土曜日, 11月 29, 2014

『共同幻想論』:再考

参考:
NAMs出版プロジェクト: 親鸞:二双四重の教判 
http://nam-students.blogspot.jp/2016/12/blog-post_22.html

吉本 隆明(よしもと たかあき、1924年大正13年)11月25日 -2012年平成24年)3月16日

柄谷行人の交換図を参照し、吉本隆明の言説を文字通り単純に当てはめると、
    
共同幻想|対幻想(家族)
  平等|  博愛
____|____平等
個人幻想|  X
  自由|
    自由

となり、各幻想の下にそれぞれの理念が対応する。
柄谷のいうアソシエーションが足りないのだ。
国家は平等を建前にするから柄谷の見たてと逆になる。
吉本は左下に自由を見るが、アソシエーションと区別がつかない。
ハイエクと同じで、資本主義と市場経済の違いがわからないからだ。
対幻想にアソシエーションの可能性*もあったがこれを吉本は家族に回収した。
ヘーゲルではなくカントに依拠するべきだった。


デュルケム『宗教生活の原初形態』岩波上298頁では、

集合的トーテミズムと個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる。

フレーザー経由のこの概念が対幻想として吉本へ受け継がれたのだろう。


集合的トーテムは世襲
個人的トーテムは個人獲得

性的トーテムは両方

つまり

   集合的
個人的 X

本来なら両方の特質をプラスに捉え、アソシエーション=Xを性的トーテムとして考えることもできた。


    共同幻想
個人幻想 対幻想


と柄谷の見たて通りに図示することも可能だったのだ。
(この場合、共同幻想を官僚制とネーションとに分析化する必要がある。しかし吉本の「スターリン主義」といったレッテル貼りがその思考を阻害した。なお花田清輝との論争は単純再生産について理解を深める好機だったが、逸した。)

改訂版:
               /非知へ
              /親鸞\関係の絶対性
             共同幻想 \マルクス
           アフリカ\/アジア
       ヘーゲル/\共同幻想論 /\古事記
          /__\    /__\   
         /個人幻想\  /\対幻想\
        /自然\/__遠野物語\/__\
       /\              /\
      /__\   吉本隆明体系   /__\
     /\ 詩/\          /マスイメージ
    /__\/__\        /__\/__\
   /\言語にとって/\      /\心的現象論 /\
  /__美とはなにか__\    /__\    /__ライプニッツ
 /自己表出\  /指示表出\『胎児の世界』\現代 /ハイイメージ
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
芸術言語論        

 
3分割法は主体性はあるが神秘主義になる
4は主体性は劣るが神秘主義は回避できる
吉本は3
最近の柄谷は4
ラカンのように両者を横断することが神秘主義を回避しつつ
主体性を持つために必要になる

論理学の代わりに詩がある。
心的現象論は自然哲学と解釈する。
親鸞を共同幻想論の結論部に恣意的に置いた。


《「親鸞」という法号のようなものは、自分でつけたのですが、親鸞の「親」はインドの世親(天親)からとっています。世親は釈迦のあと最も偉大なインドの宗教家で、『浄土論』を書いた人です。つまり浄土門の創始者です。  一方「鸞」の字は中国の曇鸞からとっています。この人は『浄土論』を解説、解釈した『浄土論註』を書いた人です。この二人から一字ずつ取っているのです。ということは、インドの世親から中国の曇鸞を通って、日本の親鸞にきてこれで終わり、ということを意味しています。親鸞は謙虚な人ですから、そうは言っていませんが、密かにそうした自負を抱いていたのだろうと思います。
 親鸞の主著である『教行信証』を読むと、それがインドと中国のあらゆる浄土系のいいところというか、エッセンスを全部収録して集めてあります。そして、それに対して自分の考え方を述べています。ですから自分が浄土宗の最後の人だという自覚があったのだと思います。  念仏だけでいいという価値観をウソだという人はたくさんいるでしょう。他の宗派のお坊さんもそう言うでしょう。しかし、親鸞の考え方からいえば、とにかく自分は価値観としては最終的なところまで到達したという自負があったのだと思います。》(吉本隆明『今に生きる親鸞』)

親鸞は2or4(二双四重)

NAMs出版プロジェクト: 親鸞:二双四重の教判 

http://nam-students.blogspot.jp/2016/12/blog-post_22.html


               /非知へ
              /関係の絶対性
             /\親鸞/\  
       『胎児の世界』_\/__\
           /\心的現象論 /\
      ライプニッツ_\    /__\   
        ハイイメージ\現代 /マスイメージ
        /__\/__\/__\/__\
       /\              /マルクス
      /__\   吉本隆明体系   /__\ 
     /\ 詩/\          /共同幻想\
    /__\/__\       アフリカ\/アジア
   /\言語にとって/\  ヘーゲル/\共同幻想論 /\古事記
  /__美とはなにか__\    /__\    /__\
 /自己表出\  /指示表出\  /個人幻想\  /\対幻想\
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
芸術言語論          自然     遠野物語
3分割法は主体性はあるが神秘主義になる
4は主体性は劣るが神秘主義は回避できる
吉本は3
最近の柄谷は4
ラカンのように両者を横断することが神秘主義を回避しつつ
主体性を持つために必要になる

