水曜日, 4月 18, 2012

孔子とカント批判哲学:メモ


「仁とは、交換様式でいえば、無償の贈与である。」(柄谷行人『世界史の構造』231頁)

『論語』の構成が適当だということはよく言われる。
しかし、柄谷の交換図と対応させると最初の4章は偶然にしては構成がよく考えられており、絶妙だとわかる。

孔子のタームを柄谷交換図と対応させると以下になる。
『論語』関連記事をクリックすると本文とリンク可能)
     →別サイト『孔子家語』:書評『森の生活』メモ宥坐の器孔子画伝脳機能近思録
            |   
      政     | 礼
    1314、| 10
15161820 |11141718
____________|____________
            |
      学     | 仁
   19 |1215
            |




注:
学1,7,9,19
仁4,(5,6),12,(15)
礼3,8,10,11,17
政2,13,14,16,18,20

学(キャピタル)→仁(アソシエーション)→礼(ネーション)→政(ステート)
と構成されている。
『論語』の最初の4章は上記を学から始まる逆回りの軌跡と考えられる。

学をキャピタルに対応させたのは孔子が干し肉と引き換えに誰にでも教えたという記述があるからだ。
教育は経済活動と考えられるのだ。


また、上記の4タームは以下のような区分とも呼応する。 (ちなみに「中庸」6-29及び13-21はこれらの概念の集合論的な中間項、積[交わり]としてある。またアンチノミーは提出されるが、そのつど解決されるものとしてある。3-3と8-2、あるいは7-35参照。)

07-24

子以四教、文行忠信、

子、四つを以て教う。文、行、忠、信。

先生は四つのことを教えられた。読書と実践と誠実と信義である。

この場合は、

 信|忠
__|__
 文|行

あるいは、

11-03
徳行顔淵閔子騫冉伯牛仲弓、言語宰我子貢、政事冉有季路、文學子游子夏、

徳行(とくこう)には顔淵、閔子騫(びんしけん)、冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓、
言語には宰我(さいが)、子貢、
政事には冉有、季路、
文学には子游、子夏。

徳行では顔淵と閔子騫と冉伯牛と仲弓。
言語(弁舌)では宰我と子貢。
政事(政治)では冉有と季路。
文学(学問)では子游と子夏。


引用終わり。

徳行は仁、
言語は学、
政事は政、
文学は礼、と考えられ得る。



図にすると、

 政事| 文学
___|___
 言語|徳行
   |


5章以降は区分がむずかしい場合がある。それは異なる音(ただし奇麗に調律されたものだ)が和音を奏でるのに似ている。
主音を摘出するしかないのだ(ひとつづつ分類もできるが繁雑になるし従来の章立てを最大限活かすことを優先した)。

5、6章などは弟子を描いているが、これらは仁をめぐるアソシエーションと考えることができる。



徳をタームに挙げていないのはすべてが徳の中にあると言えるからである。
逆に、天と道は孔子の範疇外にある。


以下の図が描かれ得る。



孔子『論語』構造図
 _______________________
|           |     |     |
|           |  政  |  礼  |
|           |     |     |
|           |_____徳_____|
|           |     |     |
|           |  学  |  仁  |
|           |     |     |
|___________道_____|_____|
|           |           |
|           |           |
|           |           |
|     天     |           |
|           |           |     
|           |           |
| (怪力乱神)    |           |
|___________|___________|

(天と道は老子の範疇である。)
                 

 ________________2:3____
|           |     |     |
|           |  政  |  礼  |
|           (13:16)   (17:11)
|          2:1____徳_____3:3
|           (4:25、14:5)12:1
|           | 学   |  仁  |
|           |     |     |
|___________道___15:33__14:5
|         16:2  17:8    |
|        (15:29)(2:16)  |
|           |           |
|     天     |           |
|   14:37   |           |
|           |           |
| (怪力乱神)7:20|           |
|___________|___________|



詳細、

 _______________________
|           |行政|歴史|聖 |音楽|
|           |__政__|__礼__|
|           |  |  | 孝|詩経|
|           |__|__徳_忠|__|
|           |  |  |君子|日常|
|           |__学__|__仁__|
|           |経済|言葉|弟子| 義|
|___________道__|__|__|_信|
|           |           |
|           |           |
|           |           |
|     天     |           |
|           |           |
|           |           |
| (怪力乱神)    |           |
|___________|___________|

道8:13、5−7、5−21、6−17
 天 7:22
  徳4−25、6−7
   学1−1
    経済3:3
    言葉(4−22)、9ー24
   仁1−3
    弟子11−7
    義2−24、4−10
     信2−22、(1−13)
    君子2−14、4−11
    日常10−20
   礼1−12
    孝1−2
     忠(1−4)、3−19
    詩経2−2
    聖6−30
    音楽7−13
   政2−1
    行政1−5
    歴史14−9

追記:
柄谷は現代中国が法家(ステート)→老子(自由経済)→孔子(アソシエーション)と展開すると考えているようだ。
以下の番組↓で紹介されていたが殷は商を自称し塩などの交易を進めた(動画ではカットされている)。その後の周はアソシエーション、ネーション、その後の秦がステートと考えられる。
孔子はだからネーションにあたる周の復興をその枠内で模索したのだ。
そして実際の歴史と逆回りに『論語』(の最初の4章)は構成され、孔子の実際の人生は逆回りに翻弄されたものだったということになる。

 秦 | 周B
___|___
 殷 | 周A
(商)|



孔子の理想

07-13
子在齊、聞韶樂三月、不知肉味、曰、不圖爲樂之至於斯也、

子、斉に在(いま)して、韶(しょう)を聞くこと三月(さんげつ)、肉の味を知らず。曰わく、図(はか)らざりき、楽を為すことの斯(ここ)に至らんとは。

先生は斉の国で数カ月の間、韶(しょう)の音楽を聞き[習われ、すっかり感動して]肉のうまさも解されなかった。「思いもよらなかった、音楽というものがこれほど素晴らしいとは」

追記:
学、仁、礼、政はカントで言うカテゴリーである。柄谷の交換図もカントのカテゴリーも象限図で図示できる。

/////以下旧稿////

孔子の言行録である『論語』には、仏陀やキリストに通じるものがある。神秘主義を退けた点や、倫理を重視した点が彼らに近い。

衛霊公第十五:二十四(論語各国語訳http://www.1-em.net/sampo/rongo_lingual/index_01.htm)、

子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人也。

子貢(しこう)が尋ねました、
「一生守り続けるべき、そんな言葉がありますか?」
孔子は、
「思いやりだな。自分がされて嫌な事を他人にしてはいけない。」
と答えられました。


しかし、あえて哲学的観点に立てば、カントの批判哲学と親和性が高いだろう。

怪力乱神を語らなかった孔子は(論語述而7:20)、理性の越権行為を禁じたカントに近いのだ(中井正一が指摘したように「感嘆詞」があることでヘーゲル、ライプニッツとは異なる)。

以下、引用。

1:14
先生は言いました。「君子(りっぱな人)は、食事をするときは、飽きるまで食べたいとは思いません。家にいるときは、気楽に暮らしたいとは思いません。自分を向上させるために努力して、発言を慎重にします。道理をわきまえている人につき従って、自分のまちがいを正します。これでこそ学んでいると言えます」
子曰:「君子食無求飽,居無求安,敏於事而慎於言,就有道而正焉,可謂好學也已。」

2:17
先生は言いました。「 仲由 よ、あなたに知るということを教えましょうか。知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとするのが、知るということです」

子曰:「由!誨女知之乎!知之為知之,不知為不知,是知也。」


2:18
顓孫師が収入を得るために学ぼうとしました。先生は言いました。「いろんなことを聞いて、そのうち疑わしいものを取り除いて、その残りを慎重に発言するなら、失敗することはありません。いろんなことを見て、そのうち疑わしいものを取り除き、その残りを慎重に実行するなら、後悔することはありません。言葉に非難されるところがなく、行動に後悔するところがないようにしていれば、おのずと収入を得られるようになるものです」

子張學干祿。子曰:「多聞闕疑,慎言其餘,則寡尤。多見闕殆,慎行其餘,則寡悔。言寡尤,行寡悔,祿在其中矣。」

5:27
子曰、已矣乎、吾未見能見其過、而内自訟者也、

子の曰わく、已矣乎(やんぬるかな)。吾れ未だ能く其の過(あやま)ちを見て内に自ら訟(せ)むる者を見ざるなり。

先生がいわれた、「もうおしまいだなあ。自分の過失を認めて吾と我が心に責めることのできる人を、私は見たことがない。」

6:22
樊遅問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣、

樊遅(はんち)、知を問う。子の曰わく、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。曰わく、仁者は難きを先にして獲るを後にす。仁と謂うべし。

樊遅が智のことをお訊ねすると、先生は言われた、「人としての正しい道を励み、神霊には大切にしながらも遠ざかっている、それが智といえることだ。」仁のことをお訊ねすると、言われた、「仁の人は難事を先にして利益は後のことにする、それが仁といえることだ」


7:8
先生は言いました。「わかりたいけど、わからない、ともどかしく感じないなら、こちらから教えてあげません。言いたいことはあるけど、どう言ったらよいかわからない、とむずむずしないなら、こちらから言ってあげません。1つ説明したら、その他のことも応用して考えつくようでないなら、二度と説明してあげません」

子曰:「不憤不啟,不悱不發。舉一隅*不以三隅反,則不復也。」

*
一隅__三隅
 |  |
 |__|
三隅  三隅


11:5
先生は言いました。「やり過ぎるのは、やり足らないのと似たようなものです(よくありません)」

子曰:「過猶不及。」

11:11
仲由が鬼神(神霊)に仕えることについて質問すると、先生は言いました。「まだ人に仕えることができていないのに、どうして鬼神に仕えることができるでしょうか」
仲由が死について質問すると、先生は言いました。「まだ生についてよくわかっていないのに、どうして死についてわかるでしょうか」

季路問事鬼神。子曰:「未能事人,焉能事鬼?」「敢問死?」曰:「未知生,焉知死?」

19:21
子貢曰、君子之過也、如日月之蝕焉、過也人皆見之、更也人皆仰之、

子貢が曰わく、君子の過(あやま)ちや、日月の蝕するが如し。過つや人皆これを見る、更(あらた)むるや人皆なこれを仰ぐ。

子貢がいった、「君子の過ちというものは日食や月食のようなものだ。過ちをすると[はっきりしているので]誰でもが皆それを見るし、改めると誰もが皆それを仰ぐ。」


以下の、フレーズもある。


子曰:「吾未見好德如好色者也。」9:18

子曰:「已矣乎!吾未見好德如好色者也!」15:13

先生が言われた。
「私はまだ美人を好むように徳を好む人を見たことがない。」


これは「我々が不和になった愛人の許へ再び戻って行くように、必ず形而上学へ立ち帰る」(A878)と述べるカントに結果的に近いのだ。

カントは唯名論的立場を取っているが、孔子も名を正すことを重視した。
敷物に人が寄り添うことが原義の仁も、統整論的なものだということがわかる(ちなみに白川静『常用字解』によれば礼は酒を使った儀式、徳は強い目の呪術が原義だそうだ)。


韓非子| 孔子
___|___
老子 |

柄谷の交換図では上記になるが、孔子の思想はアソシエーションに移行することも可能だろう。

倫理的には第二批判(徳と幸福のアンチノミーは孔子が提出したものでもある。孔子は徳を選択するが、仮定に置けるアンチノミーは維持される。ちなみに、徳と至福を一致させるスピノザは老子に近い。)が参照されるべきだが、
音楽への興味などはカントの第三批判を想起させる。
孔子にとっては音楽は美であり、歴史こそが崇高なものだったようだが。

ただし、より厳密には『論語』全体はパーソンズの図式に当てはまるだろう(両者とも柄谷のタームでいえばネーションに希望が託される)。


孔子『論語』構造図
_______________________
|           |     |孝 弟 質|
|           |  善  |礼 聖A信|達
|           |     |剛 智 文|
|     義     |_____|倹_政_名|聞
|           |     |    詩|
|           |  徳  | 学  書|
|           |     | 知  楽|
|___________|_____|_____|
|           |           |
|  天     命  |           |
|           |           |
|     道     |     仁     |
|           |           |     
|         聖B|           |
| (怪力乱神)    |           |
|___________|___________|

あるいは、

義  | 礼
___|___
徳  | 仁

(天、道)

注:

集合論的に整理され得る諸概念は、写像関係(例:聖A→聖B)にもある。
中庸は集合同士の交わる地点を意味する。


参考:
『森の生活』と東洋思想:メモ(転載)
http://nam-students.blogspot.jp/2010/02/blog-post_22.html


追記:
カント第二批判に近いのは以下だろう。ちなみに第三批判は孔子のいう礼学(フィンガレットの指摘するように孔子のいう礼=儀式は公的なものである)と重なり、なおかつカントのいうカテゴリーに近い。

衛霊公15より

14:先生は言いました。「自分自身は厳しく責めて、他人を厳しく責めないなら、 怨うら まれにくくなります」
子曰:「躬自厚,而薄責於人,則遠怨矣!」


20:先生は言いました。「君子(りっぱな人)は、自分に求めます(たとえば、自力救済を志向し、失敗したら自分に原因があるとします)。小人(つまらない人)は、他人に求めます(たとえば、他力本願を志向し、失敗したら他人のせいにします)」
子曰:「君子求諸己,小人求諸人。」


23: 端たん 木ぼく 賜し が質問しました。「死ぬまで守るとよいことで、一言で言えるものはありますか」
先生は言いました。「それは 恕じょ (思いやり)です。自分がされて嫌なことは、他人に対してしてはいけません」
子貢問曰:「有一言而可以終身行之者乎?」子曰:「其怒乎!己所不欲,勿施於人。」


7:29
先生は言いました。「仁は、遠くにあるのでしょうか。いや、そうではありません。自分が仁を欲したならば、すぐさま仁がやってきます」
子曰:「仁遠乎哉?我欲仁,斯仁至矣。」



付録:
孔子が理想とした音楽は以下の編鐘のようなものだったのだろうか?
参考:http://www.ts-kaneko.net/ow061100.htm
「図らざりき。楽を為すことのここに至らんとは」(『論語・述而第七』)
「詩に興り、礼に立ち、楽になる」(『論語・泰伯第八』)


http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point32.html
以下上記サイトより

孔子は36歳のとき隣国の斉で衝撃的な体験をしました。 それまで聞いたことのなかったショウという古い音楽を聞いたのです。孔子は寝食を忘れるほど、その音楽に感動したといいます。 ショウとは300年以前の周から伝えられた古い音楽です。

北京の故宮博物院に収蔵された士父鐘。周代の青銅の楽器です。大小8個から22個の組み合わせで編鐘という楽器になります。編鐘の奏でる音楽は単なる娯楽ではなく、 天や先祖を祭る重要な儀式において欠かせないものでした。

宗周鐘。周の末期厲王という王が南方を侵略した異民族を撃退した記念に作らせた、数少ない青銅器のひとつです。 周代、音楽は儀礼を彩る神聖なものとされ、急速に発達しました。鐘ばかりでなく琴などの弦楽器も加わり、合唱や舞も行われたと記録されています。
湖北省の考古研究所では、およそ2500年前の講師の時代の音楽が復元されています。

やがて孔子は音楽だけでなく周という国の儀式や制度にも関心を深め、周の国そのものに強く惹かれるようになりました。それでは、孔子が憧れた周とは、 いったいどのような国なのでしょうか。
周はB.C.1000ごろ神聖国家の殷を倒しました。周の時代になり、天下は安定し、処罰は40年以上も使われなかったと司馬遷の『史記』に書かれています。 周は秩序の整った制度を持つ国でした。天や先祖を祭るときには建物の大きさから、奏でられる音楽まで儀式の次第が事細かにさだめられていました。 「礼」とよばれる制度です。孔子が憧れたのは、この「礼」でした。



07-13

子在齊、聞韶樂三月、不知肉味、曰、不圖爲樂之至於斯也、

子、斉に在(いま)して、韶(しょう)を聞くこと三月(さんげつ)、肉の味を知らず。曰わく、図(はか)らざりき、楽を為すことの斯(ここ)に至らんとは。

先生は斉の国で数カ月の間、韶(しょう)の音楽を聞き[習われ、すっかり感動して]肉のうまさも解されなかった。「思いもよらなかった、音楽というものがこれほど素晴らしいとは」



参考、礼楽関連:

3:23
子語魯大師樂曰、樂其可知已、始作翕如也、從之純如也、徼*如也、繹如也、以成、

子、魯の大師に楽を語りて曰わく、楽は其れ知るべきのみ、始めて作(おこ)すに翕如(きゅうじょ)たり。これを従(はな)ちて純如たり、徼*如(きょうじょ)たり、繹如(えきじょ)たり。以て成る。

先生が音楽のことを魯の楽官長にはなされた、「音楽はまあ分かりやすいものです。起こしはじめは[金属の打楽器で]盛んです。それを放つと[諸楽器が]よく調和し、はっきりし、ずっと続いていって、そうして一節が終わります」


7:
13:先生は、 斉せい 国において、すぐれた音楽を聞かれ、その感動のあまり3ヶ月にわたり、おいしいものを食べても、その味がわからないほどでした。先生は言いました。「音楽がこれほどのものとは、知りませんでした」
子在齊聞韶,三月不知肉味,曰:「不圖為樂之至於斯也。」

7:
31:先生は、人と一緒に歌っていて、その歌がよいときは、必ずそれをくりかえして歌ってもらい、そのあとで合わせて歌いました。

子與人歌而善,必使反之,而後和之。

14:
42:先生が 衛国の首都で石の打楽器をたたいていると、竹のかごを背負って 孔子の家の前を通りかかった人が言いました。
「心がこもっていますね、そのたたき方は」
しばらくして、さらに言いました。「だめですね、こちこちの音です。自分のことを理解してもらえなければ、そこでやめるだけです。『詩経』に「深い川なら、服を脱いで渡ります。浅い川なら、すそを持ち上げて渡ります」とあります(世の中に合わせて、ほどよく暮らせばよいではないですか)」
先生は言いました。「思いきりのよいことですが、そう難しいことではありません」

子擊磬於衛。有荷蕢而過孔氏之門者,曰:「有心哉,擊磬乎!」既而曰:「鄙哉,硜硜乎!莫己知也,斯已而已矣!『深則厲,淺則揭。』」子曰:「果哉!末之難矣!」

16:
2: 孔子 は言いました。「天下が道にかなっているときには、 礼楽 と征伐は天子(君主)によって決められます。天下が道にはずれているときには、 礼楽 と征伐は諸侯(臣下)によって決められます。諸侯が決めるようになっても、(正当性がないので)10世代も経過すれば力を失っていくものです。大夫(諸侯の臣下)が決めるようになっても、(正当性がないので)5世代も経過すれば力を失っていくものです。陪臣(大夫の臣下)が決めるようになっても、(正当性がないので)3世代も経過すれば力を失っていくものです。天下が道にかなっているときには、大夫が政治を行うことはありません。天下が道にかなっているときは、庶民が意見することはありません」

孔子曰:「天下有道,則禮樂征伐自天子出;天下無道,則禮樂征伐自諸侯出。自諸侯出,蓋十世希不失矣;自大夫出,五世希不失矣。陪臣執國命,三世希不失矣。天下有道,則政不在大夫。天下有道,則庶人不議。」

////////

礼楽のレベルでも批判哲学が適応される。

7:
30: 陳国の司敗(司法官)は質問しました。「 魯国の 昭公は礼を知っていますか」
孔子 は答えて言いました。「礼を知っています」
孔子 が出て行くと、 司敗は 巫馬期 にあいさつして進ませ、言いました。「私は「君子(りっぱな人)はえこひきいをしない」と聞いていましたが、君子もえこひいきをするのですか。 魯国の君主は、 呉国から妻をむかえましたが、(礼の規定では同姓の家から妻をむかえてはいけないとなっていますが、 呉国は同姓なので、本来なら 呉姫と呼ぶべきところ)妻を 呉孟子 と呼びました。この君主が礼を知っていると言うなら、礼を知らない人はいないでしょう」
巫馬期 がこれを先生に告げると、先生は言いました。
「私は幸せ者です。もしまちがいがあれば、人がそれを知らせてくれます」

陳司敗問昭公知禮乎,孔子曰:「知禮。」孔子退,揖巫馬期而進之曰:「吾聞君子不黨,君子亦黨乎?君取於吳,為同姓,謂之吳孟子。君而知禮,孰不知禮?」巫馬期以告。子曰:「丘也幸,苟有過,人必知之。」


17:
11:先生は言いました。「礼儀だ、礼儀だと言っても、宝玉や絹織物を献上することだけが礼儀ではありません。音楽だ、音楽だと言っても、鐘や太鼓を演奏することだけが音楽ではありません」

子曰:「禮云禮云,玉帛云乎哉?樂云樂云,鐘鼓云乎哉?」


付録:
孔子の遍歴した国々
魯→周→斉→魯→衛→陳→宋→鄭→蔡→楚→衛→魯

論語:上

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論語


 巻 第一
  、学而第一

01-01

子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎

子の曰わく、学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。

先生がいわれた、「学んでは適当な時期におさらいをする、いかにも心嬉しいことだね。[そのたびに理解が深まって向上していくのだから。]だれか友達が遠 い所からからも尋ねて来る、いかにも楽しいことだね。[同じ道について語り合えるから。]人が分かってくれなくても気にかけない、いかにも君主だね[凡人 にはできないことだから。]」


01-02

有子曰、其爲人也、孝弟而好犯上者、鮮矣、不好犯上而好作乱者、未之有也、君子務本、本立而道生、孝弟也者、其爲仁之本與、

有子が曰わく、其の人と為りや、孝弟にして上(かみ)を犯すことを好む者は鮮(すく)なし。上を犯すことを好まずしてして乱を作(な)すことを好む者は、未だこれ有らざるなり。君子は本(もと)を務む。本(もと)立ちて道生ず。孝弟なる者は其れ仁の本たるか。

有子がいわれた、「その人柄が孝行悌順でありながら、目上に逆らうことを好むような者は、ほとんど無い。目上に逆らうことを好まないのに、乱れを起こすこ とを好むような者は、めったに無い。君子は根本のことに努力する、根本が定まって初めて[進むべき]道もはっきりする。孝と悌ということこそ、人徳の根本 であろう」


01-03

子曰、巧言令色、鮮矣仁、

子の曰わく、巧言令色、鮮なし仁。

先生がいわれた、「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、人の徳は。」


01-04

曾子曰、吾日三省吾身、爲人謀而忠乎、與朋友交言而不信乎、傳不習乎

曾子の曰わく、吾れ日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。

曾子がいわれた、「私は毎日何度も我が身について反省する。人の為に考えてあげて真心からできなかったのではないか。友達と交際して誠実でなかったのではないか。よくおさらいもしないことを[受け売りで]人に教えたのではないかと。」


01-05

子曰、道千乘之國、敬事而信、節用而愛人、使民以時、

子の曰わく、千乗の国を道びくに、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。

先生がいわれた、「諸侯の国を治めるには、事業を慎重にして信頼され、費用を節約して人々をいつくしみ、人民を使役するにも適当な時節にすることだ」


01-06

子曰、弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁、行有餘力、則以學文、

子の曰わく、弟子(ていし)、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば則ち以て文を学ぶ。

先生がいわれた、「若者よ。家庭では孝行、外では悌順、慎んで誠実にしたうえ、だれでも広く愛して仁の人に親しめ。そのようにしてなお余裕があれば、そこで書物を学ぶことだ」


01-07

子夏曰、賢賢易色、事父母能竭其力、事君能致其身、與朋友交、言而有信、雖曰未學、吾必謂之學矣、

子夏が曰わく、賢を賢として色に易(か)え、父母に事(つか)えて能(よ)く其の力を竭(つく)し、君に事えて能くその身を致(いた)し、朋友と交わるに言いて信あらば、未だ学ばずと曰うと雖ども、吾は必ずこれを学びたりと謂わん。

子夏がいった、「すぐれた人をすぐれた人として[それを慕うことは]美人を好むようにし、父母に仕えてはよくその力をつくし、君に仕えてはよくその身をさ さげ、友達との交際ではことばに誠実さがある、[そうした人物なら、だれかが]まだ学問はしていないといったところで、わたしはきっと学問をしたと評価す るだろう。」


01-08

子曰、君子不重則不威、學則不固、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改、

子の曰わく、君子、重からざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如(し)からざる者を友とすることなかれ。過てば則ち改むるに憚ること勿(な)かれ

先生がいわれた、「君子はおもおもしくなければ威厳がない。学問をすれば頑固でなくなる。[まごころの徳である]忠と信とを第一にして、自分より劣ったものを友達にするな。あやまちがあればぐずぐずせずに改めよ。」


01-09

曾子曰、愼終追遠、民徳歸厚矣

曾子の曰わく、終わりを慎み遠きを追えば、民の徳、厚きに帰す。

曾子がいわれた、「[上にたつものが、]親を手厚く葬り祖先をお祭りしていけば、人民の徳も[それに感化されて]厚くなるであろう」


01-10

子禽問於子貢曰、夫子至於是邦也、必聞其政、求之與、抑與之與、子貢曰、夫子温良恭儉譲以得之、夫子之求之也、其諸異乎人之求之與、

子禽、子貢に問いて曰わく、夫子の是(こ)の邦に至るや、必らず其の政を聞く。これを求めたるか、抑々(そもそも)これを与えたるか。子貢が曰わく、夫子は温良恭倹譲、以てこれを得たり。夫子のこれを求むるや、其れ諸(こ)れ人のこれを求むるに異なるか。

子禽が子貢にたずねていった、「うちの先生(孔子)はどこの国にいかれても、きっとそこの政治の相談を受けられる。それをお求めになったのでしょうか、そ れとも[向こうから]持ちかけられたのでしょうか。」子貢は答えた、「うちの先生は、温(おだやか)で良(すなお)で恭々(うやうや)しくて倹(つつま) しくて譲(へりくだり)であられるから、それでそういうことに[どこの国でも政治の相談をうけられることに]なるのだ。先生の求めかたといえば、そう、他 人のもとめかたとは違うらしいね[無理をしてことさらに求めるのとは違う。]」


01-11

子曰、父在觀其志、父沒觀其行、三年無改於父之道、可謂孝矣、

子の曰わく、父在(いま)せば其の志しを観、父没すれば其の行いを観る。三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし。

先生がいわれた、「[人物の評価には]父のあるうちにはその人の志を観察し、父の死後ではその人の行為を観察する。[死んでから]三年の間、父のやり方を改めないのは、孝行だといえる」


01-12

有子曰、禮之用和爲貴、先王之道斯爲美、小大由之、有所不行、知和而和、不以禮節之、亦不可行也、

有子が曰わく、礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美となす。小大これに由るも行なわれざる所あり。和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦た行なわるべからず。

有子がいわれた、「礼のはたらきとしては調和が貴いのである。むかしの聖王の道もそれでこそ立派であった。[しかし]小事も大事もそれ[調和]に依りなが らうまくいかないこともある。調和を知って調和をしていても、礼でそこに折り目をつけるのでなければ、やはりうまくいかないものだ」


01-13

有子曰、信近於義、言可復也、恭近於禮、遠恥辱也、因不失其親、亦可宗也、

有子が曰わく、信、義に近づけば、言復(ふ)むべし。恭、礼に近づけば、恥辱に遠ざかる。因(よ)ること、其の親(しん)を失なわざれば、亦た宗(そう)とすべし。

有子がいわれた、「信[約束を守ること]は、正義に近ければ、ことば通り履行できる。うやうやしさは、礼に近ければ、恥ずかしめから遠ざかれる。たよるには、その親しむべき人を取り違えなければ、[その人を]中心としてゆける」


01-14

子曰、君子食無求飽、居無求安、敏於事而愼於言、就有道而正焉、可謂好學也已矣

子の曰わく、君子は食飽かんことを求むること無く、居安からんことを求むること無し。事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。

先生がいわれた、「君子は腹いっぱいに食べることを求めず、安楽な家に住むことを求めない。仕事によくつとめて、ことばを慎重にし、[しかもなお]道義を身に付けた人に就いて[善しあしを]正してもらうというようであれば、学を好むといえるだろうね」


01-15

子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如、子曰、可也、未若貧時樂道、富而好禮者也、子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂與、子曰、賜也、始可與言詩已矣、告諸往而知來者也、

子貢が曰わく、貧しくして諂(へつら)うこと無く、富みて驕(おご)ること無きは、何如(いかん)。子の曰わく、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富み て礼を好む者には若(し)かざるなり。子貢が曰わく、詩に云う、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如しとは、其れ斯れを謂うか。子の曰わ く、賜(し)や、始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。諸(こ)れに往(おう)を告げて来を知る者なり。

子貢がいった、「貧乏であってもへつらわず、金持ちであってもいばらないというのは、いかがでしょうか。」先生は答えられた、「よろしい。だが、貧乏で あっても道を楽しみ、金持ちであっても礼儀を好むというのには及ばない。」子貢がいった、「詩経に『切るが如く、磋るが如く、琢つが如く、磨くが如く、』 と[いやがうえにも立派にすること]うたっているのは、ちょうどこのことでしょうね。」先生はいわれた「賜よ、それでこそ一緒に詩の話ができるね。前のこ とを話して聞かせるとまだ話さない後のことまで分かるのだから。」


01-16

子曰、不患人之不己知、患己不知人也、

子の曰わく、人の己れを知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患(うれ)う。

先生がいわれた、「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、人を知らないことを気にかけることだ。」



 、爲政第二

02-01

子曰、爲政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之、

子の曰わく、政を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰の其の所に居て衆星のこれに共(むか)うがごとし。

先生がいわれた、「政治をするに道徳によっていけば、ちょうど北極星が自分の場所にいて、多くの星がその方向に向かって挨拶しているようになるものだ[人心がすっかり為政者に帰服する]」


02-02

子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪、

子の曰わく、詩三百、一言以てこれを蔽(おお)う、曰わく思い邪(よこしま)なし。

先生がいわれた、「詩経の三百篇、ただ一言で包み込めば『心の思いに邪なし』だ」


02-03

子曰、道之以政、齊之以刑、民免而無恥、道之以徳、齊之以禮、有恥且格、

子の曰わく、これを道びくに政を以てし、これを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免(まぬが)れて恥ずることなし。これを道びくに徳を以てし、こてを斉うるに礼を以てすれば、恥ありて且(か)つ格(ただ)し。

先生がいわれた、「[法制禁令など小手先の]政治で導き、刑罰で統制していくなら、人民は法の網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で導き、礼で統制していくなら、道徳的な羞恥心を持ってその上に正しくなる」


02-04

子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩、

子の曰わく、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。

先生がいわれた、「私は十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった」


02-05

孟懿子問孝、子曰、無違、樊遲御、子告之曰、孟孫問孝於我、我對曰無違、樊遲曰、何謂也、子曰、生事之以禮、死葬之以禮、祭之以禮、

孟懿子(もういし)、孝を問う。子の曰わく、違(たが)うこと無し。樊遲(はんち)御(ぎょ)たり。子これに告げて曰わく、孟孫、孝を我れに問う、我れ対 (こた)えて曰く、違うことなしと。樊遲が曰わく、何の謂(い)いぞや。子の曰わく、生けるにはこれに事(つか)うるに礼を以てし、死すればこれを葬るに 礼を以てし、これを祭るに礼を以てす。

孟懿子が孝のことをたずねた。先生は「まちがえないように」と答えられた。[そのあと]樊遲が御者(ぎょしゃ)であったので。先生は彼に話された。「孟孫 さんがわたくしに孝のことを問われたので、わたくしは『まちがえないように、』と答えた。」樊遲が「どういう意味ですか。」というと、先生はいわれた、 「[親が]生きているときには礼のきまりによってお仕えし、なくなったら礼のきまりによって葬り、礼の決まりによってお祭りをする[万事、礼のきまりを間 違えないということだよ]」


02-06

孟武伯問孝、子曰、父母唯其疾之憂、

孟武伯、孝を問う。子の曰わく、父母には唯だ其の疾(やまい)をこれ憂えしめよ。

孟武伯が孝のことをたずねた。先生はいわれた、「父母にはただ自分の病気のことだけ心配させるようにしなさい[病気はやむを得ない場合もあるが、そのほかのことでは心配をかけないように。]」


02-07

子游問孝、子曰、今之孝者、是謂能養、至於犬馬、皆能有養、不敬何以別、

子游、孝を問う。子の曰わく、今の孝は是れ能(よ)く養なうを謂う。犬馬に至るまで皆な能く養なうこと有り。敬せずんば何を以て別(わか)たん。

子游が孝のことをおたずねした。先生はいわれた「近ごろの孝は[ただ物質的に]十分に養うことをさしているが、犬や馬でさえみな十分に養うということがある。尊敬するのでなければどこに区別があろう」


02-08

子夏問孝、子曰、色難、有事弟子服其勞、有酒食先生饌、曾是以爲孝乎、

子夏、孝を問う。子の曰わく、色難(かた)し。事あれば、弟子(ていし)其の労に服し、酒食あれば先生に饌す。曾(すなわ)ち是れを以て孝となさんや。

子夏が孝のことをおたずねした。先生はいわれた、「顔の表情がむつかしい。仕事があれば若いものが骨を折って働き、酒やごはんがあれば年上の人にすすめる、さてそんな[形のうえの]ことだけで孝といえるのかね」


02-09

子曰、吾與囘言終日、不違如愚、退而省其私、亦足以發、囘也不愚、

子の曰わく、吾れ回と言うこと終日、違(たが)わざること愚なるが如し。退きて其の私を省(み)れば、亦た以て発するに足れり。回や愚ならず。

先生がいわれた、「回と一日中、話をしても、全く従順で(異説も反対もなく)まるで愚かのようだ。だが引き下がってからそのくつろいださまを観ると、やはり[私の道を]発揮するのに十分だ。回は愚かではない。」


02-10

子曰、視其所以、觀其所由、察其所安、人焉捜*哉、人焉捜*哉、

子の曰わく、其の以(な)す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉(いずく)んぞ捜(かく)さんや、人焉んぞ捜さんや。

先生がいわれた、「その人のふるまいを見、その人の経歴を観察し、その人の落ちつきどころを調べたなら、[その人柄は]どんな人でも隠せない。どんな人でも隠せない」


02-11

子曰、温故而知新、可以爲師矣、

子の曰わく、故きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし。

先生がいわれた、「古いことに習熟して新しいこともわきまえれば、教師となれるであろう」


02-12

子曰、君子不器、

子の曰わく、君子は器(うつわ)ならず。

先生がいわれた「君子は器(うつわ)ものではない。[その働きは限定されなくて広く自由であるべきだ。]」


02-13

子貢問君子、子曰、先行其言、而後從之、

子貢、君子を問う。子の曰わく、先ず其の言を行い、而して後(のち)にこれに従う。

子貢が君子のことをおたずねした。先生はいわれた、「まずその言おうとすることを実行してから、あとでものをいうことだ。」


02-14

子曰、君子周而不比、小人比而不周、

子の曰わく、君子は周して比せず、小人は比して周せず。

先生がいわれた、「君子はひろく親しんで一部の人におもねることはないが、小人は一部でおもねりあってひろく親しまない。」


02-15

子曰、學而不思則罔、思而不學則殆、

子の曰わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。

先生がいわれた、「学んでも考えなければ[ものごとは]はっきりしない。考えても学ばなければ[独断に陥って]危険である。」


02-16

子曰、攻乎異端、斯害也已矣、

子の曰わく、異端を攻(おさ)むるは斯れ害のみ。

先生がいわれた、「聖人の道と違ったことを研究するのは、ただ害があるだけだ」


02-17

子曰、由、誨女知之乎、知之爲知之、不知爲不知、是知也、

子の曰わく、由よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。是れ知るなり。

先生がいわれた、「由よ、お前に知るということを教えようか。知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする、それが知るということだ」


02-18

子張學干祿、子曰、多聞闕疑、愼言其餘、則寡尤、多見闕殆、愼行其餘、則寡悔、言寡尤行寡悔、祿在其中矣、

子張、禄を干(もと)めんことを学ぶ。子の曰わく、多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎みて其の余りを言えば、則ち尤(とがめ)寡(すく)なし。多く見て 殆(あや)うきを闕き、慎みて其の余りを行えば、則ち悔い寡なし。言に尤寡なく行(こう)に悔寡なければ、禄は其の中に在り。

子張が禄を取るためのことを学ぼうとした。先生はいわれた、「たくさん聞いて疑わしいところはやめ、それ以外の[自信の持てる]ことを慎重に口にしていけ ば、あやまちは少なくなる。たくさん見てあやふやなところはやめ、それ以外の[確実な]ことを慎重に実行していけば、後悔は少なくなる。ことばにあやまち が少なく、行動に後悔がなければ、禄はそこに自然に得られるものだ。[禄を得るために特別な勉強などというものはない。]」


02-19

哀公問曰、何爲則民服、孔子對曰、擧直錯諸枉、則民服、擧枉錯諸直、則民不服、

哀公問うて曰わく、何を為さば則ち民服せん。孔子対(こた)えて曰わく、直きを挙げて諸(こ)れを枉(まが)れるに錯(お)けば則ち民服す。枉れるを挙げて諸れを直きに錯けば則ち民服ぜず。

哀公が「どうしたら人民が服従するだろうか。」とおたずねになったので、孔子は答えられた、「正しい人々をひきたてて邪悪な人々の上に位いづけたなら、人民は服従しますが、邪悪な人々をひきたてて正しい人々の上に位づけたなら、人民は服従いたしません。」


02-20

季康子問、使民敬忠以勸、如之何、子曰、臨之以莊則敬、孝慈則忠、擧善而教不能則勸、

季康子問う、民をして敬忠にして以て勧ましむるには、これを如何。子の曰わく、これに臨むに荘を以てすれば則ち敬す、孝慈なれば則ち忠あり、善を挙げて不能を教うれば則ち勧む。

季康子が「人民が敬虔(けいけん)忠実になって仕事に励むようにするには、どうしたものでしょう。」と尋ねたので、先生はいわれた、「荘重な態度で臨んで いけば[人民は]敬虔になります。親に孝行、下々に慈愛深くしていけば[人民は]忠実になります。善を引き立てて才能のない者を教えていけば[人民は]仕 事に励むようになります。」


02-21

或謂孔子曰、子奚不爲政、子曰、書云、孝于惟孝、友于兄弟、施於有政、是亦爲政也、奚其爲爲政、

或るひと孔子に謂いて曰わく、子奚(なん)ぞ政を為さざる。子の曰わく、書に云う、孝なるかな惟(こ)れ孝、兄弟に友(ゆう)に、有政に施すと。是れ亦た政を為すなり。奚ぞ其れ政を為すことを為さん。

或る人が孔子に向かって「先生はどうして政治をなさらないのですか。」といった。先生はいわれた、「書経には『孝行よ、ああ孝行よ。そして兄弟ともむつみ あう。』とある。政治ということにおよぼすなら、それもやはり政治をしているのだ。何もわざわざ政治をすることもなかろう」


02-22

子曰、人而無信、不知其可也、大車無軛*、小車無軛*、其何以行之哉、

子の曰わく、人にして信なくんば、其の可なることを知らざるなり。大車ゲイなく小車ゲツなくんば、其れ何を以てかこれを行(や)らんや。

先生がいわれた、「人として信義がなければ、うまくやっていけるはずがない。牛車に轅(ながえ)のはしの横木がなく、四頭だての馬車に轅のはしの軛(くびき)止めがないのでは[牛馬を繋ぐこともできない]一体どうやって動かせようか。」


02-23

子張問、十世可知也、子曰、殷因於夏禮、所損益可知也、周因於殷禮、所損益可知也、其或繼周者、雖百世亦可知也、

子張問う、十世(じゅっせい)知るべきや。子の曰わく、殷は夏の礼に因る、損益する所知るべきなり。周は殷の礼に因る、損益する所知るべきなり。其れ或は周を継ぐ者は、百世と雖(いえど)も知るべきなり。

子張が「十代さきの王朝のことが分かりましょうか」とおたずねした。先生はいわれた、「殷では[その前の王朝]夏の諸制度を受け継いでいて、廃止したり加 えたりしたあとがよく分かる。周でも殷の諸制度を受け継いでいて、廃止したり加えたりしたあとがよく分かる。[だから]もし周のあとを継ぐものがあれば、 たとえ百代さきまででも分かるわけだ。」


02-24

子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不爲、無勇也、

子の曰わく、其の鬼(き)に非ずしてこれを祭るは、諂(へつら)いなり。義を見て為ざるは勇なきなり。

先生がいわれた、「わが家の精霊でもないのに祭るのは、へつらいである。[本来、祭るべきものではないのだから。]行うべきことを前にしながら行わないのは憶病ものである。[ためらって決心がつかないのだから]」





  巻 第二
  、八いつ第三

03-01

孔子謂季氏、八イツ*舞於庭、是可忍也、孰不可忍也、

孔子、季氏を謂(のたま)わく、八イツ、庭(てい)に舞わす、是れをも忍ぶべくんば、孰(いず)れをか忍ぶべからざらん。

孔子が季氏のことをこういわれた、「八列の舞をその廟(おたまや)の庭で舞わせている。その非礼までも[とがめずに]しんぼうできるなら、どんなことでも辛抱できよう[私には辛抱できない]」


03-02

三家者以雍徹、子曰、相維辟公、天子穆穆、奚取於三家之堂、

三家者(さんかしゃ)、雍(よう)を以て徹す。子の曰わく、相(たす)くるは維(こ)れ辟公(へきこう)、天子穆穆(ぼくぼく)と。奚(なん)ぞ三家の堂に取らん。

三家では[廟(おたまや)の祭りに]雍(よう)の歌で供物をさげていた。先生はいわれた、「[その歌の文句には]『助くるものは諸侯達、天子はうるわしく。』とある。どうして三家の堂に用いられようか。」


03-03

子曰、人而不仁、如禮何、人而不仁、如樂何、

子の曰わく、人にして仁ならずんば、礼を如何。人にして仁ならずんば、楽を如何。

先生がいわれた「人として仁でなければ、礼があってもどうしようぞ。人として仁でなければ楽があってもどうしようぞ」


03-04

林放問禮之本、子曰、大哉問、禮與其奢也寧儉、喪與其易也寧戚、

林放(りんぽう)、礼の本(もと)を問う。子の曰わく、大なるかな問うこと。礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよ。喪は其の易(おさ)めんよりは寧ろ戚(いた)め。

林放が礼の根本についておたずねした。先生はいわれた、「大きいね、その質問は。礼には贅沢であるよりはむしろ質素にし、お弔いには万事整えるよりはむしろ[整わずとも]いたみ悲しむことだ」


