火曜日, 5月 03, 2016

ドゥルーズのABC…"アベセデー ル"("Abécédaire"deGilleDeleuze1988–1989):(http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/abecedaire-de-gille-deleuze.html#)

ドゥルーズのABC『"アベセデール"』("Abécédaire" deGilleDeleuze1988–1989):(http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/abecedaire-de-gille-deleuze.html#)  
             (リンク::::::::::ドゥルーズ体系、ABC:本頁)

ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日)

ドゥルーズ『アベセデール』(Abécédaire de Gille Deleuze) はじめに
 1: 動物(Animal)飲酒(Boisson)教養(Culture)欲望(Désir)/子ども時代(Enfance)/忠実さ(Fidélité)
 2: 左派(Gauche)哲学史(Histoire de la philosophie)/アイデア(Idée)/喜び(Joie)カント(Kant)/文学(Literature)病気 (Maladie)
 3:神経科学 (Neurologie)/オペラ (Opéra)/教師 (Professeur)/問い (Question)/抵抗 (Résistance)/文体 (Style)テニス (Tennis)/一者 (Un)/旅行 (Voyage)ウィトゲンシュタイン (Wittgenstein)/(未知数、言葉にできないもの (X & Y comme inconnues))/ジグザグ (Zigzag)

英語訳:

Stivale/Deleuze's Abecedaire

http://www.langlab.wayne.edu/CStivale/D-G/ABCs.html

ドゥルーズ体系:     分子化
      スピノザ 【 分 析 】 Heidegger
     Hegel\ 一者喜び /   オペラ 子ども時代
   飲酒  量   千のプラトー/   質(生成変化)
  神経科学  ライプニッツ| ベルクソン アイデア 左派 
ウィトゲンシュタイン ABC|/Kant 忠実さ     教師  
【規定】差異と反復教養シネカント意味の論理学【反省】
       問い  欲望/|\ 哲学史 文体 文学 テニス  
   病気 関係 フーコー |(ヒューム)様相(芸術) 抵抗 
   旅行  (Marxアンチ Freud  
     動物    /・オイディプス\   ジグザグ
  未知数 サルトル 【 総 合 】 ニーチェNietzsche

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   .sub       .srt   
ドゥルーズ『アベセデール』
http://urag.exblog.jp/21685130/
 1:動物/飲酒/教養/欲望/子ども時代/忠実さ
 2:左派/哲学史/アイデア/喜び/カント/文学/病気   
 3:神経科学/オペラ/教師/問い/抵抗/文体/テニス/一者/旅行/ウィトゲンシュタイン/(未知数、言葉にできないもの)/ジグザグ
"A comme Animal," "B comme Boisson," "C comme Culture," "D comme Désir," "E comme Enfance," "F comme Fidélité," "G comme Gauche," "H comme Histoire de la philosophie", "I comme Idée, "J comme Joie", "K comme Kant", "L comme Literature,"M comme Maladie,"N comme Neurologie", "O comme Opéra", "P comme Professeur", "Q comme Question," "R comme Résistance", "S comme Style","T comme Tennis","U comme Un", "V comme Voyage", "W comme Wittgenstein, "X & Y comme inconnues," "Z comme Zigzag"

パリ第八大学ヴァンセンヌ校 1980 
(授業風景)
_____
(室内)
A B C順でお話をするわけだが
私にはテ一マは伝えられているものの質問の方は知らない
だから テ一マについては考えたけれども一
十分には考えずに 答えることになる
これは私にとっては 途方もないことだ 分かるね
救いなのは ここでの決め事だ
映像がうまくできても すベて私の死後に発表すること
なんだかもうすでに自分が一
ブ一タン監督の記録文書*になってしまった気持ちだ
そのことに元気づけられるし 慰められもするけれども一
俗世聞を離れた精霊になって お話しするわけだ 死んだあとに
話は順番に 進めればいいわけだが
そういう精霊には一
深みのある気の利いた答えは出せない 話せるのは簡単なことだけだ
まあそんな感じになるね
じゃあ始めようか A B C D お好きなものから

(引用者注:はじめはチベット「死者の書」のことかと思ったが、この作品を撮った監督名。パルネ(Claire Parnet)はあくまでインタビュアー。英語版字幕では「So, you understand, I feel myself being reduced to the state of a pure archive for Pierre-André Boutang, to a sheet of paper,」となっている。
ピエール=アンドレ・ブタンは、レヴィナスのドキュメンタリーも1988年(ドゥルーズのインタビューの収録年)に撮っている。ABCの公開は1996年。)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Pierre-Andr%C3%A9_Boutang  
 http://www.opensubtitles.org/en/subtitles/6092224/l-abecedaire-de-gilles-deleuze-en
______


 ではAから始めましょう
 Aで取り上げるのは"動物"です
 あなたのためにW・C・フィ一ルズの 言葉を引用しましょう
 "子どもも動物も嫌いな人間が 悪い奴だということはありえない"
 とりあえず子どもは 置いておきましょうか
 あなたは 飼い慣らされた動物はお嫌いです
 ボ一ドレ一ルやコク卜一が 使った区別を受け入れませんね
 つまり 犬よりも猫がいいわけでもない
 でも あなたの作品には 動物がたくさん現れます
 しかも割と不愉快な動物です 高貴な野獣ではなくて一
 ダニとかシラミとか そういう不愉快な動物ですね
 また「アンチ・オイディプス」以降 動物は重要な概念でもある
 "動物ヘの生成変化"のことです
 あなたの動物との関係を 教えていただけますか?

動物... 飼いならされた動物との 関係と言ったけど
私が気になるのは家畜とが 野生動物のことじゃない
問題なのは猫とか犬とか一
人の近くにいて しかも 家族の一員となっている動物だ
そうした動物が飼い馴らされていたら 好きになれない しかし一
家畜化されても 人になつかず 家族にもならない動物もいる
そういう動物は好きだ 何かを感じる
私の場合 多くの家庭でもそうだろうが
猫も犬もいなかった でもある時 息子が連れてきたんだ
息子の小さな手と 同じくらいの大きさの子猫だった
その時は田舎にいたのだが ワラの中で見つけたらしい
結局 その時から一
うちにはいつも猫がいる
これらの動物の 何がイヤかというと一
どうしようもなくイヤという ことではないんだけれど一
私はすり寄ってくるものが 嫌いなんだ
猫はいつもすり寄ってくる それがイヤなんだ
犬は別だ
犬について非難したいのは 吠えるところだ
吠え声というのは 本当に愚かな叫び声だ
自然の中には実にたくさんの 叫び声があるが一
吠え声は 本当に動物界の恥さらしだ
まだ耐えられる吠え声もあって一
月に向かった遠吠え 月に向かって遠吠えする犬
あれなら耐えられる 何と言うのか知らないが
"死に向かって吠える"
"死に向かって"か あれは吠え声よりましだ
最近 犬と猫に関する 社会保障費の不正があったらしい
それで猫や犬が もっと嫌いになった
ばかげていると 思われるかもしれないが
本当に猫や犬が好きな人は 彼らと人間的でない関係を結んでいる
例えば子どもたちと猫の関係は 人間的な関係じゃない
それは子どもっぽい関係だ
つまり重要なのは 動物と動物的関係を結ぶこと
それは動物に 話しかけることではない
とにかく耐えがたいのは 動物との人間的な関係だ
なせ こんなことを言うのかというと 私が住んでいるこの通りは人が少ない
犬を散歩させている人が いるのだが一
窓から聞こえてくるのは 本当にあきれるようなことだ
人が動物に話しかける時の ばかばかしさったらない
精神分析も 指摘していることだが一
精神分析では 人になついた動物や 家族になった動物ばかりが注目されてきた
家族が飼っている動物だ
夢に現れる動物にしても 父とが母とが子どもとが一
つまり家族の一員と解釈されてきた
おぞましいことだ
アンリ・ルソ一の傑作 "ジュニエ爺さんの馬車"でも一
馬車の中の犬は 本当におじいさんだ
あるいは “戦争" に描かれた馬 あれはまさしく獣だ

問題は動物とどんな関係を結んでいるかだ
動物が好きな人は 動物と人間的な関係は結ばない
動物的な関係を結ぶ それはとても素敵だ
猟師でさえもそうだ
猟師は好きじゃないが 彼らは動物と驚くベき関係を結んでいる
別のことを尋ねていたね
そうだ クモとがダニとか シラミに私は魅了されている
それらは犬や猫と同じぐらい重要なんだ
体にダニやシラミがいるのも 動物との関係だ
実に活動的な動物と 関係を持っているわけだ
動物の何が私を惹かれてるのか...
ある種の動物が憎いのも 多くの動物に惹かれているからだ
頑張って説明してみよう 動物の何が私を驚かせるのか...
まず あらゆる動物は 自分の世界を持っている
自分の世界を持たない人間が 多いのに
そうした人間は 皆と同じ世界を生きている
他人と変わらぬ世界だ
動物は皆 自分の世界を持っている
動物の世界は驚くほど制限されていたりする
これは実に感動的だ
動物はほんの少しのことにしか 反応しない
話を中断しても構わないよ もし...
(中断)
動物のこの特徴は一
動物の生きる 特殊な世界を示している
私にとって印象的なのは一
動物の世界が貧しく とても切りつめられていることだ
例えば先ほど ダニの話をした
ダニは3つのことに反応する
自然の中で3つの刺激にしか反応しない これを説明しよう
ダニは光に導かれて 木の枝の端に向かう
高い枝の先でダニは待つ
何も食ベずに何年も待つことができる 全く生気のない状態でだ
獲物となる動物が 枝の下を通るのを待ち一
ある種のにおいに刺激されると ダニは飛び降りる
獣のにおいを感じるんだ これが第二の刺激だ
最初に光 次がにおい、
ダニは この哀れな獣の背中に乗ると 毛が少ない爆所を探す
これは触覚の刺激だ そして皮膚の中に入り込む
こう言ってよければ一
ダニにとって 他の刺激はどうでもいい
刺激に溢れる自然から たった3つの刺激を取り出している
 その生き方が理想と ?
いや
 動物のそこに関心が? 
そういうものが一つの世界を 作っているということだね
 あなたの考える一
 動物と物書きの関係はどうですか? 物書きも一つの世界を持つわけですが... 
いや 動物であるためには 一つの世界を持てば済むわけではない
私が心惹かれるのは 縄張りとか領土のことだ
私とフェリックス・ガタリは領土についての哲学的概念を作った
動物が領土を持っているというのは驚くべきことだ
というのも 領土を作り出すというのは 芸術の誕生に等しいから
動物が自分の領土をマ一クする方法を話す時一
いつもお尻の穴とか おしっこの話になる
動物はそれで自分の領土をマ一クすると
でもそれだけじゃない
領土をマ一クする時の 一連のポ一ズがある
身をかがめるとが 身を起こすとか
あるいは 一連の色もある
例えばマンドリルは 尻の色で領土の境界線を示す
色と歌と姿勢 これらは 芸術を定義する3つの要素だ
動物のポーズというのは しばしば本当に線なのだが一
色と線 そして歌 これは純粋な状態にある芸術だ
動物は領土から出たり戻ったりするわけだが一
領土というのは所有の領域にある
領土が所有されている つまり持ち物であるというのは面白い
ただし ベケッ卜やミショーが 言う意味での持ち物だがね
領土というのは動物の持ち物だ
だがら そこから出ていくのは 危険だ
自分の連れ合いを 見分ける動物がいる
でも 彼らは領土の外では うまく見分けられない
驚くベきことだ 何という鳥だったかは忘れたが
本当の話だ
そしてフェリックスと一緒に...
ここで少し動物を離れて 哲学の問題を提起しよう
ここでは思いつくままに話をするよ
哲学者は破格な言葉を作り上げると 非難されることがある
でも私の身になって 考えてもらいたい
領土の概念を考えたのは 理由があってのこと
領土は必ずそこから出ていく運動と関係を持つ
だから運動と領土を まとめる言葉が要る 見たところ破格だが一
それがフェリックスと一緒に作り上げた 大好きな言葉"脱領士化"だ
"脱領土化"については よく言われた "発音しにくい言葉だが 必要なのか?"と
これは哲学の慨念を 新しい言葉でうまく示したケ一スだ
だが 他の言語の中に ちょうどよい語が見つかることもある
例えばメルヴィルの小説に一
"アウ卜ランディッシュ" という語が出てくる
うまく発音できないから自分でうまく言い直してくれ
これはまさしく “脱領土化された“という意味だ
動物の話に戻る前に言っておこう 驚くベきことだが一
哲学では破格な言葉を 作り出さねばならないことがある
新しい概念のために 乱暴とも思える語が必要になるんだ
"脱領土化"は新しい慨念として 提示されたものだ
領土から出ていく動きがなけれぱ 領土は存在しないし一
領土を再領土化する 運動がなければ一
領土を出ていく運動 すなわち 脱領土化の運動もないからだ 
こうしたことが動物には起こっている それに心惹かれるんだ
心惹かれるのは 動物が発するサインだ
動物は絶えずサインを発している
二重の意味でだ
まず動物はサインに反応する 
例えばクモは 巣に触れたものに反応する
だが何にでも 反応するわけではない
次に 動物はサインを残す 例えば よく知られているのが一
オオカミの足跡で 猟師は 足跡からオオカミかどうかを識別する
ハンティングクラブの人ではなくて 本物の猟師のことだ
本物の猟師は そこを通った動物を判別できる
その時 彼らは動物となり 動物と関係を結んでいる
これが動物と 動物的な関係を持つということだ
驚くベきことさ
 サインを発したり受け取ったりすることが 物書きと動物を近づけるのでしょうか?
"あなたにとって動物とは何か”と 尋ねられたら こう答える
"動物とは 常に待ち構えている存在だ”と
 物書きなら?
物書きね 確かに待ち構えている 哲学者も待ち構えている
動物の場合は 耳を思い起こせばいい
動物はいつでも待ち構えている
動物は絶対に落ち着いてはいられない
動物は食べていても讐戒している 背後から何かが襲ってこないか...
待ち構える存在というのは ひどいものだ
 物書きと動物と仰るが 一体どんな関係があるのか
確かにそうだが...
極端な話 物書きは何を書いているのか
もちろん 読者の"ために"書いている
でもここで"ために"とは どういう意味が?
"~に向けて"という意味だ 物書きは読者に向けて書いている
だが 読者でない者のためにも 書いているんだ
誰さ"に向けて"ではなく 誰か"の代わりに"書いている 
"ために(pour)"には"向けて"と"代わりに"の意味がある 
アル卜一はこんな言葉を残した よく知られているだろうが一
"私は文盲のために書いている" "私は白痴のために書いている"
フォ一クナ一は 白痴のために書いた 
白痴や文盲が読むわけではない 彼らの"代わりに”書くんだ 
私は未開人の代わりに書く 動物の代わりに書く
どういう意味が? なぜそんなことを言うのか?
文盲や白痴や動物の代わり に書く... 
どういうことかというと 書く時に人は一
どうでもいい私的なことを 書き残すのではない
そんなことは ばかけている まさしく嫌悪すベきことだ
よくある文学的俗悪さだ
特に現代 私的な事柄で小説が書けるなどと一
一体 誰が信じるだろうか
祖母がガンで死んだとが 自分の恋愛話だとか
そんなことで小説を書くのは 恥ずべきことだ
人が書くのは私的な事柄ではない 
書くとは 普遍的なことに身を投げ出すことだ
小説でも哲学でもそうだ だが それはどういうことか?
(中断)
書くとは 何かに向けて 何かの代わりに書くことである
 「千のプラト一」にホフマンス夕一ルの 「チャンドス卿の手紙」についての一節が
 “物書きは魔法使いだ"
 “彼は動物に対する責任を 引き受けながら生きている"
そう まさしくそうだ
理由はとても単純だが 今のホフマンスタ一ルについての一文は一
文学的宣言ではない 全く別のものだ
書くとは言語やシンタックスを 極限へともたらすことだ
言語とはシンタックスだがらね それを極限へともたらすわけだ
では極限とは何か? いろいろある
例えぱ言語と沈黙を隔てる極限
言語と音楽を隔てる極限
言語と 例えば一
苦悩の嘆きとを隔てる極限
 吠え声はどうでしょう
それもあるかもしれないが...
それを書くことができる 作家がいれば...
苦悩の嘆きならは 例えばカフカの「変身」だ
"支配人が叫ぶのを聞いたか? 動物みたいだ !" グレゴ一ルの嘆きだ
死んでいくネズミの大群のために 人が書くこともある
 (ジョセフィーヌ) 
よく言われるのとは反対に
死を知っているのは 人間ではなくて動物だ 
そして人間は死ぬ時 動物みたいに死ぬんだ
私が敬意を抱いている 猫の話に戻ろう
ここにいた猫たちの中に 随分と早く死んだのがいた
あの時 動物がどうやって 死に煽所を探すのがを目にしたんだ
死のための領土があるなら それを探すこともあるのだろう
その小さな猫は 偶っこに入り込もうとしていた
そこが死ぬのにぴったりの 場所であるかのように 
物書きが言語を極限へともたらす者であり一 
その極限が 言語と動物性 言語と叫び 言語と歌を隔てるのなら一
物書きは死んでいく動物を前にして 責任がある 
死んでいく動物に応えねばならない
書くのは彼らのためではない 私は自分の猫や犬のために書くのではない
死んでいく動物の代わり に書くのだ
それが言語を 極限へともたらすということだ
文学は言語とシンタックスを 極限へともたらす 
この極限が人間と動物を隔てる 我々はその境の上にいなければ
私はそう思う
哲学をやっている時も人は一 
考えられたことと考えられていないことを 隔てる極限の上にいる
動物性から隔てられてはダメだ 
動物性との極限の上にいる必要がある
人間の体にも精神にも 非人間的なものがある
動物との動物的関係が存在する
この辺でAは終わりにしよう 

______________
 
 ではBに移りましょう
 さて Bは少し変わっていて "飲酒"です
 あなたは昔随分飲み 今はやめました
 あなたにとって飲酒とは 何だったのでしょうか?
 快楽? 
ああ 随分飲んだものだ
やめたのは もう十分と思ったからだ
飲酒とは何か
難しいことじゃない 他の愛飲家にも聞くベきだが
酒浸り の人にもね
私が思うに飲酒は"量"をめぐる事柄だ
食事とは別問題だ 過食はあるにしても 
私はずっと食ベることが嫌いで 関心がない
だが飲酒は一つの問いだ 酒飲みは多くの種類を飲まないものだ
これという酒が決まっている
"量"を把握するために ー種類しか飲まない
"量"をめぐる事柄とは どういう意味か
薬物中毒や酒浸りの人間は 嘲笑される 
“大丈夫 いつでもやめられる"と 常に言っているからだ 
だが嘲笑する人は その言葉の真の意味を分かっていない
私には理解できるよ 酒飲みにはその意味が分かるんだ
酒を飲む時一
たどりつきたいと思うのは “最後の一杯“だ 
文字通り“最後の一杯“に 何とかしてたどりつくこと
そこが興味深いところだ
 "限界"のことですか?
"限界"とは何か... 難しいところだ
こう言おう
酒浸りになるというのは 飲むのをやめようとし続けることだ
つまり 彼は〝最後の一杯“を やめられない
どういうことか
ペギ一の とても美しい定式に 少し似ている
"最後の睡蓮が最初の睡蓮を 反復するのではない"
 ええ
"最初の睡蓮がそのあとの すベての睡蓮を反復する"
"最初の一杯“が“最後の一杯“を反復する だがら “最後"が重要だ
では 酒浸りの人間もことって “最後の一杯“とは何が?
酒浸りの人間がいて 彼が朝型だったとしよう
いろんな夕イプがいるからね
彼は朝起きた時点ですでに"最後の一杯"を目指している
一杯目 二杯目 三杯目は 彼にとってどうでもいい
酒浸りの人間は知恵が働く"最後の一杯"とは一
彼らは算定するんだ あとどれくらいかをね
持ちこたえられるかを算定する 量は人それぞれだ
つまり"最後の一杯“までの量を算定する
"最後の一杯"に行き着くやり方を 皆それぞれ持っている
"最後"とはつまり その日はもう飲めないという意味だ 
"最後の一杯"があるからこそ 翌日にまた再開できる 
もしも自分の能力を超えて 飲んでしまったら
それは"能力の最後"だ
"能力の最後"を超えれば 人は倒れる
その時はもうダメで 病院に行くか 習慣や配置(アジャンスマン)を変えるしかない
つまり"最後の一杯”と言う時 実際には“最後の一つ前"なんだ
酒飲みは"最後の一つ前"を 探している
"最後の一つ前"を表す言葉がある "ぺニュルティエ一ム"だったね
 ええ
酒飲みは最後のではなく"ペニュルティエ一ム"の一杯を求める 
 "最終的(ユルティム)"ではないのですね
そうだ なぜなら体の アレンジメン卜から外れてしまうからだ
"ペニュルティエ一ム”は 翌日再開する前の最後という意味だ
そう つまり酒飲みとは こう言い続ける者のことだ
これはカフェでよく聞く言葉だ 酒飲みたちは陽気で一
話を聞いていて飽きない 彼らはこう言う
"さあ これが最後だ"
"最後”は人によって違う
—実際それは...
—最後の一つ前のことだ
 そして"明日やめる”と 言うのでしょうね
"明日やめる"? いや そうは言わない
"明日飲めるように 今日はやめる"そう言うんだ 
 飲酒とは 飲むのをやめ続けることですが一
 あなたはどうきっぱり断酒を?
危険だからだ
危険すぎるからだよ
ミショーがすベてを言い尽くしている 彼は薬物を語ったが 同じことだ
ミショーが語ったように あまりに危険になる瞬間があるのだ
つまりそこにも"稜線(クレット)"がある 前に話したのは一
言語と沈黙 言語と動物性の間には “稜線(クレット)"があるということだ
"稜線(クレット)"であり 狭い谷聞だ
好きに酒を飲み 薬物で酩酊すればいいわけだが
仕事を妨げない範囲においてだ
刺激物を摂取すれば 体の一部を 犠牲として差し出すことになる 
ある側面において とても犠牲的な態度だ
飲酒と薬物使用において なせ人は自分の体を犠牲にするのか? 
アルコ一ルなしでは耐えられない 強すぎる何ががあるからだろう
アルコ一ルに耐えるかどうか ではなくてね
おそらく飲む必要があると思い あるいは感じたりするのは一
それに酎えるため 飲む必要があると感じるからだ
それを支配するため アルコ一ルや 薬物の助けが必要だと思うんだ
(中断) 
飲酒をやめる境目の話だったね
とても簡単なことだ 飲酒あるいは一
薬物によって強すきる何がに 耐えられると人は考える
ツケは支払うことになるがね
ともあれ仕事への意欲につながることもある
それから すベてがひっくり返って
飲酒が仕事を妨げる時が来る
仕事がら逃げようと 薬物に走るようになる
絶対的に危険なことだ 何のためにもならない
また時流の変化で人は一
アルコ一ルや薬物が必要だとは 思わなくなった
結局 分かったのは一
酒の力でできたように思えたことは 酒なしでもできるということだ
ミショ一が薬物を断ったことに 私は敬服する
彼はやめた
私が飲むのをやめたのは 呼吸や健康などのためだ
呼吸や健康のためだ いずれにせよ潮時だった
仕事がはかどるから という 飲酒の言い訳がある
あとから体でツケを支払うことになるがね 
最近では酒は仕事の役に立たない という考えが一般的だ 
 でもミショーが 薬物を通過したように一
 やめるにせよ 一度飲む必要が あったということですね
ああ
 また あなたが言うように
 仕事の妨げになる飲酒も 何かを整える役に立つ
そうだ
 “何か"とは"生"ではないですね あなたの好さな小説家が... 
いや“生"のことだ
"生”において強すきるもののことだ 恐ろしいものとは限らない
"生“において強すぎるもの
愚かしくも人は飲酒によって
より強い何かと同等になれると 思ってしまう
アメリカの偉大な作家たちを 例にとれば...
フィッツジェラルドやラウリー ?
敬愛するフィッツジェラルド それからT・ウルフ
皆 酒浸りだった
同時に それが彼らにとって一
自分より巨大すぎるものを知覚するために おそらく役立ったんだ
ても彼らが その"強いもの"に 気付いていたからでは?
飲酒する前に 感じ取っていたから...
そう 酒によって 気付いたのではない
 まずあまりに強い"生"のカがあり 彼らだけが感じ取った...
全くその通りだ
 ラウリーもそうですね
もちろんそうだ
彼らは立派な作品を書いた 酒は彼らにとって何だったのか...
彼らは危険を冒した つまり 書くために酒が役立つと考えた
私も概念を作るのに酒が役立つと思った 奇妙なことだな
哲学的概念を作るのに 酒が役立つとね
そのあと もう役立たなくなったと感じた 酒は危険で 仕事の意欲がなくなるとね
するとやめざるをえない 簡単なことだ
 酒への依存はアメリカの伝統ですか? フランスの作家にはあまりいません 
 それどころか酒のせいで...
 アメリカには何かが...
そうだろうね
フランスの場合とは 書くことのヴィジョンが違うんだ
私がアメリカの作家から 影響を受けたのは
ヴィジョンという問いゆえだ
つまり“見ること“だ 哲学も文学も こっちとはまるで違う 
とても控えめな問いなんだ 何事かを見るということ一
他の誰もが見ていないものを 見ること
フランスにおける文学の概念とは 全く違う
フランスにも 酒浸りの作家は多くいた
しがし彼らは書くのをやめてしまいます 問題が多すぎて 
酒に傾倒した哲学者も そんなに多くは...
ヴェルレ一ヌは そこのノレ通りに住んでいた
彼とランボー以外に...
胸が締め付けられるね ノレ通りを運る時 こう思う
ヴェルレ一ヌもここを通り カフェに行ったんだとね
みすぼらしい部屋で 暮らしていたそうだ
 詩人の飲酒の方が有名です
フランスの偉大な詩人が ノレ通りを徘徊していたとは驚きだ
 そこの“バール・デ・ザミ“でしようか
そうかもしれない
 詩人の方が 酒浸りが多いですね
 では酒の話はここまでに
ああ Bの次は何かな

____________
 
 次はCで やや広いテ一マです
何だい?
 "教養"です
ふむいいだろう
 あなたはー
 自分を"教養がある"とは言いません
 つまり あなたが本を読んだり
 映画などを見るのは ある特定の知識を得るためです
 仕事に必要な知識であり 一
 進行中の仕事は明確で 限定されています
 しかし一方で あなたは 土曜には展覧会や映画に行きます
 様々な文化領域に触れる努力を しているようにも思われます
 文化的なことを習慣的に行っている
 つまり 外に出て 見聞を広めることに努めながらも一
 自分に教養は全くないと言います この逆説を説明してください
 教養がないのですか ?
ない 私がその言葉で 何を意味したかったかというと一
私は知識人らしい生活は していないということだ
教養人らしい生活も してはいない
教養人を見ると 私は呆然としてしまう
賛嘆ではない その気持ちもないことはないが...
とにかく 唖然とする 
教養人において目を引くのは一
唖然とするくらい 豊富な知識だ
知識人の中に そういった人間は大勢いるが
連中はなぜか何でも知っている
ルネサンス期のイ夕リアの歴史も
北極の地理も
総目録が作れるだろうね
連中は何でも知つていて その話ができる
ぞつとする 私は教養もなく 知識人でもない
つまり知識のス卜ックを 持っていない
それで何の問題もない、
私が死ぬ時 何が貯め込んでないが 探しても無駄だ
私は貯め込まない
知識を蓄えておくような ことはしない
特定の仕事のために私は学ぶが 学んだすベては一
仕事が終われば忘れる
だから10年経った頃に一
似たような主題をまた 再開せさるをえなくなると
一からやり直しだ
いくつか例外はある スピノザは一
私の核心部にあるから忘れない 頭で覚えているだけではない
その他は忘れる
さて 私はなぜ教養人を 尊敬しないのか?
 表面的な知識で意見を言うから ?
いや そうではない
連中は話し方を知っている まず連中は旅をする
歴史や地理の中を旅し あらゆることを話すことができる
テレビで見るが全く唖然とする
大いに賛嘆すると 言ってもいいのは一
ウンベル卜・エ一コのような人の場合だ まさに驚異的だ
ボタンを押せば 答えが出るがのようだ
分かって話しているのだろうが一
羨ましくはない ただ呆然とするだけだ
教費とは何か? 思うにその多くは話すことに存する
もう講義しなくなったから 余計にこう思う
"話すことはどこか不潔だ"
執筆は清潔だ 話すことは不潔で 書くことは清潔だ
不潔というのは 愛想を振りまくからだ
私は討論会が我慢ならない 
学生の頃から 討論会が耐えがたかった
私は旅もしない なぜか?
かつてはしたが もうしなくなった
健康の理由だ
知識人の旅は道化芝居だ
旅というより お喋りの場所を 変えているだけだ
あっちで話し こっちで話す
昼食会では その土地の知識人と話す
連中は話すことをやめない
私はこういうお喋りに 耐えられない
私の考えでは 教養は話し言葉と 結びついている
その意味で 私は教養が嫌いだ 我慢ならない
 その点は後ほど伺います
 "話すことは不潔だ"とのことですが あなたは偉大な教師でした
別の話だ
 ともあれ あとで戻りましょう Pのところは一
 "教師"に関わります "愛想"のこともまたお聞きします
(中断)
 さて先ほどの論点に戻ります
 あなたの努力と日課のことです
 たとえ必要はなくとも一
 様々なものを見ています
 最近 ポルケの展覧会に行き ましたね
 毎週とまでは言わないにせよ一
 頻繁に映画を見に行き 展覧会にも行きます
 それでもあなたは博識でなく 
 教養人に何の賛嘆の念も 抱かないと言います
 この行為と努力は何のためでしょう 
 楽しみでしょうか?
もちろん楽しみからでもある そうでない時もあるが…
だが これは "待ち伏せ"ということだ 
私は文化や教養を信じない
私が信じるのは"出会い"だ
人との"出会い"のことてはない
"出会い"の相手は人ではない それはひどい思い違いだ
知識人は不潔な討論会などで 互いに出会う
破廉恥なことだ
"出会い"の相手は人ではなく 事物や作品 例えば絵画であり一
音楽のメロディ一だ 私は音楽と出会う
それが"出会い"だ
さらに その作者と会っても うまくはいかない
"出会い"ではない
人との"出会い"は必ず ひどい期待はずれに終わる
私は君が言うように 週末 映画などに行く
"出会い"が必ずあるかは 分からないが
外に出て"待ち伏せ"するんだ
絵画や映画など 出会うベき素材がないか
すばらしいことだ
一つ例を挙げよう
何かをする時 そこに留まりながら 外に出ることが肝心だ
哲学の中に留まることは 哲学の外に出ることでもある
哲学以外のことをするという 意味ではない 
中に留まりつつ 外に出なければいけない 
哲学の代わりに 小説を書けばいいわけでもない
そもそも書けないが できても役に立たないだろう
私は哲学によって 哲学の外に出たいと思う
それが私の関心事だ
 というのは?
そこで例なのだが 死人になったと思って遠慮なく話そう
最近一冊の本を出した
偉大な哲学者ライプニッツの本だ
彼にとって量要と思われた ある観念を強調した
私にとっても 非常に重要な"襞"の観念だ
哲学書のつもりだった
"襞"という奇妙な観念についてのね
そのあと何が起きたか
手紙をいくつか受け取った いつものことではある
真心がこもって感動的だとしても 無意味な場合はある
“あなたの仕事はすばらしい" などという手紙だ
知識人から送られてきて
好きだとが嫌いだとか言う
さて 今回は二つの手紙が来て そして我が目を疑った
それらの手紙にはこう書いてあった
“あなたの言う襞とは 私たちのことです”
読んでみると彼らは ある協会のメンバ一だった
今はもっと多いが 当時フランスに400人いた一
“折り紙”協会からだったんだ
送られてきた機関誌に一
こう書いてあった “あなたの意見に賛成です"
“あなたがしたことを 私たちもしています"
この本を書いて良かったと思った
そのあとまた別の手紙が来た 同じだった
“襞とは私たちのことです"
なんとすばらしいことだろう
私はプラ卜ンのことを話した 
当時の哲学者たちは全くもって 抽象的ではなかった 
偉大な著述家であり 極めて具体的に書いた 
プラ卜ンのこの話を思い出すと 嬉しくなる
おそらく哲学の始まりにも関わるが それはあとで話そう 
プラトンの主題とは一
定義を与えることだ 
例えば 政治家とは何かという問いに "人間にとっての牧人である"と答える
すると大勢が来て こう言う “政治家とは私たちのことだ"
まず羊飼いが来て言う "私は人間に服を与える"
“私こそ真の牧人だ"
肉屋がやってきて言う “食を与える私たちが真の牧人だ"
こうしてどんどん集まってくる
私に起きたのもこれだ
折り紙をする人々が “襞とは私たちのことだ"と言った
そのあと同じ手紙が来てびっくりした サ一ファ一たちからだった
一見して折り紙とは無関係だ
サ一ファ一たちはこう言った
"この本に賛成します 私たちがしていることは一”
"自然の襞の中に 入り込むことです"
"私たちにとって襞とは... 自然とは動的な襞の総体です"
"そして私たちは波の襞に入り込む"
“波の襞に住まうこと それが私たちの任務です"
すばらしい表現だ "波の襞に住まう"
彼らはサ一フィンをするだけでなく それを思考している
これもあとでまた話そう
スポ一ツのところで
 先ですね
そうだね ともあれ...
 折り紙をする人々との間に"出会い"が?
"出会い"だ
哲学によって 哲学の外に出ること一
それは私にいつも起きていると思う
私は折り紙をする人々と出会った 実際に会う必要はない
会えば私も相手も がっかりするだろ 
実際に会う必要はないが一
私はサ一ファ一たちと出会い 折り紙をする人々と出会った
まさに私は哲学によって哲学の外に出た それが"出会い”ということだ
思うに"出会い”とは... 展覧会に行く時一
私は"待ち伏せ"する 私に触れてくる絵を探すんだ
私を動かす絵をね
映画には行くが演劇には行かない あまりに長く 堅苦しい 
私にとって演劇は...
ロバート・ウィルソンと カルメロ・ベーネは別だが
演劇が私たちの時代にとって重要だとは感じない 
だが4時間も粗末なイスに座るのは 体がつらくて もう無理だ 
それですっかり演劇に行かなくなった 
だが絵画の展覧会や映画において 私はいつも一
アイデアとの出会いに賭けている 
 ええ でも気晴らしの映画もありますね?
それは文化ではない
 文化ではないにせよ...
そうだな...
 すべて仕事のうちでしょうか
いや 仕事ではない 待伏せだ
何かが起きて 私を揺り動かそうと 語りかけてくるのを待つ
それがとても面白い 
 でもエディ・マ一フィはあなたを 揺り動かさないでしょう?
誰だい?
 エディ・マ一フィです
 アメリカのコメディアンで 最新作が大ヒッ卜しています
知らないね
 ベニ一・ヒルはお好きでしたね
ああ 彼は面白い


 http://ameblo.jp/kumaga19/entry-11286824127.html
良いとか新しいとか最初から分かるものを選ぶわけではない
面白ければいい
 出かけるのは出会いのため ?
出かけるのはアイデアを引き出すためだ
"アイデアがあった"と言うためだ
偉大な映画作家とは何か ?
映画の美しさが私を打つのは…
例えば ミネリやロ一ジ一の場合 その中の何が私を打つのか?
彼らはアイデアに取り憑かれている
 それは"I"でする アイデアの話ですね ここではやめましよう
分かった やめよう だがそれが"出会い"だ
“出会い" は人以前に事物となされる 
"出会い"とは...
 現在の文化情況で 多くの"出会い"がありますか?
もちろん 折り紙の人々や サ一ファ一たちと出会った
これ以上があるかい ?
知識人との“出会い“とは違う 彼らとの間に"出会い"はない
 でも...
誰が知識人と出会うとしたら 別の理由からだ
その相手が好きだとか その仕事だとか
その魅力だとが それら要素との “出会い"があるということだ
人とではないんだ 人と出会って何になる
何もありはしない
 猫なで声ですり寄ってきたら?
そう すり寄ってきたり 吠えたり ひどいものだ
(休止よ)
 文化的に豊かな時期と貧しい時期が あると言いましたね
 あなたは現在を あまり豊かとは考えていません
 いつもテレビの前で 苛立っていますね
 例えば 名前は言いませんが 文学の番組になるが…
 もっとも この映像が放映される時は 名前が変わっているでしょう 
 現在という時期は豊かでしょうか? それとも特に貧しいでしょうか?
ああ 貧しいね 
けれど苦しいほどではない
笑えるところもある
私ぐらいの年になると一
"貧しい時期は初めてじゃない"と思えるものだ
私はこう自問する "私は何を経験してきただろうか"
何かに熱中できる年齢になったあとで 私は解放(リベラシオン)を経験した
あの頃は 想像しうる 最も豊かな時期だった 
解放(リベラシオン)の時期 すベてが発見 あるいは再発見された
その前には戦争があって 生半可なことではなかった 
ここですペてが発見された アメリカの小説やカフカ…
発見への ある種の要求があったんだ
サル卜ルもいた
今では想像するのも難かしいほど 知的に豊かな時期だった 
絵画も発見 再発見された 
 映画も ? 
"カフカを焚書(ふんしょ)にすベきか"という 大論争などもあった
今や想像すらできない
今からすれぱ子どもじみてる
だが本当に創造的な雰囲気だった 雰囲気がとても良かった 
それがら私が知っているのは 68年以前前の時期だ 
68年の少しあとまで 極めて豊かだった
したがって その中間が貧しいのは一
当たり前のことだ
嫌なのは貧しさそれ自体ではない
貧しい時期に我が物顔で活動する 人間の無礼さと慎みのなさだ
彼らは豊かな時期に活躍する 能力ある連中よりずっと意地が悪い
 能力ある人たちと仰いましたが  解放(リベラシオン)時のカフ力論争を見たら一
 ある男が カフカを読んでいないと 嬉しそうに笑っていました 
もちろん 彼らは愚かであればあるほど 嬉しいのだから 
つまり... 
彼らが考えているのは
文学がちっぽけな 私的事柄ということだ
そう思うならカフカも何も 読む必要はない
ペンを持てば誰でもカフカと同等 とでもいうかのようだ
つまり書くのは大した仕事ではないと 考えられている
何と説明したものか… もっと真面目な例を挙げよう
最近 映画館のコスモスで 映画を見た
 パラジャ一ノフですか?
いや パラジャ一ノフではない
そうではなく あるロシア映画で一
30年前に作られていたがお蔵入り 最近ようやく公開された
 「コミッサ一ル」?
「コミッサール」だ
そこには極めて 感動的なものがあった 
映画はとても良かった 最高だ
そして完璧だ
だが恐怖やある種の同情心とともに こういうことにも気付く
この映画はまるで
戦前のロシア人たちが 作ったみたいだ
 エイゼンシュテインの頃?
エイゼンシュテインや ドヴジェンコの頃だ 
崇高な並行モンタ一ジュなど すベてが共通している
あたかも戦争のあと 何も起きなかったかのようだ
映画にもね
仕方のないことだ
映画は良かった だがとても奇妙にも…
 少しどこか…
今言ったことが原因だ 欠点があるとすれはそこだ
この映画作家が あまりにも孤立していたんだ
彼は20年前の仕方で映画を撮った 悪いことではない
だが20年前ならもっと良かったし 驚異的なことだった
そのあと起きたすベてを 彼は知らなかった
つまり彼は不毛な砂漢の中で育った 恐ろしいことだ
砂漠の時期を通過するのは 大したことじゃない
恐ろしいのは 砂漠の中で生まれ 育つことだ
おぞましいのはそれだ 孤独だと思うところだが-…
 現代の18歳も?
そうだ 貧しい時期で がっかりするのは一
様々なものが消えても 誰も気付かないことだ
単縮なことで 何かが消えても一 
喪失感がない
スタ一リン時代は ロシア文学を消し去った
しがし 彼らは気付かなかった
ロシア人の大部分が 気付かなかったんだ
19世紀の間ずっと目覚ましかった あのロシア文学が消えた
確かに離反して活動する人々はいた
だがロシアの大衆にとって 自分たちの文学は消えたんだ
自分たちの絵画も消えた だが誰も気付かない
今日起きていることについて こう考えることができる
今日も当然ながら才能を持った 若者たちはいる 
まずい表現だが 第二のベケットだとしよう
新しいベケットだ
 "新しい哲学者(ヌ一ヴォ一・フィロゾフ)"の話でなくて 良かったです
それはともかく 第二のベケットが いると仮定しよう
そして出版されないとする
ベケットも危うく 出版しそびれそうになったが…
とにかく 誰も喪失感を抱かないだろう
偉大な作家や天才とは 新しいものをもたらす者のことだ
その新しいものが現れなくとも 誰も困らない 
それが何が知らないのだから
もしプル一ス卜やカフ力の本が なかったとして 
誰もカフカがいないことを嘆かない
もし誰かが カフカをすベて焚書にしたら 
"カフカがいない"ということも言えない
存在していたこと自体 知らないのだから
今日の新しいベケットが一
現行の出版制度のために 本を出せないのだとして
こう言う者はいない 
"ああ なんという損失だ”とはね
こんな宣言を聞いたことがある これまでの人生で聞いた一
最も厚顔無恥な宣言だ
新聞に載っていた 誰の言葉かは言わないでおこう 
出版に関わる人間で こう言った 
"今日 私たちに一"
"ガリマ一ルのような失敗を犯す 危険性はなくなった"
"プル一ス卜の出版を彼は断った"
"というのも私たちには 現代的方法があるからだ"
 ヘッドハンティングですね?
夢でも見ているんだろう
第二のプル一ストやベケットを見つけられるという 
ガイガーカウンタ一で 第二のベケットを探すようなものだ
だが それは 想像不可能な者のことだ
新しくもたらされるものが何か 人はまだ知らないのだから
測ってみれば音が出るのか…
 頭の部分を測るとか
計測器をくぐらせるのか
戯言もいいところだが では今日の危機とは何か
次の3点と結びついている
危機は長く続くまいと 楽観視しているが…
砂漢の時期を定義づける特徴とは一 
1点目はジャーナリストが 書物の形態を征服したことだ 
これまでもジャーナリストは 書いていた それは良い 
これまて ジャーナリストが本を作る時 
別の形態に移ることだと わきまえていた 
新聞記事とは勝手が違う 
 かつて作家はジャーナリストでもありました
 マラルメはジャーナリストの仕事も しましたが 逆はありえません
その逆が起きた 純粋なジャーナリストが~
書物の形態を征服し 本を作るのが普通になった
新聞記事と ほとんど変わらない本をだ
これはまずい
2点目は こんな通念が広がったことだ
書くことは些末(さまつ)な個人的な事柄で 
誰でもできるという通念だ
家族についての記録や
書き残されたものだろうが
頭の中の思い出だろうが
誰もが愛の物語を持っている
病気の祖母がいたり ひどい境遇で 死んだ母がいたりする
"小説になる"というわけだ
実際はそれで小説には全くならない
さて…
次は…
 3点目です
そう3点目は~
真の顧客が変わったということだ
多くの人間が気付いている
よく知られたことだ
顧客が変わった
テレビの顧客は誰か?
今や視聴者ではない スポンサ一だ
彼らが真の顧客だ
視聴者はスポンサ一が狙う標的だ
 テレビ視聴者ですね
(中断)
 3点目は何でしょうか?
そう それは一
視聴者が 今や真の顧客では ないということだ
出版の話だったが一
危険なのは 真の顧客が 潜在的な読者ではなく
流通業者になってしまうことだ
もし本当に流通業者が顧客になれば 何が起こるか
流運業者の関心は 迅速な商品の循環だ
それは何かと言えば一
売り場での本の入れ代わりや 
"ベス卜セラ一"のことだ
そうすると文学は…
ベケット的な創造的文学は 当然 押し漬されてしまうだろう
 大衆の欲求が先取りされ すでにそうなっています
それこそが乾いた時代の定義だ
B(ベルナール)・ピヴォがまさに文学が無価値になった例だ
販売促進の名目で 文学批評が消失した
だが"楽観視"と さっき言ったのは一
必ず 並行して 別の回路が生じるからだ
閤市場のようなものができるんだ
それができない状況もある
ロシアの人々がそうだ そして文学が失われた
だが またやがて取り戻すだろう
豊かな時期が 貧しい時期に続くからだ
貧しい者たちに災いあれ… というわけだ
 並行した闇市場と言いますが しかし ここ最近ずっと一
 本の主題は前もって決まっています
 例えば ある年は 戦争の本ばかりになり
 他の年は親の死 あるいは目然への愛着という具合で
 何も起こりそうな気配が ありません
 貧しい時期のあと 豊かな時期に戻るのを一
 見届けたのですね ?
そうだとも
リベラシオン 解放のあとも
力強い時期ではなくなったが やがて"68年"が来た
ヌ一ヴェル・ヴァ一グが 始まったのは60年だったかな?
 ええ60年が その前です
60年から72年まで もう一度豊かな時期が来た
そうやってまた取り戻される
ニ一チェがうまく表現している
ある者が矢を放つ
空中に投げる
同じように一
ある時期のある集団が 矢を放ち そして落下する 
次にやってきた者が拾い上げ また投げる 
創造はそうしてなされる 文学はいくつもの砂漠を通り過ぎるんだ 

