土曜日, 6月 30, 2012

A Japanese Thoreau of the Twelfth Century / Minakata Kumagusu and F. Victor Dickins/NOTES FROM A JO-SQUARE HUT.

『方丈記』
英訳 南方熊楠 ビクター・ディキンズ (1905年)

(平凡社版全集第10巻参照)

A Japanese Thoreau of the Twelfth Century
Minakata Kumagusu and F. Victor Dickins
The Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland
(Apr., 1905), pp. 237-264

http://www.jstor.org/discover/10.2307/25208760?uid=3738328&uid=2&uid=4&sid=21100883328581


http://etext.lib.virginia.edu/japanese/hojoki/ChoHojo.html

<My friend Mr. Minakata is the most erudite Japanese I have met with equally learned in tho science and literature of the East and of the West. He has frequently coutributed to Nature and Notes and Queries. He now lives near the town of Wakayaraa in Kishiu. In the second volume of the Life of Sir Harry Parkes, by Mr. S. Laue-Poole and myself (p. 160), will be found an interesting account by Lady Parkes of her husband's visit to the last Daimyo of Wakayama in March, 1870. The narrative ends with the sentence "It was like being in the fairyland."  The translation has been entirely remade by myself upon the basis of that of Mr. Minakata. The notes, save where otherwise indicated, are his, name what remodelled by myself.> (F. Victor Dickins)

参考:
http://www.minakatella.net/shoko/hojoki.html
http://www.archive.org/stream/journalroyalasi09irelgoog#page/n257/mode/2up
http://www.minakatella.net/letters/rirekisho11.html
http://chawantake.sakura.ne.jp/MinakataCode.html
http://tomoki.tea-nifty.com/tomokilog/2006/12/hojoki_by_kamo__befc.html





行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、ま たかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれ ば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、 いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに 生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、 何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへど も朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。いにし安元三年四月廿八日かと よ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、 ひとよがほどに、塵灰となりにき。火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげ たるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくく れなゐなる中に、風に堪へず、吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつゝ(しイ)心ならむや。あるひは煙にむせ びてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資材を取り出づるに及ばず。七珍萬寶、さながら灰塵と なりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が二(一イ)に及べりとぞ。男女死ぬ るもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれたあぢ きなくぞ侍るべき。』


また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること 侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けた はしらばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に置き、又垣を吹き拂ひて隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつく して空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりとよむ音 に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの 數を知らず。この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず。 さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。』



又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけ るより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。 されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京に(八字イ無)うつり給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとりふ るさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、ごする所なき ものは、愁へながらとまり居れり。 
軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用と する人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。その時、おのづから事のたよりありて、津の國今の京に到れり。所のありさまを見るに、その 地ほどせまくて、條理をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれ ば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたも侍りき。日々にこぼちて川もせきあへずはこびくだす家はいづくにつくれるにかあらむ。 なほむなしき地は多く、作れる屋はすくなし。ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。元より此處に居れる ものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。道のほとりを見れば、車に乘るべきはうまに乘り、衣冠布衣なるべきはひ たゝれを着たり。都のてふりたちまちにあらたまりて、唯ひなびたる武士にことならず。これは世の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき 立ちて、人の心も治らず、民のうれへつひにむなしからざりければ、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけ るにか、ことごとく元のやうにしも作らず。ほのかに傳へ聞くに、いにしへのかしこき御代 には、あはれみをもて國ををさめ給ふ。則ち御殿に茅をふきて軒をだにとゝのへず。煙のともしきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎものをさへゆるされき。これ 民をめぐみ、世をたすけ給ふに よりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。』

又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ 事どもうちつゞきて、五穀ことごとくみのらず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。これによりて、國々の民、或は地を 捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらにそのしるしなし。京のならひなに事につけて も、みなもとは田舍をこそたのめるに、絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさをも作りあへむ。

念じわびつゝ、さまざまの寶もの、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目みたつる人もなし。たまたま易ふるものは、金をかろくし、粟を重く す。乞食道の邊におほく、うれへ悲しむ聲耳にみてり。さきの年かくの如くからくして暮れぬ。明くる年は立ちなほるべきかと思ふに、あまさへえやみうちそひ て、まさるやうにあとかたなし。世の人みな飢ゑ死にければ、日を經つゝきはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには笠うちき、足ひきつゝみ、よ ろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものどもありくかと見れば則ち斃れふしぬ。


ついひぢのつら、路頭に飢ゑ死ぬるたぐひは數もしらず。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて、かはり行くかたちありさま、目もあて られぬこと多かり。いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。



