木曜日, 2月 27, 2014

プルードンからソレルへ:権力vs.暴力の権利(再掲)

                     (リンク::::::::::プルードン本頁
http://yojiseki.exblog.jp/7887491/

プルードンからソレルへ、ソレルから中上健次へ:権力vs.暴力の権利


ソレルは国家の強制力(force)に対抗し、個人の自由と権利(droit)を擁護するための、下からの暴力(violence)を主張した。


そこには『暴力論』の付録でも言及されているプルードンの『戦争と平和』(トルストイの小説ではない〜とはいえトルストイの小説の題名自体がプルードンからの影響だという説もある〜)の影響があると思われる。


プ ルードンは国家の強制力または権力(force)に対し市民の権利(droit)を必然的な二項として付随させるので、暴力とは言っていない。『戦争と平 和』の後半部ではむしろエンゲルスが抜き書きしたように経済学的な分析に戦争の原因と回避方法を見つけているからだ(「戦争の恒久的な根本原因は(略)貧 窮である。」大月書店マルエン全集補巻第四巻p129)。
それは端的に言えば「戦争の動機を欲望から必要へ移す」(邦訳『戦争の機械』ダニエル・ピック.p61)ということだ。

た だし、ダニエル・ピックの文脈では戦争を社会の内在的な力として両義的にとらえた『戦争と平和』の前半部にプルードンの面白さがあるということになる。そ れは端的にはソレルのような下からの暴力の肯定になるし、後述するドゥルーズのような「戦争機械」の欲望の流れを平滑空間に解き放つ(=不在の民衆に取り 戻す)ことを意味する。

好戦的なものとして誤解されることもあるが、プルードンの真意は、暴力に基礎づけられた国家それ自体を疑問にふすことなくして戦争を止めることは出来ないというものだが、そのことは貧困をなくさずに「暴力」をなくすことは出来ないということでもある。

中上健次は、在日作家のつかこうへいによるインタビューで以下のように語っている。


「俺、 それまで大江健三郎の影響をものすごく受けていて、戦後民主主義の路線にとらわれていた。そうなんだ、平和と民主主義をほとんど鵜呑みという感じでね。そ れが、あの一〇・八でゲバ棒を持ったとき、一八〇度転換した。無茶苦茶に殴りかかってくる機動隊に対して、自衛のために棒を持ったわけだろう。その棒一本 で、完全に大江健三郎の言ってることなんかが引っくり返った。
 要するに、暴力に対してどう思うか、暴力をどんなふうに位置づけるかということなんだ。
  それで、いろんな本を読んだよ。その中で、なるほど、これじゃないかと思ったのがフランツ・ファノン。暴力には二種類ある。権力をフォルスと言う、それに 対して抑圧された者が押し返す力をバイオレンスと言う。これが暴力なんだとファノンは言うわけね。だから、暴力というのは、弱い人間にふるうものとは違う んだ。弱いからこそ打ち返すんだという暴力論が、俺たちの間で信念となっていた。
 目がさめた気がしたね。あっこれなんだと思ったんだよ。それで 俺は大江を超える、大江の文学論からの呪縛を超える。それは同時に、戦後民主主議を超える論法を身につけることなんだ。そうすると、俺は自前で考えなく ちゃいけない。それで、二十二ぐらいのときに初めて、自前でものを考えるということが出てきた。
 そうだね。その頃、すでに書き始めていたから、 そういう考え方はぴったり俺の書くものにくっついている、そうだろう。しょっちゅう機動隊に殴られていたんだよ、それまで。それで自衛のために棒を持って 打ち返した。そのとき、打ち返さなくちゃいかんという」論法に転換したんだよ。」
(つかこうへいによるインタビュー。『中上健次発言集成5』p138-9、及び『現代文学の無視できない10人』所収)


中上はソレルとファノンを混同しているが主旨はよく分かる。
ソレルの時代から大分経つが、日本において状況はそれほど変わっていないのだ。
かつてトルストイはプルードンから歴史が一人の英雄ではなく民衆によって創られると言う集合力理論を得たとするなら、ソレルはもっと根源的な力(violence)をプルードンの理論から読み取った。
プルードンからソレルへ受け継がれた思考は、誤解を含みながらも間接的に、日本の被差別部落出身の作家にまで影響を及ぼしていると言えるが、それをプルードンの誤読に起因するものとして断罪することは出来ないだろう。
差別や貧困を生み出し続けている資本主義というシステムがまだ作動し続けているからだ(先の金融危機はトカゲの尻尾切りにすぎない)。

特に後年の中上健次は、ソレルの暴力論に飽き足らず、むしろ一本の木材(ゲバ棒ではない〜中上は材木業を題材にしたのだ)を描写することで『資本論』と同じことを小説において構造的に行おうとしていたのだから、、、、

さて、ドゥルーズなどはプルードンの「戦争の動機を欲望から必要へ移す」思考法を、その1968年からの非転向故に受け継いでいないかのように見える。ドゥルーズは何よりも欲望の人だからだ。

それでもその思考法にプルードンの決して揚棄されない二項の変奏と、内在的なセリーの展開の系譜を見出せるのは、(政治哲学がすすんでいたがゆえにドイツよりも「哲学の貧困」が現象としてみられたフランスにおける風土的なものだとしても)偶然ではないだろう。

追記:
プルードン『戦争と平和』フランス語版は以下で読むことができる。
http://books.google.co.jp/books?id=mr7K5V6A3iEC

邦訳がないので仏文のままざっとみわたすと(検索可能)、「暴力」は虐待と同列に使われたりすることからわかるようにポジティブには扱われていない。
以下同書p206より

「力の法が義務だとする間違いを法律家は犯した(略)その間違いの原因は、彼らが暴力と虐待の強さは理解しても、正義の進歩を認めることができずに、(略)自由と権利の喪失が力の単純な法への回帰をもたらすという以外のものの見方が出来なかったからである。」

(原文は以下。自信がないのでどなたか正確な日本語訳をお願いします。)
"Ce qui a causé l'erreur des juristes à l'égard du droit de la force, c'est que ce droit était, pour ainsi dire, masqué sous l'épaisse ramure des droits de toute sorte qui avaient poussé sur ce tronc antique; c'est qu'ils n'ont compris de la force que la violence et l'abus; c'est qu'enfin, comme ils n'avaient pas su reconnaître dans le progrès de la justice une sorte de développement et de différenciation du droit du plus fort, de même, aux époques de décadence et de dissolution, ils n'ont pas su voir non plus que la perte des libertés et des droits était un retour au droit simple de la force."


また、ソレルの問題意識から、そこに暴力よりも法の力を読み取った系譜として、ベンヤミン、デリダがいる。デリダに関しては以前このブログで触れたことがある。

木曜日, 2月 20, 2014

『「小さきもの」の思想』書評及び目次

     旧柳田国男論:作業中 http://nam-students.blogspot.jp/2014/02/blog-post_2.html


文春学藝ライブラリー『「小さきもの」の思想』柳田国男 柄谷行人編 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784168130113

山人について、農政学について、それぞれ柳田国男のアンソロジーはすでにある。
だから本書の独自性は『遊動論』との関係にある。
引用箇所の1/3~1/2はカバーしてる。
ただ学術的な農政学に関しては省略され、読み物として興味深い(子供社会の)言葉の問題が追加されている。

文学的なプロフィールが冒頭に置かれ、その流れでも読める。

ちくま文庫より一文字小さいし、高いが、計9頁?になる解題は『遊動論』をさらに圧縮しわかりやすいのでオススメ。

「柳田国男の仕事は、一言でいえば、近代の発展の中で急速に廃れ忘れられていくものを記録することであった。それは先ず、消滅してしまうものへの供養であり、 且つ、そこから得た将来に役立つかもしれない知恵を保存することである。(……) 柳田はこのような仕事を、たんに学者としてではなく、詩人、官僚、ジャーナリス トとして現実に深くコミットする中で成し遂げた。(……)本書は、柳田のそのよ うな生涯を展望できるように編集されている」(「はじめに」より)

大正デモクラシー関連の追加は、『遊動論』の持つアクチュアリティーをさらに強化するものだ。沖縄や靖国、国連、官僚制、文化の一元化。現代社会は柳田の問題設定の枠内にある。
折口や熊楠とのやり取りも載せるとさらによかった。

第四章「大正    |第一章 文学と柳田国男
デモクラシー」を担う|第二章 山の人生
第五章民俗学    |第三章 島の人生
=史学の方法    |
----------+-----------
  (第二章 山の人生)
第六章日本の歴史  |第七章 小さき者と言語
          |第八章 死者との交通

ちなみに、『遊動論』の構成:
第一章1戦後の柳田国男(遊牧民的資本主義=吉本隆明批判)
第二章2山人     (協同組合=協同自助論)
第三章3実験の史学  (国家に抗する小日本主義=小さきもの)
第四章4固有信仰   (互酬制を脱する過去=未来の原理)
付論 ☆二種類の遊動性(遊動民と遊牧民)

1|
3|☆1
ー+ー
2|4
4|

(1と4は両義的。島に肯定的意味付けがなされるのは「ジュネーブの思い出」以降)

収録作品(はじめと各章に一頁づつの解題がつく。☆は『遊動論』で言及されていないもの):


 はじめに

第一章 文学と柳田国男:
 柳田国男自伝☆
 文学の思い出 抄 『故郷七十年』より☆
 新体詩 夕づゝ 「野辺の小草」より

第二章 山の人生:
 幻覚の実験 『妖怪談義』より☆
 幽冥談
 九州南部地方の民風
 遠野物語 抄 
 山の人生 抄
 山人考 『山の人生』より
 山民の生活☆

第三章 島の人生:
 日本郷土の特色 『民間伝承論』より
 島の話 抄 『青年と学問』より
 南島研究の現状 抄 『青年と学問』より
 島々の話 その四 抄 『島の人生』より
 豆手帖から 抄 『雪国の春』より☆