__________________
 
 ではDに行きましょう
 フランス語の辞典(ラルース)から引用しようと思いますが—
 「図解プチ・ラル一ス」のDに "ドゥル一ズ ジル"の項目があります
 “ドゥル一ズ ジル フランスの哲学者 1927年 パリ生まれ“
 失礼 25年です
私が載ってる?
 1988年版です
「ラル一ス」は毎年改訂される
 "ドゥル一ズはフェリックス・ガタリと共に 欲望の重要性を示し一"
 "また 精神分析を含む あらゆる制度に対抗する一"
 "欲望の 革命的側面を示した"として一
 「アンチ・オィディプス」の引用が
 つまり世間では一
 あなたを"欲望"の哲学者と 見ているわけです
 では"欲望(デジール)”とは 正確には何でしょう?
 できるだけシンプルに考えましょう 「アンチ・オイディプス」では...
欲望は 人が思ってきたものとは違う
すぐれた思想家ですら 欲望を見誤ってきた
欲望が何かは非常に曖昧だった
ひどく誤解されてきた いや ちょっとした誤解だったのかも
しかし 言いたいことは単純だ
我々は「アンチ・オイディプス」に 大きな野心を込めた
一冊の本を書くというのは 新しいことを言おうとすることだ
そこで我々としては一
これまで人々は 欲望を分かっていなかったと主張した
つまり哲学者の課題として 欲望の新しい概念を提起しようとした
しかし哲学をやっていない人は一
概念を抽象的なものと 思ってはいけない
概念は極めて単純なことに 関わっている
極めて具体的なことに 関わっている
どんな哲学的概念でも 哲学的でない事柄に関わっている
とても単純で具体的なことにだ
我々は実に単純なことを 言いたかった
こういうことだ
"今の今まで" 
"皆は欲望を抽象的に語ってきた"
"抽象的になるのは 欲望の対象を 抜き取ってしまっているからだ"
例えば"私は一人の女性を欲望する"
"どこか旅に出るのを欲望する"
"あれやこれやを欲望する"
以上のことに関して 我々は極めて単純なことを主張した
"あなたは誰かや何かを 欲望するのではない”
"あなたが欲望するのは 何らかの集合だ"と
難しいことではない
我々問いは こうだった "欲望が存在するための一"
"あるいは もろもろの要素が 欲望されるための一"
"要素間の関係とは いかなるものか?"
私は一人の女性を 欲するのではない
"一人の女性を欲する"と言うのは恥ずかしいが...
プル一ス卜に美しい記述がある
"私は一人の女性を欲するのではなく 彼女に包み込まれた風景も欲している"
私はその風景を知らないが 感じ取ってはいる
彼女の包み込む風景が 私の中で広がっていかないのなら
私は不満足だ つまり一
欲望が達成されない
欲望は満たされないままだ
この集合は女性と風景の二つからなるが 両者は別のものだ
ある女性が一
"ドレスが欲しい" "これが欲しい"
"こういうブラウスが 欲しい"とか言う時一
当然ながら ドレスやプラウスを 漠然と欲しているわけではない
それを人生全体のコンテクス卜において 欲望している
彼女が紡ぐ 人生のコンテクス卜だ
彼女の欲望は 風景に関係するだけてなく一
彼女の友人にも関係する
友人でない人にも関係するし 職業にも関係している
何かを それだけで 欲望することなどない
あるいは要素の集合を 欲望するのでもない
私はある集合の中で 欲する
先ほどの話に戻ろう
アルコ一ルの話 “飲む”ことだ
この場合も 私は単に“飲みたい"のではない
むしろ一
仕事をしながら 一人で飲みたいとか
ゆっくりしながら 一人で飲みたいとか
出かけて 誰かと一緒に飲みたいとか 
ちょっとカフェに行きたいとか
そういう具合であって つまり あらゆる欲望は"流れる"のだ
一つの"配置(アジャンスマン )"の中で 欲望は流れる
だから 私にとって欲望とは...
こういう欲望を表す 用語を探すなら一
"構成主義"と言うだろう
欲望するとは 一つの"配置"を構成することだ
何らかの集合を構成することだ 
スカ一卜に関する集合
あるいは太陽光線や
 女性に関する集合
街路に関する集合
そういうことだね
女性や風景に関する “配置"があるわけだ
 色の...
そう 色に関する"配置"
これが欲望というものだ
それは一つの"配置”を構成することであり 一つの領城を構成することである
まさしく配置し 作動させること(アジャンセ)なんだ
欲望とは構成主義である
我々が「アンチ・オイティプス」で 試みたのは...
 少し いいですか?
いいよ
 欲望が “配置"であるからこそ一
 二人で書く必要が あったのでしょうか?
 彼は あなたの物書きとしての人生に 突然現れたわけですが…
それは…
フェリックスのことを話すなら 友愛について語る必要がある
友愛と哲学の関わりについて…
確かにフェリックスと一緒に 一つの“配置"を作り上げた
“配置"には一人だけのもの 二人でのものなど いろいろある
フェリックスと作り上げたのは 二人での"配置"だ
二人の間では何がが起きていた
つま り 物理現象のようなものだ
出来事が起こるためには 差異が要る
ポテンシャルの差異が必要なんだ
そのためには二つのレベルが必要で 二人が必要だった
何かが起き きらめきが生じる
あるいは小さな流れができるとが…
そラいうことが欲望の領野だ
欲望とは構成することなんだ
我々は一人一人が 自分の人生を構成して過ごしている
何がを欲するのは “配置"を構成することを意味する
欲望とは つまりそういうことだ
欲望は集合ないし"配置"において 感じられ 存在しています
 あなたは「アンチ・オイテイプス」で 欲望について語り始めたわけですが
 それがフェリックスとの共著だったのは 偶然なのでしょうか?
そうだね…
いや 君の言うことも そうかもしれない
おそらく一
二人で書くという 新しい"配置"に入る必要があった
我々二人は解釈も違うし 生さ方も違っていた
二人の間で何かが起こったのは 結局 我々が一
欲望についての支配的な考え方に 敵意や反抗心を持っていたからだ
特に精神分析に対してね
フェリックスは 精神分析の専門知識があり一
私は情神分析の 様々なテ一マに関心があった
そういうわけで一
構成主霧的に欲望を捉えるために 二人が必要だった
そういうことだ
 では その構成主襄と 精神分析的な解釈との違いを一
 もっと簡単に定義できますか?
極めて単純なことだと思う
我々が精神分析に対抗したのは 様々な理由からだが
欲望の問題に限って言えば一
精神分析家というのは 欲望について僧侶のように語るんだ
別の言い方もできるだろうが とにかく精神分析家は僧侶なんだ
精神分析家は どのように欲望を語るか?
欲望を 去勢をめぐる嘆き という形で語るわけだ
去勢…
原罪よりも嘆くベきことだ 去勢だよ!
鯉に対する一種の呪いだ 実に恐るベきものだ
「アンチ・オイディプス」で試みたポイン卜は3つだ
精神分析に直接対立している
その3点については一
私だけではなく フェリックスもまた一
今も考えは変わらない
第1に一
無意識は “劇場"ではない
オイディプスやハムレットが ずっと上演されているのではない
劇編ではなく 生産する 工場なんだ
無意識は生産する
無意識は いつも生産し続ける
工場のように稼働している
これは無意識を劇編とみなす 精神分析に対立する見方だ
精神分析だとハムレットや オイディプスが延々と演じられている
さて第2に妄想は 欲望と密に結びついている
欲望するとは 妄想することでもある
だが妄想をよく観察し 耳を傾けるなら一
精神分析の定義が 正しくないと分かる
人が妄想するのは 父や母についてではない
妄想は全然別のことに 関わっている
そこに秘密がある 人は世界全体について妄想する
例えば歴史や地理についてだ
部族について 砂漢について一
民衆 気象 人種 風土 そういうことを妄想する
妄想の世界は一
ランボ一の言う"私は一匹の獣だ 一人の黒人だ"というやつだ
つまり"私の部族はどこにいる?" "私の部族をどう配置する?"
“砂漠でどう生き延びるか?”
妄想とは 地理的 政治的なものだ
ところが精神分析は すベてを家族の事情に遠元してしまう
だから一
「アンチ・オイディプス」がら もう ずいぶん経っているが一
今も考えは同じだ 精神分析は妄想を理解していない
人が妄想するのは世界だ 家族ではない
だがら これは文学の問題でもある
文学は個人の話ではない
妄想が父母に関してではないのと 同じことだ
さて 第3のポイン卜だが一
今のと同じことが問題になる
欲望は常に それ自身で成立し "配置"を構成し一
複数のファク夕一を作動させている
ところが精神分析は いつも一
我々を同じ一つの ファクタ一へと差し向ける
それは父や母であ り 一
ファルス 男根の象徴である
精神分析は多様なもののことも 構成主義のことも分かっていない
"配置(アジャンスマン)"を分かっていないんだ
例を挙げよう さっき動物について話したね
精神分析にとっては 動物は父のイメ一ジだ
馬は父のイメ一ジであるとか
いい加減にしてほしい
例えばハンス少年だが 一
ハンスという子どもに一
フロイ卜は解釈を与えた
ハンスは道で倒れている馬と一
その馬をムチで打っている 御者を目撃した
倒れた馬は脚をばたつかせて痙攣していた
車が普及する前はよく見られた光景だ
子どもには印象深がっただろう
倒れた馬を見た時一
御者は少し酔っていた
馬をムチで打つ光景は ハンスに何がを感じさせたはすだ
これは街略で起きた事件だった
血なまぐさい出来事だ
精神分析家は 父のイメ一ジとが言うが一
連中の頭はどうかしてる
ハンス少年の欲望が 関わっていたのは一
街路に倒れて打たれている馬とか 死んだ馬ではなく一
ある配置なんだ その子にとっての幻想の配置だ
それが根本的に問題なんだ
また別の例では...
そう 動物のことだったな
動物とは何か? 父のイメ一ジである動物などいない
動物は一般的に "群れ"をなすものだ
群れなんだよ 動物は
群れだ
私の大好きなテクス卜があってね
それはユングのやつだ
ユングはフロイ卜と 長く協働したあとに訣別した
ユングはフロイ卜に ある夢を見たと言う
骨が山になっている夢だ
フロイ卜は それを 文字通り に理解しない
フロイ卜は決まってこう言う
"骨の夢を見たとしたら一”
“それは誰かの死を意味している"
ユングは フ口イ卜に抗弁し続ける
"私が夢で見たのはー本の骨ではなく 骨の山です"
フロイ 卜は理解しなし、
骨の山とー本の骨の違いが 分からないんだ
骨の山だから 何百 何干 何万もの骨だ
それは多様体であり “配置"であるわけだ
骨の山をさまようとは 何を意味するのか?
どういう欲望なのが?
"配置” とは常に集団的なものだ
集団的であり構成主義的てある 欲望とはそういうものだ
私の欲望は一
無数の骸骨の どこを通過するのか?
群れのどこを通過するのか?
群れにおける 私のポジションとは?
私は群れのどこにいるのか? 中か外か 群れのそばか中心か?
そうしたことすベてが 欲望に関わる現象なんだ
欲望とはそういうものだ
 「アンチ・オイディブス」は1972年の 本ですから その集団的”配置”は一
 5月革命以後に 生まれたわけですね
 つまり それは...
その通りだ
 5月革命に関する省察で 精神分析に対抗するものでした
言いたいのはこれだけだ
妄想 人種 部族
人は民衆を妄想し 歴史や地理を妄想する 
これは年月の出来事に 当てはまる
つまりあの出来事は 少し新鮮な空気をもたらしたんだ
閉蔓的で不健康な 擬似家族の妄想に
それこそ妄想がなすことであると 人々にはょく分がっていた
私が妄想するとしたら 子ども時代についてではないレ一
自分のちっぼけな 個人的事件についてでもない
人の妄想は宇宙にまで及ぶ
人は世界の終わりを妄想する
微粒子や量子について妄想する 父や母についてじゃない
そういうことだ
(中断) 
 では欲望の集団的"配置”について 続けましょう
 当時は誤解があったと思います ヴァンセンヌを思い出すと一
 70年代にあの大学には一
 欲望を満たそうとする人々がいて 集団的に熱狂していた
 でも誤解していたのでは ?
 もっとはっきり言いますと一
 あの頃 ヴァンセンヌには “クレイジ一”な人が多くいました
 精神分析と闘うために始めた "分裂分析”は一
 “正常でなくていい”と言っていると 理解され一
 突拍子もないことをやる 学生がいました
 欲望に関する誤解で一
 当時 何が面白いことは ありましたか?
ああ 誤解ね 私はもっと抽象的に捉えている
誤解には2種類あった
結局は同じことかもしれないが...
1つは欲望が "自発主義”と思われたこと
当時は自発主義の運動が 盛んだった
 “マオ・スポンテックス”が 有名ですね
あと 欲望とはパーティーをやることだ と考えたのもいたな
どちらでもなかったんだが まあ どうでもいいことだ
"配置"が創造されればいいのであって おかしな連中であっても一
当時ヴァンセンヌで起さていたことの 一部をなしていたし一
おかしな連中には 独目の規律があった
彼らは演説し 異論があれぱ話に割り込んだ
自分たちの“配置"を 構成していた
実際 その中で うまくゃっていたと思うょ
おかしな連中ならではの 咬狙さや理解力 善意があった
しかし理論のレベルではちょっとね 実際は一
ああいう“配置"は 作つては壊れるものだつた
理論的に ああいう誤解は...
欲望は自発的だとしよう 自発主義者がそう言うならね
パ一ティ一をやることでもいい 本当はそうではないんだが...
欲望の哲学が人々に告けるのは 次のことだけだ
"精神分析されるな" "解釈ず実験せよ"
自分に合った配置を見つけろ      
さて"配置"とは何であったか?
フェリックスは別の考えだったが一
私だったらこう言う “配置"には一
4つの構成要素がある
4つというのは大まかな話だがら 6つてあってもいい
ます"配置”は "事物の状態”に関係する
だがら我々は 自分に合う"事物の状態"を見つける
飲酒の話に例えると このカフエが好き あのカフエは遣うとが
特定のカフエに集う人々とが それが"事物の状態"だ
2つ目の要素は"言表"だ
人に はそれぞれ一
発話の夕イプ つまり自分の話し方がある
これら2つの要素て考えるなら あるカフェには こういう友人がいて一
友人は特有の話し方を している というように一
各カフエにスタイルがある これは他のことにも言える
だがら "配置" には “事物の状態"があり
そして一"言表" 話し方のス夕イルがある
実に興味深いことだ そうして歴史は作られるんだ
新しいタイプの言表は いつ出現するのか?
例えはロシア革命の際に一
レ一二ン主義者の言表スタイルは いつ どのように出現したのか?
どのように ? どういう形で ?
5月革命の際"68年的"な言表は いつ出現したのか?
それはとても複雑だ
常に "配置"には 言表のス夕イルが含まれる
3つ目として"配置”には"領土"が含まれる 我々は皆 領土をもっている
部屋に入る時にも 一つの領士を選んでいる
知らない部屋に初めて入る時 私はその中で領土を探す
部屋の中で 一番感じのいい場所を探すんだ
最後に"配置"には “脱領土化"のプロセスがある
これは領士を立ち去る方法だ
こんな風に"配置”には 4つの構成要素がある
事物の状態
言表行為
領土
そして脱領土化の運動だ
これらの中で欲望は流れる
だから おかしな連中というのは...
 責任を感じたりはしますか? 例えば一
 ドラッグを使う人がいたり
 「アンチ・オイディプス」を うのみにする人がいたり....
それは...
 若者に愚行を 促したとは言いませんが...
責任は常に何にでも感じる
 「アンチ・オイデイプス」の影響とは?
私は常に 物事を良くしようと努めてきた
少なくとも自分ては誇りに思っていることだが
ドラッグを勧めて人目を引こうなんて 一度だってしたことはない
学生が苦境を脱するすることができるよう
私は常に努めてきた
ささいなことで 人がダメになってしまうことに一
私は極めて敏感だからだ
彼が酒を飲んだっていいんだ
私は人が何をしようが非難はしなかった 非難するのは好きじゃない
しかし一
これ以上はダメだという限界を 見極める必要はあると思う
酒を飲もうが ドラッグをやろうが やりたいようにすればいい
我々は警察じゃないし 父親でもないから
私の役目は禁止することではない
だが 人生がダメにならないよう できることはした
何か危険があることに 私は耐えられないんだ
ドラッグをやるのは自由だ でも問題はやり方で一 
めちゃくちゃになるほど やってるとしたら一
"あれじゃ いつが壊れる"と思うよ
それは見るに堪えない 特に若者の場合はね
若い人がダメになるのは 耐えがたいことだ
年寄りが壊れて 自殺するとしても それは人生を経てのことだ
しかし若い人は どうでもいいことをして壊れる
酒の飲み過ぎとが そういうことてね
だがら私はいつも 二極の間で引き裂かれてきた
他者を非難できないという 不可能性と一
人をダメにして しまう 絶対的な欲望との間で
それは紙一重なんだ
これに原理原則はない その都度 対処するしがない
こういう場合に 人の役目 というのは一
若い人を助けるために できる限りやることだ
助けるというのは 正しい道を歩かせたり一
ダメにならないように することでもない
そうじゃないんだ
 「アンチ・オイディプス」の 影響については?
そうだね
あの本は人がダメになるのを 止めさせようとしていた
分裂病の初期状態にある人が一
良い状態でいられて
抑圧的な病院に 押し込まれないように
アルコ一ル依存症で苦しむ人が 悪化せず一
酒をやめられるようにね
そうだとしても 革命的な本でしたよね
というのは この本の敵である 精神分析家にとって一
この本は寛大さを擁護するものと 思われたでしようから
この本の敵にとってはそうだ
しかし読めば分かるが 一
あの本の内容は 非常に慎重に書かれている
その教訓は “ダメになってしまうな"だ
病院で発症する分裂病の過程に 我々は一貫して反対していた
我々が恐ろしいと思ったのは 病院が病を生産することだ
それだけだ
それから我々は一
ある種の"旅(トリップ)"の価値を賞賛した
“分裂病の過程”と呼ばれるものを 賞賛したのだが
あれは 病院が原因でダメになるのを 避けるための方法だった
分裂病者が生産され 作り出されるのを一
避けるための方法だった
 「アンチ・オイデイプス」は 今でも影響力があると思いますか?
そうだね
 16年経っても?
 あれは良い本だよ
あの本には 無意識の一つの捉え方がある
ああいう無意識の捉え方は 他にはない
2つの点において...
いや3つの点で
つまり 無意識が多様体であること
妄想を家族についてではなく 世界についてのものと捉えたこと
宇宙的妄想や人種の妄想 部族の妄想などとね
それから機械としての 無意識という捉え方
劇場でなく 工場としての無意識だ
今でもこの3点は変わらない
これらの考えは 古びることはないんだ
どんな精神分析だって これまで作り直されてきた
あの本は 再発見されてほしい
いつか再発見されることを 祈ってるよ


____________________ 
 
 さて Eは“子ども時代"です
 あなたの人生は ワグラム通りで始まった
 パリの17区に生まれ一
 そのあとはお母さんと 17区のド一ビニ一通りに移ります
 現在はクリシ一広場のそばの ビゼル卜通りですね
 同じく17区で 貧しい地域です
 この映像は あなたの死後に公開されるので一
 住所を出せるわけですね
 ブルジョワの家庭のご出身ですか? 確が右派のブルジョワの家庭だったと...
どこに住んでるかと聞かれれば いつでも答える
凋落(ちょうらく)したのは本当だ
人生の始まりは 実に美しい17区の高級な地域だった
それから子ども時代は一
戦前の恐慌を経験した思い出がある まだ ちっちゃい時だ
一つ思い出すのは 空き屋の数だな
当時の人は本当にお金がなく 空いたアパル卜マンだらけだった
私の両親も 家を手放さなくてはならなかった
凱旋門に近い 17区の美しいアパル卜マンをね
それがら マルゼルブ大通りにほど近い ド一ビニー通りに至った
凋落したとはいえ そこまで悪くはない
そして大人になって パリに戻ってきて一
今度は17区の外れになった
ノレ通りだ 職人や労働者の町だね
裕福なところではないが ヴェルレ一ヌの家から遠くない
そんな風に凋落したわけだ それで何年が経って一
それから どこへ行くか分からなかった 
 そのあとはサン=卜ゥアン?
サン=卜ゥアンだね それで一
私の家族のことだが... 確かにブルジョワの家庭だった
右派だったがというと それは違うかな 確かに左派ではなかった
当時の状況に身を置く必要がある あまり覚えてないからね
なぜかというと そもそも一
記憶とは過去を呼び起こすというより 押しやるものだと思う
たくさんの記憶で 過去は押しやられる
記憶はアーカイブではないのだ
こんな思い出がある
鉄の柵がついてたんだ 分かるだろう?
空きのアパル卜マンに 鉄の柵がついていた
恐慌の頃だ
 何年頃ですか?
正確に何年かは覚えていない
1930〜35年かな 1930年ぐらい... もう分からないね
 10歳でした? 
私は25年生まれだ その頃 人々は本当に貧しかった
ただおがけで お金を心配して イエズス会の学校に行かずに済んだ
 デ・ホス卜街の?
でも公立の学校に行くことになった 不況のせいでね
しかし思い出すに 恐慌には別の側面もあった
いや もう分からないな 大したことじゃない
それから戦争だ
というのも はっきり覚えてるんだが一
父の経営がダメになってね それで経営者ってものがよく分かった 
経営者が人民戦線に抱いていた恐怖は すごいものだったよ
人民戦線というのは おそらく 経営者には耐えがたいものだった
まあ平気だったのもいたはずだが
経営者にとって人民戦線は カオスみたいなもので
1968年5月よりひどかった
それから思い出すのは こうした右派のブルジョワが皆一
反ユダヤ主義的だったことだ
人民戦線内閣の首相レオン・ブルムは 憎むベき者で一
ビエ一ル・マンデス=フランスも 憎まれたが一
ブルムへの憎しみに比ベたら 大したことはない
彼への憎しみはすごかった というのも一
有給休暇廣を初めて認めたからだ あれは非難ごうごうだった
 彼もユダヤ人?
そうだ ブルムは 左派ユダヤ人の代表だった
何と言うか...
悪魔よりひどいと見られていた
そのあとベ夕ンが 権力を獲れた理由は一
フルジョワのこういう反ユダヤ主義を 考慮しなければ分からない
ブルム内閣による 社会政策への憎しみもね
それはひどいものだった
私の父だが 彼はちょっと"火の十字団"の支持者で...
しかし当時ならよくあることだった
とにかく 右派で教養のない家族だった
教養のあるブルジョワも いるだろうが…
私は実に 教養のないブルジョワだった
しがし私の父は立派な男と言える人で 洗績された人物だった
実に親切な人物 とても善良で感じのいい人物だった
父はあの暴力的な出来事 つまり第一次世界大戦を経験していた
その大戦の世界というのは一
おおよそ想像がつくが 詳しいことは分からないものだ
大戦から復員した者のこととかね
反ユダヤ主義があり 恐慌があった
恐慌のことは 誰も何も分からなかった
 お父さんのお仕事は?
父はエンジ二アだった しかし非常に特別でね
二つ仕事をしてたのを覚えている
父は屋根を防水にする 何かを発明したが一
商品化したんだ
屋根の防水だよ
しかし恐慌で一人しか工員が残らなかった イ夕リア人だ
それにその外国人は よく働かない奴でね
それで父は挫折し 今度はもっと確実な産業に再就職した
それは気球を造る工場だった
気球だよ 飛行できるやつだ
分かるね?
 ええ
だが もうそんなものは 何の役にも立たなかった
39年には パリでは気球が浮かんでいて 侵入してきたドイツの飛行機を止めていた
まるで渡ってきたハ卜のようだった
それで ドイツが 父の働いていた工場を接収したら一
連中の方が合理的でね
ゴムボート工場に変えちゃったのさ
ゴムボー卜の方が役に立つ
もっとも ドイツは気球や飛行機も 造ったわけだが
それで… 私は第二次大戦の始まりを見た
よく覚えている 子どもだったが 14歳にはなっていた
みんな知っているように 1年はミュンへンで勝っていた
1年と数か月だね 
恐慌と戦争とすベてが つながっていたんだ
非常に緊張した雰囲気で一
恐ろしい時期を 年上の人々は生きていた
(中断)
ドイツがベルギ一から下って フランスに入ってきた時
私はド一ヴィルにいた
両親が毎年夏のバカンスを 過ごすところだった
その時 両親は先にパリへ戻っていて 我々はド一ヴィルに残された
考えられないことだった
母は置き去りにするような人じゃない
両親は我々を その家の管理人だった年配の女性に託した
結局私はド一ヴィルで1年聞 学校に行くことになった
ホテルを改装して 学校にしたところだ
そこから ドイツ軍は遠くなかった
いや違う "奇妙な戦争”の最中だ
それでド一ヴィルの学校にいた時は 先に話した“有拾休瑕”の時期で一
最初の有給休瑕の人たちが ド一ヴィルのビ一チに来たのを覚えている
あの時はすごかった
映画人だったら 最高傑作が撮れるはずだね
なぜって 初めて海を見る人ばかりいたんだから
すごいことだよ 私も 初めて海を見るという人に会った
すはらしいね それはリム一ザンから来た少女で
私たと一緒にいて 初めて海を見たんだ
"海は見なけれは想像できない" というのは本当だ
海はすごく大さいとが 果てがないとか思っていても一
言葉だけのことであって 実際に海を見たらね…
その少女は4時聞だか5時聞だか 海の前にいた
飽きずにその崇高な 途方もないスぺク夕クルに見入っていた
それでド一ヴィルの ビ一チだけれども一
昔からそこは ブルジョワ専用のビ一チだった
そういう場所に有給休暇で 海を見たことのない人々がやってきた
大変なことだよ
もし階級的な憎悪なるものがあるなら一
これは すばらしい女性である 私の母の言葉だが
"こういう人たちがいるビ一チには もう来られない”と言っていたよ
きついね
しかし ブルジョワは こうしたことを決して忘れないだろうね
それに比ベたら 68年5月なんてどうってことない
 ブルジョワが抱いていた恐怖を さらに伺えますか?
恐怖? それは大変できりがなかったよ
労働者に有給休瑕を 与えるというのは一
ブルジョワの特権を 失うことだがらね
それから場所だ つまり領土の問題だよ
もしメイドがド一ヴィルのビ一チに 来られるというなら一
それは急に恐竜時代に 戻るようなことかもしれん
だがら侵略なのであって ドイツ軍よりひどいわけだ
ドイツの戦車が ビ一チに来るよりひどい
分かるだろ とにかく言いようがない
 別世界の人間 ?
細かい話になるが 工場で起きていたのは…
経営者は忘れないだろうな 先天的な恐怖を抱いていたんだよ
私は別に68年が何でもなかったとは言わない
ブルジョワも68年は 決して忘れないだろう
それて 私はド一ヴィルにいて一
両親はいなくて 兄と二人きりだった
ドイツ軍がついに攻めてきた時 私はぼんやりしていられなくなった
私は学校でも 極めて平凡な少年だった
特別何に興味があったわけでもない
切手集めが 自分の最高の活動だった
クラスでは何者でもなかったよ
しかし私にも 多くの人に起こることが起こった
人はある夕イミングで目覚めることがある 常に誰がに目覚めさせられる
私の場合はこうだった 学校に改装されたホテルには一
ある男がいた 若い男だ
彼は並外れた人物だと思った 話しっぷりがすごかったんだ
それが私の絶対的な目覚めになった
彼にたまたま出会ったんだ
彼は後に 結構知られた人物になる
第一に彼の父親が有名だった
それから これは後のことだが 左派の活動に熱心だったからだ
彼の名はアルヴァックスともいう
ピエ一ル・アルヴァックス かの社会学者の息子だ
当時の彼はとても若かった
変わった外見で 痩せていて とても背が高く…
いや かなり高かった
そして“隻眼”だった
というのは もう片方の目を隠していたんだ
元がらてはなく そういう装いだった サイクロプスみたいだった
それがら山羊みたいな くるくるの巻き毛
いや 山羊より は羊だな
それで… 風邪をひくと 彼は顔色がひどく悪くなった
非常に体が弱かった それで彼は兵役を逃れていて一
学士の学位を持っていた
アルヴァックスは戦争の間 臨時教員として来ていた
それが私にとって目覚めになった 彼は熱意ある先生でね
何年生だったか… 中学の終わり頃だろう
彼は我々に いや私に何かを“伝染”させた
天地がひっくり返るような経験だった 私はいろいろ知ることになったんだ
ボ一ドレ一ルの話をしてくれたし 朗読もしてくれた
そして必然的に彼と親しくなった
私がとても感動していると 彼は分かっていた
アルヴァックスは冬に私を ド一ヴィルのビ一チへ連れていった
私は彼にベったりだった 彼の弟子だったんだよ
私は師を見つけたんだ
それで... 私たちは砂丘に座った
風が吹いていて海があって 最高だったな
そこで彼はジッドの「地の種」を 読んでくれた
誰もいないビ一チで 彼は叫ぶように朗読した
彼は「地の糧」を叫んでいた 私はその憐に座っていて一
誰が来たらどうしょうと ちょっと心配してたよ
“少し変だ”と思っていたが 変化に富んだ声で彼は朗読を続けた
彼のおかけで アナ卜一ル・フランスも知ったし
ボードレ一ルもジッドも
どれも名作ばかり アルヴァックスのお気に入りだった
それで私は変わった 別人に変わってしまった
周りもすぐ彼を噂するようになった
変な格好とか 大きな目とか
そして彼について回る少年 つまり 私のことも
二人で一緒にビ一チに 行っているらしいとね
それで管理人の女性は 私を呼び出し一 
"ご両親がいない間 私はあなたに責任があるんです”と
"ある種の関係" に警告したのだ
私には何やら さっぱり分からなかった
だって それは純粋な関係で 何の問題もない公言できるものだったから
あとになって分かったが一
周りはピエ一ル・アルヴァックスを 危険な小児性愛者と疑ったらしい
それで私は彼に 敬語でこう伝えたんだ
"僕は怒っています 管理人さんが あなたに会ってはいけないと言うんです”
"これは普通ではない 適切ではない”と
彼は言った “いいかい 心配は要らない”
"どんな年寄りの婦人も 私には逆らえない”
"私が彼女に説明しよう そうすれば安心するだろう"
しかし私は彼のおかげで賢くなり 疑いを持てるょうになっていたから一
全然安心できなかった むしろ悪い予感がした
説明に行ったところで あの管理人さんがどうなるか
実際 ひどいことになった 彼は管理人さんに会ったが一
彼女はすぐに私の両親に手祇で “息子さんを帰します”
"いががわしい人物がいます”と 伝えた
アルヴァックスの目論見は大外れ
しかし ちょうどその時 ドイツ軍が攻めてきた
“奇妙な戦争”の時だった
おかげで その問題は立ち消えになった
兄と私は両親のところへ戻るのに 自転車でロシュフォ一ルへ向かった
父の工場はドイツ軍を避けるため ロシュフォ一ルに移されていた
我々は自転車で行った あの時のペ夕ンの演説を覚えている
あの悪名高き 忌まわしい演説だ
それを ある村の宿で聞いた
そして 兄と私は自転車に乗って ある交差点に来たところで車が来た
まるで漫画のように
車にアルヴァックス親子がいたんだ
それからマイエという美学者
彼らもロシュフォ一ルの近くに 来ていたわけだ
運命だね !
後にアルヴァックスと再会した時 彼のことはよく知っていたわけだが一 
もう昔と同じ敬意を 抱くことはなかった
それで少なくとも分かったのは一
私の13か14歳のまさにあの瞬間に 彼を尊敬したということだ
(中断)  それであなたは バカンスを終えて一
 "奇妙な戦争”の時期に 苦労してパリに戻った
 あなたは学校で哲学のクラスに入ります そこではメルロ=ポンティが教えていた
 しかし奇妙にも あなたは メルロ=ポンティのクラスではなく
 ヴィアルという人のクラスにいた
 以前名前を伺った...
そう ヴィアル先生だ 彼については心に響いた思い出があるよ
ても彼のクラスに入ったのは たまたまだった
メルロ=ポンティに教わることもできたとは思うが一
そうならながった なせだかは分からないが
しがしヴィアル先生は…
確がにアルヴァックスが私に 文学の手ほどきをしてくれたわけだが
しかし哲学の授業に出てすぐ これが私のやるベきことだと悟ったんだ
 それは...
いろいろ脈絡なく思い出すんだが
例えば よく覚えているのは一
哲学の授業中に オラドゥ一ルの知らせを聞いたこと
ナチスによる オラドゥ一ルでの虐殺が起きた
私のクラスは やや政治化されていたと言うベきだね
ナチスの問題に敏感だったり...
それからギィ・モケ と 同じクラスもこなったことがある
あのクラスは一
何が変な雰囲気のクラスだったな
ともかく あのオラドゥ一ルの知らせは一
17歳の少年たちにとっては 非常に驚きだった
最終学年が 何歳だったが忘れたが...
17~18歳だな いや16~17歳か
 通常は18歳です
そうだ 思い出した
それでヴィアル先生だが 彼は声が低くて 年をとっていて一
私は彼が本当に大好きだった 
メルロ=ポンティは 憂うつそうにしていた記憶しかない
学校は大きくて 階全体に手すりがついていた
メルロ=ポンティは憂うつな目で一
下の階で遊んだり 騒いだりしてる生徒を見ていた
"ここで何をしているのだろう”と 途方もなく憂うつに見えた
ヴィアル先生の方は 私はとても好きだつた
彼は退職する間際だった
彼とは とても親しくしていた
結構近くに住んでいて 一緒に行き帰りすることもあった
飽きずにお喋りしていてね
そこで 私は哲学をやるか でなければ何もするまいと思ったんだ
 最初の授業で ?
そう もちろん そうさ
それは例えば...
"実存”を学んだ時には 概念ほど 奇妙なものはないと思ったな 
その体験は すばらしい小説の人物に 出会った衝撃みたいなものだった
例えば...
 モンテクリス卜伯とか?
「失われた時を求めて」の シャルリュスとかね
バルザックの本に登場する ヴォ一卜ランとか
あるいは ユ一ジェ二一・グランテとが
ブラ卜ンのイデアの概念が それぐらい生き生きと感じられた
生命があったのだ
哲学は私にとって そういうものだった
 あなたはすぐに成績が 良くなったんですか?
そうだね 学校ではもう成績の問題はなかった
アルヴァックス以来 成績は良かった
文学も良かったし一
ラテン語も良かった
そして哲学で私は 特に良い生徒になった
 少し戻りますが 当時のクラスは “政治化"されていなかった?
 ギィ・モケのいたクラスには 特別なところがあったと…
政治化? 戦時中は不可能だよ
いゎゆる政治化はなかった
17~18歳の少年で一
全員レジス夕ンスに 加わったわけじゃない
やっていても バカじゃない限りは黙っていたからね
だがら 政治化されていたかは 何とも言えない
無関心なのもいたし ヴィシ一政権の支持者もいた
それから...
 アクション・フランセ一ズも?
いやいや それはなかったよ
あれはもっとひどかった あれはヴィシ一支持者で...
とにかく平時での政治化とは 比較にならない
だって あの時の活動は レジス夕ンスだよ
若いレジス夕ンス活動家 集まる若者...
それは政治化なんていうもんじゃない 秘密裏に行われることなんだから
 例えばあなたのクラスに レジスタンスのシンパはいましたか?
 それについて話した人は?
ああ ギィ・モケはそうだったが一
彼は死ぬことになったわけだ ー年後にナチスに暗殺されたはずだ
 あなたは話題にした?
うむ... 話したな 確かに話した
先ほど言ったように オラドゥ一ルのことはすぐ伝わった
それは秘密の速報だった
無断で伝えられた話題だ
事件当日に知れ渡ったんだよ パリのすベての学校に知れ渡った
オラドゥ一ルの二ュ一スは 最も印象深いものの一つだ
ほとんど即時に伝えられた あの二ュ一ス...
 この"子ども時代"も そろそろ終えましょう
 あなたにとって 子ども時代は さほど重要でないのでは?
 あなたは子ども時代の話をしないし また参照点にもしていない...
そうだね
 重要性を見出してない、
ええ そうだね
さっきまで話したすベてがそうだね
私が思うに一
書くという活動は 個人的事情には全く関係がない
心を込めないわけじゃない
文学も書くことも 根本的に 生そのものと関係している
ただし 生とは 個人の人生以上のものだ
文学において 書き手の人生から来ている事柄は
本質的に厄介なものであり 本質的にみじめなものだ
なぜなら それは文学を妨害し一 
小さな個人的事情にしてしまう
文学はそういうものではない
私にとって重要なのは一
言うなれは"動物になる"のような一
"子どもになる"という 生成変化なんだ
書くこととは常に 何かに"なる'ことだ
だから書く ために書くのてもない
人は 自分の中を 生の何事かが通過するから書く
それは いろいろだろう
まさしく生のために書くのだ
そして何かになるのだ 書くことは生成変化だ
好きなものになるために書く 作家になることは除いてね
書くことは したいようにすることだが一
記録を作るわけではない
私も記録というものを尊重する 記録を作ること自体はいい
だが一
記録は何かとの関係においてのみ 価値を持つ
記録を作る必要があるとしたら 他の何かと関係があるからだ
記録によって把握されるのは この他の何かの方だ
しがし 例えば一
私の子ども時代を語ることなど 全く価値がないだけでなく一
それは文学とは正反対のことだ
ところで ちょっといいかな
これはもう何度も読んだもので...
偉大な作家が 口を揃えて言うことだが
この本でこんなことが言われていたとは 知らなかった
ロシアの偉大な詩人 マンデルシ夕一ムだ
これを昨日読んでいた
 美しい名前でしたね?
そう オシップだ
彼が言ってるのは...
私にもこういう経験がある 実に私を動揺させる夕イプの文だ
教師はこういうテクストを伝えて 生徒が興味を持つようにするのが役目だ
まさにアルヴァックスが してくれたことだ
読むよ "私にはそれでも分からないことがある"
少し変えて引用する
書き手についての話だが一
"私は卜ルス卜イのような人は 理解できなかった"
"家族の記録を好む書き手のことだ 家族の思い出の詩も理解できない"
ここから話は深淵になる
"繰り返すが一"
"私の記憶は愛ではなく 敵意に満ちている"
"記憶が動くと 過去は再現されず むしろ遠ざけられる"
"平凡な出自のインテリにとって"
彼のことだ
"記憶は無益である"
"読んだ本の話をすれは それで自伝はできたも同然だ"
私とアルヴァックスもそうだな
"幸福な世代においては一"
 “叙事詩が六歩格(ヘクサメトロス)や年代記の形で 語られたのに対し一"
“私の方には空隙(くうげき)の印があり 一"
"そして 私と時代の間には 深淵が横たわっている"
"騒々しい時でいっぱいの溝だ"
"私の家族は 何を言いたかったのだろう"
"私には分からない"
"私の家族は生まれつき吃音だった"
"だが 何かを言おうとしていた"
"生まれつきの吃音が 私と たくさんの同時代人にのしかかっている"
"我々は話すことではなく 言いよどむことを学んだ"
"次第に増していく時代の騒音に ただ耳を傾け一"
"時代の波頭の泡にすすがれて はじめて一"
"我々は言語を獲得したのだ"
さて これが私にとって 何を意味するか
書くとは生を証言し 生の"ために"証言することだ
死んでいく動物の"ために"つまり その"代わりに"証言するんだ
そして それは言語において吃(ども)ることだ
子ども時代に訴えかけて 文学をやるなどというのは一
文学をちっぽけな 個人的事情にしてしまうことだ
実に不愉快なものだ そんなのは安売りの文学や一
ベス卜セラ一の類だ 実にくだらない
吃るところにまで言語をもっていく というのは容易ではない
"ベ ベ ベ"と 吃れはいいのではない
そう おそらく文学においては一
言語を限界にまで至らせることで一
言語や書き手が〝動物になる" ということが起こる
"子どもになる"もだ
これは自分の子ども時代とは 関係ない
作家は"子どもになる"が 誰かの子ども時代など関係ない
それは ある一つの世界の 子ども時代だ
自分の子ども時代に 興味があるなんて奴は論外だ
続けるのは勝手だが その程度の文学ができるだけだ
自分の子ども時代に無闔Dだった人物は 例えはプル一ス卜だ
書き手の課題とは一
家族の記録をあさったり 子ども時代に興味を持つことではない
自分の子ども時代に興味を持つに 債する人など誰もいない
文学の課題とは 書くことで子どもになり一
世界の子ども時代に向かい それを回復することだ
それが文学の課題だ
 二一チェ的な子どもでしょうか?
そうだね
二一チェは子どものことを分かっていたが マンデルシタ一ムもそうだ
書き手なら皆 分かっている
それが生成変化 つまり"~になる"ということだ
書くことは生成変化だが しがし 作家になることではないし一
自分の回想録作者に なることでもない
小説を書くのは 恋愛を経験したからではない
そういうのは下劣だ
凡庸なだけでなく 下劣極まりない
 例外は?
 ナタリー・サロ一卜はすばらしい作家で 「子ども時代」という本を書いている
 それは彼女の弱さでしょうか?
いやいや 全然そうではない
君に同意するよ ナ夕リ一・サロ一卜はすばらしい作家だ
あれは彼女の子ども時代ではない あの本はそれを作り直しているんだ 
 あえて反論してみます
分かるよ でもそれは危険な役割だ
サロ一卜は世界の子ども時代を発明した なぜ自分の子ども時代に関心を持ったか?
彼女は型通りの事柄から 驚くベきものを引き出す 
これは彼女が すでに行っていたことだ
誰かの最後の言葉を 使ってやっていたな
 チェ一ホフの"私は死ぬ"です
そうだ チェ一ホフの最後の言葉だ
そこから彼女は何がを引き出す 例えば彼女が一
"ごきけんいがが"という挨拶を耳にする では"いかが"とは何か?
彼女は言語から世界を引き出し 言語を増殖させる
君は彼女自身が 子ども時代に興味があったと言ったね
 分かりますが それでも...
クロ一ド・サロ一卜なら あっただろうよ
 「ココ」ね! 「ココ」!
 分かります しかし一方で一
 あなたは最初から文学へ向かって 訓練していたのでしょうか?
 何歳の時から子ども時代を敵視し 文学に向かったのか
 どんなに嫌でも 子ども時代は 急に回帰してくるものではないですか
 だとしたら 日常的に訓練が必要なのでしょうか?
それは自然と そうなってるんだと思うよ
子ども時代 子ども時代...
悪い子ども時代と良い子ども時代を 分けなきやいけないとが一
一体どんな意味があるのか
父や母との関係とか "私のパパ ママ"という類の思い出
本人には華かなことかもしれないが 大して面白いとは思わない
書くベきこととしては面白くない
子ども時代には別の側面がある さっき話した 道で死んでいる馬とか一
子どもの情動を再発見することだ
そう ある一人の子どもだ
私もかつて"子ども"だったわけだが
"子どもというもの"など何者でもない
子どもたちがたくさんいて 私はそのうちのあるー人だったわけだ
"ある一人の子ども"として 私は面白いものを見た
それは"かくかくしかじかの子ども" としてではないんだ
"馬が死ぬのを見た"と話すのは一
それを見た人のためで 自分のためではない
まさしくそういうことだ
それが作家になることの責務だ
馬は一つのファク夕一で ドス卜エフスキ一も見ただろう
確か「罪と罰」で 道で死ぬ馬のことを書いている
ダンサ一の二ジンスキ一も見ただろう 二一チェも見た
二一チェは年老いてから 死んでいく馬を卜リノで見たわけだ
そういうことだ
 人民戦線のデモも見ましたね
人民戦線のデモを見たな
その時に父が一
誠実さと反ユダヤ主義の間で もがいていた
私はある一人の子どもだった
私はいつも 不定冠詞の意味が きちんと理解されていないと主張してきた
"ある一人の"子どもがぶたれるのだし "ある一頭の"馬がムチで打たれるんだ
どういうことかというと一
不定冠詞は 極めて豊かなものだ
 それは多様体ですね
そう 多様体だ

