金曜日, 11月 29, 2013

宇野弘蔵あるいはマルクスとスピノザ(日本資本主義論争)

             (柄谷行人リンク::::::::::
参考:
NAMs出版プロジェクト: 201411 Platypus There is no such thing as Japanese Marxism - Platypus
http://nam-students.blogspot.jp/2014/11/201411-platypusthere-is-no-such-thing.html
NAMs出版プロジェクト: 日本資本主義論争
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_80.html

 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
  
 (スピノザ『エチカ』第一部公理六 ) http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6

マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた。

「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
(ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486 (会員のみ閲覧可能)

しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。
(例えば、マルクスが前提とした複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。)

マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。

ドゥルーズもマルクス的唯物論を展開する際に精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの 、

「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める」
(エチカ第5部定理3)

http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p3

という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完する必要はない。

そこで本題だが、スピノザからマルクスを見た先駆者に宇野弘蔵がいる。
宇野は東北大学で教えている時、ライプニッツ研究者の河野与一と知り合い。スピノザを経済学に応用する視座を得た。
大黒弘慈は以下のように指摘している。

「…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋 化によって要請される政策目標設定との「同時並行性」を指摘するのであるが, この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身 によって述懐されていることは,十分に注意されてよい。 宇野自身によるその説 明がない以上,その真意は測りかねるが,たとえばアルチュセールによれば, 「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。 これは並行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実 現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に対して,知性(精神)からの 制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」 の名で知られるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されていると いうことでもない。精神が身体と「ともに」思考するということであり,一方の 他方に対する優越を禁じているのである。 この関係は,国家と資本とのあいだに おいても想定可能である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離され えないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本と「ともに」思考 する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を 展開するのである。国家という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本 の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という「身体」と「と もに」,あるいは資本という「身体」 に「おいて」 しか思考できない。 こうした 理解を示すかのように,宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と 身体との関係になぞらえるのである (宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476)。」

大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007より
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,太田出版 他を纏めたもの)

参考:
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て―スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」
(1935年 東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号掲載、『『資本論』と私 』宇野 弘蔵 (著), 櫻井 毅 御茶の水書房 (2008/01)に再録)

これだけでは何のことかわからない人もいるだろうが、プルードンがヘーゲルの弁証法を否定したこと、マルクスの欠点がヘーゲルの弁証法を引き摺ったことにあること、ソ連や中国の政治体制が弁証法による止揚の政治的適用であること等を考え合わせると、その重要性がわかるだろう。

柄谷行人が先の講演でも強調したように、そこに国家と資本を双頭として見ることを可能にする視座があるのである。これは新たなアソシエーション、平等と自由を併せ持ったそれを具体化する際にも必要な考え方だ。


追加資料:

宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
   ——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照
」(全文)

序言
 経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々

 定義
 一、二 略
 三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
 それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。

 仮定
 一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
 二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。

 定理
 一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
 証明。略
 系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。


(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)

参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期
第20号,太田出版 他を纏めたもの)

スピノザ『エチカ』第三部序言
感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。…

http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
定義
三 感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状
〔刺激状態〕、また同時にそうした変状の観念であると解する。
 そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら、その時私は感情を能動と解し、
そうでない場合は受動と解する。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3d3

要請
 一 人間身体はその活動能力を増大しあるいは減少するような多くの仕方で刺激(アフィキ)される
ことができるし、またその活動能力を増大も減少もしないような仕方で刺激(アフィキ)されることも
できる。 …
 二 人間身体は多くの変化を受けてしかもなお対象の印象あるいは痕跡を、したがってまた事物の
表象像を保持することができる。…
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3post

定理
 定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精
神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて
必然的に働きを受ける。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p1
定理一系
 系 この帰結として、精神は非妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きを受け、
反対に、妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きをなすことになる。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p1c
要請の訳語に仮定を採用しているのはなるほどと思った。

 (自然)物      (観念)
  商品    経済政策=感情
  経済=身体   政治=精神

補足:
(ヘーゲルとの対応)

スピノザの二元論は一元論のなかでも止揚されない。
ただし宇野の経済原論はヘーゲル論理学に対応する。
小論理学目次と対応させたメモが『『資本論』と私』に載っている。

以下、恣意的に図解すると、
               /\
            (絶対理念)\
           (生命) 理念 (認識)
            /_☆利子__\  ヘーゲル『エンチクロペディ』
           /\<概念論> /\       &
          /推論\☆分配論/__\ ☆宇野弘蔵『経済原論』
         / 主観的\  /客観  \(「資本論」と私』冒頭参照)
        /[概念]_判断_\/______\
       /\ ☆利潤      ☆地代 /\
      /  \            /  \
     /限度  \  『論理学』   /現実性 \
    /_☆資本__\☆『経済原論』 /☆資本の再生産過程
   /\ <有論> /\      /\  <本質論>/\
  /  \☆流通論/  \    /  \☆ 生産論/  \
 / 質  \  / 量  \  /存在本質\   / 現象 \
/_☆商品__\/_☆貨幣__\☆資本の生産過程 /☆資本の流通過程

ヘーゲルのみだと、

               /\
            (絶対理念)\
           (生命) 理念 (認識)
            /______\  ヘーゲル『エンチクロペディ』
           /\ <概念論>/\
          /推論\    /__\
         / 主観的\  /客観  \
        /[概念]_判断_\/______\
       /\              /\
      /  \            /  \
     /限度  \  『論理学』   /現実性 \
    /______\        /______\
   /\ <有論> /\      /\ <本質論>/\
  /  \    /  \    /  \    /  \
 / 質  \  / 量  \  /存在本質\  / 現象 \
/______\/______\/______\/______\

参考:ヘーゲル
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5795.html?m=0#notee1

宇野弘蔵のみだと、

               /\
              /  \
             / 利子 \
            /______\
           /\ <分配論>/\
          /  \    /__\
         / 利潤 \  / 地代 \
        /______\/______\
       /\              /\
      /  \    宇野弘蔵    資本の\
     / 資本 \  『経済原論』  /再生産過程
    /______\        /______\
   /\<流通論> /\      /\ <生産論>/\
  /  \    /  \    /  \    /  \
 / 商品 \  / 貨幣 \  /資本の \  /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\

本来の対応はもっと細かい。
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した(ウェーバー以上にヘーゲルは批判されるべきだった)。

原理論はヘーゲル、
段階論はスピノザ、ということだろう。
(著作集第七巻502頁解説参照)


宇野弘蔵『経済原論』 目次


序論
第一篇 流通論
 第一章 商品
 第二章 貨幣
 第三章 資本

第二篇 生産論
 第一章 資本の生産過程
  第一節 労働生産過程
  第二節 価値形成増殖過程
  第三節 資本家的生産方法の発展
 第二章 資本の流通過程
 第三章 資本の再生産過程
  第一節 単純生産〜〜資本の再生産と労働力の再生産
  第二節 拡張再生産〜〜資本家的蓄積の現実的過程
  第三節 社会総資本の再生産過程〜〜価値法則の絶対的基礎

第三篇 分配論
 第一章 利潤
  第一節 一般的利潤率の形成〜〜価値の生産価格への転化
  第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)〜〜需要供給の関係と超過利潤の形成
  第三節 一般的利潤率の低落の傾向〜〜生産力の増進と景気循環
 第二章 地代
 第三章 利子
  第一節 貸付資本と銀行資本
  第二節 商業資本と商業利潤
  第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
   第四節 資本主義社会の階級性


参照:
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re2_index/U/uno_kozo.html


追加資料:

ヘーゲル          宇野弘蔵
小論理学          経済原論  メモ 1947?

 存在論           第一篇 流通論
  ・質             第一章 商品
   ・存在            第一節 商品の二要因
   ・定在            第二節 交換価値=価値形態
   ・向自存在          第三節 貨幣形態=価格
  ・量             第二章 貨幣
   ・純粋量           第一節 価値尺度としての貨幣
   ・定量            第二節 流通手段としての貨幣
   ・度             第三節 貨幣
  ・限度            第三章 資本

 本質論           第二篇 生産論
  ・現存の根拠としての本質   第一章 資本の生産過程
    ・純粋な反照諸規定     第一節 労働生産過程
      ・同一性         a   労働過程
      ・区別          b   生産過程における労働の二重性
      ・根拠          c   生産的労働の社会的規定
    ・現存在          第二節 価値形成増殖過程
    ・物            第三節 資本家的生産方法の発展
  ・現象            第二章 資本の流通過程 
    ・現象の世界        第一節 資本の価値と流通費用
    ・内容と形式        第二節 資本の回転
    ・関係           第三節 剰余価値の流通
  ・現実性           第三章 資本の再生産過程
    ・実体性の関係       第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積   
    ・因果性の関係       第二節 拡張再生産 資本家的蓄積の現実的過程
    ・交互作用         第三節 社会総資本の再生産過程

 概念論            第三篇 分配論
  ・主観的概念          第一章 利潤
    ・概念としての概念      第一節 剰余価値の利潤への転化
    ・判断            第二節 一般的利潤率の形成  
      ・質的判断         a   異なる部門の利潤形成の形態
      ・反照の判断        b   商品価格の生産価格の転化
      ・必然性の判断       c   生産価格と市場価格 資本の競争
      ・概念の判断
    ・推論            第三節 一般的利潤率の低落の傾向
      ・質的な推論        a   生産力の増殖による超過利潤の追求
      ・反照の推論        b   一般的利潤率の傾向的低下の法則
      ・必然性の推論       c   資本家的生産方法の内的矛盾の展開
  ・客観             第二章 地代
    ・機械論           第一節 差額地代とその資本形態としての第一形態
    ・化学論           第二節 差額地代の第二形態
    ・目的論           第三節 絶対地代
  ・理念             第三章 利子
    ・生命            第一節 貸付資本と銀行資本
    ・認識            第二節 商業資本と商業利潤
      ・認識           a   流通資本の資本化
      ・意欲           b   商業利潤と商業資本の倒錯性
    ・絶対理念          第三節 それ自身として利子を生むものとしての資本
                  (第四節 資本主義社会の階級性)

http://ja.wikipedia.org/wiki/エンチクロペディー#.E8.AB.96.E7.90.86.E5.AD.A6
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/2209/1/ronso0660400320.pdf



