金曜日, 3月 31, 2017

プロレタリア美術

美術研究所に架けられた黒澤明の300号。:落合道人 Ochiai-Dojin:So-netブログ

http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2014-09-02の煙突。日ノ出湯のほぼ真下、西隣りにプロレタリア美術研究所があった。
プロレタリア美術研究所の壁に展示されていた可能性が高い1929年(昭和4)制作の黒澤明『建築現場に於ける集会』(水彩)。

全日本無産者芸術連盟 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/全日本無産者芸術連

全日本無産者芸術連盟

全日本無産者芸術連盟(ぜんにほんむさんしゃげいじゅつれんめい)は、プロレタリア文学・芸術運動の組織である。略称(エスペラント表記Nippona Artista Proleta Federacioの頭文字をつないだもの)のNAPF(ナップ)でも知られる。

1927年、プロレタリア文学運動の組織は、分裂した3団体(プロ芸労芸前芸)がお互いに対立していた。この状況を打破しようと、1928年、蔵原惟人は、組織はそのままでの連携を呼びかけ、日本左翼文芸家総連合が、3月に結成された。しかし、その直後、三・一五事件と呼ばれる日本共産党への弾圧が起きると、共産党と距離をおいていた労芸は、連携に消極的になった。一方、プロ芸と前芸とは、逆にこの弾圧をきっかけに、分裂状態の解消に動き、組織を合同して、全日本無産者芸術連盟を結成した。

ナップは、機関誌『戦旗』を刊行し、プロレタリア文学の雑誌として、広く読者を獲得した。

その年12月、組織形態を少し改め、名称を全日本無産者芸術団体協議会(略称ナップはそのまま)とし、以下の分野別の組織を充実させる方向をとった。

その後、1930年にひそかにソ連にわたり、プロフィンテルンの会議に参加した蔵原は、帰国後、新しく文化運動全体にわたる組織化を提唱、日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成へとうごき、ナップは発展的に解消した。



プロレタリア美術(プロレタリアびじゅつ)とは - コトバンク

https://kotobank.jp/word/プロレタリア美術-128224

日本のプロレタリア美術目次を見る

第一次世界大戦前後から1920年代末期にかけて、意識的、組織的なプロレタリア美術が多くの国に発生、それらはおおむね各国の共産党機関誌を中心に展開された。
 日本では先駆的現象として、1903年(明治36)創刊の『平民新聞』とその継続運動への、平福百穂(ひらふくひゃくすい)、小川芋銭(うせん)、竹久夢二、小杉未醒(みせい)(放庵(ほうあん))らの芸術家の参加がまずあげられる。第1回メーデーが開かれた1920年(大正9)には、未来派芸術協会と社会主義同盟が結成されるが、同年10月開催の、橋浦泰雄(やすお)、望月桂(けい)らの黒燿(こくよう)会第1回展が最初のプロレタリア美術運動であった。翌21年2月創刊の『種蒔(たねま)く人』以降、文学その他のプロレタリア文化運動の展開のなかで、その一翼を担おうとする意識を高めた。24年、アクション、未来派、マボ、DSDなどのアバンギャルド派による三科会が結成されるが、翌年春の第1回展と秋の第2回展を通じて、これら新傾向急進美術運動の総決算的解体をきたし、その分裂からプロレタリア集団主義を標榜(ひょうぼう)する「造型」が結成され(1925)、一方、日本プロレタリア文芸連盟が結成された。
 昭和に入ると、1927年(昭和2)ロシア革命10周年記念「新ロシヤ美術展覧会」を契機として、プロレタリア美術運動は急速な高まりをみせる。同年「造型」は拡大再組織されて造型美術家協会となり、翌28年、全日本無産者芸術連盟(ナップ)創立、そして無産者美術団体協議会が成立して、同年11月には上野・東京府美術館で同会主催の第1回プロレタリア美術大展覧会が開かれた(第5回展まで毎年開催)。29年1月にはナップ所属日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)が結成されるが、35年のヤップ解散によって、組織的なプロレタリア美術運動に終止符が打たれた。
 この第二次世界大戦前の日本のプロレタリア美術の展開は、いわば、ナップ系の社会批判的形態(柳瀬正夢(やなせまさむ)、木部正行、須山(すやま)計一、松山文雄、鈴木賢二ら)と、造型美術家協会系の芸術批判的形態(矢部友衛(ともえ)、岡本唐貴(とうき)、山本嘉吉(かきち)、岩松淳ら)とが「プロレタリア・リアリズム」を命題として結集した運動形態といえる。そして、その二面性をもった性格のまま「社会主義リアリズム」に組み込まれ、第二次大戦後の民主主義美術運動へ継承されていった。[永井信一]

