱の母。『蜻蛉日記』の作者。 | |
五十四 | 忘れじの ゆく末までは かたければ 今日をかぎりの いのちともがな (わすれじの ゆくすゑまでは かたければ けふをかぎりの いのちともがな) 忘れはしまいとおっしゃるお言葉は、遠い未来まではあてにしがたいので、今日を限りの命であってほしいものです。☆ | 儀同三司母 (ぎどうさんしのはは) ?~996 高階成忠の娘、貴子。藤原道隆の妻で伊周(儀同三司)、隆家、定子の母。平安中期の歌人。 | |
五十五 | 滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ (たきのおとは たえてひさしく なりぬれど なこそながれて なほきこえけれ) 滝の音は聞こえなくなってから長い年月がたったが、音の評判だけは世間に流れて、今もなお聞こえているなあ。☆ (注:拾遺集の詞書などによれば、嵯峨の大覚寺で詠まれた歌。) | 大納言公任 (だいなごんきんとう) 藤原公任 (ふじわらのきんとう) 966~1041 平安中期の歌人。藤原定頼 64 の父。諸芸に優れ、『和漢朗詠集』、『拾遺抄』、『三十六人撰』*を撰し、歌論書『新撰髄脳』、『和歌九品』、有職故実書『北山抄』、家集『公任集』などを著す。*三十六歌仙の撰者。 | |
五十六 | あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな (あらざらむ このよのほかの おもひでに いまひとたびの あふこともがな) 私は、そう長くは生きていないでしょう。あの世へ行ったときの思い出のために、もう一度あなたに抱かれたいものです。☆ | 和泉式部 (いずみしきぶ) 生没年不詳。平安中期の歌人。大江雅致(まさむね)の娘。和泉守橘道貞の妻。小式部内侍 60 の母。『和泉式部日記』の作者。不貞により離縁され、父からも勘当された後、藤原保昌と再婚したが、不遇のうちに生涯を終えたとされる。 | |
五十七 | めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな (めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし よはのつきかな) めぐりあって見たのがそれだったのか、それでなかったのかも判らない間に雲隠れしてしまった夜中の月のように、(幼なじみの)あなたはあっという間にいなくなってしまいましたね。☆ | 紫式部 (むらさきしきぶ) 屈指の学者、詩人である藤原為時の娘。藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位 58)を産んだ。夫の死後、召し出されて一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えている間に、『源氏物語』を記した。 | |
五十八 | ありま山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする (ありまやま ゐなのささはら かぜふけば いでそよひとを わすれやはする) 有馬山、猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音を立てる。さあ、そのことですよ。(あなたは、私が心変わりしたのではないかと気がかりだなどとおっしゃいますが、)私がどうしてあなたのことを忘れたりするものですか。☆ | 大弐三位 (だいにのさんみ) (長保元年(999年)頃? -永保2年(1082年)頃?)は、平安中期の女流歌人。女房三十六歌仙の一人。藤原宣孝の女、母は紫式部 57 。本名は藤原賢子(ふじわら の かたいこ/けんし)。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれる。 | |
五十九 | やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな (やすらはで ねなましものを さよふけて かたぶくまでの つきをみしかな) いらっしゃらないことがはじめからわかっていたなら、ためらわずに寝てしまったでしょうに。今か今かとお待ちするうちに夜も更けてしまい、西に傾くまでの月を見たことですよ。☆ ○ やすらはで ― 「やすらは」は、ハ行四段の動詞「やすらふ」の未然形で、ためらう・ぐずぐずするの意。「で」は、打消の接続助詞で、~ないでの意。 ○ 寝なましものを ― 「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「ものを」は、逆接の接続助詞。「寝なましものを」で、もし~であれば、寝てしまったであろうにの意。 ○ さ夜更けて ― 「さ」は、接頭語。 ○ かたぶくまでの月を見しかな ― 「かたぶく」は、月が西に傾くことで、夜明けが近付いたさまを表す。「まで」は、限定を表す副助詞。「かな」は、詠嘆の終助詞。 | 赤染衛門 (あかぞめえもん) 生没年不詳。平安中期の歌人。赤染時用(ときもち)の娘。実父は、母の前夫平兼盛 40 か。大江匡衡(まさひら)の妻。匡房 73 の曾祖母。中宮彰子に仕えた。『栄花物語』の作者という説も。 | |
六十 | 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 (おほえやま いくののみちの とほければ まだふみもみず あまのはしだて) 大江山を越えて生野を通って行く道は遠いので、まだ天の橋立に行ったこともなければ、母からの手紙も見ていません。☆ ※ 当時、10代半であった小式部内侍の歌が優れていたため、それらの作品は丹後に赴いていた母の和泉式部 56 による代作ではないかとの噂があった。『金葉集』の詞書に、この歌は、歌合の前に藤原定頼 64 が、「代作を頼むために丹後へ人を遣わされましたか」と小式部内侍をからかったことに対する返答として即興で詠まれたものであると記されている。 | 小式部内侍 (こしきぶ の ないし、長保元年(999年)頃 - 万寿2年(1025年)11月)は平安時代の女流歌人。掌侍。女房三十六歌仙の一人。父は橘道貞、母は和泉式部 56 。母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕した。そのため、母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになった。 | |
六十一 | いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな (いにしへの ならのみやこの やへざくら けふここのへに にほひぬるかな) 昔の奈良の都の八重桜が(献上されてきて)、今日、京都の宮中に一層美しく咲きほこっていることですよ。☆ ○ いにしへの奈良の都の八重桜 ― 「奈良」は、元明天皇による和銅3年(710)の遷都から約70年間にわたって帝都であった平城京。伊勢大輔は平安中期の歌人であり、当時の人々にとって、既に古都という印象を持たれていた。「八重桜」は、八重咲きの桜で、ソメイヨシノより開花時期が遅い。 ○ けふ九重に ― 「けふ」は、今日。「いにしへ」との対照。「九重」は、宮中。「八重」との対照。数が多い分、奈良よりも京都で“さらに”美しく咲きほこるさまを強調している。 | 伊勢大輔 (いせのたいふ) 伊勢大輔 (いせのたいふ) 生没年不詳。平安中期の歌人。伊勢の祭主大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘。能宣 49 の孫。高階成順の妻。中宮彰子に仕えた。 | |
六十二 | 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ (よをこめて とりのそらねは はかるとも よにあふさかの せきはゆるさじ)☆ 孟嘗君は、深夜に鶏の鳴きまねを食客にさせて、函谷関の関守をだまして通り抜けましたが、逢坂の関は決して許さないでしょう。 ― あなた(藤原行成。義孝 50 の長男)は、翌日に宮中の物忌があるから鶏の声にせきたてられて帰ったと弁解しますが、そんな嘘は私には通用しませんよ。あなたは深夜に帰ったのであって、朝まで逢瀬を楽しんだのではないのですから、いい加減なことはおっしゃらないでください。 | 清少納言 (せいしょうなごん) 本名・生没年不詳。平安中期の作家・歌人。 清原元輔 42 の娘。深養父 36 の曾孫。中宮定子に仕えた。『枕草子』の作者。和漢の学に通じ、平安時代を代表する女流文学者となった。 実方 51 との贈答が数多く知られ、恋愛関係が想定される。 | |
六十三 | いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな (いまはただ おもひたえなむ とばかりを ひとづてならで いふよしもがな) 今はただ(恋愛を禁じられて監視されているいる)あなた〔前斎宮当子内親王〕への思いをあきらめてしまおうということだけを、人づてではなく直接お目にかかってお話しする方法があればなあ。☆ | 左京大夫道雅 (さきょうのだいぶみちまさ) 藤原道雅 (ふじわらのみちまさ) 993~1054 平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。藤原伊周の子。関白道隆・儀同三司母 54 の孫。父伊周の失脚に加え、当子内親王との密通事件などの悪行によって、家柄に比べて職位ともに低くとどまった。 | |
六十四 | 朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木 (あさぼらけ うぢのかはぎり たえだえに あらはれわたる せぜのあじろぎ) 朝がほのぼのと明けるころ、宇治川の川面に立ちこめていた川霧がところどころ晴れていって、その合間から現れてきたあちこちの瀬に打ち込まれた網代木よ。☆ | 権中納言定頼 (ふじわら の さだより、長徳元年(995年) - 寛徳2年1月19日(1045年2月8日))は平安時代中期の公家・歌人。権大納言・藤原公任 55 の長男。官位は正二位・権中納言。四条中納言と称される。中古三十六歌仙の一人。 少し軽薄な性格であったようで、小式部内侍にやり込められた逸話が残っている。相模 65 や大弐三位 58 などと関係を持った。音楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていたという。 | |
六十五 | うらみわび ほさぬ袖だに あるものを 恋にくちなむ 名こそをしけれ (うらみわび ほさぬそでだに あるものを こひにくちなむ なこそをしけれ) 恨みに恨みぬいて、ついには恨む気力すら失って、涙に濡れた袖が乾く暇もありません。そんな涙で朽ちそうな袖さえ惜しいのに、恋の浮名で朽ちてしまうであろう私の評判がなおさら惜しいのです。☆ | 相模 (さがみ) 生没年不詳。平安中期の歌人。相模守大江公資(きんより)の妻。公資と離婚後、多数の男性と関係を持って評判となった。 | |
六十六 | もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし (もろともに あはれとおもへ やまざくら はなよりほかに しるひともなし) 山桜よ、私がお前を見て趣深く思うように、お前も私のことを愛しいと思ってくれ。私にはお前以外に知人はいないのだから。☆ (注:金葉集の詞書によれば大峯で修行中の作。) | 前大僧正行尊 (さきのだいそうじょうぎょうそん) 1055~1135 平安後期の僧、歌人。源基平の子。天台座主、大僧正。 | |
六十七 | 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそをしけれ (はるのよの ゆめばかりなる たまくらに かひなくたたむ なこそをしけれ) 春の短い夜の夢ほどの添い寝のために、何のかいもない浮名が立ったとしたら、本当に口惜しいことです。☆ | 周防内侍 (すおうのないし) 生没年不詳:1037年(長暦元年)頃 - 1109年(天仁2年)以後 1111年(天永2年)以前)は、平安時代後期の歌人である。女房三十六歌仙の一人。本名は平仲子(たいらのちゅうし)。父は「和歌六人党」の一人、桓武平氏周防守従五位上平棟仲。 | |
六十八 | 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな (こころにも あらでうきよに ながらへば こひしかるべき よはのつきかな) 心ならずも、つらいこの世に生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出すにちがいない、この夜更けの月であるなあ。☆ (注:後拾遺集の詞書によれば、三条院が皇位にあった時、内裏で詠んだ歌。退位の際に詠んだともされる。) | 三条院 (さんじょういん) 三条天皇。976~1017 在位1011~1016 第67代天皇。冷泉天皇の第二皇子[居貞(おきさだ・いやさだ)親王]。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇后宮超子。花山天皇の異母弟。多病と藤原道長の専横により、後一条天皇に譲位。 | |
六十九 | あらし吹く み室の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり (あらしふく みむろのやまの もみぢばは たつたのかはの にしきなりけり) 嵐が吹く三室の山のもみじの葉は、竜田川の水面に落ちて、川を錦に織りなすのだ。☆ | 能因法師 (のういんほうし) 橘永愷 (たちばなのながやす) 988~? 平安中期の歌人。橘諸兄の後裔。藤原長能に和歌を学ぶ。文章生となった後に出家。 | |
七十 | さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづくもおなじ 秋の夕ぐれ (さびしさに やどをたちいでて ながむれば いづくもおなじ あきのゆふぐれ) さびしさに耐えかねて家を出てあたりを見渡すと、どこも同じ寂しい秋の夕暮れだ。☆ | 良選法師 (りょうぜんほうし) 良暹。生没年不詳。平安中期の歌人。祇園別当。 | |
七十一 | 夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く (ゆふされば かどたのいなば おとづれて あしのまろやに あきかぜぞふく) 夕方になると、家の門前の稲の葉に音を立てて、蘆葺きの小屋に秋風が吹いてくることだ。☆ | 大納言経信 (だいなごんつねのぶ) 源経信 (みなもとのつねのぶ) 1016~1097 平安後期の公卿・歌人。俊頼 74 の父。三船(詩・歌・管弦)の才を合わせ持ち、有職故実にも通じた。 | |
七十二 | 音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ (おとにきく たかしのはまの あだなみは かけじやそでの ぬれもこそすれ) 噂に名高い高師の浜のいたずらに立つ波は、かけないように気をつけましょう。袖が濡れると困りますから。 ― 噂に高い浮気者のあなたの言葉なんて信用しませんよ。袖を涙で濡らすことになるのは嫌ですから。☆ | 祐子内親王家紀伊 (ゆうしないしんのうけのきい) 生没年不詳。平安後期の歌人。平経方の娘で紀伊守重経の妹か。後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えた。 参考:桓武平氏(高棟流)系譜☆ | |
七十三 | 高砂の をのへのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなむ (たかさごの をのへのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなむ) 遠くの山の峰の桜が咲いたことだ。人里近い山の霞よ、立たないでほしい。☆ | 前権中納言匡房 (さきのごんちゅうなごんまさふさ) 大江匡房(おおえのまさふさ) 1041~1111 平安後期の学者・歌人。匡衡・赤染衛門 59 の曾孫。後三条天皇に登用され、摂関家にはばかることなく政治改革を推進した。 | |
七十四 | 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを (うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はげしかれとは いのらぬものを) 私の愛に応えてくれず、つらく思ったあの人を振り向かせてくれるように初瀬の観音様に祈りはしたが。初瀬の山おろしよ、ひどくなれとは祈らなかったのに。☆ | 源俊頼朝臣 (みなもとのとしよりあそん) 源俊頼 1055~1129 平安後期の歌人。経信 71 の三男。俊恵 85 の父。白河法皇の院宣による勅撰集『金葉和歌集』の撰者。斬新な表現や技巧を凝らした作風で歌壇の革新的存在となり、保守派を代表する藤原基俊 75 と対立した。 | |
七十五 | ちぎりおきし させもが露を いのちにて あはれ今年の 秋もいぬめり (ちぎりおきし させもがつゆを いのちにて あはれことしの あきもいぬめり) お約束くださいましたお言葉を、よもぎの葉に浮かんだ恵みの露のように、命と思って期待しておりましたのに、ああ、今年の秋もむなしく過ぎていくようです。☆ | 藤原基俊 (ふじわらのもととし) 1060~1142 平安後期の歌人。藤原道長の曾孫で右大臣俊家の子。万葉集の次点(訓点)をつけた一人。藤原定家 97 の父俊成 83 に古今伝授を行った。保守派歌壇の代表的人物で、革新派の源俊頼 74 と対立。人望がなかったため、学識・家柄の割に官位は上がらず、従五位上左衛門佐にとどまった。 | |
七十六 | わたの原 こぎいでてみれば 久方の 雲いにまがふ 沖つ白波 (わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ) 大海原に漕ぎ出して見渡すと、雲かと見まがうばかりの沖の白波だ。☆ | 法性寺入道前関白太政大臣 (ほつしょうじにゅうどうさきの かんぱくだいじょうだいじん) 藤原忠通 (ふじわらのただみち)1097~1164 平安後期の公卿・歌人。摂政関白藤原忠実の長男。慈円 95 の父。藤原氏の氏長者として摂政・関白・太政大臣となる。一度は氏長者の地位を弟頼長に奪われたが、保元の乱で頼長を倒して回復した。書にも優れ、法性寺流を開いた。 | |
七十七 | 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ (せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ) 川瀬の流れが速いので、岩にせき止められる急流が、一度は別れても再び合流するように、愛しいあの人と今は障害があって別れていても、行く末は必ず添い遂げようと思う。☆ | 崇徳院 (すとくいん) 崇徳天皇 1119~1164 在位1123~1142 第75代天皇。名は顕仁(あきひと)。鳥羽天皇の第1皇子。5才で即位するも、22才の時、鳥羽上皇の命で 異母弟の近衛天皇に譲位。近衛天皇崩御の後に即位した同母弟の後白河天皇と保元の乱で争い敗れて讃岐に配流され、同地で崩御。 | |
七十八 | 淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守 (あはぢしま かよふちどりの なくこゑに いくよねざめぬ すまのせきもり) 淡路島との間を飛び交う千鳥の鳴く声のせいで、幾夜目を覚ましたことであろう、須磨の関守は。☆ みずからの哀れを詠んだ歌。源氏物語の須磨の巻の歌を踏まえている。☆ | 源兼昌 (みなもと の かねまさ、生没年不詳)は、平安時代中期から後期にかけての歌人・官人。宇多源氏で、美濃介・源俊輔の子。子に昌快、前斎院尾張がいる。官位は従五位下・皇后宮少進。官位には恵まれず従五位下・皇后宮少進に至るが、その後出家。没年については不詳であるが大治3年(1128年)頃には生存していたようである。康和2年(1100年)の国信卿家歌合以下、永久3年(1115年)、元永元年(1118年)、同2年(1119年)の内大臣忠通家歌合などに出詠しており、堀河院歌壇の下部集団である忠通家歌壇で活躍した。 敦実親王の六代孫らしい。☆ | |
七十九 | 秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ (あきかぜに たなびくくもの たえまより もれいづるつきの かげのさやけさ) 秋風のためにたなびいている雲の切れ間からこぼれ出る月の光の何と明瞭なことか。☆ | 左京大夫顕輔 (さきょうのだいぶあきすけ) 1090~1155 平安後期の歌人。84の藤原清輔の父。崇徳院の院宣による勅撰集『詞花和歌集』の撰者。 | |
八十 | 長からむ 心もしらず 黒髪の みだれてけさは 物をこそ思へ (ながからむ こころもしらず くろかみの みだれてけさは ものをこそおもへ) あなたが末長く心変わりしないということは信じがたいのです。お別れした今朝は、黒髪が乱れるように心も乱れて、あれこれともの思いにふけるばかりです。☆ | 待賢門院堀河 (たいけんもんいんほりかわ) 生没年不詳。平安後期の歌人。源顕仲の娘。待賢門院に仕えた。 | |
八十一 | ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる (ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる) ほととぎすが鳴いている方をながめると、そこにはほととぎすの姿はなく、ただ有明の月が残っているだけである。☆ | 後徳大寺左大臣 (ごとくだいじさだいじん) 藤原実定 (ふじわらのさねさだ) 1139~1191 平安後期の公卿・歌人。右大臣公能(きんよし)の子。定家 97 の従兄弟。漢詩・今様・管弦などに優れていた。 | |
八十二 | 思ひわび さてもいのちは あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり (おもひわび さてもいのちは あるものを うきにたへぬは なみだなりけり) うまくいかない恋に思い悩んで、それでも命はあるものなのに、つらさに耐えないで落ちてくるのは涙であったなあ。☆ | 道因法師 (どういんほうし) 藤原敦頼 (ふじわらのあつより) 生没年不詳。平安後期の歌人。高齢に至るまで歌道に精進したものの、歌合で藤原清輔に敗れるなど、その評価は低かった。 | |
八十三 | 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる (よのなかよ みちこそなけれ おもひいる やまのおくにも しかぞなくなる) 世の中なんて、どうにもならないものだ。(世俗を離れるべく)思いつめて入り込んだ山の奥にも、鹿が悲しげに鳴いているようだ。☆ | 皇太后宮大夫俊成 (こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい) 『千載和歌集』の編者。藤原定家 97 の父。西行に影響を受けた。 | |
八十四 | ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき (ながらへば またこのごろや しのばれむ うしとみしよぞ いまはこひしき) この先、生きながらえるならば、つらいと感じているこの頃の世の中もなつかしく思い出されるのであろうか。つらいと思っていた昔のことも、今では恋しく思い出されるのだから。☆ | 藤原清輔朝臣 (ふじわらのきよすけあそん、長治元年(1104年)- 治承元年6月20日(1177年7月17日))は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家魚名流、79の左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。初名は隆長。六条を号す。 | |
八十五 | 夜もすがら 物思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり (よもすがら ものおもふころは あけやらで ねやのひまさへ つれなかりけり) (愛しいあなたがいらっしゃらないせいで)一晩中、物思いにふけっているこの頃は、夜がなかなか明けようとしないで、(つれないのはあなただけではなく)寝室の隙間さえもがつれなくしているみたいです。☆ | 俊恵法師 (しゅんえほうし) 俊恵 1113~? 平安後期の歌人。源俊頼 74 の子。経信 71 の孫。東大寺の僧であったが、経歴の詳細は不明。鴨長明の歌の師。僧坊の歌林苑で歌会を開催。平安後期歌壇の中心人物の一人。 | |
八十六 | なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな (なげけとて つきやはものを おもはする かこちがほなる わがなみだかな) 嘆けといって月が私に物思いをさせるのだろうか。いや、そんなことはない。にもかかわらず、まるで月のせいであるかのように、こぼれ落ちる私の涙であるよ。☆ | 西行法師 (さいぎょうほうし) 西行。俗名は、佐藤義清(さとうのりきよ) 1118~1190 平安後期の歌人。北面の武士として鳥羽院に仕えた後に出家。日本各地を行脚しながら歌を詠んだ。新古今集には最多の94首が入撰。家集『山家集』。 | |
八十七 | 村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ (むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆふぐれ) 村雨の露もまだ乾いていない真木の葉に、霧が立ちのぼる秋の夕暮れであるよ。☆ | 寂蓮法師 (じゃくれんほうし) 寂蓮 俗名は、藤原定長 (ふじわらのさだなが) ?~1202 藤原俊成 83 の甥。はじめ俊成の養子であったが、俊成に実子定家 97 がうまれたため、出家。『新古今和歌集』の撰者の一人となったが、完成前に没した。 | |
八十八 | 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき (なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや こひわたるべき) 難波の入り江に生えている芦の刈り根の一節(ひとよ)ではないが、〔難波の遊女は〕たった一夜(ひとよ)の仮寝ために、澪標(みおつくし)のごとく、身を尽くして〔旅人を〕恋し続けなければならないのでしょうか。☆ | 皇嘉門院別当 (こうかもんいんのべつとう) 生没年不詳。平安末期の歌人。源俊隆の娘。崇徳天皇の皇后、皇嘉門院聖子に仕えた。 | |
八十九 | 玉の緒よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする (たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする) 我が命よ、絶えるならば、絶えてしまえ。このまま生きながらえれば、(恋心を表さないように)耐え忍んでいる意思が弱ると困るから。☆ 伝説では、内親王と定家の噂が立ったため、定家の父俊成が別れさせようと定家の家にやってきた。すると定家は留守で、部屋に内親王自筆のこの歌が残されていた。これを見た俊成は二人の想いの真剣さを感じて、何も言わず帰ったという(『渓雲問答』『百人一首夕話』)。 | 式子内親王 (しきしないしんのう) ?~1201 平安末期・鎌倉初期の歌人。後白河天皇の第3皇女。賀茂斎院をつとめた後に出家。歌を藤原俊成に学んだ。 | |
九十 | 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず (みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず) 血の涙に濡れて変色した私の袖をお見せしたいものです。雄島の漁師の袖でさえ、濡れに濡れたにもかかわらず、色は変わらないのですよ。☆ | 殷富門院大輔 (いんぶもんいんのたいふ、いんぷもんいんのたいふ、生没年不詳:大治5年(1130年)頃 - 正治2年(1200年)頃)は、平安時代末期に活躍した歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は藤原北家勧修寺流従五位下藤原信成。 | |
九十一 | きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む (きりぎりす なくやしもよの さむしろに ころもかたしき ひとりかもねむ) こおろぎが鳴く霜の降りた夜の寒々とした筵の上に、衣の片袖を敷いて、一人寂しく寝るのだろうか。☆ | 後京極摂政前太政大臣 (ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん) 藤原〔九条〕良経 (ふじわらのよしつね,くじょうよしつね) 1169~1206 平安末期・鎌倉初期の貴族・歌人。兼実の子。摂政、太政大臣を歴任。歌を藤原俊成に学んで歌壇の中心人物の一人になったほか、漢詩や書画にも優れていた。『新古今和歌集』の仮名序を執筆。 | |
九十二 | わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそしらね かわくまもなし (わがそでは しほひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね かわくまもなし) 私の袖は、干潮の時にも海に没して見えない沖の石のように、人は知らないが、涙に濡れて乾く間もない。☆ | 二条院讃岐 (にじょういんのさぬき) 1141?~1217? 平安末期・鎌倉初期の歌人。源頼政の娘。二条天皇、後鳥羽天皇中宮任子に仕えた。 | |
九十三 | 世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも (よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのをぶねの つなでかなしも) 世の中は不変であってほしいなあ。渚を漕ぐ漁師の小舟の引き綱を見ると、胸をしめつけられるような思いがこみ上げてくるよ。☆ | 鎌倉右大臣 (かまくらのうだいじん) 源実朝 (みなもとのさねとも) 1192~1219 鎌倉幕府第3代将軍。頼朝の次男。兄頼家の死後、将軍となったが、実権は北条家にあった。右大臣就任の拝賀式が行われた鶴岡八幡宮で、頼家の子公暁に暗殺された。藤原定家に和歌の指導を受ける一方で、万葉調の要素を取り入れた独自の和歌を完成させた。家集『金槐和歌集』 | |
九十四 | み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり (みよしのの やまのあきかぜ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり) 吉野の山の秋風が吹き、夜もふけて、古都は寒く、衣を打つ音が聞こえてくる。☆ | 参議雅経 (さんぎまさつね) 藤原〔飛鳥井〕雅経 (ふじわらのまさつね,あすかいまさつね) 1170~1221 鎌倉初期の歌人。九条頼経の子。蹴鞠に優れ、飛鳥井流の祖となる。『新古今和歌集』の撰者の一人。 | |