しづ、山がつも、力つきて、薪にさへともしくなりゆけば、たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて市に出でゝこれを賣るに、一人がもち出でたるあ たひ、猶一日が命をさゝふるにだに及ばずとぞ。あやしき事は、かゝる薪の中に、につき、しろがねこがねのはくなど所々につきて見ゆる木のわれあひまじれ り。これを尋ぬればすべき方なきものゝ、古寺に至りて佛をぬすみ、堂の物の具をやぶりとりて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れあひて、かゝる心 うきわざをなむ見侍りし。』




又あはれなること侍き。さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が 身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事に て、親ぞさきだちて死にける。又(父イ)母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子の、その乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。仁和寺に、 慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、數しらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書き て、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀 より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける。いはむやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、にしの京、もろもろの邊地などをく はへていはゞ際限もあるべからず。いかにいはむや、諸國七道をや。
近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝるためしはありけると聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかに、かなしかりしことなり。』



(G)


ま た元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれ て谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。 或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひ しげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。


おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。その中に、あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついぢのおほ ひの下に小家をつくり、はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二つの目など一寸ばかり うち出されたるを、父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。


子のかなしみにはたけきものも恥を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかど も、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二 三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變を なさず。むかし齊衡のころかとよ、おほなゐふりて、東大寺の佛のみぐし落ちなどして、いみじきことゞも侍りけれど、猶このたびにはしかずとぞ。すなはち人 皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。』



(H)


すべて世のありにくきこと、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさまかくのごとし。



いはむや所により、身のほどにしたがひて、心をなやますこと、あげてかぞふべからず。もしおのづから身かずならずして、權門のかたはらに居るものは 深く悦ぶことあれども、大にたのしぶにあたはず。なげきある時も、聲をあげて泣くことなし。進退やすからず、たちゐにつけて恐れをのゝくさま、たとへば、 雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし貧しくして富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢてへつらひつゝ出で入る妻子、僮僕のうらやめるさまを見るに も、富める家のひとのないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて時としてやすからず。もしせばき地に居れば、近く炎上する時、その害をのがるゝこ となし。もし邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなれがたし。いきほひあるものは貪欲ふかく、ひとり身なるものは人にかろしめらる。寶あればおそ れ多く、貧しければなげき切なり。人を頼めば身他のやつことなり、人をはごくめば心恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし。またしたがはねば狂へるに似 たり。いづれの所をしめ、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし玉ゆらも心をなぐさむべき。』

(I)


我 が身、父の方の祖母の家をつたへて、久しく彼所に住む。そののち縁かけ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、つひにあととむることを得ずして、 三十餘にして、更に我が心と一つの庵をむすぶ。これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を造るにお よばず。わづかについひぢをつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として車やどりとせり。雪ふり風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所は河原近 ければ、水の難も深く、白波のおそれもさわがし。すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。その間をりをりのたがひめに、お のづから短き運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家を出で世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につ けてか執をとゞめむ。むなしく大原山の雲にふして、いくそばくの春秋をかへぬる。』



(J)


こゝ に六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあり。いはゞ狩人のひとよの宿をつくり、老いたるかひこのまゆをいとなむがごとし。これを中 ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだもおよばず。とかくいふ程に、よはひは年々にかたぶき、すみかはをりをりにせばし。



その家のありさまよのつねにも似ず。廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所をおもひ定めざるがゆゑに、地をしめて造らず。土居をくみ、うちお ほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へうつさむがためなり。そのあらため造るとき、いくばくのわづらひ かある。積むところわづかに二輌なり。車の力をむくゆるほかは、更に他の用途いらず。



  

いま日野山の奧にあとをかくして後、南にかりの日がくしをさし出して、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、うちには西の垣に添へて、阿彌陀の 畫像を安置したてまつりて、落日をうけて、眉間のひかりとす。かの帳のとびらに、普賢ならびに不動の像をかけたり。北の障子の上に、ちひさき棚をかまへ て、黒き皮篭三四合を置く。すなはち和歌、管絃、徃生要集ごときの抄物を入れたり。傍にこと、琵琶、おのおの一張をたつ。いはゆるをりごと、つき琵琶これ なり。東にそへて、わらびのほどろを敷き、つかなみを敷きて夜の床とす。東の垣に窓をあけて、こゝにふづくゑを出せり。枕の方にすびつあり。これを柴折り くぶるよすがとす。庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。すなはちもろもろの藥草をうゑたり。かりの庵のありさまかくのごとし。





その所のさまをいはゞ、南にかけひあり、岩をたゝみて水をためたり。林軒近ければ、つま木を拾ふにともしからず。名を外山といふ。まさきのかづらあ とをうづめり。谷しげゝれど、にしは晴れたり。觀念のたよりなきにしもあらず。



