木曜日, 10月 25, 2012

cogito ergo sum変奏:改訂版

        (デカルトリンク::::::::::
NAMs出版プロジェクト: cogito ergo sum変奏:改訂版
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/cogito-ergo-sum.html(本頁)


デカルトによる量の次元の統一(1637年):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/blog-post_16.html
NAMs出版プロジェクト: 知覚、視覚、触覚。メルロ=ポンティ:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post_30.html

Sartre par lui même (1976) サルトル―自身を語る 
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/sartre-par-lui-meme-1976_24.html 

以下『方法序説』ちくま学芸文庫山田弘明訳より

《…「私は考える、ゆえに私はある」115…》56頁

《115 原文はJe pense, donc je suisである。この命題は解釈者たちによってラテン語でcogito, ergo sum
(コギト·エルゴ·スム)と表記され、デカルト哲学の標語とされてきた。だが、厳密に言えばデカル
ト自身がこのラテン語表記をしたことは一度もない。『省察』[1641]では、Ego sum, ego existo (私はある、
私は存在する。AT. VII. 25)となっていて、ergoがなくegoやexisto という語が付加されている。
『[哲学]原理』[1644]ではego cogito, ergo sum (私は考える、ゆえに私はある。第一部七節)、『[方法]序説』[1637]のラテン語
訳でもEgo cogito, ergo sum, sive existo (私は考える,ゆえに私はある、あるいは存在する。AT.
VI.558)となっている。『真理の探究』[la recherche de la verite 1684?,1701?]に一箇所だけcogito, ergo sum(AT. X.523)とあるが、これ
は第三者による翻訳である。こうした表記の相違を根拠として、『序説』と『省察』とではコギト命題
の意味が異なるとする解釈(アルキエやマリオン)が出てきている。》234~5頁脚注
山田は「厳密に言えばデカルト自身がこのラテン語表記をしたことは一度もない」と書くが、
むしろ厳密に言えばあるということになるのではないか?
特に『哲学原理』(1644)のego cogito,ergo sumにはcogito,ergo sumが含まれる。


Cogito ergo sum
https://fr.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum
https://translate.google.com/translate?sl=auto&tl=ja&u=https%3A%2F%2Ffr.wikipedia.org%2Fwiki%2FCogito_ergo_sum
我思う、故に我在り
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86%E3%80%81%E3%
82%86%E3%81%88%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A
我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、Je pense, donc je suisCogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la méthode)[1637]の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』(1637)の他、『省察』(1641)、『哲学原理』(1644)、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し[1]Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている[2]

  1. ^ ルネ・デカルト著『方法序説』落合太郎訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1967、「解題」6-7頁
  2. ^ ルネ・デカルト著『方法序説』、山田弘明訳、ちくま書房〈ちくま学芸文庫〉、2010、234-235頁
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis フランス語である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我ありコギト・エルゴ・スム cogito ergo sumラテン語とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである[2]。方法序説はラテン語訳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」との表現がとらえている[3]
  1. ^ ルネ・デカルト『方法序説』、山田弘明訳、ちくま書房〈ちくま学芸文庫〉、234-235頁
  2. ^ ルネ・デカルト『方法序説』落合太郎訳、岩波文庫、訳者「解題」6-7頁によれば、幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Etienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲したとのことである。


「我思う、故に我あり(cogito ergo sum. 正確には、ego cogito , ergo sum .)」
  デカルト(1596-1650『方法序説』『哲学原理』他)

「〈私は歩行しつつある〉、ゆえに〈私は歩行である〉(je suis promenant, donc je suis une promenade)」
  ホッブズ(「省察 第3反論」邦訳『デカルト著作集』209頁)
  http://www.gutenberg.org/files/13846/13846-h/13846-h.htm#footnotetag56

「我歩く、故に我あり(ego ambulo, ergo sum)」
  ガッサンディ(上記のホッブズと混同されがち。発言のある『形而上学探究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
  http://books.google.co.jp/books/about/Disquisitio_metaphysica.html?id=6uMUAAAAQAAJ&redir_esc=y

「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」
  スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)

「私は思惟する事物である 」
  ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )

「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」
  ジョージ・バークリー(『人間原理論』§3)

「私たちはどのような原因が私たちをして物体の信念へと誘うのかと問うてもよい。しかし物体が存在するのかどうかを問うことは無駄である。これは私たちのすべての推論において認められものとしなければならない点である。」
  ヒューム(『人間本性論』1.4.2、中公世界の名著27,461頁)

「我思う=我あり(同語反復)」?
  カント(『純粋理性批判』A355)

「〈私は考える〉とは、私の一切の現象に伴い得るのでなければならない」
  カント(『純粋理性批判』B132、岩波文庫上 篠田訳P.175。B422-3の注に詳しい。B277をはじめ、B428、A347、A370にも関連した考察がある。)

「我思われる、故に我あり」
  フランツ・バーダー((Franz Xaver von Baader、1765-1841全集12,16)
  http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html

「人間は自己のたんなる思惟のためにも、〈われ〉に対応する〈汝〉に憧れる。」
  ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm  von Humboldt、1767-1835。フンボルト『双数について』より(邦訳31頁別訳)。後年、マルティン・ブーバー(Martin Buber, 1878-1965)が「対話」(『我と汝』岩波文庫217頁)で引用。)

「かれはおおもとにさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」
  ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770-1831『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)

「我々が存在するということから我々が表象を有することを知るのではなくて、逆に我々が表象を有することによって始めて我々もまた存在することを知るのである」
  ボルツァーノ(Bernard Placidus Johann Nepomuk Bolzano、1781-1848、『知識学』§42、未邦訳より。創文社、藤田伊吉著『ボルツァーノの哲学』57頁より孫引き。)

「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」
  ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer、1788-1860、『続意志と表象〜』第4章)

「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」
  フォイエルバッハ(Paul Johann Anselm von Feuerbach, 1775年11月14日 - 1833年5月29日。『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)