九十五 | おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつ杣に 墨染の袖 (おほけなく うきよのたみに おほふかな わがたつそまに すみぞめのそで) (注:「我たつ杣」は比叡山のこと。) 私が、身の程をわきまえずしたいと願うのは、つらい世の中で生きている人々に覆いをかけることなのだ。比叡山に住みはじめた私の墨染めの袖を。 ― 仏の力で世の中をおおって、人々を救いたいのだ。☆ ○ わが立つ杣に墨染の袖 ― 「杣」は、杣山、すなわち、材木を切り出す山。ここでは、比叡山。「墨染の袖」は、僧衣。また、「おほふかな」へ続く倒置法。「墨染」は、「住み初め」との掛詞。千載集所収。 | 前大僧正慈円 (さきのだいそうじょうじえん) 慈円 1155~1225 平安末期・鎌倉初期の僧・歌人・学者。関白藤原忠通 76 の子。九条兼実の弟。藤原良経 91 の叔父。第62世、第65世、第69世、第71世天台座主。史論『愚管抄』(目次)。 | |
九十六 | 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり (はなさそふ あらしのにはの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり) 花をさそって散らす嵐の吹く庭は、雪のような桜吹雪が舞っているが、本当に古りゆくものは、雪ではなくわが身であったなあ。☆ | 入道前太政大臣 (にゅうどうさきのだいじょうだいじん) 藤原〔西園寺〕公経 (ふじわらのきんつね,さいおんじきんつね) 1171~1244 鎌倉前期の公卿・歌人。藤原定家 97 の義弟。承久の乱に際して鎌倉幕府に内通し、乱後は幕府権力を背景に内大臣、太政大臣に昇進。京都北山に壮麗な西園寺(鹿苑寺[金閣寺]の前身)を建立するなど、藤原氏全盛期に匹敵する奢侈を極めた。 | |
九十七 | こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ (こぬひとを まつほのうらの ゆふなぎに やくやもしほの みもこがれつつ) いくら待っても来ない人を待ち続けて、松帆の浦の夕凪のころに焼く藻塩が焦げるように、私の身もいつまでも恋こがれています。☆ | 権中納言定家 (ごんちゅうなごんていか) この小倉百人一首の選者。 藤原 定家(ふじわら の さだいえ、1162年(応保2年) - 1241年9月26日(仁治2年8月20日))は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。 俊成 83 の子。父俊成の幽玄体を発展させた有心体を提唱し、新古今調の和歌を大成した。『新古今和歌集』の撰者の一人であり、後に単独で『新勅撰和歌集』を撰進。『小倉百人一首』の撰者。歌論書『近代秀歌』『毎月抄』、日記『明月記』 | |
九十八 | 風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける (かぜそよぐ ならのをがはの ゆふぐれは みそぎぞなつの しるしなりける) 風がそよそよと楢の葉に吹く、ならの小川[上賀茂神社の御手洗川]の夕暮れは、すっかり秋めいているが、六月祓のみそぎだけが夏のしるしなのだった。☆ | 従二位家隆 (じゅうにいいえたか) 藤原家隆 (ふじわらのいえたか) 1158~1237 平安末期・鎌倉初期の歌人。藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。 | |
九十九 | 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は (ひともをし ひともうらめし あぢきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは) 人をいとおしく思うこともあれば、人を恨めしく思うこともある。思うにまかせず、苦々しくこの世を思うがゆえに、あれこれと思い煩うこの私は。☆ | 後鳥羽院 (ごとばいん) 後鳥羽天皇 1180~1239 在位1183~1198 第82代天皇。高倉天皇の第4皇子。諸芸、とくに歌道に優れ、和歌所を設置し、『新古今和歌集』を勅撰。承久の乱で敗れて隠岐に配流され、その地で崩御。 順徳院 100 の父。 | |
百 | ももしきや ふるき軒ばの しのぶにも なほあまりある 昔なりけり (ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なほあまりある むかしなりけり) 宮中の古い軒端の忍ぶ草を見るにつけても、偲んでも偲びつくせないものは、昔のよき(天皇親政の)時代であるよ。☆ (注:「百敷」は皇居をさす。) | 順徳院 (じゅんとくいん) 1197~1242 在位1210~1221 第84代天皇。後鳥羽天皇 99 の第3皇子。承久の乱で敗れて佐渡に配流され、その地で崩御。 |
\ \ 身分 \ 主題 \ | ||||||||
男 性 七九 | 女 性 二一 | |||||||
天皇七 親王 <一> | 官人 五八 (藤原姓二五) | 僧侶 一三 | 女帝一 内親王 <一> | 女房 一七 | 母 二 | |||
四季 三二 | 春 六 | 15 光孝天皇 | 33紀友則 35紀貫之 73権中納言匡房お | 9小野小町 61伊勢大輔 | ||||
夏 四 | 36清原深養父 | (81 後徳大寺左大臣) (98 従二位家隆) | 2 持統天皇 | |||||
秋 一六 | 1 天智天皇 | 5猿丸大夫 17在原業平朝臣 22文屋康秀 23大江千里お 29凡河内躬恒 32春道列樹 37文屋朝康 71大納言経信け | (79 左京大夫顕輔) (91 後京極摂政 前太政大臣) (94 参議雅経) | 47 恵慶法師 69 能因法師 70 良暹法師 (87 寂蓮 法師) | ||||
冬 六 | 4山部赤人 6中納言家持 28源宗于朝臣げ 31坂上是則 78源兼昌げ | (64 権中納言定頼) | ||||||
羇旅 四 | 7阿倍仲麻呂 11参議篁 24菅家、菅原道真 93鎌倉右大臣け | |||||||
離別 一 | 16中納言行平 | |||||||
雑部 二〇 | 68 三条院 99 後鳥羽院 100 順徳院 | (26貞信公) 34藤原興風 (55大納言公任) 75藤原基俊 (76 法性寺入道 前関白太政大臣) (83 皇太后宮大夫 俊成) 84藤原清輔朝臣 (96 入道前太政大臣) | 8 喜撰法師 10 蝉丸 12 僧正遍昭 66 大僧正 行尊け (95 前大僧正 慈円) | (57 紫式部) 60 小式部内侍お 62 清少納言 67 周防内侍へ | ||||
恋 四三 | 13 陽成院 <20 元良 親王> 77 崇徳院 | 3柿本人麻呂 14河原左大臣け 30壬生忠岑 39参議等け 40平兼盛へ 41壬生忠見 42清原元輔 46曽禰好忠 48源重之げ 49大中臣能宣朝臣 74源俊頼朝臣げ | 18藤原敏行朝臣 (25 三条右大臣) (27 中納言兼輔) (43 権中納言敦忠) (44中納言朝忠) (45謙徳公) 50藤原義孝 51藤原実方朝臣 52藤原道信 (63 左京大夫道雅) (97 権中納言定家) | 21 素性法師 (82 道因 法師) 85 俊恵法師け 86 西行法師 | <89 式子内 親王> | (19伊勢) (38右近) 56和泉式部お (58大弐三位) 59赤染衛門お 65相模お 72 祐子内親王家 紀伊 80 待賢門院堀河け 88 皇嘉門院別当け (90 殷富門院大輔) 92 二条院讃岐け | (53 右大将 道綱母 ) (54 儀同 三司母) |
\ \ 身分 時代\ | |||||||
男 性 七九 | 女 性 二一 | ||||||
天皇七 親王一 | 官人 五八 (藤原姓二五) | 僧侶 一三 | 女帝一 内親王一 | 女房 一七 | 母 二 | ||
万葉集時代 計六 (男五、 女一) | 天智 天皇 (1) | 人麿(3) 赤人(4) 家持(6) 仲麿(7) | 持統 天皇 (2) | ||||
六歌仙 時代 計一二 (男一一、 女一) | 陽成院 (13) 光孝 天皇 (15) | 猿丸大夫(5) 参議篁(11) 河原左大臣け(14) 行平(16) 業平(17) 文屋康秀(22) | 喜撰 (8) 蝉丸 (10) 遍昭 (12) | 小町 (9) | |||
古今集 時代 計一八 (男一七、 女一) | 大江千里お(23) 菅家(24) 于朝げ(28) 躬恒(29) 壬生忠岑(30) 坂上是則(31) 列樹(32) 友則(33) 貫之(35) 清原深養父(36) 文屋朝康(37) | 敏行 (18) 三条右大臣 (25) [貞信公] (26) [兼輔] (27) 興風 (34) | 素性 (21) | [伊勢] (19) | |||
後撰集 以後 千載集 までの 時代 計四八 (男三四、 女一四) | 元良 親王 (20) | 参議等け(39) 平兼盛へ(40) 壬生忠見(41) 清原元輔(42) 曽禰好忠(46) 源重之げ(48) 能宣(49) | [敦忠](43) [朝忠](44) [謙徳公](45) 義孝(50) 実方(51) 道信(52) [公任](55) [道雅](63) [定頼](64) | 恵慶 (47) 能因 (69) 良暹 (70) | [右近](38) 和泉式部お(56) [紫式部](57) [大弐三位](58) 赤染衛門お(59) 小式部内侍お(60) 伊勢大輔(61) 清少納言(62) 相模お(65) | [道綱母] (53) [儀同三司母] (54) | |
三条院 (68) 崇徳院 (77) | 経信け (71) 匡房お (73) 俊頼げ (74) 兼昌げ (78) | 基俊(75) [法性寺 入道](76) [顕輔](79) [後徳大寺 左大臣](81) 清輔(84) | 行尊け (66) [道因] (82) 俊恵け (85) | 周防内侍へ (67) 紀伊 (72) 堀河け (80) | |||
新古今集 時代 計一六 (男一二、 女四) | 後鳥羽 院 (99) 順徳院 (100) | 実朝け (93) | [俊成](83) [良経](91) [雅経](94) [公経](96) [定家](97) [家隆](98) | 西行 (86) [寂蓮] (87) [慈円] (95) | 式子 内親王 (89) | 皇嘉門院別当け (88) [殷富門院大輔] (90) 二条院讃岐 (92) |
\ \ 身分 歌集\ | ||||||||
男 性 七九 | 女 性 二一 | |||||||
天皇七 親王一 | 官人 五八 (藤原姓二五) | 僧侶 一三 | 女帝一 内親王一 | 女房 一七 | 母 二 | |||
古今集24 | 春 | 15光孝天皇 | 33友則 35貫之 | 9小町 | ||||
夏 | 36深養父 | |||||||
秋 | 5猿丸大夫 17業平 22文屋康秀 23大江千里 29躬恒 32列樹 | |||||||
冬 | 28宗于 31坂上是則 | |||||||
離 | 16行平 | |||||||
旅 | 7仲麿 11参議篁 24菅家 | |||||||
恋 | 14河原左大臣 30壬生忠岑 | 18敏行 | 21素性 | |||||
雑 | 34興風 | 8喜撰 12遍昭 | ||||||
後撰集 7 | 秋 | 1天智天皇 | 37文屋朝康 | |||||
恋 | 13陽成院 20元良親王 | 39参議等 | 25 三条右大臣 | |||||
雑 | 10蝉丸 | |||||||
拾遺集 11 | 秋 | 47恵慶 | ||||||
恋 | 3人麿 40平兼盛 41壬生忠見 | 43敦忠 44朝忠 45謙徳公 | 38右近 | 53 道綱母 | ||||
雑 | 26貞信公 55公任 | |||||||
後拾遺集 14 | 春 | 73匡房 | ||||||
秋 | 69能因 70良暹 | |||||||
恋 | 42清原元輔 | 50義孝 51実方 52道信 63道雅 | 56和泉式部 58大弐三位 59赤染衛門 65相模 | |||||
雑 | 68三条院 | 62清少納言 | ||||||
金葉集 5 | 春 | 71経信 | ||||||
秋 | 78兼昌 | |||||||
恋 | 72紀伊 | |||||||
雑 | 66行尊 | 60小式部内侍 | ||||||
詞花集 5 | 春 | 61伊勢大輔 | ||||||
恋 | 77崇徳院 | 48源重之 49能宣 | ||||||
雑 | 76法性寺入道 | |||||||
千載集 14 | 春 | 81後徳寺左大臣 | ||||||
秋 | 64定頼 | |||||||
恋 | 74俊頼 | 82道因 85俊恵 86西行 | 80堀河 88皇嘉門院別当 90殷富門院大輔 92二条院讃岐 | |||||
雑 | 75基俊 83俊成 | 95慈円 | 67周防内侍 | |||||
新古今集 14 | 夏 | 2持統天皇 | ||||||
秋 | 79顕輔 91良経 94雅経 | 87寂蓮 | ||||||
冬 | 4赤人 6家持 | |||||||
恋 | 46曽禰好忠 | 27兼輔 | 89 式子内親王 | 19伊勢 | 54儀同 三司母 | |||
雑 | 84清輔 | 57紫式部 | ||||||
新勅撰集 4 | 夏 | 98家隆 | ||||||
恋 | 97定家 | |||||||
雑 | 96公経 | |||||||
旅 | 93実朝 | |||||||
続後撰集 2 | 雑 | 99後鳥羽院 100順徳院 |
112 Comments:
源氏は源の姓を持つ氏族であるが、嵯峨天皇が生まれた子らにその姓を与え、皇室と祖を同じくするという名誉の意味をこめて与えた。
嵯峨天皇に皇子皇女が増え、朝廷の財政を逼迫させる基にもなることから、早くに臣籍降下することが皇胤にとって子孫繁栄の道であった。親王ながら、皇位を望めない場合や、諸王にあって親王宣下を望めない皇族が自ら降下を求める場合と、朝廷から一方的に降下させる場合とがあり皇別氏族を取り巻く状況は朝廷の財政事情と常に連動する要素が強かった。
嵯峨天皇の後の天皇も度々皇族を源氏として臣籍に下したことから、嵯峨天皇を祖とする源氏を嵯峨源氏と称する様になり、以後源氏はそれぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって氏族の称とした(仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、宇多源氏など)。また、朝廷が皇族を臣籍降下させ源氏とした背景としては、上級貴族として皇室の藩塀とすることという理由もあったが、実際には3代目以降も上級貴族であり続けた例はほとんどなく、大半は受領階級として地方へ赴任しそこで土着して武士化するか、中央で中下級貴族として細々と生き延びた。他に、皇族に対して賜った姓としては、他に在原朝臣、平朝臣などがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F
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iphoneアプリとしては
「小倉百人一首」がいいと思う
:
藤原 |嵯峨
(北家)|天皇以降
____|___
武士 |
平家 |
源氏 |
清盛が貿易を推進していた点を考慮すると、
武士は資本に位置し得る
034 誰をかも知人にせん高砂の 松も昔の友ならなくに
●高砂
播磨国 1首
(補:「高砂」を詠んだ歌はもう一首あるが、これは地名でないとする説が有力。
「073 高砂のおのへのさくら咲にけり とやまの霞みたゝすもあらなん」)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B#cite_ref-keiun_22-1
百人一首
89番
百首歌中に 忍恋を 式子内親王
玉のをよたえなはたえねなからへは 忍ふることのよはりもそする
— 『新古今和歌集』 巻第十一 恋歌一
伝説では、内親王と定家の噂が立ったため、定家の父俊成が別れさせようと定家の家にやってきた。すると定家は留守で、部屋に内親王自筆のこの歌が残されていた。これを見た俊成は二人の想いの真剣さを感じて、何も言わず帰ったという[注]。
注^ a b 『渓雲問答』『百人一首夕話』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E6%A5%AD%E5%B9%B3
在原業平 ゆかりの地
東京都墨田区、埼玉県春日部市、兵庫県芦屋市、斑鳩町
墨田区には2本、春日部には1本業平橋という橋が架かっている。いずれも伊勢物語9段で業平が都を思う歌を詠んだ事にちなみ、それぞれ隅田川、大横川(だった浅草通りの場所)、古隅田川にかかっている。なお隅田川のものは吾妻橋の別称でも知られる。
墨田区には言問橋という橋があるが、これも前述の伊勢物語9段が由来で、業平の詠んだ歌に「いざこと問はむ」という言葉が入っている事にちなむ。
芦屋市の芦屋川の業平橋、斑鳩町の富雄川の業平橋もある。
浅草通りにある業平橋に隣接する東武鉄道の駅が業平橋駅である。業平橋駅付近では東京スカイツリーの建設が進められており、地元PRに「おしなりくん」というキャラクターが起用されている。名称は押上と業平橋からとったもので、平安貴族の格好に烏帽子が東京スカイツリー風のものとなっている。
業平橋 (墨田区)
業平橋(なりひらばし)
東京都墨田区業平の、大横川があった場所に架かっている浅草通りの橋。
隅田川に架かる浅草通りの橋である吾妻橋の別称[要出典]。
1の意味 [編集]
現在は、大横川のこの橋周辺部分は埋め立てられ、大横川親水公園となっているが、橋は残っている。東京都墨田区の吾妻橋3丁目と業平1丁目を結ぶ。
2の意味 [編集]
詳しくは、「吾妻橋」を参照のこと。
浅草通りの西端にあたる隅田川に架かる橋である。墨田区吾妻橋と台東区浅草を結ぶ。
この橋は関東大震災後の帝都復興計画のひとつとして架けられた橋で、1928年(昭和3年)に完成した。
在原業平の歌
名にしおはばいざ言問はむ都鳥我がおもふ人 はありやなしやと
が、隅田川と吾妻橋付近を詠んでいることが、橋の名と地域名「業平」の由来となっている。
付近にある東武鉄道伊勢崎線の業平橋駅の駅名の由来となっている。
関連項目 [編集]
日本の橋一覧
東京スカイツリー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD%E5%B9%B3%E6%A9%8B_%28%E5%A2%A8%E7%94%B0%E5%8C%BA%29
:
____ _____________________ _______________
|\ |________男 性七九________|_____女 性二一_____|
| \身分|天皇 親王| 官人 | 僧侶|女帝 内親王 女房 | 母 |
|主題\数| 七 一| 五八 (藤原姓) 一三| 一 一| 一七 | 二 |
|__数\|____8|_________二三|___|____2|_____|___|
| | |15 |33、35| | | | 9、61| |
| |春六| |73 | | | | | |
| |__|____1|____3|_____|___|_____|____2|___|
| |夏四| |36 (81(98| | 2 | | |
|四|__|_____|____1|____2|___|____1|_____|___|
| | | 1 | 5、17| (79| 47| | | |
| |秋 | |22、23| (91| 69| | | |
| |一六| |29、32| | 70| | | |
|季| | |37、71| | 87| | | |
| | | |94 | | | | | |
|三|__|____1|____9|____2|__4|_____|_____|___|
|二| | | 4、 6| (64| | | | |
| |冬 | げ28、31| | | | | |
| | 六| |げ78 | | | | | |
|_|__|_____|____5|____1|___|_____|_____|___|
| | | 7、11| | | | | |
|羇旅 四| |24け93| | | | | |
|____|_____|____4|_____|___|_____|_____|___|
|離別 一| |16 | | | | | |
|____|_____|____1|_____|___|_____|_____|___|
| |68 |96 (26、34| 8| (57、60| |
| |99 | (55、75| 10| |62ヘ67| |
|雑部 100 | (76(83| 12| | | |
| 二〇| | |84 | 66| | | |
| | | | |95 | | | |
|____|____3|____1|____7|__5|_____|____4|___|
| |13 20| 3け14|18(25| 21| 89(19(38|(53|
| |77 |30、39(27(43| 82| |56(58|(54|
| 恋 | へ40、41(44(45| 85| |59、65| |
| 四三| |42、46|50、51| 86| |72け80| |
| | げ48、49|52(63| | け88(90| |
| | げ74 (97 | | け92 | |
|____|____3|___11|___11|__4|____1|___11|__2|
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|\ |________男 性七九________|_____女 性二一_____|
| \身分|天皇 親王| 官人 | 僧侶|女帝 内親王 女房 | 母 |
|主題\数| 七 一| 五八 (藤原姓) 一三| 一 一| 一七 | 二 |
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| | |15 |33、35| | | | 9、61| |
| |春六| |73 | | | | | |
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| |夏四| |36 (81(98| | 2 | | |
|四|__|_____|____1|___2_|___|___1_|_____|___|
| | | 1 | 5、17| (79| 47| | | |
| |秋 | |22、23| (91| 69| | | |
| |一六| |29、32| | 70| | | |
|季| | |37、71| | 87| | | |
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|二| | | 4、 6| (64| | | | |
| |冬 | げ28、31| | | | | |
| | 六| |げ78 | | | | | |
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|雑部 100 | (76(83| 12| | | |
| 二〇| | |84 | 66| | | |
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| |77 |30、39(27(43| 82| |56(58|(54|
| 恋 | へ40、41(44(45| 85| |59、65| |
| 四三| |42、46|50、51| 86| |72け80| |
| | げ48、49|52(63| | け88(90| |
| | げ74 (97 | | け92 | |
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http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/128918542.html
1.藤原
01 18.藤原敏行朝臣 藤原敏行 [藤原 南家]
02 19.伊勢 伊勢守 藤原継蔭の娘。 別称;伊勢の御、伊勢の御息所
03 25.三条右大臣 定方 冬嗣 → 良門 → 高藤 → 定方
04 26.貞信公 忠平 冬嗣 → 良房 → 基経 → 忠平
05 27.中納言兼輔 兼輔 冬嗣 → 良門 → 利基 → 兼輔
06 34.藤原興風 藤原興風 [藤原 京家]
07 38.右近 右近少将 藤原季縄(すえなわ)の娘。
08 43.権中納言敦忠 敦忠 冬嗣 → 良房 → 基経 → 時平 → 敦忠
09 44.中納言朝忠 朝忠 25.三条右大臣 の 子
10 45.謙徳公 伊尹(コレタダ) 26.貞信公の孫
11 50.藤原義孝 義孝 26.貞信公のひ孫 & 45.謙徳公の子
12 51.藤原実方朝臣 実方 26.貞信公のひ孫
13 52.藤原道信朝臣 道信 26.貞信公のひ孫
14 53.右大将道綱母 兼家(26.貞信公の孫 &道長の父)の妻
菅原孝標女(たかすえのむすめ、『更級日記』著者=道真の5代下)の叔母
15 54.儀同三司母 高階貴子 道隆(兼家の子 &道長の兄)の妻 一条天皇妃・定子の 母
息子伊周(これちか)の官名(儀同三司)による
16 55.大納言公任 公任 26.貞信公のひ孫
17 57.紫式部 紫式部 27.中納言兼輔の曾孫(ひ孫)
18 58.大弐三位 藤原賢子 57.紫式部の娘
19 63.左京大夫道雅 道雅 54.儀同三司母の孫 一条天皇妃・定子の 甥
20 64.権中納言定頼 定頼 55.大納言公任の子
21 75.藤原基俊 基俊 藤原道長(道隆と兄弟)のひ孫
22 76.法性寺入道… 忠通 藤原道長の5代下
23 79.左京大夫顕輔 顕輔 26.貞信公の7代下
24 81.後徳大寺左大臣 実定 26.貞信公の9代下
25 82.道因法師 藤原敦頼
26 83.皇太后宮大夫… 俊成 藤原道長の4代下
27 84.藤原清輔朝臣 清輔 79.左京大夫顕輔の子
28 87.寂蓮法師 定長 藤原道長の5代下。83.俊成の子
29 90.慇富門院大輔 父 従五位下 藤原信成。 母 菅原在良の娘。
30 91.後京極摂政… 良経 藤原道長の7代下。76.法性寺[忠通] の孫
32 95.前大僧正慈円 慈円 藤原道長の6代下。76.法性寺[忠通] の子
32 96.入道前太政大臣 公経 26.貞信公の10代下
33 97.権中納言定家 定家 藤原道長の5代下。83.俊成の子
34 98.従二位家隆 家隆 27.兼輔の9代下 & 57.紫式部の祖父(雅正)の8代下
兼輔→雅正→為頼→伊祐→頼成→清綱→隆時→清隆→光隆→家隆
兼輔→雅正→為時→式部→三位
2.源
01 14.川原左大臣 源融[とおる] 52代 嵯峨天皇の12男
02 28.源宗于朝臣 源宗于 58代 光孝天皇の皇子是忠親王の子
03 39.参議等 源等[ひとし] 52代 嵯峨天皇のひ孫 ← 希 ← 弘 ← 嵯峨天皇
04 48.源重之 56代 清和天皇の皇子貞元親王の子
05 66.大僧正行尊 源基平の子
06 71.大納言経信 源経信
07 74.源俊頼朝臣 源俊頼
08 78.源兼昌 源俊輔の子
09 80.待賢門院堀河 父は 神祇伯 源顕仲
10 85.俊恵法師 74.源俊頼朝臣 の 子
11 88.皇嘉門院別当 父は源俊隆。祖父は大蔵卿 源師隆
12 92.二条院讃岐 父は源頼政。母は 源斉頼の娘。
13 93.鎌倉右大臣 源実朝(鎌倉初代将軍 源頼朝 の3男)
3.皇族
01 01.天智天皇 38代天皇
02 02.持統天皇 41代天皇
03 13.陽成院 57代天皇
04 15.光孝天皇 58代天皇
05 20.元良親王 陽成天皇の第1皇子(光孝天皇に譲位後、誕生)
06 68.三条院 67代天皇
07 77.崇徳院 75代天皇
08 89.式子内親王 77代 後白河天皇の第3皇女
09 99.後鳥羽院 82代天皇
10 100.順徳院 84代天皇
(参考) 歴代天皇簡易一覧(初代 神武天皇 から 125代 今上天皇 まで)
4.大江
01 23.大江千里 大江音人の子
02 56.和泉式部 大江音人の5代下
03 59.赤染衛門 大江匡衡(音人の4代下)の妻
04 60.小式部内侍 56.和泉式部の娘
05 65.相模 大江公資(音人の5代下)の妻
06 73.前中納言匡房 大江匡房 59.赤染衛門のひ孫
5.清原
01 36.清原深養父 舎人親王(40代 天武天皇の皇子)の血統
02 42.清原元輔 36.清原深養父の孫
03 62.清少納言 42.清原元輔の娘
6.小野
01 09.小野小町 11.参議篁の孫という説がある。
02 11.参議篁 小野篁[たかむら] 但し、この説は信憑性が薄い。
7.良岑(よしみね)
01 12.僧正遍昭 良岑宗貞 50代 桓武天皇 の孫
02 21.素性法師 良岑玄利(ハルトシ) 12.僧正遍昭 の子
8.在原 51代平城天皇の孫に当たる。 「薬子の変」で皇統が52代嵯峨天皇に移り臣籍降下。
01 16.中納言行平 在原行平 阿保親王の側室の子(兄・三男)
02 17.在原業平朝臣 在原業平 阿保親王の正室の子(弟・五男)
9.文屋
01 22.文屋康秀
02 37.文屋朝康 22.文屋康秀の子
10.壬生
01 30.壬生忠岑
02 41.壬生忠見 30.壬生忠岑の子
11.紀
01 33.紀友則 友則 貫之 は従兄弟
02 35.紀貫之 友則 貫之 は従兄弟
12.平
01 40.平兼盛 光孝天皇の4代下(孫の孫)。 父は光孝天皇の曾孫 大宰大弐・篤行王
02 67.周防内侍 平仲子。 父 周防守 平棟仲。 母 源正職の娘 小馬内侍
13.大中臣
01 49.大中臣能宣 父 大中臣頼基。 子 大中臣輔親。 孫 49.伊勢大輔。
02 61.伊勢大輔 49.大中臣能宣の孫
14.その他
01 03.柿本人麻呂
02 04.山部赤人
03 05.猿丸太夫
04 06.中納言家持 大伴家持
05 07.阿倍仲麻呂
06 08.喜撰法師
07 10.蝉丸
08 24.菅家 菅原道真
09 29.凡河内躬恒
10 31.坂上是則
11 32.春道列樹
12 46.曾禰好忠
13 47.恵慶法師
14 69.能因法師 橘永愷(ながやす)
15 70.良暹法師
16 72.祐子内親王家紀伊 後朱雀天皇の皇女祐子内親王の女房。
17 86.西行法師 佐藤義清(のりきよ)
18 94.参議雅経 飛鳥井雅経 飛鳥井家の祖 飛鳥井←難波←藤原
(参考)
94. 参議雅経は、藤原雅経と記されていることが多いです。
と言うことで、雅経から父方を辿ってみると 曾祖父が藤原忠教(ただのり)です。
wikipediaが正しいというわけではないですが、参考までに
wikipediaによると、雅経の系譜は次のようになっています。
飛鳥井雅経 ← 難波頼経(よりつね、長男) ← 難波頼輔(よりすけ、五男) ← 藤原忠教(ただのり)
http://blog.goo.ne.jp/erika2672-t/e/74e2a8f58e4a801b1d14ae2b4bf5e226
百人一首の歌人たちの血縁関係
2006-01-09 00:08:27 | 系譜あれこれ
先日、百人一首の本を拾い読みしていて、「あれ?百人一首の歌人って親子とか兄弟とか、祖父母と孫というのがすごく多いのでは…」ということに気がつきました。そこで、今回は百人一首の歌人たちの血縁関係についてまとめてみることにしました。
☆親子
父・天智天皇(1番)と娘・持統天皇(2番)
父・僧正遍昭(12番)と息子・素性法師(21番)
父・陽成天皇(13番)と息子・元良親王(20番)
父・壬生忠岑(30番)と息子・壬生忠見(41番)
父・文屋康秀(22番)と息子・文屋朝康(37番)
父・藤原定方(25番)と息子・藤原朝忠(44番)
ちち・清原元輔(42番)と娘・清少納言(62番)
父・藤原伊尹(45番)と息子・藤原義孝(50番)
父・平兼盛(40番)と娘・赤染衛門(59番)?