春は藤なみを見る、紫雲のごとくして西のかたに匂ふ。夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。



秋は日ぐらしの聲耳に充てり。うつせみの世をかなしむかと聞ゆ。冬は雪をあはれむ。つもりきゆるさま、罪障にたとへつべし。もしねんぶつものうく、 どきゃうまめならざる時は、みづから休み、みづからをこたるにさまたぐる人もなく、また恥づべき友もなし。殊更に無言をせざれども、ひとり居ればくごふを をさめつべし。必ず禁戒をまもるとしもなけれども、境界なければ何につけてか破らむ。もしあとの白波に身をよするあしたには、岡のやに行きかふ船をながめ て、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風、葉をならすゆふべには、潯陽の江をおもひやりて、源都督(經信)のながれをならふ。もしあまりの興あれば、しばし ば松のひゞきに秋風の樂をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。藝はこれつたなけれども、人の耳を悦ばしめむとにもあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、 みづから心を養ふばかりなり。』



(K)


ま た麓に一つの柴の庵あり。すなはちこの山もりが居る所なり。かしこに小童あり。時々來りてあひとぶらふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびあり く。かれは十六歳、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むることはこれおなじ。あるはつばなをぬき、いはなしをとる(りイ)り。またぬかごをもり、 芹をつむ。或はすそわの田井に至りて、おちほを拾ひてほぐみをつくる。もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み、木幡山、伏 見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を 過ぎて、石間にまうで、或は石山ををがむ。もしは、粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、をり につけつゝ櫻をかり、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉りかつは家づとにす。もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、猿の聲に 袖をうるほす。



くさむらの螢は、遠く眞木の島の篝火にまがひ、曉の雨は,おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたが ひ、みねのかせきの近くなれたるにつけても、世にとほざかる程を知る。 或は埋火をかきおこして、老の寢覺の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろふの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけてつくることなし。いはむや 深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしもかぎるべからず。大かた此所に住みそめしは、あからさまとおもひしかど、今ま(すイ)でに五とせを經た り。假の庵もやゝふる屋となりて、軒にはくちばふかく、土居に苔むせり。おのづから事とのたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、やごとなき人の、か くれ給へるもあまた聞ゆ。ましてその數ならぬたぐひ、つくしてこれを知るべからず。



たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞかりの庵のみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あ り。一身をやどすに不足なし。がうなはちひさき貝をこのむ、これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。我またかくの ごとし。身を知り世を知れらば、願はずまじらはず、たゞしづかなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす。



すべて世の人の、すみかを作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子眷屬のために作り、或は親眤朋友のためにる。或は主君、師匠、および 財寶、馬牛のためにさへこれをつくる。我今、身のためにむすべり。人のために作らず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべ き人もなく、たのむべきやつこもなし。たとひ廣く作れりとも、誰をかやどし、誰をかすゑん。』



(L)


そ れ人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先す。かならずしも、情あると、すぐなるとをば愛せず。たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。人のやつ こたるものは賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。



更にはごくみあはれぶといへども、やすく閑なるをばねがはず、たゞ我が身を奴婢とするにはしかず。もしなすべきことあれば、すなはちおのづから身を つかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。もしありくべきことあれば、みづから歩む。くるしといへども、馬鞍牛車と心 をなやますにはしか(二字似イ)ず。今ひと身をわかちて。二つの用をなす。手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝ ば、くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。つかふとても、たびたび過さず。ものうしとても心をうごかすことなし。いかにいはむや、常にありき、常に 働(動イ)くは、これ養生なるべし。なんぞいたづらにやすみ居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。』






(M)


衣 食のたぐひまたおなじ。藤のころも、麻のふすま、得るに隨ひてはだへをかくし。野邊のつばな、嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれ ば、姿を恥づる悔もなし。かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。すべてかやうのこと、樂しく富める人に對していふにはあらず。たゞわが身 一つにとりて、昔と今とをたくらぶるばかりなり。大かた世をのがれ、身を捨てしより、うらみもなくおそれもなし。命は天運にまかせて、をしまずいとはず、 身をば浮雲になずらへて、たのまずまだしとせず。一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯の望は、をりをりの美景にのこれり。』



(N)


そ れ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずは、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。おのづから都 に出でゝは、乞食となれることをはづといへども、かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。もし人このいへることをうたがはゞ、魚と鳥と の分野を見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居の氣味もまたかくの如し。住 まずしてたれかさとらむ。』

 








(O)


そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。



佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ。』



(P)


し づかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。然るを汝が姿は ひじりに似て、心はにごりにしめり。すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、たもつ所は、わづかに周利槃特が行にだも及ばず。



もしこれ貧賎の報のみづからなやますか、はた亦妄心のいたりてくるはせるか。その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三遍を申してやみぬ。時に建暦の二とせ、彌生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。



(Q)

