http://www.freeassociations.org/
ヴァージニア・ウルフは「女性として」書くと考えただけで身の毛のよだつ思いだと答えている。
それよりもむしろ、エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈
なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもっ
た女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。
MP#10
ケインズの闘い - 本と奇妙な煙
http://d.hatena.ne.jp/kingfish/200811171922年のヴァージニア・ウルフによるブルームズベリー・グループ回想
突然ドアが開いたかと思うと、長身で意地悪そうな姿のリットン・ストレイチー氏が入口に立っていた。彼は、ヴァネッサの白いドレスについたシミを指さした。そして彼は、「ザーメンか」と言った。
何てことを言うのだろう、と私は思った。そして私たちはどっと笑った。その一言で、寡黙と遠慮という壁が崩れた。聖なる液体の洪水が私たちを圧倒したかのように思われた。性が私たちの会話に浸透した。男色者という言葉さえも、私たちは口にするようになった。善の性質について議論したときと同じような興奮と率直さをもって、私たちは性交について議論した
作詞:真島 昌利
作曲:真島 昌利
ヴァージニア・ウルフのメノウのボタン
セロハンのバスのシートに揺れている
ジャングルジムの上 ひろがる海に
ぬれている君と 淡い月明り
ねじれた夜に 鈴をつければ
月に雪が降る
水平線の見える場所は もう春だ
背骨で聴いてる ハチミツの雨
ヒマワリ畑で ラジオが歌うよ
手紙を書いたなら 空に飛ばすんだ
風が運ぶだろう 君のところまで
青空の下 怪獣退治
ギターを片手に
輝いている夜明け前は もう夏だ
ろうせきの道 走り抜けてく
ギターを片手に
輝いている夜明け前は もう夏だ
ジル・ドゥルーズ『ジル・ドゥルーズのアベセデール』N(神経科学) - Fleur Aux Questions
http://rose-ex.hatenablog.com/entry/2017/01/19/021002
★
…そのことについてはこう考えることにしている。私は確信するのだが、同じものにも多様な読み方がありうる。もちろん「哲学」からしてそうだ。 哲学書を読むのに哲学者である必要はない。哲学書は二通りの仕方で読むことが可能だ。いや必要だ。非哲学的に読むことが絶対に必要なんだ。さもなければ哲学に「美」はない。専門家でない読者が哲学書を読むことは…哲学書の非哲学的読解は何も欠けるものがない。それだけで完結している。一つの読みとしてね。
とはいえ哲学にもよる。例えばカント哲学を非哲学的に読むのは難しい。スピノザなら大丈夫だ。農民がスピノザを読むことは十分あり得る。商売人も読むだろう。ニーチェももちろんそうだ。私が好きな哲学者はみな同様だ。
思うに「理解」する必要はない。「理解」は読むことの一側面でしかない。君が私に言ったことみたいだが、ゴーギャンらの偉大な絵を評価するためには絵画に精通していなければならない。よく知っていた方が良い。
だが無知である場合ーー極めて真摯な感情を、極めて純粋で暴力的な感情を観る者は抱くものだ。何の知識も持たずに絵から雷の一撃を受けることはもちろんある。一切何も知らぬままにだ。音楽に激しく感動することもある。何を喋っているか分からない歌曲にもだ。
例えば「ルル」を聴くと激しく感動する。あるいは「ヴォツェック」。「ある天使の思い出に」などと言ったらもう最上の感動だ。
そう、もちろん見識があればその方がいい。しかし、精神の領域においてこの世の重要なものはすべて二重の読み方ができる。ただし、独学者として好き勝手に読むのではなく、別の場で立てられた問題から出発して読むならばだ。
私は哲学者として音楽の非音楽的知覚を持つ。それが多分私にとって非常に感動的なことだ。同様に、音楽家としてまたは画家や他の何者かとして哲学を非哲学的に読むことができる。この二つの読み方が同時にできなければ、両翼のない鳥が飛べないようにうまくいかない。哲学者もまた学ばなければならない。偉大な哲学を非哲学的に読むことをだ。