03-05

子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也、

子の曰わく、夷狄の君あるは、諸夏の亡きに如かざるなり。

先生がいわれた、「夷狄で君主のあるのは、中国で君主のいないのにも及ばない[中国の文化の伝統はやはり優れている]」


03-06

季氏旅於泰山、子謂冉有曰、女不能救與、對曰、不能、子曰、嗚呼、曾謂泰山不如林放乎、

季氏、泰山に旅す。子、冉有に謂いて曰わく、女(なんじ)救うこと能(あた)わざるか。対(こた)えて曰わく、能わず。子の曰わく、嗚呼(ああ)、曾(すなわ)ち泰山を林放にも如(し)かずと謂(おも)えるか。

季氏が泰山で旅(りょ)の祭りをしようとした。先生が冉有に向かって「お前にはやめさせることができないのか。」といわれると、「できません」と答えたので、先生はいわれた「ああ、泰山が林放にも及ばないと思っているのか」


03-07

子曰、君子無所爭、必也射乎、揖譲而升下、而飮、其爭也君子、

子の曰わく、君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲(ゆうじょう)して升(のぼ)り下(くだ)り、而して飲ましむ。其の争いは君子なり。

先生がいわれた、「君子は何事にも争わない。あるとすれば弓争いだろう。[それにしても]会釈し譲り合って登り降りし、さて[競技が終わると勝者が敗者に]酒を飲ませる。その争いは君子的だ」


03-08

子夏問曰、巧笑倩兮、美目盻*兮、素以爲絢兮、何謂也、子曰、繪事後乎、子曰、起予者商也、始可與言詩已矣、

子夏問うて曰わく、巧笑倩(こうしょうせん)たり、美目ハンたり、素以て絢(あや)を為すとは、何の謂いぞや。子の曰わく、絵の事は素を後(のち)にす。曰わく、礼は後か。子の曰わく、予(わ)れを起こす者は商なり。始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。

子夏が「『笑(え)まい可愛いや口元えくぼ、目元美しぱっちりと、白さで美しさを仕上げたよ』というのは、どういう意味でしょうか。」とおたずねした。先 生は「絵の場合には白い胡粉で後仕上げをする[ようなものだ]。」といわれると、「[まごころがもとで]礼はあとしあげでしょうか。」といった。先生はい われた、「自分を啓発してくれるのは商だよ。それでこそ君と詩を語ることができるね」


03-09

子曰、夏禮吾能言之、杞不足徴也、殷禮吾能言之、宋不足徴也、文献不足故也、足則吾能徴之矣、

子の曰わく、夏の礼は吾れ能くこれを言えども、杞(き)は徴(しるし)とするに足らざるなり。殷の礼は吾れ能くこれを言えども、宋は徴とするに足らざるなり。文献、足らざるが故なり。足らば則ち吾れ能くこれを徴とせん。

先生がいわれた、「夏の礼についてわたしは話すことができるが、[その子孫である]杞(き)の国では証拠が足りない。殷の礼についても私は話すことができ るが、[その子孫である]宋の国でも証拠が足りない。古い記録も賢人も十分ではないからである。もし十分なら私もそれを証拠にできるのだが」


03-10

子曰、蹄*自既灌而往者、吾不欲觀之矣、

子の曰わく、テイ、既に灌してより往(のち)は、吾れこれを観ることを欲せず。

先生がいわれた、「テイの祭りで[鬱鬯(うつちょう=きびの酒を地にそそぐ)]灌の儀式が済んでからあとは、私は見たいと思わない」


03-11

或問蹄*之説、子曰、不知也、知其説者之於天下也、其如示諸斯乎、指其掌、

或るひとテイの説を問う。子の曰わく、知らざるなり。其の説を知る者の天下に於(お)けるや、其れ諸(こ)れを斯(ここ)に示(み)るが如きかと。其の掌を指す。

或る人がテイの祭りの意義をたずねた。先生はいわれた「わからないね。その意義がわかっているほどの人なら、天下のことについても、そら、ここで観るようなものだろうね。」と自分の手のひらを指された。


03-12

祭如在、祭神如神在、子曰、吾不與祭、如不祭、

祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。子の曰わく、吾れ祭に与(あずか)らざれば、祭らざるが如し。

ご先祖のお祭りにはご先祖が居られるようにし、神々のお祭りには神々が居られるようにする。先生はいわれた「私は[何かの事故で]お祭りにたずさわらないと、お祭りをしなかったような気がする」


03-13

王孫賈問曰、與其媚於奧、寧媚於竈、何謂、子曰、不然、獲罪於天、無所祷也、

王孫賈問うて曰わく、其の奧(おう)に媚びんよりは、寧ろ竈(そう)に媚びよとは、何の謂いぞや。子の曰わく、然らず。罪を天に獲(う)れば、祷(いの)る所なきなり。

王孫賈(おうそんか)が「『部屋の神の機嫌とりより、かまどの神の機嫌をとれ。』と[いう諺]はどういうことでしょうか」と尋ねた。[衛(えい)の君主よ りも、権臣である自分の機嫌をとれ、というなぞである。]先生はいわれた、「[その諺は]間違っています。[かまどの神や部屋の神よりも、最高の]天に対 して罪をおかしたなら、どこにも祈りようはないものです」


03-14

子曰、周監於二代、郁郁乎文哉、吾從周、

子の曰わく、周は二代に監(かんが)みて郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな。吾は周に従わん。

先生がいわれた、「周[の文化]は、夏と殷との二代を参考にして、いかにもはなやかに立派だね。私は周に従おう」


03-15

子入大廟、毎事問、或曰、孰謂聚*人之知禮乎、入大廟、毎事問、子聞之曰、是禮也、

子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひとの曰わく、孰(たれ)かスウ人の子(こ)を礼を知ると謂うや、大廟に入りて、事ごとに問う。子これを聞きて曰わく、是れ礼なり。

先生は大廟の中で儀礼を一つ一つ尋ねられた。ある人が「スウの役人の子供が礼を知っているなどと誰がいったんだろう、大廟の中で一つ一つ尋ねている。」といったが、先生はそれを聞くと「それ[そのように慎重にすること]が礼なのだ。」といわれた。


03-16

子曰、射不主皮、爲力不同科、古之道也、

子の曰わく、射は皮を主とせず。力の科を同じくせざるが為なり。古(いにし)えの道なり。

先生がいわれた、「弓の礼では的を第一とはしない。[各人の]能力には等級の違いがあるからで、[そういうのが]古代のやり方である」


03-17

子貢欲去告朔之餽*羊、子曰、賜也、女愛其羊、我愛其禮、

子貢、告朔(こくさく)の餽*羊(きよう)を去らんと欲す。子の曰わく、賜(し)や、女(なんじ)は其の羊を愛(おし)む、我れは其の礼を愛む。

子貢が[月ごとの朔(はじめ)を宗廟に報告する]告朔の礼[が魯の国で実際には行なわれず、羊だけが供えられているのをみて、そ]のいけにえの羊をやめよ うとした。先生はいわれた。「賜よ、お前はその羊を惜しがっているが、私にはその礼が惜しい。[羊だけでも続けていけばまた礼の復活するときもあろう]


03-18

子曰、事君盡禮、人以爲諂也、

子の曰わく、君に事(つか)うるに礼を尽くせば、人以て諂(へつら)えりと為す。

先生がいわれた、「主君にお仕えして礼を尽くすと、人々はそれを諂いだという。」


03-19

定公問、君使臣、臣事君、如之何、孔子對曰、君使臣以禮、臣事君以忠、

定公問う、君、臣を使い、臣、君に事(つか)うること、これを如何。孔子対(こた)えて曰わく、君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす。

定公が「主君が臣下を使い、臣下が主君に仕えるには、どのようにしたものだろう。」とお訊ねになったので、孔先生は答えられた、「主君が臣下を使うには礼によるべきですし、臣下が主君に仕えるには忠によるべきです。」


03-20

子曰、關雎、樂而不淫、哀而不傷、

子の曰わく、關雎(はかんしょ)楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず。

先生がいわれた、「關雎(かんしょ)の詩は、楽しげであってもふみはずさず、悲しげであっても[心身を]いためることがない。[哀楽ともによく調和を得ている]」


03-21

哀公問社於宰我、宰我對曰、夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗、曰、使民戰栗也、子聞之曰、成事不説、遂事不諌、既徃不咎、

哀公、社を宰我(さいが)に問う。宰我、対(こた)えて曰わく、夏后(かこう)氏は松を以てし、殷人は柏(はく)を以てし、周人は栗(りつ)を以てす。曰 わく、民をして戦栗(せんりつ)せしむるなり。子これを聞きて曰わく、成事(せいじ)は説かず、遂事(すいじ)は諌(いさ)めず、既往(きおう)は咎め ず。

哀公が[樹木を神体とする土地のやしろ]社のことを宰我におたずねになったので、宰我は「夏の君は松を使い、殷の人は柏(ひのき)を使い、周の人は栗を 使っています。[周の栗は社で行う死刑によって]民衆を戦慄させるという意味でございます」と答えた。先生はそれを聞くといわれた、「できたことは言うま い、したことは諌(いさ)めまい。[これからはこんな失言をくりかえさぬように。]」


03-22

子曰、管仲之器小哉、或曰、管仲儉乎、曰、管氏有三歸、官事不攝、焉得儉乎、曰然則管仲知禮乎、曰、邦君樹塞門、管氏亦樹塞門、邦君爲兩君之好、有反沾*、管氏亦有反沾*、管氏而知禮、孰不知禮、

子の曰わく、管仲(かんちゅう)の器は小なるかな。或るひとの曰わく、管仲は倹なるか、曰わく、管氏に三帰あり、官の事は摂(か)ねず、焉(いずく)んぞ 倹なるを得ん。然らば則ち管仲は礼を知るか。曰わく、邦君(ほうくん)、樹(じゅ)して門を塞(ふさ)ぐ、管氏も亦た樹して門を塞ぐ。邦君、両君の好(よ しみ)を為すに反沾*(はんてん)あり、管氏も亦た反沾あり。管氏にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん。

先生がいわれた、「管仲の器は小さいね。」ある人が「管仲は倹約だったのですか。」というと、「管氏には三つの邸宅があり、家臣の事務もかけ持ちなしで [それぞれ専任をおいて]させていた。どうして倹約といえようか。」「それでは管仲は礼をわきまえていたのですか。」「国君は目隠しの塀を立てて門をふさ ぐが、管氏も[陪臣の身でありながら]やはり塀を立てて門の目隠しにした。国君が二人で修好するときには、盃をもどす台を設けるが、管氏にもやはり盃をも どす台があった。管氏でも礼をわきまえているなら、礼をわきまえないものなど誰もなかろう。」


03-23

子語魯大師樂曰、樂其可知已、始作翕如也、從之純如也、徼*如也、繹如也、以成、

子、魯の大師に楽を語りて曰わく、楽は其れ知るべきのみ、始めて作(おこ)すに翕如(きゅうじょ)たり。これを従(はな)ちて純如たり、徼*如(きょうじょ)たり、繹如(えきじょ)たり。以て成る。

先生が音楽のことを魯の楽官長にはなされた、「音楽はまあ分かりやすいものです。起こしはじめは[金属の打楽器で]盛んです。それを放つと[諸楽器が]よく調和し、はっきりし、ずっと続いていって、そうして一節が終わります」


03-24

儀封人請見、曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也、從者見之、出曰、二三子何患者於喪乎、天下之無道也久矣、天將以夫子爲木鐸、

儀の封人(ふうじん)、見(まみ)えんことを請う。曰わく、君子の斯(ここ)に至るや、吾れ未だ嘗(かつ)て見ることを得ずんばあらざるなり。従者これを 見えしむ。出でて曰わく、二三子、何ぞ喪(そう)することを患(うれ)えんや。天下の道なきや久し。天、将に夫子(ふうし)を以て木鐸と為さんとす。

儀の国境役人が[先生に]お会いしたいと願った。「ここに来られた君子方はね、私はまだお目にかかれなかったことはないのですよ。」という。供のものが会 わせてやると、退出してからこういった、「諸君、さまよっているからといってどうして心配することがありましょう。この世に道が行なわれなくなって、久し いことです。天の神様はやがてあの先生をこの世の指導者になされましょう。」



03-25

子謂韶、盡美矣、叉盡善也、謂武、盡美矣、未盡善也、

子、韶(しょう)を謂(のたま)わく、美を尽くせり、又た善を尽せり。武を謂わく、美を尽せり、未だ善を尽くさず。

先生が韶の音楽を批評された、「美しさは十分だし、さらに善さも十分だ。」[また]武の音楽を批評された、「美しさは十分だが、善さはまだ十分でない。」


03-26

子曰、居上不寛、爲禮不敬、臨喪不哀、吾何以觀之哉、

子の曰わく、上(かみ)に居て寛(かん)ならず、礼を為して敬せず、喪に臨みて哀しまずんば、吾れ何を以てかこれを観んや。

先生がいわれた、「人の上に立ちながら寛容でなく、礼を行いながらつつしみがなく、葬(とむらい)に行ながら哀しまないというのでは、どこを見どころにしたものか、私には分からない」

  、里仁第四

04-01

子曰、里仁爲美、擇不處仁、焉得知、

子の曰わく、仁に里(お)るを美(よ)しと為す。択(えら)んで仁に処(お)らずんば、焉(いずく)んぞ知なることを得ん。

先生がいわれた、「仁に居るのが立派なことだ。あれこれ選びながら仁をはずれるのでは、どうして智者といえようか」


04-02

子曰、不仁者不可以久處約、不可以長處樂、仁者安仁、知者利仁、

子の曰わく、不仁者(ふじんしゃ)は以て久しく約に処(お)るべからず。以て長く楽しきに処るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。

先生がいわれた、「仁でない人はいつまでも苦しい生活にはおれないし、また長く安楽な生活にもおれない。[悪いことをするか、安楽になれてしまう。]仁の人は仁に落ち着いているし、智の人は仁を利用する。[深浅の差はあるが、どちらも守りどころがあって動かない。]」


04-03

子曰、惟仁者能好人、能惡人

子の曰わく、惟(た)だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。

先生がいわれた、「ただ仁の人だけが、[私心がないから、本当に]人を愛することもでき、人を憎むこともできる」


04-04

子曰、苟志於仁矣、無惡也、

子の曰わく、苟(まこと)に仁に志せば、悪しきこと無し。

先生がいわれた、「本当に仁を目指しているのなら、悪いことは無くなるものだ」


04-05

子曰、富與貴、是人之所欲也、不以其道得之、不處也、貧與賎、是人之所惡也、不以其道得之、不去也、君子去仁、惡乎成名、君子無終食之間違仁、造次必於是、巓沛必於是、

子の曰わく、富と貴(たっと)きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てこれを得ざれば、処(お)らざるなり。貧しきと賎しきとは、是れ人の悪くむ所な り。其の道を以てこれを得ざれば、去らざるなり。君子、仁を去りて悪(いずく)にか名を成さん。君子は食を終うる間も仁に違うことなし。造次(ぞうじ)に も必ず是(ここ)に於てし、巓沛(てんはい)にも必ず是に於いてす。

先生がいわれた、「富と貴い身分とはこれは誰でも欲しがるものだ。しかしそれ相当の方法[正しい勤勉や高潔な人格]で得たものでなければ、そこに安住しな い。貧乏と賎しい身分とはこれは誰でも嫌がるものだ。しかしそれ相当の方法[怠惰や下劣な人格]で得たのでなければ、それも避けない。君子は人徳をよそに してどこに名誉を全うできよう。君子は食事をとるあいだも仁から離れることがなく、急変のときもきっとそこに居り、ひっくり返ったときでもきっとそこに居 る」


04-06

子曰、我未見好仁者惡不仁者、好仁者無以尚之、惡不仁者其爲仁矣、不使不仁者加乎其身、有能一日用其力於仁矣乎、我未見力不足者、蓋有之乎、我未之見也

子の曰わく、我れ未だ仁を好む者、不仁を悪くむ者を見ず。仁を好む者は、以てこれに尚(くわ)うること無し。不仁を悪くむ者は、其れ仁を為す、不仁者をし て其の身に加えしめず。能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざる者を見ず。蓋(けだ)しこれ有らん、我れ未だこれを見ざるなり。

先生がいわれた、「私は、未だ仁を好む人も不仁を憎む人も見たことがない。仁を好む人はもうそれ以上のことはないし、不仁を憎む人もやはり仁を行ってい る、不仁の人を我が身に影響させないからだ。もしよく一日の間でも、その力を仁のために尽す者があったとしてごらん、力の足りない者など、私は見たことが ない、あるいは[そうした人も]いるかも知れないが・・・・、私は未だ見たことがないのだ」


04-07

子曰、人之過也、各於其黨、觀過斯知仁矣、

子の曰わく、人の過(あやま)つや、各々其の党(たぐい)に於いてす。過ちを観て斯に仁を知る。

先生がいわれた、「人の過ちというものは、それぞれの人物の種類に応じておかす。過ちの内容を観れば仁かどうかが分かる」


04-08

子曰、朝聞道、夕死可矣、

子の曰わく、朝(あした)に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。

先生がいわれた、「朝[正しい真実の]道がきけたら、その晩に死んでもよろしいね」


04-09

子曰、士志於道、而恥惡衣惡食者、未足與議也、

子の曰わく、士、道に志(こころざ)して、悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与(とも)に議(はか)るに足らず。

先生がいわれた、「道を目指す士人でいて粗衣粗食を恥じるような者は、ともに語るに足らない」


04-10

子曰、君子之於天下也、無適也、無莫也、義之與比、

子の曰わく、君子の天下に於けるや、適も無く、莫(ばく)も無し。義にこれ与(とも)に比(した)しむ。

先生がいわれた、「君子が天下のことに対するには、さからうこともなければ、愛着することもない。[主観を去って]ただ正義に親しんでゆく」


04-11

子曰、君子懷徳、小人懷土、君子懷刑、小人懷惠、

子の曰わく、君子は徳を懐(おも)い、小人は土(ど)を懐う。君子は刑を懐い、小人は恵を懐う。

先生がいわれた「君子は道徳を思うが、小人は土地を思う。君子は法則を思うが、小人は恩恵を思う」


04-12

子曰、放於利而行、多怨、

子の曰わく、利に放(よ)りて行えば、怨み多し。

先生がいわれた、「利益ばかりにもたれて行動をしていると、怨まれることが多い」


04-13

子曰、能以禮讓爲國乎、何有、不能以禮讓爲國、如禮何、

子の曰わく、能く礼譲(れいじょう)を以て国を為(おさ)めんか、何か有らん。能く礼譲を以て国を為めずんば、礼を如何。

先生がいわれた「譲りあう心で国を治めることができたとしよう、何の[難しい]ことがあろう。譲り合う心で国を治めることができないなら、礼の定めがあってもどうしようぞ。」


04-14

子曰、不患無位、患所以立、不患莫己知、求爲可知也、

子の曰わく、位なきことを患(うれ)えず、立つ所以(ゆえん)を患う。己を知ること莫(な)きを患えず、知らるべきことを為すを求む。

先生がいわれた「地位のないことを気にかけないで、地位を得るための[正しい]方法を気にかけることだ。自分を認めてくれる人がいないことを気にかけないで、認められるだけのことをしようと勤めることだ」


04-15

子曰、參乎、吾道一以貫之哉、曾子曰、唯、子出、門人問曰、何謂也、曾子曰、夫子之道、忠恕而已無、

子の曰わく、参(しん)よ、吾が道は一(いつ)以(もっ)てこれを貫く。曾子の曰わく、唯(い)。子出ず。門人問うて曰わく、何の謂いぞや。曾子の曰わく、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。

先生がいわれた「参(しん)よ、わが道は一つのことで貫かれている。」曾子は「はい。」といわれた。先生が出て行かれると、門人が訊ねた、「どういう意味でしょうか」曾子はいわれた、「先生の道は忠恕のまごころだけです」


04-16

子曰、君子喩於義、小人喩於利、

子の曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る。

先生がいわれた、「君子は正義に明るく、小人は利益に明るい。」


04-17

子曰、見賢思齊焉、見不賢而内自省也、

子の曰わく、賢(けん)を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる。

先生がいわれた、「すぐれた人を見れば同じようになろうと思い、つまらない人を見たときには吾と我が心に反省することだ」


04-18

子曰、事父母幾諌、見志不從、叉敬不違、勞而不怨、

子の曰わく、父母に事(つか)うるには幾(ようや)くに諌(いさ)め、志しの従わざるを見ては、又た敬して違(たが)わず、労して怨みず。

先生がいわれた、「父母に仕えて[その悪いところ認めたときに]おだやかに諌め、その心が従いそうにないと分かれば、さらにつつしみ深くしてさからざず、心配はするけれども怨みには思わないことだ。」


04-19

子曰、父母在、子不遠遊、遊必有方、

子の曰わく、父母在(いま)せば、遠く遊ばす。遊ぶこと必ず方(ほう)あり。

先生がいわれた「父母のおられる間は、遠くへは旅をしないように。旅をするにも必ずでたらめをしないことだ。」


04-20

子曰、三年無改於父之道、可謂孝矣、

子の曰わく、三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし。

先生がいわれた「[父が死んでから]三年の間そのやりかたを改めないのは、孝行だといえる」


04-21

子曰、父母之年、不可不知也、一則以喜、一則以懼、

子の曰わく、父母の年は知らざるべからず。一は則ち以て喜び、一は則ち以て懼(おそ)れる。

先生がいわれた、「父母の年齢は知っていなければならない。一つはそれで[長生きを]喜び、一はそれで[老い先を]気づかうのだ」


04-22

子曰、古者、言之不出、恥躬之不逮也、

子の曰わく、古者(こしゃ)、言をこれ出(い)ださざるは、躬(み)の逮(およ)ばざるを恥じてなり。

先生がいわれた、「昔の人が言葉を[軽々しく]口にしなかったのは、実践がそれに追い付けないことを恥じたからだ。」


04-23

子曰、以約失之者、鮮矣、

子の曰わく、約を以てこれを失する者は、鮮なし。

先生がいわれた、「つつましくしていて失敗するような人は、ほとんど無い」


04-24

子曰、君子欲訥於言、而敏於行、

子の曰わく、君子は言に訥(とつ)にして、行(こう)に敏ならんと欲す。

先生がいわれた、「君子は、口を重くしていて実践には敏捷でありたいと、望む。」


04-25

子曰、徳不孤、必有鄰、

子の曰わく、徳は孤ならず。必らず隣あり。

先生がいわれた、「道徳は孤立しない。きっと親しい仲間ができる」


04-26

子游曰、事君數斯辱矣、朋友數斯疎矣、

子游が曰わく、君に事(つか)うるに數(しばしば)すれば、斯(ここ)に辱(はずか)しめられ、朋友に數すれば、斯に疎(うと)んぜらる。

子游がいった、「君にお仕えしてうるさくすると[いやがられて君から]恥辱をうけることになるし、友達にもうるさくすると疎遠にされるものだ」


 巻 第三
  、公冶長第五

05-01

子謂公冶長、可妻也、雖在縲紲之中、非其罪也、以其子妻之、

子、公冶長を謂わく、妻(めあ)わすべきなり。縲紲(るいせつ)の中(うち)に在りと雖(いえ)ども、其の罪に非らざるなりと。其の子(こ)を以てこれに妻わす。

先生は公冶長(こうやちょう)のことを「妻どりさせてよい。獄中につながれたことはあったが、彼の罪ではなかった」といわれ、そのお嬢さんをめあわせられた。


05-02

子謂南容、邦有道不癈、邦無道免於刑戮、以其兄之子妻之、

子、南容を謂わく、邦に道あれば廃(す)てられず、邦に道なければ刑戮に免れんと。其の兄の子(こ)を以てこれに妻(めあ)わす。

先生は南容のことを「国家に道のあるときはきっと用いられ、道の無いときにも刑死にふれることはない。」といわれ、その兄さんのお嬢さんをめあわされた。


05-03

子謂子賎、君子哉若人、魯無君子者、斯焉取斯、

子、子賎を謂わく、君子なるかな、若(かくのごと)き人。魯に君子なかりせば、斯れ焉(いず)くにか斯れを取らん。

先生は子賎(しせん)のことをこういわれた、「君子だね、こうした人物は、魯に君子がいなかったら、この人もどこからその徳を得られたろう」


05-04

子貢問曰、賜也何如、子曰、女器也、曰、何器也、曰、瑚嗹*也、

子貢、問うて曰わく、賜(し)や何如。子の曰わく、女(なんじ)は器なり。曰わく、何の器ぞや。曰わく、瑚嗹*なり。

子貢がおたずねして、「賜(し)[この私]などはどうでしょうか」というと、先生は「お前は器だ」といわれた。「何の器ですか。」というと、「[宗廟(おおたまや)のお供えを盛る貴重な]瑚嗹の器だ。」といわれた。


05-05

或曰、雍也、仁而不佞、子曰、焉用佞、禦人以口給、屡憎於人、不知其仁也、焉用佞也、

或るひとの曰わく、雍や、仁にして佞(ねい)ならず。子の曰わく、焉(いずく)んぞ佞を用いん。人に禦(あた)るに口給(こうきゅう)を以てすれば、屡々(しばしば)人に憎まる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。

或る人が「雍は、仁だが弁が立たない[惜しいことだ]。」といったので、先生はいわれた、「どうして弁の立つ必要があろう。口先の機転で人をおしとめているのでは、人から憎まれがちなものだ。彼が仁かどうかは分からないが、どうして弁の立つ必要があろう」


05-06

子使漆雕開仕、對曰、吾斯之未能信、子説、

子、漆雕開(しつちょうかい)をして仕えしむ。対(こた)えて曰わく、吾れ斯れをこれ未だ信ずること能わず。子説(よろこ)ぶ。

先生が漆雕開を仕官させようとされたところ、答えて「私はそれに未だ自信が持てません」といった。先生は[その向学心のあついのを]喜ばれた。


05-07

子曰、道不行、乘桴浮于海、從我者其由也與、子路聞之喜、子曰、由也、好勇過我、無所取材、

子の曰わく、道行なわれず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従わん者は、其れ由(ゆう)なるか。子路(しろ)これを聞きて喜ぶ。子の曰わく、由や、勇を好むこと我れに過ぎたり。材を取る所なからん。

先生がいわれた、「道が行なわれない、[いっそ]いかだに乗って海に浮かぼう。私についてくるものは、まあ由かな。」子路がそれを聞いて嬉しがったので、先生はいわれた「由よ、勇ましいことを好きなのは私以上だが、さていかだの材料はどこにも得られない。」


05-08

孟武伯問、子路仁乎、子曰、不知也、叉問、子曰、由也、千乘之國、可使治其賦也、不知其仁也、求也何如、子曰、求也、千室之邑、百乘之家、可使爲之宰也、不知其仁也、赤也何如、子曰、赤也、束帶立於朝、可使與賓客言也、不知其仁也、

孟武伯(もうぶはく)問う、子路、仁なりや。子の曰わく、知らざるなり。又た問う。子の曰わく、由や、千乗の国、其の賦(ふ)を治めしむべし、其の仁を知 らざるなり。求や何如。子の曰わく、求や、千室の邑(ゆう)、百乗の家、これが宰(さい)たらしむべし、其の仁を知らざるなり。赤(せき)や何如。子の曰 わく、赤や、束帯して朝(ちょう)に立ち、賓客と言わしむべし、其の仁を知らざるなり。

孟武伯が訊ねた、「子路は仁ですか」先生は「分かりません」といわれた。さらに訊ねたので、先生はいわれた、「由は、大諸侯の国でその軍用の収入をきりも りさせることはできますが、仁であるかどうかは分かりません」「求はどうでしょうか」先生はいわれた、「求は千戸の町や大家老の家でその長官にならせるこ とはできますが、仁であるかどうかは分かりません」「赤はどうでしょうか」先生はいわれた「赤は、礼服をつけ朝廷に立って客人がたと応対させることはでき ますが、仁であるかどうかは分かりません。」


05-09

子謂子貢曰、女與囘也孰愈、對曰、賜也何敢望囘、囘也聞一以知十、賜也聞一以知二、子曰、弗如也、吾與女弗如也、

子、子貢に謂いて曰わく、女(なんじ)と回と孰(いず)れか愈(まさ)れる。対(こた)えて曰わく、賜(し)や、何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞きて以て十を知る。賜や一を聞きて以て二を知る。子の曰わく、如(し)かざるなり。吾と女と如かざるなり。

先生が子貢に向かっていわれた、「お前と回とは、どちらが勝れているか。」お答えして「賜(し)[この私]などは、どうして回を望めましょう。回は一を聞 いてそれで十をさとりますが、賜などは一を聞いてそれで二が分かるだけです。」先生はいわれた、「及ばないね、私もお前と一緒で及ばないよ」


05-10

宰予晝寝、子曰、朽木不可雕也、糞土之牆、不可朽也、於予與何誅、子曰、始吾於人也、聽其言而信其行、今吾於人也、聽其言而觀其行、於予與改是

宰予、昼寝(ひるい)ぬ。子の曰わく、朽木(きゅうぼく)は雕(ほ)るべからず、糞土(ふんど)の牆(かき)は朽(ぬ)るべからず。予に於てか何ぞ誅 (せ)めん。子の曰わく、始め吾れ人に於けるや、其の言を聴きて其の行(こう)を信ず。今吾れ人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る。予に於てか是れ を改む。

宰予が[怠けて]昼寝をした。先生はいわれた、「腐った木には彫刻ができない。塵芥土のかきねには上塗りできない。予に対して何を叱ろうぞ。[叱ってもし かたがない]」先生は[また]いわれた、「前には私は人に対するのに、言葉を聞いてそれで行いまで信用した。今は私は人に対するのみ、言葉を聞いてさらに 行いまで観察する。予のことで改めたのだ。」


05-11

子曰、吾未見剛者、或對曰、申橙*、子曰、橙*也慾、焉得剛、

子の曰わく、吾れ未(いま)だ剛者を見ず。或るひと対(こた)えて曰わく、申橙*(しんとう)と。子の曰わく、橙(とう)や慾なり。焉(いずく)んぞ剛なることを得ん。

先生が「私は堅強な人物を見たことがない。」といわれた。或る人が答えて「申橙では」というと、先生は云われた、「橙には欲がある。どうして堅強といえよう。」


05-12

子貢曰、我不欲人之加諸我也、吾亦欲無加諸人、子曰、賜也、非爾所及也、

子貢が曰わく、我れ人の諸(こ)れを我に加えんことを欲せざるは、吾れ亦た諸れを人に加うること無からんと欲す。子の曰わく、賜や、爾(なんじ)の及ぶ所に非らざるなり。

子貢がいった、「私は、人が自分にしかけるのを好まないようなことは、私の方でも人にしかけないようにしたい。」先生は云われた「賜よ、お前にできることではない。」


05-13

子貢曰、夫子之文章、可得而聞也、夫子之言性與天道、不可得而聞也已矣、

子貢が曰わく、夫子の文章は、得て聞くべきなり。夫子の性と天道とを言うは、得て聞くべからざるなり。

子貢がいった、「先生の文彩は[だれにも]聞くことができるが、先生が人の性(もちまえ)と天の道理についておっしゃることは、[奥深いことだけに、普通には]とても聞くことができない」


05-14

子路有聞、未之能行、唯恐有聞、

子路、聞くこと有りて、未だこれを行うこと能わざれば、唯だ聞く有らんことを恐る。

子路は、何かを聞いてそれを未だ行えないうちは、さらに何かを聞くことをひたすら恐れた。


05-15

子貢問曰、孔文子何以謂之文也、子曰、敏而好學、不恥下問、是以謂之文也、

子貢問うて曰わく、孔文子、何を以てかこれを文と謂うや。子の曰わく、敏にして学を好み、下問(かもん)を恥じず、是(ここ)を以てこれを文と謂うなり。

子貢がおたずねした、「孔文子は、どうして文という[おくり名]のでしょうか。」先生は云われた、「利発な上に学問好きで、目下の者に問うことも恥じなかった。だから文と云うのだよ」


05-16

子謂子産、有君子之道四焉、其行己也恭、其事上也敬、其養民也惠、其使民也義、

子、子産(しさん)を謂わく、君子の道四つ有り。其の己れを行なうや恭、其の上(かみ)に事(つか)うるや敬、其の民を養うや恵(けい)、其の民を使うや義。

先生が子産のことをこう云われた、「君子の道を四つそなえておられた。その身の振る舞いはうやうやしく、目上にに仕えるにはつつしみ深く、人民を養うには情け深く、人民を使役するには正しいやり方ということだ」


05-17

子曰、晏平仲善與人交、久而人敬之、

子の曰わく、晏平仲、善く人と交わる。久しくしてこれを敬す。

先生がいわれた、「晏平仲は立派に人と交際され、昔なじみになっても[変わりなく]相手を尊敬された」


05-18

子曰、臧文仲居蔡、山節藻セツ*(うだつ)、何如其知也、

子の曰わく、臧文仲(そうぶんちゅう)、蔡を居く。節を山にしセツを藻にす、何如(いかん)ぞ其れ知ならん。

先生がいわれた、「臧文仲は卜(うらな)いに使う大亀甲をしまっていたし、柱の上のますがたに山をほり、梁の上の短い柱に藻を描い[て天子でなければできないことをし]た。どうかな、それで智者だとは。」


05-19

子張問曰、令尹子文、三仕爲令尹、無喜色、三已之、無慍色、舊令尹之政、必以告新令尹、何如也、子曰、忠矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉得仁、崔子弑齊君、 陳文子有馬十乘、棄而違之、至於他邦、則曰、猶吾大夫崔子也、違之、至一邦、則叉曰、猶吾大夫崔子也、違之、何如、子曰、清矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉 得仁、

子張問うて曰わく、令尹子文(れいいんしぶん)、三たび仕えて令尹と為れども、喜ぶ色なし。三たびこれを已(や)めらるとも、慍(いか)れる色なし。旧令 尹の政、必ず以て新令尹に告ぐ。何如(いかん)。子の曰わく、未だ知ならず、焉(いずく)んぞ仁なることを得ん。崔子、斉(せい)の君を弑(しい)す。陳 文子、馬十乗あり、棄ててこれを違(さ)る。他邦に至りて則ち曰わく、猶(な)お吾が大夫崔子がごときなりと。これを違(さ)る。一邦に至りて、則ち又た 曰わく、猶お吾が大夫崔子がごときなりと。これを違る。何如。子の曰わく、清し。曰わく、仁なりや。曰わく、未だ知ならず、焉んぞ仁なることを得ん。

子張がおたずねした、「令尹の子文は、三度仕えて令尹となったが嬉しそうな顔もせず、三度それをやめさせられても怨みがましい顔もせず、前の令尹の政治を 必ず新しい令尹に報告しました。いかがでしょうか。」先生はいわれた、「誠実だね。」「仁でしょうか。」というと、「[仁であるためには智者でなければな らないが、彼は]智者ではない。どうして仁といえよう。」といわれた。「崔子が斉の君を殺したとき、陳文子は四十匹の馬を持っていたが、それを棄てて[斉 の国を]立ち去りました。よその国に行き着くと、『やはりうちの家老の崔子と同じことだ。』といってそこを去り、別の国にゆくと、また『やはりうちの家老 と同じことだ。』といってそこを去りました。いかがでしょうか」先生はいわれた、「清潔だね。」「仁でしょうか。」というと、「智者ではない、どうして仁 といえよう。」といわれた。


05-20

季文子三思而後行、子聞之曰、再思斯可矣、

季文子、三たび思いて而(しか)る後に行う。子、これを聞きて曰わく、再(ふたた)びせば斯れ可なり。

季文子は三度考えてからはじめて実行した。先生はそれを聞かれると、「二度考えたらそれでよろしいよ。」といわれた。


05-21

子曰、寧*武子、邦有道則知、邦無道則愚、其知可及也、其愚不可及也、

子の曰わく、寧武子(ねいぶし)、邦(くに)に道なければ則ち愚。其の知は及ぶべきなり、其の愚は及ぶべからざるなり。

先生がいわれた、「寧武子は、国に道のあるときは智者で、国に道のないときは愚かであった。その智者ぶりはまねができるが、その愚かぶりはまねができない。」


05-22

子在陳曰、歸與歸與、吾黨之小子狂簡、斐然成章、不知所以裁之也、

子、陳に在りて曰わく、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子、狂簡、斐然として章を成す。これを裁する所以(ゆえん)を知らざるなり。

先生は陳の国でいわれた、「帰ろうよ、帰ろうよ。うちの村の若者たちは志が大きく、美しい模様を織りなしてはいるが、どのように裁断したらよいか分からないでいる。[帰って私が指導しよう。]」


05-23

子曰、伯夷叔齊、不念舊惡、怨是用希、

子の曰わく、伯夷・叔齊、旧悪を念(おも)わず。怨み是(ここ)を用(もつ)て希(まれ)なり。

先生がいわれた、「伯夷・叔齊とは、[清廉で悪事を憎んだが]古い悪事をいつまでも心に留めなかった。だから怨まれることも少なかった」


05-24

子曰、孰謂微生高直、或乞醯焉、乞諸其鄰而與之、

子の曰わく、孰(たれ)か微生高(びせいこう)を直(ちょく)なりと謂う。或るひと醯(す)を乞う。諸(こ)れを其の鄰(となり)に乞いてこれを与う。

先生がいわれた、「微生高のことを正直だなどと誰がいうのか。ある人が酢をもらいに行ったら、その隣からもらってきて[むりにうわべをとりつくろって]それを与えた。」


05-25

子曰、巧言令色足恭、左丘明恥之、丘亦恥之、匿怨而友其人、左丘明恥之、丘亦恥之、

子の曰わく、巧言、令色、足恭(すうきょう)なるは、左丘明これを恥ず、丘も亦たこれを恥ず。怨みを匿(かく)して其の人を友とするは、左丘明これを恥ず、丘も亦たこれを恥ず。

先生がいわれた、「ことば上手で顔つきよくあまりにうやうやしいのは、左丘明は恥じとした。丘(きゅう)[私]もやはり恥とする。怨みをかくしてその人と友達になるのは、左丘明は恥とした、丘もやはり恥とする」


05-26

顔淵季路侍、子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘、與朋友共、敝之而無憾、顔淵曰、願無伐善、無施勞、子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之、

顔淵・季路侍(じ)す。子の曰わく、盍(なん)ぞ各々爾(なんじ)の志しを言わざる。子路が曰わく、願わくは車馬衣裘(いきゅう)、朋友と共にし、これを 敝(やぶ)るとも憾(うら)み無けん。顔淵の曰わく、願わくは善に伐(ほこ)ること無く、労を施すこと無けん。子路が曰わく、願わくは子の志しを聞かん。 子の曰わく、老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれを懐(なつ)けん。

顔淵と季路とがおそばにいたとき、先生はいわれた、「それぞれお前達の志望を話してみないか。」子路はいった、「[私の]車や馬や着物や毛皮の外套を友達 と一緒に使って、それが痛んでも、くよくよしないようにありたいものです。」顔淵はいった、「善いことを自慢せず、辛いことを人に押付けないようにありた いものです。」子路が「どうか先生のご志望をお聞かせ下さい」といったので、先生はいわれた、「老人には安心されるように、友達には信ぜられるように、若 者には慕われるようになることだ」


05-27

子曰、已矣乎、吾未見能見其過、而内自訟者也、

子の曰わく、已矣乎(やんぬるかな)。吾れ未だ能く其の過(あやま)ちを見て内に自ら訟(せ)むる者を見ざるなり。

先生がいわれた、「もうおしまいだなあ。自分の過失を認めて吾と我が心に責めることのできる人を、私は見たことがない。」


05-28

子曰、十室十邑、必有忠信如丘者焉、不如丘之好學也、

子の曰わく、十室の邑(ゆう)、必ず忠信、丘が如き者あらん。丘の学を好むに如(し)かざるなり。

先生がいわれた、「十軒ばかりの村里にも、丘(私)くらいの忠信の人はきっといるだろう。丘の学問好きには及ばない[だけだ]」



、雍也第六

06-01

子曰、雍也可使南面、

子の曰わく、雍(よう)や南面せしむべし。

先生がいわれた、「雍は南面させてもよい」

南面=天子や諸侯は南向きで政治をとった。「南面させてもよい」とは立派な政治家になれるとの意味。

06-02

仲弓問子桑伯子、子曰、可也、簡、仲弓曰、居敬而行簡、以臨其民、不亦可乎、居簡而行簡、無乃大簡乎、子曰、雍之言然、

仲弓、子桑伯子を問う。子の曰わく、可なり、簡なり。仲弓が曰わく、敬に居(い)て簡を行い、以て其の民に臨まば、亦た可ならずや。簡に居て簡を行う、乃(すな)わち大簡なること無からんや。子の曰わく、雍の言、然り。

仲弓(ちゅうきゅう)が子桑伯子(しそうはくし)のことをおたずねした。先生は「結構だね、おおようだ。」といわれた。仲弓が「慎み深くいておおように行 い、それでその人民に臨むのなら、いかにも結構ですね。[しかし、]おおように構えておおように行うのでは、余りにおおようすぎるのではないでしょうか」 というと、先生は「雍のことばは正しい」と言われた。


06-03

哀公問曰、弟子孰爲好學、孔子對曰、有顔囘、好學、不遷怒、不貳過、不幸短命死矣、今也則亡、未聞好學者也、

哀公問う、弟子、孰(たれ)か学を好むと為す。孔子対(こた)えて曰わく、顔回なる者あり、学を好む。怒りを遷(うつ)さず、過ちを弐(ふた)たびせず。不幸、短命にして死せり。今や則ち亡(な)し。未だ学を好む者を聞かざるなり。

哀公が「お弟子の中で誰が学問好きですか」とお訊ねになった。孔子は答えられた。「顔回という者がおりまして学問好きでした。怒りにまかせての八つ当たり はせず、過ちを繰り返しませんでした。不幸にして短い寿命で死んでしまって、今ではもうおりません。学問好きという者は[ほかには]聞いたことがありませ ん。」


06-04

子華使於齊、冉子爲其母請粟、子曰、與之釜、請益、曰與之ユ*、冉子與之粟五秉、子曰、赤之適齊也、乘肥馬、衣輕裘、吾聞之也、君子周急不繼富、

子華、斉(せい)に使いす。冉子(ぜんし)、其の母の為めに粟(ぞく)を請う。子の曰わく、これに釜(ふ)を与えよ。益さんことを請う。曰わく、これに ユ*を与えよ。冉子、これに五秉(へい)を与う。子の曰わく、赤の斉に適(ゆ)くや、肥馬に乗りて軽裘(けいきゅう)を衣(き)たり。吾れこれを聞く、君 子は急を周(すく)うて富めるに継がずと。

