「サッカーとは、一つの言語であり、それを駆使する詩人や散文家もいるのだ。」
丸山真男に『後衛の位置から』という著作がある。あとがきを読むとこの後衛は、1974年W杯のベッケンバウアーを意識した言葉であるということが分かる。1974年と言えばクライフの活躍した年だから一般の好みとちょっとずれるが知識人のサッカー好きは丸山をはじめ枚挙にいとまがない。クライフに関してはアナーキズムの思想とも繋がるし(トータルフットボールに関しては『ヨハン・クライフ』中公文庫が必読)、最近言及されるFCバルセロナは創設からしてスペイン革命と関わっているから(カンテラ育ちと世界中から買った選手が半々というのも理想的だ)、知識人のサッカーへの言及にも歴史的な正当性がある。
意外に言及が少ないのが1970年のW杯だが、これには以下のようなパゾリーニの言及があり、興味深い。ちなみに草サッカーにおけるパゾリーニのポジションはFWだったそうだ。

パゾリーニはこの中で、価値判断はしないと言いながらも、ブラジルのドリブル中心のサッカーを賞讃している。
特集 フットボール宣言(「ユリイカ」2002年6月号pp135-139)より
サッカーとは、一つの言語であり、それを駆使する詩人や散文家もいるのだ。
ピエール・パオロ・パゾリー二 訳 芝田高太郎
ジャーナリストから文学者を、またサッカー選手からジャーナリストをわざとらしく区別する言語学的な諸問題についての目下の論争の中で、私はある親切なジャーナリストから、雑誌『エウロペーオ』のためのインタヴューを求められた(1))。しかし、雑誌に載った私の答えは少し削られて不十分なものになつてしまった(ジャーナリスティックな要求によって!)。この話題は気に入っているので、もう少し落ち着いて、発言に完全な責任をもって、いま一度取り組んでみたい。
言語とは何か? この問いに、記号学者は今日ではより厳密に「記号の体系」と答える。
しかしこの「記号の体系」は必ずしも書かれ話される言語(今われわれが、私が書く形で、そして読者であるあなたが読む形で、使っているこの言語)だけではない。
「記号の体系」は多くのものでありうる。ひとつのケースを考えてみよう。私と、読者であるあなたが、とある部屋にいて、そこにギレッリ(2)とプレーラ(3)もいるとする、そしてあなたは私にギレッリについて、プレーラが聞いてはならない何かを言いたい。そうなればあなたは私に言葉による記号の体系を用いて話すことはできない。あなたは仕方なく別の記号体系を採用しなければならない。たとえば、身振りのそれを。で、あなたは目つきや口の形を歪め、手を震わせ、足で何かを示そうとしたり、等々を始める。あなたはある「身振りによる」談話の暗号製作者なのであり、それを私が解読するわけである。このことはわれわれがある身振りの記号体系の「イタリア的な」コードを共有することを意味する。
もうひとつの言葉に依らない記号の体系は絵画のそれである。あるいは映画のそれである、あるいはモードのそれである(この分野の研究の権威ロラン・バルトの研究対象)等々。フットボールというゲームはひとつの「記号の体系」である。つまり、たとえ言葉に依らないとしても、ひとつの言語なのである。なぜ私はこんな話をしているのか(しかも図式的に続けようとしているのか)? なぜなら、文学者の言語とジャーナリストの言語とを、一対一で対立させようとする論争が偽りのものだからである。問題は別なのだ。
考えてみよう。あらゆる言語(書かれ話される記号の体系)は、全般的なコードを持っている。イタリア語を例に取ろう。私と読者であるあなたは、この記号の体系を使うことで互いに理解しあうが、それはイタリア語がわれわれの共有財産、「交換貨幣」であるからだ。しかし、あらゆる言語は、さまざまな下位言語に分節され、そのそれぞれが下位コードを持つのである。こうしてイタリア人の医者たちはーー彼らの専門用語を話す時ーーー互いに理解しあうが、それは彼らの各人が医学の言語という下位コードを知っているからだ。イタリア人の神学者たちは神学の専門用語という下位コードを持つが故に互いに理解しあうのである、等々。文学用語もまた、下位コードを持つ専門言語である(例えば、詩においては「希望」(speranza〉と言うかわりに「希(ねが)い」(speme〉と言うことがあるが、われわれの誰もが、こうした滑稽な事態に驚かないのは、文学言語という下位言語が、詩においては、ラテン語的な表現や、古語や、語尾切断等々が使われることを求め、認めていることを知っているからである)。