宇野弘蔵『経済原論』(ヘーゲル論理学対応)

                               /\
                              それ自身として
                             /利子を生むものとしての
                            /_資本___\
                           /\      /\
                          /__\<利子>/商業資本と   
                         貸付資本と\ 流通\商業利潤
                        /_銀行資本_\資本の\/商業利潤と商業資本の倒錯性
        資本家的生産方法の内的矛盾の展開\       資本化    /\
            ☆一般的利潤率の低落の傾向\            /__\  
                生産力の増殖による超過 <<分配論>>  /絶対地代\ 
       生産力の増殖による超過利潤の追求\ 利潤\生産価格と   /__\/__\
                   /\   の追求/市場価格 差額地代と     /\
                  /__\<利潤>資本の競争 その資本形態<地代>/__\
          ☆剰余価値の利潤への転化\☆一般的利潤率の形成/としての\  /差額地代の
                /__\/__\/異なる/商品\/_第一形態_\/_第二形態_\
               /\        部門の 価格の               /\
              /  \     利潤形成の 生産価格の           社会総資本の
             /    \       形態 転化              /再生産過程
            /______\                        /__\/__\
           /\      /\         宇野弘蔵         /\<資本の  /\
          /  \<資本>/  \     <<<経済原論>>>   単純生産 \再生産過程>_\
         /    \  /    \                資本の再生産と\  /\拡張再生産 
        /______\/______\                /__\蓄積_\/資本家的蓄積の現実的過程
       /\              /\              /\              /\ 
      /  \            /  \       資本家的生産方法\            /__\
     /貨幣形態\  <<流通論>> / 貨幣 \          /の発展 \ <<生産論>>  /剰余価値の流通
    /__=価格_\        /______\  生産的労働の/______\        /__\/__\
   /\      /\      /\      /\  社会的規定\<資本の  /\      /\<資本の  /\
  /  \<商品>/  \    /  \<貨幣>/  \    /  \生産過程>  \    /__\流通過程>__\
商品の二要因\  /交換価値\  /価値尺度\  /流通手段\ 労働生産過程\  /価値形成\  資本の価値\  /資本の回転
/______\/=価値形態_\/としての貨幣\/としての貨幣\/労働_労働の\/_増殖過程_\/と流通費用_\/__\/__\ 
                                 過程 二重性
ヘーゲル論理学
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5795.html?m=0#noter2

                               /\
                              /体系と方法
                             /絶対理念\
                            /本性\/方法、弁証法
                           /\      /\
                          /類_\ 理念 /善の理念   
                         /\生命/\  /\認識/真の理念
                        /個体\/過程\/分析\/総合\
                       /\       (算術、解析)/\
                      /必然性            /__\  
                     /\推論/\  <概念論>   /\目的的関係  
                    /質_\/反省\        /__\/__\
                   /\      /概念     /\      /\
                  /__\主観的 /必然性    /__\ 客観的/__\
                 /\概念/\  /\判断/\  /\機械的\  /化学的/\
                /__\/__\/質_\/反省\/__\/__\/__\/__\
               /\                              /\
              /  \                            /__\
             /    \                          /交互作用\
            /______\                        /__\/__\
           /\      /\                      /\      /\
          /  \ 限度 /  \        <論理学>       /__\ 現実性/__\
         /    \  /    \                  /\実体性\  /\因果性\
        /______\/______\                /__\/__\/__\/__\
       /\              /\              /\              /\ 
      /  \            /  \            /__\            /__\
     /対自存在\   <存在論>  / 度  \          /\物 /\  <本質論>   /\相関/\
    /______\        /______\        /__\/__\        /__\/__\
   /\      /\      /\      /数学     /\      /\      /\      /\
  /  \ 質  /  \    /  \ 量  /  \    /根拠\存在本質/  \    /__\ 現象 /__\
 / 存在 \  /現存在/\  /純粋量 \  /定量  \  /反省規定\  /\ 実存\  /現象世界\  /内容と形式 
/______\/___/__\/______\/______\/同一性/区別\/__\/__\/__\/__\/__\/__\ 

上記は宇野が実際に参照したヘーゲル小論理学とは訳が違う。また経済原論は新旧2種があり、上記はあくまで宇野の手書きメモに従った。誤読があるかも知れない。
また、宇野は意図的に生産論と流通論の名を逆にしている(商品経済が資本主義の前提だから流通が先でいいのだ)。
(宇野の案だと単純・拡張再生産が生産論に収まるわけだから間違いではない。マルクス『資本論』↓では逆になる。)
労働の位置づけもマルクス『資本論』とは違うが宇野の方が収まりはいい。そのかわり労働価値説は強調されないかも知れない。

 マルクス『資本論』 絶対的5〜9、   商品と
 __________相対的10〜13__貨幣〜3
|資本の変態|(資本の |剰余|資本|拡大|単純|
|  と循環| 循環過程)価値|へ4|価値形態論1
| 1〜6 |1、2、3| 〜16 一般的|貨幣|
|_二資本の流通過程__|_一資本の生産過程__|
|     |拡大|単純|時間|  | 資本の |
|資本の回転|再生産 ・|_労 賃_|蓄積過程 |
|7〜17 社会的総資本|17〜20|21〜25| 
|_____|18〜21|出来高__|_____|
|     |     生産過程49|資本|労働|
|  利潤 |     | 競争の |_三位一体48
| 1〜20|     | 外観50|土地|  |
|____三資本主義的生産の総過程への転化|__|
|     絶対・|差額|     資本家|労働者
|  利子 |_地代_・| 生産51|_諸階級52
|21〜36|37〜47| 分配と |地主|  |
|複利24_資本主義的・|_____|__|__|

http://nam-students.blogspot.jp/2011/10/blog-post_29.html?m=0


宇野弘蔵著作集別巻 (1974年8月16日発行 岩波書店)73〜75頁

    犬・猫・人間
     ーー猫は封建的であるーー

 谷崎潤一郎も大体そういうふうにいっていたと思うが(1)、猫は人前では決してフザケないものである。客が来ると主
人の方は見向きもしないようなふりをして客の膝の上にあがって愛想をする。また主人の方でもさも御迷惑なものを
飼っていますといった態度でこれをつまんで障子の外に出したりする。猫をつれて散歩に出かける主人はない。勿論
猫は散歩の連れとして多少小さ過ぎるという欠点は否定出来ない。が、しかし散歩には向かないような小さなのでも
犬なら連れて歩く人かある。どうも猫には元来そういう性質が欠けているのではないかと思う。そしてそれは猫が封
建的であることの有力な論拠をなすものである。というのは散歩は資本主義の産物の一つであるからだ。わが国でも
西洋文明が入って開化するまでは二人連れで散歩というようなことはなかったらしいが、最近では諸君の御覧の通り
だ。もっとも僕は人間を猫と混同するわけではないが、最近の資本主義の発展がこういうことにも随分著しい変化を
齎らしたものだということからつい連想する。つまり最近の日本資本主義は猫文明が犬文明にかなりの程度に交替し
たものだと思われて仕方がないのだ。或る有名な西洋の学者の説によると犬が喰い余した骨を地中に埋めて置くこと
から人間は資本の蓄積を学んだということだが、犬は何といっても資本主義的である。或いはこの学者のいうように
資本主義の元祖かも知れない。犬は始めての客であるとしばらくは敵意を示し、漸くお愛想を始めても主人にジャレ 
つくことを寧ろ見せびらかせる。犬はなかなかに西洋風だ。もっともこの頃は日本犬が大分もてはやされることにな
ったが、これなども日本資本主義の特殊性を示すものであろう。とにかく我が国が資本主義化して来たことを表わし
ているといってよい。犬公方なんかはその点では世に理解されなかった先覚者だったといえる。例えば映画にしても
猫が活躍するというものは少ない。芝居の方になると犬が出るとやや滑稽なものになり易い。犬に芝居がやれないと
いうのではないが、すればいわゆる犬芝居になるわけだ、大体糸にのらない。然るに蓄音機による西洋音楽は犬には
理解されるものらしい。もっともあの主人の声に聞き入っているマークは僕の余り好まないところである。あれでは
蓄音器愛好者を犬に見たてたものとしか考えられない。何とかして改めてほしいと思うが、不適当とは言えない。先
年なくなられたわが国社会主義者の巨頭堺利彦氏は猫が好きだった。これに反して山川均氏の一党は犬が好きのよう
だ。社会主義者の間にも時代の推移は免れないものと見える。堺氏の理論に何だか古風なものが残っていたのはこの
猫のせいではないかと思われる。山川氏の如きはしかし最近では鳥が随分気に入ったと見えて犬が万物の霊長だとす
れば鳥は万物の次長ぐらいにはなるといって、犬好きの荒畑寒村氏に答えている。いささか行き過ぎた文明のようで
ある。考えて見ると先年来の封建論争で最初はかなり山川君に感心して居られた大内兵衛氏はその時分までは猫を飼
っておられたようだ。その後間もなく労農派の重鎮として奮闘せられるようになったが、それはセッパードの立派な
のを飼われてからのことだ。描や犬を飼うということも馬鹿にならぬことである。向坂君の犬好きはまた大変だ、僕
等は会う度に犬の飼い方の注意を受けている。ことによると山田盛太郎君なども最近まで描を飼っていたのかも知れ
ない。われわれの連中では和田君は一時犬を飼っておられたが最近はそうでもないようだ。長谷田君の家には名犬秋
田犬がいる。服部君のところにもたしかに犬がいる。僕の処には犬も猫もいる。