子華が[先生の用事で]斉に使いに行った。冉子はその[留守宅の]母親のために米を欲しいと願った。先生は「釜の分量だけあげなさい」と言われたので、増 やして欲しいと願うと「ユの分量だけあげなさい」と言われた。冉子は[独断で]五秉の米を届けた。先生は言われた、「赤が斉へ出かけたときは、立派な馬に 乗って軽やかな毛皮を着ていた。私の聞くところでは、君子は困っている者を助けるが金持ちに足しまえはしないものだ」


06-05

原思爲之宰、與之粟九百、辭、子曰、毋、以與爾隣里郷黨乎、

原思(げんし)、これが宰(さい)たり、これに粟(ぞく)九百を与う。辞す。子の曰わく、毋(な)かれ、以て爾(なんじ)が隣里郷党に与えんか。

[先生が魯の司冠(しこう=司法大臣)であられたとき]原思はその家宰(かさい=封地の取締)となったが、九百斗の米を与えられて辞退した。先生は「いやいや、それをお前の隣近所にやるんだね。」と言われた。


06-06

子謂仲弓曰、犂牛之子、赤*且角、雖欲勿用、山川其舎諸、

子、仲弓(ちゅうきゅう)を謂いて曰(わく)、犂牛(りぎゅう)の子、赤*くして且つ角(つの)あらば、用いること勿(な)からんと欲すと雖ども、山川其れ舎(す)てんや。

先生は仲弓のことをこう言われた、「まだらな牛の子でも、赤い毛並みでさらに良い角なら、用いないでおこうと思っても、山川の神々の方でそれを見捨てておこうか[きっと祭祀の供物に抜擢されよう]」


06-07

子曰、囘也、其心三月不違仁、其餘則日月至焉而已矣、

子の曰わく、回や其の心三月(さんがつ)仁に違わず。其の余は則ち日月(ひびつきづき)に至るのみ。

先生が言われた、「回は三月(みつき)も心を仁の徳から離さない。その他の者では一日か一月のあいだ行き付けるだけのことだ。」


06-08

季康子問、仲由可使從政也與、子曰、由也果、於從政乎何有、曰、賜也可使從政也與、子曰、賜也逹、於從政乎何有、曰、求也可使從政也與、子曰、求也藝、於從政乎何有、

季康子、問う、仲由は政に従わしむべきか。子の曰わく、由や果(か)、政に従うに於てか何か有らん。曰わく、賜(し)は政に従わしむべきか。賜や達(た つ)、政に従うに於てか何か有らん。曰わく、求(きゅう)は政に従わしむべきか。曰わく、求や芸あり、政に従うに於てか何か有らん。

季康子が訊ねた、「仲由(=子路)は政治をとらせることができますかな。」先生はいわれた、「由は果断です。政治をとるくらい何でもありません。」「賜 (=子貢)は政治をとらせることができますかな」「賜はものごとに明るい。政治をとるくらい何でもありません」「求(=冉求)は政治をとらせることができ ますかな。」「求は才能が豊かです。政治をとるぐらい何でもありません」


06-09

季氏使閔子騫爲費宰、閔子騫曰、善爲我辭焉、如有復我者、則吾必在文*上矣、

季氏、閔子騫(びんしけん)をして費の宰たらしむ。閔子騫が曰わく、善く我が為に辞せよ。如し我れを復たする者あらば、則ち吾れは必ず文*の上(ほとり)に在あらん。

季氏が閔子騫をその封地である費の町の宰(取締)にしようとした。閔子騫は言った、「私のためにうまくお断り下さい。もし誰か私に勧める者があれば、私はきっと文*水のほとりに行くことでしょう」


06-10

伯牛有疾、子問之、自窓*執其手、曰、亡之、命矣夫、斯人也而有斯疾也、斯人也而有斯疾也、

伯牛(はくぎゅう)、疾(やまい)あり。子、これを問う。窓*より其の手を執りて曰わく、これを亡ぼせり、命(めい)なるかな。斯の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること。

伯牛(=冉耕)が病気になった。先生が見舞われ、窓越しにその手を取られた。「お終いだ。運命だねえ。こんな人でもこんな病気に罹ろうとは、こんな人でもこんな病気に罹ろうとは」


06-11

子曰、賢哉囘也、一箪食、一瓢飮、在陋巷、人不堪其憂、囘也不改其樂、賢哉囘也、

子の曰わく、賢なるかな回や。一箪の食(し)、一瓢(びょう)の飲、陋巷(ろうこう)に在り。人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。

先生が言われた。「偉いもんだね、回は。竹のわりご一杯の飯とひさごのお椀一杯の飲み物で狭い路地の暮らしだ。他人ならその辛さに堪えられないだろうが、回は[そうした貧窮の中でも]自分の楽しみを改めようとはしない。偉いものだね、回は。」


06-12

冉求曰、非不説子之道、力不足也、子曰、力不足者、中道而癈、今女畫、

冉求が曰わく、子の道を説(よろこ)ばざるに非ず。力足らざればなり。子の曰わく、力足らざる者は中道にして癈す。今女(なんじ)は画(かぎ)れり。

冉求が「先生の道を[学ぶことを]うれしく思わないわけではありませんが、力が足りないのです。」と言ったので、先生は言われた、「力の足りない者は[進めるだけ進んで]途中で止めることになるが、今のお前は自分から見切りをつけている。」


06-13

子謂子夏曰、女爲君子儒、無爲小人儒、

子、子夏に謂いて曰わく、女(なんじ)、君子の儒と為れ。小人の儒と為ること無かれ。

先生が子夏に向かって言われた、「お前は君子としての学者に成りなさい。小人の学者にはならないように」


06-14

子游爲武城宰、子曰、女得人焉耳乎、曰、有澹薹滅明者、行不由徑、非公事、未嘗至於偃之室也、

子游、武城の宰たり。子の曰わく、女(なんじ)、人を得たりや。曰わく、澹台滅明(たんだいめつめい)なる者あり、行くに径(こみち)に由らず、公事に非らざれば未だ嘗て偃(えん)の室に至らざるなり。

子游が武城の宰(=取締)となった。先生が「お前、人物は得られただろうか。」と言われると、答えた、「澹台明滅という者がおります。歩くには近道をとらず、公務でないかぎりは決して偃(この長官である私)の部屋にはやって来ません」


06-15

子曰、孟之反不伐、奔而殿、將入門、策其馬曰、非敢後也、馬不進也、

子の曰わく、孟之反(もうしはん)、伐(ほこ)らず。奔(はし)って殿たり。将に門に入らんとす。其の馬に策(むちう)って曰わく、敢て後(おく)れたるに非らず、馬進まざるなり。

先生が言われた、「孟之反は功を誇らない。敗走してしんがりを務めたが、いよいよ[自国の]城門に入ろうとしたとき、その馬を鞭でたたいて『後ろ手を務めた訳ではない。馬が走らなかったのだ』と言った」


06-16

子曰、不有祝鴕*之佞、而有宋朝之美、難乎、免於今之世矣、

子の曰わく、祝鴕*(しゅくだ)の佞(ねい)あらずして宋朝の美あるは、難(かた)いかな、今の世に免がれんこと。

先生が言われた、「祝鴕*(しゅくだ)のような弁説がなくて宋朝のような美貌があるだけなら、難しいことだよ、今の時世を無事に送るのは」


06-17

子曰、誰能出不由戸者、何莫由斯道也、

子の曰わく、誰か能く出ずるに戸(こ)に由らざらん。何ぞ斯の道に由ること莫(な)きや。

先生が言われた、「誰でも出ていくのに戸口を通らなくてもよいものはない。[人として生きて行くのに]どうしてこの道を通るものが居ないのだろうか」


06-18

子曰、質勝文勝質則史、文質彬彬、然後君子、

子の曰わく、質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬(ひんひん)として然る後に君子なり。

先生が言われた、「質朴さが装飾よりも強ければ野人であるし、装飾が質朴より強ければ文書係である。装飾と質朴がうまく溶け合ったこそ、はじめて君子だ」


06-19

子曰、人之生也直、罔之生也、幸而免、

子の曰わく、人の生くるは直(なお)し。これを罔(し)いて生くるは、幸(さいわい)にして免ぬがるるなり。

先生が言われた、「人が生きているのは真っ直ぐだからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」


06-20

子曰、知之者不如好之者、好之者不如樂之者、

子の曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

先生が言われた、「知っているというのは好むのには及ばない。好むというのは楽しむのには及ばない」


06-21

子曰、中人以上、可以語上也、中人以下、不可以語上也、

子の曰わく、中人(ちゅうじん)以上には、以て上(かみ)を語(つ)ぐべきなり。中人以下には、以て上を語ぐべからざるなり。

先生が言われた、「中以上の人には上のことを話してもよいが、中以下の人には上のことを話せない。[人を教えるには相手の能力によらねばならない]」


06-22

樊遅問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣、

樊遅(はんち)、知を問う。子の曰わく、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。曰わく、仁者は難きを先にして獲るを後にす。仁と謂うべし。

樊遅が智のことをお訊ねすると、先生は言われた、「人としての正しい道を励み、神霊には大切にしながらも遠ざかっている、それが智といえることだ。」仁のことをお訊ねすると、言われた、「仁の人は難事を先にして利益は後のことにする、それが仁といえることだ」


06-23

子曰、知者樂水、仁者樂山、知者動、仁者静、知者樂、仁者壽、

子の曰わく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。

先生が言われた、「智の人は[流動的だから]水を楽しみ、仁の人は[安らかにゆったりしているから]山を楽しむ。智の人は動き、仁の人は静かである。智の人は楽しみ、仁の人は長生きをする。」


06-24

子曰、齊一變至於魯、魯一變至於道、

子の曰わく、斉、一変せば魯に至らん。魯、一変せば道に至らん。

先生が言われた、「斉の国はちょっと変われば魯のようになれよう。魯の国はちょっと変われば道[理想的な道徳政治]に行き着けよう」


06-25

子曰、觚不觚、觚哉、觚哉、

子の曰わく、觚(こ)觚ならず。觚ならんや、觚ならんや。

先生が言われた、「[飲酒の礼で觚の盃を使うのは、觚すなわち寡(すくな)い酒量のためであるのに、このごろでは大酒になって]觚が觚でなくなった。これでも觚であろうか。觚であろうか」


06-26

宰我問曰、仁者雖告之曰井有仁者焉、其從之也、子曰、何爲其然也、君子可逝也、不可陥也、可欺也、不可罔也、

宰我、問うて曰わく、仁者はこれに告げて、井(せい)に仁ありと曰(い)うと雖(いえど)も、其れこれに従わんや。子の曰わく、なんすれぞ其れ然らん。君子は逝かしむべきも、陥(おとしい)れるべからざるなり。欺くべきも、罔(し)うべからざるなり。

宰我がお訊ねして言った、「仁の人は井戸の中に仁があると言われたとしたら、やはりそれについて行きますか。」先生はいわれた、「どうしてそんなことがあ ろうか。君子は[そばまで]行かせることはできても、[井戸の中まで]落ち込ませることはできない。ちょっと騙すことはできても、どこまでも眩ますことは できない」


06-27

子曰、君子博學於文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫、

子の曰わく、君子、博く文を学びて、これを約するに礼を以てせば、亦た以て畔(そむ)かざるべきか。

先生がいわれた、「君子はひろく書物を読んで、それを礼の実践でひきしめていくなら、道にそむかないでおれるだろうね」


06-28

子見南子、子路不説、夫子矢之曰、予所否者、天厭之、天厭之、

子、南子を見る。子路説(よろこ)ばず。夫子(ふうし)これに矢(ちか)って曰わく、予(わ)が否(すまじ)き所の者は、天これを厭(た)たん。天これを厭たん。

先生が南子にあらわれた。子路はおもしろくなかった。先生は誓いをされて「自らによくないことがあれば、天が見捨てるであろう、天が見捨てるであろう。」

南子=衛の霊公の夫人。不品行の評判が高かったので、子路はこの会見に不機嫌であった。


06-29

子曰、中庸之爲徳也、其至矣乎、民鮮久矣、

子の曰わく、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。

先生が言われた、「中庸の道徳としての価値は、いかにも最上だね。だが人民の間にとぼしくなって久しいことだ。」

敧器(きき、傾いた器)または宥坐の器(ゆうざのき)



「孔子、敧器を観るの図」明代。著者未詳。孔子故里博物館蔵。
敧器に水が入っていない時は傾き、一杯の時はひっくり返る。 
水がほどよく入っている時はまっすぐになる。        
「孔子家語」「三恕」にある中庸を説いた故事を絵に表した図 

 


06-30

子貢曰、如能博施於民、而能濟衆者、何如、可謂仁乎、子曰、何事於仁、必也聖乎、尭舜其猶病諸、夫仁者己欲立而立人、己欲逹而逹人、能近取譬、可謂仁之方也已、

子貢が曰わく、如(も)し能く博(ひろ)く民に施して能く衆を済(すく)わば、何如(いかん)。仁と謂うべきか。子の曰わく、何ぞ仁を事とせん。必らずや 聖か。尭舜も其れ猶(な)お諸(こ)れを病めり。夫(そ)れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ達っせんと欲して人を達す。能く近く取りて譬(たと) う。仁の方(みち)と謂うべきのみ。

子貢が[仁のことをお訊ねして]「もし人民にひろく施しができて多くの人が救えるというのなら、いかがでしょう、仁と言えましょうか」といった。先生はい われた、「どうして仁どころのことだろう、強いて言えば聖だね。尭や舜でさえ、なおそれを悩みとされた。そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立 たせてやり、自分が行き着きたいと思えば人を行き着かせてやって[他人のことでも自分の]身近にひきくらべることができる、[そういうのが]仁のてだてと 言えるだろう」


 巻 第四
  、述而第七

07-01

子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭、

子の曰わく、述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。竊(ひそ)かに我が老彭(ろうほう)に比す。

先生が言われた、「[古いことに基づいて]述べて創作はせず、むかしのことを信じて愛好する。[そいした自分を]こっそりわが老彭(=殷王朝の賢大夫)の[態度]にも比べている」


07-02

子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦、何有於我哉、

子の曰わく、黙してこれを識(しる)し、学びて厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まず。何か我れに有らんや。

先生が言われた、「黙っていて覚えておき、学んで飽きることなく、人に教えて怠らない。[それぐらいは]私にとってなんでもない」


07-03

子曰、徳之不脩也、學之不講也、聞義不能徙也、不善不能改也、是吾憂也、

子の曰わく、徳の脩めざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙(うつ)る能(あた)わざる、不善の改むる能わざる、是れ吾が憂いなり。

先生が言われた、「道徳を修めないこと、学問を習わないこと、正義を聞きながらついて行けないこと、善くないのに改められないこと、そんなになるのが私の心配事である。」


07-04

子之燕居、申申如也、夭夭如也、

子の燕居(えんきょ)、申申如(しんしんじょ)たり、夭夭如(ようようじょ)たり。

先生のくつろぎの有り様は、伸びやかであり、にこやかである。


07-05

子曰、甚矣、吾衰也、久矣、吾不復夢見周公也、

子の曰わく、甚だしいかな、吾が衰えたるや。久し、吾れ復た夢に周公を見ず。

先生が言われた、「ひどいものだね、私の衰えも。久しいことだよ、私がもはや周公を夢にみなくなってから。」



07-06

子曰、志於道、據於徳、依於仁、游於藝、

子の曰わく、道に志し、徳に依り、仁に依り、芸に游(あそ)ぶ。

先生が言われた、「正しい道を目指し、[我が身に修めた]徳を根拠とし、[諸徳の中で最も重要な]仁によりそって、芸[すなわち教養の中]に遊ぶ。」


07-07

子曰、自行束脩以上、吾未嘗無誨焉、

子の曰わく、束脩(そくしゅう)を行うより以上は、吾れ未だ嘗(かつ)て誨(おし)うること無くんばあらず。

先生が言われた、「乾し肉一束を持ってきた者から上は、[どんな人でも]私は教えなかったということはない。」

(3-21)


退修詩書図(第12図) (魯国に戻り学校を開校した孔子の図)孔子42歳? 7:7



07-08

子曰、不憤不啓、不ヒ*不發、擧一隅而示之、不以三隅反、則吾不復也、

子の曰わく、憤(ふん)せずんば啓せず。ヒせずんば発せず。一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反えらざれば、則ち復たせざるなり。

先生が言われた、「[分かりそうで分からず]わくわくしているのでなければ、指導しない。[言えそうで言えず]口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。一つの隅を取り上げて示すとあとの三つの隅で答えるというほどでないと、繰り返すことをしない。」


07-09

子食於有喪者之側、未嘗飽也、子於是日也哭、則不歌、

子、喪(も)ある者の側(かたわら)に食すれば、未だ嘗(かつ)て飽かざるなり。子、是の日に於て哭(こく)すれば、則ち歌わず。

先生は、近親者を死なせた人のそばで食事をされるときには、十分に召し上がらなかった。先生は、お弔いで声をあげて泣かれたその日には、歌をうたわれなかった。


07-10

子謂顔淵曰、用之則行、舎之則藏、唯我與爾有是夫、子路曰、子行三軍、則誰與、子曰、暴虎馮河、死而無悔者、吾不與也、必也臨事而懼、好謀而成者也、

子、顔淵に謂いて曰わく、これを用うれば則ち行い、これを舎(す)つれば則ち蔵(かく)る。唯だ我と爾(なんじ)と是れあるかな。子路が曰わく、子、三軍 を行なわば、則ち誰れと与(とも)にせん。子の曰わく、暴虎馮河(ぼうこひょうが)して死して悔いなき者は、吾れ与にせざるなり。必ずや事に臨(のぞ)み て懼(おそ)れ、謀(ぼう)を好みて成さん者なり。

先生が顔淵に向かって言われた、「用いられたら活動し、捨てられたら引きこもるという[時宜(じぎ)を得た]振る舞いは、ただ私とお前だけにできることだ ね。」子路がいった。「先生が大軍をお進めになるとしたら、誰と一緒なさいますか。」先生は言われた、「虎に素手で立ち向かったり、河を歩いて渡ったりし て、死んでもかまわないというような[無鉄砲な]男とは、私は一緒にやらないよ。どうしてもというなら、事に当たって慎重で、よく計画をねって成し遂げる ような人物とだね」


07-11

子曰、富而可求也、雖執鞭之士、吾亦爲之、如不可求、從吾所好、

子の曰わく、富(とみ)にして求むべくんば、執鞭(しつべん)の士と雖も、吾れ亦たこれを為さん。如(も)し求むべからずんば、吾が好む所に従わん。

先生が言われた、「富みというものが追求してもよいものなら、鞭(むち)をとる露払い[のような賎しい役目]でも私は勤めようが、もし追求すべきでないなら、私の好きな生活に向かおう。」


07-12

子之所愼、齊戰疾、

子の慎しむ所は、斉、戦、疾。

先生が慎まれ[て対処され]たことは、祭祀のときの潔斎(ものいみ)と、戦争と、病気であった。


07-13

子在齊、聞韶樂三月、不知肉味、曰、不圖爲樂之至於斯也、

子、斉に在(いま)して、韶(しょう)を聞くこと三月(さんげつ)、肉の味を知らず。曰わく、図(はか)らざりき、楽を為すことの斯(ここ)に至らんとは。

先生は斉の国で数カ月の間、韶(しょう)の音楽を聞き[習われ、すっかり感動して]肉のうまさも解されなかった。「思いもよらなかった、音楽というものがこれほど素晴らしいとは」 




在斉聞韶図(第10図)(斉に在りて詔を聞くの図)孔子36歳 7:13



07-14

冉有曰、夫子爲衛君乎、子貢曰、諾、吾將問之、入曰、伯夷叔齊何人也、子曰、古之賢人也、曰怨乎、曰、求仁而得仁、叉何怨乎、出曰、夫子夫爲也、

冉有が曰わく、夫子は衛の君を為(たす)けんか。子貢が曰わく、諾(だく)、吾れ将にこれを問わんとす。入りて曰わく、伯夷・叔斉は何人ぞや。曰わく、古 (いにしえ)の賢人なり。曰わく、怨(うらみ)たるか。曰わく、仁を求めて仁を得たり。又た何ぞ怨みん。出でて曰わく、夫子は為(たす)けじ。

冉有が、「うちの先生は衛の殿様を助けられるだろうか。」と言ったので、子貢は「よし、私がお訊ねしてみよう」といって、[先生の部屋に]入って行って訊 ねた、「伯夷と叔斉とはどういう人物ですか。」先生「昔の勝れた人物だ」「[君主の位につかなかったことを]後悔したでしょうか。」「仁を求めて仁を得た のだから、また何を後悔しよう。」[子貢は]退出すると「うちの先生は助けられないだろう」といった。


07-15

子曰、飯疏食飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣、不義而富且貴、於我如浮雲、

子の曰わく、疏食(そし)を飯(くら)い水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我れに於て浮雲(ふうん)の如とし。

先生が言われた、「粗末な飯を食べて水を飲み、腕を曲げてそれを枕にする。楽しみはやはりそこにも自然にあるものだ。道にならぬことで金持ちになり身分が高くなるのは、私にとっては浮雲のよう[に、はかなく無縁なもの]だ。」


07-16

子曰、加我數年、五十以學、易可以無大過矣、

子の曰わく、我に数年を加え、五十にして以て易(えき)を学べば、大なる過ち無かるべし。

先生が言われた、「私がもう数年経って、五十になってから学んだとしても、やはり大きな過ちなしにゆけるだろう」



07-17

子所雅言、詩書執禮、皆雅言也、

子の雅言(がげん)する所は、詩、書、執礼、皆な雅言す。

先生が標準語を守られるのは、詩経、書経[を読むとき]と礼を行うときとで、みな標準語であった。


07-18

葉公問孔子於子路、子路不對、子曰、女奚不曰、其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至也云爾、

葉公(しょうこう)、孔子を子路に問う。子路対(こたえ)ず。子の曰わく、女(なんじ)奚(なんぞ)曰わざる、其の人と為(な)りや、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみと。

葉公が孔子のことを子路に訊ねたが、子路は答えなかった。先生は言われた、「お前はどうして言わなかったのだね。その人となりは、[学問に]発憤しては食事を忘れ、[道を]楽しんでは心配事も忘れ、やがて老いがやって来ることにも気づかずにいる。というように。」


07-19

子曰、我非生而知之者、好古敏以求之者也、

子の曰わく、我は生まれながらにしてこれを知る者に非らず。古(いにしえ)を好み、敏にして以てこれを求めたる者なり。

先生が言われた、「私は生まれつきでものごとをわきまえた者ではない。昔のことを愛好して一所懸命に探究している者だ」


07-20

子不語怪力亂神、

子、怪力乱神を語らず。

先生は、怪異と力技と不倫と神秘とは口にされなかった。 




07-21

子曰、我三人行、必得我師焉、擇其善者而從之、其不善者改之、

子の曰わく、我れ三人行なえば必ず我が師を得(う)。其の善き者を択びてこれに従う。其の善からざる者にしてこれを改む。

先生が言われた、「私は三人で行動したら、きっとそこに自分の師を見つける。善い人を選んでそれを見習い、善くない人にはその善くないことを[我が身について]直すからだ。」


07-22

子曰、天生徳於予、桓タイ*其如予何、

子の曰わく、天、徳を予(われ)生(な)せり。桓(かん)タイ其れ予れを如何。

先生が[宋の国で迫害を受けた時に]言われた、「天が我が身に徳を授けられた。桓タイごときが我が身をどうしようぞ」 




宋人伐木図(第21図)(木を切り倒して孔子一行に脅しを掛ける宋国人の図)孔子58歳 7:22



07-23

子曰、二三子以我爲隱乎、吾無隱乎爾、吾無所行而不與二三子者、是丘也、

子の曰わく、二三子(にさんし)、我れを以て隠せりと為すか。吾れは爾(なんじ)に隠すこと無し。吾れ行うとして二三子と与(とも)にせざる者なし。是れ丘(きゅう)なり。

先生が言われた、「諸君は私が隠し事をしていると思うか。私は隠しだてなどはしない。私はどんなことでも諸君と一緒にしないことはない。それが丘(きゅう)[この私]なのだ。」


07-24

子以四教、文行忠信、

子、四つを以て教う。文、行、忠、信。

先生は四つのことを教えられた。読書と実践と誠実と信義である。


07-25

子曰、聖人吾不得而見之矣、得見君子者、斯可矣、子曰、善人不得而見之矣、得見有恆者、斯可矣、亡而爲有、虚而爲盈、約而爲泰、難乎有恆矣、

子の曰わく、聖人は吾れ得てこれを見ず。君子者(くんししゃ)を見るを得ば、斯れ可(か)なり。子の曰わく、善人は吾れ得てこれを見ず。恒ある者を見るを 得ば、斯れ可なり。亡(な)くして有りと為し、虚(むなし)くして盈(み)てりと為し、約にして泰(ゆたか)なりと為す。難(かた)いかな、恒あること。

先生が言われた、「聖人には私は会うことはできないが、君子の人に会えればそれで結構だ。無いのに有るように見せ、空っぽなのに満ちているように見せ、困っているのにゆったりと見せているのでは、難しいね、常のあることは」


07-26

子釣而不綱、弋不射宿、

子、釣(つり)して綱(こう)せず。弋(よく)して宿を射ず。

先生は魚釣りをされるがはえなわは使われず、鳥のいぐるみはされるがねぐらの鳥はうたれない。


07-27

子曰、蓋有不知而作之者、我無是也、多聞擇其善者而從之、多見而識之、知之次也、

子の曰わく、蓋(けだ)し知らずしてこれを作る者あらん。我れは是れ無きなり。多く聞きて其の善き者を択びてこれに従い、多く見てこれを識(しる)すは、知るの次なり。

先生がいわれた、「あるいはもの知りでもないのに創作する者もあろうが、私はそんなことはない。たくさん聞いて善いものを選んで従い、たくさん見て覚えておく。それはもの知り[ではないまでも、そ]の次である」


07-28

互郷難與言、童子見、門人惑、子曰、與其進也、不與其退也、唯何甚、人潔己以進、與其潔也、不保其往也、

互郷(ごきょう)、与(とも)に言い難たし。童子見(まみ)ゆ。門人惑う。子の曰わく、其の進むに与(くみ)するなり。其の退くに与せざるなり。唯だ、何ぞ甚だしき。人、己れを潔くして以て進まば、其の潔きに与みせん。其の往(おう)を保(ほ)せざるなり。

互郷の村人は話がしにくいのだが、そこの子供が[先生に]お会いしたいので、門人がいぶかった。先生は言われた、「そのやって来たことを買うのだ。去って いくのは賛成しない。[あの子供のことをいぶかるとは]本当にひどすぎる。人がその身を清くしてやって来れば、その清さを買うのだ。帰ってからのことは保 証しない」


07-29

子曰、仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣、

子の曰わく、仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。

先生がいわれた、「仁は遠いものだろうか。私たちが仁を求めると、仁はすぐにやってくるよ」


07-30

陳司敗問、昭公知禮乎、孔子對曰、知禮、孔子退、揖巫馬期而進之曰、吾聞、君子不黨、君子亦黨乎、君取於呉、爲同姓謂之呉孟子、君而知禮、孰不知禮、巫馬期以告、子曰、丘也幸、苟有過、人必知之、

陳の司敗(しはい)問う、昭公は礼を知れるか。孔子対(こたえ)て曰わく、礼を知れり。孔子退く。巫馬期(ふばき)を揖(ゆう)してこれを進めて曰わく、 吾れ聞く、君子は党せずと。君子も亦た党するか。君、呉に取(めと)れり。同性なるが為めにこれを呉孟子と謂う。君にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知 らざらん。巫馬期、以て告(もう)す。子の曰わく、丘(きゅう)や幸いなり、苟(いやし)くも過ちあれば、人必ずこれを知る。

陳の国の司敗が「昭公は礼をわきまえておられましたか。」と尋ねた。孔子は「礼をわきまえておられた。」と答えた。孔子が退出されると、[司敗は]巫馬期 に会釈してから前に進ませて云った、「私は君子は仲間びいきをしないと聞いていたが、君子でも仲間びいきをするのですか。殿様(昭公)は呉の国から娶られ たが、同じ姓であるために夫人のことを呉孟子とよばれた。[同じ姓の家から娶るのは礼で禁ぜられているのにそれを破ったから、呉姫(ごき)というところを 姫の姓を避けてごまかしたのだ。]この殿様が礼をわきまえていたとすると、礼をわきまえない人などおりましょうか。」巫馬期がお知らせすると、先生はいわ れた、「丘(きゅう)[この私]は幸せだ。もし過ちがあれば、人がきっと気づいてくれる。」


07-31

子與人歌而善、必使反之、而後和之、

子、人と歌いて善ければ、必ずこれを返(か)えさしめて、而(しか)して後にこれに和す。

先生は、人と一緒に歌われて[相手が]上手ければ、きっとそれを繰り返させ、その上で合唱された。


07-32

子曰、文莫吾猶人也、躬行君子、則吾未之有得也、

子の曰わく、文は吾れ猶お人のごとくなること莫(な)からんや。躬(み)、君子を行なうことは、則ち吾れ未だこれを得ること有らざるなり。

先生がいわれた、「勤勉では私も人並みだが、君子としての実践では、私は未だ十分にはいかない。」


07-33

子曰、若聖與仁、則吾豈敢、抑爲之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣、公西華曰、正唯弟子不能學也、

子の曰わく、聖と仁との若(ごと)きは、則ち吾れ豈(あ)に敢えてせんや。抑々(そもそも)これを為して厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まずとは、則ち謂うべきのみ。公西華(こうせいか)が曰わく、正に唯だ弟子学ぶこと能わざるなり。

先生が言われた、「聖とか仁などというのは、私などとてものことだ。ただ。[聖や仁への道を]行ってあきることがなく、人を教えて怠らないということは、いってもらっても宜しかろう。」公西華は言った、「本当にそれこそ我々の真似のできないことです」


07-34

子疾病、子路請祷、子曰、有諸、子路對曰、有之、誄曰、祷爾于上下神祇、子曰、丘之祷之久矣、

子の疾(やまい)、病(へい)なり。子路、祷(いの)らんと請う。子の曰わく、諸(こ)れ有りや。子路対(こた)えて曰わく、これ有り、誄(るい)に曰わく、爾(なんじ)を上下の神祇(しんぎ)に祷ると。子の曰わく、丘の祷ること久し。

先生が病気になられたとき、子路がお祈りしたいと願った。先生が「そういことが有ったか。」と言われると、子路は答えて「有ります。誄の言葉に『なんじの ことを天地(あめつち)の神々に祈る。』とみえます。」と言った。先生は言われた、「自分のお祈りは久しいことだ。[ことごとく祈ることはない。]」


07-35

子曰、奢則不孫、儉則固、與其不孫也寧固、

子の曰わく、奢(おご)れば則ち不孫(ふそん)、倹なれば則ち固(いや)し。其の不孫ならんよりは寧(むし)ろ固しかれ。

先生が言われた、「贅沢していると尊大になり、倹約していると頑固になるが、尊大であるよりはむしろ頑固の方がよい」


07-36

子曰、君子坦蕩蕩、小人長戚戚、

子の曰わく、君子は坦(たいら)かに蕩蕩(とうとう)たり。小人は長(とこしな)えに戚戚(せきせき)たり。

先生が言われた、「君子は平安でのびのびしているが、小人はいつでもくよくよしている」


07-37

子温而勵*、威而不猛、恭而安、

子は温にしてはげし、威にして猛ならず。恭々(うやうや)しくして安し。

先生は穏やかでいてしかも厳しく、おごそかであってしかも烈しくはなく、恭謙でいてしかも安らかであられる。


  、泰伯第八

08-01

子曰、泰伯其可謂至徳也已矣、三以天下譲、民無得而稱焉、

子の曰わく、泰伯(たいはく)は其れ至徳と謂うべきのみ。三たび天下を以て譲る。民得て称すること無し。

先生が言われた、「泰伯こそは最高の徳だといって宜しかろう。三度も天下を譲ったが、[それも人知れないやり方で]人民はそれを称えることもできなかった」


08-02

子曰、恭而無禮則勞、愼而無禮則子思*、勇而無禮則亂、直而無禮則絞、君子篤於親、則民興於仁、故舊不遺、則民不偸、

子の曰わく、恭にして礼なければ則ち労す。慎にして礼なければ則ち思(し)*す。勇にして礼なければ則ち乱る。直にして礼なければ則ち絞(こう)す。君子、親(しん)に篤ければ、則ち民仁に興こる。故旧遺(こきゅうわす)れざれば、則ち民偸(うす)からず。

先生が言われた、「うやうやしくても礼によらなければ骨が折れる。慎重にしても礼によらなければいじける。勇ましくしても礼によらなければ乱暴になる。 まっすぐであっても礼によらなければ窮屈になる。君子[為政者]が近親に手厚くしたなら、人民は仁のために発奮するし、昔馴染みを忘れなければ、人民は薄 情でなくなる。」


08-03

曾子有疾、召門弟子曰、啓予足、啓予手、詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰、而今而後、吾知免夫、小子、

曾子、疾(やまい)あり。門弟(もんてい)子を召(よ)びて曰わく、予(わ)が足を啓(ひら)け、予が手を啓け。詩に云う、戦戦兢兢として、深淵に臨むが 如く、薄冰(はくひょう)を履(ふ)むが如しと。而今(いま)よりして後(のち)、吾れ免(まぬが)るることを知るかな、小子。

曾子が病気に罹られたとき、門人達を呼んで言われた、「わが足を見よ、わが手を見よ。詩経には『恐れつ戒めつ、深き淵に臨むごと、薄き氷をふむがごと』とあるが、これから先は私ももうその心配が無いねえ、君たち」


08-04

曾子有疾、孟敬子問之、曾子言曰、鳥之將死、其鳴也哀、人之將死、其言也善、君子所貴乎道者三、動容貌、斯遠暴慢矣、正顔色、斯近信矣、出辭氣、斯遠鄙倍矣、邊*豆之事、則有司存、

曾子、疾(やまい)あり。孟敬子これを問う。曾子言いて曰わく、鳥の将に死なんとするや、其の鳴くこと哀し。人の将に死なんとするや、其の言うこと善し。 君子の道に貴ぶ所の者は三つ。容貌を動かしては斯(ここ)に暴慢を遠ざく。顔色を正しては斯に信に近づく。辞気を出(い)だしては斯に鄙倍(ひばい)を遠 ざく。邊*豆(へんとう)の事は則ち有司(ゆうし)存せり。

曾子が病気に罹られたとき、孟敬子が見舞った。曾子は口を開いて言われた、「鳥が死ぬときにはその鳴き声は哀しいし、人が死ぬときにはその言葉は立派で す。[臨終の私の言葉をどうぞお聞き下さい]君子が礼について尊ぶことは三つあります。姿かたちを動かすときには粗放から離れます。顔つきを整えるときに は誠実に近づきます。言葉を口にするときには俗悪から離れます。[この三つが礼にとって大切なことです。]お祭りのお供えの器物などのことは、係の役人が おります。[君子の礼ではありません]」


08-05

曾子曰、以能問於不能、以多問於寡、有若無、實若虚、犯而不校、昔者吾友嘗從事於斯矣、

曾子の曰わく、能(のう)を以て不能に問い、多きを以て寡(すく)なきに問い、有れども無きが若(ごと)く、実(み)つれども虚しきが若く、犯されて校(むく)いず。昔者(むかし)、吾が友、嘗(かつ)て斯い従事せり。

曾子が言われた、「才能が有るのに無いものに訊ね、豊かであるのに乏しい者に訊ね、有っても無いように、充実していても空っぽのようにして、害されても仕返しをしない。昔、私の友達(顔回)は、そいいうことに努めたものだ」


08-06

曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人與、君子人也、

曾子の曰わく、以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命(めい)を寄すべく、大節に臨んで奪うべからず。君子人(くんしじん)か、君子人なり。

曾子が言われた、「小さい孤児の若君を預けることもできれば、諸侯の国家の政令を任せることもでき、大事にあたっても[その志を]奪うことができない、これこそ君子の人であろうか、[確かに]君子の人である」


08-07

曾子曰、士不可以不弘毅、任重而道遠、人以爲己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎、

曾子の曰わく、士は以て弘毅(こうき)ならざるべからず。任重(おも)くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦た重からずや。死して後已(や)む、亦た遠からずや。

曾子が言われた、「士人はおおらかで強くなければならない。任務は重くて道は遠い。仁を己の任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまで止めない、なんと遠いじゃないか」


08-08

子曰、興於詩、立於禮、成於樂、

子の曰わく、詩に興こり、礼に立ち、楽に成る。

先生が言われた、「[人間の教養は]詩によって奮い立ち、礼によって安定し、音楽によって完成する」


08-09

子曰、民可使由之、不可使知之、

子の曰わく、民は之(これ)に由(よ)らしむべし。之れを知らしむべからず。

先生が言われた、「人民は従わせることはできるが、その理由は理解させることはできない」


08-10

子曰、好勇疾貧、亂也、人而不仁、疾之已甚、亂也、

子の曰わく、勇を好みて貧しきを疾(にく)むは、乱なり。人にして不仁なる、これを疾むこと已甚(はなはだ)しきは、乱なり。

先生が言われた、「勇気を好んで貧乏を嫌うと[無理に貧乏から抜け出そうとして]乱暴する。人が仁でないとてそれをひどく嫌いすぎると[相手は自暴自棄になって]乱暴する」


08-11

子曰、如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足觀也已矣、

子の曰わく、如(も)し周公の才の美ありとも、驕(おご)り且つ吝(やぶさ)かならしめば、其の余は観るに足らざるのみ。

先生が言われた、「仮令、周公ほどの立派な才能があったとしても、傲慢で物惜しみするようなら、其のほかは[どんなことでも]目を停める値打ちも無かろう」


08-12

子曰、三年學不至於穀、不易得也已、

子の曰わく、三年学びて穀(こく)に至らざるは、得やすからざるのみ。

先生が言われた、「三年も学問をして仕官を望まないという人は、なかなか得がたいものだ」


08-13

子曰、篤信好學、守死善道、危邦不入、亂邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉、恥也、邦無道、富且貴焉、恥也、

子の曰わく、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦(きほう)には入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見(あらわ)れ、道なければ則ち隠る。邦に道あるに、貧しくして且つ賎しきは恥なり。邦に道なきに、富て且つ貴きは恥なり。

先生が言われた、「深く信じて学問を好み、命懸けで道をみがく。危うい国には行かず、乱れた国には留まらない。天下に道があれば表立って活動をするが、道 の無いときには隠れる。国家に道があるときなのに、貧乏で低い地位にいるのは恥であるし、国家に道が無いのに、金持ちで高い地位でいるのも恥である」


08-14

子曰、不在其位、不謀其政也、

子の曰わく、其の位に在らざれば、其の政(まつりごと)を謀(はか)らず。

先生が言われた、「その地位にいるのでなければ、その政務に口出ししないこと。」



08-15

子曰、師摯之始、關雎之亂、洋洋乎盈耳哉、

子の曰わく、師摯(しし)の始め、関雎(かんしょ)の乱(おわ)りは、洋洋乎(ようようこ)として耳に盈(み)てるかな。

先生が言われた、「楽官の摯(し)の歌い始め、関雎の楽曲の終わり、のびのびと美しく耳いっぱいにひろがるねえ」


08-16

子曰、狂而不直、同*而不愿、椌*椌*而不信、吾不知之矣、

子の曰わく、狂にして直ならず、トウにして愿(げん)ならず、コウコウにして信ならずんば、吾れこれを知らず。

先生が言われた、「気が大きな[積極的な]くせに真っ直ぐでなく、子供っぽい[無知な]くせに生真面目でなく、馬鹿正直なくせに誠実でない、そんな人は私もどうしようもない」


08-17

子曰、學如不及、猶恐失之、

子の曰わく、学は及ばざるが如くするも、猶(な)おこれを失わんことを恐る。

先生が言われた、「学問には追付けないかのように[勉める]。それでもなお忘れないかと恐れる。」

       →老子20、48


08-18

子曰、巍巍乎、舜禹之有天下也、而不與焉、

子の曰わく、巍巍(ぎぎ)たるかな、舜禹の天下を有(たも)てるや。而(しか)して与(あずか)らず。

先生が言われた、「堂々たるものだね、舜や禹が天下を治められたありさまは。それでいて[すべてを賢明な人々にまかされて]自分では手を下されなかった」


08-19

子曰、大哉、尭之爲君也、巍巍乎唯天爲大、唯尭則之、蕩蕩乎民無能名焉、巍巍乎其有成功也、煥乎其有文章、

子の曰わく、大なるかな、尭の君たるや。巍巍(ぎぎ)として唯だ天を大なりと為す。唯だ尭これに則(のっと)る。蕩々(とうとう)として民能く名づくること無し。巍巍として其れ成功あり。煥(かん)として其れ文章あり。

先生が言われた、「偉大なものだね、尭の君としてのありさまは。堂々としてただ天だけが偉大であるのに、尭こそはそれを見習われた。伸び伸びと広やかで人民には言い表しようがない。堂々として立派な業績を打ち立て、輝かしくも礼楽制度を定められた。」


08-20

舜有臣五人、而天下治、武王曰、予有亂臣十人、孔子曰才難、不其然乎、唐虞之際、於斯爲盛、有婦人焉、九人而已、三分天下有其二、以服事殷、周之徳、其可謂至徳也已矣、

舜、臣五人ありて、天下治まる。武王曰わく、予(わ)れに乱臣十人ありと。孔子の曰わく、才難しと、其れ然らずや。唐虞(とうぐ)の際、斯に於て盛んと為 す。婦人あり、九人のみ。[文王、西伯と為りて]天下を三分して其の二を有(たも)ち、以て殷に服事(ふくじ)す。周の徳は、其れ至福と謂うべきのみ。

舜には五人の臣下がいてそれで天下が治まった。[周の]武王の言葉に「自分には治めてくれる者が十人いる。」とある。孔子は言われた、「人材は得がたいと いうが、その通りだ。尭舜時代からあとでは、この周の初めこそ[人材の]盛んな時だが、[それでも、十人の中には]婦人がいるから九人だけだ。[武王の父 の]文王は西方諸国の旗頭となり、天下を三つに分けたその二つまでを握りながら、なお殷に従って仕えていた。周の徳はまず最高の徳だといって宜しかろう」


