イネス Alfred Mitchell-Innes (1864 – 1950)
A. M.イネス著「貨幣とは何か?」(上) 訳者楊枝嗣朗 (WhatisMoney?byA.Mitchell Innes, in The Banking Law Journal, May 1913, pp.377-408) 【訳者解題】2020/03
Innes 1909 東洋ノート(Alexander Valchyshenの講演より)イネスとラフカディオ・ハーン1904
ケインズ、イネス書評1914
イネス本
信用創造(&マクラウド)
https://nam-students.blogspot.com/2019/05/blog-post_51.html
古川顕
https://nam-students.blogspot.com/2019/02/2014.html
イネス:
【翻訳】アルフレッド・ミッチェル・イネス『貨幣とは何か?』① (~⑥)1913
【翻訳】アルフレッド・ミッチェル・イネス『貨幣の信用理論』① (~③)1914
レイ2019^2012
スチュアートとイネス
https://jshet.net/docs/conference/82nd/shibata.pdf
古川顕
https://nam-students.blogspot.com/2019/02/2014.html
福田徳三
デニス・シュマント=ベッセラ Denise Schmandt-Besserat
:トークンとは?
MMT翻訳リンク
https://www.fukurou.win/category/mmt/イネス:
【翻訳】アルフレッド・ミッチェル・イネス『貨幣とは何か?』① (~⑥)1913
:割り符、古代バビロニア
【翻訳】アルフレッド・ミッチェル・イネス『貨幣の信用理論』① (~③)1914
②
租税
③
減価
レイ2019^2012
10.3
ミッチェル ・イネスは 、信用の基本原則を提示した 。つまり 、債務証書の発行者は 、支払いと引き換えに債務証書を受け戻さなければならない ( W r a y [ 1 9 9 8 ] ) 。我々は 、これを 「償還可能性の原則 」と呼ぶ 。つまり 、債務証書の保有者は 、発行者に対して債務証書を渡すことで自らの支払いを実行できる 。なお 、保有者は債務証書を最初に受け取った者である必要はない ─ ─第三者でもよい 。第三者が発行者に負債を負っていれば 、その債務証書は第三者の負債を消滅させるために発行者に返却され得る 。もちろん 、その決済は双方の負債 (発行者の負債と第三者の負債 )を消滅させる 。
スチュアートとイネス
https://jshet.net/docs/conference/82nd/shibata.pdf
- ケインズ貨幣論より
ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるい
は慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの
特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法
的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがっ
て国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのであ
る。そして表券主義的貨幣すなわち国家貨幣の時代は、国家が、一般に行なわれている計算貨幣に対して、いかなる
ものを貨幣としてこれに照応させるかを布告する権利を要求したときに--国家が辞典の使用を強制するだけでな
く、辞典を作る権利をも要求したときに--達せられた。今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義
的[貨幣〕である。
全集#5:4~5頁
Keynes, J. M.. 1914. “What is Money?”, review article in Economic Journal, 24( 95), September, 419–421.
ケインズ全集vol.11未邦訳
ケインズのイネス書評
原文3頁全文サンプルで読める
邦訳はないが
後述古川論考より部分訳、
《ケインズは, 当時自らが編集委員を務めていたEconomicJournal誌においてイネスの第1論文を取り上げるが, 「信用は現金 (貨幣) よりはるかに古い」, 換言すれば, 「信用は貨幣に先立つ」 と喝破するまったく無名の研究者の一言は, おそらく評者としてのケインズを驚かせたことであろう。 イネスの論文に対するケインズの書評は, 次のような記述から始まっている。 「この論文の著者は, 貨幣の理論においてマクラウドの継承者である。 誤り~もし私がこの信用の効果についての理論が誤っていると考えるのが正しいのであれば ~は常套的なものであって, この書評においてそれを議論するには値しないだろう。 以下に示されるように, 論文の明確な価値は異なった源から生じているもので, 著者の力量は理論的なものというより歴史的な側面にある」 (Keynes [1914] p.419 )。
…
ケインズは書評の最後に次のような結論を述べている。 「この論文のイネス氏の展開は疑いなく興味深い。 ……彼が納得させようとする主な歴史的結論は大いに根拠があると私は考えているが, [それは] 19世紀半ばの“健全通貨”ドグマに過度に影響を受けた論者によって不当にも無視されてきた。内在価値のある貨幣のみが“健全である”と考えられたのみならず, 通貨の歴史においては, 内在価値のある貨幣は古代の原始的な理想を示すものであるとしばしば想定されてきた。 イネス氏は, そのような歴史はまったくの神話であることを効果的に示したのである」 (Keynes[1914] p.21)。 ようやく書評の最後になってケインズはイネスの論文を評価するのである。 最初は手厳しくけなして最後は誉め上げるケインズの手腕は見事としか言いようがない。》
参考:
NAMs出版プロジェクト: ホートレー(ホートリー)=小谷清理論
NAMs出版プロジェクト: ケインジアンの交差図
http://nam-students.blogspot.jp/2015/03/blog-post_12.html
NAMs出版プロジェクト: バンコール(経済学)
http://nam-students.blogspot.jp/2016/08/blog-post_11.html
http://nam-students.blogspot.jp/2016/08/blog-post_11.html
https://nam-students.blogspot.com/2019/04/randall-wraymodern-monetary-theory2012.html
負債論 貨幣と暴力の5000年 デヴィッド・グレーバー 著
Money, then, is credit and nothing but credit. A's money is B's debt to him, and when B pays his debt, A's money disappears. This is the whole theory of money.
~社会科学の系譜とMMT~
1900年 世界恐慌 2000年 世界金融危機
人類学 ┏イネス ポランニー グレーバー
┃グリアソン インガム
社会学 ┃ジンメル
┃ ウェーバー
リスト ⬇︎ ⬆︎
ドイツ ┃ ┃
┏歴史学派┃クナップ(→ケインズ、ラーナー、コモンズ)
⬇︎ ┗━━┓
┃シュンペーター┃シュンペーター━━━━┓
┃ ┃ ⬇︎ ゴドリー [☆=MMT]
┃ケインズ ┗━━━➡︎ケインズ ➡︎ ミンスキー ➡︎ レイ☆、ケルトン☆
┃ポスト・ケインズ派┏━━┛┗➡︎ラーナー ⬆︎ ミッチェル☆、キーン
┃ ⬆︎ ┃ カルドア ムーア
┃マルクス ┃ カレツキ━━━━┛ ラヴォア
┃ ┃ (ケインズ➡︎┓)
┗旧制度学派 コモンズ (ジョン・ガルブレイス)➡︎ ジェームス・ガルブレイス☆
┏┛
⬆︎ エクルズ グッドハート
実務家 ホートリー モズラー☆
(ケインズ)
日本 西田昌司☆、藤井聡☆
三橋貴明☆、中野剛志☆
(リスト➡︎┛)
人類学 ┏イネス ポランニー グレーバー
┃グリアソン インガム
社会学 ┃ジンメル
┃ ウェーバー
リスト ⬇︎ ⬆︎
ドイツ ┃ ┃
┏歴史学派┃クナップ(→ケインズ、ラーナー、コモンズ)
⬇︎ ┗━━┓
┃シュンペーター┃シュンペーター━━━━┓
┃ ┃ ⬇︎ ゴドリー [☆=MMT]
┃ケインズ ┗━━━➡︎ケインズ ➡︎ ミンスキー ➡︎ レイ☆、ケルトン☆
┃ポスト・ケインズ派┏━━┛┗➡︎ラーナー ⬆︎ ミッチェル☆、キーン
┃ ⬆︎ ┃ カルドア ムーア
┃マルクス ┃ カレツキ━━━━┛ ラヴォア
┃ ┃ (ケインズ➡︎┓)
┗旧制度学派 コモンズ (ジョン・ガルブレイス)➡︎ ジェームス・ガルブレイス☆
┏┛
⬆︎ エクルズ グッドハート
実務家 ホートリー モズラー☆
(ケインズ)
日本 西田昌司☆、藤井聡☆
三橋貴明☆、中野剛志☆
(リスト➡︎┛)
中野剛志氏作成の図に、ミッチェル、キーン、リスト、日本人を加筆。グリアソンの時期を移動。コモンズからミンスキーの線を削除。
マルクス、ゴドリーも入れた。
MMT is a relatively new approach that builds on the insights of John Maynard Keynes, Karl Marx, A. Mitchell Innes, Georg F. Knapp, Abba Lerner, Hyman Minsky, Wynne Godley, and many others. It “stands on the shoulders of giants”, so to speak. (Wray2012)
参考:
貨幣に関する歴史実証の視点 ―貨幣博物館リニューアルによせて― 鎮目雅人*
「欲望の二重の一致」の制約を貨幣の起源と結び付けるアリストテレスの説明は、時代を超えて多くの論者によって繰り返し言及されることとなる。例えば、アダム・スミス(1723-1790 年)は『国富論』の中で、以下のように説明する。 一方に、ある商品を自分が必要とする以上に持っている人がおり、他方に、それを持っていない人がいる状況を考えてみよう。この場合、一方は余った部分を手放そうとし、他方はそれを手に入れようとする。しかし、手放そうとする側がそのときに必要とするものを、手に入れようとする側がたまたま持っていなければ、交換は成立しない。このような状態から生まれる不便を避けるために、分業が確立した後、どの時代にも賢明な人はみな、自分の仕事で生産したもの以外に、他人が各自の生産物と交換するのを断らないと思える商品をある程度持っておく方法をとったはずである7。 ここでスミスは、「はずである」という表現を用いている。このことは、スミスの見解が歴史的事象の観察から導かれたものというよりは、理論的考察に基づく推論であることを示している。 スミスをはじめ、「欲望の二重の一致」の制約と貨幣の起源を結びつける論者は、さまざまな商品の中で他の商品との交換に適した性質を持つ商品(例えば貴金属)が徐々に商品貨幣としての地位を確立していった、との見解を示す。こうした見解を広める役割を果たした有力な経済学者のひとりにカール・メンガー(1840-1921年)が挙げられる。メンガーは、商品によって「販売可能性」が異なるという点を強調し、「販売可能性が高い商品が、他の商品との交換を目的として保有される」貨幣として選ばれると論じた。 … Under these circumstances, when any one has brought goods not highly saleable to market, the idea uppermost in his mind is to exchange them, not only for such as he happens to be in need of, but, if this cannot be effected directly, for other goods also, which, while he did not want them himself, were nevertheless more saleable than his own…Men have been led, with increasing knowledge of their individual interests, each by his own economic interests, without convention, without legal compulsion, nay, even without any regard to the common interest, to exchange goods destined for exchange (their “wares”) for other goods equally destined for exchange, but more saleable 8 . カール・マルクス(1818-1883 年)は、その著作の中で貨幣に関して広汎かつ詳細に記述している。その際、貨幣の起源についてマルクスは「商品貨幣起源説」を採用する。すなわち、「貨幣の分析におけるおもな困難は、貨幣が商品そのものから発生するということが理解されれば、たちまち克服される」とする9。そして、他の商品との交換が容易な物理的属性(任意に分割しうること、各部分が一様であること、ひとつひとつが無差別であること、使用価値の耐久性があること)を持つ商品が貨幣となるとして、「貴金属はこれらの属性を非常によくそなえている」とする10。 マルクスがこのような立場を採った背景には、当時の社会経済情勢とその下でマルクスが抱いていた問題意識が影響しているものと考えられる。マルクスの主たる関心は、19 世紀の資本主義の
下での産業革命の進行により悲惨な状況下におかれていた労働者の生活実態の原因究明とその解決の道筋の模索にあった。また、マルクスが著作活動を行っていた時期は国際金本位制の確立期にあたっており、18世紀以降のイギリスで本位貨幣としての地位を確立していた金が国際貨幣としての地位を確立するに至る過程にあった。マルクスは、当時における資本主義経済の問題点を描写する経済モデルを構築することに重点を置き、固有の使用価値を持つさまざまな商品が貨幣=金と交換されるにあたり、交換価値と本来その商品が持っていた使用価値との間に乖離が生じるとしたものと推測される。 1-4.「信用貨幣起源説」の系譜 「欲望の二重の一致」の制約が存在することは、必ずしも特定の商品が貨幣として選ばれることとは直結しない。実在する特定の商品(例えば貴金属)を貨幣として利用せずに、当該制約を解消する手立ても考え得る。実際、「商品貨幣起源説」は理論仮説として繰り返し提示されてきたにもかかわらず、証拠としては断片的な事例が挙げられているに過ぎず、必ずしも歴史的に実証されたものではない。 「欲望の二重の一致」が成立していない状況においても、取引の当事者間で相互の信用が存在していれば取引は成立しうるとの見解を示す論者もある。例えば、スタンレー・ジェボンズ(1835-1882 年)は、当事者間の信用を利用することにより、貨幣を使わなくても「欲望の二重の一致」の制約を克服できると考えていた。ただしジェボンズは、貨幣による取引と信用による取引とを区別しており、信用が貨幣の起源となるとの見方は取っていない11。 貨幣と信用との関係は、最近の貨幣理論でも論じられている。清滝信宏とジョン・ムーアは、「欲望の二重の一致」が成立しない状況下で、商品の買い手が売り手に対して将来の債務返済を確実にコミットすることが可能であれば貨幣がなくても取引が成立するとしたうえで、そうしたコミットメントができない状況において、貨幣が存在意義を持つと論じている。こうした考え方に立てば、特定の商品が貨幣に転化したわけではないので、貨幣の素材が金属であるか紙片や木片であるかは重要ではない。
さらに進んで、貨幣の起源を当事者間の債権債務関係に求め、信用こそが貨幣の起源であるとする論者(ラスキン、イネス等)もある。本稿では、貨幣の起源についてのこうした説明を「信用貨幣起源説」と呼ぶことにする。例えば、美術評論家であるとともに社会・経済・政治問題についても幅広く論陣を張ったジョン・ラスキン(1819-1900 年)は、「貨幣は、いわば財産の権利証書(title-deed of an estate)であり、仮にそれが失われても財産自体がなくなるわけではなく、その財産権の所在が問題となるに過ぎない」と述べている。
歴史学者・法学者ミッチェル・イネス(1864-1950 年)は、アダム・スミスを批判的に引用しつつこの点をより明示的に論じ、歴史的にみると、初期の貨幣は商品貨幣としてではなく、むしろ取引当事者間の債権債務関係(信用)の標章物から発生したとの見方を示した。
「商品貨幣起源説」を否定し国家の法権力に貨幣の起源を求める「貨幣国定説」を掲げる代表
的な論者としてゲオルク・フリードリッヒ・クナップ(1842-1926 年)が挙げられる。クナップは、『貨幣国定学説』15において、貨幣を「表券的支払要具」16と定義した。具体的には、劇場のクロークで「脱いだ外套の返還を要求すべきことに対する証拠」として渡される引替札の例を挙げ、「記号を有し且法制が素材より独立した充用を見出している、一定の形態を具えた動かし得る物」17として貨幣を捉える。そのうえで、「国家は、法の監督者として…支払要具たるの性質は一定の記号を有する箇片それ自身に付着せるものにして、箇片の素材に固着せるものにあらざることを宣言する」18と述べる。政府が債権債務関係を規定すると考える点に留意する必要はあるが、こうした議論も、社会内部の債権債務関係が貨幣の根底にあるという点では「信用貨幣起源説」に近いということができる。 ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946 年)の見解は、「信用貨幣起源説」と親和的である。ケインズは、イネスの論文が公表された翌年の 1914 年に、自らが編集長を務めていた The Economic Journal 誌に書評を載せ、「イネス氏の示した歴史的結論は確固たる根拠に基づいたものであるが、19 世紀中葉の『健全貨幣』の教義に過度に影響された著者たちによって無視されてきた」と述べた19。ケインズは、同じ号にクナップの『貨幣国定学説』の信奉者フレデリック・ベンディクセンによる同書の解説記事に対する書評を載せ、「貨幣に関する古き『地金論者(metallist)』的な見方は迷信に基いたものである」としたうえで、「この古き『地金論者』的な見方とそれに基づく銀行券発行規制は通貨改革の障害となってきた」ので、「こうした見方を撲滅するための基礎を築くことができる教義は、世界にとって非常に有益ではなかろうか」と述べた20。 ケインズは、1930 年に刊行した『貨幣論』の中で、「貨幣は文明にとって不可欠な他の幾つかの要素と同様に、われわれが数年ばかり前までそのように教えられて信じていたものよりも、はるかに古い制度である。その起源は、氷河の氷が溶けつつあった時代の霧の中へ没して」いるとした21。そして、「貨幣の鋳造という行為が、その結果として通常それに帰せられているほど重要な変革をもたらしたとは思わない」とし、「表券主義的貨幣あるいは国家貨幣への推移は、恐らくはそれにはるかに先行していた」と述べた22。
人間関係を研究する社会学の学問体系を構築することに力を注いだゲオルク・ジンメルの主著のひとつに『貨幣の哲学』(1900)がある35。この中でジンメルは、交換を、何らかの犠牲を払って自らが欲するものを獲得する行為として、物々交換より広義に捉える事者に対象物の相対的価値が客観的に認識されると考える36。そして、交換を通じて初めて当37。その際、そこで認識される価値(ジンメルはこれを「経済的価値」と呼ぶ)とは、交換を行う当事者たちが、ある時点で交換の相手方からあるものを獲得するために自らが提供してもよいと考えた犠牲の限度であって、交換の対象となるものに予め客観的価値が設定されているわけではないと考える38。したがって、外見上は同じ形状をした物品であっても、時と場合によって価値は異なってしかるべきという点を強調する。なお、ジンメルは、自らが欲するものを獲得する行為として、相手との合意に基づく互恵的行為である交換と、相手との合意に基づくことなく一方的に行われる略奪とを区別したうえで、交換と相通ずる行為として贈与の互酬性にも言及している39。 ジンメルにおける価値(経済的価値)は、マルクスにおける交換価値の概念に近い。マルクスが、固有の使用価値を持つさまざまな商品が貨幣と交換されるにあたり、交換価値と本来その商品が持っていた使用価値との間に乖離が生じるとの論理を展開したのに対し、ジンメルは、人々が価値(経済的価値)を認識するのはあくまで交換を通じてのことであり、マルクスの意味で有用な財であっても、何らかの犠牲を払わずに手に入れることができるものは経済的価値がないと考えた。なお、ジンメルはマルクスとは異なり、「本来その商品が持っていた使用価値」という概念を前提とせず、取引の都度、商品の経済的価値が当事者間で認識されると考える40。 そのうえでジンメルは、貨幣を、交換における犠牲と欲求の相対的な関係を表象するものとして捉える41。すなわち、貨幣の本質を価値の表象と考え、貨幣を、異なる主体の間で価値を伝達する機能を持つものとして捉える。そして、貨幣の素材如何(貴金属か紙かなど)に関わらず、貨幣が表象している価値の中身が重要と考える42。ジンメルの主張を価値論の観点からみると、客観的価値学説に対置されるものとしての、主観的価値学説の系譜に連なる43。
4「欲望の二重の一致(double coincidence of wants)」という表現を初めて使ったのはジェボンズであるが、後述のとおり、その概念自体はアリストテレスまで遡る。 5グレゴリー・マンキュー(足立英之・地主敏樹・中谷武・柳川隆訳)『マンキュー マクロ経済学Ⅰ』入門編、第3版、東洋経済新報社、2011年「第4章 貨幣とインフレーション」110頁。 6アリストテレス(神崎繁訳)『アリストテレス全集』第15巻、2014年、202頁。 7アダム・スミス(山岡洋一訳)『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』日本経済新聞出版社、2007年「第4 章 通貨の起源と利用」25-26頁。なお、『国富論』の初刊は1776年。 8Menger, karl. “On the Origin of Money,” Economic Journal, vol.2, June 1892, p.248. 9カール・マルクス(杉本俊朗訳)『経済学批判』大月書店、1953年(初版は1859年)76頁。 10 同上55頁。 11 Jevons, W. Stanley. Money and the Mechanism of Exchange, Henry S. King & Co., 1875.
12 Kiyotaki, Nobuhiro, and Moore, John, “Evil Is the Root of All Money,” The American Economic Review, vol.92, No.2, May, 2002, p.62. 13 Ruskin, John, Munera Pulveris: Six Essays on the Elements of Political Economy, London, Smith Elder and Company, written and first published in 1862, 1863, sold in 1872, reprinted in The Works of John Raskin, volume XVII, 1905, pp.157-8.(ラスキン、宇井丑之助訳「政治経済要義論―塵のたまもの―」『ラスキン政治経済論集』史泉房、1981年) 14 Innes, A. Mitchell, “What is Money?” The Banking Law Journal, May 1913, reprint, edited by Wray, L. Randall, Credit and State Theories of Money: The Contributions of A. Mitchell Innes, Edward Elger, Cheltenham, UK and Northampton MA, USA, 2004, p.27. 15 Knapp, Georg Friedrich, Staatliche Theorie des Geldes, 1905, Leipzig : Duncker & Humblot. (クナップ、宮田喜代蔵訳『貨幣国定学説』岩波書店、1922年) 16 同上48頁。 17 同上40頁。 18 同上49-50頁。 19 John M. Keynes, “Review: What is Money? By A. Mitchell Innes,” The Economic Journal, 24-95, September 1914, pp.419-421. 20 John M. Keynes, “Review: Geld und Kapital. By Friedrich Bendixen,” The Economic Journal, 24-95, September 1914, pp.417-419. 21 ジョン・メイナード・ケインズ(小泉明・長澤惟恭訳)『ケインズ全集 第5巻 貨幣論I』東洋経済新報社、1979年(原書の初版は1930年)、14頁。 22 前掲ケインズ(1979)12頁。
…
35 Georg Simmel, Philosophie des Geldes, 1900.(ジンメル、元浜清海訳『ジンメル著作集2 貨幣の哲学(分析篇)』白水社、1981年)。前述の福田は、東京高等商業学校で教鞭を執っていた際に、自らのゼミでジンメルの『貨幣の哲学』を講読していた。岸川富士夫「日本における『貨幣の哲学』」、岩崎信彦・廳茂編『「貨幣の哲学」という作品:ジンメルの価値世界』世界思想社、2006年、240頁。 36 前掲ジンメル55頁、61-64頁。 37 同上57-58頁、60頁、83頁。
38 同上82-83頁、86-89頁。 39 同上93-97頁。 40 ジンメルは、この点を説明するために、以下のような比喩を用いている。「だれでも飢饉の際には一切れのパンの代わりに宝石を手放すが、それはこの与えられた事情のもとでは前者が後者よりも価値があるからである。…飢えた者が宝石を手放すという事実によって、彼が紛うことなく証明するのは、パンのほうが彼にとっては価値があるということである。それゆえ、交換つまり犠牲提供の瞬間においては、交換によって獲得される対象の価値が手放される対象の価値の限度をなすのであって、後者はせいぜいそこまで上昇しうるだけである。」前掲ジンメル72-73頁。 41 前掲ジンメル136-137頁、147-148頁。 42 同上134頁、201頁。「貨幣は人間と人間とのあいだの関係、相互依存関係の表現であり、その手段である。すなわち、ある人間の欲望の満足をつねに相互に他の人間に依存せしめる相対性の表現であり、その手段なのである。(201頁)」 43 マルクスとジンメルの貨幣に対する認識の違いについては、ナイジェル・ドッド(二階堂達郎訳)『貨幣の社会学』(1998年)141頁を参照。主観的価値学説については、例えば、高橋誠一郎「古典的価値学説と効用概念」『三田学会雑誌』第19 巻第2号、1925年2月、153-177頁、および、丸山徹「高橋誠一郎教授の主観的価値学説前史」『三田学会雑誌』第78 巻第4号、1985年10月を参照。
古川顕 イネスとケインズの貨幣論
https://konan-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2991&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
https://konan-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2991&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
49p
^
Keynes, J. M. [1914] “Review” The Economic Journal, vol. 24, pp. 419421 (in The Collected Writings of John Maynard Keynes ( JMK) ed. by E. Johnson, and D. Moggridge (London: Macmillan) XI, pp. 404406. 1983).
Keynes, J. M. [1920] “Review of Currency and Credit,” The Economic Journal, vol. 30, pp. 362365 (The Collected Writings of John Maynard Keynes ( JMK) ed. by E. Johnson, and D. Moggridge (London: Macmillan), vol. 31, pp. 411414),
Keynes, J. M. [(19201926) 1982] “Keynes and Ancient Currencies” in The Collected Writings of John Maynard Keynes ( JMK) ed. by E. Johnson, and D. Moggridge (London: Macmillan), vol.28
Keynes, J. M. [(1930) 1971] A Treatise on Money I (1930), 1971 in The Collected Writings of John Maynard Keynes ( JMK) ed. by E. Johnson, and D. Moggridge (London: Macmillan), 小泉明・長澤惟恭訳 『ケインズ全集第5巻 貨幣論Ⅰ―貨幣の純粋理論―』 東洋経済新報社, 1979年。 in The Collected Writings of John Maynard Keynes ( JMK) ed. by E. Johnson, and D. Moggridge (London: Macmillan),
69:
ケインズは, 当時自らが編集委員を務めていたEconomicJournal誌においてイネスの第1論文を取り上げるが, 「信用は現金 (貨幣) よりはるかに古い」, 換言すれば, 「信用は貨幣に先立つ」 と喝破するまったく無名の研究者の一言は, おそらく評者としてのケインズを驚かせたことであろう。 イネスの論文に対するケインズの書評は, 次のような記述から始まっている。 「この論文の著者は, 貨幣の理論においてマクラウドの継承者である。 誤り~もし私がこの信用の効果についての理論が誤っていると考えるのが正しいのであれば ~は常套的なものであって, この書評においてそれを議論するには値しないだろう。 以下に示されるように, 論文の明確な価値は異なった源から生じているもので, 著者の力量は理論的なものというより歴史的な側面(9)にある」 (Keynes [1914] p.419 )。 すなわちケインズは, 書評の対象となる
70:
ケインズは書評の最後に次のような結論を述べている。 「この論文のイネス氏の展開は疑いなく興味深い。 ……彼が納得させようとする主な歴史的結論は大いに根拠があると私は考えているが, [それは] 19世紀半ばの“健全通貨”ドグマに過度に影響を受けた論者によって不当にも無視されてきた。内在価値のある貨幣のみが“健全である”と考えられたのみならず, 通貨の歴史においては, 内在価値のある貨幣は古代の原始的な理想を示すものであるとしばしば想定されてきた。 イネス氏は, そのような歴史はまったくの神話であることを効果的に示したのである」 (Keynes[1914] p.21)。 ようやく書評の最後になってケインズはイネスの論文を評価するのである。 最初は手厳しくけなして最後は誉め上げるケインズの手腕は見事としか言いようがない。ところで, ケインズの書評には無視できない一つの大きな問題があるように筆者には思われる。 それは, ケインズがイネスの指摘する 「アダム・スミスの誤謬」 (Innes [1913] p.23) について, まったく無視していることである。 その意図は分からない。 イネスが指摘するような誤謬ではないと思ったのかもしれないし, 書評としての字数の制約による可能性もある。 しかし,
74:
こうしてみると, ケインズは 「スミスの誤謬」 を的確に指摘するイネスの重要な指摘をまったく見抜けなかったか, あるいは彼自身の考え方とは相容れなかったと思わざるを得ない。 ケインズは 『貨幣論Ⅰ』 において, 「人々・・・・・・・・・・・・・・・・・・・が計算貨幣を採用した瞬間から, 貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継・ぐに至ったのである」 (Keynes[(1930) 1971] 邦訳5ページ, 傍点は引用者)と述べている。 この記述が明示するように, ケインズは物々交換の時代を経て貨幣の時代が到来したという伝統的な考え方を踏襲しているのである。 こうしたイネスの考え方とは大きく異なるケインズの見解が, 書評において彼・・・・・を沈黙させたのではないだろうか。 なぜ 「スミスの誤謬」 の問題は重要なのか, なぜイネスの見解は重要で新鮮なのか。 それは, イネスが“信用は貨幣に先行する”という, 当時としては奇抜とも思われる極めてユニークな見解を最初に提起したからにほかならないと思われる。この点に関連して, グレーバー (David Graeber) は次のように述べている。 「スミスの議論が詳細な検討に値するのは, 私の考えでは, それが経済・・・・学という学問の大いなる創造神話だからである」 (Graeber[2011]邦訳39ページ, 傍点は引用者)。 「驚くべきことに, アダム・スミスが挙げた魚や釘やタバコを貨幣として使用する事例においてさえ同じことが起こっていた。 『国富論』 の登場以後の時代に, 学者たちはこれらの事例のほとんどすべてを調べ上げ, 事例のすべてにおいて, 人々が貨幣の使用に十分に親しんでいること, そして現実に貨幣を使用している 計算単位として ことを発見し
たのである。 ニューファウンドランド島で貨幣として使用されていると考えられていた干し鱈の例をとってみよう。 ほぼ一世紀前にイギリスの外交官だったA・ミッチェル・イネスが指摘したように, スミスの指摘していることは,実際には単純な信用協定によって作られた幻想だったのだ」 (Ibid., 58ページ)。イネスは, “What is Money?” というわずか一編の論文で, こうした経済学の創造神話を破壊したという意味で大きな貢献をしたと言える。 彼が経済学の伝統的な考え方を一蹴し, それを烏有に帰し, 新しい地平を切り開いたといっても差し支えあるまい。 イネスというまったく無名の研究者が 「経済学の父」 に対して真っ向から挑戦した事実は特筆に値する。
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ケインズの 「古代通貨論」前節で紹介したケインズのイネス論文の書評について, レイ=ベルは次のように述べている。 「イネスによるこれらの貢献が, ケインズ自身の19201926年間のほとんどの研究を古代貨幣への研究に導いたことを推測するのは
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興味深い。 ……しかしながら, そのアイデアのいくつかはイネスの書評の数年後 [正確には17年後―引用者] に出版された 『貨幣論』 に表れている」(Wray and Bell [2004] p. 12) と指摘している。 Economic Journal でのケインズの書評が彼の古代貨幣の研究, すなわちこの節で検討する 「古代通貨論」(Ancient Currencies) の執筆の動機となり, それがさらにケインズの主著の一つ 『貨幣論』 の執筆を促したというのである。ケインズの 「古代通貨論」 は, ケインズ全集全28巻の最後の巻 (第28巻)に掲載されたもので, 彼の数多くの著作の中ではほとんど注目されず, 読まれることのなかった一編ではあるまいか。 しかしこれは, 貨幣の起源や貨幣の歴史について数多くの示唆を与えてくれる貴重な小編であることは確かであるように思われる。 ケインズは次のように述べている。 「記録された歴史のほとんど全期間を通じて, 貨幣価値の低下は, 簡単な議論に値する。 それは, 貨幣が造られる金属の大量の増加, ないしは貨幣単位の金属の含有量の減少による失敗という2つの方法によってもたらされた。 前者を貨幣価値の下落 (Depreciation), 後者を貨幣価値の切り下げ (Debasement)と呼ぶのが便利である。 もし歴史の推移と本質が前者を生じさせないならば, 人間は一般に後者を頼みとするものである」 (Keynes [(19201926) 1982] p.226)。ケインズはこの記述に続いてこう指摘する。 「最初に貨幣の使用が物々交換に取って代わるとき, 鋳貨は金塊にほかならず, それに捺された刻印が品質と数量を証明するものの, その金塊の価値を除いては流通しない。 この初歩的な段階では, 貨幣価値切り下げという方法は利用できない。 契約の発達につれて計算貨幣 (money of account) の概念が現れ, 国家によって発行された鋳貨が法貨 (legal tender) の性格を獲得し, この計算貨幣で測られた債務の法的履行を経験する。 われわれが理解する意味で, 貨幣が人類の制度に登場するようになるのはこの段階である」 (Ibid., p.226)」。 ケインズはこうして貨幣制度が実現する初期の段階として, ①物々交換に代わる貨幣の生成,
77:
②最初の貨幣としての金属貨幣の登場, ③契約の発達による 「計算貨幣」 の出現, ④国家の関与による 「法貨」 および債務の法的履行の実現を指摘するのである。以上からも明らかなように, ケインズは 「計算貨幣」 をきわめて重視する。すぐ後にも触れるように, この計算貨幣を重視する立場は彼の 『貨幣論』 にも踏襲される。 ケインズは, 古代バビロニアや古代ローマにおける重量標準は, 小麦や大麦の穀粒が重要な役割を果たしていたという。 そのことは, 次のような記述からも窺われる。 「西洋文明の基本的な重量標準は, その最も初期から測定規準システム (metric system) の導入に至るまで決して変更されなかった。 これらの事柄は, シュメール人やエジプト人のアイデアとは異なる最初の真の革命であった。 古代バビロニアにおける中世世界および地中海沿岸や欧州のあらゆる重量標準は, その単位として小麦か大麦の穀粒(grain) に基礎を置くものであった」 (Ibid., p.239)。 そしてケインズは, 古代バビロニアでは重量単位であるタレント (talent), ミナ (mina), シェケル(shekel), グレイン (grain) などが貨幣単位としても用いられるようになり, また銀建ての計算貨幣の登場によって, さまざまな商品, 債務, 資産などがその計算貨幣単位で表示することが可能となったというのである(Ibid. pp. 244250)。 確かにケインズが指摘するとおり, 銀建ての貨幣単位については, 有名なハンムラビ法典 (Codeof Hammurabi) にも頻出する(11)。
81:
うしてケインズは計算貨幣および貨幣の創造について詳述するのである。しかし意地悪な見方をすれば, 計算貨幣についても, 貨幣の創造についても, これらはケインズ自身のオリジナルな貢献ではなく, ケインズに先立って, イネスやホートレーによって重視されているのである。 例えばイネスは第1論文において貨幣単位 (monetary denomination) としての計算貨幣について繰り返し言及している (Innes [1913] p.24, p.25, p.26)。 またケインズはホートレーの 『通貨と信用』 (1919) の書評において, これ (『通貨と信用』) は, 長年にわたって現れた貨幣理論に関する最も独創的で意味深い書物の一つである」 (Keynes [1920] p.362) と述べ, 「それは基本的な考え方を盛り込んだ書物ではあるが, 私の判断では, 少なくともイギリスにおいて,将来の貨幣理論の展開に重要な影響を及ぼすだろう」 (Ibid.) とも述べ, きわめて高い評価を下している。 この書評には 「計算貨幣」 という用語が頻出する。 一方, 銀行の貨幣の創造については, ホートレーはケインズに先立って, しかもケインズ以上に詳細な分析を加えている。ただし, 預金供給の最大の源泉が銀行貸出にあるとの見解は, ホートレーに先立って, I. フィッシャーによっても指摘されている。 フィッシャーは次のようにいう。 「これらの借り入れはほとんど銀行からの短期の貸し出しの形態をとる。 そしてわれわれがすでにみたように, 短期の貸し出しは預金を生み出す。 よく知られているように, 貸し出しと預金の対応は驚くほど正確である」 (Fisher [1911] p. 59)。 だが, 貸し出しと預金が不即不離の関係にあり, 前者が後者を創り出すことを最初に指摘したのは, ジョン・スチュアート・ミルではなかったかと筆者は確信している。 ミルは 『経済学原理』 においてこう述べている。 「貸し出しと貨幣の間には, 一つの真の関係が存在する。 この関係を認識することは, 重要なことである。 貸付資本 (loanable
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ところで, 物々交換に代替して貴金属などの商品貨幣が発展するというのが, 伝統的でオーソドックスな見解である。 アリストテレスが最初に貨幣起源説を提起して以来, アダム・スミス, マルクス, メンガー, ケインズなど多くの経済学の巨匠によって受け継がれたきたのが物々交換に代わって貨幣が自然発生的に生じたとする貨幣自生説である。 だが, こうしたオーソドックスな見解を真っ向から否定し, 「信用」 こそが貨幣に先立つ歴史的発展の起源であると強調したのがミッチェル・イネスである。 イネスは20世紀初頭,「貨幣とは何か」 (“What is Money”) と題する論文と 「貨幣の信用理論」(“The Credit Theory of Money”) と題する論文を発表する。 このわずか2編の論文をもって, 貨幣よりも信用が重要であることを論じ, しかも 「信用は貨幣に先立つ」 と主張するのである。 さらにイネスは2編の論文で, 『国富論』 における 「アダム・スミスの誤謬」 を痛烈に批判する。 その批判では,『国富論』 の分業論で論じているいくつかの具体的な事例に即して, これらの事例が 「厳密な歴史的証拠の基盤に立脚していない」 と指摘する。 もしその批判が当を得ているならば 筆者はそう確信しているが , 「経済学の父」 とも 「古典派経済学の始祖」 とも賞讃されるスミスにも, 歴史的事実を正確に把握し得なかったという意味で, 大きな問題があったと言えよう。イネスの論文が脚光を浴びたのは, ケインズのEconomicJournalにおける書評によるところが大きい。 当時ケインズは母校ケンブリッジ大学のフェローを務める傍ら, Economic Journalの編集委員でもあった。 このイネスの論文は, その後のケインズの著作にも影響を与えたようである。 周知のようにケインズは数多くの著作を残しているが, イネスの第1論文への書評に次いで,ケインズは 「古代通貨論」 という小冊子を書いている。 この小冊子は, これまでほとんど注目されなかったけれども, 主に古代バビロニアを念頭においた貨幣の起源および貨幣の歴史についてのケインズの見解が提示されている。この 「古代通貨論」 におけるケインズの見解は, 『一般理論』 と並ぶケイン
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ズの主著 『貨幣論』 に受け継がれている。本稿のテーマは 「イネスとケインズの貨幣論」 であるが, 中心となるのは,イネスの一編の論文に対するケインズのわずか2ページほどの書評にある。この書評の実質的な内容は, イネスというまったく無名の研究者と, アダム・スミス (およびケインズ) という経済学の巨星との書評を舞台とする“対決”という構図にある。 まさにイネスの論文こそは, 「経済学の父」, 「古典派経済学の始祖」 への挑戦状だったのではあるまいか。 もし識者が判断すれば,その“対決”の結果は明らかであろう。 イネスは満63歳の生涯において経済学に関するわずか2つの論文しか残さなかったけれども, これらの論文には,本稿で取り上げなかった貴重な宝物がまだまだ埋まっているように思われる。イネスについての研究はまだ緒に就いたばかりである。
以下は中野剛志『富国と強兵』2016#1より
「負債 」とは 、言うまでもなく 「信用 」の対概念であり 、 Aの Bに対する負債は 、 Bの Aに対する信用である 。その信用貨幣論によって 、ジョン ・メイナード ・ケインズにも影響を与えた A ・ミッチェル ・イネスは 、一九一三年の論文でこう書いている 。 「貨幣とは信用であり 、信用以外の何物でもない 。 Aの貨幣は Bの Aに対する負債であり 、 Bが負債を支払えば 、 Aの貨幣は消滅する 。これが貨幣の理論のすべてである ★ 6 。 」社会学者のジェフリー ・インガムもまた 、貨幣とは 「計算貨幣の単位によって示された信用と負債の社会関係 ★ 7 」であると述べている 。
貨幣が負債の一形式であるというのは 、以上のような意味においてである 。あらゆる貨幣が負債なのである 。
もっとも 、あらゆる負債が貨幣であるというわけではない 。ハイマン ・ミンスキーが言うように 、貨幣が負債だというのであるならば 、確かに 「だれでも貨幣を創造できる 」ということになるのだが 、 「問題は 、その貨幣を受け入れさせることにある ★ 8 。 」
★ 6 A . M i t c h e l l I n n e s , ' W h a t i s M o n e y , ' i n L . R . W r a y ( e d . ) , C r e d i t a n d S t a t e T h e o r i e s o f M o n e y , E d w a r d E l g a r , 2 0 0 4 , p . 4 2 .
