http://www.freeassociations.org/
ドゥルーズ『哲学とは何か』
結論
原注(12)ヒュームは、『人性論』において、この受動的観照-縮約による想像力を定義している(第一篇、第三部、第一四節)388頁^356頁
第十四節 必然的結合の観念について こうして、われわれが直接の印象を越えて推論し、しかじかの特定の原因はしかじかの特定の結果を伴わねばならぬと断定する、その仕方を解明しおえたので、今度
…
「原因」とは、他の対象に先行し、かつ近接した対象であり、前者と結びついて、一方の観念が他方の観念を形作るよう、一方の印象が他方のより生き生きとした観念を形作るように心を規定するものである
846 :
2016/11/06(日) 20:49:45.42 0
ドゥルーズ体系: >>846改
量子化
スピノザ 【 分 析 】 プラトン、カント
\ | / ハイデッガー
千のプラトー>>590
ライプニッツ \ | / ベルクソン
\|/
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】
>>440 />>796 >>782
フーコー>>817| \
(Marx) アンチ \フロイト
/・オイディプス>>853
サルトル 【 総 合 】 ニーチェ
哲学とは何か?
ヒューム
潜在的
実在的+可能的
現働的
科学ーー芸術
哲学
頁数は文庫版より
846 :
2016/11/06(日) 20:49:45.42 0
ドゥルーズ体系: >>846改
量子化
スピノザ 【 分 析 】 プラトン、カント
\ | / ハイデッガー
千のプラトー>>590
ライプニッツ \ | /
\|/
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】
>>440 />>796 >>782
フーコー>>817| \
(Marx) アンチ \フロイト
/・オイディプス>>853
サルトル 【 総 合 】 ニーチェ
哲学とは何か?
ヒューム
潜在的
実在的+可能的
現働的
ドゥルーズ体系: >>846改
量子化
スピノザ 【 分 析 】 プラトン、カント
\ ベルクソン / ハイデッガー
千のプラトー>>590 (感覚)
科学 ライプニッツ 芸術
\|/ (印象)
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】
>>440 /|>>796 >>782
フーコー>>817| \
マルクス / アンチ \ フロイト
/・オイディプス>>853
サルトル 【 総 合 】 ニーチェ
哲学とは何か?
ヒューム
潜在的
実在的◇現働的
可能的
virtualité
réalité◇actualité
possibilité
(潜在的なものは現働的であり得るが可能的ではあり得ない。
そのことを明確にするために下の概念図の記載方を変えた。)
ヒュームの原因↗︎から結果↙︎へと続く考察のどちらを重視するかで変わる。
In general, a state of affairs does not actualize a chaotic virtual without taking from it a potential that is distributed in the system of coordinates.
《一般的に言えば、〈物の状態〉は、カオスに属する潜在的なものを現働化させる場合には、かならず、ポテンシャルを、そのカオスに属する潜在的なものから借りて、それを座標系に配分するのである。》哲学とは何か#5:207
『哲学とは何か』の後半部はABCと内容が重なる。冒頭注のウィトへの記述から他者論としての認識が深まっているのもわかる。
#2の注で道元に触れている。
We refer also to the Zen text of the Japanese monk Dôgen, which invokes the horizon or “reserve(蔵)” of events: Shôbogenzo, trans. and with commentary by René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980).
中村亮二
35科学ーー芸術26
哲学14
7
記号と事件
哲学
…内在性の平面に垂直性をもちこみ、自分も背筋を伸ばして立つためなのでしょうか、それとも逆に、からだを横たえ、地平線に向かって走り、はるか彼方まで平面を拡げていくためなのか。
…垂直性すなわち超越性と考え、これを撤去したうえで、地面に寝そべって大地を抱きしめ、見ることもなく、反省も忘れ、さらに伝達の可能性まで捨てなければならないのか。
思考のイメージはいわば哲学の前提であり、哲学に先行しますが、この場合、思考のイメージは非哲学的理解のことではなく、前哲学的理解であると考えるべきでしょう。
ドゥルーズのヴィトゲンシュタイン嫌いは有名だが『哲学とは何か』ではABCの時から少しニュアンスが違う。可能世界論としてライプニッツとつなげている。現代に横行する分析哲学の一派とヴィトゲンシュタイン個人を分けている。前期『探究』ではなく後期『哲学探究』がドゥルーズの念頭にある。
ドゥルーズ哲学とは何か?
