金曜日, 12月 26, 2008

2008年11月27日早稲田講演

11月27日の早稲田大学柄谷行人講演は、以前の朝日センター及び札幌講演(「中間団体論」)を反復したものだが、「なぜデモをしないのか」というタイトルに相応しい盛り上がりを見せた。
といっても政治演説ではなく、学術的に丸山真男などをつかって、4つの交換図を日本の近代史に適応させ展開したものだった。
(デモがないのは)政治的敗北とそのトラウマによるものだから、社会学的分析は間違っている、という発言には衝撃を受けた。

ただし、感想として中間団体の重要性とアソシエーションの重要性は一義的には直結しないと思った(その点、個別団体という言い方の方が重要な気がする。個別化の根拠はライプニッツが探したものでもある*)。

全体として、モンテスキュー(選挙は貴族制であってくじ引きこそ民主制)をくじ引きの提唱者として例証する等、歴史家としての柄谷氏は成熟しつつあるのではないか(デモなどがなければ民主制ではないという意見は貴重だ)。

気になったのは、4つの交換図と丸山の図↓(全集9巻所収)が相似であることを多くの観衆(150人以上)が理解していないのではないかということだ。

4つの交換図:

国家    国民
    +
資本    アソシエーション    


丸山の図:

I自立化   D民主化
    +
P私化   Aアトム化

この図はDIPAと進むが、IとAをひっくり返せば4交換図そのものだ。
中間団体はあくまで一元化への抵抗だから、Iをそのままになうわけではないだろう。
中間団体を外へ開く新たなアソシエーションのありかたが、内と外両面から必要なのだ。その意味で講演の主催者はこの講演内容によって自らの課題を明確に出来たことを喜ぶべきだろう。

柄谷は、独裁者も専制君主もいないが現在の日本は専制主義だと言う。
テレビや新聞の統計調査や支持率(という名の専制君主)が一人歩きする社会で、代表制が空転している。デモやくじ引きを排除し、民主主義=選挙だと思ってしまっているかぎりそれは当然の帰結だ。
同時にネット上の匿名による中傷も相手にする必要がないと言う。
立場や発言の場が変わればどうせ意見を変えるだろうからだ。

結論として、 状況を変えるには中間団体を大事にするしか無い、それには顔見知りになる必要があると言う。
顔も知らないでアソシエーションなど不可能だと言う。
その発言のせいもあってか、ママキムチという韓国料理店で開かれたオフ会は盛況だった。


追記:

丸山の図は外周が円になっており、回転による移行を表現しやすくなっている。また原論分では矩形の変化で4つの要素の割合が個人個人で変わることを表現している。

(丸山が言論文で様々な可能性を示唆しているとはいえ、丸山が示した一般的順序とは逆回りに歴史は動いていると思う。明治維新及び民権運動D→強権による運動挫折A→私小説P→文芸協会や新しき村I。全共闘D→強権発動D→消費社会A→?と動いているからだ。)

さて、私見では4交換図はカントのカテゴリー論やマルクスの交換価値論にも対応する。


量  質
  +
関係 様相


拡大された形態    縮小された価値形態

        +

一般的等価形態      貨幣形態

あるいは、マルクス自身の章分けとは少し違うが、以下の解釈がわかりやすい。

等価形態         相対的価値形態
量=Y   Yb = xA    質=A
(→Y量の商品bと等価)  (x量の商品AはY量の‥→)

          +
一般的価値形態     貨幣形態
関係          様相
L=a,           a,=G
b,             b,
c,              c,
d,,,           d,,,      

参照:武市健人(『大論理学』下解説)

問題は貨幣形態にあたる部分だが、これはさらにパーソンズ流に分節化する必要があるだろう。ゲゼルの減価式への視界は貨幣形態の(技術的な部分での)分節化によって開けるであろうからだ。

カント自身は、理性的心理学(岩波文中p75)の命題を様相から量へ逆流させて考えている。
(あくまで量を起点にカントは考えている。**)

性質は内容量なのだから当然なのだが、価値形態論の場合は質による交換、量をはかった等価交換と進むので、質から量へと進む。

また以下のような哲学史見取り図も可能だ。

量            質
ヘーゲル        スピノザ
ライプニッツ      ニーチェ 
プラトン
       +
関係           様相
デカルト        カント
マルクス        ハイデガー

主に実在論者が量/質、唯名論者が関係/様相に位置づけられる。
ドゥルーズは実在論者として質にも位置づけられるが、同時に、フーコーとともに様相の思想家でもあると思う。


ライプニッツはスアレスの以下の原理を採用した。「全ての個体は、その存在全体によって個体化される Omne individuum sua tota entitate individuatur 」

**「直観はすべて外延量である」(岩波文庫上p237)というのはカントの視覚中心主義の残余でしかないから、カント自身が『判断力批判』でおこなっているように質を直観を最初に置いても間違いではないと思う。

2008年11月23日「批評を批評する—美術と思想」

11月23日(日) :「批評を批評する—美術と思想」
岡崎乾二郎、針生一郎、光田由里、柄谷行人
東京国立近代美術館地下1階講堂

/////////////////

まず、針生氏による50年代の回想があり、(光田氏作成の年譜を参照しながら)柄谷氏がそこに批評の全体性があった時代と補足した。その全体性は共産党が権威を持つ60年代まで続くが、それ以後は資本に対する免疫が欠け惨憺たる有様であるとする。
全体性の回復は柄谷氏の交換図に収斂する印象があった。といっても互酬性に話はかなり集中し、アソシエーションの事例を積極的に打ち出すまでにはいたらない。その全体性は数々のマイナスの事象から逆に浮き彫りになったと思う。岡崎氏による、公的なものは共有できないものから生まれる、美術館は価値判断せずあらゆるものを集め、名前を言ってから(図書館の閉棚式?)公開する等のアイデアが出て、美術のあり方自体に意識的であるべきことが確認できた。
最後に、村上隆に柄谷氏が触れ、普通のことをやっているだけで、外国から指摘されて大騒ぎするのはおかしいとした。
日本人は真善美の善の代わりに、手仕事を大事にしてきたが、村上氏もそれと同じように普通のことをやっているにすぎないのだと。

日本では「善の代わり」に美術があるという柄谷氏の指摘は面白く、(ハチソンと違い)スミスが経済的な事象の研究から道徳を説いたのに、いつのまにか美学に吸収実体化されたという定本第4巻冒頭(*)の指摘を連想させた。

真善美は意識化されないと日本化(=針生氏が指摘したようになんでもあるが特色も無い)する。世界は日本化しつつある。ただしこの状況は好ましくなく、美術は裏付けもなく存在するべきではない。共産党のようなものではもちろんだめだが、抑圧(抑圧が無ければ自由も無い、、、)する批評が必要だとした。

パネリストの年齢がそれぞれずれているので日本戦後美術史が立体的に理解できるきっかけが与えられたと思う。

ただ、たとえば 50年代は日本映画の黄金時代であり、こうした視点が加わると公-私の問題、前衛化-大衆化の問題等はもっと生産的なものであり得たと思う。


*定本第4集冒頭メモ:

真(国家)ー 美(ネーション)
    /    
善(市民社会)←スミスの経済=道徳

真(悟性)ー 美(想像力で調停)→ヘーゲル、フィヒテなど実体化
    /    
善(感性)

B  ー A   
   /
C    D

追記:
全体性というより自律的総合性がアソシエーションと言えるのではないか?
そしてシンポジウムの参加者を交換図に当てはめるとまとめ役の光田由里女史がアソシエーションの位置にあると言える。

柄谷 針生

岡崎 光田

金曜日, 12月 12, 2008

プルードン交換銀行定款

以下,下記ブログ記事からの転載です。
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/50800239.html


 プルードン交換銀行の定款(「人民の代表」1848.5.10)を『自由経済研究』vol.11,1997.8より引用します。森野栄一さんの訳です。
抄訳ですが、興味を持った方は、ぱる出版に問い合わせて購入してください(郵便振替による後払いで購入できます。一冊1000円です。森野さんに問い合わせれば、半分WAT払いで買えます)。
 国民通貨による出資を求めた民間資本による人民銀行(交換銀行案が議会で否決されたあとの1848年)や、ナポレオン三世政権下のパリ万博後の永続博覧会計画(1850年代)は、また別の「後退戦」として研究されるべきかと思われます。
 第十九条にあるように貸付と交換は業務としては分かれていますが、信託と交換を同時に行なうというアイデアが画期的でした(これは今日のLETS・地域交換信託制度につながります)。また市民による集合的信用は、市民バンクにつながります。第三三条には競売のアイデアもあります。金貨は小銭としてしか流通しないようになるというのは先駆的なアイデアだと思います。
 交換銀行、人民銀行はプルードンにルイ・ボナパルト侮辱の罪で逮捕状が出て実動されないまま終わります。プルードンは亡命先のベルギーから清算のため帰国したところを逮捕されます。
 プルードンに関しては推薦サイトがいくつかありますが(下に付記します)、復刊ドットコムが最重要かも知れません。
http://www.grsj.org/colum/colum/prouhdon_kaheikaikakunitsuite.htm
http://www.thought.ne.jp/html/text/socio/07anc4.html


河出書房新社『神もなく主人もなく1』より、人民銀行株券↓
(交換銀行に株券はない。)


仏版『社会問題の解決』より、人民銀行流通券↓(『人間の経済』78号森野栄一「プルードンの夢」*に詳しい。

http://www.grsj.org/book/booklibrary/ningennokeizai_78.pdf
*以下、参考までに、『人間の経済』第78号p26より、流通券の記載事項の翻訳。
「人民銀行の「流通券」見本には、券面にこうあります。

5フランシリーズ 人民銀行 No.***
5フラン流通券
加入者各位
一覧後、支払指図に対して、人民銀行が受領した総額5フランの、
諸君の産業の商品や生産物、用益で持参人に支払う
署名 P.J.PROUDHON et Co.
経理人 ****(署名)
<上記の他に、左右に、人民銀行という協会の約款、18条、20条が記載されています>
18条(左端に記載)
通常の正貨で支払われる銀行手形と異なり人民銀行券は永遠の社会的性格をもつ引渡指図であり、あらゆる組合員ないし全加入者によって、その事業や職業の生産物あるいは用益によって支払われる。
20条(右端に記載)
流通券は協会の全加入者にあらゆる支払いで受領される。協会は正貨での払い戻しを行わない。協会ヘ任意のものでしかないが、加入者のところでの受領の義務を保証する。加入者の名称、職業、住所地の一覧は協会の事業所に掲示されるであろう。」

注:
上記銀行券は、担保のある人民銀行のもので、交換銀行のものとは違うが、その計画の原案として交換銀行があり、定款の検討としてはこちらでも十分参考になるので以下を引用する。

/////////////////////////////////////

 交換銀行設立計画

 国有交換銀行

 基本定款

 下記署名者の、卸売商人、職人、企業家、産業家、所有者、経済学者、法律家、教師、著述家、芸術家、あらゆる種類の、またすべての身分、職業の生産者たちの間で、下記事項の合意、決定をみた。

第一編

《一般条項》
第一条 署名者および本約款に同意するもの全員が、国有交換銀行の名称のもとに商業組合を構成する。
第二条 組合員の目的は下記の通り。
 一、交換銀行を設立することで、組合の各成員に、貨幣の助けなしに、特にまた即刻に、あらゆる生産物や食料品、商品、サービス、労働を獲得させ、
 二、その後、生産者の条件を変更して、農業および産業労働の再組織化をもたらす。
第三条 組合は万人のものである。
 全市民は、例外なく、これに属するよう要請される。組合員であるためには、いかなる出資も必要ではなく、本定款に同意し、交換銀行の信用紙券でのあらゆる支払を受け入れるだけで十分である。
第四条 組合は資本を有しない。
第五条 その有効期間は無制限である。
第六条 その所在地はパリに置く。
第七条 交換銀行は本質的に共和制的な制度であり、人民による人民の統治の典型である。また、位階制的で封建的な原理のどのような復興にも敵対する活力ある抗議であり、市民的なまた政治上のあらゆる不平等の事実を廃止する。金の特権は廃止され、すべての特権が消滅する。交換の相互性の必然的帰結である交換における平等が、翻って、労働における平等、現実的な連帯性、個人の責任性、絶対的自由の基礎となる。結局、交換銀行は、無限の富と全般的で永遠の平和の原理としての用具、また保証である。