_____________
 
 ではFに移りましょう
次はFだね よし
 Fとしては"忠実さ"を選びました
 "忠実さ"の観点から “友愛"について語りましょう
 ジャン=ピエ一ル・バンベルジェは30年来の親友ですね
 まるでカップルのようです
 あなたは友愛に忠実です
 フェリックス・ガタリや ジェロ一ム・ランドンに対してもそう
 エリー・サンバ一 ジャン=ポ一ル・マンガナロ 
 ピエ一ル・シュヴァリエも 大事な友人ですね 
 フランソワ・シャ卜レや ミシェル・フ一コ一もです
 あなたは 友人たちに敬意を払っており一
 とても忠実です
 そこで次のことを 伺いたいのです
 忠実さと友愛は 強く結びついているのでしょうか?
忠実さではなく普通のことだ
 -"友愛"はAに入れるベきですが...
-忠実さの問題ではないと思う
友愛... なぜ誰かの友人であるのか ?
友愛は私にとって 知覚の問題なんだ
友愛もそうなんだ
というのは一
友愛とは共通の考えを 持つことではない
実に平凡なことだが 説明せずに理解し合えるのは一 
共通の考えではなく 共通の言語を持っているからだ 
あるいは共通の"前-言語"だね
私には何を言ってるのが 理解できない人もいる
“塩を取ってください”とか 単純なことを言われても一
何を言っているのか分からない
逆に極めて抽象的な主題を 話していて一
同意はできなくても 全部分かることがある
きちんと全部分かるんだ
私は彼らに 彼らは私に言うべきことがある
これは考えの共通性ではない ここには一種の秘密がある
この根本的に 不確定な士台が重要で…
 どちらが話す番でした?
ああ 私だな
そう 確かに一
大いなる秘密がある
誰がに対して言うベきことがあり 共通の考えはないのに分かり合っている
これについては 一つの仮説があるんだ
我々は 一人一人 何らかの夕イプの人を一
把握するのに適していて あらゆる夕イプを一度に把握はできない
人の魅力の夕イプだ 魅カを知覚することがあるんだ
では魅力とは何なのが?
それは友愛における 同性愛的なところではない
そうではなくて 誰かの身ぶりとか一
誰かの考えとか一
あるいは 恥じらいでもいいが そういったものが一
特に意味はないというのに一
魅力の源泉になる 生の根源にまで届くんだ
こうした魅力の知覚によって 人は誰かの友人になる
人が発する言葉に関して言えば一
下品で汚らわしい人物にしか一
口にできない そういう言葉がある
今その例を出す時間はないが 誰しも思い当たるだろう
そういう言葉を耳にしたら “今 何と言ったのだ?”
“なんと下劣な”と思うわけだ
品のないことを囗にしてしまったら 撤回できると思ってはいけない
それとは逆に 人の魅力に関して重要なのは一
ささいなフレ一ズだ
それが魅力を発し 人の精妙なところを証言する
“彼は私の仲間だ”というのは 決して所有の意味ではない
彼と私が お互いに そばにいようと願うことだ
そこから友愛が生まれる
だから知覚が大事なんだ
自分に何が適合するがを教えてくれる そういう知覚だ
適合するものを 明らかにしてくれる
 記号の解読だと ?
そう それはうまい言い方だ
まさに それだ
誰かが発した記号は 受け取られることも 受け取られないこともある
あらゆる友愛は それが基礎になっている
誰かの発した記号に 反応できるがどうがだ
それこそ友愛を説明する
友人とは何時間も話さすに いることができる
あるいは 無意味なことばかり 言っていることもある
友愛というのは滑稽なものだね
 滑稽なカップルが好きですよね
 ブヴァ一ルとペキュシェ メルシエと力ミエ…
滑稽といえば 私とジャン=ピエ一ルもそうだ
メルシエとカミエほどじゃないが
似たようなものさ そうだね...
私は体が弱く いつも疲れていて ジャン=ピエ一ルは陰気な奴で
だから我々の会話は メルシエとカミエみたいなんだ
“最近どうだい”と聞くと “気力満夕ンだが まだ入る余地がある”と
こういう言葉が魅力的なんだ あるいは一
“最近どうだい”に対して一
"海に揺られる コルク栓のようだとか
実にいいね
一方でフェリックスと私の関係は 少し違っていて一
ブヴァ一ルと ぺキュシェのようにー
同じ仕事に身を投じた関係だ
大きな企画に共に取り組んだ フェリックスとは一
同じブランドの帽子を かぶっている感じだった
フェリックスとは一
百科事典並みの 本を作り上げたんだ
あらゆる分野の知識に関わる本だ
私とフェリックスは ローレルとハーディ一みたいに対話した
何も あの偉大なコンビを マネろと言うわけじゃないが
あれが まさに“友愛”だ
ブヴァ一ルとぺキュシェ カミエとメルシエ ロ一レルとハーディ一
喧嘩して 決裂しても 大したことではない
確がに 友愛という問題には一
ある種の神秘がある
しがも それは哲学と 密接に関係している
フィロソフィ一 "哲学”という語に “友"の意味が含まれている
哲学者は賢者ではない
賢者だなどと言ったら 皆 大笑いだ
哲学者は文字通り “智恵の友”として現れる リフイア フイロス
“友”なんだ
ギリシア人が発明したのは 智恵ではなく一
"智恵の友”という奇妙な考えだ
では“智恵の友”とは どういうことか?
これは"哲学とは何が?”という 問題そのものだ
“智恵の友”とは何を意味するか ?
智恵の友は賢者ではない ということだ
“智恵の友は智恵を 目指している” と考えるのは安易だろう
これは あまり良い解釈じやない
なぜ哲学に友愛が書き込まれているのか? その友愛とはどんなものか?
それは友人に関係があるのか ?
ギリシア人にとつて “~の友である”とはどういうことが?
友を“~を目指す者”と 解釈するなら一
智恵の友とは 智恵を要求しているが 賢者ではない者となる
だが 智惠を要求するとは どういうことか?
要求する者は 一人ではなく いつも他にいる
ある娘ヘの求婚者が一人いたら 他にも求婚者がいる
多くの求婚者がいるということだ
しかも智恵ヘの到達を 約束されていない
そう ただひたすら 智惠を要求しているわけだ
智恵の要求者が多くいる ては ギリシア人は何を発明したのが
これこそギリシア人の発明だ
ギリシア文明において発明されたのは “要求する者”という現象だ
すなわち ギリシア人が発明したのは一
あらゆる分野には 自由人の競争があるという考えだ
その考えは 他の地域にはなかった
だが ギリシアにはあった 雄弁術がそうだ
だがら あれほど 訴訟好きだったわけだ
自由人たち そして友人たが 訴訟を起こした
若い男性や女性には 何人も求愛者がいた
ベネロベの求婚者とかね たくさんいたわけだ
まさしくギリシア的というべき現象だ 別に奇跡ではない
自由人の競争こそ ギリシア的現象なんだ
これが"友”というものを 説明してくれる
哲学でも何らがの競争がある それは何に対してなのが?
哲学史を振り返ってみると一
哲学を友愛の秘密に 結びつける人々がいて
また 哲学を婚約の秘密に 結びつける人々もいた
この二つは似ている
キルケゴ一ルだ
哲学には必す 破棄された婚約がある
あるいは必す初恋がある
 レギ一ネですね
しかし初恋とはおそらく 最後の恋の繰り返しで最後の恋だ
哲学にとって カップルが重要だ 奇妙なことだが一
婚約者とは何さ 友とは何か という問いにケリをつけなければ一
哲学が何さは分からないんだ
これは実に 興味深いことだと思っている
ブランショは「友愛」の中で…
ブランショだね ブランショとマスコロは一
哲学や思者との関係において まさしく友愛を重視している
ただし非常に特別な意味においてだ 彼らによれば一
哲学者になったり思考するために 友が必要なのではない
彼らは友愛を一
思者にとっての 一つのカテゴリ一や条件と考えている
重要なのは 実際の友ではなくて一
カテゴリ一としての友愛だ
それが思者のための条件をなす
例えはディオ二ス・マスコロと ロベ一ル・アンテルムの関係は一
それに由来するものだし ブランショの友愛論もそうだ
ところで私としては一
私は“友人を信用しない”というのが とても好きなんだ
一ギリシア人の係争好きな一面? 一友愛とは不信のことだ
私が大好きな詩句がある
非常に印象深い ドイツの詩人のものだ 
“たそがれ時とは”
"犬と狼の区別"もつかなくなる時間であって"
"友人さえ信用してはならない”
友人さえ 信用してはならない時間があるわけだ
私は疫病に対するように ジャン=ピエ一ルにも用心してる
ただ私の態度が陽気なので 友人も私に害は加えない
もし彼らに何かされても ばかばかしいと思うだけだが
そういう相互理解というが 仲間関係が一
友人との間に あるいは婚約者との間にある
だが こういうことを ちっぽけな個人的事情と思ってはならない
ここでもまた一
友愛なり失われた婚約者なりで 問われているのは一
"いかなる条件において 思考がなされるのか"なんだ
例えばプル一ス卜にとって 友愛は何の価値もなかった
彼個人にとってだけでなく 思考にとって 友愛は無価値だった
逆に重要なのは "嫉妬する愛"だった
それがプル一ス卜にとって 思考の条件だった
 では最後にあなたの友人について質問します
 フ一コ一とシャ卜レとは “解放"の時期に共に研究していました
 しかしフ一コ一とはカップル的な友愛ではなかった
 それはジャン=ビエ一ルや フェリックスやエリ一
 ジェロ一ムに対するものとも 違います
 フ一コ一との友愛は 非常に深い一方 距離がありました
 より形式的で 外にいる人に 対するような関係でした
 この友愛については?
確かにフ一コ一は 謎めいたところがあった
知り合ったのが遅すぎたのもある
フ一コ一の死は本当に残念だった
彼のことは 非常に尊敬していた
私が彼をどう知覚したかというと フ一コ一は極めて稀なケ一スだった
彼は入ってくるだけで 部屋の空気を変えてしまう人だった
フ一コ一は単なるー個人ではなかった 単なる一個人など存在しないだろうが...
彼は まさしく一
一陣の風のようだった 新たな風だったと思う
あたかも特別な一陣の風のようで それで物事は変わったんだ
まさしく気象の変化のようだった
それは一種の放射現色のようで いわば"フ一コー放射"だった
光を発しているのが見えるようだった さて そこでだが一
フ一コ一の例がまさしく 先ほどの話に相当する
つまり彼とは話し合う必要がなかった 笑い話しかしなかった
友人ならば 会っても何も話さないこともある
要は“今日は何で笑うか”なんだよ
何が起ころうとも 何で笑えるかなんだ
つらい状況下でも 何で笑えるか...
私にとってフ一コ一は どんな思い出かというと...
魅力の話をした時 身ぶりについて話したが一
フ一コ一には驚いたよ
フ一コ一の身ぶり というのは一
金属 あるいは 乾いた木のようで一
実に奇妙なものだった 奇妙で魅カ的 実に美しい身ぶりだった
人は狂気を通してのみ魅力を発揮する これは なかなか理解されない
どういうことかというと
人の真の魅カというのは一
ちょっと混乱した時に出るものだね
今いる場所が分からなくなった時とかね ダメになったのではないんだが
しかし一
その人の狂気の小さな根や かけらを うまくつかめないと一
その人を好きになることはできない
相手がうつつを抜かし 心ここにあらずの時のことだ
人は誰でも少し狂っている そこを把握することだ
私を怖がらせたり 逆に楽しませる点をね
そういう狂気の点こそ 人の魅力の源泉なんだ
そうだ……

ドゥルーズ『アベセデール』(Abécédaire de Gille Deleuze)
"A comme Animal," "B comme Boisson," "C comme Culture," "D comme Désir," "E comme Enfance," "F comme Fidélité," "G comme Gauche," "H comme Histoire de la philosophie", "I comme Idée, "J comme Joie", "K comme Kant", "L comme Literature,"M comme Maladie,"N comme Neurologie", "O comme Opéra", "P comme Professeur", "Q comme question," "R comme Résistance", "S comme Style","T comme Tennis","U comme Un", "V comme Voyage", "W comme Wittgenstein, "X & Y comme inconnues," "Z comme Zigzag"


次は“G“ だな 
 Gです 
 次の文字に行きます “魅力“とは全く異なる話題です 
 真面目な話題です あなたと 左派の関係について話しましょう 
ああ いいだろう 
 喜んでいただけて 嬉しいですね 
 あなたは右派の ブルジョワ家庭のご出身です 
 フランスの解放以来一 
 あなたは いわゆる 左派だったわけですが...
 当時 あなたのご友人の多くは 哲学科の学生であり一 
 共産党に加入していました 
 ああ みんな入っていた 入ってないのは私だけだった 
 なせ入党しなかったのですか ? 
別に話は難しくない 友達は皆 共産党に入っていた 
私が入らずに済んだのは 思うに 私が勉強熱心だったからだ 
それと 私は集会が大嫌いだった 
集会ではずっと誰かが喋っている あれには耐えられない
共産党員だと いつも党細胞の集会に参加する 
当時 ス卜ックホルム・アピ一ル というのがあった 
才能ある連中が すっと署名集めをしているんだ 
一日中 署名集めだ 神父なんかに署名させていた
彼らはいつもアビ一ル文を 持って歩いていた
共産主義者たちが あれに熱心だったんだ 
友達に才能ある共産主義者の 歴史家が何人もいたんだ
党にとっても 彼らが博士論文を 書く方が有用だったはずだ 
共産党にはまだ なすベきことがあったんだから 
なのに ばかばかしいアピ一ルの ために彼らを使っていた 
あんなことは 絶対にやりたくなかった
私はお喋りじゃなかったし あまり話さなかった
署名集めなんかしたら びくついてダメだったろう 
署名集めなんかしたことがない
党の新聞も 売らなきゃいけなかったし 
そんな程度の理由だ
とにかく党に入りたいなんて 思ったこともない
しかし彼らの活動に 共感したことは?
ないね 党とは関係を持たなかったから助かった
スタ一リンがどうしたこうした という話だ
最近分かったみたいに 言われているが一 
スタ一リンの恐怖なんて みんな分かっていた 
革命がうまくいかないことも
笑うしかない 誰をバカにしているつもりかね 
"新しい哲学者"の連中が 最近それを発見したらしいが 
少し頭が弱くないと こんな話にはついていけないな
ス夕一リンでそれが分かったなんて 
誰もが同じようなことを発見する 
アルジエェリア革命は 学生たちが犠牲になったから失敗だったとが 
そもそも革命がうまくいくなどと 誰が信じていたのか
そう 誰が? 
イギリス人は革命を起こしていないなんて全くの間違いだ 
そんなまやかしが 通用しているけれども
イギリス人も革命を起こして王を殺した そうして何を得たか? 
クロムウェルだ 
イギリスのロマン主義とは何か?
革命の失敗をめぐる思索だった 
スタ一リンのもたらした 革命の失敗を考えるのに一 
アンドレ・グリュックスマンなんか 必要ない 考察はあったんだから 
あと革命に関しては アメリカ人の失敗も重要だ
彼らはボルシェヴィキに劣らず 失敗している 
アメリカ人をあなどってはいけない 
独立戦争以前 彼らは一
新しい国民以上の存在だった 
彼らは国民の枠を超えていた 
まさしくマルクスが プロレタリア一卜について言った通り 
彼らは国民の枠を超えていた 
アメリカ人たちは 新しい人民をもたらした
まさしく革命を起こしたんだ
マルクス主義者が"普遍的プロレ夕リア化"に期待したように一 
アメリカ人は 普遍的な移民政策に期待した 
これは階級闘争の二つの側面だ 
アメリカ人たちは実に革命的だった 
それは卜マス・ジェファ一ソンの アメリカであり一 
へンリ一・D・ソロ一のアメリカ ハ一マン・メルヴィルのアメリカだ 
ジェファ一ソン ソロ一 メルヴィル
彼らのアメリカは革命的であ髑丿 新しい人間の到来を告けていた 
ボルシェヴィキたちの革命が 新しい人間の到来を告げていたのと同じだ
だが あらゆる革命は失敗する 誰でも知っていることだ
それを今さら再発見するなんて 少し頭が弱いだけだったが一
皆がそれをやり始めた 現代の歴史修正主義のことだ 
フランソワ・フュレが フランス革命は それほどよいものではなかったと言う
その通り あれも失敗した だが それは誰でも知っている 
フランス革命が ナポレオンを生み出したとか
何か発見をしているつもりだろうが 少しも心を動かされない 
イギリスの革命は ク口ムウェルを生んだ
 じゃあアメリカの革命は?
もっとひどい
リベラリズム?
レーガンかもしれないし 少しもいいものには思えないな 
ええと つまり 皆が思い違いをしている 
革命は失敗する 革命はうまくいかない 
しかし だからといって一
人々が"革命的になる”のが 妨げられるわけではない 
二つの全く別のことが 混同されている
“革命的になる”ことが 唯一の出口であるような状況がある 
すっとこの話をしていたんだ
"~になる”こと つまり生成を 歴史と混同してしまうことだ 
人が"革命的になる"のは...
そう ありがちな混同だが 歴史家は一
革命の先行きを語る
だが そんなことは問題ではない 
歴史家は歴史をさかのぼり 一 
"革命の先行きは暗い なぜなら 最初からひどかったから"と言う
だが 問われるベきなのは一
いかにして そして なぜ 人々が"革命的になる"のかだ
嬉しいことに 歴史家でも それは止められない 
明らかに南アフリカの人々は一 
"革命的になる”ことに 巻き込まれている
パレスチナ人も一革命的になるにとに 巻き込まれている 
あとからこう言う人が いるかもしれない 
“彼らが勝利をおさめても 革命が成功しても一" 
"結局はうまくいかないだろう"と
しかしそれは別の問題だ
新しい状況が再び作り出され 新たに"革命的になる”ことが起こる
思うに 人間の課題というのは一 
圧政や抑圧の中にいる場合のことだが一
まさしく“革命的になる”ことだ なすベきことはそれしがない 
あとがら“革命はうまくいがないよ" と言う人がいたら一 
それは別の話をしているんだ 別の言語を話しているようなものだ
歴史の先行きと 人々が何かに"なる"ことは別だ
最近流行の 人権の尊重についてはどうてすか?
それは"革命的になる"との 正反対ですよね?
人権の尊重については 本当にこう言いたい
不愉快な命題を 出すことになるかもしれないが一 
それはまさしく ふやけた 力のない思想に属している
さっき話した貧しい時代の産物だ
人権というのは何だろうか
それは純粋な抽象だ
純粋に抽象的なもので つまり中身はカラだ 
先ほど欲望について言ったことが ここでも当てはまる 
鱧の本質とは 対象をき丁ち立てることではないし一 
"これが欲しい"と言うことでもない... 
例えば人は 自由を欲望したりしない 
そんなことは全く意味がない 
人は具体的な状況に 身を置いている 
最近のアルメ二アの例を 取り上げてみよう 
その状況とはどんなものか 
もちろん私が うまく理解していたらの話だが 
アルメ二アの飛び領土が 別のソビエ卜連邦の国の中にある 
アルメ二ア共和国と飛び領士 これが具体的な状況だ 
まず一 
虐殺があった 卜ルコ人と思われるグル一プによる虐殺だ 
アゼルバイジャン人ですね 
まだ分からない点もある ともかくそういう状況だとしよう 
飛ぴ領土内でアルメ二ア人の虐殺が 一度ならずあった 
アルメ二ア人たちは 共和国の方に逃げた 
そうしたら そこで地震が起こった 
マルキ・ド・サドの話のようだ 
かわいそうな人たちが 最悪の状況を経験する
かろうじて逃け出したところに 今度は自然が襲いかかってきた 
みんな人権について語っているが 
結局あれは知識人のための言葉だ
醜悪で無思盧な 知識人のための言葉だ
人権宣言は一度だって一
それが直接関わる人たちに向けてなされたことはない 
アルメ二ア人の社会のことなど 考えられていない 
アルメ二ア人たちにとって 問題は人権ではない
では どうするか
ここに様々な要素の配置がある 欲望もこの配置によって存在する 
この飛び領土をなくす あるいは そこて人が生きられるようにする 
そのために何ができるか
問題は領士をどう組織するかであり 人権ではない 
ゴルバチョフが事態の打開を 図っているとして一 
彼は何をするのか 
このアルメ二アの飛び領土が 危険な卜ルコ人の手に渡らないょう 
何ができるのか 
これは人権の問題ではない 
正義の問題でもない 
これは判例の問題だ 
人間が経験する非道さは一 
どれも一つ一つが事例だ
抽象的な権利が否定されるのではなく 一つ一つが非道な事例なんだ 
類似する事例もあるだろうが 問題は事例をなす具体的な状況だ 
アルメ二アの問題はまさしく一 
極度に複雑な判例の問題だ 
アルメ二ア人たちがこのひどい状況がら 抜け出すにはどうすれはいいのが 
しがも地震まで起こった 
建物の構造が脆弱だった ということもあった 
こうしたことすベてが事例であり 判例が作り上けられる 
目由を求めるのも 革命的になるのも すベて判例の中で行われることだ 
"司法(ジュスティス)"に訴えるにしても "人権(ジュスティス)"も存在しないんだ 
重要なのは判例であり それこそが法における創造だ 
人権を唱えて満足している連中 というのは一 
本当に頭が弱い奴らだ 
創造することが重要なので 人権を適用するなんてのは問題じゃない 
判例を創造して それぞれの事例について一 
二度と起こらないようもこすることが 大切なんだ 
これは人権の運用とは全く別のことだ 一つ私が大好さな例を挙げよう 
判例解釈とは何かを理解するための うってつけの例だ 
皆 判例解釈というのが よく分かっていない 
夕クシ一の車内は禁煙 という時代があった
それ以前は皆吸っていた 
ある時 皆がタクシ一でタバコを吸う 権利を失ったわけだ 
夕クシ一を禁煙にした 最初の運転手は話題になった 
喫煙者たちが文句を言った ところが一人 弁護士がいたんだが... 
私はいつも判例や法に魅了されて来た 哲学でなけれは法学をやっていただろう 
もちろん人権ではなくて 判例を勉強するためだが 
それが人生だ 結局 人権なんてなくて あるのは人生 
人生の権利だ しかも一つ一つ異なる人生だ 
さてタクシ一の話だが... 
夕クシ一の禁煙を望まない男が 夕クシ一会社を相手に訴訟を起こした 
よく覚えている どんな判決が出るかじっと待っていたんだ
なんと負けたのは夕クシ一側だった 
今だったら 同じような訴訟はありえない 
夕クシ一側が負けるなんて 考えられないだろう
だが タクシ一側が負けたんだ
判決理由はどうだったかというと 夕クシ一に乗る時 乗客は借り手である
利用者は部屋の借り手と 同一視された
借り手には部屋でタバコを吸う権利や 好き勝手に使う権利がある
これは大家が"部屋でタバコを吸うな" と言っているようなものだ と
私は借りているのだから 部屋で夕バコを吸ってよい
タクシ一は 動くアパ一卜と見なされたわけだ 
そして利用者は借り手であると 
10年後一 
夕バコが吸えるタクシ一はほとんどない では 今度はいかなる理由でか? 
夕クシ一はアパ一卜の賃借りとは見なされず 
公共サ一ビスと見なされている 
公共サ一ビスだがら 禁煙にする権利もあると 
 ヴェイユ法ですね 
これが判例だ 
あれこれの権利が問題なのではない
問題なのは状況であり 進化する状況が物事を決める 
自由のための闘いとは まさしく判例を作り上げることだ 
アルメ二アの例は 典型的なものに思える 
君は人権の話を出したが その意味は? 
卜ルコ人には アルメ二ア人を虐殺する権利はないという意味だ 
そうだ 卜ルコ人にはアルメ二ア人を 虐殺する権利はない 
だがら何なのか ? 
本当にバカげている 
人権の思想というのはまさしく偽善だ 哲学的にも何の意味もない 
法を創造するのは一
人権宣言ではない 
法の創造をもたらすのは判例であり それしかない 
判例のために 闘争しなければならない 
二つの論点に戻って
左派でいるとは... 
そのお話です 
それは法を創造する ということなんだ
(中断) 
 先の質問に戻りましょう 
 今 流行の人権の哲学は 68年5月革命の否定のようなものです 
 5月革命の否定 マルクス主義の否定ですね
 あなたがマルクスを遠ざけていた とは思えません 
 共産主義者ではなかったのですから 今でもマルクスに言及できる 
 あなたは今では珍しくなった 68年に言及する方です 
 しかもあれが無価値だったとか みんな変わってしまったとか一 
 そういうことは仰らない 
 5月革命について伺いたいのですが 
私は珍しくなってしまった一人だと 手厳しいことを仰ったが 
そんなことはない 
私の友人はその話をしているし 周囲には変節した者はいない 
 あなたの友人だからでしよう
68年を否定しない人はたくさんいる 答えは簡単なんだ 
68年というのは "~になる“こと つまり生成変化の侵入だった 
想像力の支配など とも言われたが 
あれは全く 想像的なものではない 
純粋に現実的なものの現れだった 
現実的なものが 突然にやってきたんだ 
だから人はそれが理解できなかった 何が起こったのか分からなかった 
現実の人々がそうだったのだ 
現実の中の人々というのは 驚くべきものだった 
現実の中の人々とは どんなものだろう
それこそ生成変化だ 
悪い生成変化もあっただろうが 
これが歴史家には理解できなかった 当然だろうね 
私は歴史と生成の違いを 強く信じているけれども 
あれは革命の先行きなき "革命的な生成変化"だった 
過ぎ去るといつでもバカにできる 
でも 人々を捉えていたのは 純粋な生成変化という現象だった 
動物になること 子どもになること 
男が女になること 女が男になること 
我々のここでの問いは一 
ずっと この“~になる”こと つまり生成変化の領城をめぐっている 
"生成変化とは何か"という問いだ 
とにかく68年は 生成変化の侵入だった 
 あなたにも“革命的になる“ことが ありましたか? 
"革命的になる"ことね... あなたが笑っているのは一 
からかっているからだろうが むしろ こう聞いたらどうだい? 
左派であるとはどういうことか と それはずっと控えめなことだ 
 あなたは公共心もあり投票もする でも"革命的になる"こともある 
 それらを どうやりくり されているのでしょう 
そうだな 私ならこう答える
思うに 左派の政権というのはありえない 
これは驚くベきことではない 
現在の政権も左派のはすだが 実際にはそうではない 
政権にも 一応違いはある 
だが せいぜい期待できるのは一 
左派のある種の要求に 好意的な攻権ぐらいなものだ 
だが左派の政権というのはない 左派であることは政権とは関係ない 
左派をどう定義するかと 聞かれたら一 
私は二つの仕方で答える 
まず左派であるとは知覚の問題だ
では知覚の問題とは何か
いや むしろ 左派でないとはどういうことだろうか 
それは郵便の住所表記のように 自分を中心に考えることだ 
通りの名前から書き始めて一
街の名前 国の名前を書き一 
次第に遠ざかる 
自分を中心に考えられるのは 
この状況がどうしたら長続きするか と考えているわけだ 
危険を感じても大したことはないと思っている バカげた話だ
とにかく現状を長続きさせたい と 
"中国人がいるのは遠いところだ“ と思っているわけだ そして一
"ヨーロッパが長続きするには どうしたらいいか“と
左派は正反対に考える
それはどんな知覚かと言うと... 例えば日本人はこう知覚するらしい 
日本人は 我々とは違って まず周囲を知覚する 
ます世界があり 大陸がある一 
そのあと ヨーロッパ フランスと続き一
そうしてこのビゼル卜通りがあって 私がいる
これは知覚に関わる現象だ
まず地平線を 遙か彼方を知覚する
 でも日本人は そんなに左派ではありませんよ 
別に寛容だとか そういう話ではないんだ 
だからあなたの反論は的外れだ 
彼らのもつ住所表記のセンスゆえに 日本人は左派なんだ 
最初に遙か彼方を眺める すると こんなことが続くはずがないと分かる 
何十億もの人が飢えているとか... 
いや まだ百年続くかもしれないし一 
この不正義について 不用意なことは言えないが 
とにかくこれは 道徳ではなく 知覚の問題だ 
左派であるとは 端から始めることであり一
そこにある願いを知り 訴え一 
これこそが扱われるべき問題だ と考えることなんだ 
それは“出生率を下げるベきだ” などと主張することとは違う 
そんな主張はヨーロッパでの特権を 守るためのものにすぎない 
左派であるとは 世界的な物事の配置を見出し一 
第三世界の問題が 近所の問題よりも自分たちに近いと一 
分かっていることだ 
これはまさしく知覚の問題だ 崇高な精神など関係ない
左派であるとは そういうことだ 
次に 左派であることは 生成変化に関係している
マイノリティへの生成変化を やめないんだ 
左派は左派である限り マジョリティではありえない 
投票の際 何かに最も多く 投票した人々とかいったことではない 
マジョリティには 標準というものがある 
西洋でマジョリティ の 標準となっているのは一 
人間であり 大人であり 男性であり一 
都市の市民であるということだ 
エズラ・パウンドやジェ一ムズ・ジョイスも 同じことを言っている 
その通り これが標準とされている 
マジョリティとは ある時点で この標準を体現している者のことだ
つまり 人間 大人 男性 市民一 
などと見なされているものの イメ一ジだ 
だがら マジョリティというのは 誰でもないとも言える 
それは中身がからっぽの標準なんだ 
自分はこの標準に合致している と考える人がいるだけだ 
しかし標準そのものは 中身がからっぽ 
すると 女性もその中に 数え上げられることになる 
この標準に沿ったマイノリティ あるいは二次的なマイノリティとしてだ 
しかし その脇には"マイノリティになる"という生成変化がある 
女性とは既得の何かではなく 本性的に女性なのではない
女性にも"女性になる"という生成変化がある 
すると 男性にも"女性になる"という生成変化があることになる 
先ほど"動物になる"ことについて 話をしたが 
子どもにも子どもになる"という生成変化がある 
マイノリティとはそういうものだ 
 男性が"男性になる"ことはない ? 
それはない マジョリティの標準だから 
 からっぽの 
男性で大人の人間に 生成変化することはない 
彼が"女性になる"のならマイノリティのプロセスに入れる
左派とは"マイノリティになる"ことの プロセスの総体だ 
マジョリティとは誰のことでもなく マイノリティとは皆のことである 
左派であるとは 誰もがマイノリティであり また一 
そこでは生成変化が起こっていると 理解しているということだ 
だからこそ 思想家というのは誰しも一 
民主主義に対して 疑問を抱いてきた 
いわゆる選挙に疑問を持っている 誰でも知っていることだ
_________ 


