金曜日, 8月 22, 2014

スキピオの夢:メモ

キケロー国家論、国家について、第六章は、スキピオの夢として知られる(キケロー著作集、中公世界の名著所収)。
ダンテの新曲に似ている。
キケロー国家論、第三章14(アレクサンドロスへの海賊と反論)をアウグスティヌスは『神の国』で引用した(先日投稿別記事参照)。

モーツァルトが間接的に歌劇にした。

Wolfgang Amadeus Mozart - Il Sogno di Scipione, KV 126

http://youtu.be/A7JzTVf5LCA

Mozart - Il sogno di Scipione

http://youtu.be/33N1V2l3LKg




スキピオ・アエミリアヌス


スキピオ・アエミリアヌス(中央。左はミネルウァ、右はウェヌス。「騎士の夢」(ラファエロ・サンティ画)より。

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス・ヌマンティヌスラテン語:Publius Cornelius Scipio Aemilianus Africanus Numantinus、 紀元前185年 - 紀元前129年)は、共和政ローマ期の軍人、政治家。カルタゴの破壊者である。

第二次ポエニ戦争で活躍したスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ、大アフリカヌス)と区別して小スキピオ小アフリカヌススキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌスとも称される。なお、以下文中では「アエミリアヌス」と記載する。

生涯編集

ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスの息子として誕生。叔母であるアエミリアはスキピオ・アフリカヌスの妻であったのでスキピオ・アフリカヌスは義理の叔父にあたる。その後従兄弟でスキピオ・アフリカヌスの長男プブリウス・コルネリウス・スキピオの養子となりスキピオ家に入り、以降は名を「プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス」とする。兄弟のクィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌスクィントゥス・ファビウス・マクシムスの養子になっている。

紀元前168年には実父アエミリウスが指揮を取る第三次マケドニア戦争に従軍しピュドナの戦いで活躍した。紀元前151年には執政官ルキウス・リキニウス・ルクッルスの副官としてヌマンティア戦争へ従軍したが、ルクッルスがカウカ住民との和約を破って住民を大虐殺したため、ルクッルスが次に攻撃したインテルカティアでは苦戦を強いられた。アエミリアヌスは自らが保証人となって和約を結ぶことでインカルティアからの支援を得ることが出来た。

第三次ポエニ戦争時、カルタゴの三重防壁を破るために派遣され、紀元前146年にカルタゴを陥落させる。繁栄したカルタゴが滅んで行くさまを当事者として目の当たりにし、炎上するカルタゴを見つめ「ローマもいつか滅びる日が来るのであろうか」とポリュビオスに語って嘆いたという。これ以降「アフリカヌス」の称号を持つようになった。

ヌマンティア戦争の司令官にも選ばれ、紀元前133年にはヌマンティアを征服し、イベリア半島にローマの支配権を確立した。以降「ヌマンティヌス」の名を持つ(詳細は当項目を参照)。

スキピオ・アフリカヌスの外孫でグラックス兄弟の姉であるセンプロニアが妻であり、兄弟とは生来の血縁に加えて義兄弟という立場でもあった。そのような近い関係にあっただけに、アエミリアヌスは父を早くに失った兄弟の若い頃は親密に面倒を見たが、保守勢力の代表たる元老院プリンケプスとなっていた晩年には、兄弟の改革には反対する立場をとりつづけた。プルタルコスによれば、ティベリウス・グラックスの演説をヌマンディア遠征中で聞いたアエミリアヌスは「このような事を言う者は死ねばいい」と言ったらしい。そのためティベリウスが反対派の扇動した暴動において撲殺された時、民衆の怒りを買い、一族のスキピオ・ナシカのように国外退去させられそうになったという。紀元前147年及び紀元前134年の2度執政官に選出され、紀元前142年にはルキウス・ムンミウスと共にケンソル(監察官)を務めた。

紀元前129年、アエミリアヌスは農地法への反対演説を控えた前日に死亡しているのが発見された。死因については病死以外に、農地法への賛成派(ポプラレス)による暗殺、妻センプロニア及び義母コルネリアに殺害されたなどの説がある。