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戦旗

戦旗1930年2月号。エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)所蔵品。

戦旗』(せんき)は、1928年5月から1931年12月にかけて刊行されていた日本の文芸雑誌である。全41号。プロレタリア文学の作品の重要な発表舞台となっていた。

1928年、当時プロレタリア文学の陣営は、いくつかの団体が乱立していた。その中で、日本共産党の影響を強く受けていた、〈日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)〉(中野重治たちが所属)と、〈前衛芸術家同盟(前芸)〉(蔵原惟人たちが所属)とは、3月15日のいわゆる〈三・一五事件〉の弾圧をきっかけに、組織の合同をはかり、全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成した。その機関誌として発行されることになったのが雑誌『戦旗』であった。

『戦旗』は、小林多喜二の「一九二八年三月十五日」「蟹工船」、徳永直の「太陽のない街」などの話題作を次々と掲載し、プロレタリア文学の代表的な雑誌となった。発禁処分もしばしば受けたが、処分が出る前に定期購読者への直接頒布や、発売と同時に購入する読者たちに支えられて、発行を継続できた。1931年に、日本プロレタリア文化連盟(コップ)へと、組織が発展する中で、雑誌は『プロレタリア文化』・『コップ』へと発展的解消をとげた。

別冊から発展した姉妹誌として、『少年戦旗』『婦人戦旗』も刊行された。


木曜日, 3月 30, 2017

統計学 (1970年) (経済学入門叢書〈6〉(畠中 道雄,鈴木 篤)で最小二乗法は ピタゴラスの定理と関連して説明される。ベクトルの一辺は三角形(直角三角 形)の一辺と同じと見なせる。


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統計学 (1970年) (経済学入門叢書〈6〉(畠中 道雄,鈴木 篤)で最小二乗法はピタゴラスの定理と関連して説明される。ベクトルの一辺は三角形(直角三角形)の一辺と同じと見なせる。





い.15.4 ピタゴラスの定理15.2で与えられた幾何的な説明を少し深く進めながら,(15.12ノ)が実はピタゴラスの定理にはかならないことを示そう.1)さきにXと1とではられる面を考えたが,一般に工と1とは直交していない。1はそのままとし, xの代りに1と直交するベクトルタを導いて同一の面を1と'とではられるとななすことを試みよう.第15章 最小2乗法(I)21,補論I.2(32卜328ページ)におけるシュミットの直交化(SCh―midt's orthogonalization)を用いるが,基底の長さを1とすることは不必要なので,補論正におけるαtからυじへの変換は省略する.1はそのままとし″=χ―`1とおきε=1′1==÷Σ χι一%″とすれば(14.3)の記号を用いて(15.14)'=χ一%″1.図15.3は(15.14)を図示したものである。図15.3図15.4は,同一の空間を1とχではられると考える以外は,図15.2と同一である。ベクトルνの頂点をP,Pより1次結合の面におろした垂線の足をQとする.PQはPを含んでベクトル1に直交する面の中にあるが,この面が1と交わる点をRとすると,QRもこの面の中にあり,QRもPRも1と直交する.さらにQRは1と'とではられる面の上にあって'と平行である.PRは1と直交しているが,シュミットの直交化においてわかったようにRPが
6図154夕=ν―%ノ1である。15.2より,あるいは(15.2)よりo5D3=妻であるが, 3が図15.4ではどのように表現されるかを考えよう.夕と'との間の角度をθとすると,補論Ⅲ(I.14)式にあるようにo51の範=1部ゃ上″=T器嘉1冊χ=鶏χ=ιχ・基本的な関係は原点をRに移して図15.5を考えると明らかになる.QはPよりχにおろした垂線の足である.RP―Ro=,-3,は残差ベクトルであるから,これをCと書くと,それはQPである.最小2乗法とは'を直交する2つのベクトルの和,3″+θとみなすことである.RO,すなわち,3'が″と1次的に関係して

いる部分,QP,あるいはθが関係していない部分である.(1)θと'とは直交している.O′″=0。これが(15.10)である。② ll夕|′=13'P+θr.このピタゴラスの定理が(15.12′)である。③ R2_褥育|「=Cげなお鼎がPであ先日がげであ