《交換銀行の構成原理》           
第八条 国有交換銀行は以下の諸原理を立てる。
 労働するとは無から生み出すことである。
 信用を与えるとは交換することである。
 交換するとは資本化することである。
 これは定式として相互性を有する。   
第九条 従って、交換銀行は貨幣の助けなしにあらゆる生産物の交換を実行し、貨幣を出資することなく生産物を無限に増加させるための信用の制度である。
第十条 貴金属貨幣の代わりに、交換銀行は社会的な紙券を使用する。
第十一条 この紙券は普通の銀行券のように貴金属貨幣を代泰しない。組合の各 成員のさまざまな個々の債務とその根拠となる種々の生産物とを代表する。
第十二条あらかじめ全組合員に受け入れられた交換銀行の紙券は、次々と循環し、各組合員の生産物をうるのに役立つ。つまり、交換手段としての貨幣に取って代わるのである。組合員であることと交換券の拒否とは両立しない。第十三条 交換券の過剰発行はありえない。生産物の引き渡しに応じて、また引き受け手形ないし引き渡しに由来する債務の代わりに発行されるからである。
第十四条 要するに、その減価は不可能である。
 紙券はつねに、これの発行の原因である生産物と生産者および裏書人の責任によって担保されているからである。
第十五条 交換銀行は利益をあげない。

《交換券について》
第十六条 銀行の紙券は交換券と呼ばれる。交換券の種類は、二十、百、五百、千フランである。
第十七条 交換券は銀行とあらゆる組合員の間で、あらゆる種類の商品およびサービスといつでも交換でき 
 る。
 逆にあらゆる種類の商品およびサービスは銀行で交換券と交換できる。
第十八条 交換券は現金で編纂できない。
 少額の差額のみが通貨で精算される。

《交換銀行の業務》
第十九条 交換銀行の主要業務は次の通り。
 一、交換券と呼ばれる社会的な紙券の発行。
 二、二名の署名のある商業手形の割引、この手形の期限は問わない。
 三、引き受け証書ないし手形の割引。
 四、委託品の販売および購買。
 五、有担保貸付。
 六、所有者および耕作者に対する不動産信用。
 七、無料の支払および取り立て。
 八、融資。
第二十条 交換銀行の組合員に限り、その種々の特典を認められる。

《割引について》
第二一条 組合員の有価証券は個人的な性格しかもたないが、割引とはこれを一般的性格をもつ組合の紙券と交換することである。
第二二条 普通の銀行では、割引は現金ないしその典型である銀行の銀行券で行われる。これは、通貨と呼ばれる領主の名において行われる流通に対する先取、料金徴収権、領主権である。
  交換銀行では、流通は媒介物なしに行われる。貨幣はそこではただ、通貨ではなく、製造され、購入され、受領された生産物を代表する標章である。その支払いは生産者、消費者、そして裏書人全員によって保証される。そこではつまり、これを相互に受領しあうことから、交換者各自は銀行に対して株主ないし資本家の役割を果たし、割引に際しなにも先取されず、ただ銀行の運営費の ための手数料のみが徴収される。
第二三条 この手数料のみが徴収される。
第二四条 本行は、購入されるか販売されるかした、また引渡しが終るか近々引 き渡される生産物を表す証券ないし債券のほかには割引かない。
第二五条 割引は二名の署名のあるものに、またどのような期日のものに対しても行われる。
第二六条 割引信用は実際の取引、つまり信頼できる購買者が前もって生産物を引き受けるような場合、制限されない。
第二七条 二名の署名のある証券ないし債券はつねにもたらされる商品の内容と数量とを明示しなければならない。
第二八条 この点に関してなされたあらゆる不正行為およびごまかしは詐欺で告訴される。
第二九条 まさしくこうした考えから、本行は割引に際し、注文品や受領された送り状を受け取る。

《委託品の販売および購買について》
第三十条委託品の販売および購買は商店の混雑をなくし、商業と産業を安全なものとし、販路のない生産物を市場にもたらす手段である。
第三一条 本行は、状況に応じてまた組合員の商品の内容にしたがって、原価の二分の一、三分の二、四分の三、五分の四で購入する。組合貝はこれらを特恵委託品に関する法規(民法、1932条)によって委託する。
第三二条 委託証書で定められた期日まで、委託販売人は、可能な限り最良の条件で販売することができ、本行が前払いした金額しか返済しなくてよい。
第三三条 期日経過後は、本行は、委託品を、組合員であると非組合員であるとを問わず安値の機会を利用したいとする全市民の競売にかけ、売却させる。
第三四条 委託品の固定価格を超、量販売で、去れた価格の超過分は、当該超過分の5パーセントを本行の手数料として控除して、商品所有者のものとなるであろう。
第三五条 販売が実行されて、委託品の保有者は委託された商品の引渡しをおこなう。
第三六条 国家はその債券をもって、製造薯はその生産物をもって、商業者はその商品をもって、労働者はその力能をもって、芸術家はその作品をもって、所有者はそのアパートや家屋、土地、機械の賃貸料をもって、持参人はその国債をもって、要するに全市民が前払いをうるためのこの結合から利益をあげることができるし、お互いに、万人がなるたけ安く生産したいとしている原料価格やまた機械の賃貸料、サービスの大幅な切下げを手にいれて利益をあげることができる。

《保証人信用貸付》
第三七条 本行は信用貸付を開設する。
第三八条 必要な担保は保証人の推薦だけであるが、本行が間違いのない人で有効と判断するかどうかによって、二人ないし数人が必要である。
第三九条 保証人は連帯責任を負い、その一人ひとりが全員の責任を負う。
第四〇条 本行は組合員のほかは保証人として認めない。
第四一条 信用供与された組合員が返済を行わない場合、本行は償還について保証人と協議する。

《不動産信用》
第四二条 本行は土地所有者および耕作者に、長期、年賦払いの契約に基づき前貸しを行う。
第四三条 長期、年賦払いのこの契約は抵当によって保証されるが、これは、委託商品の購入、販売のそれと類似の責務である。
第四四条 本行は所有地をその価値の四分の三で先物で購入し、これを所有者に委託する。所有者は全収穫物を我が物にするにもかかわらず、その責任ある管理者になる。
第四五条 指定された期日に土地所有者が貸与された前払いを返済しない場合は、本行は所有地の引渡しを受け、耕作者に引受けさせる。
第四六条 土地を失っても所有者は、自身とその家族のために、本行が定めた条件で小作農ないし管理者としてその所有地に居住し耕作する特権を有するであろう。

《当座勘定での信用、無料の支払いおよび取り立て》
第四七条 本行は全組合員のために無償でパリと地方での支払いおよび取り立てを行う。
第四八条 本行はこのために組合員各自の当座勘宴開設する。支払いの大部分を要するのには、たんなる一方の当座勘定から他方のそれへの移転で十分である。

《現金注文について》
第四九条 交換銀行はその影響力、知性の権威、前貸し金をもって、農業上、産業上、商業上、科学上等々のあらゆる企て、労働者協同組合および労働者組織のあらゆる試みを教唆し、かき立て、これに助言を与え、助成し、後援し、出資する。これはごく当り前の与件のなかで、成功への申し分のない保証であろう。
第五〇条 各地方の最も一般的な利害を代表する交換銀行は、従って集合理性の表現であり、また体制のあらゆる偏見から解放されてもいる。交換銀行は、いかなる理念にも、どのような学派に同情心も敵対心も抱かず、いずれの教義の判断にも基づくものではない。
第五一条 その上、交換銀行は流通と信用の特殊嘉官であり、あらゆる生産的諸力の集中点であるが、どのような企てにも専心することはなく、いまあるいくつかの種類のいかなる取引や事業にも、直接的にも間接的にも干渉しない。交換銀行はそれ自身の事業の責任のほかは認めないし、引き受けない。
第五二条 交換銀行は、計画が富の生産、分配、消費の主要な諸原理に従っているかを判断するだけであり、それ自体が自由、平等、相互性、非人格性が高度に結合しているのがみられる組織の典型と自認している。

 これで定款の第一部がやっと終わりである。第二部(五三条から八〇条)は、《本行の組織と管理》と題され、交換銀行の組織的側面が扱われているが、これは省略する。

////////////////////////////////

付録として、1848年5月8日「人民の代表」に発表された「政治問題と経済問題の同一性、解決の方法」より。LETSの原理との近さがわかると思います。
資料集として一部翻訳されていますが(『フランス社会主義資料集』)、以下は「自由経済研究」vol.20.2001.12より、森野さんの訳です。


「(中略)誰もが認めることは、異なった場所に居住する三人以上の交換者が、同じ時に、それぞれ他の人間の生産物を知り、欲するならば、彼らの生産物と役務を直接に貨幣の助けなしに交換するような方法で交換することができるということである。
 このことはおのずから明らかであり、理論上明白である。なぜなら三人以上の交換者は二者で交換するのと同様であるからである。また実践上もあきらかである。口座振替でいつでも行われるからである。従って、この点で少しの困難もない。
 この原理はただ貨幣の廃止を意味しているだけであるが、これにしたがって交換銀行の観念が獲得される。
 交換銀行は交換者に対して、諸国のあらゆる生産者や消費者の事業状況や能力、支払い能力、生産の重要度、そして特に重要な彼らのもつ欲求を個人的に知っているかのように現れる。
 いかなる政治上の激動も決して生産者と消費者の関係を断ち切り、生産物の交換を中断しえないにしても、交換銀行がお互いに関わりあうには時間がかかるすべての生産者と消費者に無償で生産物と販路を提供するのは、この知識によってこそなのである。
 交換銀行はその組織によって交換銀行なのである。随所に現れ、誰にでも情報を与え、交換銀行は各交換者にこう言うのである。当行に諸君の請求書、交換券、約束手形を与えよ、当行に諸君の商品針委託せよ、当行のもつ無数の関係によって、補償金もいらず、割引料もなく、利子もなく、諸君のあらゆる取引を引き受けましょう。
 従って、ここでは貴金属貨幣の銀行が交換の銀行に転換され、間接的交換は直接的交換に代えられ金属の役割は廃止され、一種の振替に転換される。否定が肯定に転換されるのだ。
 我々はこの改革からどのような利益を引き出すことができるのであろうか。これが労働者にもたらすものはなんであろうか……。」

//////////////////////////////////

火曜日, 12月 02, 2008

『哲学の貧困』へのプルードンの書き込み(簡易版2メモ)


NAMs出版プロジェクト: 『哲学の貧困』(マルクス)へのプルードンの書き込み(簡易版1):再送

http://nam-students.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html 改訂版


過去ログで作業中の『哲学の貧困』へのプルードンの書き込み(全54箇所)の簡易版をご紹介します。
全体としてはマルクスによる剽窃といった事件が浮かび上がります。第一章第3節で批判された「構成された価値」などは後の「価値形態論」そのものではないでしょうか(マルクスはプルードンが冒頭に貨幣論をおいたことを非難しているのに[岩波文庫p80]、のちに『資本論』で自身もそれを模倣する)。
////////////////

『プルードン研究』(佐藤茂行)、『プルードンと現代』(藤田勝次郎)にある断片的な訳を参照した。
仏語ではリヴィエール版全集『経済的矛盾の諸体系』の巻末に書き込みリストがある。

<>内は通し番号(全54箇所、または14bを入れて55箇所)、
大月全集版頁数/岩波文庫版頁数、()内はマルクスの言葉(大月版)、「」内はプルードンの書き込み、「()」内はプルードンの言葉の邦訳。

<1>
第一章
第2節より
100/69
(政治的平等は、目的としては誤謬であり、手段としてもまた誤謬である。)
       「Oui.(そうだ。)」

<2>
第二章
第1節方法より
第一考察
129/111
(しかし、諸カテゴリーは生産諸関係の理論的表現にほかならないのであるから、生産諸関係の歴史的運動を追求しない限り、これらのカテゴリーをば、自然発生的な、現実的諸関係とかかわりのない諸観念や諸思考としてしかもはや考えようとしないかぎり、純粋理性の運動をこれらの思考の源泉とみなすほかなくなる。)
     「Il est bien forcé, puisque, dans la société,tout est,quoi qu'on dise,contemporain;comme,dans la nature,tous les atomes sont éternals.(それは必然なのだ。今日、あなたが何と言おうと社会のすべての原子が永遠であるように。)」

<3>
131/114
(ヘーゲルが次のようなことばで語るのは、この絶対的方法のことなのである。) :
   「Très bien; cela est-il si bête?(大いに結構、でもこれは馬鹿げていないかね?)