08-21

子曰、禹吾無間然矣、菲飮食、而致孝乎鬼神、惡衣服、而致美乎黻冕、卑宮室、而盡力乎溝洫、禹吾無間然矣、

子の曰わく、禹は吾れ間然(かんぜん)とすること無し。飲食を菲(うす)くして孝を鬼神に致し、衣服を悪しくして美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室を卑(ひ)くして力を溝洫(こうきょく)に盡(つく)す。禹は吾れ間然すること無し。

先生が言われた、「禹は私には非の打ち所がない。飲食を切り詰めて神々に[お供え物を立派にして]真心を尽くし、衣服を質素にして祭りの黻や冕を十分立派にし、住いは粗末にして潅漑の水路のために力を尽くされた。禹は私には非の打ち所がない」


巻 第五
、子罕第九


09-01

子罕言利與命與仁、

子、罕(まれ)に利を言う、命と与(とも)にし仁と与にす。

先生はめったに利益について語られなかった。もし語られたなら、運命に関連し、仁徳に関連してであった。


09-02

逹巷黨人曰、大哉孔子、博學而無所成名、子聞之、謂門弟子曰、吾何執、執御乎、執射乎、吾執御矣、

達巷党(たつこうとう)の人曰わく、大なるかな孔子、博く学びて名を成す所なし。子これを聞き、門弟子(もんていし)に謂いて曰わく、吾れは何を執(と)らんか、御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか。吾れは御を執らん。

達巷の村の人が言った、「偉大なものだね、孔子は。広く学ばれてこれという[限られた専門の]名声をお持ちにならない。」先生はそれを聞かれると、門人達に向かって言われた、「私は「専門の技術に」何をやろう。御者をやろうか、弓をやろうか。私は御者をやろう。」


09-03

子曰、麻冕禮也、今也純儉、吾從衆、拜下禮也、今拜乎上泰也、雖違衆、吾從下、

子の曰わく、麻冕(まべん)は礼なり。今や純(いと)なるは倹なり。吾れは衆に従わん。下(しも)に拝するは礼なり。今上(かみ)に拝するは泰なり。衆に違うと雖も、吾れは下に従わん。

先生が言われた、「[礼服としては]麻の冕(冠)が礼である。この頃絹糸にしているのは倹約だ。[そこで]私も皆に従おう。[主君に招かれた時]堂の下い 降りてお辞儀をするのが礼である。この頃上でお辞儀をしているのは傲慢だ。[そこで]皆とは違っても、私は下の方にしよう」


09-04

子絶四、毋意、毋必、毋固、毋我、

子、四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし。

先生は四つのことを絶たれた。勝手な心を持たず、無理押しをせず、執着をせず、我を張らない。


09-05

子畏於匡、曰、文王既沒、文不在茲*乎、天之將喪斯文也、後死者不得與於斯文也、天之未喪斯文也、匡人其如予何、

子、匡(きょう)に畏(おそ)る。曰わく、文王既に没したれども、文茲*(ここ)に在らずや。天の将に斯の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし) の者、斯の文に与(あず)かることを得ざるなり。天の未(いま)だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人(きょうひと)其れ予(わ)れを如何(いかん)。

先生が匡の土地で危険にあわれたときに言われた、「文王はもはや亡くなられたが、その文化はここに[この我が身に]伝わっているぞ。天がこの文化を滅ぼそ うとするなら、後代の我が身はこの文化に携われない筈だ。天がこの文化を滅ぼさないからには、匡の連中ごとき、我が身をどうしようぞ」



匡人解囲図(第18図) (匡で人違いから群衆に囲まれる孔子一行の図)孔子57歳 9:5



09-06

太宰問於子貢曰、夫子聖者與、何其多能也、子貢曰、固天縦之將聖、叉多能也、子聞之曰、太宰知我者乎、吾少也賤、故多能鄙事、君子多乎哉、不多也、

太宰(たいさい)、子貢に問いて曰わく、夫子は聖者か。何ぞ其れ多能なる。子貢が曰わく、固(もと)より天縦(てんしょう)の将聖(しょうせい)にして、 又た多能なり。子これを聞きて曰わく、太宰、我れを知れる者か。吾れ少(わかく)して賎(いや)し。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子、多ならんや。多な らざるなり。

太宰が子貢に訊ねて言った、「あの方[孔子]は聖人でしょうな。なんとまあ多くのことが出来ますね。」子貢は答えた、「もちろん天の許した大聖であられる し、その上に多くのことがお出来になるのです。」先生はそのことを聞かれると言われた、「太宰は私のことを知る人だね。私は若いときには身分が低かった、 だからつまらないことが色々出来るのだ。君子は色々するものだろうか。色々とはしないものだ。[聖人などとは当たらない]」


09-07

牢曰、子云、吾不試、故藝、

牢(ろう)が曰わく、子云(のた)まう、吾れ試(もち)いられず、故に芸ありと。

牢が言った、「先生は『私は世に用いられなかったので芸がある。』と言われた。」


09-08

子曰、吾有知乎哉、無知也、有鄙夫、來問於我、空空如也、我叩其兩端而竭焉、

子の曰わく、吾れ知ること有らんや、知ること無きなり。鄙夫(ひふ)あり、来たって我れに問う、空空如(くうくうじょ)たり。我れ其の両端を叩いて竭(つ)くす。

先生が言われた、「私は物知りだろうか。物知りではない。つまらない男でも、真面目な態度でやって来て私に質問するなら、私はその隅々までたたいて、十分に答えてやるまでだ。」


09-09

子曰、鳳鳥不至、河不出圖、吾已矣夫、

子の曰わく、鳳鳥(ほうちょう)至らず、河(か)、図(と)を出ださず。吾れやんぬるかな。

先生が言われた、「鳳凰は飛んで来ないし、黄河からは図版も出て来ない。私もおしまいだね。」


09-10

子見齊衰者冕衣裳者與瞽者、見之雖少者必作、過之必趨、

子、斉衰(しさい)の者と冕衣裳(べんいしょう)の者と瞽者(こしゃ)とを見れば、これを見ては少(わか)しと雖も必ず作(た)ち、これを過ぐれば必ず趨(はし)る。

先生は斉衰の喪服を着けた人、冕の冠に装束した人、そして盲の人に行き会われると、見かけたときにはどんな若い相手でもきっと立ち上がられ、そばを通り過ぎるときにはきっと小走りになられた。


09-11

顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前、忽焉在後、夫子循循善誘人、博我以文、約我以禮、欲罷不能、既竭吾才、如有所立卓爾、雖欲從之、末由也已、

顔淵、喟然(きぜん)として歎じて曰わく、これを仰げば彌々(いよいよ)高く、これを鑽(き)れば彌々堅し。これを瞻(み)るに前に在れば、忽焉(こつえ ん)として後(しりえ)に在り。夫子、循々然(じゅんじゅんぜん)として善く人を誘(いざな)う。我れを博(ひろ)むるに文を以てし、我れを約するに礼を 以てす。罷(や)まんと欲するも能わず。既に吾が才を竭(つ)くす。立つ所ありて卓爾(たくじ)たるが如し。これに従わんと欲すと雖ども、由(よし)なき のみ。

顔淵がああと感歎して言った、「仰げば仰ぐほどいよいよ高く、切り込めば切り込むほどいよいよ堅い。前方に認められたかと思うと、不意に又、後ろにある。 うちの先生は、順序よく巧みに人を導かれ、書物で私を広め、礼で私を引き締めて下さる。やめようと思ってもやめられない。もはや私の才能を出し尽くしてい るのだが、まるで足場があって高々と立たれているかのようで、着いて行きたいと思っても手立てがないのだ。」


09-12

子疾病、子路使門人爲臣、病間曰、久矣哉、由之行詐也、無臣而爲有臣、吾誰欺、欺天乎、且予與其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎、且予縦不得大葬、予死於道路乎、

子の疾(やまい)、病(へい)なり。子路、門人をして臣たらしむ。病、間(かん)なるときに曰わく、久しかな、由(ゆう)の詐(いつわ)りを行うや。臣な くして臣ありと為す。吾れ誰をか欺かん。天を欺かんか。且つ予(わ)れ其の臣の手に死なんよりは、無寧(むしろ)二三子の手に死なんか。且つ予れ縦(た と)い大葬を得ずとも、予れ道路に死なんや。

先生の病気が重かったので、子路は門人達を家来にしたて[て、最後を立派に飾ろうとし]た。病気が少しよくなったときに言われた、「長いことだね、由の出 鱈目をしていることは。家来もいないのに家来がいるような真似をして、私は誰を騙すのだ。天を騙すのかね。それに私は、家来などの手で死ぬよりも、むしろ お前達の手で死にたいものだ。それに私は、立派な葬式はしてもらえなくとも、まさかこの私が道端で野垂れ死にするものか。」


09-13

子貢曰、有美玉於斯、韜*匱*而藏諸、求善賈而沽諸、子曰、沽之哉、沽之哉、我待賈者也、

子貢が曰わく、斯こに美玉あり、匱*(ひつ)に韜(おさめ)て諸(こ)れを蔵ぜんか、善賈(ぜんこ)を求めて諸れを沽(う)らんか。子の曰わく、これを沽らんかな、これを沽らんかな。我れは賈(こ)を待つ者なり。

子貢が言った、「ここに美しい玉があるとします。箱に入れてしまい込んでおきましょうか、よい買い手を探して売りましょうか。」先生は言われた、「売ろうよ、売ろうよ。私は買い手を待っているのだ。」



09-14

子欲居九夷、或曰、陋如之何、子曰、君子居之、何陋之有、

子、九夷に居らんと欲す。或るひとの曰わく、陋(いやし)きことこれ如何せん。子の曰わく、君子これに居らば、何の陋しきことかこれ有らん。

先生が[自分の道が中国では行なわれないので、いっそ]東方未開の地に住まおうかとされた。ある人が「むさくるしいが、どうでしょう。」と言うと、先生は言われた、「君子がそこに住めば、何のむさくるしいことがあるものか。」


09-15

子曰、吾自衛反於魯、然後樂正、雅頌各得其所、

子の曰わく、吾れ衛より魯に反(かえ)り、然る後に楽正しく、雅頌(がしょう)各々其の所を得たり。

先生が言われた、「私が衛の国から魯に帰ってきて、はじめて音楽は正しくなり、雅も頌もそれぞれの場所に落ち着いた。」

(9-13)



杏壇礼楽図(第31図) (帰国した孔子が杏壇に礼楽を教えている図)孔子74歳 9:15




09-16

子曰、出則事公卿、入則事父兄、喪事不敢不勉、不爲酒困、何有於我哉、

子の曰わく、出でては則ち公卿(こうけい)に事(つか)え、入りては則ち父兄に事う。喪の事は敢えて勉めずんばあらず。酒の困(みだ)れを為さず、何か我れに有らんや。

先生が言われた、「外では公や卿(けい)[という身分の高い人々]によくお仕えし、家では父や兄達によくお仕えし、弔い事には出来る限り勤め、酒の上での出鱈目はしない。[それぐらいは]私にとって何でもない。」


09-17

子在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜、

子、川の上(ほとり)に在りて曰わく、逝く者は斯(か)くの如きか。昼夜を舎(や)めず。

先生が川のほとりで言われた、「過ぎ行くものはこの[流れの]ようであろうか。昼も夜も休まない。」



09-18

子曰、吾未見好徳如好色者也、

子の曰わく、吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。

先生が言われた、「私は美人を愛するほどに道徳を愛する人を未だ見たことがない。」

(15-13)



醜次同車図1(第19図)(衛国でパレードに参加させられる孔子{絵には不在}の図)孔子58歳 9:18(15:13)



醜次同車図2(第20図)(衛国を去るため車に乗り込む孔子の図)孔子58歳 同上





09-19

子曰、譬如爲山、未成一簣、止吾止也、譬如平地、雖覆一簣、進吾往也、

子の曰わく、譬(たと)えば山を為(つく)るが如し。未だ一簣(き)を成さざるも、止(や)むは吾が止むなり。譬えば地を平らかにするが如し。一簣を覆(ふく)すと雖も、進むは吾が往くなり。

先生が言われた、「例えば山を作るようなもの、もう一もっこというところを遣り遂げないのは、止めた自分が悪いのである。ちょうど土地を均すようなものだ、一もっこをあけるだけでも、その進行した部分は自分が歩いたのである」


09-20

子曰、語之而不惰者、其囘也與、

子の曰わく、これに語(つ)げて惰(おこた)らざる者は、其れ回なるか。

先生が言われた、「話をしてやって、それに怠らないのは、まあ回だね」


09-21

子謂顔淵曰、惜乎、吾見其進也、未見其止也、

子、顔淵を謂いて曰わく、惜しいかな。吾れ其の進むを見るも、未だ其の止むを見ざるなり。

先生が顔淵のことをこう言われた、「惜しいことだ[彼の死は]。私は彼の学問が日々に進歩しているのは見たが、それが停滞しているのを見たことがない。」


09-22

子曰、苗而不秀者有矣夫、秀而不實者有矣夫、

子の曰わく、苗にして秀(ひい)でざる者あり。秀でて実らざる者あり。

先生が言われた、「苗のままで穂を出さない人もいるねえ。穂を出したままで実らない人もいるねえ。」


09-23

子曰、後生可畏也、焉知來者之不如今也、四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已矣、

子の曰わく、後生(こうせい)畏(おそ)るべし。焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。

先生が言われた、「青年は恐るべきだ。これからの人が今[の自分]に及ばないなどと、どうして分かるものか。ただ四十五十の年になっても評判が立たないとすれば、それはもう恐れるまでもないものだよ」


09-24

子曰、法語之言、能無從乎、改之爲貴、巽與之言、能無説乎、繹之爲貴、説而不繹、從而不改、吾末如之何也已矣、

子の曰わく、法語の言は、能く従うこと無からんや。これを改むるを貴しと為す。巽與(そんよ)の言は、能く説(よろ)こぶこと無からんや。これを繹(たず)ぬるを貴しと為す。説こびて繹ねず、従いて改めずんば、吾れこれを如何ともする末(な)きのみ。

先生が言われた、「正しい表だった言葉には、従わずにおれない。だが[それで自分を]改めることが大切だ。物柔らかな言葉には嬉しがらずにはおられない。 だが[その真意を]訊ねることが大切だ。喜ぶだけで訊ねず、従うだけで改めないのでは、私にはどうしようもないものだよ」


09-25

子曰、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改、

子の曰わく、忠信を主とし、己に如(し)かざる者を友とすること無かれ。過てば則ち改むるに憚(はば)かること勿かれ。

先生が言われた、「忠と信とを第一にして、自分より劣った者を友人とするな。過ちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ」


09-26

子曰、三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也、

子の曰わく、三軍も帥を奪うべきなり。匹夫も志しを奪うべからざるなり。

先生が言われた、「大軍でも、その総大将を奪い取ることができるが、一人の男でも、その志しを奪い取ることは出来ない」


09-27

子曰、衣敝蘊*袍、與衣孤貉者立而不恥者、其由也與、

子の曰わく、敝(やぶれ)たる蘊*袍(うんぽう)を衣(き)、孤貉(こかく)を衣たる者と立ちて恥じざる者は、其れ由なるか。

先生が言われた、「破れた綿入れの上着を着ながら、狐や狢の毛皮を着た人と一緒に並んで恥ずかしがらないのは、まあ由[子路]だろうね」


09-28

不支*不求、何用不臧、子路終身誦之、子曰、是道也、何足以臧、

支*(そこな)わず求めず、何を用(もっ)てか臧(よ)からざらん。子路、終身これを誦(しょう)す。子の曰わく、是の道や、何ぞ以て臧しとするに足らん。

『害を与えず求めもせねば、どうして善くないことが起ころうぞ』子路は生涯それを口ずさんでいた。先生は言われた、「そうした方法ではね、どうして良いと言えようか。」


09-29

子曰、歳寒、然後知松栢之後彫也、

子の曰わく、歳(とし)寒くして、然る後に松栢(しょうはく)の彫(しぼ)むに後(おく)るることを知る。

先生が言われた、「気候が寒くなってから、初めて松や柏が散らないで残ることが分かる[人も危難の時に初めて真価が分かる]」


09-30

子曰、知者不惑、仁者不憂、勇者不懼、

子の曰わく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず。

先生が言われた、「智の人は惑わない、仁の人は憂えない、勇の人は恐れない」


09-31

子曰、可與共學、未可與適道、可與適道、未可與立、可與立、未可與權、

子の曰わく、与(とも)に学ぶべし、未だ与に道に適(ゆ)くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権(はか)るべからず。

先生が言われた、「ともに並んで学ぶことはでき[る人でも]、ともに道徳には進めない。ともに道徳に進めても、ともに[そこにしっかりと]立つことは出来ない。ともに立つことが出来ても、ともに[物事をほどよく]取り計らうことは出来ない」


09-32

唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而、子曰、未之思也、夫何遠之有哉、

唐棣(とうてい)の華(はな)、偏(へん)として其れ反せり。豈に爾(なんじ)を思わざらんや、室是れ遠ければなり。子の曰わく、未だこれを思わざるなり。夫(そ)れ何の遠きことかこれ有らん。

『唐棣(にわざくら)の花、ひらひらかえる。お前恋しと思わぬでないが、家がそれ遠すぎて。』先生は[この歌について]言われた、「思いつめていないのだ。まあ[本当に思いつめさえすれば]何の遠いことがあるものか」



10、郷黨第十

10-01

孔子於郷黨恂恂如也、似不能言者、其在宗廟朝廷、便便言唯謹爾、

孔子、郷黨(きょうとう)に於て恂々如(じゅんじゅんじょ)たり。言うこと能わざる者に似たり。其の宗廟、朝廷に在(いま)すや、便々として言い、唯だ謹(つつ)しめり。

孔子は、郷里では恭順なありさまで、ものも言えない人のようであったが、宗廟(おたまや)や朝廷ではすらすら話され、ひたすら慎重であった。


10-02

朝與下大夫言侃侃如也、與上大夫言ギンギン如也、君在シュクセキ*如也、與與如也、

朝(ちょう)にして下大夫(かたいふ)と言えば、侃々如(かんかんじょ)たり。上大夫(じょうたいふ)と言えば、ギンギン如(じょ)たり。君在(いま)せばシュクセキ如たり、与与如(よよじょ)たり。

朝廷で下級の大夫と話されるときは和やかでであり、上級大夫と話されるときは慎み深くされた。主君がおでましのときはうやうやしくされたが、また伸びやかであった。


10-03

君召使擯、色勃如也、足矍*如也、揖所與立、左右其手、衣前後贍*如也、趨進翼如也、賓退、必復命曰、賓不顧矣、

君、召して擯(ひん)たらしむれば、色勃如(ぼつじょ)たり。足カク如たり。与(とも)に立つ所を揖(ゆう)すれば、其の手を左右にす。衣(い)の前後セン如たり。趨(はし)り進むには翼(よく)如たり。賓(ひん)退けば必らず復命して曰わく、賓顧みずと。

主君のお召しで客の接待役を命じられたときは、顔つきは緊張され、足取りはそろそろとされた。一緒に[接待役として]並んでいる人々に会釈されるときは、 その手を右の方に組まれたり、左の方に組まれたりして、[腰を屈めるたびに]着物の前後が美しく揺れ動いた。小走りに進まれるときはきちんと立派であっ た。客が退出すると、必ずまた報告して「お客様は振り返りませんでした[満足して帰られた。]」と言われた。


10-04

入公門、鞠躬如也、如不容、立不中門、行不履閾、過位色勃如也、足矍*如也、其言似不足者、攝齊升堂鞠躬如也、屏氣似不息者、出降一等、逞顔色怡怡如也、沒階趨進翼如也、復其位シュクセキ*如也、

公門に入るに、鞠躬(きくきゅう)如(じょ)たり。容(い)れられざるが如くす。立つに門に中せず。行くに閾(しきい)を履(ふ)まず。位を過ぐれば、色 勃如(ぼつじょ)たり、足カク如たり。其の言うこと、足らざる者に似たり。斉(し)を摂(かか)げて堂に升(のぼ)るに、鞠躬如たり。気を屏(おさ)めて 息をせざる者に似たり。出でて一等を降(くだ)れば、顔色を逞(はな)って怡怡(いい)如たり。階を沒(つく)せば、趨(はし)り進むこと翼如たり。其の 位に復(かえ)ればシュクセキ*如たり。

宮城の御門を入るときは、おそれ慎んだ様子で、身体が入りかねるよにされた。門の中央すじ[は主君がおいででなくとも]顔つきは緊張され、足取りはそろそ ろとされた。その言葉使いは舌足らずのようであられた。裾を持ち上げて堂に上がられるときは、おそれ慎んだありさまで、まるで息をしない者のように、息遣 いをひそめられた。退出して[堂の階段を]一段降りられると、顔色をほぐされて安らかになられ、階段を降りつくすと、小走りに進まれるのにきちんと立派で あった。自分の席に戻られると、うやうやしくされた。


10-05

執圭鞠躬如也、如不勝、上如揖、下如授、勃如戰色、足縮縮*如有循也、享禮有容色、私覿愉愉如也、

圭を執(と)れば、鞠躬(きくきゅう)如(じょ)たり。勝(た)えざるが如し。上ぐることは揖(ゆう)するが如く、下すことは授くるが如く、勃如(ぼつ じょ)として戦色。足はシュクシュク如(じょ)として循(したが)うこと有り。享礼(きょうれい)には容色あり。私覿(してき)には愉愉(ゆゆ)如たり。

圭を持つときは畏れ慎んで、持ちきれないようにされた。上げるときはも会釈をするぐらい、下げるときも物を授けるぐらいで、緊張しておののかんばかり。足 取りは静々と摺り足で規律正しくされた。[贈物をする]享の儀式になると、和やかな顔つきになられ、[君主の代理を終わって]自分の私的な拝謁になると、 楽しげにされた。


10-06

君子不以紺取*飾、紅紫不以爲褻服、當暑袗チゲキ*、必表而出、シ衣羔裘、素衣麑裘、黄衣狐裘、褻裘長、短右袂、必有寢衣、長一身有半、狐貉の厚以居、去喪無所不佩、非帷裳必殺之、羔裘玄冠不以弔、吉月必朝服而朝、

君子は紺(かん)シュウを以て飾らず。紅紫は以て褻服(せつふく)と為さず。暑に当たりては袗(ひとえ)のチゲキ、必ず表して出(い)ず。シ衣には羔裘 (こうきゅう)、素衣には麑裘(げいきゅう)。黄衣には狐裘。褻裘は長く、右の袂を短くす。必ず寝衣あり、長(た)け一身有半。狐狢(こかく)の厚き以て 居る。喪を去(のぞ)いては佩(お)びざる所なし。帷裳(いしょう)に非らざれば必ずこれを殺(さい)す。羔裘玄冠しては以て弔せず。吉月には必ず朝服 (ちょうふく)して朝す。

君子は紺やとき色では襟や袖口の縁取りをしない[紺色は潔斎(ものいみ)のときの、とき色は喪が明け始めたときに着る色であるから]。紅と紫は[純粋な色 でないから、礼服はもとより]普段着に作らない。暑いときには一重の葛布(くずぬの)であるが、必ず[肌の透いて見えないように]うわっぱりをかけて外出 する。[冬着では]黒い着物には小羊の黒い毛皮、白い着物には鹿の子の白い毛皮、黄色い着物には狐の黄色い毛皮[を下に着込む]。普段着の皮ころもは長く するが、右の袂は[仕事に便利なように]短くする。必ず寝間着を備えて、その長さは身の丈とさらに半分である。狐や狢の厚い毛皮をしいて座る。[喪中は何 も帯にさげないが]喪が明ければ何でも腰にさげる。[祭服、朝服としての]帷裳でなければ、必ず[裳(スカート)の上部を]狭く縫い込む。小羊の黒い皮ご ろもと赤黒い絹の冠と[は、目出度い色だから、それ]では、お弔いに行かない。朔日(ついたち)には必ず朝廷の礼服を着けて出仕する。


10-07

齊必有明衣布也、斎必變食、居必遷坐、

斉(ものいみ)すれば必ず明衣あり、布なり。斉すれば必ず食を変じ、居は必ず坐を遷(うつ)す。

潔斎(ものいみ)には必ず[湯浴みの後に着る]ゆかたを備え、それは麻布で作る。潔斎には必ず普段とは食事を変え、住いも必ず普段とは場所を移す。


10-08

食不厭精、膾不厭細、食饐而曷*、魚餒而肉敗不食、色惡不食、臭惡不食、失壬*不食、不時不食、割不正不食、不得其醤不食、肉雖多不使勝食氣、唯酒無量、 不及亂、沽酒市脯不食、不撤薑食、不多食、祭於公不宿肉、祭肉不出三日、出三日不食之矣、食不語、寢不言、雖疏食菜羮瓜、祭必齊如也、

食(いい)は精(しらげ)を厭(いと)わず。膾(なます)は細きを厭わず。食の饐(い)してアイせると魚の餒(あさ)れて肉の敗(やぶ)れたるは食(く) らわず。色の悪しきは食らわず。臭いの悪しきは食らわず。ジンを失えるは食らわず。時ならざるは食らわず。割(きりめ)正しからざれば食らわず。其の醤 (しょう)を得ざれば食らわず。肉は多しと雖ども、食(し)の気に勝たしめず。唯だ酒は量なく、乱に及ばず。沽(か)う酒と市(か)う脯(ほじし)は食ら わず。薑(はじかみ)を撤(す)てずして食らう、多くは食らわず。公に祭れば肉を宿(よべ)にせず。祭の肉は三日を出ださず。三日を出ずればこれを食らわ ず。食らうには語らず、寝(い)ぬるには言わず。疏食(そし)と菜羮(さいこう)と瓜(うり)と雖も、祭れば必ず斉如(さいじょ)たり。

飯はいくら白くとも宜しく、なますはいくら細かくても宜しい。飯がすえて味変わりし、魚が腐り肉が腐れば食べない。色が悪くなったものも食べず、臭いの悪 くなったものも食べず、煮方の善くないものも食べず、季節外れのものも食べず、切り方の正しくないものも食べず、適当なつけ汁が無ければ食べない。肉は多 くとも主食の飯よりは越えないようにし、酒については決まった量はないが乱れる所までは行かない。買った酒や売り物の干し肉は食べず、生姜は除けずに食べ るが多くは食べない。主君の祭を助けたときは[頂き物の]肉を宵越しにはせず、わが家のの祭の肉は三日を越えないようにして、三日を越えたらそれを食べな い。食べるときは話しをせず、寝るときも喋らない。粗末な飯や野菜の汁や瓜のようなものでも、初取りのお祭りをするときはきっと敬虔な態度である。


10-09

席不正不坐、

席正しからざれば、坐せず。

座席がきちんとしていなければ坐らない。[必ず整えてから坐られる]


10-10

郷人飮酒、杖者出斯出矣、郷人儺、朝服而立於祚*階、

郷人(きょうじん)の飲酒には、杖者(じょうじゃ)出ずれば、斯こに出ず。郷人の儺(おにやらい)には、朝服して祚*階(そかい)に立つ。

村の人たちで酒を飲むときは、杖をつく老人が退出してから初めて退出する。村の人たちが鬼遣いをするときは、朝廷の礼服をつけて東の階段に立つ。


10-11

問人於他邦、再拜而送之、

人を他邦(たほう)に問えば、再拝(さいはい)してこれを送る。

他国の友人を訪ねさせるときは、その使者を再拝してから送りだす。


10-12

康子饋藥、拜而受之、曰、丘未達、不敢嘗、

康子(こうし)、薬を饋(おく)る。拝してこれを受く、曰わく、丘未だ達せず、敢て嘗(な)めず。

季康子が薬を贈った。[先生は]拝のお辞儀をしてから受け取ると言われた、「丘[私]は[この薬のことを]よく知りませんから、今は口にしません。」


10-13

厩焚、子退朝曰、傷人乎、不問馬、

厩(うまや)焚(や)けたり、子、朝(ちょう)より退きて曰わく、人を傷(そこな)えりや。馬を問わず。

厩が焼けた。先生は朝廷からさがってくると、「人に怪我は無かったか。」と言われて、馬のことは問われなかった。


10-14

君賜食、必正席先嘗之、君賜腥、必熟而薦之、君賜生、必畜之、

君、食(しょく)を賜えば、必ず席を正して先ずこれを嘗(な)む。君、腥(なまぐさ)きを賜えば、必ず熟してこれを薦(すす)む。君、生(い)けるを賜えば、必ずこれを畜(か)う。

主君が食物を下されたときは、必ず座席をきちんとして、まず少し食べられた。主君が生肉を下されたときは、必ず煮てから[祖先に]お供えされた。主君が生きたものを下されたときは、必ず飼育された。


10-15

侍食於君、君祭先飯、

君に侍食(じしょく)するに、君祭れば先ず飯(はん)す。

主君と一緒に食事をするときは、主君が初取りのお祭りをされると、[毒味の意味で]先に召し上がられた。


10-16

疾、君視之、東首加朝服、它*紳、

疾(しつ)あるに、君これを視れば、東首(とうしゅ)して朝服を加え、紳(しん)をヒく。

病気をして主君がお見舞いに来られたときは、東枕にして朝廷の礼服を上にかけ、広帯を引き延べられた。


10-17

君命召、不俟駕行矣、

君、命じて召せば、駕(が)を俟(ま)たずして行く。

主君の命令で召されると、車に馬をつなぐのも待たないでおもむかれ[馬車は後から追付くようにされ]た。


10-18

入大廟、毎事問、

大廟に入りて、事ごとに問う。

大廟の中では、儀礼を一つ一つ訊ねられた。


10-19

朋友死無所歸、曰於我殯、朋友之饋、雖車馬、非祭肉、不拜、

朋友死して帰する所なし。曰わく、我れに於て殯(ひん)せよ。朋友の饋(おく)りものは、馬車と雖も、祭りの肉に非ざれば、拝せず。

友達が死んでよるべのないときには、「私の家で、殯(かりもがり)をしなさい。」と言われた。友達の贈物は車や馬のような[立派な]ものでも、お祭りの肉でないかぎりは、拝のお辞儀をされなかった。


10-20

寢不尸、居不容、

寝(い)ぬるに尸(し)せず。居るに容(かたち)づくらず。

寝るときには死体の様に[不様に]ならず、普段のときには容儀(かたち)を作られなかった。


10-21

子見齊衰者、雖狎必變、見冕者與瞽者、雖褻必以貌、凶服者式之、式負版者、有盛饌必變色而作、迅雷風烈必變、

子、斉衰(しさい)の者を見ては、狎(な)れたりと雖ども必ず変ず。冕者(べんしゃ)と瞽者(こしゃ)とを見ては、褻(せつ)と雖も必ず貌(かたち)を以 てす。凶服の者にはこれに式(しょく)す。負版(ふはん)の者に式す。盛饌(せいせん)あれば必ず色を変じて作(た)つ。迅雷(じんらい)風烈には必ず変 ず。

先生は斉衰(しさい)の喪服を着けた人に会うと、懇意な間柄でも必ず様子を改められた。冕(べん)の冠を着けた人と盲の人に会うと、親しい間柄でも必ず様 子を改められた。喪服の人には[車の前の横木に手をあてる]式(しょく)の敬礼を行い、戸籍簿を持つ者にも式の敬礼をされた。立派な御馳走にあずかると必 ず顔つきを整えて立ち上がられ[、主人への敬意を表され]た。ひどい雷や暴風には必ず居ずまいを正され[謹慎され]た。


10-22

升車、必正立執綏、車中不内顧、不疾言、不親指、

車に升(のぼ)りては、必ず正しく立ちて綏(すい)を執(と)る。車の中にして内顧(ないこ)せず。疾言(しつげん)せず、親指せず。

車に乗られるときには、必ず直立して、すがり綱を握られた。車の中では後ろを振り向かず、大声のお喋りをせず、直接に指さされなかった。


10-23

色斯擧矣、翔而後集、曰、山梁雌雉、時哉、時哉、子路共之、三嗅而作、

色みて斯(ここ)に挙(あが)り、翔(かけ)りて而(しか)して後に集(とど)まる。曰わく、山梁(さんりょう)の雌雉(しち)、時なるかな、時なるかな。子路これを共す。三たび嗅ぎて作(た)つ。

驚いてぱっと飛び立ち、飛び回ってから初めて留まる。[先生はそれを見られると]言われた、「山の橋べのめす雉も、時節にかなっているよ、時節に。」[鳥 の動きに意味を認められたのだが、]子路は[時節の食べ物のことと誤解して]それを食前にすすめた。[先生は]三度臭いを嗅がれると席を立たれた。



追記:



「孔子、敧器を観るの図」明代。著者未詳。孔子故里博物館蔵。
敧器に水が入っていない時は傾き、一杯の時はひっくり返る。
水がほどよく入っている時はまっすぐになる。
「孔子家語」「三恕」にある中庸を説いた故事を絵に表した図


敧器(きき、傾いた器)または宥坐の器(ゆうざのき)



宥坐の器(ゆうざのき)及び『論語』概念構造図:メモ
http://yojiseki.exblog.jp/15244181/

論語:下

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 第六
  11、先進第十一

11-01

子曰、先進於禮樂野人也、後進於禮樂君子也、如用之、則吾從先進、

子の曰わく、先進の礼楽に於けるや、野人なり。後進の礼楽に於けるや、君子なり。如(も)しこれを用うれば、則ち吾れは先進に従わん。

先生が言われた、「先輩は儀礼や雅楽については田舎者である。後輩は儀礼や雅楽については君子である。だが、もしそれを行うことになれば、私は先輩の方に従おう。[質朴な先輩の方が、かえって礼楽の本質を得ているから。]」


11-02

子曰、從我於陳蔡者、皆不及門者也、

子の曰わく、我れに陳、蔡に従う者は、皆な門に及ばざるなり。

先生が言われた、「陳や蔡に私について行った者は、もうすっかり門下にはいなくなったね。」


11-03

徳行顔淵閔子騫冉伯牛仲弓、言語宰我子貢、政事冉有季路、文學子游子夏、

徳行(とくこう)には顔淵、閔子騫(びんしけん)、冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓、言語には宰我(さいが)、子貢、政事には冉有、季路、文学には子游、子夏。

徳行では顔淵と閔子騫と冉伯牛と仲弓。言語では宰我と子貢。政事では冉有と季路。文学では子游と子夏。


11-04

子曰、囘也非助我者也、於吾言無所不説、

子の曰わく、回や、我れを助くる者に非ざるなり。吾が言に於て説(よろ)こばざる所なし。

先生が言われた、「回は私を[啓発して]助けてくれる人ではない。私の言うことならどんなことでも嬉しいのだ」


11-05

子曰、孝哉、閔子騫、人不問於其父母昆弟之言、

子の曰わく、孝なるかな、閔子騫(びんしけん)。人、其の父母昆弟(こんてい)を間するの言あらず。

先生が言われた、「孝行だなあ、閔子騫は。その父母や兄弟をそしるようなことを誰もが言わない」


11-06

南容三復白圭、孔子以其兄之子妻之、

南容(なんよう)、白圭(はくけい)を三復す。孔子、其の兄の子(こ)を以てこれに妻(めあ)わす。

南容は白圭の詩を何度も繰り返していた。[『白き玉の傷はなお磨くべし。言葉の傷は繕いもならず。』(『詩経』大雅・抑篇)と。]孔先生はその兄さんのお嬢さんを妻合わせられた。


11-07

季康子問、弟子孰爲好學、孔子對曰、有顔囘者、好學、不幸短命死矣、今他則亡、

季康子(きこうし)問う、弟子(ていし)孰(たれ)か学を好むと為す。孔子対(こた)えて曰わく、顔回なる者あり、学を好む。不幸、短命にして死せり。今や則ち亡(な)し。

季康子が「お弟子の中で誰が学問好きといえますか。」と尋ねたので、孔子は答えられた、「顔回という者がいて学問好きでしたが、不幸にも短い寿命で死んでしまって、今ではもうおりません。」


11-08

顔淵死、顔路請子之車以爲之椁、子曰、才不才、亦各言其子也、鯉也死、有棺而無椁、吾不徒行以爲之椁、以吾從大夫之後、不可徒行也、

顔淵死す。顔路、子の車以てこれが椁(かく)を為(つく)らんことを請う。子の曰わく、才も不才も、亦た各々其の子(こ)と言うなり。鯉(り)や死す、棺 ありて椁なし。吾れ徒行(とこう)して以てこれが椁を為らず。吾れが大夫の後(しりえ)に従えるを以て、徒行すべからざるなり。

顔淵が死んだ。父の顔路は先生の車を頂いてその椁[棺の外箱]を作りたいと願った。先生は言われた、「才能があるにせよ才能がないにせよ、やはりそれぞれ に我が子のことだ。[親の情に変りはない。私の子供の]鯉が死んだ時にも、棺はあったが椁はなかった。だが、私は徒歩で歩いてまでして[自分の車を犠牲に までして]その椁を作りはしなかった。私も大夫の末席についているからには、徒歩で歩くわけにはいかないのだ」


11-09

顔淵死、子曰、噫天喪予、天喪予、

顔淵死す。子の曰わく、噫(ああ)、天予(われ)を喪(ほろ)ぼせり、天予を喪ぼせり。

顔淵が死んだ。先生は言われた、「ああ、天は私を滅ぼした、天は私を滅ぼした。」


11-10

顔淵死、子哭之慟、從者曰、子慟矣、子曰有慟乎、非夫人之爲慟、而誰爲慟、

顔淵死す。子これを哭して慟(どう)す。従者の曰わく、子慟せり。曰わく、慟すること有るか。夫(か)の人の為めに慟するに非らずして、誰が為にかせん。

顔淵が死んだ。先生は哭泣(こくきゅう)して身をふるわされた。お共の者が「先生が慟哭された!」と言ったので、先生は言われた、「慟哭していたか。こんな人の為に慟哭するのでなかったら、誰のためにするのだ」


11-11

顔淵死、門人欲厚葬之、子曰、不可、門人厚葬之、子曰、囘也視予猶父也、予不得視猶子也、非我也、夫二三子也、

顔淵死す。門人厚くこれを葬らんと欲す。子の曰わく、不可なり。門人厚くこれを葬る。子の曰わく、回や、予(わ)れを視ること猶(な)お父のごとし。予れは視ること猶お子のごとくすることを得ず。我れに非ざるなり、夫(か)の二三子なり。

顔淵が死んだ。門人達は立派に葬式をしたいと思った。先生は、「いけない」と言われたが、門人達は立派に葬った。先生は言われた、「回は私を父のように思ってくれたのに、私は子のようにしてやれなかった。私[のしたこと]ではないのだ、あの諸君なのだ。」


11-12

季路問事鬼神、子曰、未能事人、焉能事鬼、曰敢問死、曰未知生、焉知死、

季路、鬼神に事(つか)えん事を問う。子の曰わく、未だ人に事うること能わず、焉(いずく)んぞ能く鬼(き)に事えん。曰わく、敢(あ)えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。

季路が神霊に仕えることをお訊ねした。先生は言われた、「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう。」「恐れ入りますが死のことをお訊ねします。」というと、「生も分からないのに、どうして死が分かろう。」


11-13

閔子騫侍側、ギンギン*如也、子路行行如也、冉子子貢侃侃如也、子樂、曰、若由也不得其死然、

閔子騫(びんしけん)、側(かたわ)らに侍す、ギンギン*如(じょ)たり。子路、行行(こうこう)如たり。冉子(ぜんし)、子貢、侃侃(かんかん)如たり。子楽しむ。曰わく、由(ゆう)がごときは其の死を得ざらん。

閔子騫はお側にいて慎み深く、子路は誇らしげで、冉有と子貢は和やかであった。先生は[優等な門人に囲まれて]楽しまれた。ただ、「由のような男は、普通の死に方はできまい。」と言われた。


11-14

魯人爲長府、閔子騫曰、仍舊貫如之何、何必改作、子曰、夫人不言、言必有中、

魯人(ろひと)、長府を為(つ)くる。閔子騫(びんしけん)が曰わく、旧貫に仍(よ)らば、これを如何、何ぞ必ずしも改め作らん。子の曰わく、夫(か)の人は言わず。言えば必ず中(あた)ること有り。

魯の人が[主君の財貨の蔵である]長府を作ったとき、閔子騫は「昔通りでどうだろう。何もわざわざ作り変えることもあるまい。」と言った。先生は[それを聞くと]「あの人は物言わずだが、言えばきっと適切だ。」と言われた。


11-15

子曰、由之鼓瑟、奚爲於丘之門、門人不敬子路、子曰、由也升堂矣、未入於室也、

子の曰わく、由(ゆう)の瑟(しつ)、奚為(なんす)れぞ丘(きゅう)の門に於てせん。門人、子路を敬せず。子の曰わく、由や堂に升(のぼ)れり。未だ室に入らざるなり。

先生が「由のひく瑟はどうも丘[この私]の所ではね。[ふさわしくない]。」と言われたので、門人達は子路を尊敬しなくなった。先生は言われた、「由[の学問]は堂の上には上がっているのだよ。まだ部屋に入らないのだ」


11-16

子貢問、師與商也孰賢乎、子曰、師也過、商也不及、曰、然則師愈與、子曰、過猶不及也、

子貢問う、師と商とは孰(いず)れか賢(まさ)れる。子の曰わく、師や過ぎたり、商や及ばず。曰わく、然らば則ち師は愈(まさ)れるか。子の曰わく、過ぎたるは猶(な)お及ばざるがごとし。

子貢が「師[子張]と商[子夏]とはどちらが勝れていますか。」と訊ねた。先生は「師は行き過ぎている、商は行き足りない。」と言われた。「それでは師が勝っているのですか」と言うと、先生は「行き過ぎるのは、行き足りないのと同じようなものだ。」と言われた。


11-17

季氏富於周公、而求也爲之聚斂而附益之、子曰、非吾徒也、小子鳴鼓而攻之、可也、

季氏(きし)、周公より富めり。而(しか)して求やこれが為めに聚斂(しゅうれん)してこれを附益す。子の曰わく、吾が徒に非らざるなり。小子、鼓(こ)を鳴らしてこれを攻めて可なり。

季氏は[魯の家老の分際で、周王室の大功労者であった魯の君のご祖先]周公よりも富んでいた。それなのに、求(きゅう)は季氏のために税を取り立ててさらにそれを増やした。先生は言われた、「私達の仲間ではないね。君たち太鼓を鳴らして攻め立てたら善かろう」