典型的な例はやはりスピノザだ。スピノザの文庫を持ち歩いて読むと、偉大な歌曲を聴く時の感動を与えてくれる。そこで問われているのは理解ではない。私が講義をする時も明らかに理解している者としていない者とがいる。万事同じで本も理解できたりしなかったりする。
科学を理解しているかという質問に戻ろう。確かにその通り。ある意味そこで自分の無知の先端に置かれる。そこに留まらねばならない。自分の知の先端、同じことだが自分の無知の先端にね。そこで初めて何事かが言える。私は何を書くかを前もって知っていない。文字通り、何を話すかは話してみて分かる。関心が持てないということもあとから分かる。もし試しもせず知らないことについて知った顔をするなら、違う意味で関心がないということだ。問題にしたいのは知と無知の境界だ。そこに身を置くことで何事かが言える。
私にとっての「科学」も同じだ。学者たちとはいつも上々の関係を持つことができた。彼らから見れば私は学者ではないが「うまくいっている」と言ってくれる。そう言ってくれるのは少数だがね。私がとても気になるのは「共鳴」とでも言うべきものだ。
一つ例を挙げよう。とても単純な例だ。私が大好きな画家のドローネーがいる。ドローネーとは何か?どのような定式で言えるだろう?ドローネーがしたのは何か?彼は驚くべきことに気付いた。元に戻るがアイデアを持つとは何かということだ。ドローネーのアイデアは何か?それは、光が自身の形象を形成するということだ。光の様々な形象がある。以前からあったかもしれないがこのアイデアはとても新しい。ドローネーに見られるのは形象の創造、光が形成する形象の創造だ。彼は光の形象で描く。他の画家とまるで違うのは、光がオブジェと出会う時に取る様相だ。これによって彼はオブジェから離れオブジェなしの絵を描く。彼はとても美しいことを言った。キュビストたちを厳しく批判した時、彼は言った。「セザンヌはオブジェを壊すことに成功した。高杯を壊した。キュビストはそれを貼り合わせるのにかまける」と。つまり、重要なのはオブジェの抹消であり、堅固で幾何学的な形象の代わりに純粋な光の形象を描くことだ。これも一つの事例だ。ドローネーという絵画的出来事だ。歴史的日付は大事ではない。ここには「相対性」という側面がある。相対性理論における相対性という側面だ。この理論について多くを知っている必要はない。独学は危険だが多くを知る必要もない。私はただ相対性のある側面を知っているだけだ。つまり、幾何学的な線に従属させるのではなく、そうではなく、光線はその軌跡に…光線は幾何学的な線に従属しない。「マイケルソンの実験」がもたらした転倒だ。今や光線が幾何学的な線を基礎付ける。科学的な見地における一大変動だ。すべてが変わることになった。光線は今や恒常的な幾何学的線ではない。これは「マイケルソンの実験」が示した相対性の一側面でしかない。ドローネーが相対性理論を用いたということではない。
私は出会いを祝いたいんだ。つまり、絵画的試みと科学的試みの出会いだ。両者は無関係ではない。これと同じもう一つの例を挙げよう。リーマン空間には私の理解を超えるところもある。私が知っているのは、断片からその都度作られる空間ということだ。断片同士の接続は前もって決定されない。さて、これとは別の理由で、私は接続によって形成される空間の概念を求めている。決定されていない空間の概念。それが欲しかった。リーマンを理解するため5年をかけようとは思わない。5年経ったとしても私の哲学的概念の創造は進まないだろうからだ。
それから私は映画に行き、奇妙な空間を見た。有名なブレッソンの映画の空間だ。この空間は総体的ではない。その都度、断片から構築される。観客には独房など空間の断片しか見えない。「抵抗」の独房は決してその全体が映されなかったはずだ。「スリ」のリヨン駅の場面もすばらしい。ここでも様々な断片的空間が接続する。接続は前もって決定されない。どうしてか?手探りでなされるからだ。重要なブレッソンにおける「手」だ。つまり手が「スリ」において実際に素早く行き交い盗品をかすめ取る。それにつれて小空間同士の接続を決定する。ブレッソンがリーマン空間を用いているのではない。
