ヘーゲル左派とシュティルナー
(マルクス、柄谷行人、プルードン、ヘーゲル、リンク::::::::::)
NAMs出版プロジェクト: ヘーゲル左派とシュティルナー
http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post_31.html:本頁それはあくまで青年ヘーゲル派またはヘーゲル左派のグループの観念性を批判することで現実性を持とうとしたマルクスの思惑に利用された形の相対的な評価でしたが、、、
さて、エンゲルスが1842年のベルリンにおけるヘーゲル左派のグループ「自由人(フライエン)」("Die Freien")の人々の集まりを漫画にして描いた絵があります。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/Skiz-hegel.png
ヘーゲル左派のメンバー・ルーゲやエトガー・バウアー・シュティルナーらがかかれている。エンゲルスによる風刺画。
解説:
1842年のエンゲルスによる戯画。左からアーノルド・ルーゲ*(『独仏年誌』共同編集者)、ルートヴィヒ・ブール*、カールナウ・ヴェルク*、ブルーノ・バウアー*、オット・ヴィーガント(『ハレ年誌』『ドイツ年誌』『唯一者とその所有』『聖家族』『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』を出版したライプツィヒの出版業者)、エトガー・バウアー*、マックス・シュティルナー*、エドゥアルド・マイエン(革命失敗後イギリスに亡命したジャーナリスト)、氏名不明の二人、カール・フリードリッヒ・ケッペン(隊長として。神学者だがこの絵では酒を飲んで酔っぱらっている)。ブルーノ・バウアーはマルクスが編集に参加した『ライン新聞』を踏みつけている。*印をつけた人の著作は平凡社『資料ドイツ初期社会主義』で邦訳を読むことができる。
壁には断頭台があり(ちょうどエドガー兄弟の上)、左の隅には一匹のリス(アイヒホルン)が描いてある(このリスはプロイセンの文部大臣ヨハン・アイヒホルン)を風刺したもの。(参照:大月書店『マル=エン全集』第27巻p345,531、または"The New Hegelians: Politics and Philosophy in the Hegelian School "by Douglas Moggach,p138-9 )
参考:青年ヘーゲル派wikipedia、およびthe young hegelians
ヘーゲル左派日本語研究文献目録
エドガー・バウアー(片手を上げた人)はプルードンに批判的な評論を書き、それが『聖家族』ではマルクスたちの再批判にさらされます。
左端のルーゲなどは、右傾化したと批判されます。そのルーゲと闘っているブルーノ・バウアーはエドガーの兄でエンゲルスを無神論に導いたとされる大学講師で、そのユダヤ人論はマルクスの『ユダヤ人問題によせて』(1843)で批判されています。
また、シュティルナーのクールな姿が有名ですが(別バージョンあり)、ただし、これらはあくまでエンゲルスとマルクスの側から見た見取り図です。
もし、プルードンを思想的な中心におくとしたなら、
マルクス(批判)→プルードン←(批判)シュティルナー
というように左右からプルードンが批判されている構図を描くことができるでしょう。
このように、ヘーゲル左派からはじまりプルードンに着目するのは突拍子もないことではありません。
実際、ヘーゲル左派を研究されている石塚正英氏は、「交換銀行論の系譜——プルードン・ヴァイトリング・ゲゼル 」といった発表をされていて、仏、米、独、といった国境を越えたプルードンの系譜に着目されていて、成果が待たれます。
参考:http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/
http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/g.html
また、佐藤優氏は『私のマルクス』で、ヘーゲル左派の多様性に着目し、スターリン主義、神学、マルクス主義、ユダヤ主義といった要素を読み取っており、ジジェクなどと同様この時期の可能性を掘り起こすことに成功していますが、こちらは残念ながらプルードンへの言及はありません。
参考:http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0709.htm
エドガー・バウアーの描いた「批判的」プルードンとマルクスの理解する「ほんとうの/非批判的/大衆的」プルードンを対比によってマルクスが論じる『聖家族』*は、後の『哲学の貧困』の時期よりもプルードンの本質を描いていると思う。
*追記:
以下のマルクスの言葉をグラムシが何度も引用しているそうだ。
「もしエドガー氏がフランス語の平等を、ほんのしばらくでもドイツ語の自己意識と比べてみるならば、彼は後者の原理とは、前者がフランス語で、つまり政治と思考的直観のことばでいうところを、ドイツ語でつまり抽象的思考のことばであらわしていることがわかるであろう……」
(該当箇所邦訳大月版全集第二巻p36)。<戻る>