(1)谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のをんな」参照。なおこの小説は全くつまらぬことに異常な努力を払ったものであるとは思
   うが、猫を描いて技まさに神にちかいものがあるといってよい。漱石の『猫』の如きは猫のかいた『吾が輩は人間である』
   に過ぎない。

                  (東北帝国大学経済学友会『経済学友会報』第二号、一九三六年一一月刊)


猫が資本主義的で、犬が封建的だろう
ペットは治療だから症状と逆の処方になる


漱石等神経症には猫が効く

ただし漱石は犬派だったらしい

木曜日, 11月 28, 2013

笑い:メモ

             (ドゥルーズWhat's the difference?リンク::::::::::
笑い:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/11/blog-post_28.html(本頁)
https://www.blogger.com/blog/post/edit/28938242/8288074040554527275

田河水泡『滑稽の研究』

NAMs出版プロジェクト: The Cartoon Laws of Physics
http://nam-students.blogspot.jp/2011/10/cartoon-laws-of-physics.html(参考)
小林秀雄について(ベルグソン関連):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_12.html
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ『差異と反復』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_20.html?m=0#_b
サンドウィッチマン M-1グランプリ2007 敗者復活戦 - niconico
http://sp.nicovideo.jp/watch/sm5703030
転載:ウーマンラッシュアワー12月17日THE MANZAI 2017
http://nam-students.blogspot.jp/2017/12/1217the-manzai-2017-httpsyoutu_18.html
ウーマンラッシュアワー2020
ボールディング、経済学ジョーク

LENNY BRUCE ON THE STEVE ALLEN SHOW May 10, 1959
https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/01/blog-post_7.html

Dr.ハインリッヒ

ぺこぱ
https://nam-students.blogspot.com/2020/04/blog-post_4.html

(以下引用。)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/5059/laugh1.html

 僕が笑いについて考えるきっかけとなったものの1つに、ベルクソンという哲学者が1900年に出版した『笑い』(La Rire)という本がある。岩波文庫版の『笑い』では林達夫という人が訳し、解説も書いているのだが、何か僕にはひっかかるものがあった。

 まずはベルクソンが二十三版の「序」から「附録」まで(文字通り始めから終わりまで)、しつこく書いてあることを確認しておこう。それは、「我々はこの喜劇的空想と言うものをある定義のうちに閉じ込めようと心がけているものではな」く、「おかしみの『作り方』を決定することから成る」ように議論をしている、ということである(注3)。このことは流れ(純粋持続)としての実在を考察するベルクソンの立場からすれば当然のことともいえる。つまり、「アリストテレス以来、おえらい思想家たちがこのちっぽけな問題と取組んで来たが、この問題はいつもその努力を潜りぬけ、すり抜け、身をかわし、またも立ち直る」(注4)笑いに対して、定義からはみ出す動き(流れ)の方を考察することは、ベルクソンのスタンスからして自然なことだと考えられる。

 ベルクソンが繰り返し書いてあることはもう1つある。それは我々は「こわばり(raideur)」に対して笑う、ということだ(注4)。例えば、バナナの皮で滑って転ぶ、という事態を考えてみよう。これは気をつけて歩いていれば避けられた事態である。しかしその転んだ人は「歩く」という行動に硬直してしまっていた(raideurは「硬直」の意味もある)からこそ転んでしまったのだ。我々は普通「転んだ」ということにのみ目が行ってしまいがちだが、ベルクソンはそうではなく、そこにあった「こわばり」がおかしみのもとだ、と言うのである。

ベルクソンの『笑い』は生のエネルギーとして、生の「こわばり」、「機械化」をいわば笑い飛ばすものとして書かれている。ただし、ベルクソンの書き方ではどうしても一つ笑い飛ばせないものが出てくるのである。それは他ならぬベルクソン自身である。どれだけ笑いについて書いていても、その文を書いている人は文章に出てこない限り笑いの対象になることはない。よく「楽屋オチ」などということがあるが、それは普段のオチがあくまで楽屋、つまり舞台の上でしかないものであるからこそ成り立つ言葉ではないだろうか。ベルクソンの「笑い」を突き詰めて考えていくのであれば「楽屋オチ」を含んだ(「楽屋オチ」だけではだめである。それは楽屋の内/外を暗黙のうちに認めているものであるから、ベルクソンの「全てを笑い飛ばす」というものにはなり得ない)、自分自身を笑うものにならなくてはならない。
  そしてその鍵はどうやらニーチェ―バタイユのラインにあるのではないか、というのが今の僕の考えである。本論の中でちょっとだけ出てきたジル・ドゥルーズという人は『記号と事件』という本の中で次のように述べている。 

「私を窮地から救ってくれたのはずっと後になってから読んだニーチェだった。(…)ひとりひとりの人間が自らの名においてごく単純なことを述べ、情動や強度、体験や実験によって語りたくなるということだ。」

 「ひとりの個人が真の固有名を獲得するのは、けわしい脱人格化の修理を終えて、個人をつきぬけるさまざまな多様体と、個人をくまなく横断する理解に向けて自分を開いたときに限られるからだ」(注20)。

3:『笑い』p8、p12、pp.185-186。
4:『笑い』pp.18-19。
20:『記号と事件』、p15。


桂枝雀にも落語の「サゲ」に関する優れた論考があるが、上記論考の「笑い飛ばせない」自分自身の問題は、その桂枝雀が自殺したことと考え合わせると、示唆するものが多い。むしろド・マンではないが、死という形式化が自己(自分自身)にも及ぶということかも知れない。
(自己言及のパラドックスを笑いに転化した例としては黒澤明の『影武者』がある。)


参考:
http://kogotokoubei.blog39.fc2.com/blog-entry-73.html
(以下引用。)
らくごDE枝雀_ちくま文庫

…この本は、何と言っても「サゲ」についての考察が際立っている。従来の数多くの落語解説書などで非論理的なサゲの種類の羅列ばかりだったことに比べると、ある意味で「革命的」な分析を提示した書である。…

内容|構成
ー-+ーー
演出|観客

桂枝雀  例えば「仕込み落ち」てなのは、サゲの言葉をあらかじめ仕込ん
     で おくという噺の構成からきた分け方ですわね。一方、「ぶっつけ
     落ち」 言うのは、お互いに言うてることがくいちごうてることで
     サゲになる という、これは噺の内容からきてますわね。さらに
     「シグサ落ち」 いうのは、セリフやなしにシグサでサゲるという、
     これは演出法です わ。この三つのバラバラの視点のものを一列に
     並べて論じようちゅうん ですからね。こら満足なもんができる
     わけがおまへんがナ。

まったく、目から鱗、と言える指摘ではないか。そして、枝雀は、「お客さんの視点」で考えた四種類のサゲの形について説明をしている。枝雀のサービス精神は、分かりやすく図解しているところである。

__離れ領域_不安_
 ホンマ領域 ↑
       ↓
 合わせ領域 安心
       ↑
_ホンマ領域_↓__
  離れ領域 不安

まず、この図については、次のように説明してくれる。

桂枝雀 次の図を見とくなはれ。いろの濃いとこがフツーというかホンマの
    領域なんです。この「ホンマ領域」の内外に「ウソ領域」がるわけ
    です。で、外側を「離れ領域」と申しまして、ホンマの世界から離
    れる、さいぜん言いました「ヘン」の領域なわけです。常識の枠を
    出るわけですからウソの領域ですわね。しかもとりとめがありません
    から極く不安定な世界です。対して内側にあるのが「合わせ領域」
    です。これもさいぜん言いましたとおり「人為的に合わせる」という
    ウソの領域です。「合う」という状況も、あんまりぴったり合いすぎ
    ると「こしらえた」ということでウソになってしまいますわね。但し、
    「離れ領域」とちごうて「合う」ということは型ができるということ
    やさかい安定してますわ。

この図を使って、「ドンデン」「謎解き」「へん」「合わせ」という4つのサゲのタイプを示したのが次の図となる。



謎解き          ドンデン
_____|___|_  ______|__|_
____/|\  |   ______| /|
     | \ |         \/ |
     |  \|         |  |
     |  /|         |  |
____ | / |   ______/\ | 
____\|/__|_  ______|_\|_
     |   |         |  |
     謎   解         ド  デ
         き         ン  ン

合わせ          へん       
_________|_  ______|__     
_______  |   _____/|      
       \ |         |      
        \|         |      
        /|         |     
_______/ |   _____ |      
_________|_  _____\|__     
         |         |      
         合         へ    
         わ         ん    
         せ

枝雀の説明を要約するとこうなる。

「ドンデン」
:いっぺんサゲ前で「合わせ領域」の方へ近づく。つまり、「安定」に近づくのが「ドン」の部分。そのあと「離れ領域」へ「デン」ととび出したところで、「そんなアホな」とサゲになる

「謎解き」
:ドンデンの逆でサゲ前にいっぺん「離れ領域」―つまり不安定側へふくらむ。これが「謎」部分。そのあと、その謎を解くことで「合わせ領域」に入って「なーるほど」となってサゲる。

「合わせ」
:謎解きに似ているが、「謎」の部分―「不安定」側へのふくらみがなく、いきなり「合わせ」てしまうサゲ。
*いわゆる「地口落ち」は洒落で「合わせる」ことから、大半がこの分類になるようだ。