「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」。

















火曜日, 6月 26, 2012

米原発監視、現場が勝負 常駐検査官が抜き打ち検査(朝日新聞)

http://www.asahi.com/news/intro/TKY201206210578.html

2012/06/22(金)朝日新聞朝刊

全米の原子力発電所には原子力規制委員会(NRC)の検査官が原則2人ずつ駐在し、安全が守られているかを厳しくチェックする。彼らは日々どんな活動をしているのか。南部テネシー州チャタヌーガ近郊のセコイヤ原発を訪ねた。
■日本と違い「書類に埋もれず」
「NRC」のヘルメットをかぶったケイル…
写真:タービン建屋の機器を調べるヤング検査官=テネシー州チャタヌーガ郊外、田中啓介撮影 
タービン建屋の機器を調べるヤング検査官=テネシー州チャタヌーガ郊外、田中啓介撮影






火曜日, 6月 19, 2012

栄養学、料理

              (栄養学@リンク::::::::::

NAMs出版プロジェクト: 栄養学、料理

http://nam-students.blogspot.jp/2012/06/blog-post_19.html@
NAMs出版プロジェクト: 味覚の種類:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/02/blog-post_7.html


僕が秘かに栄養学における柄谷行人と呼んでいるのが丸元淑生だ。惜しくも最近亡くなられたが、考え方は今も正しいと思う。

「丸腰で戦うな、装備を整えろ」

貧困と栄養バランスの欠落に対する正確なアドバイスだ。
NAM東京事務所で小沢さんという同じ丸元愛読者の方と丸元流のおでんを作ったのはいい思い出だ。
資本の分析は今自分が食べているものの分析から始まる。

http://blog.livedoor.jp/journey893crow/archives/1609535.html
 〈人間も含めて自然界の動物は、体が求めるものだけを無意識に食べているだけで栄養バランスが保てるようにプログラミングされていると言っていたのは丸元淑生さんだったでしょうか。自然に備わったその感覚を狂わせるのが飽食習慣なのでしょうね。〉

昔なら果物を摂ることでビタミンCを摂れたが、今は甘いものを食べろという間違った指令だけが残ったという。人間の本能が壊れているのだ(『丸元淑生のシステム料理学』参照)。

丸元の言説の細部にこだわる前に、考え方を見習うべきだろう。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%85%83%E6%B7%91%E7%94%9F
丸元 淑生(まるもと よしお、1934年2月5日 - 2008年3月6日)は、作家、料理研究家。大分県生まれ。東京大学仏文科卒。1978年「秋月へ」で芥川賞候補、1980年には二度芥川賞候補。『丸元淑生のシステム料理学』で自身の健康のために栄養によく廉価な料理の方法について書き、以後もっぱら栄養の点から見た料理の研究家として著書多数。 2008年3月6日、食道がんで死去、74歳。

以下メモ:



http://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/hobby/color/color_1/post_223.html

味覚の種類

かつて基本的な味の要素として挙げられていたものには、甘味、酸味、塩味、苦味、辛味、渋味、刺激味、無味、脂身味、アルカリ味、金属味、電気の味などがあった。1901年、ヘーニッヒ (D. P. Hänig) はアリストテレスの示した4つの味の舌の上での感覚領域[1]を示した。しかし今日ではこの説は否定されている。1916年、ドイツの心理学者ヘニング(Hans Henning)は、この4つの味とその複合で全ての味覚を説明する4基本味説を提唱した。ヘニングの説によると、甘味、酸味、塩味、苦味の4基本味を正四面体に配し(味の四面体)、それぞれの複合味はその基本味の配合比率に応じて四面体の稜上あるいは面上に位置づけることができると考えた。

日本では1908年に池田菊苗がうま味物質グルタミン酸モノナトリウム塩を発見した[2]。このうま味は4基本味では説明できないため、日本ではこれを基本味とする認識が定まった。しかし西洋では長らく4基本味説が支持され続け、うま味が認められたのは最近のことである[3]。現在では甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5つが化学受容体を介して膜電位の活性化を引き起こしていると考えられており、生理学的にはこの5つが味覚であるといえるため、五基本味と位置づけられる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E8%A6%9A
 2010年03月12日 22:47

味覚の受容体 [編集]

味覚受容体細胞は複数の化学物質刺激に対して膜電位が活性化され、その強度は化学物質によって異なる。1つの味覚受容体細胞に対して複数の神経がシナプス接合している。受容体細胞側では膜電位が伝達されると、Ca2+チャネルの働きにより、セロトニン(5-HT)がシナプス間隙に放出され、神経に刺激が伝達される。

味覚の刺激量と感覚の強度との関係は、他の感覚と同様で、刺激量のべき乗に比例して感覚の強度が大きくなる。一方、味覚の種類によって最小感度(閾値)と強度応答は異なる。一般に

苦味が最も感度が高く、
 塩味、
     酸味、
      甘味と続く。また、

苦味と塩味は応答範囲が広いが、
     酸味、甘味は狭く、

特にショ糖による甘味は高濃度で応答が飽和する。
 





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