参考:
[120325][NHK-E]ETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~」—优酷网

・ぼくは『言語にとって美とはなにか』の言語概念をどこからつくったかといいますと、やはりマルクスの『資本論』からつくりました。ぼくは、「価値形態」としての「商品」の動き方は、言語の動き方と同じなんだと、考えたのです。そして、ぼくはどこを取ってきたかというと、「使用価値」という概念が、言語における指示性―――ものを指す作用、それから「交換価値」という概念が、「貨幣」と同じで、万人の意識あるいは内面のなかに共通にある働きかけの表現に該当するだろうなと考えたんです。ぼくはそこから、言語における「指示表出」と「自己表出」という概念を、「
言語の本質とは一本の樹に例えると、幹と根は「沈黙」であり、枝や葉そして実とは「コミュニケーションのための言葉」であると。ぼくの言葉で言えば、と吉本さんは続ける。「沈黙」は〈自己表出〉であり、コミュニケーションに用いられる言葉は〈指示表出〉である。そして言葉の本体とはそのふたつが縦糸と横糸として織り合わさったものであると。そしてより重要なのは「沈黙」の方であり、話された言葉はオマケでしかない。

 つまりここで吉本さんは言葉の本質を、一般に言われているような、コミュニケーションの手段とすることを否定したのである。
[120325][NHK-E]ETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~」—优酷网
小説についてのお話もありました。
コミュニケーションは「指示表出」。
俳句は五・七・五の限られた文字の中に自己表出があって、
小説は、筋として「指示表出」があって、
そこに価値が生まれ、間接的に「自己表出」がされている。
純文学が「自己表出」で、大衆文学が「指示表出」ということのようです。
作家は、読者に読み方を強要することはできない。
そうなると、偶然と偶然がぶつかったとき、
例えば、作品に書かれていたことと、
同じことを読者が考えていたときというような、


そういうときにしか、価値が生まれない。
《(吉本が)「自由、平等、無価値」と言ったのも印象的だった。「芸術言語論」のことを、「自由、平等」と切り出したので、何が続くのかと思いきや、「無価値」ときた。芸術の価値を云々する「芸術言語論」を「無価値」と言うのは、それは吉本さんの自己抑制で、「芸術言語論」といっても何かを強制するものではないし、その世界に入るも入らないも任意であることを指しているのだと思う。作者の真意が分かる分からないが偶然の出会いに左右されるように…》

/////////

非知は無価値を出発点に表出し、他者と出会う。表出は2種に分かれ、縦糸と横糸をなし、それぞれ指示表出は使用価値、自己表出は交換価値に対応する。マルクス的には指示表出は交換価値であるべきだが、吉本の表出論は観念的であり唯物論に対して逆説的なのである。


 ↑ 
  | 感動詞 助詞          <言語>
  |      助動詞
 自|         副詞
 己|          形容詞
 表|    
 出|           動詞
 性|  
  |            代名詞
  |
  |            名詞
  |______________  
      指示表出性→

言語にとって美とはなにか1 角川ソフィア文庫70頁、
永遠の吉本隆明 72頁より
自己は自由、指示は平等に対応する。原点に無価値がある。
吉本の観念論にとって他者とはドゥルーズや柄谷行人のような唯物論であるはずだが、微妙にすれ違う。

繰り返しになるが:
柄谷行人の交換図を参照し、吉本隆明の言説を文字通り単純に当てはめると、
    
共同幻想|対幻想(家族)
  平等|  博愛
____|____平等
個人幻想|  X
  自由|
    自由

となり、各幻想の下にそれぞれの理念が対応する。
柄谷のいうアソシエーションが足りないのだ。
国家は平等を建前にするから柄谷の見たてと逆になる。
吉本は左下に自由を見るが、アソシエーションと区別がつかない。
ハイエクと同じで、資本主義と市場経済の違いがわからないからだ。
対幻想にアソシエーションの可能性*もあったがこれを吉本は家族に回収した。
ヘーゲルではなくカントに依拠するべきだった。


デュルケム『宗教生活の原初形態』岩波上298頁では、

集合的トーテミズムと個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる。

フレーザー経由のこの概念が対幻想として吉本へ受け継がれたのだろう。


集合的トーテムは世襲
個人的トーテムは個人獲得

性的トーテムは両方

つまり

   集合的
個人的 X

本来なら両方の特質をプラスに捉え、アソシエーション=Xを性的トーテムとして考えることもできた。


    共同幻想
個人幻想 対幻想


と柄谷の見たて通りに図示することも可能だったのだ。
ただし、品詞分類の図が(上下逆になるなら)修辞学として柄谷行人のいうアソシエーションに対応すると考えられなくもない。