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私が「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉に嫌な気がしたのは、シュティルナーの『唯一者とその所有』を60年代の初めに熱心に読んだことがあったからだ。アナーキストは、シュティルナーとプルードンを始祖として並べているが、本当は、シュティルナーのこの本は、たんにフォイエルバッハの批判ではなく、むしろプルードンの批判なのだ。シュティルナーは、フォイエルバッハは神や精神を否定したけれども、彼がいう「人間」(類的本質)そのものが神や精神の変形にすぎないという。同様に、プルードンは、神を斥けているが、結局、キリスト教的な自己犠牲的道徳にもとづいている、とシュティルナーはいう。 かくて、フォイエルバッハはわれわれに説いていう。「人は、思弁的哲学を要するに転倒させるならば、つまりは客語を主語とし、主語を目的語とし、原則とするならば、あらわな、純粋・無垢なる真理をもつ」[原注・「アネクドータ」Ⅱ、六四頁]と。それによって、われわれはたしかに、限定された宗教的立場の別の側面、道義的立場を手にするだけなのだ。われわれはたとえばもはや「神は愛なり」と言わぬかわりに「愛は神的なり」というのだ。(片岡啓治訳『唯一者とその所有 上』現代思潮社 p64) 敬神は、一世紀このかた、多くの打撃をうけ、その超人的本質を「非人間的」とそしられるのを耳にしなければならなかったため、人は改めてそれに対して身構えてみようという気にはとてもなれない。さてそうなると、一つの――別の最高存在のために、この最高存在に闘いをいどむべく闘技場にあらわれるのは、ほとんどつねに道義的な敵対者だけであった。かくて、プルードンは臆面もなくいい放つ〔原注・秩序の創造〕他、三六頁〕。「人間は宗教なく生きる定めにある、しかし、道義の掟〔la loi morale〕は永遠・絶対である。今日道徳を攻撃することを、誰があえてしようか」。(『唯一者とその所有 上』 p63)シュティルナーの考えでは、プルードンにおいて、国家は否定されているが、結局、「社会」あるいは「共同体」がそれにとって代わっただけである。そこでは、社会の一員としての個人だけが認められ、「この私」は無視されている。シュティルナーは、それを「私の所有」として語っている。しかし、それはむしろ、プルードンの『所有とは何か』に対していわれた言葉である。実際は、それは所有と関係がない。《「自由」とは、一つの憧れ、一つのロマン的嘆きの声、彼岸と未来に託するキリスト教的希望であり、そうでありつづける。「自己性」は一つの現実、まさに諸君自身の道を阻み妨げるかぎりの不自由を自ずから排除した現実であるのだ。(中略)自己所有者〔der Eigene〕は生まれながらの自由人であり、本来的自由人であるのだ。それに反して、自由人とは要するに自由を求める者、夢想者、空想者にすぎないのだ》(『唯一者とその所有 下』p19~20)。 つまり、シュティルナーにとって、自由は所有すべき何かではない。だから、彼は別の所で、それを「無」と呼んでいる。『唯一者とその所有』という本は、「私の事柄を、無の上に、私は据えた」という言葉で終っている。これは、先行者アーノルド・ルーゲの「私は一切を歴史の上におく」という言葉をもじったものである。それは歴史的な諸関係によって規定される「私」ではなく、それらを括弧に入れた、無であるところの「私」の実存から出発するということである。したがって、「私の所有」とは、各人がたんに各人であることであり、またユニーク(唯一性)ということは特殊な才能などを指すものではない。 彼は端的に、エゴイストであると主張する。そして、プルードンの構想するアソシエーションに、教会の臭いをかぎとった。つまり、他人のためにエゴイズムを否定する道徳性によって成り立っている。そういう連帯はくそくらえ、私は徹底的にエゴイストだ、と彼はいうのである。しかし、同時に、彼は通常エゴイストと見なされる者はエゴイストではない、という。たとえば、人が利益あるいは欲望の追求に「憑かれて」(所有されてpossessed)いるのであれば、それはまさに「私の所有」を失うことであり、エゴイストではありえないからである。 だから、彼がエゴイズムをいいながら、連帯(アソシエーション)を志向することは少しも矛盾しない。むしろ、彼はエゴイストのみがアソシエーションを形成しうるし、また、アソシエーションはそのようなものであるべきだといったのである。孤立を求めない者が、どうして連帯できよう。連帯を軽蔑するような奴らは、本当は、孤立を恐れているだけなのだ。その証拠に、連帯しない代わりに、彼らは群れたがるのだ。NAMは、「自由を求める人」の共同体ではない、「自己所有者」のアソシエーションである。 |
10. Cette assertion n’a plus rien d’effrayant, après la distinction que nous avons faite de la loi morale et du symbole religieux : celle-là, éternelle et absolue ; celui-ci, variable, transitoire, et n’ayant pour objet que de donner momentanément à la morale une sanction et une base. Or, la science nouvelle doit suppléer partout la religion, et faire mieux que sa devancière ; à cette condition seule, les conclusions que nous allons poser sont légitimes. Ainsi, que les âmes timorées se rassurent. Eh ! qui donc aujourd’hui oserait attaquer la morale ? mais, en revanche, qui se soucie des symboles ? Les pères envoient-ils leurs enfants au catéchisme pour y apprendre à théologiser, ou bien pour y puiser des principes de probité et de politesse ? Toute la question est là.
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