11-18

柴也愚、參也魯、師也辟、由也ガン*、

柴(さい)や愚、參(しん)や魯、師や辟(へき)、由やガン、

[先生が言われた]「柴は愚かで、參(曾子)は鈍く、師「子張」はうわべ飾りで、由[子路]はがさつだ」


11-19

子曰、囘也其庶乎、屡空、賜不受命而貨殖焉、億則屡中、

子の曰わく、回や其れ庶(ちか)きか、屡々(しばしば)空(むな)し。賜(し)は命を受けずして貨殖す。億(おもんばか)れば則ち屡々中(あた)る。

先生が言われた、「回[顔淵]はまあ[理想に]近いね。[道を楽しんで富みを求めないから]よく窮乏する。賜(し)[子貢]は官命を受けなくとも[自分で]金もうけをして、予想したことはよく当たる。」


11-20

子張問善人之道、子曰、不踐迹、亦不入於室、

子張、善人の道を問う。子の曰わく、迹(あと)を践(ふ)まず、亦た室に入らず。

子張が善人の在り方についてお訊ねした。先生は言われた、「[先賢の]跡を踏んで行くのでなければ、奥義には入れない」


11-21

子曰、論篤是與、君子者乎、色莊者乎、

子の曰わく、論の篤きに是れ与(くみ)すれば、君子者か、色荘者(しきそうしゃ)か。

先生が言われた、「弁論の篤実さだけをよしとしていたのでは、君子の人か、うわべだけの人か。[よくは分からない]」


11-22

子路問、聞斯行諸、子曰、有父兄在、如之何其聞斯行之也、冉有問、聞斯行諸、子曰、聞斯行之、公西華曰、由也問、聞斯行諸、子曰、有父兄在、求也問、聞斯行諸、子曰、聞斯行之、赤也惑、敢問、子曰、求也退、故進之、由也兼人、故退之、

子路問う、聞くままに斯れ行わんや。子の曰わく、父兄の在(いま)すこと有り、これを如何ぞ、其れ聞くままに斯れ行わんや。冉有(ぜんゆう)問う、聞くま まに斯れ行わんや。子の曰わく、聞くままに斯れこれを行え。公西華(こうさいか)が曰わく、由や問う、聞くままに斯れ行わんやと。子の曰わく、父兄の在す こと有りと。求や問う、聞くままに斯れ行わんやと。子の曰わく、聞くままに斯れ行なえと。赤(せき)や惑う。敢えて問う。子の曰わく、求や退く、故にこれ を進む。由や人を兼ぬ、故にこれを退く。

子路が「聞いたらすぐそれを行いましょうか。」とお訊ねすると、先生は「父兄といった方がおいでになる。どうしてまた聞いてすぐそれを行えよう。」と言わ れた。冉有が「聞いたらすぐそれを行いましょうか。」とお訊ねすると、先生は「聞いたらすぐそれを行え。」と言われた。公西華は言った、「由[子路]さん が『聞いたらすぐそれを行いましょうか。』とお訊ねしたときには、先生は『父兄といった方がおいでになる』と言われたのに、求[冉有]さんが『聞いたらす ぐそれを行いましょうか。』とお訊ねしたときには、先生は『聞いたらすぐそれを行なえ。』と言われました。赤[この私]は迷います。恐れ入りますがお訊ね いたします。」先生は言われた、「求は消極的だから、それを励ましたのだが、由は人を凌ぐから、それを抑えたのだ」


11-23

子畏於匡、顔淵後、子曰、吾以女爲死矣、曰、子在、囘何敢死、

子、匡(きょう)に畏(おそ)る。顔淵後(おくれ)たり。子の曰わく、吾れ女(なんじ)を以て死せりと為す。曰わく、子在(いま)す、回何ぞ敢えて死せん。

先生が匡の土地で危険に遭われたとき、顔淵が遅れて来た。先生が「私はお前が死んだと思ったよ。」と言われると、「先生がおられるのに、回[この私]がどうして死んだりしまようか。」と答えた。


11-24

季子然問、仲由冉求、可謂大臣與、子曰、吾以子爲異之問、曾由與求之問、所謂大臣者、以道事君、不可則止、今由與求也、可謂具臣矣、曰、然則從之者與、子曰、弑父與君、亦不從也、

季子然(きしぜん)問う、仲由、冉求は大臣と謂うべきか。子の曰わく、吾れ子を以て異なるをこれ問うと為す、曾(すなわ)ち由と求とをこれ問う。所謂(い わゆる)大臣なる者は、道を以て君に事(つか)え、不可なれば則ち止(や)む。今、由と求とは具臣(ぐしん)と謂うべし。曰わく、然らば則ちこれに従わん 者か。子の曰わく、父と君とを弑(しい)せんには、亦た従わざるなり。

季子然が「仲由と冉求とは勝れた臣と言えるでしょうね。」と訊ねた。先生は言われた、「私はあなたがもっと別なことを訊ねられると思いましたが、なんと由 と求とのことですか。勝れた臣といわれる者は道によって主君にお仕えして、上手く行かないときには身を退きますが、この由と求とは[諌めるべきときにも諌 めず、]頭数だけの臣と言うべきでしょう。」「それでは[主人の]言いなりになる人物でしょうか」と言うと、先生は言われた、「父と君とを殺すようなこと には、従いません」


11-25

子路使子羔爲費宰、子曰、賊夫人之子、子路曰、有民人焉、有社稷焉、何必讀書然後爲學、子曰、是故惡夫佞者、

子路、子羔(しこう)をして費の宰たらしむ。子の曰わく、夫(か)の人の子(こ)を賊(そこな)わん。子路が曰わく、民人あり、社稷(しゃしょく)あり、何ぞ必ずしも書を読みて然る後に学と為さん。子の曰わく、是の故に夫の佞者(ねいじゃ)を悪(にく)む。

子路が[季氏の宰であったとき、推薦して]子羔(しこう)を費の土地の宰[封地の取締]とならせた。先生が「あの[勉強さかりの]若者をだめにしよう。」 と言われると、子路は「人民もあり、社稷もあります。書物を読むだけが学問だと限ることもないでしょう」と言った。先生は言われた、「これだからあの口達 者なやつは嫌いだ」


11-26

子路曾皙冉有公西華、侍坐、子曰、以吾一日長乎爾、無吾以也、居則曰、不吾知也、如或知爾則何以哉、子路率爾對曰、千乘之國、攝乎大國之間、加之以師旅、 因之以飢饉、由也爲之、比及三年、可使有勇且知方也、夫子哂之、求爾何如、對曰、方六七十、如五六十、求也爲之、比及三年、可使足民也、如其禮樂、以俟君 子、赤爾何如、對曰、非曰能之也、願學焉、宗廟之事、如會同、端章甫、願爲小相焉、點爾何如、鼓瑟希、鏗爾舎瑟而作、對曰、異乎三子者之撰、子曰、何傷 乎、亦各言其志也、曰、莫春者春服既成、得冠者五六人童子六七人、浴乎沂、風乎舞ウ*、詠而歸、夫子喟然歎曰、吾與點也、三子者出、曾皙後、夫三子者之言 何如、子曰、亦各言其志也已矣、曰、夫子何哂由也、子曰、爲國以禮、其言不譲、是故哂之、唯求則非邦也與、安見方六七十如五六十而非邦也者、唯赤則非邦也 與、宗廟之事如會同非諸侯如之何、赤也爲之小相、孰能爲之大相、

子路、曾皙、冉有、公西華、侍坐す。子の曰わく、吾が一日も爾(なんじ)より長じたるを以て、吾れを以てすること無かれ。居れば則ち曰わく、吾れを知らず と。如(も)し爾を知るもの或(あ)らば、則ち何を以てせんや。子路卒爾(そつじ)として対(こた)えて曰わく、千乗の国、大国の間に摂して、これに加う るに、師旅(しりょ)を以てし、これに因るに飢饉を以てせんに、由やこれを為(おさ)め、三年に及ぶ比(ころ)に、勇ありて且つ方を知らしむべきなり。夫 子(ふうし)これを哂(わら)う。求よ爾は何如。対えて曰わく、方の六七十、如(も)しくは五六十、求やこれを為め、三年に及ぶ比ろに、民を足らしむべき なり。其の礼楽の如きは、以て君子に俟(ま)たん。赤(せき)よ爾は何如。対えて曰わく、これを能くすと曰(い)うには非らず。願わくば学ばん。宗廟の 事、如しくは会同に、端章甫(たんしょうほ)して願わくは小相(しょうそう)たらん。点よ爾は何如。瑟(しつ)を鼓(ひ)くことを希(や)み、鏗爾(こう じ)として瑟を舎(お)きて作(た)ち、対えて曰わく、三子者(さんししゃ)の撰(せん)に異なり。子の曰わく、何ぞ傷(いた)まんや、亦た各々其の志し を言うなり。曰わく、莫春(ぼしゅん)には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人を得て、沂(き)に浴し、舞ウ*に風(ふう)して、詠じて帰えらん。夫子 喟然(きぜん)として歎じて曰わく、吾れは点に与(くみ)せん。三子出(い)ず。曾皙後れたり。曾皙が曰わく、夫(か)の三子者の言は何如。子曰わく、亦 た各々其の志を言うのみ。曰わく、夫子、何ぞ由を哂うや。曰わく、国を為(おさ)むるには礼を以てす。其の言譲らず。是の故にこれを哂う。求と唯(いえ) ども則ち邦に非ずや、安(いずく)んぞ方六七十如(も)しくは五六十にして邦に非らざる者を見ん。赤(せき)と唯(いえど)も則ち邦に非らずや、宗廟、会 同は諸侯に非らずしてこれを如何。赤やこれが小相たらば、孰(たれ)か能くこれが大相たらん。

子路と曾皙と冉有と公西華とがおそばにいた。先生が言われた、「私がお前達より少し年上だからといって、遠慮することはない。普段いつもは『私[の真価] を知ってくれない。』と言っているが、もし、誰かお前達のことを知って[用いて]くれたら、どうするかな。」子路がいきなりお答えして言った、「兵車千台 を出す程度の国が[万台を出すような]大国の間に挟まり、さらに戦争が起り飢饉が重なるという場合、由[この私]がそれを治めれば、三年もたった頃には [その国民を]勇気が在って道をわきまえるようにさせることができます。」先生はその言葉に笑われた。「求、お前はどうだね。」お答えして言った、「六七 十里か五六十里四方の[小さい]所で求が治めれば、三年も経った頃には人民を豊かにならせることができます。礼楽などのことは、君子に頼みます。」「赤、 お前はどうだね。」お答えして言った、「出来ると言うのではありません。学びたいのです。宗廟のお勤めや諸侯の会合のとき、端の服を着て章甫の冠を着け、 いささかの助け役になりたいものです。」「点や、お前はどうだね。」瑟をひいていたのが止まると、カタリとそれを置いて立ち上がり、お答えして言った、 「三人のような立派なのと違いますが。」先生が「気にすることはない。ただそれぞれの抱負を述べるだけだ。」と言われると、「春の終わりごろ、春着もすっ かり整うと、五六人の青年と六七人の少年をともなって、沂水で湯浴みをし雨乞いに舞う台のあたりで涼みをして、歌いながら帰って参りましょう。」と言っ た。先生はああと感歎すると「私は点に賛成するよ。」と言われた。三人が退出して、曾皙が後に残った。曾皙はお訊ねした、「あの三人のことはどうなので しょうか。」先生は言われた、「ただそれぞれに抱負を述べただけのことだよ。」「先生はなぜ由のことを笑われたのでしょう。」「国を治めるには礼によるべ きだが、その言葉はぶしつけ[で礼をわきまえないよう]だ。そのために笑ったのだ。求の場合でもやはり邦ではないか。六七十里か五六十里四方で邦でないも のがどうしてあろう。赤の場合でもやはり邦ではないか。宗廟や会合が諸侯のことでないとすればどういうことになろう。[等しく国家のことだが、この二人の つつましさが由とは違う。]赤がいささかの助け役になるのなら、だれが大きな役になれようか」


12、顔淵第十二

12-01

顔淵問仁、子曰、克己復禮爲仁、一日克己復禮、天下歸仁焉、爲仁由己、而由人乎哉、顔淵曰、請問其目、子曰、非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動、顔淵曰、囘雖不敏、請事斯語矣、

顔淵、仁を問う。子の曰わく、己れを克(せ)めて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日己れを克めて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己れに由(よ) る。而して人に由らんや。顔淵の曰わく、請(こ)う、其の目(もく)を問わん。子の曰わく、礼に非ざれば視ること勿(な)かれ、礼に非ざれば聴くこと勿 れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。顔淵の曰わく、回、不敏(ふびん)なりと雖ども、請う、斯の語を事(こと)せん。

顔淵が仁のことをお訊ねした。先生は言われた、「我が身を慎んで礼[の規範]に立ち戻るのが仁と言うことだ。一日でも身を慎んで礼に立ち戻れば、世界中が 仁になつくようになる。仁を行うのは自分次第だ。どうして人頼みできようか。」顔淵が「どうかその要点をお聞かせ下さい。」と言ったので、先生は言われ た、「礼に外れたことは見ず、礼に外れたことは聞かず、礼に外れたことは言わず、礼に外れたことはしないことだ。」顔淵は言った、「回は愚かではございま すが、このお言葉を実行させて頂きましょう。」


12-02

仲弓問仁、子曰、出門如見大賓、使民如承大祭、己所不欲、勿施於人、在邦無怨、仲弓曰、雍雖不敏、請事斯語矣、

仲弓、仁を問う。子の曰わく、門を出でては大賓(だいひん)を見るが如くし、民を使うには大祭に承(つか)えまつるが如くす。己れの欲せざる所は人に施す こと勿かれ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。仲弓が曰わく、雍、不敏なりと雖ども、請う、斯の語を事とせん。

仲弓が仁のことをお訊ねした。先生は言われた、「家の外で[人に会うときに]は大切な客に会うかのようにし、人民を使うときには大切な祭りを行うかのよう にし、自分の望まないことは人に仕向けないようにし、国にいても怨まれることがなく、家にいても怨まれることがない。」仲弓は言った、「雍は愚かではござ いますが、このお言葉を実行させて頂きましょう」


12-03

司馬牛問仁、子曰、仁者其言也ジン*、曰、其言也ジン*、斯可謂之仁已乎、子曰、爲之難、言之得無ジン*乎、

司馬牛(しばぎゅう)、仁を問う。子の曰わく、仁者は其の言やジン*。曰わく、其の言やジン、斯れこれを仁と謂うべきか。子の曰わく、これを為すこと難たし。これを言うにジンなること無きを得んや。

司馬牛が仁のことをお訊ねした。先生は言われた、「仁の人はその言葉が控えめだ。」「その言葉が控えめなら、それで仁と言って宜しいでしょうか。」先生は言われた、「実践が難しい[と思えば]、もの言うことも控えないでおれようか。[そこが大切なところだ]」


12-04

司馬牛問君子、子曰、君子不憂不懼、曰、不憂不懼、斯可謂之君子已乎、子曰、内省不疚、夫何憂何懼、

司馬牛、君子を問う。子の曰わく、君子は憂えず、懼(おそ)れず、曰わく、憂えず、懼れず、斯れこれを君子と謂うべきか。子の曰わく、内に省(かえり)みて疚(やま)しからずんば、夫(そ)れ何をか憂え何をか懼れん。

司馬牛が君子のことをお訊ねした。先生は言われた、「君子は心配もぜず、恐れもしない。」「心配もせず恐れもしないなら、それで君子といって宜しいのでしょうか。」先生は言われた、「心に反省してやましくなければ、一体、何を心配し何を恐れるのか。」


12-05

司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我獨亡、子夏曰、商聞之矣、死生有命、富貴在天、君子敬而無失、與人恭而有禮、四海之内、皆爲兄弟也、君子何患乎無兄弟也、

司馬牛、憂れえて曰わく、人皆兄弟あり、我れ独(ひと)り亡(な)し。商これを聞く、死生 命あり、富貴 天に在り。君子は敬して失なく、人と恭々(うやうや)しくして礼あらば、四海の内は皆な兄弟たり。君子何ぞ兄弟なきを患(うれ)えんや。

[兄の桓タイ*が無法者で今にも身を滅ぼしそうであったので、]司馬牛は悲しんで言った、「人々には皆な兄弟があるのに、私にだけには居ない。」子夏は 言った、「商[この私]はこういうことを聞いている、『死ぬも生きるもさだめあり、富みも尊(たっと)さもままならぬ』と。[あなたの兄さんのことも、し かたがない。]君子は慎んで落度無く、人と交わるのに丁寧にして礼を守ってゆけば、世界中の人はみな兄弟になる。君子は兄弟のないことなど、どうして気に かけることがあろう」


12-06

子張問明、子曰、浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣、浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂遠也已矣、

子張、明を問う。子の曰わく、浸潤(しんじゅん)の譖(そしり)、膚受(ふじゅ)の愬(うったえ)、行なわれざる、明なりと謂うべきのみ。浸潤の譖、膚受の愬、行なわれざる、遠しと謂うべきのみ。

子張が聡明ということをお訊ねした。先生は言われた、「しみこむような[じわじわとくる]悪口や、肌身に受けるような[痛切な]訴え[には人は動かされ易 いものだが、よく判断できてそれら]が通用しないようなら、聡明といってよいだろう。しみこむような[じわじわとくる]悪口や、肌身に受けるような[痛切 な]訴え[よく判断できて]が通用しないようなら、見通しが利くといってよいだろう」


12-07

子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立、

子貢、政を問う。子の曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。子貢が曰わく、必ず已(や)むを得ずして去らば、斯の三者に於て何(いず)れを か先きにせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何ずれをか先きにせん。曰わく、食を去らん。古(いにしえ)より皆 な死あり、民は信なくんば立たず。

子貢が政治のことをお訊ねした。先生は言われた、「食料を十分にし軍備を十分にして、人民には信頼を持たせることだ。」子貢が「どうしてもやむを得ずに捨 てるなら、この三つの中でどれを先にしますか。」と言うと、先生は「軍備を捨てる」と言われた。「どうしてもやむを得ずに捨てるなら、あと二つの中でどれ を先にしますか。」と言うと、「食料を捨てる[食料がなければ人は死ぬが、]昔から誰にも死は在る。人民は信頼がなければ安定しない。」と言われた。


12-08

棘子成曰、君子質而已矣、何以文爲矣、子貢曰、惜乎夫子之説君子也、駟不及舌、文猶質也、質猶文也、虎豹之カク*、猶犬羊之カク*也、

棘子成が曰わく、君子は質のみ。何ぞ文を以て為さん。子貢が曰わく、惜しいかな、夫(か)の子の君子を説くや。駟も舌に及ばず。文は猶お質のごときなり、質は猶お文のごときなり。虎豹のカクは猶お犬羊のカクのごときなり。

棘子成が「君子は質朴だけ[が大切]だね。装飾など、どうしているものか。」と言ったので、子貢は言った、「惜しいねえ、この方の君子についてのお説は。 四頭だての速馬でさえ舌には追付けない。[失言は取返しがつかないものだ。]装飾も質朴のようなものだし、質朴も装飾のようなもの[で、どちらも必要] だ。虎や豹の毛を抜いたなめし皮は犬や羊のなめし皮と同じようなもの[で、質だけにしたのでは君子の真価は表れないもの]だ。」


12-09

哀公問於有若曰、年饑用不足、如之何、有若對曰、盍徹乎、曰、二吾猶不足、如之何其徹也、對曰、百姓足、君孰與不足、百姓不足、君孰與足、

哀公、有若(ゆうじゃく)に問いて曰わく、年饑(う)えて用足らず、これを如何。有若対たえて曰わく、盍(な)んぞ徹(てつ)せざるや。曰わく、二にして 吾れ猶(な)お足らず、これを如何ぞ其れ徹せんや。対たえて曰わく、百姓(ひゃくせい)足らば、君孰(たれ)と与(とも)にか足らざらん。百姓足らずん ば、君孰と与にか足らん。

哀公が有若にお訊ねになった、「凶作で費用が足りないが、どうしたものだろう。」有若がお答えして言うには、「いっそ徹(てつ)[一割の税]になさって は。」「二割でも私は足らないのに、どうしてまた徹にするのか。」お答えして言った、「万民が十分だと言うのに、殿様は誰と一緒で足りないのでしょうか。 万民が足りないと言うのに、殿様は誰と一緒で十分なのでしょうか。」


12-10

子張問崇徳辨惑、子曰、主忠信徒義、崇徳也、愛之欲其生、惡之欲其死、既欲其生、叉欲其死、是惑也、誠不以富、亦祇以異、

子張、徳を崇(たか)くし惑(まどい)を弁ぜんことを問う。子の曰わく、忠信を主として義に徒(うつ)るは、徳を崇くするなり。これを愛しては其の生を欲し、これを悪(にく)みては其の死を欲す。既に其の生を欲して、又た其の死を欲するは、是れ惑いなり。

子張が徳をたかめ迷いをはっきりすることについてお訊ねした。先生は言われた、「[誠の徳である]忠と信とを第一にして正義へと移ってゆくのが、徳をたか めることだ。愛すれば生きて居て欲しいと思い、憎めば死んだらよいと思う[のは普通の人情だ]が、さきには生きていて欲しいと思いながら、また死んだらよ いと思う、それこそ迷いだ」


12-11

齊景公問政於孔子、孔子對曰、君君。臣臣、父父、子子、公曰、善哉、信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸、

斉の景公、政を孔子に問う。孔子対たえて曰わく、君 君たり、臣 臣たり、父 父たり、子 子たり。公の曰わく、善いかな。信(まこと)に如(も)し君  君たらず、臣 臣たらず、父 父たらず、子 子たらずんば、粟(ぞく)ありと雖ども、吾れ豈に得て諸(こ)れを食らわんや。

斉の景公が孔子に政治のことをお訊ねになった。孔子がお答えして言われた、「君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子としてあることです。」公 は言われた、「善いことだね。本当にもし君が君でなく、臣が臣でなく、父が父でなく、子が子でないようなら、米があったところで、私はどうしてそれを食べ ることができようか」


12-12

子曰、片言可以折獄者、其由也與、子路無宿諾、

子の曰わく、片言(へんげん)以て獄(うったえ)を折(さだ)むべき者は、其れ由なるか。子路、諾を宿(とど)むること無し。

先生が言われた、「ほんの一言[を聞いた]だけで訴訟を判決できるのは、まあ由だろうね。」子路は引き受けたことにぐずぐずしたことは無かった。


12-13

子曰、聽訟吾猶人也、必也使無訟乎、

子の曰わく、訟(うったえ)を聴くは、吾れ猶お人のごときなり。必ずや訟え無からしめんか。

先生が言われた、「訴訟を聴くことでは私も他の人と同じだ。強いて言うなら、[それよりも]訴訟を無くさせることだろう」


12-14

子張問政、子曰、居之無倦、行之以忠、

子張、政を問う。子の曰わく、これに居りては倦(う)むこと無く、これを行うには忠を以てす。

子張が政治のことをお訊ねした。先生は言われた、「位に居て怠ることなく、事を行うには真心ですることだ」


12-15

子曰、君子博學於文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫、

子の曰わく、博ろく文を学びて、これを約するに礼を以てせば、亦た以て畔(そむ)かざるべきか。

先生が言われた、「広く書物を読んで、それを礼[の実践]でひきしめていくなら、道に背かないでおられるだろう」


12-16

子曰、君子成人之美、不成人之惡、小人反是、

子の曰わく、君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是れに反す。

先生が言われた、「君子は他人の美点を[現し進めて]成し遂げさせ、他人の悪い点は成り立たぬようにするが、小人はその反対だ。」


12-17

季康子問政於孔子、孔子對曰、政者正也、子帥而正、孰敢不正、

季康子、政を孔子に問う。孔子対たえて曰わく、政とは正なり。子帥(ひき)いて正しければ、孰(たれ)か敢えて正しからざらん。

季康子が政治のことを孔子に訊ねた。孔子は答えて言われた、「政治とは正義です。あなたが率先して正義に努められたら、誰もが正しくなろうと努めましょう」


12-18

季康子患盗、問於孔子、孔子對曰、苟子之不欲、雖賞之不竊、

季康子、盗(とう)を患(うれ)えて孔子に問う。孔子対えて曰わく、苟(いやし)くも子の不欲ならば、これを賞すと雖ども竊(ぬす)まざらん。

季康子が盗賊のことを心配して孔子に訊ねた。孔子は答えて言われた、「もしあなたご自身が無欲なら、[人民は感化されて廉恥心を持ち、]仮令、褒美をやったとしても盗みは致しません。」


12-19

季康子問政於孔子、曰、如殺無道以就有道、何如、孔子對曰、子爲政、焉用殺、子欲善而民善矣、君子之徳風也、小人之徳草也、草上之風必偃、

季康子、政を孔子に問いて曰わく、如(も)し無道を殺して以て有道に就かば、何如。孔子対たえて曰わく、子、政を為すに、焉(な)んぞ殺を用いん。子、善を欲すれば、民善ならん。君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風を上(くわ)うれば、必らず偃(ふ)す。

季康子が政治のことを孔子に訊ねて言った、「もし道に外れた者を殺して道を守る者を作り上げるようにしたら、どうでしょうか。」孔子は答えて言われた、 「あなた、政治をなさるのに、どうして殺す必要があるのです。あなたが善くなさろうとされるなら、人民も善くなります。君子の徳は風ですし、小人の徳は草 です。草は風にあたれば必ずなびきましょう。」


12-20

子張問、士何如斯可謂之達矣、子曰、何哉、爾所謂達者、子張對曰、在邦必聞、子曰、是聞也、非達也、夫達者、質直而好義、察言而觀色、慮以下人、在邦必達、在家必達、夫聞者色取仁而行違、居之不疑、在邦必聞、在家必聞、

子張問う、士何如(いか)なれば斯れを達と謂うべき。子の曰わく、何ぞや、爾(なんじ)の所謂(いわゆる)とは。子張対(こた)えて曰わく、邦(くに)に 在(あ)りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。子の曰わく、是れ聞なり、達に非ざるなり。夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、 慮(はか)って以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色に仁を取りて行いは違(たが)い、これに居りて疑わず。邦 に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。

子張がお訊ねした、「士人はどのようであれば通達と言えるのでしょう。」先生は言われた、「どういうことだね。お前の通達というのは。」子張がお答えして 言った、「国にいてもきっと評判がよく、家に居てもきっと評判が善いことです。」先生は言われた、「それは評判の善いことで、通達ではない。元来、通達と は、真っ正直で正義を愛し、人の言葉をよく考えて顔色を見抜き、気を付けて人にへりくだって、国に居てもきっと通達し、家にいてもきっと通達することだ。 ところで評判がよいという方は、上辺は仁らしくしているが実行は伴わず、そのままでいて疑いを持たず、国に居てもきっと評判がよく、家に居てもきっと評判 がよいと言うものだ。」


12-21

樊遅從遊於舞ウ*之下、曰、敢問崇徳脩慝辨惑、子曰、善哉問、先事後得、非崇徳與、攻其惡無攻人之惡、非脩慝與、一朝之忿忘其身以及其親、非惑與、

樊遅(はんち)従いて舞ウ*の下(もと)に遊ぶ。曰わく、敢えて徳を崇(たか)くし慝(とく)を脩(おさ)め惑いを弁ぜんことを問う。子の曰わく、善いか な、問うこと。事を先にして得ることを後にするは、徳を崇くするに非ずや。其の悪を攻めて人の悪を攻むること無きは、慝を脩むるに非ずや。一朝の忿(いき どお)りに其の身を忘れて以て其の親(しん)に及ぼすは、惑いに非ずや。

樊遅がお共をして雨乞いに舞う台のあたりで遊んだときに言った、「恐れ入りますが、徳を高め邪悪(よこしま)を除き迷いをはっきりさせることについてお訊 ねいたします。」先生は言われた、「立派だね、その質問は。仕事を先にして利益は後回しにするのが、徳を高めることじゃなかろうか。自分の悪い点を責めて 他人の悪い点を責めないのが、邪悪を除くことじゃなかろうか。一時の怒りに我が身を忘れたうえ、近親まで巻添えにするのは、迷いじゃなかろうか」


12-22

樊遅問仁、子曰愛人、問知、子曰知人、樊遅未達、子曰、擧直錯諸在、能使枉者直、樊遅退、見子夏曰、嚮也吾見於夫子而問知、子曰、擧直錯諸枉、能使枉者直、何謂也、子夏曰、富哉是言乎、舜有天下、選於衆擧皐陶、不仁者遠矣、湯有天下、選於衆擧伊尹、不仁者遠矣、

樊遅(はんち)、仁を問う。子の曰わく、人を愛す。知を問う。子の曰わく、人を知る。樊遅未だ達せず。子の曰わく、直(なお)きを挙げて諸(こ)れを枉 (まが)れるに錯(お)けば、能く枉れる者をして直からしめん。樊遅退きて子夏に見(まみ)えて曰わく、嚮(さき)に吾れ夫子に見えて知を問う、子の曰わ く、直きを挙げて諸れを枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしめんと。何の謂いぞや。子夏が曰わく、富めるかな、是の言や。舜、天下を有(たも) ち、衆に選んで皐陶(こうよう)を挙げしかば、不仁者は遠ざかれり。湯(とう)、天下を有ち、衆に選んで伊尹を挙げしかば、不仁者は遠ざかれり。

樊遅が仁のことをお訊ねすると、先生は「人を愛することだ。」と言われた。智のことをお訊ねすると、「人を知ることだ。」と言われた。樊遅はまだよく分か らなかった。先生は言われた、「正しい人々をひきたてて邪悪(よこしま)な人々の上に位(くらい)づけたなら、邪悪な人々も正しくさせることができる。」 樊遅は退出してから子夏に会って話した、「先ほど私はうちの先生にお会いして智のことをお訊ねしたが、先生は『正しい人々をひきたてて邪悪な人々の上に位 づけたなら、邪悪な人々も正しくさせることができる。』とおっしゃった。どういう意味だろうか。」子夏は言った、「充実しているね、そのお言葉は。舜が天 下を取ったとき、大勢の中から選んで皐陶(こうよう)をひきたてたので、仁でない者共は遠ざかった。湯(とう)が天下を取ったときも、大勢の中から選んで 伊尹(いいん)を引き立てたので、仁でない者共は遠ざかったのだ。」


12-23

子貢問友、子曰、忠告而以善道之、無自辱焉、

子貢、友を問う。子の曰わく、忠告して善を以てこれを道びく。不可なれば則ち止(や)む。自ら辱(はずかし)めらるること無かれ。

子貢が友達[との交わり]のことをお訊ねした。先生は言われた、「忠告して善道によって導くべきだが、聞かれなければやめて、[無理強いをして]吾から恥をかくことのないように。」


12-24

曾子曰、君子以文會友、以友輔仁、

曾子の曰わく、君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔(たす)く。

曾子が言われた、「君子は文事[詩書礼楽]によって友達を集め、友達によって仁の徳[の成長]を助ける。」

巻 第七
13、子路第十三

13-01

子路問政、子曰、先之勞之、請益、曰、無倦、

子路、政を問う。子の曰わく、これに先んじ、これを労す。益を請う。曰わく、倦むこと無かれ。

子路が政治のことをお訊ねした。先生は言われた、「率先すること、ねぎらうことだ。」いま少しお願いすると、「怠ることのないように」と言われた。


13-02

仲弓爲季氏宰、問政、子曰、先有司、赦小過、擧賢才、曰、焉知賢才而擧之、曰、擧爾所知、爾所不知、人其舎諸、

仲弓、季氏の宰と為りて、政を問う。子の曰わく、有司を先にし、小過(しょうか)を赦(ゆる)し、賢才を挙げよ。曰わく、焉(いず)くんぞ賢才を知りてこれを挙げん。曰わく、爾(なんじ)の知る所を挙げよ。爾の知らざる所、人其れ諸(こ)れを舎(す)てんや。

仲弓が季氏の宰[封地の取締]になって政治のことをお訊ねした。先生は言われた、「役人ことを先にしなさい。[その]小さい過失は許してやり、才能の勝れ た者を引き立てるように。」「才能の勝れた者を見つけて引き立てるにはどうしましょう。」「お前に分かった者を引き立てなさい。そうしたらお前に分からな い者は人々がすてておかないだろう[きっと推薦してくる]」


13-03

子路曰、衛君待子而爲政、子將奚先、子曰、必也正名乎、子路曰、有是哉、子之迂也、奚其正、子曰、野哉由也、君子於其所不知、蓋闕如也、名不正則言不順、 言不順則事不成、事不成則禮樂不興、禮樂不興則刑罰不中、刑罰不中則民無所措手足、故君子名之必可言也、言之必可行也、君子於其言、無所苟而已矣、

子路が曰わく、衛の君、子を待ちて政を為さば、子将に奚(なに)をか先にせん。子の曰わく、必ずや名を正さんか。子路が曰わく、是れ有るかな、子の迂 (う)なるや。奚(なん)ぞ其れ正さん。子の曰わく、野(や)なるかな、由や。君子は其の知らざる所に於ては、蓋闕如(かつけつじょ)たり。名正しからざ れば則ち言順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中(あた)らず、刑罰中らざれば則ち民手足 を措(お)く所なし。故に君子はこれに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。君子、其の言に於て、苟(いやし)くもする所なきの み。

子路が言った、「衛の殿様が先生をお迎えして政治をなされることになれば、先生は何から先になさいますか。」先生は言われた、「せめては名を正すことだ ね。」子路は言った、「これですからね、先生の回り遠さは。[この急場にそんなものを]どうしてまた正すのですか。」先生は言われた、「がさつだね、由 は。君子は自分の分からないことでは黙っているものだ。名が正しくなければ言葉も順当でなく、言葉が順当でなければ仕事も出来上がらず、仕事が出来上がら なければ、礼儀や音楽も盛んにならず、儀礼や音楽が盛んでなければ、刑罰もぴったりゆかず、刑罰がぴったりとゆかなければ人民は[不安で]手足の置き所も なくなる。だから君子は名をつけたら、きっと言葉で言えるし、言葉で言ったらきっと実行出来るようにする。君子は自分の言葉については決していいかげんに しないものだよ。」


13-04

樊遅請學稼、子曰、吾不如老農、請學爲圃、子曰吾不如老圃、樊遅出、子曰、小人哉樊須也、上好禮、則民莫敢不敬、上好義、則民莫敢不服、上好信、則民莫敢不用情、夫如是、則四方之民、襁負其子而至矣、焉用稼、

樊遅(はんち)、稼を学ばんと請う。子の曰わく、吾れ老農に如(し)かず。圃(ほ)を為(つ)くることを学ばんと請う。曰わく、吾れは老圃に如かず。樊遅 出ず。子の曰わく、小人なるかな、樊須(はんす)や。上(かみ)礼を好めば、則ち民は敢えて敬せざること莫(な)し。上義を好めば、則ち民は敢えて服せざ ること莫し。上信を好めば、則ち民は敢えて情を用いざること莫し。夫れ是(か)くの如くんば、則ち四方の民は其の子を襁負(きょうふ)して至らん。焉んぞ 稼を用いん。

樊遅が穀物作りを習いたいと願うと、先生は「私は年よりの百姓に及ばない。」と言われた。野菜作りを習いたいと願うと、「私は年よりの畑作りには及ばな い。」と言われた。樊遅が退出してから、先生は言われた、「小人だね、樊須(はんす)は。上(かみ)の者が礼を好めば人民はみな尊敬するし、上の者が正義 を好めば人民はみな服従するし、上の者が誠実を好めば人民はみな真心を働かせる。まあそのようであれば、四方の人民達もその子供を背負ってやって来る。ど うして穀物作り[を習うこと]などいるものか。」


13-05

子曰、誦詩三百、授之以政不達、使於四方不能専對、雖多亦奚以爲、

子の曰わく、詩三百を誦(しょう)し、これに授くるに政を以てして達せず、四方に使いして専(ひと)り対(こた)うること能わざれば、多しと雖も亦た奚(なに)を以て為さん。

先生が言われた、「詩経の三百篇を暗誦していても、それに政務を与えても通じが悪く、四方の国々へ使いに行っても一人で応対出来ないのでは、仮令[暗誦が]多くとも何の役にたとうか」


13-06

子曰、其身正、不令而行、其身不正、雖令不從、

子の曰わく、其の身正しければ、令せざれども行わる。其の身正しからざれば、令すと雖も従わず。

先生が言われた、「我が身が正しければ、命令をしなくとも行なわれるが、我が身が正しくなければ、命令したところで従われない」


13-07

子曰、魯衛之政兄弟也、

子の曰わく、魯衛の政は兄弟なり。

先生が言われた、「魯の国と衛の国の政治は兄弟[のように似たもの]だ。」


13-08

子謂衛公子荊、善居室、始有曰苟合矣、少有曰苟完矣、富有曰苟美矣、

子、衛の公子荊(こうしけい)を謂わく、善く室を居(お)く。始め有るに曰わく、苟(いささ)か合う。少しく有るに曰わく、苟か完(まった)し。富(さかん)に有るに曰わく、苟か美(よ)し。

先生は衛の公子の荊(けい)のことを、こう言われた、「家財の蓄えが上手い。やっと[家財の]出来たときには『なんとか間に合うよ。』と言っていたが、かなり出来たときには『なんとか整ったよ。』と言い、うんと出来たときには『何とか立派になったよ。』と言っている」


13-09

子適衛、冉有僕、子曰、庶矣哉、冉有曰、既庶矣、叉何加焉、曰富之、曰既富矣、叉何加焉、曰教之、

子、衛に適(ゆ)く。冉有(ぜんゆう)僕たり。子の曰わく、庶(おお)きかな。冉有が曰わく、既に庶し。又た何をか加えん。曰わく、これを富まさん。曰わく、既に富めり。又た何をか加えん。曰わく、これを教えん。

先生が衛の国へ行かれたとき、冉有が御者であった。先生が「[衛の人口は]多いね。」と言われたので、冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょ う。」と言うと、「富ませよう。」と言われた。「富ましたら、さらに何をしたものでしょう」と言うと、「教育しよう。」と言われた。


13-10

子曰、苟有用我者、期月而已可也、三年有成、

子の曰わく、苟(いやしく)も我れを用うる者あらば、期月(きげつ)のみにして可ならん。三年にして成すこと有らん。

先生が言われた、「もし誰か私を用いて[政治をさせて]くれる人があれば、一年だけでも結構なのだ。三年も経てば立派にできあがる」



13-11

子曰、善人爲邦百年、亦可以勝殘去殺矣、誠哉是言也、

子の曰わく、善人、邦(くに)を為(おさ)むること百年、亦た以て残に勝ちて殺を去るべしと。誠なるかな、是の言や。

先生が言われた、「[普通の]善人でも百年も国を治めていれば、暴れ者をおさえて死刑も無くすることが出来るというが、本当だよ。この言葉は。」


13-12

子曰、如有王者、必世而後仁、

子の曰わく、如(も)し王者あらば、必ず世にして後に仁ならん。

先生が言われた、「もし[天命を受けた]王者が出ても、[今の乱世では]きっと一代[三十年]経ってから初めて仁[の世界]になるのだろう」


13-13

子曰、苟正其身矣、於從政乎何有、不能正其身、如正人何、

子の曰わく、苟(いやしく)も其の身を正せば、政に従うに於てか何か有らん。其の身を正しくすること能わざれば、人を正しくすることを如何せん。

先生が言われた、「もし我が身を正しくさえするなら、政治をするぐらいは何でもない。我が身を正しくすることも出来ないのでは、人を正すことなどどうなろう。」


13-14

冉子退朝、子曰、何晏也、對曰、有政、子曰、其事也、如有政、雖不吾以、吾其與聞之、

冉子、朝(ちょう)より退く。子の曰わく、何ぞ晏(おそ)きや。対たえて曰わく、政あり。子の曰わく、其れ事ならん。如(も)し政あらば、吾れを以(もち)いずと雖も、吾れ其れこれを与(あずか)り聞かん。

冉子が朝廷から退出してきた。先生が「どうして遅かったのだ。」と言われると、「政務がありました。」と答えた。先生は言われた、「まあ事務だろう。もし政務があるなら、私を用いていないとしても、私はきっと相談にあずかっているはずだ」


13-15

定公問、一言而可以興邦有諸、孔子對曰、言不可以若是、其幾也、人之言曰、爲君難、爲臣不易、如知爲君之難也、不幾乎一言而興邦乎、曰、一言而可喪邦有 諸、孔子對曰、言不可以若是、其幾也、人之言曰、予無樂乎爲君、唯其言而樂莫予違也、如其善而莫之違也、不亦善乎、如不善而莫之違也、不幾乎一言而喪邦 乎、

定公問う。一言にして以て邦を興こすべきこと諸(こ)れ有りや。孔子対たえて曰わく、言は以て是(か)くの若(ごと)くなるべからざるも、其れ幾(ちか) きなり。人の言に曰わく、君たること難(かた)し、臣たること易(やす)からずと。如(も)し君たることの難きを知らば、一言にして邦を興こすに幾(ち か)かからずや。曰わく、一言にして以て邦を喪(ほろ)ぼすべきこと諸れ有りや。孔子対たえて曰わく、言は以て是くの若とくなるべからざるも、其れ幾きな り。人の言に曰わく、予(わ)れは君たることを楽しむこと無し。唯だ其の言にして予れに違(たが)うこと莫(な)きを楽しむなりと。如し其れ善にしてこれ に違うこと莫くんば、亦た善からずや。如し不善にしてこれに違うこと莫くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾(ちか)かからずや。

定公が「一言で国を盛んに出来るということがあるだろうか。」と訊ねられた。孔子はお答えになった、「言葉はそうしたものではありませんが、まあ近いもの はあります。誰かの言葉に『君であることは難しい、臣であることも易しくない。』とありますが、もし君であることの難しさが分かるというのであれば、[こ の言葉は]一言で国を盛んにするというのに近いのではないでしょうか。」「[それでは]一言で国を滅ぼせるということがあるだろうか。」孔子はお答えに なった、「言葉はそうしたものではありませんが、まあ近いものはあります。誰かの言葉に『私は君であることを楽しむのではない。唯だ、ものを言って私に逆 らう者の居ないことを楽しむのだ』とありますが、もしも善いことでそれに逆らう者が居ないのなら、なんと結構でしょうが、もし善くないことでもそれに逆ら う者が居ないというのであれば、[この言葉は]一言で国を滅ぼすということに近いのではないでしょうか。」


13-16

葉公問政、子曰、近者説、遠者來、

葉公(しょうこう)、政を問う。子の曰わく、近き者説(よろこ)び遠き者来たる。

葉公が政治のことを訊ねられた。先生は言われた、「近くの人々は悦び、遠くの人々は[それを聞いて慕って]やって来るように」 




13-17

子夏爲魯キョ*父宰、問政、子曰、毋欲速、毋見小利、欲速則不達、見小利則大事不成、

子夏、キョ父(ほ)の宰と為りて、政を問う。子の曰わく、速やかならんと欲すること毋(な)かれ。小利を見ること毋かれ。速やかならんと欲すれば則ち達せず。小利を見れば則ち大事成らず。