「わたしはある。わたしはあるという者だ」[『出エジプト記』三章十四節]
  プルードン(Pierre Joseph Proudhon;1809年1月15日-1865年1月19日)が『貧困の哲学――経済における矛盾の体系』(1846年)のプロローグで批判的に引用。
  http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.html
  http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.pdf

「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる(Cogito cogito ergo cogito sum われ思うとわれ思うがゆえにわれありとわれ思う)」
  アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)

「Sum, ergo cogito(私が存在する、ゆえに私が考える)」
  ニーチェ(『悦ばしい知識』(Die Fröliche Wissenschaft)§276。文法的に逆転するだけでは意味がないという指摘も含めて、これはハイデガーに先行する認識である。ニーチェは『善悪の彼岸』§54でも主語重視のデカルト及び述語重視のカントを批判している。)

「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
  フッサール(1859-1938『デカルト的省察』§14)

「デカルトのコギトそれ自体を分析すべきではない。それはそれだけで完結するような推論ではない。それ自体は何の意味も持っていない。
 コギトは壮麗な叫び,劇的な文句,文学的動作,つまり,決定的行為ないしは心理的クーデタである。」
  ヴァレリー(1871-1945「カイエ(ノート)」Cahiers,T.5,P.144)

「もしも〈コギト〉があれほど繰り返し彼の著作の中に、すなわち『方法序説』に、『省察』に、『哲学原理』に見いだされるとすれば、それは〈コギト〉がデカルトに対して彼の本質をなす〈エゴチスム〉に集合を命ずるラッパを吹き鳴らすからにほかならない。」
  ヴァレリー(1871-1945「デカルト考」『ヴァレリー集成4 精神の〈哲学〉』邦訳70頁)

「考えがある( "There are thoughts" (or "Thinking is occurring"))」
  ラッセル(1872-1970『西欧哲学史3』邦訳560頁)

「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)
(he replied "Cogito ergo sum. That’s a very peculiar sentence", pointing to his own head at the words "cogito" and "sum".)
  ウィトゲンシュタイン(アントニー・フリューの回想より。意味不明だが行為の重要性を強調したものとも考えられる。『青色本』(ちくま文庫160頁)では代入できない自己が考察される。)
  http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html

「思うということが我なのである」
  ウィトゲンシュタイン(出典不明。下記サイトには出典なし)
  http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/118.html#id_3f18de39

「〈sum cogito〉(われ存在す、われ思惟す)…最初の言明は〈sum〉であり、しかも、〈われ世界の内にあり〉という意味でのそれである。」
  ハイデガー(Martin Heidegger、1889-1976『存在と時間』§43。ちくま文庫上440頁。ニーチェと同じ言い換えをしつつ、さらに補足している。)

「…デカルト的カテゴリー錯誤…。結局、デカルトは問題の論理を誤ったのである。」
  ギルバート・ライル(Gilbert Ryle、1900-1976『心の概念』邦訳15〜19頁)

「〈我思う〉というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした〈私は嘘をつく〉以上に確固としたものではない。」
  ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901-1981「同一化」セミネール9)
  http://yokato41.exblog.jp/15189066/
  http://psychanalyse.jp/archives.html

「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」
  ラカン(「ファンタスマの論理」セミネール14

「…《我れのみひとり絶対として存在する》と定式化するかわりに、《絶対的意識のみひとり絶対として存在する》と表明すべきであろうし、これはあきらかに自明の理なのだ。実際、私の《我れ》は、意識にとって、他の人々の《我れ》よりも一そう確実だということはない、ただ、一そう親密なだけである。」
  サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905 - 1980、「自我の超越」1937、邦訳「哲学論文集」241頁)

「…この(無限なる)神との関係において、コギトの有限性あるいは懐疑がたてられ、認識されるのである。…有限なるコギトが無限なる神に依拠するとしても、この依拠は神の単なる主題化ではない。いかなる対象をも私は自力で解明し内包する。が、無限の観念は私にとって対象ではない。」
  レヴィナス(1906-1995『全体性と無限』3:B5、柄谷『探究2』単行本108-9頁参照)

「意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。」
  メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.160、邦訳一、232頁。フッサールの未刊書「還元の問題性」等?でしばしば使用される言葉らしい。)
  http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0504.htm

「ひとが思惟する、ゆえにひとが存在する(On pense, on est)」
   メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.459、邦訳二、292頁。黙せるコギトと語られたコギト、意識は言語を構成するのではなく てひき受けるのだ、ということらしい。黙せるコギトが〈On〉ということだろう。フッサールとともにフロイトに近い認識だ。)

「サルトルは、自分のコギトの虜囚になっている。」
  レヴィ=ストロース(1908-2009『野生の思考』邦訳300頁)
  http://homepage2.nifty.com/teiyu/idea/in_1206.html

「我思う、ゆえに、そこにすでに我なし」
  福岡正信(1913年2月2日 - 2008年8月16日『無2 無の哲学』1985,春秋社、22頁)

「〈差異〉は…〈規定作用ソノモノ[私は思考する]〉と〈それが規定するもの[私の存在]〉とのあいだの先験的な〈差異〉として発見される…」
  ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日『差異と反復』第二章、邦訳142頁)

「コギトは哲学的になった共通感覚(サンス・コマン)である」
  ドゥルーズ(『差異と反復』第三章、p.170、邦訳210頁)

「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
  ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)

「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」
  フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)

「わたしが気狂いであろうがなかろうが、Cogito,sum(わたしは考える、わたしは存在する)なのであります。」
  デリダ(「コギトと『狂気の歴史』」『エクリチュールと差異』上邦訳108頁)

「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」
  ゴダール(『映画史』1B)

「君あり、故に我あり」
  サティッシュ・クマール(1936- 同名書名より)

「無限のなかで疑いつつわれ在り」
  柄谷行人(『探究2』第二章単行本110頁)