第四章 「大正デモクラシー」を担う:
 ジュネーブの思い出
 青年と学問 抄 『青年と学問』より
 政党と階級意識☆
 七月一日から愈々(いよいよ)排日法の実施につき☆

第五章 民俗学=史学の方法:
 実験の史学 抄
 単独立証法 『国史と民俗学』より☆
 我々の方法 『民間伝承論』より
 東北と郷土研究 抄 『東北の土俗』より
 比較民俗学の問題☆

第六章 日本の歴史:
 親方子方 抄(☆)
 労働『郷土生活の研究法』より
 親分割拠『明治大正史世相篇』より(☆)
 聟入考 抄 『婚姻の話』より☆
 旅と商業 『明治大正史世相篇』より☆
 家の話☆

第七章 小さき者と言語:
 子供と言葉 
 童児と昔 抄 『小さき者の声』より☆
 国語成長のたのしみ(一) 『少年と国語』より☆
 キミ・ボク問題 『少年と国語』より☆
 知ラナイワ 『毎日の言葉』より☆
 昔話と伝統と神話 抄 『口承文芸史考』より☆
 嗚滸の文学 抄 『不幸なる芸術』より☆

第八章 死者との交通:
 神道私見 抄
 日本の祭 抄
 先祖の話 抄

柳田国男年譜
編集付記

月曜日, 2月 10, 2014

探究 II(『差異と反復』ヘの言及):ノート

       (リンク::::::::::柄谷行人ドゥルーズ本頁参考図補足

参考:
『意味の論理学(上、下)』 ドゥルーズ:目次(転載) 
http://nam-students.blogspot.jp/2015/05/blog-post_21.html
『「小さきもの」の思想』書評及び目次
http://nam-students.blogspot.jp/2014/02/blog-post_20.html

      観 念
       :
      普遍性
       |
概  一   |   特
 ・・般ーーー十ーーー殊
念  性   |   性
       |
      単独性

(柄谷行人『探究2』文庫版150頁より)




<たとえば、ドゥルーズは、キルケゴールの反復にかんして、「反復は、単独なものの普遍性であり、 特殊なものの一般性としての一般性と対立する」といっている(『差異と反復』)。つまり、彼は特殊性 (個)ー一般性(類)の対と、単独性ー普遍性の対を対立させている(図参照)。だが、すでに明らかなように、 これはスピノザが概念と観念を区別したのとほとんど同じことである。>
(柄谷行人『探究2』文庫版150頁)

<…わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりでの一般性と、 特異(サンギュリエ)な ものに関する普遍性としての反復を対立したものとみなす…>
http://blog.livedoor.jp/captainahab/archives/50551139.html
(序論『差異と反復』邦訳単行本20頁)*
(『トランスクリティーク』定本版単行本156頁)

<ペギーは、出来事を見事に描写してみせたとき、一方は水平で、他方は垂直の二本の線を配置した…。…二つの線の交差するところにこそ、「有限な時間において永遠なる」もの--《理念(イデア)》と現実的なものとの紐帯、導火線--が結ばれ、わたしたちの有するより大きな支配力、わたしたちのいっそう大きな力(ピュイサンス)、すなわち諸問題に関わる力(ピュイサンス)が決定されるのである。>(『差異と反復』第四章288頁,文庫下63頁)

<潜在的なものにつくべきか可能的なものにつくべきかでためらうのは、また、《理念(イデア)》のレヴェルをとるべきか概念のレヴェルをとるべきかでためらうのは、破産を招くことでしかない。なぜなら、そのような迷いは、潜在的なものの実在性を廃棄するからである。>(『差異と反復』第四章321頁)

<潜在的なものは、ひとつの十全な客観的実在性をもっている。潜在的なものは、いささかも可能的なものと混じり合っていない。可能的なものは、実在性を欠いているからだ。したがってまさに、可能的なものは、表象=再現前化における概念の同一性の様態であり、他方、潜在的なものは、《理念(イデア)》のただなかにおける差異的=微分的なものの様相なのである。>(『差異と反復』結論415頁)

参考:
ドゥルーズ『差異と反復』目次、
はじめに:
序 論:反復と差異
第1章:それ自身における差異
第2章:それ自身へ向かう反復
第3章:思考のイマージュ
第4章:差異の理念的総合
第5章:感覚されうるものの非対称的総合
結 論:差異と反復 
  チャート図:ジル・ドゥルーズ『差異と反復』  
             ______|________はじめに:
        差異__|__反復             |/同一性
     ___|__     |序論:    差異の哲学 / の哲学
    |      |  反復と差異     ハイデガー/|ヘーゲル
 一: |      |  __|_反復と         |美しき魂
 それ自身における差異| |   一般性の区別 反復=イデア|
    |      | |  __|__    普遍性  |
 ショーペンハウアー | | |  |  |  一 | 特 |
    |      | |行動  法  概念 般ー+ー殊 |
    | アリストテレス|   /キルケ|  性 | 性 |
    |   類的差異、|   ゴール_|__ 単独性  |
    |  カテゴリーと|  裸__|_空間 |     |
    |   種的差異 |  拍子 | 物質 留保(阻止)|
    |      | |    着 衣         |
 一義性と差異    | 時間   リズム / +++++ |
 スコトゥス、    | |     |          |
 スピノザ、     | |   二:|     ヒューム |
 ニーチェ      | |それ自身へ向かう反復 ベルクソン|
    | ライプニッツ |___時間の総合 デカルト   |
    |ヘーゲル、カント      |    カント   |
    |______|      現在__過去__円環  |
       |     マルクス  |   |   |  |
     ハイデガー   フロイト(習慣__潜在_死の本能)|
 プラトン『ソピステス』他   見せかけ   |______|デカルト
       |     理念     ベルクソン|   カント
 四:差異の理念的総合 =多様体  三:思考のイマージュ プラトン
    カント|_________________|障害としての諸公準 256頁
 ライプニッツ         |         /自然的or哲学的
 微分       五:感覚されうるものの___    
   潜在的      非対称的総合      |      表象批判
 可能的◇現実的  他者 /良識、共通感覚  結論:差異と反復 存在=
   実在的     ダーウィン           ニーチェ 差異
       個体化 個体的差異 強度の   一義性を永遠回帰における
        強度的 巻き込み  特徴    反復として実現すること 449頁

種的差異アリストテレス63頁
類的差異
個体的差異ダーウィン371頁

習慣156頁
良識208,336,339頁

<‥…「私と同じようにやれ」と 言う者からは、何も学ぶことはない。わたしたちに
とっての唯一の教師は、わたしたちに 対して「私と共にやりなさい」と言う‥… >
(『差異と反復』単行本序論49頁より)

ヒューム(第二章冒頭119頁):メモ 『人間本性論(人性論)』1:3:14?
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_07.html 

ザロモン・マイモン(第四章『差異と反復』単行本262~3頁参照)
「超越論的哲学についての試論」マイモン(Salomon Maimon: Versuch über die Transzendentalphilosophie)
http://ntaki.net/di/a3/Maimon/Versuch_1.html#2 (試論第二章参照)
 <これらの本体は理性理念であって、これら理性理念は、客観的対象(Objekte)の成立を悟性の諸規則にしたがって説明するための、原理として役立つ。
                  例えば私が、「緑は赤とは異なっている」というとき、相違性という純粋悟性概念は、感性的な2つの質の関係としてではなく(なぜなら、そうした関係としてであれば、カントの言う権利問題が生じるからである)、カントの理論によるのであれば、アプリオリな形式としての2つの空間の関係として、あるいは私の理論では、アプリオリな理性理念である2つの微差態の関係として、考察されるのである。

 悟性は客観的対象(Objekt)を(判断の諸形式以外の対象を――これら諸形式は、客観的対象とは言えないが)、ただ継続的に(fließend)しか考えられない。なぜなら、悟性の仕事は思考に他ならないのだから、すなわち多様なもののうちに単一性を生みだすことなのだから、悟性が対象をもちえるのは、ただ悟性が対象の成立の規則ないしは仕方を告げる(angeben)ことによってだからである。というのも、ただこのことによってのみ、対象における多様なものは規則の単一性へともたらされるのである [unter der Einheit の der は、die と解釈しました]。したがって悟性は、すでに生じたものとしてはいかなる対象も考えられないのであって、ただ生じつつあるものとして、すなわち継続的に(fließend)しか考えることができない。>
サミュエル・バトラー『エレホン』関連(「はじめに」単行本15~16頁,「結論」423,428頁参照):
エレホン
http://page.freett.com/rionag/butler/erewhon.html
バトラーの至りついた道は、次のようなものでした。
 「この世のものならぬ、目に見えざる生活と目に見えざる<王国>とがあること、この世の英知は神にとっては愚かさにすぎないこと、この地上でわれわれが送っている生活は大した物ではあるが、同時に、この地上の生活にしても、もうひとつのより大なる生活、すなわち、われわれがこの地上にあって、それについてはほんのわずかしか知ることのできぬものの、われわれが一人残らずともに分かち持っているもう一つの生活、に比べれば取るに足りぬものであること、その<存在>の中に入り込むことは誰にもできないが、さりとてそれから逃れることもできない、ある偏在的<存在>―言語を絶する名辞矛盾―が存すること、最善なる者は常に無益なるしもべ(ルカ17章10節)であり、最賢の者は常に子供であることー正気の人間にして、しかも以上のことに疑いをさしはさむ者などいるでしょうか」(ブライト宛の書簡・バジル・ウィリー前掲書)
http://bunko.shueisha.co.jp/serial/kawabata/24_01.html
 バトラーの開拓生活に十五少年に類似の精神を見付けることは容易だ。そして、それは間違いではない。
 ところが、バトラーの場合それだけでは済まない。「エレホン」の内容を読めば分かる。作中では、「これあり得ないよ!」と言いたくなるような奇天烈な社会が描かれている。
 エレホンでは70歳以下の者が病気になることは重罪とされる反面、盗みや詐欺などの犯罪は、我々の社会の「病気」と似た扱いを受け、周囲から同情されたり、治療をすすめられる。美しいことはそれ自体徳であり、醜いこともそれ自体罪悪である。「進歩」を敵視し、科学は禁止。機械類は徹底的に排斥されている。若者は「不合理大学」に通い、理屈に合わない変な議論を覚え込まされて、青春の日々を空転させる。「音楽銀行」という、現実社会ではまったく役に立たないが名誉とされる貨幣を扱う銀行と、通常の商行為に使われる貨幣を扱う銀行が並立している……などなど。
http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
「しかし経験論は、概念をまさにある出会いの対象として<ここ?いま>としてあるいはエレホンとして取り扱う。」(p15)「私たちは起源的な『どこにもないもの』と置き換えられ、偽装され、変容され、常に再創造される『ここと今』を同時に意味するものとしてエレホンを発見するのである。もろもろの経験的な個別性でもなければ抽象的普遍でもないもの。崩潰した自我として<私は思考する>。私たちはどの個体化も非人称的であり、どの特異性も前個体的であるひとつの世界を信じる。<ひと(on)>それはなんと素晴らしいものであろうか。そこにこそ」「この書物が現前させるべきであったこと、それは以上からして神のものあるいは世界のものでもなければ、私たちのもの、すなわち人間のものでもないようなある一貫性へのアプローチである。」と述べる。ドゥルーズは我々の時代のある種の固定観念であるようなものと対比して「ポスト・ヒューマニズム」について述べようとしており、デカルト的コギトとは、別の場所に個体化の場を見出す。