子夏が[魯の町]キョ父の宰(取締)となって政治のことをお訊ねした。先生は言われた、「早く成果を挙げたいと思うな。小利に気を取られるな。速く成果を挙げたいと思うと成功しないし、小利に気をとられると大事は成し遂げられない」


13-18

葉公語孔子曰、吾黨有直躬者、其父攘羊、而子證之、孔子曰、吾黨之直者異於是、父爲子隱、子爲父隱、直在其中矣、

葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて。子これを証す。孔子の曰わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。

葉公が孔子に話した、「私どもの村には正直者の躬という男がいて、自分の父親が羊を誤魔化したときに、息子がそれを知らせました。」孔子は言われた、「私 どもの村の正直者はそれとは違います。父は子の為に隠し、子は父の為に隠します。正直さはそこに自然に備わるものですよ」


13-19

樊遅問仁、子曰、居處恭、執事敬、與之夷狄、不可棄也、

樊遅、仁を問う。子の曰わく、居処(きょしょ)は恭に、事を執りて敬に、人に与(まじわ)りて忠なること、夷狄に之(ゆ)くと雖ども、棄つるべからざるなり。

樊遅が仁のことをお訊ねした。先生は言われた、「家に居るときはうやうやしく、仕事を行うときは慎重にし、人と交際しては誠実にするということは、仮令[野蛮な]夷狄の土地に行ったとしても棄てられないことだ」


13-20

子貢問曰、何如斯可謂之士矣、子曰、行己有恥、使於四方不辱君命、可謂士矣、曰、敢問其次、曰、宗族稱孝焉、郷黨稱弟焉、曰、敢問其次、曰、言必信、行必果、脛*脛*然小人也、抑亦可以爲次矣、曰、今之從政者何如、子曰、噫、斗肖*之人、何足算也、

子貢問いて曰わく、何如(いか)なるをか斯れこれを士と謂うべき。子の曰わく、己れを行うに恥あり、四方に使いして君命を辱(はずか)しめざる、士と謂う べし。曰わく、敢えて其の次を問う。曰わく、宗族(そうぞく)孝を称し、郷党(きょうとう)弟を称す。曰わく、敢えて其の次を問う。曰わく、言必ず信、行 必ず果(か)、コウコウ*然たる小人なるかな。抑々(そもそも)亦た以て次ぎと為すべし。曰わく、今の政に従う者は如何。子の曰わく、噫(ああ)、斗 (と)ショウの人、何んぞ算(かぞ)うるに足らん。

子貢がお訊ねして言った、「どのようでしたら、士の人と言えるでしょうか。」先生は言われた、「我が身の振る舞いに恥を知り、四方に使いに出て君の命令を 損なわなければ、士だと言えるよ。」「しいてお訊ねしますが、その次は」「一族から孝行だと言われ、郷里からは悌順だと言われる者だ。」「尚、しいてお訊 ねしますが、その次は」「言うことはきっと偽りなく、行うことはきっと潔い。こちこちの小人だがね、でもまあ次に挙げられるだろう。」「この頃の政治をし ている人はどうでしょうか。」先生は言われた、「ああ、つまらない人たちだ。取り上げるまでもない。」


13-21

子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不爲也、

子の曰わく、中行(ちゅうこう)を得てこれに与(くみ)せずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり。

先生が言われた、「中庸の人を見つけて交わらないとすれば、せめては狂者か狷者だね。狂の人は[大志を抱いて]進んで求めるし、狷の人は[節義を守って]しないことを残しているものだ」


13-22

子曰、南人有言、曰、人而無恆、不可以作巫醫、善夫、不恆其徳、或承之羞、子曰、不占而已矣、

子の曰わく、南人(なんじん)、言えること有り。曰わく、人にして恒(つね)なくんば、以て巫医(ふい)を作(な)すべからずと。善いかな。其の徳を恒にせざれば、或るいはこれに羞(はじ)を承(すす)めん。子の曰わく、占(うらな)わざるのみ。

先生が言われた、「南方の人の言葉に、『人として一定した心がないと巫(みこ)の占いも医者の治療も受けられない』とあるが、結構だね、」『その徳を一定 にしなければ、いつも辱めを受ける。』[という言葉について]先生は言われた、「占うまでもない[決まった]ことだよ。」


13-23

子曰、君子和而不同、小人同而不和、

子の曰わく、君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。

先生が言われた、「君子は調和するが雷同しない。小人は雷同するが調和はしない。」


13-24

子貢問曰、郷人皆好之何如、子曰、未可也、郷人皆惡之何如、子曰、未可也、不如郷人之善者好之、其不善者惡之也、

子貢問いて曰わく、郷人皆なこれを好(よみ)せば何如。子の曰わく、未だ可ならざるなり。郷人皆なこれを悪(にく)まば何如。子の曰わく、未だ可ならざるなり。郷人の善き者はこれを好し、其の善からざる者はこれを悪くまんには如(し)かざるなり。

子貢がお訊ねして言った、「土地の人が皆褒めると言うのは、いかがでしょうか。」先生は言われた、「十分ではない」「土地の人がみな憎むというのは、いかがでしょうか。」先生は言われた、「十分じゃない。土地の人の善人が褒めるし悪人が憎むというのには及ばないよ。」


13-25

子曰、君子易事而難説也、説之不以道、不説也、及其使人也、器之、小人難事而易説也、説之雖不以道、説也、及其使人也、求備焉、

子の曰わく、君子は事(つか)え易(やす)くして説(よろこ)ばしめ難(がた)し。これを説ばしむるに道を以てせざれば、説ばざるなり。其の人を使うに及びては、これを器(うつわ)にす。小人は事え難くして説ばしめ易し。これを説ばしむるに道を以てせずと雖も、説ぶなり。

先生が言われた、「君子には仕えやすいが、喜ばせるのは難しい。道義によって喜ばせるのでなければ喜ばないし、人を使うときには、長所に応じた使い方をす るからだ。小人には仕え難いが、喜ばせるのは易しい。喜ばせるのに道義によらなくても喜ぶし、人を使うときには、何でもさせようとするからだ」


13-26

子曰、君子泰而不驕、小人驕而不泰、

子の曰わく、君子は泰(ゆたか)にして驕らず、小人は驕りて泰ならず。

先生が言われた、「君子は落ち着いていて威張らないが、小人は威張って落ち着きがない。」


13-27

子曰、剛毅朴訥近仁、

子の曰わく、剛毅朴訥、仁に近し。

先生が言われた、「真っ正直で勇敢で質実で寡黙なのは仁徳に近い」


13-28

子路問曰、何如斯可謂之士矣、子曰、切切偲偲怡怡如也、可謂士矣、朋友切切偲偲、兄弟怡怡如也、

子路問いて曰わく、何如(いか)なるをか斯れこれを士と謂うべき。子の曰わく、切切偲偲怡怡如(せつせつししいいじょ)たる、士と謂うべし。朋友には切切偲偲、兄弟には怡怡如たり。

子路がお訊ねして言った、「どのようでしたら、士と言えるでしょうか。」先生が言われた、「努め励まして、にこやかに和らいでいれば、士だと言えるよ。友達には努め励まし、兄弟にはにこやかに和らぐのだ」


13-29

子曰、善人教民七年、亦可以即戎矣、

子の曰わく、善人、民を教うること七年、亦た以て戎(じゅう)に即(つ)かしむべし。

先生が言われた、「[普通の]善人でも人民を七年も教育すれば、戦争に行かせることが出来る」


13-30

子曰、以不教民戰、是謂棄之、

子の曰わく、教えざる民を以て戦う、是れこれを棄つと謂う。

先生が言われた、「教育もしていない人民を戦争させる、それこそ捨てるというものだ。[負けるに決まっているから。]」


14、憲問第十四

14-01

憲問恥、子曰、邦有道穀、邦無道穀、恥也、

憲、恥を問う、子の曰わく、邦に道あれば穀す。邦に道なきに穀するは、恥なり。

憲(けん)が恥のことをお訊ねした。先生は言われた、「国家に道があれば[仕官して]俸禄を受ける。国家に道が無いのに俸禄を受けるのは恥である。」


14-02

克伐怨欲不行焉、可以爲仁矣、子曰、可以爲難矣、仁則吾不知也、

克・伐・怨・欲、行なわれざる、以て仁と為すべし。子の曰わく、以て難(かた)しと為すべし。仁は則ち吾れ知らざるなり。

[原憲(げんけん)が言った、]「勝ち気や自慢や怨みや欲望が抑えられれば、仁といえましょうね。」先生が言われた、「難しいことだと言えようが、仁となると私には分からないよ。」


14-03

子曰、士而懐居、不足以爲士矣、

子の曰わく、士にして居を懐(おもう)は、以て士と為すに足らず。

先生が言われた、「士人でありながら安住の場を慕っているのでは、士人とするには足りない」


14-04

子曰、邦有道危言危行、邦無道危行言孫、

子の曰わく、邦(くに)に道有れば、言を危(はげ)しくし行を危しくす。邦に道無ければ、行を危しくして言は孫(したが)う。

先生が言われた、「国家に道があれば、言葉を厳しくし、行いも厳しくする。国家に道がなければ行いを厳しくして言葉は[害に遭わないように]和らげる。」


14-05

子曰、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必勇、勇者不必有仁、

子の曰わく、徳有る者は必ず言あり。言有る者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。勇者必ずしも仁あらず。

先生が言われた、「徳のある人にはきっと善い言葉があるが、善い言葉の有る人に徳があるとはかぎらない。仁の人にはきっと勇気があるが、勇敢な人に必ずしも仁が有るとは限らない」


14-06

南宮カツ*問於孔子曰、ゲイ*善射、ゴウ*盪舟、倶不得其死然、禹稷躬稼而有天下、夫子不答、南宮カツ*出、子曰、君子哉若人、尚徳哉若人、

南宮カツ*(なんきゅうかつ)、孔子に問いて曰わく、ゲイは射(しゃ)を善くし、ゴウ*は舟を盪(うごか)す。倶(とも)に其の死を得ず。禹と稷(しょ く)とは躬(みずか)ら稼(か)して天下を有(たも)つ。夫子(ふうし)答えず。南宮カツ*出(い)ず。子の曰わく、君子なるかな、若(かくのごと)き 人。徳を尚(たっと)べるかな、若き人。

南宮カツが孔子にお訊ねして言った、「ゲイは弓が巧かったし、ゴウは舟を動かすほど[の力持ち]でしたが、どちらも普通の死に方が出来ませんでした。[と ころが]禹や稷とは自分で耕していてそれで天下を取りましたが・・・。」先生は答えられなかった。南宮カツが出ていくと、先生は言われた、「君子だね、こ ういう人は。徳を貴ぶんだね。こういう人は。」


14-07

子曰、君子而不仁者有矣夫、未有小人而仁者也、

子の曰わく、君子にして不仁なる者あらんか。未だ小人にして仁なる者あらざるなり。

先生がいわれた、「君子であっても仁でない人はあるだろうね。だが小人なのに仁だという人はいない。」


14-08

子曰、愛之能勿勞乎、忠焉能勿誨乎、

子の曰わく、これを愛して能く労すること勿(な)からんや。忠にして能く誨(おし)うること勿からんや。

先生が言われた、「[人を]愛するからには励まさないでおれようか。[人に]誠実であるからには教えないでおれようか。」


14-09

子曰、爲命卑甚*草創之、世叔討論之、行人子羽脩飾之、東里子産潤色之、

子の曰わく、命を為(つく)るに卑ジン*これを草創(そうそう)し、世叔(せいしゅく)これを討論し、行人(こうじん)子羽(しう)これを脩飾(しゅうしょく)し、東里(とうり)の子産(しさん)これを潤色(じゅんしょく)す。

先生が言われた、「[鄭(てい)の国の外構文書は大変勝れていて、落ち度が無かった。]命令を作るときには卑ジンが草稿を作り、世叔が検討し、外交官の子羽が添削し、東里に居た子産が色付けした[からだ]。」


14-10

或問子産、子曰、惠人也、問子西、曰、彼哉、彼哉、問管仲、曰、人也、奪伯氏駢邑三百、飯疏食、沒齒無怨言、

或る人子産(しさん)を問う。子の曰わく、恵人(けいじん)なり。子西(しせい)を問う。曰わく、彼れをや、彼れをや。管仲(かんちゅう)を問う。曰[こ の]人や、伯氏(はくし)の駢邑(べんゆう)三百を奪い、疏食(そし)を飯(くら)いて歯(よわい)を沒するまで怨言(えんげん)なし。

ある人が[鄭の]子産のことを尋ねると、先生は「恵み深い人です。」と言われた。[楚の]子西のことを尋ねると「あの人か、あの人か。[語るまでもな い]」と言われた。[斉の]管仲のことを尋ねると、「この人は、伯氏から三百戸の駢の村を取り上げたのだが、伯氏は粗末な飯を食べながら、生涯恨み言を言 わなかった。[心服させたのですよ。]」と言われた。


14-11

子曰、貧而無怨難、富而無驕易、

子の曰わく、貧しくして怨むこと無きは難(かた)く。富みて驕ること無きは易(やす)し。

先生が言われた、「貧乏でいて怨むことの無いのは難しいが、金持ちでいて威張らないのは易しい」


14-12

子曰、孟公綽爲趙魏老則優、不可以爲膝薛大夫也、

子の曰わく、孟公綽(もうこうしゃく)、趙魏(ちょうぎ)の老と為れば、則ち優。以て膝薛(とうせつ)の大夫と為すべからず。

先生が言われた、「孟公綽は趙や魏の[ような大家でも一家の]家老となるには十分だが、膝や薛の[ような小国でも一国の]大夫にすることは出来ない。」


14-13

子路問成人、子曰、若臧武仲之知、公綽之不欲、卞莊子之勇、冉求之藝、文之以禮樂、亦可以爲成人矣、曰、今之成人者、何必然、見利思義、見危授命、久要不忘平生之言、亦可以爲成人矣、

子路、成人を問う。子の曰わく、臧武仲(ぞうぶちゅう)の知、公綽(こうしゃく)の不欲、卞荘子(べんそうし)の勇、冉求(ぜんきゅう)の芸の若(ごと) き、これを文(かざ)るに礼楽を以てせば、亦た以て成人と為すべし。曰わく、今の成人は、何ぞ必ずしも然らん。利を見ては義を思い、危うきを見ては命(い のち)を授く、久要(きゅうよう)、平生の言を忘れざる、亦た以て成人と為すべし。

子路が完成された人についてお訊ねした。先生は言われた、「臧武仲ほどの知恵と公綽ほどの無欲さと卞荘子ほどの勇気と冉求ほどの教養とがあって、尚、礼儀 と雅楽で飾りつけるなら、完成された人と言えるだろう。」又、言われた、「[だが]この頃の完成された人と言うのは、何もそうとは限らない。利益を前にし て正義を考え、危険を前にして一命をささげ、古い約束についても普段の一寸した言葉も忘れないというのなら、完成された人と言えるだろう。」


14-14

子問公叔文子於公明賈、曰、信乎、夫子不言不笑不取乎、公明賈對曰、以告者過也、夫子時然後言、人不厭其言也、樂然後笑、人不厭其言也、義然後取、人不厭其取也、子曰、其然、豈其然乎、

子、公叔文子(こうしゅくぶんし)を公明賈(こうめいか)に問いて曰わく、信(まこと)なるか。夫子(ふうし)の言わず、笑わず、取らざること。公明賈対 たえて曰わく、以て告(もう)す者の過(あやまち)なり。夫子、時にして然(しか)る後に言う、人の言うことを厭(いと)わざるなり。楽しみて然る後に笑 う、人其の笑うことを厭わざるなり。義にして然る後に取る、人其の取ることを厭わざるなり。子の曰わく、其れ然り。豈に其れ然らんや。

先生が公叔文子のことを公明賈にお訊ねになって「本当ですか。あの方はものも言わず、笑もせず、[物を贈られても]受け取らないというのは」と言われた。 公明賈は答えて言った、「お知らせした者の間違いです。あの方は言うべきときがきてはじめて言いますから、その言ったことを誰も嫌がらないのです。楽しく なってはじめて笑いますから、その笑ったことを誰も嫌がらないのです。正義にかなってはじめて受け取りますから、その受け取ったことを誰もが嫌がらないの です。」先生は言われた、「そうでしょう。噂のようなことはありますまい。」


14-15

子曰、臧武仲以防求爲後於魯、雖曰不要君、吾不信也、

子の曰わく、臧武仲(ぞうぶちゅう)、防を以て魯に後(のち)たらんことを求む。君を要せずと雖も、吾れは信ぜざるなり。

先生が言われた、「臧武仲は[罪によって魯の国を追われたが、]防に拠って後継ぎを立てたいと魯に要求した。主君に[お願いしたのであって、]強要したのではないと言ったところで、私は信用しない」


14-16

子曰、晋文公譎而不正、齊桓公正而不譎、

子の曰わく、晋(しん)の文公は、譎(いつわ)りて正しからず。斉(せい)の桓公(かんこう)は正しくして譎らず。

先生が言われた、「晋の文公は偽って正しくないが、斉の桓公は正しくて偽らなかった。」


14-17

子路曰、桓公殺公子糾、召忽死之、管仲不死、曰未仁乎、子曰、桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也、如其仁、如其仁、

子路が曰わく、桓公(かんこう)、公子糾(こうしきゅう)を殺す。召忽(しょうこつ)これに死し、管仲(かんちゅう)は死せず。曰わく、未だ仁ならざるか。子の曰わく、桓公、諸侯を九合して、兵車を以てせざるは、管仲の力なり。其の仁に如(し)かんや、其の仁に如かんや。

子路が言った、「桓公が公子糾を殺したとき、招忽は殉死しましたが管仲は死にませんで[仇の桓公に仕えま]した。」「仁ではないでしょうね。」と言うと、 先生は言われた、「桓公が諸侯を会合したとき武力を用いなかったのは、管仲のおかげだ。[殉死をしなかったのは小さいことで]誰がその仁に及ぼうか。誰が その仁に及ぼうか。」


14-18

子貢曰、管仲非仁者與、桓公殺公子糾、不能死、叉相之、子曰、管仲相桓公覇諸侯、一匡天下、民到于今受其賜、微管仲、吾其被髪左衽矣、豈若匹夫匹婦之爲諒也、自経於溝涜而莫之知也、

子貢が曰わく、管仲は仁者に非ざるか。桓公、公子糾(こうしきゅう)を殺して、死すること能わず。又たこれを相(たす)く。子の曰わく、管仲、桓公を相け て諸侯に覇(は)たり、天下を一匡(いっきょう)す。民、今に到(いた)るまで其の賜(し)を受く。管仲微(な)かりせば、吾れ其れ髪(はつ)を被り衽 (じん)を左にせん。豈に匹夫匹婦の諒(まこと)を為し、自ら溝涜(こうとく)に経(くび)れて知らるること莫(な)きが若(ごと)くならんや。

子貢が言った、「管仲は仁の人ではないでしょうね。桓公が公子糾を殺したときに、殉死もできないで、さらに[仇の]桓公を輔佐しました。」先生は言われ た、「管仲は桓公を輔佐して諸侯の旗頭にならせ、天下を整え正した。人民は今日までそのおかげを被っている。管仲がいなければ、私たちはざんばら髪で、襟 を左まえにし[た野蛮な風俗になっ]ていたろう。取るに足らない男女が義理立てをして首つり自殺で溝に捨てられ、誰も気づかれないで終わるというのと、 [管仲ほどの人が]どうして同じに出来ようか。」


14-19

公叔文子之臣大夫撰*、與文子同升諸公、子聞之曰、可以爲文矣、

公叔文子(こうしゅくぶんし)の臣、大夫撰*(せん)、文子と同じく公に升(のぼ)る。子これを聞きて曰わく、以て文と為すべし。

公叔文子の家来であった大夫の撰*は、[文子の推薦によって]文子と並んで[衛の]朝臣に昇進した。先生はそのことを聞かれると、「[文子はなるほど]文といえるね。」と言われた。


14-20

子言衛霊公之無道也、康子曰、夫如是、奚而不喪、孔子曰、仲叔圉治賓客、祝鴕治宗廟、王孫賈治軍旅、夫如是、奚其喪、

子、衛の霊公の無道なるを言う。康子(こうし)が曰わく、夫(そ)れ是(か)くの如くんば、奚(いか)にしてか喪(うし)なわざる。孔子の曰わく、仲叔圉 (ちゅうしゅくぎょ)は賓客を治め、祝鴕(しゅくだ)は宗廟を治め、王孫賈(おうそんか)は軍旅を治む。夫れ是くの如くんば、奚んぞ其れ喪なわん。

先生が衛の霊公の出鱈目ぶりを話されたので、康子は言った、「一体、そんなことで、どうしてまた失脚しないのです。」孔子は言われた、「仲叔圉が[外国か らの]来賓のことを治め、祝鴕が宗廟のことを治め、王孫賈が軍事を治めています。まあこういうことだから、どうして失脚しましょうか。」


14-21

子曰、其言之不乍*、則其爲之也難、

子の曰わく、其の言にハ*じざれば、則ちこれを為すこと難し。

先生が言われた、「自分の言葉に恥を知らないようでは、それを実行するのは難しい」


14-22

陳成子弑簡公、孔子沐浴而朝、告於哀公曰、陳恆弑其君、請討之、公曰、告夫三子、孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也、君曰、告夫三子者、之三子告、不可、孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也、

陳成子(ちんせいし)、簡公を弑(しい)す。孔子、沐浴して朝(ちょう)し、哀公に告げて曰わく、陳恆(ちんこう)、其の君を弑す。請う、これを討たん。 公の曰わく、夫(か)の三子に告げよ。孔子の曰わく、吾れ大夫の後(しりえ)に従えるを以て、敢て告げずんばあらざるなり。君の曰わく、夫の三子者に告げ よと。三子に之(ゆ)きて告ぐ。可(き)かず。孔子の曰わく、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢て告げずんばあらざるなり。

[斉の国の]陳成子が[その主君の]簡公を殺したとき、孔子は髪を洗い、身体を清めて[魯の朝廷に]出仕されると、哀公に申し上げられた、「陳恒がその主 君を殺しました。どうかお討ちとり下さい。」[しかし]公は「あの三人に言いなさい。」と言われた。孔子は[退出すると]「私も大夫の末席についている以 上は、申し上げずにおれなかったのだ。だが、殿様は『あの三人の者に言え』と仰せられた。」と言われ、[さて]三人の所へ行って話されたが、聞かなかっ た。孔子は言われた、「私も大夫の末席に就いている以上は、話さずにはおれなかったのだ。」


14-23

子路問事君、子曰、勿欺也、而犯之、

子路、君に事(つか)えんことを問う。子の曰わく、欺くこと勿(な)かれ。而してこれを犯せ。

子路が主君に仕えることをお訊ねした。先生は言われた、「欺いてはいけない。そして逆らってでも諌めよ。」


14-24

子曰、君子上達、小人下達、

子の曰わく、君子は上達(じょうたつ)す。小人は下達(かたつ)す。

先生が言われた、「君子は高尚なことに通ずるが、小人は下賎なことに通ずる。」


14-25

子曰、古之學者爲己、今之學者爲人、

子の曰わく、古(いにしえ)の学者は己の為ににし、今の学者は人の為にす。

先生が言われた、「昔の学んだ人は自分の[修養の]ためにした。この頃の学ぶ人は人に知られたい為にする。」


14-26

遽*伯玉使人於孔子、孔子與之坐而問焉、曰夫子何爲、對曰、夫子欲寡其過而未能也、使者出、子曰、使乎使乎、

遽*伯玉(きょはくぎょく)、人を孔子に使いせしむ。孔子これに坐を与えて問いて曰わく、夫子(ふうし)何をか為す。対たえて曰わく、夫子は其の過(あやま)ち寡(すく)なからんことを欲して、未だ能わざるなり。使者出ず。子の曰わく、使いなるかな、使いなるかな。

遽*伯玉が孔子の所へ使いをよこした。孔子は使いの者を席に着かせてから、訊ねられた、「あの方はどうしておられますか。」答えて、「あの方は自分の過ち の少ないようにとしておりますが、未だ出来ないでいます。」使いの者が退出すると、先生は「[立派な]使いだね、[立派な]使いだね。」と言われた。



14-27

子曰、不在其位、不謀其政、

子の曰わく、其の位に在らざれば、其の政を謀(はか)らず。

先生が言われた、「其の地位にいるのでなければ、その政務に口出ししないこと」


14-28

曾子曰、君子思不出其位、

曾子の曰わく、君子は思うこと其の位を出でず。

曾子が言われた、「君子はその職分以上のことは考えない」


14-29

子曰、君子恥其言之過其行也、

子の曰わく、君子は其の言の其の行に過ぐるを恥ず。

先生が言われた、「君子は、自分の言葉が実践よりも以上になることを恥とする」


14-30

子曰、君子道者三、我無能焉、仁者不憂、知者不惑、勇者不懼、子貢曰、夫子自道也、

子の曰わく、君子の道なる者三つ。我れ能(よ)くすること無し。仁者は憂えず。知者は惑わず、勇者は懼(おそ)れず。子貢が曰わく、夫子自ら道(い)うなり。

先生が言われた、「君子の道というものが三つあるが、私には出来ない。仁の人は心配しない、智の人は惑わない、勇の人は恐れない。」子貢が言った、「うちの先生は自分のことを言われたのだ。[出来ないと言われたのはご謙遜だ。]」


14-31

子貢方人、子曰、賜也賢乎哉、夫我則不暇、

子貢、人を方(たくら)ぶ。子の曰わく、賜(し)や、賢なるかな。夫(そ)れ我れは則ち暇(いとま)あらず。

子貢が人の悪口を言った。先生は言われた、「賜は賢しこいんだね。まあ私などにはそんな暇はない。」


14-32

子曰、不患人之不己知、患己無能也、

子の曰わく、人の己を知らざることを患(うれ)えず、己れの能(のう)なきを患う。

先生が言われた、「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、自分に才能がないことを気にかけることだ。」


14-33

子曰、不逆詐、不億不信、抑亦先覺者、是賢乎、

子の曰わく、詐(いつわ)りを逆(むか)えず、信ぜられざるを億(おもんばか)らず、抑々亦た先ず覚る者は、是れ賢か。

先生が言われた、「騙されないかと早手回しもせず、疑われないかと気をくばることもしないでいて、それなのに早く気が付くと言うのは、これは賢いね。」


14-34

微生畝謂孔子曰、丘何爲是栖栖者與、無乃爲佞乎、孔子對曰、非敢爲佞也、疾固也、

微生畝(びせいほ)、孔子に謂いて曰わく、丘、何爲(なんす)れぞ是れ栖栖(せいせい)たり者ぞ。乃(すなわ)ち佞(ねい)を為すこと無からんや。孔子対たえて曰わく、敢て佞を為すに非らざるなり。固を疾(にく)むなり。

微生畝が孔子に向かって言った、「丘さん、どうしてそんなに忙しそうなんだね。口上手をつとめていることにならないだろうか。」孔子は答えられた、「決して口上手をつとめているのではありません。[独善的に]頑ななのがいやだからです」


14-35

子曰、驥不称其力、称其徳也、

子の曰わく、驥(き)は其の力を称せず。其の徳を称す。

先生が言われた、「名馬はその力を褒められるのでなくて、その徳(性質のよさ)を褒められるのだ」


14-36

或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報徳、以直報怨、以徳報徳、

或るひとの曰わく、徳を以て怨みに報いば、何如(いかん)。子の曰わく、何を以てか徳に報いん。直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ。

ある人が「恩徳で怨みの仕返しをするのは、いかがでしょう。」と言った。先生は言われた、「では恩徳のお返しは何でするのですか。真っ直ぐな正しさで怨みにむくい、恩徳によって恩徳にお返しをすることです。」


14-37

子曰、莫我知也夫、子貢曰、何爲其莫知子也、子曰、不怨天、不尤人、下學而上達、知我者其天乎、

子の曰わく、我れ知ること莫(な)きかな。子貢が曰わく、何爲(なんす)れぞ其れ子を知ること莫からん。子の曰わく、天を怨みず、人を尤(とが)めず、下学(かがく)して上達す。我れを知る者は其れ天か。

先生が「私を分かって呉れる者がないねえ。」と言われたので、子貢は[あやしんで]「どうしてまた先生のことを分かる者がないのです。」と言った。先生は 言われた、「天を怨みもせず、人を咎めもせず、[ただ自分の修養に努めて、]身近かなことを学んで高遠なことに通じていく。私のことを分かって呉れる者 は、まあ天だね」


14-38

公伯寮愬子路於季孫、子服景伯以告曰、夫子固有惑志於公伯寮也、吾力猶能肆諸市朝、子曰、道之將行也與、命也、道之將廢也與、命也、公伯寮其如命何、

公伯寮(こうはくりょう)、子路を季孫(きそん)に愬(うった)う。子服景伯(しふくけいはく)以て告(もう)して曰わく、夫子固(もと)より公伯寮に惑 える志し有り。吾が力猶(な)お能く諸(こ)れを市朝(しちょう)に肆(さら)さん。子の曰わく、道の将に行なわんとするや、命なり。道の将に廃せんとす るや、命なり。公伯寮、其れ命を如何。

公伯寮が子路のことを季孫に讒言(ざんげん)した。子服景伯がそのことをお知らせして、「あの方[季孫]はもちろん公伯寮め[の言葉]に心を惑わしておい でですが、私の力でもあいつを[死刑にして]広場でさらしものにすることができます。」と言った。先生は言われた、「道が行なわれようとするのも運命です し、道がすたれようとするのも運命です。公伯寮ごときが一体運命をどうするのです」


14-39

子曰、賢者避世、其次避地、其次避色、其次避色、子曰、作者七人矣、

子の曰わく、賢者は世を避く。其の次は地を避く。其の次は色を避く。其の次は言を避く。子の曰わく、作す者七人。

先生が言われた、「勝れた人は[世の乱れた時には]世を避ける。その次は土地を避ける。その次は[主君の冷たい]顔色を見て避ける。その次は[主君の悪い]言葉を聞いて避ける。」先生が言われた、「[以上のことを]行った人は七人いる」


14-40

子路宿於石門、晨門曰、奚自、子路曰、自孔氏、是知其不可而爲之者與、

子路、石門に宿る。晨門(しんもん)曰わく、奚(いず)れよりぞ。子路が曰わく、孔氏よりす。曰わく、是れ其の不可なることを知りて而(しか)もこれを為す者か。

子路が石門で泊まった。門番が「どちらから」と言ったので、子路が「孔の家からだ。」と言うと、「それは、駄目なのを知りながらやっている方ですな。」と言った。


14-41

子撃磬於衛、有荷簣*而過孔氏之門者、曰、有心哉撃磬乎、既而曰、鄙哉、脛*脛*乎、莫己知也斯己而已矣、深則勵*、淺則掲、子曰、果哉、末之難矣、

子、磬(けい)を衛に撃(う)つ。簣(あじか)を荷ないて孔氏の門を過ぐる者あり。曰わく、心あるかな、磬を撃つこと。既にして曰わく、鄙(いやし)きか な、コウコウ*乎(こ)たり。己れを知ること莫(な)くんば、斯れ已(や)まんのみ、深ければ勵*(れい)し、浅ければ掲す。子の曰わく、果なるかな。難 (かた)きこと末(な)きなり。

先生が衛の都で磬をたたいておられたとき、もっこを担いで孔家の戸口を通り過ぎる者がいてこう云った、「心がこもっているね、この磬のたたき方は。」しば らく経つと[また]言った、「俗っぽいね。こちこち[の音]だぞ。自分のことを分かってもらえなければ、そのまま止めるだけのことさ。『深い川なら着物を 脱ぐし、浅い川ならすそからげ』だよ。」先生は言われた、「思いきりが善いね。だが難しいことじゃないよ。」




適衛撃磐図(第23図)(衛国で磐を打った孔子が通りがかりの人物に批評される図)孔子58歳 14:41





14-42

子張曰、書云、高宗諒陰三年不言、何謂也、子曰、何必高宗、古之人皆然、君薨、百官總己以聽於冢宰三年、

子張(しちょう)が曰わく、書に云う、高宗(こうそう)、諒陰(りょうあん)三年言(ものい)わずとは、何の謂(い)いぞや。子の曰わく、何ぞ必ずしも高 宗のみならん。古(いにしえ)の人皆な然(しか)り。君薨(こう)ずれば、百官、己れを総べて以て冢宰(ちょうさい)に聴くこと三年なり。

子張が言った、「書経に『[殷の]高宗は喪に服して三年の間ものを言わなかった。』とあるのはどういうことでしょうか。」先生は言われた、「何も高宗に限 らない。昔の人は皆そうだった。主君がおかくれになると、全ての官吏は自分の仕事を取りまとめて三年の間、冢宰[総理大臣]に命令を仰いだものだ。[後継 ぎの君は、勿論ものを言わないでおられた]。」


14-43

子曰、上好禮、則民易使也、

子の曰わく、上(かみ)、礼を好めば、則ち民使い易し。

先生が言われた、「上(かみ)の人が礼を好むなら、人民も[うやうやしくなって]使いやすくなる」


14-44

子路問君子、子曰、脩己以敬、曰如斯而已乎、曰脩己以安人、曰如斯而已乎、曰脩己以安百姓、脩己以安百姓、尭舜其猶病諸、

子路、君子を問う。子の曰わく、己のれを脩(おさ)めて以て敬す。曰わく、斯(か)くの如きのみか。曰わく、己のれを脩めて以て人を安んず。曰わく、斯く の如きのみか。曰わく、己のれを脩めて以て百姓(ひゃくせい)を安すんず。己のれを脩めて以て百姓を安すんずるは、尭舜も其れ猶お諸れを病めり。

子路が君子のことをお訊ねした。先生は言われた、「自分を修養して慎み深くすることだ。」「そんなことだけでしょうか。」「自分を修養して人を安らかにす ることだ。」「そんなことだけでしょうか。」「自分を修養して万民を安らかにすることだ。自分を修養して万民を安らかにするということは、[聖天子の]尭 舜でさえも苦労をされた。」


14-45

原壌夷俟、子曰、幼而不孫弟、長而無述焉、老而不死、是爲賊、以杖叩其脛、

原壌(げんじょう)、夷して俟(ま)つ。子の曰わく、幼にして孫弟(そんてい)ならず、長じて述ぶること無く、老いて死せず。是れを賊と為す。杖を以て其の脛(はぎ)を叩(う)つ。

[先生の昔なじみでろくでなしの]原壌がうずくまって、待っていた。先生は「小さい時にはへりくだらず、大きくなってもこれというほどのこともなく、年寄りまで生きて死にもしない。こんなのが[人を害する]賊なのだ。」と言われると、杖でその脛を叩かれた。



14-46

闕黨童子將命矣、或問之曰、益者與、子曰、吾見其居於位也、見其與先生竝行也、非求益者也、欲速成者也、

闕党(けっとう)の童子(どうじ)、命(めい)を将(おこ)なう。或る人これを問いて曰わく、益者(えきしゃ)か。子の曰わく、吾れ其の位に居るを見る。其の先生と竝び行くを見る。益を求むる者に非ざるなり。速みやかに成らんと欲する者なり。

闕の村の少年が[客の]とりつぎをしていた。ある人がその少年のことを訊ねて「[学問の]進んだ人ですか。」と言ったので、先生は言われた、「私はあれが [大人と同じように]真ん中の席についているのを見ましたし、あれが先輩と肩を並べて歩いているのも見ました。進歩を求める者ではなくて、早く一人前に成 りたいというものです。」



巻 第八
15、衛靈公第十五

15-01

衛靈公問陳於孔子、孔子對曰、俎豆之事、則嘗聞之矣、軍旅之事、未之學也、明日遂行、

衛の霊公、陳を孔子に問う。孔子対たえて曰わく、俎豆(そとう)の事は則ち嘗(かつ)てこれを聞けり。軍旅(ぐんりょ)の事は未だこれを学ばざるなり。明日(めいじつ)遂(つい)に行く。

衛の霊公が孔子に先陣のことを訊ねられた。孔子はお答えして「お供えの器のことなら前から知っておりますが、軍隊のことはまだ学んでおりません。」と言われると、明くる日に立ち去られた。


霊公問陣図(第26図)(衛の霊公が軍事に関して孔子に尋ねる図)孔子60歳 15:1



15-02

在陳絶糧、從者病莫能興、子路慍見曰、君子亦有窮乎、子曰、君子固窮、小人窮斯濫矣、

陳に在(いま)して糧を絶つ。従者病みて能く興(た)つこと莫(な)し。子路慍(いか)って見(みま)えて曰わく、君子も亦た窮すること有るか。子の曰わく、君子固(もと)より窮す。小人窮すれば斯こに濫(みだ)る。

陳の国で食糧がなくなり、お共の人々は疲れ果てて起き上がることも出来なかった。子路が腹を立ててお目見えすると、「[修業をつんだ]君子でも困窮することがあるのですか」と言った。先生は言われた、「君子も勿論困窮する、だが小人は困窮すると出鱈目になるよ。」 






在陳絶糧図(第28図)(陳国と蔡国の軍隊に包囲され、飢えに苦しむ孔子の一行の図)孔子64歳、子路55歳 15:2


15-03

子曰、賜也、女以予爲多學而識之者與、對曰然、非與、曰、非也、予一以貫之、

子の曰わく、賜や、女(なんじ)予(わ)れを以て多く学びてこれを識(し)る者と為すか。対たえて曰わく、然(しか)り、非なるか。曰わく、非なり。予れは一以てこれを貫く。

先生が言われた、「賜よ、お前は私のことを沢山学んで[それぞれ]覚えている人間だと思うか。」[子貢は]お答えして、「そうです。違いますか。」「違うよ。私は一つのことで貫いている。」


15-04

子曰、由、知徳者鮮矣、

子の曰わく、由よ、徳を知る者は鮮(すく)なし。

先生が言われた、「由よ、徳のことが分かる人はほとんど居ないね。」


15-05

子曰、無爲而治者、其舜也與、夫何爲哉、恭己正南面而已矣、

子の曰わく、無為にして治まる者は其れ舜なるか。夫(そ)れ何をか為さんや。己れを恭々(うやうや)しくして正しく南面するのみ。

先生が言われた、「何もしないでいて巧く治められた人はまあ舜だろうね。一体、何をされたろうか。御身をつつしまれて、真南に向いておられただけだ。」


15-06

子張問行、子曰、言忠信、行篤敬、雖蠻貊之邦行矣、言不忠信、行不篤敬、雖州里行乎哉、立則見其参於前也、在輿則見其倚於衡也、夫然後行也、子張書諸紳、

子張、行なわれんことを問う。子の曰わく、言 忠信、行 篤敬(とくけい)なれば、蛮貊(ばんぱく)の邦(くに)と雖ども行なわれん。言 忠信ならず、行  篤敬ならざれば、州里と雖ども行なわれんや。立ちては則ち其の前に参するを見、輿(くるま)に在(あ)りては則ち其の衡(こう)に倚(よ)るを見る。夫 (そ)れ然る後に行なわれん。子張、諸(こ)れを紳(しん)に書す。

子張が[思どおり]行なわれるにはとお訊ねした。先生は言われた、「言葉に真心があり、行いが懇(ねんご)ろであれば、野蛮な外国でさえ行なわれる。言葉 に真心がなく、行いも懇ろでないなら[国内の]町や村の中でさえ行なわれようか。立っているときにはそのこと[真心と懇ろ]が前にやって来るように見え、 車に乗っているときにはそのことが車の前の横木に寄り掛かっているように見える、まあその様になってはじめて行なわれるのだ。」子張はその言葉を[忘れな いように]広帯の端に書き付けた。


15-07

子曰、直哉史魚、邦有道如矢、邦無道如矢、君子哉遽*伯玉、邦有道則仕、邦無道則可卷而懷之、

子の曰わく、直なるかな史魚。邦に道有るにも矢の如く、邦に道無きも矢の如し。君子なるかな遽伯玉(きょはくぎょく)。邦に道有れば則ち仕え、邦に道無ければ則ち巻きてこれを懐にすべし。

先生が言われた、「真っ直ぐだな、史魚は。国家に道の有るときも矢のようだし、国家に道が無いときにも矢のようだ。君子だな、遽伯玉は。国家に道の有るときには仕え[て才能を表すが]、国家に道が無いときには包んで隠しておける。」


15-08

子曰、可與言而不與之言、失人、不可與言而與之言、失言、知者不失人、亦不失言、

子の曰わく、与(とも)に言うべくしてこれと言わざれば、人を失う。与に言うべからずしてこれと言えば、言を失う。知者は人を失わず、亦た言を失わず。

先生が言われた、「話しあうべきなのに話しあわないと、相手の人を取り逃がす。話しあうべきでないのに話しあうと、言葉を無駄にする。智の人は人を取り逃がすこともなければ、また言葉を無駄にすることもない」


15-09

子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁、

子の曰わく、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り。

先生が言われた、「志のある人や仁の人は、命惜しさに仁徳を害するようなことはしない。時には命を捨てても仁徳を成し遂げる。」


15-10

子貢問爲仁、子曰、工欲善其事、必先利其器、居是邦也、事其大夫之賢者、友其士之仁者也、

子貢、仁を為さんことを問う。子の曰わく、工(こう)、其の事を善くせんと欲すれば、必ず先ず其の器(き)を利(と)くす。是の邦に居りては、其の大夫の賢者に事(つか)え、其の士の仁者を友とす。

子貢が仁徳の修め方をお訊ねした。先生は言われた、「職人が自分の仕事を巧くやろうとすれば、きっと先ずその道具を研ぐものだ。[だから]一つの邦にいる と、そこの大夫の優れた人にお仕えし、そこの士人の仁徳のある人を友達にする[というようにして、自分を磨き上げる]ことだ。」


15-11

顔淵問爲邦、子曰、行夏之時、乘殷之輅、服周之冕、樂則韶舞、放鄭聲、遠佞人、鄭聲淫、佞人殆、

顔淵、邦を為(おさ)めんことを問う。子の曰わく、夏(か)の時を行い、殷の輅(ろ)に乗り、周の冕(べん)を服し、楽は則ち韶舞(しょうぶ)し、鄭声(ていせい)を放ちて佞人(ねいじん)を遠ざけよ。鄭声は淫に、佞人は殆(あや)うし。