 次はH
 Hは"哲学史"です
 一般に初期ドゥルーズは哲学研究と言われています
 あなたは1952年 ヒュ一ム論を著し 続いて一 
 ニーチェ カン卜 ベルクソン スピノザを論じました 
 ところが何より驚かされたのは そのあとの「意味の論理学」や一 
 「差異と反復」「アンチ・オイデイブス」 「千のプラ卜一」です 
 ジキル博士の中にハイド氏が眠っていたかのようでした 
 マルクスが流行る中 あなたの関心は二一チェでした 
 時流がライヒ再読にあっても一 
 "身体に何ができるか"と問うたスピノザに取り組んでいました 
 そして現在1988年には ライプニッツへの回帰がありました 
 哲学史のどこに 惹かれてきたのでしょうか?
難しいな
それは一 
哲学そのものに関わる問題だ 
思うに 哲学は 何が抽象的なものだとされている 
いわば"専門家のためのもの" と 
だが私の考えでは 哲学は専門家とは関係がない 
哲学は専門ではない 
絵画や音楽が専門ではないように 
問題を立て直してみよう 
哲学が抽象的だとすると一
哲学史は 二重に抽象的ということになる 
哲学史は 抽象的な考えを論じるどころが一 
抽象的な考えをめぐって さらに抽象的に考えるというわけだ 
だが 私の中では 哲学史は全く別のものだった 
ここでも絵画を例にしてみよう 
ゴッホの手紙の中に こういう議論がある 
"肖像画か風景画か"というものだ 
"肖像画が描きたい 肖像画に戻るベきか"
ゴッホは手紙の中で 肖像画を重視していた 
肖像画と風景画では 問題が異なる 
私にとって哲学史とは 絵画ていえぱ肖像画を描くことだ
だが 単なる肖像画ではない
ある哲学者の肖像画を 哲学を用いて描くわけだ
霊媒術による肖像画 と言ってもいい 
つまり 精神の肖像画だよ
精神の肖像を描く それは哲学の一部なんだ
肖像画が絵画の一部てあるように
そうだな…
画家の名前を出せは 考えがまとまるがもしれない 
例えはゴッホやゴ一ギャンだが一 
彼らの作品のどこに 感動を覚えるかというと一 
敬意や恐れや動揺に 満ち満ちている点だ 
いや 何かを前にした 恐れと動揺がある 
彼らの前には 何が立ちはだかっていたのか? 
色彩だよ 
彼らは色彩を前に 恐れおののいたのだ 
とりあえず この二人にとどめ一 
色彩を得意とする他の画家は 脇に置いておくが一 
彼らの作品を見てみると 色彩を前にした震えがある 
怖がっているんだ
特に初期の絵には イモの色が溢れている 
そう... 
土の色 イモの色だ 
なぜ鮮やかな色彩ではないのか? 
好みの問題ではない 
色彩に取り組もうと していないだけだ 
何よりも感動的なのは一
彼らがまだ 色彩に取り組むに 値しないと思っていたことだ
絵画を描くには まだ早いと思っていたんだ 
色彩に取り組むには何年も要した 
彼らが色彩の中に入れると 思った結果 どうなったかは一
誰もが知るところだろう 
しかし それには多大な敬意一
桁外れにゆっくりとした 歩みが必要だった
画家にとって色彩とは一
理性を失わせ 狂気へと 至らしめるものである 
そのため一 
このような問題に取り組むには 何年もかかったのだ 
謙虚さから言うわけではないが一 
こんなことを言う哲学者がいたら いい気がしないだろう
"さて 哲学の中に入るぞ 僕の哲学をするんだ"
"僕の哲学だ"
自分の哲学なと まさに たわけもいいところだ 
哲学とは色彩のようなもの 
哲学の中に入るには 十分に用心しなくてはならない 
哲学における色彩は容易ではない 
哲学における色彩とは 概念のことだ 
概念を知り尽くし 概念を生み出す前に一 
やるベきことが多くある 
私にとって哲学史とは 焦らすに 嘘であること
肖像画ばかりを描く時期が必要だ 
例えは小説家がこう言う とする 
"小説を書いている"
"でも ひらめきの邪魔を されたくないから小説は読まない" 
"ドス卜エフスキ一なんて知らないよ"
実際 驚いたことに こう発言した若い小説家がいた 
勉強は要らないと言うに等しい 
だが 何がに取り粗むには 勉強時聞がたくさん必要なものだ 
もちろん 哲学史は 準備のためぱがりでなく一 
哲学史は哲学史として それだけて価債のあるものだ
哲学史が肖像画だというのは一 
何かに取り組むことを 可能にするという意味だ 
まだ分かりにくいかな... 
分かりやすくするために一 
他の質問をしてくれないか? 
このまま続けてもいいが... 
何だ? 何か質問があるかい? 
 あなたにとって哲学史が 何の役に立っているか一 
 よく分かりました 
 しかし 私たち全員にとっては 何の役に立つのでしょうか?
 哲学は"専門"ではない 
 哲学者以外の人にも 向けられていると仰いました 
なるほど 簡単なことだ 
哲学とは何が? 単純だよ 
哲学がいかに 抽象的ではないかという話だ 
繰り返しになるが一 
絵画や音楽と同じで 抽象的ではない 
こういったことを理解するには 哲学史を経由するしかない
つまり私の考えでは 哲学史が必要だと思えばよい 
それだけのことだ
確かなのは一 
哲学者とは 瞑想する人ても 熟考する人でもないことだ 
哲学者とは作る人である 
ただ ある特殊なものを作る人だ 
哲学者は概念を創造する 
概念はあらかじめ存在していない 
空に浮がんでいるわけではない 
星のように眺められない 
概念は創造せねばならない 
この点ご質問が無数にあるだろう
"概念は何の役に立つのか ?" 
"なぜ概念を作るのか?""概念とは何か?" 
とりあえず今は置いておこう 
プラ卜ンを例に 少し考えてみよう 
よく知られているように一 
プラトンは新しく概念を作つた 
それは一般に"イデア"と呼はれている 
いわゆる大文字の"イデア"だ 
プラトンのイデアは一 
他の哲学者が"理念"や"観念"と呼ぷものとは異なる 
プラトンの独創だ 
イデアを思わせる"理念"や"観念"という語を用いただけで一
プラトン主義者扱いされる
ところで"観念とは具体的に何か?"
自聞はよくないとも言うが 哲学をするには必要だ 
"犬とは何か"と問うように 問うてみよう
犬なら簡単だが一
プラトンにとってイデアとは?
こう問うだけで哲学史の始まりだ
私が説明しょうとするのは 教師という仕事柄でもあるが~ 
思うに プラトンのイデアとは一 
それ自身以外ではないもの 要するに一 
イデアとはイデアでしかないものだ 
抽象的に聞こえるかもしれない 
先ほど抽象的になってはいけないと 言ったばかりなのに 
よし プラ卜ンを離れよう 
"母"を例にしてみよう 
"母"とは母であるだけではない 
つまり 母は"妻"でもあり一 
自分の母の"娘"でもあるわけだ
"母でしかない母"がいるとしよう 
実在するが否かは問題ではない 
例えば聖母マリアだ 
プラトンよりあとの時代の話だがね 
マリアは"母でしかない母"だろうか? 
"母でしがない母" "誰かの娘ではない母”一 
それを母のイデア と呼ぶわけだ 
"それ自身でしがないもの"だ 
"正義のみが正しい”も そういう意味だ 
"正義"のみが正しさ以外の ものではありえない何かなんだ
とても単純な話なのさ 
もちろんプラ卜ンの発明は イデアだけではないが一 
彼の出発点は一 
"それ自身でしがないものが あるとしよう" 
"それをイデアと呼ぼう" ということだ 
彼は真の概念を作った 
以前は存在しなかった 
イデアとは純粋なもの 
イデアを規定するのは純粋さだよ 
まだ抽象的な気がするな
なぜだろう ? 
実際にプラ卜ンを読んでみれば すべてが具体的になる 
イデアといラ概念は 偶然の産物ではない 
プラ卜ンは一 
ある具体的な状況に置がれていた 
実際に何が起こっていたがは また別の話だ 
彼の周りには 主張する輩がいた 
つまり "これこれに関しては 私が一番だ"と 
プラ卜ンの政治家の定義を 例にしよう 
出発点となる定義にすぎないが一
"政治家とは人間を率いる牧人である"と彼は言う 
"人々の世話をする者である"と 
すると 皆が主張する 
"だったら 私が政治家だ 私は人間を率いる牧人である” 
ます商人だ それに羊飼いや医者... 
広い意味で 他入の面優を見る人たちだ 
誰もが政治家だと主張する 
つまりライバルが現れる 
ょし 少し具体的になつてきた 
哲学者とは 概念を創造する者だったね 
例えぱ"イデアとは一" 
“純粋なもの”といった具合だ 
だが 読者には そう した概念の必要性が一 
すぐには分からない
しがし 考えつつ読み進めていくと 理由が分がってくる
一つの物事をめぐって 皆が目己主張をしている
プラ卜ンは"イデアとは何か”と 問うたのではない 
それては抽象的なままだ
プラトンは "どう選抜するか"と問うた 
“言い張る人の中から いかに良い人を見つけるが" 
イデア つまり"純粋状態の事物"とは一
この選抜を可能にするもの
イテアという概念のおかげで 最も適切なものを選ぶことができる 
考えがだいたい まとまつてきたぞ 
つまりイデアをはじめ概念は 問題に帰着する 
今の話だと一 
"いかに選抜するか"だ 
抽象的に哲学していては 問題は見えてこない 
しかし 問題に達しても疑聞が残る 
なせ哲学者はその問題に 言及していないのが?
実ははつきり と著作の中にある 
目の前に差し出されている だが一 
すベてを同時には無理だ 
作りつつある概念については 論じていても一 
その概念に関係する 問題の説明までは及はない 
読者がその問題を見出すには 概念を経由する他ないわけだ 
概念に対応する問題を見出せぬ限り すベてが抽象的だ 
問題が見つかれば すベて具体的になる 
プラトンの著作には 互いに言い張るライバルが現れる 
ますこの点から始めると 話が分かりやすくなる
ては なぜプラトンは一 
他ならぬ古代ギリシアの都市で この問題を創造したのか? 
いいかい 問題は 主張者の中から選抜することだ 
そして哲学とは"問題"と"概念”てあり一 
概念とは"イデア"のことだ 
それを用いて 選抜することができるわけだ 
ここで問うベきは一 
"このような問題と概念が なせギリシアで生まれたのが"だ 
実際 ギリシア人が始めたことで いがにもギリシア的だ 
民主的な都市における問題だがらだ 
むろんプラトンは 民主主義を認めなかったろうが一
これは民主都市の問題なんだよ
民主政でこそ一
執政官が 主張と要求の対象となるわけだ
“これこれの地位が欲しい"と 主張する人々が現れる
例えは 当時のロ一マのように 帝政であれは一 
皇帝の一存で 官吏が決まってしまう 
競合関係は生まれようがない
だが アテネには ライバル同士の競合があった
「オデュッセイア」ても ベネ口ベを争っていた
これはギリシア的問題だ 
ライバル同士が絶えす 争い合う文明の話なんだ 
だから彼らは体育を生み出した 
オリンピックのことだ 
またギリシア人は訴訟好きだった 
訴訟も同じこと 
言い張る人たちの話だ 
分かるだろ? 
哲学には主張と要求が よく出てくる 
プラトンとソフイス卜との戦いだ
ブラ卜ンは"彼らは自分に 権限のないものを求める"と言うが一 
何に権限があり 何にないかを 何が決めるのか? 
この問題は小説並みに面白い 
偉大な小説には 離で争う場面がよく出てくるね 
ともあれ本題に戻ると 哲学では二つが同時に起こる 
ます概念の創造だ 
常に ある問題に合わせて 概念が作られる 
問題を見つけぬ限り 哲学は理解できない 
抽象的なままだ 
確がに 概念がどんな問題に 対応しているがは分かりにくい
なせなら問題は 言われてはいるが 少し隠されているがらだ 
哲学史を紡ぐとは一 
こうした問題を復元し 概念の新しさを発見することだ 
一万 悪い哲学史は 概念を並ベるだけで一 
概念を自明とみなし 創作物であることが分がつていない 
愚の骨頂だよ
最後に簡単な例を挙げよう 
二つ目の例を挙けょう 
これまでの話とは関係ないが 話を広げるためだ 
時代が下って一
ライプニッツという者が現れた 
すばらしい概念を発明した哲学者だ 
"モナド"という概念だ 
専門用語で難しい言葉を選んだが一 
彼は"モナド"と呼んだ 
概念というのはどこか 突飛なところがある 
"母でしかない母"だの"純粋なイデア"だの一 
常軌を逸している 
ライプニッツのモナドとは ある主体のことを意味する 
世界の全体を表現している 主体のことだ
だが世界の全体を 表しているとはいえ一 
はっきりと見せているのは 世界の中の小さな部分一 
自分の領土にすぎない 
また領土の話が出てきたね 
ライプニッツは それを"分野"と呼んだ 
全世界を表現する 主体的単位があるが一 
はっきりと表しているのは 一つの部分一 
世界の一分野にすきない 
これが"モナド"というやつだ 
ライプニッツは概念を創造した
彼以前には 存在していなかった概念だ 
しかし一体なぜ ? 
美しい概念だが なぜ他ならぬ この概念を作ったのか? 
問題を見つければ分かる 
彼は暗に隠しているわけではない 
だが 探さなけれは 問題は見つけられない 
哲学を読む楽しみはここにある 
小説を読んだり 絵画を見るのと同じくらい一 
魅力に溢れている 驚くベきだ 
ライプニッツを読むと 何が分がるが?
彼は伊達や嘘から モナドという概念を作ったのではない 
何らかの理由で ある問題を立てたわけだ 
"すベては折り畳まれた襞の状態でしか 存在しない"と彼は考えた 
それて私は自著を 「襞」 と名付けた 
ライプニッツ曰く一 
"世界は互いに折り曼まれた 諸事物の集合である" 
しかし なせ彼は 世界をこのょうに捉えたのが? 
ブラ卜ンの時と同じで 答えは単純だ 
当時は事物が現在よりも 折り畳まれていたのだろうが? 
手短に言おう
"世界は折り畳まれた襞である” という考えが重要だ 
すベては襞の襞で 襞が 完全に開がれたものには到達てきない 
物質は自身に折り畳まれる格好て 成り立っている 
精神も同様だ 
知覚や感情は 魂の中に折り畳まれている 
まさしく 知覚や感情や観念が 魂の中に折り畳まれているがらこそ一 
一つの魂が全世界を表現するという この概念を彼は作った 
そこに全世界が折り畳まれている 
それでは こう聞し、を立ててみよう 
悪い哲学者とは? 偉大な哲学者とは?
悪い哲学者とは 概念を作らぬ者のことだ 
出来合いの者えを使うだけだ 
意見を言うのみでは哲学ではない 
"これが私の考えだ"と仰るが いつの時代でも意見くらいあって当然だ 
悪い哲学者は概念を作らない 
そして 真の意味で 問題を立てることがない 
つまり一
哲学史をやるというのは 長い学習であって一
二重の領域で学ぶことだ
"問題の構成"と"概念の創造"だよ 
一体どうしたわけで 思者が愚かになるかなと一 
箸にも捧にもかからぬ 皇毒なことだ 
何かが語られていても一 
何の問題が扱われているが 分からぬことがある 
概念を作らず 意見を出すだけでは一 
何の問題について 語っているのがさっはりだ 
問題らしきものは あるかもしれない 
“神は存在するが?”といったような 
だが これは"問題”てはない
"なぜこの問題なのか”と 問わなけれはならない
“背後にある聞雇は ? ” と 
“神を信じるが否か”が 聞層なのではない 
他人の信仰丿疇など 犬も食わない 
重要なのは一 
それが いかなる問題に 対応しているが 
神をめぐって いがなる概念を作るがだ 
概念もなく 問題もない状態では 戯言から抜け出せない 
哲学をしていることにはならない 
しかし だからこそ哲学は面白い 
哲学史は面白い
哲学史をするとは こういうことだ 
絵画や音楽を前にした時と なんら変わらない 
ゴ一ギャンとゴッホの話に 戻ってきたようてす 
彼らは色彩を恐れた あなたご目身は一 
哲学史の研究がら目らの哲学へ どのょうに移行したのでしょう? 
こういうことだ 
哲学史は多くのことを教えてくれた 
"哲学における色彩”という一 
問題に取り組めるようになった 
では 角度を変えて一
なせ哲学は終わらないのか? 
なせ 今でも哲学があるのか? 
概念を作る余地はまだあるか? と聞うてみたい 
合や概念の創造は 広告の領分となった 
広告業界がパソコンを使って 哲学から奪ってしまった~ 
 メディアの横暴ですね ! 
そうかもな 
クリエイテイブとが コンセプ卜とが一 
それは哲学の"概念'とは 関係がない 
困ったもんだ
だが 哲学の使命は変わらす 概念の創造である 
よく言われる"哲学の死"だの"哲学の超克"だの一 
気にしたことがない 
哲学者に限って こういうことを言う 
"私は一度も気にしたことがない" 
何を抜かすかと思う 
概念を作る必要がある限り 哲学が存在する 
それが哲学の定義なんだ 
あらがじめ 概念があるわけではない 
問題に合わせて 概念を作るのだ
また 問題は進化する 
つまり一 
今でも プラ卜ン主義者であることができる 
ライプニッツ主義者も可能だ 
1989年の現在でもだ 
力ン卜主義者でもいい 
どぅいうことがとも丶うと一 
もちろん すベてではないにせよ ブラ卜ンの提出した問題は一 
多少の変化こそあれ いまだに有効だ 
ブラ卜ンの概念は 今でも使うことができる
私の考えでは一 
問題の性質が 全く異なるわけではない 
偉大な哲学者は 聞雇が姿を変えても それについて教えてくれる 
哲学をするとは 現在の問題に合わせて一 
新たな概念を作ることだ 
だいぶ長くなってしまったが この点で最後に問うべきは一 
"問題の進化とは何が?" なぜ進化するか?"だ 
それは歴史の力 社会の力のなせるわざだろう 
だが より深いものがある 
神秘的なものがある
こう言ってよけれは 思者の生成変化があって一 
思考自体が進化している 
同じ問題を立てるわけでもなく 同じように問うのでもない 
問題はいろいろな仕方で 次々と立てられる 
大気流が訪れた時のように 突然 必要性が叫ばれることもある 
"新たな概念を作らねば"と 
思考の歴史は一 
社会の影響に は遠元されない 
思考の生成変化なるものがあり この神秘はいつか定義すべきだが一 
端的に言って 現在の思者の仕方は 100年前とは違うわけだ
思者にも 流れや断絶を伴った歴史がある 
糊粋思考の歴史だよ 
これこそ私にとって 哲学をするということだ 
哲学には一つの機能しかない 
哲学の超克など必要がない 
哲学には哲学の機能があるのだ 
何だい? 
 問題はどのように 進化するのでしようか? 
さあ その都度変わる~~ 
 進化だけに~~
そう その時々で違ってくる 
またここでも例を挙げよう 
17世紀の偉大な哲学者の大半は一 
何を心配していたが? 
彼らが注意していたのは一 
失敗を避けること 
失敗する危険をなくすことだ 
愚者には精神が聞違えることが つきまとうからね 
"精神の過ちを避けるには?"となる 
だが そのあとゆっくりと変化し 18世紀には また別の問題が現れる 
一見 同じに見えるが 全く異なる問題だ 
"失敗"ではなく一幻想'を 告発するようになる 
精神は幻想に覆われていて さらには精神目身が一
幻想を生み出していると考えられた
精神は過ちを犯すばかりか 幻想を生み出すのだと
18世紀に起きたのはそういうこと
哲学者が迷信の告発に 明け暮れた時代だった
17世紀と さほど 変わらないように見えるが一
新たな問題が生じている
もちろん社会の変化もある 
それに一 
思想史の知られさる一面が あるのがもしれない 
"いかに過ちを避けるか"ではなく "いかに幻想をなくすか"になった 
精神は幻想に囲まれているからだ 
話を単純化しているが一 
さらに下って19世紀になると一 
今度は何が起こるのか? 
問題がゆっくり と変化する 
完全には変わらずとも 問題に違いが出てくる 
問題になったのは 幻想や精神ではない
今度は人間が問題となる 
この精神的創造物がバカなことを言ってやまない 
幻想に陥るのとはまた別の問題だ 
いかに愚鈍を避けるか ? 
哲学の境界を眺めれば それは明らかだ 
フ囗一ベ一ルやボ一ドレ一ルだよ 
彼らは幻想とは違う問題を 扱っている 
ここでも社会的理由を挙げることはできる 
19世紀にはブルジョワジ一の興隆があった 
それで 愚かさが 問題として差し迫つた
しかし より深淵なものがある 
思考が立ち向かう問題には 歴史がある 
問題を立てるごとに 新しい概念が現れる 
哲学をこういう風に 考えてみると つまり一 
"概念の創造"と "問題の構成"に着目すると一 
問題は隠されていて 見つけねはならないわけだが一 
哲学は 真と偽には 関係ないことに気付く 
真理を探すのが哲学ではない 
"真理の探究"なぞ 何も意味していない 
概念を創造するのも 問題を組み立てるのも一 
真理や虚偽とは関係がない
そうではなく 意味に関係しているのだ
問題には意味が必要だ
意味の無い問題も 皆無ではないだろうが一
哲学とは 意味を持つ問題を組み立て 概念を創造することだ 
問題を理解し 解決へと導く概念を作ることだ
 あなたの仕事に関わる質問ですが~~
どうぞ どうぞ
 去年 ライプニッツを論じて 哲学史をやり直しましたね 
 それは20年前と同じでしたか? 
 以前と同じょうに 哲学史に向き合ったのでしょうが?
 どうお考えですが?
同じってことはないだろう
以前は哲学史を利用していたし一
言ってみれは 必要不可欠な学ぶ姿勢があった
偉大な哲学者の概念を探し一
いかなる問題に答えているか 探っていた
だが ライプニッツ論では一
自惚れているわけではないが一 
20世紀 つまり自分の問題とライプニッツの問題とを混ぜ合わせた 
哲学者たちの現在性を 確信しているがらね
"偉大な哲学者のように行う" というのは何を意味するか?
それは彼の弟子になることではない
彼の仕事を引き継ぐということだ
彼の概念に合わせて 概念を創造することだ
彼の間題に合わせ 進化させつつ 問題を立てることだ
ライプニッツ論では この方向に深く入り込んだ 
初期の著作では いわば 色彩を扱える段階になかった
 スピノザと ニーチェについて質問です 
 哲学史の呪われた部分に 取り組んだとのことですが一 
 どういう意味でしょうか?
またあとで一
論じることもこ なるかもしれないが一
隠された部分と言ったのは一
彼らが超越性に 異議を申し立てたからだ 
超越性とは何かについては のちの定義すベきだろうが一
彼らは普遍概念を 一切認めなかったわけだ
普遍的価値を持つ概念を拒杏した
要するに一 
地上と人間を超越する進級を 認めなかった 
 では 話を戻し~
そう 彼らは内在性の哲学者だ
 ニーチェ論 スピノザ論は 画期的でした
 あなたは それで 一躍有名になりました
 しかし あなたをニーチェ主義者や スピノザ主義者とは呼ベません
 それらすベてを 横断しているからです
 あなたは初めから ドゥル一ズ主義者でした 
 スピノザ主義者ではなく~ 
ありがたい言葉だ 嬉しいね 
 本心をお顧いします 
そうありたいものと願っていた 
実際は違ったかもしれないがね 
私は自分のために問題を立て一 
自分のために 概念を作ってきたつもりだ 
極論だが 哲学を 数値化することを夢見ていた 
哲学者には創造した概念と その数に合わせて一 
魔法数が割り当てられている 
そう考えてみる 
デカル卜やへーゲル ライプニッツなどがそうだ 
面白いだろ? 
もちろん私は該当しないよ 
私はたがが知れている 
問題に合わせて 概念をいくつか作っただけだがらね 
ただ言えるのは いがなる種類であれ一 
自分の概念がどの問題に 対応しているか答えられる 
でなければ 意味のないお喋りにすぎない 
これで終わりか? 
 最後にぜひ 質問したいことがあります 
 挑発的かも しれません 
 1968年頃のことですが一 
 誰もがマルクスを論じ ライヒを読んでいました 
 ニーチェを論じたのは 挑発からでしょうか? 
 彼はファシス卜とされていました 
 スピノザと身体を論じられたのも 誰もがライヒに熱中していた時でした 
 あなたの哲学史には挑発が 含まれていたのではないでしょうか? 
 挑発があったのでは ? 
違うよ それは一 
今までの話とも関わるが一 
私がガタリと探ったのは 無意識の内在的次元だったわけだ 
精神分析には 超越的なものばかりだ 
"法" "父" "母"といったように 
だが"内在野"もまた 無意識の定義を可能にするのだ 
この方向を極めたのは一 
誰より スピノザであり ニーチェもまたその一人だろう 
それほど挑発的だとは思わないが~~ 
スピノザと二一チェは 哲学において思考の解放をもたらした 
爆発をもたらしたに等しい
確かに彼らの概念は 突飛かもしれないが一 
問題がそもそも 呪われた問題だった 
スピノザの時代は 皆 避けた問題だ 
ニーチェの時代でさえもだ 
誰も問おうとしない問題だった 
いわゆる議論を沸騰させる 問題というやつだ 
 では 次に... 
 打ち止めのようですし 
なんだって?

____________________


次はKか? 
 Iです 
ああIだったな 
 Iは"アイデア"です 
 先ほどお話しになられた ブラ卜ンの"イデア"ではありません 
 あなたは理論を とりとめなく並ベ立てるよりも一 
 哲学者のアイデアに 魅了されてきました 
 また 哲学者に限らず "映画の思想家"つまり映画監督や一 
 画家のアイデアを論じてきました 
 解説をするのではなく アイデアに注目する 
 なぜ アイデアが すベてに勝るのでしょうか? 
なるほど 確かにその通り 
一般に アイデアというものは すベての創造行為に関わっている 
創造とは アイデアを持つことだ 
しかし これは難しい 
一生アイデア を持たぬ者もいる 
そのこと自体は軽蔑すべきではない 
すベての領域で アイデアを持つことができる 
だが アイデアは特別なもの 
毎日持てるようなものではない 
ところで 画家と哲学者とでは アイデアの種類が異なっている 
様々な活動を考慮に入れ一 
アイデアがどのような形で生じるが 事例ごとに問うベきだろう 
哲学に関しては 見てきた通りだ
哲学ではアイデアは 概念という形で現れる 
そして概念は "発見"されるのではなく"創造"される 
絵画や音楽と同じく 哲学にも創作の面があるわけだ 
哲学以外の話をすると一 
驚かされたのは映画監督だ 
アイデアのない映画監督など いやしない 
アイデアは付かず離れず 行ったり来たりを繰り返しながら一 
様々な形をとる 
だが いかなる形であれ すぐに見分けられる 
話を簡単にするために 例を挙げよう 
ヴィンセン卜・ミネリという 映画作家だ 
すベての作品とは言わない 
だが ミネリは次のような問いを 立てたように思う 
"夢を見る”とは どういうことか? 
よく話題になることだ 
夢を見るなど 他愛ないことにすぎない 
ミネリは奇妙な問いを立てた 
知る限り 彼固有の問題だ 
“他人の夢に囚われるとは どういうことか?" 
これは喜劇にもなれば おぞましい悲劇にもなる 
“少女の夢に囚われる"とは? 
こう考えれば その恐ろしさが分かるだろう 
誰かの夢の囚人であるのは一 
ぉそらく この上ない恐怖だ 
戦争の悪夢に囚われた状態を ミネリは見せている 
すばらしい限りだ 
そう「黙示録の四騎士」という作品だ 

Four Horsemen of the Apocalypse, The 1962 Original Trailer 
https://www.youtube.com/watch?v=0kBSgJQ7jOI


The Four Horseman of the Apocalypse 投稿者 crazedigitalmovies
http://www.dailymotion.com/video/xgk6vk_the-four-horseman-of-the-apocalypse_tv
戦争そのものが描かれているわけではない 
ミネリの作品だからね 
戦争はあくまで怖い夢だ
"悪夢に囚われる"とは何か?
ミュ一ジカル映画は “少女の夢の中"から生まれた 
フレッド・アステアや ジ一ン・ケリ一の出ている作品に一 
彼らが虎や黒豹から 逃げているものがある 
護がの夢に囚われているわけだ 
私はこういったことを "アイデア"と呼ぶ 
概念とはまた異なるものだ 
もしミネリが概念を使うなら 哲学になる 
彼は映画を作ったわけだ 
以下の3つを区別すべきだろう 
その3つが常に混在していてもだ 
実は まだうまく説明できないが 
今後の仕事として やりたいことに関わる 
今 明らかにしょうと 頑張っているところだからね 
まず"概念"がある 
これは哲学が発明したもの 
それとは別に一 
“知覚素”と呼べるものがある 
これは芸術の領城に属する 
芸術家とは 知覚素を創造する者のこと 
なせ"知覚素"ともいう 変な言葉を使うかというと一 
"知覚”と区別するためだ 
芸術家の中でも小説家のような一 
文学者の話をしよう
私の考えでは一 
彼らは“知覚と惑覚の総体"を 作ろうとしている 
感じた者が没しても それは残り続ける 
知覚素とは一 
感じる者の亡きあとも残る 知覚と感覚の総体のことだ
例えは卜ルス卜イ は 画家以上に描写に長けている 
また卜ルス卜イとは 方法が異なるが一 
チェ一ホフは矢輩量の暑さを 見事に描いてみせた 
"感覚の複合体"だよ
視覚に聴覚一 
そして味覚もある 口でも味わえる
この感覚の複合体に一 
それを感覚する者とは独立したものを 与える試みがある 
卜ルス卜イは雰囲気を描写する 
それにフォ一クナ一だ 
偉大な作家からは すぐ例が思いつく 
私の好きな作家で一 
フランスでは あまり知られていないが一 
卜一マス・ウルフというアメリカの作家がいる
彼の作品に こうした記述があった 
朝 某氏が外に出ると一 
新鮮な空気を感じた 
パンやら金属のにおいが訪れる中 空には鳥が飛んでいる 
これが"感覚の複合体"だ 
しかし これらを感じる者が 死んだあと一 
あるいは 彼が 他の行動に移った時一 
こういった感覚は どうなるのだろうが? 
芸術は この感覚の複合体に 永続性を与える 
もはや感覚は 人間にょって感じられない 
そこまで言わずとも 小説の登墳人物一 
つまり虚構の人物のものとなって フィクションが生み出される 
では 画家は何をしているのか? 
画家は知覚素を確固たるものとする 
知覚がら知覚素を 引き出してみせるのだ 
セサンヌの感動的な言葉がある 
彼は言う “印象派とは"
画家が行っているのは それ以外ではありえない 
感動的だよ 言ってみれば一 
“印象派は知覚をゆがめた”のだ 
哲学が生み出した概念とは 頭蓋骨を割るものだ 
考え方が新しいとは そういうこと
そのように考える習慣がなけれぱ一 
頭がかち割られてしまう 
対して 知覚素とは 神経をゆがめるものだ 
この点で 印象派は 知覚素を発明したと言えるだろう 
セサンヌの美しい言葉がある 
"印象派を永続的なものに”と 彼は言った
彼はまだ 独目のモチ一フに 至っていなかった 
印象派を永続的なものにするベく 彼には新たな方法が必要とされた 
絵画の保存のことを 言っているのではない 
セサンヌが言いたがったのは 知覚素が自立性を獲得すること 
そのために新たな技術が 必要ということだ 
“概念" と “知覚素”に続く 3つ目がある 
つは深く関連しているが “情動素”と呼ぶベきものだ 
実際 情動素なくして 知覚素はありえない 
"知覚素とは 感じる者から独立した 知覚と感覚の総体”と定義したね 
情動素とは"生成変化"のことだ 
越え出てゆく生成変化だ つまり一 
情動を抱く者を超え 個々人の力を踏襲して成り変わるもの 
これが"情動素”だ 
音楽は情動素を 生み出 しているのではないがな 
音楽のもたらす力は 我々を超え出ている 
"概念”と "知覚素"と "情動素”の3つは繋がっている 
ここがら“概念"を選んでも 何に重点を置くかの問題ではない
哲学の概念は 見ることを可能にするのだ 
それゆえ 偉大な哲学者には “見者"の側面がある 
私好みの哲学者にはね 
スピノザがそうだ 
ニーチェもだ 
彼らはさらに 幻想的な 情動素を打ち上げてみせる
したがって このような哲学には 
音楽があると 言わなくてはならない 
また 裏返して言えは 音楽は寄妙なものを見せる 
音楽が見せるのは色彩だ しかも一 
音楽の内にも外にもない 色彩を見せるのだ 
知覚素も無関係てはない 
哲学の"概念" 絵画の"知覚素" 音楽の"情動素"が一 
つとも格まり合うさまを 私はぼんやりと夢想している 
3つが呼応し合っても なんら驚くにはあたらない 
3つは独立し それぞれ全く異なるにせよ一 
絶えず交わり合っている 
質問が? 
 つまり あなたの考える 芸術家や哲学者のアイデアとは 
 単なる発想のことでなく一
 知覚や債動や理性をめぐる 考えのことですね 
 ところで 世の中には一 
 何のアイデアもない映画や本があります 
 そういったものは 退屈極まりなく一 
 何の関心も 抱けないものでしょうか?
 面白おかしいだけでは いけませんか?
 やはり"アイデア"が 必要でしょうか?
果たして そんなものが 存在するがどうか怪しい 
知覚素のない絵画を 見せてみたまえ 
牛が描がれていて そこそこ牛に似ているが一 
牛の知覚素がない絵画があるかね 
情動素のない音楽を ぜひとも聞かせてほしい 
正直に言うと 想像できないんだよ
映画でもいい
白痴による哲学書であっても一
いすれにも 不健全な楽しさがあるはずだ
白痴による哲学書と言わず 例えば ユ一モア文学とが
ユ一モア文学なら アイデアの宝庫じゃないか!
何をユ一モア と呼ぶかによるが一
人生で一番笑わせてくれたのは ベケットやカフカだよ
ユ一モアは大好きだ 
だが 確かに一 
テレビのコメディアンは あまり好きではない
 ベ二一・ヒルは例外ですね
そうだね
 笑えますよね 
それに 言うまでもないが アメリカの喜劇役者には一
アイデアが溢れている
 机に向かっていて 何のアイデアもない時はありますか?
 何も思いつかない時は どうされるのでしょうか?
そういう時は 机に向かわないょ 
それに 考えても なかなか焦点を結ばないこともある 
そういうつらい経験はあるよ
そりゃ簡単じゃない
あらかじめ アイデアがあるわけではない
自分で作らねばならない
つらい時もある
絶望して ダメだと思うこともある
当然だよ
 その時足りないのは 表現とアイデアのどちらですか?
二つは区別できない 
アイデアがあって それを表現できないのは一 
アイデアがないのと同じことだ
単にアイデアがないだけだ
あるいは アイデアの一部が欠けている
アイデアはまとまって やってくるわけではないからね
いろんな方向からやってくる
だが 少し欠けているだけで 使えない

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 次 は J “喜び“です
 あなたには重要な概念ですね スピノザの概念ですから
 スピノザは喜びを 抵抗と生命の概念にしました 
 “悲しみの情動を避け 喜びに生き 己の力能(りきのう)を最大にせよ“ と
 だから 諦念とか罪の意識といった一
 祭司 裁判官 精神分析家が付け入る 情動を避けること
 あなたがこの考えに惹かれるのは よく分かります 
 スピノザとあなたにとって 喜びと悲しみはどう違うのですか? 
 あなたもスピノザと同じ考えなのでしょうか
 スピノザの本を読んだ時 何かを見出したのですよね
そうだ というのも あの本には一
スピノザの言う"情動”が 一番よく現れているからね
ごく簡単に言えば 喜びとは力能が満たされることだ 
自分の力能を満たされることが 喜びだ 
つまり それが実現した時 人は喜びを感じる
どういうことか 先ほどの例のように一
一片の色を 占めるとしよう
私はその色の中に入り込む
喜びとはそうしたことだろう 
つまりその時 私の力能は満たされる 
だが力能という言葉は曖昧だ
ならぱ反対に 悲しみとは何か?
それは “できる“と 思っていたことがら一 
つまり自分の力能から 切り離されていることだ 
悲しみとは例えば "ああすることもできたはずだ"
“だが状況が許さながった" という状態のことだ
とすれは あらゆる悲しみは一
権力が私に及ぼす効果だ と言うベきだろう
 ジルの話す番です
 "喜び"と"悲しみ"について 話していました 
"力能を実現することは 常に善いことだ"と私は言ったが
これはスピノザの言っていることだ
もちろんこれには いくらか説明が必要だ 
悪い力能なるものが あるわけではない 
最も低い程度の力能が"悪"と言われているだけだ 
最も低い程度の力能とは 権力のことだ
例えば 悪意とは何か
本当はできたはずのことを 妨げてしまうことだ
悪意とは 誰がの力能の実現を 妨げることなんだ
ここにあるのは悪い力能ではなく 悪意ある権カだ
どんな権カも悪意に満ちている とも言えるかもしれないが一
必すしもそうではない
しかし 権力と力能の混同は一 
非常に高くつく というのも 権カは それに従う人々を一 
自分にできることから 切り離してしまうからだ 
だからスピノザはそこから始めた 
さっき君が言ったように一 
"悲しみ それは祭司に 暴君に..." 
 "裁判官に..."  
"裁判官に結び付く" 
彼らはいつも 人々をなしえることがら切り離し 
力能の実現を禁じてしまう 
さっき興味深い示唆をしていたね 
ニーチェが反ユダヤ主義だ という世評についてだ 
あれはとても重要な問題だ 
実際 ニーチェのテクス卜は一 
"哲学を読む"という姿勢で 読まないなら一 
とても危ういものに なってしまうだろう 
じっくり読むベきだ 
興味深いのは ユダヤ人を非難するテクス卜で一 
ニーチェは何を非難しているのが ということだ 
なせ彼が"反ユダヤだ"と 言われるのが 
ニーチェの非難は とても興味深い 
ユダヤ人への非難は 非常に限定されたものであって一 
私の知る限り 二一チェはー度も ユダヤ全般を糾弾してはいない
ユダヤ人への糾弾はあくまでも一
彼らが祭司を生み出したことに 向けられている
ユダヤ社会が創ったものは他に一 
魔術師や立法学者などがあるが これらは祭司と同じものではない 
ユダヤ人は驚くベき発明をしたが ニーチェの哲学は一
とても強カだったのて 自分の嫌いなものさえ称贅する
"祭司の発明は驚くべきことだ"というように
続いて ユダヤ教の考えが キリス卜教に受け継がれる 
同じく祭司と言っても 夕イプは異なるが
キリス卜教はユダヤ教とは別の 祭司を考案しながら一
同じ道を歩き続けたのだ それが可祭なる人物だ
このことはニーチェの哲学の 堅固さを物語っている
私の知る限りニーチェは一
祭司という概念を発明し 創造した最初の哲学者であり一 
そうすることて ある根本的な問題を提起した
祭司の権力 とはいかなるものが 
その権力は 王の権カなどと どう違うのか
この問いには 今もなお 意義がある 
フ一コ一も死の直前 そのことに気付いていた 
哲学を受け継ぐとはどういうことか という問いがここにはある
フ一コ一は"司牧的権力”という 新しい概念を提起した
これは二一チェの概念と同じではないが 彼の問いかけに連動している
つまりここには 思想の歴史があるんだ
では その祭司の権力とは何か?
それは悲しみと どう関係するのか
二一チェによれば 祭司は一
“人間は無限の負債を負つている” という思想を考案した 
人間には無限の償いが あるというわけだ 
もちろん 二一チェ以前にも 負債についての歴史がある 
二一チェは どんな民俗学にも 先んじていた
だから 民俗学者は熱心に 二一チェを読んだ 
彼らは 原始経済が 物々交換ではなく一
負債の交換によって 成り立っていたことを一
二一チェのあとで発見したからだ 
ある部族は別の部族に借りがある といったようにね
そう もちろんそれは 有限な負債だった 
受け取ったら 次にそれを返す というように
物々交換と違うのは 時間があるということ 
時間の存在だ 返済には時間がかかる
これは大きな違いだ 負債は交換に先立つ
これは哲学的問題なんだ 
交換に先立つ負債 これは哲学的概念であつて一
なぜかと言えば 民俗学よりも前に 二一チェがそれを指摘していたからだ 
さて 負債が有限であれば 人はそこがら自由になれる 
ユダヤ教祭司が
“ユダヤ人は契約により神に 無限の責任を負っている“と述ベたり
キリス卜教徒がそれを引き継いで一
無限の負債を 原罪に結び付けたりする時 
問題となっているのは 祭司という特異な人物であり 
それを概念化するのが 哲学の務めなんだ
哲学は決まって無神論だ というわけではないが一
ユダヤ教祭司の分析をした一
スピノザのような場合 特に"神学・政治論”がそうだが
哲学の概念が 本物の人物のように描かれている
だからそうした哲学は とても具体的なんだ
祭司という概念の創造は 芸術家が 祭司の絵や一
肖像画を描いたりするのと 同じようなものだ
祭司という概念には まずスピノザ 次に二一チェ 
最後にフ一コ一という 魅力的な流れがある 
司牧的権カの聞いを 私も受け継ぎたいと思っている
途絶えたと言われているが 司牧的権力は 形を変えて復活したのであって
精神分析は その新たな化身なんだ
では司牧的権力とは何か 
僭王(せんおう)や祭司 とは異なるが 出所は同じだ
そうした権力は皆 悲しみの情動から力を得る
"無限の負債の名の下に 悔い改めよ" 
"己は無限の負債の対象なのだ" というように
こうして司牧は権力を得る この意味で権カとは常に一 
力能の実現を妨げる障害なんだ 
権力が悲しみである以上一
権力者がそれを持つことを 喜こぶとしても
それは悲しい喜びだ
反対に喜びとは 力能の実現のことだ
繰り返すが 悪い力能 というものはない
台風も一つの力能だから その力に喜びを感じている
家を破壊することにではなくて 存在することに対してだが
喜びとは 自分が自分であること 自らの存在に到達することなんだ 11:39
とはいっても それは自己満足や 自惚れとは違う 
全く違んだ 喜びは自己満足の享楽ではない 
喜びとはニーチェが言ったように 征服による快のことだ 
だがそれは 人々を征服するということてはない 
征服とは 例えは 画家が色を支配することだ 
そう それが征服であり 喜びなんだ 
たとえ悪に転じようともそうだ 歴史を見れば一 
力能を支配しようとして一 
手に負えなくなったケ一スもある 
例えばゴッホの狂気がそれだ 