★ 7 G e o f f r e y I n g h a m , T h e N a t u r e o f M o n e y , P o l i t y P r e s s , 2 0 0 4 , p . 1 2 .
★ 8 H y m a n M i n s k y , S t a b i l i z i n g a n U n s t a b l e E c o n o m y , M c G r a w h i l l , 2 0 0 8 , p . 2 5 5 .
富国と強兵
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Alfred Mitchell-Innes
Alfred Mitchell-Innes (30 June 1864 – 13 February 1950) was a British diplomat, economist and author. He had the Grand Cross of the Order of Medjidieh conferred upon him by Abbas II, Khedive of Egypt.
Contents
Family
The youngest child of Alexander Mitchell-Innes (1811–1886) of Ayton, and Whitehall (near Chirnside), Berwickshire, by his second spouse Fanny Augusta (1821–1902), daughter of James Vine, in Puckaster, Isle of Wight, Alfred was born at 2 Forres Street, Edinburgh. He married (her second marriage) in 1919, Eveline (d. 28 December 1946), daughter of Sir William Miller, 1st Baronet of Manderston, Berwickshire.
Career
Educated privately, he entered the British Diplomatic Service in 1890 and was appointed to Cairo the next year. In 1896 he became financial advisor to Chulalongkorn the Great (Rama V), King of Siam. In 1899 he was appointed Under-Secretary of State for Finance in Egypt, and was Counselor at the British Embassy in Washington, D.C. from 1908 to 1913. He was Minister to Uruguay from 1913 to 1919, after which he retired.
While in Washington, he wrote two articles on money and credit for The Banking Law Journal. The first, 'What is Money?', received an approving review from John Maynard Keynes,[1] which led to the publication of the second, 'Credit theory of money'.[2] Long forgotten and rediscovered decades later, the articles have been praised as "the best pair of articles on the nature of money written in the twentieth century".[3]
In retirement he joined Bedford Town Council, serving twice: from 1921 to 1931 and from 1934 to 1947.
Publications
- 'Love and The Law: a study of Oriental justice', Hibbert Journal, January 1913, pp. 273–296.
- 'What is Money', The Banking Law Journal, May 1913, pp. 377–408
- 'The Credit Theory of Money', The Banking Law Journal, Vol. 31 (1914), Dec./Jan., pp. 151–168.
- Martyrdom in our Times: Two essays on prisons and punishments, Williams & Norgate: London, 1932.
Notes
- ^ Keynes, John Maynard, 'What is money?', Economic Journal, 24:95 (September 1914), pp.419-21
- ^ David Graeber: Debt: The First 5,000 Years, Publisher: Melville House; Reprint edition (November 27, 2012, ISBN 1612191290
- ^ L. Randall Wray, Credit and state theories of money: the contributions of A. Mitchell Innes, p.223
References
- Ruvigny and Raineval, The Marquis of, The Blood Royal of Britain - Tudor Roll, London, 1903, p. 550.
- Kelly's Handbook to the Titled, Landed, and Official Classes, 69th edition, London, 1943.
- Black, Adam & Charles, Who's Who, London, 1945, p. 1910.
- *L. Randall Wray, ed. (2004). Credit and State Theories of Money: The Contributions of A. Mitchell Innes. Edward Elgar Publishing. ISBN 1-84376-513-6.
- Kampa, Alex, Money, Credit Conversion and the legacy of Mitchell-Innes, Godel Press, 2016
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WHAT IS MONEY?
By A. MITCHELL INNES
From The Banking Law Journal, May 1913.
The fundamental theories on which the modern science of political economy is based are these:
- That under primitive conditions men lived and live by barter;
- That as life becomes more complex barter no longer suffices as a method of exchanging commodities, and by common consent one particular commodity is fixed on which is generally acceptable and which therefore, everyone will take in exchange for the things he produces or the services he renders and which each in turn can equally pass on to others in exchange for whatever he may want; That this commodity thus becomes a "medium of exchange and measure of value."
- That a sale is the exchange of a commodity for this intermediate commodity which is called "money;"
- That many different commodities have at various times and places served as this medium of exchange—cattle, iron, salt, shells, dried cod, tobacco, sugar, nails, etc.;
- That gradually the metals, gold, silver, copper, and more especially the first two, came to be regarded as being by their inherent qualities more suitable for this purpose than any other commodities and these metals early became by common consent the only medium of exchange;
- That a certain fixed weight of one of these metals of a known fineness became a standard of value, and to guarantee this weight and quality it became incumbent on governments to issue pieces of metal stamped with their peculiar sign, the forging of which was punishable with severe penalties;
- That Emperors, Kings, Princes and their advisers vied with each other in the middle ages in swindling the people by debasing their coins, so that those who thought that they were obtaining a certain weight of gold or silver for their produce were, in reality, getting less, and that this situation produced serious evils among which were a depreciation of the value of money and a consequent rise of prices in proportion as the coinage became more and more debased in quality or light in weight;
- That to economize the use of the metals and to prevent their constant transport a machinery called "credit" has grown up in modern days, by means of which, instead of handing over a certain weight of metal at each transaction, a promise to do so is given, which under favorable circumstances has the same value as the metal itself. Credit is called a substitute for gold.
So universal is the belief in these theories among economists that they have grown to be considered almost as axioms which hardly require proof, and nothing is more noticeable in economic works than the scant historical evidence on which they rest, and the absence of critical examination of their worth. Broadly speaking these doctrines may be said to rest on the word of Adam Smith, backed up by a few passages from Homer and Aristotle and the writings of travelers in primitive lands. But modern research in the domain of commercial history and numismatics, and especially recent discoveries in Babylonia, have brought to light a mass of evidence which was not available to the earlier economists, and in the light of which it may be positively stated that none of these theories rest on a solid basis of historical proof—that in fact they are false.
To start, with Adam Smith's error as to the two most generally quoted instances of the use of commodities as money in modern times, namely that of nails in a Scotch village and that of dried cod in Newfoundland, have already been exposed, the one in Playfair's edition of the Wealth of Nations as long ago as 1805 and the other in an Essay on Currency and Banking by Thomas Smith, published in Philadelphia in 1832; and it is curious how, in the face of the evidently correct explanation given by those authors, Adam Smith's mistake has been perpetuated. In the Scotch village the dealers sold materials and food to the nail makers, and bought from them the finished nails the value of which was charged off against the debt. The use of money was as well known to the fishers who frequented the coasts and banks of Newfoundland as it is to us, but no metal currency was used simply because it was not wanted. In the early days of the Newfoundland fishing industry there was no permanent European population; the fishers went there for the fishing season only, and those who were not fishers were traders who bought the dried fish and sold to the fishers their daily supplies. The latter sold their catch to the traders at the market price in pounds, shillings and pence, and obtained in return a credit on their books, with which they paid for their supplies. Balances due by the traders were paid for by drafts on England or France. A moment's reflection shows that a staple commodity could not be used as money, because ex hypothesi, the medium of exchange is equally receivable by all members of the community. Thus if the fishers paid for their supplies in cod, the traders would equally have to pay for their cod in cod, an obvious absurdity. In both these instances in which Adam Smith believes that he has discovered a tangible currency, he has, in fact, merely found—credit.
Then again as regards the various colonial laws, making corn, tobacco, etc., receivable in payment of debt and taxes, these commodities were never a medium of exchange in the economic sense of a commodity, in terms of which the value of all other things is measured. They were to be taken at their market price in money. Nor is there, as far as I know, any warrant for the assumption usually made that the commodities thus made receivable were a general medium of exchange in any sense of the words. The laws merely put into the hands of debtors a method of liberating themselves in case of necessity, in the absence of other more usual means. But it is not to be supposed that such a necessity was of frequent occurrence, except, perhaps in country districts far from a town and without easy means of communication.
The misunderstanding that has arisen on this subject is due to the difficulty of realizing that the use of money does not necessarily imply the physical presence of a metallic currency, nor even the existence of a metallic standard of value. We are so accustomed to a system in which the dollar or the sovereign of a definite weight of gold corresponds to a dollar or a pound of money that we cannot easily believe that there could exist a pound without a sovereign or a dollar without a gold or silver dollar of a definite known weight. But throughout the whole range of history, not only is there no evidence of the existence of a metallic standard of value to which the commercial monetary denomination, the "money of account" as it is usually called, corresponds, but there is overwhelming evidence that there never was a monetary unit which depended on the value of coin or on a weight of metal; that there never was, until quite modern days, any fixed relationship between the monetary unit and any metal; that, in fact, there never was such a thing as a metallic standard of value. It is impossible within the compass of an article like this to present the voluminous evidence on which this statement is based; all that can be done is to offer a summary of the writer's conclusions drawn from a study extending over several years, referring the reader who wishes to pursue the subject further to the detailed work which the writer hopes before long to publish. The earliest known coins of the western world are those of ancient Greece, the oldest of which, belonging to the settlements on the coast of Asia Minor, date from the sixth or seventh centuries B. C. Some are of gold, some of silver, others are of bronze, while the oldest of all are of an alloy of the gold and silver, known as electrum. So numerous are the variations in size and weight of these coins that hardly any two are alike, and none bear any indication of value. Many learned writers, Barclay Head, Lenormant, Vazquez Queipo, Babelon, have essayed to classify these coins so as to discover the standard of value of the different Greek States; but the system adopted by each is different; the weights given by them are merely the mean weight calculated from a number of coins, the weights of which more or less approximate to that mean; and there are many coins which cannot be made to fit into any of the systems, while the weights of the supposed fractional coins do not correspond to those of the units in the system to which they are held to belong. As to the electrum coins, which are the oldest coins known to us, their composition varies in the most extraordinary way. While some contain more than 60 per cent of gold, others known to be of the same origin contain more than 60 per cent of silver, and between these extremes, there is every degree of alloy, so that they could not possibly have a fixed intrinsic value. All writers are agreed that the bronze coins of ancient Greece are tokens, the value of which does not depend on their weight. All that is definitely known is that, while the various Greek States used the same money denominations, stater, drachma, etc., the value of these units differed greatly in different States, and their relative value was not constant—in modern parlance the exchange between the different States varied at different periods. Then is, in fact, no historical evidence in ancient Greece on which a theory of a metallic standard can be based. The ancient coins of Rome, unlike these of Greece, had their distinctive marks of value, and the most striking thing about them is the extreme irregularity of their weight. The oldest coins are the As and its fractions, and there has always been tradition that the As, which was divided into 12 ounces, was originally a pound-weight of copper. But the Roman pound weighed about 3271 grammes and Mommsen, the great historian of the Roman mint, pointed out that not only did none of the extant coins (and there were very many) approach this weight, but that they were besides heavily alloyed with lead; so that even the heaviest of them, which were also the earliest, did not contain more than two-thirds of a pound of copper, while the fractional coins were based on an As still lighter. As early as the third century B. C. the As had fallen to not more than four ounces and by the end of the second century B. C. it weighed no more than half an ounce or less.
Within the last few years a new theory has been developed by Dr. Haeberlin, according to whom the original weight of the As was based not on the Roman pound but on what he calls the "Oscan" pound, weighing only about 273 grammes, and he seeks to prove the theory by taking the average of a large number of coins of the different denominations. He certainly arrives at a mean weight pretty closely approximating his supposed standard, but let us look at the coins from which he obtains his averages. The Asses which ought to weigh a pound, vary in fact from 208 grammes to 312 grammes with every shade of weight between these two extremes. The Half-Asses, which ought to weigh 136.5 grammes weigh from 94 grammes to 173 grammes; the Thirds-of-an-As, which ought to weigh 91 grammes, weigh from 66 grammes to 113 grammes, and the Sixth-of-an-As, weigh from 32 grammes to 62 grammes, and so on for the rest. This, however, is not the only difficulty in accepting Haeberlin's theory, which is inherently too improbable and rests on too scant historical evidence to be credible. An average standard based on coins showing such wide variations is inconceivable; though coins may and do circulate at a nominal rate greater than their intrinsic value as bullion they cannot circulate at a rate below their intrinsic value. They would, in this case, as later history abundantly proves, be at once melted and used as bullion, And what would be the use of a standard coin-weight which showed such extraordinary variations? What would be the use of a yard-measure which might be sometimes two foot six and sometimes three foot six, at the whim of the maker; or of a pint which might sometimes be but two-thirds of a pint and sometimes a pint and a half?
I have not space here to go into the ingenious hypothesis by which Haeberlin explains the subsequent reduction of the As, at first to one-half the Oscan pound and then gradually sinking as time went on; both of our historians are agreed that from about B. C. 268 the copper coins were mere tokens and that both heavy and light coins circulated indiscriminately.
Up to this time the As had been the fixed monetary unit, however much the coins may have varied; but from now on the situation is complicated by the introduction of several units or "monies of account," which are used at the same time, [ 1 ] the Sesterce or Numus, represented by a silver coin identical in value with the old As Aeris Gravis or Libral As, as it was sometimes called; a new As worth two-fifths of the old As, and the Denarius worth ten of the new Asses and therefore four Libral Asses, and represented, like the Sesterce, by a silver coin. The coining of the Sesterce was soon abandoned and it only reappeared fitfully much later on as a token coin of bronze or brass. But as the official unit of account it continued till the reign of the Emperor Diocletian in the third century of our era, and we thus get the remarkable fact that for many hundreds of years the unit of account remained unaltered independently of the coinage which passed through many vicissitudes.
As a general rule, though there were exceptions, the silver Denarii remained of good metal until the time of Nero who put about ten per cent of alloy in them. Under subsequent Emperors the amount of alloy constantly increased till the coins were either of copper with a small amount of silver, or were made of a copper core between two thin plates of silver, or were mere copper coins distinguishable from the other copper coins only by the devices stamped on them; but they continued to be called silver.
Whether or not the silver Denarius was intrinsically worth its nominal value or not is a matter of speculation, but fifty years later, according to Mommeen, the legal value of the coin was one-third greater than its real value, and a gold coin was for the first time introduced rated at far above its intrinsic value.
In spite of the degradation of the coin, however, the Denarius, as a money of account, maintained its primitive relation to the Sesterce, and it remained the unit long after the Sesterce had disappeared. Gold coins were but little used till the time of the Empire, and though, as a general rule, the quality of the metal remained good, the average weight, decreased as time went on, and the variations in their weight, even in the same reign, were quite as remarkable as in the others. For example in the reign of Aurelian the gold coins weighed from three-and-a-half grammes to nine grammes, and in that of Gallienus from four-fifths of a gramme to about six-and-three-quarters grammes, without any difference greater than half a gramme between any one coin and that nearest it in weight.
There can hardly be stronger evidence than we here get that the monetary standard was a thing entirely apart from the weight of the coins or the material of which they were composed. These varied constantly, while the money unit remained the same for centuries. An important thing to remember in reference to Roman money is that, while the debased coins were undoubtedly tokens, there is no question of their representing a certain weight of gold or silver. The public had no right to obtain gold or silver in exchange for the coins. They were all equally legal tender, and it was an offense to refuse them; and there is good historical evidence to show that though the government endeavored to fix an official value for gold, it was only obtainable at a premium. The coins of ancient Gaul and Britain are very various both in types and in composition and as they were modeled on the coins in circulation in Greece, Sicily and Spain, it may be presumed that they were issued by foreign, probably Jewish, merchants, though some appear to have been issued by tribal chieftains. Anyhow, there was no metallic standard and though many of the coins are classed by collectors as gold or silver, owing to their being imitated from foreign gold or silver coins, the so-called, gold coins more often than not, contain but a small proportion of gold, and the silver coins but little silver. Gold, silver, lead and tin all enter into their composition. None of them bear any mark of value, so that their classification is pure guess-work, and there can be no reasonable doubt but that they were tokens.
Under the Frankish Kings, who reigned for three hundred years (A. D. 457–751), the use of coins was much developed, and they are of great variety both as to type and alloy. The monetary unit was the Sol or Sou, and it is generally held that the coins represented either the Sou or the Triens, the third part of a Sou, though, for the purposes of accounts the Sou was divided into twelve Denarii. They are of all shades of alloy of gold with silver, from almost pure gold to almost pure silver, while some of the silver coins bear traces of gilding. They were issued by the kings themselves or various of their administrators, by ecclesiastical institutions, by the administrators of towns, castles, camps, or by merchants, bankers, jewelers, etc. There was, in fact, during the whole of this period, complete liberty of issuing coins without any form of official supervision. Throughout this time there was not a single law on the currency, and yet we do not hear of any confusion arising out of this liberty.
There can be no doubt that all the coins were tokens and that the weight or composition was not regarded as a matter of importance. What was important was the name or distinguishing mark of the issuer, which is never absent.
I have made this rapid survey of early coinages to show that from the beginning of the rise of the art of coining metal, there is no evidence of a metallic standard of value, but later history, especially that of France up to the Revolution, demonstrates with such singular clearness the fact that no such standard ever existed, that it may be said without exaggeration that no scientific theory has ever been put forward which was more completely lacking in foundation. If, in this article, I confine myself almost exclusively to French history, it is not that other histories contain anything which could disprove my contention—indeed all that is known to me of English, German, Italian, Mohammedan and Chinese history amply support it—but the characteristic phenomena of the monetary situation are strongly marked in France, and the old records contain more abundant evidence than seems to be the case in other countries. Moreover, French historians have devoted more attention to this branch of history than, so far as I know, those of other countries. We thus get from French history a peculiarly clear and connected account of the monetary unit and its connection with commerce on the one hand and the coinage on the other. But the principles of money and the methods of commerce are identical the world over, and whatever history we choose for our study, we shall be carried to the same conclusions.
The modern monetary history of France may be held to date from the accession of the Carolingian dynasty at the end of the eighth century. The Sou and the Denarius or Denier its twelfth part, continued to be used for money computation, and there was added a larger denomination, the Livre, divided into twenty Sous, which became the highest unit, and these denominations subsisted right up to the Revolution in 1879. The English pound, divided into twenty shillings and 240 pence corresponds to the Livre and its divisions, from which the British system seems to be derived.
Le Blanc, the seventeenth century historian of the French coinage avers, and later authorities have followed him, that the livre of money was originally a pound-weight of silver, just as English historians have maintained that the English money pound was a pound of silver. He supports his contention by a few quotations, which do not necessarily bear the meaning he gives them, and there is no direct evidence in favor of the statement. In the first place there never was a coin equivalent to a livre, nor till long after Carolingian times was there one equivalent to a sou. [ 2 ] The only Royal coin at that time, so far as we know, was the denier, and its value, if it had a fixed value, is unknown. The word denier, when applied to coin, just as the English penny, frequently means merely a coin in general, without reference to its value, and coins of many different values were called by these names. Moreover, the deniers of that time vary in weight and to some extent in alloy, and we know positively from a contemporary document that the term livre as applied to a commercial weight, was not identified with any single weight but was merely the name of a unit which varied in different communities. The fact is that the wish to prove the identity between a livre of money and a livre of weight is father to the thought. We know nothing on the subject, and when some time later we do obtain a certain knowledge, the livre and the pound of money were by no means the equivalent of a livre or a pound weight of Silver. What we do know for certain is that the Sol and the Denier in France and the Shilling and the Penny in England were the units of account long before the Livre and the Pound carne into use, and could not have been related to a weight of silver.
There are only two things which we know for certain about the Carolingian coins. The first is that the coinage brought a profit to the issuer. When a king granted a charter to one of his vassals to mint coins, it is expressly stated that he is granted that right with the profits and emoluments arising therefrom. The second thing is that there was considerable difficulty at different times in getting the public to accept the coins, and one of the kings devised a punishment to fit the crime of refusing one of his coins. The coin which had been refused was heated red-hot and pressed onto the forehead of the culprit, "the veins being uninjured so that the man shall not perish, but shall show his punishment to those who see him." There can be no profit from minting coins of their full value in metal, but rather a loss, and it is impossible to think that such disagreeable punishments would have been necessary to force the public to accept such coins, so that it is practically certain that they must have been below their face value and therefore were tokens, just as were those of earlier days. It must be said, however, that there is evidence to show that the kings of this dynasty were careful both of the weight and the purity of their coins, and this fact has given color to the theory that their value depended on their weight and purity. We find, however, the same pride of accuracy with the Roman mints; and also in later days when the coinage was of base metal, the directions to the masters of the mints as to the weight, alloy and design were just as careful, although the value of the coin could not thereby be affected. Accuracy was important more to enable the public to distinguish between a true and a counterfeit coin than for any other reason. From the time of the rise of the Capetian dynasty in A. D. 987, our knowledge of the coinage and of other methods employed in making payments becomes constantly clearer. The researches of modern French historians have put into our possession a wealth of information, the knowledge of which is absolutely essential to a proper understanding of monetary problems, but which has unfortunately been ignored by economists, with the result that their statements are based on a false view of the historical facts, and it is only by a distortion of those facts that the belief in the existence of a metallic standard has been possible. Throughout the feudal period the right of coinage belonged not alone to the king but was also an appanage of feudal overlordship, so that in France there were beside the royal monies, eighty different coinages, issued by barons and ecclesiastics, each entirely independent of the other, and differing as to weights, denominations, alloys and types. There were, at the same time, more than twenty different monetary systems. Each system had as its unit the livre, with its subdivisions, the sol and the denier, but the value of the livre varied in different parts of the country and each different livre had its distinguishing title, such as livre parisis, livre tournois, livre estevenante, etc. And not only did the value of each one of these twenty or more livres differ from all the others, but the relationship between them varied from time to time. Thus the livre detern was in the first half of the thirteenth century worth approximately the same as the livre tournois; but in 1265 it was worth 1.4 of the tournois, in 1409 it was worth 1.5 of a tournois, and from 1531 till its disappearance, it was worth two tournois. At the beginning of the thirteenth century the livre tournois was worth 0.68 of a livre parisis, while fifty years later it was worth 0.8 of a parisis; i.e., five tournois equalled four parisis, at which rate they appear to have remained fixed. These two units were both in common use in official accounts.
From the time of Hugues Capet down to that of Louis XIV (1638) almost the entire coinage was of base metal containing for the most part less than one-half of silver, and for at least two centuries previous to the accession of Saint Louis in A. D. 1226, there was probably not a coin of good silver in the whole kingdom.
We now come to the most characteristic feature of the finance or feudal France and the one which has apparently given rise to the unfounded accusations of historians regarding the debasement of the coinage. The coins were not marked with a face value, and were known by various names, such as Gros Toumois, Blanc A. la Couronne, Petit Parisis, etc. They were issued at arbitrary values, and when the king was in want of money, he "mua sa monnaie," as the phrase was, that is to say, he decreed a reduction of the nominal value of the coins. This was a perfectly well recognized method of taxation acquiesced in by the people, who only complained when the process was repeated too often, just as they complained of any other system of taxation which the king abused. How this system of taxation worked will be explained later on. The important thing to bear in mind for the present is the fact—abundantly proved by modern researches—that the alterations in the value of the coins did not affect prices.
Some kings, especially Philippe le Bel and Jean le Bon, whose constant wars kept their treasuries permanently depleted, were perpetually "crying down" the coinage, in this way and issuing new coins of different types, which in their turn were cried down, till the system became a serious abuse. Under these circumstances the coins had no stable value, and they were bought and sold at market prices which sometimes fluctuated daily, and generally with great frequency. The coins were always issued at a nominal value in excess of their intrinsic value, and the amount of the excess constantly varied. The nominal value of the gold coins bore no fixed ratio to that of the silver coins, so that historians who have tried to calculate the ratio subsisting between gold and silver have been led to surprising results; sometimes the ratio being 14 or 15 to 1 or more, and at other times the value of the gold apparently being hardly if at all superior to that of silver.
The fact is that the official values were purely arbitrary and had nothing to do with the intrinsic value of the coins. Indeed when the kings desired to reduce their coins to the least possible nominal value they edicts that they should only be taken at their bullion value. At times there were so many edicts in force referring to changes in the value of the coins, that none but an expert could tell what the values of the various coins of different issues were, and they became a highly speculative commodity. The monetary units, the livre, sol and denier, are perfectly distinct from the coins and the variations in the value of the latter did not affect the former, though, as will be seen, the circumstances which led up to the abuse of the system of "mutations" caused the depreciation of the monetary unit.
