http://www.freeassociations.org/
デジタル大辞泉 - 令月の用語解説 - 1 何事をするにもよい月。めでたい月。「嘉辰(かしん)令月」2 陰暦2月の異称。
れいげつ【令月】とは。意味や解説、類語。1 何事をするにもよい月。めでたい月。「嘉辰 (かしん) 令月」2 陰暦2月の異称。
嘉辰令月(かしんれいげつ)の意味・使い方。めでたい月日のこと。よい日とよい月の意。 ▽「嘉」も「令」も、よい意。「辰」は日の ...
【備忘録 〜令和〜🖋】
調べてみた!
『令和』の語源はどこからか?_φ(・_・メモメモ
万葉集巻五
梅花の歌三十二首、并せて序
「初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。」
初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。
令月
2月の意
冬に枯れた草花が再び芽生え始める季節
令和:復活
「令和」の典拠とされる『万葉集』が更に参照していたのは後漢の張衡の賦だろうが、この張衡という人、古代中国科学史では天文学の観測器具「渾天儀」を最初に作ったり、地震計を作った人としても知られている。巡り巡って、日本の年号の出典となってしまったというのは、何というか面白い。
https://www.kyotocity.net/diary/2019/0401-reiwa/
『萬葉集』(萬葉集)の「梅花謌卅二首」并序より。
「梅花歌三十二首」に序を合わせる、つまり、この後に続く歌の序文です。
梅花謌卅二首并序
天平二年正月十三日萃于帥老之宅申宴會也于時初春令氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香加以曙嶺移雲松掛羅而傾盖夕岫結霧鳥對縠而迷林庭舞新蝶空歸故鴈於是盖天坐地促膝飛觴忘言一室之裏開衿烟霞之外淡然自放快然自足若非翰苑何以攄情詩紀落梅之篇古今何異矣宜而賦園梅聊成短詠
『紀州本萬葉集巻第五』
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より
1941年(昭和16年)の紀州本複写を底本として手打ちしたため、他本とは異なる箇所あり。
紀州本では「于時初春令氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香」となっていますが、「于時初春令月氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香」。
この後、大貳紀卿らの歌に続きます。
江戸時代中期~の国学者である本居宣長の『萬葉集略解』より解説を引いておきますと、
梅花歌三十二首并序
目録に太宰師大伴卿宅宴梅花云云と有り。天平二年正月十三日。萃二于帥老之宅一。申二宴會一也。于レ時初春令月。氣淑風和。梅披二鏡前之粉一。蘭薫二珮後之香一。加以曙嶺移レ雲。松掛レ羅而傾レ蓋。夕岫結レ霧。鳥レ對穀而迷レ林。庭舞二新蝶一。空歸二故雁一。
帥老は大伴卿を言ふ。此序は憶良の作れるならんと契沖言へり。さも有るべし。鏡前之粉は、宋武帝の女壽陽公主の額に梅花落ちたりしが、拂へども去らざりしより、梅化粧と言ふ時起これりと言へり。此に由りて言へるなり。珮後之香は屈原が事に由りて言へり。傾蓋は松を偃蓋など言ふ事、六朝以降の詩に多し。對穀は宋玉神女賦に、動二霧穀一以徐歩と有り。穀はこめおりのうすものなり。さて霧を穀に譬へ、穀を霧に譬へて言へり。契沖は對は封の誤かと言へり。
『萬葉集略解』
太宰師として大宰府に着任していた大伴旅人宅での宴会。
ただし、この序文は山上憶良が作ったのであろうと、やはり江戸時代中期の国学者である契沖が言っている、としており、筆者である本居宣長も同意しています。
山上憶良は万葉の時代を代表する歌人の一人で、筑前守として筑紫に着任していました。
そのため、大宰府周辺で歌を多く詠んでいます。
また、本居宣長は「鏡前之粉」の話を引き合いに出し、宋武帝(南朝宋の武帝劉裕)の名前も挙げています。
このエピソードを見ると、万葉の時代の日本に南北朝時代の中国の話が伝わっていた可能性もあるでしょうね。