 一つ補足的な質問を 
 あなた自身は 無限の負債を 免れていると思うのですが一 
 どうして一日中嘆いたり 哀歌を称賛したりするのですか? 
個人的な問題でもあるが
哀歌は詩作の 主要な源泉のうちの一つであり一 
大いなる嘆きだ 
書かれるベき多くの歴史がある 
興味深いのは預言者の嘆きだ 
預言は嘆きと不可分であつて 預言者とは嘆く者のことなんだ
“なぜ神は私を選んだのが 私が何をしたというのだ”とね 
この意味で 預言者は祭司の反対だ 
預言者は自分に起きることを嘆く "私の手には負えない...”とね 
嘆きとはこのことだ "これは私の手に負えない..."
こう者えると 嘆きは必ずしも一
"ああ ああ 痛い..." といつたものでないことが分かる
もちろん そういうこともありえるがね
嘆く人は自分が何を言いたいのが 分がっていない
脚のリウマチを嘆く老婆は 実際には一
"なんて大きな力だ 私の手には負えない"
と言っているのだ 
歴史を見る時 興味深いのは 
哀歌が詩作の源泉であることだ ラテン語詩のことだが一 
偉大なる詩人たち一
私も昔よく読んだが カ卜ゥルスやティブルスは一
驚くべき詩人だ
哀歌とは何か?
私の考えでは一
一時的にであれ 社会的な地位を 失った人の表現だ
だからこそ面日い
確かに貧しい老人の嘆きや一 
苦役を課せられた者の嘆き といつたものもある 
だがそれは悲しみとは別で 権利の要求だ 
嘆きには何がを慕う気持ちがある 祈りのようなものなんだ
大衆的な哀歌もある どれもそうだ
預言者の嘆きや 心気症(ヒポコンデリー)嘆きもそう
心気症の嘆きは美しい
"なぜ私には肝臓や脾臓があるのか"という嘆きは一
"なんて苦しいんだ..." とは違う嘆きだ
"なぜ私には器官があるのか" "一体なぜ私は存在するのか"
これは実に崇高な嘆きだ
大衆の嘆きや暗殺者の哀歌 
そして大衆が歌う哀歌... 
嘆くような状況にあるのは 社会から排除された人々だ
中国の研究者... いやハンガリーだった
ハンガリーのテ一ケイという 歴史家は一
中国哀歌を研究していた
私の記憶では確か一
社会的地位のない者 すなわち解放奴隷が
中国哀歌の原動力だった ということを彼は指摘した 
奴隷には どんなに不幸でも まだ身分がある
どんなに不幸で暴力的な状況でも 社会的身分が与えられている 
しかし自由になると 奴隷は 一定期間 社会的身分を失う 
あらゆるものがら排除されるのだ
アメリカの黒人解放は そうしたものだったに違いない
奴隷制が廃止された時 ロシアでもそうだが一
解放奴隷に身分は用意されておらず 彼らはただ排除された
それは愚かにも こう理解された “ほら 奴らは奴隷に戻った" 
そうではない 彼らは身分を失い 共同体がら排除されたのだ
こうして大いなる嘆きが生まれた
"ああ ああ..."とね だがこれは痛みの吐露ではない
これは一種の歌であって それゆえに詩作の源泉なんだ 
哲学者でなかったら 私は泣き虫の女でありたかった 
泣きわめく女がすばらしいのは 嘆きが芸術だがらだ
ただそこには偽っているところがあって 彼女たちは“かまわないで"と言う
丁寧すぎる人のようなものだ
もつと丁寧であろうとして 結局 "かまわないでください" となる
それは何と言ったらいいが
嘆きの具合も同じで "自分でなんとかします"となる
だが そうして引き受けることで嘆きは変化していく
そしてここでもまた “これは私の手に負えない"に至る
これが嘆きというものだ 
私はそういう気持ちを毎朝抱くが それは喜びなんだ 
ても 人は用心深いから そういう純粋な喜びを隠してしまう
他人が喜ぶのを嫌う人がいる だからそれを嘆きの中に隠すんだ
それに嘆きに は強い不安もある
力能を実現するにしても 一体 何と引き換えにか
そのために 命を落とすこともあるのが 
色に取り組む画家の場合と同じだ 力能を実現したら一
そのために 命を落とすこともあるのが
私はこう言ってもよい と思っている
ゴッホの色への向き合い方は一 
精神分析的な話よりもむしろ一 
狂気と結び付いている と
問題なのは 色との関係だがらだ
"私を破滅させかねないものは 私の手に負えない" 
これが嘆きだ " 私の手には負えない..."
幸が不幸が 大抵は不幸なのだが一
まあそういうことだ

__________


 では次はK カントです カントはー
 研究書を書かれた哲学者の中でも
 あなたの思想から 一番遠いように見えますが一 
 あなたの研究対象には 共通のものがあるとも言いますね 
 例えば カン卜とスピノザには 隠れた共通点があるのでしょうか?
申し訳ないが 質問の前半 つまり一 
私がカン卜に取り組んだ理由を 答える方が良いだろう 
カン卜とスピノザや 二一チェの間には 
何の共通点もないからだ 
二一チェはカン卜を熟読したが 二人の哲学は異なるものだ 
にもかかわらず私はなぜ カン卜に惹かれたか 
理由は二つある カン卜は多くの分岐点にいたのだ 
第一に カン卜は それまでの哲学において一 
十分に展開されてなかったものを 極限まで押しやった 
カン卜は ある種の法廷を作った 
フランス革命の影響もあっただろう 
それから現在に至るまで一 
概念は人物のように語られてきたし 私もそうしている 
18世紀 カントの前に 
尋問者のようなタイプの 新しい哲学者が登場した 
人間の悟性や あれこれについて一 
問いただす哲学者だ 
哲学者自らを 尋問者とみなすようになった 
それ以前 17世紀では一 
例えばライプニッツが この傾向の最後の代表だ
彼は自分を弁護人とみなし一
弁護を行った
重要なのは 彼が神の弁護を 行ったということだ
神には責められるペきことがあると 考えられていた時代に一
ライプニッツは「神の大義」についての 驚くベき小論を著した
大義(コーズ)とは訴訟理由のことで 彼は神を弁護したのだ
ここには様々な人物の 連鎖のようなものがある
弁護人に尋問者 
そしてカン卜における 理性の法廷の以来 
物事が理性の法廷において 裁かれるようになった
悟性や想像カや認識や道徳など 様々な能力が一
理性の法廷にぉいて 瓢を受けるようになった
もちろんそれは カン卜が生み出した方法一
“批判という卓越した方法を 用いる法廷だ
私はこうしたことに恐怖すら覚えたが 同時に魅了されたんだ
それほどに見事だった
質問に戻れぱ一 
カン卜が生み出した概念の中でも 理性の法廷は一 
批判という方法と不可分なものだ 
私が夢見たのは...
判断を下す法廷 つまり判断のシステムだ
判断のシステムは 神を必要としなくなった
それは神でなく 理性に基づくシステムだ
私を惹き付けた思想家は皆… これまでこの問題には一 
触れてこなかったが 今では答えられる
人はいつも自問することができる
なぜこの人が 特に自分を惹き付けたのか とね
というのもこれは 君にしても 私にしても謎だがらだ 
なぜあの問題でなく この問題に取り組んでいるのが 
どうして あの類いの問題に 惹かれるのか とね
これは考えるということについての とても大きな謎だ 
なせ特定の問題が気になってしまうのが これは科学者にも言えることだ 
ある問題には惹がれるが 別の問題には惹かれない
哲学とは大抵 一貫性のある 問題の総体のことだが一
あらゆる問題を 扱おうとするわけではない
自分のことを言うと 私が惹かれる問題というのは一
判断のシステムの代わりになる手段を 提案してくれる問題だ
そしてそこに一 
カン卜とは別の伝統を持った 偉大な思想家たちがいる 
スピノザや二一チェがそうだ 文学ではロレンスがいる
最近の最も偉大な 思想家の一人がアル卜一だ
「神の裁きと訣別するため」は 狂人の語りではない
文字通り判断のシステムと “訣別するため”の言葉なんだ
こうしたすベてのことが…これはそう…
私がいつも一
“概念の下に問題を探さなけれぱ ならない”と言っているのと同じことだ
概念の下にこそ カン卜の驚くベき問題がある
彼は驚くベき仕方で 概念の逆転を行った最初の人だった 
繰り返しになるが一 
高校の授業でも 学生たちは 抽象的な哲学ばかりを教わり一
面白い問題に関わる きっかけを得られない
これはとても悲いことだ
もろんそれは 無理なことなのかもしれないがね
例えば カン卜まで
時間は運動から派生するものだった と言うことができる
時間は運動に対して 二次的だった
時間は運動の数や 運動の尺度とみなされていた
力ン卜は何をした 関わる? 
どうやったかはともかく 概念を創造したんだ 
では"概念を創造する”ということて 私は何を言いたいのが?
カン卜が概念を創造したのは 従属関係を逆転させたがらだ
運動の方が時聞に 従属するようになった
その結果 時間は本性を変えた 円環的ではなくなったんだ
時間が従属していた運動とは 要するに一
巨大な周期的運動
例えは天体の目転運動や 周期運動のことだ 
そうした運動は円環的だ 
反対に時聞が運動がら解放され 運動が時聞に従属するょうになると一 
時間 は一つの直線になる 
私はいつもボルへスの言葉を 思い出す
カン卜とはほとんど関係ないが ボルへスはこう言っている
"円環状の迷宮よりも恐ろしいのは 直線の迷宮だ"
すばらしい言葉だ
しかし時間を引き出したのは カン卜だ 
そしてあの法廷が あれこれの 目的との関連で各能力に評価を下す
カン卜は晩年 この問題に取り粗んだ
珍しいことだが 彼は老いてから すベてを一新する本を書いた
判断力の
「判断力批判」で力ン卜は一 
諸能力は互いに無秩序な関係にある と考えた 
能力同士が対立したり 和解したりするわけだ 
だが どうにもできない争いもある 
法廷にもどうにもできない 能力同士の争いだ 
そこでカン卜は崇高の理論 崇高の概念を打ち立てた 
崇高において諸能カは 不調和的一致状態に至る 
こうしたことに 私は魅了された 
不調和的一致や直線的な迷宮 そして関係の逆転にだ 
現代の哲学はどれも こうしたことに由来する 
時間が運動にでなく 運動が時間に依存するようになった 
驚くベき概念の創造だ 
崇高という概念に 能力間の不講和的一致 
私が心動かされたのは こうしたことだ 
だから 言うまでもないが カン卜は偉大な哲学者だ 
彼の哲学にはすベての基礎がある 私はそれに魅了されたが一 
その上に築かれたものには関心がないし一 
評価を下すつもりもない 
判断力のシステムについて 話したということで一 
カン卜については終わりにしよう 
 カン卜の生活については?
カン卜の生活?
 ド・クインシ一の質問をー
それは予定になかった
 いえ
 もう一つ力ン卜で あなたが気に入りそうなのは一
 非常に規則正しい生活です
 散歩をはじめとしてカン卜の様々な習慣は一
 まるでエピナル版画のように とても特徴的なものでした
 あなたの生活も一 
 とても規則正しい
 たくさんの習慣をおもちですね
私はそうだな
言いたいことはよく分かる
私もド・クインシ一には 夢中になった あれは傑作だ
どの哲学者についても言えることだが 彼らもまた一
習慣をもっている 全員が同じ習慣をもつわけではないが
当然ながら 哲学者も習慣的な生き物だ
スピノザの生活は とても単調なものだったろうと思う 
スピノザはレンズ磨きで 生計を立てていた 
彼はレンズを磨いたり 客をもてなしたりする生活を一 
送っていたと言われている
 レンズ磨きで糧を得ていました 
同時代の攻治的波乱を除けは とても穏やかな人生だった 
カン卜も 政治色の強い時代に生きた
カントはまた 服飾用の機械を考案し一
ズボンや靴下等を 改良していたが一
それによって彼の身なりは とてもチャ一ミングになった
だがどんな哲学者も
二一チェが言ったように 哲学者は大抵一 
慎ましく貧しい 二一チェはこう付け加える 
"慎ましさや貧しさが彼らに どう役立っているのか見抜くのだ"と
カン卜は確かに 散歩を習慣にしていたが一
そのこと自体は何でもない
知る必要があるのは 散歩中に 起こったことや彼がそこで見たものだ
結局 哲学者も 習慣的な存在なんだ
習慣とは何かを観照することだ
語の真の意味において 習慣とは観照のことなんだ 
散歩中 カン卜が何を 観照していたのかは分からないが...
私には 恥ずかしいことだが一 
そう 習慣がたくさんある それは観照なんだ
私が観照すると一
時には私だけに見えるものがある 習慣とはそういうものだ

____________


 次は L "文学"です
もう L か 
 ええ
そうか 
 文学はあなたの哲学と人生に 不可欠ですね
 "名著"と言われる多くの作品を 読まれてきたと思います 
 大作家は あなたにとって思想家です 
 カン卜論とニーチェ論の間に 「プル一ス卜とシ一ニュ」 
 そのあとさらに一
 ルイス・キャロルやマゾッホ カフカ そして英米文学について書かれました
 あなたは哲学史よりも 文学から新しい着想を得た
 そう感じた人もいるでしょう
 常にたくさん 読まれてきたのでしょうか?
ああ そうだ
そうとも 一時期は 哲学書の方が多かった 
研究上必要だったからだ
小説にはあまり 多くの時間を割けなかったが 
名著は 生涯がけて たくさん読んだ
哲学への影響はもちろんある 
例えば フィッツジェラルドは一 
あまり哲学的な小説家ではないが 私が負うところは大きい
フォ一クナ一にも 多くを負っている
もうあまり覚えていないが...
さっきの話からすれば当然だ 
君は覚えているだろうが一
概念は単独では存在しない
概念は役剖を果たすと同時に 我々に事物を見せる 
つまり概念は 知覚素と繋がっているのであって 
それを人は小説の中に見出すんだ
概念は知覚素と いつも繋がっている
さらに 哲学と文学には 共通の一
スタイルの問題がある 
ごく簡単に言えば 文学が描く偉大な人物は一
偉大な思想家だ
メルヴィルは何度も読んだが エイハブ船長は一 
もちろん偉大な思想家だ
バ一卜ルビ一も 夕イプは異なるが思想家だ 
どちらも我々を思索に導く 
つまり文学作品は 知覚素だけでなく一 
点在する概念を線で結ぶ 
そう まさしくそうだ もちろん一 
それは作家の務めではない すべてを一度にはできないがら 
作家の役目は 対象を知覚させ 人物を創造することだ 
人物を創造するとは どういうことか 
それは驚くベきことだ 
哲学者は概念を創造するわけだが 
その概念が実に多くのことを 伝える編合がある 
というのも 概念は ある意味て人物だがらだ 
そして人物にも 概念的な側面がある 
偉大な文学と哲学に 共通しているのは一 
生を物語るということだ 
さっき力能(りきのう)と呼んだものと 同じだ 
偉大な作家が あまり 健康ではないのはこのためだ 
ヴィク卜ル・ユ一ゴ一のような 例外はあるし
作家は皆 不健康だと言うことはできない 健康な作家はたくさんいる 
だがなせ作家は あまり健康でないことが多いのか 
それは彼らが生の横溢(おういつ)を 経験するからだ
スピノザやロレンスが あまり健康でなかったことは一 
さっき嘆きについて 話したことにほぼ当てはまる
彼らは手に負えないものを 見てしまったんだ
手に負えないものを見た彼らは一
それに耐えられず 打ちのめされる
チェ一ホフなんかがそうだ なぜ彼はあんな風になったのか
何かを"見てしまった"からだ
この点では哲学者も作家も 変わらない
見ることはできても そこがら 立ち戻ることができないものがある
それが何かは 作家によって異なるが一 
耐えきれる範囲の ギリギリのところにある知覚とが一 
思考できる範囲の ギリギリの ところにある概念のようなものだ
だから偉大な人物の創造と 概念の創造の間には一
たくさんの繋がりがある
ほとんど同じ企てなんだ
 文学作家と同様に ご自分は哲学の"作家"と思いますか?
私目身が作家と言えるかは 分からないが一
偉大な哲学者は 皆 偉大な作家だ
 哲学者として あなたには 創作への憧れはないのですか
ない それは画家に一 
"なぜ曲を作らないのですか"と 聞くようなものだ 
もちろんサル卜ルのように 創作する哲学者はいる 
私は彼が小説家だとは思わないが ともかくサル卜ルは試みた
偉大な哲学者が重要な小説を 残したことがあったが 
私にはそんなに思い浮かばない
人物を創造した哲学者ならいる
プラトンは人物の創造に 非常に優れていたし一
ニーチェもツァラ卜ゥス卜ラなどの 人物を創造した
だがら そうした交差は すっと指摘されてきた
ツァラ卜ゥス卜ラの創造は 詩としても文学としても一 
プラ卜ンの人物と同じょうに 大きな成功だ 
そこまでいくともう 概念と人物は区別できなくなる
それが最も美しい瞬間だ 
  リラダンやブル卜ンのような 二流の作家もお好きですよね
 ずっと好まれてたのですか?
リラ夕ンが "二流”だと言うのは一
おかしな話だが
それでも
その質問に答えるとすれば一
恥ずかしい話になるが 若い時には一 
一人の作家を全集で読破したいと 考えていたんだ 
だから二流作家というより一
量が少ない作家を 好むようになった
ヴィク卜ル・ユ一ゴ一などは 量に圧倒されて一
良い作家ではないと思っていた 
反対に ポ一ル=ルイ・クリエは一
当時 暗記してしまうほど よく読んだ
彼はさほど多く 書かなかったがらね
そういう風に 二流と言われる 作家を好んでいた
リラダンは二流ではないが
当時の他の作家と比ベると
ジュベールだ 
彼のこともよく知っている
本当に恥ずかしいことだが
無名の作家を知っていることに いい気になっていた
とにかく熱中した
量が問題なのではないことや ヴイクトル・ユ一ゴ一の一
偉大さが分かるまでには 時間がかかった
二流作家が好きなのは...
もちろん二流と言われる ロシア文学も存在する 
ロシア文学はドス卜エフスキ一や 卜ルス卜イだけではない
あえて二流と言うにしても一
レスコフのような作家には 見るベきところが多い 
二流と言われようが やはり非凡だ
こうしたことは一
過去のことだから一
もう特に言うことはないが一
有名でない作家に一
驚くベき概念や人物を 見つけた時は嬉しい
だが 私は 体系的な研究を しなかった 
 とはいえ プル一ス卜についての 大著は別にしても一 
 あなたの哲学は 文学で溢れていますよね
 “文学は具体例ではあったが 文学論は書かれなかった”
 そう思う人もいるかも しれません 
 時間がなかった
 ずっと仰ってましたね
これから書くつもりなんだ
 “批評”について?
そうだ 文学における一
"書くこと”の意味について 批評を書きたいと思っている 
時間があればね これは自分のためのものだ 
君は私の計画を知っているわけだが 
さて どうなるか 
 ええ 
 最後の質問です あなたは古典ほどには一 
 現代の作家を読まれてないように 思うのですが一 
 同時代の文学に 何がを見出すことはないですが 
 あなたは 今出版されている ものよりも一 
 大作家を好まれるのでしょうか? 
嫌いなわけじゃない 
君が言いたいことは よく分がるが 嫌いなわけでは全くない 
同時代の作品が “分かる“ようになるには一 
訓練して得られる 特別な能力が必要なんだ 
そうした審美眼を手に入れるのは とても難しい 
学ぶ必要があるという点では 
新しい画家を見出すのと 同じようなものだ 
ギャラリーであれは“本物の画家だ“と 言う人がいるが一 
そういう人たちは 本当にすごいと思う 
だが私にはそれができない 
君の言う通り 一
ベケットはすぐに分かったが ロブ=グリエの新しさは一 
5年経ってようやく分かった 
デビュ一当時の彼について 私が喋っていたことは本当に愚かだった 
何も分かっていなかった 年の時が必要だった 
だから文学について 私には先見性がない 
だが哲学には それより自信がある 
本当に新しいものと 焼き直しにすきないものの一 
違いはすぐ分かる 
小説についても 焼き直してないかどうか一 
取るに足らないものかどうかぐらいは分かる 
一魔だに私も自分で一
作家を見出したことがあった 
アルマン・ファランは 若い時からすでに一 
非常に優れた小説家だと 私には分かっていた
だがら君の質問はもっともなことだ
それにはこう答えよう
“経験なしに作品を判断できると 思ってはならない”と
私自身が好むのは一
若い作家や画家と 自分の書くものが共鳴したり
作品が喜びを与えてくれることだ 
作家や画家が 優れているから一 
私もそうだと言いたいのではない
今起きていることとの出会い それもある種の創造だ
私が書くものと共鳴するものを 創る人々との一
そうした出会いによって一
私の判断の不十分さは 補われるんだ
 絵画や映画は 出会いに恵まれていますが一
 書店であなたが 最近出た本と そうした出会いをする一
 そう想像するのは難しいのですが...
そうだな 考えたことがなかったが それは文学が一 
今の時代には 力を発揮していないということだ 
文学が現在うまくいっていない というのは言うまでもない
それに 配本や 価格といったシステムにも一
ゆがめられてしまう
それはわざわざ 指摘するまでもないだろう
 では この話は切り上げて Mに移りましょう
_____________


 Mは"病気"です
病気か... 
 「差異と反復」の執筆をちょうど終えた頃—
 1968年 あなたは 結核で入院しました 
 ニーチェやスピノザは 体が弱かったと指摘なさいましたが一 
 68年以後 あなた自身も 病気を抱えて生きることを強いられる 
 結核に冒されていることを 以前からご存じてしたか?
そうだ
何が悪いものがあると ずっと知っいた
だが 私も皆と同じく 普通の人間なわけで一
無理して知ろうとはしなかった
その後 癌だと思うようになったが一
それなら 慌てるまでもないと考えた
結局のところ まさか結核とは思わず一 
血を吐くまで気付かなかった 
今の私があるのは 結核のおかげとも言える
当時は抗生物質が登場し 結核を恐れる必要はなかった
10年 いや3年前なら 一大事だった
私が結核と分かったのは 抗生物質が出始めた頃
その数年前なら危なかった 
だが もう心配なかった
それに痛みのない病気だ
確がに結核は病気ではあるが一
ありがたいことに 苦痛を伴わず 治すことのできる病気だ 
ほとんど病気ではない 
小さい頃から 体が丈夫な方ではなかった
疲れやすい体質だった
ところで体が弱いことの利点 つまり 言い換えると一 
思考を引き受け 思考を愛するのに 体の弱さが有利に働くかというと一
体が弱いことは なかなか悪くないと思う
自分を大事にするからではない 
私にとって思考とは 生そのものに耳を傾けること
それは自分の健康に 気を使うことではない
生そのものに配慮することだ 
体が弱いと 生に耳を澄ますようになる 
先ほどD・H・ロしンスや スピノザの話をしたね
彼らは ある意味 とてつもなく巨大なものを見た
それは目らを上回るほど 大きかった
自分が弱くなってしまう そのような場所に身を置かないと一
思考は不可能だ
私はずっとひ弱だった
それが結核にかかって 確立されたわけだ
"ひ弱”という権利を 手に入れたのさ
悪くないだろ? 
 ただ その時から 医者や薬との関係が変わりましたね 
 医者に行かねばならず 定期的に薬を飲む必要があります 
 一種の制約です それに一 
 医者がお嫌いですよね ? 
ああ 嫌いだね 
だが 人柄の問題ではない 
感じのいい医者を 何人も知っている 
医者が権カ者なのが 気に入らんのだ 
また権力の話になってしまうな 
さっきの話に すでに全体が 織り込まれていたようだね 
私が耐え難いのは 医者の権カの使い方だ 
医者という身分が 耐え難いわけだ 
私が嫌悪感を抱いているのは それぞれの人柄ではない 
むしろ いい人が多い 
嫌いなのは 医学の権力と 医者によるその権力の使い方だ 
唯一 私を喜ばせることがある 
医者はそれを嫌がるんだがね
近年 医者はますます 機械と検査に追われている 
患者にとっては はた迷惑な話だ 
検査など 無用の長物
診断が正しいが 確認する手段にすぎない 
腕のいい医者なら 的確な診断を下せる
おぞましい検査は不要なはず
検査で遊ぶとは 許し難いことだ
私が愉快なのは一
機械にかけられても 息が弱すぎたりして一
機械が反応できないことがある
あるいは 何と言ったかな...
心臓の様子を捉える機械で...
 超音波 
それだ 
超音波の機械で 検査された時も一
愉快なことに 医者が激怒したわけだ
この哀れな患者を呪っていたね
医者は診断の間違いなら 素直に認める
だが機械に限界があることは 認められない
それに医者には一 
教養がない者が多い
まあ 教養を得ょうとしても どだい無理な話だ
本当に変わった人たちだ 
慰めなのは 彼らは稼ぎがよくても 使う時間がないことだね 
それはそれは 大変な生活を送っている
結局 医者には さほど関心が持てない
もちろん人柄がよく 品良く洗練された人もいる
だが彼らの仕事は 人間を犬のように扱うことだ
また ここには階緻闘争がある
医者は金持ちには優しい
ただ外科は例外で また別の話になる 
医者の世界には改革が必要だよ
問題がある 
 薬はどうでしょうか?
薬は好きだね 
楽しいよ 
面倒ではあるが
薬を飲むのが楽しいと ?
今は実際に たくさん飲んでいるからね
毎朝 小さな薬の山に 笑ってしまう
それに薬は有用だと思っている
精神医学の治療でも 薬の使用に賛成してきた
ずっと薬学の味方だよ 
 疲労と病気には 関連があると思いますか一 
 病気の前がら 疲れ気味だったと仰いました
 M・ブランショも「友愛」で 疲労を論じていましたね
 あなたにとっても重要なはず
 退屈なものがら 逃げるための言い訳として一
 疲労を活用してきたような気がします 
なるほど こういうことだ
これまた"力能(りきのう)"の主題に関わる 
"力能を行使する"とは何か? "できることをする"とは?
“己の力能にあることをする"とは? 
これは複雑な概念だ というのも一 
例えば体が弱かったり 病気で無力に囚われている時一
重要なのは 無力の使い方を見極めること
無カを通して 力能を取事丿戻すことだ
確がに病気は 何がの役に立つだろう
入生に債を もたらすばがりではない
私にとって 病気は敵てはない
病気は死への思いを 高めるものではない
生に対する感情を 研ぎ澄ますものだ 
"もっと生きたい"とが "治れは生きられる"という話てはない 
いわゆる"人生を楽しむ"ことほど 下劣なことはない 
"偉大な生者"とは ひ弱な者のことだ 
つまり一
病気は人生観や 生に対する感覚を研ぎ澄ます
"人生観"というのは “生を観る"という意味だ
病気を通して "観る"わけだ
病気によって "生を観る"感覚が研ぎ澄まされる
生の力能 生の美しさが 汲み尽くされる
それは確実な気がする
病気の利点なら 他にも簡単に挙けられる 
病気を活用して 自由を獲得せねばならない 
利用できなけれは不快なだけだ
一般に 疲労はよくないが一
"力能の行使"という意味なら 過労にも大いに価値がある
もちろん 社会で無理をしてはならない
医者が患者を大量に抱え 働きすぎるのはよくない
要するに 病気を活用するとは一
日常を縛り付けている物事から 自由になることだ
私は旅行を好まないが一
旅行者には敬意を払っている 
私の場合 こんなに体が弱くては 旅行するのは難しい 
それに夜更がしもつらいんだ 
いったん体が弱ると 夜更かしも重労働だよ 
親しい人たちからではなく 社会の役務から という意味だが一 
病気になると こういう一切から逃れられる 
この点で病気はすばらしい
 では疲労は病気と同じですか? 
疲労は また別だ 
疲労は"今日できることは もうやったぞ"ということ 
“よし 一日が終わった"と 
疲労とは生物学的に言って “一日終わった”というやつだ 
社会的理由からは まだ続くに決まっているが一 
生物学的には 一日が終わったことの表れだ 
もう何も自分から出てこない
こう考えれば 疲労も 別に悪い感じがしない 
何もしていなけれは嫌な感じだ 不安になる
何がした結果なら結構 
疲労は時に心地よく 私はいつも鈍い疲労に敏感だ
この鈍く疲れた状態を とりわけ好んでいる 
何がの"終わり"という意味でね 
音楽用語で この状態を 指す言葉があったと思うが…
コ一ダだ 
疲労とはコ一ダだよ 
 老いについて伺いたいのですが その前に食ベ物の話をしませんか? 
ああ 老いね 
違った 食ベ物か
 なぜかと言いますと あなたが好むのは一 
 気力と活力をもたらしてくれそうな 骨髄やロブス夕一です 
 変わっています 
 食ベることが お嫌いでは? 
そうだ 
 いやいや まさか
ただ 食ベることの性質を 定義するなら それは退屈だ 
何より退屈だと思っている 
“飲む"はBでやったね 
飲むことは極めて興味深い 
だが"食ペる”はどうが 
死ぬほど退屈だ 
一人て食ベる時の話だょ 
気心知れた人との食事は 全く遣う 
食ベ物が同じでも 食ベることに酎えられるょうになる 
たとえ会話がなくとも 食事が退屈でなくなる 
本当 に不思議なことだよ
みんなそうだろう 
“一人で食ベるのは退屈だ"と 誰もが思っている 
“耐え難い役務"とまで言う人もいる 
ともあれ 私だって ホ一ムパ一テイ一を開く 
だが私のは少し変わっていて どれどれと嫌悪感を試す会になる 
“人の食ベているチ一ズなら 我優できるぞ" とかね 
 チ一ズ嫌いでしたね 
チ一ズ嫌いの中で チ一ズを我慢できるのは私くらいだろう 
逃げ出すこともなく チ一ズごと人を追い出しもしない 
チ一ズを好むのは どこかカニバリズムに通じている 
全くおぞましいね 
では 私の好きな食事は どんなものかというと一 
狂った纂になってしまうが 
いつも3つを挙げる 
崇高な食ベ物と思うが 嫌がる人も多いだろう 
まずは舌 
そして脳みそに骨髄だ 
いずれも 栄費価の高いものはがりだ 
畳髄を出してくれるレス卜ランがパリにも何軒かあるよ 
ただ量が多いから 他には何も食ベられなくなる 
ワクワクするだろう? 
それから脳みそと舌だ 
分がりやすく説明するならば一 
そう 三位一体だよ 
ちょっとした 小話みたいなものだが 
"脳みそ"とは... 
脳みそとは神 つまり"父"だ 
そして骨髄とは"子"だ 
骨髄は脊髄の仲間で 脊髄とは"小さな頭” 
そして頭が神だとすれぱ一 
骨随は"小さな頭"だから "子" イ工ス・キリス卜と言える 
すると舌は"精霊”になる 
舌は言語を司るというわけだ 
ここまで言えるかは 自信がないが一 
脳みそは概念だ すると一 
骨髄が“情動素"で 舌が"知覚素"だ 
あまり突っ込まないでほしいが こういう三位一体があって一 
それが私の 理想の食事になるだろうね 
 では老いに... 
この3つが 同時に出たことがあったかな 
誕生日なら用意してもらえるかもな 
まさにパーティ一だね 
 3つともは さすがに無理ですよ 
そうだね 
 毎日なんて とても... 
もう年だからね 
老いを巧みに語ったのは レイモン・ドゥヴォスだよ 
もちろん まだ語るベきことは 残っているだろう 
だが 彼はすばらしかった 
私に とっては老年こそ最高だ 
もちろん面倒なことも多い 
動きが遅くなるがらね 
しかし最悪なのは一 
"そんなに老いてないですよ!" と言われることだ 
不平を言う気持ちが 分かっていない 
"老いぼれた"と 私も愚痴ることがある 
老いの"力能"の話を しているつもりなのに一 
こらを励まそうと"まだお若いですよ"と返す奴がいる 
そういう時は 杖で 突いてやるがね 
“老いた”と文旬を言っていても"まだまだお若い"が欲しいんじゃない 
“ごもっとも”と返してほしい 
老いは純粋な喜びなんだよ 
だが なぜ老いは喜びなのか? 
冗談抜きで言うが一 
動きが遅くなる以外で 老いの何が耐え難いのか? 
苦痛と貧困だ 
本来 老いとは関係がない 
老いに悲壮感を 漂わせているのは一 
十分なお金もなく 十分に健康でもない 哀れな人々だ 
最低限の健康がなけれは 苦しみがら逃れられない 
老いとは別の問題だ 
老いは悪し、ものではない 
十分なお金があって 十分に健康であれば一 
老いはすばらしい 
では なぜ すばらしいがというと一 
老いとは“到達"だからだ 
大勝利とは言わずとも “到達した"ということだ 
世界には戦争やウィルスが 賽延している 
戦争やウィルスといった 様々な障害を乗り越えて一 
老いに達したわけだ 
老いると “である"だけが残る
“存在”だけが残る 
“である" のではなくて ただ “ある” 
老人とは 単に“存在する人”のこと 
"老人は無愛想だ"とが "不機嫌だ”と言うが一 
“ただ存在しているだけの存在”だ 
老いて その権限を手に入れるわけさ 
また老人だって "企画がある”と言うことができる 
だが それは0歳の企画とは違う
私は合作の本を準備している 
ーつは文学 もうーつは哲学をめぐるものだ 
だが同時に あらゅる企画から目由でもある 
もう昔のように傷付きやすくない 
若い頃と違って 老いると打たれ強くなる 
絶望しても たかが知れている 
いわば無関心になる 
人々を ありのままで 愛するようになる 
すると知覚が研き澄まされる 
以前は見もしながった点に 敏感になり 優雅さを感じる 
ょく見えるょうになるのは その人をその人として見るからだ
あたかも その人がら あるイメ一ジが出てくるというが一 
その人から"知覚素”が 抜さ出されたかのようだ 
こうして老いは 芸術に近づいていく 
日々が韻律を熱jみながら 疲労とともに進んでいく 
疲労は病気とは異なる 
死とも異なる 
繰り返しになるが 疲労は一日の終わりの合図である
老いには不安がつきものだが一 
避けれはいいだけだ 難しくない
狼男や吸血鬼のょうに 隠れて生きれはいい 
そういう生き方は嫌いじゃないね 
夜 寒くなり始めたら 一人になるのを避ける 
厄介を切り抜けるには 動きが鈍すきるがらね 
何よりすはらしいのは 目由になることだ 
もう社会に縛られることはない
なんたる幸せだろう 
社会に 束縛されていたわけではないが一 
老いて 退聰してし、ない者には一 
社会から解放された喜びは 分からないだろう 
もちろん 老人の不満は知っている 
老いを恐れ 退職に戴えられない人もいる 
なぜかは分からない 
ただ小説を読むだけて 何が発見があるといぅのに 
退職後にやることが 分からないというのは一 
日本人だったら話は別だが 私には信じられない 
すばらしいじゃないか

開放されるんだ 
体をちょっと揺らすだけで一 
これまで背負ってきたものが すペて落ちていく 
そして自分の好きな人だけが残る 
自分が愛し 我慢できる人一 
そして私を好きだという人も残る 
他は一切 消え去る 
繰り返しになるが 何かに囚われるとすベてが難しくなる 
私は目由てありたいし 今では 社会について一 
退鵬した生活を通してしが知らない
社会も私のことを知らない
社会とは完全に切れた状態だ 
今 最悪だと思うことがある 
私がまだ社会に層していると 思っている輩が すがすがと一
質問にやつて来ることだ 
このアベセデールは違うよ
これは老いた私の夢だからね 
だが 誰かにインタビューを 申し込まれれば一 
"頭でも狂ったが 私は老人で一 " 
"社会から解放されてるんだぞ" と言ってやりたい 
面白いね
一般的に ニつが混同されている 
“老い"ではなく “貧困と苦鸞'について語るベきだ 
老いて隷困に喘き 苦しむ状態を 表す言葉があるか分からないが 
老人でしがない老人とは"
 老入のイデア? 
それは"存在"だよ
 あなたは病み 疲れ 老いている 
まあね 
 3つを区別した上で伺いますが 周りの人の負担にはなりませんか? 
 若く 健康で 疲れてもいない お子さまや奥さまのことえすが
子どもたちが 
彼らに問題はない 
もっと若けれは 問題があるかもしれないが一 
もう自分一人で 生きていける年齢だ 
私も彼らの世話には なっていない
私が問題になっているとも思わない 
私があまりに疲れすぎていて 心配をかけてはいる 
だが子どもたちと 深刻な問題はない 
妻とも上手くいっている 
何の問題もないはずだ 
ところで 仮に一 
愛する人が別の人生を歩んでいた場合を 想像するのは難しい
妻は旅行を好んだと思うが
結婚後は目由に旅することが できなかったかもしれない 
しかし旅行しなかったことで 発見できたこともあるはずだよ 
彼女には文学の 膨大な知識があった 
そのおかげで いい小説を読み 発見をしたはずだ 
旅行に匹敵することだ 
何事にも問題はあるだろう 
だが 私の手には余るね 
 では最後の質問です 
 準備中の文学をめぐる本と 完成間近の「哲学とは何か」では一
 何を楽しみながら 執筆されているのでしょうか?
 きっと何が 面白いことがあるんですよね
そう すばらしいことがある
まず何事にも進化があって一
老いるとやりたいことが固まってくる
それがますます純粋になっていく
この点で思うのは 浮世絵師の描線だ 
日本の絵師たちだよ 
純粋で 線のみがある 
老人の企画はこれに似ている
まつたく純粋で 無でありながら 全である
本当にすばらしい 
簡素に至れるのは 老いてからだ
この年齢になってから “哲学とは何か"を探るのは楽しい
私だけが “哲学とは何が"を知っている
そう考えるのは愉快なものだ
もし私がバスに轢かれてしまえは 誰にも知りようがないけだ
悪くない気持だよ 
もちろん30年前でも “哲学とは何か"をめぐって書けただろう 
だが 30年前にしていれば
当時では...
 無理だった?
今考えているものとは 全く異なっていただろう
今は簡素になりたいと思うがらね
成功するがどうかは分からない
ても 今こそ 機が熟したと思っている
以前はできながったが 今なら書き上げられるだろう
もちろん まだ先の話だが 

。。。。。。。。。。。。。。。


ドゥルーズABC3

 3:神経科学 (Neurologie)/オペラ (Opéra)/教師 (Professeur)/問い (question)/抵抗 (Résistance)/文体 (Style)/テニス (Tennis)/一者 (Un)/旅行 (Voyage)/ウィトゲンシュタイン (Wittgenstein)/(未知数、言葉にできないもの (X & Y comme inconnues))/ジグザグ (Zigzag)
 1:動物/飲酒/教養/欲望/子ども時代/忠実さ
 2:左派/哲学史/アイデア/喜び/カント/文学/病気
 3:神経科学/オペラ/教師/問い/抵抗/文体/テニス/一者/旅行/ウィトゲンシュタイン/(未知数、言葉にできないもの)/ジグザグ

"A comme Animal," "B comme Boisson," "C comme Culture," "D comme Désir," "E comme Enfance," "F comme Fidélité," "G comme Gauche," "H comme Histoire de la philosophie", "I comme Idée, "J comme Joie", "K comme Kant", "L comme Literature,"M comme Maladie,"N comme Neurologie", "O comme Opéra", "P comme Professeur", "Q comme question," "R comme Résistance", "S comme Style","T comme Tennis","U comme Un", "V comme Voyage", "W comme Wittgenstein, "X & Y comme inconnues," "Z comme Zigzag"