年表編集

「スキピオの夢」編集

アエミリアヌス死後の共和政ローマ期に活躍した哲学者マルクス・トゥッリウス・キケロは、著書『国家論』(De re publica)の中で自らの宇宙観を記す際に、「スキピオの夢」と称されるアエミリアヌスを題材とした一節を残した。また、「スキピオの夢」を題材とした作品として、ルネサンス期の画家ラファエロ・サンティが絵画(「騎士の夢」)を製作、18世紀の音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがオペラ「シピオーネ(スキピオ)の夢」(en)を作曲(発表は1772年)した。

アエミリアヌスが登場する文献編集

関連項目編集


火曜日, 8月 19, 2014

『影武者』再考:メモ


柄谷『帝国の構造』に対応し得る映像作品を一つ選ぶなら、エイゼンシュテインの『イワン雷帝』か成瀬の『あらくれ』だろう。
イワン雷帝にはアソシエーションは描かれないが結果的に友愛が浮き彫りにされる。
『あらくれ』はスガも絶賛しているが、蓮實系が避ける歴史、日本の近代史が描かれている。

ただ、黒澤の影武者を想起させる箇所がある。

以前影武者について書いたがそれは脇の主題についてだった。

柄谷との比較は主題に関わる。

柄谷はアウグスティヌス経由(アウグスティヌス自身はキケロ『国家論』3経由)でアレクサンドロス大王と海賊のやりとりを紹介している。



あるとき、アレキサンダー大王は、海賊を捕らえた。

大王が海賊に、「海を荒らすのは、どういうつもりか」と問うたとき、海賊はすこしも臆すところなく、「陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小さい舟でするので盗賊とよばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです」と答えたのである。(アウグスティヌス『神の国』第1巻、272頁、岩波文庫)

http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200805/article_6.html

(帝国95頁参照)

それに対応するのは以下だ。

http://booklog.jp/users/touxia/archives/1/B000UH4TUA
冒頭 信玄 信康 影武者 3人の会話で始まる。
その構図が 絵になっている。

逆さ磔にされる盗人 があまりにも信玄に似ているので
つれてこられたということから・・・はじまる

影武者は、
『たかが 5貫10貫 盗んだ 小どろぼう・・・
 国をとるために かぞえきれない人を殺したものに
 悪人呼ばわりされる筋合いはない』という。

信玄は
『何なりと申すがよい。
確かに わしは強欲非道の大悪人じゃ。
実の父を追放し わが子も殺した。
 天下を盗むためにはなにごとも辞さぬ覚悟じゃ。』



ただしその後信玄に殉ずる影武者の論理は交換様式Aである
(244頁参照7-6)。

(チャップリン『殺人狂時代』の最後のセリフも想起させるが、こちらは権力の主題はない。チャップリンは交換様式Cを主題としている。ディランのスウィートハートは宗教的でAの高次の回復だ。

「小さきもの」を擁護しつつも、アレクサンドロスの拡大主義を柄谷は支持しているようだ

アリストテレスは老子と同じで小国主義だ。Aになる(老子とCは漢代につながった)。
アリストテレスはアレクサンドロスの師ではあるが、Bを邁進したアレクサンドロスと対立したとされる(95頁参照)。


アレクサl影武者
ンドロスl
ーーーー+ーーーーー
殺人狂時l
代   l


黒澤明のメッセージは動くなだが、柄谷は移動を勧める。

かつて柄谷のマクベス論と蜘蛛の巣城は呼応したが、柄谷は福田恒存に近かった。
黒澤明は近代的自我を認めない。黒澤明の方がより過激なのだ。
柄谷は黒澤明に追いついた。

なお映画冒頭の信玄と盗賊(後の影武者)とのやりとりはこのように続く。

盗賊「俺は小泥棒だ。国を盗るため数え切れねぇほど人を殺した大泥棒に 
悪人呼ばわりされる覚えはねぇ!」 

信玄「確かにワシは強欲非道の大悪人だ。 
ワシは天下を盗るためなら何事も辞さぬ覚悟だ。 

血で血を洗う今の世に、何者か 天下を盗り、天下に号令せぬ限り、 
その血の河の流れは尽きず、屍の山は築かるるばかりぞ」 

と諭すように言う。

その信玄の言葉と優しい言い方とオーラでもって、それまでいきり立ってた主人公は黙り、信玄が去ったあと、彼は深々と平伏する。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=172042&id=14164521

ちなみに「血の河の流れ」の「
屍の山」は、信玄の戒めを守らない勝頼によって、長篠の戦いの結果、現実化してしまう。信玄のセリフは映画のラストにつながっているのだ。

追記:

では『乱』はどうか?