歸田賦
張衡
遊都邑以永久無明畧以佐時徒臨川以羡魚俟河淸乎未期感蔡子之慷慨感蔡子之慷慨從唐生以決疑諒天道之微昧追漁殳以同嬉超埃塵以遐逝與世事乎長辭於是仲春令月時和氣淸原隰鬱茂百草滋榮王睢鼓翼倉庚哀鳴交頸頡頏關關嚶嚶於焉逍遥聊以娛情爾乃龍吟方澤虎嘯山丘仰飛繊繳俯釣長流觸矢而斃貪餌呑鉤落雲間之逸禽懸淵沈之魦鰡于時曜靈俄景以繼望舒極盤遊之至樂雖日夕而忘劬感老氏之遺誡將廻駕乎蓬蘆彈五絃之玅指詠周孔之圖書揮翰墨以奮藻陳三皇之軌模苟縱心於域外安知榮辱之所如
『文選正文巻之三』
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より
明治3年(1870年)の宝文堂版を底本として手打ちしたため、他本とは異なる箇所あり。
本によっては「倉庚」は「鶬鶊」。ウグイス(鶯)の意味。
張衡は後漢時代の人。
『歸田賦』(帰田賦)は南北朝時代の蕭統(昭明太子)が編纂したとされる『文選』に収められました。
日本の古人も目を通したかもしれませんね。
恥ずかしながら張衡を知らずwikiを覗いただけですが、あまりの経歴の持ち主に驚きました。
政治家として優秀で30代のうちに世界最初の水力の渾天儀(天球儀)、水時計、世界初の地動儀(地震感知器)発明をしたばかりでなく、文学にも才あり功績を収めているなんて超人じゃありませんか…すごい人だ…
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%A1%A1_(%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85)
没落した官僚の家庭に生まれた。祖父張堪は地方官吏だった。青年時代洛陽と長安に遊学し、太学で学んだ。永元十四年(102年)、張衡24歳の時,南陽郡守の幕僚(南陽郡主簿)となった。永初元年(107年)には、29歳で洛陽を描いた「東京賦」と長安を描いた「西京賦」を著した(これらを総称して「二京賦」という)。当初は南陽で下級官吏となった。永初五年(111年)、張衡34歳の時、京官の郎中として出仕した。元初三年(116年)張衡38歳の時、暦法機構の最高官職の太史令についた。建光二年(122年),公車馬令に出任した。永建三年から永和元年(128年-136年)の間、再び太史令を勤めた。最後は尚書となった。
30歳くらいで、天文を学び始め、「霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算罔論」を著した。彼は歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為、当時争議を起こした。順帝の時代の宦官政治に我慢できず、朝廷を辞し、河北に去った。南陽に戻り、138年に朝廷に招聘されたが、139年に死去した。文学作品としては他に、「帰田賦」「四愁詩」「同声歌」がある。
張衡は力学の知識と歯車を発明に用いた。彼の発明には、世界最初の水力渾天儀(117年)、水時計、候風と名付けられた世界初の地動儀(132年)、つまり地震感知器などがある。地動儀は500キロメートル離れた地点の地震を感知することができた。ある日、地動儀の設置場所からみて西北方向の地震の揺れを感知したが、人々は少しの揺れも感じないことがあった。一部の人は地動儀の誤りを疑った。しかし数日後、甘粛から急使が来て、地震の発生のことを報告した。このことがあって以来、地動儀の正確性を疑うことはなくなったという[1]。
そのほか、彼は円周率も計算し、2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。著書の「霊憲」において月を球形と論じ、月の輝きは太陽の反射光だとした。「霊憲」には以下の記述がある。
また続いて以下の記述があり、
張衡が月食の原理を理解していたことがわかる。
月の直径も計算したとされ、太陽の1年を、365日と1/4と算出した。小惑星(1802 張衡)には、彼の名がつけられている。なお、彼の天文の研究や地震計の発明には、2世紀に入り、後漢に天災が多発しだした時代背景がある。