 さてNは"神経科学"と"脳"です
神経科学と脳...
難しいね
 さあ どうぞ
私は神経科学に魅了されてきた なぜか?
アイデアを得る時 脳で起こることを知りたい
普段の脳の動きは単純で一
電気信号のビリヤードを しているようなものだ
アイデアを得る時何が? 
どのように頭の中を伝わるのか
他人に伝える以前に 頭の中でどう伝わっているのか
あるいは愚者の頭の中は ? 
アイデアを持つ者と愚者には 共通点がある
決まった愚者の筋道や 連合のパ夕一ンを持たないのだ
そこで何が起きているのか もし分かれば... 
やがて分かるだろうがね 
面白いのは一
脳では解決法が 極めて多様にあることだ
脳の両端にある神経も 互いに連絡し合う 
シナプスにおける 電気信号のブロセスだ
もっと複雑なケ一スもある
“不連続"あるいは “断層"だ そこで飛躍が起きる 
脳は幾多の断贋で満たされている 
だから飛躍がある 
確率的な意味における飛躍だ 
二つの連結の間にあるのは 確率的な関係だ
その関係は とても不確定なものだ
同じ一つの脳の中でも 伝達は根本的に不確定であり一
確率の法則に従う 
さて 私を思考させるものは何か?
人は新しいことを考えず 観念を組み合わせるだけだと言う...
(中断)
こう考えてみよう
例えば概念が与えられる時一
あるいは絵画などの芸術作品を 見る時の一
脳内地図を 作製してみなければならない
それらに対応する地図だ
連続的な伝達がどうなっていて一
不連続的な伝達がどう起きるのか 
一つ驚いたことがある 
君が聞きたいと思っている話とも 多分つながる話だろう 
物理学者がよく 説明のために使うものに一 
パン屋における生地の成形がある 
練桶に四角く収まっているのを 平らに伸ばしてから折り畳む
さらにまた伸ばして折り畳むことを 繰り返す 
こうして続けていくと 
最後はX回の変形がなされ一
憐接していた2点は一
(咳)
必然的にとても隔たったところに 引き離される
隔たった点同士も変形を無数に繰り返せば やがて隣接する 
そこでこう思った “人が頭の中で何がを探す時一"
“こうした撹拌が 起きているのでは”と
私があるアイテアを持つ時 脳に点があって一
この点をどう近けづればいいかは 分からない 
何度も変形していくうちに 点は隣接する
おそらく ある概念と一
あるいは芸術作品 言い換えれば精神の所産と一
脳のメカ二ズムの間には 類似性がある
それはとても感動的だと思うね
"考えるとはいかなることか"という 問いがある 
思考にも脳にも関わる問いで 両者は混じり合っている
だから私は 分子脳科学の末来を信じる
情報工学や どんな コミュニケ一ション理論よりもね
 あなたは19世紀の精神医学を いつも重視してきました 
 精神分析とは違い 脳神経科学に 関心を払っているからです 
 今も情神医学を 精神分析より重視しますか?
ああ
 神経生理学への関心ゆえですね
その通り
 今もずっと ? 
そうだ さっき言及したことだが 薬学もそうだ 
薬学が関係するのも一 
脳に対して及ぼされる作用や
分子レベルにおける脳の構造だ 
例えは統合失調症の患者には一 
観念的な精神医学よりも こちらの方が将来有望だと私は思う
 方法の問いですね つまり一
 諸科学の領城へ拡張していますが あなたはむしろ独学者です
 神経生理学の雑誌など 科学の学術誌を読まれますが 
 数学に精通してはおられない
 ベルクソンは数学を専攻しており スピノザも数学が得意でした 
 ライプニッツ野は言うに及ばず...
 あなたは どう対処しているのでしょう
 アイデアや興味を惹かれることがあっても
 すベてを理解できるわけではないでしょう?
そのことについては こう考えることにしている
私は確信するのだが一 
同じものにも多様な読み方が ありうる 
もちろん哲学からしてそうだ 
哲学書を読むために 哲学者である必要はない 
哲学書は二通りの仕方で 読むことが可能だ いや必要だ
非哲学的に読むことが 絶対に必要なんだ 
さもなけれは 哲学に"美"はない
専門家でない読者が 哲学書を読むことは...
哲学書の非哲学的読解は 何も欠けるものがない
それだけで完結している 
一つの読みとしてね
とはいえ 哲学にもよる
例えは 力ン卜を非哲学的に読むのは 難しい
スピノザなら大丈夫だ 
農民がスピノザを読むことは 十分ありえる 
商売人も読むだろう 
ニーチェももちろんそうだ 
私が好きな哲学者は皆 同様だ 
思うに "理解"する必要はない
"理解"は読むことの 一側面でしかない 
君が私に言ったことみたいだが一 
ゴ一ギャンらの偉大な絵を 評するためには
絵画に精通していなければ ならない 
よく知っていた方が良い 
だが無知である場合一
極めて真摯な感情を 極めて純粋で 暴力的な感情を一
観る者は抱くものだ 
何の知識も持たずに一
絵から雷の一撃を受けることは もちろんある
一切何も知らぬままにだ 
音楽に激しく感動することもある
何を喋っているが 分からない歌曲にもだ
例えは私は"ルルを聴くと 激しく感動する
あるいは"ヴォツェック" 
"ある天使の思い出に"などと 言ったらもう一 
最上の感動だ 
そう... 
もちろん一 
見識があれはその方がいい 
しかし 精神の領城において この世の重要なものはすベて一 
二重の読み方ができる
ただし 独学者として好き勝手に 読むのではなく
別の編で立てられた問題から出発して 読むならばだ
私は哲学者として 音楽の非音楽的知覚を持つ 
それが多分 私にとって 非常に感動的なことだ
同様に...
音楽家として または画家や他の何者かとして
哲学を非哲学的に読むことができる
この第二の読み方がなければ いや"第二”は間違いだ
この二つの読み方が同時になけれは 一
両翼のない鳥が飛ベないように うまくいかない
哲学者もまた 学ばなけれぱならない
偉大な哲学を 非哲学的に読むことをだ 
典型的な例はやはりスピノザだ 
スピノザの文庫を持ち歩いて 読むと一
偉大な歌曲を聴く時の感動を 与えてくれる 
そこて問われているのは 理解ではない
私が講義をする時も一 
明らかに 理解している者と していない者とがいる
万事同じで 本も理解できたり しながったりする
科学を理解しているかという 質問に戻ろう
確かにその通り 
ある意味 そこで 自分の無知の先端に置かれる
そこに留まらねはならない 
自分の知の先端 同じことだが 無知の先端にね
そこで初めて何事かが言える 
私は何を書くかを 前もって知っていない 
文字通り 何を話すかは 話してみて分かる 
関心が持てないということも あとから分かる
もし試しもせず 知らないことについて 知った顔をするなら
違う意味で 関心がないということだ
問題にしたいのは 知と無知の境界だ
そこに身を置くことで 何事かが言える
私にとっての"科学”も同じだ 
学者たちとは いつも上々の関係を 持つことができた 
彼らから見れば私は学者ではないが "うまくいっている"と言ってくれる
そう言ってくれるのは少数だがね
私がとても気になるのは "共鳴"とでも言うペきものだ
一つ例を挙げよう とても単純な例だ
私が大好きな画家の ドロ一ネ一がいる 
ドロ一ネ一とは何か? どのような定式で言えるだろう
ドロ一ネ一がしたのは何か?
彼は驚くベきことに気付いた
元に戻るが アイデアを持つとは何がということだ 
ド口一ネ一のアイデアは何か? それは一
光が自身の形象を形成する ということだ 
光の様々な形象がある
以前がらあったがもしれないが このアイデアはとても新しい
ドロ一ネ一に見られるのは 形象の創造一 
光が形成する形蒙の創造だ
彼は光の形蒙で描く 
他の画家とまるで違うのは一 
光がオブジェと出会う時に取る 様相だ 
これによって彼はオブジェから離れ オプジェなしの絵を描く 
彼はとても美しいことを言った
キュビス卜たちを厳しく批判した時 彼は言った
"セザンヌはオブジェを壊すことに 成功した"
“高杯を壊した"
“キュビス卜はそれを貼り合わせるのに かまける"と
つまり一 
重要なのはオブジェの抹消であり一
堅固で幾何学的な形象の代わりに 縮粋な光の形象を描くことだ
これも一つの事例だ
ドロ一ネ一 という絵画的出来事だ  
歴史的日付は大事ではない 
ここには "相対性"という側面がある 
相対性理論における相対性 という側面だ
この理論について 多くを知っている必要はない
独学は危険だが 多くを知る必要もない 
私はただ相対性のある側面を 知っているだけだ
つまり一
幾何学的な線に一
従属させるのてはなく 
そうではなく一  
光線はその軌跡に... 
光線は幾何学的な線に従属しない 
"マイケルソンの実験"がもたらした 転倒だ 
今や光縁が 一
幾何学的な線を基礎付ける 
科学的な見地における 一大変動だ
すペてが変わることになった 
光線は合や 恒常的な幾何学的線ではない
これは〝マイケルソンの実験”が示した 相対性のー側面でしかない 
ドロ一ネ一が相対性理論を用いた ということではない 
私は出会いを祝いたいんだ
つまり一 
絵画的試みと科学的試みの出会いだ 両者は無関係ではない
これと同じもう一つの例を挙げよう
リ一マン空間には 私の理解を超えるところもある
私が知っているのは一 
断片からその都度作られる 空間ということだ 
断片同士の接続は 前もって決定されない
さて これとは別の理由で 
私は... 
接続によって形成される空聞の 概念を求めている
決定されていない空間の概念
それが欲しかった
リーマンを理解するため 5年かけようとは思わない
5年経ったとしても一
私の哲学的概念の創造は 進まないだろうからだ 
それから私は映画に行き一 
奇妙な空間を見た 有名なブレッソンの映画の空間だ
この空間は総体的ではない 
その都度 断片がら構築される  
観客には独房など 空間の断片しか見えない 
「抵杭」の独房は 決してその全体が 映されなかったはずだ
「スリ」のリヨン駅の場面も すばらしい
ここでも様々な断片的空間が 接続する 
接続は前もって決定されない どうしてか? 
手探りでなされるがらだ 重要なブレッソンにおける"手"だ
つまり手が「スリ」において実際に一
素早く行き交い 盗品をかすめ取る
それにつれて小空間同士の接続を 決定する
ブレッソンがリ一マン空間を 用いるのではない 
そう...
出会いがあるということだ 哲学的概念と一
科学的な観念と 感性的な知覚素とのね
そういうことだ 
私が科学において知っているのは ちょうど一
出会いを評価できる程度のことだ
それを超えると 哲学ではなく 科学をすることになってしまう 
極論すれば 私は知らないことについて述ベる
知つていることとの関連においてだ
機転が必要な事柄だ 
度を超したり 知ったかぶりをしてはいけない
繰り返すが 私は画家たちと出会った
人生で最も嬉しいことだ だが直接会うということてはない
自分が書くことの中て 画家と出会うんだ
最大の出会いは シモン・アン夕イとだ
アン夕イは私に言った
“いいね 面日い”と お世辞じゃない
お世辞を言うような人物ではないし 知り合いでもない
出会いで何かが起きる
カルメロ・ベ一ネとも出会った  
私は演劇の経験もないし 知識もない
ここでも何かが起きたと 考えざるをえない
それから科学者たちとも出会い うまくいった 
また 私の本を読んでくれた 数学者たちが こう言ってくれた
“これでオ一ケ一です"とね
まずい言い方だったかな
まるで嫌な 自己満足みたいになったが
質問に答えようと こう言ったまでだ 
私が科学について よく知っているのか
知識を多く得ることができるのか という質問だった 
重要なのは目己満足などではなく 共鳴を起こすことだ
概念と知覚素と一
"機能・関数(ファンクション)"の共鳴現象だ
科学というものは概念ではなく 機能・関数(ファンクション)でなされるのだから
だからリ一マン空間が必要なのだし そのための十分な知識はある

      「マイケルソンの実験」の画像検索結果
マイケルソン・モーリーの実験マイケルソン・モーリーのじっけん、英: Michelson-Morley experiment)とは、1887年にアルバート・マイケルソンとエドワード・モーリーによって行なわれた光速に対する地球の速さの比(β = v/c)の二乗 β2 を検出することを目的とした実験である。

マイケルソン・モーリーの実験 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/マイケルソン・モーリーの実験
シモンアンタイはハンガリー出身で、20世紀後半を代表する抽象画家。 

アンタイ、シモン - 東京国立近代美術館 本館・工芸館企画展出品 ...

www.momat.go.jp/art-library/AI/name_detail.php?%20id=%2000785
アンタイシモン. 作家ID:: 00785; 作家名(和):: アンタイシモン 
 Hantai, Simon 
「アンタイ シモン」の画像検索結果
    「アンタイ シモン」の画像検索結果
    「アンタイ シモン」の画像検索結果
    「アンタイ シモン」の画像検索結果


ドローネー「コンポジション」
ソニア・ドローネ Sonia Delaunay
「コンポジション」
 1971年 銅版(カラーアクアチント)
 限定125部
 49.5×40.0cm(額装サイズ72.5×61.5cm) 
_________________


 Oは“オペラ“です
 オペラは 何というか 一
 ちょっと冗談めいた項目です
 ベルクの“ヴォツェック“や“ルル“を除けば 一
 オベラはあなたの専門でも 趣味でもないからです
 ベルクという例外については 後ほどお伺いします 
 イタリアのオベラを愛した フ一コ一やシャ卜レと違って一
 あなたは音楽 オペラを あまりお聴きになりません 
 むしろ 歌謡曲に 興味をお持ちですね
 特にエディッ卜・ピアフの シャンソンに
 ビアフヘの愛着について お話しいただけますか?
君もなかなか手厳しいね
私も一時期は よく音楽を聴いていた 
昔のことさ 
でも やめてしまった もうこれは無理だと思ったんだ 
お金もががるし 時間も取られる
私にはそんな時間はない やるべきことがたくさんあるんだ
嫌々やらされる仕事のことじゃない
私にはやりたいことがある
ものを書きたいんだ 音楽を聴いている時間はない 
じっくり聴いたりする暇はね
 シャ卜レは仕事中 オペラを聴いていました
ああ そういうやり方もある でも私には無理だ 
シャ卜レが仕事中に オベラを聴いたかは分からないよ 
人を接待しながらなら分かるよ 話にうんざりした時一 
相手の言うことを 音楽が遮ってくれるからね 
でも やっぱり 私の場合とは遣う  
そうだな 私の名誉のために 質問を変えさせてくれると嬉しい 
こういう風にね 
“歌謡曲と音楽の傑作との 共通点とは何なのか“ 
これなら私の興味をそそる  
ピアフはすばらしい声を持った 偉大な歌手だ 
それに 彼女の歌い方には癖がある
音程を外し 絶えすそれを挽回し続けるというね 
ある種の不均衡なシステムがあって 延々 挽回し続けるんだ 
どんなス夕イルの曲でもそうだ
それが大好きなんだよ 私がいつも問うていることだがらね
歌謡曲の場合だと その曲は 新たな何かをもたらしたのかと問う
それに…
どんな創作物についてであれ ます立てるベき問いはこうだ 
それは 新たな何かをもたらしたか?
そりゃ 延々同じことをやれは 上手くできるようになるだろう
でも 私はロブ=グリエの言う通りだと思う
バルザックは もちろん偉大な天オだが一”
"今日 彼のょうに小説を書くことに どんな意味があるのか"
"それに そんな所業はバルザックの小説を汚すだけだ"
何事についてもそうだ
ピアフがすばらしいのは 新たな何がをもたらしたところだ
フレエルとか誰かのような 前の世代と比べてね 
 ダミアとか?
フレエルやタミアと比ベ ビアフは新たな何をもたらしたのか
歌う時の衣装でも何でもいいよ
私はピアフの声にとても敏感だった
もっと最近の歌手だと一
シャルル・卜レネを 考えてみるといいだろう 
卜レネの歌の新しさとは 文字通り一
あんな歌い方は前代未聞だった という点にある 
これは大事なことなんだが…
哲学でも 絵画でも 芸術でも 曲でも何でも
あるいはスポーツでも スポーツの話はあとでするが
とにかく問題は同じだ "何か新たなことが生じているか?"
新しさは流行ではない 正反対だ 新たなことは流行りものではない 
たとえ流行になるとしても それは予期せぬものなんだ
それは人々を びっくりさせるものだ
卜レネがデビューした時 奴は狂人だと言われていた 
今日では もう狂人には見えない ても彼が狂人だった事実は一
ある意味 残り続ける
ピアフは偉大な存在だったと思う
 クロ一ド・フランソワは? お好きですよね
自分が正しいがどうが 分からないけれど一 
フランソワもまた 新たな何かをもたらしたと思う
名前は挙げないが 彼みたいなのは たくさんいた でも悲しいかな一
10回 100回 1000回と 同じように歌うだけで一
ちっとも声が良くなかったし 何がを探求する姿勢もなかった
新たな何がをもたらすのと 何がを探求するのは同じことだよ 
ピアフは何を探し求めたが 彼女の 虚弱さと偉大な生について言えること...
彼女が生の力の中に見たものや 
彼女を打ちのめしたもの ピアフは模範そのものだ
これまで言ったことは どれも ピアフに置き換えられる 
フランソワには注目していた 彼は何かを探究していた
歌のスべク夕クルという 新ジャンルを探究していて一
ダンス付きシャンソンを発明した 口パクなのは残念だったが一
おかげで音の探究が可能になった
でも 彼には一つ不満があった 歌詞がダメだったんだ
歌詞はやはり重要だよ でも その歌詞が貧弱だった 
彼はそれに手を加えて もつと良いものにしょうとした 
例えば"アレクサンドリ・アレクサンドラ"これは良い曲だ 
今の音楽には詳しくないが
でもテレビをつけると
テレビは引退した者の特権だ 反れたらテしビをつけるんだ 
チャンネルが増えるほど 互いに似通って一 
ひどくつまらないものになっていく 
競争という態度は 互いに競い合うのでなく一 
どれも似通ったつまらぬものを 延々と生み出すだけでしかない
それが競争だよ
どうして聞き手があれでなく これを選ぶのかを考えると一
もう ぞっとするね
あんなのはもう歌ですらない
全然 声が良くないしね でも嘆くのはやめにしょう
私を感動させるのは 跚曲と音楽に共通で一
それぞれの仕方で扱われる ある領域のようなものだ 
だが それは一体何か? 
フェリックスとは良い仕事ができた というのも一
"お前は 概念を作ると言うけれど一”
"とんな概念を作ったのが"と 尋ねられたら こう言えるからだ
"私たちは少なくとも一つ 重要な概念を作つたリ卜ルネロだ"
これこそが 歌謡曲と音楽の共通点だ
リ卜ルネロとは 例えばこんな小さな節だ
卜ラララ ララ ララ 卜ラララ どういう時これを口ずさむだろう?
私は合 哲学をしているんだ どういう時に口ずさむのがと聞う
そして つの編合に 口ずさむと答える
ます 自分の領士をぐるりと 巡っている時だ
ラジオをBGMに 家具の拭き撮除をしている時
つまり家にいる時だね
次に出かけている時 家に戻ろうとしている時だ 
日が落ちて 不安に襲われる頃 私は道を探しながら一
卜ラララと歌つて自分を勇気づける そして家ヘと向かっていく 
最後に一さよなら 私は行くよ… と 告ける時にも歌を口ずさむ
昔の流行歌さ "さよなら 私は行くよ 思い出を連れて...”
素を出てどこかへ行く時だね だが どこに ?
言い換えるとリ卜ルネロは私にとって一
動物と絶対に切り離せない Aの"動物"に戻ってきたね
領土の問題 領土への出入りの問題一
悦領土化の問題と不可分だ
私は自分の領土に帰ったり 帰ろうとする 
あるいは 自分を脱領土化する 外に出で自分の領士を後にする 
音楽と何の関係があるのがと 思うだろう 
概念を作るには頃に進む必要がある だから脳のイメ一ジを考えてみよう 
私の脳を例にとってみよう
私は 声と歌曲とは何かと疑問に思う 歌曲は昔から変わらない 
それは常に歌としての声であり 領土との関係に応じて高まるものだ 
私の領土 もはや私のものでない領土 
帰るべき領土...
歌曲とはそういうものだ シュ一マンであれシュ一ベル卜であれ一  
根源的にはそういうものなんだ 要するに債動だね 
音楽とは生成変化の物語... 生成変化の力の物語だ
そういうことだよ
天才的な音楽もあれは 凡庸な音楽もある 
だが 真に偉大な音楽とは何か? 
それは一つの操作 音楽の芸術家の操作だ
彼らはリトルネロから出発する 
これは最も抽象的な 音楽家にも言える
音楽家はそれぞれ 自分のリ卜ルネロの類型を持っている
彼らは小さな節から 小さなリ卜ルネロから出発する
ヴァン卜ゥイユとプル一ス卜を 考えてみるといい 
3つの音 それから 2つの音
ヴァン卜ゥイユの全曲 その七重奏の根底にはいつも一
小さなリ卜ルネロがある 
音楽の中 音楽の下に リ卜ルネロを見出さねばならない
それはすばらしいものだ そこで何が起こるのだろうが?
偉大な音楽家の場合
リ卜ルネロは一つ一つ 数珠つなぎになるのでなく一
より一層深いリ卜ルネロの中ヘと 漕け込んでいく
あれやこれやの領土のリ卜ルネロが すベて一
一つの巨大なリ卜ルネロの中に 組込まれる 
この巨大なリ卜ルネロは 宇宙のリ卜ルネロだ
シュトックハウゼンの 音楽と宇宙の関係についての発言
中世やルネサンスには 当たり前だった一 
それらの主題への彼の取り組みに 私は大賛成だ
音楽がある種の仕方で一
宇宙と関わり合っている という者えにね
さて 私の敬愛する音楽家 マ一ラ一を例にとろう 
"大地の歌"とは何が? 何とも見事な曲名だ
この曲では 生成の原理として 絶えず小さなリトルネロがある
牛の鈴の音の二つの連なりを 憂にしたようなね 
マ一ラ一で特に感動的なのは一
それ目体が天才的な音楽作品てある 小さなリトルネロが一
酒馨や羊飼いのリトルネロといつたものが一 
大地の歌という大きなリトルネロの中で 組み合わされるところだ
まだ例が必要ならバル卜一クを挙げよう
彼もまた音楽の巨人 とても偉大な天オだと思う
地万のリトルネロや 少数民族のリトルネロが一
作中で取り上げられる 
しがし 我々はまだ 彼の作品を探究し終えていない 
思うに音楽はどこか一 
絵画と結ひついている 両者はまさに同じものだ
"絵画は見えるものを再現するのでなく 見えるようにする"とクレ一が言う時一
見えない力が前提とされている 音楽家も同じことだ
彼もまた 聞こえない力を 聞こえるようにする
聞こえるものを再現するのてなく 聞こえなし丶カを聞こえるようにする
彼は大地の音楽を 聞こえるものにする 
あるいは それを作り出す
ほとんど哲学者のように 思考しえぬ力を思者しうるものにする 
生のままの自然の 荒々しい自然の力をね
そう 小さなリトルネロたちと一 
大きなリトルネロの合一こそが 音楽を定義する 
音楽には 宇宙的な次元へと 導く力があるんだ
例えは 星々が牛の鈴の歌や 羊飼いの歌を歌い出し一 
あるいは反対に 牛の鈴の音が 突女ロ 天上のさわめきの一
地獄のさわめきの高みへと 上っていく
そんなところだ 
 しかし あなたのご説明と 音楽的学識にもががわらず一
 リ卜ルネロは視覚的なものに 留まっているように思えます 
 あなたの関心は ずっと視覚的なものです
 聴覚的なものが字宙的力と 結ぴついているのは分かりました  
 でも あなたは演奏会に 音楽を聴きに行ったりしないのに一
 展覧会には 週に一度は足を運んでいる 
それは機会や時間がないからだよ 私が言えるのは ただ一 
私が文学で関心のある唯一のものは 文体だということ
そして文体は 純粋に聴覚的なものということだ 
私は君のように 視覚と聴覚を区別しない
確かに私は 滅多に演奏会に行がない
事前に咳を取ったりと 手間がかかるがらね 
こうした一切は 実際的な生活上の問題だ 
対して ギャラリ一や展覧会の方は 予約しなくてもいい 
それに演奏会は長すぎると感じる 私はあまり感度が良くないんだ
でも 私はいつも感動を味わう
君が間違っているという確信はないが やはり完全に正しくはないと思う
音楽が私に感動をもたらすのは 確かなのだから
ただ単に 音楽について話すのは一
絵画について話すよりずっと難しいということだ 
これほど難しいことはないよ 
 しかし 多くの哲学者が 音楽を語ってきました
文体は音響的であって視覚的ではない ただ響きだけが興味を惹くんだ
 音楽はすぐさま哲学と結ぴつきます 多くの哲学者が一 
 音楽を語ってきました ジャンケレヴィッチのように
ああ その通りだ 
メルロ=ポンティを除けば 絵画を語つた者は少ないのでは?
 少ないと思うかい? どうだろうね
確信はありません でも音楽は バル卜もジャンケレヴィッチも語っている
ああ 上手く語っていたね
 フ一コ一も
誰だって?
 フ一コ一です
彼はあまり音楽を語っていない それは秘密だったし 
隠してもいました 
音楽 との関わり は秘密だった 
 でも 彼は音楽と親しかった 
そうだ でもそれは全部秘密で 彼は音楽を語っていない 
 それでも 彼はバイロイ卜へ行ったり 音楽の世界と近かった 
分かった 分かった 
 ベルクのオベラの叫びに関心を持ったのはどうしてですか? 
ああ あれはどうしてだったか
そもそも どうして人は何かに 夢中になったりするんだろう? 
私にはなせだが分からない 
同じ頃 私は誰のだったが 交響曲を発見した ええと... 
ほら 年を取ると 名前が思い出せなくなる
ベルクの師匠の交響曲なんだが... 
シェ一ンベルクだ
私はその当時 彼の交饗曲を一 
ー回続けて 延々と聴いていることができた
どこで自分が感動するか 分かるようになったよ 
で それと同じ頃 ベルクを発見したというわけだ
一日中 ベルクを聴いていたりした なぜか? 
それはやはり大地との関わりの問題だろう 
マ一ラ一を知ったのはずっとあとだが これも音楽と大地だ 
すっと昔の音楽家を考えてみても 音楽と大地の関係が豊富にある
でも ベルクやマ一ラ一のように 音楽が大地と深く結びつくのは一
心揺さぶることだよ
大地の力を音にすること一 
それが"ヴォツェック"だ 偉大なテクス卜だ
それは大地の音楽であり 偉大な作品だ 
 
 
 二つの叫びについては ?
歌と叫ぴには関係があると思う
彼ら一派は 問いを立て直してみせた 
二つの叫びは何度聴いても飽きない "ヴォツェック"での大地をかすめる一
 一水平の叫びと一 一マーラ一の叫びですね
伯爵夫人の垂直の叫び いや 男爵夫人だったが 
 伯爵夫人です
"ルル"の伯爵夫人だ これらは叫びの二つの極みをなす
でも歌と叫ぴの関係にも興味がある 哲学にも歌と叫ぴがあるからね
哲学では概念こそが歌である
そして哲学的な叫びがある 唐突な叫びが 
アリス卜テしスは "立ち止まらねはならない"と言い 
別の者は"いや 私は立ち止まらない"と言う 
スピノザは"身体に何が出来るが 私たちは知らない"と言う
それは叫びだ
叫びと歌との関係は 概念と情動との関係に似ている
それは私を感動させるものなんだ
_____________



 P は"教師"です
 あなたは今64歳で 40年近く教師をしていました
 最初はリセで それから大学で 
 今年度は引退して最初の年 ということになります
 授業がないと物足り ないですか ?
 授業は生きがいだと 言っていましたね
 授業なしだと物足りないですか ?
いや 全然そんなことはない 
確かに授業は私の人生だった
私の人生のとても重要な一部だった 
授業は大好きだったが 引退すると やはり幸せだ
授業するのが 年々億劫になっていたしね 
授業をどうすれはいいがは とても単純だ
他の分野と同様 授業に必要なのは膨大な準備だ
これはいろんな活動の 秘訣でもあるのだが一
たつた5分か10分の ひらめきの時間を得るにも一 
たく さんの準備が必要だ 
そうした瞬聞がなも丶と~'~ 
私はいつも準備をしていたし 準備するのが好きだった
ひらめきを得るために 膨大な準備をしてきたんだ
年を取るLこつれて 準備に時間がががるようになった
ひらめきを得ることが少なくなった だがら潮時だつたんだよ
授業が面白くなくなった 昔は好きだったが一
段々必要なくなつていつたんだ
残されたのは譬くことだけだ 投業には思い残すことはない
でも 授業をするのは 丿D底好きだった 
膨大な準備と仰いましたが どれくらいの時聞てすが?
授業の準備はリハーサルみたいなものだ
劇や歌のように一
リハーサルをやるんだ 
しつがリハーサルをしないと ひらめきを得ることはてきない
授業とは ひらめきの時聞だ そうでないなら意味がない
鏡の前でリハーサルを?
まさが ひらめきのあり方は分野ごとに遣う
他に言い方がないんだが一
自分の言うことをきちんと頭に入れて それを面白いと思うことだ
喋っている本人が 面白いと思っていないとすぐバレる 
自分の言うことに夢中になるのは 簡単じゃない
これは自惚れるのとは違う
題材を見つけて 練り上け それを面白いと思わないといけない
自分に鞭打つことだって必要だ
問題は 扈材が面日いがどうかでなく一 
それを熱く語れるところまで 自分目身をもっていくことだ
これがリハーサルだよ
そういうことだ
段々リハーサルは要らなくなったけどね  
授業は かなり独特な場であって 一個の立方体 時空聞だ
授業ではたくさんのことが起こる
私が講漬会を嫌いなのは一
講潰会の時空聞は 吐`さすきるがらだ
授業は何退にもまたがっている
とても独特な空聞と時聞なんだ
翌週に続きがある
逃したらあとで取り戻せる というものじゃない
授業には内的な発展があるんだ
授業が進むにつれて 聞き手は変化していく 
受講生というのはとても面日いよ 
出発点がら始めたいと思います リセの教翼時代の思い出はありますか? 
もちろん 当時のリセは今とは違っていたからね  
今の若い教師はリセでぼろぼろになっている 
私は解放がら間もない頃 リセの教師をやっていたが 
当時のリセは全く別物だったよ 
一どこのリセですか? 一二つの地万都市だった 
一方は好きだったが もう一方はそうでもない
好きだった万はアミアンで 実に目由な街だった 
もう一方はオルレアンで こちらは厳格な街だった 
当時はまだ リセの哲学教師が一 
寛大に受け入れられていた 大抵のことは許された 
村の狂人 愚者のようなものだった 
やりたいことは何でもできた 生徒に音楽家を教えたりだよ 
当時 音楽論をやっていたんだ 誰も変に思わなかった 
今だと リセで そんなことはできない
 音楽論で 何を教えようとしたのですか?
 いつ授業でやったのですか?
カ一ブを教えるためだ
音を出すには鋸の刃で カ一プを作らないといけないからね 
生徒たちは このカ一ブの動きを とても面白がっていたよ
 無限のバリエーションの問題ですね 
そうだね
 ということは...
いや ちゃんと入試科目も教えていたよ まじめな教師だったからね
 ジャン・ホブレンと知り合ったのも その頃ですか?
ああ ホブしンはよく知つているよ
でも 彼は旅好きで留守がちだった
彼は腕時計が嫌いで小さな鞄に巨大な目覚ましを入れていた
目覚ましを鞄がら出して それを見ながら授業するんだ 
実に魅力的な奴だったよ
 教室では 誰と仲が良かったですか? 
私は体育が好きで 体育教師とは仲が良かったよ
あとは... もうよく覚えてないな
でも リセの教室も 変わってしまっただろうね
 生徒からすると教室は 謎に満ちた 量苦しい場所です
そんなことはないさ
まじめくさった連中もいれは 面白い奴もいるがらね 
でも 教翼室には あまり行かなかった 
 そのあと パリの名F言リセで エリ一卜学級の教師に? 
そうだ
 できの良い生徒を覚えていますが? 出世しなかったにせよ
出世しなかった人が...
 出世した人でもいいです
出世した人ね...
そうだな 生徒たちはよく覚えている
私の知る限り 教師になった者はいるようだが一 
大臣になった奴はいなかったね
警察官になったのは一人いたが
特別なことはない 皆 自分の道を歩んだわけだ 
そのあとソルボンヌ時代になります 
この時期 哲学史に 取り組まれましたね
そしてヴァンセンヌ大学です これは大きな転機となりました 
ソルボンヌのあとリヨン大学にもいましたね 
 リセの教員を経て大学に戻れた時は 嬉しかったですか?
嬉しいというのは違うかな ありきたりな経歴だったし
リセを去って またリセに戻ったら 劇的とまでは言わないが一
普通じゃないよね 挫折だ
大学に戻るのは当たり前のことて 別にどうってことはないよ
でも 大学の授業とリセの授業では 準備の仕方も異なりますよね? 
それはない
 同じだと? 
全く同じだ 私はいつも同じように授業する
リセでも 大学と同じように準備すると?
その通りだ どんな墳合であれ 自分の喋る題材にどっぷり浸かり一
それを好きにならないといけない
これは目然とできることじゃない
リハと準備が必要だ コツをつかまないといけない
これがながなが面白いことなんだ 
避けては運れない扉のようなものだ どこの教師であってもね  
つまりリセでの授業も大学と同じょうに 準備されていたということですが?
そうだ 私にはどちらも 本質的には遣わなし、
そう 同じことだ
ては あなたの博士論文について お伺いします
いつ提出しましたが?
博論を出したのは…
博論の前に ずいぶん本を書いた 博論がら逃れるためにね 
ょくあることなんだが 樽論に取り祖んているのに一
"先にこれをやらないと 急ぎだから" とが考えてしまう
それて先延ぱしにして ぎりぎりで提出したんだ
68年のあとに出された最初の博論の 一つだったはすだ 
 69年ですか?
そう69年だ 確がそのはすだ68年のすぐあとだ
私の審査はかなり異例だった 審査員の頭にあったのは一
運動蒙の残党たちがら 自分の身を守ることだけだった 
彼らはとてもぴくぴくしていた 年の事件のすぐあとだったがら
何が起こるが分からなかった
審査責長が こう言ったのを覚えている
"二つの選択肢がある"
"一つはソルボンヌのー 階で 審査を行うこと"
"出囗が二つあるという 利点がある"
"もし何かあったら 審査員は逃けられる"
"ただ ー階は学生たちが うろついているという欠点がある"
"もう一つの選択肢は2階でやること"
"学生はあまり 階に上がってこない という閤」点がある"
"しがし 出入り囗は一つしがない"
"何があつても逃げられない"
だがら審査の時 審査員長と 目が合うことはー度もなかった
彼はずっと扉を見ていたんだ
それは誰ですが ? 
学生が侵入してこないが 気になっていたんだね! 
審査員長は ? 
言わないよ 秘密だ 
実は知っています 
彼は とても魅力的な人だったよ 
審査では私以上に感動していた 
なかなかないことだ 特殊な状況だったしね 0
ても あなたは大半の審査員より有名だったでしょう? 
いや そんなことはないさ 
 博論は「差異と反復」 ?
そうだ
 プル一ス卜や二一チェの著作で あなたはすでに有名だった
 ヴァンセンヌ時代のお話に移る前にリヨンについて何がありますか?
ないね
ヴァンセンヌでは 何というか...
確かに一つの変化があった 
投業の準備や'丿丿丶の変化でも 授業スタイルの変化でもない
ヴァンセンヌに移ってがら 聴衆が学生だけじゃなくなった
これはヴァンセンヌの 良いところだ
他の大学が元通りになっても ヴァンセンヌは違った 
少なくとも哲学科はね 
そこには全く新しい夕イブの 聴衆がいた
学生だけじゃなくて いろんな年齢の 多様な贋業の人たちがいた
精神病院の患者のような人までいた
とにかく種々雑多な聴衆が
ヴァンセンヌでは 不思謙な統一感を見出していたんだ
ヴァンセンヌによって一 
多様であると同時に統一感のある 聴衆が存在していたんだ
ヴァンセンヌが それら雑多な人々に 統一感を与えていた
それが私の聴衆だつた 
他の大学に 移ることもできただろうが一
私はずっと ヴァンセンヌに留まった
他の大学に引き抜がれていたら 自分を見失っていただろうね
他大学を訪れると まるで19世紀に 夕イムスリップしたような気分だった 
ヴァンセンヌでは 多様な人々を相手に授業をした
若い画家や 精神病患者 音楽家一
麻薬中毒者 それに若い建築家もいた
国籍も様々で 年々多様化していった 
ある年はなせが オ一ス卜ラリア人が 急に5人も6人もやって来たが一
翌年にはいなくなっていた 
日本人はいつもいた 毎年 15から20人くらいはいた
それに南米人や黒人も
途方もない 夢のような聴衆だったよ
 哲学が 専門でない人にも向けられたのは それまでにないことでした
純然たる哲学が一 
哲学者とそうでない人とに 等しく向けられたんだ
絵画が画家とそうでない人に 向けられているょうに 
音楽が専門家だけの ものではないように
同じ音楽 同じべルク 同じベー卜一ヴェンが一
管楽の専門家でない人々にも一 
音楽家にも等しく差し向けられる 
哲学もまたそうあるペきなんだ
哲学者にもそうでない人にも 分け隔てなく向けられるものだ
哲学者でない人を相手にするのは 単純化するということではない 
ベー卜一ヴェンを門外漢向けに 単純化したりはしないだろう 
哲学だって同じことだ
哲学には二つの開き方がある
哲学的なものと非哲学的なものだ その両方がないとダメだ
でないと哲学には何の価値もない
 講演には 哲学が専門でない 聴衆もいますが一 
 講演は嫌いなんですよね ? 
講演が嫌いなのは不目然だがらだ 誰がと前後して喋らなL\といけない
授業は好きだけど 喋ること目体は嫌いなんだ
授業も喋り の一種ではあるけれど…
講濱で誰がと前後して喋るのは 授業のもつ純粋さがない
それに講演にはサ一カス的な面がある 授業にもそれはあるけど一 
授業の場合 楽しめるし もっと深みもある
講演には不目然なところがある
なせ人々は講演に行くのが... とにかく講演は嫌いなんだ
講潰をやるのは好きじゃない 
ひどく張り詰めていて一
不快で 耐えがたい 
講演は全然面白くないね
 では ヴァンセンヌの 雑多な聴衆に戻りましょう 
 そこには狂入や麻薬中毒者がいて一
 野蛮な仕方で介入したり 発言したりしていましたね
 でも あなたは困っているようには 見えませんでした
 介入をものともせす 講義を続けていました
 どの発言も あなたにとって 反論とはなりえなかった 
 あなたの授業には 教師然とした面がありました
 別の言い方をすれば いわゆる講義ということになる
さらに別の言い方をすれば一
授業について 二つの考え方がある
授業は 質問や発言だったり 聴衆の即座の反応を一
目的としたものだという者え方 
これは授業についての 一つの考え万だ
反対に 講義という考え方もある 教師が喋るわけだ
どつが好きだという問題じゃない 私に選択肢はない 
私は講義の形式でずっとやってきた 
もっと別の言い方が あるがもしれないが 
授業についての音楽的な考え方 ともいうベきものがある
上手でも下手でも 音楽の演奏を止めたりしないだろう
あんまり下手だと 止めるがもしれないが
普通 人は音楽は止めない 人の話は平気で止めるのにね 
ては 授業の 音楽的な考え方とは何だろうが?
経験上 私には二つの信念がある
音楽的な考え方が 最良とは言わないが一
それは私の考え方 聴衆についての理簾なんだ
その後ごすぐ理解できない学生が ょく~`るが 一
"遅れてくる効果"と呼ぷべきものがある 音楽のようにね 
聞きながら その場で理解できなくても一
3分 10分経つて分がつたりする 
その間 に何がが起こ つ たわけだ
授業の場合も その場では よく分からなかつたとしても一
10分後にハッと分かったりする 
遡及的効果が生じたわけだ
だがら途中て授業を遮るのは ばかげたことだと思う
質問したりするのもね 
分からないからと質問するより 分かるのを待てばいい 
中断が ばかけているのは 待つことをしないからだと?
そうだ それが私の一つ目の信念だ
その場で理解できなくても一
あとがら分がる可能性がある 
最良の学生は 次の週の授業で質問する学生だ 
私なりのやり方がある もともと学生が考え出したんだが一
学生が前の遍の授業について 質問をしてくれる
にの点をもう一度お願いします'とね 彼らはちゃんと待った 
彼らの言う通りにはしながったが そういうやり取りをしていたんだ
私の授業観の第二の重要な点は一
授業は2時聞半も続くけれど 一
そんなに人の話を聞くのは 無理だということ
授業は必ずしも 最初から最後まで すベて理解されるベきだとは思わない
授業は まさに 動く物質のようなものだ
だがら音楽的なんだ
そこでは個々の学生やグループが一 
自分たちに都合がいいものを つかみ取っていく
誰にも合わない授業というのは 良くない
でも 授業のすべてが 誰にても当てはまることはありえない
だがら自分に合うものを 待つ必要がある
授業の半分は眠つているくせに なぜか一
自分と関わるところでは起きてる 学生がいるのも納得がいく 
どの部分がどの学生の関心を引くのがを 予測することはてきない
授業とはエモ一ションだ
知性であり エモ一ションなんだ
それがないと 授業には何の価値もない
要するに 授業を全部闔き 理解する必要はない
自分に個人的に闔わるところて ちゃんと起きているのが大事なんだ
だから聴衆が多様であることが 量要になってくる 
関心を持つ人が次から次へと 移り変わっていくのが感じ取れる
そうして見事な生地が 出来上がっていく 
そう まさに繊物がね
まさに演奏会の聴衆のようですね
そうだ
 あなたは"ポップ哲学""ポップ哲学者"という語を生み出しました 
 フ一コー同様 あなたの身なりはとても独特でした 
 あなたの帽子や爪 声... 
 学生はそうした見た目を 神話化していたのです
 フ一コ一が神話化されたり一
 ヴァ一ルの声が 神話化されたょうに
 独特の身なりや声は 目覚的なものだったのですか?
ああ もちろんさ
授業における声というのは... 
そもそも哲学は概念を扱うもので一
投業で概念を声にする時には ある発声法が必要となる
当たり前のことだ 
概念を書く時の文体と同じことさ
文体を練り上げることなしに 哲学者はものを譬くことはてきない
哲学者は芸術家のようなものだ 授業には ある種の発戸法が一
ドイツ語には詳しくないが 一種の"歌い語り(シュプレッヒゲサング)"が必要だ 
そういうことだよ
私の爪について 神話化があるとしても一 
それはどんな教師にもあることだ 小学校にだってある 
もっと重要なことは一
声と概念との関係だよ
 でもあなたの帽子は ビアフの 黒いドレスのようにハマっていましたよ
そんなつもりで 被っていたわけじゃないが一 
そうした効果があったとしたら 嬉しいことだね
 それも教師の役割でしょうか ?
いや それは教師の役割じゃない おまけのようなものだ
教師の役割をなすのは一
すでに話したようにリハ一サルと本番でのひらめきだ
 あなたは派閥や弟子を望まなかった これには何か深い理由がありますか?
私は拒んでない 拒否は大抵 双方からなされる 
誰も私の弟子になりたくなかったし 私も弟子なんて欲しくなかったんだ
派閥はぞっとするね 理由は単純だ
派閥は時間を取られる 世話役をしないといけない
派閥をなした哲学者を考えてみょう 
例えばウィ卜ケンシュ夕イン学派 これはあまり面白くないな
ハイデガー研究者も派閥だ
派閥には 恐ろしい報復や排他性があり一
時聞の調整や管理運営を 求められる
ボ一フレらフランスのハイデガー学派と ド・ヴァ一レンらベルギ一の学派との一
対立を目撃したことがあるが 包丁沙汰だったょ
どれも本当にくだらないことだ 全然興味がないょ
派閤の長を考えるには一 
ラカンを見れはいい
彼もまた派閤の長だつたがらね
大変だよ 心配事が増える 派閥の運嘗には校狙さも必要だ 
私はそんなのは大嫌いだ 
派閥は運動とは正反対のものだ
単純な例を取ろう シュルレアリスムは派閥だった 
報復 裁き 追放... ブル卜ンは派閥を作った
でもダダは運動だった 
私の理想があるとしたら 実現できたわけじゃないが一
運動に参加することだ
そう 運動の中にあること 
派閥の長になるのは 全然羨ましくなんがない
運動こそ思想であって 一
署名付きの概念を作って 弟子に繰り返させることじゃない
重要なことが二つある 学生との間で可能な関係は一 
彼らに孤独であることの幸福を 教えることだ 
学生たちはしょっちゅう言う
"私たちは孤独だ もう少し交流しましょう"
だから彼らは派閥を求める
でも 自分の孤独を見据えないと 何もなし遂げることはできない 
彼らに孤独であることの利点を教え 孤独と和解させてあげること一 
それが私の教師としての役割だ 
もう一点は似たようなことだが一 
私がしたいのは 派閥を生む観念ではなく一 
流通してゆく観念 概念を 作り出すことだ 
流通すると言っても 陳腐になるという意味じゃない
いろんな風に使える 日常的な観念になるということだ
そのためには孤独な人々を 相手にしないといけない
自分なりに観念を加工し 必要に応じて用いる人たちをね 
それは運動を生む観念であり 派閥を生む観念ではない
そういうことだ
 今や偉大な教師の時代は 過ぎ去ったと思いますか?
大学は健全そうに見えない...
これといった考えはないよ もう辞めてしまったからね
私は大変な時期に大学を去った 教師らはどうやって授業をしているのか...
教師は管理職にされてしまった
現在の政策は明白だ 大学は研究の場であることをやめる
同時に研究と無関係な分野が 大学に押し入ってくる 
私の夢は 大学が研究の場であり続けることだ
大学とは別に いろいろな学校があればいい
薄記や債報処理を教えたりする 専門学校とかね
大学がそれらに関わるとしても あくまで研究の次元で関わるベきだ 
そうしたら専門学校と大学には 良好な関係が生まれるはずだ
専門学校を出た学生が 大学で研究の授業を受けるとかね
しがし 大学に専門学校の科目を 入れてしまラと一 
大学はダメになる 研究の場でなくなってしまう
運営業務に忙殺されるようになる
会議の数も増える 
今の教師はどうやって 授業の準備をしているんだろう?
多分 毎年同じ授業をするが 授業なんてやめてしまうかだろう
昔みたいに 準備しているならいいけど 
とにかく 研究の消滅というのが 今の大学の趨勢だ
大学の中で研究と関わりのない 非創造的な分野が台頭する
いわゆる大学の労働市場への適合 というやつだよ 
ても それは大学の役割じゃない 専門学校の役割だ 