But the general idea that the kings wilfully debased their coinage, in the sense of reducing their weight and fineness is without foundation. On the contrary towards the end of the thirteenth century, the feeling grew up that financial stability depended somehow on the uniformity of the coinage, and this idea took firm root after the publication of a treatise by one Nicole Oresme (famous in his time), written to prove the importance of a properly adjusted system of coinage issued if not at its intrinsic value, at least at a rate not greatly exceeding that value, the gold and silver coins each in their proper ratio; and he attached especial importance to their maintenance at a fixed price. The reign of Saint Louis (1226–1270), a wise and prudent financier, had been a time of great prosperity, and amid the trouble of succeeding reigns, the purchasing power of money decreased with extraordinary rapidity. The money had, as people said, become "faible," and they clamored for the "forte monnaie" of the regretted Saint Louis. The price of silver as paid by the mints, rose greatly, and with every new issue of money the coins had to be rated higher than before; and the Advisers of the Kings, influenced, no doubt, by the teaching of Oresme, believed that in the rise of the price of silver lay the real secret of the rise of prices in general. When, therefore, the prevailing distress could no longer be ignored, attempts were made from time to time to bring back "forte monnaie," by officially reducing the price of silver and by issuing new coins at a lower rating compared with the amount of silver in them, and by lowering the nominal value of the existing coins in like proportion. But prices still moved upwards, and a "cours volontaire," a voluntary rating, was given by the public to the coins, above their official value. In vain Kings expressed their royal displeasure in edicts which declared that they had re-introduced "forte monnaie" and in which they peremptorily commanded that prices in the markets should be reduced and that their coins should only circulate at their official value. The disobedient merchants were threatened with severe penalties; but the more the kings threatened, the worse became the confusion. The markets were deserted.
Impotent to carry out their well-meant but mistaken measures, the kings had to cancel their edicts, or to acquiesce in their remaining a dead letter. The most famous of these attempts to return to "forte monnaie," by means of a reduction of the price of silver, was that introduced by Charles the Fifth, the pupil in financial matters, of Nicole Oresme. With the most praiseworthy obstinacy he stuck to his point, persuaded that he could force the recalcitrant metals to return to their old prices. As the coins disappeared from circulation, owing to their bullion value being higher than their nominal value, the King manfully sacrificed his silver plate to the mint as well as that of his subjects, and persuaded the Pope to excommunicate the neighboring princes who counterfeited his coins, or at least manufactured coins of less value for circulation in France. He kept up the struggle for the sixteen years of his reign, but the attempt was a failure and was abandoned at his death amid the rejoicing of the people. It is a curious [ 3 ] fact that it was generally the attempts at reform of the currency that raised the greatest protests of the people. Indeed one such attempt was the cause of the outbreak of a serious revolt in Paris, which had to be suppressed with great rigor.
The system of willful "mutations" of the money, for the purpose of taxation, was not confined to France, but was common throughout Germany, while the other phenomena which we meet with in the French currency are present in all the great commercial countries and cities. The issue of coins at an arbitrary value above their intrinsic value; the want of stability in their value; the strenuous endeavors of the governments to prevent by law the rise of the price of the precious metals and to stop the people from giving a price of their own to the coins higher or lower than those fixed by the government; the failure of these attempts; the endeavor to prevent the circulation of foreign coins lighter for their value than the local money; the belief that there was some secret evil agency at work to confound the good intentions of the government and to cause the mysterious disappearance of the good coins issued by the government, so that there was always a dearth of money; the futile search for the evil doers, and equally futile watch kept on the ports to prevent the export of coins or bullion, the history not only of France, but of England, the German States, Hamburg, Amsterdam and Venice is full of such incidents. In all these countries and cities, the monetary unit was distinct from the coins, (even when they bore the same name,) and the latter varied in terms of the former independently of any legislation, in accordance possibly with the apparently ceaseless fluctuations in the price of the precious metals. In Amsterdam and in Hamburg in the eighteenth century, an exchange list was published at short intervals, and affixed in the Bourse, giving the current value of the coins in circulation in the City, both foreign and domestic, in terms of the monetary unit—the Florin in Amsterdam and the Thaler in Hamburg, both of them purely imaginary units. The value of these coins fluctuated almost daily, nor did their value depend solely on their weight and fineness. Coins of similar weight and fineness circulated at different prices, according to the country to which they belonged.
It must be remembered that, until recent years there was no idea that in France or England there was one standard coin, all the others being subsidiary tokens representing a certain part of the standard. Quite the contrary; all were equally good or bad, all were equally good tender according to the law. Just as in Roman times, there was no obligation to give gold or silver for the over-valued coins, and none was ever given. The only reason why the intrinsic value of some of the coins ever equaled or exceeded their nominal value was because of the constant rise of the price of precious metals, or (what produced the same result) the continuous fall in the value of the monetary unit.
Though it would be hard to imagine a greater contrast than that between the condition of feudal France and that of North America in the eighteenth century, yet it is interesting to observe the close analogy in some respects between the monetary situation in olden France and that of the new world in colonial days and in the early days of the United States. There the Pound behaved just as the Livre had done in France. It was the monetary unit in all the colonies and subsequently for a time in all the States, but its value was not everywhere the same. Thus in 1782 the silver dollar was worth five shillings in Georgia, eight shillings in New York, six shillings in the New England States, and thirty-two shillings and sixpence in South Carolina.
But there were no coins bearing a fixed relation to any of these various pounds and, in consequence, when Alexander Hamilton wrote his report on the establishment of a mint, he declared that, while it was easy to state what was the unit of account, it was "not equally easy to pronounce what is considered as the unit in the coins." There being, as he said, no formal regulation on the point it could only be inferred from usage; and he came to the conclusion that on the whole the coin best entitled to the character of the unit was the Spanish dollar. But the arguments which he gave in favor of the dollar lost, as he himself said, much of their weight owing to the fact that "that species of coin has never had any settled or standard value according to weight or fineness; but has been permitted to circulate by tale without regard to either." Embarrassed by this circumstance, and finding in fact that gold was the less fluctuating metal of the two, Hamilton had difficulty in deciding to which of the precious metals the monetary unit of the United States should in future be "annexed" and he finally concluded to give the preference to neither, but to establish a bi-metallic system, which, however, in practice was found to be unsuccessful.
One of the popular fallacies in connection with commerce is that in modern days a money-saving device has been introduced called credit and that, before this device was known, all, purchases were paid for in cash, in other words in coins. A careful investigation shows that the precise reverse is true. In olden days coins played a far smaller part in commerce than they do to-day. Indeed so small was the quantity of coins, that they did not even suffice for the needs of the Royal household and estates which regularly used tokens of various kinds for the purpose of making small payments. So unimportant indeed was the coinage that sometimes Kings did not hesitate to call it all in for re-minting and re-issue and still commerce went on just the same. The modern practice of selling coins to the public seems to have been quite unknown in old days. The metal was bought by the Mint and the coins were issued by the King in payment of the expenses of the Government, largely I gather from contemporary documents, for the payment of the King's soldiers. One of the most difficult things to understand is the extraordinary differences in the price which was paid for the precious metal by the French Mint, even on the same day. The fact that the price often, if not always, bore no relation to the market value of the metal has been remarked on by writers; but there is nothing in any record to show on what it was based. The probable explanation is that the purchase and sale of gold and silver was in the hands of a very few great bankers who were large creditors of the Treasury and the purchase of the metals by the Mint involved a financial transaction by which part payment of the debt was made in the guise of an exorbitant price for the metal.
From long before the fourteenth century in England and France (and I think, in all countries), there were in common use large quantities of private metal tokens against which the governments made constant war with little success. It was not indeed till well on in the nineteenth century that their use was suppressed in England and the United States. We are so accustomed to our present system of a government monopoly of coinage, that we have come to regard it as one of the prime functions of government, and we firmly hold the doctrine that some catastrophe would occur if this monopoly were not maintained. History does not bear out this contention; and the reasons which led the medieval governments to make repeated attempts to establish their monopoly was in France at any rate not altogether parental care for the good of their subjects, but partly because they hoped by suppressing private tokens which were convenient and seemed generally (though not always) to have enjoyed the full confidence of the public, that the people would be forced by the necessity of having some instrument for retail commerce to make more general use of the government coins which from frequent "mutations" were not always popular, and partly because it was believed that the circulation of a large quantity of base tokens somehow tended to raise the price of the precious metals, or rather, perhaps, to lower the value of the coinage; just as economists to-day teach that the value of our token coinage is only maintained by strictly limiting its output. The reason why in modern days the use of private tokens has disappeared is more due to natural causes, than to the more efficient enforcement of the law. Owing to improved finance coins have acquired a stability they used not to have, and the public has come to have confidence in them. Owing to the enormous growth of government initiative these tokens have come to have a circulation which no private tokens could enjoy, and they have thus supplanted the latter in the public estimation, and those who want tokens for small amounts are content to buy them from the government.
Now if it is true that coins had no stable value, that for centuries at a time there was no gold or silver coinage, but only coins of base metal of various alloys, that changes in the coinage did not affect prices, that the coinage never played any considerable part in commerce, that the monetary unit was distinct from the coinage and that the price of gold and silver fluctuated constantly in terms of that unit (and these propositions are so abundantly proved by historical evidence that there is no doubt of their truth), then it is clear that the precious metals could not have been a standard of value nor could they have been the medium of exchange. That is to say that the theory that a sale is the exchange of a commodity for a definite weight of a universally acceptable metal will not bear investigation, and we must seek for another explanation of the nature of a sale and purchase and of the nature of money, which undoubtedly is the thing for which the commodities are exchange.
If we assume that in pre-historic ages man lived by barter, what is the development that would naturally have taken place, whereby he grew to his present knowledge of the methods of commerce? The situation is thus explained by Adam Smith:
"But when the division of labor first began to take place, this power of exchanging must frequently have been very much clogged and embarrassed in its operations. One man, we shall suppose, has more of a certain commodity than, he himself has occasion for, while another has less. The former consequently would be glad to dispose of, and the latter to purchase, a part of this superfluity. But if this latter should chance to have nothing that for former stands in need of, no exchange can be made between them. The butcher has more meat in his shop than he himself can consume, and the brewer and the baker would each of them be willing to purchase a part of it. But they have nothing to offer in exchange, except the different productions of their respective trades, and the butcher is already provided with all the bread and beer which he has immediate occasion for. No change can in this case be made between them. He cannot offer to be their merchant nor they his customers; and they are all of them thus mutually less serviceable to one another. In order to avoid the inconvenience of such situations, every prudent man in every period of society, after the first establishment of the division of labor, must naturally have endeavored to manage his affairs in such a manner, as to have at all times by him, besides the peculiar produce of his own industry, a certain quantity of some one commodity or other, such as, he imagined that few people would be likely to refuse in exchange for the produce of their industry."
"Many different commodities, it is probable, were successively both thought of and employed for this purpose. In all countries, however, men seem at last to have been determined by irresistible reasons to give the preference, for this employment, to metals above every other commodity."
Adam Smith's position depends on the truth of the proposition that if the baker or the brewer wants meat from the butcher, but has (the latter being sufficiently provided with bread and beer) nothing to offer in exchange, no exchange can be made between them. If this were true, the doctrine of a medium of exchange would, perhaps, be correct. But is it true? Assuming the baker and the brewer to be honest men, and honesty is no modern virtue, the butcher could take from them an acknowledgment that they had bought from him so much meat, and all we have to assume is that the community would recognize the obligation of the baker and the brewer to redeem these acknowledgments in bread or beer at the relative values current in the village market, whenever they might be presented to them, and we at once have a good and sufficient currency. A sale, according to this theory, is not the exchange of a commodity for some intermediate commodity called the "medium of exchange," but the exchange of a commodity for a credit.
There is absolutely no reason for assuming the existence of so clumsy a device as a medium of exchange when so simple a system would do all that was required. What we have to prove is not a strange general agreement to accept gold and silver, but a general sense of the sanctity of an obligation. In other words, the present theory is based on the antiquity of the law of debt.
We are here fortunately on solid historical ground. From the earliest days of which we have historical records, we are in the presence of a law of debt, and when we shall find, as we surely shall, records of ages still earlier than that of the great king Hamurabi, who compiled his code of the laws of Babylonia 2000 years B. C., we shall, I doubt not, still find traces of the same law. The sanctity of an obligation is, indeed, the foundation of all societies not only in all times, but at all stages of civilization; and the idea that to those whom, we are accustomed to call savages, credit is unknown and only barter is used, is without foundation. From the merchant of China to the Redskin of America; from the Arab of the desert to the Hottentot of South Africa or the Maori of New Zealand, debts and credits are equally familiar to all, and the breaking of the pledged word, or the refusal to carry put an obligation is held equally disgraceful.
It is here necessary to explain the primitive and the only true commercial or economic meaning of the word "credit." It is simply the correlative of debt. What A owes to B is A's debt to B and B's credit on A. A is B's debtor and B is A's creditor. The words "credit" and "debt" express a legal relationship between two parties, and they express the same legal relationship seen from two opposite sides. A will speak of this relationship as a debt, while B will speak of it as a credit. As I shall have frequent occasion to use these two words, it is necessary that the reader should familiarize himself with this conception which, though simple enough to the banker or financial expert, is apt to be confusing to the ordinary reader, owing to the many derivative meanings which are with the word "credit." Whether, therefore, in the following pages, the word credit or debt is used, the thing spoken of is precisely the same in both cases, the one or the other word being used according as the situation is being looked at from the point of view of the creditor or of the debtor.
A first class credit is the most valuable kind of property. Having no corporeal existence, it has no weight and takes no room. It can easily be transferred, often without any formality whatever. It is movable at will from place to place by a simple order with nothing but the cost of a letter or a telegram. It can be immediately used to supply any material want, and it can be guarded against destruction and theft at little expense. It is the most easily handled of all forms of property and is one of the most permanent. It lives with the debtor and shares his fortunes, and when he dies, it passes to the heirs of his estate. As long as the estate exists, the obligation continues, [ 4 ] and under favorable circumstances and in a healthy state of commerce there seems to be no reason why it should ever suffer deterioration.
Credit is the purchasing power so often mentioned in economic works as being one of the principal attributes of money, and, as I shall try to show, credit and credit alone is money. Credit and not gold or silver is the one property which all men seek, the acquisition of which is the aim and object of all commerce.
The word "credit" is generally technically defined as being the right to demand and sue for payment of a debt, and this no doubt is the legal aspect of a credit today; while we are so accustomed to paying a multitude of small purchases in coin that we have come to adopt the idea, fostered by the laws of legal tender, that the right to payment of a debt means the right to payment in coin or its equivalent. And further, owing to our modern systems of coinage, we have been led to the notion that payment in coin means payment in a certain weight of gold.
Before we can understand the principles of commerce we must wholly divest our minds of this false idea. The root meaning of the verb "to pay" is: that of "to appease," "to pacify," "to satisfy," and while a debtor must be in a position to satisfy his creditor, the really important characteristic of a credit is not the right which it gives to "payment" of a debt, but the right that it confers on the holder to liberate himself from debt by its means—a right recognized by all societies. By buying we become debtors and by selling we become creditors, and being all both buyers and sellers we are all debtors and creditors. As debtor we can compel our creditor to cancel our obligation to him by handing to him his own acknowledgment of a debt to an equivalent amount which he, in his turn, has incurred. For example, A having bought goods from B to the value of $100, is B's debtor for that amount. A can rid himself of his obligation to B by selling to C goods of an equivalent value and taking from him in payment an acknowledgment of debt which he (C, that is to say) has received from B. By presenting this acknowledgment to B, A can compel him to cancel the debt due to him. A has used the credit which he has procured to release himself from his debt. It is his privilege.
This is the primitive law of commerce. The constant creation of credits and debts, and their extinction by being cancelled against one another, forms the whole mechanism of commerce and it is so simple that there is no one who cannot understand it. Credit and debt have nothing and never have had anything to do with gold and silver. There is not and there never has been, so far as I am aware, a law compelling a debtor to pay his debt in gold or silver, or in any other commodity; nor so far as I know, has there ever been a law compelling a creditor to receive payment of a debt in gold or silver bullion, and the instances in colonial days of legislation compelling creditors to accept payment in tobacco and other commodities were exceptional and due to the stress of peculiar circumstances. Legislatures may of course, and do, use their sovereign power to prescribe a particular method by which debts may be paid, but we must be chary of accepting statute laws on currency, coinage or legal tender, as illustrations of the principles of commerce.
The value of a credit depends not on the existence of any gold or silver or other property behind it, but solely on the "solvency" of the debtor, and that depends solely on whether, when the debt becomes due, he in his turn has sufficient credits on others to set off against his debts. If the debtor neither possesses nor can acquire credits which can be offset against his debts, then the possession of those debts is of no value to the creditors who own them. It is by selling, I repeat, and by selling alone—whether it be by the sale of property or the sale of the use of our talents or of our land—that we acquire the credits by which we liberate ourselves from debt, and it is by his selling power that a prudent banker estimates his client's value as a debtor. Debts due at a certain moment can only be cancelled by being offset against credits which become available at that moment; that is to say that a creditor cannot be compelled to accept in payment of a debt due to him an acknowledgment of indebtedness which he himself has given and which only falls due at a later time. Hence it follows that a man is only solvent if he has immediately available credits at least equal to the amount of his debts immediately due and presented for payment. If, therefore, the sum of his immediate debts exceeds the sum of his immediate credits, the real value of these debts to his creditors will fall to an amount which will make them equal to the amount of his credits. This is one of the most important principles of commerce. Another important point to remember is that when a seller has delivered the commodity bought and has accepted an acknowledgment of debt from the purchaser, the transaction is complete, the payment of the purchase is final; and the new relationship which arises between the seller and the purchaser, the creditor and the debtor, is distinct from the sale and purchase.
For many centuries, how many we do not know, the principal instrument of commerce was neither the coin nor the private token, but the tally, [ 5 ] (Lat. talea. Fr. taille. Ger. Kerbholz), a stick of squared hazel-wood, notched in a certain manner to indicate the amount of the purchase or, debt. The name of the debtor and the date of the transaction were written on two opposite sides of the stick, which was then split down the middle in such a way that the notches were cut in half, and the name and date appeared on both pieces of the tally. The split was stopped by a cross-cut about an inch from the base of the stick, so that one of the pieces was shorter than the other. One piece, called the "stock," [ 6 ] was issued to the seller or creditor, while the other, called the "stub" or "counter-stock," was kept by the buyer or debtor. Both halves were thus a complete record of the credit and debt and the debtor was protected by his stub from the fraudulent imitation of or tampering with his tally.
The labors of modern archaeologists have brought to light numbers of objects of extreme antiquity, which may with confidence be pronounced to be ancient tallies, or instruments of a precisely similar nature; so that we can hardly doubt that commerce from the most primitive times was carried on by means of credit, and not with any "medium of exchange." In the treasure hoards of Italy there have been found many pieces of copper generally heavily alloyed with iron. The earliest of these, which date from between 1000 and 2000 years B. C., a thousand years before the introduction of coins, are called aes rude and are either shapeless ingots or are cast into circular discs or oblong cakes. The later pieces, called aes signatum, are all cast into cakes or tablets and bear various devices. These pieces of metal are known to have been used as money, and their use was continued some considerable time after the introduction of coins.
The characteristic thing about the aes rude and the aes signatum is that, with rare exceptions, all of the pieces have been purposely broken at the time of manufacture while the metal was still hot and brittle or "short," as it is technically called. A chisel was placed on the metal and struck a light blow. The chisel was then removed and the metal was easily broken through with a hammer blow, one piece being usually much smaller than the other. There can be no reasonable doubt but that these were ancient tallies, the broken metal affording the debtor the same protection as did the split hazel stick in later days.
The condition of the early Roman coinage shows that the practice of breaking off a piece of the coins— thus amply proving their token character—was common down to the time when the casting of the coins was superseded by the more perfect method of striking them.
In Taranto, the ancient Greek colony of Tarentum, a hoard has lately been found in which were a number of cakes of silver (whether pure or base metal is not stated), stamped with a mark similar to that found on early Greek coins. All of them have a piece purposely broken off. There were also found thin discs, with pieces cut or torn off so as to leave an irregularly serrated edge.
In hoards in Germany a few bars of an alloy of silver have been found, of the same age as the Italian copper cakes. While some of these are whole, others have a piece hacked off one end.
Among recent discoveries in ancient Babylonia, far the most common commercial documents which have been found are what are called "contract tablets" or "shuhati tablets"—the word shubati, which is present on nearly all of them, meaning "received." These tablets, the oldest of which were in use from 2000 to 3000 years B. C. are of baked or sun-dried clay, resembling in shape and size the ordinary cake of toilet soap, and very similar to the Italian copper cakes. The greater number are simple records of transactions in terms of "she," which is understood by archaeologists to be grain of some sort.
They bear the following indications:— The quantity of grain. The word "shubati" or received. The name of the person from whom received. The name of the person by whom received. The date. The seal of the receiver or, when the King is the receiver, that of his "scribe" or "servant."
From the frequency with which these tablets have been met with, from the durability of the material of which they are made, from the care with which they were preserved in temples which are known to have served as banks, and more especially from the nature of the inscriptions, it may be judged that they correspond to the medieval tally and to the modern bill of exchange; that is to say, that they are simple acknowledgments of indebtedness given to the seller by the buyer in payment of a purchase, and that they were the common instrument of commerce. But perhaps a still more convincing proof of their nature is to be found in the fact that some of the tablets are entirely enclosed in tight-fitting clay envelopes or "cases," as they are called, which have to be broken off before the tablet itself can be inspected. On these "case tablets," they are called, the inscription is found on the case, and it is repeated on the enclosed tablet, with two notable omissions. The name and seal of the receiver are not found inside. It is self-evident that the repetition of the essential features of the transaction on the inner tablet which could only be touched by destroying the case, was, just as in the other instances, for the protection of the debtor against the danger of his tablet being fraudulently tampered with, if it fell into dishonest hands. The particular significance of these "case tablets" lies in the fact that they were obviously not intended as mere records to remain in the possession of the debtor, but that they were signed and sealed documents, and were issued to the creditor, and no doubt passed from hand to hand like tallies and bills of exchange. When the debt was paid, we are told that it was customary to break the tablet.
We know, of course, hardly anything about the commerce of those far-off days, but what we do know is that great commerce was carried on and that the transfer of credit from hand to hand and from place to place was as well known to the Babylonians as it is to us. We have the accounts of great merchant or banking firms taking part in state finance and state tax collection, just as the great Genoese and Florentine bankers did in the middle ages, and as our banks do to-day.
In China, also, in times as remote as those of the Babylonian Empire, we find banks and instruments of credit long before any coins existed, and throughout practically the whole of Chinese history, so far as I have been able to learn, the coins have always been mere tokens.
There is no question but that credit is far older than cash.
From this excursion into the history of far remote ages, I now return to the consideration of business methods in days nearer to our own, and yet extending far enough back to convince the most skeptical reader of the antiquity of credit.
Tallies were transferable, negotiable instruments, just like bills of exchange, bank-notes or coins. Private tokens (in England and the American colonies, at least) were chiefly used for quite small sums—a penny or a half-penny—and were issued by tradesmen and merchants of all kinds. As a general statement it is true to say that all commerce was for many centuries carried on entirely with tallies. By their means all purchases of goods, all loans of money were made, and all debts cleared.
The clearing houses of old were the great periodical fairs, whither went merchants great and small, bringing with them their tallies, to settle their mutual debts and credits. "Justiciaries" were set over the fairs to bear and, determine all commercial disputes, and to "prove the tallies according to the commercial law, if the plaintiff desires this." The greatest of these fairs in England was that of St. Giles in Winchester, while the most famous probably in all Europe were those of Champagne and Brie in France, to which came merchants and bankers from all countries. Exchange booths were established and debts and credits were cleared to enormous amounts without the use of a single coin.
The origin of the fairs of which I have spoken is lost in the mists of Antiquity. Most of the charters of which we have record, granting to feudal lords the right to hold a fair, stipulate for the maintenance of the ancient customs of the fairs, thus showing that they dated from before the charter which merely legalized the position of the lord or granted him a monopoly. So important were these fairs that the person and property of merchants traveling to them was everywhere held sacred. During war, safe conducts were granted to them by the princes through whose territory they had to pass and severe punishment was inflicted for violence offered to them on the road. It was a very general practice in drawing up contracts to make debts payable at one or other of the fairs, and the general clearance at which the debts were paid was called the pagamentum. Nor was the custom of holding fairs confined to medieval Europe. They were held in ancient Greece under the name of panegyris and in Rome they were called nundinae, a name which in the middle ages was also frequently used. They are known to have been held in Mesopotamia and in India. In Mexico they are recorded by the historians of the conquest, and not many years ago at the fairs of Egypt, customs might have been seen which were known to Herodotus.
At some fairs no other business was done except the settlement of debts and credits, but in most a brisk retail trade was carried on. Little by little as governments developed their postal systems and powerful banking corporations grew up, the value of fairs as clearing houses dwindled, and they ceased to be frequented for that purpose, long remaining as nothing but festive gatherings until at last there linger but few, and those a mere shadow of their golden greatness.
The relation between religion and finance is significant. It is in the temples of Babylonia that most if not all of the commercial documents have been found. The temple of Jerusalem was in part a financial or banking institution, so also was the temple of Apollo at Delphi. The fairs of Europe were held in front of the churches, and were called by the names of the Saints, on or around whose festival they were held. In Amsterdam the Bourse was established in front of or, in bad weather, in one of the churches.
They were a strange jumble, these old fairs, of finance and trading and religion and orgy, the latter often being inextricably mixed up with the church ceremonies to the no small scandal of devout priests, alarmed lest the wrath of the Saint should be visited on the community for the shocking desecration of his holy name.
There is little doubt to my mind that the religious festival and the settlement of debts were the origin of all fairs and that the commerce which was there carried on was a later development. If this is true, the connection between religion and the payment of debts is an additional indication if any were needed, of the extreme antiquity of credit.
The method by which governments carry on their finance by means of debts and credits is particularly interesting. Just like any private individual, the government pays by giving acknowledgments of indebtedness—drafts on the Royal Treasury, or on some other branch of the government or on the government bank. This is well seen in medieval England, where the regular method used by the government for paying a creditor was by "raising a tally" on the Customs or on some other revenue-getting department, that is to say by giving to the creditor as an acknowledgment of indebtedness a wooden tally. The Exchequer accounts are full of entries such as the following:—"To Thomas de Bello Campo, Earl of Warwick, by divers tallies raised this day, containing 500 marks delivered to the same Earl." "To. . . . . by one tally raised this day in the name of the Collectors of the small customs in the Port of London containing £40." The system was not finally abandoned till the beginning of the nineteenth century.
I have already explained how such acknowledgments acquire a value in the case of private persons. We are all engaged in buying and selling, we manufacture commodities for sale, we cultivate the ground and sell the produce, we sell the labor of our hands or the work of our intelligence or the use of our property, and the only way in which we can be paid for the services we thus render is by receiving back from our purchasers the tallies which we ourselves have given in payment of like services which we have received from others.
But a government produces nothing for sale, and owns little or no property; of what value, then, are these tallies to the creditors of the government? They acquire their value in this way. The government by law obliges certain selected persons to become its debtors. It declares that so-and-so, who imports goods from abroad, shall owe the government so much on all that he imports, or that so-and-so, who owns land, shall owe to the government so much per acre. This procedure is called levying a tax, and the persons thus forced into the position of debtors to the government must in theory seek out the holders of the tallies or other instrument acknowledging a debt due by the government, and acquire from them the tallies by selling to them some commodity or in doing them some service, in exchange for which they may be induced to part with their tallies. When these are returned to the government treasury, the taxes are paid. How literally true this is can be seen by examining the accounts of the sheriffs in England in olden days. They were the collectors of inland taxes, and had to bring their revenues to London periodically. The bulk of their collections always consisted of exchequer tallies, and though, of course, there was often a certain quantity of coin, just as often there was one at all, the whole consisting of tallies.
The general belief that the Exchequer was a place where gold or silver was received, stored and paid out is wholly false. Practically the entire business of the English Exchequer consisted in the issuing and receiving of tallies, in comparing the tallies and the counter-tallies, the stock and the stub, as the two parts of the tally were popularly called, in keeping the accounts of the government debtors and creditors, and in canceling the tallies when returned to the Exchequer. It was, in fact, the great clearing house for government credits and debts.
We can now understand the effect of the "mutations de la monnaie," which I have mentioned as being one of the financial expedients of medieval French kings. The coins which they issued were tokens of indebtedness with which they made small payments, such as the daily wages of their soldiers and sailors. When they arbitrarily reduced the official value of their tokens, they reduced by so much the value of the credits on the government which the holders of the coins possessed. It was simply a rough and ready method of taxation, which, being spread over a large number of people, was not an unfair one, provided that it was not abused.
Taxpayers in olden days did not, of course, have in fact to search out the owners of the tallies any more than to have to-day to seek for the holders of drafts on the Bank of England. This was done through the bankers, who from the earliest days of history were always the financial agents of the governments. In Babylon it was the Sons of Egibi and the Sons of Marashu, in medieval Europe it was the Jewish and Florentine and Genoese bankers whose names figure in history.
There can be little doubt that banking was brought to Europe by the Jews of Babylonia, who spread over the Greek Colonies of the Asiatic coast settled on the Grecian mainland and in the coast towns of northern Africa long before the Christian era. Westward they traveled and established themselves in the cities of Italy, Gaul and Spain either before or soon after the Christian era, and, though historians believe that they did not reach Britain till the time of the Roman conquest it appears to me highly probable that the Jews of Gaul had their agents in the English coast towns over against Gaul, and that the early British coins were chiefly their work.
The monetary unit is merely an arbitrary denomination, by which commodities are measured in terms of credit, and which serves, therefore, as a more or less accurate measure of the value of all commodities. Pounds, shillings and pence are merely the a, b, c, of algebra, where a = 20, b = 240c. What was the origin of the terms now in use is known. It may be that they once stood for a certain quantity or weight of some commodity. If it is so, it would make no difference to the fact that they do not now and have not for countless generations represented any commodity. Let us assume that the unit did once represent a commodity. Let us assume, for example, that in the beginning of things, some merchant thought fit to keep his customers' accounts in terms of a certain weight of silver called a shekel, a term much used in antiquity. Silver was, of course, a commodity like any other; there was no law of legal tender, and no one was entitled to pay his debts in silver, any more than any one was obliged to accept payment of his credits in silver. Debts and credits were set off against one another as they are to-day. Let us assume that a hundred bushels of corn and a shekel of silver were of the same value. Then so long as the price of the two did not vary, all would be well; a man bringing to the merchant a shekel's weight of silver or a hundred bushels of corn would equally receive in his books a credit of one shekel. But supposing that for some reason the value of silver fell, so that a hundred bushels of corn would now exchange not for a shekel of silver but for a shekel and a tenth. What would then happen? Would all the creditors of the merchant suddenly lose because their credit was written down as shekels of silver, and the debtors of the merchant gain in the same proportion, although their transactions may have had nothing whatever to do with silver? Obviously not; it is hardly likely that the creditors would agree to lose a tenth of their money merely because the merchant had found it convenient to keep their accounts in shekel. This is what would happen: The owner of a shekel of silver, the price of which had fallen, would be informed by the merchant that silver had gone to a discount, and that in future he would only receive nine-tenths of a shekel of credit for each shekel of silver. A shekel of credit and a shekel weight of silver would no longer be the same; a monetary unit called a shekel would have arisen having no fixed relation to the weight of the metal the name of which it bore, and the debts and credits of the merchants and his customers would be unaffected by the change of the value of silver. A recent author gives an example of this when he mentions a case of accounts being kept in beaver-skins. The beaver-skin of account remained fixed, and was equivalent to two shillings, while the real skin varied in value, one real skin being worth several imaginary skins of account.
All our modern legislation fixing the price of gold is merely a survival of the late-medieval theory that the disastrous variability of the monetary unit had some mysterious connection with the price of the precious metals, and that, if only that price could be controlled and made invariable, the monetary unit also would remain fixed. It is hard for us to realize the situation of those times. The people often saw the prices of the necessaries of life rise with great rapidity, so that from day to day no one knew what his income might be worth in commodities. At the same time, they saw the precious metals rising, and coins made of a high grade of gold or silver going to a premium, while those that circulated at their former value were reduced in weight by clipping. They saw an evident connection between these phenomena, and very naturally attributed the fall in the value of money to the rise of the value of the metals and the consequent deplorable condition of the coinage. They mistook effect for cause, and we have inherited their error. Many attempts were made to regulate the price of the precious metals, but until the nineteenth century, always unsuccessfully.
