金曜日, 4月 08, 2016

『哲学とは何か』ドゥルーズ Deleuze-Guattari:Qu'est-cequelaphilosophie ?1991

             (リンク::::::::::ドゥルーズ体系)
『哲学とは何か』ドゥルーズ Deleuze-Guattari:Qu'est-ce que la philosophie ? 1991
http://nam-students.blogspot.jp/2016/04/deleuze-guattariqu-que-la-philosophie.html(本頁)
NAMs出版プロジェクト: Quantum economics - Wikipedia (量子経済学,ベルナール・シュミット)
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/quantum-economics-wikipedia.html
ブラックホール(trou noir)と暗き先触れ(précurseur sombre):ドゥルーズ(メモ)
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/50-rue-de-varenne-supplemento-italo.html
NAMs出版プロジェクト: 道元(1200~1253):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/blog-post_8.html
ドゥルーズのABC…"アベセデー ル"("Abécédaire"deGilleDeleuze1988–1989)
http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/abecedaire-de-gille-deleuze.html#z
L'Image-Mouvement. Cinema1
http://projectlamar.com/media/Gilles-Deleuze-Cinema-1-The-Movement-Image.pdf (en)
L’Image-temps. Cinéma 2
https://monoskop.org/images/8/85/Deleuze_Gilles_Cinema_2_L_Image-temps.pdf (fr)


ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日)

ドゥルーズ体系:     分子化
      スピノザ 【 分 析 】 プラトンカント ベーコン
     Hegel\   |   /Heidegger
           千のプラトー
        ライプニッツ| ベルクソン
          ABC\|/
 【規定】差異と反復ーーーシネーーー意味の論理学【反省】カフカ
             /|\     [修辞学]
        フーコー/ | (ヒューム
       (Marxアンチ Freud      フロイト 
          /・オイディプス

      サルトル 【 総 合 】 ニーチェ     プルースト
           哲学とは何か?

             潜在的 
           実在的+可能的  
             現働的 

             virtualité
           réalité+possibilité
             actualité

千のプラトーをアンチ・オイディプスに対して潜在的なものと考え、
分析を分子化として捉え直したところが味噌だ。

芸術という一つの内在平面に複数のオピニオンの共存がある。

#2
《ここで生じてくる多くの問題は、哲学史ばかりでなく哲学にもかかわっている。内在平面のもろもろの薄層は、或る場合には、互いに対立するほどまでに、また そのひとつひとつがあれこれの哲学者に適合するほどまでに、たがいに離れ、或る場合には反対に、少なくともかなり長い期間通用するようになるために寄り集まる。そのうえ、ひとつの前・哲学的平面〔内在平面〕の創建と、哲学的諸概念の創造とのあいだの関係は、それら自身複雑なものである。長期間にわたって、 いく人かの哲学者は、おのれの師として援用するひとりの先行的な哲学者と同じ平面の上にとどまりながらも、また彼と同じイメージを前提としながらも、いくつかの新たな概念を創造することができるー(以下略) 》
『哲学とは何か』ドゥルーズ 邦訳単行本84頁より  

《Nous n’apprenons rien avec celui qui nous dit: fais comme moi.
Nos seuls maîtres sont ceux qui nous disent ‘fais avec moi’ et
qui, au lieu de nous proposer des gestes à reproduire, surent
émettre des signes à développer dans l’hétérogène. 》
(Deleuze, Gilles 1968 Différence et répétition)

《わたしたちは、「私と同じようにやれ」と言う者からは、何も学ぶことはない。
わたしたちにとっての唯一の教師は、わたしたちに対して「私と共にやりなさい」
と言う者であり、この教師は、わたしたちに、再生すべき所作を提示するかわりに、
異質なもののなかで展開するべきいくつかのしるし(signe)を発することのでき
る者なのである。》
(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳、単行本49頁、文庫上74-5頁より)

U/ABC
http://nam-students.blogspot.jp/2015/12/abecedaire-de-gille-deleuze_10.html#u
哲学はコミュニケ一ションとは 関係がないんだ
コミュニケ一ションは それだけで充足している
そこでは哲学と全く関係のない 意見の合致や質問の技術が問題となる
哲学とは概念の創造であって コミュニケ一ションではない
芸術はコミュニケ一ションでも 反省でもない
芸術に科学に哲学 これらはすベて一
観照でも反省でも コミュニケ一ションでもなく創造だ
その定式がnマイナス1 だ 一者や普遍を消し去ること

多様体(たようたい、manifoldMannigfaltigkeit)とは、局所的にはユークリッド空間と見なせるような図形や空間(位相空間)のことである。多様体上には好きなところに局所的に座標を描き込むことができる。


 『哲学とは何か』ドゥルーズ Deleuze-Guattari:Qu'est-ce que la philosophie ? 1991
 http://nam-students.blogspot.jp/2015/12/Deleuze-Guattari-Quest-ce-que-la-philosophie.html

http://nam-students.blogspot.jp/2015/12/Deleuze-Guattari-Quest-ce-que-la-philosophie.html
Qu'est-ce que la philosophie ?  1991
http://www.leseditionsdeminuit.fr/livre-Qu_est_ce_que_la_philosophie__-2024-1-1-0-1.html
http://www.leseditionsdeminuit.fr/f/index.php?sp=liv&livre_id=2316
Gilles Deleuze
Félix Guattari

208 p.     
Qu'est-ce que la philosophie ?
2005
Introduction. Ainsi donc la question.

I - PHILOSOPHIE
1. Qu'est-ce qu'un concept ?
2. Le plan d'immanence.
3. Les personnages conceptuels
4. Géophilosophie.

II - PHILOSOPHIE, SCIENCE LOGIQUE ET ART
5. Fonctifs et concepts.
6. Prospects et concepts.
7. Percept, affect et concept.

Conclusion. Du chaos au cerveau.

Qu'est-ce que la philosophie ?
1991,2005
http://www.leseditionsdeminuit.fr/f/flip.php?editor=3&livre_id=2316


NEOACA BLOG: ネオアカ読書会 第1回ドゥルーズ『哲学とは何か』邦訳1997,2007年
http://neoaca.blogspot.jp/2012/10/blog-post_30.html

目次
序論 こうして結局、かの問は・・・・・・
Ⅰ 哲学
1 ひとつの概念とは何か
2 内在平面
3 概念的人物
4 哲学地理 *

Ⅱ 哲学 -科学、論理学、そして芸術
5 ファンクティヴと概念
6 見通しと概念
7 被知覚態、変様態、そして概念

結論 カオスから脳へ

全体の構成は、

56科学__芸術7
    \/3
    哲学124
     8
あるいは、

 科学5______芸術7
論理学6\    /
     1  2美術
      \/3小説
      哲学4
        8


カントと違い哲学が科学と芸術を繋ぐ(差異化であり総合ではない)。
後半部はABCと内容が重なる。

#1
デカルト47

#2(邦訳文庫100~103)
参考:
ドゥルーズ、ティンゲリー、宮崎駿 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/51717849.html