秀虎l太郎
ーー+ーー
二郎l三郎

あるいは、

太郎l秀虎
ーー+ーー
二郎l三郎


資料:

「正義がなくなるとき、王国は大きな盗賊団以外のなにであろうか。盗賊団も小さな王国以外のなにでもないのである。盗賊団も、人間の集団であり、首領の命令によって支配され、徒党をくんではなれず、団員の一致にしたがって奪略品を分配するこの盗賊団という禍いは、不逞なやからの参加によっていちじるしく増大して、領土をつくり、住居を定め、諸国を占領し、諸民族を征服するようになるとき、ますます、おおっぴらに王国の名を僭称するのである。そのような名が公然とそれに与えられるのは、その貪欲が抑制されたからではなく、懲罰をまぬがれたからである。ある海賊が捕らえられて、かのアレキサンデル大王にのべた答はまったく適切で真実をうがっている。すなわち、大王が海賊に、『海を荒らすのはどういうつもりか』と問うたとき、海賊はすこしも臆すところなく、『陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小さな舟でするので盗賊とよばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです』と答えたのである(1)。

(1)この話はノニウス・マルケルルスによって語られ、マルケルルスはキケロからそれを借りてきている(キケロ『国家論』三)。」(1巻273)アウグスティヌス[服部英次郎訳]『神の国』第四巻第四章 全(岩波文庫1,273~4頁1982-1991

脚注を除いた全文を柄谷は引用している(『帝国の構造』95頁)。

http://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_03/9/notes/ja/GFK2006-tanaka1.pdf


黒澤明『影武者』冒頭は以下、

  「フフフフ、俺は、たかだか五貫十貫の小銭を盗んだ小泥棒だ。国を盗るために、数え切れねぇほど人を殺した大泥棒に、悪人呼ばわりされる覚えはねぇ!」 
(中略)
信玄「…たしかにこの儂は強欲非道の大悪人だ。 実の父を追放し、わが子も殺した。儂は天下を盗るためなら何事も辞さぬ覚悟だ。 
しかしな、血で血を洗う今の世に、何者か 天下を盗り天下に号令せぬ限り、 その血の河の流れは尽きず、屍の山は築かるるばかりぞ」 

(チャップリン『殺人狂時代』の最後のセリフも想起させるが、こちらは権力の主題はない。チャップリンは大恐慌など交換様式Cを主題としている。)


ーーーーー

「正義がなくなるとき、王国は大きな盗賊団以外のなにであろうか。盗賊団も小さな王国以外のなにでもな
いのである。盗賊団も、人間の集団であり、首領の命令によって支配され、徒党をくんではなれず、団員の
一致にしたがって奪略品を分配するこの盗賊団という禍いは、不逞なやからの参加によっていちじるしく増
大して、領土をつくり、住居を定め、諸国を占領し、諸民族を征服するようになるとき、ますます、おおっ
ぴらに王国の名を僭称するのである。そのような名が公然とそれに与えられるのは、その貪欲が抑制された
からではなく、懲罰をまぬがれたからである。ある海賊が捕らえられて、かのアレキサンデル大王にのべた
答はまったく適切で真実をうがっている。すなわち、大王が海賊に、『海を荒らすのはどういうつもりか』
と問うたとき、海賊はすこしも臆すところなく、『陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小
さな舟でするので盗賊とよばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです』と答えたのである
(1)。

(1)この話はノニウス・マルケルルスによって語られ、マルケルルスはキケロからそれを借りてきている
(キケロ『国家論』三)。」(1巻273)アウグスティヌス[服部英次郎訳]『神の国』第四巻第四章 全(岩
波文庫1,273~4頁1982-1991

脚注を除いた全文を柄谷は引用している(『帝国の構造』95頁)。


ちなみに黒澤明『影武者』冒頭に以下、のセリフがある、

  「フフフフ、俺は、たかだか五貫十貫の小銭を盗んだ小泥棒だ。国を盗るために、数え切れねぇほど人
を殺した大泥棒に、悪人呼ばわりされる覚えはねぇ!」 
(中略)
信玄「…たしかにこの儂は強欲非道の大悪人だ。 実の父を追放し、わが子も殺した。儂は天下を盗るためな
ら何事も辞さぬ覚悟だ。 
しかしな、血で血を洗う今の世に、何者か 天下を盗り天下に号令せぬ限り、 その血の河の流れは尽きず、屍
の山は築かるるばかりぞ」 

(チャップリン『殺人狂時代』の最後のセリフも想起させるが、こちらは権力の主題はない。チャップリン
は大恐慌など交換様式Cを主題としている。)

「血の河の流れ」と「屍の山」は、信玄の戒め(「動くな」)を守らない勝頼によって、長篠の戦いの結
果、現実化してしまう。信玄のセリフは映画のラストにつながっているのだ。
近親を罰する信玄の論理は交換様式B(に近いの)だが、その後信玄に殉ずる影武者の論理は交換様式Aである(244頁参照7-6)。



では黒澤明の最高傑作『乱』はどうか?