////////

http://matome.naver.jp/odai/2133274922984355801
《(吉本が)「自由、平等、無価値」と言ったのも印象的だった。
「芸術言語論」のことを、「自由、平等」と切り出したので、何が
続くのかと思いきや、「無価値」ときた。芸術の価値を云々する
「芸術言語論」を「無価値」と言うのは、それは吉本さんの自己抑制で、
「芸術言語論」といっても何かを強制するものではないし、その世界に
入るも入らないも任意であることを指しているのだと思う。作者の
真意が分かる分からないが偶然の出会いに左右されるように…》
参考:吉本隆明「自由・平等・無価値」(『芸術言語論』「06表現とは何か」より)
http://youtu.be/jei-xlmEa_w


自由と平等は、資本と国家に対応し、博愛の切り捨ては新自由主義についての
現状認識として正しい。ただここから柄谷行人ならアソシエーションの位置を探るが、
吉本は市場経済に全てを委ねてしまう。
_
「「自由・平等・友愛」の理念は、資本制=ネーション=ステートに転化した…。」
(柄谷行人『定本トランスクリティーク』429頁)

「新自由主義では、資本=国家によって、ネーションが犠牲になります。」
(柄谷行人「社会運動」2014.9,119頁)
柄谷行人の交換図を参照し、吉本隆明の言説を文字通り単純に当てはめると、
    
共同幻想|対幻想(家族)
  平等|  博愛
____|____平等
個人幻想|  X
  自由|
    自由

となり、各幻想の下にそれぞれの理念が対応する。
柄谷のいうアソシエーションが足りないのだ。
_
ただし、自由と平等は吉本にとって、イデオロギーではなく活用し得る重要な概念だ。
例えば以下の図で、自己は自由(文学,芸術)、指示は平等(経済学)に対応し得る。

 ↑ 
  | 感動詞 助詞          <言語>
  |      助動詞
 自|         副詞
 己|          形容詞
 表|    
 出|           動詞
 性|  
  |            代名詞
  |
  |            名詞
  |______________  
      指示表出性→

(参照:『言語にとって美とはなにか1』 角川ソフィア文庫70頁、
「永遠の吉本隆明』72頁)
吉本は自由を重視するが、これは観念論の擁護であるとともに、市場経済の擁護だ。
(市場経済が資本主義と区別されないところが、ハイエクや吉本の欠点だ。)


http://matome.naver.jp/odai/2133274922984355801
《(吉本隆明にとって)言語の本質とは一本の樹に例えると、幹と根は「沈黙」であり、枝や葉そして実とは
「コミュニケーションのための言葉」であると。ぼくの言葉で言えば、と吉本さんは続
ける。「沈黙」は〈自己表出〉であり、コミュニケーションに用いられる言葉は〈指示
表出〉である。そして言葉の本体とはそのふたつが縦糸と横糸として織り合わさったもの
であると。そしてより重要なのは「沈黙」の方であり、話された言葉はオマケでしかない。
 つまりここで吉本さんは言葉の本質を、一般に言われているような、コミュニケーシ
ョンの手段とすることを否定したのである。》
(出典吉本隆明「芸術言語論 −沈黙から芸術まで−」: パラレル・パラソル)






       有節音声        対
          _______→ 象
        ↗︎↑\       |像
       / | \      |
      /  |自 \     |
     /   |己  \    |
    /    |表   \   |
   /     |出    \  |
  / 指示表出 |      \ |現
○/_______|       ↘︎|実
意                  対
識                  象

『言語にとって美とはなにか』(1965)

鴎外半日
漱石三四郎、先生の夢

言語
コミュニケーションと非コミュ、精神構造、事態の本質
芸術+言語

横光利一再評価、自己と指示、唯一の総合を試みた作家

太宰治、反語的に芸術の価値、考えたことがない

[120325][NHK-E]ETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~」—在线播放—优酷网,视频高清在线观看
http://v.youku.com/v_show/id_XMzczMTQyMTE2.html?x



デュルケム『宗教生活の原初形態』岩波上298頁では、
集合的トーテミズムと個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる。
フレーザー経由のこの概念が対幻想として吉本へ受け継がれたのだろう。

集合的トーテムは世襲
個人的トーテムは個人獲得

性的トーテムは両方

つまり

   集合的
個人的 X

本来なら両方の特質をプラスに捉え、アソシエーション=Xを性的トーテムとして考えることもできた。

    共同幻想
個人幻想 対幻想

と柄谷の見たて通りに図示することも可能だったのだ。

(この場合、共同幻想を官僚制とネーションとに分節化する必要がある。
しかし吉本の「スターリン主義」といったレッテル貼りがその思考を阻害した。
なお花田清輝との論争は単純再生産について理解を深める好機だったが、逸した。)