Jean Tinguely Museum in Basel

哲学者のドゥルーズが、ほぼ遺作となった著作のなかで、動く彫刻群↑で知られるティンゲリーの「哲学者たち」シリーズについて触れています。
ドゥルーズはその連作にティンゲリーの作品の中ではそれほど高い評価を与えているわけではありませんが、ティンゲリーの造る動くオブジェとドゥルーズの連結していくテクストのイメージはかなり近いと思われます。
ちなみにティンゲリーの動く彫刻は宮崎駿の『ハウルの動く城』↓にも似ています。
http://jp.youtube.com/watch?v=VfjnVV4uDHM&feature=related
同時性を連結した装置として体験させる手法はこの三者に共通しているかも知れません。

以下引用です。

《最近、ティンゲリーが、哲学者たちの記念碑的な機械状の肖像をいくつか展示した。それらは、音と、閃光とによって、さらには湾曲した複雑な平面に即した存在の質料および思考のイメージとによって、連言的もしくは選言的な、そして折り畳まれることと広げられることが可能な、様々な力強い無限運動を遂行する作品である。しかし、かくも偉大な芸術家にいささか批判の言を呈してよいとするなら、彼の試みは、いまだ完成の域に達していないように思われる。ティンゲリーは、『ニーチェ』以外の作品においては、たいへんうまくもろもろの機械をダンスさせることができたにもかかわらず、作品『ニーチェ』においては、何もダンスをするものがない。〔根拠律の〕四つの《根》すなわちマーヤのヴェールは、意志と表象としての世界という二面的な平面をいまにも占拠してしまいそうに見えていたのに。作品『ショーペンハウアー』は、わたしたちに、決定的なものは何も与えてくれない。作品『ハイデガー』は、まだ思考をおこなっていない思考の平面の上で、(隠蔽性・非隠蔽性〔真理性〕)をまったく保持していない。機械として描かれる内在平面と、その機械の部品として創造される諸概念に、おそらくいっそうの注意を向ける必要があったのだろう。そのような観点からすれば、かの錯覚を含むカントの機械状の肖像を思い描くことができるだろう(前ページの図を見られたい)。

カント、ドゥルーズ


(画像はドゥルーズがティンゲリーをまねて描いたと思われるカントの「機械状の肖像」。クリックすると拡大します。)





 1-音響装置をつけて、《自我》《自我》と絶えず反復する、牛の頭部をそなえた「私は思考する」。 2-普遍概念としてのカテゴリー(四つの大きな表題)、この図では、3の円運動に応じて外に伸びたり引っ込んだりする四つの軸。 3-〔超越論的〕図式の可動式の車輪。 4-それほど深くない水の流れ、すなわち、図式の車輪がそこに潜ったりそこから浮上したりするその内面性の形式としての《時間》。 5-外面性の形式としての《空間》、この図では、岸と底。 6-それら二つの形式の接合としての、流れの底にある、受動的自我。 7-時空を走り抜ける総合判断の諸原理。 8-《私》に内在する、可能的経験の超越論的野(内在平面)。 9-三つの《理念》、あるいは超越の錯覚(絶対的地平において回転する円環、《魂》、《世界》、《神》)。

 ここで生じてくる多くの問題は、哲学史ばかりでなく哲学にもかかわっている。内在平面のもろもろの薄層は、或る場合には、互いに対立するほどまでに、またそのひとつひとっがあれこれの哲学者に適合するほどまでに、たがいに離れ、或る場合には反対に、少なくともかなり長い期間通用するようになるために寄り集まる。そのうえ、ひとつの前・哲学的平面〔内在平面〕の創建と、哲学的諸概念の創造とのあいだの関係は、それら自身複雑なものである。長期間にわたって、いく人かの哲学者は、おのれの師として援用するひとりの先行的な哲学者と同じ平面の上にとどまりながらも、また彼と同じイメージを前提としながらも、いくつかの新たな概念を創造することができるー(以下略) 》

『哲学とは何か』ドゥルーズpp82-84より 



ちなみに下はティンゲリーが制作したプルードンです。
プルードンティンゲリーサムネイル



jean tinguely
les Philosophes
1999
p27より


ティンゲリークロポトキン
哲学者シリーズ
クロポトキン



Jean Tinguely



Martin Heidegger

Philosopher
1988



#3
カント135

#4
ハイデガー163

#5
カオス207

#6
ゲーデル、論理学233

#7
Roberto Rossellini Le cinéma révélé - Cahiers du Cinéma
www.cahiersducinema.com/Roberto-Rossellini-Le-cinema.html
Les grands entretiens de Roberto Rossellini Si Rossellini est considéré avant tout dans l'histoire du cinéma comme le père du néoréalisme, c'est aussi le cinéaste qui a inventé le cinéma moderne avec des films comme Stromboli, Voyage en ...
Amazon.co.jp: Roberto Rossellini: 本
www.amazon.co.jp/...Roberto-Rossellini/s?...27%3ARoberto%...
... 結果 本 : "Roberto Rossellini" ›. キャンセル. 商品の詳細 · ロッセリーニの自伝に近く . 1994/7. ロッセリーニ,ロベルト、 ロンコローニ,ステファノ ... Le cinema revele. 2006/1/ 12. Roberto Rossellini · マスマーケット · ¥ 2,302中古 & 新品(6 出品) · 商品の詳細 ...
ドゥルーズ哲学とは何か文庫286頁、384頁参照

芸術の幼稚症と残酷さ 『哲学とは何か?』ドゥルーズ文庫版286頁

邦訳としては、『作家主義』(リブロポート,1985)掲載のカイエデュシネマ、ロメールらによる1963年のインタビューと思われる。
149頁
(ロセリーニ私の方法にも複数のインタビューがあるがそれではない)


ロッセリーニ
「われわれはこうした小児性を、ヌーヴォー・ロマンのなかで見た...。芸術というのは
今日では、不満か残酷かのどちらかでしかない。」
(1963年ロメール等によるインタビューより。
Le cinema revele. 2006/1/ 12. Roberto Rossellini 参照、 (Le cinéma révélé 2008,p.120)
邦訳『作家主義』1985年リブロポート,150頁)
『作家主義―映画の父たちに聞く』奥村昭夫訳 1985/11
http://www.amazon.co.jp/dp/4845701855
http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/sakka.main.html

ドゥルーズ『哲学とは何か』文庫版286頁参照


mais, dans ce cas , vous attaquez tout l'art contemporain,(2008:p.120)
je m'explique. pour qu'un art,(p.122)

作家主義―映画の父たちに聞く: Jean Renoir, 奥村 昭夫: 本

 1985/11

http://www.amazon.co.jp/dp/4845701855
http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/sakka.main.html

#7
ダニ313

最も重要なドゥルーズ評はフーコーと柄谷のものだ

      観 念
       :
      普遍性
       |
概  一   |   特
 ・・般___|___殊
念  性   |   性
       |
      単独性