「へん」
:ドンデンに近いが、「安心」に近づく「ドン」のプロセスがない。いきなり「デン」と「離れ領域」に出るので四種類の中でもっとも不安定なサゲ。


そして、枝雀の丁寧な図解はまだ続く。この図である。


     (緊張と緩和がはっきり区別)
           y
           |     そ
     な     |     ん
     |  謎解き|ドンデン な
     るxーーー-+ーーーーーア
     ほ  合わせ| へん  ホ
     ど     |     な
           |
      (緊張と緩和がないまぜ)

     (らくごDE枝雀_ちくま文庫 108頁)


右のほうが「そんなアホな」というサゲ。左側が「なーるほど」というサゲ。また、
上のほうが「緊張と緩和」がはっきり区別されているサゲで、下の二種類は「緊張
と緩和」がないまぜになっている、と説明する。

桂枝雀 私の理論によりますと、すべてのネタは図の座標上のどこかの
    一点を占めることになるわけです。この四つのグループも全く
    孤立しているわけやのうて、互いに影響し合うてサゲをこしら
    えているわけでんねん。謎を解く手段に「合わせ」を使うたり、
    謎を解いた結果が「へん」になったりとかね。こんな時も、
    最終的にどの要素でお客さんが快感を得てくれてはるかに
    よって、四つのうちどの型かは、はっきり分類できますで。

最後に、四つのサゲにそれぞれ分類された代表的なネタをご紹介。
-----------------------------------------------------------------------
ドンデン:『鴻池の犬』・『時うどん』・『愛宕山』・『かぜうどん』・『看板のピン』
 謎解き:『たちきれ』・『皿屋敷』・『寝床』・『算段の平兵衛』・『替り目』
 合わせ:『らくだ』・『くしゃみ講釈』・『雨乞い源兵衛』・『死神』・『夏の医者』
  へん:『青菜』・『口入屋』・『池田の猪買い』・『子ほめ』・『鷺とり』
-----------------------------------------------------------------------

火曜日, 11月 26, 2013

2013年11月23日 知の現在と未来:メモ

             (柄谷行人リンク::::::::::

「磯崎新 都市ソラリス」展 20140215
トークセッション テーマ「聖地捏造あるいはテーマパーク」
磯崎新,ゲスト:柄谷行人,福嶋亮大
http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20140215     前半
http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20140215_2 後半(柄谷発言から始まる)



11月23日知の現在と未来

知の現在と未来【資本主義と国家の未来】 | 柄谷 行人 | 明治大学リバティアカデミー
https://academy.meiji.jp/course/detail/1340/
岩波書店 共催

明治大学駿河台アカデミーコモン
柄谷行人
金子勝
國分功一郎
堤未果
丸川哲史

柄谷講演(「資本主義に安楽死はない〜歴史的段階としての新自由主義」)は「帝国主義論」とも言える『世界史の構造』第三部(資本、近代世界システム)の駆け足の要約。
会場の後ろの方はその思考、発話の速度について行けてなかった。
(交換様式については最初に触れただけでほとんど追加説明していなかった。)
新しい観点としては、インドのヘゲモニー国家になる可能性に触れていたのが興味深かった。
ヘゲモニー国家は自由主義的で前ヘゲモニー国家と継承関係になければならないので、
次期ヘゲモニー国家に中国は難しいということらしい。
(世界資本主義が続いていればだが)インドが有力だそうだ。*

*注
次の覇権国家がインドであるという説は書籍版ではカットされている。
繰り返すと、覇権国家の条件は1自由主義的、2(英米)継承性がなければならない(英語圏だからインドはあてはまる)。
中国は昔のドイツに対応する(国家主義的)。
ただしこれらは、前述のように資本主義が続けばという話である(ここは書籍版にもある)。

主な参考文献:
モーゲンソー『国際政治』(帝国と帝国主義の差異。帝国主義を国家間の関係で見た?)
宇野弘蔵『経済政策論』(国家と資本とを分けた?)
ホブソン『帝国主義』(単純な内需拡大論だが、イギリスを見ていた点で、
ヒルファーディング『金融資本論』のドイツ、アメリカ偏重より評価出来るらしい)
デヴィッド・ハーヴェイ 『新自由主義―その歴史的展開と現在』(レジュメには書名は未記載だが柄谷は「中国的特色を持った新自由主義」という言葉を引用した)
ウォーラーステイン『近代世界システム』第2巻


柄谷の参加しなかった後半のシンポジウム登壇者の関心をあえて柄谷交換図で分類すると、

丸川|金子
ーー+ーー
堤 |國分

となるだろう。
柄谷講演がネグリ的?ネットワーク型、分散型対抗運動を帝国主義時代(今)の対抗運動の特徴だと
相対化したので、
マルクスに批判的で分散型社会を提唱する金子は最初から不機嫌だったようだ。
封建制の話、地域行政の話。TPPの話。国連の話、グローバル企業の話 etc.
(丸川の言う自主というよりも)主体、という概念が隠れた共通タームで、
未来にどういう価値観、理想やルール、コモンズを持つかべきは端緒だけで時間切れだった。

会場は大きく、木目調のよく出来たデザインだが省エネのせいなのか空調が悪く、
自分がいた場所は微妙な居心地だった。
各論者ともに日本以外の拠点があることが特徴なので遊動性がキーワードになったら
面白かったのに、と後から思った。


補足:

37:40〜39:00
「…社会主義運動が集権的であったのは実はロシア革命以後です。
つまりそれまではアナルコサンディカリズムが中心だった。ネットワークのようなものですね。
それはフランス、アメリカだけではない。
日本でもそうです。幸徳秋水、大杉栄に人気があったわけです。
ロシア革命以後はそうではなくなる。
資本主義国家でも社会主義者の要求を入れた福祉国家をつくろうとしました。それはまたフォ
ーディズムのはじまりでもあります。
つまり中央集権的形態はむしろ自由主義に固有なものである。
ゆえに対抗運動がネットワーク型になることを資本のポストフォーディズムへの変化と同様に
リニアな発展としてみるのは間違いだ。
むしろそれは現在が帝国主義的段階であることを意味する。
したがって今後にネットワーク型運動、マルチチュードの叛乱に期待するだけではいけない。
かつて帝国主義時代に対抗運動がどのようなものであったかを体系を通す?必要があります。」

_______________________________________
      |1750〜 |1810〜|1870〜|1930〜 |1990〜 
      |1810  |1870 |1930 |1990  |      
______|______|_____|_____|______|______
世界資本主義|後期重商主義|自由主義 |帝国主義 |後期資本主義|新自由主義 
______|______|_____|_____|______|______
覇権国家  |      |英国   |     |米国    |   
______|______|_____|_____|______|______
経済政策  |帝国主義的 |自由主義的|帝国主義的|自由主義的 |帝国主義的
______|______|_____|_____|______|______
資本    |商人資本  |産業資本 |金融資本 |国家独占資本|多国籍資本 
______|______|_____|_____|______|______
世界商品  |繊維産業  |軽工業  |重工業  |耐久消費財 |情報 
 &    |(マニュファ|(機械  |     |(フォーディ|(ポスト・フォ
生産形態  | クチャー)| 生産) |     | ズム   |ーディズム)
______|______|_____|_____|______|______
国家    |絶対主義王権|国民国家 |帝国主義・|福祉国家  |地域主義 
______|______|_____|_____|______|______
      |ネットワーク|1848 |     |1968  |
対抗運動  |型=分散的 |集積的  |分散的  |集積的   |分散的 
______|______|_____|_____|______|______
宇野経済哲学|        段階論      ☆|    現状分析
                        露革命〜

資本主義の世界史的諸段階(『世界史の構造』412頁より)

あるいは、

_________________________________________
      |1750〜 |1810〜 |1870〜 |1930〜 |1990〜 
      |1810  |1870  |1930  |1990  |      
______|______|______|______|______|______
世界資本主義|後期重商主義|自由主義  |帝国主義  |後期資本主義|新自由主義 
______|______|______|______|______|______
覇権国家  |      |    イギリス     |    アメリカ     
______|______|_____________|_____________
経済政策  |帝国主義的 |自由主義的 \帝国主義的 |自由主義的 \帝国主義的
______|______|_______\_____|_______\_____
資本    |商人資本  |産業資本  |金融資本  |国家独占資本|多国籍資本 
______|______|______|______|______|______
世界商品  |繊維産業  |軽工業   |      |耐久消費財 |情報 
 &    |(マニュファ|(機械生産)|重工業   |(フォーディ|(ポスト・フォ
生産形態  | クチャー)|      |      | ズム   |ーディズム)
______|______|______|______|______|______
国家    |絶対主義王権|国民国家  |帝国主義国家|福祉国家  |地域主義 
______|______|______|______|______|______
      |ネットワーク| 1848\       | 1968\
対抗運動  |型=分散的 |  集積的 \ 分散的  |  集積的 \ 分散的 
______|______|_______\_____|_______\_____
宇野経済学 |        段階論        ☆|     現状分析
                          ロシア革命〜
資本主義の世界史的諸段階(『世界史の構造』412頁より)

資本主義の循環的、反復的交互性を示す。対抗運動及び宇野弘蔵関連を補足。
現代の集積的対抗運動の先駆はロシア革命。それ以後に関する考察を宇野は現状分析とした。
ただし1920年の国際連盟を柄谷はより高く評価する。
柄谷は、原理論とは区別したが、段階論と現状分析は一つにした。
宇野の場合、循環は別途に恐慌論として原理論的に展開される。