そう…出会いがあるということだ。哲学的概念と科学的な概念と感性的な知覚素とのね。そういうことだ。私が科学において知っているのはちょうど出会いを評価できる程度のことだ。それを超えると哲学ではなく科学をすることになってしまう。極論すれば私は知らないことについて述べる。知っていることの関連においてだ。機転が必要な事柄だ。度を超したり知ったかぶりをしてはいけない。
繰り返すが私は画家たちと出会った。人生で最も嬉しいことだ。だが直接会うということではない。自分が書くことの中で画家と出会うんだ。最大の出会いはシモン・アンタイとだ。アンタイは私に言った。「いいね、面白い」と。お世辞じゃない。お世辞を言うような人物ではないし知り合いでもない。出会いで何かが起きる。カルメロ・ベーネとも出会った。私は演劇の経験もないし知識もない。ここでも何かが起きたと考えざるをえない。それから科学者たちとも出会い、うまくいった。また私の本を読んだ数学者たちがこう言ってくれた。「これでオーケーです」とね。
まずい言い方だったかな。まるで嫌な自己満足みたいになったが、質問に答えようとこう言ったまでだ。私が科学についてよく知っているのか。知識を多く得ることができるのか、という質問だった。
重要なのは自己満足ではなく共鳴を起こすことだ。概念と知覚素と機能・関数(ファンクション)の共鳴現象だ。科学というものは概念ではなく機能・関数(ファンクション)でなされるのだから。だからリーマン空間が必要なのだしそのための十分な知識はある。
クレール・パルネの意地悪な質問にたいするドゥルーズの答えは明晰でじつに鋭い。「科学的知識を詳しく知ることなんてあなたにはできないですよね?」と問われて、「その必要はない。自分の問題の役に立てるために専門外の知識を活用すればよい」と答える。こうしたやりとりを見ていると、自身では話すことはけがらわしいと言うドゥルーズの対話力の強さを感じずにはいられない。相手の力を利用してそれを相手に返す合気道の達人のようである。インタビューでさえこうなのだから、ドゥルーズの授業はさぞ面白くて仕方なかったにちがいない。
http://nam-students.blogspot.jp/2016/02/blog-post_36.html
イースタリンの幸福のパラドックス(イースタリンの逆説):Easterlin Paradox 1974
http://nam-students.blogspot.jp/2017/04/easterlin-paradox-1995.html@ダニエル・コーエン経済と人類21,159頁参照
Richard A. Eastelin Does Economic Growth Improuve Human Lot? 1974
(Nations and households in economic growth 89, 89-125, 1974.)
http://huwdixon.org/teaching/cei/Easterlin1974.pdf 37page
http://graphics8.nytimes.com/images/2008/04/16/business/Easterlin1974.pdf
ナイジェリア、インド、エジプト、フィリピン、ドミニカ、パナマ、ブラジル、ユーゴスラビア、キューバ、日本、ポーランド、西ドイツ、アメリカ
「Will raising the incomes of all increase the happiness of all?」(収入の増加によってすべての人の幸福度が増すのか?1994年
https://pdfs.semanticscholar.org/912e/4e8e7927ee5632545db0ce92ac8fd00b12b6.pdf 13頁
(Journal of Economic Behavior & Organization, 1995, vol. 27, issue 1, pages 35-47
Date: 1995)
人々は以前よりも経済的に豊かになっているにもかかわらず、自分が幸福だと感じている人の割合はほぼ一定しているのです。
イースタリンの幸福のパラドックス(イースタリンの逆説):Easterlin Paradox。 『「貧しい 人は、お金により幸福感が増す。しかし、中流に達すると、それ以上お金が増えても、 幸福感はあまり変わらない。ある研究によれば、年収が7万5千ドルを ...