(柄谷行人『探究2』より)

《たとえば、ドゥルーズは、キルケゴールの反復にかんして、「反復は、単独なものの普遍性
であり、 特殊なものの一般性としての一般性と対立する」といっている(『差異と反復』)。つま
り、彼は特殊性 (個)ー一般性(類)の対と、単独性ー普遍性の対を対立させている(図参照)。
だが、すでに明らかなように、 これはスピノザが概念と観念を区別したのとほとんど同じことである。》
(柄谷行人『探究2』文庫版150頁)

《…わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりでの一般性と、 特異(サンギュリエ)な ものに関する普遍性としての反復を対立したものとみなす…》
http://blog.livedoor.jp/captainahab/archives/50551139.html
(『差異と反復』邦訳単行本20頁、文庫上22頁)
(『トランスクリティーク』定本版単行本156頁、文庫150頁)



ドゥルーズはマイナー文学を自覚し、生成しようとしているのだから文学だというのは
批判にはならない。例えば聖書も文学に入る。歴史自身が文学と考えられ得る。
マイナー文学ではないからドゥルーズの賛美の対象にならないが。

論理学は心理学を扱い損ねているが、文学には一日の長がある。

ここで本質的なのは多分ドゥルーズの文章を読む読解力の無さだとか、ドゥルーズのテキストを
読もうとしない怠惰さだとか、買えないという貧しさだとか、といったものではない。
出来事への無理解が本質だ。
それはアナーキズムやマルクス主義といった政治的事象への無理解に直結する。
簡単に言えば、アナーキズムは自主管理を意味するからスピノザの内在的な神の理解が、
政治体制への視角につながる。ドゥルーズはこの点、スピノザの再評価において第一に哲学史家
として偉大だ。つけくわえるならライプニッツはさらに複数の出来事の同時性、共存の把握につながる。
(ライプニッツはドゥルーズも引用したように、共存の理解において文学が有効だと気付いていた)

一と多が哲学史的に始めて結びついたわけだ。

さらにマルクス自身のスピノザ評は逆転させて読む必要があるだろう。
マルクスの体系自体がスピノザに含まれる。これはマルクスを内在的に再評価するうえで欠かせない視点だ。
マルクスを理解しない人がマルクスを賛美崇拝している。

ぜひシネマ1,2を読んでほしい。そこでは第二次大戦がはじめて歴史的に定位されているから。

___
#4:155マンダラ
(#2:67)^370道元

NAMs出版プロジェクト: 道元(1200~1253):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/blog-post_8.html

ドゥルーズ『哲学とは何か』の後半部はABCと内容が重なる。冒頭注のウィトへの記述から他者論としての認識が深まっているのもわかる。

また、#2の注で道元に触れている。


67頁
…概念としての出来事は、見える〈物の状態〉のなかで実現されるにせよ、まさにその絶対的地平のおかげで、当の〈物の状態〉から独立しているのだ。

《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)réserve」を引き合いに出している日本の僧、道元のテクストをも参照されたい。》(邦訳文庫版『哲学とは何か』(67^)370(394)頁)
We refer also to the Zen text of the Japanese monk Dôgen, which invokes the horizon or “reserve(蔵)” of events: Shôbogenzo, trans. and with commentary by René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980). ルネ・ド・セカティ,中村亮二 
Titre : Shôbôgenzô [Texte imprimé] : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen ; textes choisis, traduits et annotés par Ryôji Nakamura et René de CeccattyAlphabet du titre : latinAuteur(s) : 
Nakamura, Ryôji. Traduction. Notes
Ceccatty, René de (1952-....). Traduction. Notes
Date(s) : impr. 1980Langue(s) : françaisPays : FranceEditeur(s) : [Paris] : Ed. de la Diffèrence, impr. 1980Description : 1 vol. (159 p.) : 1 carte, couv. ill. ; 24 cm 
 ルネ・ド・セカティ,中村亮二

《…訳者は、そのほかにまた、日本思想に興味があるかとドゥルーズに尋ねてみた。ドゥルーズは、ちょっと困った顔をして、
はにかみながら「ドーゲンヌ?」と言って肩をすくめた。きっと「道元」を言わんとしたのであろう…》邦訳DR解説より
_____
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズのABC…"アベセデー ル"("Abécédaire"deGilleDeleuze1988–1989):
 http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/abecedaire-de-gille-deleuze.html#z



 では Wに移りましょう
Wは何もないだろう
 ウィ卜ゲンシュタインです
それについては話したくない
あれは哲学の崩壊だ
学派というもののいい例だろう
哲学の退化と言うほかない
ウィ卜ゲンシュタインに関わることは もう 本当に嘆かわしい
彼らが作ったのは恐怖の体系だ
”何か新しいことをする”
そういう口実で一
豪勢な箱の中に貧相なものが 詰め込まれている
あれは...
あの危険を言い表す言葉はないね
この危険はしょっちゅうあるものだ だが深刻な問題なんだ
ウィ卜ゲンシュタイン派というのは 本当にイヤな奴らなんだ
彼らは何もかもを壊してしまう
彼らが勝利をおさめたら まさしく哲学の殺害だ
彼らは哲学を殺害する暗殺者だ
 深刻ですね
そうだ
十分に注意しないとね
___________

X,Y
Xは未知数で一
Yは言葉にできません
ですから最後の文字に移ります
____________


 Zです
ああ いいね
“怪傑ゾロ”ではありません
 Zというと ゾロを思い出しますけれど
 そうではなくて
 進路変更やひらめきの話です
 偉大な哲学者の名前にはZの文字が
 禅 ツァラ卜ゥス卜ラ ライプニッツ スピノザ
 二一チェ ベルクゾン そしてもちろん ドゥルーズ
君は冗談が得意だね ベルクソンじゃなくてベルク ゾ ンとは
それに私についても 素敵なことを言ってくれた
Zはすばらしい文字だ ここからAに戻れる
ハエの話をしよう ハエの禅だ
ハエのジクサグの動き
Zはジグサグで しかもジグサグは最後の単語だ
ジグサグのあとは単語がない そこで終わるのはいいね
では Zでは 何が起こっているのか?
禅(Zen)という語は鼻(NeZ)という語の反対だね
これもジクサグ運動だ
あのハエのジグサグ運動とは 何なのか?
あれは世界の想像をつかさどった 最初の運動だ
最近私もみんなみたいに一
ビッグバンについての本を読んでいる
宇宙の創造とか 無限曲線といった話だ
ビッグバンは どうやって起こったか?
物事の起源にはビッグバンのような 大爆発などない Zがあるんだ
 ハエのZ そしてビッグバンということでしたが
そうビッグバンね
ビッグバンじゃなくてZのことを考えないといけない
Zというのは実際 禅であり一
飛んでいるハエの動きだが これはどういうことなのか?
ジグザクの話というのは 先ほど言っていた一
普遍の話と一緒だ
普遍などなく 特異性の集合だけがある
バラバラの特異性を どう関係づけるかが重要だ
物理学の用語で言うと 諸々の “ポテンシャル"をどう関係づけるか
ポテンシャルでいっぱいのカオスというのを想像できる
それらのポテンシャルを どう関係づけるか?
何という分野だったか思い出せないが とても気に入った用語があった
自分の本でも使ったんだが こんな話だ一
二つのポテンシャルの間で一
"暗き先触れ"と 呼ばれる現象が起こる
"暗き先触れ"は 異なったポテンシャルを関係づける
"暗き先触れ"の動きがあると一
二つのポテンシャルが反応し一
二つの間で 目に見える出来事が閃光を放つ
きらめきだ
"暗き先触れ”が まずあり 次いで きらめきが起こる
世界もこんな風にして生まれた
目には見えない 暗き先触れがあり一
そしてきらめきが照らし出す これが世界だ
思考というのはそういうものだし 哲学もそうだ
これが偉大なるZだね
禅の知恵もそうだ
賢者は"暗き先触れ"であり 次いで 棒の一撃がある
禅の師匠は棒の一撃を 配分することに時間を使う
棒の一撃はきらめきで あれが物事を見るのを可能にする
さて そろそろ終わりかな
 お名前にZが入っていて 嬉しく思われますか?
嬉しいよ
よし
 終わりです
このイン夕ビューができて とても満足だ
死後の公開だったね
 はい 公開はあなたの死後です
みんなどうもありがとう