母・紫式部(57番)と娘・大弐三位(58番)
母・和泉式部(56番)と娘・小式部内侍(60番)
父・藤原公任(55番)と息子・藤原定頼(64番)
父・源経信(71番)と息子・源俊頼(74番)
ちち・源俊頼(74番)と息子・俊恵法師(85番)
父・藤原顕輔(79番)と息子・藤原清輔(84番)
父・藤原忠通(76番)と息子・大僧正慈円(95番)
父・藤原俊成(83番)と息子・藤原定家(97番)
父・後鳥羽天皇(99番)と息子・順徳天皇(100番)
☆祖父母と孫
祖父・藤原忠平(26番)と孫・藤原伊尹(45番)
祖父・清原深養父(36番)と孫・清原元輔(42番)*曾祖父と曾孫という説も
祖父・光孝天皇(15番)と孫・源宗于(28番)
祖父・大中臣能宣(49番)と孫・伊勢大輔(61番)
祖母・高階貴子(54番)と孫・藤原道雅(63番)
祖父・藤原忠通(76番)と孫・藤原良経(91番)
☆兄弟
兄・在原行平(16番)と弟・在原業平(17番)
☆いとこ
・僧正遍昭(12番)と源融(14番)
*父親は供に桓武天皇の子
・藤原定方(25番)と藤原兼輔(27番)
*父親は供に藤原良門(藤原冬嗣の子)の息子
・藤原義孝(50番)と藤原公任(55番)
*母親は供に代明親王(醍醐天皇皇子)の娘
☆曾祖父母と曾孫
曾祖父・藤原兼輔(27番)と曾孫・紫式部(57番)
曾祖父・三条天皇(68番)と曾孫・大僧正行尊(66ばん)
*行尊は三条天皇の皇子敦明親王の孫)
曾祖母・赤染衛門(59番)と曾孫・大江匡房(73番)
*匡房の祖父の挙周は赤染衛門の実子ではないという説もあるようです。
曾祖父・藤原忠平(26番)と曾孫・藤原義孝(50番)・藤原実方(51番)・
藤原道信(52番)・藤原公任(55番)
曾祖父・藤原定方(25番)と曾孫・藤原義孝(50番)・藤原公任(55番)・
紫式部(57番)
*義孝・公任の母方の祖母と紫式部の父方の祖母は藤原定方の娘で姉妹。
(番外)氏族は違っても、私たちは直系です♪
☆在原業平(17番)と藤原敦忠(43番)
藤原敦忠の母は在原業平の孫。従って2人は曾祖父と曾孫の関係にあるのです。
☆高階貴子(54番)と後鳥羽天皇(99番)
後鳥羽天皇の母の藤原殖子は、藤原隆家の子孫。従って、隆家の母である高階貴子ともしっかりつながっているのです。
また、一説によると在原業平と恬子内親王(文徳天皇皇女)の間に産まれた子が高階茂範の養子となり、高階師尚として高階家を継いだと言われています。もしこれが事実とすると、在原業平の血統は後鳥羽天皇にまでつながっているというわけです。系譜の面白いところです。
以上、私の手持ちの本や系図を見て思いつく限りの血縁関係をまとめてみました。でも、まだ見落としがあると思います。もし、百人一首の歌人たちの血縁関係で「まだまだこんな面白い関係があるよ」ということをご存知の方がいらっしゃいましたら、掲示板「えりかの談話室」かメール「えりかへのお便り」で教えていただけますととっても嬉しいです。後日、追記させていただきたいと思っています。
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____ _____________________ _______________
|\ |________男 性七九________|_____女 性二一_____|
| \身分|天皇 親王| 官人 | 僧侶|女帝 内親王 女房 | 母 |
|主題\数| 七 一| 五八 (藤原姓) 一三| 一 一| 一七 | 二 |
|__数\|_____|_________二四|___|_____|_____|___|
| | |15 |33、35| | | | 9、61| |
| |春六| |73 | | | | | |
| |__|_____|_____|_____|___|_____|_____|___|
| |夏四| |36 (81(98| | 2 | | |
|四|__|_____|_____|_____|___|_____|_____|___|
| | | 1 | 5、17| (79| 47| | | |
| |秋 | |22、23| (91| 69| | | |
| |一六| |29、32| | 70| | | |
|季| | |37け71| |(87| | | |
| | | |94 | | | | | |
|三|__|_____|_____|_____|___|_____|_____|___|
|二| | | 4、 6| (64| | | | |
| |冬 | げ28、31| | | | | |
| | 六| げ78 | | | | | |
|_|__|_____|_____|_____|___|_____|_____|___|
| | | 7、11| | | | | |
|羇旅 四| |24け93| | | | | |
|____|_____|_____|_____|___|_____|_____|___|
|離別 一| |16 | | | | | |
|____|_____|_____|_____|___|_____|_____|___|
| |68 | (26、34| 8| (57、60| |
| |99 | (55、75| 10| |62ヘ67| |
|雑部 100 | (76(83| 12| | | |
| 二〇| | |84(96|け66| | | |
| | | | |(95| | | |
|____|_____|_____|_____|___|_____|_____|___|
| |13 20| 3け14|18(25| 21| 89(19(38|(53|
| |77 |30け39(27(43|(82| |56(58|(54|
| 恋 | へ40、41(44(45|け85| |59、65| |
| 四三| |42、46|50、51| 86| |72け80| |
| | げ48、49|52(63| | け88(90| |
| | げ74 (97 | | け92 | |
|____|_____|_____|_____|___|_____|_____|___|
身分/主題:
1天/秋, 2女帝/夏,3官,4官/冬, 5官/秋, 6官/冬, 7官/旅, 8僧/雑 , 9女/春, 10僧/雑,
11官/旅, 12僧/雑, 13天, 14官(け, 15天/春, 16官/離, 17官/秋, 18官ふ, 19女(ふ, 20親王,
21僧, 22官/秋, 23官/秋, 24官/旅, 25官(ふ, 26官(ふ/雑, 27官(ふ, 28官げ/冬, 29官/秋, 30官,
31官/冬 , 32官/秋, 33官/春官, 34官ふ/雑, 35官/春, 36官/夏, 37官/秋, 38女(ふ 39官け , 40官へ,
41官, 42官,43官(ふ, 44官(ふ ,45官(ふ, 46官, 47僧/秋, 48官げ, 49官, 50官ふ,
51官ふ, 52官ふ, 53母(ふ, 54母(ふ, 55官(ふ/雑, 56女, 57女(ふ/雑, 58女(ふ 59女, 60女/雑,
61女/春, 62女/雑, 63官(ふ, 64官(ふ/冬, 65女, 66僧(け/雑, 67女(へ/雑, 68天/雑, 69僧/秋, 70僧/秋,
71官(け/秋, 72女, 73官/春, 74官げ, 75官ふ/雑, 76官(ふ/雑, 77天, 78官げ/冬, 79官(ふ/秋, 80女(け,
81 官(ふ/夏, 82僧(ふ, 83官(ふ/雑, 84官ふ/雑, 85僧(け, 86僧, 87僧(ふ/秋, 88女(け, 89内親王, 90女(ふ,
91官(ふ/秋, 92女, 93官(け/旅, 94官/秋, 95僧(ふ/雑, 96官(ふ/雑, 97官(ふ, 98官(ふ/夏, 99天/雑, 100天/雑
身分:
天=天皇、親王、官=官人、ふ=藤原氏、(ふ=実は藤原氏、僧=僧侶、女帝、内親王、女=女房、母
げ=源氏、(け=実は源氏、ヘ=平氏
主題:
春夏秋冬、旅=羇旅、離=離別、雑=雑部、なし=恋
:
1 天智天皇-天/秋, 2持統天皇-女帝/夏, 3柿本人麻呂 -官, 4 山部赤人-官/冬 , 5 猿丸大夫 -官/秋,
6 中納言家持 -官/冬, 7 阿倍仲麻呂 - 官/旅, 8 喜撰法師 -僧/雑 , 9 小野小町 -女/春, 10 蝉丸 - 僧/雑,
11 参議篁 - 官/旅, 12 僧正遍昭 - 僧/雑, 13 陽成院-天, 14 河原左大臣 -官(け, 15 光孝天皇 -天/春,
16 中納言行平 - 官/離, 17 在原業平朝臣 -官/秋, 18 藤原敏行朝臣 -官ふ, 19 伊勢 - 女(ふ, 20 元良親王 - 親王,
21 素性法師 -僧, 22 文屋康秀 -官/秋, 23 大江千里 -官/秋, 24 菅家 -官/旅, 25 三条右大臣 -官(ふ,
26 貞信公 -官(ふ/雑, 27 中納言兼輔 -官(ふ, 28 源宗于朝臣 -官げ/冬, 29 凡河内躬恒 -官/秋, 30 壬生忠岑 - 官,
31 坂上是則 -官/冬 , 32 春道列樹 -官/秋, 33 紀友則 -官/春官, 34 藤原興風 -官ふ/雑, 35 紀貫之 -官/春,
36 清原深養父 -官/夏, 37 文屋朝康 -官/秋, 38 右近 -女(ふ, 39 参議等 -官け , 40 平兼盛 - 官へ,
41 壬生忠見 -官, 42 清原元輔 -官, 43 権中納言敦忠 -官(ふ, 44 中納言朝忠 -官(ふ , 45 謙徳公 -官(ふ,
46 曽禰好忠 -官, 47 恵慶法師 -僧/秋, 48 源重之 - 官げ, 49 大中臣能宣朝臣 -官, 50 藤原義孝 -官ふ,
51 藤原実方朝臣 -官ふ, 52 藤原道信 -官ふ, 53 右大将道綱母 -母(ふ, 54 儀同三司母 -母(ふ, 55 大納言公任 -官(ふ/雑,
56 和泉式部 -女, 57 紫式部 -女(ふ/雑, 58 大弐三位 -女(ふ, 59 赤染衛門 -女, 60 小式部内侍 -女/雑,
61 伊勢大輔 -女/春, 62 清少納言 -女/雑, 63 左京大夫道雅 -官(ふ, 64 権中納言定頼 -官(ふ/冬, 65 相模 - 女,
66 大僧正行尊 -僧(け/雑, 67 周防内侍 -女(へ/雑, 68 三条院 -天/雑, 69 能因法師 -僧/秋, 70 良暹法師 -僧/秋,
71 大納言経信 -官(け/秋, 72 祐子内親王家紀伊 -女, 73 権中納言匡房 -官/春, 74 源俊頼朝臣 -官げ, 75 藤原基俊 -官ふ/雑,
76 法性寺入道前関白太政大臣 -官(ふ/雑, 77 崇徳院 -天, 78 源兼昌 -官げ/冬, 79 左京大夫顕輔 -官(ふ/秋, 80 待賢門院堀河 -女(け,
81 後徳大寺左大臣 -官(ふ/夏, 82 道因法師 -僧(ふ, 83 皇太后宮大夫俊成 -官(ふ/雑, 84 藤原清輔朝臣 -官ふ/雑, 85 俊恵法師 -
86 西行法師 -僧, 87 寂蓮法師 -僧(ふ/秋, 88 皇嘉門院別当 -女(け, 89 式子内親王 -内親王 90 殷富門院大輔 -女(ふ,
91 後京極摂政前太政大臣 -官(ふ/秋, 92 二条院讃岐 -女, 93 鎌倉右大臣 -官(け/旅, 94 参議雅経 -官/秋, 95 前大僧正慈円 -僧(ふ/雑,
96 入道前太政大臣 -官(ふ/雑, 97 権中納言定家 -官(ふ, 98 従二位家隆 -官(ふ/夏, 99 後鳥羽院 -天/雑, 100 順徳院-天/雑
"百人一首の分類:改訂版"
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|\ |________男 性七九________|_____女 性二一_____|
| \身分|天皇 親王| 官人 | 僧侶|女帝 内親王 女房 | 母 |
|主題\数| 七 一| 五八 (藤原姓) 一三| 一 一| 一七 | 二 |
|__数\|_____|_________二三|___|_____|_____|___|
| | |15 |33、35| | | | 9、61| |
| |春六| |73 | | | | | |
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| |夏四| |36 (81(98| | 2 | | |
|四|__|_____|_____|_____|___|_____|_____|___|
| | | 1 | 5、17| (79| 47| | | |
| |秋 | |22、23| (91| 69| | | |
| |一六| |29、32| | 70| | | |
|季| | |37け71| |(87| | | |
| | | |94 | | | | | |
|三|__|_____|_____|_____|___|_____|_____|___|
|二| | | 4、 6| (64| | | | |
| |冬 | げ28、31| | | | | |
| | 六| げ78 | | | | | |
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| | | 7、11| | | | | |
|羇旅 四| |24け93| | | | | |
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|離別 一| |16 | | | | | |
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| |68 | (26、34| 8| (57、60| |
| |99 | (55、75| 10| |62ヘ67| |
|雑部 100 | (76(83| 12| | | |
| 二〇| | |84(96|け66| | | |
| | | | |(95| | | |
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| |13 20| 3け14|18(25| 21| 89(19(38|(53|
| |77 |30け39(27(43|(82| |56(58|(54|
| 恋 | へ40、41(44(45|け85| |59、65| |
| 四三| |42、46|50、51| 86| |72け80| |
| | げ48、49|52(63| | け88(90| |
| | げ74 (97 | | け92 | |
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1 天智天皇-天/秋, 2持統天皇-女帝/夏, 3柿本人麻呂 -官, 4 山部赤人-官/冬 , 5 猿丸大夫 -官/秋,
6 中納言家持 -官/冬, 7 阿倍仲麻呂 - 官/旅, 8 喜撰法師 -僧/雑 , 9 小野小町 -女/春, 10 蝉丸 - 僧/雑,
11 参議篁 - 官/旅, 12 僧正遍昭 - 僧/雑, 13 陽成院-天, 14 河原左大臣 -官(け, 15 光孝天皇 -天/春,
16 中納言行平 - 官/離, 17 在原業平朝臣 -官/秋, 18 藤原敏行朝臣 -官ふ, 19 伊勢 - 女(ふ, 20 元良親王 - 親王,
21 素性法師 -僧, 22 文屋康秀 -官/秋, 23 大江千里 -官/秋, 24 菅家 -官/旅, 25 三条右大臣 -官(ふ,
26 貞信公 -官(ふ/雑, 27 中納言兼輔 -官(ふ, 28 源宗于朝臣 -官げ/冬, 29 凡河内躬恒 -官/秋, 30 壬生忠岑 - 官,
31 坂上是則 -官/冬 , 32 春道列樹 -官/秋, 33 紀友則 -官/春官, 34 藤原興風 -官ふ/雑, 35 紀貫之 -官/春,
36 清原深養父 -官/夏, 37 文屋朝康 -官/秋, 38 右近 -女(ふ, 39 参議等 -官け , 40 平兼盛 - 官へ,
41 壬生忠見 -官, 42 清原元輔 -官, 43 権中納言敦忠 -官(ふ, 44 中納言朝忠 -官(ふ , 45 謙徳公 -官(ふ,
46 曽禰好忠 -官, 47 恵慶法師 -僧/秋, 48 源重之 - 官げ, 49 大中臣能宣朝臣 -官, 50 藤原義孝 -官ふ,
51 藤原実方朝臣 -官ふ, 52 藤原道信 -官ふ, 53 右大将道綱母 -母(ふ, 54 儀同三司母 -母(ふ, 55 大納言公任 -官(ふ/雑,
56 和泉式部 -女, 57 紫式部 -女(ふ/雑, 58 大弐三位 -女(ふ, 59 赤染衛門 -女, 60 小式部内侍 -女/雑,
61 伊勢大輔 -女/春, 62 清少納言 -女/雑, 63 左京大夫道雅 -官(ふ, 64 権中納言定頼 -官(ふ/冬, 65 相模 - 女,
66 大僧正行尊 -僧(け/雑, 67 周防内侍 -女(へ/雑, 68 三条院 -天/雑, 69 能因法師 -僧/秋, 70 良暹法師 -僧/秋,
71 大納言経信 -官(け/秋, 72 祐子内親王家紀伊 -女, 73 権中納言匡房 -官/春, 74 源俊頼朝臣 -官げ, 75 藤原基俊 -官ふ/雑,
76 法性寺入道前関白太政大臣 -官(ふ/雑, 77 崇徳院 -天, 78 源兼昌 -官げ/冬, 79 左京大夫顕輔 -官(ふ/秋, 80 待賢門院堀河 -女(け,
81 後徳大寺左大臣 -官(ふ/夏, 82 道因法師 -僧(ふ, 83 皇太后宮大夫俊成 -官(ふ/雑, 84 藤原清輔朝臣 -官ふ/雑, 85 俊恵法師 -
86 西行法師 -僧, 87 寂蓮法師 -僧(ふ/秋, 88 皇嘉門院別当 -女(け, 89 式子内親王 -内親王 90 殷富門院大輔 -女(ふ,
91 後京極摂政前太政大臣 -官(ふ/秋, 92 二条院讃岐 -女, 93 鎌倉右大臣 -官(け/旅, 94 参議雅経 -官/秋, 95 前大僧正慈円 -僧(ふ/雑,
96 入道前太政大臣 -官(ふ/雑, 97 権中納言定家 -官(ふ, 98 従二位家隆 -官(ふ/夏, 99 後鳥羽院 -天/雑, 100 順徳院-天/雑
身分:
天=天皇、親王、官=官人、ふ=藤原氏、(ふ=実は藤原氏、僧=僧侶、女帝、内親王、女=女房、母
げ=源氏、(け=実は源氏、ヘ=平氏
主題:
春夏秋冬、旅=羇旅、離=離別、雑=雑部、なし=恋
身分/主題:
1天/秋, 2女帝/夏,3官,4官/冬, 5官/秋, 6官/冬, 7官/旅, 8僧/雑 , 9女/春, 10僧/雑,
11官/旅, 12僧/雑, 13天, 14官(け, 15天/春, 16官/離, 17官/秋, 18官ふ, 19女(ふ, 20親王,
21僧, 22官/秋, 23官/秋, 24官/旅, 25官(ふ, 26官(ふ/雑, 27官(ふ, 28官げ/冬, 29官/秋, 30官,
31官/冬 , 32官/秋, 33官/春官, 34官ふ/雑, 35官/春, 36官/夏, 37官/秋, 38女(ふ 39官け , 40官へ,
41官, 42官,43官(ふ, 44官(ふ ,45官(ふ, 46官, 47僧/秋, 48官げ, 49官, 50官ふ,
51官ふ, 52官ふ, 53母(ふ, 54母(ふ, 55官(ふ/雑, 56女, 57女(ふ/雑, 58女(ふ, 59女, 60女/雑,
61女/春, 62女/雑, 63官(ふ, 64官(ふ/冬, 65女, 66僧(け/雑, 67女(へ/雑, 68天/雑, 69僧/秋, 70僧/秋,
71官(け/秋, 72女, 73官/春, 74官げ, 75官ふ/雑, 76官(ふ/雑, 77天, 78官げ/冬, 79官(ふ/秋, 80女(け,
81 官(ふ/夏, 82僧(ふ, 83官(ふ/雑, 84官ふ/雑, 85僧(け, 86僧, 87僧(ふ/秋, 88女(け, 89内親王, 90女(ふ,
91官(ふ/秋, 92女, 93官(け/旅, 94官/秋, 95僧(ふ/雑, 96官(ふ/雑, 97官(ふ, 98官(ふ/夏, 99天/雑, 100天/雑
:
1 天智天皇-天/秋, 2持統天皇-女帝/夏, 3柿本人麻呂 -官, 4 山部赤人-官/冬 , 5 猿丸大夫 -官/秋,
6 中納言家持 -官/冬, 7 阿倍仲麻呂 - 官/旅, 8 喜撰法師 -僧/雑 , 9 小野小町 -女/春, 10 蝉丸 - 僧/雑,
11 参議篁 - 官/旅, 12 僧正遍昭 - 僧/雑, 13 陽成院-天, 14 河原左大臣 -官(け, 15 光孝天皇 -天/春,
16 中納言行平 - 官/離, 17 在原業平朝臣 -官/秋, 18 藤原敏行朝臣 -官ふ, 19 伊勢 - 女(ふ, 20 元良親王 - 親王,
21 素性法師 -僧, 22 文屋康秀 -官/秋, 23 大江千里 -官/秋, 24 菅家 -官/旅, 25 三条右大臣 -官(ふ,
26 貞信公 -官(ふ/雑, 27 中納言兼輔 -官(ふ, 28 源宗于朝臣 -官げ/冬, 29 凡河内躬恒 -官/秋, 30 壬生忠岑 - 官,
31 坂上是則 -官/冬 , 32 春道列樹 -官/秋, 33 紀友則 -官/春官, 34 藤原興風 -官ふ/雑, 35 紀貫之 -官/春,
36 清原深養父 -官/夏, 37 文屋朝康 -官/秋, 38 右近 -女(ふ, 39 参議等 -官け , 40 平兼盛 - 官へ,
41 壬生忠見 -官, 42 清原元輔 -官, 43 権中納言敦忠 -官(ふ, 44 中納言朝忠 -官(ふ , 45 謙徳公 -官(ふ,
46 曽禰好忠 -官, 47 恵慶法師 -僧/秋, 48 源重之 - 官げ, 49 大中臣能宣朝臣 -官, 50 藤原義孝 -官ふ,
51 藤原実方朝臣 -官ふ, 52 藤原道信 -官ふ, 53 右大将道綱母 -母(ふ, 54 儀同三司母 -母(ふ, 55 大納言公任 -官(ふ/雑,
56 和泉式部 -女, 57 紫式部 -女(ふ/雑, 58 大弐三位 -女(ふ, 59 赤染衛門 -女, 60 小式部内侍 -女/雑,
61 伊勢大輔 -女/春, 62 清少納言 -女/雑, 63 左京大夫道雅 -官(ふ, 64 権中納言定頼 -官(ふ/冬, 65 相模 - 女,
66 大僧正行尊 -僧(け/雑, 67 周防内侍 -女(へ/雑, 68 三条院 -天/雑, 69 能因法師 -僧/秋, 70 良暹法師 -僧/秋,
71 大納言経信 -官(け/秋, 72 祐子内親王家紀伊 -女, 73 権中納言匡房 -官/春, 74 源俊頼朝臣 -官げ, 75 藤原基俊 -官ふ/雑,
76 法性寺入道前関白太政大臣 -官(ふ/雑, 77 崇徳院 -天, 78 源兼昌 -官げ/冬, 79 左京大夫顕輔 -官(ふ/秋, 80 待賢門院堀河 -女(け,
81 後徳大寺左大臣 -官(ふ/夏, 82 道因法師 -僧(ふ, 83 皇太后宮大夫俊成 -官(ふ/雑, 84 藤原清輔朝臣 -官ふ/雑, 85 俊恵法師 -
86 西行法師 -僧, 87 寂蓮法師 -僧(ふ/秋, 88 皇嘉門院別当 -女(け, 89 式子内親王 -内親王 90 殷富門院大輔 -女(ふ,
91 後京極摂政前太政大臣 -官(ふ/秋, 92 二条院讃岐 -女, 93 鎌倉右大臣 -官(け/旅, 94 参議雅経 -官/秋, 95 前大僧正慈円 -僧(ふ/雑,
96 入道前太政大臣 -官(ふ/雑, 97 権中納言定家 -官(ふ, 98 従二位家隆 -官(ふ/夏, 99 後鳥羽院 -天/雑, 100 順徳院-天/雑
身分:
天=天皇、親王、官=官人、ふ=藤原氏、(ふ=実は藤原氏、僧=僧侶、女帝、内親王、女=女房、母
げ=源氏、(け=実は源氏、ヘ=平氏
主題:
春夏秋冬、旅=羇旅、離=離別、雑=雑部、なし=恋
身分/主題:
1天/秋, 2女帝/夏,3官,4官/冬, 5官/秋, 6官/冬, 7官/旅, 8僧/雑 , 9女/春, 10僧/雑,
11官/旅, 12僧/雑, 13天, 14官(け, 15天/春, 16官/離, 17官/秋, 18官ふ, 19女(ふ, 20親王,
21僧, 22官/秋, 23官/秋, 24官/旅, 25官(ふ, 26官(ふ/雑, 27官(ふ, 28官げ/冬, 29官/秋, 30官,
31官/冬 , 32官/秋, 33官/春官, 34官ふ/雑, 35官/春, 36官/夏, 37官/秋, 38女(ふ 39官け , 40官へ,
41官, 42官,43官(ふ, 44官(ふ ,45官(ふ, 46官, 47僧/秋, 48官げ, 49官, 50官ふ,
51官ふ, 52官ふ, 53母(ふ, 54母(ふ, 55官(ふ/雑, 56女, 57女(ふ/雑, 58女(ふ, 59女, 60女/雑,
61女/春, 62女/雑, 63官(ふ, 64官(ふ/冬, 65女, 66僧(け/雑, 67女(へ/雑, 68天/雑, 69僧/秋, 70僧/秋,
71官(け/秋, 72女, 73官/春, 74官げ, 75官ふ/雑, 76官(ふ/雑, 77天, 78官げ/冬, 79官(ふ/秋, 80女(け,
81 官(ふ/夏, 82僧(ふ, 83官(ふ/雑, 84官ふ/雑, 85僧(け, 86僧, 87僧(ふ/秋, 88女(け, 89内親王, 90女(ふ,
91官(ふ/秋, 92女, 93官(け/旅, 94官/秋, 95僧(ふ/雑, 96官(ふ/雑, 97官(ふ, 98官(ふ/夏, 99天/雑, 100天/雑
:
藤原氏|天皇/
(官僚)| /僧侶
____|/___
|
女房 | 武士
|
ゾンバルト的に女房らの恋愛を資本主義的放蕩とすればこうなる。
:
藤原氏|天皇/
(官僚)| /僧侶
____|/___
|
女房 | 武士
|
ゾンバルト的に女房らの恋愛を資本主義的放蕩とすればこうなる。
<源氏は源の姓を持つ氏族であるが、嵯峨天皇が生まれた子らにその姓を与え、皇室と祖を同じくするという名誉の意味をこめて与えた。
嵯峨天皇に皇子皇女が増え、朝廷の財政を逼迫させる基にもなることから、早くに臣籍降下することが皇胤にとって子孫繁栄の道であった。>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F
女房文学から隠者文学へ
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46958_27475.html
折口信夫
:
| |天皇|
_官僚_|_宗教__
藤原氏| | |僧侶
__|_|__|__
| |源氏
女房 |_武士__
|平氏|
| |
:
|天皇|
官僚|_宗教__
藤原氏 | |僧侶
____|__|__
| |源氏
女房 |_武士__
|平氏|
:
|天皇|
官僚 |_宗教__
藤原氏 | |僧侶
____|__|__
| |源氏
女房 |_武士__
|平氏|
:
|天皇|
官僚|_宗教__
藤原氏 | |僧侶
____|__|__
| |源氏
女房 |_武士__
|平氏|
天智天皇
ーーー敏行(18) 藤原氏
右近(38) 藤原氏の出
嵯峨天皇ー河原左大臣(14) 源氏
西行(86) 元は北面の武士
:
|天皇|
官僚|_宗教__
藤原氏 | |僧侶
____|__|__
| |源氏
女房 |_武士__
|平氏|
天智天皇
ーーー敏行(18) 藤原氏
伊勢(19)、右近(38) 藤原氏の出
嵯峨天皇ー河原左大臣(14) 源氏
西行(86) 元は北面の武士
:
| |僧侶
官僚|_宗教__
藤原氏 |天皇|
____|__|__
| |源氏
女房 |_武士__
|平氏|
天智天皇
ーーー敏行(18) 藤原氏
伊勢(19)、右近(38) 藤原氏の出
嵯峨天皇ー河原左大臣(14) 源氏
平兼盛(40) 光孝天皇(15)の玄孫
西行(86) 元は北面の武士
:
____ ______________________ ________________
|\ |_________男 性七九________|_____女 性二一______|
| \身分|天皇 親王| 官人 | 僧侶|女帝 内親王 女房 | 母 |
|時代\ | 七 一| 五八 (藤原姓)| 一三| 一 一| 一七 | 二 |
|___\|_____|__________二五|___|_____|______|___|
|万葉集時|1天智 |3人麿 | | |2 | | |
|代 計六| 天皇 |4赤人 | | |持統 | | |
|(男五、| |6家持 | | |天皇 | | |
| 女一)| |7仲麿 | | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|六歌仙 |13陽成院|5猿丸大夫 | |8 | | | |
| 時代 | |11参議篁 | |喜選 | | | |
| |15 |14河原 | |12 | | 9 | |
|計一二 |光孝天皇 | 左大臣け | |遍昭 | | 小町 | |
|(男一一| |16行平 | |10 | | | |
| 女一)| |17業平 | |蝉丸 | | | |
| | |22 | | | | | |
| | |文屋康秀 | | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|古今集 | |23 | | | | | |
| 時代 | |大江千里お |18敏行 | 21| | 19 | |
| | |24菅家 |25 | 素性| | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝げ |三条右大臣| | | | |
|(男一七| |29躬恒 |26貞信公| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|27兼輔 | | | | |
| | |列樹32 | | | | | |
| | |友則33 |34興風 | | | | |
| | |列樹32 | | | | | |
| | |友則33 | | | | | |
| | |貫之35 | | | | | |
| | |深養父36 | | | | | |
| | |文屋朝康37| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
| |20 |参議等39 |敦忠43 | | |右近38 | |
| |元良親王 |平兼盛へ40|朝忠44 |47 | |56 | 53|
|後撰集 | |壬生忠見41|謙徳公45|恵慶 | |和泉式部お |道綱母|
|以後 | |清原元輔42|義孝50 | | |紫式部57 | |
|千載集 | |源重之げ48|実方51 | | |大弐三位58| 54|
|までの | |曽禰好忠46|道信52 | | 赤染衛門お59|儀同 |
|時代 | |能宣49 | | | 小式部内侍お60|三司母|
| | | | | | |伊勢大輔61| |
|計四八 | | | | | |清少納言62| |
|(男三四|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|女一四)| 三条院 | 71経信け|公任55 |69 | |相模お65 | |
| | 68 | 匡房お73|道雅63 |能因 | |周防内侍へ67 |
| | 崇徳院 | 俊頼げ74|定頼64 |70 | |紀伊72 | |
| | 77 | 兼昌げ78|基俊75 |良暹 | | | |
| | | |法性寺 |66 | |堀河け80 | |
| | | |入道76 |行尊け| | | |
| | | |顕輔79 |82 | | | |
| | | |後徳大寺 |道因 | | | |
| | | |左大臣81|85 | | | |
| | | |清輔84 |俊恵け| | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|新古今集| 99 | |俊成83 | 86| |88 | |
|時代 |後鳥羽院 | |良経91 | 西行| |皇嘉門院別当け |
| |100 |実朝け93 |雅経94 | 87| 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |公経96 | 寂蓮|式子内親王|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |定家97 | 95| |92 | |
| 女四)| | |家隆98 | 慈円| |二条院讃岐 | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
:
____ ______________________ ________________
|\ |_________男 性七九________|_____女 性二一______|
| \身分|天皇 親王| 官人 | 僧侶|女帝 内親王 女房 | 母 |
|時代\ | 七 一| 五八 (藤原姓)| 一三| 一 一| 一七 | 二 |
|___\|_____|__________二五|___|_____|______|___|
|万葉集時|1天智 |3人麿4赤人| | |2持統 | | |
|代 計六| 天皇 |6家持7仲麿| | | 天皇 | | |
(男五、女一) | | | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|六歌仙 |13陽成院| 5猿丸大夫| | 8 | | | |
| 時代 | |11参議篁 | |喜選 | | | |
| |15 |14河原 | |12 | | 9 | |
|計一二 |光孝天皇 | 左大臣け | |遍昭 | | 小町 | |
|(男一一| |16行平 | |10 | | | |
| 女一)| |17業平 | |蝉丸 | | | |
| | |22文屋康秀| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|古今集 | |23大江千里お18敏行 | 21| | 19 | |
| 時代 | |24菅家 |25 | 素性| | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝げ |三条右大臣| | | | |
|(男一七| |29躬恒 |26貞信公| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|27兼輔 | | | | |
| | |列樹32 | | | | | |
| | |友則33 |34興風 | | | | |
| | |列樹32 | | | | | |
| | |友則33 | | | | | |
| | |貫之35 | | | | | |
| | |深養父36 | | | | | |
| | |文屋朝康37| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
| |20 |参議等39 |敦忠43 | | |右近38 | |
| |元良親王 |平兼盛へ40|朝忠44 |47 | |56和泉式部お 53|
|後撰集 | |壬生忠見41|謙徳公45|恵慶 | |紫式部57 |道綱母|
|以後 | |清原元輔42|義孝50 | | |大弐三位58| |
|千載集 | |源重之げ48|実方51 | | 赤染衛門お59| 54|
|までの | |曽禰好忠46|道信52 | | 小式部内侍お60|儀同 |
|時代 | |能宣49 | | | |伊勢大輔61|三司母|
| | | | | | |清少納言62| |
|計四八 |_____|______|_____|___|_____|______|___|
|(男三四| 三条院 | 71経信け|公任55 |69 | |相模お65 | |
| 女一四) 68 | 匡房お73|道雅63 |能因 | |周防内侍へ67 |
| | 崇徳院 | 俊頼げ74|定頼64 |70 | |紀伊72 | |
| | 77 | 兼昌げ78|基俊75 |良暹 | | | |
| | | |法性寺 |66 | |堀河け80 | |
| | | |入道76 |行尊け| | | |
| | | |顕輔79 |82 | | | |
| | | |後徳大寺 |道因 | | | |
| | | |左大臣81|85 | | | |
| | | |清輔84 |俊恵け| | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|新古今集| 99 | |俊成83 | 86| |88 | |
|時代 |後鳥羽院 | |良経91 | 西行| |皇嘉門院別当け |
| |100 |実朝け93 |雅経94 | 87| 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |公経96 | 寂蓮|式子内親王|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |定家97 | 95| |92 | |