以下「ひとつの概念とは何か」より
もちろん、どの概念もひとつの歴史をもっている。わたしたちは、いま述べた他者概念によって、ライプニッツ、ライプニッツにおける可能的世界、そして世界の表現としてのモナド、この三つにまで遡ることができる。しかし、問題は同じではない。なぜなら、ライプニッツにおける可能的世界はリアルな世界のなかに存在するわけではないからである。その他者概念はまた、命題を扱う様相論理学をも指し示している。しかし命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない(ウィトゲンシュタインは、他者を、ひとつの他の主体とひとつの特別な対象のあいだで揺れ動くままにしておくので、恐怖や苦痛についての命題を考察するときでさえ、そうした命題に、或る〈他者の位置〉」のなかで表現可能な諸様相〔可能性、現実性、必然性〕を見ることはできないのである)。可能世界〔という概念〕は長い歴史をもっている(1)。要するに、あらゆる概念についてわたしたちが言わんとしているのは、概念にはつねに歴史があるということだ。もちろん、この歴史がジグザグである場合もあるし、この歴史が、必要に応じて、他の諸問題を通過したりいろいろな平面のうえを通ったりする場合もある。一個の概念のなかには、たいてい、他の諸概念に出来する断片あるいは合成要素が存在するのであって、これらの断片や合成要素の方は、以前、他の諸問題に答え、他の諸平面を前提していたものなのである。それは当然のことである。なぜなら、概念はどれも新たな裁断をおこない、いくつもの新しい輪郭を身につけるものであるからだし、復活されるべきもの、あるいは裁ち直されるべきものであるからだ。
(1)この歴史は、ライプニッツとともに始まるわけではないが、ウィトゲンシュタインにおける恒常的なテーマとしての他者に関する命題(「彼は歯が痛い‥…」)からミシェル・トゥルニエにおける可能的世界論としての他者の位置(『フライデーあるいは太平洋の冥界』榊原晃三訳、「世界文学全集219』所収、河出書房新社)にわたるほどの様々なエピソードを経ている。
Obviously, every concept has a history. This concept of the other person goes back to Leibniz, to his possible worlds and to the monad as expression of the world. But it is not the same problem, because in Leibniz possibles do not exist in the real world. It is also found in the modal logic of propositions. But these do not confer on possible worlds the reality that corresponds to their truth conditions (even when Wittgenstein envisages propositions of fear or pain, he does not see them as modalities that can be expressed in a position of the other person because he leaves the other person oscillating between another subject and a special object). Possible worlds have a long history. 1 In short, we say that every concept always has a history, even though this history zigzags, though it passes, if need be, through other problems or onto different planes. In any concept there are usually bits or components that come from other concepts, which corresponded to other problems and presupposed other planes. This is inevitable because each concept carries out a new cutting-out, takes on new contours, and must be reactivated or recut.
1: What Is a Concept? 1. This history, which does not begin with Leibniz, passes through episodes as diverse as the constant theme of the proposition of the other person in Wittgenstein (“ he has toothache …”) and the position of the other person as theory of possible world in Michel Tournier, Friday, or The Other Island (Harmondsworth: Penguin, 1974).
明らかに、すべてのコンセプトには歴史があります。 この他の人の概念は、ライプニッツ、彼の可能な世界、そして世界の表現としてのモナドに戻ります。 ライプニッツの存在は現実世界に存在しないので、同じ問題ではありません。 それは命題の様相論理にも見られる。 しかし、これらは可能な世界に彼らの真理状態に対応する現実を与えるものではない( ウィトゲンシュタインが恐怖や痛みの命題を想定していても、彼は他の人の位置に表現できるモダリティとして見ない他の被験者と特別な対象物との間で振動する人物)。 可能な世界は長い歴史を持っています。 一言で言えば、私たちは、この歴史はジグザグになっていますが、必要に応じて他の問題や異なる飛行機を通過しても、すべてのコンセプトには常に歴史があります。 どのコンセプトにおいても、通常、他の問題や前提となった他の面に対応する他の概念に由来するビットやコンポーネントがあります。 これは、それぞれのコンセプトが新しい切り抜きを実行し、新しい輪郭を取り、再アクティブ化または再切断する必要があるため不可避です。
1:コンセプトとは? 1.ライプニッツで始まらないこの歴史は、ウィトゲンシュタインの他人の命題(彼は歯痛がある...)と、可能な世界の理論としての他者の立場を変えずにミシェル・トゥルニエ、金曜日、またはその他の島(Harmondsworth:Penguin、1974)。
ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』を解読する | Philosophy Guides
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-wittgenstein-untersuchungen/
他人の「痛み」
『論考』においては、世界は「私」が経験できる限りの世界であり、他人の存在しない独我論的な世界だった。だが本書においては、他人は言語ゲームのプレイヤーとして位置づけられる。
ここでヴィトゲンシュタインは、他人のもつ感覚、なかでも痛みを問題とする。
『論考』の観点では、他人の感覚、たとえば痛みを理解することはできない。それは直接に経験できないし、検証することもできない。したがって他人の痛みにについての命題には真偽が存在せず、問答無用にナンセンスとなる。だが言語ゲームのうちでは、経験の共通性がある限りで、直示的定義は可能となる。痛みもまた同様だ。
人間のようにふるまうものについてのみ、ひとは、それが痛みを感じている、と言うことができる。
確かに私は他人の痛みを直接にイメージすることはできないが、経験の類似性に基づいて理解することができる。経験の類似性は、身体の類似と生活形式の類似に基づく。言いかえると、人間としての共通性が、痛みの感覚の理解を支えているはずである。そうヴィトゲンシュタインは考えるのだ。
その点からすれば、私たちは、たとえば注射を打つときに他人がどのような痛みを感じているかを理解することはできるが、死の痛みを理解することはできないことになる。その痛みは、ただイメージすることしかできず、直示的に定義することはできない。なぜなら、死は生という言語ゲームから退場することであり、振る舞いの一致という可能性が失われる、まさしくその瞬間にほかならないからだ。
W
では Wに移りましょう
Wは何もないだろう
ウィ卜ゲンシュタインです
それについては話したくない
あれは哲学の崩壊だ
学派というもののいい例だろう
哲学の退化と言うほかない
ウィ卜ゲンシュタインに関わることは もう 本当に嘆かわしい
彼らが作ったのは恐怖の体系だ
”何か新しいことをする”
そういう口実で一
豪勢な箱の中に貧相なものが 詰め込まれている
あれは...