道元、『正法眼蔵』
《Dは幾度か道元に触れているが、それは東洋思想へのオリエンタルな興味ではない。ヨーロッパで
スコラ哲学がハイブリッドに興隆しつつある時期を生きた道元は、自身、文化の国際的交通の中で
思考を育んだDは道元の、時は出来事を保存する蔵だという思考に共感する。時間とは、「諸々
の出来事の、各々の速度を通した視覚的な蔵である」(「シネマ2」)。「正法眼蔵」仏語版からのこ
の引用は「有時」第二〇節か。(松本潤一郎)
(河出文庫、他)》
『ドゥルーズ 没後10年、入門のために』2005,181頁

《時間とは「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」である。アントニオーニは「出来事の地平」について
語ったが、西欧の人間にとってそれは二重であって、同時に人間の凡庸な地平であり、また近づきがたく、
たえず遠のく宇宙論的地平なのだ。こうして西欧の映画はヨーロツパ的ヒューマニズムとアメリカ的S F
に分離する。S Fに関心をもたない日本人にこのようなことは起きないと彼は指摘していた。》
『シネマ2』#1原注28邦訳23頁^(28)

NAMs出版プロジェクト: Quantum economics - Wikipedia (量子経済学,ベルナール・シュミット)
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/quantum-economics-wikipedia.html


“Le trou noir et l’infini,” in Les dimensions de l’infini (Paris: Institut culturel italien de Paris, n.d.). 

Physique des trous noirs - Jean-Pierre Luminet
https://youtu.be/_ZF4HDCut1M
370頁

道元とともに地平線についての考察で言及されている。

67頁
…概念としての出来事は、見える〈物の状態〉のなかで実現されるにせよ、まさにその絶対的地平のおかげで、当の〈物の状態〉から独立しているのだ。

参考:
ブラックホール(trou noir)と暗き先触れ(précurseur sombre):ドゥルーズ(メモ)

BOMB Magazine — Deleuze: From A to Z by Rachel Kushner
http://bombmagazine.org/article/6452/deleuze-from-a-to-z
In the final section (“Zigzag”), he speaks of the Big Bang. “There is always a dark precursor that no one sees. And then the lightning bolt that illuminates, and there is the world. That’s also what thought must be, that’s what philosophy must be. That’s the great Z.” “Are you happy to have a Z in your name?” Parnet asks. “Ravi,” (delighted) he says, smiling broadly.


______

《『哲学とは何か』でドゥルーズ゠ガタリは、カントの「諸学部の争い」について、「フーコー、ハーバーマス、リオタールのそれぞれ非常に異なる注解によって今日そのまったき重要性を取り戻した」[QPh, 96,n. 13/三七五─三七六、注一三]との認識を示している。ドゥルーズ゠ガタリ自身は、カントの論考を、あるいは、フーコーによるその注解をどう読んだのか。「熱狂」へのフーコーの着眼を引き継いで、彼らは次のように論じている。  


近代の二つの大革命、すなわちアメリカ及びソビエトの革命があれほどひどい結果に終わったからといって、概念が自らの内在的な道を辿れないというわけではない。カントが指摘したように、革命概念は、必然的に相対的な社会野において革命が遂行され得るその仕方の中にあるのではなく、絶対的な内在平面の上で革命が思考される際のその「熱狂」の中にある。この「熱狂」を以てこそ、革命は、「いま‐ここ」における無限なものの提示として──理性的なものも、理にかなったものさえも一切含んでいない提示として──思考されるのだ。…絶対的脱領土化が新たな大地に、新たな人民に呼びかけるまさにその場において、革命はこの絶対的脱領土化なのである。[QPh, 96-97/一七三─一七四]…

ドゥルーズ゠ガタリは、フーコーによるカント注解において「人類の恒常的進歩の原因」とされていたものを「革命概念」と、「自分たちにふさわしい政体と戦争を回避する政体とへ向かうすべての人民の心的傾向」とされいたものを「絶対的脱領土化」(精確には、絶対的な内在的脱領土化)と、それぞれ呼び改めている。》


三つの革命より

_____

哲学とは何か 感想 ジル ドゥルーズ,フェリックス ガタリ - 読書メーターtakuro tanaka
https://bookmeter.com/books/6733


哲学とは何か。科学とは何か。芸術とは何か。

ナイス

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2015/01/27


内島菫

内島菫

「白痴」について調べたくて読んだ本。「白痴」とは、「前概念的内在平面と概念とのあいだで行ったり来たりする、中間的な、或る朧な存在」であり、「公的教授に対する私的思想家」である。「白痴」は、「ひとつの概念を、誰でもがそれぞれの立場で権利上所有している生得的な諸力によって形成」し、「思考することを欲し、『自然の光〔理性〕』によって、自分自身で思考する者」である。つまり、私の考える「感覚」に近いのではないかと感じた。しかもそれは、「起源」と重なるように見えるが、本来は、始まりや終わりと関係無いと思われる。

ナイス★5

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2013/09/28




_____

★二人はこう書きます。「哲学は、資本の相対的脱領土化を絶対的なものへと到達させる。哲学は、資本を、無限なものの運動としての内在平面のうえに移行させ、資本を、内的な限界としてのかぎりにおいて消去し、新たな大地に、新たな民衆に訴えかけるために、資本をそれ自身に反抗させるのである。しかしそうすることで、哲学は、概念の非命題的形式に、すなわち、コミュニケーション、交換、コンセンサス、そしてオピニオンこそがそこで絶滅する当の形式に到達する。したがってそれは、アドルノが「否定弁証法」と呼んだものに、またフランクフルト学派が「ユートピア」として指し示したものにかなり近いのである。実際、ユートピアこそが、哲学とその時代との、すなわちヨーロッパ資本主義との、しかしすでにまたギリシアの都市国家との接合をつくるのである。そのつどユートピアを携えてこそ、哲学は政治的なものに生成し、おのれの時代に対する批判をこのうえなく激しく遂行する」(171-172頁)。

★さらに続けてこう書きます。「ユートピアは無限運動から切り離しえない。ユートピアは、語源からして〔「どこにもない場所」を意味し〕、絶対的脱領土化を指すのだが、ただしつねに臨界点において――すなわち絶対的脱領土化が、現前している相対的な中間=環境と連結し、とりわけそうした中間=環境のなかで窒息した諸力を連結するようになる臨界点において――絶対的脱領土化を指す。ユートピア論者サミュエル・バトラーが用いた言葉「エレホン Erewhon」は、たんに《No-where》つまり「どこにもない」だけでなく、《Now-here》つまり「いま-ここ」をも指し示している。重要なのは、いわゆる空想的社会主義と科学的社会主義との区別ではなく、むしろ、様々なタイプのユートピアなのであって、革命はそのひとつである」(172頁)。

★さらにさらに続けて。「ユートピアという観念には(哲学においてもそうであるが)、つねに、超越を復活させてしまうおそれが、そしてときには、超越を尊大に肯定する態勢が存在する。したがって、権威主義的あるいは超越的ユートピアと、絶対自由主義的、革命的、内在的ユートピアを区別しなければならない。しかしまさにその点に関して言うなら、革命はそれ自身内在的ユートピアであると主張することは、革命はひとつの夢、何か実現されないものの、あるいは実現されれば必ず裏切られてしまうものであると主張することにはならないのだ。反対に、そう主張することは、革命を、内在平面、無限運動、絶対的俯瞰として定立することである。ただし、そうできるのは、これら〔三つ〕の特性が、資本主義に対する戦いのなかで、いまここに存在する現実的なものと連結するかぎりにおいてであり、また、それらの特性が、その戦いが裏切られるたびごとに新たな戦いを再開するかぎりにおいてである。ユートピアという言葉は、したがって、哲学あるいは概念と、現前している中間=環境との、以上のような接続を、すなわち政治哲学を意味している(とはいうものの、オピニオンによって与えられたゆがんだ意味からすれば、「ユートピア」はおそらく最良の言葉ではない)」(172-173頁)。

★現代日本において多方面に展開しつつある民衆的政治行動のその傍らに、D=Gもまた肩を並べて立っているに違いありません。「芸術が非芸術を必要とし、科学が非科学を必要としているように、哲学は、哲学を理解している或る非哲学を必要とし、非哲学的理解を必要としているのだ。〔…〕それら三つの《非》は、脳平面から見ればまだ区別があるのだが、脳が潜んでいるカオスから見ればもはや区別はない。脳がそのように潜んでいるということについて、こうも言えそうである――芸術が名づけるような、しかしまた哲学と科学もそう名付けるような、「来たるべき民衆」の影が、カオスから引き出されるのだ、と。民衆-団塊、民衆-世界、民衆-脳、民衆-カオス。〔…〕三つの《非》のなかに横たわっている非思考的思考。そこでこそ、哲学と芸術と科学が、あたかも、それらの異なった本性をつらぬいて拡がりながら絶えずそれらに付き従う同じ影を共有しているかのように、識別不可能なものへと生成」する(367頁)。

15 Comments:

Blogger yoji said...


ドゥルーズ『哲学とは何か』
結論
原注(12)ヒュームは、『人性論』において、この受動的観照-縮約による想像力を定義している(第一篇、第三部、第一四節)388頁^356頁

第十四節 必然的結合の観念について  こうして、われわれが直接の印象を越えて推論し、しかじかの特定の原因はしかじかの特定の結果を伴わねばならぬと断定する、その仕方を解明しおえたので、今度

「原因」とは、他の対象に先行し、かつ近接した対象であり、前者と結びついて、一方の観念が他方の観念を形作るよう、一方の印象が他方のより生き生きとした観念を形作るように心を規定するものである




846 :
2016/11/06(日) 20:49:45.42 0
ドゥルーズ体系: >>846改
             量子化
      スピノザ 【 分 析 】 プラトン、カント
          \   |   /  ハイデッガー
           千のプラトー>>590
    ライプニッツ  \ | /    ベルクソン
             \|/
 【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】
 >>440         />>796      >>782
       フーコー>>817| \          
      (Marx) アンチ \フロイト
          /・オイディプス>>853
      サルトル 【 総 合 】 ニーチェ
           哲学とは何か?
             ヒューム

             潜在的 
           実在的+可能的  
             現働的 


4:45 午前  
Blogger yoji said...

科学ーー芸術
  哲学

4:46 午前  
Blogger yoji said...

頁数は文庫版より

4:47 午前  
Blogger yoji said...


846 :
2016/11/06(日) 20:49:45.42 0
ドゥルーズ体系: >>846改
             量子化
      スピノザ 【 分 析 】 プラトン、カント
          \   |   /  ハイデッガー
           千のプラトー>>590
    ライプニッツ  \ | /    
             \|/
 【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】
 >>440         />>796      >>782
       フーコー>>817| \          
      (Marx) アンチ \フロイト
          /・オイディプス>>853
      サルトル 【 総 合 】 ニーチェ
           哲学とは何か?
             ヒューム

             潜在的 
           実在的+可能的  
             現働的 

5:00 午前  
Blogger yoji said...

ドゥルーズ体系: >>846改
             量子化
      スピノザ 【 分 析 】 プラトン、カント
          \ ベルクソン /  ハイデッガー
           千のプラトー>>590   (感覚)
    科学      ライプニッツ      芸術
             \|/       (印象)
 【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】
   >>440       /|>>796      >>782
       フーコー>>817| \          
      マルクス / アンチ \ フロイト
          /・オイディプス>>853
      サルトル 【 総 合 】 ニーチェ
           哲学とは何か?
             ヒューム

             潜在的 
           実在的◇現働的  
             可能的 

             virtualité
           réalité◇actualité
             possibilité

(潜在的なものは現働的であり得るが可能的ではあり得ない。
 そのことを明確にするために下の概念図の記載方を変えた。)

 ヒュームの原因↗︎から結果↙︎へと続く考察のどちらを重視するかで変わる。

In general, a state of affairs does not actualize a chaotic virtual without taking from it a potential that is distributed in the system of coordinates.
《一般的に言えば、〈物の状態〉は、カオスに属する潜在的なものを現働化させる場合には、かならず、ポテンシャルを、そのカオスに属する潜在的なものから借りて、それを座標系に配分するのである。》哲学とは何か#5:207

『哲学とは何か』の後半部はABCと内容が重なる。冒頭注のウィトへの記述から他者論としての認識が深まっているのもわかる。

#2の注で道元に触れている。
We refer also to the Zen text of the Japanese monk Dôgen, which invokes the horizon or “reserve(蔵)” of events: Shôbogenzo, trans. and with commentary by René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980).
中村亮二

6:00 午前  
Blogger yoji said...