<4>
133/116
(彼は思考の運動によって世界を建設することができると信じこんでいる。しかし彼が[実際に]おこなっていることは、ただ、万人の頭脳のなかにある諸思考を体系的に再建設し、絶対的方法に従わせることであるにすぎない。).
      「Je ne prétends pas faire autre chose; et je crois que c'est quelque chose. Votre première observation n'observe rien.(私は何か他のものを装ったりはしない。そして私はそれが何か大事なものであると信じている。あなたの最初の考察は、何も考察していない。)」

<5>
第2考察
133/117
(しかし、これらの一定の社会的諸関係もまた麻布、リンネル等々と同様に、人間によって生産されるものであるということ、それを彼は理解することができなかった。)
     「Mensonge : c'est précisément ce que je dis. La société produit les LOIS et MATÉRIAUX de son expérience.(嘘だ。それは私が正確に言っておいた。社会は経験を通じてその法と素材をつくるのだ。)」(Les mots sont soulignes par Proudhon.(この言葉は、プルードンによって下線を引かれている。))

<6>
134/117
(それゆえ、これらの観念、これらのカテゴリーは、それらの表示する諸関係と同様に、永久的なものではない。)
「Oui, éternelles comme l'humanite, ni plus ni moins; et toutes contemporaines.
Votre deuxième observation n'aboutit pas.(いや、人間性が永遠であるように、すべては同時代のものでもある(それ以上でも以下でもない)。
あなたの第2考察は失敗している。)」


第3考察
<7>
134/138
(ついで、プルードン氏が純粋理性の力によって、他の諸局面の産出にとりかかると、彼はあたかもそれらが生まれたばかりの赤ん坊であるかのように取り扱い、それらが最初の局面の局面と同じ年齢であることを忘れてしまうのである。)
    「Je dis précisément tout cela.Dites-moi donc comment vous vous y prendrez pour parler tour a tour des objets de l'Econ.pol.? (私はこれをすべて正確に述べておいた。
どこまで経済、政治の事象からかけ離れたおしゃべりをするというんだ?)」


<8>
134/119
(諸カテゴリーをもって一個の観念体系という建築物を建造することにより、)
 「Oui vous parle de tout cela ?  Votre observation n'est qu'une calomnie.
(わかった、これがあなたの言わんとするすべてかね。あなたの考察は、中傷にすぎない。)」

第4考察
<9>
135/119
(彼は、小ブルジョアたちが…歴史上の偉人を考察するのと同じように[経済的に]諸カテゴリーを考察するのである。)
「J'ai fait moi-mêre la critique de cette manière de raisonner.(私は自身でこのような推論をすでに批判しておいた。)」

<10>
135/119
(解決すべき問題は、悪い面を除去して良い面を保存することである。)
  「Calomnie effrontée.(厚かましい中傷だ)」

<11>
135/120
(奴隷制度も、ほかの経済的カテゴリーと同様な一つの経済的カテゴリーである。)
「 Cela n'est que perfide ,mais raisonnable,point.―L'esclavage, extrême du proletariat, c'est-à-dire de l'infériorité relative, a sa raison d'être, qui le fera toujours exister, non comme esclavage, mais comme apprentis-sage, ou tout autre analogue. C'est toujours comme la douane.(これは、信頼するには足らないが、理にかなった見方だ。奴隷制度、ここでいう増大するプロレタリアートは、いわば相対的な下層階級であり、常に存在するその存在理由においては、奴隷制度というより、模倣または類似した別ものとしての奴隷制度である。それは、あたかも常なる習慣となったかのようだ。)」

<12>
136/121
Comment M. Proudhon s'y prendra-t-il
(ヘーゲルは提起すべき問題をもたない。彼がもっているのは弁証法である。ヘーゲルの弁証法についてプルードン氏のもっているのは、ただ、そのことばづかいだけである。彼独特の弁証法的運動[方法]は、独断的な、善悪の区別である。)
        「Absurde.(馬鹿げている。)」

<13>
136/122
(悪い面を除去するという問題をみずからに課することだけで、弁証法的運動は中断されてしまう。)
        「Qui vous a jamais parlé d'élimination ?(除去するなどと誰がいったであろうか?)」

<14>
137/123
(:第4の考察の終わり)
       「Votre quatrième observation n'est qu'un mensonge, qu'(?) une calomnie.
(あなたの第4の考察は嘘ばかりで、中傷だ。)」

第5考察
<14,b>137/123
(すなわち、プルードン氏の言によると、(諸カテゴリーがそのなかに自己を顕現したところの)歴史的継起を、)   
            「 Il n'y en a pas.(そんなものはありはしない。)」

<15>137/124
(彼がわれわれに経済的諸カテゴリーを与えるその順序はもはや経済的諸カテゴリーが相互に生みだしあうその順序ではない、)
「Faux.Apprécier à sa juste valeur la logique, ce n'est pas nier la logique.(虚偽だ。公正価格の論理で評価されたものは、その論理を否定することはできない。)」

<16>138/124
(世紀が原理に所属していたのであって、原理が世紀に所属していたのではなかった、)
  「Oui vous parle de cela ? Quand je dis positivement le contraire?
(誰がそれを言ったのだ?私が言ったのは正反対のことなのに?)」


<17>138/125
(しかし、人間を彼ら自身の歴史の俳優兼作者として表現するやいなや、)
   「 Voila donc que j'ai le malheur de penser encore comme vous!
Ai-je jamais prétendu que les PRINCIPES sont autres choses que la représentation intellectuelle,non la cause génératrice des faits?
    Votre cinquième observation est une imputation calomnieuse.
    Le veritable sens de l'ouvrage de Marx,C'est qu'il a regret quepartout j'aie pense comme lui,et que je l'aie dit avant lui.
Il ne tient qu'au lecteur de croire que c'est Marx qui,apres m'avoir lu,a regret de penser comme moi! Quel homme!
   (そう、あなたのように考えるならそれは私の不幸だというものだ。
私は原理が、事実から生起していない知的な表象だと言っただろうか?
あなたの第5の考察は名誉を毀損するものだ。…マルクスの著作の本当の意味は、とりわけわたしがかれと同じように考え、そしてかれよりも前にわたしがそのことを言ったことを残念がっているところにあるのだ。いやはや何という男だ!)」


第6考察
<18>139/126
(経済的諸関係が、活動的でかつ現に活動しつつある人間に先だって存在していたということに、一応しておこう。)
      「Je n'ai pas besoin de votres supposition.(私にはあなたの推測は必要ない。)」

<19>139/126
(諸矛盾を生みだす力は、これほどまでにすさまじいものであるので、)
       「Apparaître et exister sont deux choses différentes, dont la premiere n'est vraie que pour nous.
(現象と存在は2つの異なるものであり、そして、最初のものが我々にとっての真実である。)」


<20>140/127
(なにものかが生産されうることを拒否するのである。)
   「Oui,production,c'est apparition.(そうだ。生産は外観上のものだ。)」

<21>140/127
(そうするために彼は、一つのあらたな理性を発明した。)
        「Vous plaisantez toujours par avance :commencez par avoir raison.
(あなたは、前提を常に間違えている:正確に始めるべきだ。)」


<22>141/129
(このようなことばの入れかえには、もはや、(プルードン氏の名において)われわれを驚かしうるほどのものは一つもない。…
…プルードン氏の理想だからである。)
       「Bavardage.(無意味なおしゃべり。)」


<23>142/130
(だから神意は、…
…歴史の進行を説明するために今日もちいられている大言壮語である。…)
       「Me voilà coupable encore d'adoration à la Providence !…(ここでまだ私は神意を崇拝するという罪を犯しているのだそうだ!)」

<24>142/130
(神意にたいして、あれほど優しい気持を抱いているのであるから、)
      「Pasquinade!(皮肉か!)」

<25>142/130
(…事実のありふれた言いかえ方の一つである)
「ー Quelle est cette chicane ? ― les générations transforment ! ―Je dis moi que le mème principe unit, gouverne, toutes les manifestations; ― je ne sais ce que c'est que transformation.
     La France de 89 a transformé son monarque absolu en monarque constitutional. Soil. Voilà votre style.
     Je dis, de mon côté, que l'Etat, en 89, a régularisré la division des pouvoirs politiques qui existait avant 89.
     Le lecteur jugera.
     La sixiéme observation tombe sur Hegel, et n'a trait à rien.(この詭弁は何だろうか?ー世代は移り変わる!-すべての病状を呈している政府について、私の原則、政府がどのように変化するかはわからないと私は自身に言い聞かせる。
1789年、フランスは、立憲君主制においてその専制君主を土塊に変えた。それは、あなたの[政治革命の]スタイルだ。
私が主張するのは、私の見方では、1789年の国家は1789年以前と 政治勢力の分割を変えたということだ。これは読者が判断することだ。
第6の考察はヘーゲルを攻撃しているが、それは何も成し遂げていない。)」


<26>143/132
(神意にたいして、あれほど優しい気持を抱いているのであるから、), nous le renvoyons à l'Histoire de l'économie politique, de M. de Villeneuve-Bargemont, qui, lui aussi, court après un but providentiel. Ce but ce n'est plus l'égalité,c’est le catholicisme.
       「Quelle bêtise après ce que j'ai écrit ! ー En vérité, Marx est jaloux.
       (わたしが書いておいたというのに何という馬鹿なことを! 本当のところ、マルクスは嫉妬しているのだ。)」



第7考察
<27>145/134
(だから、封建的生産について正しい判断をくだすために、), il faut la considérer comme un mode de production fondé sur l'antagonisme.
        「Est-ce que Marx a la prétention de donner tout ceci comme sien, en opposition avec quelque chose de contraire que j'aurais dit ?(マルクスは私が正反対のことを言ったことにして、すべてが自分の言葉であるかのように主張するのか?)」

<28>146/135
(たえず増大するプロレタリアート).
 「Mais tout cela c'est moi!(しかし、すべて私の言葉だ!)」

<29>146/136
(この闘争に参加するプロレタリアートは、)
      「J‘ai dit tout cela.(もうすべて私が書いたことだ。)」

<30>147/138
(しかし彼らは、他の人々よりもブルジョア的なのである。)
 「Marx fait comme Vidal.(マルクスはヴィダル*のようだ。)」

*Vidalヴィダルは当時の経済学者の名。


ヴィダル,フランソア Vidal,Francois(1814-1872)
フランスの小ブルジョア経済学者、社会主義者、ルイ・ブラン派(大月書店『マルクス=エンゲルス全集』第七巻参照)。 
<ヴィダルは、『富の分配について』という著書によって共産主義作家として知られ、リュクサンブール委員会ではルイ・ブランの秘書だった。>(フランスにおける階級闘争 第三章 より
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/class_struggle_in_france.html#%91%E6%8El%8F%CD)


<31>147/138
(これらの理論家たちは、(被抑圧階級の欲求にそなえてそれにこたえるため、)もろもろの体系を一時のまにあわせにつくり、)
      「Plagiat de mon chapitre I(er).(私の第一章の剽窃だ。)」

<32>148/139
(ではプルードンに話を戻そう。)
      「Comment! revenons! Mais les pages qui precedent sont une copiu de moi.
      (なんと!、話を戻そうだと! だがこれまでの数頁はわたしのひき写しではないか。)」


第2節分業と機械
<33>149/141
(ものごとをあまりにも簡単なものにしてしまうことであろう。)
        「Qu'est-ce que tout cela prouve ?
        Que l'humanité progresse lentement.(このことは、何を証明しているだろうか?
人類は、ゆっくり進歩しているということだ。)」


<34>150/142
(アダム・スミスはプルードン氏が考えているよりも、もっと先を見ている。)
 「Bien.(よろしい。)」

<35>150/142
(このことはまったく、プルードン氏が別の箇所で、アダム・スミスは分業の生みだす欠陥に気づいてもいなかった、と述べることを妨げないのである。)
        「Bien. Mais Smith a-t-il éclairci le problème ? ーNon.(よろしい。しかしスミスは、問題をはっきりさせただろうか?ーいいや。)」

<36>152/144
(Citation de Ferguson et deux paragraphes suivants.ファーガソンの引用と2パラグラフに続いて)

Le problème n'est pas éclairci.(問題は解決されていない。)


<37>153/146
(「細分された労働の第一の結果は」とプルードン氏はつづける、…
…プルードン氏は、この賃金の低下が堕落した魂に相応することを証明するために、…だと言って、)
       「Allons, cher Marx, vous êtes de mauvaise foi ,et tout à la fois vous ne savez rien.
(さて、親愛なるマルクスよ、あなたは不誠実だ、そして、ここから先あなたは何も理解していない。)」


<38>154/148
(機械は一つの生産力であるにすぎない。)
        「C'est un philosophie qui dit cela.(これは言わば一つの哲学[思弁]だ。)」

<39>158/153
(ものごとを見るにしてもそれを逆に見るプルードン氏にとっては)
        「Non pas la division dans le sens d'A. Smith , mais la grande division naturelle des métiers.
         (アダム・スミスの意味での分割ではなく、職業の自然的大分割なのだ。)


<40>
158/154
(本来の意味での機械は、一八世紀末から存在している。機械を分業の反定立と考えたり、細分された労働の統一を回復する総合と考えたりするほど、ばかげたことはない。)
        「Je maintiens cela.(私はそれ[=矛盾]を維持する。)」

<41>
158/154
(分業によって…バビッジ、パリ、1833)
        「Donc la machine vient après la division.(そして、機械は分業の後到来する。)」

<42>
158/154
(簡単な道具、これらの道具の集積)
       「Donc l'atelier qui groupe les parties du travail vient aussi après la division.(そして職場を束ねる労働団体は、分業の後、到来する。)