「コギトとは、そうしたシステム間の〈差異〉の意識であり、スムとは、そうしたシステムの間に〈在る〉ことである。」
  柄谷行人(「非デカルト的コギト」『ヒューモアとしての唯物論』文庫版94頁)
  http://blogs.yahoo.co.jp/jkrt8888/34586313.html

「…ボク苦しいよ、だからボクは生きている、あぁ存在しているよ…("I suffer, therefore I am" )」
  ジジェク(1949- 『厄介なる主体 2』邦訳71頁(Ticklish 281)) 


一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。


追記(番外編):

「…thinking is to be conscious that we exist... 」
  アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『ニコマコス倫理学』1170a25 ff)
  http://en.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum#Predecessors

「…また思考しているときには思考しているということを知覚するのであるとするならば、またもし、知覚していることを知覚し、思考していることを知覚するということはわれわれの存在していること知覚することにほかならないとするならば、(なぜならわれわれ人間にとっては存在するということは知覚し思考することであったのだから、)…」
  アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『ニコマコス倫理学』第9巻第9章、岩波文庫下140頁)

「われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )」
  アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354- 430、『神の国』11:26(邦訳岩波文庫第三巻70頁別訳)。パスカルが「幾何学の精神について De l'esprit géométrique」1657でデカルトと比較した際の指摘と関連する。引用は別箇所。アルノーも反駁で使用した。教文館版全集第13巻74頁の訳だと「もしわたしが欺かれるとすれば、わたしは存在する。」<si enim fallor, sum.>同300頁。 )

「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できるなら神なしですませたいと思っただろう。」
  パスカル(1623-1662『パンセ Pensées』断章77、柄谷『探究2』単行本102頁参照)
  http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20120629/1340917610

追記:

第4 八つの詩句の章 14.迅速
https://intweb.co.jp/miura/myhaiku/buda/buda_4_14_tunoshiku.htm

「ブッダのことば」スッタニパータ  中村元 訳(岩波文庫)

915
[問うていわく──]「・・・・修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」
916
師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。…」

火曜日, 10月 23, 2012

カント: たんなる理性の限界内における宗教(「チョムスキーとカント」改題)

             (カント:インデックス、→リンク::::::
NAMs出版プロジェクト: アウグスティヌス『神の国』
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_42.html(参考)
宗教:インデックス(ネーション内のサブインデックス)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post_88.html
『たんなる理性の限界内の宗教』:目次
"Die Religion innerhalb der Grenzen der bloβen Vernunft" (1793;1794)

第一編
 悪の原理が善の原理とならび住むことについて、あるいは人間本性のうちなる根元悪について
第二編
 人間の支配をめぐっての善の原理による悪の原理との戦いについて
第三編
 善の原理による悪の原理にたいする勝利、そしてこの世での神の国の建設
第四編
 善の原理の支配下における奉仕と偽奉仕について、あるいは宗教と聖職制について

岩波版全集付録:
宗教哲学序文準備原稿
たんなる理性の限界内の宗教のための準備原稿

     |  
     |  1(質)
_____|_____
     |  | 3
  2  |__|__
 (関係)| 神の国
     |4 |  

柄谷行人『世界共和国へ』で、チョムスキーの国家に関する講演☆が引用されていたが、チョムスキーはその元となる講演で、フンボルトに続いてカントを引用していた。

以下、その引用元である『たんなる理性の限界内の宗教』第4編第2部第4節原注(邦訳岩波版全集第10巻255頁)より

 (原注)賢明な人々でもよく用いる表現で、正直にいって、どうも私にはなじめないのであるが、それは、ある民族(法的自

  由の取り扱いにはこの民族もふくまれている)がまだ自由の段階にまで成熟していないとか、土地所有主の農奴がまだ自由
  の段階にまで成熟していないとか、一般に人間はまだ信仰の自由の段階にまで成熟していない、といった表現である。しか
  しこのような前提にしたがうなら自由が生じることはけっしてあるまい。そもそもあらかじめ自由のうちに置かれていなけ
  れば、自由の段階にまで成熟するなどということはありえないのである(自由において力を合目的的に利用しうるには、ま
  ず自由でなければならないのである)。もちろん、はじめのうちはさまざまな試みも粗野であろうし、ふつうそうした試み
  にはいまだ他人の命令を受け、配慮をも受けていたときよりも困難で危険な状態も結びついていようが、しかしこと理性に
  関しては、自分で試みる以外にはけっして成熟しないのである(試みてもよいという点では、自由でなければならないので
  ある)。権力を掌握している人々がこれら三つのくびきを断ち切るのを、時勢のためにやむをえずさらに先へ、非常に先ヘ
  と延ぱすことがあるが、これには私も異存はない。しかしそうした人々が自分たちに隷従しているからには、彼らにはそも
  そも自由は適していないし、彼らをいつまでも自由から遠ざけておいてよいのだということ、これを原則とすることは神性
  の人権を、神性は人間を自由のために創造したもうたのに、その人権を侵害することなのである。このような原則を実施で
  きれば、もちろんその方が国家や家や教会は支配しやすい。しかしはたしてその方が正しいのであろうか。


チョムスキーとカントはアプリオリな言語観以外は相性が悪いような気もするが、この生前発禁になった著作から自由主義に関して好意的な部分を選び取って引用したのはさすがだと思う。

☆:
Tangible Information: Noam Chomsky lecture from 1970 (!) -- full text transcript
http://tangibleinfo.blogspot.jp/2006/11/noam-chomsky-lecture-from-1970-full.html
Government in the Future - Noam Chomsky - Google ブックス
http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=xAFOAfSO-EYC&q=kant   
_____________________

参考:

http://homepage2.nifty.com/ytyt/Kant1.html

『たんなる理性の限界内における宗教』の序文でカントは、伝統の宗教に対して、
純粋理性宗教の構想を明かにしている。啓示宗教は端的に聖書をさしているので
あるが、純粋理性宗教は聖書の史述によらずそれ自身で存立する一つの体系であ
るとされる…