参考:
最小2乗法と幾何学的解釈 土居正明
幾何学的解釈が活躍するところです。幾何学的解釈は、「最小2乗推定量に基づくyの予測値*15」=「yのVXへの射影」=「VXへ垂線を下ろす」ということを行っています。垂線を下ろしているので、平面と垂線は直交します。そこで「三平方の定理」を考えましょう、というのが実は幾何学的解釈が最も活用される場所なのです。

5.1.6
2つの推定量の比較と三平方の定理
 では、これらをもとにして、幾何学的解釈から先の等式(3)を導きましょう。(i)まず「モデル2」から考えます。
大事なことは、yを「予測値の部分(y^)」と「残差の部分(e2)」に分割することです。つまり、
     y=y^+e2          (7)
です。ここで、yはV2に入り、e2はV2と直交することから、y^とe2は直交しますので、三平方の定理から
   ||y||^2=||y^||^2+||e2||^2
です。
(ii)次に「モデル1」についてですが、こちらも同じく「予測値の部分(¹y)」と「残差の部分(e2)」に分割します。
   y=¹y+e1            (8)
すると「モデル2」と同様に、¹yとe1は直交しますので、ここでも三平方の定理より
   ||y||^2=||¹y||^2+||e1||^2
が成り立ちます。



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一般化モーメント法 - Wikipedia

他の多くの推定法は一般化モーメント法の意味で解釈できる。

  • 最小二乗法Ordinary least squares, OLS)は一般化モーメント法と以下のモーメント条件で同値となる。
E[xt(ytxtβ)]=0\operatorname {E} [\,x_{t}(y_{t}-x_{t}'\beta )\,]=0
E[xt(ytxtβ)/σ2(xt)]=0\operatorname {E} [\,x_{t}(y_{t}-x_{t}'\beta )/\sigma ^{2}(x_{t})\,]=0
E[zt(ytxtβ)]=0\operatorname {E} [\,z_{t}(y_{t}-x_{t}'\beta )\,]=0
E[βg(xt,β)(ytg(xt,β))]=0\operatorname {E} [\,\nabla _{\!\beta }\,g(x_{t},\beta )\cdot (y_{t}-g(x_{t},\beta ))\,]=0
E[θlnf(xt,θ)]=0\operatorname {E} [\,\nabla _{\!\theta }\ln f(x_{t},\theta )\,]=0
  • 相応部六処篇 44・10無記説相応 10阿難 - 原始仏典・和訳&解説


    諸派の聖典集成は一般に三つの部類に区分されており、それを「三蔵」といいます。パーリ語聖典の三蔵は次の三つから成ります。  


    律蔵 出家した修行者のための戒律の規定、およびそれに関連する説明を述べています。


    経蔵 釈尊および直弟子の教えを記したもので、次の五つの集成書から成ります。(下は相当する漢訳の経典)

       1長部(ディーガ・ニカーヤ) 『長阿含経』 

    2中部(マッジマ・ニカーヤ) 『中阿含経』 

    3相応部(サンユッタ・ニカーヤ) 『雑阿含経』

     4増支部(アングッタラ・ニカーヤ) 『増壱阿含経』

     5小部(クッダカ・ニカーヤ)  

     最後の小部は十五の部分から成りますが、そのうちには『スッタニパータ』(非常に古い教えを含む)、『ダンマパダ』(法句経)、『ジャータカ』(釈尊の過去世物語)などを含みます。


     論蔵 教義に関する論書の集成であり、経蔵や律蔵の中に現れる諸観念や諸術語を論議している諸々の解観念や諸術語を論議している諸々の解説・注釈・研究です。


    中村元原始仏典



    六処相応[1](ろくしょそうおう、Saḷāyatana-saṃyuttaサラーヤタナ・サンユッタ)とは、パーリ仏典経蔵相応部に収録されている第35相応。



    相応部六処篇 44・10無記説相応 10阿難 - 原始仏典・和訳&解説 @ 和井恵流 | @wiki

    https://www54.atwiki.jp/waikei2008/sp/pages/17.html

    ■相応部経典 六処篇 44.第10無記説相応 10阿難




    〈 和 訳 〉

    ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 ( 出家者 ) が、世尊 が 滞在している処 へと 赴 ( おもむ ) いて、次のように 尋ねました。

     「 ゴータマ尊 よ、我 (アートマン ) は 有る ( 存在する ) のでしょうか? 」

    ── この 質問 に、釈尊は、黙したまま 何も 答えません。

     「 それならば、ゴータマ尊 よ、我 (アートマン ) は 無い ( 存在しない ) のでしょうか? 」

    ── この 質問 に対しても、釈尊は、黙したまま 何も 答えません。 
    計三度 尋ねても、釈尊 は 三度とも 黙して答えなかった ので、その 普行沙門 は 立ち去って しまいました。 
    この ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 が 立ち去ってから しばらくして、 
    尊者アーナンダ は 釈尊 に、次のような 質問を しました。