太郎l秀虎
ーー+ーー
次郎l三郎


肉親(わが子)の情を頼り、上からの連合を提示するには秀虎(A)は、まず馬印という象徴と起請文を要求する太郎(B)に裏切られ、さらに妻や裏切り者を交渉で手に入れる次郎(C)にも裏切られるが、「何もいりませぬ」という三郎(D)の愛に最終的に気づかされることになる。

『影武者』が冒頭で3(人の男)を提示しているのに対し、『乱』が冒頭で4(人の騎士)提示しているのも興味深い。

土曜日, 8月 09, 2014

数学体験館、微分解析機 他 @東京理科大 20140808

リンク::::::::::数学
http://nam-students.blogspot.jp/2014/08/2040808.html?m=0:本頁

(d^2)y/d(t^2)=-y
円の方程式


http://www.wisdomtex.com/Leibniz/2.html 
ライプニッツの四則演算計算機










図形数



正方形に対応する四角数
図形数(ずけいすう、figurate numbers)とは、一定の規則で図形状に並べられた点の個数として表される自然数の総称である。その歴史は、古代ギリシアピタゴラス学派が「万物は数である」との思想のもと、図形と数を結び付けたところにまで遡る。例えば、図形として正方形を考えると、数としては平方数を得る。平方数を図形数として見るときには、これを特に「四角数」と呼ぶ。

用語編集

「図形数」に対応する英語は figurate number, figured number, figural number があるが、その意味する範囲は日本語、英語ともに曖昧さがある。古代ギリシアで扱われたもののみを指すこともあれば、4次元以上の図形に対応するものまで含める場合もある[1]。figurate number の訳語として「装飾数」が用いられた例もある[2]

歴史編集


四角数は奇数の和と捉えられる。例えば、図は 42= 1 (赤) + 3 (黄) + 5 (緑) + 7 (青) を意味する。
紀元前6世紀頃のピタゴラス学派は、三角数や四角数を用いて、いくつかの数の性質を導いたとされる。例えば、正方形状に並んだ点から次に大きな正方形を作るにはL字形の「部品」を付加すればよいことから、最初の n 個の奇数の和が n 番目の四角数であることが分かる。現代的な記法では
1+3+5+\cdots+(2n-1)=n^2
ということである。この性質を用いて、無数にピタゴラス数を得ることもピタゴラスは知っていた[3]。また、三角数の2倍が矩形数であることから、1 から n までの和の公式
1+2+3+\cdots+n=\frac{1}{2}n(n+1)
を得る。
このように、図を用いることによって、様々な数の性質が確かめられる。例えば、連続する三角数の和は四角数である。現代的な式では
\frac{1}{2}n(n-1)+\frac{1}{2}n(n+1)=n^2
と表せる。やや複雑な例として、プルタルコスが記してディオファントスが引用したところによると、三角数の8倍に1を加えれば四角数となる。すなわち、
\frac{1}{2}n(n+1) \times 8+1=(2n+1)^2
である[4]
紀元前2世紀ヒュプシクレス英語版は、三角数や四角数を一般化した多角数を定義した[5]。その後、スミュルナのテオンニコマコス英語版イアムブリコス英語版らが多角数について論じた[4]

正四面体に対応する四面体数
2世紀頃のニコマコスは、その著書『算術入門英語版』において、多角数は等差数列の和として定義されることを指摘したのみならず、種々の立体数についても述べている。具体的には、四面体数四角錐数などの多角錐数、立方体数切頂英語版多角錐数などである[6]。それよりも前に、紀元前4世紀頃のオプスのフィリポ英語版スピューシップス英語版が四面体数について考察したと考えられるが、文献は残っていない[7]
1544年、マイケル・シュティーフェル英語版は、三角数、四面体数に続く五胞体数などの、高次元版の図形数を定義した[8]
近世ヨーロッパの数学者、バシェ英語版フェルマーオイラーらも多角数について論じている[9]。初等的な性質のみならず、フェルマーが多角数定理を予想し、オイラーが五角数定理を示すなど、やや高度な数論にも図形数は現れる。
1996年に出版されたコンウェイガイ英語版の『数の本』には、その他のさまざまな図形数、例えば中心つき四角数体心立方数英語版などが図付きで紹介されている。