第Ⅰ表式 社会的資本の単純再生産 第一部門 720p + 360a + 360r = 1,440 第二部門 360p + 180a + 180r = 720 第三部門 360p + 180a + 180r = 720 ――――――――――――――――――――――――――― 1,440 720 720 2,880 第Ⅱ表式 社会的資本の拡大再生産(資本蓄積) 第一年度 第一部門 840p + 420a + 420r = 1,680 (+240) 第二部門 420p + 210a + 210r = 840 (+120) 第三部門 180p + 90a + 90r = 360 (-360) ―――――――――――――――――――――――― 1,440 720 720 2,880 第二年度 第一部門 980p + 490a + 490r = 1,960 (+280) 第二部門 490p + 245a + 245r = 980 (+140) 第三部門 210p + 105a + 105r = 420 (-420) ―――――――――――――――――――――――――――――――― 1,680 840 840 3,360 第三年度 第一部門 1,143・1/3p + 571・2/3a + 571・2/3r = 2,286・2/3 (+326・2/3) 第二部門 571・2/3p + 285・5/6a + 285・5/6r = 1,143・1/2 (+163・1/3) 第三部門 245p + 122・1/2a + 122・1/2r = 490 (-490) ―――――――――――――――――――――――――――――― 1,980 980 980 3,920 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (参考表式) [記者作成] 第二年度 第一部門 770p + 385a + 385r = 1,540 (+200) 第二部門 385p + 192・1/2a + 192・1/2r = 770 (+100) 第三部門 165p + 82・1/2a + 82・1/2r = 330 (-300) ――――――――――――――――――――――――――――― 1,320 660 660 2,640 * x・y/z は、x と z 分の y を表す(分数表示がうまく表せないため)。 * 各行の最後の()内は、投入量と比べての増加額である。 *ツガンの表には、()や合計額表示はない。 |
(注1) 経済学辞典等には、ラーダを反革命評議会、臨時政府を中央評議会反革命政府等記されているが、余りに「官軍」用語だと思えるため、こう表記した。
(注2) 蔵相就任を、訳本の救仁郷の「解説」では1918年と、『経済思想史辞典』は1919年と記載されている。ラーダの活動は1917年が最盛期で、1918年4月には終焉しているので、ここでは、1917年とした。
なお、最高執行委員の辞任が蔵相辞任と同時であるかはよく解らなかった。
(注3) 鍵本博訳の仏訳本は、見られなかった。救仁郷の解説によると、仏訳版では、ツガンの理論部分は第二篇第三章部分のみである。
(注4) 「私は通例のマルクスの用語法(不変資本、可変資本、剰余価値)を用いない。というのは、私はマルクスの剰余価値説を基礎としていないからである。」(p.26)
(注5) 青山(1950、p.3)参照。但し、この本には仮定3は書かれていない。
青山によると(p.13-14),
(1) pi + ai + ri = wi
(2) pi : ai : ri = 2 : 1 : 1 (i=1,2,3) {仮定(1)}
(3) (w1 - Σpi) + (w2 -Σai) = 1/2Σri {仮定(2)}
(4) (今年度の Σpi) - (前年度の Σpi) = 前年度の (w1 - Σpi)
(今年度の Σai) - (前年度の Σai) = 前年度の (w2 - Σai)
の式から、w1 : w2 = 2 : 1 および w2 : w3 = 7 : 3 が導出できる。
むしろ、(4)を仮定とすべきかも知れない。そうすれば、(下記の)置塩の「トートロジー」の意味が明確になるのかも知れない。