ジャーナリズムは文学言語の一分枝であるに過ぎない。それを理解するためにわれわれは一種の下位のさらに下位コードを利用する。貧しい言葉を使うものの、ジャーナリストは作家に他ならないのであり、彼らは概念や表現を平俗化したり単純化するために、スポーツのジャンルに留まった言い方を使えばーーーいわばセリエBの文学コードを使うのである。プレーラの言語も、カルロ・エミーリオ・ガッダやジャンフランコ・コンティーニの言語に比較すれば、セリエBである。
そしてプレーラの言語は、イタリアのスポーツジャーナリズムで、最高の権威を資格づけられたものなのだ。
従って文学言語とジャーナリズムの言語の問に「現実的な」対立は存在しない。ところが、つねに従属的なものであったこの後者が、大衆文化(それは民衆のものではない!!)における活躍によって誉めそやされて、成り上り者よろしく、少々倣慢な要求を持ち出しているのである。しかしここではフットボールに話題を戻そう。
フットボールは記号の体系、すなわち言語である。フットボールは、まさしくそう名づくべき言語、われわれがただちに比較の対象として措定する、書かれ話jれる言語の全ての基本的な特徴を備えている。
じっさいサッカーの言語における「語」は、書かれ話される言語における語とまったく同じように形成されている。ところで、この後者の語はどのように形成されているだろうか? それはいわゆる「二重の分節」を通じて、言い換えると、イタリア語においては、アルファベットニー文字にあたる、「音素」の無限の組み合わせを通じて形成されている。
「音素」は従って善かれ話される言語の「最小単位」である。サッカーの言語の最小単位を定義して遊んでみることにしようか?そう、「ボールを蹴るために足を使うひとりの人間」こそがそのような最小単位、そのような「脚素」(さらに進んでみるならば)である。「脚素」の組み合わせの無限の可能性が「サッカーの語」を形成する。そして「サッカーの語」の総体が、正真正銘の統辞論的な規則に律せられるひとつの談話を形成するのである。
「脚素」は二二(つまり、だいたい音素と同数)ある。「サッカーの語」の数は、「脚素」の組み合わせの(あるいは、じつさいには選手と選手の間のボールのパスの)可能性が無限なので、潜在的に無限である。統辞論は、「試合」のうちに表現され、試合は正真正銘の劇的な談話である。
この言語の暗号製作者は選手であり、観客席のわれわれは、暗号解読者である。つまりわれわれはひとつのコードを共有するのだ。
サッカーのコードを知らない者はその語(パス)の「意味」も、その談話(パスの総体)の意図も理解しない。
私はロラン・バルトでもグレマスでもないが、その気になれば、素人として、「サッカーの言語」についてこの手のはるかに説得的な論文を書くことができるだろう。さらに私は、「サッカーにプロップを応用する」と題した立派な論文も書かれうるのではと思うのだ、なぜなら、当然、あらゆる言語と同じように、サッカーには厳密かつ抽象的にコードに律せられる、純粋に「道具的な」瞬間と、「表現的な」瞬間があるからだ。
じっさい私は先ほどあらゆる言語が様々な下位言語に分節され、そのそれぞれが下位コードを持っている次第を述べた。
そうなのだ、サッカーの言語についても類の区別をつけることができるのである。サッカーも、純粋に道具的なものから表現的なものになる時点で、さまざまな下位コードを持つのである。
基本的に散文的な言語としてのサッカーと、基本的に詩的な言語としてのサッカーがありうる。
よく説明するために、結論を先取りしていくつかの例を挙げよう。ブルガレッリ(6)は散文のサッカーをプレーする。
彼は「リアリズムの散文家」である。リーヴァ(5)は詩のサッカーをプレーする。彼は「リアリズム詩人」である。
コルソ(6)は詩のサッカーをプレーするが、「リアリズム詩人」ではない。彼はちょっと呪ワレノ、逸脱的な詩人である。
リヴエーラ(7)は散文のサッカーをプレーする、が、彼のは詩的な散文、「随筆欄」向きの散文である。