     「 大徳よ、どうして世尊は、先の ヴァッチャ族出身の普行沙門が質問したこと に、返答をされなかった のですか? 」 

     「 アーナンダよ、もし 私が 彼に 『 我は有る ( アートマンは 存在する ) 』 と 答えていたならば、 
      彼は 常住論 に陥っていたであろう。 
      ── しかしまた、もし 私が 彼に、『 我は 無い ( アートマンは 存在しない ) 』 と 答えていたならば、 
      断滅論 に 陥ることに なったであろう。 
      そして、アーナンダよ、さらに、もしも『 我は有る 』 と 答えたならば、 
     〔 一切法は無我である 〕 という智慧の発現の障害となっていたし、 
     『 我は無し 』 と 答えたならば、愚かな ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 は、 
     『 先にも 今も、我は 無し 』 と考えて、ますます 迷妄 に 陥ったであろう。」

    ── と、このように、釈尊 は 説明 を されたのです。


    〈 和 訳・おわり 〉



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    六処相応

    六処相応[1](ろくしょそうおう、Saḷāyatana-saṃyuttaサラーヤタナ・サンユッタ)とは、パーリ仏典経蔵相応部に収録されている第35相応。

    目次

    構成編集

    19品248経から成るが、省略されている部分も多い。

    1. Anicca-vaggo --- 全12経
    2. Yamaka-vaggo --- 全10経
    3. Sabba-vaggo --- 全10経
    4. Jātidhamma-vaggo --- 全10経
    5. Sabbaanicca-vaggo --- 全10経
    6. Avijjā-vaggo --- 全10経
    7. Migajāla-vaggo --- 全11経
    8. Gilāna-vaggo --- 全10経
    9. Channa-vaggo --- 全10経
    10. Saḷa-vaggo --- 全10経
    11. Yogakkhemi-vaggo --- 全10経
    12. Lokakāmaguṇa-vaggo --- 全10経
    13. Gahapati-vaggo --- 全10経
    14. Devadaha-vaggo --- 全12経
    15. Navapurāṇa-vaggo --- 全10経
    16. Nandikkhaya-vaggo --- 全12経
    17. Saṭṭhi-peyyāla-vaggo --- 全60経
    18. Samudda-vaggo --- 全10経
    19. Āsīvisa-vaggo --- 全11経

    日本語訳編集

    脚注・出典編集

    1. ^ 『南伝大蔵経』

    関連項目編集

    外部リンク編集










    ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 ( 出家者 ) が、世尊 が 滞在している処 へと 赴 ( おもむ ) いて、次のように 尋ねました。

     「 ゴータマ尊 よ、我 (アートマン ) は 有る ( 存在する ) のでしょうか? 」

    ── この 質問 に、釈尊は、黙したまま 何も 答えません。

     「 それならば、ゴータマ尊 よ、我 (アートマン ) は 無い ( 存在しない ) のでしょうか? 」

    ── この 質問 に対しても、釈尊は、黙したまま 何も 答えません。
    計三度 尋ねても、釈尊 は 三度とも 黙して答えなかった ので、その 普行沙門 は 立ち去って しまいました。
    この ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 が 立ち去ってから しばらくして、
    尊者アーナンダ は 釈尊 に、次のような 質問を しました。

     「 大徳よ、どうして世尊は、先の ヴァッチャ族出身の普行沙門が質問したこと に、返答をされなかった のですか? 」

     「 アーナンダよ、もし 私が 彼に 『 我は有る ( アートマンは 存在する ) 』 と 答えていたならば、
      彼は 常住論 に陥っていたであろう。
      ── しかしまた、もし 私が 彼に、『 我は 無い ( アートマンは 存在しない ) 』 と 答えていたならば、
      断滅論 に 陥ることに なったであろう。
      そして、アーナンダよ、さらに、もしも『 我は有る 』 と 答えたならば、
     〔 一切法は無我である 〕 という智慧の発現の障害となっていたし、
     『 我は無し 』 と 答えたならば、愚かな ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 は、
     『 先にも 今も、我は 無し 』 と考えて、ますます 迷妄 に 陥ったであろう。」

    ── と、このように、釈尊 は 説明 を されたのです。
    https://www54.atwiki.jp/waikei2008/sp/pages/17.html