純粋理性宗教と啓示宗教とは互いに無関係に存立している二つの宗教ではない。
理性と聖書のあいだには一致が見出されるのであって、両者はおなじ中心をもつ
二つの円にたとえられる。「…私は啓示を信仰のより広い範囲とみることができ
よう。それは、純粋理性宗教をより狭い範囲として自己のうちにふくんでいる。
哲学者は、後者の範囲内で純粋理性の教師としてふるまうのである」*と述べら
れている。

   _啓示宗教_
  /      \
 /   __   \
|   /  \   |
|  |理性宗教|  |
|  |    |  |
|   \__/   |
 \        /
  \______/

(「啓示宗教」が大きい円で、「理性宗教」が小さい円)

たしかに、啓示宗教は純粋理性宗教をふくむところの大きな全体である。それだけ
豊富な内容が聖書の記述に見出される。だが、このことは啓示宗教の優位をすこし
も意味してはいなかった。むしろ、中心からより一層遠い内容、宗教の本質に直接
かかわりをもたない経験的なものをそれだけ多くふくんでいるにすぎない。反対に、
中心に近ければ近いだけ、それは純粋理性宗教の内容に入ってくる。


岩波版全集では以下、

「…私は啓示を、信仰のより狭い領域としての理性宗教をふくんだ、より広い信仰
領域だと(二つのたがいに離れて存在する円ではなく同心円だと)見なせようし、
哲学者は、この狭い方の領域内で(アプリオリな原理にのみもとづく)純粋な理性
教師として身を持さねばならず、したがってその際、あらゆる経験を度外視しなく
てはならないのである。」
(『たんなる理性の限界内の宗教』第二版序文、邦訳岩波版全集第10巻19頁)

____________

 デカルト
    スピノザ
プルードン    ヘーゲル
 マルクス 空海 カント
 坂本龍馬    ハイデガー
     柄谷 フロイト
ドゥルーズ    老子
 アドルノ    パーソンズ
 カレツキ ゲゼル
    ライプニッツ
 スポーツ    文学
     ガンジー
     ラカン
     ニーチェ ショーペンハウアー 
      孔子 
          インド哲学

インドのシュリーアントラ(Sriyantra)


                 (リンク:::::::::数学

NAMs出版プロジェクト: ラマヌジャン

http://nam-students.blogspot.jp/2016/12/blog-post_21.html

NAMs出版プロジェクト: インドのシュリーアントラ(Sriyantra)

http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/blog-post_23.html@

NAMs出版プロジェクト: インド唯名論と実在論:再送

http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post_30.html

BEST Sri Yantra Documetary on YouTube | An Electro-Magnetic Meditation
https://youtu.be/Q7r8_RONqLA


以前、スピノザ図解に使用したダビデの星()は、インドのタントラ派(=シヴァ派)*が瞑想に使用したシュリーアントラ(Sriyantra)↓に似ている(『非ヨーロッパ起源の数学』319頁以下参照)。

*(五世紀以降?に隆盛。ヨガ派に分類される?金剛界曼荼羅の東に位置する阿閦如来に関係する。)

Sriyantraは、頂点が上向き(女性的、性力)5つ、下向き(男性的、知恵的)4つの三角形を組み合わせた瞑想を補助する図形。

内から外が創造的、
外から中が破壊的、
二種の瞑想がある。

多数の三角形の中に神の名が書かれる場合もある。

参考:
kulaichev 1984 indian journal of history of science 19





Kulaichev, A. P. 1984. Sriyantra and its Mathematical Properties. Indian Journal of History of Science 19: 279-292.

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https://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:7qsIIQ2bF7gJ:www.new.dli.ernet.in/rawdataupload/upload/insa/INSA_1/20005abd_279.pdf+&hl=ja&gl=jp&pid=bl&srcid=ADGEEShbOmfWuycwWKM6d5XCjLK-MoEjdpTeROpYN3Iwledpt7vdcLITR3NqCgh3UoZaCZQjtnfoR-XYmGxPOMNUigs_G_nR105KNHl75WldMU3wMJvICtkROxLYLpaz0lKqY9SlQvTz&sig=AHIEtbRzr6LGuHUbg51C0txCImmfvijrpw














火曜日, 10月 16, 2012

スピノザの顔:メモ

 スピノザ(1632-1677)の肖像画に関しては、

The face of Benedictus Spinoza

Simon L. Millner
Machmadim art editions, inc., 1946

が詳しい。

1647?(スピノザ15歳頃)
http://www.actu-philosophia.com/spip.php?article330
Pieter de Jode, gravure du révolutionnaire Napolitain Masaniello (1622 – 1647) . La gravure serait une reproduction d’un autoportrait de Spinoza, le « Masaniello de la métaphysique »



年代不明
http://www.phillwebb.net/History/Modern/Spinoza/Spinoza.htm

 フェルメール「天文学者」1668
http://www.site-andoh.com/kimono.htm

Simon L. Millnerによると(上記書24頁)残念ながら伝記作家コレルスも証言したスピノザの持参したスケッチブックはスピノザの死後に紛失したようだ(前出の、スペインの革命家を模した肖像画やフェルメール「天文学者」との類似が話題になった自画像はここに収められていたらしい)。



self?-portrait of 1660
http://caute.ru/spinoza/gala.htm



Baruch de Spinoza (1632-1677) Portrait, ca. 
1665 (Gemäldesammlung der Herzog-August-Bibliothek, Wolfenbüttel, Germany)
 





http://caute.ru/spinoza/galc.htm
portrait
van Hoogstraten, 1670
A drawing on embossed scarper-board
Harold F. Hallett