グノモン編集


五角数とそのグノモン。色分けされた各部分がグノモンである。
先述のように、四角数からより大きな四角数を構成するときにはL字形の「部品」を付加すれば良かった。このような部品は古代ギリシアではグノモン(グノーモンとも、gnomon)と呼ばれた[10]。元々グノモンという語が意味するものは、日時計において影を作るための直立の棒であり、垂直を暗示するため、L字形の部品に対して用いられることとなった。エウクレイデス原論』の第二巻では、正方形のみならず平行四辺形に対してグノモンという語をあてている。アレクサンドリアのヘロンは、その部品を付加することによって元の図形と相似な図形を得るようなもの、とした。矩形数の場合、L字形の部品を加えると、元の矩形と新しい矩形は縦横比が異なるため、厳密には相似とはいえないが、このような場合にもグノモンの語が用いられる。

13 + 23 + 33 + 43 = (1 + 2 + 3 + 4)2を示す図。各グノモンの面積は立方数である。
西暦1000年頃、アラビア数学アル=カラジ英語版は著書『ファフリー』(Fakhri)において、グノモンの考えを用いて三乗和の公式
1^3+2^3+\cdots+n^3=(1+2+\cdots+n)^2
を示した[11]。実際には彼は n = 10 の場合のみを説明しているが、疑いなく一般の場合を意識していた。四角数を用いた証明は以下の通り。ひとつの点から始め、一辺が 3 (= 1 + 2) の正方形となるようにグノモンを付加する。次は一辺が 6 (= 1 + 2 + 3) となるようにグノモンを付加する。これを繰り返して一辺が 55 (= 1 + 2 + … + 10) となるようにグノモンを付加したとき、最後のグノモンが含む点の個数は
10 × (1 + 2 + … + 9) × 2 + 10 × 10 = 103
と計算される。他のグノモンが含む点の個数も同様に立方数であることが分かるので、
13 + 23 + … + 103 = (1 + 2 + … + 10)2
が示される。

脚注編集

  1. ^ 例えば、MathWorld では figurate number を最も広い意味で用いている。
  2. ^ タッタソール著、小松尚夫訳『初等整数論9章』p. 12
  3. ^ 平方数である奇数までの和を考えることで、二辺の差が 1 であるピタゴラス数を得る。例えば、(1 + 3 + 5 + 7) + 9 = 52 より、42 + 32 = 52 といった具合である。ヒース pp. 37-38
  4. a b ヒース p. 418
  5. ^ その著作は残っていないが、ディオファントスは、ヒュプシクレスを多角数を定義した人としてその定義を引用している。ヒース p. 311
  6. ^ ヒース p. 54
  7. ^ タッタソール p. 10
  8. ^ タッタソール p. 12
  9. ^ タッタソール pp. 15-20
  10. ^ ヒース p.36
  11. ^ ヒース pp. 55-56、カッツ p. 290

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集







 __________  
|〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇| 
|〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇| 
|〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇| 
|〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇| 
|☆☆☆☆☆☆〇〇〇〇| 
|☆☆☆☆☆☆〇〇〇〇| 
|☆☆☆☆☆☆〇〇〇〇|
|XXX☆☆☆〇〇〇〇| 
|XXX☆☆☆〇〇〇〇| 
|△XX☆☆☆〇〇〇〇| 
0    10×10 