幸福のパラドクス”とは、経済学者リチャード・イースタリンが1995年に論文にて発表した 概念です。 ... 幸福のパラドクス”が何故起きてしまうのかについて、イースタリンが考える 理由は、”相対所得仮説”または”消費規範仮説”と言われています。
日本人は所得が増えても幸福を感じられないのかもしれない-幸福のパラドクス- | Credo
http://credo.asia/2014/12/19/happy-paradox/“幸福のパラドクス”とは、経済学者リチャード・イースタリンが1995年に論文にて発表した概念です。彼は11カ国について、国内における時系列データを分析した結果、所得と幸福度の間に関係性がないという結論を出しました。※2
“幸福のパラドクス”が何故起きてしまうのかについて、イースタリンが考える理由は、”相対所得仮説”または”消費規範仮説”と言われています。
経済学における幸福度(効用)は相対的な意義を持つものと定義されています。つまり、豊かな人には豊かな人なりの、貧しい人には貧しい人なりの、基準とする生活水準があり、それとの比較で人々は自分の生活満足度を測るものだと考えられます。
例え年収1千万の人がいたとしてもその人にとっては年収1千万が当たり前で、特に豊かとは思っていないかもしれないのです。
1国内の1時点ではこの基準に基づいて豊かな人は幸福度が高く、貧しい人は幸福度が低くなります。ただし、国の経済規模が成長すればそれだけ基準値も上昇するので、時系列で通してみると経済成長と幸福度には相関性が見られません。
以上の考え方が”幸福のパラドクス”を説明する”相対所得仮説”です。
イースタリンは日本を”幸福のパラドクス”が見られる典型例だとしています。
彼は実際に幸福度とGDPとの相関関係を見たわけではありませんが、高度経済成長期を経て、貧しい経済状況から驚異的な経済成長を成し遂げたにも関わらず、幸福度が年を追う毎に上昇してはいないということがその根拠であるとされてきました。
しかし、イースタリンがこの仮説を提唱した1990年代と比較すれば、今ではデータの数も性質も変わっているかもしれません。実際にイースタリンが観測した幸福度の上昇性が見られないということが、現在までの最新データを用いても観測されるかどうか、確かめてみましょう。
イースタリンが日本の幸福度として用いたデータは、”国民生活に関する世論調査”というものです。幾つかの項目がありますが、その中でも”生活に対する満足度”という項目の値を使います。「今の生活に対して満足しているか」という趣旨の質問に対して4つの回答項目があって、上から順に4,3,2,1という点数をあてて、全員の平均値を取ったデータを用いています。
次のグラフは World Database of Happinessに掲載されていたデータを用いて筆者が作成したものです。World database of happinessに掲載されているデータは10点-0点のスケールに変換されており、イースタリンがこれを用いているので同様にここでも同じデータを示します。
このデータについて、年を追う毎に生活満足度が上昇しているのかどうか、回帰分析と呼ばれる手法で確認していきます。グラフ中に分析によって算出された数式が示されていますが、次のような意味になります。
Y(生活満足度)=0.0052*X(年)+5.7309
つまり、年が一つ進むと生活満足度が0.0052だけ大きくなるという風に解釈できます。係数は正ですが、0に近いとも言える値であり、イースタリンが生活満足度に上昇するトレンドが見られないと判断したことにもある程度納得して頂けるのではないかと思います。※3
次にイースタリンが行わなかった、GDPと生活満足度との相関性に関する分析を行ってみます。一人当たりの実質GDPの推移は次に示すグラフで確認することが出来ます。※4
これを用いて、先ほどと同様に回帰分析を行います。今回の分析においては、次のような数式を得ることが出来ました。
Y(生活満足度)= 0.0000000888 *X(一人あたり実質GDP)+5.63
値としては正ですが、殆ど0に等しい回帰係数となりました。つまり、一人あたり実質GDPが生活満足度に与える影響は非常に小さいのではないか、と考えることが出来ます。
イースタリンが述べるように、日本ではGDP、つまり国全体の経済規模が大きくなったとしても幸福度には影響しないということが分かりました。
しかし、”幸福のパラドクス”には反論も存在します。
経済学者のベツィー・スティーブンソンが2008年に発表した論文において、同氏は”幸福のパラドクス”について、満足度は収入に比例する、という主張をしました。