http://www.kyoto.zaq.ne.jp/ktm3w/rays0110.html
可能世界は、むしろ、《今ここnowhere》の外にこそある。だから、ジル・ドゥルーズ
は、《今ここnowhere》をひっくり返して《エレホンerewhon》といったサミュエル・
バトラーを称賛したのだ。

126-459(上210-455)にバトラー関連記述↓。 http://www.p-renaissa.jp/borujiaya/?p=18
<サミュエル・バトラーによれば、習慣の連続性の他に連続性はなく、われわれを構成する千の習慣の連続性は、われわれの内部に、それと同じだけの観想する迷信的な自我、要求、満足を形成する。「なぜなら、小麦はおのれの存在にかかわるものへの迷信的な基盤の上に自分の信仰を基礎づけていて、大地と水を実りに変えるには、小麦自身が自分を実らせる熟達した技に対して抱いている傲慢なまでの自信、それなしには無力に陥ってしまう自己への信念が必要だからである(『生と習慣』life and habit 未邦訳)」。経験論者だけがこのような定式を巧みに口にできる。われわれが小麦と呼ぶ大地と水の縮約(contraction)が存在し、この縮約は観想(contemplation)であり、そしてその観想の自己充足である。反復の要素と事象によって生み出されない有機体というものがあるだろうか。有機体は、『エンネアデス』(プロティノス)第3篇にある至高のことばのもとで目覚める──すべてが観想である! このように言うことはたぶん「イロニー」であろう。しかし、そのイロニーは、またしても観想でしかありえない。プロティノス「ひとが自分のイマージュを決定したり、そのイマージュを享受したりするのは、自分がそこから生じてきたものを観想するために、それに再び向かい合うときだけである」。>(ドゥルーズ「差異と反復」第2章)



ゲオルク・ビューヒナー 関連(序論28,上27):『ダントンの死』より

<時間が俺たちを無駄にする。まずシャツを着てそれからズボンを履く。夜になればベットにもぐりこみ、朝になるとはい出す。片方の足を別の足の前に出し、それをくりかえす。まったく変えようもない。悲しむ べきことだ。数百万人の人間が同じようにくりかえし、 これからも数百万人の人間が同じようにくりかえす。そのうえ、俺たちは左右半分ずつ でできていて、その両方が同じことをやっている。何もかもが二重だ。なんて悲しいんだ 。>(岩波文庫版179頁参照)

芸術における「究極の諸反復」の事例
 存在論的な、第三の反復へ向かって
結論『差異と反復』単行本435頁より

参考:
ベルク『ヴォツェック』(アルバン・ベルク作曲の『ヴォイツェク』はビューヒナー原作)
Wozzeck - 1 Scene - Alban Berg after Georg B?chner - Claudio Abbado
http://youtu.be/dp4Q4SV_YL0
Claudio Abbado - Wozzeck's Interlude:
http://youtu.be/89jEn7dkZx4

アンディ・ウォーホル
 (Andy Warhol) 作品の紹介・美術館リンク・ポスター
http://art.pro.tok2.com/W/Warhol/Warhhol.htm

ビュトール『心変わり(変容)』
http://www.amazon.co.jp/dp/4003750616

映画『去年マリエンバードで』(アラン・レネ)
Last Year at Marienbad (1961) re-release trailer with subtitles
http://youtu.be/M5km-4o3EAY

ジャン・ヴァール関連:
1:101-457頁
http://blogs.yahoo.co.jp/chronosjapan/27141318.html
自然は本質的に、偶然で、過剰で、神秘的なもの。
同じものの還帰は、異なるものをもたらすのみ。
彫刻家のろくろの緩慢な回転は、
髪の毛一本の太さほどしか進まない。
けれども差異は、厳密には決して十全であることのない
曲線全体に配分されるのだ。
               (ジャン・ヴァール)
1920年 Les philosophies pluralistes d'Angleterre et d'Amérique(英米多元論哲学), Paris : F. Alcan.
具体的なものへ|月曜社
http://getsuyosha.jp/kikan/versleconcret.html
著者:ジャン・ヴァール(Jean Wahl)
フランスの哲学者。1888年5月25日にマルセイユで生まれ、1974年6月19日にパリで没す。1936 年から1967 年までソルボンヌ大学教授。その間、ユダヤ人強制収容所を体験し、アメリカにも亡命している。ヘーゲル、キルケゴール、英米多元論哲学、ドイツ実存哲学など、他国の思想を積極的にフランスへ導入した先駆者であり、市民に開かれた哲学の場「コレージュ・フィロゾフィック」を設立した教育者であり、詩人でもある。マルセル、バタイユ、サルトル、レヴィナスなど、20世紀フランスでの広義の実存主義に連なる一人。著書に、1946年『フランス哲学小史』(紺田千登史訳、ミネルヴァ書房、1974年)、1949年『実存主義的人間』(永戸多喜雄訳、人文書院、1953年)、1954年『実存主義入門』(松浪信三郎・高橋允昭訳、理想社、1962年)、1964年『形而上学的経験』(久重忠夫訳、理想社、1977年)などがある。
ジャン・ヴァールwikipedia

ヘルダーリン関連(第一章102頁、第二章146,151頁他参照): http://www.eleutheria.com/philo/autoaffection/deleuze/repetition.html
「永遠回帰が最高度の思想であるのは、換言すれば、もっとも強度の高い思想であるのは、永遠回帰の極限的な一貫性が、最高度の点において、思考する主体、思考される世界、さらに保証する神のそれぞれの一貫性を排除するからである。カント哲学には、或る明確な契機、人知れず閃光を放った契機があり、それはカントにおいてすら継続せず、カント以後の哲学にはなおのこと引き継がれていない―――ヘルダーリンにおける「定言的転回」という経験と理念にはおそらく引き継がれている―――のだが、わたしたちは、カント以前とカント以後の出来事(結局は同じ自体に帰着する出来事)にというよりも、むしろそうしたカント哲学そのものの契機にこそ関心を寄せなければならないのである。というのも、カントが理性的神学を批判するとき、同時に彼は、一種のアンバランス、裂け目、あるいは亀裂を、つまり権利上克服できない正当な疎外(精神異常)を、<私は考える>の純粋な<自我>のなかに導きいれるからである。すなわち主観は、自分自身の自発性を、もはや或る<他>なるものの自発性としてしか表象することができず、したがって結局のところ、主観自身の一貫性、世界の一貫性、および神の一貫性と相容れることのない神秘的な一貫性を援用するのである。崩潰した自我として、<私は思考する>。換言すれば、「私は考える」の<自我>は、その本質において、或る種の直感的受容性を、すなわち、<私>がそれと比較すればすでにひとつの他なるものであるといった当のそれである受容性を含んでいる。総合的同一性が、さらには実践理性の道徳性が、自我、世界、および神のそれぞれの完全さを回復し、カント以後の哲学の諸総合を準備するなどということは、どうでもよいことだ。以上のように、わたしたちがほんの少し立ち入って考えてみたのは、思考の最高度の力の特徴たる正当な精神分裂病である。これは、概念によるすべての媒介やすべての和解を一顧だにすることなく、<存在>をダイレクトに差異へと開かせるものである。」(『差異と反復』第一章、河出書房新社、P101~2)
 「カントが理性的神学を批判するとき」、これが一体どこの個所を指しているのかわからない。が、ここで語られる直観的受容性の話は演繹論における超越論的統覚意識の話として見られることが可能であるといちおう前提しておく。

http://kgur.kwansei.ac.jp/dspace/bitstream/10236/3275/1/20091113-2-4.pdf
フィリップ・ラクー=ラバルト ――神話、供犠、自伝――上田和彦