_____________


 Q は "問い"です
 哲学は問いを立てるのに 役立ちます
 あなたによれば一 
 問いは 答えるためでなく 抜け出すためにあります
 新たな問いを創造することは 哲学史から抜け出すことです
 しがし 通常のイン夕ビュ一では一
 真の問いは立てられません
 どうやって この状況から 抜け出せばよいのやら
 メディアの問いと哲学の問いの 違いはどこにあるのか? 
 そこからお聞かせください 
これは難しいな
ええと...
難しいよ というのも... 
ほとんどのメディアや一 
日常会話には 問いや問題は 存在しないからね
質問ならある
"元気?"というのは問題ではない たとえ元気でなくてもね
"何時?"というのも問題ではない
それらは全部 ただの質問だ 
一般的なテしビを見ると一  
たとえ真面目な番粗であっても そこには質問しかない 
"これについてどうお考えか?" それは問題ではない
ただの質問だ "あなたの意見は?"とかね
だからテレビは面白くないんだ 人の意見なんてものは一
さほど興味深いものではない
"あなたは神を信じるか?" 
これも質問でしかない 
問題 問いはどこにあるのが どこにもないんだ
もしテレビ番粗て 問いや問題を 立てようとしたら一
がなり大がかりなものに なるだろう
滅多にないことだけどね
私の知る限り 政治番組は 全然問いを含んでいない
でも こう問うこともできる "中国の問題はどう立てられるか"
しかし そうは尋ねない 中国の専門家を呼んで一
現在の中国に ついて語らせる
中国語を知らすとも 簡単に言えるようなことをね
大したものさ 専門も何もありゃしない
私の話は後回しだ 山ほどあるからね 
さて 神の問題とは何だろうか?
"神を信じるかどうか"は違う 大して面白くもない
それは"神という語は 何を意味するのか"ということだ 
問いを思い描いてみよう
"死後に裁き を受けるのか?" 
これが問題たりうるのは一
神と裁きの審扱の間に一 
問題の関係を作り出すからだ
"神は裁き手なのか?" これは立派な問いだ
次のように言う人もいるだろう
パスカルが賭けについて 有名な文章を書いている
"神は存在するかどうか一" 
"人は賭けをする"
でも 実際の文章を読むと そラいう話ではないと分かる
彼は別の問題を立てている
彼の問いは"神はいるかどうか"ではない 
それも問いには違いないが あまり面白くない 
彼の問いは "最良の生き方とは何か"だ
神の存在を信じる者の生き方が一
信じない者の生き方が ?
パスカルの問いは 神の存在とは一切関わりがない
神の存在を信じたり 信じなかったたりする人間目身の一 
存在に関わるものだ
パスカルは 彼なり の明快な理屈から一 
神の存在を信じる方が より良い生き方だと考えたわけだ 
それがパスカルの関心事だった 
そこには 問題 問いがある 
いいかい これはもう神の問題ではない 
次々変換される問いには 一つの物語が潜んでいる 
ニーチェが神の死を語る時も 神の不在を言っているんじゃない
では 神は死んだと言う時一 
それは どんな問いに 結びつくのか?
ニーチェを読むと 彼にとって 神の死はどうでもよかったと分かる 
彼はそれを通じて 別の問いを立てた 
神が死んだなら人間も死んだ ということになる 
人間に代わる何がが必要になる 彼の関心は神の死でなく一 
人間以外の何かの到来だった 
これが 問い 問題を立てる技法というものだ  
それはテレビやメディアでも 可能だと思う
でも かなり特殊な番組に なるだろうね
問いや問題の下には 物語があるけれど一 
日常の会話やメディアでは ただの質問に留まってしまっている 
どうせ死後公開だし 番粗名を挙げると一 
「真実の時間」だ あれは質問しかない 
"ヴェイユさん あなたは欧州の力を 信じていますか?"と言ったね 
一体 何を意図してるのか
面白いのは 欧州の問題とは何か ということだよ 
欧州の問題は一 
今の中国と同じことになる 気がしている 
番粗の連中は 欧州統合の 準備しか頭になくて一
いざパリの街頭で 欧州各地がら 集まった群衆と一緒になっても一 
うまく状況を把握できないので 専門家を呼んで話を聞く 
"なぜここもこオランダ人がいるのか 説明してください" 
"それはですね...”といった具合に
彼らは 問いを立てるベきところで それを避けてしまうんだ 
分かりにくいかな... 
 いいえ 
 最近は新聞を あまり読まないそうですね 
 新聞やメディアも 問いを立てていないような... 
私も忙しいからね
 一新闔はぉ嫌い ? 一嫌いだね 
何かを学んだという感じが しなくなってきた 
私は教わりたいと思っている 
物事に疎いからね 
新聞も教えてくれないとなると どうしたらいいのか
 でも ニュース番組は...
 二ュ一ス番組だけは欠かさず ご覧になっているそうですが一 
 見ながら問いを立てたりしますか?
 メディアが忘れている問いを?
どうだろう
分からないね 
 でも 問いがないことは 分かるのですよね?
結局 問いを立てるのは無理なんだ 
例えば 卜ゥヴィエ事件について 問いを立てるのは不可能だよ 
なせ今頃 卜ゥヴィエを逮捕したのか
"なぜ教会に隠れていたのか”と 誰もが口にしたが一 
取引があったのは明らかだ  
戦争中 彼は民兵団の情報部長で 教会のお偉方の行いも知っていたはず 
何を知っているかは明らかなのに 誰もそれを問わなかったし一 
今後も問わないだろう
いわゆるコンセンサスというやつだ  
問いや問題でなく 質問で済ませるのが一 
礼儀に適っているというわけだ 
"調子はどうですか?"とか一  
"なぜこの教会が..." といった質問でね 
それが問題ではないと 皆分かっているのに... 
 そうでしょうか?
皆分かっているよ 最近の例を取ろう 
右派の改革派と 右派の党機構との関わりだ 
新聞は何も語らない 誰もが知っているのに
右派改革派に 実に興味深い 問題があるのは明らかだよ 
年齢が若いわけじやないが 改革派には若々しさがある 
パリに一極化した党機構を 変えようとしているからね  
彼らは地方自治を望んでいるんだ 
これはとても興味深いことなのに一 
誰もこの点を強調しようとしない 
彼らが望むのは欧州との接続だ 国家からなる欧州でなく一
地方からなる欧州だ 
彼らの望みは 国家や国家間でなく 
方や地方間を単位とすることだ
これが問題というものだ  
社会主義者も この地方と国家という 問題に直面するだろう 
だが 党機構や組合の地方組織は一
まだ古臭いやり方のままだ
パリに一極化していて とても中央集権的だ 
右派改革派は 反ジャコバン的運動だよ 
左派もそうなるだろう
これこそ改革派に 語らせるベきことだ
でも 彼らは拒むだろう
そうすると 相手に隙を 見せることになるがらね
だから彼らは質問に答えるだけだ
質問は ただの会話でしかない 
質問は全く面白くない 
会話や討論に は何の価値もない 
テレビは原則として 討論や質問しかできない
テレビが嘘をつくとは言わないが くだらないものだ 
何の価値もない
 私はもっと悲観的です アンヌ・サンクレ一ルは一 
 上手い問いを提起していると 思い込んでますよ
それは彼女自身の問題だ 確かに彼女は自惚れている
でも 私には閤係ない 
 あなたはテレビに出ませんね?
 フ一コ一やセ一ルは出ています ベケッ卜風の隠遁ですか?
 テレビはお嫌い?
 どうして出ないのですか?
今まさに出ているよ 
テしビに出ない理由は すでに言ったように一 
会話や討論はしたくないし 質問には耐えられないからだ 
興味がないんだ 討論は耐えがたいよ 
何が問題か分からぬまま 討論をするなんて...
例えば神の話だと 何が問題になるのか?
神の不在と死か 人間の死か 
神の存在か 神を信じる者の存在か ?
ごたまぜで 骨が折れる 
めいめいが順番に話すなんて一
まさに奴隷状態だよ おまけに司会はバカときた 
惨めだよ 
 でも 私たちの質問には 答えてくださっている...
死後発表としてね
________________ 


 Rは"抵抗"です "宗教"ではありません 
そうか
 FEMISの講演で あなたは 哲学は概念の創造だと言いました 
 創造することは すなわち 抵抗することであり一
 芸術家 映画監督 音楽家 数学者 哲学者も皆 抵抗するのだと 
 だが何に抵抗しているのか?
 個別に検討していきましょう
 哲学は概念を作りますが 科学も概念を作るのでしょうか?
答えは否だ これは語の問題だ
"概念"の語を哲学で 用いることにしたら一
科学的な観念を指すには 別の語を用いないといけない 
芸術家も概念を作るわけではない
画家や音楽家は概念ではなく 別の何かを作る 
科学についても別の語が必要だ
科学者は“機能=関数”を作る 他に良い語があるかもしれないが一
彼らは新たな"機能=関数"を作る それらもまた作られるものなんだ
アインシュ夕インやガ口ア 偉大な数学者はもちろん一 
物理学者や生物学者も 機能=関数を作る 
なせそれが抵抗になるのか? 創造が抵抗になるのか?
芸術の場合だと分かりやすい
科学の立ち位置はもっと曖昧でちょっと映画に似ている 
科学は政策や資金の問題に がんじがらめになっていて一 
抵抗の部分は…
いや それでも偉大な科学者は やはり偉大な抵抗者だ
アインシュ夕インや現代の物理学者 生物学者を考えれば明白だ 
彼らはまず甘い誘惑や 世論の意向に抵抗する
ばかけた質問の類いに 抵抗するわけだ
彼らは 自分のイズムを押し通すだけの 強靭さを持っている
何でもいいからさっさと成果を出せ と彼らに強いることはできない
芸術家をせき立てることが できないのと同じことだ
思うに創造することが 抵抗することなのは…
実は 最近ある作家の本を読んで 大きな衝撃を受けたんだ
芸術や思想のモチ一フの一つは "人間であることの恥"だと思うが一 
芸術家や作家の中で これを最も深く突き詰めたのが一
プリ一モ・レ一ヴィだ
彼は極めて深い次元て この恥を語ることができた
彼は絶滅収容所がら生遠したあとで それを語ったからだ
"解放された私を満たしたのは 人間であることの恥であった”と
実に壮麗で美しい言葉だ 
ここでは人間であることの恥は 抽象的でなく 極めて具体的だ
それは人々が思うような 愚かしさではない
我々は皆 殺入者であるとが一
我々は皆 ナチズムに 貴任があるという意味じゃない 
レ一ヴィは見事に語つている
“加害者も被害者も 同じだということではない"
“我々皆に罪があるという言葉を よく耳にしたが とんでもない' 
“加害者と被害者を 混同することはできない" 
だから人間てあることの恥は一 
我々は皆 同様に加担した という意味じゃない
それはいろんなことを意味している 一枚岩でない複雑な感情なんだ
人間であることの恥は 同時に二つの感情を意味する 
ます なぜ人間である彼らに あんなことができたのかという思い 
次に なぜ私目身は 妥協をしてしまったのかという思い
自分は加害者でこそないが 生きびるための妥協をした 
生き延びることのできながった 友人たちに代わって一
生き延びてしまつたという ある種の恥の感情だ
人間であることの恥は とても複雑な感情なんだ
思うに 芸術の根底には一
人間であることの恥という 強烈な感情がある
だがら芸術は 生を解故することを目指す 
人間は絶えず生を閉じ込め 殺そうとしてきた
人間であることの恥だよ 芸術家は生を解放する
芸術家個人の生ではなく ある力強い生をね
 では芸術家と抵抗から 再開しましょう
 つまり人間であることの恥の役割…
 芸術は この恥という監獄から 生を解き放つわけです
 芸術は生を昇華するのではない それはまさしく抵抗です
昇華とは違うよ 
芸術は生を解き放つものだ 
これは抽象的なことじゃない 偉大な小説の人物を考えてみよう
それは実在の人間を 膨らませたものではない 
「失われた時を求めて」のシャルリュスは 実在のモンテスキュ—男爵を一
プルーストの天才的な想像力によって 膨らませたものではないんだ 
それは並外れた生の力なんだ
たとえそれが 悪い方に向かうとしてもね
小説の人物は一種の巨人だ 自らの内に世界を含んでいる
それは生に対しての誇張であって 芸術に関する誇張ではない 
芸術は生に対する誇張を 作り出すものだからね
そうした誇張の存在だけで 芸術はすでに抵抗たりうる 
さて Aの"動物"のテ一マに 戻ってきた 
書くとは常に 動物のために書くことだ 
動物に向けてではなく 動物に代わって書くこと 
動物は書くことができないからね 
人間が閉じ込めた生を 解放すること一 
それが抵抗するということなんだ 
芸術家のやることを考えると よく分かる 
つまり 芸術はすべて 生の力の解放だ 
死の芸術というのは存在しない  
 芸術が力及ばぬこともあります レ一ヴィは自殺しました 
 ずっとあとになってからですが 
彼個人は自殺した
彼は衝撃に耐えきれず 彼個人の生に終止符をった 
でも 彼の書いた4頁 12頁 いや100頁の文書は残り一 
永遠の抵抗であり続ける 起きてしまったことに対するね
私が人間であることの 恥と言うのは一
レ一ヴィが言うような 壮大な意味においてばかりではない
あえてこんなことを言うのは一 
私たちの日々の暮らしの中に一 
人間であることの恥を思い知らされる 些細な出来事があるからだ
誰かの下劣な言動を前にした時 事を荒立てずに済ますと一
彼に対して また自分自身に対して 恥ずかしい思いをする 
相手の言動を認め 妥協したことになるからね
もし"お前の発言は卑劣だ"と 抗議しても一
喧嘩になって 相手の思う壺になる 
アウシュヴィッツと 比ベるベくもないが一
些細な次元でも 人間であることの恥 というものはある
そうした恥こそが 芸術をやる理由だ
そうとしか言えないよ
 では 何かを創造する芸術家は 常に至るところで一 
 そうした危険を感じていると ? 
もちろん 哲学だって同じことさ
ニーチェも言っているよ
哲学は愚がさを痛めつけることであり 愚かさに抵抗することだと  
もし哲学がなけれは それは 食後の会話のネタに成り下がる
哲学がないと 自分がどれくらい 愚かなのが分からなくなる
哲学は愚かさが拡大するのを 防いでいるんだ
それが哲学の偉大さだ
哲学がないとどうなることか... 
芸術がないと 人々がどれほど 下劣になるかわからないように
だから 創造とは抵抗だと言うのは 現実的な話なんだ 
芸術がないと世界は別物になる 人々は自分を保てなくなるだろう
哲学を読むかどうかにかかわらず ただ哲学が在るということだけで一
人々が愚かになるのを防いでいる 
 思想の死を語る人がいますが... 
 思想の死 映画の死 文学の死だとか 言う人々がいるわけですが一 
 これは滑稽ですか?
死なんてない 殺害があるだけだ
映画を殺すことは可能だろう
でも 自然に死ぬなんてことはない 
理由は簡単だ
あるものが哲学の役割を 担えなくなったとしても一 
哲学はず生き延ぴる
別の何かが哲学の役割を引き継げば それもまた哲学だからだ  
もし哲学が概念を作ることで一
愚かさを締めつけ 防げるものだとしたら一
どうして哲学が死ぬことを 望むのか?
哲学を妨げ 検閲し 殺すことはできる
ても 哲学には役割がある 哲学は死なない
私にとって 哲学の死は ばかけた くだらない考えでしかない 
幸い哲学が死ぬことはない
そもそも“哲学の死”とは何なのか?
私にとって それは弱々しい 他愛のない考えでしかない 
子どもじみた... 
要するに 物事は変化すると 言っているだけなんだ
では 何が哲学に代わって 概念を作るのか?
私に 概念を作るのを 禁じることはできる 
するとかさが幅を利かせ 愚者どもが哲学の皮をかぶる
では 何が概念を創造するのか? 情報科学だろうか?
広告業者だろうか?
コンセプト 彼らも"概念”の語を用いる
食品メ一カ一にも 宣伝の概念があるというわけだ
広告が 哲学の強カなライバルになることはないだろう
概念という語が 同じ意味じゃないがらね
でも 広告は哲学のライバルを 気取っている 
“我々こそが概念を作る”と 言い張っているんだ
ても 情報科学やコンピュー夕の 概念なんてものは一
お笑い種だよ 彼らの言う概念なんてね
そんなもの相手にしなくていし、
 あなたとガタリやフ一コ一は 概念窮鰐重なしていたのでは?
レジスタンスの組織網や一
紋切り型の支配的思者に抗う 戦争機械のように
ああ もちろんだ その通りならすばらしいことだ
学派を作らないとしたら 網しか選択肢はないだろう
繰り返すが 学派は好きじゃない 
学派を作らないなら 網や共謀というやり方しがない
これはいつの時代も同じだよ
ドイツロマン主義も ロマン主義全般も網だし
ダダイズムも網だ
今日にも網はあるはずだ 
 レジスタンスの組織網とか?
まさにね 網の役割は 抵抗すること 創造することだ
 あなたは有名人なのに 地下に潜っているのが好きですね?
有名なんかじゃないよ
地下に潜っているとは思わない 私は知覚しえぬ存在になりたい
知覚しえぬものになりたい人は多いよ 私だってそうだ
知覚しえぬものになるのは すばらしいことだ
これはほとんど個人的な問題だよ
私の望みは自分の仕事をすること
誰にも邪魔されず 余計な時間を取られないことだ 
でも 人にも会いたい 私だって人は好きだからね
とはいえ限られた人たちだけど
会うなら 一切心置きなしに 会いたいものだと思う
知覚しえぬ人々との知覚しえぬ関係ほど 美しいものはないよ
我々は皆 分子であって 分子が網をなしているんだね 
 哲学の戦略はありますか?
 今年はライプニッツ論を書きましたね これは戦略的な選択だったのですか?
戦略が何を意味するかによるね 
人は必要性なしに書きはしない 
もし必要性を感じていないのなら 本なんて書かない方がいい
ライプニッツについて書いたのも それが必要だったからだ 
説明は省くけれど ライプニッツでなく 襞について一 
語るベき時が来たんだが一
私の中で襞はライプニッツと 密接に結びついていたわけだ 
どの本も どんな必要性があって 書いたのか説明できるよ
 私が聞きたいのはむしろ 哲学 特に哲学史への回帰です
 映画論や 「千のプラ卜一」「アンチ・オイディプス」を経て…
哲学への回帰なんてないよ だからさっきのように答えたんだ
ライプニッツの本を書いたのも一
襞とは何かを考えるベき時が 来たというだけのことさ
私が哲学史をやるのは それが必要な時だ
つまり それ自体哲学と結びついた ある観念と出会った時だ
“表現”の観念に夢中になった時 スピノザの本を書いた 
スピノザは"表現”の観念を 極めて高い次元まで高めた哲学者だからね 
“襞”の観念と出会った時は
ライプニッツを題材にするのは 当然のことだったよ
哲学と無関係な観念が相手の時は 哲学史をやりはしない 
私には哲学史の本を書くのと 哲学の本を書くのに違いはない
そういう意味で 私は我が道を行くと言えるね 


_____________________

 次はS "文体"です。 
それはちょうどいい
 「ディアロ一グ」では一
 "バルザックのように 文体がないと言われる人の特性が 
  “文体"であると 言っていましたね 
 文体とは何でしょうか?
驚しい問題だ
 だから簡潔に質問しています
私の考えでは一 
文体が何であるか理解したいなら 言語学を忘れなければならない
言語学には多くの弊害がある 
というのも フ一コ一の言う通り 文学と言語学は対立している
だからこそ 補い合ってもいるのだが
常識とは反対に 両者は一致しない
言語学にとって 言語とは 平衡状態にあるシステムだ 
だからこそ それは学問になるわけだが一
残りの様々な変異は
発話(パロール)の側に置かれる
ところで ものを書く時 私たちは言語が一
システムであることを よく知っている
それは物理学者が言う ところの一
非平衡システムだ
だから一
言語(ラング)は発話(パロール)と 異なる水準にあるのではない
言語(ラング )自体が一 
互いに平衡状態にない 様々な慣用から構成されているのだ
ては 偉大な作家の 文体とは何か?
私の考えでは 文体には二つのものがある
もちろん非常に簡単に言えば ということだが
文体は二つのものから成る
人は話したり書いたりする時 言語に何らかの加工を施している
やりたいように無理矢理に 加工するわけではない
作者の意志とが 願い 欲望 欲求 必要性など一
あらゆるものを結集して 行われる加工だ
言語は構文上の加工を施される 
独特な加工だ
これはおそらく “動物”のテ一マに通じる話だ
問題は 言語を“吃らせる”ことだ
自分が吃るのではなく 言語を吃らせること
吃ることと囗籠もることは異なる
偉大な文体家を例にしょう 
詩人のゲラシム・ルカは 吃らせる夕イプだ 
自分が吃るのではなく 言語を吃らせる 
それから一
ペギ一だ 
彼が面日いのは 変わった個性の持ち主だからだ
忘れられがちだが一 
ペギ一はあらゆる偉大な 芸術家と同様 全くの狂人だ
彼のように書く人はいなかったし これからも出て来ないだろう 
彼の文体は フランス語文体の中でも 優れて創造的だ
ペギ一は何をしたが 彼の文体は吃ってはいない
彼の文体のすばらしさは 文章を中心から増やすことにある
ただ文を続ける代わりに 中心に一つフレ一ズを加えて一
同じ文を繰り返し さらに一つフレ一ズを加え一
同じ文を繰り返す
フレ一ズの挿入によって 文を増殖させる
これが優れた文体というものだ
以上が文体の第一の側面だ 
言語に驚くペき処理を施すこと
これが第一の点だ
だから偉大な文体家とは一 
構文を守る作家のことではなく 構文を創造する作家のことだ 
プル一ス卜が言った通り “名著は常にある種の一"
“外国語で書かれる"というわけだ
文体家は自分の言葉で外国語を創造する
セリ一ヌやペギ一など 有名な文体家は皆そうだ
文体の第一の側面は 構文をねじ曲けることだ
構文は加工されてゆがめられる
ただし それは 必然的な加工であって一 
そうすることで 書き言葉の中に 外国語が生まれる
そして それと同時に これが第二点目だが一
言語が音楽と言語の境界にまで 押しやられる
その結果 ある種の音楽が生まれる これが文体の第二の側面だ
以上の二つが満たされ また そこCこ必然性がある時一
それは文体と呼ばれる 
優れた文体とはそういうものだ 
文体家は二つのことを 同時にやっている 
言語の内に 外国語を埋め込むこと 
そして言語そのものを一 
音楽的な境界にまで 至らしめること 
文体があるとはそういうことだ 
 自分には文体があると 思いますか?
そうきたか
 初期に比ベると あなたの文体は 簡潔になってますね 
変化することは文体の証しだ
大抵は徐々に 簡潔な文体になる
だが簡潔になることは 単純になるということではない
私がすごいと思うのは ケルアックの文体だ
晩年のケルアックの文体は 日本画の線のようだ
日本画のように 全く簡潔な線を描く
簡潔さの極みだ
そこにはまさしく 言語の中での 外国語の創造がある
セリ一ヌにも同じことが言える
"話し言葉を書き言葉の中に 持ち込んだのですね"
などとセリ一ヌが言われたのは 変な話だ 
というのも 話し言葉を "書く"ためには まずもって一
言語の内部で 外国語を 創造する必要があるからだ
"セリ一ヌは言語に話し言葉を 持ち込んだんだ"
と言うのは ばかげている
そのように称賛された時一
セリ一ヌは 全く満足していなかった
だがら作目の 「なしくずしの死」では一
求めるものに近付こうとした
だが それが出版されると一
作風を変えたんですね と言われてしまう
セリ一ヌは まだ満足していなかった
「ギニヨルズ・バンド」で やっと満足する
その時 言語は極致に至り 音楽に近いものとなった
それはもう外国語の創造ではなく 音楽的極致への移行だ
このように 文体とは変化するものだ
文体には変化がある
 ペギ一にも言えることですね 管楽的反復という点では一
 スティ一ブ・ライヒにも 通じるところがあると思います
その通りだ もちろん ペギ一の方が優れているが…
 では あなたに 文体はあるのでしょうか? 
そう願いたいね どう答えて 欲しいのか分からないが
文体家であるためには一 
文体の問題に 取り組んでいる 必要があるのだとすれば一 
私は文体の問題に 取り組んできた と答えることはできる 
“文体は あとからついてくる" とは思っていない
文体がなけれは 私の望むような 概念の運動は一
得られないだろう
 構成については?
同じ頁を10回 書き直すくらいはできる
(中断)
 文体とは構成と同様に 必要なものなのてしょうか?
 つまりあなたにとって構成は一
 一番重要なものなのでしょうが
言いたいことは分かるが それはまた別の問題だ 
本の構成はそれだけでもう 文体の問題なのか?
もちろんそうだ
構成は前もって決められない
本が出来上がるのと同時に 生まれるものだ
私の書いたものの中から あえて例を挙げれば一
構成にこだわった本が 二つある
例えは 「意味の論理学」は セリーから構成されているが 
私にとってあれは ある種のセリエルな作曲なんだ
それがら「千のプラ卜一」も 事物のプラ卜一でできている
この二つは私にとって どちらも楽曲のようなものだ
構成は確かに文体の重要な要素だ
 先ほどの話に戻ります 
 あなたは今 20年前に書きたかったものに一 
 近付いているのでしょうか?
 それとも そうではないのでしょうか?
今現在は 近付いたように感じる 
まだ書けてはいないがね 
求めていたものや これまで見出せなかったものが一
多少は得られた感じがする
 著作以外でも あなたはスタイルに敏感ですよね
 例えばファニ一夫人や一 
 友人のジャン=ピエ一ル氏の 優雅さについてはどうでしょう
彼らにはかなわないよ 
私も優雅でありたいが そうでないことは分かっているからね
私にとっての優雅さとは それを"見抜く"こと つまり...
優雅なものを見抜くことは それだけてすでに優雅なんだ
そうでなけれは 優雅ではないものを一
優雅だと思っている人が いることになる 
驚くベきことに 見抜くことが すでに優雅さの一部なんだ
そしてそれは 多くのことと同じように一 
素質や学習が必要なことだ
ところで どうしてこの話に...
 どんな分野にも文体はある
ああ もちろんそうだ
とはいえやはり一 
必要なのは一
そうだな ええと... 
必要なのは...
ええと つまり一
私は優雅なものだけに 心動かされるのではない
社交においては サインを発する すベてのものが重要なんだ
優雅でない粗野なものですら サインを発する
私にとって より重要なのは サインの発信だ
私が昔からずっと一
プル一ス卜に惹かれているのは たぶんそれだからだろう
社交関係とは 信じられないような サインのやり取りのことだ 
失言と呼ばれているものは サインへの無理解 つまり一 
人々が理解しないサインを 発してしまうことだ 
社交界での厖大なやり取りは 臨?で何の役にも立たないが一 
サインを発することの本質 つまりその速度は一 
動物の世界にも通じる 
なせなら 動物界にもまた一 
信じられないような サインの発信があるがらだ 
動物も社交の名士も サインに習熟している 
 あなたはあまり外出しないのに 内輪より社交がお好きですよね
社交の場には議論がないからだ 彼らにはそうした粗野さはない 
そこでの会話は全く一 
上辺だけのものだ
次から次へ色んな話題が飛び交う 
そうしたサインのやり取りは とても面白い

______________


 次はT "テニス"です 
テニスか...
 昔からずっと好きですよね
 小さい頃 スウェ一デンの有名な 選手からサインを貰おうとしたら
 スウェ一デン国王だったという 逸話をお持ちですね
いや 分かっていたよ
国王は当時すでに100歳で 護衛がついていたからね 
私はそもそも国王の方に サインを頼んだんだ
当時 フィガロ紙が撮った 写真には一
老いた国王にサインを頼む 幼い頃の私が写っている
何という選手を 追いかけていたのですが? 
ボロ卜ラだ 彼はスウェ一デン人ではないが一
国王のテ二ス・卜レ一ナ一だった縁で 主任護衛も務めていた
彼には 国王に近付がないょうに 何度か脚で追いやられた 
だが国王は優しくしてくれたので ボロ卜ラも優しくなった 
彼には あまり良い 逸話ではないがね
 もっと悪い話もありますね 
 テレビで見るのは テニスだけですか
いやサッカ一も好きだ
サッカ一とテ二スだけは見る 
テ二スはゃつていましたか?
ああ よくやったよ
戦争が始まるまではね 戦争のせいでできなくなった
 テ二スによって体に変化は?
 やっている時とやめたあとで 変化はあるものでしょうか?
どうだろう… ないと思う
大さな変化はなかった プロだったわけでもないからね 
1939年当時 私は14歳だった
14歳で私はテ二スをやめたが 大した出来事ではない
 期待されてたんですか ? 
そうだな 14歳にしては上手かったよ 
 成績は上位 ? 
いいや 14歳の私は一 
体が小さかったし 今の子どものように 急成長することもなかった 
他には ボクシングを やっていましたね
ああ 少しやっていたが 怪我をしてすぐやめた
まあ 少しはやっていたがね  
 当時と比ベてテニスは 変わったと思いますか?
当然だ どんなスポーツにも変化がある 
ス夕イル これもまた文体の問題だ
スホ一ツが面白いのは一
身体の姿勢が問題になるからだ
長期間にわたって起こる一
身体の姿勢の変化がある
例えば 今のアスリートは一 
50年前と同じフォ一ムでハードルを飛ばない 
そうした変化を スポ一ツの歴史として認識すベきだ 
サッカーの戦術も一
私の小さい頃 と比ベれぱ
大きく変化した
体の姿勢や動きにも変化がある
様々な変化がある
自分がやったのではないが 一時期 砲丸投げにも興味があった
ある時期 選手たちの体形が 急に大きくなったんだ
パワーがある選手の墳合は それを活かしつつ一
いかに速さを取り戻すか
反対に速さのある選手は 
スビ一ドを保ったまま一
いかにパワ一を取り戻すかが 課題となった
このことは非常に興味深い
社会学者モ一スは一
様々な文明における 身体の姿勢について研究したが
スホ一ツは身体の姿勢の変化 という点では非常に重要な分野だろう 
テ二スは戦前でさえ...
戦前のチャンピオンたちは 今でも覚えているが一
彼らの姿勢は 今と全く異なっていた
文体(スタイル)の話にも通じることだが 面白いのは一 
チャンピオンこそが 真の創造者であることだ
偉大なチャンピオンは 二つに分けられる
創造者とそうでないものにだ 
後者は既存のスタイルを 磨き上げて強力なものにする 
例えば レンドルは 真の創造者ではない 
テ二スにおける 偉大な創造者とは一
どんなに単純なものてあれ 新しいショットや戦術を発明し
取り入れた人々のことだ
そうした人々のあとに 続々と追従者が現れる
スホ一ツにおいても 偉大なス夕イルの発明者がいる
テ二スの転換点は何であったが
それはテ二スのプロレタリア化だ
大衆スポーツになった 若いホワイ卜カラ一層が中心だったが 
とにかく テニスのプ口レ夕リア化があった
もちろん それは 様々な情勢から説明できるが一
おそらく ある天才がいなけれは 起こらなかったことだ
決定的だったのはホルグだ なぜなら一
彼は大衆のスタイルを一からすペて 創造したからだ
私が好きなのはボルグだ
彼の風貌にはキリス卜のような 雰囲気があった 
そう した品位のために一 
彼はどんな選手がらも 蕁敬されていた 
(中断)
 先ほどあなたが一  
 目撃したと言っていたのは... 
ああ テ二スのいろいろな場面を 見てきたが一 
まずボルグの話を終わらせよう
キリスト的人物である彼は一 
大衆スポーツを確立し 大衆のテ二スを創造した 
新しいプレ一を 一から生み出した 
そのあと ビラスのような優れた 選手たちが出てきたが一 
彼らのプし一は退屈なものだった
だが そこてまた あの法則が現れる
"あなた方は私を褒めるが 私は理想にはまだほと遠いんだ" 
ボルグは変化するからだ
ショッ卜を確立したら もうそれに興味はなくなる
ス夕イルが進化したがらだ 
だが追従者たちは やり方を変えなかった
ボルグのライバルは マッケンロ一だったが一
 ボルグがもたらした... 
 労働者階級のスタイルは どんなものだつたのでしょう?  
 ベースラインまで退いて 回転はトップスピン 
 打点は高めだ
労働者にもホワイ卜カラ一にも 分かるス夕イルだが
ものにできるがどうかは別だ
 面白いですね 
ベースライン トップスビン ハイボ一ル これが原則だ
貴族でなく庶民のス夕イルだ その創造には天才が必要だった
ホルグはまさに イエス・キリス卜の如く一
庶民のもとに降りた貴族なんだ
ばかげたことを 言ってしまったが... 
ボルグのショッ卜は 驚くべきものだった
彼はスポーツ界の 偉大な創造者だ
それからマッケンロ一は 純貴族だが一
心はロシア的で サ一ブはエジプ卜的だった 
彼もショットを生み出したが 誰もまねできないと知っていた 
貴族は追従者を求めない
マッケンロ一は 奇跡的なショットを生み出した
ボ一ルを打つのでなく 置きに行くのだ
そして従来のものとは 全く異なる一
新しいサ一ブ&ボレーを 生み出した  
こうしたことは 他の名選手についても言える
マッケンロ一と同程度だとは 言わないが一
アメリカの... 名前は何だったがな
 コナ一ズです
コナ一ズだ
彼にもまさしく 貴族的原則を 見て取ることができる
ネッ卜すれすれの フラッ卜ショットは一
非常に変わった 貴族の原則だ 
彼は完全にバランスを失った時 最も才能を発揮した 
非常に変わった打ち方をしたんだ  
どんなスポーツにも 語られるベき歴史がある
スポーツには進展があり 創造者や追従者がいる
芸術と全く同じだ 創造者がいて追従者がいる
スポーツには 変化や進展や歴史一
そして生成変化がある
 冒頭で"目撃した"と言っていたのは? 
あるショットの起源を見た
特定が難しいと言われるが一
私の記憶では 戦前のオ一ス卜ラリアが起源だ 
国の違いの問題でもある オ一ス卜ラリアで一  
両手打ちのバックハンドが 生まれたのはなせか
当初 あれをやっていたのは オ一ス卜ラリア人だけだった
彼らの発明だ オ一ス卜ラリア人と一
両手バックハンドの関係には 何らかの理由があると思う 
子どもの頃 驚いた記憶がある ボ一ルに回転がなかったからだ 
相手はボ一ルを返せながったが 皆が"なぜ?”と言った 
ショットが非常に 緩やかだったからだ
あとになって それが一 
サ一ビスリ夕一ンだと気付いた
相手がサーブで一 
それへのリタ一ンショットだったんだ
そのショットは とても緩やかで一 
ちょうど相手の足元に沈んだ
相手がボレーしようと 前に出た時にだ
ミドルボレ一にもならず 相手は返すことができなかった
奇妙なショットだった 
皆"あれは一体..."という様子で一
なせ上手くいったのが 分がってながった
ともがく あのショットを 作り出したのは
当時まだクレ一コー卜で実績がなかった一
偉大なオ一ス卜ラリア人だった 
ブロムウィッチという選手だ 
はつきり覚えていないが 戦争の直前が直後に活躍した一
とても偉大な選手で そのショットの発明者だ
私がまだ若かった頃一
彼のショットには非常に驚かされた 
今ではそれが標準的なショットだ
標準となったショットにも 発明者がいたんだ 
私の知る限り ボロ卜ラの世代は一
当時 あのショッ卜やリタ一ンを 誰も知らなかった 
 最後の質問です 
 マッケンロ一は 審判を責めたことで一
 自分目身を潰したことになると 思いますか?
 彼は自分のプレ一に 満足していなかったのでしょうか?
満足はしていなかったが あれもス夕イルの問題だ 
神経質なところも 彼のスタイルの一部だからだ
例えば一 
怒り出す演説家がいたり
反対に冷淡な演説家がいたりすることも一 
ス夕イルの問題だが それと同じことだ
それが心というものだ ドイツ語で言う気質... 
 ゲミュート...
ゲミュートのことだ 

_______________


 次はUです
Uか
 そうです UNで"一者"
分かった
 哲学や科学は普遍的なものに取り組みますが 
 哲学は特異的なものに関わるベきだと いつも仰ってますね 
 これは逆説なのでしょうか? 
そうではない 哲学や科学は普遍的なものと全く関係ない
哲学は普遍的なものに 取り組むものだとか一
科学は常に反復可能な普遍的現象に 取り組んでいる といった考えは
全くの偏見だ
どんな物体も落下する という定式にしても一
重要なのは あらゆる物体が落下する ということではない
それぞれの落下の特異性だ
科学の扱う特異性 例えば数学で言う関数の特異性 
あるいは凝固点のような 物理学や化学で言う特異性
こうした科学の扱う特異性は 確かに再現可能だが 
そのあとに続く普遍化のプロセスは 二次的な現象にすぎない
科学が取り組むのは普遍的なものでなく特異的なものだ 
例えば物体がその状態を 液体から固体へと変える一 
凝固点などが特異的なものだ
哲学も一者とか存在に 取り組んでいるのではない
そんなことを言うのは 実にばかげている
哲学もまた 特異的なものに取り組んでいる
人は皆 常に多様体の内にいる と言うべきだ 
そして多様体とは 特異的なものの集合だ
特異的なものの集合としての 多様性の定式はn一1 だ  
一(ラン)は常に差し引かれねばならない
哲学にはやってはならないことが 二つあると私は思う
哲学は普遍に取り組むのではない 
普遍的なものには3つの種類があると言えるだろう 
観照という普遍
イデアを観照する という意味でのそれだ
あるいは反省という普遍
そしてコミュニケ一ションという普遍だ これは哲学にとっての最後の隠れ家で一 
ハーバ一マスが好んでいるものさ
つまり 哲学は観照や反省 あるいは一 
コミュニケ一ションとして 定義されるというわけだ
いずれにせよ 全くおかしなことだ
観照してじっと考えている哲学者 というのは 皆の笑いものだろう
反省する哲学者は 笑いものにはならないがずっと愚かだ
というのも一 
反省するのに哲学者など 必要ないからだ
哲学者などいなくても 数学者は数学について反省できるし一 
芸術家は絵画や音楽について 反省できる
ブ一レ一ズは音楽について反省するのに 哲学者に頼らなかった 
哲学とは反省だと言うことは一 
哲学と哲学が反省するとされているものとを軽んじることだ
反省するのに 哲学は必要ないのだがら
コミュニケ一ションについて 話すことはない というのも一
"コミュニケ一ション的普遍による 合意形成をすることが哲学だ"
という考えはかつてないほど めでたいものだからだ
哲学はコミュニケ一ションとは 関係がないんだ
コミュニケ一ションは それだけで充足している
そこでは哲学と全く関係のない 意見の合致や質問の技術が問題となる
哲学とは概念の創造であって コミュニケ一ションではない
芸術はコミュニケ一ションでも 反省でもない 
芸術に科学に哲学 これらはすベて一 
観照でも反省でも コミュニケ一ションでもなく創造だ
その定式がn−1 だ 一者や普遍を消し去ること