35科学ーー芸術26
    哲学14

     7

9:43 午後  
Blogger yoji said...

記号と事件
哲学

…内在性の平面に垂直性をもちこみ、自分も背筋を伸ばして立つためなのでしょうか、それとも逆に、からだを横たえ、地平線に向かって走り、はるか彼方まで平面を拡げていくためなのか。
…垂直性すなわち超越性と考え、これを撤去したうえで、地面に寝そべって大地を抱きしめ、見ることもなく、反省も忘れ、さらに伝達の可能性まで捨てなければならないのか。



思考のイメージはいわば哲学の前提であり、哲学に先行しますが、この場合、思考のイメージは非哲学的理解のことではなく、前哲学的理解であると考えるべきでしょう。

5:29 午前  
Blogger yoji said...

ドゥルーズのヴィトゲンシュタイン嫌いは有名だが『哲学とは何か』ではABCの時から少しニュアンスが違う。可能世界論としてライプニッツとつなげている。現代に横行する分析哲学の一派とヴィトゲンシュタイン個人を分けている。前期『探究』ではなく後期『哲学探究』がドゥルーズの念頭にある。



ドゥルーズ哲学とは何か?


以下「ひとつの概念とは何か」より

 もちろん、どの概念もひとつの歴史をもっている。わたしたちは、いま述べた他者概念によって、ライプニッツ、ライプニッツにおける可能的世界、そして世界の表現としてのモナド、この三つにまで遡ることができる。しかし、問題は同じではない。なぜなら、ライプニッツにおける可能的世界はリアルな世界のなかに存在するわけではないからである。その他者概念はまた、命題を扱う様相論理学をも指し示している。しかし命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない(ウィトゲンシュタインは、他者を、ひとつの他の主体とひとつの特別な対象のあいだで揺れ動くままにしておくので、恐怖や苦痛についての命題を考察するときでさえ、そうした命題に、或る〈他者の位置〉」のなかで表現可能な諸様相〔可能性、現実性、必然性〕を見ることはできないのである)。可能世界〔という概念〕は長い歴史をもっている(1)。要するに、あらゆる概念についてわたしたちが言わんとしているのは、概念にはつねに歴史があるということだ。もちろん、この歴史がジグザグである場合もあるし、この歴史が、必要に応じて、他の諸問題を通過したりいろいろな平面のうえを通ったりする場合もある。一個の概念のなかには、たいてい、他の諸概念に出来する断片あるいは合成要素が存在するのであって、これらの断片や合成要素の方は、以前、他の諸問題に答え、他の諸平面を前提していたものなのである。それは当然のことである。なぜなら、概念はどれも新たな裁断をおこない、いくつもの新しい輪郭を身につけるものであるからだし、復活されるべきもの、あるいは裁ち直されるべきものであるからだ。

(1)この歴史は、ライプニッツとともに始まるわけではないが、ウィトゲンシュタインにおける恒常的なテーマとしての他者に関する命題(「彼は歯が痛い‥…」)からミシェル・トゥルニエにおける可能的世界論としての他者の位置(『フライデーあるいは太平洋の冥界』榊原晃三訳、「世界文学全集219』所収、河出書房新社)にわたるほどの様々なエピソードを経ている。






Obviously, every concept has a history. This concept of the other person goes back to Leibniz, to his possible worlds and to the monad as expression of the world. But it is not the same problem, because in Leibniz possibles do not exist in the real world. It is also found in the modal logic of propositions. But these do not confer on possible worlds the reality that corresponds to their truth conditions (even when Wittgenstein envisages propositions of fear or pain, he does not see them as modalities that can be expressed in a position of the other person because he leaves the other person oscillating between another subject and a special object). Possible worlds have a long history. 1 In short, we say that every concept always has a history, even though this history zigzags, though it passes, if need be, through other problems or onto different planes. In any concept there are usually bits or components that come from other concepts, which corresponded to other problems and presupposed other planes. This is inevitable because each concept carries out a new cutting-out, takes on new contours, and must be reactivated or recut.


1: What Is a Concept? 1. This history, which does not begin with Leibniz, passes through episodes as diverse as the constant theme of the proposition of the other person in Wittgenstein (“ he has toothache …”) and the position of the other person as theory of possible world in Michel Tournier, Friday, or The Other Island (Harmondsworth: Penguin, 1974).


明らかに、すべてのコンセプトには歴史があります。 この他の人の概念は、ライプニッツ、彼の可能な世界、そして世界の表現としてのモナドに戻ります。 ライプニッツの存在は現実世界に存在しないので、同じ問題ではありません。 それは命題の様相論理にも見られる。 しかし、これらは可能な世界に彼らの真理状態に対応する現実を与えるものではない( ウィトゲンシュタインが恐怖や痛みの命題を想定していても、彼は他の人の位置に表現できるモダリティとして見ない他の被験者と特別な対象物との間で振動する人物)。 可能な世界は長い歴史を持っています。 一言で言えば、私たちは、この歴史はジグザグになっていますが、必要に応じて他の問題や異なる飛行機を通過しても、すべてのコンセプトには常に歴史があります。 どのコンセプトにおいても、通常、他の問題や前提となった他の面に対応する他の概念に由来するビットやコンポーネントがあります。 これは、それぞれのコンセプトが新しい切り抜きを実行し、新しい輪郭を取り、再アクティブ化または再切断する必要があるため不可避です。


1:コンセプトとは? 1.ライプニッツで始まらないこの歴史は、ウィトゲンシュタインの他人の命題(彼は歯痛がある...)と、可能な世界の理論としての他者の立場を変えずにミシェル・トゥルニエ、金曜日、またはその他の島(Harmondsworth:Penguin、1974)。


ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』を解読する | Philosophy Guides
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-wittgenstein-untersuchungen/
他人の「痛み」

『論考』においては、世界は「私」が経験できる限りの世界であり、他人の存在しない独我論的な世界だった。だが本書においては、他人は言語ゲームのプレイヤーとして位置づけられる。

ここでヴィトゲンシュタインは、他人のもつ感覚、なかでも痛みを問題とする。

『論考』の観点では、他人の感覚、たとえば痛みを理解することはできない。それは直接に経験できないし、検証することもできない。したがって他人の痛みにについての命題には真偽が存在せず、問答無用にナンセンスとなる。だが言語ゲームのうちでは、経験の共通性がある限りで、直示的定義は可能となる。痛みもまた同様だ。

人間のようにふるまうものについてのみ、ひとは、それが痛みを感じている、と言うことができる。

確かに私は他人の痛みを直接にイメージすることはできないが、経験の類似性に基づいて理解することができる。経験の類似性は、身体の類似と生活形式の類似に基づく。言いかえると、人間としての共通性が、痛みの感覚の理解を支えているはずである。そうヴィトゲンシュタインは考えるのだ。

その点からすれば、私たちは、たとえば注射を打つときに他人がどのような痛みを感じているかを理解することはできるが、死の痛みを理解することはできないことになる。その痛みは、ただイメージすることしかできず、直示的に定義することはできない。なぜなら、死は生という言語ゲームから退場することであり、振る舞いの一致という可能性が失われる、まさしくその瞬間にほかならないからだ。

6:29 午後  
Blogger yoji said...