吉本隆明にとって平等(糸井重里の言葉なら「平ら」)は、市井の感覚としてあり、それは過去の文学作品に適応させられる。しかし十分に概念化されたとは言えない。歴史的には柄谷行人のくじ引き活用説を待たなければならなかった。



atプラス21、22頁以降で柄谷行人はピケティとの類似に関する質問に答えている。柄谷は循環を、ピケティはアップダウンはあったが歴史を通じて経済格差傾向が続いて来たことを強調する。中国語原文↓のはずだがピケティについての記述はない。  http://www.dfdaily.com/html/150/2014/7/25/1169635.shtml



               /非知へ(死or胎児へ)
              /関係の絶対性
             /\現在/\  
         芸術言語論_\/_親鸞
           /\心的現象論 /\
          /__\    /__\   
        ハイイメージ\現代 /マスイメージ
        /__\/__\/__\/__\
       /\              /マルクス
      /__\   吉本隆明体系   /__\ 
     /\ 詩/\          /共同幻想\
    /__\/__\       アフリカ\/アジア
   /\言語にとって/\  ヘーゲル/\共同幻想論 /\古事記
  /__美とはなにか__\    /__\    /__\
 /自己表出\  /指示表出\  /個人幻想\  /\対幻想\
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
『胎児の世界』        自然     遠野物語
「個体発生は系統発生を繰り返す」(ヘッケル)
吉本隆明が私淑した三木成夫(『胎児の世界』他)はヘッケルのアイデアをさらに発展させた。


参考:
                             
Haeckel=Freud
 http://nam-students.blogspot.jp/2010/11/haeckelfreud.html

NAMs: Transmutation of Species (1837)ダーウィン

               /非知へ(胎児へ)
              /芸術言語論
       心的現象論序説\現在/\  
        『胎児の世界』\/_親鸞(悪、死)
           /\心的現象論 /\
          /__\    /__\   
        ハイイメージ\現代 /マスイメージ
        /__\/__\/__\/__\
       /\              /マルクス
      /__\   吉本隆明体系   /__\ 
     /\ 詩/\          /共同幻想\
    /__\/__\       アフリカ\/アジア
   /\言語にとって/\   ヘーゲル\共同幻想論 /古事記
  /__美とはなにか__\    /__\    /__\
 /自己表出\  /指示表出\  /個人幻想\  /\対幻想\
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
胎児の世界   海       自然      遠野物語

吉本隆明の183講演 - ほぼ日刊イトイ新聞
http://www.1101.com/yoshimoto_voice/index.html
吉本隆明さんの1964年から2008年までの
183回の講演、合計21,746分の音声を
201412月より順次公開していきます。
すべての講演を、無期限、無料で、
聞いていただけるようにします。

ほぼ日」が音声を文字に起こした講演は、
そのテキストデータもフリー公開します。
どうぞ楽しみにお待ちください。
  

               /非知へ(胎児へ)
              /芸術言語論
             /\現在/\  
          
心的現象論\/_親鸞(悪、死)
           /\心的現象論 /\
          /__\    /__\   
        ハイイメージ\現代 /マスイメージ
        /__\/__\/__\/__\
       /\              /マルクス
      /__\   吉本隆明体系   /__\ 
     /\ 詩/\          /共同幻想\
    /__\/__\       アフリカ\/アジア
   /\言語にとって/\   ヘーゲル\共同幻想論 /古事記
  /__美とはなにか__\    /__\    /__\
 /自己表出\  /指示表出\  /個人幻想\  /\対幻想\
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
胎児の世界   海       自然      遠野物語

《共同幻想も人間がこの世界でとりうる態度がつくりだした観念の形態である。〈種族の父〉(Stamm-vater)も〈種族の母〉(Stamm-mutter)も〈トーテム〉も、たんなる〈習俗〉や〈神話〉も、〈宗教〉や〈法〉や〈国家〉とおなじように共同幻想のある表われ方であるということができよう。人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした。いずれにしてもわたしはここで共同幻想がとりうるさまざまな態様と関連をあきらかにしたいとかんがえた。 》


               /非知へ(胎児へ)
           マルクス_親鸞(悪、死)
             /共同幻想\  
           アフリカ\/アジア
        ヘーゲル\共同幻想論 /古事記
          /__\    /__\   
         /個人幻想\  /\対幻想\
        /自然\/__\/遠野物語__\
       /\              /\
      /__\   吉本隆明体系   /芸術言語論
    マスイメージ\          /\ 詩/\
    /__\/__\        /__\/__\
   /\心的現象論 /\      /\言語にとって/\
  /__\    /__\    /__美とはなにか__\
 心的現象論\ ハイイメージ\  /自己表出\  /指示表出\
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\