あの危険を言い表す言葉はないね
この危険はしょっちゅうあるものだ だが深刻な問題なんだ
ウィ卜ゲンシュタイン派というのは 本当にイヤな奴らなんだ
彼らは何もかもを壊してしまう
彼らが勝利をおさめたら まさしく哲学の殺害だ
彼らは哲学を殺害する暗殺者だ
深刻ですね
そうだ
十分に注意しないとね
『哲学とは何か』でドゥルーズ゠ガタリは、カントの「諸学部の争い」について、「フーコー、ハーバーマス、リオタールのそれぞれ非常に異なる注解によって今日そのまったき重要性を取り戻した」[QPh, 96,n. 13/三七五─三七六、注一三]との認識を示している。ドゥルーズ゠ガタリ自身は、カントの論考を、あるいは、フーコーによるその注解をどう読んだのか。「熱狂」へのフーコーの着眼を引き継いで、彼らは次のように論じている。
近代の二つの大革命、すなわちアメリカ及びソビエトの革命があれほどひどい結果に終わったからといって、概念が自らの内在的な道を辿れないというわけではない。カントが指摘したように、革命概念は、必然的に相対的な社会野において革命が遂行され得るその仕方の中にあるのではなく、絶対的な内在平面の上で革命が思考される際のその「熱狂」の中にある。この「熱狂」を以てこそ、革命は、「いま‐ここ」における無限なものの提示として──理性的なものも、理にかなったものさえも一切含んでいない提示として──思考されるのだ。
…絶対的脱領土化が新たな大地に、新たな人民に呼びかけるまさにその場において、革命はこの絶対的脱領土化なのである。[QPh, 96-97/一七三─一七四]…
ドゥルーズ゠ガタリは、フーコーによるカント注解において「人類の恒常的進歩の原因」とされていたものを「革命概念」と、「自分たちにふさわしい政体と戦争を回避する政体とへ向かうすべての人民の心的傾向」とされいたものを「絶対的脱領土化」(精確には、絶対的な内在的脱領土化)と、それぞれ呼び改めている
三つの革命
科学5______芸術7
論理学6\ /
1 2美術
\/3小説
哲学4
8
目次
三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学(講談社選書メチエ)
三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学 (講談社選書メチエ)
佐藤嘉幸(著)/ 廣瀬純(著)
序 論 三つの革命
1 一つの戦略、三つの戦術
2 ドゥルーズとドゥルーズ=ガタリ
3 各章の構成
第一部 『アンチ・オイディプス』
第一章 切断と主体集団の形成
1 欲望諸機械と欲望的生産
2 オイディプス化と欲望的生産の抑圧
3 切断とその切断
第二章 プロレタリアによる階級闘争
1 六八年五月からロシア革命へ
2 利害から欲望へ
3 切断の切断、その二つの体制
4 なぜ欲望なのか
5 プロレタリアートから分裂者へ
補論 分裂分析と新たな主観性/主体性の生産
1 ラカン的「構造」から「欲望機械」へ
2 分裂分析とは何か
3 第二次分節から第三次分節へ
4 分裂分析と革命的切断
5 新たな集団的主観性/主体性の生産
第二部 『千のプラトー』
第一章 リゾームと横断性
1 リゾームとは何か
2 『千のプラトー』の権力理論
3 資本、国家、戦争機械
第二章 マイノリティによる公理闘争
1 プロレタリアートからマイノリティへ
2 公理闘争から生成変化へ
3 生成変化とは何か
4 実践としての分裂分析
5 万人による革命性への生成変化
補論 エイハブの恥辱か、フェダラーの勇気か
1 逃走線と自由
2 勇気か、恥辱か
3 外を内へと折り畳むこと、あるいは主体化
4 周縁者の危険
第三部 『哲学とは何か』
第一章 マジョリティによる政治哲学
1 マジョリティであることの恥辱
2 人権、NGO、ハイデガー問題
3 大地、革命、哲学
4 NGOからプラトン的演劇へ
第二章 革命、熱狂、概念
1 「革命とは何か」
2 六八年五月と「耐え難いもの」
3 「近代性とは何か」
結 論 分裂分析と私たち
1 分裂分析としての政治哲学
2 今日の日本における三つの戦線
3 プレカリアートによる階級闘争
4 市民による反ファシズム闘争
5 福島住民/琉球民族による人権闘争
6 絶望と政治哲学
【報告】「哲学と大学」 第2回「カント『学部の争い』」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/from/blog/2007/12/-philosophy-and-university-2-k/
Blog / ブログ
【報告】「哲学と大学」 第2回「カント『学部の争い』」
2007.12.09 └哲学と大学, 宮崎裕助
公開共同研究「哲学と大学」第2回は、UTCP共同研究員・宮崎裕助によるカントの『学部の争い』に関する発表だった。
IMG_1133a.jpg
⇒発表レジュメ「カントの『諸学部の争い』をめぐって」
『学部の争い』(1798年)は、『人間学』と並んで、カントが生前に公表した最後の著作である。初版の諸論文は検閲に遭って発禁処分となったため、序言には検閲を行ったフリードリッヒ・ヴィルヘルム二世への弁明が綴られている。大学論は第1部「哲学部と神学部との争い」で展開されており、この部分は日本語訳にしてわずか20頁ほどだが実に豊かな問題を提起している。