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 “普遍は哲学と 全く関係ないのだ”と
そうだ 全く関係ない
 このままVに移りましょう "V"は旅行です
 このテ一マは逆説という概念を証明するものです
 あなたは遊牧生活(ノマディズム)という概念を創造された 
 ところが旅行はお嫌いですね 
 これはこのインタビュ一の中ではっきりと述ベておきましょう 
 なぜ旅行がお嫌いなのですか?
旅行が嫌いなのではない みじめな知識人が旅行すると一
いろいろ条件があって それがイヤなんだ
他の夕イプの旅行なら 悪くないかもしれない
でも 知識人たちの場合一
旅行というのは 世界の端まで行って講演することだ
講演の前と後にもいろいろある
まずは 歓迎してくれた人たちと話し一
そのあとは 快く耳を傾けてくれた人と話す
話して 話して 話して...
こういった知識人の旅行というものは 旅をするのとは正反対だ
わざわざ世界の端まで行って 自分のところでできることをする
そして その前にも その後にも 人に会って話をする 
こういう旅行は 本当にひどいものだ
その意味では 旅行は全く好きではない
だがそれは 私が絶対もこ変えない 原則というわけではない
こう問うてみよう 旅行の中には何があるのか
旅行にはいつも 偽の切断がある
これは私が 私に関して言うことだけれども一
なぜ私は旅行をよく思わないのか
旅行は安っぽい切断だからだ
フィッツジェラルドが こんなことを言っている 
“本当の切断をもたらすには 旅行などでは不十分だ”
切断が必要なら 旅行とは別のことをしたらいい
ょく旅行する連中はそれを自慢する
そして 旅行するのは “父を見つけるためだ”などと言う
有名なルポライタ一たちは 旅行して本を書く
ベ卜ナムに行ったり アフガニスタンに行ったり一
そして最後に平然と “私はずっと 父を探していた”なんて言う
こんなオイディプス的旅行なら しない方がいい
だがら それはあまり良くないな と私は思うわけだ
旅行が嫌いな 次の理由は...
ベケッ卜のすばらしい言葉に 感動したことがある
正確な引用ではないけれども 登場人物がこう言うんだ
“俺たちは間抜けだが 楽しみのために旅行するほどじゃない”
これは本質を言い当てた言葉だ
私は間抜けだけれども 楽しみのために旅行するほどじゃない
さらに旅行の 2つ目の側面がある 
先ほどノマドの話をしたね
私がノマドに魅了されるのは 彼らが旅行しない人々だがらだ 
移民や難民も移動するが 彼らの移動は強制されている 
その移動は決して 軽んじられてはいけない
それは極めて重要な旅行一
強制された旅行だ
ノマドというのは ほとんど移動しない
ノマドは動かず その場に留まるんだ
専門家も言っているが ノマドは土地を去りたくないんだ
彼らは土地に愛着をもち 自分達の土地に留まる
土地に誰もいなくなると 彼らはそこで遊牧するしがなくなる
つまり彼らがノマドになるのは そこに留まっていたいからだ
だがら ノマドほど 動がないものはいない 
ノマドほど移動しないものはいない
彼らがノマドであるのは そこを去りたくないがらだ
だから彼らは 迫害されることも多い
そして 旅行の最後の側面 として挙げたいのは…
プル一ス卜に こんなすばらしいー節がある
"人は旅行中に何を しているのか?” 
“常に確かめているのだ 夢見ていた色があるかを”
さらに こうも言っている
“夢見た色が存在するがを 確がめに行かないのは悪い夕イプで...
“本当にその色が そこに存在するかを一" 
“きんと確かめに行くのが 良い夕イプだ"と
これは旅行についての よくできた定義だと思う
 旅行はすばらしい退行現象だと ? 
いや そうじゃない 真の切断となる旅行もある 
例えは ル・クレジオの人生には 本当に切断があったと思う
 ロレンスはどうでしょうか?
ロレンスは... そうだな
私が賞賛する作家の中には 
旅行のセンスを持っている人物が たくさんいる
スティ一ヴンソンの旅行も 無視できない
だから私の考えは 誰にでも当てはまるわけじゃない
私の考えでは旅行が嫌いな人の理由は 先ほどのつだろうということだ
 あなたの緩優なところも 関係ありますか?
いや ゆっくりとした旅行もあるから… とにがく私は移動する必要がない
私の持っている強度というのは 動がない強度なんだ
というのは 空間とかシステムに配分される
必ずしも 外側の空間というわけではない
私は 本をすばらしい 音楽を美しいと感じることで一 
旅行では得られない状態を 経験できる
そういう感覚は旅行では 到底得られないものだ 
ては 自分には合わない感覚を 探しに行くとすれば それはなぜか?
自分にとってすばらしいものは 音楽や哲学など一
動かないシステムにあるというのに なぜなのか?
ジ ォ ・ ミ ュ 一 ジック ジオ・フィロソフィ 一 地に根さした音楽 地に根さした哲学
そうしたものがあるからだ
それは奥深いところにある国だ
 外国ということてすか?
私にとっての外国だ
それは旅行では見つからない
 運動と移動の違いを うまく説明していただきました
 でも旅行もなさってますね
 リビアやカナダ アメリカでも講演された
そうだな 確かに行ったけれども…
敢えて言うと 引きずり込まれていた だから 今はもうしていない
ああしたことはやるベきじゃなかった やりすぎた
あの頃は歩くのが好きだった 今ではあの頃のようには歩けない
だから もう旅行はあまりできない
ベイル一卜でも歩いた 
朝から夜まで どこに向かうでもなく 
でも それも今てはもう無理だ

________________ 


 では Wに移りましょう
Wは何もないだろう
 ウィ卜ゲンシュタインです
それについては話したくない
あれは哲学の崩壊だ
学派というもののいい例だろう
哲学の退化と言うほかない
ウィ卜ゲンシュタインに関わることは もう 本当に嘆かわしい
彼らが作ったのは恐怖の体系だ 
”何か新しいことをする”
そういう口実で一 
豪勢な箱の中に貧相なものが 詰め込まれている
あれは...
あの危険を言い表す言葉はないね 
この危険はしょっちゅうあるものだ だが深刻な問題なんだ
ウィ卜ゲンシュタイン派というのは 本当にイヤな奴らなんだ
彼らは何もかもを壊してしまう
彼らが勝利をおさめたら まさしく哲学の殺害だ 
彼らは哲学を殺害する暗殺者だ
 深刻ですね
そうだ
十分に注意しないとね
___________

X,Y
Xは未知数で一
Yは言葉にできません
ですから最後の文字に移ります
____________


 Zです 
ああ いいね
“怪傑ゾロ”ではありません
 Zというと ゾロを思い出しますけれど 
 そうではなくて
 進路変更やひらめきの話です
 偉大な哲学者の名前にはZの文字が 
 禅 ツァラ卜ゥス卜ラ ライプニッツ スピノザ
 二一チェ ベルクゾン そしてもちろん ドゥルーズ 
君は冗談が得意だね ベルクソンじゃなくてベルク ゾ ンとは
それに私についても 素敵なことを言ってくれた
Zはすばらしい文字だ ここからAに戻れる 
ハエの話をしよう ハエの禅だ 
ハエのジクサグの動き
Zはジグサグで しかもジグサグは最後の単語だ 
ジグサグのあとは単語がない そこで終わるのはいいね
では Zでは 何が起こっているのか?
禅(Zen)という語は鼻(NeZ)という語の反対だね
これもジクサグ運動だ
あのハエのジグサグ運動とは 何なのか?
あれは世界の想像をつかさどった 最初の運動だ 
最近私もみんなみたいに一
ビッグバンについての本を読んでいる 
宇宙の創造とか 無限曲線といった話だ
ビッグバンは どうやって起こったか?
物事の起源にはビッグバンのような 大爆発などない Zがあるんだ
 ハエのZ そしてビッグバンということでしたが
そうビッグバンね
ビッグバンじゃなくてZのことを考えないといけない
Zというのは実際 禅であり一 
飛んでいるハエの動きだが これはどういうことなのか?
ジグザクの話というのは 先ほど言っていた一
普遍の話と一緒だ 
普遍などなく 特異性の集合だけがある
バラバラの特異性を どう関係づけるかが重要だ
物理学の用語で言うと 諸々の “ポテンシャル"をどう関係づけるか
ポテンシャルでいっぱいのカオスというのを想像できる
それらのポテンシャルを どう関係づけるか?
何という分野だったか思い出せないが とても気に入った用語があった 
自分の本でも使ったんだが こんな話だ一 
二つのポテンシャルの間で一
"暗き先触れ"と 呼ばれる現象が起こる 
"暗き先触れ"は 異なったポテンシャルを関係づける 
"暗き先触れ"の動きがあると一
二つのポテンシャルが反応し一
二つの間で 目に見える出来事が閃光を放つ 
きらめきだ
"暗き先触れ”が まずあり 次いで きらめきが起こる
世界もこんな風にして生まれた
目には見えない 暗き先触れがあり一
そしてきらめきが照らし出す これが世界だ
思考というのはそういうものだし 哲学もそうだ 
これが偉大なるZだね
禅の知恵もそうだ
賢者は"暗き先触れ"であり 次いで 棒の一撃がある
禅の師匠は棒の一撃を 配分することに時間を使う
棒の一撃はきらめきで あれが物事を見るのを可能にする 
さて そろそろ終わりかな
 お名前にZが入っていて 嬉しく思われますか?
嬉しいよ
よし
 終わりです
このイン夕ビューができて とても満足だ 
死後の公開だったね
 はい 公開はあなたの死後です
みんなどうもありがとう


研究サイト:
http://www.langlab.wayne.edu/cstivale/d-g/abcs.html
http://www.monabaker.org/wp-content/uploads/2015/04/DeleuzeA-Z.pdf
http://www.servinglibrary.org/download.html?sourceFile=00115&downloadFile=LAbecedaire&author=Pierre-Andr%C3%A9%20Boutang 

19 Comments:

Blogger yoji said...



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______



W comme Wittgenstein

La séquence « W comme Wittgenstein » est demeurée célèbre pour son laconisme et le positionnement philosophique qu'elle implique de la part de Deleuze :

« Non, je ne veux pas parler de ça. Pour moi, c'est une catastrophe philosophique, c'est le type même d'une école, c'est une réduction de toute la philosophie, une régression massive de la philosophie. C'est très triste [...]. Ils ont foutu un système de terreur (rires), où sous prétexte de faire quelque chose de nouveau, c'est la pauvreté instaurée en grandeur. Il n'y a pas de mot pour décrire ce danger-là. C'est un danger qui revient, ce n'est pas la première fois [...]. C'est grave, surtout qu'ils sont méchants, les wittgensteiniens. Et puis ils cassent tout. S'ils l'emportent, alors là il y aura un assassinat de la philosophie. C'est des assassins de la philosophie. Il faut une grande vigilance... (rires) »

Ces paroles expriment une divergence radicale avec ce que l'on a coutume d'appeler la philosophie analytique, laquelle n'est certes pas le terrain le plus propice au déploiement d'une philosophie telle que Deleuze et Félix Guattari la définissent dans Qu'est-ce que la philosophie ?.c


____________


http://phiphilo.blogspot.jp/2011/11/bouveresse-wittgenstein-deleuze-et-la.html

"W ? Il n'y a rien à W ! Non, je ne veux pas parler de ça. Pour moi, c'est une catastrophe philosophique, c'est le type même d'une école, c'est une réduction de toute la philosophie, une régression massive de la philosophie. C'est très triste [...]. Ils ont foutu un système de terreur, où sous prétexte de faire quelque chose de nouveau, c'est la pauvreté instaurée en grandeur. Il n'y a pas de mot pour décrire ce danger-là. C'est un danger qui revient, ce n'est pas la première fois [...]. C'est grave, surtout qu'ils sont méchants, les wittgensteiniens. Et puis ils cassent tout. S'ils l'emportent, alors là il y aura un assassinat de la philosophie. C'est des assassins de la philosophie. Il faut une grande vigilance"
4:06 午前
Blogger yoji said...


« Un cours, c’est de l’émotion, c’est autant d’émotion que d’intelligence ; s’il n’y a pas d’émotions, il n’y a rien - Aucun intérêt.
Donc il n’est pas question de tout suivre, même de tout écouter : il s’agit de se réveiller à temps pour saisir ce qui vous convient, ce qui vous convient personnellement. »

https://www.youtube.com/watch?v=1obO8M_9m5sc


「コースは感情である、それは知性と同じくらいの感情です。無利子 - 何の感情が存在しない場合は、何もありません。
それは個人的にあなたに合ったものを、あなたに合ったものをキャッチするための時間に目を覚ますことです。だから、いずれかの疑いであっても、すべてに耳を傾け従うはありません。 "

_____________________


ABCよりN神経科学

哲学書を読むために 哲学者である必要はない
哲学書は二通りの仕方で 読むことが可能だ いや必要だ
非哲学的に読むことが 絶対に必要なんだ
さもなけれは 哲学に"美"はない
専門家でない読者が 哲学書を読むことは...
哲学書の非哲学的読解は 何も欠けるものがない
それだけで完結している
一つの読みとしてね
とはいえ 哲学にもよる
例えば 力ン卜を非哲学的に読むのは 難しい
スピノザなら大丈夫だ
農民がスピノザを読むことは 十分ありえる
商売人も読むだろう
ニーチェももちろんそうだ
私が好きな哲学者は皆 同様だ
思うに "理解"する必要はない
"理解"は読むことの 一側面でしかない

3:53 午後  
Blogger yoji said...


http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20070826/1188104003
以下の引用の発言者はドゥルーズ、1990年に行われたネグリによるインタビュー「管理と生成変化」より。

さきほどのご質問は、管理社会やコミュニケーション社会の時代になると、新たな抵抗の形態が生まれるのではないか、そうなれば、「自由な個人による横断的な組織」として構想されたコミュニズムが実現する可能性も出てくるだろう。というものでした。どうでしょうか。あるいはおっしゃるとおりになるのかもしれません。しかしそのことと、マイノリティが発言しはじめる可能性とは無関係なのではないでしょうか。言論も、コミュニケーションも、すでに腐りきっているかもしれないのです。言論とコミュニケーションはすみずみまで金銭に浸食されている。しかも偶然そうなったのではなく、もともと金銭に毒されていたのです。だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います。(『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』p352)


ついでながら、このあと、ドゥルーズはこんなことも言っている。

世界の存在を信じることが、じつは私たちにいちばん欠けていることなのです。私たちは完全に世界を見失ってしまった。世界を奪われてしまった。世界の存在を信じるとは、小さなものでもいいから、とにかく管理の手を逃れる〈事件〉をひきおこしたり、あるいは面積や体積が小さくてもかまわないから、とにかく新しい時空間を発生させたりすることでもある。それをあなたは「ピエタス(仁愛)」と呼ばれたわけです。抵抗する能力はどれだけのものか、あるいは逆に管理への服従はどのようなものなのかということは、各人がこころみた具体的な行動のレベルで判断される。創造〈と〉人民の両方が必要なのです。(前掲書、p354-p355)


__________

記号と事件IV哲学

左派には仲介者が必要だ  

余談として政治の話をひとつ

たとえばニューカレドニア問題。「どちらにころんでも独立だろう」とピザニが明言したとき、そこにはすでに新しいタイプの言説があった…

しかし左派には、間接的で、自由な仲介者が必要です。そうした仲介者を可能にすることができれば、それだけで新しいスタイルが成り立つのです。共産党の手落ちで「旅の道連れ」という馬鹿げた名のもとに評判を落としたものを、左派は本当に必要としているのです。左派に必要なのは人びとにものを考えてもらうことだからです。


____________

ついでながら、このあと、ドゥルーズはこんなことも言っている。

世界の存在を信じることが、じつは私たちにいちばん欠けていることなのです。私たちは完全に
世界を見失ってしまった。世界を奪われてしまった。世界の存在を信じるとは、小さなものでも
いいから、とにかく管理の手を逃れる〈事件〉をひきおこしたり、あるいは面積や体積が小さく
てもかまわないから、とにかく新しい時空間を発生させたりすることでもある。それをあなたは
「ピエタス(仁愛)」と呼ばれたわけです。抵抗する能力はどれだけのものか、あるいは逆に管理
への服従はどのようなものなのかということは、各人がこころみた具体的な行動のレベルで判断
される。創造〈と〉人民の両方が必要なのです。
(『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』、p354-p355)

3:56 午後  
Blogger yoji said...



だが絵画の展覧会や映画において 私はいつも一
アイデアとの出会いに賭けている
 ええ でも気晴らしの映画もありますね?
それは文化ではない
 文化ではないにせよ...
そうだな...
 すべて仕事のうちでしようか
いや 仕事ではない 待伏せだ
何かが起きて 私を揺り動かそうと 語りかけてくるのを待つ
それがとても面白い
 でもエディ・マ一フィはあなたを 揺り動かさないでしょう?
誰だい?
 エディ・マ一フィです
 アメリカのコメディアンで 最新作が大ヒッ卜しています
知らないね
 ベニ一・ヒル*はお好きでしたね
ああ 彼は面白い
良いとか新しいとか最初から分かるものを選ぶわけではない
面白ければいい


ベニー・ヒルはイギリスの志村けん
 http://ameblo.jp/kumaga19/entry-11286824127.html

6:33 午前  
Blogger yoji said...


プラトンの主題とは一
定義を与えることだ
例えば 政治家とは何かという問いに "人間にとっての牧人である"と答える
すると大勢が来て こう言う “政治家とは私たちのことだ"
まず羊飼いが来て言う "私は人間に服を与える"
“私こそ真の牧人だ"
肉屋がやってきて言う “食を与える私たちが真の牧人だ"
こうしてどんどん集まってくる
私に起きたのもこれだ
折り紙をする人々が “襞とは私たちのことだ"と言った
そのあと同じ手紙が来てびっくりした サ一ファ一たちからだった
一見して折り紙とは無関係だ
サ一ファ一たちはこう言った
"この本に賛成します 私たちがしていることは一”
"自然の襞の中に 入り込むことです"
"私たちにとって襞とは... 自然とは動的な襞の総体です"
"そして私たちは波の襞に入り込む"
“波の襞に住まうこと それが私たちの任務です"
すばらしい表現だ "波の襞に住まう"
彼らはサ一フィンをするだけでなく それを思考している
これもあとでまた話そう
スポ一ツのところで
 先ですね
そうだね ともあれ...
 折り紙をする人々との間に"出会い"が?
"出会い"だ
哲学によって 哲学の外に出ること一
それは私にいつも起きていると思う

7:08 午前  
Blogger yoji said...

C

ロバート・ウィルソン
浜辺のアインシュタインが有名



EditWatch this page
Robert Wilson (director)
For other people named Robert Wilson, see Robert Wilson (disambiguation).
Robert Wilson
Born October 4, 1941 (age 74)
Waco, Texas, USA
Occupation Theatre director
Website robertwilson.com
Robert Wilson (born October 4, 1941) is an American experimental theater stage director and playwright who has been described by the media as "[America]'s – or even the world's – foremost avant-garde 'theater artist'".[1] Over the course of his wide-ranging career, he has also worked as a choreographer, performer, painter, sculptor, video artist, and sound and lighting designer. He is best known for his collaborations with Philip Glass on Einstein on the Beach, and with numerous other artists, including Heiner Müller, William S. Burroughs, Allen Ginsberg, Lou Reed, Tom Waits, David Byrne, Laurie Anderson, Gavin Bryars, Rufus Wainwright, Marina Abramović, Willem Dafoe, Mikhail Baryshnikov, Darryl Pinckney and Lady Gaga.

7:11 午前  
Blogger yoji said...

重合 (叢書・ウニベルシタス) 単行本 – 1996/5
カルメロ ベーネ (著), ジル ドゥルーズ (著), & 3 その他

http://nam-students.blogspot.jp/2011/07/blog-post.html
シネマ2

 第8章 映画、身体と脳、思考

265頁 カルメロ・ベーネ『カプリッチ』
Carmelo Bene - Capricci (1969)

https://www.youtube.com/watch?v=af-pHcC_M3Y
カルメロ・ベーネ
参考文献:
http://www.fondazionecarmelobene.it/
http://it.wikipedia.org/wiki/Carmelo_Bene
ジル・ドゥルーズ「マイナー宣言」in『重合』法政大学出版局
ジル・ドゥルーズ「マンフレッド、なみはずれた革新」in『狂人の二つの体制』河出書房新社
(ちなみにベーネはパゾリーニ『アポロンの地獄』にクレオン(=イオカステの弟)役で出演している。)

4:35 午後  
Blogger yoji said...


http://www.otaru-uc.ac.jp/~eguchi/sabu01.html
4)『重合』 カルロス・ベーネ/ジル・ドゥルーズ、1996年5月(法政大学出版局)¥2,000

 中身は、ベーネの『リチャード三世』とドゥルーズの『マイナー宣言』。『重合』というタイトルで損をしている?
 帯の惹句は「伝統的な文学の支配機制をすり抜ける二つのテクストの《重合》が、人間の欲動に解放と交通の可能性
 をひらく。」と格好良いが、欲動など本当に解放されてしまったらどんなことになるかは、シュールレアリスト達の
 実験で死にかかった連中がいたことを考えれば、想像するだにおぞましい。まさにその「おぞましさ」を現出させる
 ことが『リチャード三世』の目的だろう。商大演劇戦線あたりが取り上げてくれれば面白いのだが。この作品は亡き
 花田圭介先生に薦められて取り組んだが、刺激的な仕事だった。これを翻訳していたときつねに念頭から去らなかっ
 たのが、F. ベーコンの絵 Van Gogh in a landscape 57 だ、たぶんこれも神経を直にゆさぶる《重合》の典型だ。

4:38 午後  
Blogger yoji said...

Sovrapposizioni (Con Gilles Deleuze; contiene Riccardo III di Carmelo Bene e Un manifesto di meno di G. Deleuze), Feltrinelli, Milano 1978 (ristampa ampliata: Quodlibet, Macerata, 2002).

4:54 午後  
Blogger yoji said...

'One Less Manifesto' (1978) in Superpositions (with Carmelo Bene).


Superpositions, en collaboration avec Carmelo Bene, les éditions de Minuit, Paris, 1979, 131 p.


4:58 午後  
Blogger yoji said...

ABC教養より

何かをする時 そこに留まりながら 外に出ることが肝心だ
哲学の中に留まることは 哲学の外に出ることでもある
哲学以外のことをするという 意味ではない
中に留まりつつ 外に出なければいけない
哲学の代わりに 小説を書けばいいわけでもない
そもそも書けないが できても役に立たないだろう
私は哲学によって 哲学の外に出たいと思う
それが私の関心事だ

最近一冊の本を出した
偉大な哲学者ライプニッツの本だ
彼にとって量要と思われた ある観念を強調した
私にとっても 非常に重要な"襞"の観念だ
哲学書のつもりだった
"襞"という奇妙な観念についてのね
そのあと何が起きたか
手紙をいくつか受け取った

折り紙をする人々が “襞とは私たちのことだ"と言った
そのあと同じ手紙が来てびっくりした サーファーたちからだった
一見して折り紙とは無関係だ
サ一ファ一たちはこう言った
"この本に賛成します 私たちがしていることは~”
"自然の襞の中に 入り込むことです"
"私たちにとって襞とは... 自然とは動的な襞の総体です"
"そして私たちは波の襞に入り込む"
“波の襞に住まうこと それが私たちの任務です"
すばらしい表現だ "波の襞に住まう"
彼らはサ一フィンをするだけでなく それを思考している

4:50 午後  
Blogger yoji said...


ABC哲学史より

(スピノザと ニーチェについて質問です
哲学史の呪われた部分に 取り組んだとのことですが
どういう意味でしょうか?)

またあとで論じることになるかもしれないが
隠された部分と言ったのは
彼らが超越性に異議を申し立てたからだ
超越性とは何かについてはのちの定義すベきだろうが
彼らは普遍概念を一切認めなかったわけだ
普遍的価値を持つ概念を拒杏した
要するに
地上と人間を超越する進級を認めなかった
そう 彼らは内在性の哲学者だ

私がガタリと探ったのは 無意識の内在的次元だったわけだ
精神分析には 超越的なものばかりだ
"法" "父" "母"といったように
だが"内在野"もまた 無意識の定義を可能にするのだ
この方向を極めたのは
誰より スピノザであり ニーチェもまたその一人だろう
それほど挑発的だとは思わないが
スピノザと二ーチェは 哲学において思考の解放をもたらした
爆発をもたらしたに等しい
確かに彼らの概念は突飛かもしれないが
問題がそもそも呪われた問題だった
スピノザの時代は皆避けた問題だ
ニーチェの時代でさえもだ
誰も問おうとしない問題だった

5:33 午後  
Blogger yoji said...


ABC哲学史より

(スピノザと ニーチェについて質問です
哲学史の呪われた部分に 取り組んだとのことですが
どういう意味でしょうか?)
またあとで論じることになるかもしれないが
隠された部分と言ったのは
彼らが超越性に異議を申し立てたからだ
超越性とは何かについてはのちの定義すベきだろうが
彼らは普遍概念を一切認めなかったわけだ
普遍的価値を持つ概念を拒杏した
要するに
地上と人間を超越する進級を認めなかった
そう 彼らは内在性の哲学者だ

私がガタリと探ったのは 無意識の内在的次元だったわけだ
精神分析には 超越的なものばかりだ
"法" "父" "母"といったように
だが"内在野"もまた 無意識の定義を可能にするのだ
この方向を極めたのは
誰より スピノザであり ニーチェもまたその一人だろう
それほど挑発的だとは思わないが
スピノザと二ーチェは 哲学において思考の解放をもたらした
爆発をもたらしたに等しい
確かに彼らの概念は突飛かもしれないが
問題がそもそも呪われた問題だった
スピノザの時代は皆避けた問題だ
ニーチェの時代でさえもだ
誰も問おうとしない問題だった
いわゆる議論を沸騰させる問題というやつだ


ジル・ドゥルーズ「思い出すこと」(聞き手:ディディエ・エリボン、鈴木秀亘訳、
『批評空間』誌第II期第9号、太田出版)、p.6-7

〈サルトル〉

 サルトルは私にとってすべてでした。驚異的な現象でした。フランスがナチの占頷下にあった間、精
神の領域におけるひとつの存在の仕方だったのです。彼が自分の芝居を占頷下で上演させたことを非難
する人々は、彼の作品を読んだことがない人たちです。『繩』の上演は、ヴェルディがオーストリア人
の前で自分の作品を演じさせたのに匹敵します。イタリア人ならば誰でもそれを理解し、ブラボーと叫
びました。彼等はそれがレジスタンスの行為だったことを知っていたわけです。サルトルの置かれた立
場はまったく同じです。
 『存在と無』は爆弾のようでした。『繩』が直接的なレジスタンスの行為だったのと違い、『存在と無』
は読むものの心を奪う作品でした。偉大な、新しい思想の著作だったのです。出版された時に読みまし
たが、何というショックだったでしょう。ミシェル・トゥルニエと一緒に買いにいったこと、一気に読
み上げたことを覚えています。サルトルは私たちの世代の人間を捕えてはなしませんでした。彼は小説
も戯曲も書きましたから、皆が小説や戯曲を書きたがりました。誰もがまねをしたか、あるいは、嫉妬
し、いらだっていました。私個人は彼に魅了されていました。私にとっては、決して失われることのな
いサルトルの新しさ、永遠の新しさが存在するのです。
 このことは、ベルクソンでも同じです。いつまでも失われることのない新しさをそこに見出すことな
しに、偉大な作家を読み取ることは不可能です。今日サルトルあるいはベルクソンが時代遅れのように
扱われるとすれば、それはこの二人がその時代に生み出していた新しさを現在の読者が見過ごしている
からです。もしも、ある作家の、時代に先駆けた新しさを再認識できなければ、それはその作家が秘め
る永遠の新しさを感知しそこなうことにもなります。このふたつのことは切っても切り離せないわけで
す。永久なるものを見失ってしまう、そうなると後はもう模倣者たちの支配です。そしてこの模倣者た
ちこそが、真っ先に、本家を過去のものとして葬ってしまうのです。

_________
http://d.hatena.ne.jp/femmelets/touch/20120215/1329232117
ジル・ドゥルーズ「思い出すこと」(聞き手:ディディエ・エリボン、鈴木秀亘訳、『批評空間』誌第II期第9号、
太田出版)、p.11-12

〈マルクス〉

私は共産党に入ったことは一度もありません。(精神分析を受けたことも一度もありません。そういった
ことはすべて免れました。)60年代以前は、自分をマルクス主義者だと思ったこともありません。共産党員
にならなかったのは、党が党員の知識人に何をさせていたかを見て知っていたからです。

当時私がマルクス主義者でなかったわけは、つきつめればマルクスを知らなかったからだということもこと
わっておかなければなりません。

マルクスを読んだのはニーチェと同じ時期でした。素晴らしいと思いました。彼の生み出したさまざまなコン
セプトは、私にとって今でも役立つものです。そこにはひとつの批判、根本的な批判が存在しています。『アンチ
・オイディプス』と『千のプラトー』はマルクスに、マルクス主義に完全に貫かれた作品です。現在私は、
自分を完全にマルクス主義者だと考えています。例えば、「管理社会」について書いた記事は(月刊ロートル
・ジュールナル1号 1990年5月号に掲載、ミニュイ社刊『記号と事件』に収録、邦訳河出書房新社)、マルクス
が彼の時代には知りえなかったことを語っているにもかかわらず、完璧にマルクス主義的なテクストです。

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクス
は終ったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを
分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。

〈著作〉

次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。

〈絵を描くこと〉

私は今もう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後
は、絵を描くでしょう。

5:39 午後  
Blogger yoji said...


プラトンの主題とは一
定義を与えることだ
例えば 政治家とは何かという問いに "人間にとっての牧人である"と答える
すると大勢が来て こう言う “政治家とは私たちのことだ"
まず羊飼いが来て言う "私は人間に服を与える"
“私こそ真の牧人だ"
肉屋がやってきて言う “食を与える私たちが真の牧人だ"
こうしてどんどん集まってくる
私に起きたのもこれだ
折り紙をする人々が “襞とは私たちのことだ"と言った
そのあと同じ手紙が来てびっくりした サ一ファ一たちからだった
一見して折り紙とは無関係だ
サ一ファ一たちはこう言った
"この本に賛成します 私たちがしていることは一”
"自然の襞の中に 入り込むことです"
"私たちにとって襞とは... 自然とは動的な襞の総体です"
"そして私たちは波の襞に入り込む"
“波の襞に住まうこと それが私たちの任務です"
すばらしい表現だ "波の襞に住まう"
彼らはサ一フィンをするだけでなく それを思考している
これもあとでまた話そう
スポ一ツのところで
 先ですね
そうだね ともあれ...
 折り紙をする人々との間に"出会い"が?
"出会い"だ
哲学によって 哲学の外に出ること一
それは私にいつも起きていると思う

5:50 午後  
Blogger yoji said...

abc




 次はCで やや広いテ一マです
何だい?
 "教養(Culture)"です
ふむいいだろう


私は教養もなく 知識人でもない
つまり知識のス卜ックを持っていない
それで何の問題もない、
私が死ぬ時、何か貯め込んでないかを探しても無駄だ
私は貯め込まない
知識を蓄えておくようなことはしない
特定の仕事のために私は学ぶが 学んだすベては、
仕事が終われば忘れる
だから10年経った頃に似たような主題をまた再開せざるをえなくなると
一からやり直しだ
いくつか例外はある
スピノザは私の核心部にあるから忘れない




 次はCで やや広いテ一マです
何だい?
 "教養"です
ふむいいだろう
 あなたは~
 自分を"教養がある"とは言いません
 つまり あなたが本を読んだり
 映画などを見るのは ある特定の知識を得るためです
 仕事に必要な知識であり ~
 進行中の仕事は明確で 限定されています
 しかし一方で あなたは 土曜には展覧会や映画に行きます
 様々な文化領域に触れる努力を しているようにも思われます
 文化的なことを習慣的に行っている
 つまり 外に出て 見聞を広めることに努めながらも~
 自分に教養は全くないと言います この逆説を説明してください


 教養がないのですか ?
ない 私がその言葉で 何を意味したかったかというと一
私は知識人らしい生活は していないということだ
教養人らしい生活も してはいない
教養人を見ると 私は呆然としてしまう
賛嘆ではない その気持ちもないことはないが...
とにかく 唖然とする
教養人において目を引くのは~
唖然とするくらい 豊富な知識だ
知識人の中に そういった人間は大勢いるが
連中はなぜか何でも知っている
ルネサンス期のイ夕リアの歴史も
北極の地理も
総目録が作れるだろうね
連中は何でも知っていて その話ができる
ぞっとする


私は教養もなく 知識人でもない
つまり知識のス卜ックを持っていない
それで何の問題もない、
私が死ぬ時 何が貯め込んでないかを探しても無駄だ
私は貯め込まない
知識を蓄えておくようなことはしない
特定の仕事のために私は学ぶが 学んだすベては~
仕事が終われば忘れる
だから10年経った頃に~
似たような主題をまた 再開せざるをえなくなると
一からやり直しだ
いくつか例外はある スピノザは~
私の核心部にあるから忘れない 頭で覚えているだけではない
その他は忘れる
さて 私はなぜ教養人を 尊敬しないのか?
 表面的な知識で意見を言うから ?
いや そうではない
連中は話し方を知っている まず連中は旅をする
歴史や地理の中を旅し あらゆることを話すことができる
テレビで見るが全く唖然とする

大いに賛嘆すると 言ってもいいのは~
ウンベル卜・エ一コのような人の場合だ まさに驚異的だ
ボタンを押せば 答えが出るがのようだ
分かって話しているのだろうが~
羨ましくはない ただ呆然とするだけだ
教費とは何か? 思うにその多くは話すことに存する
もう講義しなくなったから 余計にこう思う
"話すことはどこか不潔だ"
執筆は清潔だ 話すことは不潔で 書くことは清潔だ
不潔というのは 愛想を振りまくからだ
私は討論会が我慢ならない
学生の頃から 討論会が耐えがたかった
私は旅もしない なぜか?
かつてはしたが もうしなくなった
健康の理由だ
知識人の旅は道化芝居だ
旅というより お喋りの場所を 変えているだけだ
あっちで話し こっちで話す
昼食会では その土地の知識人と話す
連中は話すことをやめない
私はこういうお喋りに 耐えられない
私の考えでは 教養は話し言葉と 結びついている
その意味で 私は教養が嫌いだ 我慢ならない
 その点は後ほど伺います
 "話すことは不潔だ"とのことですが あなたは偉大な教師でした
別の話だ
 ともあれ あとで戻りましょう Pのところは~
 "教師"に関わります "愛想"のこともまたお聞きします

1:12 午前  
Blogger yoji said...

ベニー・ヒルはアメリカの志村けん
https://youtu.be/6bxoAsvhcOI
http://ameblo.jp/kumaga19/entry-11286824127.html

9:57 午前  
Blogger yoji said...

CP:そして、今日とてもファッショナブルなこの人権の尊重は革命的なものではありませんか? それは反対です...

GD:人権の尊重は... ...本当に、いやらしい提案をしたいところです。 それは、私たちが話していた貧しい時期についてのその柔らかい考えの非常に多くの部分です。 それは純粋な抽象です。 人権、それは何ですか? それは純粋な抽象です。 空です。 これはまさに欲望のために以前に言われたこと、または私が欲望のために言おうとしていたことです。 欲望は、オブジェクトを立てることから成り立っているのではなく、私はこれを望んでいます。 たとえば、自由などは必要ありません。 ゼロです。 私たちは状況にあります。

(...)
https://www.oeuvresouvertes.net/spip.php?article910

https://translate.google.com/translate?sl=auto&tl=ja&u=https%3A%2F%2Fwww.oeuvresouvertes.net%2Fspip.php%3Farticle910

2:10 午前  
Blogger yoji said...

鱧の本質とは 対象をき丁ち立てることではないし一

欲望の本質とは対象を

2:12 午前  
Blogger yoji said...

ジル・ドゥルーズの「アベセデール」
監:國分 功一郎
著:ジル・ドゥルーズ













内容紹介
没後20年。今ここによみがえる、ジル・ドゥルーズの珠玉の言葉たち!

AはAnimal(動物)、BはBoisson(飲酒)……。AからZのアルファベットごとのテーマでインタビュー。文章では難解な哲学が、飾らない言葉で語られる最上級の知的エンターテインメント! 字幕翻訳チームには國分功一郎氏、千葉雅也氏などのメンバーを迎え、解説ブックには内容解説のほかに両氏の対談も収録した豪華保存版。

【冊子内容】
解説「哲学とメディア」 (國分功一郎)
各項目解説 (國分功一郎)
対談「アベセデール」の地図を作成する(國分功一郎、千葉雅也)
ドゥルーズの著作邦訳一覧

【字幕翻訳者及び担当項目】
國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
高崎経済大学准教授。哲学。
「動物A comme Animal」「左派G comme Gauche」「旅行V comme Voyage」「ウィトゲンシュタインW comme Wittegenstein」「ジグザグZ comme Zigzag」

千葉雅也(ちば・まさや)
立命館大学准教授。哲学。表象文化論。
「欲望D comme Desir」「子ども時代E comme Enfance」「忠実さF comme Fidelite」

三浦哲哉(みうら・てつや)
青山学院大学准教授。映画研究。
「飲酒B comme Boisson」「教養C comme Culture」「神経科学N comme Neurologie」

角井誠(すみい・まこと)
早稲田大学等非常勤講師。映画研究。
「オペラO comme Opera」「教師P comme Professeur」「問いQ comme Question」「抵抗R comme Resistance」

須藤健太郎(すどう・けんたろう)
パリ第三大学博士課程。映画史。
「哲学史H comme Histoire de la philosophie」「アイデアI comme Idee」「病気M comme Maladie」

岡嶋隆佑(おかじま・りゅうすけ)
慶應義塾大学大学院博士課程。哲学。
「喜びJ comme Joie」「カントK comme Kant」「文学L comme Litterature」「文体S comme Style」「テニスT comme Tennis」「一者U comme Un」
内容紹介を閉じる▲

2:15 午前  
Blogger yoji said...

ジル・ドゥルーズの「アベセデール」 | 出版書誌データベース
https://www.books.or.jp/books/detail/1943508

ジル・ドゥルーズの「アベセデール」

没後20年。今ここによみがえる、ジル・ドゥルーズの珠玉の言葉たち!

AはAnimal(動物)、BはBoisson(飲酒)……。AからZのアルファベットごとのテーマでインタビュー。文章では難解な哲学が、飾らない言葉で語られる最上級の知的エンターテインメント! 字幕翻訳チームには國分功一郎氏、千葉雅也氏などのメンバーを迎え、解説ブックには内容解説のほかに両氏の対談も収録した豪華保存版。

【冊子内容】
解説「哲学とメディア」 (國分功一郎)
各項目解説 (國分功一郎)
対談「アベセデール」の地図を作成する(國分功一郎、千葉雅也)
ドゥルーズの著作邦訳一覧

【字幕翻訳者及び担当項目】
國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
高崎経済大学准教授。哲学。
「動物A comme Animal」「左派G comme Gauche」「旅行V comme Voyage」「ウィトゲンシュタインW comme Wittegenstein」「ジグザグZ comme Zigzag」

千葉雅也(ちば・まさや)
立命館大学准教授。哲学。表象文化論。
「欲望D comme Desir」「子ども時代E comme Enfance」「忠実さF comme Fidelite」

三浦哲哉(みうら・てつや)
青山学院大学准教授。映画研究。
「飲酒B comme Boisson」「教養C comme Culture」「神経科学N comme Neurologie」

角井誠(すみい・まこと)
早稲田大学等非常勤講師。映画研究。
「オペラO comme Opera」「教師P comme Professeur」「問いQ comme Question」「抵抗R comme Resistance」

須藤健太郎(すどう・けんたろう)
パリ第三大学博士課程。映画史。
「哲学史H comme Histoire de la philosophie」「アイデアI comme Idee」「病気M comme Maladie」

岡嶋隆佑(おかじま・りゅうすけ)
慶應義塾大学大学院博士課程。哲学。
「喜びJ comme Joie」「カントK comme Kant」「文学L comme Litterature」「文体S comme Style」「テニスT comme Tennis」「一者U comme Un」
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2:16 午前  

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