胎児の世界               海       

《言語の表現としての芸術という視点から文学とはなにかについて体系的なかんがえをおしすすめてゆく過程で、わたしはこの試みには空洞があるのをいつも感じていた。ひとつは表現された言語のこちらがわで表現した主体はいったいどんな心的な構造をもっているのかという問題である。もうひとつは、いずれにせよ、言語を表現するものは、そのつどひとりの個体であるが、このひとりの個体という位相は、人間がこの世界でとりうる態度のうちどう位置づけられるべきだろうか、人間はひとりの個体という以外にどんな態度をとりうるものか、そしてひとりの個体という態度は、それ以外の態度とのあいだにどんな関係をもつのか、といった問題である。》『共同幻想論』序


               /非知へ(胎児へ)
             言語芸術論
             /\現在/\  
        終戦1945年\/_親鸞(悪、死)
           /\言語芸術論 /\ 
          /__\    /__\   
        ハイイメージ\現代 /マスイメージ
        /__\/__\/__\/__\
       /\              /マルクス
      /  \   吉本隆明体系   /__\ 
     /指示表出\          /共同幻想\
    /__\/__\       アフリカ\/アジア
   /\言語にとって/詩   ヘーゲル\共同幻想論 /古事記
フロイト_美とはなにか__\    /__\    /__\
 /心的現象論  /自己表出\  /個人幻想\  /\対幻想\
/胎児の世界_\/_海\/__\/__\/__\遠野物語/__\


               /非知へ(胎児へ)
              /  \
             /\現在/\  
        終戦1945年\/_関係の絶対性
           /\イメージ論 /\ 
          /__\    /__\   
        ハイイメージ\現代 /マスイメージ
        /__\/__\/__\/__\
     言語芸術論             /マルクス
      /  \   吉本隆明体系   /国家、宗教(親鸞)
     /指示表出\          /共同幻想\
    /__\/__\       アフリカ\/アジア
   /\言語にとって/詩   ヘーゲル\共同幻想論 /古事記
フロイト_美とはなにか__\    /__\    /__\
 /心的現象論  /自己表出\  /個人幻想\  /\対幻想\
/胎児の世界_\/_海\/__\/__\/__\遠野物語/__\

               /非知へ(胎児へ)
              /  \
             /\現在/\  
        終戦1945年\/_状況論
           /\イメージ論 /\ 
          /__\    /__\   
        ハイイメージ\現代 /マスイメージ
        /__\/__\/__\/__\
     言語芸術論             /関係の絶対性
      /小説\   吉本隆明体系  国家、宗教(マチウ書誌論、親鸞)
     /指示表出\          /共同幻想\マルクス
    /__\/__\       アフリカ\/アジア
   /\言語にとって/詩   ヘーゲル\共同幻想論 /古事記
フロイト_美とはなにか__\    /__\    /__\
 /心的現象論  /自己表出\  /個人幻想\  /\対幻想\
/胎児の世界_\/_海\/__\/__\/__\遠野物語/__\


               /非知へ(胎児へ)
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             /\現在/\  
        終戦1945年\/_状況、親鸞(死、永遠)
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      ライプニッツ_\    /_歌謡曲 
        ハイイメージ\現代 /マスイメージ
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       /小説             /関係の絶対性、母型論
     言語芸術論   吉本隆明体系  国家、宗教(マチウ書試論)
     /指示表出\          /共同幻想\マルクス
 古典経済学_\/__\       アフリカ\/アジア
   /\言語にとって/詩   ヘーゲル\共同幻想論 /古事記
フロイト_美とはなにか__\    /__\    /__\
 /心的現象論  /自己表出\  /個人幻想\  /\対幻想\
/胎児の世界_\/_海\/__\/__\/__\遠野物語/__\

非知?:
http://nam-students.blogspot.jp/2014/03/blog-post_11.html
http://nikkidoku.exblog.jp/17206861/
週刊新潮・平成24年1月5・12日新年特別号に掲載されたを記事を、雑誌から全文書き起こし
(編集側の見出しや文章の間に挟んであるコメントは省き、写真も雑誌掲載とは異なります)、
その他の新聞掲載もまとめました。


断章としてのアジア的なもの――ヘーゲル、マルクス、フーコー、吉本隆明(本論――「史観の拡張 アフリカ的段階」論 その2)
http://christianity-church-barth.undo.jp/category51/entry208.html

4)日本や欧米の先進資本主義国は、歴史の必然として農業は限りなくゼロに近づいていく。そこに資本主義の終焉がある。と同時に経済学の公理として、「天然自然を相手」にする第一次産業はいつまでも貧困から脱出することはできない。したがって、先進資本主義国は「第三世界と、アジアのある一部」に「農産物担当地域」になってもらうほかはなくなる。このとき、農業ゼロの先進資本主義地域は、農業担当地域に対して物・貨幣・信用等を無償贈与するしかない。またこのとき、交換価値という概念は終焉し、「モースのいうような、未開の原始社会での贈与」とは異なる、「高度に意識された」新たな贈与価値論が必要となる。すなわち、それは、等価交換価値論を包括し止揚したところに想定される高次の贈与価値論である(吉本隆明『マルクス――読みかえの方法』1995年2月,深夜叢書社、「消費資本主義の終焉から贈与価値論へ」202頁)。逆の場合も考えられる。「対外債務の返済がまったく不可能な国(地域)と、不可能とはいえぬまでも、とても困難にみえる国(地域)に対して」「高次産業国」は、「資金供給を、贈与または贈与に近い形で実施するほかにありえない」。この贈与の概念は、「一時的なものと永続的なもの」としてある。産業の高次化とさらなる文明化が進めば、「原始的な贈与」の概念は「高次な反復概念として蘇」えざるを得ない(吉本隆明『母型論』1995年11月,学習研究社、「定義論1」160頁)。