(注6) ついでながら、置塩はツガンを論じた2ページの文章の中、その4分の1ほどを費やして、『英国産業恐慌史』邦訳 p.215 からとする興味い記述を長々と引用をしている。しかし、この文章は、本書には見当たらない。市原の本を参考するに、ツガンの雑誌論文「国民経済学から見た資本主義経済制度の崩壊」(1904:詳細は本文で後述及び(注8)参照)中の文章と思われる。
(注7) 市原の本(2000、p.69)には「各年度の部門Ⅰ、Ⅱの総生産物はそれぞれ、次年度の p (不変資本)、a (可変資本)総額と等しく、また、剰余価値の半分が蓄積されるとの前提から、部門Ⅲの総生産物は次年度の r (剰余価値)総額の半分に等しくなるように作成されている。」(下線は引用者)と書かれている。利潤(市原は剰余価値と表記)も、次年度と関連付けているのである。しかしながら、ツガンの表式の数値はそのようになっていない。勘違いだと思われる。
なお、山田盛太郎『再生産過程表式分析』においても、第三部門生産財の次年度に消費されることを書いているが、結論的には「ツガンの表式は維持しがたい」としている(中田、2011参照)。山田の対象としたのは、雑誌論文掲載の表式である。
(注8) ツガンの修正された雑誌論文中の表式は下記の通り。市原と中田の本を参照して作成。第二部門の資本の消耗および利潤の中資本家消費財生産に用いられない貯蓄で、第一部門の資本蓄積がなされている。
第Ⅱ表式 社会的資本の拡大再生産第二表
第一年度
第一部門 1632p + 544a + 544r = 2720 (+320)
第二部門 408p + 136a + 136r = 680 (-120)
第三部門 360p + 120a + 120r = 600 (-200)
―――――――――――――――――――――――――
2400 800 800 4000
第二年度
第一部門 1987.4p + 496.8a + 828.1r = 3312.3 (+592.3)
第二部門 372.6p + 93.2a + 155.2r = 621 (- 59)
第三部門 360p + 90a + 150r = 600 (-533.3)
――――――――――――――――――――――――――――
2720 680 1133.3 4533.3
第三年度
第一部門 2585.6p +484.6a + 123.9r = 4309 (996.7)
第二部門 366.9p + 68.9a + 177.5r = 611.3 (-9.7)
第三部門 360p + 67.5a + 177.5r = 600 ( -987)
――――――――――――――――――――――――――――
3312.3 621 1587 5520.3
*()内は、その年度の投入量との比較した増減額。原表にはない。
(注9) ツガンは、第Ⅰ表式と第Ⅱ表式第二年度とを比較してこの結論を出した。しかし、第Ⅱ表の第一年度と第二年度、第二年度と第三年度等拡大再生産の場合を比較すると、総需要と消費財需要が共に拡大する。消費財消費が減少するのは、単純再生から拡大再生産への移行期だけであって、拡大再生産へ入ればツガンの云うようなことは起こらない。こうカウツキーは批判(波多野も同じことを指摘している)した。この批判に答えて、ツガンは拡大再生産においても、消費財消費が減少する表式を作成した。これが、(注7)にあげた論文である。
(拡大可能) |
(H24.6.30記) |
稀書自慢 西洋経済古書収集 copyright@bookman |
唯物史観の改造 [128] |
標題 |
目次 |
序文 |
第一章 唯物史觀の根本觀念/3 |
一 生產力の槪念/3 |
二 經濟の物的因子/10 |
三 階級鬪爭說/25 |
第二章 唯物史觀の心理的起點/43 |
一 マルクスとヘーゲル/43 |
二 歷史の起動力としての意志と悟性/45 |
三 心理學上の主意的傾向/49 |
四 十八世紀啓蒙學派とマルクス/53 |
第三章 社會的發展の起動力としての欲望/56 |
一 自己保存慾/56 |
二 性的衝動/66 |
三 同情的衝動/72 |
