『哲学とは何か』ドゥルーズDeleuze-Guattari:Qu'est-cequelaphilosophie ?1991
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/quantum-economics-wikipedia.html
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/50-rue-de-varenne-supplemento-italo.html
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/blog-post_8.html
http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/abecedaire-de-gille-deleuze.html#z
http://projectlamar.com/media/Gilles-Deleuze-Cinema-1-The-Movement-Image.pdf (en)
L’Image-temps. Cinéma 2
https://monoskop.org/images/8/85/Deleuze_Gilles_Cinema_2_L_Image-temps.pdf (fr)
ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日)
ドゥルーズ体系: 分子化
スピノザ 【 分 析 】 プラトン、カント ベーコン
Hegel\ | /Heidegger
千のプラトー/
ライプニッツ| ベルクソン
ABC\|/
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】カフカ
/|\ [修辞学]
フーコー/ | (ヒューム)
(Marx)アンチ Freud フロイト
/・オイディプス\
サルトル 【 総 合 】 ニーチェ プルースト
哲学とは何か?
潜在的
実在的+可能的
現働的
virtualité
réalité+possibilité
actualité
千のプラトーをアンチ・オイディプスに対して潜在的なものと考え、
分析を分子化として捉え直したところが味噌だ。
芸術という一つの内在平面に複数のオピニオンの共存がある。
《ここで生じてくる多くの問題は、哲学史ばかりでなく哲学にもかかわっている。内在平面のもろもろの薄層は、或る場合には、互いに対立するほどまでに、また そのひとつひとつがあれこれの哲学者に適合するほどまでに、たがいに離れ、或る場合には反対に、少なくともかなり長い期間通用するようになるために寄り集まる。そのうえ、ひとつの前・哲学的平面〔内在平面〕の創建と、哲学的諸概念の創造とのあいだの関係は、それら自身複雑なものである。長期間にわたって、 いく人かの哲学者は、おのれの師として援用するひとりの先行的な哲学者と同じ平面の上にとどまりながらも、また彼と同じイメージを前提としながらも、いくつかの新たな概念を創造することができるー(以下略) 》
『哲学とは何か』ドゥルーズ 邦訳単行本84頁より
《Nous n’apprenons rien avec celui qui nous dit: fais comme moi.
Nos seuls maîtres sont ceux qui nous disent ‘fais avec moi’ et
qui, au lieu de nous proposer des gestes à reproduire, surent
émettre des signes à développer dans l’hétérogène. 》
(Deleuze, Gilles 1968 Différence et répétition)
《わたしたちは、「私と同じようにやれ」と言う者からは、何も学ぶことはない。
わたしたちにとっての唯一の教師は、わたしたちに対して「私と共にやりなさい」
と言う者であり、この教師は、わたしたちに、再生すべき所作を提示するかわりに、
異質なもののなかで展開するべきいくつかのしるし(signe)を発することのでき
る者なのである。》
(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳、単行本49頁、文庫上74-5頁より)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/12/abecedaire-de-gille-deleuze_10.html#u
哲学はコミュニケ一ションとは 関係がないんだ
コミュニケ一ションは それだけで充足している
そこでは哲学と全く関係のない 意見の合致や質問の技術が問題となる
哲学とは概念の創造であって コミュニケ一ションではない
芸術はコミュニケ一ションでも 反省でもない
芸術に科学に哲学 これらはすベて一
観照でも反省でも コミュニケ一ションでもなく創造だ
その定式がnマイナス1 だ 一者や普遍を消し去ること
『哲学とは何か』ドゥルーズ Deleuze-Guattari:Qu'est-ce que la philosophie ? 1991
http://nam-students.blogspot.jp/2015/12/Deleuze-Guattari-Quest-ce-que-la-philosophie.html
http://nam-students.blogspot.jp/2015/12/Deleuze-Guattari-Quest-ce-que-la-philosophie.html
Qu'est-ce que la philosophie ? 1991
http://www.leseditionsdeminuit.fr/f/index.php?sp=liv&livre_id=2316
Gilles Deleuze
Félix Guattari
208 p.
Qu'est-ce que la philosophie ?
2005
Introduction. Ainsi donc la question.