追記:
吉本が広げた風呂敷を柄谷が閉じたと言えよう。基本アイデアの素材だけは吉本にすでにある。交換様式という柄谷の着想を待たなければならなかった。


               /非知へ(胎児へ)
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         言語芸術論\現在/\  
        終戦1945年\/_状況、親鸞(死、永遠)
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      ライプニッツ_\    /_歌謡曲 
        ハイイメージ\現代 /マスイメージ
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       /小説             /関係の絶対性、母型論
      /  \   吉本隆明体系  国家、宗教(マチウ書試論)
     /指示表出\          /共同幻想\マルクス
 古典経済学_\/__\       アフリカ\/アジア
   /\言語にとって/詩   ヘーゲル\共同幻想論 /古事記
フロイト_美とはなにか__\    /__\    /__\
 /心的現象論  /自己表出\  /個人幻想\  /\対幻想\
/胎児の世界_\/_海\/__\/__\/__\遠野物語/__\

               /非知へ(胎児へ)
              /母型論(未来)
         言語芸術論\現在/\  
        終戦1945年\/_状況、親鸞(死、永遠)
           /\イメージ論 /\ 
      ライプニッツ_\    /_歌謡曲 
        ハイイメージ\現代 /マスイメージ
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       /小説             /関係の絶対性
      /  \   吉本隆明体系  国家、宗教(マチウ書試論)
     /指示表出\          /共同幻想\マルクス
 古典経済学_\/__\       アフリカ\/アジア
   /\言語にとって/詩   ヘーゲル\共同幻想論 /古事記
フロイト_美とはなにか__\    /__\    /__\
 /心的現象論  /自己表出\  /個人幻想\  /\対幻想\
/胎児の世界_\/_海\/__\/__\/__\遠野物語/__\


吉本隆明&柄谷行人体系:
 序文_『世界史の構造』&『共同幻想論』の構造_
|     |     |2(氏族社会)1   |
| 1国家 |3世界帝国|贈与と呪術| 定住革命|
|    第2部ギリシア|    第1部    |
|___共同幻想____|____対幻想____|
|  (B)マチウ書試論|    (A)    |
マスイメージ| 親鸞  | 母型論 |序説   |
|2世界貨幣|4普遍宗教|     |交換様式論|↑
|_____|_____|_____|_____|指示表出(平等)
|     |3    |     |     |
|1近代国家|ネーション|     |心的現象論|
|    第3部    |    第4部    |
|___個人幻想____|言語にとって美とはなにか
|    (C)4   |1   (D) 2  |
|2産業資本|アソシエー|世界資本主|世界   |
|言語芸術論|ショニズム|義の段階と|共和国へ |
|_____|_____ハイイメージ|_____|↑
         ←自己表出         ←意識
          (自由)

水曜日, 11月 26, 2014

各種『資本論』翻訳

NAMs出版プロジェクト: 各種『資本論』翻訳
http://yojiseki.exblog.jp/19832401/

Das Kapital『資本論』Karl Marx 邦訳各種:@は第一部のみ。☆は電子版あり。

1867年第一部初版
1872年、J・ロア訳、マルクス自身の校閲によるフランス語訳
1887年英語版
生田長江訳、1919年大正8年、緑葉社、第一分冊第四章まで@☆国会図書館DB
高畠素之訳、1925年大正14年、新潮社、のちに改造社他☆国会図書館DB
河上肇・宮川実訳、改造社、昭6 1931@未完
宮川実訳 研進社 1946(あゆみ出版1977~1982)
長谷部文雄訳、昭和39年(1964)初版、河出書房新社「世界の大思想」シリーズ全3巻☆
(長谷部は1929年岩波文庫より初版資本論も出しているがそれとは別)
大内兵衛・細川嘉六(監訳) 岡崎次郎訳 大月書店 全集版 1965☆会員制DB
向坂逸郎訳、岩波文庫全9巻 1969年
岡崎次郎訳 平成3年(1972)第1刷、大月書店、国民文庫全9巻
鈴木鴻一郎訳、1973年、中公世界の名著、全2巻、抄訳
岡崎次郎訳『資本論 第1巻初版』、大月書店 (国民文庫)、1976 年@