主な参考文献(追加):
モーゲンソー『国際政治』(帝国と帝国主義の差異。帝国主義を国家間の関係で見た?)
ホブソン(岩波文庫だとホブスン)『帝国主義』(単純な内需拡大論だが、イギリスを見ていた点で、
ヒルファーディング『金融資本論』のドイツ、アメリカ偏重より評価出来るらしい)
カウツキー『帝国主義論』
レーニン『帝国主義―資本主義の最高の段階としての』
(1916年。その帝国主義観はヒルファーディングに従っている)
幸徳秋水『帝国主義』(1901年)
宇野弘蔵『経済政策論』(重商主義、自由主義、帝国主義という段階論)
アーレント『全体主義の起源2』
ウォーラーステイン 『近代世界システムII―重商主義と「ヨーロッパ世界経済」の凝集 1600-1750
デヴィッド・ハーヴェイ 『新自由主義―その歴史的展開と現在』
(レジュメには書名は未記載だが柄谷は「中国的特色を持った新自由主義」という言葉を引用した)
ネグリ&ハート 『マルチチュード ~時代の戦争と民主主義』


追記:

柄谷の先の講演内容、特に「段階図」に関しては宇野弘蔵『経済政策論』の影響が大きい。
重商主義、自由主義、帝国主義という最初の枠組みがまず宇野の影響だ。
ホブスンの評価などもアリギ経由かもしれないがドイツとイギリスを具体的に対比させた部分は宇野経由だ。
(アリギ『長い20世紀』262頁~、宇野『経済政策論』弘文堂225頁、岩波著作集236頁を参照。アリギは宇野を読んでいた?)
それは、ウォーラーステインからの影響より本質的かも知れない。
つまり、宇野のように原理論と段階論は一緒に出来ないと柄谷は考えている節がある。
(むしろ柄谷は原理と段階を無理やり一つ=一冊にしたとも言えるが、、、)

そして反復する段階論に関しては結果的にだがアリギと近い。

ちなみにアリギは反復の周期は短くなってゆくと考えているし、そこを強調する。
柄谷説がアリギ説のように周期が加速しないのは情報化が進んでも平均寿命が伸びて相殺するからだろう。

金融への着目はアリギは(反復への着目と共に)ブローデル経由だが柄谷はやはり宇野経由(の影響も大きい)だろう。
宇野がオランダを捨象している部分が柄谷には不満らしいが、柄谷の図もオランダを省いている。
(スペースがないからと講演では弁解していた。)
アーレントのブルジョアジー台頭理論に対応するところもありこの宇野の段階論である『経済政策論』は、
(面白さは原理論に負けるが)侮れない。

アリギも柄谷もウォーラーステインよりブローデルの影響が少ないと考えられる。
それは二人ともブローデルのように生活への興味があるわけではないからだ。


月曜日, 11月 25, 2013

モーゲンソー『国際政治』:メモ

            (政治学リンク::::::::::

ハンス・J・モーゲンソー(Hans Joachim Morgenthau, 1904~1980年。ドイツ出身の国際政治学者。シカゴ大学教授)のいう帝国主義の三つの方法(『国際政治』岩波文庫上157頁)は以下。

軍事帝国主義
経済帝国主義
文化帝国主義

これらも柄谷の交換図で図示出来る。

軍事|文化
--+--
経済|

参照:
『国際政治』第二部第五章権力闘争--帝国主義
(帝国主義のいろいろな型 より)

ただこうした分類が本書の主題ではない。
(柄谷行人によればモーゲンソーは過去の帝国と現在の帝国を区別していない)

参考:

モーゲンソー『国際政治』
目次構成
第1部 国際政治の理論と実践
1. 現実主義の国際政治理論
2. 国際政治の科学
第2分 権力闘争としての国際政治
3. 政治権力
4. 権力闘争:現状維持
5. 権力闘争:帝国主義
6. 権力闘争:威信政策
7. 国際政治におけるイデオロギーの要素
第3部 国力
8. 国力の本質
9. 国力の諸要素
10. 国力の評価

第4部 国家権力の制限:勢力均衡
11. 勢力均衡
12. 勢力均衡の諸方法
13. 勢力均衡の構造
14. 勢力均衡の評価
第5部 国家権力の制限:国際道義と世界世論
15. 勢力の抑制要因としての道義・慣習・法律
16. 国際的道義
17. 世界世論
第6部 国家権力の制限:国際法
18. 国際法の主要問題
19. 主権
第7部 現代世界の国際政治
20. 民族的普遍主義の新しい道義的勢力
21. 新しい勢力均衡
22. 全面戦争

第8部 平和の問題:制限による平和
23. 軍縮
24. 安全保障
25. 司法解決
26. 平和的変更
27. 国際統治
28. 国際統治:国際連合
第9部 平和の問題:変革による平和
29. 世界国家
30. 世界共同体
第10部 平和の問題:調整による平和
31. 外交
32. 外交の将来
33. 結論

https://sites.google.com/site/kazu62security/yan-jiu-cheng-guo/yan-jiu-bian/hansu-mogenso-hans-j-morgenthau/mogenso-guo-ji-zheng-zhi

「勢力均衡」は岩波文庫の訳だと「バランス・オブ・パワー」。



火曜日, 11月 19, 2013

新渡戸稲造『偉人群像』

          (政治学インデックス
http://books.google.co.jp/
新渡戸稲造 『偉人群像』
1931年11月1日実業之日本社
http://1.bp.blogspot.com/-zcLLXb2V76A/UoxeqCT7IXI/AAAAAAAAacA/64c1mU2DD9I/s1600/IMG_05466.png
310頁




日曜日, 11月 17, 2013

リンク::::::::::

        _資本論          
   くじ引き/___/|
       |   ||
    組織論|   |PC等技術
       |   ||
   地域通貨|   都市計画/建築
       |   ||
  プルードン|   || ゲゼル
       |   ||
    アソシ|   ||カレツキ
  エーション|キャピ||
   ____|タル ||ケインズ              
  /________/|  経済学/労働
ネーション  ステート |
 | |      | |
宗教 |   柄谷行 |
 | |      | 坂本龍馬
 文学|      | |
 | |      | |
美術 |      | |
 | |      | 正義論/犯罪      カント
 映画|  ____|_|______フーコー                
 | | /デュルケ|ム| / ウェーバー /|
音楽 |/_____|_|/_______/パーソンズ
 | / マルクス | /  フロイト /  |
 |/_______|/_______/ラカン| 
 |    |   軍事 災害   |    |
 |    |           |アドルノ| 
 スポーツ |政治学        |    |  
 |    |   ________|____|____________________    
 |言語学 |  /ショーペンハウア|ー   | デカルト             /|
 |    | / |       |  | / |              / |
ガンジー  |/ | インド哲学 |    |/  |  (教育論:認識)   /  |
 |    /___________|____________________/   |  
 |民俗学/|  霊|キリスト教新約|   /| (:快、不快)       /|   |ス
 |  / |   |       |仏教/ |   |          / |   |
 | /(:欲求)者|      | /  |ルソー|         /  |   |・
 |/_______________|/_________(性格論:)_/   |   |
 |    |  の|栄養学    |ニーチェ|   |       |    |   |ポ
 |  |   |   ドゥルーズ    |   |       | 地理学|  
 |遠  |  夢|生物学    ハイデガー| ライプニッツ    |    |   |ス
 |平  |   |_______|____|___|_______|____|__
 |和   |笑い/|       |    |  /|       |    |  /|ト
 |の   | / | 自   然 | の  |形/ |而   上  |学   | /
 |た   |/医学|       |    |/科学|       |    |/  |ゥ
 |め   |____農業_____|____|___________|____|   |
 |に  /|   |     (徳|論) /|   |       |   /|   |ム
 |  / |人 倫|の      |  / |理性の限界内における |  / |   |
 | /(法|論) |形 而 上 学| /  |   |   宗教  | /  |   |ム
 |/___________(原論)|/_旧約____________|/   |   |
 |神秘主義|   |       キリスト教|   |       |    |   |
 |    |啓 蒙|と は 何 か|  ギリシア哲学ヘーゲル   |    |ボルツァーノ
環境問題  |   |_______|____|___|_______|____|___|
 |    |  /(テリックシステ|ム)  |  /(空間)(時間)|(数学)|  / 
 |    | /  純   粋 | 理  |性/  批   判  |カテゴリ|ー/
 |    |/ス ピ ノ ザ   |    |/(物理学)     |    |/
 |    |___________|_老子_アンチノミー______|____/
 |   /            |   /    (美 学)   |   /
 |  / 実 践 理 性 批 判 |孔子/  判 断 力 批 判  |  /
 | /(倫理学:徳or幸福)   | /              | /
 |/_______________|/__________(目的論)|/   

月曜日, 11月 11, 2013

ライプニッツ『人間知性新論』とロック『人間悟性論』:メモ

        (ライプニッツリンク:::::::::


http://www.msz.co.jp/book/detail/01773.html
人間知性新論

NOUVEAUX ESSAIS SUR L’ENTENDEMENT HUMAIN
著者
G・W・ライプニッツ
訳者
米山優

《人間知性新論》におけるフィラレートとテオフィルの仮空の対話は、ありえなかったロックとライプニッツとの対話篇である。それは、経験論と合理論の二つの哲学的伝統の最も偉大な魂の間で交わされる対話に他ならない。
ライプニッツは、1690年に刊行されたロックの《人間知性新論》に接し、この書から深い印象を受けた。そしてこれに続く年月をその認識論との対決のために費す。かくして1703年、ロックへの批判的論拠を対話形式で展開したライプニッツの認識論にかんする最も重要な著作《人間知性新論》が、完成した。
魂はタブラ・ラサ(何も書かれていない板)ではない。魂はその本来の内容、本有的概念をもつという〈モナド論〉的に把握された魂の形而上学的考察に始まり、観念・言葉・真理・認識という主題をめぐり、ライプニッツの哲学が、自由に鮮明に語られる。そして、この書のどのページからも〈時代を絶した至高の知性人〉(ラッセル)の知性の輝きが感じとれる。
この書の影響は、カントのいわゆるコペルニクス的転回から、現代ではチョムスキーの言語理論にまで及んでいる。近代以降の人間中心の世界観に対する反省から、自然と神と人間とが微妙な調和を保っていた〈バロックの哲学者〉の精神が今よみがえる。それは、世界観全体の重心の移動の可能性すら秘めて、混迷する思想界に一つの方向を指し示すであろう。