1673
VAILLANT, Wallerant


http://caute.ru/spinoza/gala.htm

Enkele portretten van Spinoza | KB Website
http://www.kb.nl/denker-op-het-scherm/benedictus-de-spinoza/enkele-portretten-van-spinoza
http://www.pastellists.com/Articles/VaillantW.pdf#search='spinoza+vaillant'
VAILLANT, Wallerant
Lille 1623 – Amsterdam 1677





copperplate engraving
Francois, 1761
http://caute.ru/spinoza/gala.htm


Afbeeldingen van Spinozalocaties: Rijnsburg en Den Haag | KB Website
http://www.kb.nl/denker-op-het-scherm/benedictus-de-spinoza/afbeeldingen-van-spinozalocaties-rijnsburg-en-den-haag



http://spinoza.blogse.nl/log/afbeelding-wolfenbuttel-spinoza-aan-te-schaffen.html
Afbeelding Wolfenbüttel-Spinoza aan te schaffen
Op dit weblog heb ik er jaren geleden wel eens over geklaagd dat er op internet geen 'normale' afbeelding van Spinoza kan worden aangeschaft, behalve dan ingelijste plaatjes van vijandige grafieken of van deze rechter figuur die zeker niet Spinoza voorstelt.
Maar sinds kort is daar verandering in gekomen. BijKunstkopie.nl is onderstaande afbeelding  van Spinoza uit de Herzog August Bibliothek Wolfenbüttel aan te schaffen, op canvas of ander materiaal afgedrukt en voorzien van een zelfgekozen lijst. Kunstkopie.nl heeft de afbeelding van Bridgeman Berlin. U betaalt copy-rechten

Het lijkt me nuttig dat u, bezoeker van dit weblog, daarvan op de hoogte bent.


http://www.worldcat.org/title/face-of-benedictus-spinoza/oclc/609166830?referer=di&ht=edition
The face of Benedictus Spinoza
著者: Simon L Millner
出版: [New York, Machmadim art editions, Inc., 1946]
http://caute.ru/spinoza/gala.htm

prime
gallery
texts
links
project
page
I
II
III

portrait of 1660
Reading Spinoza - Portraits. Gallery I
The face of Benedictus Spinoza-http://books.google.co.jp/

The face of Benedictus Spinoza


Simon L. Millner
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Machmadim art editions, inc., 1946 - 51 ページ


Simon L. Millner は彫刻や後世の創作に関しても言及している。

デカルトによる量の次元の統一:メモ

        (デカルト数学リンク::::::::::
NAMs出版プロジェクト: デカルト:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/blog-post_16.html
デカルトによる量の次元の統一(1637年):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/blog-post_16.html(本頁)

【作図】ルートaを作図します!例題で√7の作図も!【初等幾何学】 https://youtu.be/DxVhWvXkXq4

https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/09/finding-square-roots-geometrically.html

デカルトによる数学的功績のひとつに、量の次元の統一がある。
(近代的自我の哲学的基礎づけなどはデカルトの功績の一部にすぎない。リンク:→四則演算コギト変奏)。
 
以下、半円を使用したデカルト「幾何学」該当部分の説明の邦訳(上半分の相似な図形の比を用いた線分による説明は省略)。

[平方根の抽出]


「…GH[図]の平方根を出さねばならぬとすれば、それと一直線上に単位であるFGを加え、FHを点Kで二等分して、Kを中心とする円FIHを描き、点Gか らFHと直角にIまで立てる。GIは求める根である。立方根その他についてはあとで述べる方が都合がいいから、いまは何も言わないでおく。」
(「幾何学」邦訳『デカルト著作集1』4頁より)

 ___________________


ただし、このデカルトの説明だけでは初学者にはわからないかもしれない。それは以下の書籍で紹介されているユークリッド第二巻の証明が前提になっているのに、その説明が自明なものだとして省略されているからだ。

以下、 日本の数学西洋の数学―比較数学史の試み (中公新書 ... より

日本の数学西洋の数学―比較数学史の試み』 (中公新書 611): 村田 全: 本. ... 村田/全 1924‐2008年、神戸市生まれ。北海道大学数学科卒業。立教大学教授、桃山学院大学教授などを歴任。


 「量の次元の統一の要求」28−29頁


       D
       |
      x             
      |
A_____B___C
    a     b


x^2 = ab の幾何学的解法
AB=a,BC=b として、AC=a+bを直径とする半円を描き、
Bに垂線を立てて半円との交点をDとすると、BDが求める長さ x
である。
このことは △ABDと△DBCとが相似となることから、

  a:x= x : b すなわち x^2=ab

として証明される。
ただし『原論』第2巻では、まだ相似の理論が示されていないので、
この定理も第2巻の定理を使って別の形で証明されている。

(日本の数学西洋の数学―比較数学史の試み (中公新書 ): 村田全 29頁)

参照:
"ユークリッド原論 縮刷版" ユークリッド 著
http://drunkard-diogenes.blogspot.jp/2011_12_01_archive.html
[ 第2巻: 幾何学的代数 ]
 命題14: x^2 = ab

別の解説:
http://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/j-kadaimath/0401/index.htm


4.   
平方根の作図(第3学年)
 デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。しかし,デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分は図3の作図で与えられる線分の長さとして考えることができる。


例:
    √0.25=0.5
    |
____|_
  1  0.25


   √4=2
    |
    |
    |
    |
    |
    |
    |
____|________________
  1          4


√4=2
 |
_|____
1   4


 こうして,デカルトによってすべての数式は線分の長さとして考えられ,それに代数的演算を行ってもまた線分の長さとして与えられることが示された。つま り数式の演算と図形の作図とが結びつけられ,数式の演算がそのまま図形の研究に用いられるようになった。このことが次の時代のニュートン (1642~1727)の運動力学の研究に用いられ,そのまま現代科学の発展に大きく貢献している

///////

http://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/j-kadaimath/0401/index.htm