 では Wに移りましょう
Wは何もないだろう
 ウィ卜ゲンシュタインです
それについては話したくない
あれは哲学の崩壊だ
学派というもののいい例だろう
哲学の退化と言うほかない
ウィ卜ゲンシュタインに関わることは もう 本当に嘆かわしい
彼らが作ったのは恐怖の体系だ
”何か新しいことをする”
そういう口実で一
豪勢な箱の中に貧相なものが 詰め込まれている
あれは...
あの危険を言い表す言葉はないね
この危険はしょっちゅうあるものだ だが深刻な問題なんだ
ウィ卜ゲンシュタイン派というのは 本当にイヤな奴らなんだ
彼らは何もかもを壊してしまう
彼らが勝利をおさめたら まさしく哲学の殺害だ
彼らは哲学を殺害する暗殺者だ
 深刻ですね
そうだ
十分に注意しないとね

6:31 午後  
Blogger yoji said...

『哲学とは何か』でドゥルーズ゠ガタリは、カントの「諸学部の争い」について、「フーコー、ハーバーマス、リオタールのそれぞれ非常に異なる注解によって今日そのまったき重要性を取り戻した」[QPh, 96,n. 13/三七五─三七六、注一三]との認識を示している。ドゥルーズ゠ガタリ自身は、カントの論考を、あるいは、フーコーによるその注解をどう読んだのか。「熱狂」へのフーコーの着眼を引き継いで、彼らは次のように論じている。

近代の二つの大革命、すなわちアメリカ及びソビエトの革命があれほどひどい結果に終わったからといって、概念が自らの内在的な道を辿れないというわけではない。カントが指摘したように、革命概念は、必然的に相対的な社会野において革命が遂行され得るその仕方の中にあるのではなく、絶対的な内在平面の上で革命が思考される際のその「熱狂」の中にある。この「熱狂」を以てこそ、革命は、「いま‐ここ」における無限なものの提示として──理性的なものも、理にかなったものさえも一切含んでいない提示として──思考されるのだ。
…絶対的脱領土化が新たな大地に、新たな人民に呼びかけるまさにその場において、革命はこの絶対的脱領土化なのである。[QPh, 96-97/一七三─一七四]…

ドゥルーズ゠ガタリは、フーコーによるカント注解において「人類の恒常的進歩の原因」とされていたものを「革命概念」と、「自分たちにふさわしい政体と戦争を回避する政体とへ向かうすべての人民の心的傾向」とされいたものを「絶対的脱領土化」(精確には、絶対的な内在的脱領土化)と、それぞれ呼び改めている


三つの革命

5:05 午後  
Blogger yoji said...

 科学5______芸術7
論理学6\    /
     1  2美術
      \/3小説
      哲学4
        8

5:22 午後  
Blogger yoji said...

目次

三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学(講談社選書メチエ)

三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学 (講談社選書メチエ)

佐藤嘉幸(著)/ 廣瀬純(著)
 序 論 三つの革命
1 一つの戦略、三つの戦術
2 ドゥルーズとドゥルーズ=ガタリ
3 各章の構成

第一部 『アンチ・オイディプス』
 第一章 切断と主体集団の形成
1 欲望諸機械と欲望的生産
2 オイディプス化と欲望的生産の抑圧
3 切断とその切断
 第二章 プロレタリアによる階級闘争
1 六八年五月からロシア革命へ
2 利害から欲望へ
3 切断の切断、その二つの体制
4 なぜ欲望なのか
5 プロレタリアートから分裂者へ
 補論 分裂分析と新たな主観性/主体性の生産
1 ラカン的「構造」から「欲望機械」へ
2 分裂分析とは何か
3 第二次分節から第三次分節へ
4 分裂分析と革命的切断
5 新たな集団的主観性/主体性の生産

第二部 『千のプラトー』
 第一章 リゾームと横断性
1 リゾームとは何か
2 『千のプラトー』の権力理論
3 資本、国家、戦争機械
 第二章 マイノリティによる公理闘争
1 プロレタリアートからマイノリティへ
2 公理闘争から生成変化へ
3 生成変化とは何か
4 実践としての分裂分析
5 万人による革命性への生成変化
 補論 エイハブの恥辱か、フェダラーの勇気か
1 逃走線と自由
2 勇気か、恥辱か
3 外を内へと折り畳むこと、あるいは主体化
4 周縁者の危険

第三部 『哲学とは何か』
 第一章 マジョリティによる政治哲学
1 マジョリティであることの恥辱
2 人権、NGO、ハイデガー問題
3 大地、革命、哲学
4 NGOからプラトン的演劇へ
 第二章 革命、熱狂、概念
1 「革命とは何か」
2 六八年五月と「耐え難いもの」
3 「近代性とは何か」

 結 論 分裂分析と私たち
1 分裂分析としての政治哲学
2 今日の日本における三つの戦線
3 プレカリアートによる階級闘争
4 市民による反ファシズム闘争
5 福島住民/琉球民族による人権闘争
6 絶望と政治哲学

5:28 午後  
Blogger yoji said...

【報告】「哲学と大学」 第2回「カント『学部の争い』」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/from/blog/2007/12/-philosophy-and-university-2-k/
Blog / ブログ
 
【報告】「哲学と大学」 第2回「カント『学部の争い』」
2007.12.09 └哲学と大学, 宮崎裕助
公開共同研究「哲学と大学」第2回は、UTCP共同研究員・宮崎裕助によるカントの『学部の争い』に関する発表だった。