マッツォーラ(8)も随筆家で、『コッリエーレ・デッラ・セーラ』紙に書けるかもしれない。しかし彼はリヴェーラよりもっと詩人である。彼は時々散文を中断して、当意即妙に燈めく銘句をひねり出す。
よく注意してほしいのは、私が散文と詩の間に価値の区別をつけているのではないことである。私のつけている区別は純粋に技術的なものだ。
しかしここで了解しておきたい。イタリア文学は、特に最近、「随筆欄」の文学である。それは優雅で、極端な場合審美的である。その基調は、ほとんどいつも保守的で少し地方主義的で、……要するにキリスト教民主党的なのだ。最も専門的で取りつきにくいものも含めて、ある国で話されている全ての言語には、ひとつの共通する土壌というものがある。それはその国の「文化」であり、その国の歴史的現実である。
こうして、まさに文化・歴史上の理由によって、いくつかの人民のサッカーは基本的に散文である。リアリズムの散文か詩的散文(この後者がイタリアの場合)だ。いっぼう他のいくつかの人民のサッカーは基本的に詩である。
サッカーには完全に詩的な瞬間がある、「ゴール」の瞬間だ。あらゆるゴールはつねに発明であり、つねにコードの転覆である。あらゆるゴールは避けがたい事であり、閃きであり、驚愕であり、後戻りのできない事である。詩の言葉とちょうど同じように。あるシーズンの最多得点者はつねにその年の最良の詩人なのである。現時点で、それはサヴオルディ(9)だ。最も多くのゴールを表現するサッカーは最も詩的なサッカーなのだ。
「ドリブル」もまた、それじたい詩的である(ゴールの動きのように「つねに」ではないにしても)。じつさいあらゆる選手の夢(それはあらゆる観客と共有される)は、ピッチの中央から始めて、全員をドリブルで抜いた末にゴールすることなのだ。もし、認められる範囲内で、サッカーにおいて崇高な出来事が想像できるとすれば、まさにこれがその出来事である。しかし、じつさいノには起こらない。これは夢なのである(私は唯一フランコ・フランキの『ボールの魔術師たち』(10)の中でそれが表現されるのを見ただけだが、洗練されないレヴュルのものとはいえ、完全に夢幻的になり得ていた)。
世界最良の「ドリブラー」、世界最良の得点者は誰だろうか?ブラジル人だ。つまり彼らのサッカーは詩のサッカーなのだ。そして彼らのサッカーはじっさい完全にドリブルとゴールに基づいている。
カテナッチョと三角パス(プレーラはこれを幾何学と呼ぶ)は散文のサッカーである。それはじっさい統辞論に、言い換えると集団的な秩序だったプレーに、つまりコードの理性的な実行に基礎を置いている。その唯一の詩的な瞬間はカウンターと、それに附随する「ゴール」(すでに我々が見たように、ゴールは詩的でしかあり得ない)だ。要するに、サッカーの詩的な瞬間というものは(決まってそうであるとおり)個人主義的な瞬間のようだ(ドリブルとゴール、あるいはインスピレーションに富んだパス)。
散文のサッカーはいわゆるシステムのサッカーである(ヨーロッパサッカー)。その図式は次のようになる。

この図式におけるゴールは、可能であれば、リーヴァのような「リアリズム詩人」に結末を委ねられるが、コードの規則に従って実行される、一連の、「幾何学的な」パスに基礎を置いた、集団的なプレーの組織から生まれるものでなければならない(この点でリーヴァは完壁だ。しかしこうしたプレーは、少し審美的な完成であって、イギリスやドイツの中盤選手に見られるような、リアリスティックな完成ではないので、ブレーラは好まない)。
詩のサッカーはラテン・アメリカのサッカーである。その図式は次のようになる。

これは実現されるためには、途方もないドリブルの能力を要求せずにはおかない図式である(これがヨーロッパでは「集団的な散文」の名のもとに見下されているのだ)。そしてゴールは誰によっても、どんなポジションからでも創出されうる。もしドリブルとゴールがサッカーの個人主義的・詩的瞬間であるとすれば、まさしくブラジルサッカーは詩のサッカーなのだ。価値の区別をつけず、純粋に技術的な意味で、メキシコにおいてイタリアの審美的散文は、ブラジルの詩に打ちまかされたのである。
訳註