I - PHILOSOPHIE
1. Qu'est-ce qu'un concept ?
2. Le plan d'immanence.
3. Les personnages conceptuels
4. Géophilosophie.
II - PHILOSOPHIE, SCIENCE LOGIQUE ET ART
5. Fonctifs et concepts.
6. Prospects et concepts.
7. Percept, affect et concept.
Conclusion. Du chaos au cerveau.
Qu'est-ce que la philosophie ?
1991,2005
http://www.leseditionsdeminuit.fr/f/flip.php?editor=3&livre_id=2316
NEOACA BLOG: ネオアカ読書会 第1回ドゥルーズ『哲学とは何か』邦訳1997,2007年
http://neoaca.blogspot.jp/2012/10/blog-post_30.html
目次
序論 こうして結局、かの問は・・・・・・
Ⅰ 哲学
1 ひとつの概念とは何か
2 内在平面
3 概念的人物
4 哲学地理 *
Ⅱ 哲学 -科学、論理学、そして芸術
5 ファンクティヴと概念
6 見通しと概念
7 被知覚態、変様態、そして概念
結論 カオスから脳へ
哲学124
Jean Tinguely Museum in Basel
哲学者のドゥルーズが、ほぼ遺作となった著作のなかで、動く彫刻群↑で知られるティンゲリーの「哲学者たち」シリーズについて触れています。
ドゥルーズはその連作にティンゲリーの作品の中ではそれほど高い評価を与えているわけではありませんが、ティンゲリーの造る動くオブジェとドゥルーズの連結していくテクストのイメージはかなり近いと思われます。
ちなみにティンゲリーの動く彫刻は宮崎駿の『ハウルの動く城』↓にも似ています。
http://jp.youtube.com/watch?v=VfjnVV4uDHM&feature=related
同時性を連結した装置として体験させる手法はこの三者に共通しているかも知れません。
以下引用です。
《最近、ティンゲリーが、哲学者たちの記念碑的な機械状の肖像をいくつか展示した。それらは、音と、閃光とによって、さらには湾曲した複雑な平面に即した存在の質料および思考のイメージとによって、連言的もしくは選言的な、そして折り畳まれることと広げられることが可能な、様々な力強い無限運動を遂行する作品である。しかし、かくも偉大な芸術家にいささか批判の言を呈してよいとするなら、彼の試みは、いまだ完成の域に達していないように思われる。ティンゲリーは、『ニーチェ』以外の作品においては、たいへんうまくもろもろの機械をダンスさせることができたにもかかわらず、作品『ニーチェ』においては、何もダンスをするものがない。〔根拠律の〕四つの《根》すなわちマーヤのヴェールは、意志と表象としての世界という二面的な平面をいまにも占拠してしまいそうに見えていたのに。作品『ショーペンハウアー』は、わたしたちに、決定的なものは何も与えてくれない。作品『ハイデガー』は、まだ思考をおこなっていない思考の平面の上で、(隠蔽性・非隠蔽性〔真理性〕)をまったく保持していない。機械として描かれる内在平面と、その機械の部品として創造される諸概念に、おそらくいっそうの注意を向ける必要があったのだろう。そのような観点からすれば、かの錯覚を含むカントの機械状の肖像を思い描くことができるだろう(前ページの図を見られたい)。

(画像はドゥルーズがティンゲリーをまねて描いたと思われるカントの「機械状の肖像」。クリックすると拡大します。)
1-音響装置をつけて、《自我》《自我》と絶えず反復する、牛の頭部をそなえた「私は思考する」。 2-普遍概念としてのカテゴリー(四つの大きな表題)、この図では、3の円運動に応じて外に伸びたり引っ込んだりする四つの軸。 3-〔超越論的〕図式の可動式の車輪。 4-それほど深くない水の流れ、すなわち、図式の車輪がそこに潜ったりそこから浮上したりするその内面性の形式としての《時間》。 5-外面性の形式としての《空間》、この図では、岸と底。 6-それら二つの形式の接合としての、流れの底にある、受動的自我。 7-時空を走り抜ける総合判断の諸原理。 8-《私》に内在する、可能的経験の超越論的野(内在平面)。 9-三つの《理念》、あるいは超越の錯覚(絶対的地平において回転する円環、《魂》、《世界》、《神》)。