<オイディプスの過ちは、知らずに犯した父殺しと不名誉な婚姻にはなく、人間的知の限界を侵犯しようとしたことにある。人間的知の限界 の侵犯とは、具体的には、デルポイの神託を「市民たちのよき秩序を維持せよ」 といった類の単なる声明とは受けとらず、自ら神官となって、国の危機的状況 を宗教的かつ供犠的に解釈するということだ。つまり、疾病や不作の原因をな す罪を、供儀によって浄めようとすることが、オイディプスの行き過ぎ、すな わち、「解釈の過剰」という過ちなのである。この「解釈の過剰」によって、 オイディプスという人間は神的なものと無際限に一体化しようとする――そし て、その極みにおいて、神が定言的に転回し、人間も大地へ向かって、すなわ ち人間的有限性への服従へ向かって反転し、彷徨を強いられる。上の引用で言われている「双曲線論理」とは、こうした人間と神との一体化の最中で起こる分離のことだ。この神と人間との一体化の最中で起こる分離の上演こそが、弁 証法的・供儀的プロセスの「完成を禁じ、それを内側から麻痺」させようとす るのだ。「無際限な一体化が無際限な分離によって浄められる*)」、とヘルダー リンは言う。>
*(「『オイディプス』への註解」、『ヘルダーリン全集』、第4巻、54頁、参照 )

http://members.jcom.home.ne.jp/nokato/data19.htm
≪時間は基軸的なものであることをやめて、順序的なものに、つまり、純粋な順序としての時間へと生成するのである。ヘルダーリンは、時間は「韻を踏む」のをやめる、なぜなら、時間は〔詩の〕始まりと終りがもはや一致しなくなるような「中間休止」の前半部と後半部に、おのれを不等に配分するからであると語っていた。そうなれば、〔詩の〕長かったり短かったりする過去〔前半部〕と、その過去に反比例する未来〔後半部〕が区別されるわけだが、ただし、その場合、そのような未来と過去は、時間の経験的あるいは動的な規定でなくなって、時間の静的な総合としてのア・プリオリな順序に由来する形式的かつ固定的な特徴になる。…中略…≪私≫の亀裂を構成するものは、まさに、中間休止であり、またその中間休止によって<これを最後に>順序づけられる<前>と<後>である。≫
(『差異と反復』ドゥルーズ著 財津理訳146,151頁、「『オイディプス』への註解」『ヘルダーリン全集』第4巻48頁、参照 )


http://www.takushoku-u.ac.jp/laboratory/files/linguistics_127.pdf
ヘルダーリンにおける死の観念 (田野武夫)
<詩作活動の最終期に位置するニュルティンゲン期 (1802~1804) に執筆された 『オイディプスへの注解』 と 『アンティゴネーへの注解』 において, ヘルダーリンは二つのギリシア悲劇の構造的特徴を分析し, 劇の進行を中 断させ, 場面を 「この世」 から 「あの世」 へと転回させる 「中間休止」Casurについて言及している。 この 「中間休止」 は, エムペドクレス悲劇 における 「死」 や 「滅びと生成」 における 「没落」, 「解体」 と同質の思考法に基づいている。
ヘルダーリンは, オイディプス悲劇の構造を異なる二つの次元の平衡関 係として捉える。 悲劇の進行はもともと 「空虚なものであり, 全く拘束を 受けないものである」 ため, 「詩の韻律において中間休止と呼ばれるもの, 純粋な言葉, 反リズム的中断が必要となる」。 「その結果, もはや表象の交 錯ではなく, 表象そのものが出現する」 と彼は主張する。
この 「中間休止」 とは本来, 詩の韻律において, 揚格衝突によるリズム の中断を指すものであるが, ヘルダーリンはこれを悲劇全体の構造に適 用している。 悲劇では冒頭部からさまざまな事項が展開するものの, その 途中で神的発言が生じ, 劇のリズムが中断される。 この中断から悲劇は全 く別の次元へと展開する。 つまり, 人間と神の領域もしくは地上的展開と 天上的展開の二つの領域が, 「中間休止」 を挟んで共存する。 このような 流れをヘルダーリンはギリシア悲劇の構造的イメージとして認識した。>
(『差異と反復』ドゥルーズ著 財津理訳146,151頁、「『オイディプス』への註解」『ヘルダーリン全集』第4巻48頁、参照 )

ヴィトラック(318)
ペギー(288,文庫下63)

ブランショ関連:
第二章178~9-463,文庫上303
二つの死
評論集《文学空間L'espace littéraire》(1955)
意味の論理学21セリー、参照

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20070731
「第一次大戦」という大きな暴力によって受けた傷があくまで「私のためのもの」であるのと対照的に、「個人の小さな偶発事故」によって受けた「傷」は、あらゆる「大きな暴力」による傷と同等なものとされる。ドゥルーズは書く。《すべての暴力、すべての抑圧は、このただひとつのできごとにおいて統合される。そのただひとつのできごとが、ひとつの暴力もしくは抑圧をあばくことによって、すべての暴力もしくは抑圧をあばく》。第一次大戦によって受けたある人の傷も、街でチンピラと喧嘩して受けた別の人の傷も、「できごと」としての「傷」という「ただひとつのもの」のあらわれであり、あらゆる暴力は、ただひとつの「(できごととしての)暴力」を表現する。そこで人は、傷の固有性を超えた、非身体的な「傷のできごと性」を生きることになる。それは《私とは関係のない現在を欠いた時間》(ブランショ)からやってくるものであり、身体的な死ではない、できごととしての「死」もまた、そこからやってくる。そこでは、《死が死に対抗し、死ぬことが死の廃棄になり、死ぬことの非人称性が、(略)死がそれ自体のなかで滅びる瞬間を示し》もする、と。

http://d.hatena.ne.jp/mokohei/20121031/1351687187
…ブランショは…まず簡潔に身体的なものと非身体的なものの両義性として扱われ、「現前せず、過去と未来から切り離せない出来事としての死」と「最も辛い現在に到来して実現される人称的な死」という二つの死である(アイオーン的な死とクロノス的な死と読み替え可能なようにも思える)。
 そしてこの二つの死の解釈からは裂け目が生まれるという。

http://www.sal.tohoku.ac.jp/French/accueil/doctrat-hirate.html
文学空間第3章
言語観と共にマラルメから受け取った「非人称」という概念を用いて、ブランショは作家の変質を語る。例えばカフカが作家になったのは、「私はJe」では なく、非人称の代名詞でもある「彼はIl」を使うことによってであることを語る。なるほど、このこと自体は、特権性を紡ぎ出すもののようにすら見える(超 越的存在)。だがブランショは、主体を否定するこの形象を、一般的な人を指す「人はOn」という語によっても指示するのである(「私が死ぬのではなく、人 が死ぬのだ」)。こうした表現においては、特権的な存在となるために主体性を放棄するという意味を越えて、その成立自体が拒絶されているのではないか、と 考えられるのである。個を越えた本質への運動が、個を越えた「全ての人」を到来させることになる。この「全ての人」の次元に、ブランショが語りだす、他者 との共同体の可能性が萌芽することになろう。

 「そして」,〈私〉とはひとりの他者のことなのだ.個別的な死と一般的な死が,一体化して層をなしている.──雨が降るように彼女が死ぬ,とブランショ=ドゥルーズはいう.ある者は,それだけのことだ,と訳知り顔でつけ加える.それだけのことに過ぎないのではなく,それほどまでのことに他ならない.
 「失ってしまった何かを,自らのうちに留める」ことは,失われるものとして何かを自らのうちに留めることでもある.私はいずれ失われる,しかし〈私〉は自分の死を死ぬことができない.それは失われるのではなく「一つの回帰」なのである.「喪失の喪失として,もはや失うことすらできないものとして」.


われわれの救いは死である,しかし〈この〉死ではない. — フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』 

死とは現在を欠いた時間であり,私はこの現在を欠いた時間に何の関わりも持っていない.私には死に向かって身を投じることはできない.なぜなら,死においては,〈私〉が死ぬのではなく,〈私〉は死ぬ能力を失っているからだ.すなわち,死においては,〈ひと〉が死ぬのであり,〈ひと〉が死に続けるのである. — モーリス・ブランショ『文学空間』

 雨が降るように〈ひと〉が死に,〈喪〉が開始する.それはいつのまにか始まっているが完了する保証はどこにもない.七年前のブランショ追悼に際し,廣瀬純は「ブランショにおける〈死〉の肯定は,ドゥルーズにおける〈生〉の肯定へとリレーされる」(『ブランショの死とドゥルーズの生』)と書いている.

プルースト(第二章191,第四章298他):
『失われた時を求めて』

プラトンとニーチェ:

○ 現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されているのであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望ましい事態でもある。」(p102)「イデアはまだ世界を表象=再現前化に服従させるようなひとつの対象概念ではなく、むしろ、或る野生の現前なのであって、それは、諸事物のうちにある「表象=再現前化されうる」ことのないものに応じてしか、世界のなかに呼び出されえないものなのである。」「差異のディアレクティックには、それ固有の方法がそなわっているのだが、この分割は、媒介なしに、媒概念あるいは理由なしに働き、こうして概念一般の諸要請というよりはむしろ、<イデア>の霊感を頼みにしているようである。」「その(分割という)方法は<イデア>の観点からすればまさにそのイデアの観点からすれば、まさにそのイデアの威力ではないだろうか。」(p103)「分割は差異をつくることが可能な根拠としての神話を要請し、逆に、神話は根拠づけられるべきものにおける差異の状態としての分割を要請するのである。分割は、弁証法と神話体系との、土台としての神話と分割の理法としてのロゴスとの真の統一である。根拠のそのような役割がまったき明瞭さをもって現れてくるのは分有についてのプラトン的な考え方においてである。」「ひとり<正義(というイデア、つまり根拠)>のみが正しい、とプラトンは言う。」(P107)「つまり様々な度で(正しさを)分有するもの、それが必然的に要求者なのである。」「そうした要求は、他の諸現象とならぶひとつの現象なのではなく、あらゆる現象の本性なのである。根拠とは、要求の対象(正しさ)を分有する可能性をより多くあるいはより少なく、要求者に与えるひとつのテストである。まさにこうした意味で根拠は、真価の測定を行い、差異をつくる(差をつける)のである。」(p108)「ところで根拠によるテストの本質的な内容は正確にはどのようなものであろうか。神話が、その答えをわたしたちに教えてくれる。すなわち、それはつねに、果たさなければならぬ責務、解かなければならない謎である、と。神託にたずねてみても、神託の答は、それ時自体、ひとつの問題なのである。(プラトンにおける)弁証法(問答法)はイロニーであるのだが、このイロニーは、問題および問いに関する技術である。」(p109)「問題と問いは認識における不十分さの契機を示すような欠如的、主観的な規定ではない。問題的な構造は諸対象の側に属しており、その構造のおかげで諸対象をしるし(シーニュ)として捉えることができる。」「問題あるいは問いそのものの本質に「照応している」のはまさに存在である。」「いわば「開在性」「開口」存在論的な「襞」があり、これが存在と問いを相互に関係させている。こうした関係においては、存在は<差異>それ自身である。存在はなるほど非―存在でもあるが、しかし非―存在は否定的なものの存在なのではな異のであって、むしろ問題的なものの存在、問題と問いの存在なのである。」(p110)
ハイデガーについてのドゥルーズの立場が以下述べられる。 「わたしたちは、差異と問いとの、すなわち存在論的差異と問いの存在との」「照応を根本的なものとみなしている。」(p113)
○「プラトン的弁証法の四つの形態はしたがって、差異の選別、円環的神話の創設、土台の設定、<問い一問題>という複合体の定立、ということになる。しかし差異は、それらの形態を通じて、またもや<同じ>ものあるいは<一>に帰着させられてしまう。」(p113)「プラトン哲学の転倒の意味は、コピーに対するオリジナルの優位を否認すること、影象(イマージュ)に対する範型(モデル)の優位を否認することである。」「永遠回帰はそれが存在させ(そして還帰させるもの)を見せかけであるもの(エタン シミュラクル)として性格づける。永遠回帰が<存在> (非定型なもの)の力であるとき、見せかけ(シミュラクル )は存在するもの―「存在者」―の真の特徴あるいは形式になる。」「永遠回帰は、わたしたちを普遍的な「脱根拠化」に直面させるのだ。脱根拠化という言葉によって理解しなければならないのは、まさに永遠回帰を構成する媒介されていない基底の自由であり、他のあらゆる基底の背後に控える或る一つの基底の発見であり無底と根拠づけられていないものとの関係であり、非定型なものおよび最高の形相に関する直接的な反省である。」(p114)「プラトンは最初にプラトンを転倒させるもの」であり、ソピステスにおいて「見せかけを深く究めることによってその見せかけがオリジナルあるいは範型から区別できないということを証明している。」「差異のそれぞれの契機は、おのれの真の形態すなわち選別、反復、脱根拠化、<問い―問題>という複合を発見しなければならない。」「エステティックがもはや他へは還元できない二つの領域に分裂するのも、なんら驚くべきことではない。すなわち、その一方は現実的なものに関して可能な経験に合致するものしか保持しえないよような感覚されうるものについての感性論(エステティック)であり、他方は現実的なものの現実性をそれが反映する限りにおいて取り込むような、美についての理論としての美学である。だが条件づけられるものよりはゆるくはなく、そしてそれらのカテゴリーとは本性上異なっている現実的な経験の諸条件をわたしたちが規定するとき、事態はすべてかわるのだ。」(p116)「さて以上のような方向でこそ、もはや可能な経験の諸条件ではなく、現実的な経験(選別、反復、等々)の諸条件を探究しなければならない。」(p117)

http://tetsugaku.tripod.com/philosophe/heidegger.html
Gesamtausgabe Band 7, Vortäge und Aufsätze (1936-1953)
 第7巻『講演と論文』「形而上学の超克」(未邦訳)

Gesamtausgabe Band 43, Nietzsche, der Wille zur Macht als Kunst
 第43巻『ニーチェ、芸術としての力への意志』(薗田宗人+セバスティアンウンジン訳、1992/03)

『ニーチェ1』(細谷貞雄監訳平凡社ライブラリー214頁参照。上記43講義録に手を加えたもの)

"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180) 

7[一五六]
 私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、より純粋に、より美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。
1870年末-1871年4月
(「遺された断想」『ニーチェ全集』第1期第1巻白水社267頁より)

ドゥルーズ『差異と反復』邦訳文庫版上169,487頁、単行本102,490頁参照
『意味の論理学』付論1冒頭参照
 __________


エチカ2:49注解
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2p49n
…そこで第一の点から始めるとして、私は読者に、観念あるいは精神の概念と、我々が表象する事物の表象像とを、正確に区別すべきことを注意する。それから観念と、我々が事物を表現する言葉とを、区別することが必要である。
(柄谷行人『探究2』文庫版149頁参照別訳)


論語子罕第九 9:13
http://nam21.sakura.ne.jp/koushi/#note0913
子貢曰、有美玉於斯、韜*匱*而藏諸、求善賈而沽諸、子曰、沽之哉、沽之哉、我待賈者也、

子貢が曰わく、斯こに美玉あり、匱*(ひつ)に韜(おさめ)て諸(こ)れを蔵ぜんか、善賈(ぜんこ)を求めて諸れを沽(う)らんか。子の曰わく、これを沽らんかな、これを沽らんかな。我れは賈(こ)を待つ者なり。

子貢が言った、「ここに美しい玉があるとします。箱に入れてしまい込んでおきましょうか、よい買い手を探して売りましょうか。」先生は言われた、「売ろうよ、売ろうよ。私は買い手を待っているのだ。」
(別訳 柄谷行人『探究2』文庫版322頁参照)

<フロイトがいったように、この女への固執は、幼年期における母への固執の再現(想起)である。次々と相手を変えながら、そのつどこの女と思い込むようなタイプは、フロイトがいう「反復強迫」である。実は、反復強迫は、キルケゴールのいう反復ではなくて想起であり、同一的なものの再現なのである。ここには、この他者は存在しない。たんに、法則的(構造的)な再現(表象)があるだけだ。>
(柄谷行人『探究2』文庫版15頁)
http://blog.livedoor.jp/captainahab/archives/50551139.html



反復と一般性の区別の三つのレベル
 行動、新エロイーズ(ルソー)
 法、 ニーチェ、キルケゴール
 概念、カント     →概念の阻止へ エピクロス1/カント∞

概念の「阻止」(bloquer、固定、凍結)は以下のように横軸が
条理化されることを意味するだろう。 

      観 念
       :
      普遍性
   (法) |(反復)
概  一   |   特
 ・・般十十十十十十十殊
念  性   |   性
   (概念)|(行動)
      単独性

カントも参照される権利上の概念の問題は、動的概念、
さらには図の縦軸に当たる観念=イデアを準備する。
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ『差異と反復』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_20.html?m=0#_0000
差異、所与の起源=x(336頁)


           チャート図:『差異と反復』>>14 
             _______|_________ 
            |                 |同一性と
        差異__|__反復             |対立の哲学
        _|_    |              |ハイデガー
       |   |  0序論>>4          |
一それ自身における差異|  _|_             |
       |>>5| |   |            |
 ショーペンハウアー | |  反復と一般性の区別>>111|
    |      | |   _|_     >>696|
    | アリストテレス|  | | |         |
    |      | | 行動、法、概念        |
   一義性と差異  | |      _|_       |
    |      | |    _|_  |      |
 スコトゥス、    | |   |   | 固定(阻止) |
 スピノザ、     | | 裸(拍子) 着衣(リズム)  |
 ニーチェ      | |                |
    |      |二それ自身へ向かう反復>>7ヒューム|
    | ライプニッツ       |   >>8    |
    |      |     時間の総合        |
    |      |    ___|___       |
    |   ヘーゲル   |   |   |      |
    |      |   現在  過去  永劫回帰   |
    |      |   | 潜在的無意識|ニーチェ  |
    |      |   | フロイト  |      |
    |______|   |___|___|      |
       |           |__________|
      プラトン               |
       |           三思考のイマージュ>>9
 四差異の理念的総合               |ベルクソン
>>10カント|_________________|
>>11           |
      五感覚されうるものの非対称的総合 >>12
          共通感覚 | 強度の特徴 個体化 ライプニッツ
               |
          結論:差異と反復 >>13 ニーチェ

      
はじめに
序 論:反復と差異 >>4
第1章:それ自身における差異 >>5
第2章:それ自身へ向かう反復 >>7 >>8
第3章:思考のイマージュ >>9
第4章:差異の理念的総合 >>10 >>11
第5章:感覚されうるものの非対称的総合 >>12
結 論:差異と反復 >>13

Gilles Deleuze, Différence et répétition, Paris, PUF, 1968.

Avant-propos                p.1 (下記pdf頁数)
Introduction : répétition et différence      p.2
Chapitre premier : La différence en elle-même  p.7
Chapitre II. : La répétition pour elle-même   p.16
Chapitre III. : L'image de la pensée       p.27
Chapitre IV. : Synthèse idéelle de la différence  p.36
Chapitre V. : Synthèse asymétrique du sensible  p.52
Conclusion. : Différence et répétition       p.67
                 (Index p.81)
>「差異と反復」講義目録。
>http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/deleuze_dr.pdf


ちなみに、差異と反復の関係は以下のように考えられる。

  反 復
 差   一
   + 般
 異   性
  一義性



追記:
『差異と反復』序論、概念の「阻止」(bloquer、固定、凍結)は以下のように横軸が
条理化されることを意味するだろう。

      観 念
       :
      普遍性
   (法) |(反復)
概  一   |   特
 ・・般十十十十十十十殊
念  性   |   性
   (概念)|(行動)
      単独性

カントも参照される権利上の概念の問題は、動的概念、
さらには図の縦軸に当たる観念=イデアを準備する。


序論における概念の「阻止」(bloquer、固定、凍結)が横軸の条理化なら、
第三章 思考のイマージュにおける公準は縦軸の条理化であろう。

      観 念
       :
      普遍性
   (法) 十(反復)  思考
       十      共通感覚
       十      再認
概  特   十   一  表象
 ・・殊ーーー十ーーー般
念  性   十   性  誤謬
       十      指示
       十      解
   (概念)十(行動)  知
      単独性

第三章 思考のイマージュ

 哲学における前提の問題                 (ヘーゲル、デカルト)
◯第一の公準――普遍的本性タル《思考》の権利       (ニーチェ)

◯第二の公準――常識〔共通感覚〕の理想           
◯第三の公準――再認というモデル
 思考とドクサ                      (ベルクソン、カント)
 カントにおける《批判》の両義性
◯第四の公準――表象=再現前化のエレメント

 諸能力の差異=微分的理論
 諸能力の不調和的使用――暴力とそれぞれの能力の限界
 プラトン哲学の両義性                  (プラトン『国家』)
 思考するということ――思考におけるその発生       (ハイデガー、アルトー)