(1)『エウロペーオ」誌一九七〇年一二月三一日号掲載の、グイード・ジェローザによるインタヴュー記事「トロイの戦争は続く。ピエール・パオロ・パゾリーニ、オレステ・デル・ブォーノ、ジャンシーロ・フェッラータへのインタヴュー」。
(2)アントニーオ・ギレッリ(Antonio Ghirelli)。ジャーナリスト。「カルチョ・イッルストラート」『トゥットスボルト」ココツリエーレ・デッラ・セーラー各紙の編集長を務めた。
(3)ジャンニ・プレーラ(Gianni Brera 1919-1992)。「ガゼッタ・デッロ・スボルト』と「グエリン・スポルティーヴォ誌の編集長を務めたスポーツジャーナリスト。何冊かの小説も書いている。
(4)ジャーコモ・プルガレッリ(Giacomo Burgarelli)。一九五九一九七五年セリエAのボローニャ所属。
(5)ルイージ・リーヴァ (Luigi Riva)
。カリアリ所属。一九六六−六七、六人−六九、六九−七〇シーズン、セリエA得点王。
(6)マーリオ・コルソ(Mario Corso)。一九五八−七五年に、セリエAのインテルおよびジエノアに所属。
(7)ジャンニ・リヴューラ(Gianni Rivera)。ACミラン所属。一九七二−七三年シーズ′ン、セリエA得点王。
(8)アレッサンドロ・マッツォーラ(Alessandro Mazzola)。インテル所属。一九六四−六五年のシーズンにおけるセリエA得点王。
(9)ジュゼッペ・サヴオルディ (Giuseppe Savoldi)。一九六五−八〇年にセリエAのアクランタ、ボローニヤ、ナポリに所属。一九七二−七三年シーズン得点王。
(10)マーリノ・フウレンティ (Marino Laurenti)による映画作品。正確な邁は、「二人のボールの魔術師』(I due maghi del pallone)。フランコ・フランキ、チッチョ・イングラッシア出演。
*サッカー選手に関しては、小島友仁氏に情報提供していただきました。
(訳者)
(訳=しばた こうたろう・イタリア文学)
Title; Il calcio((e))un linguaggio con i suoi poeti e prosatori. in Pasolini saggi sulla letteratura e sull'arte
Author; Pier Paolo Pasolini
@1999 Amoldo Mondadori Editore
(5)ルイージ・リーヴァ
(7)ジャンニ・リヴューラ
(8)アレッサンドロ・マッツォーラ
この三人は1970年のW杯決勝に出場している。
意外に言及が少ないのが1970年のW杯だが、これには以下のようなパゾリーニの言及があり、興味深い。ちなみに草サッカーにおけるパゾリーニのポジションはFWだったそうだ。

パゾリーニはこの中で、価値判断はしないと言いながらも、ブラジルのドリブル中心のサッカーを賞讃している。
特集 フットボール宣言(「ユリイカ」2002年6月号pp135-139)より
サッカーとは、一つの言語であり、それを駆使する詩人や散文家もいるのだ。
ピエール・パオロ・パゾリー二 訳 芝田高太郎
ジャーナリストから文学者を、またサッカー選手からジャーナリストをわざとらしく区別する言語学的な諸問題についての目下の論争の中で、私はある親切なジャーナリストから、雑誌『エウロペーオ』のためのインタヴューを求められた(1))。しかし、雑誌に載った私の答えは少し削られて不十分なものになつてしまった(ジャーナリスティックな要求によって!)。この話題は気に入っているので、もう少し落ち着いて、発言に完全な責任をもって、いま一度取り組んでみたい。
言語とは何か? この問いに、記号学者は今日ではより厳密に「記号の体系」と答える。
しかしこの「記号の体系」は必ずしも書かれ話される言語(今われわれが、私が書く形で、そして読者であるあなたが読む形で、使っているこの言語)だけではない。
「記号の体系」は多くのものでありうる。ひとつのケースを考えてみよう。私と、読者であるあなたが、とある部屋にいて、そこにギレッリ(2)とプレーラ(3)もいるとする、そしてあなたは私にギレッリについて、プレーラが聞いてはならない何かを言いたい。そうなればあなたは私に言葉による記号の体系を用いて話すことはできない。あなたは仕方なく別の記号体系を採用しなければならない。たとえば、身振りのそれを。で、あなたは目つきや口の形を歪め、手を震わせ、足で何かを示そうとしたり、等々を始める。あなたはある「身振りによる」談話の暗号製作者なのであり、それを私が解読するわけである。このことはわれわれがある身振りの記号体系の「イタリア的な」コードを共有することを意味する。