ここで生じてくる多くの問題は、哲学史ばかりでなく哲学にもかかわっている。内在平面のもろもろの薄層は、或る場合には、互いに対立するほどまでに、またそのひとつひとっがあれこれの哲学者に適合するほどまでに、たがいに離れ、或る場合には反対に、少なくともかなり長い期間通用するようになるために寄り集まる。そのうえ、ひとつの前・哲学的平面〔内在平面〕の創建と、哲学的諸概念の創造とのあいだの関係は、それら自身複雑なものである。長期間にわたって、いく人かの哲学者は、おのれの師として援用するひとりの先行的な哲学者と同じ平面の上にとどまりながらも、また彼と同じイメージを前提としながらも、いくつかの新たな概念を創造することができるー(以下略) 》
『哲学とは何か』ドゥルーズpp82-84より
www.cahiersducinema.com/Roberto-Rossellini-Le-cinema.html
Les grands entretiens de Roberto Rossellini Si Rossellini est considéré avant tout dans l'histoire du cinéma comme le père du néoréalisme, c'est aussi le cinéaste qui a inventé le cinéma moderne avec des films comme Stromboli, Voyage en ...
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ドゥルーズ哲学とは何か文庫286頁、384頁参照
邦訳としては、『作家主義』(リブロポート,1985)掲載のカイエデュシネマ、ロメールらによる1963年のインタビューと思われる。
149頁
(ロセリーニ私の方法にも複数のインタビューがあるがそれではない)
ロッセリーニ
「われわれはこうした小児性を、ヌーヴォー・ロマンのなかで見た...。芸術というのは
今日では、不満か残酷かのどちらかでしかない。」
(1963年ロメール等によるインタビューより。
Le cinema revele. 2006/1/ 12. Roberto Rossellini 参照、 (Le cinéma révélé 2008,p.120)
邦訳『作家主義』1985年リブロポート,150頁)
『作家主義―映画の父たちに聞く』奥村昭夫訳 1985/11
http://www.amazon.co.jp/dp/4845701855
http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/sakka.main.html
ドゥルーズ『哲学とは何か』文庫版286頁参照
mais, dans ce cas , vous attaquez tout l'art contemporain,(2008:p.120)
je m'explique. pour qu'un art,(p.122)
観 念
:
普遍性
|
概 一 | 特
・・般___|___殊
念 性 | 性
|
単独性
(柄谷行人『探究2』より)
《たとえば、ドゥルーズは、キルケゴールの反復にかんして、「反復は、単独なものの普遍性
であり、 特殊なものの一般性としての一般性と対立する」といっている(『差異と反復』)。つま
り、彼は特殊性 (個)ー一般性(類)の対と、単独性ー普遍性の対を対立させている(図参照)。
だが、すでに明らかなように、 これはスピノザが概念と観念を区別したのとほとんど同じことである。》
(柄谷行人『探究2』文庫版150頁)
《…わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりでの一般性と、 特異(サンギュリエ)な ものに関する普遍性としての反復を対立したものとみなす…》
http://blog.livedoor.jp/captainahab/archives/50551139.html
(『差異と反復』邦訳単行本20頁、文庫上22頁)
(『トランスクリティーク』定本版単行本156頁、文庫150頁)
ドゥルーズはマイナー文学を自覚し、生成しようとしているのだから文学だというのは
批判にはならない。例えば聖書も文学に入る。歴史自身が文学と考えられ得る。
マイナー文学ではないからドゥルーズの賛美の対象にならないが。
論理学は心理学を扱い損ねているが、文学には一日の長がある。
ここで本質的なのは多分ドゥルーズの文章を読む読解力の無さだとか、ドゥルーズのテキストを