四 優越的衝動/80 |
五 超利害的欲望/86 |
第四章 經濟及び社會生活/106 |
一 生物界竝びに人類史上における生存競爭/106 |
二 經濟の槪念/109 |
三 一切の活動の基礎としての經濟/115 |
四 多數人民の最重要なる活動部面としての經濟/124 |
五 經濟の物的要素/128 |
六 意識と社會的存在/139 |
第五章 社會階級及び階級鬪爭/146 |
一 現社會の階級組成/146 |
二 社會的鬪爭の働因/147 |
三 階級鬪爭と精神的活動/160 |
四 階級鬪爭竝びに近時の社會運動/170 |
第六章 資本主義經濟制度の崩壞/182 |
一 經濟的發達と社會主義/182 |
二 販路缺乏の學說/183 |
三 利潤率低減の法則/219 |
四 社會主義制度の實現/225 |
Mikhail Tugan-Baranovsky Mykhaylo Tuhan-Baranovsky Михайло Іванович Туган-Барановський | |
---|---|
ウクライナ財務大臣 | |
任期 1917年8月13日 – 1917年11月20日 | |
首相 | Volodymyr Vynnychenko |
前任者 | Khrystofor Baranovsky |
後任者 | Vasyl Mazurenko |
個人情報 | |
生誕 | 1865年1月20日 village of Solonom, ロシア帝国 |
死没 | 1919年1月21日(54歳) オデッサ, Kherson Governorate, ウクライナ |
政党 | 立憲民主党 (カデット) (until 1917) ウクライナ社会主義・連邦党員 (UPSF) |
出身校 | ハルキウ大学 |
職業 | 経済学者, 政治家, 活動家 |
影響を与えた人物 ニコライ・ドミートリエヴィチ・コンドラチエフ |
ミハイル・トゥガン=バラノフスキー(Mikhail Ivanovich Tugan-Baranovsky、Михайло Туган-Барановський、1865年1月8日 - 1919年1月21日)は、ウクライナ出身、ロシアの経済学者。
(ツガン=バラノフスキーと呼ぶひとも多い。)
この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。 |
もトゥガンを論理的に一貫していないといって、非難することはできない。彼は再生産表式をいろいろに操作する
不作業にとりかかり、いくつかの前提を設けたうえで、数字の行をつぎからつぎへと書きながら論理を徹底させると
まことに驚くべき結果が出てくることを発見したのである。トゥガンにとってさえ、彼の表式の特徴を現実の世界
のそれとみなすという最後のステップをふむことは、容易ではなかった。しかし彼は、瞬時のためらいののち、あ
えてそれをしたのである。
このこといっさいは、きわめて奇異にみえるかもしれぬ。あるいは、この上もなく非常識のようにみえもし
よう。おそらくーー真理というのは、かならずしもその理解がやさしくはないのだ。にもかかわらず、右で述
べたことは真理である。もちろんわたくしが真理と言うとき、それは、機械による手労働の代置が、労働者数
の絶対的減少にまでいたるというまったく悲意的で非現実的な前提(この仮説は、わたくしの理論がたとえ非現実
性の極限にまで押し進められても崩壊はしないということを示すためだけのものである)を指しているのではなく、 む
しろ、社会的生産の比例的配分が与えられるならば、社会的消費自体のどのような減少も、過剰生産物を生み
出すことはできない、という命題を指しているのである。(9)
けれども、この見解をとるという点において、トゥガンが著名な経済学者のあいだで例外をなすと考えるのは、まち
がっていよう。ドップが指摘した章句だが、J.B.クラークは、かつてこう書いた。「もしも質本家が、……現在お
よび将来にわたる彼らの所得のうち、ある一定額を別にして、のこりの全部を貯蕃する決心をするとすれば、彼らはま
ず現在の資産の一部を資本化し、しかるのち、かくしてつくり出された資本からのその後の全所得を資本化するであろ