もうひとつの言葉に依らない記号の体系は絵画のそれである。あるいは映画のそれである、あるいはモードのそれである(この分野の研究の権威ロラン・バルトの研究対象)等々。フットボールというゲームはひとつの「記号の体系」である。つまり、たとえ言葉に依らないとしても、ひとつの言語なのである。なぜ私はこんな話をしているのか(しかも図式的に続けようとしているのか)? なぜなら、文学者の言語とジャーナリストの言語とを、一対一で対立させようとする論争が偽りのものだからである。問題は別なのだ。
考えてみよう。あらゆる言語(書かれ話される記号の体系)は、全般的なコードを持っている。イタリア語を例に取ろう。私と読者であるあなたは、この記号の体系を使うことで互いに理解しあうが、それはイタリア語がわれわれの共有財産、「交換貨幣」であるからだ。しかし、あらゆる言語は、さまざまな下位言語に分節され、そのそれぞれが下位コードを持つのである。こうしてイタリア人の医者たちはーー彼らの専門用語を話す時ーーー互いに理解しあうが、それは彼らの各人が医学の言語という下位コードを知っているからだ。イタリア人の神学者たちは神学の専門用語という下位コードを持つが故に互いに理解しあうのである、等々。文学用語もまた、下位コードを持つ専門言語である(例えば、詩においては「希望」(speranza〉と言うかわりに「希(ねが)い」(speme〉と言うことがあるが、われわれの誰もが、こうした滑稽な事態に驚かないのは、文学言語という下位言語が、詩においては、ラテン語的な表現や、古語や、語尾切断等々が使われることを求め、認めていることを知っているからである)。
ジャーナリズムは文学言語の一分枝であるに過ぎない。それを理解するためにわれわれは一種の下位のさらに下位コードを利用する。貧しい言葉を使うものの、ジャーナリストは作家に他ならないのであり、彼らは概念や表現を平俗化したり単純化するために、スポーツのジャンルに留まった言い方を使えばーーーいわばセリエBの文学コードを使うのである。プレーラの言語も、カルロ・エミーリオ・ガッダやジャンフランコ・コンティーニの言語に比較すれば、セリエBである。
そしてプレーラの言語は、イタリアのスポーツジャーナリズムで、最高の権威を資格づけられたものなのだ。
従って文学言語とジャーナリズムの言語の問に「現実的な」対立は存在しない。ところが、つねに従属的なものであったこの後者が、大衆文化(それは民衆のものではない!!)における活躍によって誉めそやされて、成り上り者よろしく、少々倣慢な要求を持ち出しているのである。しかしここではフットボールに話題を戻そう。
フットボールは記号の体系、すなわち言語である。フットボールは、まさしくそう名づくべき言語、われわれがただちに比較の対象として措定する、書かれ話jれる言語の全ての基本的な特徴を備えている。
じっさいサッカーの言語における「語」は、書かれ話される言語における語とまったく同じように形成されている。ところで、この後者の語はどのように形成されているだろうか? それはいわゆる「二重の分節」を通じて、言い換えると、イタリア語においては、アルファベットニー文字にあたる、「音素」の無限の組み合わせを通じて形成されている。
「音素」は従って善かれ話される言語の「最小単位」である。サッカーの言語の最小単位を定義して遊んでみることにしようか?そう、「ボールを蹴るために足を使うひとりの人間」こそがそのような最小単位、そのような「脚素」(さらに進んでみるならば)である。「脚素」の組み合わせの無限の可能性が「サッカーの語」を形成する。そして「サッカーの語」の総体が、正真正銘の統辞論的な規則に律せられるひとつの談話を形成するのである。
「脚素」は二二(つまり、だいたい音素と同数)ある。「サッカーの語」の数は、「脚素」の組み合わせの(あるいは、じつさいには選手と選手の間のボールのパスの)可能性が無限なので、潜在的に無限である。統辞論は、「試合」のうちに表現され、試合は正真正銘の劇的な談話である。