<43>
158/154
(生産諸用具の集中…不可分である。)
       「Sans doute,il ne s'agit que d'une succession logique.(疑いなく、これはただの論理的帰結だ。)」

<44>
158/154
(プルードン氏にとっては、労働用具の集中は分業の否定である。)
「Oui.(そうだ。)」

<45>
158/155
(用具の集中が発展するのに応じて分業もまた発展し、分業が発展するのに応じて用具の集中もまた発展する。)
     「Oui aussi, tout cela est vrai en mème temps.
      (これまたその通り。これらすべては同時に本当のことだ。)」


<46>
159/155
(分業におけるすべての発展がこんどはまた、機械装置におけるあらたな諸発明をもたらすことになるのである。)
  「Très bien, cela s'explique dans ma théorie parfaitement, comme le développement parallèle de la richesse et de la misère.
     (よろしい、これは富と貧困の平行した発展として、完全に私の理論で説明される。)」

<47>
159〜160/156〜156
((引用者注:機械の必要性をマルクスは説き、)自動機械工場は、…自動機械の、発生しつつある絶対的支配にたいして(抵抗したのであった。))
「Absurde, comme l'opinion qui croit déshonorer la balance du commerce par les vexations de la douane.(税関の嫌がらせによって貿易収支が不渡りを出すのを信じるといった意見のように、不合理だ。)」

<48>
160/157
(だが実際、…われわれが今自動機械工場で見るような分業とのあいだには、なんという相違があることだろう!)
         「La division, pour moi, remonte plus haut qu'A. Smith ; elle est prise aussi dans un sens plus large.
(分業は、私の考えでは、A・スミスよりももっとさかのぼり、それはより広い意味に理解される。)」

<49>
161/158
(それゆえ、自動機械制度の原理は、…)
          「 L'un n'est que la conséquence de l'autre; et tout ce qui se dit du premier convient au second.(ものごとはある事柄の帰結であり、そしてすべてははじめからから二番目につづく必要があるということだ。)」

<50>
162/159
(このような配置の転換は、…旧来の慣例に公然と対立するものである。)
           「 Très bien : j'ai marqué cette opposition ―, la dégradation de l'ouvrier est plus avancée dans ce que vous appelez systéme automatique que dans ce qu'A. Smith appelle division : ー quant à moi, j' ai marqué ces deux degrés par la Division, et machines.
      J'ai dit : la Division du Travail morcelle, mutile, éparpille l'homme ; ― Les machines l'asservissent : c'est exactement la même chose que le Dr Ure.(大いに結構。私の意見はその反対だ。労働者の堕落は、スミスが分割とよぶものにおけるよりも、あなた[マルクス]が自動体系とよぶものにおける方が、より以上すすむのである。私についていえば、私は、分割と機械によって、これら二つの程度を示したのである。細分化され、ばらばらにされた分業は、人間を分散させる。機械は、人間を隷属させる。これは、ドクトゥール・ユアとまったく同じことである、と私は、のべたのである。)」


<51>
163/161
(しかし、すべての特殊的な発展が停止するとき、、、)
   「Bon! Et comment entendrez-vous ce développement intégral ?(よろしい。だが、あなたは、この全般的発展をどのように理解するのであろうか)」

<52>
163/161
(プルードン氏は…。そして、たんに一本の針の一二分の一の部分をつくるだけでなくて、一二の部品をすべてつぎつぎとつくることを、労働者に提議する。労働者は、そうすることによって、針の知識と意識に到達するであろう。)
         「Oui, en tant qu'il ne s'agirait que de résoudre l'antinomie de la division; mais je n'ai pas dit que tout fut là.
Il faut que l'habileté anciennne et moderne, sache travailler à la fois, et par ses doigts, et par les machines.
         Car, il est absurde qu'il ne puisse se passer de la machine, lui qui s'est fait remplacer par la machine.
          Le synthétisme, parvenu au plus haut degré, exige de l'ouvrier tout à la fois, et une plus grande capacité, et un développement moindre de…[Sagacité?]
(そうだ、分業の矛盾を解決することが必要なだけだが、しかし、私は問題のすべてがそこにあるとは言わなかった。
我々は、指先と機械とによる、古くて現代的な能力を同時に必要としている。
というのは機械に出来ないことができる職人が機械に取り替えられるのは不合理だからだ。ジンテーゼ(最も高水準の総合)のためには、労働者が、もっと大きな能力と[知恵?]のよりゆるやかな発展とを同時に得る必要がある。)」


第二章第3節より
<53>
169/163
(恋する男の直接対象が女であるならば、生産活動上の励みあいの直接対象は生産物であって、利潤ではない。)
      「Synonymes ici.(これは同語反復だ。)」

<54>
169/163
((競争は、)生産活動上の励みあいではなくて、商業上の励みあいである。)
       「Autres synonymes.(またしても同語反復だ。)」

月曜日, 12月 01, 2008

Leibniz "Metaphysical Disputation on the Principle of Individuation"1663(ラテン語/英語)



ライプニッツ 1663年
「個体化の原理についての形而上学的討論」(ラテン語/英語)
Disputatio metaphysica de principio individui
Metaphysical Disputation on the Principle of Individuation)
Leibniz(1646-1716) 1663


参照:
Leibniz on Individuals and Individuation: The Persistence of Premodern Ideas in Modern Philosophy
http://www.amazon.com/dp/0792338642

ラテン語原典は Gerhard版の著作集第4巻に所収、
ドイツ語の解説付きの版(1837年)がPDFで公開されている。
http://books.google.com/books?id=rXj2C8L9gMAC&hl=ja

なお、J. Quillet によるフランス語訳と註解が雑誌 "Les etudes Philosophiques" 1979年、1号年、1号、79-105頁
に掲載されている。
http://cat.inist.fr/?aModele=afficheN&cpsidt=12642830

以下、『ライプニッツ哲学研究 』(山本信 著)133〜5頁より、ライプニッツ論考の要約。

    第二節 個体性

 ライプニッツの最初の作品は、『個体の原理についての形而上学的討論』(Disputatio metaphysica de principio indi‐ vidui.1663)(GIv15-26)であった。この論文の中で彼は中世スコラ以来の問題、個体化の原理(principium individua‐ tionis)を取扱い、四つの代表的な意見をあげて、博識と技巧とを示しつつ、一つを弁護し三つを論駁してゐる。その 論ずるところによれば、個体化の原理は一般者或いは普遍者の否定的限定(negatio)でもなく、本質或いは形相に結 合されてそれを固定するところの外的なものとしての存在或は質料(existentia, materia)でもなく、haecceitas 即 ち、種の類に対する如く種に対して付加されるところの、それ自身形相たる個体差或いは質料(differentia individuifi‐ ca, numerica)でもない。個体はそれ自身において積極的肯定的なもの(ens positivum)であり、「すべての個体はそれ の存在性全体によって個体化される」(omne indiviiduum sua tola entitate individuatur)、云々。唯名論的立場からする 個体そのものの積極性の主張が、明らかに看取される。尤も、ここでライプニッツが弁護し主張しようとしている提 説は、他の諸説に対する論駁の鮮かさに比して甚だ曖昧である。しかしながらこれは、唯名論的立場にとってはむし ろ当然のことである。個体化の原理が本来的に問題とされるのは、普遍者に何らかの意味で優先性と実在性とを帰す る立場からである。従って、現実に存在するものは既に個体であるとする立場においては、個体化ということが、少 くとも昔ながらの形では、問題になり得ない。即ちそこで問題なのは、「個体化の」ではなくて、まさに題名の示す 通り「個体」の原理であり、個体そのものの内容的分析解明である。そしてこれが展開され仕上げられて後期の個体 論に至った、と見ることができるであろう。
 さてライプニッツによれば、実体は究極的主語として、その実体について言われ得るあらゆる述語を含むところの 概念を有するのであった(一一三〜四頁参照)。かかる「完全な概念」によって、実体は常に一個の個体に決定されてい るのである(determine a un individu, Glv435b)。この完全概念即ち個体的概念が含む述語の数は絶対的に無限でなけ ればならない。その数が無限でない場合には、それらの述語が内在する主語は充分個体に決定されていない。「有限 数の述語を幾ら取ったところで、残りのすべてを決定することができないから同じことである。一定の一人のアダム を決定するものは、そのすべての述語を絶対的に含んでいなければならない。一般性を決定して個体となすのは、こ の完全概念である」(Gll54b)。種や偶有性の概念においては事物の一般的抽象的本質が考へられるだけであるのに対 し、個体の概念の中にはそのもののあらゆる個別的具体的状態が含まれており、その連鎖を辿ってゆけば宇宙の全系 列が含まれるに至る(Gll39b,277c‐8a,lv433b,vll311b)。「個体性は無限を含む」(G v268b)のである。
 宇宙全体との関係におけるこれらの無数の述語は、その実体にとって単に外的な規定なのではない。ライプニッツ によれば、外的規定には必ず内的規定が対応している(Gv211a,vll311b)。従って、各実体が無数の述語によって個 回に決定されているといふことは、それぞれ内容的に他から区別されていることにほかならない。二つの実体が全く 相等しくて、ただ数においてのみ異なる、ということはあり得ず、そこには必す内的規定に基づく差異が存するので ある(Glv433c,v100a,213b,vl608b, vll395a)。この点に関しライプニッツは、好んでトマス・アクィナスの天使論を 引合いに出している。周知のやうに、トマスによれば、質料と形相とからなる合成実体の個体化の原理は、いわゆる 「指示された質料」(materia signata)であるが、単純実体即ち質料をもたぬ叡智体である天使については、これは妥 当しない。天使はその各々が最低種なのであって、合成実体における如く種においては同一で数において異なる、と いふことはなく、個体があるだけ種が存するのである。ところがライプニッツは、この天使について言はれたことが すべての実体に当て嵌まると主張する。即ち、その概念の中にそれ自身で説明され得る差異を有するものは、種におい て異なると言われるが、まさにすべての個体的実体はその概念自身において、従って「種において」、異なっている のである(Gll42b,54c,131c-2a, vll433c)。そこで今度は逆に、もし全く相等しい規定をもち、如何なる点でも相互 に識別され得ぬ二つのものを考へるならば、この二つは実際には一にして同じものであって、ただ同一のものを二つ の名で呼んでいるにすぎない、といふことになる。幾何学において対象を先づ二つと仮定しておき、次に実はそれが 一つであることを示すやり方、これと同じ事情がここにも存するのである(GMI372b,395c)。かくしてライプニッツの 実体論は、かの処女論文における個体の積極性の主張と結びつく。各々の実体は、それ自身の内容の充実と具体性と において、他のすべてのものから区別された個体性を有する、即ち、「それの存在性全体によって個体化される」の である。このこと以外に「個体化の原理」は存しない(Gv214a)。

〜〜〜〜〜〜以下本文〜〜〜〜〜〜

CUM DEO
1.
Quanto latius argumentum nostrum diffusum est, verba vero pauciora esse debent, tanto magis abstinendum nobis a praefatione esset, nisi admoneret Divino Numini debita invocatio. Deum igitur ptimum Actum Fontemque secundorum oramus obtestamurque,ut cujus in re ipsa causa est, ejus quoque in nostra cognitione suscitator esse velit, ne quicquam cuiquam,nisi ipsi bonitatis debeamus.

WITH GOD
1.
We should be brief,as the more extended is our argument,the more we should refrain from a preface,except for an invocation owed to the Divine Spirit.Therefore,we pray and supplicate God, the first act and origin of secondary acts,that of which he is the cause in reality,of the same also will he be the source in our thought so that we will owe him whatever of worth our endeavor produces.

2.
Ante omnia autem statum quaestionis excutiemus.
Acturi igitur sumus de principio individui, ubi et principium et individnum varie accipitur. Et quod ad Individuum attinet, quemadmodum universale, sie ipsum quoque vel logicum est in ordine ad praedicationem, vel metaphysicum in ordine ad retn. Atque sic rursum aut prout in re est, aut, prout in concepto, seu, ut alii exprimunt, formaliter aut fundamentaliter.
Et formaliter vel de individuo omni, vel creato tantum, vel substantia tantum, vel substantia materiali.
Principü quoque vox notat tum cognoscendi principium,
tum essendi. Essendi internum et externum.
Quare, ut haec colligam: agemus de aliquo reali et, ut loquuntur, principio physico, quod rationis individui fonnalis, seu individuationis, seu differentiae numericae in intellectu sit fundamentum, idque in individuis praecipue creatis,substantialibus.