IMG_1133a.jpg

⇒発表レジュメ「カントの『諸学部の争い』をめぐって」

 『学部の争い』(1798年)は、『人間学』と並んで、カントが生前に公表した最後の著作である。初版の諸論文は検閲に遭って発禁処分となったため、序言には検閲を行ったフリードリッヒ・ヴィルヘルム二世への弁明が綴られている。大学論は第1部「哲学部と神学部との争い」で展開されており、この部分は日本語訳にしてわずか20頁ほどだが実に豊かな問題を提起している。
 カントの時代、大学は三つの上級学部(神学部、法学部、医学部)と下級学部(哲学部)とから構成されている。上級学部の教説は国民に強力な影響力をもつ。神学部は各人の永遠の幸せを、法学部は社会の各成員の市民的な幸せを、医学部は肉体的な幸せ(長寿と健康)を対象とする。上級学部は政府から委託されて、文書にもとづく規約(聖書、国法、医療法規)を整備することで公衆の生活に直接的な影響を及ぼす。政府は上級学部の教説を認可し統御することで、国家権力を行使するのである。
 他方、下級学部(哲学部)は国家の利害関心からは独立しており、その教説は国民の理性のみに委ねられる。哲学部は国家権力の後ろ盾がないが、しかし、すべての教説を判定する理性の自由を保証されている。哲学部は国家権力に対して反権力を対置するのではなく、一種の非権力、つまり権力とは異質の理性を対置することによって、この権力の限界画定を内側から試みるのだ(デリダ)。哲学部は大学の一学部として制度的に限定されると同時に、批判的理性を行使する無条件な権利をもつという点で学問の全領域を覆う。それゆえ、哲学部をめぐるアポリアは、ひとつの有限な場所と遍在的な非場所(シェリング)という二重性をもつ哲学部をどのように大学制度のうちに定着したらよいのか、という問いになるだろう。
 上級学部と下級学部の争いは合法的なものであって、戦争ではない。上級学部が右派として政府の規約を弁護するならば、下級学部(哲学部)は反対党派(左派)として厳密な吟味検討をおこない、異論を唱える。理性という裁判官が真理を公に呈示するために判決を下すかぎりにおいて、この争いは国家権力に対しても有益なのである。その場合、まるで梃子の作用が働くように、真理への忠実さという点で哲学部は右派となり、上級学部は左派となるだろう。こうした大学の建築術的な図式において重要なことは、各勢力の争いの両極を分かつ支点において大学全体の方向を転換するような「梃子(モクロス)」(デリダ)の作用が維持されること、そうすることで、真理をめぐる複数の政治的戦略が可能性として残されることであるだろう。

IMG_1131a.jpg

 討議の時間では、カントの大学論を現在の視点から読む上での注意事項が挙げられた。まず、カントのいう哲学部と哲学を分けて考える必要性だ。カントの時代の哲学部から文学部や理学部、経済学部などが派生してくるわけで、それは狭義の哲学部ではない。また、この大学論はカントの政治的な振る舞いが込められたテクストであり、その文脈を十分に考慮しなければならない。
 大学の各学部の上級/下級という区分は、現在で言うと専門と基礎教養に対応するものだろうが、カントの区分は実によく練り上げられている。神学は来世、法学と医学は現世を対象とし、さらに法学と医学は社会的次元と身体的次元に関係する。上級学部は人間の生活に関わるほとんどすべての領域を包括するのであり、これを統御する国家は優れた「統治性」(フーコー)を発揮することができる。これに対して、下級学部(哲学部)には理性の自由が許可されるとカントは幾度も書いているのだが、意外にも、真理に関する記述は手薄である。つまり、カントは真理を実定的なものとして提示するのではなく、むしろ真理の可能性の条件を提示し、理性の自由な判断はいかにして可能かを論及するのだ。例えば、真理とは虚偽を発見し、これを排除する手続きであって、そのためには公開性の原則が保持されなければならない、というように。
 「学者の形象」に関しても議論となった。カントは『啓蒙とは何か』において「als Gelehrter(学者として)」という表現を何度か使用して、理性の公的使用を説明した。日常生活において聖職者や士官として社会的役割をはたす人々が、「Gelehrter」として理性を世界市民的な視点から行使しうるとされる。この場合、「Gelehrter」は敢えて「知識人」と解した方がよい、という意見が出た。カントは大学教育を受けた者を原像として「Gelehrter」を使用し、これを「自分の見解を書くことを通じて表現できる者」という意味合いで使っているのではないか。こうした「学者の形象」を踏まえて、それでは、誰もが「自分の見解を書くことを通じて表現できる」この高度情報化社会において、「在野の学者」とはいったい誰のことを指すのか、という問いも発せられた。
 前回に引き続き関西から参加してくれた斉藤渉氏(大阪大学)は、カントの時代の大学制度に関して詳細なコメントを加えてくれた。次回(1月28日)は、フンボルト研究者である斉藤氏による発表である。あのフンボルトの大学理念がいよいよ登場するわけだ。
(文責:西山雄二)

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6:17 午後  
Blogger yoji said...

【報告】「哲学と大学」 第2回「カント『学部の争い』」 - UTCP
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発表レジュメ「カントの『諸学部の争い』をめぐって」. 『学部の争い』(1798年)は、『人間 学』と並んで、カントが生前に公表した最後の著作である。初版の諸論文は検閲に遭って 発禁処分となったため、序言には検閲を行ったフリードリッヒ・ヴィルヘルム二世への 弁明が綴られている。大学論は第1部「哲学部と神学部との争い」で展開されており、 この部分は日本語訳にしてわずか20頁ほどだが実に豊かな問題を提起している。 カントの時代、大学は三つの上級学部(神学部、法学部、医学部)と下級学部( ...
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諸学部の争い - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/諸学部の争い
カントによれば、人生には三つの重大な幸福の追求がある:1)健康の追求(肉体(物質) 的)、2)社会的な平和の追求(社会的)、3)信仰上の平安(宗教的)。これらのぞれぞれ を研究する学問の学部である医学部と法学部と神学部は社会上の権威と同時に権力も 握っていた。カントはこれらを上級学部と名づける。これに対し当時の哲学部は下級学部 として上級学部より劣った立場として扱われていた。諸学部の争いとは以上の上級学部 と下級学部の争いを指す。カントは、上級学部の価値判断はすべて歴史的・経験的で ...

6:20 午後  
Blogger yoji said...

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%AD%A6%E9%83%A8%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84
諸学部の争い
ページの問題点
「諸学部の争い」は草稿などを除く、刊行物の中でカントの最晩年に書かれた本である。この本は発禁を避けるため、慎重に時期を伺って刊行期日が選ばれて出版された。

カントによれば、人生には三つの重大な幸福の追求がある:1)健康の追求(肉体(物質)的)、2)社会的な平和の追求(社会的)、3)信仰上の平安(宗教的)。これらのぞれぞれを研究する学問の学部である医学部と法学部と神学部は社会上の権威と同時に権力も握っていた。カントはこれらを上級学部と名づける。これに対し当時の哲学部は下級学部として上級学部より劣った立場として扱われていた。諸学部の争いとは以上の上級学部と下級学部の争いを指す。カントは、上級学部の価値判断はすべて歴史的・経験的であり、下級学部の哲学による判断の方が先見的・理知的であるとして、上下の優劣の逆転を説く。つまり哲学こそが最も諸学のなかで勝る学問であるとした。とりわけ宗教的権威である教会の堕落への批判は痛烈である。[1]

カントはこの本の中で専門家以外の外部の意見が自由な討議を妨げる恐れがあるから、専門家の議論の過程は公には公開すべきではないと主張する。

脚注または引用文献 編集

^ 角忍; 竹山重光; 久保光志; 他 (2002-11-26). カント全集18. 岩波書店.
ノート

6:28 午後  

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