スティーブンソンは特に日本については、生活満足度を測るための質問内容が改定され連続性が無いにもかかわらず、イースタリンがそのままデータを用いたことで誤って”幸福のパラドクス”が見られた、と述べています。
実際に、生活満足度を測るための質問内容は1958-63年、1964-69年、1970-91年、1992-2013年という区分でそれぞれ異なるものが使われていました。※5
このように各区分で性質が異なるデータを用いるのではなく、質問内容が同じ期間のみで一人あたり実質GDPとの相関性について見てみれば、そこには関係性が生じているとスティーブンソンは主張します。
2013年までの値を用いて実際にどのような値が出てくるのかをみてみましょう。以下に示す表がその結果となります。※6
各区分で分けてしまいデータの数が少なくなってしまうので統計的に意味のある数字とは断言できませんが、係数の値としてははっきりとしたものが出てきました。※7
1991年まではスティーブンソンの主張通り、満足度と所得が比例する関係にあり、”幸福のパラドクス”が成り立たないことが分かりました。
参考文献一覧(2014年12月) | Credo
http://credo.asia/source201412/*Richard A. イースタリン ,1995年, Will raising the incomes of all increase the
happiness of all?(2014年12月15日, http://ipidumn.pbworks.com/f/イースタリンIncomesandHappiness.pdf )リンク切れ
*大竹文雄,2004年,失業と幸福度(2014年12月15日,http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2004/07/pdf/059-068.pdf)
[注釈]
※1
この調査は世界43か国の国民に対して行われました。手法の名称は” Cantril Self-Anchoring Striving Scale”と言い、社会心理学者のH・カントリルが開発したものです。まず、 0 (底)から10(天辺)までのはしご(Ladder)を思い浮かべてもらい、そして、10(天辺)があなたにとって可能な限りで最良の生活、0 (底)が最悪の生活とし、あなたは今そのはしごのどのステップにいると思うか、と聞きます。漠然と生活満足度を聞くよりも精度が高いものである、と位置づけられています。
グラフで示す値は、今の暮らし向きについて7,8,9,10を回答した人の割合が用いられています。
※2
イースタリンが用いたデータについて補足します。
時系列については米国(the General Social Surveyの1972-91年:幸福度について)、欧州 9 ヶ国(Eurobarometer Surveyの1972-89年:生活満足度について)、日本(「国民生活に関する世論調査」の1958-86年:生活満足度について、ただしイースタリンはWorld Database of Happinessの 0-10のスケールに変換したデータを用いています)の計11ヶ国です。それらについて年とともに幸福度や生活満足度が上昇しているかを回帰分析した結果、米国と日本では統計的に有意な相関は見られませんでした。また欧州については 5 ヶ国で有意な相関なし、2 ヶ国で正の相関、 2 ヶ国で負の相関が見出されました。これらの期間、米国の一人当たり実質所得は 1 / 3ほど、欧州諸国は25-50%ほど、日本は 5 倍に上昇しました。
Easterlin paradox - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Easterlin_paradoxThe Easterlin paradox is a concept in happiness economics. It is named for the economist Richard Easterlin, who suggested that a higher level of a country's per capita gross domestic product did not correlate with greater self-reported levels of happiness among citizens of a country, in contrast with people inside a country.[1] Later research has questioned whether Easterlin's conclusions about the non-correlation were accurate.