2.
To begin with,we will examine the state of the question.We are,then,to treat of the principle of the individual.Now both ‘principle' and ‘individual ’are understood in various ways. Speaking of ‘individual',we note,on the one hand,that,like‘universal',it has either a logical sense−with regard to predication−or it has a metaphysical sense−with regard to the thing.On the other hand,we note that ‘individual' may mean "according to the thing”(in re),or "according to the concept"(in conceptu),or as some say,respectively,"fundamentally"or"formally." Formally,'individual' is understood in terms of every individual,or in terms of only created substances,or in terms of substance,or in terms of just material substance.Too,‘principle’is used to mean the principle of knowing and of being.There are internal and external senses of the principle of being. Wherefore,to summarize the foregoing,we treat of some thing real and what is called a “physical principle,” which would serve as the foundation for the formal notion in the mind of ‘individual’,understood either as individuation or numerical difference.We shall address individuals,especially created and substantial individuals [ i.e.,both material and non−material finite substance.See Section 3.]

3.
Quia vero, ut attritu silicis scintillae emicant, ita commissione sententiarum veritas detegitur, age primum eas digeremus. Sunt autem duo genera opinionum: alii hypotheses habuere ad omnia individua applicabiles, ut Scotus, aUi secus, ut Thomas, qui in corpotibus materiam signatam, in Angelis eorum entitatem principium posait. Nos quoniam hic abstrahe-
mus a substantia materiali et immateriali, speciales opiniones alio tempore consideraturi, nunc generales tantum excutiemus. Quas praecipue quatuor numerare licet. Aut enim principium individuationis ponitur Entitas tota (1) aut non tota. Non totam aut negatio exprimit (2), aut aliquid positivum; hoc aut pars physica est, essentiam terminans, existentia (3), aut metaphysica, speciem terminans, haecceitas (4).

3.
However,let us first set the various kinds of views in order,since truth is discovered by setting opinions off against each other,Just as sparks fly when the flint is struck.There are,then,two kinds of opinions.Some, like Scotus,have held hypotheses that were applicable to all individuals. Other, like Thomas,held a different view.He maintained that the principle in bodies was signate matter and in angels their entity.Since we shall here abstract from material and non−material substance−with special opinions to be taken up at another time, we shall examine only the general opinions. We may list four main views.The principle of individuation is taken to be either the whole entity(1),or not the whole entity.Less−than−whole entity is expressed either by negation(2),or by something positive. Concerning the positive sense of less−than−whole entity,One may take one of two views:(3)there is a physical part of the individual that terminates its essence,existence;Or(4)a metaphysical part that terminates species, haecceity.

4.
Prima opinio, quoniam et a gravissimis viris defenditur et difficultates omnes tollit, a nobis quoque recipietur, cuius confirmatio velut generale argumentum contra reliquas suppeditabit.
Pono igitur: omne individuum sua tota entílate individuatur. Et tenet Petrus Aureolus apud Johannem Capreolum, qui eum n'ondum editum diligenter confutavit, 2. sent. d. 3. q. 2. Hervaeus, quodlib. 3.q. 9. Dicitque Soncinas, quod haec opinio sit Terministarum ministarum seu Nominalium, 7. Met. q. 31. Et tenent sane Gregor. Ariminensis 1. sent d. 17. q. 4.Gabriel Biel in 2. sent. d. 3. q. 1. Quos adducit
recentior Nominalis Schautheet 1. 2. Contr.5.artic. 1. Tenet idem Durandus 2. d. 3. q. 2., citantibus sic plerisque, quamvis, ut notat Murcia, disp. 7.in 1. l.i Physic. Ar. q. 1., citari soleat pro sola forma, quum tamen n. 15. expresse hanc materiam et hanc for- mam afferat. Male autem Ramon e da eos, qui dicunt, individuum se ipsum individuare, et qui dicunt, materiam et formam id praestare, divellit, ut sibi contradistin- ctos, quum sint potius subordinad, ut speciales genera- libus. Quid enim est materia et forma unitae, nisi tota entitas compositi? Adde quod nos hic abstrahi- mus a corporibus et Angelis; potius igitur termino to- tius entitatis, quam materiae et formae utimur. Idem igitur tenet Fr. Murcia, 1. с. Fr. Suarez, disp. Met. 5. Zimara apud Mercenar. disp. de. P. I. P. 1. c. 9. Perer. 1. 6. c. 12. Ac nuperrime PI. Reverend. Calov. Met. Part. Spec. tr. 1. art. 1. c. 3. n. 2. et B. Stahl. Сотр. Met. c. 35.

4.
The first opinion,because it is held by the most distinguished men and
removes all difficulties [that pertain to the rejected candidates],will be adopted by us,the confirmation of which furnishes,as it were,a general argument against the remaining views.Therefore,I maintain:every individual is individuated by its whole entity. And this is held by Petrus Aureolus,according to Johannes Capreolus,Who carefully refutes Capreous before he was even publisbed(in 2 Sent.,d.3,q.2).See also Hervaeus(quodlibet 3,q.9). And Socinas says that this would be the position of the terminists or nominalists(in 7 Meta.,q.31).And Gregorius Admenensis(in 1Sent.,d.17,q.4)and Gabdel Biel(in 2 Sent.,d.3,q.1)hold the same view and the nominalist Schauteet has just recently(in L.2.,Contr.5,art.1)presented their views. The same position is held by Durandus(2 Sent.,d.3,q.2)and is so referred to by many,although,
as Murcia notes(Disp.7,in 1 Physic.Ar.q.1), Durandus is usually cited as holding this view with respect to form alone,When he clearly states it to be this matter and this form. However,Ramoneda erroneously attacks those who claim that the individual individuates itself and those who say that matter and form supply it [ the principle of individuation], as contradicting each other,since they could instead be understood to be subordinate views,as special instances under the general view. For what is matter and form united except the whole entity of the composit? Add we here abstract from bodily substances and angels,so that we preferably employ the term, 'whole entity',rather than‘matter and form'. The same position is maintained by Murcia (loc.cit.), Suarez(Dis.m.5), Zimare, according to Mercenarius(in Dis. de P.I.,Pars 1,c.9), and Pererius(L.6,c.12). And just recently PL.Rev.Calov(Met. Divina,Pars Spec.,tr.1,c.3,n.2)and D.Stahl(Com.Met.,c.35)have advocated this view.

5.
Argumenta pro hac sententia haec fere sunt. 1) Per quod quid est, per id unum numero est. Sed res quae- libet per suam entitatem est: E. Maior probatur, quia unum supra ens nihil addit reale. Usi sunt hoc argumento omnes hujus sententiae defensores. Res- pondet Bassolius Scotista negando majorem: ac dicit, naturam seu entitatem rei differre formaliter,
non realiter. Et sic limitat: per quod quid est, per idem realiter ntmm numero est. Et sic conceditur; si per idem formatter, negutur. Et ad probationem dicere potest, quod unum aliquid supra ens addat tonuuliter diversum. Sed haec protligabuntur inf'ra in reiutatione Scoti.

5.
The arguments for this position are usually the following:

1.That by means of which something is,by means of it that some thing is one in number. But any thing is by means of its entity.Therefore,[any thing is one in number by reason of its entity]. The major is proved in that one adds nothing real beyond being. All who defend this position use this argument.  Bassolis,the Scotist, replies by denying the major. He says that nature or entity of the differ fotmally, but not really.And so he qualifies[the major premise]: That by means of which something is, by means of it that something is really one in number,he allows.[That by means of which something is,]by means of it that something is formally one in number,he denies. And,in proof of this he can say that one adds something beyond being formally distinct from it it. But this position will be utterly refuted below in the refutation of Scotus.

6.
Mercenarius negat majorem, et ad probationem dicit, non quidem unum specie, sed tamen unum
numero addere aliquid supra ens. Sed contra: id quod addit, quum sit aliquid reale, erit ipsum quoque ens. E. addet aliquid supra se ipsum. Si vero dicat, non loqui se de omni ente, quod etiam modos includat, urgeo: id, supra quod unitas numerica aliquid addit, est ens. Si igitur est unum
numero, praecisum ab addito, nihil addit unitas numerica;
sin minus, dabitur quoddam ens reale, quod non sit singulare, de quo infra. Taceo, quod Mercenarius more Scotistico respondit, quum faveat Thomae.

6.
Mercenadus denies the major and in his proof says that,indeed,not the one inspecies but,instead,the one in number adds something beyond being. But,to the contrary: that which adds,since it is something real, will itself also be being.Therefore,it will add something beyond itself. But,if he were to say that he was not speaking of all being,which would also include modes,I argue:that beyond which numerical unity adds something is being.Therefore,if the one in number is separate from what is added,numerical unity adds nothing;if, to the contrary,it is not separate,there would be some real being,Which would not be singular,concerning which see below. I say nothing about what Mercenadus responds along Scotistic lines,since he favors Thomas.

7. (1)
Ramoneda respondet: ntmm et ens formaliter diflerre, quamvis materialiter sint idem. Pro тш formaliter intelligit: diflerre ratione. E. etiam principia ntdus numero et entis, ratione differant. Soncinas ait, Arist. IV. Met. 2, unde hoc argumentum sumat, пол loqui de unitate numerali, sed transcendentali.
Verum et ilia est transcendens, et non datur unitas realis speciei, praeter numeralem. Posset quoque aliquis pro omnibus sententiis adVersis, ex eo fundamento,
quo a nobis differunt, respondere, fieri tmum numero per snam entitatem, sed цод totam. Yerum obstat,
quod altera quoque pars intrinsece est una riumero, et sequeretur, si principia interna unius et entas differunt, ut totum et pars, unum et ens quoque, ut totum et partem differre, immo ens aliquid addere supra unum. Atque haec de hoc argumento fusius, ut melius videatur, quae quisque effugia quaerat.

7. (2)
Quae sunt principia entis in universali universalia, ea sunt ejus principia in singular! singularia. Sed tota entitas est principium entis universale in universali :
E. Major probatur probabiliter ab analogía.
2.Quia principia universalia nullo alio differant a singulari, nisi quod a multis singularibus similibus abstrahuntur. Est hoc argumentum Stahlii.
3. Durandus: universale et singulare non differant realiter. E. habent eadem principia. E. entitas tota, quae est principium universalitatis, est singularitatis.

7.
Ramoneda answers:one and being differ formally, although materially they are the same. By 'formally', he understands them to differ mentally.
 Therefore,the principle of one in number and of being differ mentally.
Socinas says that Aristotle(in lV Meta.2,whence this argument is taken)means not numerical unity,but transcendental unity.But the former is transcendent and there is no real unity of a species except numerical unity.
One could also respond on behalf of all who oppose this position on the basis of the grounds by reason of which they differ from us:something becomes one in number by means of its entity, but not its whole entity. But there is opposed to this[claim] the fact that the other part [ viz.,nature] is also intrinsically one in number and it would follow that, if the internal principles of one and of being differ as whole and part. One and being also differ as whole and part. Therefore being adds something beyond one.
And we have dealt with this argument at some length,in order to see more clearly the escape routes[from attack ] that each variation seeks.

2.Those which are universal principles of being in the universal are the singular principles of being in the singular. But,whole entity is the universal principle of being in the universal. Therefore.[ whole entity is the singular principle of being in the singular].The major is proved probably by analogy 2, in that the universal principles do not differ from the singular except in that the universal principles are abstracted from many similar singulars. This is the argument of Stahlius.

3.Durandus argues:the universal and the singular do not differ really. Therefore,they have the same principles. Therefore, whole entity,which is the principle of universality,will be the principle of singularity.

8.
4) Datur v. g. in Socrate natura intrinsece ad ipsum determinate, quod concedit Soncinas, extra. intellectum, et si negaret, daretur contra Thomistas universale completum in rebus. Immo etiam dicit Bassolius Scotista, quod detur solum in re universale in potentia, nempe natura singularis in respecta ad intellectum, qui cum similibus comparari potest. Ulterius daturne etiam natura indifferons in Socrate?
Si nulla, jam patet, quod se ipsum individuet natura Socratis; sin aliqua dabitur, simal differens et indifferons natura humana in Socrate. Nec effugit Soncinas dicens, quod differens et indifferens differat rat ratione. Nam sic patet, quod natura sit determinata in re per se ipsam, non per aliquid additum.
       
8.
4.There is a nature, for example, in Socrates, which is intrinsically determined outside the mind to him, which Socinas grants. If he were to deny this,there would be−contra the Thomists−a complete universal in things. Indeed, the Scotist, Bassolis, also says that there would be in the thing only a potential universal, namely a nature slngular in respect to the intellect which can compare it with similar natures. Is there not, in addition, in Socrates a nature indiffrent [to detemination]? If there is none, then it is now plain that the nature of Socrates individuates itself;if, to the contrary, there is some such nature, there will be at the same time in Socrates a different[i.e.,determinate] and indifferent[i.e.,deteminate] human nature. Socinas does not escape[this objection]in] in saying that different and indifferent differ mentally. For it is then plain that nature would be detemined in itself and by means of itself and not by something added.