この言語の暗号製作者は選手であり、観客席のわれわれは、暗号解読者である。つまりわれわれはひとつのコードを共有するのだ。
サッカーのコードを知らない者はその語(パス)の「意味」も、その談話(パスの総体)の意図も理解しない。
私はロラン・バルトでもグレマスでもないが、その気になれば、素人として、「サッカーの言語」についてこの手のはるかに説得的な論文を書くことができるだろう。さらに私は、「サッカーにプロップを応用する」と題した立派な論文も書かれうるのではと思うのだ、なぜなら、当然、あらゆる言語と同じように、サッカーには厳密かつ抽象的にコードに律せられる、純粋に「道具的な」瞬間と、「表現的な」瞬間があるからだ。
じっさい私は先ほどあらゆる言語が様々な下位言語に分節され、そのそれぞれが下位コードを持っている次第を述べた。
そうなのだ、サッカーの言語についても類の区別をつけることができるのである。サッカーも、純粋に道具的なものから表現的なものになる時点で、さまざまな下位コードを持つのである。
基本的に散文的な言語としてのサッカーと、基本的に詩的な言語としてのサッカーがありうる。
よく説明するために、結論を先取りしていくつかの例を挙げよう。ブルガレッリ(6)は散文のサッカーをプレーする。
彼は「リアリズムの散文家」である。リーヴァ(5)は詩のサッカーをプレーする。彼は「リアリズム詩人」である。
コルソ(6)は詩のサッカーをプレーするが、「リアリズム詩人」ではない。彼はちょっと呪ワレノ、逸脱的な詩人である。
リヴエーラ(7)は散文のサッカーをプレーする、が、彼のは詩的な散文、「随筆欄」向きの散文である。
マッツォーラ(8)も随筆家で、『コッリエーレ・デッラ・セーラ』紙に書けるかもしれない。しかし彼はリヴェーラよりもっと詩人である。彼は時々散文を中断して、当意即妙に燈めく銘句をひねり出す。
よく注意してほしいのは、私が散文と詩の間に価値の区別をつけているのではないことである。私のつけている区別は純粋に技術的なものだ。
しかしここで了解しておきたい。イタリア文学は、特に最近、「随筆欄」の文学である。それは優雅で、極端な場合審美的である。その基調は、ほとんどいつも保守的で少し地方主義的で、……要するにキリスト教民主党的なのだ。最も専門的で取りつきにくいものも含めて、ある国で話されている全ての言語には、ひとつの共通する土壌というものがある。それはその国の「文化」であり、その国の歴史的現実である。
こうして、まさに文化・歴史上の理由によって、いくつかの人民のサッカーは基本的に散文である。リアリズムの散文か詩的散文(この後者がイタリアの場合)だ。いっぼう他のいくつかの人民のサッカーは基本的に詩である。
サッカーには完全に詩的な瞬間がある、「ゴール」の瞬間だ。あらゆるゴールはつねに発明であり、つねにコードの転覆である。あらゆるゴールは避けがたい事であり、閃きであり、驚愕であり、後戻りのできない事である。詩の言葉とちょうど同じように。あるシーズンの最多得点者はつねにその年の最良の詩人なのである。現時点で、それはサヴオルディ(9)だ。最も多くのゴールを表現するサッカーは最も詩的なサッカーなのだ。
「ドリブル」もまた、それじたい詩的である(ゴールの動きのように「つねに」ではないにしても)。じつさいあらゆる選手の夢(それはあらゆる観客と共有される)は、ピッチの中央から始めて、全員をドリブルで抜いた末にゴールすることなのだ。もし、認められる範囲内で、サッカーにおいて崇高な出来事が想像できるとすれば、まさにこれがその出来事である。しかし、じつさいノには起こらない。これは夢なのである(私は唯一フランコ・フランキの『ボールの魔術師たち』(10)の中でそれが表現されるのを見ただけだが、洗練されないレヴュルのものとはいえ、完全に夢幻的になり得ていた)。
世界最良の「ドリブラー」、世界最良の得点者は誰だろうか?ブラジル人だ。つまり彼らのサッカーは詩のサッカーなのだ。そして彼らのサッカーはじっさい完全にドリブルとゴールに基づいている。