目次

凡例
序文

I 本有的概念について
1 人間の精神の内に本有的原理があるかどうかについて
2 本有的であるような実践の原理は全く存在しないということ
3 思弁に関わる本有的原理と実践に属する本有的原理とに関する、別の考察

II 観念について
1 観念一般が論じられ、人間の魂が常に思惟しているかどうかが折に触れて検討される
2 単純観念について
3 一つの感官から私たちにやってくる観念について
4 固性について
5 さまざまな感官に由来する単純観念について
6 内省に由来する単純観念について
7 感覚と内容との双方に由来する観念について
8 単純観念に関する補論
9 表象について
10 把持について
11 識別について、あるいは観念を区別する能力について
12 複雑観念について
13 単純様態について、そしてまず空間の単純様態について
14 持続について、そしてその単純様態について
15 持続と拡がりとを合わせた考察について
16 数について
17 無限について
18 他のいくつかの単純様態について
19 思惟に関する様態について
20 快苦の様態について
21 能力について、そして自由について
22 混合様態について
23 実体についての私たちの複雑観念について
24 実体の集合的観念について
25 関係について
26 原因について、結果について、そして他の幾つかの関係について
27 同一性あるいは差異性とは何であるか
28 他の諸関係について、特に道徳的関係について
29 明晰な観念と曖昧な観念、判明な観念と混雑した観念について
30 実在的観念と空想的観念について
31 完全な観念と不完全な観念
32 真なる観念と偽なる観念について
33 観念の連合について

III 言葉について
1 言葉ないし言語について
2 言葉の意味について
3 一般的な名辞について
4 単純観念の名について
5 混合様態と関係の名について
6 実体の名について
7 不変化語について
8 抽象的名辞と具体的名辞について
9 言葉の不完全性について
10 言葉の誤用について
11 今しがた述べられた不完全性と誤用とに施され得る矯正策について

IV 認識について
1 認識一般について
2 私たちの認識の程度について
3 人間的認識の範囲について
4 私たちの認識の実在性について
5 真理一般について
6 普遍的命題、その真理性と確実性について
7 公準あるいは公理と名付けられる命題について
8 取るに足らない命題について
9 私たちの現実存在について私たちが持つ認識について
10 神の存在について私たちが持つ認識について
11 他の事物の存在について私たちが持つ認識について
12 私たちの認識を増大させる手段について
13 私たちの認識についての他の考察
14 判断について
15 確からしさについて
16 同意の程度について
17 理性について
18 信仰について、理性について、そしてそれらの別個な限界について
19 狂信について
20 誤謬について
21 諸学の区分について


訳者あとがき
索引


追記:
ライプニッツは同じ部分を二重に足したら胴体がふたつになってしまうと
新知性論で述べている。
(第四巻 認識について 第7章 公準あるいは公理と名付けられる命題について みすず418ページ)

1+1=2?  http://yojiseki.exblog.jp/7185445/

なお全体の構成はロックに従っていることがわかる。

http://fr.wikisource.org/wiki/Nouveaux_Essais_sur_l%E2%80%99entendement_humain


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Nouveaux Essais sur l’entendement humain

Gottfried Wilhelm Leibniz
Nouveaux Essais sur l’entendement humain
Ernest Flammarion, 1921.
TABLE DES MATIÈRES

Notice sur la vie et les œuvres de Leibniz  1
Historique des Nouveaux Essais  7
Avant-propos  9

LIVRE PREMIER
DES NOTIONS INNÉES
Chapitre I. S’il y a des principes innés dans l’esprit de l’homme  31
Chapitre II. Qu’il n’y a point de principes de pratique qui soient innés  50
Chapitre III. Autres considérations touchant les principes innés, tant ceux qui regardent la spéculation que ceux qui appartiennent à la pratique  62

LIVRE DEUXIÈME
DES IDÉES
Chapitre I. Où l’on traite des idées en général, et où l’on examine par occasion si l’âme de l’homme pense toujours  68
Chapitre II. Des idées simples  78
Chapitre III. Des idées qui nous viennent par un seul  79
Chapitre IV. De la solidité  80
Chapitre V. Des idées simples qui viennent par divers sens  85
— VI. Des idées simples qui viennent par réflexion  86
— VII. Des idées qui viennent par sensation et par reflexion  86
— VIII. Autres considérations sur les idées simples.  86
— IX. De la perception  90
— X. De la rétention  96
— XI. De la faculté de discerner les idées  97
— XII. Des idées complexes  101
— XIII. Des modes simples, et premièrement de ceux del’espace  102
— XIV. De la durée et de ses modes simples  108
— XV. De la durée et de l’expansion considérées ensemble  110
— XVI. Du nombre  111
— XVII. De l’infinité  113
— XVIII. De quelques autres modes simples  115
— XIX. Des modes qui regardent la pensée  116
— XX. Des modes du plaisir et de la douleur  118
— XXI. De la puissance et de la liberté  125
— XXII. Des modes mixtes  166
— XXIII. De nos idées complexes des substances  170
— XXIV. Des idées collectives des substances  179
— XXV. De la relation  170
— XXVI. De la cause et de l’effet, et de quelques autres relations  181
— XXVII. Ce que c’est qu’identité ou diversité  182
— XXVIII. De quelques autres relations, et surtout des relations morales  198
— XXIX. Des idées claires et obscures, distinctes et confuses  205
— XXX. Des idées réelles et chimériques  213
— XXXI. Des idées complètes et incomplètes  216
— XXXII. Des vraies et des fausses idées  218
— XXXIII. De l’association des idées  219

LIVRE TROISIÈME
DES MOTS
Chapitre I. Des mots ou du langage en général.  221
— II. De la signification des mots  226
— III. Des termes généraux  235
Chapitre IV. Des noms des idées simples  243
— V. Des noms des modes mixtes et des relations  248
— VI. Des noms des substances  252
— VII. Des particules  278
— VIII. Des termes abstraits et concrets  282
— IX. De l’imperfection des mots 283
— X. De l’abus des mots  289
— XI. Des remèdes qu’on peut apporter aux imperfections et aux abus dont on vient de parler  299

LIVRE QUATRIÈME
DE LA CONNAISSANCE
Chapitre I. De la connaissance en général  304
— II. Des degrés de notre connaissance  310
— III. De l’étendue de la connaissance humaine.  323
— IV. De la réalité de notre connaissance  339
— V. De la vérité en général  344
— VI. Des propositions universelles, de leur vérité et de leur certitude  346
— VII. Des propositions qu’on nomme maximes ou axiomes  334
— VIII. Des propositions frivoles  376
— IX. De la connaissance que nous avons de notre existence  381
— X. De la connaissance que nous avons de l’existence de Dieu  382
— XI. De la connaissance que nous avons de l’existence des autres choses.  391
— XII. Des moyens d’augmenter nos connaissances 396
— XIII. Autres considérations sur notre connaissance  403
— XIV. Du jugement  405
— XV. Delà probabilité  406
— XVI. Des degrés d’assentiment 408
— XVII. De la raison  424
— XVIII. Delà foi et de la raison, et de leurs bornes distinctes  445
— XIX. De l’enthousiasme  433
— XX. De l’erreur  460
— XXI. De la division des sciences  472

Supplément  479
I. Lettre de M Leibniz à M. Arnauld, docteur en Sorbonne, où il lui expose ses sentiments particuliers sur la métaphysique et la physique  481
II. Lettre sur la question si l’essence du corps consiste dans l’étendue  485
III. Extrait d’une lettre pour soutenir ce qu’il y a de lui dans le journal des Savants du 18 Juin 1691  488
IV. Sur une réforme de la philosophie première, et sur la notion de substance  490
V. De la nature en elle-même, ou de la puissance propre et des actions des créatures  493
VI. Système nouveau de la nature et de la communication les substances, aussi bien que de l’union qu’il y a entre l’âme et le corps  508
VII. Premier éclaircissement  518
VIII. Deuxième éclaircissement  520

Catégories :
Philosophie1765



参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/人間悟性論

ジョン・ロック(John Locke, 1632年8月29日 - 1704年10月28日)

『人間悟性論』(にんげんごせいろん、英: An Essay concerning Human Understanding)
は、1689年に出版された、イギリスの哲学者ジョン・ロックの哲学書。『人間知性論』(にんげんちせいろん)とも。
ロックは20年かけてこの著作を書き上げ、近代イギリス経験論の確立に寄与した。

目次:
導入部 : 読者への手紙、序論
第1篇: 原理(principles)や観念(ideas)は、いずれも生得的(innate)ではない
第1章 生得の理論的(推論的)原理(speculatvie principles)は無い
第2章 生得の実践的原理(practical principles)は無い
第3章 理論的(推論的)・実践的な生得原理に関する余論