9.
5. Essentía aliqua, humanitas v. g. Socratis, aut diifert numero ab humanitate Platonis intrinsece, si nempe praescindam id, quod naturae extra ipsam superadditum est, aut non. Si differt numero intrinsece,individuat se ipsam. Sin minus, sequitur, quod in se humanitas Platonis et Socratis sint idem numero, et uti natura cum alia natura, ita posset quoque cum addito comparan. Sed nunc mitto.

9.
5.An essence, the humanity of Socrates for example, either intrinsically differs in number from the humanity of Plato - if, that is, we put aside that which is added to nature beyond nature, or it does not [ so differ].
If it intrinsically differs in number, the nature individuates itself. But if
it does not【intrinsically differ in number], then it follows that in themselves the humanity of Socrates and that of Plato would be the same ln number. And, just as a nature could be compared with another nature, so also could the added be compared with the added. But, for now, I leave this view.

10.
Argumenta in contrarium pauca sunt et parvi momcnli. I. Quicquid constítuit individuum materialiter, non constituit formaliter. Sed entítas individuum constítuit ipsum materialiter. E.Resp. negando maiorem, quia materiale et formale individui, seu species et individuum non differunt realiter. II. Si essentía in se caret existentía, nec eam implicat, sequitur , quod sit in se indifferens. Sed verum prius; quia quod sub opposito alicuius esse et concipi potest, id istud non includit. Sed sine existentía .essentía esse ac concipi potest. E. Resp.essentía vel sumitur, ut est in intellectu, et pro concepta quidditativo ; sic non est existentía de
ratione essentiae; vel prout est in re. Sic nego, esse posse sine existentia. III. Essentiae propria unitas, nimiram formalis, seu specifica, est minor unitate numerali. E. Ista non competit ei per se, quum ipsi ejus oppositum per se competat Resp. neg. antecedens de unitate extra intellectum. Sunt haec argumenta pleraque Soncinatis L 7. Met q. 31. Qui et objicit de accidentíbus, quae solo numero differentia non possint esse in eodem subjecto simul, quod tarnen falsum; item de partibus continui divulsis. Verum nos accidentia et entia incompleta removemus a nostra tractatione.

10.
The arguments opposing this view are few and of little moment.

I.Whatever is a material constituent element of the individual is not a formal constituent element. But entity of an individual is a material constituent element.Therefore,[the entity of an individual is not a formal constituent element of it] .I respond by denying the major in that material element and the formal element of the individual, or species and individual, do not differ really.

II. If essence in itself lacks existence, neither does it imply it. It follows
that essence is indifferent in itself [ to existence]. But the first is true
in that what can be and can be conceived as opposite to something else does not include that something else. But essence can be and can be conceived without existence. Therefore, [ essence does not include existence]. I respond : essence is either taken as it is in the intellect and for the quiditative concept and on this view existence is not in the idea of essence;or it is taken according as it is in the thing and on this view I deny that it can be without existence.

III.The proper unity of essence,namely,the formal or specific unity, is less than numerical unity. Therefore,numerical unity is not per se appropriate to formal unity,since the opposite of formal unity agrees per se with numerical unity. I respond by denying the antecedent concerning unity outside the intellect.
These are the many arguments of Socinas(1.7.Meta.q.31).He also
objects, concerning accidents that are different only in number, that they
could not be in the same subject at the same time,Which is nevertheless false.He likewise objects concerning the separated parts of the continuum.But we have left accidents and incomplete beings out of the scope of the present undertaking.

11.
Secunda opinio est, quae negationes ponit principium individuationis. An vero quemquam habuerit,
qui defendent, valde dubito, nisi fortasse aliquem Noininalium obscuriorem. Tanto magis autem suspectum est, quod Bassoli u s refert quosdam, quiprincipium individui dixissent existentiam cum duplici ne- gatione, quod satis improbabile, nec ullam convenien- tiam habet. 'Praeterea alii, qui meminere, non ad- junxere existentiam. Bassolius quoque ipse, ac si duae sententiae essent, separatím existentiam et negationes refutat. Vix tamen potuit esse ex toto Nomi- nalis, qui hoc defendit; nam illi praesupponunt, universale magis esse ens, quam singulare. Quicquid autem sit de autore sententiae, ita concipi potest, ut a summo genere per differentias determinatо ad subalterna, inde infimam speciem descendas, ibi vero ulterius nequeas, et negatio ulterioris descensus sit intrinsecum formale individui. Et esset haec de individuo sententia, quemadmodum Occami de puncto, qui in Logic. praedic. quant. et tr. de euсha- rietia dixit, referente Pererio 1. 10. c. 5, superficiem esse nihil aliud, quam corpus cum ne gatione exten sionis in profund itate ulterioris, line am in altitudine, punctum in longitudine. Porro prior negatio divi- sionis, est quasi generalis individui, altera vero negatio identitatis cum alio, faciet hoc Individuum ab alio vere distinctum.

11.
The second opinion is that which posits negations as the principle of individuation. But I doubt strongly whether it has anyone to defend it,
except, perhaps, some obscure nominalist.But so much the more is it suspect in that Bassolis refers to some who had said that the principle of individuation was existence with a double negation, which is improbable enough and does not have any consistency. Moreover some,Who have treated of it , do not mention existence. Too, Bassolis himself, as if there were two opinions, refutes existence and negations separately. Nevertheless, there could hardly on the whole be a nominalist who defended this, for such a thinker would have to suppose that the universal is more being than the singular. But whatever the case concernlng lts author, the position can be conceived in the following manner. From the summum genus through differences detemined by the subaltern, one should descend to the infima species.But there you can not【descend】further and
the negation of further descent would be the formal, intrinsic【principle】of the individual. And this opinion concerning the individual would be similar to Occam's about the point who(in Logic, praed, quant. and tr. de Eucharusta)says, according to Pererius(1:10,C.5), that surface is nothing other than body with negation of extension in further depth, the line in further breadth, and the point in further length.The first negation
that of division, is, as it were,the【principle】of a general individual. But the other negation, that of identity with another, would make this
individual truly distinct from another.

12.
De hac sententia Mercenar. Dilucid. de principio ind. Part. 1. c. 2. et fuse de Bassolis 1. 2. Sent. d. 12. q. 4 artic. I. Fundamentum eorum est, quod persuasi fuere, nullum positivum posse statui.
Sed non videre, quod natura possit individuare se ipsam. Oppugnari possunt facile: Individuum aut extra jnteliectum a negationibus constituitur, aut in intellectu.
Si hoc eorum responsio, nihil facit ad rem; si illud:
quomodo ens positivum constituí potest a negativo?
Praeterea negatio non potest producere accidentia individualia; deinde: omnis negatio est alicuius positivi,
itlioqtmt erit solum verbotenus negatio. Sint igitur duo individua Socrates et Plato: principium Socratis erit negatio Platonis, et principium Platonis negatio Socratis, erit igitur qeutrubi aliquid positivum, et in quo possis, pedem sistere. Acuta alia argumenta apud Bassolium vide.

12.
Concerning this position, See Mercenadus(Dilucid. de Prin. Ind., Par 1, c.2)and at length Bassolis(1:2, d. 12, q. 4, art. 1). The foundation of these is that they【those inclined to maintain the position】were persuaded that nothing positive could be established. But they did not see that nature could individuate itself. This【position】can be easily opposed the individual is constituted by negations,either outside the mind or in the mind. If the latter, their answer has nothing to do with the issue in question【since an intrinsic principle is sought】. If the former, how can positive being be constituted by negative being?Moreover negation cannot produce individual accidents. Then too, every negation is of something positive; otherwise, there would only be verbal negation. Therefore, let there be two individuals−Socrates and Plato. Then the principle of Socrates will be the negation of Plato and the principle of Plato will be the negation of Socrates. In either case there will be something positive on which you can stand. See other acute arguments in Bassolis.   

13.
Tertia sententia est, existentiam esse principium individuationis. Hanc Pr. Murcia cuidam Carthusiano in 2. sent. d. 3., qui an sit Dionysius Rikelius (sane hunc in sententias scripsisse certum est), dicere non habeo; Fonseca Nicolao fioneto в.Met.c. 1. id defendenti tribuit, V. Met. c. 6. q. 2. §. 1.Dupliciter autem capi potest, partím ut existentía realis aliquis sit modus rem intrinsece individuans, ab ejus essentía a parte rei distmctus, quad si ita est,
defendí minime posest, ut mox patebit. Sin ab essentia solum ratione differret, nobiscum egregie coincidit et exprimit praeterea, quo respectu essentia sit principium individuationis. Atque ita intelligo Excell.
Scherzerum, Praeceptorem meum summo studio observandum. q. 42. Breviar. Metaph.
Eustachii de S. Paulo.

13.
The third position is that existence is the principle of individuation.
Murcia (in 2 sent., d. 3) attributes this to some Carthusian. I cannot say
whether this might be Diqnysius Yon Rickel - it is certainly the case that
he wrote on the sentences. Fonseca attributes it (in V Meta., c. 6, q. 2,
1) to Nicholas Bonetus.
But this [position] can be taken in two way's. In one way, existence might
be some real mode, intrinsically individuating the thing and distinct a
parte rei from its essence. If this is the case, it can by no means be
defended, as will become clear shortly. But, if [existence] differs only
I/mentally from essence, [this position] agrees uncommonly well with us.
Moreover, it expresses in what respect essence would be the principle
of individuation. And so I understand the excellent Schertzer, preceptor,
based on my careful reading of his q. 43, Breviarum Eustachii de S.
Paulo.

14.
Nobis igitur cum prioribus potissimum agendum est, quos refutat Scot. sent 2. d. 3. q. 3. et ejus
sectator Bass. ib. q. 4. art. 1. f. 179. Argumenter autem: I. si essentia et existentia sunt idem a parte rei,
sequitur, quod existentia sensu adversariorum non sit principium individuationis. Sed verum prius. E. et posterius. Minorem sic fundamentaliter probo : quaecumque realiter differant, possunt a se invicem separan.
Sed essentia et existentia non possunt separan. E.Quae ad majorem respondent Capreol. 1. d. 8. q.
1., et Cajetanus de ente et essentia, q. Ц. nullius sunt momenti. Minor probatur, partim quod essentia non possit auferri, partim existentia.

14.
Therefore, we shall deal especially with the first, whom Scotus (2 sent.,
d. 3, q. 3) and his follower, Bassolis, (Ibid., q. 4, art. 1, f. 179) refute.
Hence, I argue as follows. If essence and existence are the same a parte
rei, then it follows that existence - in the adversaries' sense - is not the
principle of individuation. But the first is true. Therefore, the second is
true. I prove the minor as follows. Whatever things really differ can, by
turns, be separated from each other. But essence and existence cannot
be separated. Therefore, etc. What Capreolus (I. d. 8, q. 1) and Cajetan
(de Ente et Essentia, q. ll) respond to the major is of no moment. The
minor is proved in that, on the one hand, essence, and, on the other hand,
existence could not be taken away [from each other].

15.
Illud probo: Oírme, quod aufertur, existit, praeciso eo, a quo aufertur; ablatio enim tamquam actio ad id, a quo aufertur, terminate. E. essentia existit,
praecisa existentia, quam implicat. Hoc, quod existen'
tia non possit auferri ab essentia, negant adversarii,
quorum longam seriein vide apud Petrum de Pomania Scotistam, 1. 1. sent. dis t. 36. q. unie. pag. 976.
Sed argumentor contra: esseatia, ablata existentia, aut
est ens reale aut nihil. Si nihil, . aut non fuit in
creaturis, quod absurdum, aut non distincta ab existentia fuit, quod.intendo. Sin ens reale fuit, aut pure postentiale, aut ens actu. Sine dubio illud; nam non
potest esse actu, nisi per existentiam, quam tamen separatam esse praesupponimus. Si igitur essentia est pure potentialis, omnes essentiae sunt nqateria prima.
Nam duo pure potentialia non differunt, ne relatione
ad actum quidem, quia haec relatio, quum ad ens in potentia sit, non est realis. Si igitur essentiae non differunt a materia, sequitur, quod sola materia
sit pars essentialis, et res non differant specie, v. g.
essentia bruti ab essentia hominis. Nam neutra
formant includit, quae est principium distinctionis specificae, et duo pure potentialia non differunt.
Et si dicas, differre per relationes ad Ideas: non est
relatio realis, esset enim accidens in DEO. De discrimine
essentiae et existentiae v. Posnaniensem 1. с.Soncin. 1. 4. Met. q. 12. et 1. 9. M. q. 3. Fonsec.
IV. Met. q. 4. Per. 1. 6. c. 14. Existentiam oppugnat Bassol. 1. c. Soncin. 7- Met. q. 32. Ramoned.in Thomam, de Ent. et. Essent. p. 399.