| 女四)| | |家隆98 | 慈円| |二条院讃岐 | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
:
____ ______________________ ________________
|\ |_________男 性七九________|_____女 性二一______|
| \身分|天皇 親王| 官人 | 僧侶|女帝 内親王 女房 | 母 |
|時代\ | 七 一| 五八 (藤原姓)| 一三| 一 一| 一七 | 二 |
|___\|_____|__________二五|___|_____|______|___|
|万葉集時|1天智 |3人麿4赤人| | |2持統 | | |
|代 計六| 天皇 |6家持7仲麿| | | 天皇 | | |
(男五、女一) | | | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|六歌仙 |13陽成院| 5猿丸大夫| | 8 | | | |
| 時代 | |11参議篁 | |喜選 | | | |
| |15 |14河原 | |12 | | 9 | |
|計一二 |光孝天皇 | 左大臣け | |遍昭 | | 小町 | |
|(男一一| |16行平 | |10 | | | |
| 女一)| |17業平 | |蝉丸 | | | |
| | |22文屋康秀| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|古今集 | |23大江千里お18敏行 | 21| | 19 | |
| 時代 | |24菅家 |25 | 素性| | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝げ |三条右大臣| | | | |
|(男一七| |29躬恒 |26貞信公| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|27兼輔 | | | | |
| | |32列樹 | | | | | |
| | |33友則 |34興風 | | | | |
| | |35貫之 | | | | | |
| | |36深養父 | | | | | |
| | |37文屋朝康| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
| | 20|参議等39 |43敦忠 | | |38右近 | |
| | 元良親王|平兼盛へ40|44朝忠 |47 | |56和泉式部お 53|
|後撰集 | |壬生忠見41|45謙徳公|恵慶 | |57紫式部 |道綱母|
|以後 | |清原元輔42|50義孝 | | |58大弐三位| |
|千載集 | |源重之げ48|51実方 | | 59赤染衛門お| 54|
|までの | |曽禰好忠46|52道信 | | 60小式部内侍お|儀同 |
|時代 | |能宣49 | | | |61伊勢大輔|三司母|
| | | | | | |62清少納言| |
|計四八 |_____|______|_____|___|_____|______|___|
|(男三四| 68 | 71経信け|55公任 |69 | |65相模お | |
| 女一四)三条院 | 匡房お73|63道雅 |能因 | |67周防内侍へ |
| | 77 | 俊頼げ74|64定頼 |70 | |72紀伊 | |
| |崇徳院 | 兼昌げ78|75基俊 |良暹 | | | |
| | | |76法性寺|66 | |80堀河け | |
| | | | 入道 |行尊け| | | |
| | | |79顕輔 |82 | | | |
| | | 81後徳大寺|道因 | | | |
| | | | 左大臣 |85 | | | |
| | | |84清輔 |俊恵け| | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|新古今集| 99 | |83俊成 |86 | |88 | |
|時代 |後鳥羽院 | |91良経 |西行 | |皇嘉門院別当け |
| |100 |実朝け93 |94雅経 |87 | 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |96公経 |寂蓮 |式子内親王|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |97定家 |95 | |92 | |
| 女四)| | |98家隆 |慈円 | |二条院讃岐 | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
:
____ ______________________ ________________
|\ |_________男 性七九________|_____女 性二一______|
| \身分|天皇 親王| 官人 | 僧侶|女帝 内親王 女房 | 母 |
|時代\ | 七 一| 五八 (藤原姓)| 一三| 一 一| 一七 | 二 |
|___\|_____|__________二五|___|_____|______|___|
|万葉集時| 1 |3人麿4赤人| | | 2 | | |
|代 計六|天智天皇 |6家持7仲麿| | |持統天皇 | | |
(男五、女一) | | | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|六歌仙 |13陽成院| 5猿丸大夫| | 8 | | | |
| 時代 | |11参議篁 | |喜選 | | | |
| |15 |14河原 | |12 | | 9 | |
|計一二 |光孝天皇 | 左大臣け | |遍昭 | | 小町 | |
|(男一一| |16行平 | |10 | | | |
| 女一)| |17業平 | |蝉丸 | | | |
| | |22文屋康秀| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|古今集 | |23大江千里お18敏行 |21 | | 19 | |
| 時代 | |24菅家 |25 |素性 | | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝げ |三条右大臣| | | | |
|(男一七| |29躬恒 |26貞信公| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|27兼輔 | | | | |
| | |32列樹 | | | | | |
| | |33友則 |34興風 | | | | |
| | |35貫之 | | | | | |
| | |36深養父 | | | | | |
| | |37文屋朝康| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
| | 20|参議等39 |43敦忠 | | |38右近 | |
| | 元良親王|平兼盛へ40|44朝忠 |47 | |56和泉式部お 53|
|後撰集 | |壬生忠見41|45謙徳公|恵慶 | |57紫式部 |道綱母|
|以後 | |清原元輔42|50義孝 | | |58大弐三位| |
|千載集 | |源重之げ48|51実方 | | 59赤染衛門お| |
|までの | |曽禰好忠46|52道信 | | 60小式部内侍お 54|
|時代 | |能宣49 | | | |61伊勢大輔|儀同 |
| | | | | | |62清少納言|三司母|
|計四八 |_____|______|_____|___|_____|______|___|
|(男三四| 68 | 71経信け|55公任 |69 | |65相模お | |
| 女一四)三条院 | 匡房お73|63道雅 |能因 | |67周防内侍へ |
| | 77 | 俊頼げ74|64定頼 |70 | |72紀伊 | |
| |崇徳院 | 兼昌げ78|75基俊 |良暹 | | | |
| | | |76法性寺|66 | |80堀河け | |
| | | | 入道 |行尊け| | | |
| | | |79顕輔 |82 | | | |
| | | 81後徳大寺|道因 | | | |
| | | | 左大臣 |85 | | | |
| | | |84清輔 |俊恵け| | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|新古今集| 99 | |83俊成 |86 | |88 | |
|時代 |後鳥羽院 | |91良経 |西行 | |皇嘉門院別当け |
| |100 |実朝け93 |94雅経 |87 | 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |96公経 |寂蓮 |式子内親王|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |97定家 |95 | |92 | |
| 女四)| | |98家隆 |慈円 | |二条院讃岐 | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
:
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|\ |_________男 性七九________|_____女 性二一______|
| \身分|天皇 親王| 官人 | 僧侶|女帝 内親王 女房 | 母 |
|時代\ | 七 一| 五八 (藤原姓)| 一三| 一 一| 一七 | 二 |
|___\|_____|__________二五|___|_____|______|___|
|万葉集時| 1 |3人麿4赤人| | | 2 | | |
|代 計六|天智天皇 |6家持7仲麿| | |持統天皇 | | |
(男五、女一) | | | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|六歌仙 |13陽成院| 5猿丸大夫| | 8 | | | |
| 時代 | |11参議篁 | |喜選 | | | |
| |15 |14河原 | |12 | | 9 | |
|計一二 |光孝天皇 | 左大臣 | |遍昭 | | 小町 | |
|(男一一| |16行平 | |10 | | | |
| 女一)| |17業平 | |蝉丸 | | | |
| | |22文屋康秀| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|古今集 | |23大江千里|18敏行 |21 | | 19 | |
| 時代 | |24菅家 |25 |素性 | | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝 |三条右大臣| | | | |
|(男一七| |29躬恒 |26貞信公| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|27兼輔 | | | | |
| | |32列樹 | | | | | |
| | |33友則 |34興風 | | | | |
| | |35貫之 | | | | | |
| | |36深養父 | | | | | |
| | |37文屋朝康| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
| | 20|39参議等 |43敦忠 | | |38右近 | |
| | 元良親王|40平兼盛 |44朝忠 |47 | |56和泉式部| 53|
|後撰集 | |41壬生忠見|45謙徳公|恵慶 | |57紫式部 |道綱母|
|以後 | |42清原元輔|50義孝 | | |58大弐三位| |
|千載集 | |48源重之 |51実方 | | |59赤染衛門| |
|までの | |46曽禰好忠|52道信 | | 60小式部内侍| 54|
|時代 | |49能宣 | | | |61伊勢大輔|儀同 |
| | | | | | |62清少納言|三司母|
|計四八 |_____|______|_____|___|_____|______|___|
|(男三四| 68 | 71経信 |55公任 |69 | |65相模 | |
| 女一四)三条院 | 73匡房 |63道雅 |能因 | |67周防内侍| |
| | 77 | 74俊頼 |64定頼 |70 | |72紀伊 | |
| |崇徳院 | 78兼昌 |75基俊 |良暹 | | | |
| | | |76法性寺|66 | |80堀河 | |
| | | | 入道 |行尊 | | | |
| | | |79顕輔 |82 | | | |
| | | 81後徳大寺|道因 | | | |
| | | | 左大臣 |85 | | | |
| | | |84清輔 |俊恵 | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|新古今集| 99 | |83俊成 |86 | |88 | |
|時代 |後鳥羽院 | 93 |91良経 |西行 | |皇嘉門院別当| |
| |100 | 実朝 |94雅経 |87 | 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |96公経 |寂蓮 |式子内親王|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |97定家 |95 | |92 | |
| 女四)| | |98家隆 |慈円 | |二条院讃岐 | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
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____ ______________________ ________________
|\ |_________男 性七九________|_____女 性二一______|
| \身分|天皇 親王| 官人 | 僧侶|女帝 内親王 女房 | 母 |
|時代\ | 七 一| 五八 (藤原姓)| 一三| 一 一| 一七 | 二 |
|___\|_____|__________二五|___|_____|______|___|
|万葉集時| 1 |3人麿4赤人| | | 2 | | |
|代 計六|天智天皇 |6家持7仲麿| | |持統天皇 | | |
(男五、女一) | | | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|六歌仙 |13 | 5猿丸大夫| | 8 | | | |
| 時代 |陽成院 |11参議篁 | |喜選 | | | |
| |15 |14河原 | |12 | | 9 | |
|計一二 |光孝天皇 | 左大臣 | |遍昭 | | 小町 | |
|(男一一| |16行平 | |10 | | | |
| 女一)| |17業平 | |蝉丸 | | | |
| | |22文屋康秀| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|古今集 | |23大江千里|18敏行 |21 | | 19 | |
| 時代 | |24菅家 |25 |素性 | | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝 |三条右大臣| | | | |
|(男一七| |29躬恒 |26貞信公| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|27兼輔 | | | | |
| | |32列樹 | | | | | |
| | |33友則 |34興風 | | | | |
| | |35貫之 | | | | | |
| | |36深養父 | | | | | |
| | |37文屋朝康| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
| | 20|39参議等 |43敦忠 | | |38右近 | |
| | 元良親王|40平兼盛 |44朝忠 |47 | |56和泉式部| 53|
|後撰集 | |41壬生忠見|45謙徳公|恵慶 | |57紫式部 |道綱母|
|以後 | |42清原元輔|50義孝 | | |58大弐三位| |
|千載集 | |48源重之 |51実方 | | |59赤染衛門| |
|までの | |46曽禰好忠|52道信 | | |60小式部内侍 54|
|時代 | |49能宣 | | | |61伊勢大輔| 儀同|
| | | | | | |62清少納言|三司母|
|計四八 |_____|______|_____|___|_____|______|___|
|(男三四| 68 | 71経信 |55公任 |69 | |65相模 | |
| 女一四)三条院 | 73匡房 |63道雅 |能因 | |67周防内侍| |
| | 77 | 74俊頼 |64定頼 |70 | |72紀伊 | |
| |崇徳院 | 78兼昌 |75基俊 |良暹 | | | |
| | | |76法性寺|66 | |80堀河 | |
| | | | 入道 |行尊 | | | |
| | | |79顕輔 |82 | | | |
| | | 81後徳大寺|道因 | | | |
| | | | 左大臣 |85 | | | |
| | | |84清輔 |俊恵 | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|新古今集| 99 | |83俊成 |86 | |88 | |
|時代 |後鳥羽院 | 93 |91良経 |西行 | |皇嘉門院別当| |
| |100 | 実朝 |94雅経 |87 | 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |96公経 |寂蓮 |式子内親王|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |97定家 |95 | |92 | |
| 女四)| | |98家隆 |慈円 | |二条院讃岐 | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
:
____ ______________________ ________________
|\ |_________男 性七九________|_____女 性二一______|
| \身分|天皇 親王| 官人 | 僧侶|女帝 内親王 女房 | 母 |
|時代\ | 七 一| 五八 (藤原姓)| 一三| 一 一| 一七 | 二 |
|___\|_____|__________二五|___|_____|______|___|
|万葉集時| 1 |3人麿4赤人| | | 2 | | |
|代 計六|天智天皇 |6家持7仲麿| | |持統天皇 | | |
(男五、女一) | | | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|六歌仙 |13 | 5猿丸大夫| | 8 | | | |
| 時代 |陽成院 |11参議篁 | |喜選 | | | |
| |15 |14河原 | |12 | | 9 | |
|計一二 |光孝天皇 | 左大臣 | |遍昭 | | 小町 | |
|(男一一| |16行平 | |10 | | | |
| 女一)| |17業平 | |蝉丸 | | | |
| | |22文屋康秀| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|古今集 | |23大江千里|18敏行 |21 | | 19 | |
| 時代 | |24菅家 |25 |素性 | | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝 |三条右大臣| | | | |
|(男一七| |29躬恒 |26貞信公| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|27兼輔 | | | | |
| | |32列樹 | | | | | |
| | |33友則 |34興風 | | | | |
| | |35貫之 | | | | | |
| | |36深養父 | | | | | |
| | |37文屋朝康| | | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
| | 20|39参議等 |43敦忠 | | |38右近 | |
| | 元良親王|40平兼盛 |44朝忠 |47 | |56和泉式部| 53|
|後撰集 | |41壬生忠見|45謙徳公|恵慶 | |57紫式部 |道綱母|
|以後 | |42清原元輔|50義孝 | | |58大弐三位| |
|千載集 | |48源重之 |51実方 | | |59赤染衛門| |
|までの | |46曽禰好忠|52道信 | | |60小式部内侍 54|
|時代 | |49能宣 | | | |61伊勢大輔| 儀同|
| | | | | | |62清少納言|三司母|
|計四八 |_____|______|_____|___|_____|______|___|
|(男三四| 68 | 71経信 |55公任 |69 | |65相模 | |
| 女一四)三条院 | 73匡房 |63道雅 |能因 | |67周防内侍| |
| | 77 | 74俊頼 |64定頼 |70 | |72紀伊 | |
| |崇徳院 | 78兼昌 |75基俊 |良暹 | | | |
| | | |76法性寺|66 | |80堀河 | |
| | | | 入道 |行尊 | | | |
| | | |79顕輔 |82 | | | |
| | | 81後徳大寺|道因 | | | |
| | | | 左大臣 |85 | | | |
| | | |84清輔 |俊恵 | | | |
|____|_____|______|_____|___|_____|______|___|
|新古今集| 99 | |83俊成 |86 | |88 | |
|時代 |後鳥羽院 | 93 |91良経 |西行 | |皇嘉門院別当| |
| |100 | 実朝 |94雅経 |87 | 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |96公経 |寂蓮 |式子内親王|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |97定家 |95 | |92 | |
| 女四)| | |98家隆 |慈円 | |二条院讃岐 | |
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|\ |_________男 性七九______|_____女 性二一_____|
| \身分|天皇七 | 官人 |僧侶|女帝一 | 女房 | 母 |
|時代\ | 親王一| 五八 (藤原姓)|一三|内親王一| 一七 | 二 |
|___\|____|__________二五|__|____|______|___|
|万葉集時| 1 |3人麿4赤人| | | 2 | | |
|代 計六|天智天皇|6家持7仲麿| | |持統天皇| | |
(男五、女一) | | | | | | |
|____|____|______|_____|__|____|______|___|
|六歌仙 |13 | 5猿丸大夫| | 8| | | |
| 時代 |陽成院 |11参議篁 | |喜選| | | |
| |15 |14河原 | |12| | 9 | |
|計一二 |光孝天皇| 左大臣 | |遍昭| | 小町 | |
|(男一一| |16行平 | |10| | | |
| 女一)| |17業平 | |蝉丸| | | |
| | |22文屋康秀| | | | | |
|____|____|______|_____|__|____|______|___|
|古今集 | |23大江千里|18敏行 |21| | 19 | |
| 時代 | |24菅家 |25 |素性| | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝 |三条右大臣| | | | |
|(男一七| |29躬恒 |26貞信公| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|27兼輔 | | | | |
| | |32列樹 | | | | | |
| | |33友則 |34興風 | | | | |
| | |35貫之 | | | | | |
| | |36深養父 | | | | | |
| | |37文屋朝康| | | | | |
|____|____|______|_____|__|____|______|___|
| | 20|39参議等 |43敦忠 | | |38右近 | |
| |元良親王|40平兼盛 |44朝忠 |47| |56和泉式部| 53|
|後撰集 | |41壬生忠見|45謙徳公|恵慶| |57紫式部 |道綱母|
|以後 | |42清原元輔|50義孝 | | |58大弐三位| |
|千載集 | |48源重之 |51実方 | | |59赤染衛門| |
|までの | |46曽禰好忠|52道信 | | |60小式部内侍 54|
|時代 | |49能宣 | | | |61伊勢大輔| 儀同|
| | | | | | |62清少納言|三司母|
|計四八 |____|______|_____|__|____|______|___|
|(男三四| 68 | 71経信 |55公任 |69| |65相模 | |
| 女一四)三条院 | 73匡房 |63道雅 |能因| |67周防内侍| |
| | 77 | 74俊頼 |64定頼 |70| |72紀伊 | |
| |崇徳院 | 78兼昌 |75基俊 |良暹| | | |
| | | |76法性寺|66| |80堀河 | |
| | | | 入道 |行尊| | | |
| | | |79顕輔 |82| | | |
| | | 81後徳大寺|道因| | | |
| | | | 左大臣 |85| | | |
| | | |84清輔 |俊恵| | | |
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|新古今集| 99 | |83俊成 |86| |88 | |
|時代 |後鳥羽院| 93 |91良経 |西行| |皇嘉門院別当| |
| |100 | 実朝 |94雅経 |87| 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |96公経 |寂蓮| 式子内|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |97定家 |95| 親王|92 | |
| 女四)| | |98家隆 |慈円| |二条院讃岐 | |
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|\ |_________男 性七九______|_____女 性二一_____|
| \身分|天皇七 | 官人 |僧侶|女帝一 | 女房 | 母 |
|時代\ | 親王一| 五八 (藤原姓)|一三|内親王一| 一七 | 二 |
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|万葉集時| 1 |3人麿4赤人| | | 2 | | |
|代 計六|天智天皇|6家持7仲麿| | |持統天皇| | |
|(男五 | | | | | | | |
|_女一)|____|______|_____|__|____|______|___|
| |13 | 5猿丸大夫| | 8| | | |
|六歌仙 |陽成院 |11参議篁 | |喜選| | | |
| 時代 |15 |14河原 | |12| | 9 | |
| |光孝天皇| 左大臣 | |遍昭| | 小町 | |
|計一二 | |16行平 | |10| | | |
|(男一一| |17業平 | |蝉丸| | | |
| 女一)| |22文屋康秀| | | | | |
|____|____|______|_____|__|____|______|___|
|古今集 | |23大江千里|18敏行 |21| | 19 | |
| 時代 | |24菅家 | |素性| | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝 |25 | | | | |
|(男一七| |29躬恒 |三条右大臣| | | | |
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| | |32列樹 | | | | | |
| | |33友則 |27兼輔 | | | | |
| | |35貫之 | | | | | |
| | |36深養父 |34興風 | | | | |
| | |37文屋朝康| | | | | |
|____|____|______|_____|__|____|______|___|
| | 20|39参議等 |43敦忠 | | |38右近 | |
| |元良親王|40平兼盛 |44朝忠 |47| |56和泉式部| 53|
|後撰集 | |41壬生忠見|45謙徳公|恵慶| |57紫式部 |道綱母|
|以後 | |42清原元輔|50義孝 | | |58大弐三位| |
|千載集 | |48源重之 |51実方 | | |59赤染衛門| |
|までの | |46曽禰好忠|52道信 | | |60小式部内侍 54|
|時代 | |49能宣 | | | |61伊勢大輔| 儀同|
| | | | | | |62清少納言|三司母|
|計四八 |____|______|_____|__|____|______|___|
|(男三四| 68 | 71経信 |55公任 |69| |65相模 | |
| 女一四)三条院 | 73匡房 |63道雅 |能因| |67周防内侍| |
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| |崇徳院 | 78兼昌 |75基俊 |良暹| | | |
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| | | | 入道 |行尊| | | |
| | | |79顕輔 |82| | | |
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| | | |大寺左大臣|85| | | |
| | | |84清輔 |俊恵| | | |
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|新古今集| 99 | |83俊成 |86| |88 | |
|時代 |後鳥羽院| 93 |91良経 |西行| |皇嘉門院別当| |
| |100 | 実朝 |94雅経 |87| 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |96公経 |寂蓮| 式子内|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |97定家 |95| 親王|92 | |
| 女四)| | |98家隆 |慈円| |二条院讃岐 | |
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|\ |_________男 性七九______|_____女 性二一_____|
| \身分|天皇七 | 官人 |僧侶|女帝一 | 女房 | 母 |
|時代\ | 親王一| 五八 (藤原姓)|一三|内親王一| 一七 | 二 |
|___\|____|__________二五|__|____|______|___|
|万葉集時| 1 |3人麿4赤人| | | 2 | | |
|代 計六|天智天皇|6家持7仲麿| | |持統天皇| | |
(男五、女一)___|______|_____|__|____|______|___|
| |13 | 5猿丸大夫| | 8| | | |
|六歌仙 |陽成院 |11参議篁 | |喜選| | | |
| 時代 |15 |14河原 | |12| | 9 | |
| |光孝天皇| 左大臣 | |遍昭| | 小町 | |
|計一二 | |16行平 | |10| | | |
|(男一一| |17業平 | |蝉丸| | | |
| 女一)| |22文屋康秀| | | | | |
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|古今集 | |23大江千里|18敏行 |21| | 19 | |
| 時代 | |24菅家 | |素性| | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝 |25 | | | | |
|(男一七| |29躬恒 |三条右大臣| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|26貞信公| | | | |
| | |32列樹 | | | | | |
| | |33友則 |27兼輔 | | | | |
| | |35貫之 | | | | | |
| | |36深養父 |34興風 | | | | |
| | |37文屋朝康| | | | | |
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| | 20|39参議等 |43敦忠 | | |38右近 | |
| |元良親王|40平兼盛 |44朝忠 |47| |56和泉式部| 53|
|後撰集 | |41壬生忠見|45謙徳公|恵慶| |57紫式部 |道綱母|
|以後 | |42清原元輔|50義孝 | | |58大弐三位| |
|千載集 | |48源重之 |51実方 | | |59赤染衛門| |
|までの | |46曽禰好忠|52道信 | | |60小式部内侍 54|
|時代 | |49能宣 | | | |61伊勢大輔| 儀同|
| | | | | | |62清少納言|三司母|
|計四八 |____|______|_____|__|____|______|___|
|(男三四| 68 | 71経信 |55公任 |69| |65相模 | |
| 女一四)三条院 | 73匡房 |63道雅 |能因| |67周防内侍| |
| | 77 | 74俊頼 |64定頼 |70| |72紀伊 | |
| |崇徳院 | 78兼昌 |75基俊 |良暹| | | |
| | | |76法性寺|66| |80堀河 | |
| | | | 入道 |行尊| | | |
| | | |79顕輔 |82| | | |
| | | |81 後徳|道因| | | |
| | | |大寺左大臣|85| | | |
| | | |84清輔 |俊恵| | | |
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|新古今集| 99 | |83俊成 |86| |88 | |
|時代 |後鳥羽院| 93 |91良経 |西行| |皇嘉門院別当| |
| |100 | 実朝 |94雅経 |87| 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |96公経 |寂蓮| 式子内|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |97定家 |95| 親王|92 | |
| 女四)| | |98家隆 |慈円| |二条院讃岐 | |
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| \身分|天皇七 | 官人 |僧侶|女帝一 | 女房 | 母 |