う。彼らは、際限なくより多くの工場をつくるために、より多くの工場をつくるであろう。このばあいには、供給過剰
は生じない。しかし、 それは非現実的な場合である。」 Introduction to Karl Rodbertus, Overproduction and Crisis
(English trans. 1898), p. 15. さらに最近では、ナイトがこう述べている。「正確な計画化が行なわれるならば、
第一一章 崩壊 論 争
241
理論は、エンゲル スが一般向きに書いた著作の一部に、そのよりどころを見出しうるかもしれないが、それはけっ
してマルクスに基礎を置くものではない。
ベルンシュタインにたいするカウツキーの反応は、クノーのそれとはまったく異なっていた。カウツキーは、資
本主義崩壊の問題点の功罪を論ずるかわりに、問題点それ自体を無視しようとした。すなわち、カウツキーによる
と、マルクスやエンゲルスは、ベルンシュタインの意味における崩壊理論-
すなわち、「社会主義社会への不可
(~)
避的道程」としての「大がかりな全面的な経済恐慌」の理論-
-をもたなかったのであり、それとは逆に、資本主
義の下で経済状態がますます悪化せざるをえないことは信じていたけれど、彼らの理論の本質的かつ独創的な要素
(0)
は、社会主義への転化をもたらす決定的な要因が「プロレタリァートの成熟と実力との増大」にあるということで
あった、とする。社会民主主義運動の戦術については、カウツキーは、ベルンシュタインの漸進主義を排して、極
度の柔軟性なるものを主張した。「あらゆる不測事にそなえる」ことが必要なのであって、「社会民主主義は、恐慌
と同じく繁栄を、革命と同じく反動を、そして破局と同じく緩慢な平和的発展を考慮に入れる」というのが、彼の
(の)
立場であった。
トゥガン= バラノフスキー
ベルンシュタインは、崩壊理論を正統派マルクス主義者たちの頭上に加える梶棒のように振りまわそうとした。
この武器から力を抜き去ろうとしたカウツキーの企図は、見事に失敗に終った。修正主義者の攻勢は、ますます資
本主義崩壊の不可避性を否定するという形をとったのであり、その楯の反面は、つねに資本主義の無限の拡大可能
性であり、したがって革命の邪悪と破壊性ということであった。われわれは、トゥガン = バラノフスキーが修正主
不義者の主張のためになした貢献について、すでにかなり詳しく検討する機会をもった。ーーそれは、経済学者の立
場からすれば、確かにきわめて興味あるものである。トゥガンによれば、マルクスは一つではなく、ニつの崩壊理
恐論をもっていた。すなわち、一つは利潤率の低下傾向にもとづくものであり、他の一つは過少消費を基礎とするも
のである。トゥガンは、これらの理論を二つとも否定することに成功したと考えた。したがって、彼の最終的な結
論は、資本主義の崩壊なるものは、どのような意味においても、経済的必然ではないということであった。「人類
は、盲目的な、不可抗的な経済諸力の贈り物として社会主義をわがものとするのではなく、目標を意識しつつ新し
い社会秩序のために実践し、ーーそしてそれをたたかいとらなければならない。」かくして、トゥガンの場合には、
問題は、「人類」がついに社会主義を採択する用意をもつにいたるような前途遼遠の将来に委ねられたのである。
トゥガンは、崩壊理論と恐慌理論とを区別しようとはしなかった。恐慌理論と恐慌史にかんする彼の初期の著作
中の「マルクス恐慌理論」という表題の一章は、マルクス主義の原理にかんする後の著書のなかの「資本主義的経
済秩序の崩壊」という表題の一章と、その内容においてほとんど一致している。思うにトゥガンは、マルクスの理
論は、恐慌の激しさが着実に増大し、ついには崩壊を招くほどに強烈な恐慌が起こるはずであると見た、と信じて
いたようである。本質においては、この見解は、おそらくベルンシュタインのそれと大差ないだろう。それが具体
的にはっきりした崩壊論、ないしはたやすく利用できるような崩壊論を提供したものでないことは、言うまでもな
い。
第三編 恐慌と不況
241~242