The great cause of the monetary perturbations of the middle ages were not the rise of the price of the precious metals, but the fall of the value of the credit unit, owing to the ravages of war, pestilence and famine. We can hardly realize today the appalling condition to which these three causes reduced Europe time after time. An historian thus describes the condition of France in the fourteenth and fifteenth centuries:
"The ravages of an English army on a hostile soil were terrible, the ravages of the French troops in their own country were not less terrible, the ravages of roving bands of half-disciplined soldiers, who were almost robbers by instinct, were still more terrible, and behind all these, more terrible, if possible, than the English or French armies, or the 'free companies,' were the gangs of criminals let loose from prison to do all kinds of villainy, and the bands of infuriated peasants robbed of their homes, who sallied forth from the woods or caves which had sheltered them and burnt up what in their hasty marches the troops had left undestroyed. No regard for station, or age, or sex was there—no difference was made between friend or foe. At no time in the whole history of France was misery so universal and prodigious...From the Somme to the frontiers of Germany, a distance of three hundred miles, the whole country was a silent tangle of thorns and brushwood. The people had all perished or had fled for shelter to the town to escape the merciless outrages of armed men. They hardly found the shelter they sought; the towns suffered as the country districts suffered, the herds of wolves, driven, through lack of food from the forests, sought their prey in the streets...War outside the walls stimulated the fiercer war within; starvation clung close to the footsteps of war; strange forms of disease which the chroniclers of those times sum up in the names of 'black death' or 'plague' were born of hunger and overleapt the highest barriers, pierced the strongest walls and ran riot in the overcrowded cities. Two-thirds of the population of France, it has been computed, fell before the terrible self-infliction of war, pestilence and famine." The sufferings of the fifteenth century were hardly less terrible than those of the fourteenth and the picture given of England differs but little from that of France.
"Whilst the northern countries, up to the walls of Lancaster and the banks of Mersey on one side of England, and to the gates of York and the mouth of the Humber on the other, were being ravaged by the Scots, and whilst French, Flemish, Scottish and other pirates were burning the towns and killing the inhabitants of the East, the West and the South coasts of England, or carrying them off as slaves, two other enemies were let loose upon this country. Famine and pestilence, the fruits of war, destroyed what man failed to reach."
Again and again the country was swept by famines and plagues, and murrain mowed down flocks and herds. And it was not only in those early days that such terrible ravages occurred. The condition of Germany at the end of the Thirty Years' War (1618 to 1648) was little less pitiable than that of England and France in the fourteenth century. Purchases are paid for by sales, or in other words, debts are paid for by credits, and, as I have said before, the value of a credit depends on the debtor being also a creditor; in a situation such as that which I have described (though it must not be thought that there were no intervals of comparative prosperity), commerce was practically at a standstill, credits were of little value. At the same time the governments had accumulated great debts to maintain their armies and to carry on their continual war-like operations, and were unable to levy the taxes which should pay for them. It was impossible that, under such conditions, the value of credit (in other words the value of the monetary unit) should not fall. It is quite unnecessary to search for imaginary arbitrary depreciations of the coinage to explain the phenomenon.
The reader may here raise the objection that whatever may have been the practice in olden times and whatever may be the scientific theory we do in the present day in fact use gold for making payments besides using credit instruments. A dollar or a sovereign, he will say, are a certain weight of gold and we are legally entitled to pay our debts with them.
But what are the facts? Let us take the situation here in the United States. The government accepts all the gold of standard fineness and gives in exchange gold coins weight for weight, or paper certificates representing such coins. Now the general impression is that the only effect of transforming the gold into coins is to cut it into pieces of a certain weight and to stamp these pieces with the government mark guaranteeing their weight and fineness. But is this really all that has been done? By no means. What has really happened is that the government has put upon the pieces of gold a stamp which conveys the promise that they will be received by the government in payment of taxes or other debts due to it. By issuing a coin, the government has incurred a liability towards its possessor just as it would have done had it made a purchase—has incurred, that is to say, an obligation to provide a credit by taxation, or otherwise for the redemption of the coin and thus enable its possessor to got value for his money. In virtue of the stamp it bears, the gold has changed its character from that of a mere commodity to that of a token of indebtedness. In England the Bank of England buys the gold and gives in exchange coin, or bank-notes or a credit on its books. In the United States the gold is deposited with the Mint and the depositor receives either coin or paper certificates in exchange. The seller and the depositor alike receive a credit, the one on the official bank and the other direct on the government treasury. The effect is precisely the same in both cases. The coin, the paper certificates, the bank-notes and the credit on the books of the bank, are all identical in their nature, whatever the difference of form or of intrinsic value. A priceless gem or a worthless bit of paper may equally be a token of debt, so long as the receiver knows what it stands for and the giver acknowledges his obligation to take it back in payment of a debt due.
Money, then, is credit and nothing but credit. A's money is B's debt to him, and when B pays his debt, A's money disappears. This is the whole theory of money.
Debts and credits are perpetually trying to get into touch with one another, so that they may be written off against each other, and it is the business of the banker to bring them together. This is done in two ways: either by discounting bills, or by making loans. The first is the more old fashioned method and in Europe the bulk of the banking business consists in discounts while in the United States the more usual procedure is by way of loans.
The process of discounting bills is as follows: A sells goods to B, C and D, who thereby become A's debtors and give him their acknowledgments of indebtedness, which are technically called bills of exchange, or more shortly bills. That is to say A acquires a credit on B, C and D. A buys goods from E, F and G and gives his bill to each in payment. That is to say E, F and G have acquired credits on A. If B, C and D could sell goods to E, F and G and take in payment the bills given by A, they could then present these bills to A and by so doing release themselves from their debt. So long as trade takes place in a small circle, say in one village or in a small group of nearby villages, B, C and D might be able to get hold of the bills in the possession of E, F and G. But as soon as commerce widened out, and the various debtors and creditors lived far apart and were unacquainted with one another, it is obvious that without some system of centralizing debts and credits commerce would not go on. Then arose the merchant or banker, the latter being merely a more specialized variety of the former. The banker buys from A the bills held by him on B, C and D, and A now becomes the creditor of the banker, the latter in his turn becoming the creditor of B, C and D. A's credit on the banker is called his deposit and he is called a depositor. E, F and G also sell to the banker the bills which they hold on A, and when they become due the banker debits A with the amount thus canceling his former credit. A's debts and credits have been "cleared," and his name drops out, leaving B, C and D as debtors to the bank and E, F and G as the corresponding creditors. Meanwhile B, C and D have been doing business and in payment of sales which they have made, they receive bills on H, I and K. When their original bills held by the banker become due, they sell to him the bills which H, I and K have given them, and which balance their debt. Thus their debts and credits are "cleared" in their turn, and their names drop out, leaving H, I and K as debtors and E, F and G as creditors of the bank and so on. The modern bill is the lineal descendant of the medieval tally, and the more ancient Babylonian clay tablet.
Now let us see how the same result is reached by means of a loan instead of by taking the purchaser's bill and selling it to the banker. In this case the banking operation, instead of following the sale and purchase, anticipates it. B, C and D before buying the goods they require make an agreement with the banker by which he undertakes to become the debtor of A in their place, while they at the same time agree to become the debtors of the banker. Having made this agreement B, C and D make their purchases from A and instead of giving him their bills which he sells to the banker, they give him a bill direct on the banker. These bills of exchange on a banker are called cheques or drafts.
It is evident that the situation thus created is precisely the same whichever procedure is adopted, and the debts and credits are cleared in the same manner. There is a slight difference in the details of the mechanism, that is all.
There is thus a constant circulation of debts and credits through the medium of the banker who brings them together and clears them as the debts fall due. This is the whole science of banking as it was three thousand years before Christ, and as it is to-day. It is a common error among economic writers to suppose that a bank was originally a place of safe deposit for gold and silver, which the owner could take out as he required it. The idea is wholly erroneous and can be shown to be so from the study of the ancient banks.
Whatever commercial or financial transaction we examine, whether it be the purchase of a penn'orth of vegetables in the market or the issue of a billion dollar loan by a government, we find in each and all of them the same principle involved; either an old credit is transferred or new ones are created, and a State or a banker or a peasant is prosperous or bankrupt according as the principle is observed or not, that debts, as they fall due, must be met by credits available, at the same moment.
The object of every good banker is to see that at the end of each day's operations, his debts to other bankers do not exceed his credits on those bankers, and in addition the amount of the "lawful money" or credits on the government in his possession. This requirement limits the amount of money he has to "lend." He knows by experience pretty accurately the amount of the cheques he will have to present for payment to other bankers and the amount of those which will be presented for his payment, and he will refuse to buy bills or to lend money—that is to say, he will refuse to incur present obligations in return for future payments—if by so doing he is going to risk having more debts due by him on a certain day than he will have credits on that day to set against them. It must be remembered that a credit due for payment at a future time cannot be set off against a debt due to another banker immediately. Debts and credits to be set off against each other must be "due" at the same time.
Too much importance is popularly attached to what in England is called the cash in hand and in the United States the reserves, that is to say the amount of lawful money in the possession of the bank, and it is generally supposed that in the natural order of things, the lending power and the solvency of the bank depends on the amount of these reserves. In fact, and this cannot be too clearly and emphatically stated, these reserves of lawful money have, from the scientific point of view, no more importance than any other of the bank assets. They are merely credits like any others, and whether they are 25 per cent or 10 per cent or one per cent or a quarter per cent of the amount of the deposits, would not in the least affect the solvency of the bank, and it is unfortunate that the United States has by legislation given an importance to these reserves which they should never have possessed. Such legislation was, no doubt, due to the erroneous view that has grown up in modern days that a depositor has the right to have his deposit paid in gold or in "lawful money." I am not aware of any law expressly giving him such a right, and under normal conditions, at any rate, he would not have it. A depositor sells to his banker his right on someone else [ 7 ] and, properly speaking, his sole right so long as the banker is solvent, is to transfer his credit to someone else, should the latter choose to accept it. But the laws of legal tender which most countries [ 8 ] have adopted have produced indirect consequences which were not originally foreseen or intended. The purpose of such laws was not to make gold or silver a standard of payment but merely to require that creditors should not refuse payment of their credit in coins issued by the government at the value officially put upon them, no matter of what metal they were made; and the reason for these laws was not at all to provide a legal means of paying a debt, but to keep up the value of the coins, which, as I have explained, were liable to constant fluctuation either by reason of the governments issuing them at one value and accepting them at another, or by reason of the insolvency of the government sowing to their excessive indebtedness.
We may leave to lawyers the discussion of what may be the legal effect of such laws; the practical effect in the mind of the public is all that concerns us. It is but natural that in countries in which, like England and America, the standard coin is a certain weight of gold, a law providing that creditors shall accept these coins or the equivalent notes in full satisfaction of their debts, and mentioning no other method of settling a debt, should breed in the public mind the idea that that is the only legal way of settling a debt and that, therefore, the creditor is entitled to demand gold coins.
The effect of this impression is peculiarly unfortunate. When suspicion arises in the minds of depositors, they immediately demand payment of their credit in coins or their equivalent namely a credit on the State bank, or "lawful money,"—a demand which cannot possibly be complied with, and the result is to augment the panic by the idea getting abroad that the bank is insolvent.
Consequently at the beginning of a stringency, every bank tries to force its debtors to pay their debts in coin or credit on the government, and these debtors, in their turn, have to try to extract the same payment from their debtors, and to protect themselves, are thus forced to curtail their expenditure as much as possible. When this situation becomes general, buying and selling are restricted within comparatively narrow limits, and, as it is only by buying that credits can be reduced and by selling that debts can be paid, it comes to pass that everybody is clamoring for payment of the debts due to them and no one can pay them, because no one can sell. Thus the panic runs in a vicious circle. The abolition of the law of legal tender would help to mitigate such a situation by making everybody realize that, once he had become a depositor in a bank, he had sold his credit to that bank and was not entitled to demand payment in coin or government obligations. Under normal conditions a banker would keep only enough coins or credits on the government to satisfy those of his clients who want them, just as a boot-maker keeps a stock of boots of different varieties, sufficient for the normal conditions of his trade; and the banker can no more pay all his depositors in cash than the bootmaker could supply boots of one variety to all his customers if such a demand were suddenly to be made on him. If bankers keep a supply of cash more than is normally required, it is either because there is a law compelling them to do so, as in the United States, or because a large supply of cash gives confidence to the public in the solvency of the bank, owing to the idea that has grown up regarding the necessity for a "metallic basis" for loans; or again because, owing to the prevalence of this idea, there may suddenly occur an abnormal demand for the payment of deposits in this form.
It would be hard, probably, to say to what extent laws of legal tender can be successful in maintaining the real or the apparent value of coins or notes. They do not appear to have been so in colonial days, and indeed Chief justice Chase, in his dissenting opinion in the famous legal tender cases of 1872, expressed the view that their effect was the reverse of what was intended; that, instead of keeping up the value of the government notes, the law actually tended to depress them. However this may be, and I am not inclined to agree with Mr. Chase, it seems to me to be certain that such laws are unnecessary for the maintenance of the monetary unit in a country with properly conducted finances. "Receivability for debts due the government," to use Chief justice Chase's expression, relative to inconvertible notes, is the real support of the currency, not laws of legal tender. But it may be argued that it is at least necessary that the government should provide some standard "money" which a creditor is bound to accept in payment of his debt in order to avoid disputes as to the nature of the satisfaction which he shall receive for the debt. But in practice no difficulty would be experienced on this score. When a creditor wants his debt paid, he usually means that he wants to change his debtor; that is to say he wants a credit on a banker, so that he can use it easily, or keep it unused with safety. He, therefore, insists that every private debtor shall, when the debt is due, transfer to him a credit on a reputable banker; and every solvent debtor can satisfy his creditor in this manner. No law is required; the whole business regulates itself automatically.
During the suspension of specie payments in England for more than twenty years, from 1797 in 1820, there was no gold coin in circulation, its place being taken by Bank of England notes which were not legal tender, and the value of which constantly varied in terms of gold. Yet no embarrassment was noticed on this score, and commerce went on just as before. China (and I believe other Asiatic countries) could hardly have continued its commerce without such a law, if it had been of material importance. On no banking question does there exist more confusion of ideas than on the subject of the nature of a banknote. It is generally supposed to be a substitute for gold and, therefore, it is deemed to be necessary to the safety of the notes that their issue should be strictly controlled. In the United States the issue of bank notes is said to be "based on" government debt, and in England they are said to be "based on" gold. Their value is believed to depend on the fact that they are convertible into gold, but here again history disproves the theory. When, during the period just mentioned, the payment of Bank of England notes in gold was suspended, and the famous Bullion Committee was bound to acknowledge that a gold standard no longer existed, the value of the note in the country was not affected, as was testified by many witnesses of great business experience. If gold went to a premium and the exchange value of the English banknote together with that of all English money fell, it was due, as was amply proved by Thomas Tooke in his famous "History of Prices." to the fact that Great Britain, by its enormous expenditure abroad for its military operations and its subventions to foreign countries, had accumulated a load of debt which greatly exceeded its credits on those countries, and a fall of the value of the English pound in terms of the money of other countries was the necessary result. When the debt was gradually liquidated, and English credit returned to its normal value, the price of gold of course fell in terms of the pound.
Again when for many years, Greek money was at a discount in foreign countries, this was due to the excessive indebtedness of Greece to foreign countries, and what did more than anything else to gradually re-establish parity was the constantly increasing deposits paid in to Greek banks from the savings of Greek emigrants to the United States. These deposits constituted a debt due from the United States to Greece and counter-balanced the periodical payments which had to be made by Greece for the interest on her external debt.
In the United States, on the contrary, at the time of the depreciation of greenbacks, the money was depreciated in the country itself, owing to the excessive indebtedness of the government to the people of the country. A bank note differs in no essential way from an entry in the deposit register of a bank. Just like such an entry, it is an acknowledgment of the banker's indebtedness, and like all acknowledgments of the kind, it is a "promise to pay." The only difference between a deposit entry and a bank note is that the one is written in a book and the other is on a loose leaf; the one is an acknowledgment standing in the name of the depositor, the other in the name of "the bearer." Both these methods of registering the debts of the bank have their particular use. In the one case the deposit or any portion of it can be transferred by draft, and in the other it, or a fixed portion of it, can be transferred by merely transferring the receipt from hand to hand.
The quantitative theory of money has impelled all governments to regulate the note issue, so as to prevent an over issue of "money." But the idea that some special danger lurks in the bank-note is without foundation. The holder of a bank-note is simply a depositor in a bank, and the issue of bank-notes is merely a convenience to depositors. Laws regulating the issue of bank-notes may make the limitations so elastic as to produce no effect, in which case they are useless; or they may so limit them as to be a real inconvenience to commerce, in which case they are a nuisance. To attempt the regulation of banking by limiting the note issue is to entirely misunderstand the whole banking problem, and to start at the wrong end. The danger lies not in the bank-note but in imprudent or dishonest banking. Once insure that banking shall be carried on by honest people under a proper understanding of the principles of credit and debt, and the note issue may be left to take care of itself. Commerce, I repeat, has never had anything to do with the precious metals, and if every piece of gold and silver now in the world were to disappear, it would go on just as before and no other effect would be produced than the loss of so much valuable property. The gold myth, coupled with the law of legal tender, has fostered the feeling that there is some peculiar virtue in a central bank. It is supposed to fulfill an important function in protecting the country's stock of gold. This is, perhaps, as good a place as any other for explaining what was really accomplished when, after centuries of ineffectual efforts to fix the price of both the precious metals, the governments of Europe succeeded in fixing that of gold, or at least in keeping the price within narrow limits of fluctuation. It was in the year 1717 that the price of gold was fixed by law at its present value in England, slightly above the then market value, but it was not until some time after the close of the Napoleonic wars that the metal obeyed the Royal mandate for any length of time, and when it did them were two main reasons: The greater stability of the value of credit and the enormous increase in the production of gold during the nineteenth century. The first of these causes was the result of the disappearance of plagues and famines and the mitigation of the ravages which accompanied earlier wars, and the better organization of governments, especially as regards their finance. These changes produced a prosperity and a stability in the value of credit—especially government credit— unknown in earlier days. The second cause prevented any appreciation of the market value of gold, and the obligation undertaken by the Government and the Bank of England to buy gold in any quantity at a fixed price and to sell it again at practically the same price prevented its depreciation. Had they not done so, it is safe to say that the market price of gold would not now be, as it is, £3. 17. 10½ an ounce. For some years, indeed, after the resumption of cash payments in England gold did actually fall to £3. 17. 6 an ounce.
The governments of the world have, in fact, conspired together to make a corner in gold and to hold it up at a prohibitive price, to the great profit of the mine owners and the loss of the rest of mankind. The result of this policy is that billions of dollar's worth of gold are stored in the vaults of banks and treasuries, from the recesses of which they will never emerge, till a more rational policy is adopted. Limitations of space compel me to close this article here, and prevent the consideration of many interesting questions to which the credit theory of money gives rise; the most important of which, perhaps, is the intimate relation between existing currency systems and the rise of prices.
Future ages will laugh at their forefathers of the nineteenth and twentieth centuries, who gravely bought gold to imprison in dungeons in the belief that they were thereby obeying a high economic law and increasing the wealth and prosperity of the world.
A strange delusion, my masters, for a generation which prides itself on its knowledge of Economy and Finance and one which, let us hope, will not long survive. When once the precious metal has been freed from the shackles of laws which are unworthy of the age in which we live, who knows what uses may not be in store for it to benefit the whole world?
NOTES
- The same phenomenon of more than one monetary unit at the same time is common in later ages.
- The Gras Tournois of the thirteenth century. It did not, however, long remain of the value of a sou.
- Curious that is to say, to those who hold to the metallic theory of money. In fact it is quite simple, though I have not here space to explain it.
- In modern days statutes of limitation have been passed subjecting the permanence of credits to certain limitations. But they do not affect the principle. On the contrary, they confirm it.
- Their use was not entirely abandoned till the beginning of the nineteenth century.
- Hence the modern term "stock" as meaning "capital."
- This contract was called in Roman law a "mutuum."
- China, a great commercial country, has no such law. It appears to be an European invention.
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お金は何ですか?
著A. MITCHELL INNES
1913年5月の銀行法ジャーナルより。現代の政治経済学の基礎となる基礎理論は、次のとおりです。
- 原始的な状況下では、男性は物々交換で生活していました。
- 生活がより複雑になるにつれて、商品交換の方法としてはもはや十分ではなくなり、そして共通の同意により、1つの特定の商品が固定され、それは一般的に受け入れられるものである。そして、それぞれが自分の望むものと引き換えに他の人に平等に渡すことができます。 この商品が「交換の媒体と価値の尺度」になること。
- 売却とは、この中間商品に対する商品の交換であり、これを「お金」と呼びます。
- 牛、鉄、塩、貝殻、干しタラ、たばこ、砂糖、爪など、さまざまな商品がさまざまな時間や場所でこの交換媒体として利用されてきました。
- 次第に金属、金、銀、銅、そして特に最初の2つは、他のどの商品よりもこの目的に適した固有の性質によるものと見なされるようになり、これらの金属は早くから共通の同意によって唯一の交換媒体となりました。 ;
- 既知の純度のこれらの金属のうちの1つの特定の固定重量が価値の基準になったこと、そしてこの重量と品質を保証するために政府の義務となりました。厳しいペナルティ
- 皇帝、王、王女、そして彼らの顧問たちは、中世に自分たちの硬貨を破壊することによって人々を詐欺することで互いに争った。そして、この状況は深刻な悪をもたらし、その中には貨幣価値の減価とそれに伴う価格の上昇が、硬貨の品質の低下や軽量化に比例したものとなった。
- 金属の使用を節約し、それらの恒常的な輸送を防ぐために、「クレジット」と呼ばれる機械が現代では成長してきました。それによって、各取引で特定の重さの金属を引き渡す代わりにそうすることが約束されますこれは、好ましい状況下では金属自体と同じ価値があります。 クレジットは金の代替品と呼ばれています。
まず始めに、現代における貨幣としての商品の使用の最も一般的に引用されている2つの事例、すなわちスコッチ村のネイルとニューファンドランドの乾燥タラの事例に関するアダム・スミスの誤りは、すでに明らかにされている。 1835年にフィラデルフィアで出版されたトーマス・スミスによる通貨と銀行業に関するエッセイの中の1805年以前の国の富のPlayfair版とその他。 そして、それらの作者による明らかに正しい説明に直面して、アダム・スミスの間違いがどのようにして永続化されてきたのか、興味深い。 Scotch村では、ディーラーはネイルメーカーに材料と食物を売って、彼らから完成したネイルを買いました。そして、その価値は負債に対して償われました。 ニューファンドランドの海岸や銀行を頻繁に訪れた漁師たちには、お金の使い方はよく知られていましたが、それが望まれていなかったという理由だけで金属通貨は使われませんでした。 ニューファンドランド漁業の初期の頃には、恒久的なヨーロッパの人口はありませんでした。 漁師は漁期の間だけそこに行き、漁師ではなかった人々は干物を買って彼らの日用品を漁師に売ったトレーダーでした。 後者はポンド、シリング、ペンスで市場価格でトレーダーに彼らの捕獲物を売却し、彼らは彼らの物資の代金を払って彼らの本の代わりにクレジットを得た。 トレーダーが支払うべき残高は、イギリスまたはフランスのドラフトによって支払われました。 ちょっと振り返ってみると、主な商品は金銭として使用できないことがわかります。これは、仮説として、交換媒体はコミュニティのすべてのメンバーが平等に受け取ることができるためです。このように、漁師がタラで彼らの供給の代金を払ったならば、トレーダーはタラで彼らのタラの代金を払わなければならないでしょう、明らかに不条理です。 アダム・スミスが有形の通貨を発見したと信じているこれらの両方の例において、彼は実際にはただ発見した - 信用を持っています。
それからまた、様々な植民地法に関しては、トウモロコシ、タバコなどを借金や税金の支払いで受け取ることができるようにしましたが、これらの商品は商品の経済的意味で交換の媒体にはなりませんでした。物事が測定されます。 彼らはお金で彼らの市場価格で取られることになっていました。 私が知る限りでは、このように受領可能にされた商品が言葉の意味での一般的な交換媒体であると通常仮定されたことを保証するものもありません。 他のより一般的な手段がない場合、法律は単に債務者の手に、必要な場合に自分自身を解放する方法を入れました。 しかし、そのような必要性が頻繁に発生したとは想定されるべきではありません。ただし、おそらく町から遠く離れた田舎の地区で、簡単なコミュニケーション手段がない場合を除きます。
この問題に関して生じた誤解は、お金の使用が必ずしも金属通貨の物理的存在を意味するのではなく、価値の金属基準の存在さえも意味しないことを認識することの困難さによるものです。 我々は、ドルまたは金の確定重量のソブリンがドルまたはポンドに相当するシステムに慣れているので、ソブリンのないポンドまたは金のないドルが存在する可能性があることを容易に信じることはできません。明確な重量の銀ドル。 しかし、歴史の全範囲を通じて、商業通貨の額面金額、いわゆる「勘定」が相当する金属的価値基準の存在の証拠はないだけでなく、その証拠として圧倒的な証拠があります。硬貨の価値や金属の重さに依存する通貨単位はありませんでした。 ごく最近まで、通貨単位といかなる金属との間にも決まった関係はありませんでした。 それは、実際には、価値の金属的な基準のようなものはありませんでした。 このような記事のコンパスの中では、この陳述の基礎となる膨大な証拠を提示することは不可能です。 できることのすべては、数年にわたる研究から引き出された作家の結論の要約を提供することであり、その作家が出版する前にその作者が望む詳細な研究をさらに追求したい読者を参照することです。 西部の世界で最も早く知られている硬貨は古代ギリシャのもので、その最も古いものは小アジアの沿岸の集落に属し、紀元前6〜7世紀のものです。金、銀、その他の硬貨があります。最も古いものは、エレクトラムとして知られている金と銀の合金です。 これらの硬貨の大きさや重さのばらつきが非常に多いため、2つのコインが似ていることはほとんどなく、価値を示すものはありません。多くの学んだ作家、バークレイ・ヘッド、レノマント、バスケス・クエイポ、バベロンは、これらの硬貨を分類して異なるギリシャ諸国の価値の基準を見いだすことを論述してきた。 しかし、それぞれが採用しているシステムは異なります。 それらによって与えられる重みは単にコインの数から計算された平均重みであり、その重みは多かれ少なかれその平均に近似している。 そして、どのシステムにも適合させることができない多くのコインがありますが、想定される分数コインの重さは、それらが属すると見なされるシステム内のユニットの重さに対応していません。 私たちに知られている最も古い硬貨であるエレクトラム硬貨に関しては、それらの構成は最も特別な方法で変化します。 あるものは60パーセント以上の金を含んでいますが、同じ起源のものとして知られているものは60パーセント以上の銀を含んでいます、そしてこれらの両極端の間にはあらゆる程度の合金があります。値。 すべての作家は、古代ギリシャの青銅の硬貨はトークンであり、その価値は彼らの体重に左右されないことに同意しています。 明らかに分かっていることは、ギリシャのさまざまな州が同じ金種、階級、ドラマなどを使っていたのに対し、これらの単位の価値は国によって大きく異なり、相対的な価値は一定ではなかったということです。異なった州間の異なった期間で変わりました。 それから、実際には、古代ギリシャでは金属標準の理論が基づくことができる歴史的証拠はありません。 古代ローマの硬貨は、ギリシャのこれらの硬貨とは異なり、独特の価値を持っていました。そしてそれらについての最も顕著なことは、彼らの体重の極端な不規則性です。 最も古い硬貨はAsとその分数であり、12オンスに分けられたAsはもともと銅の重さであるという伝統が常にありました。 しかし、ローマのポンドは3271グラムの重さがあり、ローマのミントの偉大な歴史家であるMommsenは、現存する硬貨のどれも(そして非常に多くが)この重さに近づいたのではなく; 分数硬貨はAs Lightに基づいていましたが、最古のものでも最も重いものでさえ、銅の3分の2以上の銅を含んでいませんでした。 紀元前3世紀頃のAsは4オンス以下にまで落ちていました、そして紀元前2世紀の終わりまでにそれは半分以下のオンス以下の重さでした。
この数年の間に、ヘーベリン博士によって新しい理論が開発されました。それによると、Asの元々の重さはローマポンドではなく、彼が「オスカン」ポンドと呼んでいるものに基づいています。彼は、異なる宗派の多数のコインの平均をとることによって理論を証明しようとしています。 彼は確かに彼の推定基準にかなり近い平均重量に到達しますが、彼が彼の平均を得るコインを見てみましょう。 1ポンドの重さを量るべきであるAssesは、実際にはこれら2つの両極端の間の重量のあらゆる陰影で208グラムから312グラムまで様々です。 136.5グラムの重さを持つべきであるHalf-Assesは、94グラムから173グラムの重さです。 91グラムの重さがあるはずの3分の1は66グラムから113グラムの重さで、6分の1は32グラムから62グラムの重さで、それ以外は同様です。 しかしながら、これはヘーベルリンの理論を受け入れることにおける唯一の難しさではありません。それは本質的にありえないほどであり、信頼できないほど少なすぎる歴史的証拠にかかっています。 そのような広い変動を示す硬貨に基づく平均的な標準は考えられない。 硬貨は地金として本来の価値を上回る名目金利で流通する可能性がありますが、本来の価値を下回るレートで流通することはできません。 この場合、彼らは、後の歴史が豊富に証明しているように、すぐに溶けて地金として使われるでしょう。そして、そのような並外れた変化を示した標準的な硬貨重量の使用は何でしょうか? メーカーの気まぐれで、時には2フィート6、時には3フィート6である可能性があるヤードメジャーの使用となります。 または時々パイントの3分の2そして時々パイントと半分であるかもしれないパイントの?