|時代\ | 親王一| 五八 (藤原姓)|一三|内親王一| 一七 | 二 |
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|万葉集時| 1 |3人麿4赤人| | | 2 | | |
|代 計六|天智天皇|6家持7仲麿| | |持統天皇| | |
(男五、女一)___|______|_____|__|____|______|___|
| |13 | 5猿丸大夫| | 8| | | |
|六歌仙 |陽成院 |11参議篁 | |喜選| | | |
| 時代 |15 |14河原 | |12| | 9 | |
| |光孝天皇| 左大臣 | |遍昭| | 小町 | |
|計一二 | |16行平 | |10| | | |
|(男一一| |17業平 | |蝉丸| | | |
| 女一)| |22文屋康秀| | | | | |
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|古今集 | |23大江千里|18敏行 |21| | 19 | |
| 時代 | |24菅家 | |素性| | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝 |25 | | | | |
|(男一七| |29躬恒 |三条右大臣| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|26貞信公| | | | |
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| | |33友則 |27兼輔 | | | | |
| | |35貫之 | | | | | |
| | |36深養父 |34興風 | | | | |
| | |37文屋朝康| | | | | |
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| | 20|39参議等 |43敦忠 | | |38右近 | |
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|後撰集 | |41壬生忠見|45謙徳公|恵慶| |57紫式部 |道綱母|
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|千載集 | |48源重之 |51実方 | | |59赤染衛門| |
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|時代 | |49能宣 | | | |61伊勢大輔| 儀同|
| | | | | | |62清少納言|三司母|
|計四八 |____|______|_____|__|____|______|___|
|(男三四| 68 | 71経信 |55公任 |69| |65相模 | |
| 女一四)三条院 | 73匡房 |63道雅 |能因| |67周防内侍| |
| | 77 | 74俊頼 |64定頼 |70| |72紀伊 | |
| |崇徳院 | 78兼昌 |75基俊 |良暹| | | |
| | | |76法性寺|66| |80堀河 | |
| | | | 入道 |行尊| | | |
| | | |79顕輔 |82| | | |
| | | |81 後徳|道因| | | |
| | | |大寺左大臣|85| | | |
| | | |84清輔 |俊恵| | | |
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|新古今集| 99 | |83俊成 |86| |88 | |
|時代 |後鳥羽院| 93 |91良経 |西行| |皇嘉門院別当| |
| |100 | 実朝 |94雅経 |87| 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |96公経 |寂蓮| 式子 |殷富門院大輔| |
|(男一二| | |97定家 |95| 内親王|92 | |
| 女四)| | |98家隆 |慈円| |二条院讃岐 | |
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|\ |_________男 性七九______|_____女 性二一_____|
| \身分|天皇七 | 官人 |僧侶|女帝一 | 女房 | 母 |
|時代\ | 親王一| 五八 (藤原姓)|一三|内親王一| 一七 | 二 |
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|万葉集時| 1 |3人麿4赤人| | | 2 | | |
|代 計六|天智天皇|6家持7仲麿| | |持統天皇| | |
(男五、女一)___|______|_____|__|____|______|___|
| |13 | 5猿丸大夫| | 8| | | |
|六歌仙 |陽成院 |11参議篁 | |喜選| | | |
| 時代 |15 |14河原 | |12| | 9 | |
| |光孝天皇| 左大臣 | |遍昭| | 小町 | |
|計一二 | |16行平 | |10| | | |
|(男一一| |17業平 | |蝉丸| | | |
| 女一)| |22文屋康秀| | | | | |
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|古今集 | |23大江千里|18敏行 |21| | 19 | |
| 時代 | |24菅家 | |素性| | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝 |25 | | | | |
|(男一七| |29躬恒 |三条右大臣| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|26貞信公| | | | |
| | |32列樹 | | | | | |
| | |33友則 |27兼輔 | | | | |
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| | |36深養父 |34興風 | | | | |
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| | 20|39参議等 |43敦忠 | | |38右近 | |
| |元良親王|40平兼盛 |44朝忠 |47| |56和泉式部| 53|
|後撰集 | |41壬生忠見|45謙徳公|恵慶| |57紫式部 |道綱母|
|以後 | |42清原元輔|50義孝 | | |58大弐三位| |
|千載集 | |48源重之 |51実方 | | |59赤染衛門| |
|までの | |46曽禰好忠|52道信 | | |60小式部内侍 54|
|時代 | |49能宣 | | | |61伊勢大輔| 儀同|
| | | | | | |62清少納言|三司母|
|計四八 |____|______|_____|__|____|______|___|
|(男三四| 68 | 71経信 |55公任 |69| |65相模 | |
| 女一四)三条院 | 73匡房 |63道雅 |能因| |67周防内侍| |
| | 77 | 74俊頼 |64定頼 |70| |72紀伊 | |
| |崇徳院 | 78兼昌 |75基俊 |良暹| | | |
| | | |76法性寺|66| |80堀河 | |
| | | | 入道 |行尊| | | |
| | | |79顕輔 |82| | | |
| | | |81 後徳|道因| | | |
| | | |大寺左大臣|85| | | |
| | | |84清輔 |俊恵| | | |
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|新古今集| 99 | |83俊成 |86| |88 | |
|時代 |後鳥羽院| 93 |91良経 |西行| |皇嘉門院別当| |
| |100 | 実朝 |94雅経 |87| 89|90 | |
|計一六 |順徳院 | |96公経 |寂蓮| 式子|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |97定家 |95| 内親王|92 | |
| 女四)| | |98家隆 |慈円| |二条院讃岐 | |
|____|____|______|_____|__|____|______|___|
:
____ ____________________ _______________
|\ |_________男 性七九______|_____女 性二一_____|
| \身分|天皇七 | 官人 |僧侶|女帝一 | 女房 | 母 |
|時代\ | 親王一| 五八 (藤原姓)|一三|内親王一| 一七 | 二 |
|___\|____|__________二五|__|____|______|___|
|万葉集時| 1 |3人麿4赤人| | | 2 | | |
|代 計六|天智天皇|6家持7仲麿| | |持統天皇| | |
(男五、女一)___|______|_____|__|____|______|___|
| | | 5猿丸大夫| | 8| | | |
|六歌仙 | |11参議篁 | |喜選| | | |
| 時代 | |14河原 | |12| | 9 | |
| |13 | 左大臣 | |遍昭| | 小町 | |
|計一二 |陽成院 |16行平 | |10| | | |
|(男一一|15 |17業平 | |蝉丸| | | |
| 女一)|光孝天皇|22文屋康秀| | | | | |
|____|____|______|_____|__|____|______|___|
|古今集 | |23大江千里|18敏行 |21| | 19 | |
| 時代 | |24菅家 | |素性| | 伊勢 | |
|計一八 | |28于朝 |25 | | | | |
|(男一七| |29躬恒 |三条右大臣| | | | |
| 女一)| |30壬生忠岑| | | | | |
| | |31坂上是則|26貞信公| | | | |
| | |32列樹 | | | | | |
| | |33友則 |27兼輔 | | | | |
| | |35貫之 | | | | | |
| | |36深養父 |34興風 | | | | |
| | |37文屋朝康| | | | | |
|____|____|______|_____|__|____|______|___|
| | 20|39参議等 |43敦忠 | | |38右近 | |
| |元良親王|40平兼盛 |44朝忠 |47| |56和泉式部| 53|
|後撰集 | |41壬生忠見|45謙徳公|恵慶| |57紫式部 |道綱母|
|以後 | |42清原元輔|50義孝 | | |58大弐三位| |
|千載集 | |48源重之 |51実方 | | |59赤染衛門| |
|までの | |46曽禰好忠|52道信 | | |60小式部内侍 54|
|時代 | |49能宣 | | | |61伊勢大輔| 儀同|
| | | | | | |62清少納言|三司母|
|計四八 |____|______|_____|__|____|______|___|
|(男三四| 68 | 71経信 |55公任 |69| |65相模 | |
| 女一四)三条院 | 73匡房 |63道雅 |能因| |67周防内侍| |
| | 77 | 74俊頼 |64定頼 |70| |72紀伊 | |
| |崇徳院 | 78兼昌 |75基俊 |良暹| | | |
| | | |76法性寺|66| |80堀河 | |
| | | | 入道 |行尊| | | |
| | | |79顕輔 |82| | | |
| | | |81 後徳|道因| | | |
| | | |大寺左大臣|85| | | |
| | | |84清輔 |俊恵| | | |
|____|____|______|_____|__|____|______|___|
|新古今集| 99 | |83俊成 |86| |88 | |
|時代 |後鳥羽院| 93 |91良経 |西行| |皇嘉門院別当| |
| |100 | 実朝 |94雅経 |87| |90 | |
|計一六 |順徳院 | |96公経 |寂蓮| 89|殷富門院大輔| |
|(男一二| | |97定家 |95| 式子|92 | |
| 女四)| | |98家隆 |慈円| 内親王|二条院讃岐 | |
|____|____|______|_____|__|____|______|___|
野見宿禰
┃
阿陀勝
┣━━━━━━━━━┓
盤毘 伸毘
┃ ┃
土師身臣 (略)
┃ ┃
土師意富曽婆 土師磐村
┃ ┃
土師小鳥 土師猪手
┃
土師昨子
┃
土師大保度
┃
土師首
┣━━━━━━┳━━━━━━┓
土師兎 土師八嶋 土師兄国
┃ ┃ ┃
土師土徳 土師身 土師真敷
┃ : ┃
土師富除 土師根麻呂 土師弟麻呂
┃ ┃ ┃
土師祖麻呂 土師甥 土師百村
┃ ┃ ┃
土師和麿 土師宇庭 土師千村
┃ ┃ ┃
大枝諸上 菅原古人 秋篠安人
┃ ┃
大江氏へ 菅原氏へ
http://ja.wikipedia.org/wiki/土師氏
はじしけいず
大江氏と菅原氏は同じ土師氏の出
http://ja.wikipedia.org/wiki/土師氏
袖
42、65、72、90、92、95
42 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは
ちきりきなかたみにそてをしほりつつ すゑのまつやまなみこさしとは
清原元輔
65 恨みわび干さぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
うらみわひほさぬそてたにあるものを こひにくちなむなこそをしけれ
相模
72 音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ
おとにきくたかしのはまのあたなみは かけしやそてのぬれもこそすれ
祐子内親王家紀伊
90 見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらず
みせはやなをしまのあまのそてたにも ぬれにそぬれしいろはかはらす
殷富門院大輔
92 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし
わかそてはしほひにみえぬおきのいしの ひとこそしらねかわくまもなし
二条院讃岐
95 おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみ染の袖
おほけなくうきよのたみにおほふかな わかたつそまにすみそめのそて
前大僧正慈円
袖
95以外は恋が主題
身(み):
9、20、23、38、44、45、
88、96、97、98
月:
7、21、23。31、36、
57、59、68、79、81、86
花:
9、29、33、35、(61)、(73)、66、96
恋:
13、27、39、41、46、
65、68、84
風:
12、22、32、37、58、(69嵐)、71、79、94、
98
雪:
4、15、31、96
山:
2、5、7、8、(13)、16、
22、24、25、26、28、
32、42、58、60、
66、69、74、83、
94
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3#.E6.AD.8C.E8.A9.9E
万葉集などでは「君が代」自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉である。転じて「わが君の御代」となる。国歌の原歌が『古今和歌集』の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」とは天皇なのか、はたまた別の王朝なのかどうかということがしばしば問題にされる。
『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということであり、それ以上はなにも断定できない[8]。
『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人[注 3]の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる[9]。
これはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。さらに後世、初句が「君が代は」となりさまざまな形で世に流布されるにつれ歌われる場も多様となり解釈の状況が変わっていくことは後述する。
ちなみにそういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子であるとする注釈書も存在する。『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』[注 4]である。堯智は橘清友を作者として初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので少なくとも17世紀半ばの江戸時代前期において天皇の御世を長かれと祝賀する歌であるとする解釈が存在したことは確かである[4]。
『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[9]。
別の解釈もある[要出典]。「君」=神の源語(元々沖縄では自分より偉大な者に君と言った)[要出典]、さざれ石=神の降臨する石[要出典]。つまり神の世であり続き、力(巌)が世に届き、苔のむすまで未来永劫続きますようにとのこと[要出典]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%BC%A2%E6%9C%97%E8%A9%A0%E9%9B%86
和漢朗詠集
伊予切 和漢朗詠集
『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)は、藤原公任撰の歌集である。寛仁2年(1018年)頃成立した。『倭漢朗詠集』、あるいは巻末の内題から『倭漢抄』とも呼ばれる。
もともとは藤原道長の娘威子入内の際に贈り物の屏風絵に添える歌として編纂され、のちに公任の娘と藤原教通の結婚の際に祝いの引き出物として贈られた。達筆の藤原行成が清書、粘葉本に装幀し硯箱に入れて贈ったという。
下巻「祝」部に日本国歌『君が代』の原典がある。
短歌の宿命
何物も、生れ落ちると同時に、「ことほぎ」を浴びると共に、「のろい」を負って来ないものはない。短歌は、ほぼ飛鳥(あすか)朝の末に発生した。其が完成せられたのは、藤原の都の事と思われる。一体、日本の歌謡は、出発点は享楽者の手からではなかった。呪言(じゅごん)・片哥(かたうた)・叙事詩の三系統の神言が、専門家の口頭に伝承せられていたのが、国家以前からの状態である。其が各、寿詞(よごと)・歌垣の唱和(かけあい)・新叙事詩などを分化した。かけあい歌が、乞食者(ほかいびと)の新叙事詩の影響をとり入れて行く中に、しろうとの口にも、類型風の発想がくり返される事になった。そうして其が民謡を生み、抒情詩と醇化(じゅんか)して行った。而も日本の古代文章の発想法は、囑目(しょくもく)する物を羅列して語をつけて行く中に、思想に中心が出来て来るといった風のものであった為、外界の事象と内界とが、常に交渉して居た。其結果として、序歌が出来、枕詞(まくらことば)が出来た。交渉の緊密なものは、象徴的な修辞法になった場合もある。一方外物託言(がいぶつたくげん)が叙景詩を分化したのであるが、こうした関係から、短歌には叙景・抒情の融合した姿が栄えた。万葉集は固(もと)より、以後益隆(さか)んになって、短歌に於ける理想的な形さえ考えられる様になった。(日本に於ける叙景詩の発生は、雑誌「太陽」七月臨時増刊号に書いたから、ここには輪郭だけに止める――全集第一巻――。)
ところが一方、古く、片哥と旋頭歌(せどうか)を標準の形とした歌垣の唱和が、一変して短歌を尊ぶ様になって、ここに短歌は様式が定まったのである。だから発生的に、性欲恋愛の気分を離れることが出来ない。奈良朝になっても、そうした意味の贈答を主として居た為、兄妹・姉妹・姑姪(おばおい)の相聞往来にも、恋愛気分の豊かなものを含めた短歌が用いられている。其引き続きとして、平安朝の始めに、律文学の基本形式として用いられる様になり、民謡から段々遠くなって来ても、やはり恋愛気分は持ち続けられた。そう言う長い歴史が、短歌を宿命的に抒情詩とした。だから、抒情詩として作られたものでなくとも、抒情気分を脱却することが出来ないのである。此例からも叙景・抒情融合の姿の説明はつく。性霊を写すと言う処まで進んだ「アララギ」の写生説も、此短歌の本質的な主観纏綿(てんめん)の事情に基くところが多いのである。
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ハイライトされているキーワード: ほか いび と 折口 青空 文庫
歌の円寂する時
折口信夫
國文學の發生(第三稿)
まれびと[#「まれびと」に傍線]の意義
折口信夫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/42613_17557.html
三 簑笠の信仰
大晦日・節分・小正月・立春などに、農村の家々を訪れた樣々のまれびとは、皆、簑笠姿を原則として居た。夜の暗闇まぎれに來て、家の門から直にひき還す者が、此服裝を略する事になり、漸く神としての資格を忘れる樣になつたのである。近世に於ては、春・冬の交替に當つておとづれる者を、神だと知らなくなつて了うた。或地方では一種の妖怪と感じ、又或地方では祝言を唱へる人間としか考へなくなつた。其にも二通りあつて、一つは、若い衆でなければ、子ども仲間の年中行事の一部と見た。他は、專門の祝言職に任せると言ふ形をとるに到つた。さうして、祝言職の固定して、神人として最下級に位する樣に考へられてから、乞食者なる階級を生じることになつた。
┌妖怪
おとづれ人┤
└祝言職――乞食
だから、かういふ風に變化推移した痕が見られるのである。門におとづれて更に屋内に入りこむ者、門前から還る者、そして其形態・爲事が雜多に分化してしまうたが、結局、門前での儀が重大な意義を持つて居たことだけは窺はれる。此樣に各戸訪問が、門前で其目的を達する風に考へられたものもあり、又、家の内部深く入りこまねばならぬものとせられたのもある。古代には家の内に入る者が多く、近世にも其形が遺つて居るが、門口から引き返す者程、卑しく見られて居た樣である。つまりは、單に形式を學ぶだけだといふ處から出るのであらう。
四 初春のまれびと
猿丸 柿本人丸
などは ほかいびと の系譜だという
参考:白洲正子
今春禅竹『定家』
恋の永劫回帰
定家と式子内親王の忍ぶ恋。死しても式子の情念は雨となり、定家の妄執は葛となって式子の墓にからみつく。成仏して解放を選ぶか、永劫抱きすくめられる地獄の恋を選ぶか。
花や草木の精を劇の主人公にするという世界的に珍しい戯曲のパイオニアは、「西行桜」を書いた世阿弥だが、「西行桜」では老桜とはいうもののあくまで花の美しさがテーマであり、また、この種の能は世阿弥の能のほんの一部分にすぎない。
ところが、世阿弥の娘婿の金春禅竹の場合、その代表作といえる「芭蕉」「定家」では二つながら花の美しさとは無縁の植物そのものがテーマとなっている。
「芭蕉」は夏は丈高く繁茂し、冬はあとかたもなく枯れ消えてしまう芭蕉葉の不思議な生命を見つめるところから発想された曲であるし、「定家」は式子内親王の墓に死後も式子を愛してやまない藤原定家の執心が、定家葛となってからみつくという能である。
●重要な「雨」のイメージ●
「山より出ずる北時雨、ゞゞゞ、行方や定めなかるらん」というワキ僧の謡(うたい)で始まる『定家』にあって、「雨」は全曲を貫くキー・イメージである。
その雨は、定家蔓をはびこらせる生命力の源であると同時に、この曲に冷え冷えとした触感をもたらし、さらには恋の仕掛けを暗示しもする。
ワキ僧が都を訪れ、冬枯れの梢に紅葉が残る夕暮れの景色を嘆賞しているところへ、にわかに時雨が降りかかる。僧がかつて藤原定家が建てた時雨亭で雨宿りすると、時雨を追うようにして、式氏内親王の化身(前シテ)があらわれる。
時雨とは、どうやら式氏内親王の精魂のようなのだ。
夕暮れ時の雨には、中世の人々がこれこそ「幽玄」の極致と考え、思い浮かべる共通のイメージがある。
次のような中国の故事である。
四川省の高唐という揚子江沿いの名勝地に遊んだ楚の懐王が昼寝をしていると、夢の中に一人の婦人があらわれ、契りを交わした。婦人は巫山(ふざん)の神女(しんにょ)と名のり、「せめて形見だけでも残していってくれ」と頼む王に、「巫山の南、高丘の崖にあって、朝(あした)には雲となり、夕べには雨となって王の前にあらわれましょう」と約束して、夢の中から消えた。次代の襄王(じょうおう)が高唐に来て、巫山に独特の雲気が刻々と変化する様に感心しなにかあるのか臣下の宋玉(そうぎょく)に聞いたところ、宋玉は、先代の懐王と神女の夢の中の話を語った。
楚王が夢中で契った優艶な美女が、高丘の崖に「朝の雲」となってあらわれ、「夕べの雨」となって降るという、『文選』(6世紀前半成立)「高唐賦」の話である。
「朝の雲」「夕べの雨」は、じつは『定家』では、後シテ式氏内親王の出の場面に直接引かれている。
幕におおわれた作り物の墓の中で、後シテの式氏内親王は、「夢かとよ、闇のうつつの宇津の山、月にも辿る、蔦の細道」と、亡魂が冥途の闇から現世の光の中へ戻ってくる様を自ら謡う。墓の中で、仮死状態から覚醒した式氏の亡魂がまず思うことは、藤原定家との様々な恋愛シーンであり、様々な情事である。しかし、やがて二人ともこの世から姿を消す。美しい愛の世界や肉体の世界は消えてしまい、その果てに「朝の雲」があらわれ「夕べの雨」が降る。
後シテ式氏内親王は、特にこの「夕べの雨」を内にこめた強い息で長く引いて謡うことで定家との忍ぶ恋の思い出に身を浸しながら、夕べの雨に自らを一体化させていくのだ。
そのような式氏内親王の精魂が、前場冒頭のシーンでは夕時雨となって、定家の時雨亭に降りこめていたのである。
●まといつく蔓の両義性●
逆に、藤原定家の執心は、定家蔓となって式氏の墓に幾重にもまといついていた。
このように、式氏と定家が水や植物によって触れ合い、粘着し、「互いの苦しみ離れやらず、共に邪淫の妄執」に悩むのが、能「定家」の永劫回帰的な深く暗い恋の世界であった。
定家蔓が式氏内親王の墓石に幾重にもまとわりつく、という発想の源には、
秋こそあれ人は尋ねぬ松の戸を幾重も閉じよ蔦のもみじ葉
(秋にはなったけれども人は尋ねてくるのだわ。幽閉されたような私の家ですけれど、さらに何重にも閉じておくれ、蔦のもみじ葉よ)
(『新勅撰和歌集』=1235年成立=345番)
といった、式氏内親王の歌があるだろう。
しかし、金春禅竹の鋭敏な感性は、この歌の核心をしっかりと聴き分けていた。閉じこめられることにマゾヒスティックな喜びさえ感じる倒錯のかすかな響きをそこに聴き取っていたのである。
その響きは、能において拡大され、『定家』の重要なテーマを構成する。
つまり、禅竹の『定家』にあって定家蔓とは、愛の喜びと苦しみの両義性の象徴なのである。定家蔓に身を閉じられて身動きもとれない苦しみ、それは、死後も定家にずっと抱きすくめられている女の官能の喜びと裏腹のものだ。
そうでなければ、どうして式氏が、最後の場面で、蔦にからみつかれつつ墓に帰り、墓に埋もれていくことがあろうか。
後場、ワキ僧の読誦(どくじゅ)する『法華経』「薬草喩品(やくそうゆぼん)」の「一味の雨」により、まつわりついていた定家蔓は解け広がり、式氏内親王はいったん、墓から出ることができた。そして式氏は僧に感謝して舞を舞うのだけれど、舞が終わると、その美しい容貌は次第に衰え、崩れ、ついには葛城の神のような醜悪な姿に変じてしまう。『法華経』による業苦からの開放は、一方で、愛のエネルギーの欠乏による容貌の崩壊を式氏にもたらしたのである。
『法華経』による開放をとるか、それとも、地獄の業苦を永劫に受けながらも、蔦となった定家に抱きすくめられて美しい容貌でいられる墓の中をとるか。
式氏は墓を選びとって、その中に自ら再び埋もれていくのである。
(松岡心平)
(参考図書)「世阿弥・禅竹」岩波書店、日本思想大系、1995年
http://www.geocities.co.jp/Colosseum/5704/20021008_004.htm
ていか
定家
能.三番目物.夢幻能.金春禅竹作.千本せんぼん辺で雨宿りをしている旅僧(ワキ)の前に一人の女(前ジテ)が現れ,ここが時雨の亭しぐれのちんだと教え,僧を式子内親王の墓へと案内し,定家葛の由来を物語る.やせ衰えた姿の式子内親王しきしないしんのうの霊(後ジテ)が塚から姿を現し,読経の功徳で少し苦しみが和らいだと報恩の舞を舞って,墓に戻るが,再び定家葛がまとわりついて塚を覆い隠してしまう.すこぶる禅竹的な円環構造の能.新古典大系57所収.
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ハイライトされているキーワード: 定 家 金 春 禅竹
金春禅竹
金春 禅竹(こんぱる ぜんちく、応永12年(1405年) - 文明3年(1471年)以前)は室町時代の能役者、能作者である。別名は貫氏、七郎氏信、竹翁、賢翁禅竹。竹田太夫、金春太夫ともいう。
禅竹は大和猿楽最古参とされる由緒ある流派、円満井座のながれをうけつぐ金春一座をひきいて活躍した。世阿弥の娘婿にあたる。義父世阿弥との関係は深く、世阿弥の能についての理論書『六義』『拾玉得花』はそれぞれ応永35年と正長元年(それぞれ1428年)の日付で禅竹につたえられている。一説には晩年の世阿弥をみとったともいう。
連歌、和歌、仏教に深く通じ能楽論と宗教思想をむすびつけた著作を数多くあらわした。難解で神秘主義的傾向にあるともいわれている。一休宗純、一条兼良との交流もあったとされ、能楽作品も幽玄にして深遠なものが多い。能が庶民のものから貴族や上流武士の深い鑑賞にうつっていく時代をその作風に反映しているといえる。能役者で能作者である金春禅鳳にとっては祖父。現在の金春流中興の祖とされる。
☆兄弟
兄・在原行平(16番)と弟・在原業平(17番)
☆いとこ
・僧正遍昭(12番)と源融(14番)
*父親は供に桓武天皇の子
・藤原定方(25番)と藤原兼輔(27番)
*父親は供に藤原良門(藤原冬嗣の子)の息子
・藤原義孝(50番)と藤原公任(55番)
*母親は供に代明親王(醍醐天皇皇子)の娘
☆曾祖父母と曾孫
曾祖父・藤原兼輔(27番)と曾孫・紫式部(57番)
曾祖父・三条天皇(68番)と曾孫・大僧正行尊(66ばん)
*行尊は三条天皇の皇子敦明親王の孫)
曾祖母・赤染衛門(59番)と曾孫・大江匡房(73番)
*匡房の祖父の挙周は赤染衛門の実子ではないという説もあるようです。
曾祖父・藤原忠平(26番)と曾孫・藤原義孝(50番)・藤原実方(51番)・
藤原道信(52番)・藤原公任(55番)
曾祖父・藤原定方(25番)と曾孫・藤原義孝(50番)・藤原公任(55番)・
紫式部(57番)
*義孝・公任の母方の祖母と紫式部の父方の祖母は藤原定方の娘で姉妹。
(番外)氏族は違っても、私たちは直系です♪
☆在原業平(17番)と藤原敦忠(43番)
藤原敦忠の母は在原業平の孫。従って2人は曾祖父と曾孫の関係にあるのです。
☆高階貴子(54番)と後鳥羽天皇(99番)
後鳥羽天皇の母の藤原殖子は、藤原隆家の子孫。従って、隆家の母である高階貴子ともしっかりつながっているのです。
☆曾祖父母と曾孫
曾祖父・藤原兼輔(27番)と曾孫・紫式部(57番)
曾祖父・三条天皇(68番)と曾孫・大僧正行尊(66ばん)
*行尊は三条天皇の皇子敦明親王の孫)
曾祖母・赤染衛門(59番)と曾孫・大江匡房(73番)
*匡房の祖父の挙周は赤染衛門の実子ではないという説もあるようです。
曾祖父・藤原忠平(26番)と曾孫・藤原義孝(50番)・藤原実方(51番)・
藤原道信(52番)・藤原公任(55番)
曾祖父・藤原定方(25番)と曾孫・藤原義孝(50番)・藤原公任(55番)・
紫式部(57番)
*義孝・公任の母方の祖母と紫式部の父方の祖母は藤原定方の娘で姉妹。
http://blog.goo.ne.jp/erika2672-t/e/74e2a8f58e4a801b1d14ae2b4bf5e226
:
25
|||
50、55、57
曾祖父・藤原定方(25番)と曾孫・藤原義孝(50番)・藤原公任(55番)・
紫式部(57番)
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
略 略
┃ ┃
基経 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃
貞信公(忠平)26 時平 ┃
┣━┳━━━━━━━━━┓ ┃ ┃
┃ ┃ 師尹 ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ 実時 ┃ ┃
┃ ┃ ┃ 敦忠 ┃
┃ ┃ 実方 43 ┃
┃ ┃ 51 ┃
師輔┃ 三条右大臣
┃ 実頼 醍醐天皇 藤原定方25
┃ ┃ ┃ ┣━┳━┳━┳━┓
┃ ┃代明親王┳━右大臣藤原定方女 ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━┓ 代明親王室 ┃ ┃ ┃ ┃
┃頼忠┳厳子女王 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ 公任55 ┃ 兼輔━┳━━━女 ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ 27 ┃ 朝忠 ┃ 朝頼
┃ 定頼64 ┃ ┃ 44 ┃ ┃
┣━┳━┓ 恵子 雅正━┳━━━━女 為輔
┃ ┃藤原伊尹┳━女王 為時 ┃
┃ ┃45 義孝 ┃ ┃
┃ 為光 50 紫式部━┳━━宣孝
┃ ┃ 57 賢子
┃ 道信52 58
兼家━━━━━━━━━━━┳━━道綱母
┣━━━━┳━━三司母 道綱 53
道長 道隆 54
┣━┳━┓┃
伊周
┃
道雅63
26
|||
50.51、52、55
曾祖父・藤原忠平(26番)と曾孫・藤原義孝(50番)・藤原実方(51番)・
藤原道信(52番)・藤原公任(55番)
:
┣━━━━━━━━━━━━━━━┓
略 略
┃ ┃
基経 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━┓ ┃
貞信公(忠平)26 時平┃
┣━┳━━━━━━━┓ ┃ ┃
┃ ┃ 師尹 ┃ 三条右大臣25
┃ ┃ ┃ ┃ 藤原定方
┃ ┃ 実時 ┃ ┃
┃ ┃ ┃ 敦忠 ┃
┃ ┃ 実方 43 ┃
┃ ┃ 51 ┃
師輔┃ ┃
┃ 実頼 醍醐天皇 ┃
┃ ┃ ┃ ┣━┳━┳━┳━┓
┃ ┃代明親王┳━右大臣藤原定方女 ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣━┓ 代明親王室 ┃ ┃ ┃ ┃
┃頼忠┳厳子女王 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ 公任55 ┃ 兼輔━┳━━━女 ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ 27 ┃ 朝忠 ┃ 朝頼
┃ 定頼64 ┃ ┃ 44 ┃ ┃
┣━┳━┓ 恵子 雅正━┳━━━━女 為輔
┃ ┃藤原伊尹┳━女王 為時 ┃
┃ ┃45 義孝 ┃ ┃
┃ 為光 50 紫式部━┳━━宣孝
┃ ┃ 57 賢子
┃ 道信52 58
兼家━━━━━━━━━━━┳━━道綱母
┣━━━━┳━━三司母 道綱 53
道長 道隆 54
┣━┳━┓┃
伊周
┃
道雅63
:
付録:藤原北家関連系図
冬嗣
┣━━━━━━━━━━━━┓
┳良房 良門
基経 ┣━━━━━━━━━━━┓
┣━━━━━━━━━━┓ 高藤 利基