Easterlin, a professor of economics at the University of Southern California, first argued in 1974 that while within a given country people with higher incomes were more likely to report being happy, this would not hold at a national level, creating an apparent paradox.[1] He reported data that showed that reported happiness was not significantly associated with per capita GDP, among developed nations. Examining trends within nations, he suggested that the increase in income in the United States between 1946 and 1970 contrasted with flat levels of reported happiness, and declines between 1960 and 1970. These claimed differences between nation-level and person-level results fostered an ongoing body of research and debate.[2]
The theory was examined by Andrew Oswald of the University of Warwick in 1997.[3]
In 2003, Ruut Veenhoven published an analysis based on various sources of data, and concluded that there was no paradox, and countries did indeed get happier with increasing income.[4] In a reply in 2005, Easterlin maintained his position, suggesting that his critics were using inadequate data.[5]
In 2008, economists Betsey Stevenson and Justin Wolfers, both of the University of Pennsylvania, published a reassessment of the Easterlin paradox using new time-series data. They concluded like Veenhoven et al. that, contrary to Easterlin's claim, increases in absolute income were linked to increased self-reported happiness, for both individual people and whole countries.[6] They found a statistical relationship between happiness and the logarithm of absolute income, suggesting that happiness increased more slowly than income, but no "satiation point" was ever reached. The study provided evidence that absolute income, in addition to relative income, determined happiness. This is in contrast to an extreme understanding of the hedonic treadmill theory where "keeping up with the Joneses" is the only determinant of behavior.[7]
In 2010, Easterlin published data from a sample of 37 countries reaffirming the paradox[8][9]which was soon questioned by Wolfers.[10] In a 2012 report prepared for the United Nations, Richard Layard, Andrew Clark and Claudia Senik point out that other variables co-vary with wealth, including social trust, and that these, and not income, may drive much of the association of GDP per capita with well-being.[11]
In 2015, psychologists Thomas Gilovich and Amit Kumar published a review which demonstrated that "experiential purchases (such as vacations, concerts, and meals out) tend to bring more lasting happiness than material purchases." They found this was because "Compared to possessions, experiences are less prone to hedonic adaptation".[12]
Selin Kesebir, a professor at the London Business School, and Shigehiro Oishi, a professor at the University of Virginia, argued that inequality mitigates against the effect that increased GDP may have on national happiness and could partially explain the paradox.[13]
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
人口転換理論 (Demographic Transition Theory)
http://minato.sip21c.org/demography/demotran.htmlしかし,シカゴスクールの主張ともっとも激しく争ったのはEasterlinである。彼は,嗜好一定の公準を否定し,出産コントロールのコスト,及び子どもの需要と供給への近代化の間接的影響を論じた。
当初(1966-1975)は,子どもの相対価格こそが不変であると仮定し,所得が増えても子どもの数が減るとしたら,それは親の物質的生活水準に対する願望が上昇するためであるとした。1976年から子ども一人あたりの希望遺産額という概念を導入した点で子どもにかかるコストの変化も取り入れているが,相対価格不変ということと,供給因子をフレームに入れている点がユニークである。
イースタリンの説は,二つの仮説に分けられる。相対所得仮説(イースタリン仮説)と,需要供給理論である。需要供給理論では,前近代社会において出生力の超過需要状態があり,したがって自然出生力が現実に発現していたが,近代化によって子どもに対する需要(Cd)が減退し,同時に潜在供給(Cn)が高まり,調整費用(RC;抑制の心理的不快感と技術修得のための費用や心理的負担)が減るために,超過供給状態への転換が起こって家族制限への動機付けが生じたと説明される。近代化の初期には調整費用が大きいので抑制行動が具体化せず,しばらくは自然出生力が継続し,近代化による自然出生力の上昇によって出生力上昇も見られるが,近代化の進行とともに意図的な出産制限が起こり,超過供給状態が調整されて,現実の生存児数が需要と一致する点まで(BumpassとWestoffの「完全避妊社会」)出生力が低下する,と考える。
途上国の場合は技術移転によって初めから調整費用が小さいので,出生力低下はより急激に起こっても不思議はないことになり,現実と合っている。
イースタリン - Google 検索
https://www.google.com/search?tbm=bks&q=イースタリン