カントの時代、大学は三つの上級学部(神学部、法学部、医学部)と下級学部(哲学部)とから構成されている。上級学部の教説は国民に強力な影響力をもつ。神学部は各人の永遠の幸せを、法学部は社会の各成員の市民的な幸せを、医学部は肉体的な幸せ(長寿と健康)を対象とする。上級学部は政府から委託されて、文書にもとづく規約(聖書、国法、医療法規)を整備することで公衆の生活に直接的な影響を及ぼす。政府は上級学部の教説を認可し統御することで、国家権力を行使するのである。
他方、下級学部(哲学部)は国家の利害関心からは独立しており、その教説は国民の理性のみに委ねられる。哲学部は国家権力の後ろ盾がないが、しかし、すべての教説を判定する理性の自由を保証されている。哲学部は国家権力に対して反権力を対置するのではなく、一種の非権力、つまり権力とは異質の理性を対置することによって、この権力の限界画定を内側から試みるのだ(デリダ)。哲学部は大学の一学部として制度的に限定されると同時に、批判的理性を行使する無条件な権利をもつという点で学問の全領域を覆う。それゆえ、哲学部をめぐるアポリアは、ひとつの有限な場所と遍在的な非場所(シェリング)という二重性をもつ哲学部をどのように大学制度のうちに定着したらよいのか、という問いになるだろう。
上級学部と下級学部の争いは合法的なものであって、戦争ではない。上級学部が右派として政府の規約を弁護するならば、下級学部(哲学部)は反対党派(左派)として厳密な吟味検討をおこない、異論を唱える。理性という裁判官が真理を公に呈示するために判決を下すかぎりにおいて、この争いは国家権力に対しても有益なのである。その場合、まるで梃子の作用が働くように、真理への忠実さという点で哲学部は右派となり、上級学部は左派となるだろう。こうした大学の建築術的な図式において重要なことは、各勢力の争いの両極を分かつ支点において大学全体の方向を転換するような「梃子(モクロス)」(デリダ)の作用が維持されること、そうすることで、真理をめぐる複数の政治的戦略が可能性として残されることであるだろう。
IMG_1131a.jpg
討議の時間では、カントの大学論を現在の視点から読む上での注意事項が挙げられた。まず、カントのいう哲学部と哲学を分けて考える必要性だ。カントの時代の哲学部から文学部や理学部、経済学部などが派生してくるわけで、それは狭義の哲学部ではない。また、この大学論はカントの政治的な振る舞いが込められたテクストであり、その文脈を十分に考慮しなければならない。
大学の各学部の上級/下級という区分は、現在で言うと専門と基礎教養に対応するものだろうが、カントの区分は実によく練り上げられている。神学は来世、法学と医学は現世を対象とし、さらに法学と医学は社会的次元と身体的次元に関係する。上級学部は人間の生活に関わるほとんどすべての領域を包括するのであり、これを統御する国家は優れた「統治性」(フーコー)を発揮することができる。これに対して、下級学部(哲学部)には理性の自由が許可されるとカントは幾度も書いているのだが、意外にも、真理に関する記述は手薄である。つまり、カントは真理を実定的なものとして提示するのではなく、むしろ真理の可能性の条件を提示し、理性の自由な判断はいかにして可能かを論及するのだ。例えば、真理とは虚偽を発見し、これを排除する手続きであって、そのためには公開性の原則が保持されなければならない、というように。
「学者の形象」に関しても議論となった。カントは『啓蒙とは何か』において「als Gelehrter(学者として)」という表現を何度か使用して、理性の公的使用を説明した。日常生活において聖職者や士官として社会的役割をはたす人々が、「Gelehrter」として理性を世界市民的な視点から行使しうるとされる。この場合、「Gelehrter」は敢えて「知識人」と解した方がよい、という意見が出た。カントは大学教育を受けた者を原像として「Gelehrter」を使用し、これを「自分の見解を書くことを通じて表現できる者」という意味合いで使っているのではないか。こうした「学者の形象」を踏まえて、それでは、誰もが「自分の見解を書くことを通じて表現できる」この高度情報化社会において、「在野の学者」とはいったい誰のことを指すのか、という問いも発せられた。
前回に引き続き関西から参加してくれた斉藤渉氏(大阪大学)は、カントの時代の大学制度に関して詳細なコメントを加えてくれた。次回(1月28日)は、フンボルト研究者である斉藤氏による発表である。あのフンボルトの大学理念がいよいよ登場するわけだ。
(文責:西山雄二)
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発表レジュメ「カントの『諸学部の争い』をめぐって」. 『学部の争い』(1798年)は、『人間 学』と並んで、カントが生前に公表した最後の著作である。初版の諸論文は検閲に遭って 発禁処分となったため、序言には検閲を行ったフリードリッヒ・ヴィルヘルム二世への 弁明が綴られている。大学論は第1部「哲学部と神学部との争い」で展開されており、 この部分は日本語訳にしてわずか20頁ほどだが実に豊かな問題を提起している。 カントの時代、大学は三つの上級学部(神学部、法学部、医学部)と下級学部( ...