△1^3
X2^3
☆3^3
〇4^4

1^3+2^3+3^3+4^4=(1+2+3+4)^2

三乗和の公式

ーーーーーー
 

   /\/\/\/\/\/\
  /  \ \ \ \ \ \
 /    \ \ \ \ \ \
/      \ \ \ \ \ \

ツリーに対抗するのは複数のツリーである。

ライプニッツの四則演算計算機
以下引用。

 パスカルが設計した計算機は、基本的に加算機で補数を活用して減算を行うことができた。しかし、ライプニッツはパリを訪れる以前から、加減乗除の四則演 算をこなす計算機の設計が可能だと考えていた。
 ライプニッツがパリに来た頃、パスカルの計算機に対数の円盤を組み合わせて乗算を行う計算機も存在した。ドイツのウィルヘルム・シッカルト (Wilhelm Schickard)は1623年に、ネーピアの計算棒を活用して乗除算ができる計算機を設計していた。シッカルトの計算機のことは広く知られていなかっ たが、ライプニッツは1673年2月1日に英国の王立協会で計算機の試作機を披露した時、英国のサミュエル・モーランドの計算機のことを教えられた。ライ プニッツはその直後にモーランドと面会したところ、その計算機はネーピアの計算棒を応用していた。
 ライプニッツは、クランクを回して乗除算を純粋に遂行する計算機の仕組みを検討していた。乗算は加算の繰り返しであり、除算は引き算の繰り返しなので、 ひとつのクランクの回転方向を変えれば、どちらの計算にも対応できる。平方根の開平も除算で仕組みで行うことができる。計算結果をだすまでに、場合によっ ては数百回クランクを回すことになるかもしれないが、ともかくクランクを回し続ければ計算は終わる。
 ライプニッツはこれを実現するために、円筒形のシリンダの外壁に1から9まで段差がついた金属の細い角棒を付着させた歯車を考案した。円柱の側面の半分 足らずのスペースに、螺旋階段が9ステップだけ張り付いているような形状をしている。このシリンダに隣接する歯車は、入力用の数字盤の数字に応じて前後に スライドし、連続する数字の入力を設定できるようにした。後は、クランクを1回転させると、入力した数字が9であれば9個分の歯が動き、入力数字が3だと 3個分の歯が動く。



階差ドラムの仕組み © David G. Hicks 
<ステップ・ドラム図 http://www.hpmuseum.org/mechwork.htm#stepdrum>

 752 X 36の計算では、7、5、2を数字盤で指定すると、それぞれのシリンダに隣接する歯車は、毎回7、5、2の個数分の運動を伝える位置にスライドする。そし て手前のクランクを36回まわすと、答えがでる。クランクを回した数は、カウンタに自動表示される。最初のマシンでは、桁上がりが同時に発生すると、手作 業で調整する必要があった。ライプニッツは後に、各桁の桁上げと桁下げを1つ伝える2進スイッチと10進で桁送りを行うシフト機構を備えた累算器を導入 し、桁上げと桁下げを自動化して12桁までの答えを結果表示器(result register)で示せるようにした。
 ライプニッツは王立協会で木と真鍮で作った試作機を披露した後、計算機に何度も改良を重ね、1675年の初めにパリ科学アカデミーで公開実験を行った。 この実験は成功し、フランス国王、王立天文台、財務局のために計3台の計算機の制作依頼をもたらした。ただ、この計算機は大きな数の乗除算に使えるほど、 完成度が高いものではなかった。ライプニッツは1693年に、当初意図していた計算機を完成させたが、その後も8桁の数字を乗算して16桁で答えを表示で きる計算機の改良に、生涯をかけて取り組んだ。しかし、職人に恵まれることなく、満足がいく計算機を仕上げることはできなかった。
 

東京理科大学近代科学資料館 http://www.sut.ac.jp/info/setubi/museum/kannai/index.html

 商業的に成功した最初の計算機は、フランスの保険会社の社長、シャルル・ザヴィア・トマ(Charles Xavier Thomas, 1785-1870)が1820年に開発したアリスモメータで、1825年から1878年までに1,500台が販売された。ライプニッツの段差がついたシ リンダ型歯車(stepped drum)は、アリスモメータの心臓部となり、数字歯車の列の位置を可変にする仕組みが導入されて、入力した数字を10倍、100倍、1000倍にして乗 算することができた。アリスもメーターは、1930年まで製造された。その後もシリンダ型歯車は、ライプニッツの輪(Leibniz wheel)と呼ばれて、20世紀前半に製造された様々な卓上計算機で活用された。


アリスモメーター(Arithmometer 1820)


参考文献
E. J. Aiton「LEIBNIZ--A Biography」Adam Hilger Limited 1985: 邦訳「ライプニッツの普遍計画ーバロックの天才の生涯」渡辺正雄、原純夫、佐柳文男 訳、工作舎 1990
佐々木能章「ライプニッツ術ーモナドは世界を編集する」工作舎、2002