私はHaeberlinがAsのその後の減少を説明するという巧妙な仮説に入るためのスペースをここには持っていません。 紀元前268年頃からの銅貨は単なるトークンであり、重い硬貨も軽い硬貨も無差別に流通していたということは、私達の歴史家の両方が同意しています。
これまでのところ、Asは固定通貨単位でしたが、多くのコインが変化した可能性があります。 しかし、今から状況が複雑になるのは、同時に使用されるいくつかのユニットまたは「勘定科目」です。[1]古いAs Aerisと同じ価値の銀貨で表されるSesterceまたはNumus。 GravisまたはLibral As。 古いAsの5分の2に相当する新しいAs、および10の新しいAssesに相当する4つのLibral Asses、およびSesterceのように、銀貨で表されたDenarius。 Sesterceの造語は間もなく放棄され、それは後になって青銅や真鍮の象徴的な硬貨として姿を現しました。 しかし、公式の会計単位として、それは私たちの時代の3世紀に皇帝ディオクレティアヌスの統治まで続いた、そしてそれ故に何百年もの間、会計単位は通過した硬貨とは無関係に変更されないままであったという驚くべき事実を得る多くの犠牲
一般的な規則として、例外はありましたが、銀のDenariiは、その中に約10%の合金を入れたNeroの時代まで、良い金属のままでした。 その後の皇帝の下では、硬貨が銀の量が少ない銅、または2枚の銀の薄板の間にある銅の芯からなる、または他の銅の硬貨と区別できるだけの単なる銅の硬貨になるまで合金の量は増え続けました。装置はそれらに刻印した。 しかし彼らは銀と呼ばれ続けた。
銀Denariusが本質的にその名目価値の価値があるかどうかは推測の問題ですが、50年後、Mommeenによると、コインの合法的価値はその実際の価値の3分の1であり、ゴールドコインは初めて導入されたのは、その本質的な価値をはるかに超えて評価されました。
しかしながら、硬貨の劣化にもかかわらず、デナリウスは、勘定として、セスタースとの原始的な関係を維持しており、セスタースが消滅した後も長い間そのユニットを維持していた。 金貨は帝国時代までほとんど使われていませんでしたが、原則として金属の品質は良好で、平均重量は時間の経過とともに減少しました。治世、他の国と同じくらい注目に値する。 例えば、アウレリアンの時代には金貨は3グラム半から9グラム、ガリエヌスの時代には5分の4グラムから約6/3グラムまで、何の違いもありませんでした。硬貨とそれに最も近い硬貨との間のグラム数が半分を超える。
通貨基準が硬貨の重さやそれを構成する材料とはまったく異なるものであるという、私たちの主張よりも強力な証拠はほとんどあり得ません。 お金の単位は何世紀にもわたって変わらなかったが、これらは絶えず変化した。 ローマのお金に関して覚えておくべき重要なことは、論争の的になったコインは間違いなくトークンだったが、それらが金や銀のある重さを表すことに疑いがないことである。 大衆は、硬貨と引き換えに金や銀を入手する権利を持っていませんでした。 彼らは皆、同様に合法的な入札であり、彼らを拒否することは違法でした。 政府が金の公式価値を決定しようと努力したにもかかわらず、それがプレミアムでしか得られなかったことを示す良い歴史的証拠があります。 古代ガウルとイギリスの硬貨は種類も構成も非常に多様であり、ギリシャ、シチリア、スペインで流通している硬貨をモデルにしていたので、おそらくユダヤ人の外国人商人によって発行されたと推定されるかもしれません。部族長によって発行されたように見える人もいます。 とにかく、金属の規格はありませんでした、そして、多くの硬貨が金または銀としてコレクターによって分類されるけれども、それらが外国の金または銀の硬貨から模倣されているので金の割合、および銀貨が少し銀。 金、銀、鉛および錫はすべてそれらの組成に入ります。 それらのどれも価値の印を持っていないので、それらの分類は純粋な推測作業であり、そしてそれらがトークンであること以外は合理的な疑いはあり得ない。
300年(西暦457年 - 751年)統治していたFrankish Kingsの下では、硬貨の使用はかなり発達していました、そしてそれらはタイプと合金の両方に関して多種多様です。 通貨単位はSolまたはSouであり、コインはSouまたはTriensのいずれかを表すと考えられていますが、説明のためにSouは12のDenariiに分割されていました。 銀貨のいくつかは金メッキの痕跡を持っている間、彼らはほぼ純金からほぼ純銀まで、銀と金の合金のすべての色合いです。 彼らは王自身や彼らの様々な管理者によって、教会の組織によって、町の管理者、城、キャンプによって、あるいは商人、銀行家、宝石商などによって発行されました。実際には、この期間全体を通して、いかなる形式の公的監督もなく、硬貨を発行する完全な自由。 この間、通貨に関する単一の法律はありませんでしたが、それでも私たちはこの自由から生じる混乱について耳にしません。
すべてのコインがトークンで、重量や構成が重要な問題と見なされていなかったことは間違いありません。 重要なのは、発行者の名前または識別マークであり、これは絶対に存在しません。
私はこの初期硬貨の迅速な調査を行って、金属鋳造技術の出現の初めから金属的価値基準の証拠はないことを示したが、後の歴史、特にフランス革命までの歴史は証明する。そのような特異な明確さをもって、そのような標準がこれまで存在しなかったという事実、それは誇張せずに根拠がより完全に欠けていた科学理論がこれまでに提唱されなかったと言われるかもしれない。 この記事で、私がフランスの歴史だけに限定しているのであれば、他の歴史に私の主張を否定するものが含まれているわけではありません。実際、英語、ドイツ語、イタリア語、モハメダン、中国の歴史のすべてがそれを裏付けています。 - しかし、金融情勢の特徴的な現象はフランスで強くマークされており、古い記録は他の国々の場合よりも豊富な証拠を含んでいます。 さらに、フランスの歴史家たちは、私が知る限り、他の国々の歴史家たちよりも、この歴史の枝にもっと注意を向けてきました。 このように我々はフランスの歴史から、通貨単位と商業との関連性と貨幣との関連性について独特に明確で結び付いた説明を得る。 しかし、お金の原則と商取引の方法は世界中で同じであり、私たちが研究のために選んだどんな歴史でも、私たちは同じ結論に導かれるでしょう。
フランスの近代的な通貨の歴史は、8世紀の終わりにカロリン朝時代に加盟したことから現在までに開催されるかもしれません。SouとDenariusまたはDenierの12番目の部分は、金の計算に使用され続け、最大の単位となった20のSousに分割されたより大きい宗派、Livreが追加され、これらの宗派は革命まで存続しました20シリングと240ペンスに分割された英国ポンドは、そこからイギリスのシステムが派生しているようだLivreとその部門に対応しています。
イギリスの歴史家がイギリスの通貨ポンドは銀のポンドであると主張したように、ル・ブランは、フランスの貨幣作家の17世紀の歴史家であり、その後当局はそれに従った。 。 彼は自分の主張をいくつかの引用で支持しているが、それは必ずしも引用した意味を意味するものではなく、その主張を支持する直接的な証拠もない。 そもそもリヴルに相当する硬貨はありませんでしたし、カロリンギアン時代からスーに相当する硬貨もなかったのです。 当時の唯一のロイヤルコインは、私たちが知る限り、デニールであり、その価値は、それが固定値であるならば、未知である。 イギリスのペニーと同じように、「デニール」という言葉をコインに適用すると、その値に関係なく、一般的に単なるコインを意味することが多く、さまざまな値のコインがこれらの名前で呼ばれました。 さらに、当時のデニールは、重量や合金によってある程度異なります。そして、現代の文書から、商業用重量に適用される用語livreは単一の重量で識別されるのではなく単なるaの名前であることがわかります。地域によって異なる単位。 実際には、金銭と金銭との間の同一性を証明したいという願望が、この考えの根幹を成すものです。 私たちはその主題について何も知りません、そしてしばらくしてから私たちがある知識を得たとき、そのリブレとお金のポンドは決してシルバーのリブレやポンドの重量と同等ではありませんでした。 確かに私たちが知っているのは、フランスのSolとDenier、イギリスのShillingとPennyがLivreとPound carneが使用されるずっと以前からの単位であり、銀の重さには関連していなかったということです。 。
Carolingianの硬貨について確実にわかっていることは2つだけです。 一つ目は貨幣が発行者に利益をもたらしたということです。 王が硬貨を造る彼の家臣の1人にチャーターを許可したとき、それはそこから生じる利益とemolumentsで彼がその権利を与えられると明白に述べられます。 第二に、コインを受け入れることを公衆にさせることにはかなりの困難がありました、そして王の1人は彼のコインの1つを拒絶するという罪に合うように罰を考案しました。 拒否された硬貨は赤熱されて犯人の額に押し付けられた、「静脈が傷つかないように、男は死んではならないが、彼に会う人々には彼の処罰を示さなければならない」。 その価値のある硬貨を金属で採掘することによる利益は得られないが、むしろ損失はあり得ず、そのような不快な処罰が国民にそのような硬貨の受け入れを強制するために必要であったと考えることは不可能である。彼らは額面を下回っていたに違いないのでトークンであり、それは初期の時代のそれらと同じです。 しかし、この王朝の王たちは硬貨の重さと純度の両方に注意を払っていたことを示す証拠があり、この事実は彼らの価値が重さと純度に依存しているという説に色を与えています。 。 しかし、ローマのミントと同じ正確さを誇っています。 そして硬貨が卑金属製であった後の日々においても、硬貨の価値に影響を与えることはできなかったが、重量、合金およびデザインに関してミントの達人への方向は同じくらい慎重だった。 正確さは、他のいかなる理由よりも、公衆が真正の硬貨と偽造の硬貨とを区別することを可能にするためにより重要であった。 西暦987年にケープ王朝が出現した時から、硬貨やその他の支払い方法に関する知識は常に明らかになりつつあります。 現代のフランスの歴史家の研究は私たちの所持品に豊富な情報を入れてきました。その知識は金銭問題を正しく理解するために絶対に不可欠ですが、残念ながら経済学者に無視されています。歴史的事実の誤った見解、そしてそれは金属規格の存在を信じることが可能であったのはそれらの事実のゆがみによってのみである。 封建時代を通して、貨幣権は単独では王に帰属するものではなく、封建的な領主制の権威でもあったので、フランスでは王立の他に男爵と聖職者によって発行された80の異なる貨幣がありました。そして、重量、金種、合金および種類に関して異なる。 同時に、20以上の異なる通貨システムがありました。 それぞれのシステムは、その細分化、solとdenierで、そのユニットとしてlivreを持っていました、しかしlivreの価値は国の異なった部分で異なりましたそして、これらの20以上のリビングのそれぞれの価値が他のすべてのものと異なっていただけでなく、それらの間の関係は時々変わりました。 したがって、13世紀前半のリヴルの祭壇画は、リヴルのトゥルノワとほぼ同じ価値がありました。 しかし1265年にはそれは1.4の価値があり、1409年には1.5の価値があり、そして1531年からその消失までは2つの価値がありました。 13世紀の初めには、リーブルトゥルノアはリーブルパリシスの0.68倍の価値があったが、50年後にはそれは0.8倍の価値があった。 すなわち、5つのトゥルノアが4つのパリシスに匹敵し、それらのレートは固定されているように見えます。 これら2つのユニットはどちらも公式アカウントで一般的に使用されていました。
Hugues Capetの時代からLouis XIV(1638年)までは、ほとんど全ての貨幣は卑金属で、その大部分は半分以下の銀を含み、少なくとも2世紀前にはセントルイスの加盟以前に存在していました。西暦1226年、おそらく王国全体には良い銀貨はなかった。
私たちは今や金融あるいは封建的なフランス、そして硬貨の悪化に関して歴史家の根拠のない告発を引き起こしたものの最も特徴的な特徴に到達しています。 硬貨は額面でマークされておらず、Gros Toumois、Blanc A. la Couronne、Petit Parisisなどのようなさまざまな名前で知られていました。それらは任意の値で発行されました。彼は「mua sa monnaie」と言いましたが、言い換えれば、彼はコインの名目価値の減少を宣言しました。 これは、王が虐待した他のいかなる課税制度にも不満を持っているのと同じように、プロセスが頻繁に繰り返されたときにだけ不平を言う人々によって黙認された納税の完全に認められた方法でした。 この課税システムの仕組みについては後で説明します。 現在のことを頭に入れておくべき重要なことは、コインの価値の変化が価格に影響を及ぼさなかったということです - 現代の研究によって豊富に証明されているという事実です。
一部の国王、特にPhilippe le BelとJean le Bonは、このようにしてその宝庫を永久に使い果たし続け、硬貨を恒久的に「泣き」、さまざまな種類の新しい硬貨を発行しました。システムは深刻な悪用になりました。 このような状況下では、硬貨は安定した価値を持たず、それらは時々毎日変動する市場価格で、そして一般的に非常に頻繁に売買された。 硬貨は常に本来の価値を超える額面金額で発行され、その超過額は常に変動していました。 金貨の名目価値は銀貨のそれと一定の比率を持っていないので、金と銀の間に存在する比率を計算しようとした歴史家は驚くべき結果につながりました。 時にはその比は14あるいは15対1あるいはそれ以上であり、そして他の時には金の価値は銀のそれより少しも優れているとしてもほとんどない。
事実は、公式の価値観は純粋に恣意的なものであり、コインの本質的な価値とは無関係であるということです。 実際、王が自分たちのコインを可能な限り少ない額面価値まで引き下げることを望んだとき、彼らは彼らが彼らの金塊値でのみとられるべきであることを明らかにしました。 時には、硬貨の価値の変化に関連して非常に多くの編集が行われていたので、専門家以外は誰も異なる問題の様々な硬貨の価値が何かを見分けることができず、そしてそれらは非常に投機的な商品になりました。 通貨単位であるlivre、sol、denierは、硬貨とは完全に異なり、後者の価値の変動は前者には影響しませんでしたが、システムの悪用につながった状況は明らかです。 "突然変異"の存在は通貨単位の減価償却を引き起こしました。
しかし、彼らの体重と細かさを減らすという意味で、王たちが故意に貨幣を減らしたという一般的な考えには根拠がありません。 反対に、13世紀の終わり頃には、金融の安定性が硬貨の均一性にどう依存するかという気持ちが高まり、この考えは1人のNicole Oresmeによる論文の発表後に定着しました(彼の時代に有名)。本来の価値ではなく、少なくともその価値を大きく超えない割合で発行された場合、適切に調整された貨幣体系が重要であることを証明するために書かれている。 そして彼は固定価格でのメンテナンスを特に重要視しました。 賢明で賢明な金融家であるセントルイス(1226-1270)の統治は大繁栄の時であり、統治の成功の厄介な状況の中で、お金の購買力は驚異的な急速さで減少しました。 人々が言ったように、お金は「現実的」になり、そして彼らは後悔したセントルイスの「フォルテ・モネ」を要求しました。 ミントによって支払われる銀の価格は大幅に上がりました、そして新しいお金の発行ごとにコインは以前より高く評価されなければなりませんでした。 そして、王の顧問たちは、間違いなく、Oresmeの教えに影響されて、銀の価格の上昇には一般的に価格の上昇の真の秘密があると信じていた。 それゆえ、一般的な苦痛を無視することができなくなったとき、銀の価格を公式に引き下げ、銀の量と比べてより低い格付けで新しい硬貨を発行することによって、「フォルテ・モネ」を取り戻す試みが時々なされました。それらの中で、そして同様の割合で既存の硬貨の名目価値を下げることによって。 しかし、物価は依然として上昇しており、公衆から自主的な評価である「クールボランティア」が公的価値を超えて硬貨に与えられました。 無駄に王は彼らが「フォルテ・モネ」を再導入したことを宣言し、彼らは市場の価格を下げるべきであり、彼らの硬貨は公的価値でしか流通しないようにと命じた。 不従順な商人は厳しい罰則で脅かされました。 しかし、王が脅かされるほど、混乱は悪化しました。 市場は見捨てられました。
善意があっても誤った対策を実行することは無力であり、王たちは彼らの編集を取り消すか、または彼らの残りの死んだ手紙を黙認する必要がありました。銀の値下げによって「フォルテモネ」に戻るこれらの試みの中で最も有名なのは、Nicole Oresmeの金融問題の生徒であるCharles the Fifthによって紹介されたものです。最も賞賛に値するほどの頑固さで、彼は彼の主張に固執し、彼は彼が難解な金属を彼らの古い価格に戻すことを強いることができると説得しました。地金が公称値よりも高いために硬貨が流通から消えたため、王は銀の板と対象の銀の板を犠牲にし、教皇に硬貨を偽造した近隣の王子たちを破滅させるよう説得しました。または少なくともフランスで流通する価値の低い硬貨を製造する。彼は16年間の治世の間闘争を続けました、しかし試みは失敗であり、人々の歓喜の中で彼の死で放棄されました。それが一般的に国民の最大の抗議を引き起こしたのは通貨の改革の試みであったというのは不思議な事実です[3]。確かにそのような試みの1つは、パリでの深刻な反乱の発生の原因でした。それは非常に厳格に抑制されなければなりませんでした。
課税を目的とした貨幣の故意の「突然変異」のシステムはフランスに限定されていませんでしたが、ドイツ中で共通していました。都市です。本来の価値を上回る任意の価値でのコインの発行。その価値の安定性の欠如 貴金属の価格の高騰を法律で防止し、人々が政府が決定したものよりも高いまたは低い硬貨に自分の価格を与えることを阻止するための政府の激しい努力。これらの試みの失敗。外国貨幣の流通を防止するための努力は、現地の貨幣よりも価値があるために軽い。政府の善意を混乱させ、政府によって発行された善意のコインの不思議な消滅を引き起こすために何らかの秘密の邪悪な機関が働いていたという信念により、常に金銭の不足があった。硬貨や地金の輸出を防ぐために、邪悪な行為者のための無駄な捜索、そして同様に無益な時計は、フランスだけでなく、イギリス、ドイツ、ハンブルク、アムステルダム、ヴェネツィアの歴史にも溢れています。 。これらのすべての国と都市では、通貨単位はコインとは異なり(同じ名前の場合でも)、後者はおそらく法規制とは無関係に前者の観点から見て変動していた。貴金属の価格 18世紀のアムステルダムとハンブルグでは、短期間で交換リストが発行され、証券取引所に添付されました。アムステルダムのフロリンとハンブルクのタラー、どちらも純粋に架空のユニットです。これらの硬貨の価値はほぼ毎日変動していました、そしてまたそれらの価値はそれらの重さと細かさだけに依存しませんでした。彼らが属していた国によると、似たような重さと細かさのコインは異なる価格で流通していました。
ここ数年、フランスやイギリスには1つの標準コインがあるということは知られていませんでした。他のすべてが標準の特定の部分を表す補助トークンであることを忘れないでください。まったく反対です。法律によれば、すべてが同じように良いまたは悪い、すべてが同じように良い入札でした。ローマ時代と同じように、価値の高い硬貨に金や銀を贈る義務はなく、また与えられたこともありませんでした。一部の硬貨の本来の価値がこれまでにその名目値と同等またはそれを超えた唯一の理由は、貴金属の価格が絶えず上昇したこと、または(同じ結果をもたらした)貨幣単位の価値の継続的な下落による。
18世紀の封建的なフランスの状況と北アメリカの状況の間のそれよりも大きなコントラストを想像するのは難しいでしょうが、それでもなお、昔のフランスの通貨状況とそれの間の密接な類似を観察することは興味深いです。植民地時代とアメリカの初期の頃の新しい世界。そこではポンドはリヴルがフランスでしたように振舞いました。それはすべての植民地の通貨単位であり、その後しばらくの間すべての州で通貨単位でしたが、その価値はどこでも同じではありませんでした。このように1782年に銀のドルはジョージア州で5つのシリング、ニューヨークで8つのシリング、ニューイングランド諸国で6つのシリング、そしてサウスカロライナ州で32つのシリングと6ペンスの価値があった。
しかし、これらの様々なポンドのどれとも固定関係にある硬貨はありませんでした、そして、その結果、アレクサンダーハミルトンがミントの設立についての彼の報告を書いたとき、彼は、説明の単位が何であるかを述べるのは簡単でしたが「硬貨の単位と見なされているものを発音することは、同じくらい簡単ではありませんでした」。彼が言ったように、それが用法から推論されることができるだけであるという点で正式な規制はありません。そして彼は、全体として、その部隊の性格に最もふさわしいコインはスペインドルであるという結論に達しました。しかし、彼がドルを支持して与えた議論は、彼自身が言ったように、「その種のコインは、重量または細かさに従って決まった値または標準値を持ったことは一度もない。どちらにもかかわらず物語で回るために。」この状況に戸惑い、そして実際に金が二つのうちの変動の少ない金属であることを発見して、ハミルトンは貴金属のうちどれを将来アメリカの通貨単位に「併合」すべきかを決定することが困難であった。どちらも優先せず、バイメタルシステムを確立することを優先しますが、実際には失敗しました。
商取引に関連してよく見られる誤謬の1つは、現代ではクレジットと呼ばれる節約装置が導入され、この装置が知られる前は、購入はすべて現金で、つまりコインで支払われていたことです。慎重な調査により、その逆が正しいことがわかります。昔は、硬貨は今日よりもはるかに小さな役割を果たしていました。実際、コインの量は非常に少なかったため、ロイヤルファミリーや小額の支払いを目的としてさまざまな種類のトークンを定期的に使用していた土地のニーズには対応できませんでした。だから重要ではないことは、時にはキングスがリミンチや再発行のためにそれを全部呼んだことを躊躇しないで、それでも商取引が同じように続いたという貨幣でした。コインを公衆に販売するという現代の慣行は、昔は全く知られていなかったようです。金属はミントによって購入され、コインは国王の兵士の支払いのために、政府の費用の支払いのために王によって発行されました。理解するのが最も難しいことの1つは、同じ日であっても、フランスのミントによって貴金属のために支払われた価格の驚くべき違いです。常にではないにしても、価格が金属の市場価値と何の関係もないことが多いという事実は、作家によって注目されています。しかし、その記録が何を基にしているのかを示すための記録はありません。推定される説明は、金と銀の売買は、財務省の大口債権者であり、ミントによる金属の購入が借金の一部を支払う金融取引を伴う非常に少数の偉大な銀行家の手に渡ったということです。金属の法外な価格を装って作られました。
イギリスとフランス(そしてすべての国々で)の14世紀のずっと前から、政府がほとんど成功せずに一定の戦争をしてきた大量の私的金属トークンが一般的に使用されていたと思います。19世紀にイギリスやアメリカでそれらの使用が抑圧されたのは実のところよくありませんでした。私たちは現在の硬貨の独占の独占制度に慣れ親しんでいるので、それを政府の主要な機能の1つと見なすようになり、この独占が維持されなければ破滅が起こるであろうという教義をしっかりと保持します。歴史はこの主張を裏付けていない。中世政府が独占権を確立するために何度も試みるようにした理由は、とにかくフランスであったが、その理由の一つは、親の世話をすることではない。人々は、頻繁な「突然変異」から常に人気があるわけではない政府の硬貨をより一般的に使用するために、小売商取引のための何らかの手段を持つ必要性によって強制されるであろうということを人々に強制されるであろう。一つには、大量のベーストークンの流通がどういうわけか貴金属の価格を上げる傾向がある、あるいはむしろ硬貨の価値を下げる傾向があると信じられていたからです。今日のエコノミストが私たちのトークンコインの価値はその生産量を厳しく制限することによってのみ維持されることを教えているように。現代でプライベートトークンの使用がなくなった理由は、より効率的な法の執行よりも、自然の原因によるものです。改善された金融コインのおかげで彼らは持っていなかった安定性を獲得し、そして大衆はそれらに自信を持つようになりました。政府の主導権の急成長により、これらのトークンはプライベートトークンでは享受できないほどの流通を持つようになり、公衆の見積もりで後者に取って代わりました。政府。
硬貨に安定した価値がなかったのであれば、金や銀の硬貨は何世紀にもわたって存在せず、さまざまな合金の卑金属の硬貨のみが存在していました。貨幣単位は貨幣とは区別され、金と銀の価格はその単位に関して絶えず変動していました(そしてこれらの命題は歴史的証拠によって非常に豊富に証明されています。それから、貴金属が価値の標準でもありえなかったし、交換の媒体でもあり得なかったことは明らかです。つまり、販売は商品を明確な重量の普遍的に許容される金属に交換することであるという理論は調査に値しないであろう、そして我々は販売と購入の性質とその性質の別の説明を求めなければならない。それは間違いなく商品が交換されるものです。
歴史以前の時代に人間が物々交換で暮らしていたと仮定すると、自然に起こったであろう発展は何であり、それによって彼は現在の商取引方法についての知識に成長したのでしょうか。このように状況はAdam Smithによって説明されています。
「しかし、分業が最初に起こったとき、この交換の力はその業務においてしばしば非常に目詰まりしていて恥ずかしかったにちがいありません。前者はこの超流動性の一部を処分し、後者は購入することを嬉しく思うでしょう。肉屋は自分の食料よりも自分の店で肉を多く持っており、醸造者と製パン業者はそれぞれその一部を購入しても構わないと思っています。この場合、肉屋にはすぐに機会があるすべてのパンとビールが用意されていますが、それらの間で変更を加えることはできません。の したがって、それらは互いに相互に利用できないものです。そのような状況の不便を避けるために、社会のあらゆる時代のあらゆる慎重な人は、分業の最初の設立の後に、彼によっていつもそうであるような方法で彼の業務を管理するために当然努力しなければなりません彼自身の産業の独特の農産物のほかに、ある量の商品やその他のものなど、彼らの産業の生産と引き換えに拒絶する人はほとんどいないだろうと想像していました。」
「この目的のために、多くの異なる商品が相次いで考えられ採用されてきた。しかし、すべての国で、男性はついにはこの雇用を優先してあらゆる目的のために金属を使用することを好む理由によって決定されたようだ。他の商品。」
アダム・スミスの立場は、パン屋や醸造者が肉屋から肉を欲しがっていても(後者は十分にパンとビールを提供されている)、交換することはできないという命題の真実に左右される。もしこれが本当なら、交換媒体の教義はおそらく正しいでしょう。しかし、それは本当ですか?パン職人と醸造家が誠実な男性であり、誠実さは現代の美徳ではないと仮定すると、肉屋は彼らから彼がそれほど多くの肉を買ったという承認を彼らから取ることができます。彼らが提示されるかもしれないときはいつでも、村の市場で現在の相対的な価値でパンまたはビールでこれらの承認を引き換えるためにパン屋と醸造家の、そして私たちはすぐに十分で十分な通貨を持っています。この理論によれば、売却は、「交換媒体」と呼ばれる中間商品への商品の交換ではなく、クレジットでの商品の交換です。
非常に単純なシステムで必要なことがすべて実行される場合、非常に不器用なデバイスが存在することを交換の媒体として想定する理由はまったくありません。私たちが証明しなければならないのは、金と銀を受け入れるという奇妙な一般的合意ではなく、義務の尊厳の一般的な意味です。言い換えれば、現在の理論は借金の法則の古さに基づいています。
私たちは幸運にも堅実な歴史的地位にあります。歴史的な記録を持っている最も早い日から、私たちは借金の法則の存在下にあり、そして私たちが確かにするように、彼のコードを編集した偉大な王ハムラビのそれよりもまだ早い年齢の記録を見つける紀元前2000年のバビロニアの法律のうち、私たちはまだ同じ法律の痕跡を見つけることはないでしょう。義務の尊厳は、確かに、すべての社会の土台であり、文明のあらゆる段階においてではありません。そして、我々が野蛮人と呼ぶことに慣れている人々にとって、信用は未知でありそして物々交換だけが使われるという考えは根拠がない。中国の商人からアメリカのレッドスキンまで。砂漠のアラブから南アフリカのホッテント、ニュージーランドのマオリに至るまで、借金と貸方は皆によく知られており、約束された言葉を破ること、または義務を果たすことを拒むことは同じく不名誉なことです。
ここでは、「クレジット」という言葉の原始的な意味と、唯一の真の商業的または経済的意味を説明する必要があります。それは単に借金の相関関係です。AがBに負うものは、Bに対するAの債務およびAに対するBの債務です。AはBの債務者であり、BはAの債務者です。「信用」と「借金」という言葉は、2つの当事者間の法的関係を表しており、両者は反対側から見た同じ法的関係を表しています。Aはこの関係を借金として話し、Bはそれをクレジットとして話します。私はこれら2つの言葉を使う機会が頻繁にあるので、読者はこの概念に精通しておく必要があります。これは、銀行家や金融専門家にとっては非常に単純ですが、多くの人にとって混乱しやすいためです。 「クレジット」という言葉の派生的な意味。したがって、次のページでは、クレジットまたはデットという言葉が使われていても、話されていることは両方の場合でまったく同じです。どちらの言葉も状況から見て使用されています。債権者または債務者の。
ファーストクラスのクレジットは最も価値のある種類の財産です。肉体的な存在を持たないので、それは重さもなく、余地もありません。それは簡単に転送することができます。それは手紙か電信の費用以外の何もない簡単な命令によって場所から場所へ自由に動くことができる。それはすぐに使用されて任意の材料の欲求を供給することができます、そしてそれは少しの費用で破壊と盗難から守られることができます。それはあらゆる形態の財産のうち最も扱いやすいものであり、最も恒久的なものの一つです。それは債務者と同居し、彼の財産を共有し、そして彼が死ぬとそれは彼の財産の相続人に渡されます。遺産が存在する限り、その義務は継続し[4]、都合のよい状況の下で、そして健全な商業状態の下では、それが悪化を被るべきである理由はないようです。
クレジットは、経済活動でお金の主な属性の1つであるとよく言われる購買力であり、これから説明するように、クレジットとクレジットだけがお金です。金や銀ではなく信用が、すべての人が求める一つの財産であり、その取得はすべての商取引の目的であり目的です。
「信用」という言葉は一般に、技術的には借金の支払いを要求し訴訟を起こす権利であると定義されており、これが今日の信用の法的側面であることは間違いありません。私たちはコインでたくさんの小さな購入品を払うことに慣れているので、法定入札の法則によって促進されるという考えを採用するようになったので、債務の支払いの権利はコインまたはそれと同等の支払いの権利を意味します。そしてさらに、現代の貨幣制度のおかげで、私たちは硬貨での支払いがある一定の重さの金での支払いを意味するという概念に導かれました。
商取引の原則を理解する前に、この誤った考えを完全に捨て去る必要があります。「支払う」という動詞の根本的な意味は、「なだめる」、「鎮静する」、「満たす」という意味であり、債務者は自分の債権者を満たす立場になければならないが、クレジットの本当に重要な特徴である。それはそれが借金の「支払い」に与える権利ではなく、それがその手段によって借金から自分自身を解放することを保有者に与える権利 - すべての社会によって認識される権利です。買うことによって私たちは債務者になり、売ることによって私たちは債権者になり、そしてすべての買い手と売り手の両方であることによって私たちはすべて債務者と債権者になります。債務者として、私たちの債権者に、自分が負っている金額と同額の債務の承認を彼に渡すことによって、彼に対する債務を取り消すことを強いることができます。たとえば、Bから100ドルの値まで商品を購入したAが、その金額に対するBの債務者です。Aは同等の価値の商品をCに売却し、Bから受け取った借金の承認を支払うことでBに対する義務を免除することができます。彼は彼に起因する借金をキャンセルするように彼に強いることができます。Aは自分の借金から身を解放するために調達したクレジットを使いました。それは彼の特権です。
これは商取引の原始的な法則です。クレジットと債務の絶え間ない創造、そして互いに相殺されることによるそれらの絶滅は、商業の全体的なメカニズムを形成し、それを理解することができない誰もいないほど単純です。信用と借金には何の関係もなく、金と銀との関係もありませんでした。私が知っている限りでは、債務者に金や銀、またはその他の商品で債務を支払うことを強いる法律はありません。また、私の知る限りでは、債権者に金や銀の金塊の債務の支払いを義務付ける法律はなく、また、植民地時代の法廷での債権者によるタバコや他の商品の支払いの受け入れは例外的で正当でした。特殊な状況のストレスに。立法府はもちろん債務を支払うことができる特定の方法を規定するために彼らの主権者の力を使うかもしれません、しかし私たちは商取引の原則の例証として、通貨、貨幣または法定通貨に関する法令を受け入れることに悩まされなければなりません。
クレジットの価値は、金や銀、あるいはその背後にある他の財産の存在によってではなく、単に債務者の「支払能力」に左右されます。彼の借金を相殺するために他の人に十分なクレジット。債務者が自分の債務と相殺することができるクレジットを所有も獲得もできない場合、それらの債務の保有はそれらを所有する債務者にとって価値がない。売ること、繰り返すこと、そして財産を売ることによって、あるいは私たちの才能や土地を使うことによって売ることによってではなく、私たちは一人で売ることによって、私たちは借金から自分自身を解放するクレジットを得ます。慎重な銀行家が借り手としての彼の顧客の価値を推定するのは、彼の販売力によるものです。ある時点で支払われるべき債務は、その時点で利用可能になるクレジットに対して相殺されることによってのみ取り消すことができます。つまり、債権者は、自分が与えた債務の承認を彼に支払うことを余儀なくされることはできず、後日支払われることになります。それ故に、人が即座に利用可能なクレジットを少なくとも直ちに支払うべき彼の借金の額に等しい場合には、その人は唯一無力であるということになる。したがって、彼の即時債務の合計が彼の即時債務の合計を超える場合、彼の債権者に対するこれらの債務の実際の価値は、それらを彼のクレジットの額と等しくする量にまで低下します。これはコマースの最も重要な原則の1つです。覚えておくべきもう1つの重要な点は、売り手が購入した商品を引き渡し、購入者からの借金の承認を受け入れたとき、取引が完了し、購入の支払いが最終的であるということです。そして、売り手と買い手、債権者と債務者の間に生じる新しい関係は、売買とは異なります。
何世紀もの間、私たちが知らないうちに、主な商取引の道具はコインでもプライベートトークンでもなかったが、集計[5](Lat。talea。Fr. taille。Ger。Kerbholz)は二乗された棒であった。ヘーゼルウッド、購入額、または負債を示すために特定の方法で刻み目を入れた。債務者の名前と取引の日付は棒の反対側に書かれていました、そしてそれはそれからノッチが半分に切られるように中間で分割されました、そして、名前と日付は両方の部分に現れました集計 片の一方が他方よりも短くなるように、割れは棒の基部から約1インチのクロスカットによって止められた。「株」と呼ばれるもの[6]が売り手または債権者に発行された一方で、「スタブ」または「カウンターストック」と呼ばれるもう一方は買い手または債務者によって保管されました。このように、両方の半分は信用と負債の完全な記録であり、債務者は彼のスタブによって彼の集計の詐欺的な模倣または改ざんから保護されていました。
現代の考古学者の労働は、極めて古くからある数々の物をもたらしました。それは、確信を持って古代の記録、または全く同じ性質の道具であると発音されるかもしれません。最も原始的な時代からの商取引が「交換の手段」ではなく、信用によって行われたことを疑うことはできません。イタリアの宝庫には、鉄と一般的に重く合金化された銅の断片がたくさんあります。最も初期のものは、紀元前1000年から2000年の間に紀元前1000年前に作られたもので、硬貨の導入から1000年前のもので、エース失礼と呼ばれ、形のないインゴットか円形ディスクや長方形のケーキに鋳造されます。aes signatumと呼ばれる後の部分は、すべてケーキやタブレットにキャストされ、さまざまなデバイスを持っています。これらの金属片は金銭として使用されてきたことが知られており、それらの使用は硬貨の導入後しばらくしてからずっと続いています。
aes rudeとaes signatumについての特徴的なことは、稀な例外を除いて、技術的に呼ばれているように金属がまだ熱くてもろくてあるいは「短い」間、製造時にすべての部分が故意に壊されたということです。彫刻刀を金属の上に置き、軽く打った。ノミはそれから取除かれ、金属はハンマーの打撃で容易に突き破られた。合理的な疑いはあり得ないが、これらは古代の割符であり、割れた金属は後日に分割ヘーゼルが固執したのと同じ保護を債務者に与える。
初期のローマ時代の硬貨の状態は、硬貨の一片を砕くこと - つまりその象徴性を証明すること - が、より完璧な硬貨を打つ方法に取って代わられるまでは一般的であったことを示しています。
タランタムの古代ギリシャの植民地、タラントでは、最近、ギリシャの初期の硬貨に見られるのと同じような印が刻印された銀のケーキ(純粋な金属または卑金属が記載されていない)の溜まりが発見されました。それらのすべては意図的に分割された作品を持っています。また、不規則な鋸歯状の縁を残すように切り取られた、または引き裂かれた細いディスクがありました。
ドイツの売店では、イタリアの銅製ケーキと同じ年代の銀合金の棒が数本発見されています。これらのいくつかは全部ですが、他のものは片端からハッキングされた部分を持っています。