読もうとしない怠惰さだとか、買えないという貧しさだとか、といったものではない。
出来事への無理解が本質だ。
それはアナーキズムやマルクス主義といった政治的事象への無理解に直結する。
簡単に言えば、アナーキズムは自主管理を意味するからスピノザの内在的な神の理解が、
政治体制への視角につながる。ドゥルーズはこの点、スピノザの再評価において第一に哲学史家
として偉大だ。つけくわえるならライプニッツはさらに複数の出来事の同時性、共存の把握につながる。
(ライプニッツはドゥルーズも引用したように、共存の理解において文学が有効だと気付いていた)
一と多が哲学史的に始めて結びついたわけだ。
さらにマルクス自身のスピノザ評は逆転させて読む必要があるだろう。
マルクスの体系自体がスピノザに含まれる。これはマルクスを内在的に再評価するうえで欠かせない視点だ。
マルクスを理解しない人がマルクスを賛美崇拝している。
ぜひシネマ1,2を読んでほしい。そこでは第二次大戦がはじめて歴史的に定位されているから。
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/blog-post_8.html
ドゥルーズ『哲学とは何か』の後半部はABCと内容が重なる。冒頭注のウィトへの記述から他者論としての認識が深まっているのもわかる。
また、#2の注で道元に触れている。
- NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズのABC…"アベセデー ル"("Abécédaire"deGilleDeleuze1988–1989):http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/abecedaire-de-gille-deleuze.html#z
W
では Wに移りましょう
Wは何もないだろう
ウィ卜ゲンシュタインです
それについては話したくない
あれは哲学の崩壊だ
学派というもののいい例だろう
哲学の退化と言うほかない
ウィ卜ゲンシュタインに関わることは もう 本当に嘆かわしい
彼らが作ったのは恐怖の体系だ
”何か新しいことをする”
そういう口実で一
豪勢な箱の中に貧相なものが 詰め込まれている
あれは...
あの危険を言い表す言葉はないね
この危険はしょっちゅうあるものだ だが深刻な問題なんだ
ウィ卜ゲンシュタイン派というのは 本当にイヤな奴らなんだ
彼らは何もかもを壊してしまう
彼らが勝利をおさめたら まさしく哲学の殺害だ
彼らは哲学を殺害する暗殺者だ
深刻ですね
そうだ
十分に注意しないとね
___________
X,Y
Xは未知数で一
Yは言葉にできません
ですから最後の文字に移ります
____________
Z
Zです
ああ いいね
“怪傑ゾロ”ではありません
Zというと ゾロを思い出しますけれど
そうではなくて
進路変更やひらめきの話です
偉大な哲学者の名前にはZの文字が
禅 ツァラ卜ゥス卜ラ ライプニッツ スピノザ
二一チェ ベルクゾン そしてもちろん ドゥルーズ
君は冗談が得意だね ベルクソンじゃなくてベルク ゾ ンとは
それに私についても 素敵なことを言ってくれた
Zはすばらしい文字だ ここからAに戻れる
ハエの話をしよう ハエの禅だ
ハエのジクサグの動き
Zはジグサグで しかもジグサグは最後の単語だ
ジグサグのあとは単語がない そこで終わるのはいいね
では Zでは 何が起こっているのか?
禅(Zen)という語は鼻(NeZ)という語の反対だね
これもジクサグ運動だ
あのハエのジグサグ運動とは 何なのか?
あれは世界の想像をつかさどった 最初の運動だ
最近私もみんなみたいに一
ビッグバンについての本を読んでいる
宇宙の創造とか 無限曲線といった話だ
ビッグバンは どうやって起こったか?
物事の起源にはビッグバンのような 大爆発などない Zがあるんだ
ハエのZ そしてビッグバンということでしたが
そうビッグバンね
ビッグバンじゃなくてZのことを考えないといけない
Zというのは実際 禅であり一
飛んでいるハエの動きだが これはどういうことなのか?
ジグザクの話というのは 先ほど言っていた一
普遍の話と一緒だ
普遍などなく 特異性の集合だけがある
バラバラの特異性を どう関係づけるかが重要だ
物理学の用語で言うと 諸々の “ポテンシャル"をどう関係づけるか
ポテンシャルでいっぱいのカオスというのを想像できる
それらのポテンシャルを どう関係づけるか?