数学史点描「デカルトの業績をたどる」
神戸市立桜の宮中学校
崎 正則
1.はじめに

 最近の中学校の数学では,授業時数の削減に伴い,内容の精選などから最低限の授業を行い,時間があれば定着のための計算演習を繰り返すというやや「味気ない」授業が展開されているケースが多い。
 課題学習の大切さが言われても,実施する余裕がなく,一方でそれまでの授業との関連がない内容のものを突然実施しても,生徒たちにとって「なぜこの課題が?」と課題学習の目的を理解できない場合が多く,効果を上げていない。
 そこであらためて1時間の授業を組むのではなく,ひとつの単元の授業の流れの中で動機付け,まとめなどの場面で適当に配置でき,教科書や問題集にない(あるいははずれた)内容に触れつつ,かつ授業内容をバックアップするような課題学習の作成に取り組んだ。
 そのひとつとして,歴史のなかで数学の進歩に貢献した人物を点描し,彼等の足跡,業績をたどりながら,今学んだことの本当の大切さやその背景にある考え方の深まりを感得させることができるような授業を考案した。
 すでに教科書でも取り上げられたことがあるが,ギリシャのターレスの相似の話,アルキメデスの円周率の計算,ピタゴラスと彼の教団等々,歴史上の数学者 は個性的である。これらを中学生に分かりやすく噛み砕いて話していると,参考書や問題集では知ることができない生き生きとした現実の数学の世界に触れ,生 徒たちの意欲・関心を大いに高めることができる。
 このような研究の流れのなかで,今回このレポートでは「デカルトの業績」をたどりながら,座標,相似な図形,平方根,三平方の定理などに触れていく課題 学習を例示する。1年から3年までの内容を含んでおり,全部を1時間で行うとすれば少々多めである。そこでどの学年でも,必要に応じて一部省略して用いる ことができるようにしてある。
  関係ある単元は,
  1) 第1学年 比例と反比例:座標
  2) 第2学年 図形と証明:証明のしくみ
  3) 第3学年 平方根:平方根
  4) 第3学年 図形と相似:平行線と線分の比
  5) 第3学年 三平方の定理:三平方の定理の利用
である。

2.授業の内容

(1)  デカルトおよびその背景について

 ほとんどの生徒たちにとって「デカルト」は初めて聞く名前だろう。最初にデカルトの肖像(右図)を提示し,彼の生涯やその業績について簡単にたどってみる。私がまとめた主な足取りは以下のとおりである。
Rene Decartes
デカルト(1596~1650)

[ルネ デカルト(Rene Decartes)]
  1) 1596 フランス トゥレーヌ州ラエに生まれる。
 富裕な支配階級の出自であるが,母をなくし,祖母たちの手で育てられる。生来,体が弱かった。
  2) 1606 フランス ラフレーシュの学校に入学。校長シャルレ(生涯彼のよき理解者)によって「朝は好きなだけベッドに横たわっていてもいい」と許可される。
 人文学(語学,歴史,弁論,道徳など)とスコラ哲学(アリストテレス創始)を学ぶが,その煩瑣な論法を批判し,新しい学問体系を作ろうと志す。
「ある考えが正しいかどうかは,これから導き出された結果が現実の世界の中で起こっていることをどれだけうまく説明できるかによって決められる」
  3) 1616 フランス ボアティエで大学に入学
  4) 1619 ドイツ軍将校として30年戦争に参加
 10月ドナウ川上流ウルムの町で夜営。11月10日みた夢からヒントを得て幾何学(図形)の代数(数式,関数)への応用を考えつく。
  5) 1623 イタリア ベネチア
 このころガリレオ・ガリレイがイタリアにいたが,彼には会っていない。
  6) 1627 フランス パリ
 それまではどちらかといえば自由気ままに生きていたが,枢機卿の説得で人生の目的として学問を志す。
  7) 1628~1640  オランダ アムステルダム
   スペインから独立したばかりで進取の雰囲気に満ちた賑わいの町で,静かに研究に没頭する。
   1637
3つの「試論」と「方法序説」
光の屈折の法則,虹の現象の説明
動物機械論:現代のロボットやコンピュータの予想
真空の否定:太陽から地球への影響は渦運動によって起こる(太陽風)
「方法序説」によって,解析幾何学の原理を確立する。しかしながらガリレオの宗教裁判の結果を恐れ,なかなか出版に踏み切れなかった。
  8) 1641 オランダ ハーグ
   1649 スウェーデン女王クリスティナと出会い,スウェーデンに招聘される。
 招きに応じて行ったが,早朝より女王への講義,環境の変化で体調を崩す。
  9) 1650 スウェーデン ストックホルムで死去

(2)  中学校数学でデカルトの関係する部分

 現代の数学全般,とりわけ解析学の土台が彼によってつくられているわけであるが,この課題学習で取り上げることができる内容を以下に挙げる。

1.座標(第1学年)
 デカルトの足取りの4)で,朝のベッド上で思索中に,格子状の天井に止まる蝿を見ていて座標平面の考え方を思いついた,といわれている。彼以前にも「点の座標」は遠くはギリシャのアポロニウスが取り上げている。また同時代のライバル,フェルマーも提唱している。
 しかし,デカルトの業績は,負の数を数直線上で0より左に伸びる部分に位置する数としてその概念を確立したうえで,すべての実数に対応する座標平面を考案したことである。
 グラフについては,小学校時に正の数を対象とした第1象限のみのものを学習しているが,「比例と反比例」で初めて正負の数すべてに対応する座標平面まで拡張する。このときに,デカルトの行なったことの意味を知らせたい。
 授業では,ヨーロッパの地図に座標軸を入れたものを準備して配布し,デカルトの一生の主な場所〔1)~9)〕を座標で表しながら説明したい。

2.