◯第五の公準――誤謬という「否定的」なもの        (プラトン『テアイテトス』)
 愚劣の問題                  (ショーペンハウアー、フローベール『ブヴァールとペキュシェ』)

◯第六の公準――指示の特権                (ラッセル)
 意味と命題                  (アルトー、デカルト、フローベール、ルイス・キャロル)
 意味のパラドックス                   (ルイス・キャロル)
 意味と問題 
◯第七の公準――解の様相
 新理論における解の錯覚
 問題というカテゴリーの存在論的重要性と認識論的重要性  (プロクロス)

 「学ぶ」ということは何を意味するのか
◯第八の公準――知という結果
 差異と反復の哲学に対する障害としての諸公準の要約   (ニーチェ、プラトン『メノン』)

 1  |5☆  
    |  
____|____
 2、3|6、7
 4  |  8

(公準6、7、8を起点にして最初から回転させれば本書全体と同じ構造である。)

NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ『差異と反復』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_20.html?m=0#_3


かなり昔に読んだが、最近哲学史の知識を頭に入れて読み返したら、ドゥルーズ本人の最高作というよりはハイデガー『存在と時間』を超える20世紀を代表する圧倒的著作ではないかと思うようになった。
文庫で読める最近の若者が羨ましい。
ただ本書は「コラージュ」というより、マーブルチョコの混じったウェディングケーキのように構成されていて、哲学史の知識とともに全体像を把握してから読まないと、面白さがわからないかもしれない。
多少恣意的だが、大体の全体像は以下のようになっている。

  チャート図:ジル・ドゥルーズ『差異と反復』 
             ______|________はじめに:
        差異__|__反復             |/同一性
     ___|__     |序論:    差異の哲学 / の哲学
    |      |  反復と差異     ハイデガー/|ヘーゲル
 一: |      |  __|_反復と         |美しき魂
 それ自身における差異| |   一般性の区別 反復=イデア|
 ショーペンハウアー | | ___|___        |
    |      | |行動 法/キル 概念      |
    | アリストテレス|  ケゴール__|__留保、阻止|
    |種異、類差、範疇| 裸___|___着衣     |
 一義性と差異    | |     |          |
 スコトゥス、スピノザ| |   二:|     ヒューム |
 ニーチェ      | |それ自身へ向かう反復 ベルクソン|
    | ライプニッツ |___時間の総合 デカルト   |
    |   ヘーゲル       |    カント   |
    |______|      現在__過去__円環  |
       |     マルクス  |   |   |  |
     ハイデガー   フロイト(習慣__潜在_死の本能)|
  プラトン『ソピステス』    見せかけ  |______|デカルト
       |                |ベルクソン 
 四:差異の理念的総合 多様体  三:思考のイマージュ  プラトン
    カント|________________|  障害としての諸公準
 ライプニッツ        |           自然的/哲学的
 微分       五:感覚されうるものの___
   潜在的      非対称的総合      |      表象批判
 可能的+実在的  他者 /良識、共通感覚  結論:差異と反復 存在=
   現働的     ダーウィン         ニーチェ   差異
       個体化 個体的差異 強度の特徴   永遠回帰における反復

欠点としてはマルクスの名前があるのにプルードンの名前がないことだ。系列の思想家として彼は不可欠な存在だ。潜在的なものの実在化は歴史的には政治革命から社会革命への転換に対応する。

サミュエル・バトラー『エレホン』関連:
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/ktm3w/rays0110.html
ドゥルーズは、《今ここnowhere》をひっくり返して《エレホンerewhon》といった
サミュエル・バトラーを称賛した…

http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
「しかし経験論は、概念をまさにある出会いの対象として<ここ-いま>としてあるいは
エレホンとして取り扱う。」
「私たちは起源的な『どこにもないもの』と置き換えられ、偽装され、変容され、常に再
創造される『ここと今』を同時に意味するものとしてエレホンを発見するのである。」
(『差異と反復』「はじめに」単行本15~16頁)

http://urag.exblog.jp/15902022/
「ユートピアは無限運動から切り離しえない。ユートピアは、語源からして〔「どこに
もない場所」を意味し〕、絶対的脱領土化を指すのだが、ただしつねに臨界点において
――すなわち絶対的脱領土化が、現前している相対的な中間=環境と連結し、とりわけ
そうした中間=環境のなかで窒息した諸力を連結するようになる臨界点において――絶
対的脱領土化を指す。ユートピア論者サミュエル・バトラーが用いた言葉「エレホン 
Erewhon」は、たんに《No-where》つまり「どこにもない」だけでなく、《Now-here》
つまり「いま-ここ」をも指し示している。重要なのは、いわゆる空想的社会主義と科学
的社会主義との区別ではなく、むしろ、様々なタイプのユートピアなのであって、革命は
そのひとつである」(『哲学とは何か』文庫版172頁)。

『エレホン』本文邦訳(途中まで?)
http://page.freett.com/rionag/butler/erewhon.html  

タルド関連(上81,214-455,456,下356頁他):
開かれたモナド。存在=所有に目を向けた相互主義。
ショーペンハウアーの意志を「信念と欲望」の二元論、精神の一元論に分けた。『模倣の法則』、『社会法則』。「あらゆる事物は社会であり、あらゆる現象は社会的事実である」(『モナドロジーと社会学』邦訳163頁)

「モナドには、そこを通って何かが出たり入ったりする窓はない」(Leibniz, 1840: La monadologie, Delagrave, 1995. 清水富雄他訳『ライプニッツ:モナドロジー、形而上学』、中央公論社、2005年, p.144)。ライプニッツのよく知られた記述である。後にタルドはこれに 修正を加えて、「モナドが開いていて、相互に浸透し合っていると考えること で」ライプニッツのモナドが抱えた神秘主義的な謎を解決できるとした(Tarde, G., 1895: Monadologie et sociologie, Institut Synthélabo, 1999.p.56, 村澤真保呂・ 信友建志訳『社会法則/モナド論と社会学』、河出書房新社、2008年, 160~161頁)。タルドのネオ・モナドロジーにおいては、ライプニッツ のような、予定調和を可能にする超越的審級は存在しない。 ただし、ライプニッツのこの言葉には注意が必要である。「モナドは無窓で あるどころかモナドそのものが全面的に窓である。...<モナドに窓がない>と いう箇所は、<ものが出はいりする>窓がないというだけの、きわめて軽い意味で言われているにすぎない」(下村寅太郎、2005:「来るべき時代の設計者」、清水富雄他訳『ライプニッツ:モナドロジー、形而上学』、中央公論社、2005年所収、72-72頁)。 

マルクス関連(第四章他):
差異と反復〈下〉 (文庫) 感想 ジル ドゥルーズ - http://book.akahoshitakuya.com/b/4309462979
「経済とは、社会的弁証法そのものであり、(略)既定の社会について立てられる諸問題の総体、あるいは既定の社会についての総合的かつ問題提起的な場である」(56ページ)。そして、「社会問題は、経済的な問題としてしか存在しない」(57ページ)284

『ブリュメール十八日』(第二章150頁)

『資本論』(第四章283,313頁)

『経済学批判』(第四章284,503頁)
「人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである」(『ベルクソンの哲学』邦訳6頁参照)

補足:

ハイデガー関連:
『形而上学とは何か』111
『思惟とは何の謂いか』225,226-466
『カントと形而上学の問題』305-471
『存在と時間』466


アルトー関連(思考するということ230-467):
アルトー全集序言より(邦訳全集6~8頁参照)
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/746/1/RLA_98_111-132.pdf
<…我こそは存在する人間だ,先天的に存在する人間だと信じている馬鹿者どもがいる。かく言う私は,存在せんがためには生得のものを鞭打たざるをえない人間なのだ。生まれついて一個の存在たるべく運命づけられた者,すなわちあのけちな犬小屋,おお,不可能性の雌犬どもを詰め込んだけちな犬小屋を鞭打たねばならぬ人間なのだ。
… 文法の下に,思考があるが,こいつは文法以上に頑強でやっつけにくい恥知らずな奴であり,これが人間に生まれついての事実だと思い込んだら,もう乗り越えるのも困難な気難しくて取りつく島のない処女なのだ。 なぜなら,思考は立派な年増女だが,いつでもそこにいたわけではないからだ。…>


ニーチェ関連:
ツァラトゥストラドゥルーズ引用箇所、
『ツァラトゥストラはこう言った 』第二部
46 最も静かな時
Die stillste Stunde
(『差異と反復』第二章文庫上255,単行本151。第四部82「微(きざし)」にも言及あり)
『ツァラトゥストラはこう言った 上』
 そして、声なき声は、最後にこう言った。「おお、ツァラトゥストラよ、あなたの育てた果実は熟れているのです。熟れていないのは、あなた自身のほうです!
 だから、あなたはふたたびあなたの孤独にもどりなさい。あなたはさらに熟れなければならないのです。」岩波文庫上257頁
第三部 50 日の出前 Vor Sonnen-Aufgang *
    62 七つの封印 Die sieben Siegel
第四部 75 「ましな人間」について Vom höheren Menschen 
以上、単行本結論421-478,文庫下301-365頁。
27及び440頁以下(「環帰しないもの」)で永遠回帰が問われている2箇所が指摘される。
第三部 「幻影と謎」48,「快癒しつつある者」59
「まぼろしと謎について」(ツァラトゥストラ 下 第3部 光文社古典新訳文庫 ニーチェ):
 <「直線はみんな噓つきだ」と、軽蔑したように小人がつぶやいた。「真理はみんな曲線だ。時間だって円だろう」
 「おい、重さの霊!」と、俺は怒って言った。「そう簡単に言うな! お前なんか、しゃがんだまま、置き去りにしてやろうか、足萎えよ。──こんな高いところにまで運んでやったのは、俺なんだぞ!  
 よく見るんだ」と、俺はしゃべりつづけた。「この瞬間を! 瞬間という名のこの門道から、永遠に長い道が後ろ向きにつづいている。後ろにあるのは永遠だ。 >