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諸学部の争い - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/諸学部の争い
カントによれば、人生には三つの重大な幸福の追求がある:1)健康の追求(肉体(物質) 的)、2)社会的な平和の追求(社会的)、3)信仰上の平安(宗教的)。これらのぞれぞれ を研究する学問の学部である医学部と法学部と神学部は社会上の権威と同時に権力も 握っていた。カントはこれらを上級学部と名づける。これに対し当時の哲学部は下級学部 として上級学部より劣った立場として扱われていた。諸学部の争いとは以上の上級学部 と下級学部の争いを指す。カントは、上級学部の価値判断はすべて歴史的・経験的で ...
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%AD%A6%E9%83%A8%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84
諸学部の争い
ページの問題点
「諸学部の争い」は草稿などを除く、刊行物の中でカントの最晩年に書かれた本である。この本は発禁を避けるため、慎重に時期を伺って刊行期日が選ばれて出版された。
カントによれば、人生には三つの重大な幸福の追求がある:1)健康の追求(肉体(物質)的)、2)社会的な平和の追求(社会的)、3)信仰上の平安(宗教的)。これらのぞれぞれを研究する学問の学部である医学部と法学部と神学部は社会上の権威と同時に権力も握っていた。カントはこれらを上級学部と名づける。これに対し当時の哲学部は下級学部として上級学部より劣った立場として扱われていた。諸学部の争いとは以上の上級学部と下級学部の争いを指す。カントは、上級学部の価値判断はすべて歴史的・経験的であり、下級学部の哲学による判断の方が先見的・理知的であるとして、上下の優劣の逆転を説く。つまり哲学こそが最も諸学のなかで勝る学問であるとした。とりわけ宗教的権威である教会の堕落への批判は痛烈である。[1]
カントはこの本の中で専門家以外の外部の意見が自由な討議を妨げる恐れがあるから、専門家の議論の過程は公には公開すべきではないと主張する。
脚注または引用文献 編集
^ 角忍; 竹山重光; 久保光志; 他 (2002-11-26). カント全集18. 岩波書店.
ノート
哲学探究
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか? そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供はその語を他人に理解させることができない。 ―― つまり、子供は名前を理解しているが、その意味を誰にも説明できないというのか? ―― しかしそうすると、彼は「自分の痛みに名前を付けた」とはどういう意味なのか? ―― 彼はいかにして、痛みに名前を付けるということを行ったのか?! そして、彼が何をしたにせよ、それはどういう目的を持っていたのか? ―― 人が「彼はその感覚に名前を与えた」と言うとき、その人は、単なる名づけが意義を持つためには、言語において既に多くのことが準備されていなくてはならないということを忘れている。そして私たちが痛みに名前を与えることについて語るとき、「痛み」という語の文法こそが、その準備されていたものである。文法が、この新しい語が置かれることになる位置を示すのである。
哲学史はドゥルーズの言葉で言えばダイアグラムということになる
収束と発散を同時に捉えるのだ
《命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない》(ドゥルーズ)
これはウィトゲンシュタイン批判というより分析哲学批判である
ウィトはウィトなりにリアリティーにこだわっているからだ
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
《257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか?
そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、
その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供は
その語を他人に理解させることができない。 ―― つまり、子供は名前を理解しているが、
その意味を誰にも説明できないというのか? ―― しかしそうすると、彼は「自分の痛み
に名前を付けた」とはどういう意味なのか? ―― 彼はいかにして、痛みに名前を付ける
ということを行ったのか?! そして、彼が何をしたにせよ、それはどういう目的を持っ
ていたのか? ―― 人が「彼はその感覚に名前を与えた」と言うとき、その人は、単なる
名づけが意義を持つためには、言語において既に多くのことが準備されていなくてはなら
ないということを忘れている。そして私たちが痛みに名前を与えることについて語るとき、
「痛み」という語の文法こそが、その準備されていたものである。文法が、この新しい語が
置かれることになる位置を示すのである。》
ドゥルーズによって可能世界論はライプニッツ、ウィト、トゥルニエと新たな様相を呈するようになる
この場合、文学の優位は意味規定を最初に行う必要がないということだ
芸術の意味は時代によって多義的になるから
哲学史はドゥルーズの言葉で言えばダイアグラムということになる
収束と発散を同時に捉えるのだ
《命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない》(ドゥルーズ)
これはウィトゲンシュタイン批判というより分析哲学批判である
ドゥルーズによってウィトは一応可能世界論の系譜には位置付けられている
罵倒(発散)すれば批判になるわけではない
ウィトを擁護するなら以下のようにウィトはウィトなりにリアリティーにこだわっている
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c257
《257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか?
そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、
その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供は
その語を他人に理解させることができない。 ―― つまり、子供は名前を理解しているが、
その意味を誰にも説明できないというのか? ―― しかしそうすると、彼は「自分の痛み
に名前を付けた」とはどういう意味なのか? ―― 彼はいかにして、痛みに名前を付ける
ということを行ったのか?! そして、彼が何をしたにせよ、それはどういう目的を持っ
ていたのか? ―― 人が「彼はその感覚に名前を与えた」と言うとき、その人は、単なる
名づけが意義を持つためには、言語において既に多くのことが準備されていなくてはなら
ないということを忘れている。そして私たちが痛みに名前を与えることについて語るとき、
「痛み」という語の文法こそが、その準備されていたものである。文法が、この新しい語が
置かれることになる位置を示すのである。》
ドゥルーズによって可能世界論はライプニッツ、ウィト、トゥルニエと新たな様相を呈するようになる
この場合、文学の優位は意味規定を最初に行う必要がないということだ
芸術の意味は時代によって多義的になるから当たり前だ
ただし哲学的にはウィトはダイアグラムを作成していないのでカントに及ばないということになる
哲学史はドゥルーズの言葉で言えばダイアグラムということになる
収束と発散を同時に捉えるのだ
《命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない》(ドゥルーズ)
これはウィトゲンシュタイン批判というより分析哲学批判である
ドゥルーズによってウィトは一応可能世界論の系譜には位置付けられている
罵倒(発散)すれば批判になるわけではない
ドゥルーズによって可能世界論はライプニッツ、ウィト、トゥルニエと新たな様相を呈するようになる
この場合、文学の優位は意味規定を最初に行う必要がないということだ
芸術の意味は時代によって多義的になるから当たり前だ
ただし哲学的にはウィトはダイアグラムを作成していないのでカントに及ばないということになる
ウィトを擁護するなら以下のようにウィトはウィトなりにリアリティーにこだわってはいる
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c257
《257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか?
そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、
その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供は
その語を他人に理解させることができない。 ―― つまり、子供は名前を理解しているが、
その意味を誰にも説明できないというのか? ―― しかしそうすると、彼は「自分の痛み
に名前を付けた」とはどういう意味なのか? ―― 彼はいかにして、痛みに名前を付ける
ということを行ったのか?! そして、彼が何をしたにせよ、それはどういう目的を持っ
ていたのか? ―― 人が「彼はその感覚に名前を与えた」と言うとき、その人は、単なる
名づけが意義を持つためには、言語において既に多くのことが準備されていなくてはなら
ないということを忘れている。そして私たちが痛みに名前を与えることについて語るとき、
「痛み」という語の文法こそが、その準備されていたものである。文法が、この新しい語が
置かれることになる位置を示すのである。》
哲学史はドゥルーズの言葉で言えばダイアグラムということになる
収束と発散を同時に捉えるのだ
《命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない》(ドゥルーズ)
これはウィトゲンシュタイン批判というより分析哲学批判である
ドゥルーズによってウィトは一応可能世界論の系譜には位置付けられている
罵倒(発散)すれば批判になるわけではない
ドゥルーズによって可能世界論はライプニッツ、ウィト、トゥルニエと新たな様相を呈するようになる
この場合、文学の優位は意味規定を最初に行う必要がないということだ
芸術の意味は時代によって多義的になるから当たり前だ
ただし哲学的にはウィトはダイアグラムを作成していないのでカントに及ばないということになる
ウィトを擁護するなら以下のようにウィトはウィトなりにリアリティーにこだわってはいる
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c257
《257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか?
そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、
その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供は
その語を他人に理解させることができない。 …》
《ウィトゲンシュタインは、他者を、ひとつの他の主体とひとつの特別な対象のあいだで揺れ動く
ままにしておくので、恐怖や苦痛についての命題を考察するときでさえ、そうした命題に、或る
〈他者の位置〉のなかで表現可能な諸様相〔可能性、現実性、必然性〕を見ることはできないのである》
(『哲学とは何か』邦訳文庫版33-4頁参照)
哲学史はドゥルーズの言葉で言えばダイアグラムということになる
収束と発散を同時に捉えるのだ
《命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない》(ドゥルーズ)
これはウィトゲンシュタイン批判というより分析哲学批判である
ドゥルーズによってウィトは一応可能世界論の系譜には位置付けられている
罵倒(発散)すれば批判になるわけではない
ドゥルーズによって可能世界論はライプニッツ、ウィト、トゥルニエと新たな様相を呈するようになる
この場合、文学の優位は意味規定を最初に行う必要がないということだ
芸術の意味は時代によって多義的になるから当たり前だ
ただし哲学的にはウィトはダイアグラムを作成していないのでカント(のカテゴリー論)に及ばないということになる
ウィトを擁護するなら以下のようにウィトはウィトなりにリアリティー、他者にこだわってはいる
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c257
《257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか?
そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、
その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供は
その語を他人に理解させることができない。 …》
哲学史はドゥルーズの言葉で言えばダイアグラムということになる
収束と発散を同時に捉えるのだ
《命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない》(ドゥルーズ)
これはウィトゲンシュタイン批判というより分析哲学批判である
ドゥルーズによってウィトは一応可能世界論の系譜には位置付けられている
罵倒(発散)すれば批判になるわけではない
ドゥルーズによって可能世界論はライプニッツ、ウィト、トゥルニエと新たな様相を呈するようになる
この場合、文学の優位は意味規定を最初に行う必要がないということだ
芸術の意味は時代によって多義的になるから当たり前だ
ただし哲学的にはウィトはダイアグラムを作成していないのでカント(のカテゴリー論)に及ばないということになる
ウィトを擁護するなら以下のようにウィトはウィトなりにリアリティー、他者にこだわってはいる
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c257
《257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか?
そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、
その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供は
その語を他人に理解させることができない。 …》哲学探究
《命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない》(「ひとつの概念とは何か」ドゥルーズ)
これはウィトゲンシュタイン批判というより分析哲学批判である
ドゥルーズによってウィトは一応可能世界論の系譜には位置付けられている
罵倒(発散)すれば批判になるわけではない
ドゥルーズによって可能世界論はライプニッツ、ウィト、トゥルニエと新たな様相を呈するようになる
この場合、文学の優位は意味規定を最初に行う必要がないということだ
芸術の意味は時代によって多義的になるから当たり前だ
ただし哲学的にはウィトはダイアグラムを作成していないのでカント(のカテゴリー論)に及ばないということになる
ウィトを擁護するなら以下のようにウィトはウィトなりにリアリティー、他者にこだわってはいる
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c257
《257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか?
そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、
その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供は
その語を他人に理解させることができない。 …》哲学探究
《命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない》
(ドゥルーズ『哲学とは何か』)
これはウィトゲンシュタイン批判というより分析哲学批判である
ドゥルーズによってウィトは一応可能世界論の系譜には位置付けられている
罵倒(発散)すれば批判になるわけではない
ドゥルーズによって可能世界論はライプニッツ、ウィト、トゥルニエと新たな様相を呈するようになる
この場合、文学の優位は意味規定を最初に行う必要がないということだ
芸術の意味は時代によって多義的になるから当たり前だ
ただし哲学的にはウィトはダイアグラムを作成していないのでカント(のカテゴリー論)に及ばないということになる
ウィトを擁護するなら以下のようにウィトはウィトなりにリアリティー、他者にこだわってはいる
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c257
《257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか?
そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、
その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供は
その語を他人に理解させることができない。 …》哲学探究
《命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない》
(ドゥルーズ『哲学とは何か』)
これはウィトゲンシュタイン批判というより分析哲学批判である
(日本では分析哲学は大学の一般教養レベルでさらなる普及が望まれるが西欧では状況が違う)
ドゥルーズによってウィトは一応可能世界論の系譜には位置付けられている
罵倒(発散)すれば批判になるわけではない
ドゥルーズによって可能世界論はライプニッツ、ウィト、トゥルニエと新たな様相を呈するようになる
この場合、文学の優位は意味規定を最初に行う必要がないということだ
芸術の意味は時代によって多義的になるから当たり前だ
ただし哲学的にはウィトは(発散と収束を同時に捉える)ダイアグラムを作成していないので
カント(のカテゴリー論)に及ばないということになる
ドゥルーズの貢献はカントではなくスピノザ哲学の普及だが…
ウィトを擁護するなら以下のようにウィトはウィトなりにリアリティー、他者にこだわってはいる
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c257
《257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか?
そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、
その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供は
その語を他人に理解させることができない。 …》哲学探究
ドゥルーズは現代におけるウィトに対するスラッファみたいな存在だ
J.Tsushima (@JojiTsushima)
2019/06/12 16:25
すごい本がでた。ケプラーやライプニッツ、ニュートンとかが書いたラテン語のアンソロジー。語彙や文法の説明が充実していて初心者~中級者向け。ごく一部の層を見事に狙い撃ちしてる。
Latin of Science
bolchazy.com/Latin-of-Scien…
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ドゥルーズ哲学とは何か?