図形との結びつき(第3学年)
 座 標を用いると,対応する2つの数量を1つの点として表すことができる。2つの対応する数量が変化していく様を,座標平面上で視覚的に表すことができるわけ である。その全体は,平面上では一種の図形として捉えることができる。例えば,一次関数は直線,二次関数は放物線である。  第3学年で「三平方の定理」の学習が終わった段階では,少々進んだ内容ではあるが,円の方程式を示してやっても,生徒たちは理解可能だし,興味・関心を 引き起こすことができる。これは,高校に入ってから三角関数への導入を分かりやすくするためにも役立つ。

3.

相似な図形の比を用いた線分の作図(第3学年)
 デカルト以前では式の次数をそろえるということが大切なことであった。例えば,
  y=x+m  y2=mx
のように,長さが長さに等しい,面積が面積に等しい,という形式の場合のみを取り扱っている。つまり,一次の式aは1つの線分を意味し,a2 は面積を意味していた。
   しかし,デカルトは,このa2 は 1:a=a:a2 を意味するだけの数式として考えた。これは図1の作図を通して簡単に長さとして示すことのできるものである。
 同様に,abは二次式として面積を意味するものであったが,デカルトは図2のように 1:a=b:ab によって結びつけられた同じ次元(長さ)を表すものとして考えうることを示した。




さらに別の説明:



        D
        |
        √a             
        |
A_____O_B___C
     a     1 
        =単位線分


「平方根√aについては、図3のように、線分a(AB)と単位線分*(BC)を一直線にし
て描きます。次に、ABの中点Oを中心とし、半径OAの半円を描きます。そして、点Bから
垂線BDを立てますと線分BDが平方根√aを表すのです。なぜなら、△ABD∽△DBCで
すから、a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a となるからです。」

*単位線分とは、長さ1の線分のこと。
(上垣渉『はじめて読む数学の歴史』270頁)

はじめて読む数学の歴史 - 上垣渉 - Google ブックス

__________

付録:

デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
http://fr.wikipedia.org/wiki/Th%C3%A9ories_scientifiques_de_Descartes
(仏訳者への書簡より)
「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から
出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すな
わち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極
の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

« Ainsi toute la philosophie est comme un arbre, dont les racines sont la métaphysique, le tronc est la physique et les branches qui sortent de ce tronc sont toutes les autres sciences qui se réduisent à trois principales, à savoir la médecine, la mécanique et la morale, j'entends la plus haute et la plus parfaite morale, qui, présupposant une entière connaissance des autres sciences, est le dernier degré de la sagesse. »

Les Principes de la philosophie, lettre-préface de l'auteur

デカルト、哲学の木。
道徳が「知恵の最後の段階」にくる。

   道徳学
   |◯  機械学 
医学 |   /◯   ◯果実→公衆へ
 \◯|  /        
  \||/  枝、諸々のその他の学問  
   ||
   ||   幹、自然学  第二の部分 哲学原理2~4/4
-ーー||ーー-
  /\/\  根、形而上学 第一の部分
                  省察、哲学原理1/4

参考:中公世界の名著325頁
この前段の学問に、日常道徳、数学を含む論理学がある。
http://3f.img.v4.skyrock.net/3215/74513215/pics/3117005059_2_3_tSvffL9U.jpg
http://real-illusion.skyrock.com/3117005059-L-Arbre-de-Descartes.html

日曜日, 10月 07, 2012

ゴドウィン『政治的正義』(William Godwin "Enquiry concerning Political Justice"):目次 

William Godwin(1756-1836)"Enquiry concerning Political Justice"(1793)

国立国会図書館デジタルコレクション - 世界大思想全集. 第17巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/122706 (目次あり)

ウィリアム・ゴドウヰン『政治的正義』:目次 
          (春秋社版、1930年=昭和五年) より


第一巻 政治的制度の重要性に就いて
 第一章 序言
 第二章 政治社会史
 第三章 自己の知覚に起源する人間の道徳性
 第四章 道徳的改善の三つの主要な原因の考察
   一 文学
   二 教育
   三 政治的正義
 第五章 政治的制度の影響の例証
 第六章 不断の改善を受け得る人間の諸発明
 第七章 これ等の原理に対する風土の影響よりの反対論に就いて
  第一部 這徳的及び物理的原囚に就いて
  第二部 國民性に就いて
 第八章 これ等の原理に對する奢侈の影響よりの反対論に就いて

第二巻 社會原理
 第一章 序言
 第二章 正義に就いて
  附録第一 自殺に就いて
  附録第二 決闘に就いて
 第三章 義務に就いて
 第四章 人則の平等に就いて
 第五章 人間の権利
 第六章 個人的判断の運用に就いて

第三巻 政治の原理
 第一章 政治上の著作家の諸体系
 第二章 社会契約説に就いて
 第三章 約束に就いて
 第四章 政治的強権に就いて
 第五章 立法に就いて
 第六章 服従に就いて
  附録
 第七章 政治の形態に就いて

第四巻 種々の原理
 第一章 反抗に就いて
 第二章 革命に就いて
  第一部 市民の義務
  第二部 革命を来らしめる様式
  第三部 政治的聯合に就いて
  第四部 望まるべき改革の形式に就いて
 第三章 暴君××に就いて
 第四章 真理の滋養に就いて
  第一部 抽象的若しくは一般真理に就いて
  第二部 誠実に就いて
   附録第一 悟性と徳との間の聯繋に就いて
   附録第二 訪問者を排斥する様式に就いて
   附録第三 誠賓の問題の概略
 第五章 自由意志及び必然に就いて
 第六章 必然説よりの推測
*第七章 人間の心の機械作に就いて
*第八章 徳の原理に就いて
*第九章 徳の傾向に就いて