古代バビロニアで最近発見されたものの中で、最も一般的な商業文書は「契約タブレット」または「シュハティタブレット」と呼ばれるものです - それらのほぼすべてに存在する、「受信」を意味する単語shubati。紀元前2000年から3000年の間に最も古く使用されていたこれらのタブレットは、普通の化粧石鹸のケーキの形と大きさに似ており、イタリアの銅製ケーキとよく似ています。より多くの数は、「彼女」という観点からの単純な取引記録であり、考古学者にはある種の穀物であると理解されています。
それらは以下の徴候を帯びている: - 穀物の量。「シュバティ」という言葉を受け取った。受信者の名前。受け取った人の名前。日付。 受信者の封印、または王が受信者の場合は、彼の「筆記者」または「使用人」の封印。
これらの錠剤が遭遇した頻度から、それらが製造される材料の耐久性から、それらが銀行として役立ったことが知られている寺院で保存されていた手入れから、そしてより具体的には碑文は、それらが中世の記録と現代の手形に対応すると判断されるかもしれません。つまり、購入の支払いで購入者から販売者に与えられた債務の単純な承認であり、それらは一般的な商取引の手段であるということです。しかし、おそらくその説得力のある証明は、いくつかのタブレットが完全にぴったりフィットした粘土の封筒または「ケース」で囲まれているという事実にあるはずです。それ自体を検査することができます。これらの「ケースタブレット」では、それらは呼ばれ、銘文はケースに記載されています、そしてそれは2つの注目すべき省略で、囲まれたタブレットに繰り返されます。受信機の名前と印は内部には見当たりません。事件を破棄することによってのみ触れることができた内側のタブレット上の取引の本質的な特徴の繰り返しが、彼のタブレットの危険に対する債務者の保護のためであったことは自明である不正な手に落ちた場合、不正に改ざんされている。これらの「事件簿」の特別な意義は、明らかに債務者の所持のための単なる記録として意図されたものではなく、署名され封印された文書であり、債権者に発行されたことである。タリーや手形のように手から手に渡されました。借金が支払われたとき、私たちはタブレットを破るのが通例であったと言われています。
もちろん、当時の商取引についてはほとんど何もわかっていませんが、私たちが知っていることは、素晴らしい商取引が行われ、手から手へ、そして場所から場所への信用の移転が知られていたことです。バビロニア人。私たちは、偉大なジェノヴァ人やフィレンツェ人の銀行家たちが中世にしたように、そして私たちの銀行が今日行っているように、州の金融や州の徴税に参加している大手商店や銀行会社の説明を持っています。
中国でも、バビロニア帝国の時代とはかけ離れた時代に、私たちが学ぶことができた限り、硬貨が存在するずっと前、そして事実上中国の歴史の至る所で銀行や信用状が見つかりました。常に単なるトークンでした。
疑いの余地はないが、その信用は現金よりはるかに古い。
この遠足から遠い昔の歴史への回帰から、私は今や私たちの身近な日々におけるビジネス方法の考察に戻ります。
手形、紙幣または硬貨のように、集計は譲渡可能で交渉可能な商品でした。私用トークン(イギリスとアメリカの植民地では少なくとも)は、主にごくわずかな金額(ペニーまたは半ペニー)に使用され、商人やあらゆる種類の商人によって発行されました。一般的な声明として、すべての商取引は何世紀にもわたって完全に集計されていたと言うのは本当です。それらの手段によって、すべての商品の購入、すべてのお金の貸付けが行われ、すべての借金が払われました。
古くからある清算機関は、大きな定期的な見本市であり、商人たちは大小を問わず、互いの借金やクレジットを清算するために、彼らと一緒に彼らの集計を持って行きました。「裁判官」は、すべての商事紛争を処理し、決定し、「原告がこれを望む場合は商法に基づいて集計を証明する」ために見本市を開催しました。イングランドでこれらの見本市の最大のものはウィンチェスターのセントジャイルズのそれでしたが、おそらくすべてのヨーロッパで最も有名なのはフランスのシャンパーニュとブリーのもので、そこにはすべての国からの商人と銀行家が来ました。単一のコインを使用せずに、交換ブースが設立され、借金と貸方が莫大な金額まで決済されました。
私が話したフェアの起源は、古代の霧の中で失われています。我々が記録を持っている大部分の憲章は、封建領主に公正を保持する権利を与え、見本市の古代の習慣の維持を規定しています。または彼に独占を認めた。これらの見本市が非常に重要だったので、それらを訪れる商人の人や財産はいたるところで聖なるものとなりました。戦争の間、彼らが通過しなければならなかった領域を通して安全な行動が彼らに与えられました、そして、道路で彼らに提供された暴力のために厳しい処罰が加えられました。いずれかの見本市で借金を支払うことを契約を立てる際のごく一般的な慣習であり、借金が支払われる一般的な許可は質の高さと呼ばれていました。フェアを開催する習慣も中世ヨーロッパに限定されていませんでした。彼らは古代ギリシャでパネギリスの名で開催され、ローマでは彼らはヌンディーナと呼ばれていました。この名前は中世にもよく使われていました。彼らはメソポタミアとインドで開催されたことが知られています。メキシコではそれらは征服の歴史家によって記録され、そしてエジプトの見本市で何年も前にヘロドトスに知られていた習慣が見られたかもしれません。
いくつかの見本市では、借金とクレジットの決済以外に他の業務は行われていませんでしたが、ほとんどの場合、活発な小売取引が行われていました。政府が郵便制度を発展させ、強力な銀行会社が成長するにつれて少しずつ、清算機関としての見本市の価値は低下し、そして彼らはその目的のために頻繁に使われることをやめました。そしてそれらは彼らの黄金の偉大さの単なる影です。
宗教と財政の関係は重要です。すべてではないにしてもほとんどの商業文書が見つかったのは、バビロニアの寺院の中です。エルサレムの神殿は部分的には金融機関または銀行の機関であり、デルファイのアポロ神殿もそうです。ヨーロッパの見本市は教会の前で開催され、彼らが開催された祭りの前後に聖人の名前で呼ばれました。アムステルダムでは、証券取引所は教会の前、または悪天候の中で教会の1つに設立されました。
それらは奇妙なごちゃごちゃ、これらの古い見本市、金融と取引、そして宗教と乱交であり、後者はしばしば教会の儀式と密接に混同され、敬虔な司祭たちの小さなスキャンダルとなった。彼の神聖な名前の衝撃的な冒涜のためのコミュニティ。
宗教的な祭りと借金の清算がすべての見本市の起源であり、そこに行われた商取引が後の発展であったということに私の心にはほとんど疑いはありません。これが事実であるならば、宗教と債務の支払いの間の関係は、もし必要ならば、極端な信用の古さの追加的な徴候である。
政府が債務とクレジットを使って資金を調達する方法は特に興味深いものです。他の個人と同じように、政府は、債務の承認、すなわち国庫、または政府の他の支店または政府銀行に対する草案を承認することによって支払います。これは、中世のイギリスでよく見られます。そこでは、政府が債権者に支払うために使用していた通常の方法は、税関やその他の収入部門で「集計を上げる」ことです。お世話になった木の集計。Exchequerのアカウントには、次のようなエントリがたくさんあります。 - "Warwickの伯爵Thomas To Bello Campoに、今日集められたダイバーによる集計で、同じEarlに届いた500の印が含まれています。" 「ロンドンの港にある40ポンドを含む小さな税関のコレクターの名前で、この日に1つずつ集計された。システムは、19世紀の初めまで最終的に放棄されませんでした。
私はすでに、そのような承認が個人の場合にどのように価値を獲得するのかを説明しました。私たちは皆、売買に従事し、販売用の商品を製造し、地面を耕し、農産物を販売し、私たちの手の労働または知性の仕事または財産の使用を販売します。私たちが提供するサービスに対して支払われるのは、私たちが他人から受け取ったのと同じサービスの支払いで私たち自身が与えた集計を私たちの購入者から受け取ることです。
しかし、政府は売却目的で何も生産せず、財産をほとんど所有していない。では、政府の債権者にとって、これらの集計はどのような価値があるのでしょうか。彼らはこのようにして価値を獲得します。法律により、政府は特定の特定の人々に債務者となることを義務付けています。それは、海外から商品を輸入するso-and-soが彼が輸入したもの全てに対して政府に多くを負わせること、または土地を所有するso-and-soは政府に対して1エーカーにつき多くを負うことを宣言する。この手続は税金の徴収と呼ばれ、政府に対して債務者の立場を強制された人々は、理論的には、政府が支払うべき債務を認める集計書その他の文書の保有者を探し出し、販売することによって集計を得る必要があります。彼らと何らかの商品を交わしたり、サービスを提供したりすることで、彼らは集計と別れてしまうかもしれません。これらが国庫に返還されると、税金が支払われます。これが文字通り真実であることは、昔のイギリスの保安官の記述を調べることによって見ることができます。彼らは内国税の徴収人であり、定期的に収入をロンドンに持ち込まなければなりませんでした。彼らのコレクションの大部分は常に裏切られた集計から成っていました、そしてもちろんもちろん、ある量のコインがあったのと全く同じように、全部が集計から成っていました。
Exchequerが金や銀を受け取り、保管し、払い出した場所であるという一般的な考えは全く間違っています。実際のところ、イングリッシュ・エクスチェーカーの全事業は、集計表と対集計表の比較において、集計表の2つの部分が広く呼ばれているように、集計表の発行と受領で構成されていました。政府債務者や債権者、そしてExchequerに戻ったときに集計をキャンセルすることに。実際、それは政府の信用と借金のための素晴らしい情報センターでした。
中世フランスの王の経済的な手段の1つとして私が言及した「突然変異のラ・モネ」の影響を理解することができます。彼らが発行した硬貨は彼らが彼らの兵士と船員の毎日の賃金のような彼らが小額の支払いをしたことのお世話の印でした。彼らが自分たちのトークンの公式価値を恣意的に減らしたとき、彼らはコインの保有者が所有していた政府のクレジットの価値をそれほど多く減らした。それは単なる大まかで準備が整った課税の方法であり、それが多数の人々に広まっているのであれば、それが悪用されない限り、不当なものではありませんでした。
昔の納税者は、もちろん、事実上、イングランド銀行の下書きの保有者を探すために必要なこと以上に集計の所有者を探す必要はありませんでした。これは銀行家たちによって行われました。銀行家たちは、歴史の最も初期の時代からは常に政府の金融機関だったのです。バビロンではそれはエジビの息子たちとマラシュの息子たちであり、中世ヨーロッパでは歴史の中で名前がわかるユダヤ人とフィレンツェそしてジェノバの銀行家たちでした。
銀行業がアジアの海岸のギリシャの植民地に広がったバビロニアのユダヤ人によってヨーロッパにもたらされたことはほとんど疑う余地がないことができますそしてキリスト教の時代よりずっと前に北のアフリカの本土と海岸の町で。西方には、キリスト教の時代の前または後に、イタリア、ガリア、スペインの都市を旅して自分たちを設立しました。そして歴史家たちはローマ征服の時までイギリスには到着しなかったと信じていました。ガリア人のユダヤ人は、彼らの代理人をイギリスの沿岸の町でガリア人と対決させました、そして、初期のイギリスの硬貨は主に彼らの仕事でした。
通貨単位は単なる恣意的な額面金額であり、それによって商品は信用の観点から測定され、したがって、すべての商品の価値の多少正確な尺度として機能します。ポンド、シリング、ペンスは単なる代数のa、b、cです。ここで、a = 20、b = 240cです。現在使用されている用語の由来は何ですか。それは、彼らがかつてある量またはある重量の商品に立ち向かったということかもしれません。もしそうなら、それは彼らが今もしていないし、数え切れないほどの世代のために持っていないという事実が何の商品も代表していないという事実に何の違いも与えないでしょう。ユニットがかつて商品を表していたとしましょう。たとえば、物事の初期段階では、ある商人の考えが、古くからよく使用されている用語であるシェケルと呼ばれる銀の重さの観点から、顧客のアカウントを維持するのに適しているとします。銀は、もちろん、他のものと同じような商品でした。法定入札の法律はなく、銀で自分の借金を支払う権利を持つ者は誰もいなかった。銀を使って自分のクレジットを支払う義務を負う者は誰もいなかった。借金と貸方は現在のものであるため互いに相殺されました。100ブッシェルのトウモロコシと1シェケルの銀が同じ価値であると仮定しましょう。それから、2つの価格が変わらない限り、すべてが順調です。シェケルの重さの銀または百ブッシェルのトウモロコシを商人に持ってきた男は、彼の本でも1シェケルの信用を受け取るでしょう。しかし、何らかの理由で銀の価値が下がったとすると、百ブッシェルのトウモロコシは銀のシェケルではなく、シェケルと10分の1になります。その後何が起こるでしょうか?彼らの取引が銀とは何の関係もないかもしれないけれども、彼らのクレジットが銀のシェケルとして記され、そしてマーチャントの債務者が同じ割合で得られるので、マーチャントのすべての債権者は突然失うだろうか?明らかに違います。単に商人が自分の口座をシェケルに保管するのが便利だと思ったからといって、債権者が自分のお金の10分の1を失うことに同意する可能性はほとんどありません。価格が下落した銀のシェケルの所有者は、銀が値引きになったことを商人から知らされるでしょう、そして将来的に彼はたったの9/10のシェケルを受け取るだけであるということです銀の各シェケルのためのクレジット。信用のシェケルと銀のシェケルの重さはもはや同じではありません。シェケルと呼ばれる通貨単位は、その名前が持つ金属の重さと決まった関係を持たず、商人とその顧客の借金と貸方は銀の価値の変化に影響されないでしょう。最近の作者は、アカウントがビーバースキンに保管されているケースについて言及したときにこの例を挙げています。アカウントのビーバースキンは固定されたままで、2シリングに相当しましたが、実際のスキンの価値はさまざまでしたが、1つの実際のスキンは、いくつかの仮想スキンの価値があります。
金の価格を定めている私たちの現代の法律はすべて、通貨単位の悲惨な変動性が貴金属の価格と何らかの不思議な関係を持っていたという中世後期の理論の存続に過ぎません。不変にすると、通貨単位も固定されたままになります。当時の状況を理解するのは困難です。人々はしばしば生活必需品の価格が非常に急速に上昇するのを目にしたので、日々誰も彼の収入が商品に何が価値があるのか知りませんでした。同時に、貴金属が増加するのを見ました、そして、金または銀の高級品で作られた硬貨は最高になる一方で、以前の価値で流通していたものはクリッピングによって重量が減りました。彼らはこれらの現象の間に明らかな関係があるのを見ました、そして、非常に自然に貨幣の価値の下落は金属の価値の上昇とその結果として生じる貨幣の哀れな状態に帰しました。彼らは原因と効果を間違えた、そして我々は彼らの誤りを受け継いだ。貴金属の価格を規制するために多くの試みがなされました、しかし19世紀まで、常に失敗しました。
中世の金銭的混乱の最大の原因は、貴金属の価格の上昇ではなく、戦争、疫病および飢饉の荒廃による、クレジット単位の価値の下落です。私達は今日これらの3つの原因がヨーロッパを何度も減らしたぞっとするような条件をほとんど実現できない。歴史家はこのようにして14世紀から15世紀のフランスの状況について述べています。
「敵対的な土地でのイギリス軍の破壊はひどかった、自国のフランス軍の破壊はそれほどひどいものではなかった。本能でほとんど強盗だった半規律の兵士たちのロービングバンドの破壊はまだもっと多かった。恐ろしい、そしてこれらすべての背後にある、可能であれば、イギリスやフランスの軍隊、あるいは「自由な会社」よりももっとひどいのは、犯罪者の集団があらゆる種類の凶悪行為をするために刑務所から解き放たれ、激怒した農民のバンドが奪われた彼らを守ってきた森や洞窟から逃げ出し、部隊が破壊したままにしてしまったものを燃やして燃やした彼らの家のうち、場所や年齢、性別については何の関係もなかった。フランスの全歴史の中で、悲惨なほどに悲惨なことになったことはありませんでした...ソンムからドイツのフロンティアまで、300マイルの距離で、国はいばらとシギの静かな絡み合いでした。全滅した 武装した男たちの無慈悲な怒りから逃れるために、町に避難するために逃げたか、逃げた。彼らは彼らが求めている避難所をほとんど見つけられなかった。田舎の地域が苦しんだので町は苦しみました、森林からの食物の不足によって動かされて、動かされたオオカミの群れは通りで彼らの獲物を捜しました...壁の外の戦争は激しい戦争を刺激しました。飢餓は戦争の足跡の近くにしがみついていました。当時の年代記者たちが「黒死病」や「ペスト」という名前でまとめた奇妙な形の病気は、飢餓から生まれ、最も高い壁を突き抜け、過密な都市で暴動を起こしました。フランスの人口の3分の2は、それが計算されて、戦争、疫病および飢饉のひどい自己影響の前に落ちました。」15世紀の苦しみは、14世紀の苦しみやイギリスの絵よりもそれほどひどいものではありませんでした。フランスとは違いますがほとんど違いはありません。
「北側諸国は、イギリスの一方でランカスターの壁やマージーの岸、ヨークの門とハンバーの口まで、スコットランド人によって破壊されていた。フランドル、スコットランド、その他の海賊が町を燃やしてイングランドの東、西、南の海岸の住民を殺害したり、彼らを奴隷として連れ去ったりすると、他の2人の敵がこの国に放されました。戦争のために、人が手を差し伸べられなかったものを破壊した
何度も何度も国は飢饉や疫病に襲われ、ネズミは群れや群れを刈り取った。そしてそのようなひどい荒廃が起こったのは当時だけではありませんでした。30年戦争の終わり(1618年から1648年)のドイツの状況は、14世紀のイギリスとフランスのそれより少し哀れではありませんでした。購入は売上で支払われます。言い換えれば、借金はクレジットで支払われます。前にも述べたように、クレジットの価値は債務者でもある債権者によって異なります。私が述べたような状況では(比較的繁栄の間隔がなかったと考えるべきではありませんが)、商業は事実上停止していました、クレジットはほとんど価値がありませんでした。同時に、政府は彼らの軍隊を維持し、彼らの継続的な戦争のような作戦を続けるために多額の借金を集めていました、そして彼らに支払うべきである税を課すことができませんでした。そのような状況の下で、信用の価値(言い換えれば、通貨単位の価値)が下がるべきではないことは不可能でした。現象を説明するために貨幣の想像上の恣意的な減価償却を探すことは全く不必要です。
ここで読者は、昔の慣習であったことや今日の科学理論であったことには関係なく、実際にはクレジット商品の使用以外に金を使用しているという異議を唱えるかもしれません。彼は、ドルまたは主権者が金の一定の重さであると言います、そして、我々は彼らと一緒に我々の借金を払う権利があります。
しかし、事実は何ですか?ここアメリカの状況を考えてみましょう。政府は標準的な細かさのすべての金を受け入れ、その代わりに金貨の重さ、またはそのような硬貨を表す紙の証明書を渡します。現在の一般的な印象は、金を硬貨に変えることの唯一の効果は、それをある重さの破片に切ることと、それらの重さと細かさを保証する政府マークでこれらの破片に刻印することです。しかし、これが実際に行われたことのすべてですか?決してではありません。実際に起こったことは、政府が金の断片に、彼らが税金またはそれに起因する他の負債の支払いで政府によって受け取られるという約束を伝える切手を貼ったということです。コインを発行することによって、政府は、購入した場合と同じように、所有者に対して負債を負っています。つまり、課税またはその他の方法での償還のためにクレジットを提供する義務を負っています。コインを持っているので、その所有者が彼のお金の価値を得ることができます。それが持っている切手のおかげで、金はその性質を単なる商品のそれから負債の象徴のそれに変えました。イングランドでは、イングランド銀行が金を買い、引き換えに硬貨、紙幣、またはその帳簿上のクレジットを渡します。米国では、金はミントに預けられ、預金者は引き換えに硬貨または紙の証明書を受け取ります。売り手と預金者は同様にクレジットを受け取ります。1つは公的銀行で、もう1つは政府の財務省で直接です。どちらの場合も効果はまったく同じです。硬貨、紙の証明書、紙幣および銀行の帳簿上の貸方は、形態や本質的価値の違いにかかわらず、すべて本質的に同一です。受取人がそれが何を意味するのか知っていて、そして借り手の支払いでそれを取り戻すという彼の義務を認めている限り、貴重な宝石または価値のない紙片も同様に借金の象徴であるかもしれません。
それで、お金は信用であり、信用以外の何ものでもありません。Aのお金はBの彼への借金であり、Bが彼の借金を支払うとき、Aのお金は消えます。これが金の全理論です。
借金と貸方は、お互いに連絡を取ろうとし続けているため、お互いに相殺される可能性があります。それらをまとめるのが銀行家の仕事です。これは2つの方法で行われます。請求書の割引による方法と、ローンを行う方法です。1つ目はより古風な方法で、ヨーロッパでは銀行業務の大部分は割引で構成されていますが、米国ではより一般的な手順はローンによるものです。
手形を割り引くプロセスは次のとおりです。AはB、C、およびDに商品を販売し、B、C、およびDはそれによってAの債務者となり、技術的に手形、またはより短期手形と呼ばれる債務の承認を得ます。つまり、AがB、C、およびDのクレジットを取得します。Aは、E、F、およびGから商品を購入し、それぞれに支払いをします。つまり、E、F、およびGがAのクレジットを取得したとします。B、C、およびDがE、F、およびGに商品を販売し、Aから提供された請求書を支払うことができるとします。そうすることは彼らの負債から彼ら自身を解放します。貿易が小さなサークル、例えばある村や近くの村の小集団で行われる限り、B、C、DはE、F、Gを所有して手形を手に入れることができるかもしれません。商取引が拡大し、さまざまな債務者と債権者が離れ離れになってお互いに知り合っていないとすぐに、借金とクレジットを集中化する何らかのシステムがなければ、商取引は継続されないことは明らかです。それから商人または銀行家が生まれました、後者は単に前者のより専門化された変種です。銀行家はAからB、C、およびDで彼が保持している請求書を購入し、Aは銀行の債権者となり、後者はB、C、およびDの債権者となります。彼は預金者と呼ばれています。E、F、Gはまた、Aで保有している請求書を銀行員に売却し、支払期日になると、銀行員はAで前払いした金額を借方に記入します。Aの借金とクレジットは「決済」され、彼の名前は削除され、B、C、Dが銀行の債務者、E、F、Gが対応する債権者となりました。その間、B、CおよびDは彼らがした販売そして支払の支払をしてビジネスをしていました、そして彼らはH、IおよびKの手形を受け取ります。私とKは彼らにそれを与えました、そしてそれは彼らの借金のバランスをとります。このように彼らの借金とクレジットは順番に "クリア"され、彼らの名前は借り手としてのH、IとK、そして銀行の債権者としてのE、FとGなどを残してドロップアウトします。現代の法案は、中世の集計の直系の子孫であり、そしてより古代のバビロニアの粘土タブレットです。
では、購入者の請求書を受け取って銀行に売却するのではなく、ローンで同じ結果になる方法を見てみましょう。この場合、売買を追跡するのではなく、銀行業務によって予測されます。B、C、Dは、彼らが必要とする商品を買う前に、彼が彼らの代わりにAの債務者になることを約束した銀行家と合意し、同時に彼らは銀行家の債務者になることに同意します。この契約を結んだB、CおよびDはAから彼らの購入をし、彼に彼が銀行家に販売する彼らの手形を与える代わりに、彼らは彼に銀行家に直接請求書を与えます。銀行家のこれらの手形は小切手または下書きと呼ばれます。
どの手順が採用されても、このようにして作成された状況がまったく同じであることは明らかであり、債務および貸方も同様に決済されます。メカニズムの詳細にはわずかな違いがあります。それがすべてです。
したがって、借金が期限切れになったときにそれらをまとめ、それらを清算する銀行員の媒体を通じて、借金および貸方が絶え間なく循環している。それはキリストの前に三千年前であり、それが今日であるようにこれは銀行業の全科学です。経済的な作家の間では、銀行が元々金と銀の安全な預け場所であったと仮定するのは一般的な誤りです。この考えは全く間違っていて、古代の銀行の研究からそうであることを示すことができます。
私たちが検討するどんな商取引または金融取引であっても、それが市場での1リットルの野菜の購入であろうと、政府による10億ドルのローンの発行であろうと、私たちはそれらすべてに同じ原則を見いだします。古い信用が譲渡されるか、新しい信用が創出され、国家または銀行家または農民は原則が守られるかどうかに応じて繁栄または破産します。同じ瞬間。
すべての優秀な銀行家の目的は、毎日の業務の終わりに、他の銀行家への彼の借金がそれらの銀行家への彼のクレジット、さらに彼の中の政府に対する "合法的なお金"の量を超えないことです。所持。この要件は彼が「貸す」必要がある金額を制限します。彼は他の銀行家への支払いのために提示しなければならない小切手の金額と支払いのために提示されるであろう小切手の金額を経験からかなり正確に知っています。もしそうすることによって、彼が彼らに対抗するためにその日にクレジットを持つよりも彼がある日に支払うべきより多くの負債を持つ危険性があるならば、彼は将来の支払いと引き換えに現在の義務を負うことを拒否する。将来の支払いのために支払われるべきクレジットがすぐに別の銀行員のための負債に対して相殺されることができないことは覚えておかなければなりません。互いに対して相殺されるべき債務とクレジットは、同時に「期限付き」でなければなりません。
イギリスでは手持ち現金と呼ばれるもの、そして米国では準備金と呼ばれるもの、つまり銀行が所有する合法的な金額といったものは、あまりにも重要であり、一般的には自然の順序で物事の、融資力と銀行の支払能力は、これらの準備金の量によって異なります。実際、そしてこれをあまり明確に強調して述べることはできませんが、これらの合法的な資金の準備は、科学的な観点からすると、他のどの銀行資産よりも重要ではありません。それらは他のものと同じように単なるクレジットであり、預金額の25パーセント、10パーセント、1パーセントまたは4分の1パーセントであっても、銀行の支払能力には少なくとも影響はありません。米国が法律でこれらの埋蔵量を重要視していたことは残念なことだが、それは彼らが決して持つべきではなかったことである。そのような法律は、預金者が金または「合法的な金」で彼の預金を支払う権利を有するという現代で育った誤った見解のために、疑いなく、ありました。私は彼にそのような権利を明白に与えるいかなる法律も知らないし、通常の状況下では、とにかく彼はそれを持たないであろう。預金者は自分の銀行家に他人の権利を売却します[7]。正直に言うと、銀行家が支払能力を持っている限り、その唯一の権利は他人に自分のクレジットを譲渡することです。しかし、ほとんどの国が採用している法定入札法[8]は、もともと予見も意図もされていなかった間接的な結果をもたらしました。そのような法律の目的は、金や銀を支払いの標準にすることではなく、公に発行された金額で、政府が発行した硬貨でのクレジットの支払いを拒否することを禁じることにあります。製; そして、これらの法律の理由は、債務を支払うための法的手段を提供することではなく、コインの価値を維持するためであり、コインの価値を維持するためである。ある価値で、そして別の価値でそれらを受け入れること、あるいは政府の倒産のために彼らの過度の債務をまくこと。
そのような法律の法的効力とは何かについての議論は、弁護士に委ねることができます。一般の人々の心の中での実際的な効果は私たちに関係しているすべてです。イギリスやアメリカのように、標準的な硬貨が金の一定の重さである国では、債権者がこれらの硬貨または同等の紙幣を自分の借金を完全に満足するものとして受け入れなければならないという法律それが負債を解決する唯一の合法的な方法であり、したがって、債権者は金貨を要求する権利があるという考えを公の心の中で育てるべきです。
この印象の影響は特別に残念です。預金者の心に疑念が生じたとき、彼らは直ちに彼らのクレジットのコインでの支払いまたはそれに相当するもの、すなわち国家銀行へのクレジット、または「合法的なお金」を要求します。銀行が破綻しているという海外での発想でパニックを助長する。
その結果、ストリンジェンシーの開始時には、すべての銀行は債務者にコインまたは政府によるクレジットで債務を支払わせようとし、これらの債務者は次に債務者から同じ支払いを引き出そうとしなければなりません。彼ら自身は、このように可能な限り彼らの支出を削減することを余儀なくされています。このような状況が一般的になると、売買は比較的狭い限度内で制限され、クレジットを減らすことができるのは買うだけで、借金を支払うことができるという売却だけであるので、誰もが誰も売ることができないので、彼らに起因する借金と誰もがそれらを支払うことができません。したがって、パニックは悪循環に陥ります。法定通貨法の廃止は、銀行の預金者になった時点でその銀行に貸方を売却し、コインまたは政府の支払いを要求する権利がないことを皆に認識させることによって、このような状況を緩和するのに役立ちます。義務です。通常の状況下では、ブートメーカーが彼の取引の通常の状態に十分な、様々な種類のブーツの在庫を保持するのと同様に、銀行家はそれらを望む顧客のものを満足させるのに十分なコインまたはクレジットだけを政府に保持する。そして銀行家は、そのような要求が突然彼になされることになった場合、ブートメーカーがすべての顧客に1種類のブーツを供給することができる以上に、現金ですべての彼の預金者に支払うことができません。銀行家が通常よりも多くの現金の供給を続けているのであれば、それは合衆国のように彼らにそうすることを強いる法律があるか、あるいは大量の現金の供給が人々の支払能力に自信を与えているためです。融資のための「メタリック基盤」の必要性に関して育った考えのために銀行。あるいは、この考えが普及しているために、この形式の預金の支払いに対する異常な要求が突然発生する可能性があるためです。
コインや紙幣の真価または見かけ上の価値を維持するために、法律上の入札の法律がどの程度成功することができるかを言うのはおそらく難しいでしょう。彼らは植民地時代にはそうではなかったようであり、実際、1872年の有名な法定入札事件における異議を唱える裁判官のチェイス判事は、その効果は意図したものとは逆であるという見解を表明した。それは、政府の手形の価値を維持する代わりに、法律は実際にそれらを憂鬱にする傾向があったということです。しかし、そうかもしれません、そして私はチェイス氏に同意するつもりはありません、そのような法律が適切に行われた財政を持つ国の通貨単位の維持のために不必要であることは確かであるようです。転換不能な紙幣と比較してチェイス裁判官の表現を使用するために、「政府による債務の受取可能性」は、法定通貨の法律ではなく、通貨の本当の支持である。しかし、少なくとも彼が受けるであろう満足の性質に関する紛争を避けるために、債権者が借金の支払いに応じるべき標準的な「お金」を政府が提供することが必要であると主張されるかもしれません。借金。しかし実際には、このスコアでは何の困難も経験されません。債権者が自分の借金の支払いを希望する場合、通常、彼は自分の債務者を変更したいという意味です。それは、彼が銀行家へのクレジットを望んでいるということです。したがって、彼は、すべての私的債務者は、債務が支払期日になると、評判の良い銀行家の信用を彼に譲渡することを主張します。そして、すべての溶剤の債務者はこの方法で彼の債権者を満足させることができます。法律は必要ありません。事業全体が自動的に規制します。
1820年の1797年から20年以上にわたるイギリスでの種の支払いの停止の間、金貨は流通していませんでした。その場所はイングランド銀行紙幣によって取られていました。金の条件 それでも、このスコアについて戸惑うことはなく、商取引も以前と同じように続いていました。中国(そして他のアジア諸国)は、そのような法律がなければ、それが実質的に重要であったとしても、その通商を継続することはほとんど不可能でした。銀行の問題ではなく、紙幣の性質をテーマにしたものよりも、アイデアの混同が多くありません。それは一般的に金の代用品であると考えられている、そしてそれ故に、それはそれらの問題が厳しく管理されるべきであるというメモの安全のために必要であると考えられます。米国では紙幣の発行は政府債務に「基づいている」と言われており、イングランドでは「金に基づいて」いると言われています。それらの価値はそれらが金に変換可能であるという事実に依存すると信じられているが、ここでも歴史は理論を反証している。今述べた期間中に、イングランド銀行の金の金での支払いが中断され、有名な金塊委員会が金の基準がもはや存在しないことを認めなければならなかったとき、その国の紙幣の価値は影響を受けなかった。多くの優れたビジネス経験の証人によって証言された。金がプレミアムになり、英国の紙幣の交換価値がすべての英国のお金のそれと一緒に下がった場合、それはThomas Tookeによって彼の有名な「価格の歴史」で証明されたように、当然だった。イギリスは、その軍事作戦のための海外への膨大な支出とその外国への妨害によって、それらの国々に対するその信用を大きく超える借金の積み重ね、および換算で英国ポンドの価値の下落をもたらしたという事実他の国のお金の必要な結果でした。負債が次第に清算され、イギリスの信用が通常の価値に戻ったとき、当然金の価格はポンドの点では落ちた。
長年にわたり、ギリシャのお金が海外で値引きされていたときも、これは、ギリシャの海外への過度の債務のせいであり、徐々に平等を再確立するために何よりもしたのはギリシャへの移民の米国への節約によるギリシャの銀行。これらの預金は、米国からギリシャへの債務であり、ギリシャの対外債務の利子を支払うためにギリシャが支払わなければならなかった定期支払いと相殺されています。
米国では、反対に、ドルの償却時には、国の人々に対する政府の過度の債務のために、お金は国自体で減価されました。紙幣は、銀行の預金記録簿への記入と本質的に異なるわけではない。そのようなエントリーのように、それは銀行家の負債の確認であり、その種類のすべての確認のように、それは「支払う約束」です。入金と銀行券の唯一の違いは、1つは本に書かれており、もう1つはルーズリーフの上にあるということです。一つは寄託者の名の下に立っている承認であり、もう一つは「所有者」の名の下にある。銀行の借金を登録するこれらの方法はどちらもそれぞれ特定の用途があります。ある場合には、預金またはその一部をドラフトによって転送することができ、他の場合には、単に受領書を手渡しで転送することによってそれを転送することができる。
貨幣の量的理論は、「貨幣」の過剰発行を防ぐために、すべての政府が紙幣の発行を規制することを推進しています。しかし、いくつかの特別な危険が紙幣に潜んでいるという考えには根拠がありません。紙幣の所有者は単に銀行の預金者であり、そして紙幣の発行は預金者にとって単なる便利さである。紙幣の発行を規制する法律では、効果が出ないほど弾力性のある制限が適用される場合があります。あるいは、彼らは商業にとって本当に不便であるように彼らを制限するかもしれません、その場合彼らは迷惑です。ノートの問題を制限して銀行の規制を試みることは、銀行の問題全体を完全に誤解し、間違ったところから始めることです。危険は紙幣ではなく、不本意または不正な銀行業務にあります。信用と負債の原則を正しく理解した上で、誠実な人々が銀行業務を継続することを保証したら、その問題を解決するためにノートの問題を残すことがあります。私が繰り返しますが、商取引は貴金属とは何の関係もありませんでした。そして今世界にある金と銀のすべての部分が消えても、それは以前と同じように続き、他の効果は生じません。そんなに貴重な財産。金神話は、法定通貨の法則と相まって、中央銀行には独特の美徳があるという感覚を助長しました。それは国の金の在庫を保護する上で重要な機能を果たすことになっています。これは、おそらく、貴金属の価格を固定するための何世紀にもわたる非効率的な努力の後、ヨーロッパの政府が金の価格を固定することに成功したとき、または少なくとも変動の狭い範囲内で価格を維持する。1717年、金の価格が当時の市場価値をわずかに上回る、イギリスでの現在価値に法律で定められましたが、ナポレオン戦争の終結後しばらく経ってからは、金属が王室の命令に従うことはありませんでした。その理由は、クレジットの価値の安定性が高かったことと、19世紀に金の生産が大幅に増加したことです。これらの原因の最初のものは、ペストと飢饉の消滅と初期の戦争に伴う荒廃の緩和、そして特に彼らの財政に関する政府のより良い組織化の結果でした。これらの変化は、初期の頃には知られていなかった信用、特に政府の信用の価値の繁栄と安定をもたらしました。2つ目の原因は金の市場価値の上昇を妨げ、政府とイングランド銀行が金を任意の数量で固定価格で購入し、それを実質的に同じ価格で売却する義務が減価を防いだことです。そうしなければ、金の市場価格は今では3ポンドにはならないでしょう。17.10½オンス。実際、数年の間、イギリスでの現金支払いの再開後、金は実際に3ポンドにまで下がりました。17. 6オンス。
実際、世界の政府は、鉱山所有者の多大な利益と残りの人類の喪失のために、金のコーナーを作り、それを法外な価格で維持するために共に協力してきました。この政策の結果、より合理的な政策が採用されるまで、何十億ドルもの金が銀行や金庫の金庫に保管されることになります。スペースが限られているので、ここでこの記事を閉じることを余儀なくされ、貨幣の信用理論が生じる多くの興味深い質問の検討を妨げられています。最も重要なのは、おそらく、既存の通貨システムと物価の上昇との密接な関係です。
将来の時代は、彼らが高い経済法を遵守し、世界の富と繁栄を高めていたという信念の下、ダンジョンに投獄するために金を重く購入した19世紀と20世紀の彼らの先祖を笑うでしょう。
経済と金融の知識に誇りを持っている世代と、私たちが望んでいるように、長く生き残れない世代のための奇妙な妄想、私の主人。私たちが住んでいる時代に値しない法の束縛から貴金属がいったん解放されたとき、誰がそれが全世界に利益をもたらすために蓄えられないかもしれないかについて知っている?