何という分野だったか思い出せないが とても気に入った用語があった
自分の本でも使ったんだが こんな話だ一
二つのポテンシャルの間で一
"暗き先触れ"と 呼ばれる現象が起こる
"暗き先触れ"は 異なったポテンシャルを関係づける
"暗き先触れ"の動きがあると一
二つのポテンシャルが反応し一
二つの間で 目に見える出来事が閃光を放つ
きらめきだ
"暗き先触れ”が まずあり 次いで きらめきが起こる
世界もこんな風にして生まれた
目には見えない 暗き先触れがあり一
そしてきらめきが照らし出す これが世界だ
思考というのはそういうものだし 哲学もそうだ
これが偉大なるZだね
禅の知恵もそうだ
賢者は"暗き先触れ"であり 次いで 棒の一撃がある
禅の師匠は棒の一撃を 配分することに時間を使う
棒の一撃はきらめきで あれが物事を見るのを可能にする
さて そろそろ終わりかな
お名前にZが入っていて 嬉しく思われますか?
嬉しいよ
よし
終わりです
このイン夕ビューができて とても満足だ
死後の公開だったね
はい 公開はあなたの死後です
みんなどうもありがとう道元、『正法眼蔵』《Dは幾度か道元に触れているが、それは東洋思想へのオリエンタルな興味ではない。ヨーロッパでスコラ哲学がハイブリッドに興隆しつつある時期を生きた道元は、自身、文化の国際的交通の中で思考を育んだDは道元の、時は出来事を保存する蔵だという思考に共感する。時間とは、「諸々の出来事の、各々の速度を通した視覚的な蔵である」(「シネマ2」)。「正法眼蔵」仏語版からのこの引用は「有時」第二〇節か。(松本潤一郎)(河出文庫、他)》『ドゥルーズ 没後10年、入門のために』2005,181頁《時間とは「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」である。アントニオーニは「出来事の地平」について語ったが、西欧の人間にとってそれは二重であって、同時に人間の凡庸な地平であり、また近づきがたく、たえず遠のく宇宙論的地平なのだ。こうして西欧の映画はヨーロツパ的ヒューマニズムとアメリカ的S Fに分離する。S Fに関心をもたない日本人にこのようなことは起きないと彼は指摘していた。》『シネマ2』#1原注28邦訳23頁^(28)
ブラックホール(trou noir)と暗き先触れ(précurseur sombre):ドゥルーズ(メモ)
*
近代の二つの大革命、すなわちアメリカ及びソビエトの革命があれほどひどい結果に終わったからといって、概念が自らの内在的な道を辿れないというわけではない。カントが指摘したように、革命概念は、必然的に相対的な社会野において革命が遂行され得るその仕方の中にあるのではなく、絶対的な内在平面の上で革命が思考される際のその「熱狂」の中にある。この「熱狂」を以てこそ、革命は、「いま‐ここ」における無限なものの提示として──理性的なものも、理にかなったものさえも一切含んでいない提示として──思考されるのだ。…絶対的脱領土化が新たな大地に、新たな人民に呼びかけるまさにその場において、革命はこの絶対的脱領土化なのである。[QPh, 96-97/一七三─一七四]…
ドゥルーズ゠ガタリは、フーコーによるカント注解において「人類の恒常的進歩の原因」とされていたものを「革命概念」と、「自分たちにふさわしい政体と戦争を回避する政体とへ向かうすべての人民の心的傾向」とされいたものを「絶対的脱領土化」(精確には、絶対的な内在的脱領土化)と、それぞれ呼び改めている。》
三つの革命より
https://bookmeter.com/books/6733
★さらに続けてこう書きます。「ユートピアは無限運動から切り離しえない。ユートピアは、語源からして〔「どこにもない場所」を意味し〕、絶対的脱領土化を指すのだが、ただしつねに臨界点において――すなわち絶対的脱領土化が、現前している相対的な中間=環境と連結し、とりわけそうした中間=環境のなかで窒息した諸力を連結するようになる臨界点において――絶対的脱領土化を指す。ユートピア論者サミュエル・バトラーが用いた言葉「エレホン Erewhon」は、たんに《No-where》つまり「どこにもない」だけでなく、《Now-here》つまり「いま-ここ」をも指し示している。重要なのは、いわゆる空想的社会主義と科学的社会主義との区別ではなく、むしろ、様々なタイプのユートピアなのであって、革命はそのひとつである」(172頁)。
★さらにさらに続けて。「ユートピアという観念には(哲学においてもそうであるが)、つねに、超越を復活させてしまうおそれが、そしてときには、超越を尊大に肯定する態勢が存在する。したがって、権威主義的あるいは超越的ユートピアと、絶対自由主義的、革命的、内在的ユートピアを区別しなければならない。しかしまさにその点に関して言うなら、革命はそれ自身内在的ユートピアであると主張することは、革命はひとつの夢、何か実現されないものの、あるいは実現されれば必ず裏切られてしまうものであると主張することにはならないのだ。反対に、そう主張することは、革命を、内在平面、無限運動、絶対的俯瞰として定立することである。ただし、そうできるのは、これら〔三つ〕の特性が、資本主義に対する戦いのなかで、いまここに存在する現実的なものと連結するかぎりにおいてであり、また、それらの特性が、その戦いが裏切られるたびごとに新たな戦いを再開するかぎりにおいてである。ユートピアという言葉は、したがって、哲学あるいは概念と、現前している中間=環境との、以上のような接続を、すなわち政治哲学を意味している(とはいうものの、オピニオンによって与えられたゆがんだ意味からすれば、「ユートピア」はおそらく最良の言葉ではない)」(172-173頁)。