第五巻 立法権及び行政権に就いて
 第一章  序言
 第二章  教育、王子の教育に就いて
 第三章  君主の個人生活に就いて
 第四章  有徳な専制主義に就いて
*第五章  朝臣及び大臣に就いて
*第六章  臣民に就いて
*第七章  選挙君主政體に就いて
*第八章  制限君主政體に就いて
 第九章  王権を持つ大統領に就いて
 第十章  世襲的栄誉に就いて
 第十一章 貴族政体の道徳的結果
 第十二章 称(稱)号について
 第十三章 貴族政体の性質に就いて
 第十四章 貴族政体の一般的特徴に就いて
 第十五章 政治上の瞞着に就いて
 第十六章 戦争の諸原因に就いて
*第十七章 戦争の目的に就いて
*第十八章 戦争の指揮に就いて
*第十九章 軍隊組織及び条約
*第二十章 戦争の処理と結び附けられてゐるま々の民主政體に就いて
 第二十一章 政治の構成に就いて
 第二十二章 政治社会の将来の歴史に就いて
 第二十三章 國民議会に就いて
 第二十四章 ××の破壊に就いて

第六巻 政治的制度の一題目として考察されたる輿論に就いて
 第一章 輿論の政治的取締りの一般的結果
 第二章 宗教上の組織に就いて
 第三章 宗教上及び政治上の誤れる意見の抑壓に就いて
 第四章 試問に就いて
 第五章 誓約に就いて
 第六章 讒謗(ざんぼう)について
 第七章 憲法に就いて
 第八章 国民教育に就いて
 第九章 年金及び俸給に就いて
*第十章 社会の側に於ける問題を解決する様式に就いて

第七巻 犯罪及び刑罰に就いて
 第一章 道徳原埋から生ずる刑罰の教義の限定界
 第二章 壓政(あっせい)の一般的不利益に就いて
 第三章 壓政の目的に就いて
 第四章 刑罰の適用に就いて
 第五章 一時的方便と考へられる刑罰に就いて
 第六章 刑罰の範囲
 第七章 証明に就いて
 第八章 法律に就いて
 第九章 赦免について

第八巻
 第一章 真正な財産制度の描写
 第二章 真正の財産制度から生ずる利益
 第三章 此の制度に対する、奢侈(しゃし)の称揚すべき結果よりの反対論に就いて
 第四章 此の制度に対する、怠惰の誘惑よりの反対論に就いて
 第五章 此の制度の永久化が不可能であるとの見地より来るこの制度の反対論に就いて
 第六章 此の制度に対するそれの制限の不撓(ふとう)性よりの反対論に就いて
 第七章 此の制度に対する、人口原理よりの反対論に就いて
 第八章 眞正な財産制度を導入する手段に就いて      


http://ebooks.adelaide.edu.au/g/godwin/william/enquiry/contents.html

Enquiry concerning Political Justice, and its Influence on General Virtue and Happiness, by William Godwin
Table of Contents

Preface

Preface to the Second Edition.

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Summary of Principles Established and Reasoned Upon in the Following Work

Book:


    • Of the Powers of Man Considered in His Social Capacity
        • Introduction
        • History of Political Society
        • Spirit of Political Institutions.
        • The Characters of Men Originate in Their External Circumstances.
        • The Voluntary Actions of Men Originate in Their Opinions
        • Of the Influence of Climate
        • Of the Influence of Luxury
        • Human Inventions Susceptible of Perpetual Improvement

    • Principals of Society
        • Introduction
        • Of Justice
        • Of the Equality of Mankind
        • Of Personal Virtue and Duty
        • Of Rights
        • Of the Right of Private Judgment

    • Principles of Government
        • Systems of Political Writers
        • Of the Social Contract
        • Of Promises
        • Of Political Authority
        • Of Legislation
        • Of Obedience
        • of Forms of Government

    • Of the Operation of Opinion in Societies and Individuals
        • Of Resistance
        • Of Revolutions
         • Of Political Associations
        • Of Tyrannicide
        • Of the Cultivation of Truth
        • Of Sincerity
        • Of Free Will and Necessity
        • Inferences from the Doctrine of Necessity
        • Of the Mechanism of the Human Mind
        • Of Self-Love and Benevolence
        • Of Good and Evil

    • Of Legislative and Executive Power
        • Introduction
        • Of Education, the Education of a Prince
        • Private Life of a Prince
        • Of a Virtuous Despotism
        • Of Courts and Ministers
        • Of Subjects
        • Of Elective Monarchy
        • Of Limited Monarchy
        • Of a President with Regal Powers
        • Of Hereditary Distinction
        • Moral Effects of Aristocracy
        • Of Titles
        • Of the Aristocratical Character
        • General Features of Democracy
        • Of Political Imposture
        • Of the Causes of War
        • Of the Object of War
        • Of the Conduct of War
        • Of Military Establishments and Treaties
        • Of Democracy as Connected with the Transactions of War
        • Of the Composition of Government
        • Of the Future History of Political Societies
        • Of National Assemblies
        • Of the Dissolution of Government

    • Effects of the Political Superintendence of Opinion
        • General Efects of the Political Superintendence of Opinion
        • Of Religious Establishments
        • Of the Suppressions of Erroneous Opinions in Religion and Government
        • Of Tests
        • Of Oaths
        • Of Libels
        • Of Constitutions
        • Of National Education
        • Of Pensions and Salaries
        • Of the Modes of Deciding a Question on the Part of the Community

    • Of Crimes and Punishments
        • Limitations of the Doctrine of Punishment Which Result from the Principles of Morality
        • General Disadvantages of Punishment
        • Of the Purposes of Punishment
        • Of the Application of Punishment
        • Of Punishment Considered as a Temporary Expedient
        • Scale of Punishment
        • Of Evidence
        • Of Law
        • Of Pardons

    • Of Property
        • Preliminary Observations
        • Principles of Property
        • Benefits Attendant on a System of Equality
        • Objection to this System from the Frailty of the Human Mind
        • Objection to this System from the Question of Permanence
        • Objection to this System from the Allurements of Sloth
        • Objection to this System from the Benefits of Luxury
        • Objection to this System from the Inflexibility of Its Restrictions
        • Objection to this System from the Principle of Population
        • Reflections