江夏美千穂、上杉聡彦訳、フランス語版資本論(ラシャトル版@1872年)、法政大学出版局,3頁1979年
平井規之(資本論翻訳委員会)訳、新日本出版社、1982~9年、新書全13巻、新装版全5巻1997年
江夏美千穂訳、初版資本論、幻燈社
、1983年@
牧野 紀之 訳、対訳・初版資本論 第1章及び附録 、信山社出版 (1993/09)@
山形浩生訳2004年、ネット上無料公開@☆未完冒頭、商品の章のみ
http://cruel.org/books/kapital/kapitalband1.pdf
今村仁司、三島憲一、鈴木直訳『マルクス・コレクション 第1、2巻 資本論』(上下)筑摩書房、2005年1月@
今村仁司、横張誠他訳『マルクス・コレクション 第3巻』所収、資本論初版、第一章のみ(今村仁司担当)、筑摩書房、2005年3月@
的場昭弘(超訳、祥伝社2008年)全3巻、超抄訳☆
中山元訳、日経、第一部全4巻、2011年@

資本論全訳
高畠素之
長谷部文雄
岡崎次郎、向坂訳はほんとは岡崎訳なので略
平井規之(資本論翻訳委員会)



https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/33220/1/WasedaKeizaigakuKenkyu_48_Mita.pdf

「資本家的な生産の仕方の支配してゐる諸社会の富は一個の『恐ろしく厖大な商品の集大成』として、個々の商品はかゝる富の原基形態として、現はれる。だから吾々の研究は商品の分析をもつて始まる。」(河上肇、宮川実訳。1927年岩波文庫37頁)

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/gensyokenkyuco/shihonronco/honyakushico.htm
【その後の資本論翻訳史考】
 資本論翻訳は、高畠の没後も、河上肇、その門下の長谷部文雄らによって試みられるが、時勢の困難もあり、遂に完訳には至らなかった。そのため高畠訳『資本論』は、戦前を通じて唯一の全訳『資本論』となった。
 敗戦後、高畠訳『資本論』は二度ほど出版されたが、既に長谷部文雄、向坂逸郎、岡崎次郎らによって新訳が刊行されたこともあり、時代的使命を終えて今日に至っている。

http://yojiseki.exblog.jp/19832401/
『資本論』冒頭翻訳各種:

"Das Kapital"
<Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine ungeheure Warensammlung, die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.>
(1867年初版。MEW Bd. 23, S.49)

<La richesse des sociétiés dans lesquelles règne le mode de production capitaliste s’annonce comme une 《immense accumulation de marchandises.》L’analyse de la marchandise, forme élémentaire de cette richesse, sera par consequent le point de départ de nos recherches.>
(1872年、J・ロア訳、マルクス自身の校閲によるフランス語訳)http://monsieurk.exblog.jp/17300334/

<The wealth of those societies in which the capitalist mode of production prevails, presents itself as “an immense accumulation of commodities,” its unit being a single commodity. Our investigation must therefore begin with the analysis of a commodity. >
(1887年英語版)
「資本家的生産の支配してゐるやうな社会の富は、『巨大なる商品の集積』として現れ、個々の商品はそれの単位として現れる。そこで我々の討究は商品の分析からして始められねばならぬ。」
(生田長江訳、1919年大正六年、緑葉社、第一分冊第四章まで)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962748/37

<資本制生産方法が専ら行はれる社会の富は『尨大なる商品集積』(一)として現はれ、個々の商品(1)はその成素形態として現はれる。故に我々の研究は、商品の分析を以つて始まる。

(一)拙著『経済学批判』(ベルリン、一八五九年刊、第四頁)(2)。>
(高畠素之訳、1925年大正14年、新潮社、のちに改造社他)
http://awatasan.web.fc2.com/kansoku/kyuuban/capital/01_01.html
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971555
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971555/33

「資本家的な生産の仕方の支配してゐる諸社会の富は一個の『恐ろしく厖大な商品の集大成』として、個々の商品はかゝる富の原基形態として、現はれる。だから吾々の研究は商品の分析をもつて始まる。」
(河上肇、宮川実訳。1927年岩波文庫37頁)
「資本主義的生産様式の支配する社会の富は、一つ「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品は、その富の要素形態(Elementarform)として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析からはじまる。」
(宮川実訳1946年。引用は、あゆみ出版1977年57頁より)

<資本制的生産様式が支配的に行われる諸社会の富は、一つの「厖大な商品集成」として現象し、個々の商品は、こうした富の原基形態として現象する。だから、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。>
(昭和39年(1964)初版、長谷部文雄訳、河出書房新社、35頁)

<資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。>
(向坂逸郎訳、岩波文庫全9巻 1969年 第一巻67頁)
<資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。>
(平成3年(1972)第1刷、岡崎次郎訳、大月書店、国民文庫第一巻71頁。全集第23a巻47頁)

<資本主義的生産様式が支配している社会の富は、「膨大なる商品集積」(マルクス『経済学批判』一八五九年)としてあらわれ、個々の商品は、その富の基本形態としてあらわれる。だからわれわれの研究は、商品の分析からはじまる。>
(鈴木鴻一郎訳、1973年、中公世界の名著43,98頁)