15.
I prove the first [that essence cannot be taken away from existence].
Everything which is taken away exists, once having been separated,
apart from that which is taken away; for a taking away, as an action,
terminates in that which is taken away. Therefore, essence exists apart
from existence, which is perplexing.
The opponents deny the second, that existence could not be taken away
from essence - a long list of them may-be found in Posnaniensis, the
Scotist (I sent., d. 36, q. 1, p. 976). But I argue against this. Essence,
once existence is taken away, is either a real thing or nothing. If nothing:
either it was not in creatures, which is absurd; or it was not distinct from
existence, which is what I maintain. If, on the other hand, [essence] is
a real being, it is either purely potential or actual being. Without doubt
[it must be] the former, for it cannot be actual except through existence
which, however, we have supposed to be separated. If, therefore, essence
is purely potential, all essences are prime matter. For two purely potential
things do not differ, not even by relation to act, because this relation,
since it would be to a being in potency, is not real. If, therefore, essences
are not different from matter, it follows that matter alone would be the
essential part and things do not differ by species, for example, the essence
of a brute and the essence of a man. For neither includes form, which
is the principle of specific distinction and two purely potential things do
not differ. And, if you say that they differ through relations to the Ideas,
there is no real relation, for then there would be an accident in God.
On the difference between essence and existence, see Posnaniensis (1oc.
cit.), Socinas (4 Met., q. 12 and 9 Met., q. 3), Fonseca (4 Met., q. 4),
and Pererius (I, 6, c. l4). Bassolis (loc. cit.), Socinas (7 Met., q. 32), and
Ramoneda (i-n Thomam de Ente et Essentia, p. 399) oppose existence.

16.
IV to et ultimo loco Scoti haecceitas offert se certamini, quam is attulit 2. sent. d. 3. q. 6. et teste Z ab are lia lib. de Constitutione individui, c. 8. Quodlibet. q. 2. art. 3. et Comment. in V. Met. t.12, ac discipuli pro juramento suo (ut meminit Mercenar. in respunsionc ad cujusdam Scotistae impugnationem suae sententiae) certatim defendenmt : in quibus satis vetustas est, et unde audacter ejus sensum rimeris, Joh. de Bassolis, ipsius Scoti auditor, Оccamo tamen fortasse prior, quia ejus contra Scotum placita nullibi refutat.

16.
In the fourth and last place Scotus'haecceity offers itself for battle. He presents his case in 2 sent.d .3, q.6 and, as Zabarella testifies【in his book】On the Constitution of Individual, chapter 8,in his Quodlibeta,q.2, art. 2, and also in his Commentary of Metaphysics V,t.12. And Scotus' disciples on account of their oath(as Mercenarius relates in response to the attack of some Scotist on his Sentences)defend him earnestly. Of these, there is a well−established one, from whom you will boldly find out his meaning, Johannes de Bassolis【Bassolius】,a student of Scotus himself,but possibly before Ockham,because Bassolis nowhere refutes
his [i.e.,Ockham's] views against Scotus.

17.
Notura autem est, Sc o tum fuisse Realium extremum, quia universalia veram extra mentem realitatem habere statftit, quum Thomas formale eorum proficisci ab intellectu vellet. Ne tamen in sententiam, vergeret tributam ab Aristotele Platoni, distinctionem formalem commentus est palliando errori, quae esset quidem ante operationem intellectus, diceret tarnen , respectum ad eum. Нас credidit genus distinguí a differentia, et consequenter differentiam numericatn a specie: quoniam enim universalia realia esse praesupposuerat, vel contradicendi studio, vel quod Thomae sententiam inexplicabilem putaret, Nominalium incredibilem : necesse fuit, singularia ex universali et, aliquo superaddito oriri; ut autem est proportio inter genus et speciem, ita inter speciem et individuum, quare ut illic differentia specifica est,ita hic individuificam esse concludebat.

17.
Now,it is known that Scotus was an extreme realist,because he held that universals have true reality outside the mind, while Thomas would prefer their formal character to originate in the mind. But, so that he would not adopt the view attributed by Aristotle to Plato, he contrived the“formal distinction”to hide his error.Indeed, this distinction is supposed to obtain before the operation of the intellect and yet he says that it holds with respect to the intellect.Under this rebric he believed genus to be distlnguished from difference, and consequently, numerical difference fromo species: for, because he supposed universals to be something real(either out of zeal for argument or that he thought that Thomas' opinion was inexplicable or that of the nominalists incredible),it was necessary that singulars originate from a universal with something added. But, just as there is a proportion between genus and species,so too【there is a proportion】between species and individual. Therefore,just as there is a specific diffrence in the first case,so too,be concluded,there is an individual difference in the second case.

18.
Hanc, eludendae Aristotelis autoritati, appellabat materiam totius. Nam, inquiebat, est forma totius, v.g.humanitas, tanquam abstractum hominis, cui opponitur materia totius, nempe haecceitas, et forma partis, ánima rationalis, cui corpus, ut materia partis, opponitur. Sed id nihil eçt; natn haecceitas, si est materia totius, debet cum humanitate concretum constituere hominem. At ilia constituit hunc hominem, deberet igitur alia vera materia totius dari,quae hominem in universo constitueret. Taceo quod illa haecceitas esset potius forma, contrahit enim et distinguit; praeterea, si, ut yolunt plerique vetustiorum, v. Per e r. 1. 6. c. 6., quidditas rei secundam Aristotelem sola forma continetur, ut materia sit solum vehiculunt, forma totius et partis apud Aristotelem sunt idem; v. Mercen 1. c. c. 5. et per Apo- logiam totam, ac Za b. 1. c. c. 8 et 10.

18.
Making sport of the authonty of Aristotle,he called this individual difference "matter of the whole." For, he would say,there is a form of the whole, e.g. , humanity as abstracted from man,to which is opposed the matter of the whole,namely,haeccelty. And there is a form of the part, i. e. , rational soul, to which body, as matter of the part, is opposed. But this is nothing, for haecceity, if it is the matter of the whole, ought to constitute with humanity something concrete, man. But this[composite ]constitutes this man. Thus, some other true matter of the whole ought to be provided, which would constitute man in the universal.I do not mention that this haecceity would be more【like】form,for it contracts and distinguishes. Besides, if, as many of the more well-established【Scotists】would have it ーSee Peredus 1.6, c. 6・6ーthe quiddity of a thing according to Aristotle consists of the form alone, Such that matter would be only a vessel, then form of the whole and form of the part−according to Aristotle−are the same. See Mercenadus 1. c. , c. 5 and throughout Apology,as well as Zabarella, 1,c., c 8 and 10.

19.
Existentiam Scotus non admisit, quamvis eam formaliter distinguat ab essentia; nam apud eum species, praecisa haecceitate, existit. Defendit S cо tum ex recentioribus Petrus Föns e c a, quamvis a Murcia pro nostra sententia citetur, v. Met. c. 6. q. 5 et Eustachius a St. Paulo 1. c. Vice versa, quod mireris, sunt qui Suaresiunt ad Scotum trahant, quod asserat, D is p. Met. 5., sect. Ц. N. 16, indi- viduum addere aliquid supra communem naturam, ra-, tione distinctum. At ultima verba nubem hanc facile disjiciunt. Plerique enim concedunt, quod per opera- tionem mentis detur differentia individualis : an igitur -Fr. Oviedo et similes propterea Scotistae erunt? Primum autem Scoti fundamenta ponam et solvam, inde adductis machinis oppugnabo.

19.
Scotus did not admit existence, although he distinguishes it formally
from essence, for according to him species exists apart from haecceity.
More recently, Petrus Fonseca dtfends Scotus, although Murcia is cited
forouropinion. (See V Met. c. 6 q. 5 and Eustachius a S. Paulo 1.c.) Onthe
other hand, which might cause one to wonder, there are those who reduce
Suarez to Scotus, because of what he [Suarez] says in Disputationes Metaphysicae 5, s. II, n. 16. There he says that the individual adds something beyond common nature, which something is distinguished in reason. But these last words easily dispel the cloud. For many conclude that individual difference is provided by an operation of the mind. Are,
therefore, Fr. Oviedo and others of like persuasion, as a result, Scotists?
But I will Brst set out the basic principles of Scotus' view and refute
them. Then, I will attack them in more detailed arguments.

20.
Primum pro Scoto argumentum ab ipso allatum, re- censente Pererio 1. 6. c. 10., est: omnis unitas aliquam éntitatem sequitur. E. et numerica; illa autem entitas non est id, quod in specie includitur. E. aliquid ei superaddi tum, nempe differentia individualis. "Resp. unitas entitatem sequitur in conceptu, in re idem est. Neo entitas numerica differt a spedfica realiter. II. Species non per formam vel materiem vel accidentia etc. contrahitur. E. relinquitur haecceitas. Resp. per nihil contrahitur, quia extra mentem nulla est. III. Quae differunt, per aliqua primo diversa differunt. E. Socrates et Plato per ultimum differunt, nempe haecceitatem.
Resp. Qua6 differunt, limito: nisi sint ipsa primo diversa,et se ipsis differant, per aliqua etc. Sic nego Minorem.

20.
The first argument on Scotus' behalf, which he himself proposed, and
as it is given in Pererius (1. 6, c; lO), is as follows. Every unity follows
upon some entity. Therefore, numerical [unity follows upon numerical
entity]. But that entity is not that which is included in species. Therefore,
there is something super-added to species, namely individual difference.
I reply that unity follows entity in concept., it is the same in the thing.
Neither does numerical entity differ really from specific [entity].

II. Species is not contacted either through form or through matter, or
through accidents, etc. Therefore , there remains haecceity . I answer that it is contracted through nothing, because there is no [spacies] outside the mind.
III. Those things that differ do so through something already diverse.
Thus Socrates and Plato [differ] through some ultimate difference, namely
haecceity. I answer: "Those thing that differ... " must be qualified,
bylbdding: "unless they are themselves already diverse and differ from
themselves through something [already diverse]," etc. Hence, I deny the
minor.

21.
IV. Species per differentiam specificam contrahit genus.E. individuum per differentiam numericam speciem.
Resp. nego antecedens extra mentem. v. Fonseca 1. c.
Individua sub aliqua natura univoca sunt. E. quaedam
primo diversa includunt. Resp. ut prius. VI. item: per differentiam
individuum spëciem excedit. E. est talis differentia.
Re.sp. ut prius. VII. Bassolus: natura specifica
habet ex se unitatem minorera numerali, et aliant ab ea
realiter. E. Resp. Nego antecedens. De probatione infra.
Argumento HI. praecipue torsit Suessanus, Dilucid. 1. 5., Zimaram et Mercenarium, apud quem
vide 1. c. c. 5. Nullus tamen in hanc mentem respondit, quia aliis fundamentis nitebantur.

21.
IV. Species contracts genus through specific difference. Therefore, the
individual [contracts] species through numerical difference. I answer by
denying the antecedent as true outside the mind.
V. From Fonseca (1.c.): Individuals under some nature are univocal.
Therefore, they include something already diverse. I answer las before.

vI. Similarly: The individual exceeds the species through difference.
Therefore, there is such a difference. I respond as before.
VII. From Bassolis: Specific nature of itself has less than numerical
unity, and really has a unity other than numerical unity. Therefore, [there
is a nume,ical unity]. I respond by denying the antecedent. The proof
will be given later.
The third argument especially troubled Suessanus (Dilucidation, book
v), zimara, and Mercenarius (see 1.c., chapter 5). But no one has
answered this view, because they depended on other foundations.

22.
Argumenter contra Scotum. I. Si genus et differentia tantum ratione distinguuntur, non datur differentia individualis. Sed verum prius: E. Major patet; nam etiam species et differentia numerica solum ratiöne distinguetur. Minor probatur : 1. Quae ante operationen! mentis differunt, separabilia bilia sunt. Sed genus et differentiae non possunt
separari. Quamvis enim sint loca quaedam Scoti,
quibus asserat, posse fortasse Deum facere, ut universalia sint extra singularia, et similiter genus extra specient, tamen id absurdum probo, quia nulla daretur divisio
adaequata: daretur animal nee rationale, nec irrationale.
Et daretur motio neque recta, neque obliqua. 2. Differentiae superiores praedicantur de inferioribus. v. g. haec rationalitas est rationalitas. E. differentia specifica includit in se differentiam generis. E. a genere non differt. Nam genus ad differentiam suam additam habet differentiam generis sui, quae et ipsa includitur a sua. Et ita ad usque summum. Et quia aliquando sistendum est, dixit Aristoteles: Ens praedicari de differentiis. Vide quaedam apud Soncin. I. 7 q. 36 et 37.