ノート
- 同時に複数の通貨単位の同じ現象は、後年では一般的です。
- 13世紀のグラ・トゥルノワ。しかし、それはスーの価値について長い間残っていませんでした。
- 好奇心旺盛であるということは、金の金属論に固執する人々に言えることです。私はここでそれを説明するためのスペースを持っていませんが、実際にはそれは非常に簡単です。
- 現代では、クレジットの永続性に一定の制限を課すという制限の制定法が可決されました。しかし、それらは原則に影響を与えません。それどころか、彼らはそれを確認しています。
- それらの使用は19世紀の初めまで完全に放棄されませんでした。
- それゆえ、「資本」を意味するような現代の用語「株」。
- この契約はローマの法律では「無言」と呼ばれていました。
- 偉大な商業国である中国にはそのような法律はありません。それはヨーロッパの発明のようです。
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Credit and State Theories of Money: The Contributions of A. Mitchell Innes | Wray, L. Randall, Innes, A. Mitchell | Economics
https://www.amazon.co.jp/Credit-State-Theories-Money-Contributions/dp/1843765136/
https://www.amazon.co.jp/Credit-State-Theories-Money-Contributions/dp/1843765136/
In 1913 and 1914, A. Mitchell Innes published a pair of articles that stand as two of the best pieces written in the twentieth century on the nature of money. Only recently rediscovered, these articles are reprinted and analyzed here for the first time. In addition, five new contributions analyze and extend the approach of Innes in a number of directions by including historical, anthropological, sociological, archeological, and economic analyses of the nature of money.
The original articles by Innes contained two quite different approaches to money – what might be called the credit approach (later developed in a much less satisfactory manner by J.A. Schumpeter) and the state money approach (also called Chartalist and adopted by J.M. Keynes and by G.F. Knapp). This volume shows how the credit and state money approaches can be integrated to shed light on the origins of money, but more importantly, how they can be used to understand the way the modern money system operates. In addition to the articles by Innes, the volume contains chapters by John Henry, Geoffrey Ingham, Michael Hudson, Geoffrey Gardiner, and L. Randall Wray. An introduction by L. Randall Wray and Stephanie Bell provides an overview and a short biography of Innes.
This authoritative collection of papers is a must-read for economists, policymakers and students interested in the history of economic thought, monetary policy and economic theory.
The original articles by Innes contained two quite different approaches to money – what might be called the credit approach (later developed in a much less satisfactory manner by J.A. Schumpeter) and the state money approach (also called Chartalist and adopted by J.M. Keynes and by G.F. Knapp). This volume shows how the credit and state money approaches can be integrated to shed light on the origins of money, but more importantly, how they can be used to understand the way the modern money system operates. In addition to the articles by Innes, the volume contains chapters by John Henry, Geoffrey Ingham, Michael Hudson, Geoffrey Gardiner, and L. Randall Wray. An introduction by L. Randall Wray and Stephanie Bell provides an overview and a short biography of Innes.
This authoritative collection of papers is a must-read for economists, policymakers and students interested in the history of economic thought, monetary policy and economic theory.
Amazon | Credit and State Theories of Money: The Contributions of A. Mitchell Innes | Wray, L. Randall, Innes, A. Mitchell | Economics
'The importance of this book for monetary and macroeconomics should be obvious; its historical evidence reinforces and supports many of the criticisms levelled against mainstream economics by heterodox economists, especially the work done by institutionalists and post Keynesians. It would be appropriate for graduate students, and most of the essays could be profitably assigned to undergraduates in courses such as macroeconomics, money and banking and economic history.'
-- Christopher J. Niggle, History of Economics Review'L. Randall Wray has brought together a distinguished cast of scholars in a book attempting to revive the State Theory of Money and to debunk the ahistorical "sound money" approach propagated by Neoclassical economists for many decades. . . The book is a well overdue revival of Innes's work on the origins of money that ought to spark a vibrant debate among monetary historians, economists, and policymakers. Rethinking the nature of money could make a great difference in the way we deal with economic problems of modern times; and this book moves us a step forward in that direction.' -- Fadhel Kaboub, History of Economic Ideas
'Most monetary economists today have probably never heard of A. Mitchell Innes, but they should have done. Randall Wray and his colleagues have provided an invaluable service in mapping out the "road not taken" in monetary economics in such detail. Moreover, this is not just a matter of antiquarian interest. The consequences of the profession's unquestioning acceptance of the more traditional, but arguably quite erroneous, conception of money have been profound, with directly negative consequences for the contemporary understanding of the functioning of capitalism and for policy advice.' -- John Smithin, York University, Canada
'In Credit and State Theories of Money, Professor Randy Wray continues and extends the influential tradition established by his path-breaking contribution Money and Credit in Capitalist Economies (1990). The focus in the current book is on the work of A. Mitchell Innes and his contributions in the early 20th century which "had caught Keynes's eye". This focus enables this important contribution to push the frontiers of our knowledge on monetary and credit phenomena both in terms of analysis and of their historical development.' -- Philip Arestis, The Levy Economics Institute of Bard College, US
Edited by L. Randall Wray, Professor of Economics, University of Missouri-Kansas City, US; Senior Scholar, Levy Economics Institute, US and Research Director, Centre for Full Employment and Price Stability, US
2015年11月9日に日本でレビュー済み
日本に限らないが、MMTはリーマンショック後の経済政策論争の中で知られるようになっていった。そのため、
好意的な側からも、批判的な側からも、
実際の内容については紹介されることはなく、ただ「国債残高がいくら多くなっても構わないと主張している
エキセントリックなグループ」程度の理解しか進まなかった。実際には貨幣史、経済史、社会哲学、社会学等々にまたがる
広範な背景を持った理論なのだが、少なくとも日本では、そうした側面についてはまったく知られていないように思う。
本書は、MMTの思想的起源の一つともいえるMitchell=Innes の、1913年に発表された貨幣に関する2本の論文と、
現代のMMTの指導者層による貨幣の起源・発展史に関する論文を集めたものである。Innes の論文は発表当時、
かなりの論争を引き起こした。たとえばケインズも『貨幣論』の中ではその名を引用している。しかしその後、
文献史からも全く姿を消した「忘れられた思想家」の一人となってしまった。それはあまりにも、今日の常識からすると
受入れ難く、理解しがたい思想だったからであろう。当初の貨幣はトークンに過ぎなかった、ということ。
鋳貨の素材の価値は、鋳貨の価値とはほとんど何の関係もなかったこと。
ヨーロッパ中で数百にも及ぶ発行者や価値を異にした、表面に金額を記されていない
コインが流通しており、それゆえコインの所有者たちはいったい自分がいくらのコインを持っているのかさえ
理解できなかったこと。鋳貨の価値は国王の一声で変わったこと。貨幣納税とは、
国王の私的トークンとして発行された貨幣を回収するプロセスに過ぎなかったこと。こうした事実は、
今日われわれには理解しがたい。それ故、貨幣の通史を眺めるとき、こうした事実は
捨象され、時にはご都合主義的にゆがめられ、今日の貨幣観に合うように
作り変えられてきた。Innes はむしろ史実に沿って解釈を進め、
貨幣の起源を権力者によって定められた数字と見なし、貨幣に価値を与えるものは租税だと断じる。
しかしながら、その説明は散漫で曖昧であり、要領を得ず、必ずしも説得力のあるものではない。
Innes の2本の論文に続く現代MMTerたちの論文は、Innes に手厳しい。
特にIngham はInnes の理論が、貨幣一般と資本制経済のもとでの貨幣の「種差性」を見落としたということを
徹底的に批判する。Hudson は、Innes は、主流派経済学の物々交換史観をトークン史観という別の
神話に置き換えただけだとまで言う。Harvey も同様に、Innes が現代の思考パターンを
古代にまで拡張してあてはめている非歴史性を批判する。しかしながら、
こうした手厳しい批判の一方で、MMTer が共通して評価するInnes の功績とは、
貨幣が、交換を容易にするための物的な資産価値など有していないこと、
現代貨幣とは、分業や宗教、国家、階級とともに発生した貢納や支配のための「数字」が
国王や宗教家たちが発行するトークンや、銀行の発行する負債である
銀行為替手形、さらには預金と結びついたことによって、成立していることを
明確に論じたことである。結局のところ、貨幣とは人間関係・社会関係なのである。
個々の立論は甘く曖昧で誤謬も含んでいるとしても、
ここに描き出されたアウトラインこそ、今後の経済学の発展の
中心に据えられるべきなのである。
すなわち、貨幣とは自立した諸個人の交換行為によって
生まれるような性質のものではない。貨幣にはもともと物的な「価値」など
ないのだから、その交換比率がこうした資産の「価値」によって決まるなどということは
あり得ず、社会関係こそが、その交換比率(そして分配関係)を決すること、
こうした理解へと進むことが必要なのである。
そういう意味で、MMTを、狭い政策論争という枠の中でしか考えていなかった人たちには、
Innes の論文はともかく、それに続く諸論文には
ぜひ目を通してほしいものである。(少なくとも、ご丁寧に
MMTの主張を全部ひっくり返して紹介したうえで
「ブードゥー経済学」などといっている人には騙されないようにしてほしいものである。)
好意的な側からも、批判的な側からも、
実際の内容については紹介されることはなく、ただ「国債残高がいくら多くなっても構わないと主張している
エキセントリックなグループ」程度の理解しか進まなかった。実際には貨幣史、経済史、社会哲学、社会学等々にまたがる
広範な背景を持った理論なのだが、少なくとも日本では、そうした側面についてはまったく知られていないように思う。
本書は、MMTの思想的起源の一つともいえるMitchell=Innes の、1913年に発表された貨幣に関する2本の論文と、
現代のMMTの指導者層による貨幣の起源・発展史に関する論文を集めたものである。Innes の論文は発表当時、
かなりの論争を引き起こした。たとえばケインズも『貨幣論』の中ではその名を引用している。しかしその後、
文献史からも全く姿を消した「忘れられた思想家」の一人となってしまった。それはあまりにも、今日の常識からすると
受入れ難く、理解しがたい思想だったからであろう。当初の貨幣はトークンに過ぎなかった、ということ。
鋳貨の素材の価値は、鋳貨の価値とはほとんど何の関係もなかったこと。
ヨーロッパ中で数百にも及ぶ発行者や価値を異にした、表面に金額を記されていない
コインが流通しており、それゆえコインの所有者たちはいったい自分がいくらのコインを持っているのかさえ
理解できなかったこと。鋳貨の価値は国王の一声で変わったこと。貨幣納税とは、
国王の私的トークンとして発行された貨幣を回収するプロセスに過ぎなかったこと。こうした事実は、
今日われわれには理解しがたい。それ故、貨幣の通史を眺めるとき、こうした事実は
捨象され、時にはご都合主義的にゆがめられ、今日の貨幣観に合うように
作り変えられてきた。Innes はむしろ史実に沿って解釈を進め、
貨幣の起源を権力者によって定められた数字と見なし、貨幣に価値を与えるものは租税だと断じる。
しかしながら、その説明は散漫で曖昧であり、要領を得ず、必ずしも説得力のあるものではない。
Innes の2本の論文に続く現代MMTerたちの論文は、Innes に手厳しい。
特にIngham はInnes の理論が、貨幣一般と資本制経済のもとでの貨幣の「種差性」を見落としたということを
徹底的に批判する。Hudson は、Innes は、主流派経済学の物々交換史観をトークン史観という別の
神話に置き換えただけだとまで言う。Harvey も同様に、Innes が現代の思考パターンを
古代にまで拡張してあてはめている非歴史性を批判する。しかしながら、
こうした手厳しい批判の一方で、MMTer が共通して評価するInnes の功績とは、
貨幣が、交換を容易にするための物的な資産価値など有していないこと、
現代貨幣とは、分業や宗教、国家、階級とともに発生した貢納や支配のための「数字」が
国王や宗教家たちが発行するトークンや、銀行の発行する負債である
銀行為替手形、さらには預金と結びついたことによって、成立していることを
明確に論じたことである。結局のところ、貨幣とは人間関係・社会関係なのである。
個々の立論は甘く曖昧で誤謬も含んでいるとしても、
ここに描き出されたアウトラインこそ、今後の経済学の発展の
中心に据えられるべきなのである。
すなわち、貨幣とは自立した諸個人の交換行為によって
生まれるような性質のものではない。貨幣にはもともと物的な「価値」など
ないのだから、その交換比率がこうした資産の「価値」によって決まるなどということは
あり得ず、社会関係こそが、その交換比率(そして分配関係)を決すること、
こうした理解へと進むことが必要なのである。
そういう意味で、MMTを、狭い政策論争という枠の中でしか考えていなかった人たちには、
Innes の論文はともかく、それに続く諸論文には
ぜひ目を通してほしいものである。(少なくとも、ご丁寧に
MMTの主張を全部ひっくり返して紹介したうえで
「ブードゥー経済学」などといっている人には騙されないようにしてほしいものである。)
ー
イネス
ケインズ全集 全30巻
返信削除イギリス王立経済学会編
日本語版編集委員会
編集委員:中山伊知郎/塩野谷九十九/高橋泰蔵/安井琢磨
編集幹事:荒憲治郎/大石泰彦/福岡正夫/花輪俊哉/堀内昭義/平井俊顕/吉川洋
第1巻 インドの通貨と金融 則武保夫/片山貞雄訳
第2巻 平和の経済的帰結 早坂忠訳第3巻 条約の改正 千田純一訳
第4巻 貨幣改革論 中内恒夫訳
第5巻 貨幣論I 貨幣の純粋理論 小泉明。長澤惟恭訳
第6巻 貨幣論Ⅱ 貨幣の応用理論 長澤惟恭訳
第7巻 雇用・利子および貨幣の一般理論 塩野谷祓一訳
第8巻 確率論 佐藤隆三訳
第9巻 説得論集 宮崎義一訳
第10巻 人物評伝 大野忠男訳
未第11巻 経済論文と書簡 I
未第12巻 経済論文と書簡 Ⅱ
未第13巻 一般理論とその後:第I部 準備
第14巻 一般理論とその後:第Ⅱ部 弁護と発展 清水啓典・柿原和夫・細谷圭訳
第15巻 インドとケンブリッジ:1906~14年の諸活動 三木谷良一・山上宏人訳
未第16巻 大蔵省とヴェルサイユ:1914~19年の諸活動
第17巻 条約改正と再興:1920~22年の諸活動 春井久志訳
第18巻 賠償問題の終結:1922~32年の諸活動 武野秀樹・山下正毅訳
第19巻 金本位復帰と産業政策11922~29年の諸活動 西村閑也訳
未第20巻 雇用と失業対策の再考:1929~31年の諸活動
第21巻 世界恐慌と英米における諸政策:1931~39年の諸活動 舘野敏・北原徹・黒木龍三・小谷野俊夫訳
未第22巻国内戦時金融:1939~45年の諸活動
未第23巻対外戦時金融:1940~43年の諸活動
第24巻平和への移行:1944~46年の諸活動 堀家文吉郎・柴沼武・森映雄訳
第25巻戦後世界の形成一清算同盟:1940~44年の諸活動 村野孝訳
第26巻戦後世界の形成―ブレトン・ウッズと賠償:1941~46年の諸活動 石川健一・島村高嘉訳
第27巻戦後世界の形成一雇用と商品:1940~46年の諸活動 平井俊顕・立脇和夫訳
第28巻社会・政治・文学論集 那須正彦訳
未第29巻一般理論とその後:第13巻および第14巻への補遺
未第30巻参考文献と索引
2016年現在
注:太字は既刊
カスタマーレビュー
返信削除リッキーk
5つ星のうち5.0MMTの思想的起源
2015年11月9日
形式: ハードカバー
日本に限らないが、MMTはリーマンショック後の経済政策論争の中で知られるようになっていった。そのため、
好意的な側からも、批判的な側からも、
実際の内容については紹介されることはなく、ただ「国債残高がいくら多くなっても構わないと主張している
エキセントリックなグループ」程度の理解しか進まなかった。実際には貨幣史、経済史、社会哲学、社会学等々にまたがる
広範な背景を持った理論なのだが、少なくとも日本では、そうした側面についてはまったく知られていないように思う。
本書は、MMTの思想的起源の一つともいえるMitchell=Innes の、1913年に発表された貨幣に関する2本の論文と、
現代のMMTの指導者層による貨幣の起源・発展史に関する論文を集めたものである。Innes の論文は発表当時、
かなりの論争を引き起こした。たとえばケインズも『貨幣論』の中ではその名を引用している。しかしその後、
文献史からも全く姿を消した「忘れられた思想家」の一人となってしまった。それはあまりにも、今日の常識からすると
受入れ難く、理解しがたい思想だったからであろう。当初の貨幣はトークンに過ぎなかった、ということ。
鋳貨の素材の価値は、鋳貨の価値とはほとんど何の関係もなかったこと。
ヨーロッパ中で数百にも及ぶ発行者や価値を異にした、表面に金額を記されていない
コインが流通しており、それゆえコインの所有者たちはいったい自分がいくらのコインを持っているのかさえ
理解できなかったこと。鋳貨の価値は国王の一声で変わったこと。貨幣納税とは、
国王の私的トークンとして発行された貨幣を回収するプロセスに過ぎなかったこと。こうした事実は、
今日われわれには理解しがたい。それ故、貨幣の通史を眺めるとき、こうした事実は
捨象され、時にはご都合主義的にゆがめられ、今日の貨幣観に合うように
作り変えられてきた。Innes はむしろ史実に沿って解釈を進め、
貨幣の起源を権力者によって定められた数字と見なし、貨幣に価値を与えるものは租税だと断じる。
しかしながら、その説明は散漫で曖昧であり、要領を得ず、必ずしも説得力のあるものではない。
Innes の2本の論文に続く現代MMTerたちの論文は、Innes に手厳しい。
特にIngham はInnes の理論が、貨幣一般と資本制経済のもとでの貨幣の「種差性」を見落としたということを
徹底的に批判する。Hudson は、Innes は、主流派経済学の物々交換史観をトークン史観という別の
神話に置き換えただけだとまで言う。Harvey も同様に、Innes が現代の思考パターンを
古代にまで拡張してあてはめている非歴史性を批判する。しかしながら、
こうした手厳しい批判の一方で、MMTer が共通して評価するInnes の功績とは、
貨幣が、交換を容易にするための物的な資産価値など有していないこと、
現代貨幣とは、分業や宗教、国家、階級とともに発生した貢納や支配のための「数字」が
国王や宗教家たちが発行するトークンや、銀行の発行する負債である
銀行為替手形、さらには預金と結びついたことによって、成立していることを
明確に論じたことである。結局のところ、貨幣とは人間関係・社会関係なのである。
個々の立論は甘く曖昧で誤謬も含んでいるとしても、
ここに描き出されたアウトラインこそ、今後の経済学の発展の
中心に据えられるべきなのである。
すなわち、貨幣とは自立した諸個人の交換行為によって
生まれるような性質のものではない。貨幣にはもともと物的な「価値」など
ないのだから、その交換比率がこうした資産の「価値」によって決まるなどということは
あり得ず、社会関係こそが、その交換比率(そして分配関係)を決すること、
こうした理解へと進むことが必要なのである。
そういう意味で、MMTを、狭い政策論争という枠の中でしか考えていなかった人たちには、
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Credit and State Theories of Money: The Contributions of A. Mitchell Innes
L. Randall Wray
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ケインズ全集 第29巻 一般理論とその後
著者名等
ケインズ/〔著〕 ≪再検索≫
出版者
東洋経済新報社
出版年
2019.7
大きさ等
22cm 388,32p
注記
原タイトル:THE COLLECTED WRITINGS OF JOHN MAYNARD KEYNES 英語抄訳付
NDC分類
331.74
件名
ケインズ経済学 ≪再検索≫
要旨
『一般理論』形成史の一級資料。『一般理論』の初期草稿や、ケインズ理論の核心をめぐって、ホートリー、ロバートソン、ピグー、J・ロビンソン、カーン等からよせられた誤解や疑問に論文・書簡などで応答した論争の記録を収録。
目次
第1部 準備(『貨幣改革論』から『貨幣論』へ;『貨幣論』の討議;『一般理論』に向かって);第2部 弁護と発展(『一般理論』以後)
ISBN等
4-492-81331-4
ISBN等
978-4-492-81331-7
書誌番号
3-0500703635
Credit and State Theories of Money: The Contributions of A. Mitchell Innes ハードカバー – 2004/5/1
返信削除L. Randall Wray (編集), A. Mitchell Innes (編集)
カスタマーレビュー
リッキーk
5つ星のうち5.0MMTの思想的起源
2015年11月9日
形式: ハードカバー
日本に限らないが、MMTはリーマンショック後の経済政策論争の中で知られるようになっていった。そのため、
好意的な側からも、批判的な側からも、
実際の内容については紹介されることはなく、ただ「国債残高がいくら多くなっても構わないと主張している
エキセントリックなグループ」程度の理解しか進まなかった。実際には貨幣史、経済史、社会哲学、社会学等々にまたがる
広範な背景を持った理論なのだが、少なくとも日本では、そうした側面についてはまったく知られていないように思う。
本書は、MMTの思想的起源の一つともいえるMitchell=Innes の、1913年に発表された貨幣に関する2本の論文と、
現代のMMTの指導者層による貨幣の起源・発展史に関する論文を集めたものである。Innes の論文は発表当時、
かなりの論争を引き起こした。たとえばケインズも『貨幣論』の中ではその名を引用している。しかしその後、
文献史からも全く姿を消した「忘れられた思想家」の一人となってしまった。それはあまりにも、今日の常識からすると
受入れ難く、理解しがたい思想だったからであろう。当初の貨幣はトークンに過ぎなかった、ということ。
鋳貨の素材の価値は、鋳貨の価値とはほとんど何の関係もなかったこと。
ヨーロッパ中で数百にも及ぶ発行者や価値を異にした、表面に金額を記されていない
コインが流通しており、それゆえコインの所有者たちはいったい自分がいくらのコインを持っているのかさえ
理解できなかったこと。鋳貨の価値は国王の一声で変わったこと。貨幣納税とは、
国王の私的トークンとして発行された貨幣を回収するプロセスに過ぎなかったこと。こうした事実は、
今日われわれには理解しがたい。それ故、貨幣の通史を眺めるとき、こうした事実は
捨象され、時にはご都合主義的にゆがめられ、今日の貨幣観に合うように
作り変えられてきた。Innes はむしろ史実に沿って解釈を進め、
貨幣の起源を権力者によって定められた数字と見なし、貨幣に価値を与えるものは租税だと断じる。
しかしながら、その説明は散漫で曖昧であり、要領を得ず、必ずしも説得力のあるものではない。
Innes の2本の論文に続く現代MMTerたちの論文は、Innes に手厳しい。
特にIngham はInnes の理論が、貨幣一般と資本制経済のもとでの貨幣の「種差性」を見落としたということを
徹底的に批判する。Hudson は、Innes は、主流派経済学の物々交換史観をトークン史観という別の
神話に置き換えただけだとまで言う。Harvey も同様に、Innes が現代の思考パターンを
古代にまで拡張してあてはめている非歴史性を批判する。しかしながら、
こうした手厳しい批判の一方で、MMTer が共通して評価するInnes の功績とは、
貨幣が、交換を容易にするための物的な資産価値など有していないこと、
現代貨幣とは、分業や宗教、国家、階級とともに発生した貢納や支配のための「数字」が
国王や宗教家たちが発行するトークンや、銀行の発行する負債である
銀行為替手形、さらには預金と結びついたことによって、成立していることを
明確に論じたことである。結局のところ、貨幣とは人間関係・社会関係なのである。
個々の立論は甘く曖昧で誤謬も含んでいるとしても、
ここに描き出されたアウトラインこそ、今後の経済学の発展の
中心に据えられるべきなのである。
すなわち、貨幣とは自立した諸個人の交換行為によって
生まれるような性質のものではない。貨幣にはもともと物的な「価値」など
ないのだから、その交換比率がこうした資産の「価値」によって決まるなどということは
あり得ず、社会関係こそが、その交換比率(そして分配関係)を決すること、
こうした理解へと進むことが必要なのである。
そういう意味で、MMTを、狭い政策論争という枠の中でしか考えていなかった人たちには、
Innes の論文はともかく、それに続く諸論文には
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L. Randall Wray
5つ星のうち5.0
921 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2019/11/02(土) 18:06:38.04 ID:mMDpjC3Q
返信削除レイが参照しているのはケインズ『貨幣論』の以下の箇所
《ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるい
は慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの
特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法
的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがっ
て国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのであ
る。そして表券主義的貨幣すなわち国家貨幣の時代は、国家が、一般に行なわれている計算貨幣に対して、いかなる
ものを貨幣としてこれに照応させるかを布告する権利を要求したときに--国家が辞典の使用を強制するだけでな
く、辞典を作る権利をも要求したときに--達せられた。今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義
的[貨幣〕である。》
ケインズ全集#5:4~5頁
922 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2019/11/02(土) 18:09:49.27 ID:mMDpjC3Q
返信削除https://book.asahi.com/article/12844605
「MMT現代貨幣理論入門」書評 経済の変化を映す 堅実な議論
2019.11.02
評者: 間宮陽介 / 朝⽇新聞掲載:2019年11月02日
巷ではトンデモ理論扱いされるMMTであるが、本書を読む限り、この理論に奇想天外なところはない。
それどころか、極めて堅実な基礎の上に構築されているという印象さえ受けた。
経済の重心はメインストリート(実体経済)からウォールストリート(金融経済)に移りつつあるのに、
貨幣はいまだに、実体経済に埋め込まれた交換の手段と見なされがちである。ゼロ金利政策を採っても設備
投資は増えず、量的緩和策に移行しても貸出量は増えない。これは量の問題よりは経済の変質に起因する質
の問題と見るべきなのだ。
MMTは金融政策の限界を踏まえた財政政策重視の貨幣理論である。金融と財政を別々の部屋に入れるので
はなく、両者を「貨幣理論」として融合させる。このことは中央政府と中央銀行を(広義の)政府として
一括するところにも表れているが、本質は次の2点である。
一つは、「租税が貨幣を動かす」ということ。政府の発行する貨幣は政府の債務証書であるが、それが
広く受け入れられているのは、米や砂糖ではなく、この証書で租税を支払うことが義務づけられている
ことに淵源する。
二つは、政府の支払い能力に限界はないということ。金本位制や固定相場制を採る国は金や外国通貨の
準備に不足すればデフォルトに陥る可能性があるが、このような制約のない変動相場制下の主権通貨には
デフォルトの危険はない。
批判が集中するのは後者に対してである。主権通貨とはいえ、やみくもに紙幣を増刷すればインフレを
招く。著者はこうした批判に逐一反論を加えている。著者もいうように、MMTは政府、銀行、企業・
家計間の決済方法や、バランスシート上のオペレーションなど、制度的事実から導かれた理論である。
理論の当否は事実によって決すべきで、事実のチェックを素通りした論争は不毛な空中戦に終わるだろう。
以下は中野剛志『富国と強兵』#16より
返信削除《「負債」とは、言うまでもなく「信用」の対概念であり、AのBに対する負債は、BのAに対する信用である。その信用貨幣論によって、ジョン・メイナード・ケインズにも影響を与えたA・ミッチェル・イネスは、一九一三年の論文でこう書いている。「貨幣とは信用であり、信用以外の何物でもない。Aの貨幣はBのAに対する負債であり、Bが負債を支払えば、Aの貨幣は消滅する。これが貨幣の理論のすべてである★6。」社会学者のジェフリー・インガムもまた、貨幣とは「計算貨幣の単位によって示された信用と負債の社会関係★7」であると述べている。
貨幣が負債の一形式であるというのは、以上のような意味においてである。あらゆる貨幣が負債なのである。
★6 A. Mitchell Innes,'What is Money,'in L. R. Wray(ed.),Credit and State Theories of Money, Edward Elgar,2004,p.42.