カテナッチョと三角パス(プレーラはこれを幾何学と呼ぶ)は散文のサッカーである。それはじっさい統辞論に、言い換えると集団的な秩序だったプレーに、つまりコードの理性的な実行に基礎を置いている。その唯一の詩的な瞬間はカウンターと、それに附随する「ゴール」(すでに我々が見たように、ゴールは詩的でしかあり得ない)だ。要するに、サッカーの詩的な瞬間というものは(決まってそうであるとおり)個人主義的な瞬間のようだ(ドリブルとゴール、あるいはインスピレーションに富んだパス)。
散文のサッカーはいわゆるシステムのサッカーである(ヨーロッパサッカー)。その図式は次のようになる。

この図式におけるゴールは、可能であれば、リーヴァのような「リアリズム詩人」に結末を委ねられるが、コードの規則に従って実行される、一連の、「幾何学的な」パスに基礎を置いた、集団的なプレーの組織から生まれるものでなければならない(この点でリーヴァは完壁だ。しかしこうしたプレーは、少し審美的な完成であって、イギリスやドイツの中盤選手に見られるような、リアリスティックな完成ではないので、ブレーラは好まない)。
詩のサッカーはラテン・アメリカのサッカーである。その図式は次のようになる。

これは実現されるためには、途方もないドリブルの能力を要求せずにはおかない図式である(これがヨーロッパでは「集団的な散文」の名のもとに見下されているのだ)。そしてゴールは誰によっても、どんなポジションからでも創出されうる。もしドリブルとゴールがサッカーの個人主義的・詩的瞬間であるとすれば、まさしくブラジルサッカーは詩のサッカーなのだ。価値の区別をつけず、純粋に技術的な意味で、メキシコにおいてイタリアの審美的散文は、ブラジルの詩に打ちまかされたのである。
訳註
(1)『エウロペーオ」誌一九七〇年一二月三一日号掲載の、グイード・ジェローザによるインタヴュー記事「トロイの戦争は続く。ピエール・パオロ・パゾリーニ、オレステ・デル・ブォーノ、ジャンシーロ・フェッラータへのインタヴュー」。
(2)アントニーオ・ギレッリ(Antonio Ghirelli)。ジャーナリスト。「カルチョ・イッルストラート」『トゥットスボルト」ココツリエーレ・デッラ・セーラー各紙の編集長を務めた。
(3)ジャンニ・プレーラ(Gianni Brera 1919-1992)。「ガゼッタ・デッロ・スボルト』と「グエリン・スポルティーヴォ誌の編集長を務めたスポーツジャーナリスト。何冊かの小説も書いている。
(4)ジャーコモ・プルガレッリ(Giacomo Burgarelli)。一九五九一九七五年セリエAのボローニャ所属。
(5)ルイージ・リーヴァ (Luigi Riva)
。カリアリ所属。一九六六−六七、六人−六九、六九−七〇シーズン、セリエA得点王。
(6)マーリオ・コルソ(Mario Corso)。一九五八−七五年に、セリエAのインテルおよびジエノアに所属。
(7)ジャンニ・リヴューラ(Gianni Rivera)。ACミラン所属。一九七二−七三年シーズ′ン、セリエA得点王。
(8)アレッサンドロ・マッツォーラ(Alessandro Mazzola)。インテル所属。一九六四−六五年のシーズンにおけるセリエA得点王。
(9)ジュゼッペ・サヴオルディ (Giuseppe Savoldi)。一九六五−八〇年にセリエAのアクランタ、ボローニヤ、ナポリに所属。一九七二−七三年シーズン得点王。
(10)マーリノ・フウレンティ (Marino Laurenti)による映画作品。正確な邁は、「二人のボールの魔術師』(I due maghi del pallone)。フランコ・フランキ、チッチョ・イングラッシア出演。
*サッカー選手に関しては、小島友仁氏に情報提供していただきました。
(訳者)
(訳=しばた こうたろう・イタリア文学)
Title; Il calcio((e))un linguaggio con i suoi poeti e prosatori. in Pasolini saggi sulla letteratura e sull'arte
Author; Pier Paolo Pasolini
@1999 Amoldo Mondadori Editore
(5)ルイージ・リーヴァ
(7)ジャンニ・リヴューラ
(8)アレッサンドロ・マッツォーラ
この三人は1970年のW杯決勝に出場している。