★現代日本において多方面に展開しつつある民衆的政治行動のその傍らに、D=Gもまた肩を並べて立っているに違いありません。「芸術が非芸術を必要とし、科学が非科学を必要としているように、哲学は、哲学を理解している或る非哲学を必要とし、非哲学的理解を必要としているのだ。〔…〕それら三つの《非》は、脳平面から見ればまだ区別があるのだが、脳が潜んでいるカオスから見ればもはや区別はない。脳がそのように潜んでいるということについて、こうも言えそうである――芸術が名づけるような、しかしまた哲学と科学もそう名付けるような、「来たるべき民衆」の影が、カオスから引き出されるのだ、と。民衆-団塊、民衆-世界、民衆-脳、民衆-カオス。〔…〕三つの《非》のなかに横たわっている非思考的思考。そこでこそ、哲学と芸術と科学が、あたかも、それらの異なった本性をつらぬいて拡がりながら絶えずそれらに付き従う同じ影を共有しているかのように、識別不可能なものへと生成」する(367頁)。
ドゥルーズ哲学とは何か?
以下「ひとつの概念とは何か」より
もちろん、どの概念もひとつの歴史をもっている。わたしたちは、いま述べた他者概念によって、ライプニッツ、ライプニッツにおける可能的世界、そして世界の表現としてのモナド、この三つにまで遡ることができる。しかし、問題は同じではない。なぜなら、ライプニッツにおける可能的世界はリアルな世界のなかに存在するわけではないからである。その他者概念はまた、命題を扱う様相論理学をも指し示している。しかし命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない(ウィトゲンシュタインは、他者を、ひとつの他の主体とひとつの特別な対象のあいだで揺れ動くままにしておくので、恐怖や苦痛についての命題を考察するときでさえ、そうした命題に、或る〈他者の位置〉のなかで表現可能な諸様相〔可能性、現実性、必然性〕を見ることはできないのである)。可能世界〔という概念〕は長い歴史をもっている(1)。要するに、あらゆる概念についてわたしたちが言わんとしているのは、概念にはつねに歴史があるということだ。もちろん、この歴史がジグザグである場合もあるし、この歴史が、必要に応じて、他の諸問題を通過したりいろいろな平面のうえを通ったりする場合もある。一個の概念のなかには、たいてい、他の諸概念に出来する断片あるいは合成要素が存在するのであって、これらの断片や合成要素の方は、以前、他の諸問題に答え、他の諸平面を前提していたものなのである。それは当然のことである。なぜなら、概念はどれも新たな裁断をおこない、いくつもの新しい輪郭を身につけるものであるからだし、復活されるべきもの、あるいは裁ち直されるべきものであるからだ。
(1)この歴史は、ライプニッツとともに始まるわけではないが、ウィトゲンシュタインにおける恒常的なテーマとしての他者に関する命題(「彼は歯が痛い‥…」)からミシェル・トゥルニエにおける可能的世界論としての他者の位置(『フライデーあるいは太平洋の冥界』榊原晃三訳、「世界文学全集219』所収、河出書房新社)にわたるほどの様々なエピソードを経ている。
Obviously, every concept has a history. This concept of the other person goes back to Leibniz, to his possible worlds and to the monad as expression of the world. But it is not the same problem, because in Leibniz possibles do not exist in the real world. It is also found in the modal logic of propositions. But these do not confer on possible worlds the reality that corresponds to their truth conditions (even when Wittgenstein envisages propositions of fear or pain, he does not see them as modalities that can be expressed in a position of the other person because he leaves the other person oscillating between another subject and a special object). Possible worlds have a long history. 1 In short, we say that every concept always has a history, even though this history zigzags, though it passes, if need be, through other problems or onto different planes. In any concept there are usually bits or components that come from other concepts, which corresponded to other problems and presupposed other planes. This is inevitable because each concept carries out a new cutting-out, takes on new contours, and must be reactivated or recut.