★7 Geoffrey Ingham, The Nature of Money, Polity Press, 2004,p.12.》
以下は中野剛志『富国と強兵』#16より
返信削除《「負債」とは、言うまでもなく「信用」の対概念であり、AのBに対する負債は、BのAに対する
信用である。その信用貨幣論によって、ジョン・メイナード・ケインズにも影響を与えたA・ミッチェル・
イネスは、一九一三年の論文でこう書いている。「貨幣とは信用であり、信用以外の何物でもない。
Aの貨幣はBのAに対する負債であり、Bが負債を支払えば、Aの貨幣は消滅する。これが貨幣の
理論のすべてである★6。」社会学者のジェフリー・インガムもまた、貨幣とは「計算貨幣の単位に
よって示された信用と負債の社会関係★7」であると述べている。
貨幣が負債の一形式であるというのは、以上のような意味においてである。あらゆる貨幣が負債なの
である。
★6 A. Mitchell Innes,'What is Money,'in L. R. Wray(ed.),Credit and State Theories of Money, Edward
Elgar,2004,p.42.
★7 Geoffrey Ingham, The Nature of Money, Polity Press, 2004,p.12.》
以下はレイMMT入門より#10.3
返信削除ミッチェル・イネスは、信用の基本原則を提示した。つまり、債務証書の発行者は、支払いと引き換えに債務証書を受け戻さなければならない(Wray[1998])。我々は、これを「償還可能性の原則」と呼ぶ。つまり、債務証書の保有者は、発行者に対して債務証書を渡すことで自らの支払いを実行できる。なお、保有者は債務証書を最初に受け取った者である必要はない──第三者でもよい。第三者が発行者に負債を負っていれば、その債務証書は第三者の負債を消滅させるために発行者に返却され得る。もちろん、その決済は双方の負債(発行者の負債と第三者の負債)を消滅させる。
以下は中野剛志『富国と強兵』#16より
返信削除《「負債」とは、言うまでもなく「信用」の対概念であり、AのBに対する負債は、BのAに対する
信用である。その信用貨幣論によって、ジョン・メイナード・ケインズにも影響を与えたA・ミッチェル・
イネスは、一九一三年の論文でこう書いている。「貨幣とは信用であり、信用以外の何物でもない。
Aの貨幣はBのAに対する負債であり、Bが負債を支払えば、Aの貨幣は消滅する。これが貨幣の
理論のすべてである★6。」社会学者のジェフリー・インガムもまた、貨幣とは「計算貨幣の単位に
よって示された信用と負債の社会関係★7」であると述べている。
貨幣が負債の一形式であるというのは、以上のような意味においてである。あらゆる貨幣が負債なの
である。
★6 A. Mitchell Innes,'What is Money,'in L. R. Wray(ed.),Credit and State Theories of Money, Edward
Elgar,2004,p.42.
★7 Geoffrey Ingham, The Nature of Money, Polity Press, 2004,p.12.》
5:20 午前 削除
Blogger yoji さんは書きました...
以下はレイMMT入門より#10.3
《ミッチェル・イネスは、信用の基本原則を提示した。つまり、債務証書の発行者は、支払いと
引き換えに債務証書を受け戻さなければならない(Wray[1998])。我々は、これを「償還
可能性の原則」と呼ぶ。つまり、債務証書の保有者は、発行者に対して債務証書を渡すことで
自らの支払いを実行できる。なお、保有者は債務証書を最初に受け取った者である必要はない
──第三者でもよい。第三者が発行者に負債を負っていれば、その債務証書は第三者の負債を
消滅させるために発行者に返却され得る。もちろん、その決済は双方の負債(発行者の負債と
第三者の負債)を消滅させる。》
以下は中野剛志『富国と強兵』#16より
返信削除《「負債」とは、言うまでもなく「信用」の対概念であり、AのBに対する負債は、BのAに対する
信用である。その信用貨幣論によって、ジョン・メイナード・ケインズにも影響を与えたA・ミッチェル・
イネスは、一九一三年の論文でこう書いている。「貨幣とは信用であり、信用以外の何物でもない。
Aの貨幣はBのAに対する負債であり、Bが負債を支払えば、Aの貨幣は消滅する。これが貨幣の
理論のすべてである★6。」社会学者のジェフリー・インガムもまた、貨幣とは「計算貨幣の単位に
よって示された信用と負債の社会関係★7」であると述べている。
貨幣が負債の一形式であるというのは、以上のような意味においてである。あらゆる貨幣が負債なの
である。
★6 A. Mitchell Innes,'What is Money,'in L. R. Wray(ed.),Credit and State Theories of Money, Edward
Elgar,2004,p.42.
★7 Geoffrey Ingham, The Nature of Money, Polity Press, 2004,p.12.》
以下はレイMMT入門#10.3より
《ミッチェル・イネスは、信用の基本原則を提示した。つまり、債務証書の発行者は、支払いと
引き換えに債務証書を受け戻さなければならない(Wray[1998])。我々は、これを「償還
可能性の原則」と呼ぶ。つまり、債務証書の保有者は、発行者に対して債務証書を渡すことで
自らの支払いを実行できる。なお、保有者は債務証書を最初に受け取った者である必要はない
──第三者でもよい。第三者が発行者に負債を負っていれば、その債務証書は第三者の負債を
消滅させるために発行者に返却され得る。もちろん、その決済は双方の負債(発行者の負債と
第三者の負債)を消滅させる。》
以下は中野剛志『富国と強兵』2016#1より
返信削除《「負債」とは、言うまでもなく「信用」の対概念であり、AのBに対する負債は、BのAに対する
信用である。その信用貨幣論によって、ジョン・メイナード・ケインズにも影響を与えたA・ミッチェル・
イネスは、一九一三年の論文でこう書いている。「貨幣とは信用であり、信用以外の何物でもない。
Aの貨幣はBのAに対する負債であり、Bが負債を支払えば、Aの貨幣は消滅する。これが貨幣の
理論のすべてである★6。」社会学者のジェフリー・インガムもまた、貨幣とは「計算貨幣の単位に
よって示された信用と負債の社会関係★7」であると述べている。
貨幣が負債の一形式であるというのは、以上のような意味においてである。あらゆる貨幣が負債なの
である。
★6 A. Mitchell Innes,'What is Money,'in L. R. Wray(ed.),Credit and State Theories of Money, Edward
Elgar,2004,p.42.
★7 Geoffrey Ingham, The Nature of Money, Polity Press, 2004,p.12.》
以下はレイMMT入門#10.3より
《ミッチェル・イネスは、信用の基本原則を提示した。つまり、債務証書の発行者は、支払いと
引き換えに債務証書を受け戻さなければならない(Wray[1998])。我々は、これを「償還
可能性の原則」と呼ぶ。つまり、債務証書の保有者は、発行者に対して債務証書を渡すことで
自らの支払いを実行できる。なお、保有者は債務証書を最初に受け取った者である必要はない
──第三者でもよい。第三者が発行者に負債を負っていれば、その債務証書は第三者の負債を
消滅させるために発行者に返却され得る。もちろん、その決済は双方の負債(発行者の負債と
第三者の負債)を消滅させる。》
Wray
返信削除1998. “Understanding Modern Money.” (Cheltenham, Edward Elgar).
_____
返信削除L. Randall Wray
Understanding Modern Money: The Key to Full Employment and Price Stability
ISBN-13: 978-1845429416, ISBN-10: 1845429419
1998
2006?
返信削除Description
Product Description
In this innovative and very practical book, Randall Wray argues that full employment and price stability are not the incompatible goals that current economic theory and policy assume. Indeed, he advances a policy that would generate true, full employment while simultaneously ensuring an even greater degree of price stability than has been achieved in the 1990s.
Wray's clearly written argument incorporates incisive historical analysis, modern monetary theory, and an examination of policy alternatives that rises above the doctrinal debates among monetarists, supply-siders and Keynesians over natural or non-inflationary rates of unemployment. Understanding Modern Money proclaims that a labor buffer stock program would guarantee full employment and increase labor productivity and economic growth, while reducing inflationary pressures. Wray's analysis shows that, contrary to popular belief, the dangers of a government budget deficit are largely imaginary. He outlines a program in which the government acts as employer of last resort, thereby providing employment and training to the otherwise unemployed, and stabilizing the wage scale which acts as a brake on inflation. This permits greater price stability without requiring conventional methods such as wage and price controls or countercyclical monetary policy.
This ground-breaking book offers important new ways of thinking for policymakers, students, and general readers interested in economics, employment policies, and monetary theory.
Review
'Randy Wray s book offers a fresh perspective on the issues of price inflation and employment in the macroeconomy. While consistent with earlier post Keynesian and institutionalist approaches, he nevertheless brings some new ideas to the debate. His is the sort of book that leads the reader to stop frequently to sketch out a concept or to digest some new application or theory. It is a very enjoyable read . . . Randy Wray's book is fascinating, and it already has me rethinking the ''post Keynesian'' portion of my intermediate macro class. The arguments are very powerful and well integrated and the support he provides for twintopt [money viewed as ''that which is necessary to pay taxes''] and ELR varies from theoretical to historical. I highly recommend it.'
--John T. Harvey, Review of Social Economy
'In this important book, Wray accomplishes a difficult task indeed, managing to offer both a critique of key mainstream macroeconomic views and a plausible alternative.'
--Teodoro Dario Togati, The Economic Journal
'In this important book, Randall Wray argues that federal governments should act as employer of last resort . . . Wray's book clears up many misunderstandings about ELR. It presents an excellent case for its desirability and its feasibility.'
--Marc Lavoie, Eastern Economic Journal
About the Author
L. Randall Wray, Professor of Economics, University of Missouri-Kansas City, US; Senior Scholar, Levy Economics Institute, US and Research Director, Centre for Full Employment and Price Stability, US
Features & details
Product information
Item Weight 12.6 ounces
Paperback 208 pages
ISBN-10 1845429419
ISBN-13 978-1845429416
Product Dimensions 6.25 x 0.75 x 9.25 inches
Customer Reviews 4.1 out of 5 stars 27Reviews
Publisher Edward Elgar Pub (June 26, 2006)
Language: English
Best Sellers Rank #733,964 in Books (See Top 100 in Books)
#555 in Money & Monetary Policy (Books)
#3,161 in Economics (Books)
説明
返信削除製品の説明
この革新的で非常に実践的な本の中で、ランドール・レイは、完全雇用と物価安定は、現在の経済理論や政策が想定しているような相容れない目標ではないと論じている。 実際、彼は、真の完全雇用を実現しながら、1990年代に達成された以上の物価安定性を同時に確保する政策を提唱している。
レイの明確に書かれた議論は、鋭い歴史分析、現代貨幣理論、政策の代替案の検討を取り入れており、自然失業率や非インフレ率をめぐるマネタリスト、供給論者、ケインズ論者の間の教義的な議論を超えたものとなっている。 Understanding Modern Money』は、労働力のバッファー・ストック・プログラムが完全雇用を保証し、労働生産性と経済成長を向上させ、同時にインフレ圧力を軽減することを宣言している。 レイの分析によれば、一般的に信じられていることとは裏腹に、政府の財政赤字の危険性はほとんど想像上のものであることがわかる。 彼は、政府が最後の雇用者としての役割を果たすプログラムの概要を示している。それによって、失業者に雇用と訓練を提供し、インフレのブレーキとなる賃金水準を安定化させる。 これにより、従来のような賃金・物価統制や反循環的な金融政策を必要とせずに、より大きな物価安定を実現することができる。
この画期的な本は、経済学、雇用政策、金融理論に関心のある政策立案者、学生、一般読者に重要な新しい考え方を提供している。
レビュー
ランディ・レイの著書は、マクロ経済における物価インフレと雇用の問題について新鮮な視点を提供している。 初期のポスト・ケインジアンや制度主義的なアプローチと一貫しているが、それにもかかわらず、彼は議論にいくつかの新しいアイデアをもたらしている。 彼は読者が概念をスケッチするために頻繁に停止したり、いくつかの新しいアプリケーションや理論を消化するために導く本のようなものである。 それは非常に楽しい読み物である. ランディ・レイの本は魅力的で、すでに私の中級マクロクラスの''ポストケインジアン''の部分を再考させてくれています。 論拠は非常に強力で、よく統合されており、彼が twintopt [マネーは ''税金を払うために必要なもの''として見られる]とELRのために提供するサポートは、理論的なものから歴史的なものまで様々である。 私は非常にそれをお勧めします。
--ジョンT.ハーヴェイ、社会経済のレビュー
この重要な本の中で、レイは、主要な主流のマクロ経済学的見解に対する批判と、もっともらしい代替案の両方を提供するという、実に困難な課題を達成している。
--テオドロ・ダリオ・トガティ、経済ジャーナル
この重要な本では、ランドール・レイは、連邦政府が最後の手段の雇用者として行動すべきであると主張している。 Wrayの本は、ELRについての多くの誤解を解き明かす。 それは、その望ましさと実現可能性のための優れたケースを提示している。
--Marc Lavoieの東の経済ジャーナル
著者について
L. Randall Wray, 米国ミズーリ大学カンザスシティ校経済学教授、米国レヴィ経済研究所上級研究員、米国完全雇用・物価安定センター研究部長。
特徴・詳細
製品情報
アイテム重量 12.6オンス
ペーパーバック 208ページ
ISBN-10 1845429419
ISBN-13 978-1845429416
製品寸法 6.25 x 0.75 x 9.25インチ
5つ星のうち 4.1カスタマーレビュー 27レビュー
出版社 エドワード・エルガー・パブ (2006年6月26日)
言語 英語
ベストセラーズランキング 733,964位 (本のトップ100を見る)
#お金と金融政策(本)の555位
#経済学(本)で3,161位
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Contents: Preface 1. Introduction 2. Money and Taxes 3. An Introduction to a History of Money 4. Government Spending, Deficits and Money 5. Monetary Policy 6. Employment Policy and the Value of the Currency 7. The Logic of the Taxes-Drive-Money View 8. Conclusions
返信削除レイ
返信削除1998,2006
kindle-un
#2注
14. In 1913, Mitchell Innes presented a view quite similar to Minsky's. 'Debts and credits are perpetually trying to get into touch with one another, so that they may be written off against each other, and it is the business of the banker to bring them together ... There is thus a constant circulation of debts and credits through the medium of the banker who brings them together and clears them as the debts fall due. This is the whole business of banking as it was three thousand years before Christ, and as it is today' (Innes, 1913, pp. 402-3).
Innes, A. Mitchell (1913), 'What is Money', Banking Law Journal, May, pp. 377--408.
One of the most startling innovations of all time was the daring scheme of William Paterson back in 1694 to establish the Bank of England. Imagine what a professionally trained academic economist would have said about a scheme to create money out of thin air." ~Alvin H. Hansen
返信削除アルヴィン・ハーヴィ・ハンセン(Alvin Harvey Hansen、1887年8月23日 - 1975年6月6日)は、アメリカの経済学者。1937年からハーバード大学教授として活躍。専門はマクロ経済学。ケインズ革命をアメリカにもたらすことに尽力し、アメリカン・ケインジアンとも呼ばれたが、一方では、幅広い経済問題をも取り上げた。日本ではアーヴィン・ハンセンとも呼ばれる。
返信削除アルヴィン・ハンセン
ネオケインジアン経済学
生誕
1887年8月23日
サウスダコタ州ヴィボルグ
死没
1975年6月6日(87歳)
ヴァージニア州アレクサンドリア
国籍
アメリカ合衆国の旗 アメリカ
研究機関
ハーバード大学
研究分野
マクロ経済学, 政治経済学
母校
ウィスコンシン・メディソン大学
ヤンクトン・カレッジ
影響を
受けた人物
ジョン・メイナード・ケインズ
影響を
与えた人物
ジョン・ヒックス
ポール・サミュエルソン
ジェームス・トービン
ロバート・ソロー
実績
IS-LMモデル
(ヒックス=ハンセン総合)
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目次
経歴 編集
1887年 デンマークからの移民である両親のもと、サウスダコタ州ヴィブルグ(Viborg)に生まれる。
1910年 Yankton Collegeダコタ校でBSを終了。数年間、教師をした後、ウィスコンシン大学の大学院に進む。
1916年 ブラウン大学で教え始める。
1918年 ウィスコンシン大学マディソンでPh.D.を得る。
1919年 ミネソタ大学で景気循環を教える。
ワシントンでEdwin E. Witteの「1935年社会保障法」ドラフト作成に協力。
ブラウン大学で教える。
1923年 ミネソタ大学で教える。
1933年 - 1934年 ルーズヴェルト大統領が主催する国際経済関係の国家政策調査委員会の長官を務める。
1937年 政治経済学教授としてハーバード大学へ移る。
1937年 アメリカ統計学会の副会長になる。
1937年 - 1938年 社会保障に関する大統領諮問会議の委員となる。
1940年 - 1945年 連邦準備銀行制度の理事会の特別経済顧問を務める。
1941年 - 1943年 米加経済委員会の議長となる。
1957年 ハーバード大学を退官(その後、ボンベイ大学やアメリカの多くの大学で客員教授として教える)。
1967年 アメリカ経済学会の会長を務める。
1975年 バージニア州アレクサンドリアで死去(87歳)
経済学者としての貢献 編集
ケインズ革命をアメリカにもたらすことに尽力した。1930年代後半~1940年代初めを通じ、J.E.ウィリアムスと共に指導したハーバード大学の財政政策セミナーを中心に、ポール・サミュエルソン、ジョン・ケネス・ガルブレイス、ジェームズ・トービン、ロバート・ソロー、オスカー・ランゲ、ニコラス・カルドア、都留重人といった学生に、ケインズ主義に肯定的な態度を伝授した。
IS-LMモデル(Hicks-Hansen総合)
ハンセンの在庫循環モデル
主要著作 編集
『景気循環論』、小川福太郎訳、日本評論社、1933年
『経済政策と完全雇用』、小原敬士訳、好学社、1949年
『財政政策と景気循環』、都留重人訳、日本評論社、1950年
“Business Cycles and National Income”,1951(P471-476、在庫循環モデル)
『ケインズ経済学入門』、大石泰彦訳、東京創元新社、1953年
『貨幣理論と財政政策』、小原敬士・伊東政吉訳、有斐閣、1953年
『アメリカの経済』、小原敬士・伊東政吉訳、東洋経済新報社、1959年
『1960年代の経済問題』、小原敬士訳、ダイヤモンド社、1961年
『ドルと国際通貨制度』、鈴木浩次訳、東洋経済新報社、1966年
『戦後のアメリカ経済』、名和献三・大川勉訳、雄渾社、1967年
『ケインズ経済学入門』入門シリーズ、大石泰彦訳、東京創元新社、1973年
『ケインズ経済学入門』現代社会科学叢書(新装版)、大石泰彦訳、東京創元社、1986年
外部リンク 編集
Biography
Biography
IS-LM Model
Imagewww.sangiin.go.jp › chousaPDF
返信削除ウェブ検索結果
「長期停滞とマイナス金利」
イングランド銀行のエコノミストであるレイチェルとスミスの研究によれば、. 10 年物国債の名目金利から一 ... ちなみに、サマーズの仮説は、アルビン・ハンセンの長期停滞論のリバイバ. ル版だと言われ、彼自身も ...
67 ページ·8 MB
Imagerepository.tku.ac.jp › bitstreamPDF
福祉国家と機能的財政 - 東京経済大学学術機関リポジトリ
著者: 岡本英男 · 2014 · 関連記事
https://twitter.com/stephaniekelton/status/1344044664467423232?s=21
返信削除Alvin Hansen, "Economic Progress and Declining Population Growth," American Economic Review (29) March (1939). at JSTOR
返信削除Alvin Hansen, Fiscal Policy and Business Cycles (1941)
Hansen, Alvin H. Business Cycles and National Income. London: Allen and Unwin, 1964. Print.
Hansen, Alvin H. A Guide to Keynes. New York: McGraw-Hill Book, 1953. Print.
Hansen, Alvin H. Monetary Theory and Fiscal Policy. New York: McGraw-Hill Book, 1949. Print.
texts
返信削除The American economy. --
by Hansen, Alvin Harvey, 1887-
Publication date 1957
p.14
https://archive.org/details/americaneconomy0000hans/page/14/mode/2up?q=William+Paterson+back+in+1694+to+establish+the+Bank+of+England.+Imagine+what+a+professionally+trained+academic+economist
cf.
返信削除The American economy.
by Hansen, Alvin Harvey,
1957
p.153
https://archive.org/details/americaneconomy0000hans/page/152/mode/2up
https://archive.org/details/americaneconomy0000hans/page/153/mode/1up
返信削除イネス
返信削除https://www.newmoneyhub.com/doc/CCTM_BOOK_v3.pdf
参考:
返信削除イネス『貨幣とは何か?』には邦訳があります。
検証すべきは⑤あたりでしょうか?訳者の追加脚注が大変ありがたい…
① https://www.fukurou.win/alfred-mitchell-innes-what-is-money1/
② https://www.fukurou.win/alfred-mitchell-innes-what-is-money2/
③ https://www.fukurou.win/alfred-mitchell-innes-what-is-money3/
④ https://www.fukurou.win/alfred-mitchell-innes-what-is-money4/
⑤ https://www.fukurou.win/alfred-mitchell-innes-what-is-money5/
⑥ https://www.fukurou.win/alfred-mitchell-innes-what-is-money6/
love and theft: A. M.イネス著「貨幣とは何か?」(上) 訳者楊枝嗣朗 (WhatisMoney?byA.Mitchell Innes, in The Banking Law Journal, May 1913, pp.377-408) 【訳者解題】
返信削除http://love-and-theft-2014.blogspot.com/2021/12/a-m-whatismoneybyamitchell-innes-in.html
A. M. イネス著「貨幣とは何か?」(上) (栗林佳代准教授追悼号)
返信削除A. Mitchell Innes, "What is Money?" in The Banking Law Journal, May 1913, pp.377-408
イネス A. M.
楊枝 嗣朗 [訳]
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CiNii Books
収録刊行物
佐賀大学経済論集 = Saga University economic review
佐賀大学経済論集 = Saga University economic review 52(4), 137-166, 2020-03
佐賀大学経済学会
下
返信削除https://saga-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=22581&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1&page_id=13&block_id=21
返信削除The Emergence of Capitalist Credit Money
Geoffrey Ingham
Chapter 7 in Credit and State Theories of Money, 2004 from Edward Elgar Publishing
Abstract: In 1913 and 1914, A. Mitchell Innes published a pair of articles that stand as two of the best pieces written in the twentieth century on the nature of money. Only recently rediscovered, these articles are reprinted and analyzed here for the first time.
Keywords: Economics and Finance (search for similar items in EconPapers)
Date: 2004
Credit and State Theories of Money, というタイトルで2004年イネスの論文集を
レイが出している。
中野自身はクナップを紹介するなかで国定信用貨幣論という言葉を使ったが、
上のレイの命名による論文集タイトルが念頭にあったろう。
イネスの論文自体は1913,1914年に書かれた。
なおクナップの言う国定は受領面である。
返信削除Credit and State Theories of Money, というタイトルでイネスの論文集を
レイが2004年に出している。
http://arno.daastol.com/books/wray/Wray,%20Credit%20and%20State%20Theory%20of%20Money%20%282004%29a.pdf
中野自身はクナップを紹介するなかで国定信用貨幣論という言葉を使ったが、
上のレイの命名による論文集タイトルが念頭にあったろう。
イネスの論文自体は1913,1914年に書かれた。
なおクナップの言う国定は受領面が強調される。
普通はクナップが国定貨幣を、イネスが信用貨幣を論じたとされる。
返信削除Credit and State Theories of Money, というタイトルでイネスの論文集を
レイが2004年に出している。
レイはConclusion: The Credit Money and State Money Approachesなる論文を寄稿している。
http://arno.daastol.com/books/wray/Wray,%20Credit%20and%20State%20Theory%20of%20Money%20%282004%29a.pdf
中野自身はクナップを紹介するなかで国定信用貨幣論という言葉を使ったが、
上のレイの命名による論文集タイトルが念頭にあったろう。
イネスの論文自体は1913,1914年に書かれた。
なおクナップの言う国定は受領面である。
普通はクナップが国定貨幣を、イネスが信用貨幣を論じたとされる。
返信削除Credit and State Theories of Money, というタイトルでイネスの論文集を
レイが2004年に出している。
レイはConclusion: The Credit Money and State Money Approachesなる論文を寄稿している。
http://arno.daastol.com/books/wray/Wray,%20Credit%20and%20State%20Theory%20of%20Money%20%282004%29a.pdf
中野自身はクナップを紹介するなかで国定信用貨幣論という言葉を使ったが、
上のレイの命名による論文集タイトルが念頭にあったろう。
イネスの論文自体は1913,1914年に書かれた。
なおクナップの言う国定は受領面が強調されている。
一般にはクナップが国定貨幣を、イネスが信用貨幣を論じたとされる。
序文(p.12)を読むとレイとケルトン(ベル名義)はケインズが両者をつなげるべきだった?と考えているようだ。
レイは1998年に同様の主張からなる本を書いていてこれがモズラーSoft Currency Economics(1994)と共にMMTの嚆矢であろう。
Understanding Modern Money: The Key to Full Employment and Price Stability ハードカバー – 1999/2/1
返信削除英語版 L. Randall Wray (著)
返信削除Credit and State Theories of Money, というタイトルでイネスの論文集を
レイが2004年に出している。
レイはConclusion: The Credit Money and State Money Approachesなる論文を寄稿している。
http://arno.daastol.com/books/wray/Wray,%20Credit%20and%20State%20Theory%20of%20Money%20%282004%29a.pdf
中野自身はクナップを紹介するなかで国定信用貨幣論という言葉を使ったが、
上のレイの命名による論文集タイトルが念頭にあったろう。
イネスの論文自体は1913,1914年に書かれた。
なおクナップの言う国定は受領面が強調されている。
一般にはクナップが国定貨幣を、イネスが信用貨幣を論じたとされる。
序文(p.12)を読むとレイとケルトン(ベル名義)はケインズが両者をつなげるべきだった?と考えているようだ。
レイは同様の主張からなる本Understanding Modern Money(1999)
を書いていてこれがモズラーSoft Currency Economics(1994)[未確認]と共にMMTの嚆矢であろう。
返信削除Credit and State Theories of Money, というタイトルでイネスの論文集を
レイが2004年に出している。イネスの論文自体は1913,1914年に書かれている。
(レイは序文とConclusion: The Credit Money and State Money Approachesなる論文を寄稿)
http://arno.daastol.com/books/wray/Wray,%20Credit%20and%20State%20Theory%20of%20Money%20%282004%29a.pdf
中野自身はクナップを紹介するなかで『富国と強兵』で国定信用貨幣論という言葉を使ったが、
上のレイの命名による論文集タイトルが念頭にあったろう。
なおクナップの言う国定は受領面が強調されている。
一般にはクナップが国定貨幣を、イネスが信用貨幣を論じたとされるが、前掲書序文(p.12)
を読むとレイとケルトン(ベル名義)はケインズが両者をつなげるべきだった?と考えているようだ。
レイは同様の主張からなる本Understanding Modern Money(1999)
を書いていてこれがモズラーSoft Currency Economics(1994私家版)と共にMMTの嚆矢であろう。
返信削除Credit and State Theories of Money, というタイトルでイネスの論文集を
レイが2004年に出している。イネスの論文自体は1913,1914年に書かれている。
(レイは序文とConclusion: The Credit Money and State Money Approachesなる論文を寄稿)
http://arno.daastol.com/books/wray/Wray,%20Credit%20and%20State%20Theory%20of%20Money%20%282004%29a.pdf
中野自身はクナップを紹介するなかで『富国と強兵』で国定信用貨幣論という言葉を使ったが、
上のレイの命名による論文集タイトルが念頭にあったろう。
なおクナップの言う国定は受領面が強調されている。
一般にはクナップが国定貨幣を、イネスが信用貨幣を論じたとされるが、前掲書序文(p.12)
を読むとレイとケルトン(ベル名義)はケインズが両者をつなげるべきだった?と考えているようだ。
レイは同様の主張からなる本Understanding Modern Money(1999)
を書いていてこれがモズラーSoft Currency Economics(1994私家版、未確認)と共にMMTの嚆矢であろう。