貞信公(忠平)26 時平┳ ┃ ┃
┣━┳━━━━┓ 敦忠 三条右大臣25 ┃
┃ ┃ 師尹┳ 43 藤原定方 ┃
┃ ┃ 実時┳ ┃ ┃
┃ ┃ 醍醐 実方 ┃ ┃
┃ 実頼 天皇 51 ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━┳━┳━┳━┓ ┃
┃ ┃代明親王┳━右大臣藤原定方女 ┃ ┃ ┃ 女━┳━兼輔
┃ ┃ ┣━┓ 代明親王室 ┃ ┃ ┃ ┃ 27
┃頼忠┳━━厳子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ 公任 女王 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃55 ┃ 朝頼 ┃ 朝忠 ┃
┃ 定頼64 ┃ ┃ ┃ 44 ┃
┣━┳━┓ 恵子 ┳━為輔 女━━┳━━雅正
┃ ┃藤原伊尹┳━女王 ┣━┳━┓ 為時
┃ ┃45 義孝 惟孝 ┃ ┃ ┃
┃ 為光 50 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部57
┃ ┃ ┃ ┃ 賢子
┃ 道信52 53 ┃ 説孝 58
兼家━━━━━━━━━┳道綱母┃ ┃
┣━━━━┳三司母 道綱 〜〜〜
道長 道隆 54 〜〜〜
┣━┳━┓┃ ┃ ┃
伊周 敦頼 殷富門院
┃ 道因法師 大輔
道雅63 82 90
曾祖父・藤原兼輔(27番)と曾孫・紫式部(57番)
:
付録:藤原北家関連系図
冬嗣
┣━━━━━━━━━━━━┓
┳良房 良門
基経 ┣━━━━━━━━━━━┓
┣━━━━━━━━━━┓ 高藤 利基
貞信公(忠平)26 時平┳ ┃ ┃
┣━┳━━━━┓ 敦忠 三条右大臣25 ┃
┃ ┃ 師尹┳ 43 藤原定方 ┃
┃ ┃ 実時┳ ┃ ┃
┃ ┃ 醍醐 実方 ┃ ┃
┃ 実頼 天皇 51 ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━┳━┳━┳━┓ ┃
┃ ┃代明親王┳━右大臣藤原定方女 ┃ ┃ ┃ 女━┳━兼輔
┃ ┃ ┣━┓ 代明親王室 ┃ ┃ ┃ ┃ 27
┃頼忠┳━━厳子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ 公任 女王 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃55 ┃ 朝頼 ┃ 朝忠 ┃
┃ 定頼64 ┃ ┃ ┃ 44 ┃
┣━┳━┓ 恵子 ┳━為輔 女━━┳━━雅正
┃ ┃藤原伊尹┳━女王 ┣━┳━┓ 為時
┃ ┃45 義孝 惟孝 ┃ ┃ ┃
┃ 為光 50 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部57
┃ ┃ ┃ ┃ 賢子
┃ 道信52 53 ┃ 説孝 58
兼家━━━━━━━━━┳道綱母┃ ┃
┣━━━━┳三司母 道綱 〜〜〜
道長 道隆 54 〜〜〜
┣━┳━┓┃ ┃ ┃
伊周 敦頼 殷富門院
┃ 道因法師 大輔
道雅63 82 90
曾祖父・藤原兼輔(27番)と曾孫・紫式部(57番)
:
冬嗣
┣━━━━━━━━━━━━┓
┳良房 良門
基経 ┣━━━━━━━━━━━┓
┣━━━━━━━━━━┓ 高藤 利基
貞信公(忠平)26 時平┳ ┃ ┃
┣━┳━━━━━┓ 敦忠 三条右大臣25 ┃
┃ ┃ 師尹┳ 43 藤原定方 ┃
┃ ┃ 実時┳ ┃ ┃
┃ 実頼 醍醐天皇 実方51 ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━┳━┳━┳━┓ ┃
┃ ┃代明親王┳━右大臣藤原定方女 ┃ ┃ ┃ 女━┳━兼輔
┃ ┃ ┣━┓ 代明親王室 ┃ ┃ ┃ ┃ 27
┃頼忠┳━━厳子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ 公任 女王 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃55 ┃ ┳朝頼 ┃ 朝忠 ┃
┃ 定頼64 ┃ 為輔 ┃ 44 ┃
┣━┳━┓ 恵子 ┃ 女━━┳━━雅正
┃ ┃藤原伊尹┳━女王 ┣━┳━┓ 為時
┃ ┃45 義孝 惟孝 ┃ ┃ ┃
┃ 為光 50 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部57
┃ ┃ ┃ ┃ 賢子
┃ 道信52 53 ┃ 説孝 58
兼家━━━━━━━━━┳道綱母┃ ┃
┣━━━━┳三司母 道綱 〜〜〜
道長 道隆 54 〜〜〜
┣━┳━┓┃ ┃ ┃
伊周 敦頼 殷富門院
┃ 道因法師 大輔
道雅63 82 90
:
冬嗣
┣━━━━━━━━━━━┓
┳良房 良門
基経 ┣━━━━━━━━━━━┓
┣━━━━━━━━━┓ 高藤 利基
貞信公(忠平)26 時平┳ ┃ ┃
┣━┳━━━━┓ 敦忠 三条右大臣25 ┃
┃ ┃ 師尹┳ 43 藤原定方 ┃
┃ ┃ 実時┳ ┃ ┃
┃ 実頼 醍醐天皇 実方51┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━┳━┳━┳━┓ ┃
┃ ┃ 代明┳右大臣藤原定方女┃ ┃ ┃ 女━┳━兼輔
┃ ┃ 親王┣━┓代明親王室 ┃ ┃ ┃ ┃ 27
┃頼忠┳━厳子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ 公任 女王 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃55 ┃ ┳朝頼 ┃ 朝忠 ┃
┃ 定頼64 ┃ 為輔 ┃ 44 ┃
┣━┳━┓ 恵子 ┃ 女━━┳━━雅正
┃ ┃藤原伊尹┳女王 ┣━┳━┓ 為時
┃ ┃45 義孝 惟孝 ┃ ┃ ┣━━━┳━┳━┓
┃ 為光 50 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 惟規
┃ ┃ ┃ ┃ 賢子 57
┃ 道信52 53 ┃ 説孝 58
兼家━━━━━━┳道綱母┃ ┃
┣━━┳三司母 道綱 〜〜〜
道長 道隆 54 〜〜〜
┣┳┓ ┃ ┃ ┃
伊周 敦頼 殷富門院
┃ 道因法師 大輔
道雅63 82 90
改訂版:
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
冬嗣 真夏
┣━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃
┳良房 良門 〜
基経 ┣━━━━━━━━━━━┓ 〜
┣━━━━━━━━━━━━┓ 高藤 利基 ┃
貞信公(忠平)26 時平┳ ┃ ┃ 伊勢
┣━━━┳━━━┓ 敦忠 三条右大臣25 ┃ 19
┃ ┃ 師尹┳ 43 藤原定方 ┃
┃ ┃ 実時┳ ┃ ┃
┃ 実頼 醍醐天皇 実方51 ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━┳━┳━┳━┓ ┃
┃ ┃代明親王┳━右大臣藤原定方女 ┃ ┃ ┃ 女━┳━兼輔
┃ ┃ ┣━┓ 代明親王室 ┃ ┃ ┃ ┃ 27
┃ 頼忠┳━━厳子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ 公任 女王 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃55 ┃ ┳朝頼 ┃ 朝忠44┃
師輔 定頼64 ┃ 為輔 女━━┳━━雅正
┣━┳━┳━┓ 恵子 ┃ ┣━━━┓
┃ ┃公季 伊尹━┳━女王 ┣━┳━┓ 為時 為頼
┃ ┃ ┃ 45 義孝 惟孝 ┃ ┃ ┃ ┃
┃ 為光┃ 50 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 〜
┃ ┃ 実成┳ ┃ ┃ 賢子 57 〜
┃ 道信 公成━━┓ ┃ 説孝 58 ┃
┃ 52 実季 ┃ ┃ 家隆
┃ ┣━━┓ 〜〜〜 98
兼家━┳道綱母53 公実 顕季 〜〜〜
┃ 道綱 ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━┳三司母54 ┣━┓顕輔 ┃ ┃
道長 道隆 ┃ ┃79 敦頼 殷富門院
┣┳┓┃ ┃ ┃┃ 道因 大輔
┃┃┃伊周┓ ┃ ┃清輔 法師 90
┃┃┃ 道雅 ┃ ┃84 82
┃┃┃ 63 実能 通季┳
┃┃頼通━━┳ ┃ 公通┳
┃頼宗┳ 師実 公能┳ 実宗┳
長家 俊家 ┃ 実定 公経、入道前太政大臣
┃ ┃ 師通 後徳大寺 96
忠家 基俊 ┃ 左大臣
┃ 75 忠実 81
俊忠 ┃
┃ 忠通━┳━━┓
俊成83 76 兼実 慈円95
┣━━┓ ┃
定家 寂蓮 良経91
97 87
┃
為家
┃
為相
付録:藤原北家関連系図(数字は百人一首の歌番号)
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
冬嗣┳━━━━━━━━━━┓ 真夏
┳━━━良房 良門┳━━━━━━━━━━━┓ ┃
基経┳━━━━━━━━━━┓ 高藤 利基 〜
貞信公(忠平)26 時平┳ ┃ ┃ 〜
┣━┳━━━━━━┓ 敦忠 三条右大臣25 ┃ ┃
┃ ┃ 師尹┳ 43 藤原定方 ┃ 伊勢
┃ ┃ 実時┳ ┃ ┃ 19
┃ ┃ 醍醐 実方51 ┃ ┃
┃ ┃ 天皇┳ ┣━┳━┳━┳━┓ ┃
┃ ┃ 代明親王┳━右大臣藤原定方女 ┃ ┃ ┃ 女━┳━兼輔
┃実頼┳ ┣━┓ 代明親王室 ┃ ┃ ┃ ┃ 27
┃ 頼忠┳━━厳子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ 公任 女王 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃55 ┃ ┳朝頼 ┃ 朝忠44┃
師輔 定頼64 ┃ 為輔 女━━┳━━雅正
┣━┳━┳━┓ 恵子 ┃ ┣━━━━━━┓
┃ ┃公季 伊尹━┳━女王 ┣━┳━┓ 為時 為頼
┃ ┃ ┃ 45 義孝 惟孝 ┃ ┃ ┣━━━┓ ┃
┃ 為光┃ 50 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 惟規 〜
┃ ┃ 実成┳ ┃ ┃ 賢子 57 〜
┃ 道信 公成━━┓ ┃ 説孝 58 ┃
┃ 52 実季 ┃ ┃ 家隆
┃ ┣━━┓ 〜〜〜 98
兼家━┳道綱母53 公実 顕季 〜〜〜
┃ 道綱 ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━┓ ┣━┓顕輔 ┃ ┃
道長 道隆┳三司母 ┃ ┃79 敦頼 殷富門院
┣┳┓ 伊周 54 ┃ ┃┃ 道因 大輔
┃┃┃ ┃ ┃ ┃清輔 法師 90
┃┃┃ 道雅 ┃ ┃84 82
┃┃┃ 63 実能 通季┳
┃┃頼通━━┳ ┃ 公通┳
┃頼宗┳ 師実 公能┳ 実宗┳
長家 俊家 ┃ 実定 公経、入道前太政大臣
┃ ┃ 師通 後徳大寺 96
忠家 基俊 ┃ 左大臣
┃ 75 忠実 81
俊忠 ┃
┃ 忠通━┳━━━━┓
俊成83 76 兼実┳ 慈円95
┣━━┓ 良経
定家 寂蓮87 91
97 (養子)
┃
為家┳
為相
付録:藤原北家関連系図(数字は百人一首の歌番号)
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
冬嗣┳━━━━━━━━━━┓ 真夏
┳━━━良房 良門┳━━━━━━━━━━━┓ ┃
基経┳━━━━━━━━━━┓ 高藤 利基 〜
貞信公(忠平)26 時平┳ ┃ ┃ 〜
┣━━━┳━━━━┓ 敦忠 三条右大臣25 ┃ ┃
┃ ┃ 師尹┳ 43 藤原定方 ┃ 伊勢
┃ ┃ 実時┳ ┃ ┃ 19
┃ 実頼 醍醐天皇 実方51 ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣━┳━┳━┳━┓ ┃
┃ ┃代明親王┳━右大臣藤原定方女 ┃ ┃ ┃ 女━┳━兼輔
┃ ┃ ┣━┓ 代明親王室 ┃ ┃ ┃ ┃ 27
┃ 頼忠┳━━厳子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ 公任 女王 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃55 ┃ ┳朝頼 ┃ 朝忠44┃
師輔 定頼64 ┃ 為輔 女━━┳━━雅正
┣━┳━┳━┓ 恵子 ┃ ┣━━━━━━┓
┃ ┃公季 伊尹━┳━女王 ┣━┳━┓ 為時 為頼
┃ ┃ ┃ 45 義孝 惟孝 ┃ ┃ ┣━━━┓ ┃
┃ 為光┃ 50 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 惟規 〜
┃ ┃ 実成┳ ┃ ┃ 賢子 57 〜
┃ 道信 公成━━┓ ┃ 説孝 58 ┃
┃ 52 実季 ┃ ┃ 家隆
┃ ┣━━┓ 〜〜〜 98
兼家━┳道綱母53 公実 顕季 〜〜〜
┃ 道綱 ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━┓ ┣━┓顕輔 ┃ ┃
道長 道隆┳三司母 ┃ ┃79 敦頼 殷富門院
┣┳┓ 伊周 54 ┃ ┃┃ 道因 大輔
┃┃┃ ┃ ┃ ┃清輔 法師 90
┃┃┃ 道雅 ┃ ┃84 82
┃┃┃ 63 実能 通季┳
┃┃頼通━━┳ ┃ 公通┳
┃頼宗┳ 師実 公能┳ 実宗┳
長家 俊家 ┃ 実定 公経、入道前太政大臣
┃ ┃ 師通 後徳大寺 96
忠家 基俊 ┃ 左大臣
┃ 75 忠実 81
俊忠 ┃
┃ 忠通━┳━━━━┓
俊成83 76 兼実┳ 慈円95
┣━━┓ 良経
定家 寂蓮87 91
97 (養子)
┃
為家┳
為相
付録:藤原北家関連系図(数字は百人一首の歌番号)
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
冬嗣┳━━━━━━━━┓ 真夏
┳━━━良房 良門┳━━━━━━━━━━━━━┓ ┃
基経┳━━━━━━━━━┓ 高藤┳ 利基 〜
貞信公━┳━━━━┓ 時平┳ 三条右大臣25 ┃ 〜
藤原忠平┃ 醍醐 師尹┳ 敦忠43 藤原定方 ┃ ┃
26 ┃ 天皇 ┳実時 ┃ ┃ 伊勢
┃ 実頼 ┃ 実方51 ┣━┳━┳━┳━┓ ┃ 19
師輔 ┃代明親王┳┳━右大臣藤原定方女┃ ┃ ┃ 女━┳━兼輔27
┃ 頼忠┳━━厳子┃ 代明親王室┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┳━公任 女王┃ ┃ ┃ 朝忠44┃
┃ 定頼 55 ┃ ┳朝頼 女━━┳━━雅正
┃ 64 ┃ 為輔 ┣━━━━━━┓
┣━┳━┳━┓ 恵子 ┣━┳━┓ 為時 為頼
┃ ┃公季 伊尹━┳女王 惟孝 ┃ ┃ ┣━━━┓ ┃
┃為光 ┃ 45 義孝 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 惟規 〜
┃ ┃ 実成┳ 50 ┃ ┃ 賢子 57 〜
┃ 道信 公成━━┓ ┃ 説孝 58 ┃
┃ 52 実季 ┃ ┃ 家隆
┃ ┣━━┓ 〜〜〜 98
兼家━┳道綱母53 公実 顕季 〜〜〜
┃ 道綱 ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━┓ ┣━┓顕輔 ┃ ┃
道長 道隆┳三司母 ┃ ┃79 敦頼 殷富門院
┣┳┓ 伊周 54 ┃ ┃┃ 道因 大輔
┃┃┃ ┃ ┃ ┃清輔 法師 90
┃┃┃ 道雅 ┃ ┃84 82
┃┃┃ 63 実能 通季┳
┃┃頼通━━┳ ┃ 公通┳
┃頼宗┳ 師実 公能┳ 実宗┳
長家 俊家 ┃ 実定 公経、入道前太政大臣
┃ ┃ 師通 後徳大寺 96
忠家 基俊 ┃ 左大臣
┃ 75 忠実┳ 81
俊忠┳ 忠通━┳━━━━┓
俊成83 76 兼実┳ 慈円95
┣━━┓ 良経
定家 寂蓮87 91
97 (養子)
┃
為家┳
為相
付録:藤原北家関連系図(数字は百人一首の歌番号)
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
冬嗣┳━━━━━━━━┓ 真夏
┳━━━良房 良門┳━━━━━━━━━━━━━┓ ┃
基経┳━━━━━━━━━┓ 高藤┳ 利基 〜
貞信公┳━━━━┓ 時平┳ 三条右大臣25 ┃ 〜
藤原忠平┃ 醍醐 師尹┳ 敦忠43 藤原定方 ┃ ┃
26 ┃ 天皇 ┳実時 ┃ ┃ 伊勢
┃ 実頼 ┃ 実方51 ┣━┳━┳━┳━┓ ┃ 19
師輔 ┃代明親王┳┳━右大臣藤原定方女┃ ┃ ┃ 女━┳━兼輔27
┃ 頼忠┳━━厳子┃ 代明親王室┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┳━公任 女王┃ ┃ ┃ 朝忠44┃
┃ 定頼 55 ┃ ┳朝頼 女━━┳━━雅正
┃ 64 ┃ 為輔 ┣━━━━━━┓
┣━┳━┳━┓ 恵子 ┣━┳━┓ 為時 為頼
┃ ┃公季 伊尹━┳女王 惟孝 ┃ ┃ ┣━━━┓ ┃
┃為光 ┃ 45 義孝 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 惟規 〜
┃ ┃ 実成┳ 50 ┃ ┃ 賢子 57 〜
┃ 道信 公成┳ ┃ 説孝 58 ┃
┃ 52 実季┳━━┓ ┃ ┃ 家隆
兼家━┳道綱母 公実 顕季 〜〜〜 98
┃ 道綱 53 ┃ ┃ 〜〜〜
┣━━┓ ┣━┓顕輔 ┃ ┃
道長 道隆┳三司母 ┃ ┃79 敦頼 殷富門院
┣┳┓ 伊周 54 ┃ ┃┃ 道因 大輔
┃┃┃ ┃ ┃ ┃清輔 法師 90
┃┃┃ 道雅 ┃ ┃84 82
┃┃┃ 63 実能 通季┳
┃┃頼通━━┳ ┃ 公通┳
┃頼宗┳ 師実 公能┳ 実宗┳
長家 俊家 ┃ 実定 公経、入道前太政大臣
┃ ┃ 師通 後徳大寺 96
忠家 基俊 ┃ 左大臣
┃ 75 忠実┳ 81
俊忠┳ 忠通━┳━━━━┓
俊成83 76 兼実┳ 慈円95
┣━━━━━┓ 良経
定家97┳ 寂蓮87 91
┳為家 (養子)
為相
:
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
冬嗣┳━━━━━━━━┓ 真夏
┳━━━良房 良門┳━━━━━━━━━━━━┓ ┃
基経┳━━━━━━━━━┓ 高藤┳ 利基 〜
貞信公┳━━━━┓ 時平┳ 三条右大臣25 ┃ 〜
藤原忠平┃ 醍醐 師尹┳ 敦忠43 藤原定方 ┃ ┃
26 ┃ 天皇 ┳実時 ┃ ┃ 伊勢
┃ 実頼 ┃ 実方51 ┣━┳━┳━┳━┓ 兼輔 19
師輔 ┃代明親王┳━┳右大臣藤原定方女┃ ┃朝忠 女┳━27
┃ 頼忠━┳━━厳子┃ 代明親王室┃ ┃44 ┃
┃ ┳━━━公任 女王┃ ┳朝頼 女━━┳━雅正
┃定頼64 55 ┃ 為輔 ┣━━━━━━┓
┣━┳━┳━┓ 恵子 ┣━┳━┓ 為時 為頼
┃ ┃公季 伊尹━┳女王 惟孝 ┃ ┃ ┣━━━┓ ┃
┃為光 ┃ 45 義孝 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 惟規 〜
┃ ┃ 実成┳ 50 ┃ ┃ 賢子 57 〜
┃ 道信 公成┳ ┃ 説孝 58 ┃
┃ 52 実季┳━━┓ ┃ ┃ 家隆
兼家━┳道綱母 公実 顕季 〜〜〜 98
┃ 道綱 53 ┃ ┃ 〜〜〜
┣━━┓ 54 ┣━┓顕輔79┃ ┃
道長 道隆┳三司母 ┃ ┃┃ 敦頼 殷富門院
┣┳┓ 伊周┳ 実能 ┃清輔 道因 大輔
┃┃┃ 道雅63 ┃ ┃84 82 90
┃┃頼通━━┳ ┃ 通季┳
┃頼宗┳ 師実 公能┳ 公通┳
長家 俊家 ┃ 実定 実宗┳
┃ ┃ 師通 後徳大寺 公経、入道前太政大臣
忠家 基俊 ┃ 左大臣 96
┃ 75 忠実┳ 81
俊忠┳ 忠通━┳━━━━┓
俊成83 76 兼実┳ 慈円95
┣━━━━━┓ 良経
定家97┳ 寂蓮87 91
┳為家 (養子)
為相
:
____26_ __27_
| 45 | | |
| ___|_25_|___ |
| |50 | 44 | | |
|51 | | | | |
| | | | | |
|52 | | | | |
| |55 | | | |
|___|64_| |57 | |
|________|58_| |
|_____|
:
____26_ __27_
| 45_|_25_|___ |
| |50 | 44 | | |
|51 | | | | |
| | | | | |
|52 | | | | |
| |55 | | | |
|___|64_| |57 | |
|________|58_| |
|_____|
付録:藤原北家関連系図(数字は百人一首の歌番号)
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
冬嗣┳━━━━━━━━┓ 真夏
┳━━━良房 良門┳━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃
基経┳━━━━━━━━━┓ 高藤┳ 利基 〜
貞信公┳━━━━┓ 時平┳ 三条右大臣25 ┃ 〜
藤原忠平┃ 醍醐 師尹┳ 敦忠43 藤原定方 ┃ ┃
26 ┃ 天皇 ┳実時 ┃ ┃ 伊勢
┃ 実頼 ┃ 実方51 ┣━━━┳━┳━┳━┓ 兼輔 19
師輔 ┃代明親王┳━┳右大臣藤原定方女 ┃ ┃朝忠 女┳━27
┃ 頼忠━┳━━厳子┃ 代明親王室 ┃ ┃44 ┃
┃ ┳━━━公任 女王┃ ┳朝頼 女━━┳━雅正
┃定頼64 55 ┃ 為輔 ┣━━━━━━┓
┣━┳━┳━┓ 恵子 ┣━┳━┓ 為時 為頼
┃ ┃公季 伊尹━┳女王 惟孝 ┃ ┃ ┣━━━┓ ┃
┃為光 ┃ 45 義孝 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 惟規 〜
┃ ┃ 実成┳ 50 ┃ ┃ 賢子 57 〜
┃ 道信 公成┳ ┃ 説孝 58 ┃
┃ 52 実季━━┳━━┓ ┃ ┃ 家隆
兼家━┳道綱母 公実 顕季 〜〜〜 98
┃ 道綱 53 54 ┃ ┃ 〜〜〜
┣━━┓ 三司 ┣━┓顕輔 ┃ ┃
道長 道隆┳━┳母 実能┃79 敦頼 殷富門院
┣┳┓ 伊周 定子┳一条┃ ┃┃ 道因 大輔
┃┃┃ ┃ 天皇┃ ┃清輔 82 90
┃┃┃ 道雅63 ┃ ┃84
┃┃頼通━━┳ ┃ 通季┳
┃頼宗┳ 師実 公能┳ 公通┳
長家 俊家 ┃ 実定 実宗┳
┃ ┃ 師通 後徳大寺 公経、入道前太政大臣
忠家 基俊 ┃ 左大臣 96
┃ 75 忠実┳ 81
俊忠┳ 忠通━┳━━━━┓
俊成83 76 兼実┳ 慈円95
┣━━━━━┓ 良経
定家97┳ 寂蓮87 91
┳為家 (養子)
為相
付録:藤原北家関連系図(数字は百人一首の歌番号)
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
冬嗣┳━━━━━━━━┓ 真夏
┳━━━良房 良門┳━━━━━━━━━━━━┓ ┃
基経┳━━━━━━━━━┓ 高藤┳ 利基 〜
貞信公┳━━━━┓ 時平┳ 三条右大臣25 ┃ 〜
藤原忠平┃ 醍醐 師尹┳ 敦忠43 藤原定方 ┃ ┃
26 ┃ 天皇 ┳実時 ┃ ┃ 伊勢
┃ 実頼 ┃ 実方51 ┣━┳━┳━┳━┓ 兼輔 19
師輔 ┃代明親王┳━┳右大臣藤原定方女┃ ┃朝忠 女┳━27
┃ 頼忠━┳━━厳子┃ 代明親王室┃ ┃44 ┃
┃ ┳━━━公任 女王┃ ┳朝頼 女━━┳━雅正
┃定頼64 55 ┃ 為輔 ┣━━━━━━┓
┣━┳━┳━┓ 恵子 ┣━┳━┓ 為時 為頼
┃ ┃公季 伊尹━┳女王 惟孝 ┃ ┃ ┣━━━┓ ┃
┃為光 ┃ 45 義孝 ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 惟規 〜
┃ ┃ 実成┳ 50 ┃ ┃ 賢子 57 〜
┃ 道信 公成┳ ┃ 説孝 58 ┃
┃ 52 実季┳━━┓ ┃ ┃ 家隆
兼家━┳道綱母 公実 顕季 〜〜〜 98
┃ 道綱 53 54┃ ┃ 〜〜〜
┣━━┓ 三司┣━┓顕輔 ┃ ┃
道長 道隆┳┳━母 ┃ ┃79 敦頼 殷富門院
┣┳┓ ┃定子┳一┃ ┃┃ 道因 大輔
┃┃┃ ┃ 条┃ ┃清輔 82 90
┃┃┃ 伊周 天┃ ┃84
┃┃┃ ┃ 皇┃ ┃
┃┃┃ 道雅63 実能┃
┃┃頼通━━┳ ┃ 通季┳
┃頼宗┳ 師実 公能┳ 公通┳
長家 俊家 ┃ 実定 実宗┳
┃ ┃ 師通 後徳大寺 公経、入道前太政大臣
忠家 基俊 ┃ 左大臣 96
┃ 75 忠実┳ 81
俊忠┳ 忠通━┳━━━━┓
俊成83 76 兼実┳ 慈円95
┣━━━━━┓ 良経
定家97┳ 寂蓮87 91
┳為家 (養子)
為相
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/nob/kazanin/kazanin-1.htm
http://www6.ocn.ne.jp/~hokugo/En110710.htm
●読売紙(2011/06/29)に『貞観地震 明治の論文復刻』といふ記事が載りました。
ーー引用です
「日本三代実録」に載る869年の貞観地震・津波について、明治時代に書かれた日本で初めての学術論文が復刻された。歴史地理学者の吉田東伍が明治39年(1906年)、日本歴史地理学会の「歴史地理」誌に発表した「貞観十一年 陸奥府城の震動・洪溢」。
新潟県阿賀野市立吉田東伍記念博物館が6月、研究概報で復刻し、ネット
(http://wind.ap.teacup.com/togo)でも公開している。
ーーここまで
●吉田東伍先生は、何しろ『大日本地名辞書』を殆ど獨力で作られた、すごい方だといふ印象が強烈です。地圖、地名の国土地理院なら、歴史の若干を含めて、ずんずんストックされるのは當り前ですが、文献の蒐集、渉猟をお獨りでなさるのは大變なことです。
●今回の、復刻は現在の「吉田東伍記念博物館」の渡辺史夫館長が、『わが国で初めて「貞観地震」「貞観津波」を歴史地理学的に解析した 吉田東伍の研究論文『貞観十一年 陸奥府城の震動洪溢』について』と題する「略解題」と呼ぶものと、吉田東伍氏の原論文の複写をpdf 化したものとがウェブ公開されてゐます。
●小生の話はもっぱら、「略解題」に依ってゐますが、『三代実録』の原文の讀みかたをはじめ、大層分かり易く時宜を得た、優れた解題になってゐると思はれます。
幾つか話題を拾ってみませう。
●「多賀城下である」と特定
ーー引用です
貞観津波は今でこそ「貞観の多賀城津波」の異称でも知られていますが、『三代実録』中の「忽至城下(たちまち城下にいたる)」と記された城下とは陸奥国府の多賀城下のことであり、論証によって津波がそこまで押し寄せたと明確に特定したのはおそらくこの論文が最初でしょう。
『三代実録』の記述では「忽至城下」とのみあり、何郡の何城という具体的記述がありません。つまりこれだけではどこの城下なのか漠然としています。吉田は「何郡何城と書せずして、唯、国といひ城といふは、某国府城のことである」としながらも、当時陸奥にあった多賀城以外の城郭にも注意を向け、それらの位置や土地の起伏、水系等を検討した上でこれらの候補を排斥し、「此事変は主として宮城郡の府城を破壊したるもの、と確認してよろしい」と、断じています(注7)。
ーーここまで
この小論文、注が15個付されてゐて、それらがまた、行き届いたものになってゐます。一讀をお薦めします。 つづいて百人一首の、『末の松山浪こさじとは』の解明の件です。
●『末の松山浪こさじとは』を解明
ーー引用です
次に吉田は百人一首の「契りきなかたみの袖をしぼりつゝ末の松山浪こさじとは」((後拾遺集 恋四 七七0)清原元輔)の下の句「末の松山浪こさじとは」に着目します。この歌の本歌である「君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ」(古今集東歌 一0九三)も、詠まれている地は多賀城・八幡の沙丘、末の松山に外ならないとし、歌学書『袖中抄』や歌僧宗久による紀行文『都のつと』、歌集『橘為仲朝臣集』をも援用して論証、比定しています(注8)。
加えて「『末松山』は貞観の洪溢の前にも、後にも、真に波濤のこしたのでは無い。越しさうで、こさない所で、此沙丘が詠興せらるるのである」と述べ、歌枕「末の松山」には貞観津波の反映があることを明言、その含意を解明した点で、国文学の研究史の上からも画期的論考です(注9)。
ーーここまで
●松本さん、松下さんなど、松のつく友人が得意札にしてゐた昔を、思ひださせてくれるとともに、あの、浪こさじ が、貞観地震による大波浪であったとは、なるほど強烈な言葉遣ひであります。たしかに、白洲正子さんの「私の百人一首」(新潮文庫)では、吉田東伍さんの論考を引いて、そっちに軍配をあげてをられましたが、…。
しっかりと、昔の文書を取りあげて、こんなにしっかり讀み碎いてゐる方がをられたのですね。
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http://www.geocities.jp/suikyou001/keizu.html
┣━━━━━━━━━━━━━━━━┓
天智 天武
┣━━━━┓ ┃
持統 施基皇子 〜
┃ (六代略)
光仁 〜
┃ ┃
桓武━(略)━┓ 清原深養父36
┃ 遍昭12 ┃
┳━━━嵯峨 ┃ 顕忠
(略) ┣━┓ 素性21 ┃
┃ ┃源融14 元輔42
参議等39┃ ┃
仁明 清少納言62
┣━━━━━━┓
┳━━━光孝 文徳
(略) ┣━━┓ ┃
┃ 宇多 是忠 清和
(玄孫) ┃ 親王 ┣━━━━━┓
平兼盛 醍醐 ┃ 陽成 貞元親王━(略)━┓
40 ┃ 源宗于 (孫)
村上 28 源重之
┣━━━━━┓ 48
円融 冷泉
┃ ┣━━━━━┓
一条 花山 三条68
┣━━━━━━┓ ┃
後朱雀 後一条 敦明親王━┓
┣━━━━━━┓ (孫)行尊66
後三条 後冷泉
┃
白河
┃
堀河
┃
鳥羽
┣━━━━━━┳━━━━━┓
後白河 崇徳77 近衛
┣━━━━━━━━━━━━━━━━┓
高倉 式子内親王89
┣━━━━━━┳━━━━━┓
後鳥羽99 安徳 守貞親王
┣━━━━━━┓ ┃
土御門 順徳100 後堀河
┃ ┃ ┃
後嵯峨 仲恭 四条
:
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天智┳━━┓ 天武
持統 施基皇子┓ ┃
┳━━━光仁 (六代略)
桓武━(略)━┓ 清原深養父36
┃ 遍昭12 ┃
┳━━━嵯峨 ┃ 顕忠
(略) ┣━┓ 素性21 ┃
┃ ┃源融14 元輔42
参議等39┃ ┃
仁明┳━━━━┓ 清少納言62
┳━━━━光孝 文徳
(略) ┣━┓ ┃
┃ 宇多 是忠 清和
(玄孫) ┃ 親王 ┣━━━━━┓
平兼盛 醍醐 ┃ 陽成 貞元親王━(略)━┓
40 ┃ 源宗于28 (孫)
村上┳━━┓ 源重之48
┳円融 冷泉━┳━━━━┓
一条 花山 三条68
┣━━━━━━┓ ┃
後朱雀┳━┓ 後一条 敦明親王━┓
後三条┓後冷泉 (孫)行尊66
┳白河
┳堀河
鳥羽┳━━━━┳━━━━━┓
後白河 崇徳77 近衛
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高倉━┳━━━━┳━━━━━┓ 式子内親王89
後鳥羽99 安徳 守貞親王
┣━━━━┓ ┃
┳土御門 ┳順徳100 後堀河┳
後嵯峨 仲恭 四条
http://www.geocities.jp/suikyou001/keizu.html
:
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天智 天武
┣━━━━┓ ┃
持統 施基皇子 〜
┃ (六代略)
光仁 〜
┃ ┃
桓武━(略)━┓ 清原深養父36
┃ 遍昭12 ┃
┳━━━嵯峨 ┃ 顕忠
(略) ┣━┓ 素性21 ┃
┃ ┃源融14 元輔42
参議等39┃ ┃
仁明 清少納言62
┣━━━━━━┓
┳━━━光孝 文徳
(略) ┣━━┓ ┃
┃ 宇多 是忠 清和
(玄孫) ┃ 親王 ┣━━━━━┓
平兼盛 醍醐 ┃ 陽成 貞元親王━(略)━┓
40 ┃ 源宗于 (孫)
村上 28 源重之
┣━━━━━┓ 48
円融 冷泉
┃ ┣━━━━━┓
一条 花山 三条68
┣━━━━━━┓ ┃
後朱雀 後一条 敦明親王━┓
┣━━━━━━┓ (孫)行尊66
後三条 後冷泉
┃
(三代略)
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後白河 崇徳77 近衛
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高倉 式子内親王89
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後鳥羽99 安徳 守貞親王
┣━━━━━━┓ ┃
土御門 順徳100 後堀河
┃ ┃ ┃
後嵯峨 仲恭 四条
:
舒明
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鎌足 天智 天武
┃ ┳┴┓ ┃
不比等 元明┓持統┳┤
┃ ┃ ┃
┃ ├┳━草壁
┳┴┓ ┳┴┓
光明子┓宮子┳文武 元正
┃ ┃
├┳━聖武
┃
孝謙
親子:┃
夫婦:┳ ┓
├┳
参考:『埋もれた巨像』(上山春平)
:
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天智1 天武
┣━━┳━━┳━━┓ ┏━━┻━━┓
施基 弘文 持統 元明 皇子 舎人親王
┃ 2 ┃ ┃
┃ 藤原不比等 ┃ ┃
皇子 ┏━┳━┻━┓ ┏━┻━┓ ┣━━━┓
┃ ┳宇合┃ 宮子┳文武 元正 御原王 貞代王
┳光仁 ┳良継 光明子━┳━聖武 ┃ ┃
┳━━━━━━━━桓武┳━乙牟漏 孝謙/称徳 小倉王 有雄
┃ ┣━┳━┳━━━┓ ┃ ┃
葛原親王(桓武平氏祖)┃ 平城 良岑安世 繁野王 通雄?房則?
┃ ┳━━━嵯峨 ┃ ┃ ┃
┳━(略) (略) ┣━┓ 阿保 遍昭12 清原深養父36
将門 ┏┻━┓ ┃ ┃源融 親王 ┃ ┃
(略)(略) 参議等39┃14 ┣━┓ 素性21
:
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天智1 天武
┣━━┳━━┳━━┓ ┏━━┻━━┓
施基 弘文 持統 元明 皇子 舎人親王
┃ 2 ┃ ┃
┃ 藤原不比等 ┃ ┃
皇子 ┏━┳┻━┓ ┏━┻━┓ ┣━━━┓
┃ ┳宇合┃ 宮子┳文武 元正 御原王 貞代王
┳光仁 ┳良継 光明子┳━聖武 ┃ ┃
┳━━━━━━━━桓武┳━乙牟漏 孝謙/称徳 小倉王 有雄
┃ ┣━┳━┳━━━┓ ┃ ┃
葛原親王(桓武平氏祖)┃ 平城 良岑安世 繁野王 通雄?房則?
┃ ┳━━━嵯峨 ┃ ┃ ┃
┳━(略) (略) ┣━┓ 阿保 遍昭12 清原深養父36
将門 ┏┻━┓ ┃ ┃源融 親王 ┃ ┃
(略)(略) 参議等39┃14 ┣━┓ 素性21
:
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天智1 天武
┣━━┳━━┳━━┓ ┏━━┻━━┓
施基 弘文 持統 元明 皇子 舎人親王
┃ 2 ┃ ┃
┃ 藤原不比等 ┃ ┃
皇子 ┏━┳┻━┓ ┏━┻━┓ ┣━━━┓
┃ ┳宇合┃ 宮子┳文武 元正 御原王 貞代王
┳光仁 ┳良継 光明子┳━聖武 ┃ ┃
┳━━━━━━━━桓武┳━乙牟漏 孝謙/称徳 小倉王 有雄
┃ ┣━┳━┳━━━┓ ┃ ┃
葛原親王(桓武平氏祖)┃ 平城 良岑安世 繁野王 通雄?房則?
┃ ┳━━━嵯峨 ┃ ┃ ┃
┳━(略) (略) ┣━┓ 阿保 遍昭12 清原深養父36
将門 ┏┻━┓ ┃ ┃源融 親王 ┃ ┃
(略)(略) 参議等39┃14 ┣━┓ 素性21
:
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
天智1 天武
┣━━┳━━┳━━┓ ┏━━┻━━┓
施基 弘文 持統 元明 皇子 舎人親王
┃ 2 ┃ ┃
┃ 藤原不比等 ┃ ┃
皇子 ┏━┳┻━┓ ┏━┻━┓ ┣━━━┓
┃ ┳宇合┃ 宮子┳文武 元正 御原王 貞代王
┳光仁 ┳良継 光明子┳━聖武 ┃ ┃
┳━━━━━━━━桓武┳━乙牟漏 孝謙/称徳 小倉王 有雄
┃ ┣━━━━━━━┓ ┃ ┃
葛原親王(桓武平氏祖)┣━━━┓ 良岑安世 繁野王 通雄?房則?