1: What Is a Concept? 1. This history, which does not begin with Leibniz, passes through episodes as diverse as the constant theme of the proposition of the other person in Wittgenstein (“ he has toothache …”) and the position of the other person as theory of possible world in Michel Tournier, Friday, or The Other Island (Harmondsworth: Penguin, 1974).
明らかに、すべてのコンセプトには歴史があります。 この他の人の概念は、ライプニッツ、彼の可能な世界、そして世界の表現としてのモナドに戻ります。 ライプニッツの存在は現実世界に存在しないので、同じ問題ではありません。 それは命題の様相論理にも見られる。 しかし、これらは可能な世界に彼らの真理状態に対応する現実を与えるものではない( ウィトゲンシュタインが恐怖や痛みの命題を想定していても、彼は他の人の位置に表現できるモダリティとして見ない他の被験者と特別な対象物との間で振動する人物)。 可能な世界は長い歴史を持っています。 一言で言えば、私たちは、この歴史はジグザグになっていますが、必要に応じて他の問題や異なる飛行機を通過しても、すべてのコンセプトには常に歴史があります。 どのコンセプトにおいても、通常、他の問題や前提となった他の面に対応する他の概念に由来するビットやコンポーネントがあります。 これは、それぞれのコンセプトが新しい切り抜きを実行し、新しい輪郭を取り、再アクティブ化または再切断する必要があるため不可避です。
1:コンセプトとは? 1.ライプニッツで始まらないこの歴史は、ウィトゲンシュタインの他人の命題(彼は歯痛がある...)と、可能な世界の理論としての他者の立場を変えずにミシェル・トゥルニエ、金曜日、またはその他の島(Harmondsworth:Penguin、1974)。
ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』を解読する | Philosophy Guides
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-wittgenstein-untersuchungen/
他人の「痛み」
『論考』においては、世界は「私」が経験できる限りの世界であり、他人の存在しない独我論的な世界だった。だが本書においては、他人は言語ゲームのプレイヤーとして位置づけられる。
ここでヴィトゲンシュタインは、他人のもつ感覚、なかでも痛みを問題とする。
『論考』の観点では、他人の感覚、たとえば痛みを理解することはできない。それは直接に経験できないし、検証することもできない。したがって他人の痛みにについての命題には真偽が存在せず、問答無用にナンセンスとなる。だが言語ゲームのうちでは、経験の共通性がある限りで、直示的定義は可能となる。痛みもまた同様だ。
人間のようにふるまうものについてのみ、ひとは、それが痛みを感じている、と言うことができる。
確かに私は他人の痛みを直接にイメージすることはできないが、経験の類似性に基づいて理解することができる。経験の類似性は、身体の類似と生活形式の類似に基づく。言いかえると、人間としての共通性が、痛みの感覚の理解を支えているはずである。そうヴィトゲンシュタインは考えるのだ。
その点からすれば、私たちは、たとえば注射を打つときに他人がどのような痛みを感じているかを理解することはできるが、死の痛みを理解することはできないことになる。その痛みは、ただイメージすることしかできず、直示的に定義することはできない。なぜなら、死は生という言語ゲームから退場することであり、振る舞いの一致という可能性が失われる、まさしくその瞬間にほかならないからだ。