22.
I argue against Scotus.
I. lf genus and difference are distinguished only mentally, there is no
individuamifference. But the first is true. Therefore, etc. The major is
plain, for species and numerical difference will also be distinguished
only mentally. The minor is proved [in the following two arguments].
1. Those things that differ before the operation of the mind are separable. But genus and differences cannot be separated. For, although there
might be some place in Scotus in which he asserts that God, perhaps,
can bring it about that universals might exist outside of singulars and
likewise genus [exist] outside of species, nevertheless I prove this to
be absurd, because, if there is no adequate division [of genus], the,e
would be an anlmal neither rational nor irrational. And there would be
motion neither straight nor oblique. 2. Superior differences are predicated of inferiors, e.g., "this rationality is rationality." Therefore, specific
difference includes in itself the difference of genus. Therefore, it does
not differ from genus. For, genus with its own added difference has the
difference of its genus [e.g., animal has the dilrerence, animate, from the
superior genus, animate substance], which difference is included in it
[ just as the species, say, man, includes the difference of its genus, rational]. And so continuously to the summum genus. And, because there
must somewhere be a stop, Aristotle said that being is predicated of
differences. See what Socinas says (in 1. 7, q. 36 and 37).

23.
II. Si non sunt universalia ante nrentis operationem, non datur compositio ante mentis operationen!, ex universal! et individuante. Non est enim realis compositio,cujus non omnia membra sint realia. Sed verum. prius, E. Minor probatur: omne quod ante mentis operationem realiter ab altero ita differt, ut neutrum sit pars alterius vel ex toto, vel ex parte, potest ab altero separari. Nam in adaequate differentibus neutrum altero ad suum esse indiget. E. potest separari per potentiam Dei absolutem, \et solum pars a toto ita, ut id permaneat, est simpliciter inseparabilis. Minor prosyllogismus probatur : daretur enim linea realiter neque recta, neque curva, quod absurdissimum.
v. Ruv. log. de univers. q. 4.

23.
II. If there are no universals before the operation of the mind, there is no
composition from the universal and the individuating [cause or principle]
before the operation of the mind. For there is no real composition, not
all of whose members are real. But the first is true. Therefore, etc. The
minor is proved as follows. Everything that before the ope,ration of the
mind really differs from another, such that neither is part of the other
either wholly or partly, can be separated from the other. For in those
things adequately different neither stands in need of the other for its
own esse. Therefore, it can be separated through the absolute power of
God and only a part is separable simpliciter from the whole such that
it remains. The minor of the pro-syllogism is proved, for there would
really be a line neither straight nor curved, which is absurd. See Ruvius
(Logic. de Univ., q. 4).

24.
III. Si non datur distinctio formalis, ruit haecceitas. Sed veruni prius. E. Antequam probemus, de hac distinctione aliqua disserenda sunt. Videri autem possunt Stahl. Сотр. Metaph. c. 23.Soncin. 1. 7. -q. 35. Posnaniensis 1. sent. d. 34.dubio 64. Tribuitur communiter Scoto, ut media inter realem et rationis, unde ejus sectatores.dicti Formalistae. Наc putat distingo! attributa in Divinis, et relationes personales ab essentia, quidditates rerum inter se et a Deo, in esse cognito, praedicata superiora ab inferioribus , genus a difl'erentia, essentiam ab existentia: explicat earn Rhada, quod sit inter duas realitates seu formalitates, ih subjecto identificatas, diversas vero in ordine ad intellectum; differre a rationis distinctione, quod haec requirat ante
se operationem mentis in actu. Sed mire perplexi sunt et inconstantes, ubi haec in actu exercito applicanda sunt. Nam si haecceitas a specie solum differr,
quod apta est distincte movere intellectum, quam male ad principium individui affertur, quod praeciso intellectu quaeri debet? Quare necesse est, majus quiddam sub eorum verbis latere; Sed id absurdum est, quodcumque sit, simulatque enim, praeciso intellectu, differunt, non sunt sibi identificata.

24.
III. If there is no formal distinction, haecceity falls. But the first is
true. Therefore, etc. Before we provide the proof, some things must be
discussed concerning this distinction. Moreover, Stahlius (Comp. Met.
c. 23), Socinas (1. 7, q. 35), and Posnamiensis (1 sent., d. 34, dubio 64)
can be seen.
This distinction is commonly attributed to Scotus as a middle between
the real [distinction] and [that] of reason, whence his adherents are
called "Formalists." By this he takes to be distinguished the attributes of
God and the personal relations from his essence; the quiddities of things
among themselves, as these are known, from God; superior predicamenta
from inferior predicamenta; genus from difference; and essence from
existence. Rhada explains this [distinction] as that which obtains between
two realities or formalities identical in a subject but diverse in their order
to the intellect and differs from a distinction of reason in that such a
distinction requires before itself the actual operation of the mind. But
[Scotists] are exceedingly ambiguous and inconsistent as to when these
distinctions are to be applied in actual practice. For, if haecceity differs
from species only in that it is apt to move the intellect distinctly, how
poorly is it brought forward as the principle of individuation, which [principle] ought to be sought apart from the intellect? Whence, it must
be the case that something more is hidden under their words. But, it is
absurd, whatever it might be, for as soon as they [the alleged formalities]
differ outside the intellect, they are not identiated with each other.

25.
Posnaniensis illas formalitates interpretatuv:
çonceptus objectivos, et rationes intèlligibiles, seu
rem cum relatione ad conceptus in mente formales.
Sed id nihil est, nam cönceptus potins formalis fundetur in objectivо , si igitur etiam objectivus in formali daretur circulas, аc dum utrumque, fundaretur neutrum, et eyaneseret utrumque. Deinde ratio ilia intelligibilatitis esset vel ad conceptum divinum sive Ideas, sed hic illa relatío non esset realis; non enim cadit in DEUM accidens. E. Nihil superesset
distinctíoni a parte reí; vel ad verbum mentis, ut тоcant creatum. Sed si otnnis intellectus creatus tolleretur, ilia relatio periret, et tamen re,s individuarentur, E. tunc se ipsis. Addo, quod relatio ilia, si esset realis, haberet suam haecceitatem, esset enim singularis, et ita in infinitum. Praeterea est ad ens in potentia seu conceptum formalem, qui esse potest, et
si dicas, illam relationem formaliter differre a termino,quaero similiter de relatione lut jus relationis in infinitum. Nam et ipsa relatione ad intellectum indigeret.

25.
Posnaniensis understands these formalities as objective concepts and
intelligible notes, or as a thing with a relation to formal concepts in the
mind. But this is nothing, for the formal concept is founded properly
in the objective concept. If, therefore, the objective concept [is also
founded] in the formal, there will be a circle and, while each [does
the founding], neither is founded and each would vanish. Hence, that
relation of intelligibility would be either to the concept in God, namely
Ideas tin God's intellect]. But then that relation would not be real, for an
accident does not occur in God. Therefbre, nothing could still exist for
the distinction a parte rei [i.e., the distinction would lack a real founda-
tion]. Or that relation would be to the word of the mind, or a creature
of mind, as some say. But, if every created intellect is taken away, than
that relation would perish. Nevertheless, things would be individuated.
Therefore, [they would be individuated] by themselves. Add that this
relation, if it were real, would have its own haecceity - for it would be singular - and so on to infinity. Moreover, the relation is to a being in potency, or the formal concept, which can exist. And, if you say that this relation differs formally from its term, I ask in the above manner,
conceming the relation of this relation and so on to infinity. For this
relation itself requires a relation to the intellect.

26.
IV. Inexplicabile est, quo modo accidentia individuah'a ab haecceitate oriantur; ex nostra autem facile explicari potest, quia dantur dispositiones materiae ad formam, nullae veré speciei ad haecceitatem. Vid.Hervaeum, quodlib. 3. q.9.contra Scotum, apud Perer. 1. c., et Scaliger Exerc. 307 ad Cardan.
N. 17. Atque ita, Divina ope adjuti, sentenüas generales absolvimos.

26.
IV. It is inexplicable how individual accidents originate from
haecceity, for on our own view this can easily be explained, because there are
dispositions of matter to form, but no [disposition] of species to haecceity. See Hervaeus (Quod, 3, q. 9, contra Scotus) in Perenus,(1.c.) and Scaliger (Exer. 307 ad Cardan., n. 17).

COROLLARIA.

I. Materia habet de se actum entitativuna.
II. Non omnino improbabile est, materiam et quantitatem esse realiter idem.
III. Essentiaë rerum sunt sicut numeri.
IV. Essentiaë rerum non sunt aeternae, nisi ut sunt in Deo.
V. Possibilis est penetratio dimensionum.
VI. Hominis solum una est anima, quae vegetativam et sensitivam virtualiter includat.
VII. Epístolas tyranno Phalaridi adscriptas supposititias crediderim. Nam Siculi Dores e rant, hic
genus dicendi Atticum. Adde quod Atticismus
illo tempore durior, ut Thucydidis, sed hae sapiunt aetatem Luciani. Certe ubi combustionem
Perilli dependit *), declamatorem se prodit autor.
---------------
*)Legendum fortasse: depingit.

COROLLARIES

I. A matter of course, act entities [that is to say an existing reality].
II. It is not at all implausible that matter and quantity are actually the same thing.
III. The essences of things are like numbers.
IV. The essences of things are not eternal, or as in God.
V. It is possible that the dimensions can be penetrated.
VI. The soul of man is that it has virtually vegetative soul and sensitive soul.
VII. I [will] believe that the letters attributed of the tyrant Phalaris are interpolated.
Because the Siciliens were home of dorienne, while those letters were composed by Attic dialect. This dialect at the time of Phalaris, was also tougher, as [the show's writings] Thucydides, while these letters feel like the time Lucien. The author describes or the burning of Perillus, it betrays a coup on as a declamation.

注:
COROLLARIA以下、特にVIIについてはいくつかの議論がある(調査中)。
Phalarisについては以下のサイト(英語)及び書籍参照。
http://www.nndb.com/people/837/000097546/

http://books.google.co.jp/books?id=lxtSYBtShVsC&output=html(p.84)
http://books.google.co.jp/books?id=2vTmU6MtxcQC(p.158)


追記:
バッハが生まれる20年ほど前、ライプニッツ(1646-1716)はライプツィヒ、ローゼンタールの森で思索したという。

「私は自分が15才で、ライプツィヒのローゼンタールの森を独りで散歩していた時のことを思い出す。その時私は(スコラ哲学者たちの)実体的形相を固守し続けるべきかどうか思索していたのである。その結果、機械論が勝利を収め、私は数学研究に向かうことになった。」ニコラ=フランソワ・レモン宛書簡より
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/cat_50026615.html
http://homepage3.nifty.com/hiraosemi/li.htm

参考:岩波文庫『形而上学叙説』p10-11、シュプリンガー『ライプニッツ』p189 、『ライプニッツの普遍計画』p35                                                        

参考画像:
↓『哲学の歴史5』(中公新社、p523)より



Johann David Schubert ,1795


資料:

"Leibniz behauptet, daß nicht zwey
Blätter einander völlig ähnlich seyn."
Stich nach Schubert, 1796
http://www.lehrer.uni-karlsruhe.de/~za146/barock/leibniz1.htm

「識別できない二つの個物はありません。 私の友人に才気煥発な一人の貴族がいて、ヘレンハウゼン(Herrenhausen)の庭の中、選帝侯婦人の御前で私と話をしていたときのことでありますが、そのとき彼は全く同じ二つの葉を見つけられると思っていました。 選帝侯婦人はそんなことは出来ないとおっしゃいました。 そこで彼は長い間駆けずり回って探したのですが無駄でした。 顕微鏡で見られれば二つの水滴とか乳滴も識別され得るでしょう。」
(1716年6月2日クラーク宛第4書簡)

「互いに完全に似ている二つの卵、完全に似ている二つの葉とか草は庭の中には見いだされない。従って、完全な類似性は非充足的な抽象的な概念においてしか生じないが、その場合事物は、あらゆる仕方においてではなく、ある一定の考察様式に従って考察されているのである。」
「第一真理」(生前未発表)
http://nam-students.blogspot.com/2009/01/primae-veritaes.html#%E5%A4%A9%E4%BD%BF


【不可識別者同一の原理 principium identitatis indiscerniblium,principle of the identity of indiscernibles 】
 (『モナドロジー』9など)
 [自然においては、2つの存在がたがいにまったく同一で、そこに内的規定に基づく違いが発見できないなどということはなく、それゆえ、たがいに識別できない2つのものは、実は、同一の1つののものである]とされる。
http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/philosophy/kinsei/kinsei02g.html

http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/cat_50026615.html


Leibniz mit Herzogin Sophie, Karl August von Alvensleben und zwei Hofdamen im Herrenhäuser Garten. Illustration aus einer 1795 erschienenen Leibniz-Biographie von Johann August Eberhard

# Leibniz-Biographien. (Enth.: Gottfried Wilhelm Freyherr von Leibnitz / Johann August Eberhard. - Lebensbeschreibung des Freyherrn von Leibnitz / Johann Georg von Eckhart). Hildesheim ; Zürich ; New York: Olms 1982. ISBN 3-487-07239-4

http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Leibniz_und_Alvensleben.jpg&filetimestamp=20070325202518

http://de.wikipedia.org/wiki/Karl_August_I._von_Alvensleben

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/23/Leibniz_und_Alvensleben.jpg