資本主義的生産様式が支配している社会の富は、「膨大な商品の集積物(1)」として現われている。
したがって、この富の要素形態である商品の分析は、われわれの研究の出発点である。
   (1) カール・マルクス『経済学批判』、ベルリン、一八五九年、三ページ。
(江夏美千穂、上杉聡彦訳、フランス語版資本論、1979年、法政大学出版局,3頁)@ 1872年ラシャトル版

<資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。>
(平井規之訳、新日本出版社、1982年、第一巻59頁、新書全13巻)
《資本主義的な生産様式が広まった社会の富というものは、「商品のものすごい集積」という形で出てくる。個別の商品は、その要素的な形として出てくるわけだ。だからわれわれの検討も、商品の分析から始めよう。》
(山形浩生訳2004年、ネット上無料公開@未完冒頭、商品の章のみ)
http://cruel.org/books/kapital/kapitalband1.pdf
<資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体」の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現われる。したがってわれわれの研究は商品の分析からはじまる。>
(今村仁司、三島憲一、鈴木直訳『マルクス・コレクション Ⅳ 資本論 第一巻(上)』筑摩書房、2005年1月)
<資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体(1)」の姿をとって現われる、ひとつひとつの商品はこの富の要素形態となる。だから、われわれの研究は商品の分析から始まる。>
(今村仁司訳『マルクス・コレクション 第3巻』所収、資本論初版、第一章のみ、筑摩書房、2005年3月)


<資本主義的生産様式が支配している社会的富は、「巨大な商品のかたまり」として現れ、この富を構成しているのがこの商品である。だから、われわれの研究は商品の分析から始まる。>
(超訳、祥伝社2008年)

<資本制生産様式が支配的な社会においては、社会の富は「一つの巨大な商品の集まり」として現れ、ここの商品はその要素形態として現れる。だからわたしたちの研究もまた商品の分析から始まる。>
(中山元訳、日経、第一部全4巻第一巻27頁、2011年)

<資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は,《一つの巨魔的な商品集合》として(als eine ,,ungeheure Warensammlung’’)現われ,個々の商品はその富の要素形態として(als seine Elementarform)現われる。したがって,われわれの研究は商品の分析から始まる。>
(内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」2012年より。pdf公開されているこの論文で内田は集合-要素の対概念が大事だと強調する。その観点から新日本出版社訳が推奨される。筑摩、日経訳もこれにあてはまるだろう。)


マルクスと集合論に関してはトラクリの価値形態に関する考察を参照(定本310頁)。
その柄谷の考察によって、初版にあった集合論的矛盾の記述は以降削除されたことがわかる。
マルクスはgoldによって集合論的矛盾を回避していると思う。

<それは、ちょうど、群をなして動物界のいろいろな類、種、亜種、科、等々を形成している獅子や虎や兎やその他のすべての現実の動物たちと相並んで、かつそれらのほかに、まだなお動物というもの、すなわち動物界全体の個別的化身が存在しているようなものである>
(定本トラクリ318頁。岡崎次郎訳『資本論 第1巻初版』、大月書店 (国民文庫)、1976 年。27頁)

http://fourier.ec.kagawa-u.ac.jp/~kosuke/ideology.pdf

             G
      D:  ◎ 貨幣形態
          ◯ 
      C: /| 一般的価値形態
        ☆☆☆  
        ☆☆☆     
      B:|/  拡大された価値形態
        ◯ 
  形態一、A:◯=☆ 単純な価値形態
(相対的価値形態 = 等価形態)

価値形態論とゲーデルの不完全性定理を比べるとよくわかるが、マルクスはゲーデルの半分しか叙述していない。不完全性定理においてゲーデル数が王権を得たまま固定することはあり得ない。これは時間というものを自らの歴史観に無意識に依拠しつつ扱ったマルクスの不備に起因する。価値形態A~Dは全て同時に存在し得るというのがゲーデルからマルクスへの答えである。

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電子書籍版、河出書房新社世界の大思想はyahooブックスでも割安ででているはずだが、
アプリが不十分、ダウンロード不可?で推奨出来ない。やはりibooksを推奨する。
大月のon lineは検索機能だけでも画期的。ただコピペは出来ない。
CamScannerHD等scanアプリを使う手もあるが、、、、

久恒啓一『図解 資本論』より



生田長江訳(1919年大正8年、緑葉社、第一分冊第四章まで)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962748/37
「資本家的生産の支配してゐるやうな社会の富は、『巨大なる商品の集積』として現れ、個々の商品はそれの単位として現れる。そこで我々の討究は商品の分析からして始められねばならぬ。」

メモ:
初版翻訳に関しては他に以下がある。

資本論初版鈔 (1929年) (岩波文庫) 


初版資本論 単行本 – 1983/4

対訳・初版資本論 第1章及び附録 単行本 – 1993/9