┃ ┳━━━嵯峨 平城 ┃ ┃
┳━(略) (略) ┣━┓ ┃ 遍昭12 清原深養父36
将門 ┏┻━┓ ┃ ┃源融 阿保親王┃ ┃
(略)(略) 参議等39┃14 ┣━┓ 素性21
:
「百人一首」(小倉山荘色紙和歌)語句関連図(略例)
(□の中に百人一首歌が配置されるという
織田正吉氏の百人一首クロスワードパズル
連鎖させる関連語句群としては、
名詞群:
自然現象歌語として「風」「月」「雪」など
時節歌語として「あさぼらけ」「夕暮れ」など
動物歌語として「鹿」「鳥」など
植物歌語として「梅」「桜」「松」「紅葉」など
歌枕歌語として「逢坂」「宇治」「吉野」「高砂」など
人事事項歌語として「命」「名」「世の中」など
動詞群:
「思」関係歌語として「ものおもふ」「おもひ」「あはれと思へ」
その他の歌語として「逢ふ」「しのぶ」
(出典:「謎の歌集ー百人一首」筑摩書房)
http://www51.tok2.com/home/ncnycy/geohome259-97-9.html
<その2>林直道「百人一首の秘密ー驚異の歌織物」青木書店
(1981年(昭和56年)6月1日)
織田氏によって提示された百人一首百首を一つのまとまった歌集団とする考えをさらに展開した
のが、織田氏の発表から、3年後の林氏のクロスワードパズル提案で、「合わせ言葉」(同一語・
対照語・意味関連語など)を歌から抽出して、それらを繋げてゆくと、10列x10行のマス目に
百枚の歌が配置される(「歌詞クロスワードパズル」の作成)というのです。
歌詞(掛詞や意味関連語など)による歌の連鎖は勅撰和歌集の編纂にも見られる考えであり、
定家の私家集・拾遺愚草員外・雑歌にも見られ、定家撰「物語二百番歌合」にもその考えが導入
されているとのこと。
因みに「歌織物」として織り込まれた内容とは、水無瀬の主・後鳥羽院と順徳院への讃歌として、
(1)新古今集の故里・水無瀬の里を描いたもの
(2)水無瀬離宮下御所の寝殿造構造の描写
(3)水無瀬の歌枕、天王山周辺、淀川周辺の神社仏閣史跡など
さらに、出来事や物語まで織り込まれているというのです。
(4)志多良神神輿農民デモ
(5)水無瀬殿むささび退治事件
(6)山崎長者飛び倉物語(信貴山縁起絵巻)
上記冊子発行の5年後にさらに、「百人一首の世界」と題してさらに10x10パズルでの
歌織物を展開されています。
<その3>西川芳治「百首有情ー百人一首の暗号を解くー」未来社
(1993年(平成5年)7月10日)
「織田氏の著書「絢爛たる暗号」に魅せられ、「百人一首」に取り組み、」共通の歌語を連鎖と
する一対の歌の集合を基本にして、何対もの歌が横に連鎖している構図に仕上げたものです。
さらに「「百人秀歌」と「百人一首」は単なる秀歌撰では断じてない。両書は秀歌撰に事寄せた、
なかば定家の言語遊戯作品であり、後鳥羽・順徳両院への暗号を秘めた、雌雄一対の撰歌集」で、
「百人秀歌」には「最勝四天王院名所障子和歌」の名所和歌が、「百人一首」には(隠岐と佐渡を)
主題にしたメッセージ」が隠されているとするものです。
<その4>いしだよしこ「小倉山荘色紙和歌・百人一首の謎解き」恒文社
(1996年(平成8年)4月12日)
藤原定家が創成した「百人一首」という「花園の扉を開く二つの鍵を発見した織田さん」のお陰で
「私たちもどうやら花園の中に入ることが出来たみたい。」で、「百人一首」が創り出す不思議な
世界」の「謎解き」をしています。
四首の和歌を一つの歌群とするものを上、中、下の三段の格子縞模様に繋いでいき、連鎖を
構成するというものです。たとえば「百人一首基本配列図」では、その歌群として、
上の歌群列には、<よもすがら><そよ風><朝ぼらけ><奥山><松>など9群列(36首)
中の歌群列には、<命><月と雲><山家><紅葉><桜>など8群列(32首)
下の歌群列には、<国見歌><憂き世をしのぶ><夢路>もえる思い>など9群列(36首)
合計歌数は、104首になりますが、百人秀歌の4首を含めています。
この配列図は、「百人秀歌配列図」「源氏物語配列図」もできあがり、加えて、これらの配列図から
「後鳥羽院物語」「伊勢物語」「小町伝説」「土佐日記」などが秘められているというものです。
<その5>太田明「百人一首の魔法陣ー藤原定家が仕組んだ「古今伝授」の謎を解くー」
徳間書店(1997年(平成9年)12月31日)
竹内薫氏の解説文により「魔法陣」の考え方を引用しますと、
「先駆的な仕事をした織田さんの仕事が「意味関連」という観点から十八x十八の碁盤マス目に
百首歌を配置したのに対して、太田さんの仕事は、歌の番号に注目することによって、・・・
数のしかけから古今伝授への謎解きへと発展し、背後に隠れている数学的な構造としての
十x十の魔法陣という驚くべき仮説を提出した」
というものです。ここで、「魔法陣」とは、
「正方形を碁盤の目のように格子状に区分し、その目の中に連続する整数を入れ、縦・横・襷
(二本の対角線)の各列の合計がすべて一定の数になるように配列したもの」
で、当該魔法陣では、各列の歌番号の合計が505になるという数学的配列です。
単に1から100までの数字の魔法陣を数学的に作り上げるだけならば、単なる数字の遊びに
終わるところですが、百人一首の歌の配置内容まで解析して古今伝授の謎解明まで推論を展開して
いるところが、<その2>の10x10クロスワードパズルと異なる点でしょう。
さらに「百人一首」を撰歌した定家自身がこの魔法陣を念頭に置いていたとしたならば、正に
「驚どろくべき歌集」ということになります。
風風 山山 山山 山山 ああ
89玉玉37吹吹58風風79雲雲12風風32風風94吹吹69吹吹22らる100
絶え 風 原人 出月 天 紅葉山 みのの竜田川嵐嵐 嵐 ある
絶え 風お小 原人 出月天天 天 紅葉山 みのの竜田川 嵐 なく
63思思48の野39原原 7のの60山山 5奥奥14そく17ふふ96花花33
思 ころ 小野 月 見山山橋ふみふみ聞鳴鳴 初めくる神るりふり 花
思 ころ をの 月 見夜夜 橋霜霜きく 初 神 ふりふふ 花
80長長84長長 3寝寝59更更 6白白29初初74祈神24手手15りる 9
物 思 世 独寝 かた月 おく 心 瀬 たむき 春衣 ふる花
物 思夜夜 夜 独寝 かた月 おく 心 瀬ななたきたた 春衣 ふる花
85明明53独独91鳴鳴81鳴鳴83山山26みみ13りり55えへ 2香香35
物 思 ぬるりりなく方方 月 思 ゆきねね 嶺ぬぬ 音 来 山 花 知人
物 思 ぬるりりなく方方 月 思逢逢ゆきねね 嶺ぬぬ 音逢来 山 山花知人
43逢逢20逢逢44逢逢57逢逢77せせ10ゆゆ 4ねね62坂逢25知知66
物 思思 詫び身身 恨 月 見 瀬 川かきしるくき出でて関 鳥夜坂 来 人 桜
物 思思 詫び身身 恨 月 見 瀬 川 しるくき出でて関 鳥夜坂 来 人 桜
40恋恋65恨恨52朝朝31朝朝64川川98夕夕70何い78い来47八八61
恋 人 袖 明け 月 明 わた 川暮暮たち処く通うく 寂し重重 桜
恋 人立立 袖うう明け 月 明 わた 川 たつ処く通うく 寂し重重 桜
41そそ95きき30明明36雲雲76原原27つつ 8住住18人人28山山73
わがめめうき ばかりけけ 月明 わた 恋みみ 世人人よる目目 早 高砂
わが うき ばかりばば 月明 わたわわ 恋みみ 世 みよる目目 早 高砂
86涙涙82あな67かか21つ釣11たた88芦芦19短か49思思51知知34
思 命るくなくりり長月るるわた舟 かり 芦きき 火 さしも まつ
思 命共共あら 長月るるわた舟とかり秋秋 芦きき 干 させも とまつ
50命命54がが56世世68恋恋46とま 1田田71葉葉87露露75とし16来
惜 思 忘なな 思 あらで月 舟をを濡れ おと秋秋 千 秋契りし まつむ
惜忘人人 忘人人 思 あらね月 舟をを濡れ おと秋秋 千 秋契りし まつ来
99惜惜38思思45身身23 93天天90袖袖72浜沖92袖袖42まま97ぬ
身思思身 身身 かなしかなしのの 濡濡 袖袖 つつ
【朝鮮日報】ハングル専用教育は見直すべき[10/24]
49 :(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2012/10/24(水) 13:24:35.76 ID:pjUdNjW8
主な同音異義語
童貞(Virgin) 同情(Sympathy) 동정
有機(Organic matter) 遺棄(Abandonment) 유기
史記(Shiki) 詐欺(Swindle) 사기
顧問(Adviser) 拷問(Torture) 고문
郵政(Postal administration) 友情(Friendship) 우정
火傷(Burn) 画像(Image) 화상
風速(Velocity of the wind) 風俗(Customs) 풍속
戦死(Killed) 戦士(Soldier) 전사
数値(Numerical value) 羞恥(Shame) 수치
新車(New car) 新茶(new tea) 신차
犬食(dog eating) 見識(Discernment) 견식
烈火(Intense fire) 劣化(Deterioration) 열화
読者(Reader) 独自(Originality) 독자
停電(Power failure) 停戦(Cease-fire) 정전
救助(rescue) 構造(structure) 구조
諸国(Nations) 帝国(Empire) 제국
意識(Consciousness) 儀式(ritual) 의식
声明(Statement) 姓名(Full name) 성명
全員(All members) 田園(The country) 전원
全力(One's best) 電力(Electric power) 전력
捕鯨(Whale fishing) 包茎(Penis phimosis of foreskin) 포경
課長(Section chief) 誇張(Exaggeration) 과장
地図(Map) 指導(Guidance) 지도
初代(Founder) 招待(Invitation) 초대
駅舎(Station) 歴史(History) 역사
反戦(Anti-war) 反転(Reversing) 반전
武士(Samurai) 無事(Safely) 무사
連覇(Successive victories) 連敗(Series of defeats) 연패
祈願(Prayer) 起源(Origin) 기원
同志(Fellow) 冬至(Winter solstice) 동지
紳士(Gentleman) 神社(Shinto shrine) 신사
首相(Prime Minister) 受賞(Winning) 수상
市長(Mayor) 市場(Market) 시장
映画(Movie) 栄華(Prosperity) 영화
歩道(Pavement) 報道(Report) 보도
お腹(Stomach) 船 (Ship) 배
日傘(Parasol) 量産(Mass production) 양산
主義(Principle) 注意(Attention) 주의
団扇(Fan) 負債(Debt) 부채
大使(Ambassador) 台詞(Dialog) 대사
諸島(Islands) 制度(System) 제도
定額(Fixed amount) 精液(Semen) 정액
インド(India) 引導(Requiem) 인도
対局(Play) 大国(Large country) 대국
無力(Powerlessness) 武力(Military power) 무력
電車(Train) 戦車(Tank) 전차
発光(Luminescence) 発狂(Going mad) 발광
充電(Charge) 充填(Filling) 충전
代弁(Representation) 大便(Feces) 대변
朝鮮(Korea) 造船(Shipbuilding) 조선
反日(Anti-Japan) 半日(Half a day) 반일
柱石(Pillars) 主席(The president) 주석
防火(Fire prevention) 放火(Arson) 방화
防水(Waterproof) 放水(Draining water off) 방수
地方(The provinces) 脂肪(Fat) 지방
駅舎(Station building) 歴史(History) 역사
検査(inspection) 検事(prosecutor) 검사
【人文】「しんにゅう」の点を巡る「謎」 /京大・阿辻教授が講演
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1352299199/-100
京都大学が東京・品川の「京大東京オフィス」で開く連続講座「東京で学ぶ 京大の知」(朝日新聞社後援)のシリーズ6「中国学研究最前線」が始まった。
初回の2月1日は、中国から日本に伝来した漢字がテーマ。
国の常用漢字表の改定にもあたっている京都大学大学院人間・環境学研究科の阿辻哲次教授が
「電子時代の漢字研究」と題して、時代による漢字の変遷を紹介した。
●しんにゅうの点はいくつ?
この日の講座を貫く「材料」として、阿辻教授が取り上げたのは、部首の「しんにゅう」(「しんにょう」ともいう)だ。
スクリーンに映し出したのは、「邁進(まいしん)」「巡邏(じゅんら)」「邂逅(かいこう)」という三つの言葉。
いずれの字も部首はしんにゅうだ。ただし、よく見ると、「邁」「邏」「邂」「逅」は、しんにゅうの点が二つだが、
「進」「巡」のしんにゅうは点が一つ。阿辻教授は「この“点の数の違い”こそ、漢字の移り変わりを示す手がかりです」と語った。
しんにゅうの由来を尋ねて、話題は紀元前3千年にさかのぼった。
阿辻教授は、書道の辞典から集めた様々な時代の「逆」という字をスクリーンに映し出した。
甲骨文字を使っていた古代中国・殷の「逆」は、人間が逆立ちしているよう。
漢の時代のしんにゅうは、形は現在と似てくるが、点の数は二つだったり三つだったりまちまちだ。
唐の時代も点はゼロ、一つ、二つ、とばらつきがある。
なぜ、これほど多種多様なのか。阿辻教授の答えは「しんにゅうの点の数は、実は決まっていないから」と意表を突くものだった。
●清の時代の字典がスタンダード
阿辻教授によると、中国では歴史上、何度か漢字の形を整理する動きがあった。
漢字の成り立ちをもとに部首を整理した、後漢時代の「説文解字(せつもんかいじ)」がその先駆け。
この書物では、しんにゅうは7画の「?」と書いている。
その後、官僚任用試験の「科挙」で、一つの問題が生じた。答案によって漢字の字体が異なっては、正しく採点できないというのだ。
そこで唐の時代の8世紀に、標準字形を提示した「干禄字書(かんろくじしょ)」が作られた。
さらに清朝の時代の18世紀、漢字字典の集大成「康熙字典(こうきじてん)」が編集された。
この康熙字典は「第2次世界大戦が終わるまで、中国でも日本でも朝鮮半島でも、漢字のスタンダード」(阿辻教授)だった。この字書では「しんにゅう」の点は二つ。
従って、「点二つが正しい」ことになった。
●戦後の国語政策で揺らぎ始める
日本で漢字が揺らぎ始めたのは終戦直後だった。
阿辻教授によると、連合国軍総司令部(GHQ)の指導の下、日本で「漢字は廃止か、少なくとも制限するべきだ」との議論が起きた。
そんな状況で、一般社会で使う漢字の範囲を示したのが1946年の「当用漢字表」だ。
さらに49年、正しい活字製作の指針である「当用漢字字体表」(いわゆる当用漢字)が定められた。
当用漢字には1850字が収録された。
簡略化の方針に沿い、部首のしんにゅうは、すべて点一つになった。
このとき、当用漢字以外の文字のしんにゅうは、点二つのまま放って置かれた。
こうして、二重構造が生まれたというのである。
時は過ぎて1981年。当用漢字に95字を新たに加え、日常的な使用の目安である「常用漢字表」(いわゆる常用漢字)が定められた。
追加された中に「逝」「遮」の二つの文字があった。
本来は点二つのはずだが、「常用漢字への『出世』にあわせて、点一つにそろえた」(阿辻教授)のだという。
>>続きます
2 :sin+sinφ ★:2012/11/07(水) 23:41:06.41 ID:???
●コンピューターの普及で新たな問題が…
点の数をめぐる騒動は、まだ終わらない。
「コンピューターの普及」という想定外の問題が起こったのだ。
阿辻教授は「1979年に、初めて市販のワープロが登場した時、値段は630万円だった。
それから約30年で、誰もがパソコンや携帯電話で文章を書く時代が来るとは、
我々も、文部省(現在は文部科学省)も夢想だにしませんでした」と強調した。
現在、パソコンや携帯電話の漢字は、工業規格品として一文字ずつに「コード」が付いている。
「JIS漢字コード」だ。使用頻度によって、「第1水準」「第2水準」に分かれている。
2004年のJIS漢字の改訂前は、常用漢字を含む第1水準の漢字は、しんにゅうが点一つ、
常用外がメーンの第2水準の漢字は、点二つだった。
「邁進」の場合、「邁」が第2水準、「進」は第1水準で、しんにゅうの点の数が異なっているのだ。
2004年のJIS漢字の改訂では、2000年の文部省(当時)の国語審議会の答申にあった「表外漢字字体表」が反映された。
「当用漢字字体表」が定められたときに放っておかれた漢字にも光が当てられた形だ。
この改訂で、一部の常用外の漢字については点二つに戻すことになった。
しかし、せっかく点二つに戻した漢字のいくつかが、2010年に新たに常用漢字になってしまった。
「謎」の字が、まさにそうだ。
常用漢字改定の議論に参加した阿辻教授は、「常用漢字に『出世』したのを機に、しんにゅうの点は一つにするべきだ、という意見もありました。
しかしそうすると、今度はコンピューターの表記と食い違いが出てしまうのです」と悩ましそうに話した。
結局「謎」は、点二つのまま常用漢字になった。「コンピューターの都合を漢字が追認せざるをえなくなったのです」と阿辻教授。講座をこうしめくくった。
「漢字は、何千年という歴史の中で、さまざまな形で書かれてきた。
しんにゅうは、『点一つでも、点二つでも構わない』と教えるべきではないでしょうか」
さまざまな「逆」の字を見ていると、納得できる見解だった。
受講者から、「阿辻先生の辻は、点一つでしょうか、点二つでしょうか」と質問が出た。名刺では点二つの阿辻教授だが、「どちらでも良いですよ」と笑顔で答えていた。
ソース
「しんにゅう」の点を巡る「謎」 京大・阿辻教授が講演
http://www.asahi.com/edu/news/TKY201202100360.html
イメージ
阿辻教授が『大書源』(二玄社)をもとに作成し、スクリーンに映し出したさまざまな「逆」の文字
http://www.asahicom.jp/edu/news/images/TKY201202100359.jpg
http://nam-students.blogspot.jp/2010/03/blog-post_05.html
NAMs出版プロジェクト: 今井凌雪
海外で通じない和製英語たち!
11月17日16時10分
コンセントやサンドバッグ、ガソリンスタンドといった言葉は、実は日本で作られた日本独自の「英語風」の単語たち。
いわゆる和製英語というものです。なので、海外で使うと通用しない上に恥ずかしいことになってしまう可能性があります。
そこで今回は、海外で思わず使ってしまいがちな和製英語の数々を紹介します。
これらを覚えておけば、海外で現地の人に「???」と思われないはず!
●アパート
英語のアパートメント(apartment)を略した和製英語。apartというのは離れて、別々に、という意味の言葉なので、
このまま使うとトンチンカンなことになります。
●アルバイト
元はドイツ語の「Arbeit」から作られた和製英語。英語圏で「アルバイトしたいんですけど!」
みたいなことを言うと「あ?」ってなりますので注意。
●イメージダウン
英語のイメージとダウンをつなげて作られた和製英語です。イメージがダウンするから、
という実にお手軽な作ですが、当然海外では使えません。身ぶり手ぶりがあると伝わるかも(笑)。
●オーダーメイド
これも「注文する」と「仕立てる」という英語をつないだ和製英語です。
英語では「custom-made」(注文品の~)と言うので覚えておきましょう。
●オーブントースター
こちらもオーダーメイドと同じように、「オーブン」と「トースター」をつなげた和製英語。
英語では「toaster oven」というので若干惜しいです。
(つづく)
http://news.ameba.jp/20121117-244/
2 :わいせつ部隊所属φ ★:2012/11/17(土) 17:14:26.59 ID:???0
●カセットテープ
英語では「audiotape」と言います。カセットテープというのは日本独自の呼び方なので海外では相手に伝わらないかもしれないですね。
●クラクション
英語では「horn」。なぜ日本だけクラクションと言うようになったかは、
日本ではクラクソンというフランスの自動車メーカーの製品が有名だったため、
いつのまにかクラクソン⇒クラクションと呼ばれるようになったそうです。
●ゴールデンウィーク
ゴールデンウィークとは、日本の映画会社によって作られた宣伝用語ですので、
海外ではまったく通じません。もちろんシルバーウィークもしかり(笑)。
●サインペン
サインをするペンだから、という和製英語。ぺんてる株式会社の商標でもあります。
海外では「marker」というので購入する際は言い間違えないようにしましょう。
●ジェットコースター
ジェット機のように加速していくコースターということで日本ではジェットコースターと呼ばれていますが、
英語では「Roller coaster」と言います。海外でも通用しそうな雰囲気のある言葉ですがNGですよ。
●セレブ
"celebrity"という英単語を短くした和製英語です。日本ではお金持ちという意味合いでよく使用されていますが、
本来「celebrity」は「有名人」という意味なので少し使い方がおかしくなっていますね。
●タレント
日本では芸能人を指す意味で使われていますが、本来タレントとは「才能」という意味なのです。
海外では芸能人のことを「celebrity」や「TV personality」、または「TV star」などと言います。
和製英語というより、使い方が違っているケースですね。
3 :わいせつ部隊所属φ ★:2012/11/17(土) 17:14:36.65 ID:???0
●テンション
日本では気分が良い時にハイテンション、落ち込んでいるときはローテンションといった感じに使われていますが、
テンションとは本来「緊張」などという意味なのでテンションがハイだと逆に心配になります。
これも本来の意味とは逆になってしまう和製英語といえますね。
●トランプ
英語圏ではトランプ(trump)は切り札という意味で、カード自体を指すものではありません。
海外でトランプで遊びたい場合は「playing cards」や「cards」と呼びましょう。
●フェミニスト
これは海外で使うと恥ずかしい思いをしてしまう和製英語。フェミニスト(feminist)は
海外では女性解放論者や女性運動家という意味なので、男性がフェミニストということはまずあり得ません。
●ポテトフライ
ポテトをフライ(揚げる)からという意味で作られた和製英語。英語ではフレンチフライ(French fries)と言います。
ポテトフライやフライドポテトと言うと、じゃがいもが丸ごと1個揚げたものが出てくるので注文する際は注意を(笑)。
以上、海外では通用しない和製英語たちでした!
どれも一見すると、英語を単純にカタカナ表記にしているだけに思えますよね。
特にオーダーメイドやセレブ、ポテトフライなんかは英語そのままのような感じがしますよね。
実際は海外ではちーっとも通用しませんが(笑)。
旅行や仕事で海外を訪れる際は、うっかりこれらの和製英語たちを使ってしまわないよう気をつけましょうね!
(おわり)
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ちなみに百人一首で、藤原氏は100人中34人
全体の1/3を占める
01 18.藤原敏行朝臣 藤原敏行 [藤原 南家]
02 19.伊勢 伊勢守 藤原継蔭の娘。 別称;伊勢の御、伊勢の御息所
03 25.三条右大臣 定方 冬嗣 → 良門 → 高藤 → 定方
04 26.貞信公 忠平 冬嗣 → 良房 → 基経 → 忠平
05 27.中納言兼輔 兼輔 冬嗣 → 良門 → 利基 → 兼輔
06 34.藤原興風 藤原興風 [藤原 京家]
07 38.右近 右近少将 藤原季縄(すえなわ)の娘。
08 43.権中納言敦忠 敦忠 冬嗣 → 良房 → 基経 → 時平 → 敦忠
09 44.中納言朝忠 朝忠 25.三条右大臣 の 子
10 45.謙徳公 伊尹(コレタダ) 26.貞信公の孫
11 50.藤原義孝 義孝 26.貞信公のひ孫 & 45.謙徳公の子
12 51.藤原実方朝臣 実方 26.貞信公のひ孫
13 52.藤原道信朝臣 道信 26.貞信公のひ孫
14 53.右大将道綱母 兼家(26.貞信公の孫 &道長の父)の妻
菅原孝標女(たかすえのむすめ、『更級日記』著者=道真の5代下)の叔母
15 54.儀同三司母 高階貴子 道隆(兼家の子 &道長の兄)の妻 一条天皇妃・定子の 母
息子伊周(これちか)の官名(儀同三司)による
16 55.大納言公任 公任 26.貞信公のひ孫
17 57.紫式部 紫式部 27.中納言兼輔の曾孫(ひ孫)
18 58.大弐三位 藤原賢子 57.紫式部の娘
19 63.左京大夫道雅 道雅 54.儀同三司母の孫 一条天皇妃・定子の 甥
20 64.権中納言定頼 定頼 55.大納言公任の子
21 75.藤原基俊 基俊 藤原道長(道隆と兄弟)のひ孫
22 76.法性寺入道… 忠通 藤原道長の5代下
23 79.左京大夫顕輔 顕輔 26.貞信公の7代下
24 81.後徳大寺左大臣 実定 26.貞信公の9代下
25 82.道因法師 藤原敦頼
26 83.皇太后宮大夫… 俊成 藤原道長の4代下
27 84.藤原清輔朝臣 清輔 79.左京大夫顕輔の子
28 87.寂蓮法師 定長 藤原道長の5代下。83.俊成の子
29 90.慇富門院大輔 父 従五位下 藤原信成。 母 菅原在良の娘。
30 91.後京極摂政… 良経 藤原道長の7代下。76.法性寺[忠通] の孫
32 95.前大僧正慈円 慈円 藤原道長の6代下。76.法性寺[忠通] の子
32 96.入道前太政大臣 公経 26.貞信公の10代下
33 97.権中納言定家 定家 藤原道長の5代下。83.俊成の子
34 98.従二位家隆 家隆 27.兼輔の9代下 & 57.紫式部の祖父(雅正)の8代下
兼輔→雅正→為頼→伊祐→頼成→清綱→隆時→清隆→光隆→家隆
兼輔→雅正→為時→式部→三位
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付録:藤原家関連系図(数字は百人一首の歌番号)
鎌足
┃
不比等
┣━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
房前(北家) (南家)(式家)(京家) ┃ 宮子┳文武天皇
┃ ┃ ┃ 光明子━┳━聖武天皇
真楯 (略) (略) 孝謙
┃ ┣━━━━┓ ┃ 天皇
内麻呂 (略) (略) 興風34
┃ ┃ ┃
┃ 敏行18 右近38
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冬嗣┳━━━━━━━━━━┓ 真夏
┏━━━良房 良門┳━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃
基経┳━━━━━━━━━━┓ 高藤┓ 利基 〜
貞信公┳━━━━┓ 時平┓ 三条右大臣25 ┃ 〜
藤原忠平┃ 醍醐 師尹┓ 敦忠 藤原定方 ┃ ┃
26 ┃ 天皇 ┏実時 43 ┃ ┃ 伊勢
┃ 実頼 ┃ 実方51 ┣━━┳━━┳━━┳━━┓ 兼輔 19
師輔 ┃代明親王┳━┳━右大臣藤原定方女 ┃ ┃ 朝忠 女┳27
┃ 頼忠━┳━━厳子┃ 代明親王室 朝頼 ┃ 44 ┃
┃ ┏━━━公任 女王┃ ┃ 女━━━━┳━雅正
┃定頼64 55 ┃ 為輔 ┣━━━━━━┓
┣━┳━┳━┓ 恵子 ┣━┳━┓ 為時 為頼
┃ ┃公季 伊尹━┳女王 惟孝 ┃ ┃ ┣━━━┓ ┃
┃為光 ┃ 45 義孝━┓ ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 惟規 〜
┃ ┃ 実成┓ 50 行成 ┃ ┃ 賢子 57 〜
┃ 道信 公成┓ ┃ 説孝 大弐三位 ┃
┃ 52 実季━━━━━━┳━━┓ ┃ ┃ 58 家隆
兼家━┳道綱母 公実 顕季 〜〜〜 98
┃ 道綱 53 ┃ ┃ 〜〜〜
付録:藤原家関連系図(数字は百人一首の歌番号)
鎌足
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不比等
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房前(北家) (南家)(式家)(京家) ┃ 宮子┳文武天皇
┃ ┃ ┃ 光明子━┳━聖武天皇
真楯 (略) (略) 孝謙
┃ ┣━━━━┓ ┃ 天皇
内麻呂 (略) (略) 興風34
┃ ┃ ┃
┃ 敏行18 右近38
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冬嗣┳━━━━━━━━━━┓ 真夏
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基経┳━━━━━━━━━━┓ 高藤┓ 利基 〜
貞信公┳━━━━┓ 時平┓ 三条右大臣25 ┃ 〜
藤原忠平┃ 醍醐 師尹┓ 敦忠 藤原定方 ┃ ┃
26 ┃ 天皇 ┏実時 43 ┃ ┃ 伊勢
┃ 実頼 ┃ 実方51 ┣━━┳━━┳━━┳━━┓ 兼輔 19
師輔 ┃代明親王┳━┳━右大臣藤原定方女 ┃ ┃ 朝忠 女┳27
┃ 頼忠━┳━━厳子┃ 代明親王室 朝頼 ┃ 44 ┃
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┃定頼64 55 ┃ 為輔 ┣━━━━━━┓
┣━┳━┳━┓ 恵子 ┣━┳━┓ 為時 為頼
┃ ┃公季 伊尹━┳女王 惟孝 ┃ ┃ ┣━━━┓ ┃
┃為光 ┃ 45 義孝━┓ ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 惟規 〜
┃ ┃ 実成┓ 50 行成 ┃ ┃ 賢子 57 〜
┃ 道信 公成┓ ┃ 説孝 大弐三位 ┃
┃ 52 実季━━━━━━┳━━┓ ┃ ┃ 58 家隆
兼家━┳道綱母 公実 顕季 〜〜〜 98
┃ 道綱 53 ┃ ┃ 〜〜〜
┣━┳━┳━┓ 三司母┣━┓顕輔 ┃ ┃
道長 道隆━━┳━┳━54┃ ┃79 敦頼 殷富門院
┣┳┳┳┓ ┃ 伊周 ┃ ┃┃ 道因 大輔
┃┃ ┃彰子┳一条┳定子┃ 実能┃清輔 82 90
┃┃ ┃ 天皇 道雅 ┃ ┃84
┃┃ 頼通━━┓ 63 ┃ 通季┓
┃頼宗┓ 師実━┓ 公能┓ 公通┓
長家 俊家 ┃ 忠教┓ 実定 実宗┓
┃ ┃ 師通 (略) 後徳大寺 公経、入道前太政大臣
忠家 基俊 ┃ 雅経94 左大臣 96
┃ 75 ┏忠実┓ 81
俊忠┓ 頼長 忠通━┳━━━━┓
俊成83 76 兼実┓ 慈円95
┣━━━━━┓ 良経
定家97┓ 寂蓮87 91
┏為家 (養子)
為相
(飛鳥井雅経94も藤原氏に入れた。)
[150]12/5(水)16:14 21mNfwCfP(4)↓
>>148
最近出た漫画『恋スル古事記』(近藤ようこ)をぜひ薦める。
折口信夫的解釈の作品。
30分で読める。
現代語訳の前の前の肩慣らしということで、、、
http://travel.rakuten.co.jp/premium/hotelcolumn/index_02_051129.html
【楽天トラベル】プレミアム流 ~第二回 新井旅館~
新井旅館最古の建築物「青州楼」は六角塔屋が創業以来、修善寺温泉のシンボルと なっており、島崎藤村などが明治42年に宿泊している。芥川龍之介が一ヶ月の長期 滞在をした「月の棟」。泉鏡花が小説「斧琴菊(よきこときく)」の中に登場させた「桐の棟」( 小説 ...
travel.rakuten.co.jp/premium/.../index_02_051129.html
早急と書いて「そうきゅう」 「さっきゅう」どちらが正しいのでしょうか? - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410530589
miestastaniさん
どちらも正しいです。
以下、以前の私の回答です:
---
話し言葉で使うときは、私自身は「さっきゅう」を使います。通常よく使われているのは「さっきゅう」のほうです。
ただし、漢字の音韻学から見て本来の正しい形は「そうきゅう」のほうです。「さっきゅう」ではありません。それなのに、「さっきゅう」のほうが正しいという人が多いのは、圧倒的に「さっきゅう」が普及していた時期があり、のちに「そうきゅう」が再登場してきたからです。
漢字「早急」の「早」は、旧カナで「さう」、中国語 zao で、昔も今ももともと入声(音節末子音、つまる音)がありません。
「合体」の「合」のように「ごう」「がっ」と両読みできる漢字は、本来「がふ」 gap で、入声(音節末子音 -p)があるのです。だから歴史的に見て、入声のない「早」に「さっ」の音はありえません。
「早急」が「そうきゅう」から「さっきゅう」に変化したのは、おそらく「早速(さっそく)」からの類推です。
「早速」は、古くは「さそく」で、漢字では「早足」と書きました(広辞苑にもあり)。「はやあし」で急ぐことを「早足(さそく)を踏む」といいます(広辞苑にあり)。そこから「さそく」に「急いで」の意味ができ、それをあて字で「早速」と書いたのです。
だから、「早」を「さ」と読むのは訓読みです。「早苗(さなえ)」「早乙女(さおとめ)」の「さ」と同じ。
---
まとめますと、ずっと昔は「さうきう」という発音で、これが「そうきゅう」となった。その後、「さっそく」の類推で「さっきゅう」という読みが広まり、明治大正のころには「さっきゅう」が圧倒的になった。その後また「そうきゅう」が登場した。このとき「さっきゅう」だと思っている世代が、新たに再登場した「そうきゅう」は正しくないと言い出した。
とこのような事情です。これは、どちらも正しいというほかありません。
safariでないと文字ズレします
付録 天皇家、清原氏、大江氏系図:
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
天智1 天武
┣━━┳━━┳━━┓ ┏━━┻━━┓
施基 弘文 持統 元明 皇子 舎人親王
皇子 2 ┏━┻━┓ ┣━━━┓
┃ 文武 元正 御原王 貞代王
光仁 ┃ ┃ ┃
┃ 聖武 小倉王 有雄
┏━━━━━━━━━━桓武━━┳━━━┓ ┃ ┃ ┃
葛原親王(桓武平氏祖)┃ 平城 良岑安世 孝謙・称徳 繁野王 通雄?房則?