「回復しかかっている者」(ツァラトゥストラ 下 第3部 光文社古典新訳文庫 ニーチェ):
<──あの怪獣の蛇が這ってきて俺の喉に入りこみ、俺の息を詰まらせた! だが俺はその頭を嚙み切って、吐き出した。
 するとお前たちは、──もう、そのことを手回しオルガンの歌にしたのか? それなのに俺はまだ横になっている。嚙み切って吐き出したことで疲れ、自分を救ったことで病気になっている。
 しかしお前たちは一部始終を見物していたのか? おお、鷲と蛇よ、お前たちも残酷なのか? 俺の大きな痛みを、お前たちは、人間たちが見物するように見物していたのか? 人間は、もっとも残酷な動物だからな。>
(以上『差異と反復』序論27頁、文庫34頁参照)
第三部59 快癒に向かう者 Der Genesende
「手回しオルガン(手まわし風琴)」序論27頁,文庫上34、第二章146,文庫上251

第四部 
75 「ましな人間」について Vom höheren Menschen
(『差異と反復』結論文庫下301,単行本421-478)
82「微(しるし)」Das Zeichen
(『差異と反復』第二章文庫上255,単行本151)


日の出前、50、第三部:
 おお、頭上の空よ、あなたは清らかだ! 深い! 光の深淵だ! あなたを見ていると、俺は神のような欲望にかられて身ぶるいする。
 あなたの高さのなかへ俺を投げあげること──それが、俺の深さだ! あなたの清らかさのなかに俺が避難すること──それが、俺の無邪気さだ!
 神をおおい隠しているのは、神の美しさだ。


7つの封印、62、第三部:
 創造の息が俺に吹きかけられたとき。偶然たちに星の輪舞を無理やり踊らせる、あの天国の必然の息が俺に吹きかけられたとき。
 俺が、創造の稲妻のように笑ったとき。実行役の長い雷鳴は、ゴロゴロ言いながら、しかし従順に、いつも稲妻のあとを追いかけるのだが。
 俺が、この地上の神々のテーブルで、神々とサイコロで遊んで、地面が震えて破れ、火流を噴き上げたとき。──
 ──なにしろ神々のテーブルはこの地上なのであり、創造の新しい言葉や神々の投げたサイコロで震えるのだから。──
 そんなとき、おお、俺は永遠を激しく求めているはずだ。指輪のなかの指輪である結婚指輪を──回帰の輪を激しく求めているはずだ!  

 ほんのちょっとだけ理性を混入することは、たしかに可能だ。どんなものごとにおいても確実に可能なのだと、俺は幸せにも気がついた。どんなものごとも、どちらかというと偶然のステップを踏んで──ダンスしているのだ。
 おお、頭上の空よ、あなたは清らかだ! 高い! あなたが清らかなのは、永遠の理性という蜘蛛がなく、その蜘蛛の巣もないからだ。──
 あなたが、神の偶然のダンス・フロアになっているからだ。あなたが、神のサイコロ遊びのため、神のテーブルになっているからだ!

高級な人間について、75、第四部:
 14
 おずおずと、恥ずかしそうに、ぎこちなく、まるで跳びそこなったトラみたいに、君たちが、高級な人間よ、そっと姿を消すのを、俺はしばしば見てきた。いい目が出なかったのだ。
 しかし、サイコロ賭博師である君たちにとって、それがどうした! 賭博をしたら、運を嘲笑する必要があるのだが、君たちはそれを学ばなかったのだ! 俺たちはいつも、賭博と嘲笑の大きなテーブルについているのではないか?
 そして君たちが大きなことに失敗したからといって、君たち自身が──失敗作なのだろうか? そして君たち自身が失敗作だったからといって、人間というものが──失敗作だろうか? 人間というものが失敗作だったとしても、ふん! 気にするな!
(以上、単行本結論421-478,文庫下301-365頁


二八九 隠遁者の哲学 『 善悪の彼岸』 (光文社古典新訳文庫) より

<…すべての洞窟の背後には、もっと深い洞窟が潜んでいるのではないか、潜んでいるに違いないのではないか──表面を越えた彼方には、もっと広々として、見慣れない豊かな世界があるのではないか、あらゆる〈土台〉の下に、あらゆる「根拠づけ」の下に、さらに深淵が潜んでいるのではないか…>

ドゥルーズ『意味の論理学』(法政版324頁)参照


アリストテレス関連:
『形而上学』62,63~,485
『トピカ』244,467


カント関連:
『プロレゴメナ』
序論
 「自然的阻止」の三つの事例と反復――名目的諸概念、自然の諸概念、自由の諸概念
36,347
http://www.k-mogi46.info/index.php?
<カントは『プロレゴメナ』のなかで、次のような問いを立てている。「私の手、もしくは私の耳に似ていて、あらゆる点でこれに等しいものとしては、鏡におけるその映像以上のものがありうるであろうか? それでもなお、私は、鏡に見られるような手をその現物に位置に置くことはできない。なぜなら、この現物が右手であったとすると、鏡のなかの手は左手であるし、また、右耳の映像は左耳であって、この左耳は決して前者の代わりをすることはできないからである。…一方の手の手袋は、他方の手に使用することはできない。それではこれをどう解決するか?」(理想社 カント全集第六巻「プロレゴメナ」超越論的主題問題 第一篇 第十三節 p.243、岩波文庫 p.75~)>

カントの基本図式は以下。
ショーペンハウアーによる四つの根拠律、さらには柄谷の冒頭図及び交換図と比較すべきだ。

     分 析
      |
   量  |  質
 規____|____反
 定    |    省
   関係 | 様相
      |
     総 合 



ヒューム関連(第二章冒頭119頁):
http://blog.livedoor.jp/iwantobelieve/archives/67915918.html
<必然性はつねに原因と結果に帰せられているので、そういう因果の関係にあるとされている二つの対象に目を向けて、それらが置かれている自体の全てにわたって、これらの対象を吟味してみる。二つの対象が時間的、場所的に近接していること、また、原因とよばれる対象の方が結果とよばれるもう一つの対象よりも先行することに気づく。さらに視野を広げて、いくつかの実例をひっくるめると似かよった近接と継起の関係にあることに気づく。反復作用はすべての点で同じというのではなく、新しい印象を生み、さらにそれによって、いま吟味している観念を生むことを見出すのである。なぜなら、たびたび反復してゆくと、対象の一方が現れれば、心は習慣によって規定されて、それにいつも伴っているものを考えるように、それも初めの対象との関係のゆえに、はるかに強い明るさで考えるようになるのがわかるからである。そうすると、必然性の観念を与えるのは、この印象、いいかえるとこの規定なのである。>
(中公クラシックス『人性論』、岩波文庫『人性論』1:3:14,第一巻241頁参照)

 ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合
 直接、複数     |再現、反省  観念
          想像      (実体*、
         /  \      様相、 
      連想能力  比較する原理=関係1~7)
       /  \/         \
     b/ *c/\a         \
    接近、7因果、1類似_4量_5質_6反対_
     |  |  __3時空_2同一性    |
     |  | |  (源泉)        |
     | (蓋然性)  |    (数学的、確実性)
     |________|
連想の性質である接近と関係の性質である時空は後者が前者の源泉であり実質同じ。
ここから、連想は蓋然的であり因果と同一性を除く関係性は確実的であるという結論になる。
(『人性論』1:1:4~6より)
実体もまた単純観念の集まりで、様相に比べて因果性があるだけだとされる。
実体を後回しに定義するあたりが帰納法的を駆使する経験論らしい。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/m/pages/82.html
ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。

ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。

ショーペンハウアー関連:
第一章「差異は一つの形式においてすなわち有機的な表象=再現前化の首尾一貫したエレメントにおいて、規定作用そのものを他の諸規定に関係させることができるのではないだろうか(と思われている)。」充足理由の4つのアスペクトは媒介の四つの諸形式である、「同一 性と対立、類比と類似という四重の根に首尾よく差異を服従させてしまうかぎり、人は差異は表象=再現前化において媒介されているというだろう。」
「してみると、問題は、差異がいわば概念と和解している幸福な契機一をギリシャ的な幸福な契機一を規定することにある。」(p59)
同一性| 類似
ーーー十ーーー
対立 | 類比

生成行為
存在認識


ベルクソン関連:
★ベルクソンの「生命」は「植物」「動物」。
 ベルクソンの生命の捉え方を「差異化の概略的シェーマ」(『創造的進化』第二章)としてジル・ドゥルーズ(1995)が示している(『ベルクソンの哲学』邦訳p114)。ドゥルーズは、「生命」とは、「動物」と「植物」であり、「物質」を除いているのである。

          差異化の概略的シェーマ(『創造的進化』第二章)

      物質 __|さまざまな世界。そしてそれぞれの世界に物質のもろもろのタイプがあり、
     (弛緩)  |それは、生命が回避すべき外的・内的な障害として出現する。
     /
記憶-持続    植物:葉緑素の作用(連続的にエネルギー|/炭素同化作用
     \  /   を蓄積し、爆薬を貯蔵する。)  |\窒素同化作用
      生命
     (収縮)                 非中心化した神経系:本能
        \動物:神経系(非連続的にエネ| /        物質の外在化と支配
            ルギーを消費し、爆薬を| \中心化した神経/
            爆発させる。)    |         \生命の転換と包括(直観)
                       |  系:知性
参考:
小林秀雄について(ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』ヘの書き込み):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_12.html