顔淵が国の治め方をお訊ねした。先生は言われた、「夏の暦(こよみ)を使い、殷の輅の車に乗り、周の冕(べん)の冠を着ける。音楽は[舜の]韶の舞だ。鄭の音曲を止めて、口上手な者を退ける。鄭の音曲は淫らだし、口上手な者は危険だから」


15-12

子曰、人而無遠慮、必有近憂、

子の曰わく、人にして遠き慮(おもんばか)り無ければ、必ず近き憂い有り。

先生が言われた、「人として遠くまでの配慮が無いようでは、きっと身近い心配事が起こる。」


15-13

子曰、已矣乎、吾未見好徳如好色者也、

子の曰わく、已矣乎(やんぬるかな)。吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。

先生が言われた、「お終いだなあ。私は美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ。」


15-14

子曰、臧文仲其竊位者與、知柳下惠之賢、而不與立也、

子の曰わく、臧文仲(ぞうぶんちゅう)は其れ位を竊(ぬす)める者か。柳下恵(りゅうかけい)の賢を知りて与(とも)に立たず。

先生が言われた、「臧文仲はまあ[職責を果さないで]位を盗んだ人だろう。柳下恵の勝れていることを知りながら、[推挙して]一緒にお仕えすることをしなかった。」


15-15

子曰、躬自厚、而薄責於人、則遠怨矣、

子の曰わく、躬(み)自ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨みに遠ざかる。

先生が言われた、「我と我が身に深く責めて、人を責めるのを緩くしていけば、怨みごと[怨んだり、怨まれたり]から離れるものだ。」


15-16

子曰、不曰如之何如之何者、吾末如之何也已矣、

子の曰わく、如之何(いかん)、如之何と曰わざる者は、吾れ如之何ともすること末(な)きのみ。

先生が言われた、「『どうしようか、どうしようか』と言わないような者は、私にもどうしようも無いねえ。」


15-17

子曰、羣居終日、言不及義、好行小慧、難矣哉、

子の曰わく、群居して終日、言 義に及ばず、好んで小慧(しょうけい)を行う。難いかな。

先生が言われた、「一日中大勢で集まっていて、話しが道義のことには及ばず、好んで猿知恵を働かせると言うのでは困ったものだね。」


15-18

子曰、君子義以爲質、禮以行之、孫以出之、信以成之、君子哉、

子の曰わく、君子、義以て質と為し、礼以てこれを行い、孫以てこれを出だし、信以てこれを成す。君子なるかな。

先生が言われた、「正義をもとにしながら、礼によって行い、謙遜によって表し、誠実によって仕上げる。君子だね。」


15-19

子曰、君子病無能焉、不病人之不己知也、

子の曰わく、君子は能(のう)なきことを病(うれ)う。人の己れを知らざることを病えず。

先生が言われた、「君子は[自分に]才能の無いことを気にして、人が自分のことを知って呉れないことなど気にかけない。」


15-20

子曰、君子疾沒世而名不称焉、

子の曰わく、君子は世(よ)を沒(お)えて名の称せられざることを疾(にく)む。

先生が言われた、「君子は生涯を終わってから[自分の]名前の唱えられないことを悩みとする。」


15-21

子曰、君子求諸己、小人求諸人、

子の曰わく、君子は諸(こ)れを己のれに求む。小人は諸れを人に求む。

先生が言われた、「君子は自分に[反省して]求めるが、小人は他人に求める。」


15-22

子曰、君子矜而不爭、羣而不黨、

子の曰わく、君子は矜(きょう)にして争わず、群して党せず。

先生が言われた、「君子は謹厳だが争わない、大勢といても一派に偏らない。」


15-23

子曰、君子不以言擧人、不以人廢言、

子の曰わく、君子は言を以て人を挙(あ)げず、人を以て言を廃せず。

先生が言われた、「君子は言葉によって[立派なことをいったからと言って]人を抜擢せず、また人によって[身分などが悪いからと言って]言葉を捨てることはしない。」


15-24

子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人也、

子貢問うて曰わく、一言にして以て終身これを行うべき者ありや。子の曰わく、其れ恕(じょ)か。己のれの欲せざる所、人に施すことな勿(な)かれ。

子貢がお訊ねして言った。「一言だけで一生行って行けるということが有りましょうか。」先生は言われた、「まあ恕[思いやり]だね。自分の望まないことは人にも仕向けないことだ。」


15-25

子曰、吾之於人也、誰毀誰譽、如有所譽者、其有所試矣、斯民也、三代之所以直道而行也、

子の曰わく、吾れの人に於けるや、誰をか毀(そし)り誰をか誉めん。如(も)し誉むる所の者あらば、其れ試みる所あらん。斯の民や、三代の直道(ちょくどう)にして行う所以(ゆえん)なり。

先生が言われた、「私は人に対して、誰にでも誹ったり、誉めたりしない。もし誉めることがあるとすれば、それははっきりしたうえのことだ。今の人民も[あ の理想的な]三代に真っ直ぐな道で行っていた人々と同じ[で、その性質は立派なはず]だから。[毀誉は慎重にしなければならない]」


15-26

子曰、吾猶及史之闕文也、有馬者借人乘之、今則亡矣夫、

子の曰わく、吾れは猶(な)お史の文を闕(か)き、馬ある者は人に借(か)してこれに乗らしむるに及べり。今は則ち亡(な)きかな。

先生が言われた、「記録官が[慎重で]疑わしいことを書かずに空けておき、馬を持つ者が人に貸して乗せてやるというのが、まだ私の若いころにはあった。今ではもう無くなってしまったよ。」


15-27

子曰、巧言亂徳、小不忍、則亂大謀、

子の曰わく、巧言は徳を乱る。小、忍びざれば、則ち大謀を乱る。

先生が言われた、「言葉上手は徳を害するし、小さいことに我慢しないと大計画を害する。」


15-28

子曰、衆惡之必察焉、衆好之必察焉、

子の曰わく、衆これを悪(にく)むも必ず察し、衆これを好むも必ず察す。

先生が言われた、「大勢が憎むときも必ず調べてみるし、大勢が好むときも必ず調べてみる。[盲従はしない。]」


15-29

子曰、人能弘道、非道弘人也、

子の曰わく、人能く道を弘む。道、人を弘むに非らず。

先生が言われた、「人間こそ道を広めることが出来るのだ。道が人間を広めるのではない。」


15-30

子曰、過而不改、是謂過矣、

子の曰わく、過(あやま)ちて改めざる、是れを過ちと謂う。

先生が言われた、「過ちを改めない、これを[本当の]過ちというのだ。」


15-31

子曰、吾嘗終日不食、終夜不寝、以思、無益、不如學也、

子の曰わく、吾れ嘗(かつ)て終日食(く)らわず、終夜寝(い)ねず、以て思う。益なし。学ぶに如(し)かざるなり。

先生がいわれた、「私は前に一日中食事もせず、一晩中寝もしないで考えたことがあるが、無駄であった。学ぶことには及ばないね。」


15-32

子曰、君子謀道、不謀食、耕也餒在其中矣、學也禄在其中矣、君子憂道、不憂貧、

子の曰わく、君子は道を謀りて食を謀らず。耕して餒(う)え其の中(うち)に在り。君子は道を憂えて貧しきを憂えず。

先生が言われた、「君子は道を得ようと努めるが、食を得ようとは努めない。[食を得ようとして]耕していても飢えることはあるが、[道を得ようとして]学んでいれば、俸禄はそこに自然に得られる。君子は道のことを心配するが、貧乏なことは心配しない。」


15-33

子曰、知及之、仁不能守之、雖得之必失之、知及之、仁能守之、不莊以莅*之、則民不敬、知及之、仁能守之、莊以莅*之、動之不以禮、未善也、

子の曰わく、知はこれに及べども仁これを守ること能わず、これを得ると雖も必ずこれを失う。知はこれに及び仁能く守れども、荘以てこれにノゾまざれば、則 ち民は敬せず。知はこれに及び仁能くこれを守り、荘以てこれにノゾめども、これを動かすに礼を以てせざれば、未だ善ならざるなり。

先生が言われた、「智は[人民を治めるのに]十分であっても、仁徳で守れなければ、仮令[人民を]獲得してもきっと手放すようになる。智は[人民を治める のに]十分で、仁徳で守れても、威儀を正して臨まなければ、人民は敬わない。智は[人民を治めるのに]十分で、仁徳でよく守り、威儀を正して臨んでも、 [人民を]鼓舞するのに礼によるのでなければ、まだ立派ではない。」


15-34

子曰、君子不可不知、而可大受也、小人不可大受、而可小知也、

子の曰わく、君子は小知すべからずして、大受すべし。小人は大受すべからずして、小知すべし。

先生が言われた、「君子は小さい仕事には用いられないが、大きい仕事を任せられる。小人は大きい仕事を任せられないが、小さい仕事には用いられる」


15-35

子曰、民之於仁也、甚於水火、水火吾見蹈而死者矣、未見蹈仁而死者也、

子の曰わく、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾れ蹈(ふ)みて死する者を見る。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり。

先生が言われた、「人民が仁徳を必要とするのは、水や火よりも甚だしい。[それに]水や火には、私は踏み込んで死ぬ人も見るが、仁に踏み込んで死んだ人は未だ見たことがない。[人々はなぜためらうのであろうか]」


15-36

子曰、當仁不譲於師、

子の曰わく、仁に当たりては、師にも譲らず。

先生が言われた、「仁徳[を行う]に当たっては、先生にも遠慮はいらない。」


15-37

子曰、君子貞而不諒、

子の曰わく、君子は貞にして諒ならず。

先生が言われた、「君子は正しいけれども、馬鹿正直ではない。」


15-38

子曰、事君敬其事而後其食、

子の曰わく、君に事(つか)えては、其の事を敬して其の食を後(あと)にす。

先生が言われた、「主君に仕えるには、[何よりも]その仕事を慎重にして、俸禄のことは後回しにする。」


15-39

子曰、有教無類、

子の曰わく、教えありて類なし。

先生が言われた、「教育[による差別]はあるが、種類[の差別]はない。[誰でも教育によって立派になる。]」


15-40

子曰、道不同、不相爲謀、

子の曰わく、道同じからざれば、相い為めに謀(はか)らず。

先生が言われた、「道が同じでなければ、互いに相談しあわない。」


15-41

子曰、辭達而已矣、

子の曰わく、辞は達するのみ。

先生が言われた、「言葉は[意味が]通じさえすればいいのだ。」


15-42

子冕見、及階、子曰、階也、及席、子曰、席也、皆坐、子告之曰、某在斯、某在斯、師冕出、子張問曰、與師言之道與、子曰、然、固相師之道也、

師冕(しべん)見(まみ)ゆ。階に及べり。子の曰わく、階なり。席に及べり。子の曰わく、席なり。皆な坐す。子これに告げて曰わく、某(ぼう)は斯(こ こ)に在り。某は斯に在り。師冕出(い)ず。子張問いて曰わく、師と言うの道か。子の曰わく、然り。固(もと)より師を相(たす)くるの道なり。

楽師の冕がお会いしに来た。階段まで来ると、先生は「階段です」と言われ、席まで来ると先生は「席です」と言われ、みんなが座ってしまうと、先生は「だれ それはそこに、だれそれはそここに」と言って教えられた。楽師の冕が退出すると、子張がお訊ねした、「[あれが]楽師と語るときの作法でしょうか。」先生 は言われた、「そうだ。勿論楽師を介抱するときの作法だ。」


16、季子第十六

16-01

 季子將伐*臾、冉有季路見於孔子曰、季氏將有事於*臾、孔子曰、求、無乃爾是過與、夫*臾、昔者先王以爲東蒙主、且在邦域之中矣、是社稷之臣也、 何以爲伐也、冉有曰、夫子欲之、吾二臣者、皆不欲也、孔子曰、求、周任有言、曰、陳力就列、不能者止、危而不持、顛而不扶、則將焉用彼相矣、且爾言過矣、 虎*出於*、龜玉毀於昮*中、是誰之過與、冉有曰、今夫*臾固而近於費、今不取、後世必爲子孫憂、孔子曰、求、君子疾夫舎曰欲之而必更爲之辭、丘也 聞、有國有家者、不患寡而患不均、不患貧而患不安、蓋均無貧、和無寡、安無傾、夫如是、故遠人不服、則修文徳以來之、既來之則安之、今由與求也、相夫子、 遠人不服、而不能來也、邦文崩離析而不能守也、而謀動干戈於邦内、吾恐季孫之憂、不在於*臾、而在蕭牆之内也、

季氏、将にセン臾(ゆ)を伐(う)たんとす。冉有、季路、孔子に見(まみ)えて曰わく、季氏、将にセン臾に事あらんとす。孔子の曰わく、求よ、乃(すな わ)ち爾(なんじ)是れ過(あやま)てること無からんや。夫れセン臾は、昔者(むかし)先王以て東蒙(とうもう)の主と為し、且つ邦域の中に在り。是れ社 稷(しゃそく)の臣なり。何を以てか伐つことを為さん。冉有が曰わく、夫(か)の子これを欲す。吾れ二臣は皆欲せざるなり。孔子の曰わく、求よ、周任に言 あり曰わく、力を陳(の)べて列に就き、能わざれば止(や)むと。危うくして持せず、顛(くつがえ)って扶(たす)けずんば、則ち将(は)た焉(いずく) んぞ彼(か)の相(しょう)を用いん。且つ爾(なんじ)の言は過まてり。虎ジ*(こじ)、コウ*より出(い)で、亀玉(きぎょく)、トク*中に毀(こわ) るれば、是れ誰の過ちぞや。冉有が曰わく、今夫れセン臾は固たくして費に近かし。今取らずんば、後世必ず子孫の憂いと為らん。孔子の曰わく、求よ、君子は 夫(か)のこれを欲すと曰うを舎(お)いて必ずこれが辞を為すことを疾(にく)む。丘(きゅう)や聞く、国を有(たも)ち家を有つ者は寡(すく)なきを患 (うれ)えずして均(ひと)しからざるを患え、貧しきを患えずして安からざるを患うと。蓋(けだ)し均しければ貧しきこと無く、和すれば寡なきこと無く、 安ければ傾くこと無し。夫れ是くの如し、故に遠人(えんじん)服せざれば則ち文徳を修めて以てこれを来たし、既にこれを来たせば則ちこれを安んず。今、由 と求とは夫(か)の子を相(たす)け、遠人服せざれども来たすこと能わず、而かして干戈(かんか)を邦内に動かさんことを謀る。吾れ恐る、季孫の憂いはセ ン臾に在らずして蕭牆(しょうしょう)の内に在らんことを。

[魯の]季氏がセン臾の国を攻め取ろうとしていた。[季氏に仕えていた、]冉有と季路[子路]がとが孔子にお目にかかって、「季氏がセン臾に対して事を起 こそうとしています。」と申し上げた。孔子は言われた、「求[冉有]よ。もしやお前が間違っているのじゃないだろうか。[賛成したり、奨めたりしているの ではないか。]そもそもセン臾の国は、昔天子が東蒙の山の祭の主宰者と定めていた[由緒正しい国柄である]上に、[魯の属国として同じ]国境の中にあるの だから、これは譜代の家来だ。どうして攻めたりするのだ。」[そこで]冉有が「あの方[季氏]がそうしたいと言うだけで、私達二人はどちらもしたくないの ですよ。」と言うと、孔子は言われた、「求よ。[昔の立派な記録官であったあの]周任の言葉に『力いっぱい職務にあたり、出来ないときには辞職する。』と 言うのがあるが、危なくても支えることをせず、転んでも助けることをしないというのでは、一体あの助け役も何の必要があろう。それにお前の言葉は間違って いる。虎や野牛が檻から逃げ出したり、亀の甲や宝玉が箱の中で壊れたりしたら、これは誰の過ちかね。」冉有が言った、「[しかし先生]今あのセン臾は堅固 な備えで[季氏の領地である]費の町の近くに居りますから、今のうちに取っておかないと後世にはきっと子孫の心配事となりましょう。」孔子は言われた、 「求よ。[欲しいくせに]それを欲しいとはっきり言わないでおいて、何とかその言い訳をすると言うようなことを、君子は憎む。自分の聞くところでは『国を 治め、家を治める者は、[人民の]少ないことを心配しないで[取り扱いの]公平でないことを心配し、貧しいことを心配しないで[人心の]安定しないことを 心配する。』と言うが、つまり公平であれば貧しいと言うこともなくなり、仲良く和合すれば少ないということもなくなり、安定すれば危険も無くなるものだ。 そもそもこういう次第だから、そこで遠方の人が従わない場合は、[武には頼らないで]文の徳を修めてそれをなつけ、なつけてから、それを安定させるのだ が、今、由と求とはあの方[季氏]を輔佐していながら、遠方の人が従わないでいるのになつけることも出来ず、国がばらばらに分かれているのに守ることも出 来ない、それでいて国内で戦争を起こそうと企てている。私は恐れるが、季孫の心配ごとはセン臾にはなくて、[身近い]屏の内側にあるだろう。」


16-02

孔子曰、天下有道、則禮樂征伐自天子出、天下無道、則禮樂征伐自諸侯出、自諸侯出、蓋十世希不失矣、自大夫出、五世希不失矣、陪臣執國命、三世不失矣、天下有道、則政不在大夫、天下有道、則庶人不議、

孔子の曰わく、天下道有れば、則ち礼楽征伐、天子より出(い)ず。天下道なければ、則ち礼楽征伐、諸侯より出ず。諸侯より出ずれば、蓋(けだ)し十世にし て失なわざること希(すく)なし。大夫より出ずれば、五世にして失なわざること希なし。陪臣国命を執れば、三世にして失なわざること希し。天下道有れば、 則ち政は大夫に在らず。天下道あれば、則ち庶人は議せず。

孔子が言われた、「天下に道があるときは礼楽や征伐は天子から起こる。天下に道の無いときは礼楽や征伐は諸侯から起こる。諸侯から起こるときは[そんなこ とがいつまでも許される筈がないから、]およそ十代までで失敗しない者はめったに居ない。大夫から起こるときは五代までで失敗しない者はめったに居ない。 陪臣[大夫の家臣]が国権を取り仕切るときは三代までで失敗しない者は滅多に居ない。天下に道があれば政治は大夫の手などに握られることはなく、天下に道 があれば平民は政治の批判をしなくなる。」


16-03

孔子曰、禄之去公室五世矣、政逮大夫四世矣、故夫三桓之子孫微矣、

孔子の曰わく、禄(ろく)の公室を去ること五世なり。政の大夫に逮(およ)ぶこと四世なり。故に夫(か)の三桓(さんかん)の子孫は微なり。

孔子が言われた、「[魯では]爵禄を与える権力が公室を離れてから五代[宣公、成公、襄公、昭公、定公]になるし、政治が大夫の手に移ってから四代[季武子、悼子、平子、桓子]になる。だからあの三桓の子孫も衰えたのだ」


16-04

孔子曰、益者三友、友直、友諒、友多聞、益矣、友便辟、友善柔、友便佞、損矣、

孔子の曰わく、益者(えきしゃ)三友。直きを友とし、諒(まこと)を友とし、多聞を友とするは、益なり。便辟(べんへき)を友とし、善柔を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり。

孔子が言われた、「有益な友達が三種、有害な友達が三種。正直な人を友達にし、誠心の人を友達にし、物知りを友達にするのは有益だ。体裁ぶったのを友達にし、うわべだけのへつらい者を友達にし、口達者なのを友達にするのは、害だ。」


16-05

孔子曰、益者三樂、損者三樂、樂節禮樂、樂道人之善、樂多賢友、益矣、樂驕樂、樂佚遊、樂宴樂、損矣、

孔子の曰わく、益者三楽(さんらく)、損者三楽。礼楽を節せんことを楽しみ、人の善を道(い)うことを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽を楽しみ、佚遊を楽しみ、宴楽を楽しむは、損なり。

孔子が言われた、「有益な楽しみが三種、有害な楽しみが三種。礼儀と雅楽を折り目正しく行うのを楽しみ、人の美点を口にするのを楽しみ、優れた友達の多いのを楽しむのは、有益だ。我侭勝手を楽しみ、怠け遊ぶことを楽しみ、酒盛りを楽しむのは、害だ。」


16-06

孔子曰、侍於君子有三愆、言未及之而言、謂之躁、言及之而不言、謂之隱、未見顔色而言、謂之瞽、

孔子の曰わく、君子に侍するに三愆(さんけん)あり。言未だこれに及ばずして言う、これを躁(そう)と謂う。言これに及びて言わざる、これを隠と謂う。未だ顔色を見ずして言う、これを瞽(こ)と謂う。

孔子が言われた、「君子のお側にいて、三種の過ちがある。まだ言うべきでないのに言うのはがさつといい、言うべきなのに言わないのは隠すといい、[君子の]顔つきも見ないで話すのを盲という。」


16-07

孔子曰、君子有三戒、少之時、血氣未定、戒之在色、及其壯也、血氣方剛、戒之在鬪、及其老也、血氣既衰、戒之在得、

孔子の曰わく、君子に三戒あり。少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り。其の壮なるに及んでは血気方(まさ)に剛なり、これを戒むること闘(とう)に在り。其の老いたるに及んでは血気既に衰う、これを戒むること得に在り。

孔子が言われた、「君子には三つの戒めがある。若いときは血気が未だ落ち着かないから、戒めは女色にある。壮年になると血気が今や盛んだから、戒めは争いにある。老年になると血気はもう衰えるから、戒めは欲にある。」


16-08

孔子曰、君子有三畏、畏天命、畏大人、畏聖人之言、小人不知天命而不畏也、狎大人、侮聖人之言、

孔子の曰わく、君子に三畏(さんい)あり。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(おそ)れ、聖人の言を侮る。

孔子が言われた、「君子には三つの畏れ[はばかり]がある。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言葉を畏れる。小人は天命を知らないで畏れず[我侭に振る舞い、]大人になれなれしくし、聖人の言葉を馬鹿にする。」


16-09

孔子曰、生而知之者、上也、學而知之者、次也、困而學之、又其次也、困而不學、民斯爲下矣、

孔子の曰わく、生まれながらにしてこれを知る者は上(かみ)なり。学びてこれを知るものは次ぎなり。困(くるし)みてこれを学ぶは又た其の次ぎなり。困みて学ばざる、民斯れを下(しも)と為す。

孔子が言われた、「生まれ付いての物知りは一番上だ。学んで知るのはその次だ。行き詰まって学ぶ人はまたその次だ。行き詰まっても学ぼうとしないのは、人民でも最も下等だ。」


16-10

孔子曰、君子有九思、視思明、聽思聰、色思温、貌思恭、言思忠、事思敬、疑思問、忿思難、見得思義、

孔子の曰わく、君子に九思あり。視るには明を思い、聴くには聡を思い、色には温を思い、貌(かたち)には恭を思い、言には忠を思い、事には敬を思い、疑わしきには問いを思い、忿(いかり)には難を思い、得るを見ては義を思う。

孔子が言われた、「君子には九つの思うことがある。見るときにははっきり見たいと思い、聞くときには細かく聞き取りたいと思い、顔つきには穏やかでありた いと思い、姿には恭しくありたいと思い、言葉には誠実でありたいと思い、仕事には慎重でありたいと思い、疑わしいことには問うことを思い、怒りにはあとの 面倒を思い、利得を前にしたときは道義を思う。」


16-11

孔子曰、見善如不及、見不善如探湯、吾見其人矣、吾聞其語矣、隱居以求其志、行義以達其道、吾聞其語矣、未見其人也、

孔子の曰わく、善を見ては及ばざるが如くし、不善を見ては湯を探る如くす。吾れ其の人を見る、吾れ其の語を聞く。隠居して以て其の志しを求め、義を行いて以て其の道を達す。吾れ其の語を聞く、未だ其の人を見ず。

孔子が言われた、「善いことを見れば、とても追い付けないように[それに向かって努力]し、善くないことを見れば熱湯に手を入れたように[急いで離脱]す る。私はそういう人を見た。私はそうした言葉も聞いた。世間からひきこもってその志しを貫こうとし、正義を行ってその道を通そうとする。私はそうした言葉 は聞いた。だが、そういう人は未だ見たことがない。」


16-12

齊景公有馬千駟、死之日、民無徳而称焉、伯夷叔齊餓于首陽之下、民到于今称之、其斯之謂與、

[孔子の曰わく、誠に富みを以てせず、亦た祗(ただ)に異を以てす。]斉の景公、馬千駟(せんし)あり。死するの日、民徳として称すること無し。伯夷、叔斉(はくい・しゅくせい)首陽の下(もと)に餓う。民今に到るまでこれを称す。其れ斯れをこれ謂うか。

孔子が言われた、「詩経には『まこと富みにはよらず、ただ[富みとは]異なるものによる。』とある。斉の景公は四千頭もの馬を持っていたが、死んだときに は、人民は誰もおかげを受けたと誉めなかった。伯夷と叔斉とは首陽山のふもとで飢え死にしたが、人民は今日までも誉めている。[詩の言葉は]まあこういう ことを言うのだろうね。」


16-13

陳亢問於伯魚曰、子亦有異聞乎、對曰、未也、嘗獨立、鯉趨而過庭、曰、學詩乎、對曰、未也、曰、不學詩無以言也、鯉退而學詩、他日又獨立、鯉趨而過庭、 曰、學禮乎、對曰、未也、不學禮無以立也、鯉退而學禮、聞斯二者、陳亢退而喜曰、問一得三、聞詩、聞禮、又聞君子之遠其子也、

陳亢(ちんこう)、伯魚(はくぎょ)に問うて曰わく、子も亦た異聞ありや。対たえて曰わく、未(いま)だし。嘗(かつ)て独(ひと)り立てり。鯉(り)趨 (はし)りて庭を過ぐ。曰わく、詩を学びたりや。対たえて曰わく、未だし。詩を学ばずんば、以て言うこと無し。鯉退りぞきて詩を学ぶ。他日又た独り立て り。鯉趨りて庭を過ぐ。曰わく、礼を学びたりや。対たえて曰わく、未だし。礼を学ばずんば、以て立つこと無し。鯉退りぞきて礼を学ぶ。斯の二者を聞けり。 陳亢退ぞきて喜びて曰わく、一を問いて三を得たり。詩を聞き、礼を聞き、又た君子の其の子を遠ざくるを聞く。

陳亢が[孔子の子である]伯魚に訊ねて「あなたは、もしや何か変わったことでも教えられましたか。」と言うと、答えて「いいえ。いつか[父上が]一人で 立っておられたとき、この私が小走りで庭を通りますと、『詩を学んだか』と言いましたので、『いいえ』と答えますと、『詩を学ばなければ立派にものが言え ない。』ということで、私は引き下がってから詩を学びました。別の日にまた一人で立って居られたとき、この私が小走りで庭を通りますと、『礼を学んだ か。』と言いましたので、『いいえ』と答えますと、『礼を学ばなければ立っていけない。』ということで、私は引き下がってから礼を学びました。この二つを 教えられました。」陳亢は退出すると喜んで言った、「一つのことを訊ねて三つのことが分かった。詩のことを教えられ、礼のことを教えられ、また君子が自分 の子供を近付けない[特別扱いしない]と言うことを教えられた。」



16-14

邦君之妻、君称之曰夫人、夫人自称曰小童、邦人称之曰君夫人、称諸異邦曰寡小君、異邦人称之亦曰君夫人也、

邦君(ほうくん)の妻、君これを称して夫人と曰う。夫人自ら称して小童と曰う。邦人これを称して君夫人と曰う。異邦に称して寡小君(かしょうくん)と曰う。異邦の人これを称して亦た君夫人と曰う。

国君の妻のことは、君が呼ばれるときには夫人といい、夫人が自分で言うときには小童(しょうどう)といい、その国の人が[国内で]呼ぶときには君夫人(くんふじん)といい、外国に向かって言うときには寡小君といい、外国の人が言うときにはやはり君夫人と言う。


巻 第九
17、陽貨第十七

17-01

陽貨欲見孔子、孔子不見、歸孔子豚、孔子時其亡也、而往拝之、遇諸塗、謂孔子曰、來、予與爾言、曰、懷其寳而迷其邦、可謂仁乎、曰、不可、好從事而亟失時、可謂知乎、曰、不可、日月逝矣、歳不我與、孔子曰、諾、吾將仕矣、

陽貨、孔子を見んと欲す。孔子見(まみ)えず。孔子に豚(いのこ)を帰(おく)る。孔子其の亡(な)きを時として往きてこれを拝す。塗(みち)に遇(あ) う。孔子に謂いて曰わく、来たれ。予(わ)れ爾(なんじ)と言わん。曰わく、其の宝を懐(いだ)きて其の邦(くに)を迷わす、仁と謂うべきか。曰わく、不 可なり。事に従うを好みて亟々(しばしば)時を失う、知と謂うべきか。曰わく、不可なり。日月逝(ゆ)く、歳(とし)我れと与(とも)ならず。孔子の曰わ く、諾(だく)。吾れ将に仕えんとす。

陽貨が孔子に会いたいと思ったが、孔子は会わなかった。そこで孔子に豚を贈った。[留守中に贈って、お礼の挨拶に来のを掴まえようとした。]孔子は陽貨の 留守を見計らって、出かけて行って挨拶されたが、途中で出会ってしまった。孔子に向かった言うには「さあ、私はあなたと話しがしたい。一体、宝を胸に抱き ながら国を乱れたままにしておいて、仁と言えますか。勿論言えない。政治をすることが好きなのに度々その機会を逃していて、智と言えますか。勿論言えな い。月日は過ぎてゆくし、年は待ってくれません。[早く私に仕えなさい。]」孔子は言われた、「はい、私もいまにご奉公しましょう。」



17-02

子曰、性相近也、習相遠也、

子の曰わく、性、相(あ)い近し。習えば、相い遠し。

先生が言われた、「生まれ付きは似かよっているが、躾け[習慣や教養]でへだたる。」


17-03

子曰、唯上知與下愚不移、

子の曰わく、唯だ上知(じょうち)と下愚(げぐ)とは移らず。

先生が言われた、「[誰でも習いによって善くも悪くもなるものだが、]ただとびきりの賢い者とどん尻の愚か者とは変わらない。」


17-04

子之武城、聞絃歌之聲、夫子莞爾而笑曰、割鷄焉用牛刀、子游對曰、昔者偃也、聞諸夫子、曰、君子學則愛人、小人學道則易使也、子曰、二三子、偃之言是也、前言戲之耳、

子、武城に之(ゆ)きて絃歌(げんか)の声を聞く。夫子莞爾として笑いて曰わく、鷄を割(さ)くに焉(いずく)んぞ牛刀を用いん。子游対たえて曰わく、昔 者(むかし)偃(えん)や諸(こ)れを夫子に聞けり、曰わく、君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易すしと。子の曰わく、二三子よ、偃の 言是(げんぜ)なり。前言はこれに戯れしのみ。

先生が武城の町に行かれたとき、[儀礼と雅楽を講習する]琴の音と歌声を聞かれた。[儀礼と雅楽は国家を治めるための方法であったから、こんな小さい町に 大袈裟過ぎるという訳で、]先生はにこりと笑うと「鷄をさくのに牛切り庖丁がどうして要るのかな。」と言われた。子游はお答えして言った、「前に偃[この 私]は先生からお聞きしました、君子[為政者]が道[儀礼と雅楽]を学ぶと人を愛するようになり、小人[被治者]が道を学ぶと使いやすくなるということで す。[どんな人でも道を学ぶべきではありませんか。]」先生は言われた、「諸君、偃の言葉が正しい。さっき言ったのはからかっただけだ」


17-05

公山不擾以費畔、召、子欲往、子路不説曰末之也已、何必公山氏之之也、子曰、夫召我者、而豈徒哉、如有用我者、吾其爲東周乎、

公山不擾(こうざんふじょう)、費を以て畔(そむ)く。招く。子徃かんと欲す。子路説(よろ)こばずして曰わく、之(ゆ)くこと末(な)きのみ。何ぞ必ず しも公山氏にこれ之かん。子の曰わく、夫れ我れを招く者にして、豈に徒(ただ)ならんや。如(も)し我を用うる者あらば、吾れは其れ東周を為さんか。

公山不擾が費の町に拠って叛いたとき、先生をお招きした。先生は行こうとされた。子路は面白くなくて「おいでになることも無いでしょう。どうして公山氏な どの所へ行かれるのです。」と言うと、先生は言われた、「ああして私を呼ぶからには、まさか無意味でもなかろう。もし誰かが私を用いてくれるなら、私はま あ東の周を興すのだがね。」


17-06

子張問仁於孔子、孔子曰、能行五者於天下爲仁矣、請問之、曰、恭寛信敏惠、恭則不侮、寛則得衆、信則人任焉、敏則有功、惠則足以使人、

子張、仁を孔子に問う。孔子の曰わく、能く五つの者を天下に行なうを仁と為す。これを請(こ)い問う。曰わく、恭寛信敏惠なり。恭なれば則ち侮られず、寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち功あり、恵なれば則ち以て人を使うに足る。

子張が仁のことをお訊ねした。孔子は言われた、「五つのことを世界中で行うことができたら、仁と言えるね。」進んでさらにお訊ねすると、「恭しいこと、お おらかなこと、誠のあること、機敏なことと恵み深いことだ。恭しければ侮られず、おおらかであれば人望が得られ、信(まこと)があれば人から頼りにされ、 機敏であれば仕事ができ、恵み深ければ巧く人が使えるものだ。」


17-07

ヒツ*キツ*招、子欲徃、子路曰、昔者由也聞諸夫子、曰、親於其身爲不善者、君子不入也、ヒツキツ以中牟畔、子之徃也如之何、子曰、然、有是言也、曰不曰堅乎、磨而不リン、不曰白乎、涅而不緇、吾豈匏瓜也哉、焉能繋而不食、

ヒツキツ*、招く。子往かんと欲す。子路が曰わく、昔者(むかし)由や諸(こ)れを夫子に聞けり、曰わく、親(みずか)ら其の身に於いて不善を為す者は、 君子は入らざるなりと。ヒツキツ中牟(ちゅうぼう)を以て畔(そむ)く。子の往くや、これを如何。子の曰わく、然り。是の言有るなり。堅しと曰(い)わざ らんや、磨すれどもリン*(うすろ)がず。白しと曰わざらんや、涅(でつ)すれども緇(くろ)まず。吾れ豈に匏瓜(ほうか)ならんや。焉(いずく)んぞ能 く繋(かか)りて食らわれざらん。

ヒツキツがお招きしたので、先生は行こうとされた。子路は[それをお止めして]「前に由[この私]は先生からお聞きしました、我と我が身で善くないことを する者には、君子は仲間入りしないということです。ヒツキツは中牟の町に拠って叛いておりますのに、先生が行かれるというのは、いかがなものでしょう。」 先生は言われた、「そう、そういうことを言ったね。だが、『堅いと言わずにおれようか、黒土にまぶしても黒くならないものは。』[という諺のように、悪い ものに染まらないことだってできる。それに]まさか私は苦が瓜でもあるまい。ぶら下がったままでいて人に食べられないおれようか。[用いてくれる人さえあ れば用いられたいものだ]」


17-08

子曰、由女聞六言六蔽矣乎、對曰、未也、居、吾語女、好仁不好學、其蔽也愚、好知不好學、其蔽也蕩、好信不好學、其蔽也賊、好直不好學、其蔽也絞、好勇不好學、其蔽也亂、好剛不好學、其蔽也狂、

子の曰わく、由よ、女(なんじ)六言の六蔽(へい)を聞けるか。対たえて曰わく、未(いま)だし。居れ、吾れ女に語(つ)げん。仁を好みて学を好まざれ ば、其の蔽や愚。知を好みて学を好まざれば、其の蔽や蕩(とう)。信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊。直を好みて学を好まざれば、其の蔽や絞(こ う)。勇を好みて学を好まざれば、其の蔽や乱。剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂。

先生が言われた、「由よ、お前は六つの言葉にについての六つの害を聞いたことがあるか。」お答えして「未だありません。」と言うと、「お坐り、私がお前に 話してあげよう。仁を好んでも学問を好まないと、その害として[情に溺れて]愚かになる。智を好んでも学問を好まないと、その害として[高遠に走って]と りとめが無くなる。信を好んでも学問を好まないと、その害として[盲進に陥って]人をそこなうことになる。真っ直ぐなのを好んでも学問を好まないと、その 害として窮屈になる。勇を好んでも学問を好まないと、その害として乱暴になる。剛強を好んでも学問を好まないと、その害として気違い沙汰になる。[仁智な どの六徳はよいが、さらに学問で磨きをかけないといけない。]」


17-09

子曰、小子、何莫學夫詩、詩可以興、可以觀、可以群、可以怨、邇之事父、遠之事君、多識於鳥獣草木之名、

子の曰わく、小子、何ぞ夫(か)の詩を学ぶこと莫(な)きや。詩は以て興こすべく、以て観るべく、以て群すべく、以て怨むべし。邇(ちか)くは父に事(つか)え、遠くは君に事え、多く鳥獣草木の名を識(し)る。

先生が言われた、「お前達、どうしてあの詩というものを学ばないのだ。詩は心をふるいたたせるし、物事を観察させるし、人々と一緒に仲良く居らせるし、怨 みごとも巧く言わせるものだ。近いところでは父にお仕えし、遠いところでは君にお仕えする[こともできる。その上に]鳥獣草木の名前も沢山覚えられる」


17-10

子謂伯魚曰、女爲周南召南矣乎、人而不爲周南召南、其猶正牆面而立也與、

子、伯魚に謂いて曰わく、女(なんじ)周南、召南を為(まな)びたるか。人にして周南、召南を為ばずんば、其れ猶(な)お正しく牆(かき)に面して立つがごときか。

先生が伯魚に向かって言われた、「お前は周南と召南の詩を修めたか。人として周南と召南を修めなければ、まあちょうど塀を真ん前にして立っているようなものだな。[何も見えないし、一歩も前進できない。]」


17-11

子曰、禮云禮云、玉帛云乎哉、樂云樂云、鐘鼓云乎哉、

子の曰わく、礼と云い、礼と云うも、玉帛(ぎょくはく)を云わんや。楽と云い楽と云うも、鐘鼓(しょうこ)を云わんや。

先生が言われた、、「礼だ礼だと言っても、玉や絹布のことであろうか。楽だ楽だと言っても、鐘や太鼓のことであろうか。[儀礼や雅楽は形式よりもその精神こそが大切だ。]」


17-12

子曰、色勵*而内荏、譬諸小人、其猶穿愈*之盜也與、

子の曰わく、色勵*(はげ)しくして内荏(やわらか)なるは、諸(こ)れを小人に譬(たと)うれば、其れ猶(な)お穿ユ(せんゆ)の盗のごときか。

先生が言われた、「顔つきはいかめしくしているが内心はぐにゃぐにゃと云うのは、それを下々の者で云うなら、まあ丁度忍び込みのこそ泥のような者だろうかね。[うわべを取り繕って人に見透かされるのを恐れている。]」


17-13

子曰、郷原徳之賊也、

子の曰わく、郷原(きょうげん)は徳の賊なり。

先生が言われた、「村で善人と言われる者は、[うわべだけ道徳家に似ているから、かえって]徳をそこなうものだ。」


17-14

子曰、道聽而塗説、徳之棄也、

子の曰わく、道に聴きて塗(みち)に説くは、徳をこれ棄(す)つるなり。

先生が言われた、「道路で聞いてそのまま途中で話してしまうというのは、[よく考えて身に付けようとはしないのだから]徳を棄てるものだ。」


17-15

子曰、鄙夫可與事君也與哉、其未得之也、患得之、既得之、患失之、苟患失之、無所不至矣、

子の曰わく、鄙夫(ひふ)は与(とも)に君に事(つか)うべけんや。其の未だこれを得ざれば、これを得んことを患(うれ)え、既にこれを得れば、これを失なわんことを患う。苟(いやしく)もこれを失なわんことを患うれば、至らざる所なし。

先生が言われた、「つまらない男には君にお仕えすることなど出来ないだろうね。彼が[目指す禄位を]手に入れないうちは手に入れようと気にかけるし、手に 入れてしまうと失うことを心配する。もし失うことを心配するというのなら、[その保全のためには]どんなことでもやりかねないよ。」


17-16

子曰、古者民有三疾、今也或是之亡也、古之狂也肆、今之狂也蕩、古之矜也廉、今之矜也忿戻。古之愚也直、今之愚也詐而已矣、

子の曰わく、古者(いにしえ)、民に三疾(さんしつ)あり。今や或いは是れ亡(な)きなり。古(いにしえ)の狂や肆(し)、今の狂や蕩(とう)。古えの矜(きょう)や廉(れん)、今の矜や忿戻(ふんれい)。古えの愚や直、今の愚や詐(さ)のみ。

先生が言われた、「昔は人民に三つの病弊というのがあったが、今ではどうやらそれさえ駄目になった。昔の狂[心が遠大に過ぎる]というのは大まかであった が、今の狂というのは気まましほうだいである。昔の矜[自分を堅く守り過ぎる]というのは角が立つのであったが、今の矜というのは怒って争う。昔の愚とい うのは正直だったが、今の愚というのは誤魔化すばかりだ。」


17-17

子曰、巧言令色、鮮矣仁、

子の曰わく、巧言令色、鮮(すく)なし仁。

先生が言われた、「言葉上手で顔つきが善いだけでは、ほとんど無いものだ、仁の徳は。」


17-18

子曰、惡紫之奪朱也、惡鄭聲之亂雅樂也、惡利口之覆邦家、

子の曰わく、紫の朱を奪うを悪(にく)む。鄭声(ていせい)の雅楽を乱るを悪む。利口の邦家を覆すを悪む。

先生が言われた、「[簡色である]紫が[正色である]朱を圧倒するのが憎い。[みだらな]鄭の国の音曲が[正当な]雅楽を乱すのが憎い。口達者な者が国家をひっくり返すのが憎い。」


17-19

子曰、予欲無言、子貢曰、子如不言、則小子何述焉、子曰、天何言哉、四時行焉、百物生焉、天何言哉、

子の曰わく、予(わ)れ言うこと無からんと欲す。子貢が曰わく、子如(も)し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子の曰わく、天何をか言うや。四時 行なわれ、百物 生ず。天何をか言うや。

先生が「私はもう何も言うまいと思う。」と言われた。子貢が「先生がもし何も言われなければ、私ども門人は何を伝えましょう。[どうかお話し下さい。]」 と言うと、先生は言われた、「天は何か言うだろうか。四季は巡っているし、万物も生長している。天は何か言うだろうか。[何も言わなくても、教えはある。 言葉だけを頼りにしてはいけない。]」