第2篇: 観念(ideas)について
第1章 観念一般、及びその起源について
第2章 単純観念(simple ideas)について
第3章 単感覚(sense)の単純観念について
第4章 固性(solidity)の観念
第5章 多感覚(divers senses)の単純観念について
第6章 内省(reflection)の単純観念について
第7章 感覚・内省双方の単純観念について
第8章 感覚の単純観念に関する補論
第9章 知覚(perception)について
第10章 保持(retention)について
第11章 識別(discerning)、及びその他の心的作用について
第12章 複雑観念(complex ideas)について
第13章 単純様相(simple modes)の複雑観念 --- まず空間(space)観念の単純様相について
第14章 持続(duration)観念と、その単純様相
第15章 持続と拡張(expansion)の観念を合わせた考察
第16章 数(number)の観念
第17章 無限(infinity)について
第18章 他の単純様相
第19章 思考(thinking)の様相について
第20章 快(pleasure)と苦(pain)の様相について
第21章 力(power)について
第22章 混合様相(mixed modes)について
第23章 実体(substances)の複雑観念について
第24章 実体(substances)の集合観念(collective ideas)について
第25章 関係(relation)について
第26章 原因(cause)と効果(effect)、他の関係について
第27章 同一性(identity)と多様性(diversity)について
第28章 他の関係について
第29章 明瞭(clear)・不明瞭(obscure)、明確(distinct)・混乱(confused)的な観念について
第30章 実在的(real)・空想的(fantastical)な観念について
第31章 十分(adequate)・不十分(inadequate)な観念について
第32章 真(true)・偽(false)的な観念について
第33章 観念の連合(association)について

第3篇: 言葉(words)について
第1章 言葉と言語(language)一般について
第2章 言葉の意味表示(signification)について
第3章 一般名辞(general terms)について
第4章 単純観念の名前(names)について
第5章 混合様相と関係の名前について
第6章 実体の名前について
第7章 不変化詞(particles)について
第8章 抽象的(abstract)・具体的(concrete)な名辞について
第9章 言葉の不完全性(imperfection)について
第10章 言葉の誤用(abuse)について
第11章 前途の不完全性(foregoing imperfection)と誤用の救済(remedies)について

第4篇: 知識(knowledge)と蓋然性(probability)について
第1章 知識一般について
第2章 我々の知識の程度(degrees)について
第3章 人知の範囲(extent)について
第4章 知識の真実性(reality)について
第5章 真理(truth)一般について
第6章 普遍的命題(universal propositions)、その真理と確実性(certainty)について
第7章 公準(maxims)について
第8章 無価値な命題(trifling propositions)について
第9章 存在(exstense)に関する我々の3様(threefold )の知識について
第10章 神(God)の存在に関する我々の知識について
第11章 他の事物の存在に関する我々の知識について
第12章 我々の知識の改善(improvement)について
第13章 我々の知識についての補論
第14章 判断(judgement)について
第15章 蓋然性について
第16章 同意(assent)の程度について
第17章 理性(reason)について
第18章 信仰(faith)と理性、及びそれらと区別される領域(provinces)について
第19章 狂信(enthusiasm)について
第20章 間違った同意(wrong assent)もしくは錯誤(error)について
第21章 学(sciences)の区分(division)について

日本語訳:
『人間悟性論』上下巻 加藤卯一郎訳(抄訳)、岩波書店 1940年
『人間知性論』1巻〜4巻 大槻春彦訳、岩波書店 1974年
『世界の名著 32 ロック ヒューム』(『人間知性論』) 大槻春彦訳、中央公論新社《中公バックス》 1999年
『世界の名著 27 ロック ヒューム』(『人間知性論』) 大槻春彦訳、中央公論新社 1968年

付記:
第21章 学(sciences)の区分(division)について

1自然哲学 自然学
2倫理学  道徳学
3論理学  論理学 の順
(312がヘーゲル、アリストテレス。132がカント)

ライプニッツは学問の区分の困難は、「各部分が全体を飲み込むかのような」ところにあると言っている(4:21)。
これはヘーゲルに先駆ける認識だ。

さらに、ロックとライプニッツの対比は、カントのアンチノミーの原型だ。

カントがどこまで読んだかわからないが、この二人がいなければカントはいない。
ヒュームでもなくベーコンでもなく、この二人がカントを目覚めさせた、と思う。

火曜日, 11月 05, 2013

弁神論〜神の善意、人間の自由、悪の起源 Essais de Théodicée:ライプニッツ,1710

        (ライプニッツリンク:::::::::

ライプニッツは『弁神論』で悪を形而上学的、物理的、道徳的悪の三つに分け、
神が(悪を含む)不完全な世界を作ったのではないかという批判に反論する(神を弁護する)。
最終部のピラミッドを使った可能世界の寓話が著名である。
ちなみにスピノザは同様の疑問に以下のように答えている。
「さらになぜ神はすペての人間を理性の導きのみによって導かれるようなふうに創造しなかったかと問う人々にたいしては、次のことをもって答えとするほかはない。すなわち神には完全性の最高程度から最低程度にいたるまでのすべてのものを創造する資料が欠けていなかったからである、あるいは(もっと本源的な言いかたをすれば)、神の本性の諸法則は、定理一六で示したように、ある無限の知性によって概念されうるすべてのものを産出するに足るだけ包括的なものであったからである、と。」
スピノザ『エチカ』第一部付録ラストより
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1f
邦訳ライプニッツ著作集8参照:

弁神論

 形而上|
 学的悪|物理的悪
____|____
道徳的悪|
    |

付録:
「神の大義」(Causa dei)
30、31
32、

30 形而上学的な悪、非叡智的な事物の不完全性(通常ここに類別される畸形はライプニッツによってここには入らないとされる。(『弁神論』241))
31 物理的な悪、苦痛。
32 道徳的な悪、罪科の悪。

直視の知は「神の大義」16、もしくは『弁神論』第一部40節以下参照。

直視の知=無限のピラミッド(弁神論413〜7)参照。

http://philosophyfaculty.ucsd.edu/faculty/ctolley/texts/leibniz.html

Bd. VI (Berlin, 1885)
Essais de Théodicée 1710
(Essais de Théodicée sur la bonté de Dieu, la liberté de l'homme et l'origine du mal)
Causa dei
Philosophische Abhandlungen (1702-1716), incl:
  Lettres a Koenigin Sophie Charlotte
  Principes de la Nature et de la Grace, fondes en raison
  Monadologie
[googlebooks] [pdf]
http://books.google.co.jp/books?id=t84YAAAAIAAJ&as_brr=1&source=gbs_summary_s&redir_esc=y

以下は「弁神論」付録、「神の大義(Causa dei)」のライプニッツ自身によるチャート図。
(邦訳書292-3頁参照)
『弁神論』本体と多少力点が神に重きを置きすぎる点で違いはあるが呼応する。
 

神の大義(1)
            _
           | 神は他から独立(4〜6)
       _   |
      | 全能_|          _      
      |    |         | 可能的なものは神の知性に依存する(7〜8)
      |    |         |             _
   _  |    |_万物は神に依存_|            | 保存により
  | 偉 |              |            | 存在することによって(9)
  | 大_|              |_現実的なものは    | 
  | さ |                神の意志に依存する__| 協働により
  |   |                           |_作用することによって
  |  力能と知を                                 (10〜12)
  |  完全なもの
  |  にする(2〜3)
予 |   |     _
備 |   |    | 単純叡智の知、可能的なものについての知(15)
的_|   |_全知_| 直視の知、現実的なものについての知(16)
考 |        |_中知、その何たるか(17)
察 |         _
  |        | その本性は自由を要求し、必然性を排除する(20〜22)
神 |    _   |           _
の |   | 意志_|          | 先行的意志と帰結的意志(24〜27)  
善 |   |    |_その分類(23)_|
意 | 善_|               |_産出的意志と容認的意志(28)
と |_意 |
偉    意志を
大    完全な
さ    ものにする(18〜19) 
を     |          _
別     |意志の  _   | 形而上学的で非叡智的な善・悪(30)
々     |理由す | 種類_| 物理的善・悪、苦痛としての悪(31)
に     |なわち_|    |_道徳的善・悪、罪科としての悪(32)
扱     |_善悪 |
う          |_右の区別を神の意志にあてはめる(33〜39)



   _
  | 被造物一般、摂理(41〜49)
  |    _
  |   | 神の正義、その特殊な意味、現在と未来の生での叡智者の物理的善・悪(51〜59)
  |   |        _
本 |   |       | 道徳的に。少なくとも容認することによって。だがこれは
論 |   |       | 上位の道徳的必然性の帰結としてである(66〜67)
・ |   |    _  |
神 | 叡 |   | 神は罪や道徳的悪に
の | 智 |   | 大いに協働する(61ー65)
偉_| 的 | 道 |   |
大 | 被 | 徳 |   | 物理的に、協働により。だがこれは悪が善を
さ | 造 | 的 |   |_含むがゆえに生ずる(68〜73)                     _
と | 物_| 善 |                        _          _     | 神による
善 | と | ・ |                       | 最初の人間の   | その原因_|(76〜78)
意 | そ | 悪 |                _      | 堕落による____|      |_人間による(79)
を | の | (60・61)    _      | 腐敗の原因_|          |_その構成(80)
一 | 統 | こ |       |    腐敗_|       |_後世の感染、魂の起源(81ー85)
緒 | 治 | れ_|       |   (75)|
に (50)| へ |    _  |       |        _原罪、その範囲(86〜90)
扱 |_  | の |   | 本性の欠陥     |_罪の構成__|           _
う     | 反 |   | のゆえに              |          | 現実的罪(92)
(40)  |_論 |   |   |               |_派生的罪(91)_|
          |   |   |                          |_習性的罪(93〜96)
          |   |   |                   _
          |   |   |                  | 叡智者の光の中で(98〜100)
          |   |   |_   潔白さの残存(97)____|
          |   |                      | 意志の自由において消えぬもの(101〜108)
          |   |                      |_(反論に答えて)
          |   |       _                               _
          | 人間はさほどに  | 意志する者に  これは万人に与えられる。所与の恩寵を善用す | 通常の恩寵
          |_協働しない    | とっての    る者にはこの最高段階は拒まれない。_____|(100)
            (74)     | 十分なる恩寵                        |_尋常ならざる恩寵
              |      |                                (111〜113)
              | 思寵の  |               _
              | 欠陥   | 意志する         | 人間嫌い  神の恩寵がある間は
              | ゆえに__| ために  これは万人に  |(115〜  勝ちを収める(128〜129)
              |_(109)| 実効的に 与えられている | 127)  神の善行は誤って少数の選ぱれた者に
                     | 恩寵   わけではない。 |       限られる (130〜133)
                     |_(114)これがないと  |
                            陥るのが____| えこひいき     個別事象の究極的理由と
                                    | キリストにおける  状況の次第からパウロの
                                    | 選びの理由     「深み」を知らねばならない。
                                    |_(134〜138) 万物の調和は無限の考察を
                                                含むがゆえに(139〜144)