┃ ┏━━━嵯峨 ┃ ┃ ┃
┏━(略) (略) ┣━┓ 阿保 遍昭12 清原深養父36
将門 ┏┻━┓ ┃ ┃源融 親王 ┃ ┃
(略)(略) 参議等39┃14 ┣━┓ 素性21 春光?顕忠?
周防内侍 紀伊 ┃ 行平 業平 ┃
67 72 仁明 16 17 元輔42
┏(略)━土師氏 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃
┏━━(略)┓ ┏━━━光孝15 文徳 清少納言62
大江音人 菅原道真(略) ┣━━━━━━━━━━━━━┓ ┃
┣━━━━┓ 24 ┃伊勢━宇多 是忠 清和
千古 大江千里 ┃19 ┣━(略)━┓ 源氏 親王 ┣━━━━┳━┓
┣━━━┓ 23 (玄孫) 醍醐 (71、74、 ┃ 陽成13 ┃ 貞元親王━┓
維明 維明 平兼盛 ┣(略)┓ 85、78へ) 源宗于┃ 貞純親王 (略)
┃ ┃ 40 村上 (55、64へ) 28 元良親王 ┃ ┃
仲宣 重光 ┃ ┣━━┳(略)┓ 藤原氏 20 源経基 (孫)
┃ ┣━━┓ 赤染 円融 冷泉 (80、88へ)源氏 ┃ 源重之
清言 雅到 匡衡┳衛門 ┃ ┣━━━━━━━━┓ 満仲 48
┣━┓ ┃ ┃59 一条 花山 三条68 ┣━━━┓
公資┃ 和泉┳橘 挙周 ┣━━━━━━┓ ┃ 頼光┓ 頼信┓
相模 式部┃道貞┃ 後朱雀 後一条 敦明親王━┓ (略) (略)
65 56┃ 成衡 ┣━━━━━━┓ (孫) 二条院 実朝
小式部 ┃ 後三条 後冷泉 行尊 讃岐 93
内侍 匡房 ┃ 66 92
60 73 (三代略)
┣━━━━━━┳━━━━━┓
後白河 崇徳77 近衛
┣━━━━━━━━━━━━━━━━┓
高倉 式子内親王
┣━━━━━━┳━━━━━┓ 89
後鳥羽99 安徳 守貞親王
┣━━━━━━┓ ┃
土御門 順徳100 後堀河
┃ ┃ ┃
後嵯峨 仲恭 四条
付録:藤原家関連系図(数字は百人一首の歌番号)
鎌足
┃
不比等
┣━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
房前(北家) (南家)(式家)(京家) ┃ 宮子┳文武天皇
┃ ┃ ┃ 光明子━┳━聖武天皇
真楯 (略) (略) 孝謙
┃ ┣━━━━┓ ┃ 天皇
内麻呂 (略) (略) 興風34
┃ ┃ ┃
┃ 敏行18 右近38
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
冬嗣┳━━━━━━━━━━┓ 真夏
┏━━━良房 良門┳━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃
基経┳━━━━━━━━━━┓ 高藤┓ 利基 〜
貞信公┳━━━━┓ 時平┓ 三条右大臣25 ┃ 〜
藤原忠平┃ 醍醐 師尹┓ 敦忠 藤原定方 ┃ ┃
26 ┃ 天皇 ┏実時 43 ┃ ┃ 伊勢
┃ 実頼 ┃ 実方51 ┣━━┳━━┳━━┳━━┓ 兼輔 19
師輔 ┃代明親王┳━┳━右大臣藤原定方女 ┃ ┃ 朝忠 女┳27
┃ 頼忠━┳━━厳子┃ 代明親王室 朝頼 ┃ 44 ┃
┃ ┏━━━公任 女王┃ ┃ 女━━━━┳━雅正
┃定頼64 55 ┃ 為輔 ┣━━━━━━┓
┣━┳━┳━┓ 恵子 ┣━┳━┓ 為時 為頼
┃ ┃公季 伊尹━┳女王 惟孝 ┃ ┃ ┣━━━┓ ┃
┃為光 ┃ 45 義孝━┓ ┃ ┃宣孝━┳━紫式部 惟規 〜
┃ ┃ 実成┓ 50 行成 ┃ ┃ 賢子 57 〜
┃ 道信 公成┓ ┃ 説孝 大弐三位 ┃
┃ 52 実季━━━━━━┳━━┓ ┃ ┃ 58 家隆
兼家━┳道綱母 公実 顕季 〜〜〜 98
┃ 道綱 53 ┃ ┃ 〜〜〜
┣━┳━┳━┓ 三司母┣━┓顕輔 ┃ ┃
道長 道隆━━┳━┳━54┃ ┃79 敦頼 殷富門院
┣┳┳┳┓ ┃ 伊周 ┃ ┃┃ 道因 大輔
┃┃ ┃彰子┳一条┳定子┃ 実能┃清輔 82 90
┃┃ ┃ 天皇 道雅 ┃ ┃84
┃┃ 頼通━━┓ 63 ┃ 通季┓
┃頼宗┓ 師実━┓ 公能┓ 公通┓
長家 俊家 ┃ 忠教┓ 実定 実宗┓
┃ ┃ 師通 (略) 後徳大寺 公経、入道前太政大臣
忠家 基俊 ┃ 雅経94 左大臣 96
┃ 75 ┏忠実┓ 81
俊忠┓ 頼長 忠通━┳━━━━┓
俊成83 76 兼実┓ 慈円95
┣━━━━━┓ 良経
定家97┓ 寂蓮87 91
┏為家 (養子)
為相
(飛鳥井雅経94も藤原氏に入れた。)
5 COMMENTS:
yoji said...
2010.3.20 松崎真人 with “The Band”@京都RAG ライブレポート|葉月 ...
ameblo.jp/myprism/entry-10491549910.html
今回、ローソンでチケットを買ったんだけど、整理番号が一番ということで、ステージの まん前でかぶりつきで見させていただきました。 松崎さんとの ..... 京都用に『身を捨てて こそ 浮かぶ瀬もあれ 竜田川』という邦題をつけましたとの事。 あ~~。
9月のコラム:百人一首 - 小関勝紀税理士事務所ブログ
kosekikatsunori.blog109.fc2.com/blog-entry-9.html
百人一首にはないが、心の相談を受けると、 「山川の 末に流るる 栃殻も 実を捨てて こそ 浮かぶ瀬もあれ」 空也上人の和歌を引用する。割切って、違う世界を見なさい ということです。 「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくると ...
4:36 午前
yoji said...
http://kosekikatsunori.blog109.fc2.com/blog-entry-9.html
「ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ」 紀 友則
「しのぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」平 兼盛
「天つ風 雲の通ひ路 吹き閉じよ をとめ(乙女)の姿 しばしとどめむ」僧正遍照
「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」在原業平朝臣
これを、題材とした、落語は後載にあります。
たぶん、私が上記の好きな歌は、四季折々の変化してやまない自然の景観や、
微妙に揺れ動く恋の気持ちを詠んだ、日本人の美意識が端的に表現されているからかもしれません。
百人一首にはないが、心の相談を受けると、
「山川の 末に流るる 栃殻も 実を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ」
空也上人の和歌を引用する。割切って、違う世界を見なさいということです。
「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」の意味は、
竜田川の川面を流れる紅葉を、唐紅色のくくり染めに見立てて、
不思議なことの多い神代でも聞いたことがない。
竜田川が唐紅色に水をくくり染めしているとは。という意味です。
百人一首とは、百人に一人しか、仏法を成就できないという、意味もあると聞きます。
落語になると、『千早振る』江戸時代、人気の大関の「竜田川」が吉原へ遊びに行った際、
「千早」という花魁に一目惚れした。ところが千早は力士が嫌いで、振られてしまう(「千早振る」)。
振られた竜田川は妹の「神代」に言い寄るが、こちらも「姐さんが嫌いなものは、わっちも嫌いでありんす」
と言うことをきかない(「神代も聞かず竜田川」)。
このことから、成績不振となった竜田川は力士を廃業、実家に戻って家業である豆腐屋を継いだ。
それから数年後、竜田川の店に一人の女乞食が訪ねる。「おからを分けてくれ」と言われ、
喜んであげようとした竜田川だったが、なんとその乞食は零落した千早太夫の成れの果てだった。
激怒した竜田川はおからを放り出し、千早を思い切り突き飛ばした。
千早は井戸のそばに倒れこみ、こうなったのも自分が悪いと井戸に飛び込み入水自殺を遂げた
(「から紅(くれない)に水くぐる」)。
八五郎は「大関ともあろう者が、失恋したくらいで廃業しますか」、
「いくらなんでも花魁が乞食にまで落ちぶれますか」などと、
隠居の解説に首をひねり通しだが、隠居は何とか強引にハチ公を納得させた。
やれ安心と思ったところにハチ公が、
「千早振る、神代も聞かず竜田川、からくれないに水くぐる、まではわかりましたが、最後の「とは」は何です」
と突っ込んだ。とっさの機転で隠居はこう答えた。
「千早は源氏名で、彼女の本名が「とは」だった。
平成22年8月31日
小関勝紀
4:39 午前
yoji said...
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
[意味]
一身を犠牲にするだけの覚悟があって初めて、活路も見出せる。
[解説]
和歌や川柳から出たことわざは少なくないが、これもその一つ。
空也上人(くうやしょうにん)(903~972)の作と伝えられる
「 山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」
(山あいの川を流れてきたトチの実は、
自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、
こうして広い下流に到達することができたのだ)
(『空也上人絵詞伝』)
という歌が出典。
「浮かむ瀬」は原歌では、仏の悟りを得る機縁、成仏の機会の意だが、
これを窮地から脱して安泰を得るという、世俗一般のこととして、このことわざは使われる。
自分を大事と思って、我(が)に執着していてはなかなか道は開けてこないというのである。
(『成語大辞苑』主婦と生活社)
4:41 午前
yoji said...
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』みてきた - Archiva
archiva.jp/recommend/movie/evangelion_2.0.html
さーんぽあるいてにほさがるー♪」; マリ「君、良い匂いするね... LCLの匂い...」 マリ「身を 、捨てて、こそ... 浮かぶ、瀬も ...あれ!」 マリ「エヴァに乗るか乗ら ... 今度こそ、君だけ は幸せにしてみせるよ」 ... というかWikipediaのネタバレ具合もひどいね! 今回は戦闘 ...
竜田川は民衆の言葉遊びからことわざに変化する過程で着いた?
4:48 午前
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薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
創建
『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。
「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」という意味のことが記されている。ここでいう「天皇即位八年、庚辰之歳」は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位八年」とは即位の年から数えて8年目という意味である[1]。
持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。
こんにちは。
学習ジム・コーチの堀です。
今回は少し軽目の内容で。
中学・高校で子どもが苦手になる科目で
「古典」
があります。高校生でも相談にくるのが
「古典」
です。私の場合は特に
「古典で覚えること」
が苦手でした。いえ、少し嫌いでした。
というのは
「昔の言葉を覚えてどうなるの?」
と今の高校生が言うような気持ち
だったからです(笑)
ですが、取り組みやすい本を読んだ
りしていくといろいろ面白いことがわ
かります。
ですが、それでも
「覚えないといけないこと」
があってそれは苦手です。特に
「百人一首」
はだめでした。
私の高校では冬休みの宿題に
「百人一首の暗記」
というものがあり、しかも休み明けにテ
ストまでついていました。
「追試の得点は40点」
だったので、
「40首だけ」
覚えた記憶があります。
今は便利です。
以下のようなサイトがあるので
これを利用して覚えたらいいと思います。
1番上はお勧め。
2番目は商品を売っているので商品の
内容は私も知らないので注意が必要です。
百人一首覚え方サイト
http://seiseki110.info/neo/r.php?rqktibrd67p
中学受験の塾選び
http://seiseki110.info/neo/r.php?5k5-ibrd67p
林 直道(はやし なおみち、1923年3月31日 - )は、日本のマルクス経済学者、百人一首研究家、大阪市立大学名誉教授。
1923年、大阪市に生まれる。1946年大阪商科大学卒。1977年野呂栄太郎賞受賞。1964年大阪市立大学教授、1974年「景気循環の研究」で大阪市大経済学博士。1983年同名誉教授、大阪経済法科大学教授。[1]専門は、恐慌論、日本経済論。関西勤労者教育協会副会長。百人一首について歌織物説を唱える。
目次
著書
編集
『西田哲学批判』解放社 1948
『マックス・ウェーバーの思想体系』青木文庫 1952
『景気循環の研究』三一書房(1959年)
『帝国主義論 原典解説』青木書店 1965 マルクス=レーニン主義入門叢書
『経済学入門』汐文社 解放新書 1969
『経済学 下(帝国主義の理論)』新日本新書 1970
『史的唯物論と経済学』大月書店(1971年)
『国際通貨危機と世界恐慌』大月書店(1972年)
『史的唯物論と所有理論』大月書店(1974年)
『フランス語版資本論の研究』大月書店(1975年)
『恐慌の基礎理論』大月書店(1976年)
『現代の日本経済』青木書店(1976年)
『経済学入門』青木書店(1981年)
『百人一首の秘密-驚異の歌織物』青木書店(1981年)
『百人一首の世界』青木書店(1986年)
『嵐の中の青春 山宣・河上・野呂・片山潜の思想と生き方』学習の友社 1990
『日本歴史推理紀行』青木書店 1991
『日本経済をどう見るか』青木書店(1998年)
『恐慌・不況の経済学』新日本出版社(2000年)
『強奪の資本主義 戦後日本資本主義の軌跡』新日本出版社 2007
共著編
編集
『帝国主義のはなし』梅川勉共著 学習の友社 学習文庫 1970
『マルクス主義経済学の擁護 宇野弘蔵氏の学説の検討』見田石介,横山正彦共編著 新日本出版社 1971
『日本経済 そのあゆみと現状』共著 東研出版 1984 高校生のための現代社会
『現代資本主義論集』編 青木書店 1994
翻訳
編集
マルクス『資本論第1巻フランス語版 第7篇「資本の蓄積」・第8篇「本源的蓄積」』編訳 大月書店 1976
百人一首、歴史推理関連論文
編集
「金座・銀座研究序説」『大阪経法大論集』(1992年)
「飛鳥の二つの酒船石」『経済』(2000年1月)
「勅撰和歌集の言葉連鎖について」(『国文学・解釈と鑑賞』1983年1月号)
「藤原定家の遊びの文芸」(東京大学出版会『UP』1982年9・10・11月号)
「秘宝三十六歌仙絵巻と百人一首」(『科学と思想』第52号)
「隠されたラヴレター小倉百人一首」(『芸術新潮』1987年3号)
「隠岐後鳥羽院と『百人一首』の秘密」(『北東アジア研究』第6号 島根県立大学地域研究センター)
注
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[ヘルプ]
^ 『現代日本人名録』2002年
関連項目
編集
歌織物説
全然関係ないが百人一首の画期的な解釈をした林氏はマルクス研究家でもある
資本論フランス語初版についての必読書を書いた人だ
百人一首解釈にマルクス再生産表式読解が役に立ったと書いている
林直道氏『百人一首の秘密-驚異の歌織物』における試み:
http://www8.plala.or.jp/naomichi/hyakushu/utaorimono.html
http://www8.plala.or.jp/naomichi/hyakushu/ezu.html
まとめサイト:
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/144788199.html
歌織物説:
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E7%B9%94%E7%89%A9%E8%AA%AC
簡単に書くと百人一首100首が10×10の升目に埋まるという
各歌の上下左右は関連語句で連鎖している
http://3.bp.blogspot.com/-wHzKXPFcfiw/T00os4f8oNI/AAAAAAAAGdg/F0qfwUTkF_4/s1600/hyakuninnhaitizu.jpg
藤原定家による世界文学史上最大の言葉遊び、最大の謎だと思う
それをマルクス研究者が解いた
http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2017/01/01/013532
「万葉集にも百人一首にもある歌」
万葉集にも百人一首にもある歌は次の四首(推定を含めて).どのサイト・本も内容は同一なので,最終的には普段あまり参照としない質問サイトの答百人一首の中に万葉集のうた?は含まれてますか... - 文学、古典 | Yahoo!知恵袋を少しだけ変えた形でお借りして掲載します.とても親切な回答なので.
質問:百人一首の中に万葉集のうた?は含まれてますか?あれば教えてください!
回答
「万葉集」から”選ばれた歌”はありません.ですが,元歌が万葉集に存在する歌はあります.「百人一首」は勅撰集(天皇や上皇の命によって編纂された)から抜粋する方針で編まれていますので,“万葉集から選んだ”というわけではなく,時代とともに変化した万葉歌が勅撰集に収録され,それを百人一首に選んだという具合です.
f:id:yachikusakusaki:20170101012713j:plain
小倉百人一首の全首を見る|小倉百人一首殿堂 時雨殿
持統天皇と山部赤人の作品は,「新古今集」から選ばれていますが,その元歌は万葉集にあります.但し表現がやや異なっています.
持統天皇
【春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山】(百人一首)
【春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 衣干したり 天の香久山】(万葉集)
山部赤人
【田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ】(百人一首)
【田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士(不尽)の高嶺に 雪は降りける】(万葉集)
柿本人麻呂
【あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む】(百人一首)
:「拾遺和歌集」で柿本人麻呂歌とされた歌
【あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む】(万葉集) 作者未詳歌と同じ表現:万葉集巻十一‐2802番歌「思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を」の「或る本の歌に曰はく」にある.
天智天皇
【秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ】(百人一首)
:「後撰和歌集」で天智天皇とされた歌
【秋田刈る 仮庵を作り 我が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける】(万葉集)巻十-2174 作者未詳歌が元歌と指摘されています.
百人一首と万葉集(1)「百人一首って?」「いつ頃からカルタとりが始まったの?」「なぜ万葉集の歌が選ばれているのか?勅撰和歌集から選ばれているはずなのに!」「万葉集にも百人一首にもある歌」
日々の疑問・探索 写すだけ万葉集
新年ですね.私は喪に服しておりますが,少しでも良い方向に向かうよう,向けるような一年でありますように.
正月はじめのブログ.百人一首に取りあげられている万葉集の歌を取りあげたいと思いましたが---.
その前に分からないことをはっきりさせてから.とても基本的な知識なのでしょうが,私にとってははっきりしないことだらけ.
「百人一首って?」「いつ頃からカルタとりが始まったの?」
f:id:yachikusakusaki:20170101011541j:plain
ホントの名前は小倉百人一首,選者藤原定家の名前ぐらいは浮かんでくるのですが---
あとはほとんど何も知りませんでした.ウェブ上にも百人一首についてのサイトがいくつもあります.次の二つはきれいにまとめられているサイトです.
1. 小倉百人一首、基本の「き」|小倉百人一首殿堂 時雨殿
ここには検定サイトもあります.
f:id:yachikusakusaki:20170101011627j:plain
2. 百人一首の歴史
「百人一首って?」
上記のウェブサイトにも「小倉百人一首とは」の記載がありましたが----.少し難い言葉での説明ですが,素性の知れた情報であることを優先して日本国語大辞典(小学館)の記載を引用します.歴史的な事項については,ウェブ上の情報がいい加減だった経験が何回かあるので(上記二つのサイトがいい加減ということではありません.私の見る限りではしっかりした内容のように思えます)
小倉百人一首:藤原定家が宇都宮頼綱(蓮生)の依頼で,蓮生の小倉山麓中院の山荘の障子に貼る色紙形の和歌として選んだといわれる100首の歌.天智天皇から順徳天皇までの,百人の歌人の秀歌を一首ずつ集めたもので,近世以降,歌ガルタとして広まった.定家が選んだ100人の秀歌を,後年その子為家が改訂したものが今日伝わるものであるともいう.小倉百首.
障子(襖:ふすまとか屏風としているサイトもありましたが)に貼る色紙なんて,イイですね.天智天皇〜順徳天皇の歌とありますが,他のサイトでは「勅撰和歌集:天皇の名で編纂された和歌集」から集めたとの記載も.
100首の内訳について百人一首の歴史によれば.
古今集24首,後撰集7首.拾遺集11首,後拾遺集14首,金葉集5首,詩花集5首,千載集14首,新古今集14首,新勅撰集4首,続後勅撰集2首
ということは,万葉集の歌が百人一首に入っているのか分からなくなりますね.「なぜ万葉集の歌が選ばれているのか?」も疑問としましょう.
''歌ガルタとして広まった''という記述は重要ですね.歌を鑑賞するというより,カルタとりのために広まったということでしょうから.
「いつ頃からカルタとりが始まったの?」
この疑問については,「歌ガルタ」語誌(語史に同じ:語源や語形・語義・用法の変化)に記載がありました.
歌ガルタ(歌骨牌):(カルタはポルトガル語carta)----------*(浮世風呂1809-13の使用例の記載)のあとの語誌には
「室町時代に行われたとみられる歌貝にウンスンカルタが影響して生じたもの.古今和歌集・伊勢物語・源氏物語などの歌を用いたものから,元禄ごろに小倉百人一首を用いたものに代わり,これが一般化した」とありました.
(九州国立博物館:ウンスンカルタ)
「元禄以降」なんですね.他のサイトでも元禄ごろよりとあります.
「なぜ万葉集の歌が選ばれているのか?」勅撰和歌集から選ばれているはずなのに!
この答は''勅撰和歌集に万葉集の歌が選ばれているから''という割と簡単な理由でした.でも,これが,万葉集の歌と百人一首の歌が,同じ歌なのに細部が異なったり,時には作者が異なっていたりする理由なんですね.勅撰和歌集に選んだ時点ですでに「細部が異なったり,時には作者が異なっていたりする」というわけです.
「万葉集にも百人一首にもある歌」
万葉集にも百人一首にもある歌は次の四首(推定を含めて).どのサイト・本も内容は同一なので,最終的には普段あまり参照としない質問サイトの答百人一首の中に万葉集のうた?は含まれてますか... - 文学、古典 | Yahoo!知恵袋を少しだけ変えた形でお借りして掲載します.とても親切な回答なので.
質問:百人一首の中に万葉集のうた?は含まれてますか?あれば教えてください!
回答
「万葉集」から”選ばれた歌”はありません.ですが,元歌が万葉集に存在する歌はあります.「百人一首」は勅撰集(天皇や上皇の命によって編纂された)から抜粋する方針で編まれていますので,“万葉集から選んだ”というわけではなく,時代とともに変化した万葉歌が勅撰集に収録され,それを百人一首に選んだという具合です.
f:id:yachikusakusaki:20170101012713j:plain
小倉百人一首の全首を見る|小倉百人一首殿堂 時雨殿
持統天皇と山部赤人の作品は,「新古今集」から選ばれていますが,その元歌は万葉集にあります.但し表現がやや異なっています.
持統天皇
【春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山】(百人一首)
【春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 衣干したり 天の香久山】(万葉集)
山部赤人
【田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ】(百人一首)
【田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士(不尽)の高嶺に 雪は降りける】(万葉集)
柿本人麻呂
【あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む】(百人一首)
:「拾遺和歌集」で柿本人麻呂歌とされた歌
【あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む】(万葉集) 作者未詳歌と同じ表現:万葉集巻十一‐2802番歌「思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を」の「或る本の歌に曰はく」にある.
天智天皇
【秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ】(百人一首)
:「後撰和歌集」で天智天皇とされた歌
【秋田刈る 仮庵を作り 我が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける】(万葉集)巻十-2174 作者未詳歌が元歌と指摘されています.
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小野 篁(おの の たかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は、平安時代前期の官人、学者、歌人。参議小野岑守の子。官位は従三位・参議。異名は「野相公」「野宰相」、その反骨精神から「野狂」とも。
エピソード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%AF%81#.E4.BB.A3.E8.A1.A8.E6.AD.8C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E5%AD%90%E5%AD%90%E5%AD%90%E5%AD%90%E5%AD%90
%E5%AD%90%E5%AD%90%E5%AD%90%E5%AD%90%E5%AD%90%E5%AD%90
子子子子子子子子子子子子
子子子子子子子子子子子子は、日本の言葉遊びである。「ねこのここねこ、ししのここじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と読む。この問題を考え出したのは嵯峨天皇、解いたのは小野篁であると伝えられている。
嵯峨天皇の時代、内裏に「無悪善」と書いた立て札が立てられた。天皇が篁に読み方を尋ねたところ「さが(悪)なくてよからん(嵯峨天皇がいなければよいのに)」と読んだため、読めたのは篁が書いたために違いないとして怒った天皇は、自分は何でも読めるのだと弁明する篁に「子」の字を12個連ねたものを篁に差し出し。「ならば、これが読めるか」と問うたところ、「ねこのここねこ、ししのここじし」とたちどころに読んだため、天皇の怒りが解けたという[1]。
解説と成立時期 [編集]
「子」という漢字には、「ね」(訓読み、十二支から)、「こ」(訓読み)、「し」(音読み、呉音及び漢音)、「じ」(「し」の変化形)の4通りの読み方がある。このため、このような読み方が可能となる。篁の機転をあらわす話であるといえる。
この話の初出は宇治拾遺物語(1213年-1221年頃成立)の巻第三の十七「小野篁広才の事」である。 前半の「無悪善」のくだりは平安時代後期の江談抄の第三(1104年-1108年ごろ成立)が初出で、十訓抄(1252年成立)の第七などにも出てくる[2]が、後半の話は「子子子子子子子子子子子子」ではなく「一伏三仰不来待書暗降雨恋筒寝」(月夜には来ぬ人待たるかきくもり雨も降りなん恋いつつも寝ん)となっている。 このため、元からあった「無悪善」の話に、宇治拾遺物語の成立した鎌倉時代初期までに「子子子子子子子子子子子子」の話が付け加えられたと考えられる。
脚注 [編集]
[ヘルプ]
^ 「日本古典文学全集28 宇治拾遺物語」 昭和62年5月30日第十六版 小学館 小林智昭訳p165
^ 「日本古典文学全集28 宇治拾遺物語」 昭和62年5月30日第十六版 小学館 小林智昭訳p165
6:38 午後
Blogger yoji said...
小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいる。
若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し学業に励んだとされる。弘仁13年(822年)文章生に補せられ、大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下に叙せられた。翌天長10年に仁明天皇が即位し、淳和上皇の皇子恒貞親王が皇太子になると、東宮学士に任ぜられた。
承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使藤原常嗣の専断に憤慨しいさかいを起こし、病気と称して乗船を拒否(遣唐使は篁を残して同年6月渡海)する。さらに、「西道謡」という朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪の上隠岐への配流に処された。のち承和7年(840年)2月許されて帰京・本位に復す。
その後も蔵人頭・左中弁と要職を歴任。承和14年(847年)には参議として公卿に列した。仁寿2年12月(853年1月)従三位に叙せられるがまもなく薨じた。
人物 [編集]
『令義解』の編纂にも深く関与する等法理に明るく、政務能力に優れていた。一方で漢詩文では平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』や『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。また和歌にも秀で、『古今和歌集』以下の勅撰和歌集に18首が入首している。
6:40 午後
Blogger yoji said...
小野篁を隠岐の島に流した嵯峨天皇は第52代天皇、光孝天皇(58代)の祖父
6:45 午後
Blogger yoji said...
「嵯峨天皇」空海の最大の庇護者
www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage65.htm - キャッシュ
大極殿で朝の仕事を終えた嵯峨天皇は、この日、空海を呼んで、午餐を共にしながら楽しい日を過ごそうとした。 「マダ、コンカ」嵯峨天皇は白砂の庭でぶらついている。そのとき沓(くつ)の音がする。 「空海カ」 「シバクデゴザイマス」そういって空海は中国風の椅子 ...
第12回 嵯峨天皇と最澄、空海
www.uraken.net/rekishi/reki-jp12.html - キャッシュ
804年, 空海、最澄、橘逸勢らが唐へわたる。 806年, 平城天皇が即位。 809年, 嵯峨天皇が即位。 809年, アッバース朝の最盛期を築いたカリフ、ハールン・アッラシードが病没。 810年, 嵯峨天皇、蔵人所を設置。また、薬子の変が起こる。 812年, 最澄が ...
嵯峨天皇(786-842)
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この乱の一連の進行の過程で、嵯峨天皇のそばにあってブレインとして活躍 したのが、当時唐から戻ったばかりの空海(弘法大師)で、その功により天皇 は空海を深く信任するに至ったといわれています。
空海の擁護者が小野篁を迫害した
桜流し
宇多田ヒカル
映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」主題歌
作曲︰Utada Hikaru|Paul Carter
作詞︰Utada Hikaru
歌詞
開いたばかりの花が散るのを
「今年も早いね」と
残念そうに見ていたあなたは
とてもきれいだった
もし今の私を見れたなら
どう思うでしょう
あなたなしで生きてる私を
Everybody finds love
In the end
あなたが守った街のどこかで今日も響く
健やかな産声を聞けたなら
きっと喜ぶでしょう
私たちの続きの足音
Everybody finds love
In the end
もう二度と会えないなんて信じられない
まだ何も伝えていない
まだ何も伝えていない
開いたばかりの花が散るのを
見ていた木立の遣る瀬無きかな
どんなに怖くたって目を逸らさないよ
全ての終わりに愛があるなら
Oo歌詞 http://www.littleoslo.com/lyj/home/2012/11/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E7%94%B0%E3%83%92%E3%
82%AB%E3%83%AB-%E6%A1%9C%E6%B5%81%E3%81%97/
10:11 午前
http://etext.virginia.edu/etcbin/ot2www-japanese?specfile=/web/data/japanese/search/japanese.o2w&act=text&lang=jp&offset
=2697176&textreg=0&query=%CB%F6%A4%CE%BE%BE%BB%B3&query2=&id=Ano14Go
Goshui wakashu Book 14
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清原元輔
心變り侍りける女に、人に代りて
契りきなかたみに袖をしぼりつゝ末の松山浪こさじとは
_______
Kokin wakashu
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326
ふぢはらのおきかぜ
寛平御時きさいの宮の哥合のうた
浦ちかくふりくる雪は白浪の末の松山こすかとぞ見る
6:26 午前 削除
◆D. 百人一首絵抄 八十四番 俊恵法師 / 一陽斎豊国
佐野喜
【寄別2-3-2-1】国立国会図書館デジタルコレクション
折り鶴を折っている様子が描かれており、膝元には紙で折った箱も見えます。
百人一首絵抄 八十四番 俊恵法師
番号はズレる
八十五 夜もすがら 物思ふころは 明けやらで
閨のひまさへ つれなかりけり
(よもすがら ものおもふころは あけやらで
ねやのひまさへ つれなかりけり)
(愛しいあなたがいらっしゃらないせいで)一晩中、物思いにふけっているこの頃は、夜がなかなか明けようとしないで、(つれないのはあなただけではなく)寝室の隙間さえもがつれなくしているみたいです。☆ 俊恵法師
(しゅんえほうし)
俊恵 1113~? 平安後期の歌人。源俊頼 74 の子。経信 71 の孫。東大寺の僧であったが、経歴の詳細は不明。鴨長明の歌の師。僧坊の歌林苑で歌会を開催。平安後期歌壇の中心人物の一人。
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