以下「ひとつの概念とは何か」より
もちろん、どの概念もひとつの歴史をもっている。わたしたちは、いま述べた他者概念によって、ライプニッツ、ライプニッツにおける可能的世界、そして世界の表現としてのモナド、この三つにまで遡ることができる。しかし、問題は同じではない。なぜなら、ライプニッツにおける可能的世界はリアルな世界のなかに存在するわけではないからである。その他者概念はまた、命題を扱う様相論理学をも指し示している。しかし命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない(ウィトゲンシュタインは、他者を、ひとつの他の主体とひとつの特別な対象のあいだで揺れ動くままにしておくので、恐怖や苦痛についての命題を考察するときでさえ、そうした命題に、或る〈他者の位置〉のなかで表現可能な諸様相〔可能性、現実性、必然性〕を見ることはできないのである)。可能世界〔という概念〕は長い歴史をもっている(1)。要するに、あらゆる概念についてわたしたちが言わんとしているのは、概念にはつねに歴史があるということだ。もちろん、この歴史がジグザグである場合もあるし、この歴史が、必要に応じて、他の諸問題を通過したりいろいろな平面のうえを通ったりする場合もある。一個の概念のなかには、たいてい、他の諸概念に出来する断片あるいは合成要素が存在するのであって、これらの断片や合成要素の方は、以前、他の諸問題に答え、他の諸平面を前提していたものなのである。それは当然のことである。なぜなら、概念はどれも新たな裁断をおこない、いくつもの新しい輪郭を身につけるものであるからだし、復活されるべきもの、あるいは裁ち直されるべきものであるからだ。
(1)この歴史は、ライプニッツとともに始まるわけではないが、ウィトゲンシュタインにおける恒常的なテーマとしての他者に関する命題(「彼は歯が痛い‥…」)からミシェル・トゥルニエにおける可能的世界論としての他者の位置(『フライデーあるいは太平洋の冥界』榊原晃三訳、「世界文学全集219』所収、河出書房新社)にわたるほどの様々なエピソードを経ている。
Obviously, every concept has a history. This concept of the other person goes back to Leibniz, to his possible worlds and to the monad as expression of the world. But it is not the same problem, because in Leibniz possibles do not exist in the real world. It is also found in the modal logic of propositions. But these do not confer on possible worlds the reality that corresponds to their truth conditions (even when Wittgenstein envisages propositions of fear or pain, he does not see them as modalities that can be expressed in a position of the other person because he leaves the other person oscillating between another subject and a special object). Possible worlds have a long history. 1 In short, we say that every concept always has a history, even though this history zigzags, though it passes, if need be, through other problems or onto different planes. In any concept there are usually bits or components that come from other concepts, which corresponded to other problems and presupposed other planes. This is inevitable because each concept carries out a new cutting-out, takes on new contours, and must be reactivated or recut.
1: What Is a Concept? 1. This history, which does not begin with Leibniz, passes through episodes as diverse as the constant theme of the proposition of the other person in Wittgenstein (“ he has toothache …”) and the position of the other person as theory of possible world in Michel Tournier, Friday, or The Other Island (Harmondsworth: Penguin, 1974).
明らかに、すべてのコンセプトには歴史があります。 この他の人の概念は、ライプニッツ、彼の可能な世界、そして世界の表現としてのモナドに戻ります。 ライプニッツの存在は現実世界に存在しないので、同じ問題ではありません。 それは命題の様相論理にも見られる。 しかし、これらは可能な世界に彼らの真理状態に対応する現実を与えるものではない( ウィトゲンシュタインが恐怖や痛みの命題を想定していても、彼は他の人の位置に表現できるモダリティとして見ない他の被験者と特別な対象物との間で振動する人物)。 可能な世界は長い歴史を持っています。 一言で言えば、私たちは、この歴史はジグザグになっていますが、必要に応じて他の問題や異なる飛行機を通過しても、すべてのコンセプトには常に歴史があります。 どのコンセプトにおいても、通常、他の問題や前提となった他の面に対応する他の概念に由来するビットやコンポーネントがあります。 これは、それぞれのコンセプトが新しい切り抜きを実行し、新しい輪郭を取り、再アクティブ化または再切断する必要があるため不可避です。
1:コンセプトとは? 1.ライプニッツで始まらないこの歴史は、ウィトゲンシュタインの他人の命題(彼は歯痛がある...)と、可能な世界の理論としての他者の立場を変えずにミシェル・トゥルニエ、金曜日、またはその他の島(Harmondsworth:Penguin、1974)。
ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』を解読する | Philosophy Guides
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-wittgenstein-untersuchungen/
他人の「痛み」
『論考』においては、世界は「私」が経験できる限りの世界であり、他人の存在しない独我論的な世界だった。だが本書においては、他人は言語ゲームのプレイヤーとして位置づけられる。
ここでヴィトゲンシュタインは、他人のもつ感覚、なかでも痛みを問題とする。
『論考』の観点では、他人の感覚、たとえば痛みを理解することはできない。それは直接に経験できないし、検証することもできない。したがって他人の痛みにについての命題には真偽が存在せず、問答無用にナンセンスとなる。だが言語ゲームのうちでは、経験の共通性がある限りで、直示的定義は可能となる。痛みもまた同様だ。
人間のようにふるまうものについてのみ、ひとは、それが痛みを感じている、と言うことができる。
確かに私は他人の痛みを直接にイメージすることはできないが、経験の類似性に基づいて理解することができる。経験の類似性は、身体の類似と生活形式の類似に基づく。言いかえると、人間としての共通性が、痛みの感覚の理解を支えているはずである。そうヴィトゲンシュタインは考えるのだ。
その点からすれば、私たちは、たとえば注射を打つときに他人がどのような痛みを感じているかを理解することはできるが、死の痛みを理解することはできないことになる。その痛みは、ただイメージすることしかできず、直示的に定義することはできない。なぜなら、死は生という言語ゲームから退場することであり、振る舞いの一致という可能性が失われる、まさしくその瞬間にほかならないからだ。