以下、『弁神論』最終部より。上のチャート化された「神の大義」(1〜144)の節番号にあえて当てはめるなら、14〜17に対応するだろう。

    四一六  それらの部屋は[全体で]ピラミッドを形作っていた。頂上に近づくほど各部屋は必ずや一層美しさを 増し、ますます美しい世界を繰りひろげていた。遂にそのピラミッドの頂点にまで行き着くと、そこはすべての部屋の中 で最も美しいところであった。というのも、ピラミッドには一つの出発点はあるがその終点は見えないからである。つま り、一つの[頂]点はあるが底面はないからである。[底に向かって]無限に増大して行くのである。それは、(女神が説明したよ うに)無数の可能的な世界の中で最善なる世界があるからである。さもなければ、神はおよそ世界を創造しようと決意す ることができなくなってしまう。しかしこの頂点の部屋の下のどの階にも、その部屋ほどに完全であるような部屋はない。 したがって、このピラミッドは下に向かって無限に延びている。テオドロスはこの頂上の部屋に入ると、法悦の境地に達 し、われを失ってしまった。彼には女神の助けが必要であった。神酒の一滴が舌に注がれると彼はわれに返った。彼はも はや歓喜を覚えることはなかった。
    女神が言う。「わたしたちはいま真の現実世界にいます。あなたはここでの幸福の出発点に立っておいでです。 ご覧なさい。これはユピテルがあなたのために用意なさった世界です。あなたがユピテルに忠実に仕え続けるならこのよ うになるのです。こちらはセクストゥスのありのままの姿です。現実にこのようになるのです。彼は怒って宮殿を立ち去 ると神々の忠告を軽蔑します。彼がローマに行き、手当りしだい滅茶苦茶に振る舞い友人の娘に暴行を働くのがわかるで しょう。こうして彼は父親と共に追われ、戦に破れて不幸な目に遇うのです。もしユピテルがここでセクストゥスをコリ レトスに赴かせトラキアの王として幸福にさせようとなさるなら、それはこの世界とは違ってくることでしょう。しかし ユピテルはこの世界を選択せざるを得ませんでした。この世界は他のすべての世界を完全性において上回り、ピラミッド の頂点をなしているのです。もしこの世界を選択なさらないとしたら、ユピテルはご自分の知恵に背くことになり、娘で ある私を追放なさることでしょう。あなたもご覧になったように、私の父がセクストゥスを悪人になさったのではありま せん。セクストゥスは永遠の昔から悪人でした。彼は常に自由に悪人となっていたのです。父は彼に存在をお与えになっ ただけです。セクストゥスを含む世界に対して父の知恵はこのような存在を拒むことができなかったのです。父はセクス トゥスを可能なるものの領域から現実存在の領域へとお移しになりました。セクストゥスの犯罪は大局的には役に立って います。彼はローマを解放し、帝国の偉大な範となるべき大帝国を築かせたのです。しかしそれはこの世界の全体を犠牲 にしてのことではありません。この世界の美しさはあなたが称えていらっしゃる通りです。あなたが現在の死すべき状態 から幸いにしてより幸福なる別の状態へと移り行けば、神々の力によりあなたはそのことを理解なされることでしょう。」
    四一七  この瞬間テオドロスは目覚めた。彼は女神に感謝し、ユピテルの正しさを認め、見聞きしたことにつ いて深く考えた。彼は、神の真なる僕としての熱意に燃え、死すべき者に許された歓喜に打ち震えて、偉大なる供儀者 の務めを続けた。以上のように話を続けてきたのは、こうすればヴァラが触れようとはしなかった難点を解明することが できると思われたからである。もしアポロンが神の直視の知(これは存在に関わるものだが)をうまく表現していたなら、バラ スはいわゆる単純叡智の知(これはあらゆる可能的なものに関わる)を擬人化するという誤りを犯すことはなかったであろうが、 ここにこそ万物の源泉を求めるべきなのである。 了

邦訳著作集第8巻158〜160頁より


以下、「神の大義」(Causa dei)より

    一四 可能的なものについての知は、単純叡智の知と言われる。この知は、諸事物にも諸事物相互の結びに にも関わっている。ところで、事物にも事物相互の結び付きにも、それぞれに必然的なものと偶然的なものとがある。
    一五 可能的で偶然的なものは、それぞれ個別に考察することもできるし、無数の可能的世界のそれぞれの全 体性の中で互いに秩序づけられたものとして考察することもできる。この無数の可能的世界の各々は神によって完全に知 られているが、そのうち一つの世界だけが存在へと至るのである。実際、多くの世界が現実に存在していると想像するこ とは無意味である。なぜなら、あらゆる場所あらゆる時間に存在する被造物を普遍的に包括することは、われわれにとっ ては一つの世界においてのみできることだからである。ここでは世界という言葉をこの意味で用いる。
    一六 現実的なものについての知、もしくは存在へと至った世界についての知、そしてその世界における過去・ 現在・未来のすべてのものについての知は、直視の知と呼ばれる。この知が、可能的と見なされた当の世界についての単 純叡智の知と異なるのは、直視の知には反省的認識が付け加わっているという点だけである。この認識によって神は、世 界を存在へと至らしめる自らの決意について知ったのである。この知以外に、神の予知の基礎を求める必要はない。
    一七 いわゆる中知は、既に示した意味において、単純叡智の知の下位にあるものと理解される。しかしもし この中知を単純叡智の知と直視の知との間におこうとするなら、単純叡智の知と中知は普通とは違ったように理解される ことになろう。つまり中知は、一定の条件の下で未来のことついて認められるだけではなく、一般に可能的で偶然的なも のについても認められることになる。そうすると単純叡智の知の方が制限されていると考えられる。つまりそれは可能的 で必然的な真理[のみ]に与っていることになる。そして中知は可能的で偶然的な真理に与り、直視の知は偶然的で現実 的な真理に与る。中知は第一の[単純叡智の]知と共通点を有することになろう。どちらも可能的真理に与るからである。 中知は最後の[直視の]知とも共通点を有している。どちらも偶然的真理に与るからである。
    一八 これまでは神の偉大さについて論じてきた。ここからは神の善意について検討しよう。ところで、知恵、 つまり真なるものについての認識が知性の完全性であるように、善意、つまり善なるものへの欲求は意志の完全性である。 すべての意志は確かに善なるものをその対象としている。少なくとも見かけの上ではそうである。しかし神の意志は、善 でありかつ同時に真であるもののみをその対象としている。



    二九 これまでは意志について論じてきた。次には意志する[欲する]ことの理由、つまり善と悪とについて論 じよう。善も悪も三つに分けられる。形而上学的な善と悪、物理的な善と悪、道徳的な善と悪である。
    三〇 形而上学的な善と悪は、一般に[それぞれ]非叡智的な事物の完全性と不完全性とに存する。キリストは 言った。天の父は野の百合のことも雀のことも心配している、と。『ヨナ書』では、神は獣に配慮をしている。
    三一 物理的な善と悪は、とりわけ叡智的実体にとっての快適さと不快さと解される。苦痛の悪はこの不快さ に属する。
    三二 道徳的な善と悪は、叡智的実体の行為についての、有徳さと悪徳さと解される。罪科の悪はこの悪徳に 属する。この意味で物理的悪は道徳的悪から生じ得るのである。もっとも、このこと[二極の悪の関係]が常に同じ人につい て言えることだとは限らない。しかしともかく、異常と見られるようなものも、それを利用して埋め合わせをすることが できる。ちょうど、無実の者でも、[来世の幸せを信じて現世の悪の]苦しみを甘んじて受けることがあるのと同じである。 この点については以下の五五節で論じる。

邦訳著作集第8巻256〜261頁より


http://nam-students.blogspot.jp/2013/11/1710.html

「神の大義」(Causa dei)

 _神の偉大さ(ピラミッド)
|      
|      別々
|      
|_善意(意志。三つの悪の分類)
           意志の方向、自由
           意志の理由、善悪


底のない可能世界の「ピラミッド」(弁神論より)

       偉大さ
       /\
      /  \
     /    \ 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
全知/          \(全能)

無限級数を思わせる。

…幾何学者は、新しい無限小解析の手法によって、ある意味で神を模倣している。
 (「神の大義」122邦訳285頁)

 形而上|
 学的悪|物理的悪
____|____
道徳的悪|
    |

Essais de Théodicée sur la bonté de Dieu, la liberté de l'homme et l'origine du mal
弁神論〜神の善意、人間の自由、悪の起源

この副題は以下の構図を明確にする。


 悪___(意志の理由)__善
  \   道徳的    /
   \ 物理的    /
    \ 形而上学的/
     \    /
      \  /
       \/
      人間の自由
     (意志の方向)
   
 _神の偉大さ_
|       |
|      一緒
|       |
|_善意____|

        協働あり(三つの悪)

        協働なし(具体的、罪科の悪)