ヘーゲル関連(序論53~4-484,第一章81-456,82-487):
ヘーゲル「改訳 大論理学 中巻」『ヘーゲル全集7』(武市健人訳、岩波書店、66頁、81~2頁参照)
 <差異一般はすでに即自的な矛盾である。>

http://blog.goo.ne.jp/maxikon2006/e/2069b0e8aeef9c25d868701daad7fe9c
 08、区別一般はすでに潜在的に矛盾である。というのは、区別は、両規定が一体ではない限りでのみ存在する・そのような両規定の統一であり、──また同一の関係のうちで分離されている規定としてのみ存在する・そのような両規定の分離であるからである。だが肯定的なものと否定的なものとは、否定的統一としてのそれらがみずから自分自身を定立する運動でありながら・この同じ観点において〔両者の〕おのおのが自分を揚棄しておのれの反対のものを定立する運動であるのだから、定立された矛盾である。──両者は排除する反省として規定的反省をなしている。排除する運動は一つの区別する運動であって、区別されたもののおのおのが排除するもの自身として全体的な排除する運動なのであるから、おのおのはそれ自身のうちで自己を排除しているのである。(大論理学第2巻49頁、寺澤恒信訳)

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/papers/PAPER1.HTM
 知と対象は、さしあたり、互いに無関心な(gleichgueltig)なもので、独立のものである。このような区別は、ヘーゲルの論理学では、差異性(Verschiedenheit)と呼ばれている。彼によれば、「それ(外面的区別=差異性)は、比較において、比較するものに帰属している否定性である。比較するものは……両者の否定的統一である。」そして、「その互いに無関心な側面が、またそのまま全くただ一つの否定的統一の契機にすぎないような差異性は、対立である。」更に、「区別一般は、すでに即自的な矛盾である。というのは、区別は、一つのものでない限りでのみ存在する(二つの一ものの統一であると共に、またその同じ関係において分離されたものとしてのみ存在するそのような(二つの)ものの分離でもあるからである。」そして、この「矛盾は、あらゆる運動と生命性の根本(dei Wurzel)である。」おそらく、このような論理が、知と対象の区別から、必然的に両者の不対応が結果することの背後に考えられているのだろう。それ故に、次のように語られる。「意識の内で、自我とその対象である実体との間に生じる不等性は、それら(両者)の区別であり、否定的なもの一般である。この否定的なものは、両者の欠陥と見なされうるが、しかし、それらの魂ないしそれらを動かすものである。」(S.32 傍点引用者)

『精神現象学』(『差異と反復』第三章255,第四章291)
『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』(第五章336)「良識とは…」


『差異と反復』第四章におけるドゥルーズによる量-質-度(強度)の三幅対はヘーゲルを転用したもの。ヘーゲルは同一性をドゥルーズは潜在性を強化する(度の代わりに累乗の潜在力=微分というよりも積分?~316頁~が採用される)。プラトン、ライプニッツ、カント、ハイデガーへの言及ほど目立たないが、ヘーゲルこそがドゥルーズの第一の仮想敵なのだ。


ライプニッツ関連:

      ライプニッツ:
      予定調和説
       最善説
       /神\
      /   \
    無窓説   無窓説
    /  予定説  \
   /   微積分   \デカルト
思惟/汎心論①①①①①動力学\延長説
       モナド

       スピノザ
      無=目的論的

エルドマン「モナドの神への依存性を本気にとるとすると、モナドの
実体性は消滅の危機に瀕し、ライプニッツはスピノチスムスに近づく」
(三宅剛一 『学の形成と自然的世界』 1941年 403頁より) 

デカルト関連(第三章冒頭他):
デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
http://fr.wikipedia.org/wiki/Th%C3%A9ories_scientifiques_de_Descartes
(仏訳者への書簡より)
「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から
出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すな
わち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極
の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

« Ainsi toute la philosophie est comme un arbre, dont les racines sont la métaphysique, le tronc est la physique et les branches qui sortent de ce tronc sont toutes les autres sciences qui se réduisent à trois principales, à savoir la médecine, la mécanique et la morale, j'entends la plus haute et la plus parfaite morale, qui, présupposant une entière connaissance des autres sciences, est le dernier degré de la sagesse. »

Les Principes de la philosophie, lettre-préface de l'auteur

デカルト、哲学の木。
道徳が「知恵の最後の段階」にくる。

   道徳学
   |◯  機械学 
医学 |   /◯   ◯果実→公衆へ
 \◯|  /        
  \||/  枝、諸々のその他の学問  
   ||
   ||   幹、自然学  第二の部分 哲学原理2~4/4
-ーー||ーー-
  /\/\  根、形而上学 第一の部分
                  方法序説*、省察**、哲学原理1/4

参考:中公世界の名著325頁
この前段の学問に、日常道徳、数学を含む論理学がある。
http://3f.img.v4.skyrock.net/3215/74513215/pics/3117005059_2_3_tSvffL9U.jpg
http://real-illusion.skyrock.com/3117005059-L-Arbre-de-Descartes.html


「良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである」(初めての哲学書『方法序説』*冒頭より)

1637年『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences(La Dioptrique,Les Météores,La Géométrie)
試論(屈折光学・気象学・幾何学)を除いて序説単体で読まれるときは、『方法序説Discours de la méthodeと略す。

**1641年『省察』Meditationes de prima philosophia
欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。
 第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。
 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)
悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。
「それゆえ理念は三つの契機を提示している。その対象において未規定であ ること、経験の諸対象との関連で規定可能であること、悟性概念との関連 で無限な規定作用の理想を担うこと。ここで理念がコギトの三つの局面を 反復しているのは明らかである。つまり、未規定な存在としての「私は存在する」、この存在がそのもとで規定される形式としての「時間」、規定作用としての「私は思考する」。」(DR: p.220、単行本第四章261別訳,文庫下15)

    分析
規 我思う我疑う 反
定 ゆえに我あり 省
    総合

デカルト、ドゥルーズ:
     分 析
   我  思  う
   量  |  質
 規____|____反
 定    |    省
   関係 | 様相
      | 我あり
      |故に
     総 合

スピノザ:
     分 析
      |
   量  |  質
 規_ある_|思いつつ_反
 定    |     省
   関係 | 様相
      |
     総 合 


デカルト Renati Descartes 三木清訳 省察 MEDITATIONES 神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についての DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE A CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.
 <そしてここに最も注目すべきことと私の考えるのは、たとい私の外にたぶんどこにも存在しないにしても、無であるとは言われ得ない或るものの無数の観念をば私が私のところで発見するということである。かかるものは、たとい私によって或る意味で随意に思惟せられるとはいえ、私によって構像せられるのではなく、かえって自己の真にして不変なる本性を有しているのである。かくて、例えば、私が三角形を想像するとき、たぶんかような形体は私の思惟の外に世界のうちどこにも存在せず、またかつて存在しなかったにしても、それには確かにそれの或る限定せられた本性、すなわち本質、すなわち形相があるのであって、これは不変にして永遠であり、私によって構像せられたものではなく、また私の精神に依存するものでもない。このことは、この三角形について種々の固有性が、すなわち、その三つの角は二直角に等しいということ、その最も大きな角に最も大きな辺が対するということ、及びこれに類することが、論証せられ得ることから明かである。これらの固有性は、たとい以前に私が三角形を想像したときには決して思惟しなかったにしても、今は欲するにせよ欲しないにせよ私の明晰に認知するところであり、従って私によって構像せられたものではない。>
(デカルト『省察』より。『差異と反復』第三章217,上371参照)


プラトン関連:
『ソピステス』103~
『ポリティコス』104~
『パイドロス』105~
『メノン』109
『国家』221,232,298-504(『哲学の起源』230参照)
『テアイテトス』231~(文庫上396~7)
『クラテュロス』295-503
『ティマイオス』349,350-506
『パルメニデス』278-502,298,350
『ヒッピアス』287
『ピポレス』354
『パイドン』222,438,365-507


http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/test_18.html
http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/node11.html
『国家』(第4巻12章)で哲学史上初めて「矛盾律」というものが明確に表明される。

「いうまでもなく,同一のものが,それの同一側面において,しかも同一の ものとの関係において,同時に,相反することをしたりされたりすることは できないだろう。したがって,もし問題となっているものの間に,そういう 事態が起るのをわれわれが見出すとすれば,それらは同一のものではなくて, 二つ以上のものであったことがわかるだろう」(436B-C)
「同じものが同じものについて同時に反対の判断をもつということは,不可 能である」(602E)
「同じものを,知っていて知っていないとか,知らないでいて知っていると かいうことは不可能である。」(プラトン『テアイテトス』188A)






地下に向かう洞窟がある。普通の人間は、洞窟のa-bと書かれた線上に座っている。そこに座っている人たちは、手足を縛りつけられ、頭も固定されていて動くことができない。頭は洞窟の底のほうに向けられている。c-dの面です。iのポイントには光点が設定されており、e-fというところにちょっとした通路があります。通路には低い塀が設置されており、そこを謎の影絵遣いたちが、頭上に様々な物を掲げながら通る。すると、iに照らされた物の影が、c-dの面に映る。a-bに座っている人は、c-dに映る影絵を見ることになるわけです。プラトンはこのモデルを使って、私たちの世界認識を説明します。つまり私たちは、世界を見ているのではなく、世界の影絵を、プロジェクションを見ているというのです。そして哲学をするとは、a-bに縛り付けられた私たちが頭の向きを変え、拘束具を外し、この洞窟の外へとでていくことにほかならない。

      (太陽 善のイデア)
         \|/
        --〇--
         /|\   (地上 イデア界)
      __________________
\洞窟   \
 \     \______________   
  \i光源                |
   \☆    人形         cd|
    \ ef △_    ab   影絵▲
     \通路_|塀|___囚人_____|



ドゥルーズ『差異と反復』目次、
はじめに:13~
序 論:反復と差異 19~
第1章:それ自身における差異 57~
第2章:それ自身へ向かう反復 119~
第3章:思考のイマージュ 203~
第4章:差異の理念的総合 259~
第5章:感覚されうるものの非対称的総合 333~
結 論:差異と反復 391~450
原注 451~478
訳注 479~508



差異と反復#4より 

(23) リーマンはガウスの曲面論を拡張して、(x1,x2 , ...,xn)の近傍の点を(x1+dx1,x2+dx2 , ...,xn+dxn)と表わしたとき、この二点の計量(すなわち距離)をつぎのような微分二次形式で定義した。
    n
 ds^1=Σ gjk dxj dxk
    j,k=1


このgjkにひとつの値を与えることによってひとつの多様体が定義される。