17-20

孺悲欲見孔子、孔子辭之以疾、將命者出戸、取瑟而歌、使之聞之、

孺悲(じゅひ)、孔子に見(まみ)えんと欲す。孔子辞するに疾(やまい)を以てす。命を将(おこ)なう者、戸を出(い)ず。瑟(しつ)を取りて歌い、これをして聞かしむ。

孺悲が孔子にお会いしたいといって来たが、孔子は病気だと言って断られた。取次の者が戸口を出て行くと、[先生は]瑟をとって歌って、聞こえるようにされた。[仮病だと知らせて孺悲の反省をうながした。]


17-21

宰我問、三年之喪期已久矣、君子三年不爲禮、禮必壊、三年不爲樂、樂必崩、舊穀既沒、新穀既升、鑚燧改火、期可已矣、子曰、食夫稻、衣夫錦、於女安乎、 曰、安、女安則爲之、夫君子之居喪、食旨不甘、聞樂不樂、居處不安、故不爲也、今女安則爲之、宰我出、子曰、予之不仁也、子生三年、然後免於父母之懷、夫 三年之喪、天下之通喪也、予也有三年之愛於其父母乎、

宰我(さいが)問う、三年の喪は期にして已(すで)に久し。君子三年礼を為さずんば、礼必ず壊(やぶ)れん。三年楽を為さずんば、楽必ず崩れん。旧穀既に 沒(つ)きて新穀既に升(のぼ)る、燧(すい)を鑚(き)りて火を改む。期にして已(や)むべし。子の曰わく、夫(か)の稲を食らい、夫の錦を衣(き) る、女(なんじ)に於いて安きか。曰わく、安し。女安くんば則ちこれを為せ。夫れ君子の喪に居る、旨(うま)きを食らうも甘からず、楽を聞くも楽しから ず、居処安からず、故に為さざるなり。今女安く仁なるや。子(こ)生まれて三年、然る後に父母の懐(ふところ)を免(まぬが)る。夫れ三年の喪は天下の通 喪(つうそう)なり。予(よ)や、其の父母に三年の愛あらんか。

宰我が「三年の喪は、まる一年でも十分の長さです。君子が三年も礼を修めなければ、楽はきっと駄目になりましょう。古い穀物が無くなって新しい穀物が実 り、火取りの木をこすって火を作り替える[というように、一年ごとに一巡りですから]、まる一年でやめてもいいでしょう。」とお訊ねした。先生が「[親が 死んでから三年経たないのに]あの米を食べ、あの錦を着るということが、お前にとって何ともないのか。」と言われると、「何ともありません。」と答えた。 「お前が何ともないのならそうしなさい。一体、君子が喪に服しているとこきと言うのは、美味いものを食べても旨くないし、音楽を聞いても楽しくないし、住 居に居ても落ち着かない、だからそうしないのだ。だが、お前が何ともないのならそうしなさい。」宰我が退出すると、先生は言われた、「予[宰我]の不仁な ことよ。子供は生まれると三年経ってやっと父母の懐から離れる。あの三年の喪というのは[それを考え合わせて定めたもので、]世界中の誰もが行う喪であ る。予にしても、その父母から三年の愛を受けたであろうに。」


17-22

子曰、飽食終日、無所用心、難矣哉、不有博奕者乎、爲之猶賢乎已、

子の曰わく、飽くまで食らいて日を終え、心を用うる所無し、難いかな。博奕(はくえき)なる者あらずや。これを為すは猶(な)お已むに賢(まさ)れり。

先生が言われた、「一日中腹一杯に食べるだけで、何事にも心を働かせない、困ったことだね。さいころ遊びや、囲碁、将棋というのがあるだろう。[あんな遊びでも]それをするのは何もしないよりはまだましだ。」


17-23

子路曰、君子尚勇乎、子曰、君子義以爲上、君子有勇而無義爲亂、小人有勇而無義爲盗、

子路が曰わく、君子 勇を尚(とうと)ぶか。子の曰わく、君子義を以て上(かみ)と為す。君子 勇有りて義なければ乱を為す。小人 勇有りて義なければ盗を為す。

子路が言った、「君子は勇を貴びますか。」先生は言われた、「君子は正義を第一にする。上に立つ者が勇敢であっても正義が無いなら乱を起こすし、下々の者が勇敢であっても正義が無いなら盗みを働く。」


17-24

子貢問曰、君子亦有惡乎、子曰、有惡、惡称人之惡者、惡居下流而謗*上者、惡勇而無禮者、惡果敢而窒者、曰、賜也亦有惡乎、惡徼以爲知者、惡不孫以爲勇者、惡訐以爲直者、

子貢問いて曰わく、君子も亦た悪(にく)むこと有りや。子の曰わく、悪むこと有り。人の悪を称する者を悪む。下(しも)に居て上(かみ)をソシる者を悪 む。勇にして礼なき者を悪む。果敢にして窒(ふさ)がる者を悪む。曰わく、賜(し)や亦た悪むこと有りや。徼(かす)めて以て知と為す者を悪む。不孫(ふ そん)にして以て勇と為す者を悪む。訐(あば)きて以て直と為す者を悪む。

子貢がお訊ねして言った、「君子でもやはり憎むことが有りましょうか。」先生は言われた、「憎むことがある。他人の悪いところを言い立てる者を憎み、下位 に居りながら上の人をけなす者を憎み、勇ましいばかりで礼儀の無い者を憎み、きっぱりしているが道理の分からない者を憎む。」「賜[子貢]よ、お前にも憎 むことがあるか。」「[他人の意を]かすめ取ってそれを智だとしている者を憎みますし、傲慢でいてそれを勇だとしている者を憎みますし、[他人の隠し事] あばき立ててそれを真っ直ぐなことだとしている者を憎みます」


17-25

子曰、唯女子與小人、爲難養也、近之則不孫、遠之則怨、

子の曰わく、唯だ女子と小人とは養い難しと為す。これを近づくれば則ち不孫(ふそん)なり。これを遠ざくれば則ち怨む。

先生が言われた、「女と下々の者とだけは扱いにくいものだ。近づければ無遠慮になり、遠ざけると怨む。」


17-26

子曰、年四十而見惡焉、其終也已、

子の曰わく、年四十にして惡まるるは、其れ終わらんのみ。

先生が言われた、「年が四十になっても憎まれるのでは、あまお終いだろうね。」


18、微子第十八

18-01

微子去之、箕子爲之奴、比干諌而死、孔子曰、殷有三仁焉、

微子はこれを去り、箕子(きし)はこれが奴(ど)と為り、比干(ひかん)は諌めて死す。孔子曰わく、殷に三仁あり。

[殷王朝の末に紂王が乱暴であったので、]微子は逃げ去り、箕子は[狂人のまねをして]奴隷となり、比干は諌めて殺された。孔子は言われた、「殷には三人の仁の人がいた。[仕業は違うけれども、みな国を憂え民を愛する至誠の人であった。]」


18-02

柳下惠爲士師、三黜、人曰、子未可以去乎、曰、直道而事人、焉徃而不三黜、枉道而事人、何必去父母之邦、

柳下恵(りゅうかけい)、士師と為り、三たび黜(しりぞ)けらる。人の曰わく、子未だ以て去るべからざるか。曰わく、道を直くして人に事(つか)うれば、 焉(いず)くに往くとして三たび黜けられざらん。道を枉(ま)げて人に事うれば、何ぞ必ずしも父母の邦(くに)を去らん。

柳下恵は士師[=罪人を扱う官職]になったが、三度も退けられた。ある人が「あなたそれでもなお他国へ行けないのですか。」と言うと、答えた、「真っ直ぐ に道を通して人に仕えようとしたら、どこへ行っても三度は退けられます。[退けられまいとして]道を曲げて人に仕えるくらいなら、何も父母のの国を去る必 要もないでしょう。」


18-03

齊景公待孔子曰、若季氏則吾不能、以季孟之間待之、曰、吾老矣、不能用也、孔子行、

斉の景公、孔子を待つに曰わく、季氏の若(ごと)きは則ち吾れ能わず。季孟の間を以てこれを待たん。曰わく、吾れ老いたり、用いること能わざるなり。孔子行(さ)る。

斉の景公が孔子を待遇するについて、「[魯の上卿である]季氏のようには、出来ないが、季氏と[下卿である]孟氏との中間ぐらいで待遇しよう。」と言ったが、[やがてまた]「私も年をとった。用いることは出来ない」と言った。孔子は[斉を]立ち去られた。


晏嬰阻封図(第11図)(斉の景公が孔子を臣下に用いるのに反対する晏嬰の図)孔子36歳 18:3
  

 
18-04

齊人歸女樂、季桓子受之、三日不朝、孔子行、

斉人(せいひと)、女楽(じょがく)を帰(おく)る。季桓子(きかんし)これを受く。三日朝(ちょう)せず。孔子行(さ)る。

斉の人が女優の歌舞団を[魯に]贈ってきた。季桓子はそれを受けて三日も朝廷に出なかった。孔子は[魯の政治に失望して]立ち去られた。


女楽文馬図(第16図)(斉国が魯国に女性楽団と馬を贈り、内政を乱そうとした図)孔子57歳 18:4


因ハン(月+番)去魯図(第17図)(ハン(肉)が与えられなかった孔子が魯国を去る図)孔子57歳 18:4





18-05

楚狂接輿歌而過孔子、曰、鳳兮鳳兮、何徳之衰也、徃者不可諌也、來者猶可追也、已而已而、今之從政者殆而、孔子下欲與之言、趨而辟之、不得與之言、

楚の狂接輿(きょうせつよ)、歌いて孔子を過ぐ、曰わく、鳳よ鳳よ、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諌むべからず、来たる者は猶(な)お追うべし。已(や)み なん已みなん。今の政に従う者は殆(あや)うし。孔子下(お)りてこれと言(い)わんと欲す。趨(はし)りてこれを辟(さ)く。これを言うことを得ず。

楚のもの狂いの接輿が歌いながら孔子のそばを通り過ぎた、「鳳よ鳳よ、何と徳の衰えたことよ。過ぎたことは諌めても無駄だが、これからのことはまだ間に合 う。止めなさい、止めなさい、今の世に政治するとは危ういことだ。」孔子は[車を]降りて彼と話しをしようとされたが、小走りして避けたので、話すことが 出来なかった。





18-06

長沮桀溺藕*而耕、孔子過之、使子路問津焉、長沮曰、夫執輿者爲誰、子路曰、爲孔丘、曰、是魯孔丘與、對曰是也、曰是知津矣、問於桀溺、桀溺曰、子爲誰、 曰爲仲由、曰是魯孔丘之徒與、對曰、然、曰滔滔者天下皆是也、而誰以易之、且而與其從辟人之士也、豈若從辟世之哉、憂*而不輟、子路行以告、夫子憮然曰、 鳥獣不可與同群也、吾非斯人之徒與而誰與、天下有道、丘不與易也、

長沮(ちょうそ)、桀溺(けつでき)、藕*(ぐう)して耕す。孔子これを過ぐ。子路をして津(しん)を問わしむ。長沮が曰わく、夫(か)の輿(よ)を執 (と)る者は誰と為す。子路が曰わく、孔丘と為す。曰わく、是れ魯の孔丘か。対たえて曰わく、是れなり。曰わく、是れならば津を知らん。桀溺に問う。桀溺 が曰わく、子は誰とか為す。曰わく、仲由と為す。曰わく、是れ魯の孔丘の徒か。対たえて曰わく、然り。曰わく、滔滔(とうとう)たる者、天下皆な是れな り。而して誰と以(とも)にかこれを易(か)えん。且つ而(なんじ)其の人を辟(さ)くるの士に従わんよりは、豈に世を辟くるの士に従うに若(し)かん や。憂*(ゆう)して輟(や)まず。子路以て告(もう)す。夫子憮然として曰わく、鳥獣は与(とも)に群を同じくすべからず。吾れ斯の人の徒と与にするに 非ずして誰と与にかせん。天下道あらば、丘は与に易(か)えざるなり。

[隠者の]長沮と桀溺とが並んで耕していた。孔子がそこを通られて、子路に渡し場を訊ねさせられた。長沮は「あの馬車の手綱を持っているのは誰です。」と 言うので、子路は「孔丘です。」と言うと、「それじゃ魯の孔丘かね。」「はい。」と答えると、「それなら渡し場は知っているだろう。[あちこち巡り歩いて 道を知っているはずだ。]」と言った。そこで桀溺に訊ねると、桀溺は「あなたは誰です。」と言うので、「仲由です。」と言うと、「それじゃ孔丘の弟子か ね。」「そうです。」と答えると、「どんどん流れて行くもの、[せきとめられないものは、この河だけじゃない、]世界中が全てそうだ。一体誰と一緒にこの 乱世を改めるんだ。まあ、お前さんも[立派な諸侯を探すためにあれも駄目、これも駄目と]人間を棄てる人につくよりはね、いっそ世間を棄てる人についた方 がましじゃないかな。」と言って、種の土かけをして止めなかった。子路がそのことを申し上げると、先生はがっかりして言われた、「鳥や獣とは一緒に暮らす わけにはいかない。私はこの人間の仲間と一緒に居るのでなくて、誰と一緒に居ろうぞ。世界中に道が行なわれているなら、丘も何も改めようとはしないの だ。」 




子路問津図(第27図)(旅の途中、ふたりの隠者が孔子を批判した図)孔子64歳 18:6



18-07

子路從而後、遇丈人以杖荷簣*、子路問曰、子見夫子乎、丈人曰、四體不勤、五穀不分、孰爲夫子、植其杖而芸、子路拱而立、止子路宿、殺鷄*爲黍而食之、見 其二子焉、明日子路行以告、子曰、隠者也、使子路反見之、至則行矣、子路曰、不仕無義、長幼之節、不可廢也、君臣之義、如之何其可廢也、欲潔其身而亂大 倫、君子之仕也、行其義也、道之不行也、已知之矣、

子路従いて後(おく)れたり。丈人(じょうじん)の杖を以て簣*(あじか)を荷なうに遇う。子路問いて曰わく、子、夫子を見るか。丈人の曰わく、四体勤 (つと)めず、五穀分かたず、孰(たれ)をか夫子と為さん。其の杖を植(た)てて芸(くさぎ)る。子路拱(きょう)して立つ。子路を止(とど)めて宿 (しゅく)せしめ、鶏を殺し黍(きび)を為(つく)りてこれに食らわしめ、其の二子を見(まみ)えしむ。明日(めいじつ)、子路行きて以て告(もう)す。 子の曰わく、隠者なり。子路をして反(かえ)りてこれを見しむ。至れば則ち行(さ)る。子路が曰わく、仕えざれば義なし。長幼の節は廃すべからざるなり。 君臣の義はこれを如何ぞ其れ廃すべけんや。其の身を潔(きよ)くせんと欲して大倫を乱る。君子の仕うるや、其の義を行わんとなり。道の行なわざるや、已 (すで)にこれを知れり。

子路がお共をしていて遅れたとき、杖で竹籠を担った老人に出会った。子路が訊ねて「あなた、うちの先生を見ましたか。」と言うと、老人は「手足も働かさ ず、五穀も作らないでいて、誰のことを先生と言うのだ。」と言って、その杖を突き立てると草を刈り始めた。氏路が[ただ者でないと悟って敬意を表し]両手 を胸に組合せて立っていると、[やがて]子路を引き止めて泊まらせ、鶏を殺し、黍飯をこしらえて食べさせ、その二人の子供をひきあわせた。翌日、子路が [先生に]追付いてそのことを申し上げると、先生は「隠者だ。」と言われて、子路に引き返してもう一度会わせようとされたが、行って見ると立ち去ってい た。子路は[留守の子供に向かって]言った、「仕えなければ[君臣の]大義は無いが、長幼の折り目は捨てられない。[昨日、あなた方を引きあわせて下さっ たことでも分かる。してみると、]君臣の大義もどうしてまあ捨てられよう。[それを捨てているのは]我が身を清くしようとして人としての大切な道を乱して いるのだ。君子が仕えるというのは、その大義を行うのである。[今の世の中に]道が行なわれないというのは、とっくに分かっている。」


18-08

逸民、伯夷、叔齊、虞仲、夷逸、朱張、柳下惠、少連、子曰、不降其志、不辱其身者、伯夷叔齊與、謂柳下惠少連、降志辱身矣、言中倫、行中慮、其斯而已矣、謂虞仲夷逸、隠居放言、身中清、廢中權、我則異於是、無可無不可、

逸民(いつみん)は、伯夷、叔斉、虞仲(ぐちゅう)、夷逸(いいつ)、朱張、柳下恵、少連。子の曰わく、其の志しを降(くだ)さず、其の身を辱(はずか) しめざるは、伯夷叔斉か。柳下惠、少連を謂わく。志しを降し身を辱しむ、言 倫に中(あた)り、行 慮に中る、其れ斯れのみ。虞仲、夷逸を謂わく。隠居し て放言し、身 清に中り、廃 権に中る。我れ則ち是れに異なり、可も無く不可も無し。

世捨て人には、伯夷と叔斉と虞仲と夷逸と朱張と柳下恵と少連とがいる。先生は言われた、「その志望を高く持ち続けて、我が身を汚さなかったのは、伯夷と叔 斉かね。」柳下恵と少連のことを批評されて、「志望を引き下げ、身も汚したが、言葉は道理にかない、行いは思慮にかなっていた。まあそんな所だろうね。」 虞仲と夷逸のことを批評されて、「隠れ住んで言いたいことを言っていたが、身の持ち方は潔白にかない、世の捨て方も程よさにかなっていた。私はそれとは違 う、進もうと決めみしなければ、退こうと決めもしない。[ただ道義に従って進退自在だ。]」


18-09

大師摯適齊、亞飯干適楚、三飯繚適蔡、四飯缺適秦、鼓方叔入于河、播トウ*武入于漢、少師陽撃磬襄入于海、

大師摯(たいしし)は斉に適(ゆ)く。亜飯干(あはんかん)は楚に適く。三飯繚(りょう)は蔡に適く。四飯缺(けつ)は秦(しん)に適く。鼓方叔(こほうしゅく)は河に入る。播トウ武は漢に入る。少師陽 撃磬襄は海に入る。

[殷の末、音楽も乱れたので、]大師[楽官長]の摯(し)は斉の地に行き、亜飯[二度目の食をすすめる時の音楽係]の干は楚の地に行き、三飯の繚は蔡の地 に行き、四飯の缺は秦の地に行き、鼓の方叔は河内(かだい)の地に入り、トウ[振り鼓]を鳴らす武は漢水の地に入り、少師[大師の補佐官]の陽と磬を打つ 襄は海中の島に入った。


18-10

周公謂魯公曰、君子不施其親、不使大臣怨乎不以、故舊無大故、則不棄也、無求備於一人、

周公、魯公に謂いて曰わく、君子は其の親(しん)を施(す)てず、大臣をして以(もち)いざるに怨みしめず、故旧(こきゅう) 大故(たいこ)なければ、則ち棄てず。備わるを一人に求むること無かれ。

周公が魯公に向かって言われた、「上に立つ者はその親族のことを忘れず、大臣が用いられないからといって怨むことのないようにし、昔なじみはひどいことでも無ければ見捨てず、[人を使うには]一人に十分なことを求めてはいけない。」


18-11

周有八士、伯達、伯カツ*、仲突、仲忽、叔夜、叔夏、季随、季カ*、

周に八士あり、伯達、伯カツ*、仲突、仲忽、叔夜、叔夏、季随、季カ*。

周に八人の人物がいた。伯達と伯カツ*と仲突と仲忽と叔夜と叔夏と季随と季カ*である。


巻 第十
19、子張第十九

19-01

子張曰、士見危致命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣、

子張が曰わく、士は危うきを見ては命を致たし、得るを見ては義を思い、祭には敬を思い、喪には哀を思う。其れ可ならんのみ。

子張が言った、「士人は危険を見れば命を投げ出し、利得を見れば道義を考え、祭には敬うことを思い、喪には哀しみを思う、まあそれで宜しかろう。」


19-02

子張曰、執徳不弘、信道不篤、焉能爲有、焉能爲亡、

子張が曰わく、徳を執(と)ること弘からず、道を信ずること篤(あつ)からずんば、焉(いずく)んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡(な)しと為さん。

子張が言った、「徳を守っても大きくはなく、道を信じても固くはない。それでは居るというほどのこともなく、居ないというほどのこともない。[居ても居なくても同じだ。]」


19-03

子夏之門人問交於子張、子張曰。子夏云何、對曰、子夏曰、可者與之、其不可者距之、子張曰、異乎吾所聞、君子尊賢而容衆、嘉善而矜不能、我之大賢與、於人何所不容、我之不賢與、人將距我、如之何其距人也、

子夏の門人、交わりを子張に問う。子張が曰わく、子夏は何とか云える。対たえて曰わく、子夏が曰わく、可なる者はこれに与(くみ)し、其の不可なる者はこ れを距(ふせ)がんと。子張が曰わく、吾が聞く所に異なり。君子、賢を尊びて衆を容れ、善を嘉(よみ)して不能を矜(あわれ)む、我れの大賢ならんか、人 に於いて何の容れざる所あらん。我れの不賢ならんか、人将(は)た我れを距がん。これを如何ぞ其れ人を距がんや。

子夏の門人が交際のことを子張に訊ねた、子張が「子夏は何と言ったか。」と言うと、「子夏さんは『善い人と交際して、善くない人は断るように』と言われま した。」と答えた。子張は言った、「私が[先生から]聞いたこととは違う。君子はすぐれた人を尊びながら一般の人々をも包容し、善い人を褒めながら駄目な 人にも同情する。こちらがとても優れているのなら、どんな人に対しても皆包容出来ようし、こちらが劣っているのなら、向こうがこちらを断るだろう。どうし てまた人を断ることがあろうか。」


19-04

子夏曰、雖小道必有可觀者焉、致遠恐泥、是以君子不爲也、

子夏が曰わく、小道と雖ども必ず観るべき者あり。遠きを致さんには泥(なず)まんことを恐る、是(ここ)を以て君子は為(な)さざるなり。

子夏が言った、「たとい[一枝一藝の]小さい道でもきっと見どころはあるものだ。ただ[君子の道を]遠くまで進むためにはひっかかりになる心配がある。だからして君子はそれをしないのだ。」


19-05

子夏曰、日知其所亡、月無忘其所能、可謂好學也已矣、

子夏が曰わく、日々に其の亡(な)き所を知り、月々に其の能くする所を忘るること無し。学を好むと謂うべきのみ。

子夏が言った、「日に日に自分の分からないことを知り、月々に覚えていることを忘れまいとする、学問好きだと言って宜しかろう。」


19-06

子夏曰、博學而篤志、切問而近思、仁在其中矣、

子夏が曰わく、博(ひろ)く学びて篤く志し、切(せつ)に問いて近く思う、仁其の中(うち)に在り。

子夏が言った、「広く学んで志望を固くし、迫った質問をして身近に考えるなら、仁の徳はそこにおのずから生まれるものだ。」


19-07

子夏曰、百工居肆以成其事、君子學以致其道、

子夏が曰わく、百工、肆(し)に居て以て其の事を成す。君子、学びて以て其の道を致す。

子夏が言った、「職人達は仕事場にいてそれでその仕事を仕上げる。君子は学問をしてそれでその道を極める。」


19-08

子夏曰、小人之過也必文、

子夏が曰わく、小人の過(あやま)つや、必ず文(かざ)る。

子夏が言った、「小人が過ちをすると、きっと作り飾[って、誤魔化そうとす]る。」


19-09

子夏曰、君子有三變、望之儼然、即之也温、聽其言也勵*

子夏が曰わく、君子に三変あり。これを望めば儼然(げんぜん)たり、これに即(つ)けば温なり、其の言を聴けば勵*(はげ)し。

子夏が言った、「君子には三種の変化がある。離れて見るとおごそかで、そばによると穏やかで、その言葉を聞くと厳しい。」


19-10

子夏曰、君子信而後勞其民、未信則以爲勵*己也、信而後諌、未信則以爲謗己也、

子夏が曰わく、君子、信ぜられて而して後に其の民を労す。未だ信ぜられざれば則ち以て己れを勵*(や)ましむと為す。信ぜられて而して後に諌(いさ)む。未だ信ぜられざれば則ち以て己れを謗(そし)ると為す。

子夏が言った、「君子は[人民に]信用されから初めてその人民を使う、未だ信用されない[のに使う]と[人民は]自分たちを苦しめると思うものだ。また [主君に]信用されてから初めて諌める、まだ信用されない[のに諌める]と[主君は]自分のことを悪く言うと思うものだ。」


19-11

子夏曰、大徳不踰閑、小徳出入可也、

子夏が曰わく、大徳は閑(のり)を踰(こ)えず。小徳は出入して可なり。

子夏が言った、「大きい徳[孝や悌など]についてはきまりを踏み越えないように。小さい徳[日常の容貌や振舞い]については出入りがあっても宜しい。」


19-12

子游曰、子夏之門人小子、當酒掃應對進退則可矣、抑末也、本之則無、如之何、子夏聞之曰、噫、言游過矣、君子之道、孰先傳焉、孰後倦焉、譬諸草木區以別矣、君子之道、焉可誣也、有始有卒者、其唯聖人乎、

子游が曰わく、子夏の門人小子、酒掃(さいそう)応対進退に当たりては則ち可なり。抑々末なり。これを本(もと)づくれば則ち無し。これを如何。子夏これ を聞きて曰わく、噫(ああ)、言游(げんゆう)過(あやま)てり。君子の道は孰(いず)れをか先にし伝え、孰れをか後にし倦(う)まん。諸(こ)れを草木 の区して以て別あるに譬(たと)う。君子の道は焉(いずく)んぞ誣(し)うべけんや。始め有り卒(お)わり有る者は、其れ唯だ聖人か。

子游が言った、「子夏の門下の若者たちは掃除や客の受け答えや動作については結構だが、つまりは末のことだ。根本はと言えば何もない。どんなものだろ う。」子夏はそれを聞くと言った。「ああ、言游[子游]は間違っている。君子の道はどれを先き立てて伝えるとか、どれを後回しにして怠るとかいうものでは ない。[門人の力に従って順序よく教えるまでだ。]ちょうど草木も種類によって[育て方が]違うようなものである。君子の道は[力の無いものに無理強いし たりして]誤魔化せるものだろうか。始めもあれば終わりもある[何もかも備わる]というのは、まあ聖人だけだろうね。[門人の若者に求めることじゃな い。]」


19-13

子夏曰、仕而優則學、學而優則仕、

子夏が曰わく、仕えて優なれば則ち学ぶ。学びて優なれば則ち仕う。

子夏が言った、「官に就いて余力があれば学問をし、学問をして余力があれば官に就く。」


19-14

子游曰、喪致乎哀而止、

子游が曰わく、喪は哀を致して止む。

子游が言った、「喪には悲しみをつくすばかりだ。」


19-15

子游曰、吾友張也、爲難能也、然而未仁、

子游が曰わく、吾が友張や、能くし難きを為す。然れども未だ仁ならず。

子游が言った、「私の友達の張[子張]は、なかなか出来にくいことをやり遂げる。けれども未だ仁ではない。」


19-16

曾子曰、堂堂乎張也、難與竝爲仁矣、

曾子の曰わく、堂堂たるかな張や、与(とも)に並んで仁を為し難し。

曾子が言われた、「堂々たるものだね、張は。だが一緒に仁を行うのは難しい。」


19-17

曾子曰、吾聞諸夫子、人未有自致也者、必也親喪乎、

曾子の曰わく、吾れ諸(こ)れを夫子に聞けり、人未だ自ら致す者有らず。必ずや親の喪か。

曾子が言われた、「私は先生からお聞きしたのだが、人が自分[の真情]を出し尽すというのはなかなか無いことだ。あるとすれば親の喪だろう。」


19-18

曾子曰、吾聞諸夫子、孟莊子之孝也、其他可能也、其不改父之臣與父之政、是難能也、

曾子の曰わく、吾れ諸れを夫子に聞けり、孟荘子の孝や、其の他は能くすべきなり。其の父の臣と父の政とを改めざるは、是れ能くし難きなり。

曾子が言われた、「私はこれを先生からお聞きしたのだが、孟荘子の孝行はね、他のことはまだ真似が出来るが、父親の臣下と父親の治め方とを改めないというのは、これは真似のしにくいことだ。」


19-19

孟氏使陽膚爲士師、問於曾子、曾子曰、上失其道、民散久矣、如得其情、則哀矜而勿喜、

孟氏、陽膚(ようふ)をして士師たらしむ。曾子に問う。曾子の曰わく、上(かみ)其の道を失いて、民散ずること久し。如(も)し其の情を得ば、則ち哀矜して喜ぶこと勿(な)かれ。

孟氏が陽膚を士師[罪人を扱う官]にならせたとき、[陽膚はその職について]曾子にお訊ねした。曾子は言われた、「上の者が正しい道を失って[いるために]人民も緩んでいること久しい。もし犯罪の実情をつかんだときは、哀れんでやって喜んではならぬ。」


19-20

子貢曰、紂之不善也、不如是之甚也、是以君子惡居下流、天下之惡皆歸焉、

子貢が曰わく、紂(ちゅう)の不善や、是(か)くの如くこれ甚だしからざるなり。是(ここ)を以て君子は下流に居ることを悪(にく)む。天下の悪皆な焉(こ)れに帰す。

子貢が言った、「[殷の]紂王が善くないということも、それほどひどいわけではなかった。[その悪事にによって下等に落ち込んだので、後から事実以上の大悪人に仕上げられたのだ。]だからして君子は下等に居るのをいやがる。世界中の悪事が皆そこに集まって来るからだ。」


19-21

子貢曰、君子之過也、如日月之蝕焉、過也人皆見之、更也人皆仰之、

子貢が曰わく、君子の過(あやま)ちや、日月の蝕するが如し。過つや人皆これを見る、更(あらた)むるや人皆なこれを仰ぐ。

子貢がいった、「君子の過ちというものは日食や月食のようなものだ。過ちをすると[はっきりしているので]誰でもが皆それを見るし、改めると誰もが皆それを仰ぐ。」


19-22

衛公孫朝問於子貢曰、仲尼焉學、子貢曰、文武之道、未墜於地、在人、賢者識其大者、不賢者識其小者、莫不有文武之道焉、夫子焉不學、而亦何常師之有、

衛の公孫朝、子貢に問いて曰わく、仲尼(ちゅうじ)焉(いずく)にか学べる。子貢が曰わく、文武の道、未だ地に墜ちずして人に在り。賢者は其の大なる者を 識(しる)し、不賢者は其の小なる者を識す。文武の道あらざること莫(な)し。夫子焉にか学ばざらん。而して亦た何の常師かこれ有らん。

衛の公孫朝が子貢に訊ねて、「仲尼は誰に学んだのです。」と言うと、子貢は答えた、「文王、武王の道はまだ駄目になってしまわないで人に残っています。す ぐれた人はその大きなことを覚えていますし、優れない人でもその小さいことを覚えています。文王、武王の道はどこにでもあるのです。先生は誰にでも学ばれ ました。そしてまた別にきまった先生などは持たれなかったのです。」


19-23

叔孫武叔語大夫於朝曰、子貢賢於仲尼、子服景伯以告子貢、子貢曰、譬諸宮牆也、賜之牆也及肩、窺*見室家之好、夫子之牆也數仭、不得其門而入者、不見宗廟之美百官之富、得其門者或寡矣、夫子之云、不亦宜乎、

叔孫武叔、大夫に朝(ちょう)に語りて曰わく、子貢は仲尼より賢(まさ)れり。子服景伯(しふくけいはく)以て子貢に告ぐ。子貢が曰わく、諸(こ)れを宮 牆(きゅうしょう)に譬(たと)うれば、賜(し)の牆や肩に及べり、室家の好(よ)きを窺*い見ん。夫子の牆や数仭(すうじん)、其の門を得て入らざれ ば、宗廟の美、百官の富みを見ず。其の門を得る者、或いは寡(すく)なし。夫(か)の子(し)の云うこと、亦た宜(うべ)ならずや。

叔孫武叔が朝廷で大夫に話した、「子貢は仲尼よりも優れている。」子服景伯はそのことを子貢に知らせると、子貢は言った、「屋敷の塀に例えるなら、賜 (し)[この私]の塀の方はやっと肩までですから家の中のこぎれいなのが覗けますが、先生の塀の方は五六仭もありますから、その門を見つけて中に入るので なければ、宗廟の立派さや役人たちの盛んなありさまは見えません。それにその門を見つけられる人も少ないようですから、あの方[叔孫]がそう言われたの も、いかにも尤もですね。」


19-24

叔孫武叔毀仲尼、子貢曰、無以爲也、仲尼不可毀也、他人之賢者丘陵也、猶可踰也、仲尼如日月也、人無得而踰焉、人雖欲自絶也、其何傷於日月乎、多見其不知量也、

叔孫武叔、仲尼を毀(そし)る。子貢が曰わく、以て為すこと無かれ。仲尼は毀るべからざるなり。他人の賢者は丘陵なり、猶(な)お踰(こ)ゆべきなり。仲 尼は日月なり、得て踰ゆること無し。人自ら絶たんと欲すと雖ども、其れ何ぞ日月を傷(やぶ)らんや。多(まさ)に其の量を知らざるを見るなり。

叔孫武叔が仲尼のことを悪く言ったので、子貢は言った、「そんなことはお止めなさい。仲尼のことは悪く言えませんよ。ほかの人の勝れていると言うのは丘の ようなもので、まだ越えられますが、仲尼は日や月のようなもので、越えることなどとても出来ません。誰かが[その悪口を言ったりして]自分で絶交しようと 思ったところで、一体、日や月にとって何のさわりになりましょうか。その身のほど知らずを表すことになるだけです。」


19-25

陳子禽謂子貢曰、子爲恭也、仲尼豈賢於子乎、子貢曰、君子一言以爲知、一言以爲不知、言不可不慎也、夫子之不可及也、猶天之不可階而升也、夫子得邦家者、所謂立之斯立、道之斯行、綏之斯來、動之斯和、其生也榮、其死也哀、如之何其可及也、

陳子禽(ちんしきん)、子貢に謂いて曰わく、子は恭を為すなり。仲尼、豈に子より賢(まさ)らんや。子貢が曰わく、君子は一言以て知と為し、一言以て不知 と為す。言は慎しまざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、猶(な)お天の階して升(のぼ)るべからざるがごときなり。夫子にして邦家を得るなら ば、所謂これを立つれば斯(ここ)に立ち、これを道びけば斯に行(したが)い、これを綏(やす)んずれば斯に来たり、これを動かせば斯に和す、其の生くる や栄え、其の死するや哀(かな)しむ。これを如何ぞ其れ及ぶべけんや。

陳子禽が子貢に向かって言った、「あなたは謙遜されているのです。仲尼がどうしてあなたより勝れているものですか。」子貢は言った、「君子はただ一言で賢 いともされるし、ただ一言で愚かともされる、言葉は慎重でなければならない。先生が及びもつかないことは、ちょうど天がはしごをかけて上がれないようなも のだ。先生がもし国家を治めることになれば、いわゆる『立たせれば立ち、導けば歩き、安らげれば集まって来、激励すれば応える。』で、生きておられれば栄 え、死なれれば悲しまれる。どうしてまた[私ごときが]及べようか。」


20、尭曰第二十


20-01

尭曰、咨爾舜、天之暦數在爾躬、允執其中、四海困窮、天禄永終、舜亦以命禹、曰、予小子履、敢用玄牡、敢昭告于皇皇后帝、有罪不敢赦、帝臣不蔽、簡在帝心、朕躬有罪、無以萬方、萬方有罪、罪在朕躬、周有大賚、善人是富、雖有周親、不如仁人、百姓有過、在予一人、

尭の曰わく、咨(ああ)、爾(なんじ)舜、天の暦数、爾の躬(み)に在り。允(まこと)に其の中(ちゅう)を執(と)れ。四海困窮。天禄(てんろく)永く 終えん。舜も亦た以て禹に命ず。[湯(とう)]曰わく、予(わ)れ小子履(り)、敢て玄牡(げんぼ)を用(もっ)て、敢て昭(あきら)かに皇皇后帝に告 (もう)す。罪あるは敢て赦(ゆる)さず、帝臣蔽(かく)さず、簡(えら)ぶこと帝の心に在り。朕(わ)が躬(み)罪あらば、万方を以てすること無けん。 万方罪あらば、罪は朕が躬に在らん。周に大賚(たいらい)あり、善人是れ富む。周親(しん)ありと雖も仁人に如(し)かず。百姓(ひゃくせい)過ち有らば 予れ一人に在らん。

尭が言った、「ああ、なんじ舜よ。天の巡る運命(さだめ)はなんじが身にあり。[なんじ帝位に就くべき時ぞ。]まことにほどよき中ほどを守れ。四海は苦し めり。天の恵みの永遠につづかんことを。」舜もまたその言葉を[帝位を譲る時に]禹につげた。湯は言った、「われ、ふつつかなる履[湯の名]、ここに黒の 牡牛をお供えし、はっきりと偉大なる上帝に申し上げよう。罪ある者[夏の桀王]は勝手には許しませぬ。上帝の臣下[賢人]は蔽うことなく、御心のままに選 びましょう。わが身に罪のあるときは万民をわずらわしたまうな、万民に罪のあるときは、罪をわが身にあらしめたまえ。」周には天のたまものあり、善人の豊 かなことだ。[武王は言った、]「濃い親戚があっても、仁の人には及ばぬ。民草に過ちがあれば、責めは我が身の上にある。」


20-02

謹權量、審法度、修廢官、四方之政行焉、興滅國、繼絶世、擧逸民、天下之民歸心焉、所重民食喪祭、

権量を謹み、法度を審(つまびら)かにし、廃官を修むれば、四方の政行なわれん。滅国を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙ぐれば、天下の民、心を帰せん。重んずる所は、民、食、喪(そう)、祭。

目方、升目を慎み、礼楽制度をよく定め、すたれた官を復活させれば、四方の政は巧くゆく。滅んだ国を復興させ、絶えた家柄を引き継がせ、世捨て人を用いれば、天下の民は心を寄せる。重んずることは、人民と食糧と喪と祭り。


20-03

寛則得衆、信則民任焉、敏則有功、公則民説、

寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち民任じ、敏なれば則ち功あり、公なれば則ち説(よろこ)ぶ。

寛(おおらか)であれば人望が得られ、信(まこと)があれば人民から頼りにされ、機敏であれば仕事ができ、公平であれば悦ばれる。


20-04

子張問政於孔子、曰、何如斯可以從政矣、子曰、尊五美屏四惡、斯可以從政矣、子張曰、何謂五美、子曰、君子惠而不費、勞而不怨、欲而不食、泰而不驕、威而 不猛、子張曰、何謂惠而不費、子曰、因民之所利而利之、斯不亦恵而不費乎、擇其可勞而勞之、又誰怨、欲仁而得仁、又焉貧、君子無衆寡、無小大、無敢慢、斯 不亦泰而不驕乎、君子正其衣冠、尊其瞻視儼然、人望而畏之、斯不亦威而不猛乎、子張曰、何謂四惡、子曰、不教而殺、謂之虐、不戒視成、謂之暴、慢令致期、 謂之賊、猶之與人也、出内之吝、謂之有司、

子張、孔子に問いて曰わく、何如(いか)なれば斯れ以て政に従うべき。子の曰わく、五美を尊び四悪を屏(しりぞ)ければ、斯れ以て政に従うべし。子張が曰 わく、何をか五美と謂う。子の曰わく、君子、恵して費(つい)えず、労して怨みず、欲して貪(むさぼ)らず、泰(ゆたか)にして驕(おご)らず、威にして 猛(たけ)からず。子張が曰わく、何をか恵して費えずと謂う。子の曰わく、民の利とする所に因りてこれを利す、斯れ亦た恵して費えざるにあらずや。其の労 すべきを択んでこれを労す、又た誰をか怨みん。仁を欲して仁を得たり、又た焉(なに)をか貪らん。君子は衆寡と無く、小大と無く、敢て慢(あなど)ること 無し、斯れ亦た泰にして驕らざるにあらずや。君子は其の衣冠を正しくし、其の瞻視を尊くして儼然たり、人望みてこれを畏る、斯れ亦た威にして猛からざるに あらずや。子張が曰わく、何をか四悪と謂う。子の曰わく、教えずして殺す、これを虐(ぎゃく)と謂う。戒めずして成るを視る、これを暴と謂う。令を慢(ゆ る)くして期を致す、これを賊と謂う。猶(ひと)しく人に与うるに出内(すいとう)の吝(やぶさ)かなる、これを有司と謂う。

子張が孔子にお訊ねして言った、「どのようにすれば政治にたずさわれましょうか。」先生は言われた、「五つの立派なことを尊んで四つの悪いことを退けてた ら、政治にたずさわることが出来よう。」子張が「五つの立派なこととは何々ですか。」と言うと、先生は言われた、「上に立つ者が、恵んでも費用をかけず、 骨を折っても怨みとせず、求めても貪らず、ゆったりしていても高ぶらず、威厳があっても烈しくない。[この五つを言うのだ。]」子張が「恵んでも費用をか けないとはどういうことですか」と言うと、先生は言われた、「人民が利益としていることをそのままにして利益を得させる、これこそ恵んでも費用をかけない ことではなかろうか。自分で骨折るべきことを選んでそれに骨を折るのだから、一体誰を怨むことがあろう。仁を求めて仁を得るのだから、一体何を貪ぼること があろう。上に立つ者が[相手の]大勢小勢や貴賎にかかわりなく決して侮らない、これこそゆったりとしていても高ぶらないことではなかろうか。上に立つ者 がその服や冠を整え、その目の付け方重々しくして、いかにも厳かにしていると、人々はうち眺めて恐れ入る、これこそ威厳があっても烈しくないことではなか ろうか。」子張が言った、「四つの悪いこととは何々ですか。」先生は言われた、「教えもしないでいて殺すのを虐(むご)いといい、注意も与えないで成績を 調べるのを乱暴といい、命令を緩くしていて期限までに追い込むのを賊害といい、どうせ人に与えるというのに、出し入れのけちけちしているのを役人根性とい う。[この四つを言うのだ。]」


20-05

孔子曰、不知命、無以爲君子也、不知禮、無以立也、不知言、無以知人也、

孔子の曰わく、命を知らざれば、以て君子たること無きなり。礼を知らざれば、以て立つこと無きなり。言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。

孔子が言われた、「天命が分からないようでは君子とは言えない。[心が落ち着かないで、利害に動かされる。]礼が分からないようでは立ってはいけない。[動作が出鱈目になる。]言葉が分からないようでは人を知ることが出来ない。[うかうかと騙される。]」


http://www.asahi-net.or.jp/~pd9t-ktym/kanmei.html


図版参照: